2014年08月04日 (月)
すっかり更新ご無沙汰してしまいましたが、ひさびさにこちらでも告知!
谷中M類栖/1f は今年も「芸工展2014 」に参加します。
芸工展2014 参加プロジェクト
「金猊馬考」展 Kingei Resources vol.19
日時:2014年10月11日(土)~13日(月・祝)・24日(金)〜26日(日) 13:00〜17:00
会場:谷中M類栖/1f
〒110-0001 東京都台東区谷中1-6-3(Google Map )
午年に因んで今年は日本画家・丸井金猊が繰り返しモチーフとした馬の絵を展示。
なぜ金猊は馬を好んで描いたのか? さらには人はなぜ絵を描いてきたのか?
また、焼失した東宝劇場壁画「薫風(騎馬婦人群像圖) 」下絵(1937年作)を観ながらの塗り絵ワークショップを開催。戦前の画家は壁画にどんな色を使おうとしたのか?
想像の翼を広げて考えてみましょう。
2014年07月27日 (日)
金猊サイト でもご案内の通り、
現在、配本中の小学館「日本美術全集」 第18巻「戦争と美術」
監修:河田明久(2015年4月24日発行)に
丸井金猊「壁畫に集ふ」1938年作の掲載が決定!
第18巻のテーマは「戦争と美術」の以下6章立て。
1. 人々の戦い
2. 都市の体験
3. 抽象と幻想
4. 昭和と肉体
5. 国土の姿
6. 描かれた大東亜
「2. 都市の体験」で「壁畫に集ふ」は取り上げられるとのこと。
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2010年08月17日 (火)
毎年桜の季節とそれ以外でも気まぐれに大川沿いを散策するときには定点観測してきた大川端・桜ノ宮駅下の「SACRA THE BUS HOUSE 」が撤去されてしまった。天神祭の前に確認したときには鬱蒼と生い茂った木々の緑の間からうっすらバスの面影はまだ見え隠れしていた。それが盆の帰省でいつものように環状線に乗って電車の中から撮影しようとしたら、バスやその後ろの長屋のあったスペースが完全に更地 と化してしまっていたのだ。帰阪後すぐいつもの定点観測ポジション に赴いたのは言うまでもない。
川っぺりも川っぺりで開発の求められているスペースとは思えないので(おそらく景観重視での撤去ではないかと思われる←実際は不法占拠による撤去)、今後そこがどうなるのかはわからないのだが、「ここもまた・・ 」という場所がまた一つ増えてしまったことは残念でならない。
谷中M類栖での紹介記事:
・SACRA THE BUSHOUSE (2009.04.10・定点観測記事)
・アクセスキーワード2007.04 (2007.04.30・環状線からの俯瞰画像)
・・と、この記事は撤去確認からほぼ半年後 に書いていて、実はその間にわきたさんのBlog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発 」コメント欄でこの場所に関する今まで全く知らずにいた事実を ryotaさんという方から聞き知ることになった。
それはこの場所が朝鮮の済州島出身者たちによって「クッ」と言われる巫祭の行われる「龍王宮」という場所だったのだ。私はこれまでその場所を対岸から観察するばかりでなぜか踏み込んでみようとしたことがなかった。錆びたバスと古びた長屋が見えていて陋巷錆び好きとしては恰好の撮影ポイントではあったはずなのだが、なぜか私はそこが文字通り「彼岸」のように思えてしまって、近所にもかかわらず今ひとつ踏み込もうという気持ちにはなれなかったのだ(ちなみに私は済州島に行ったことはないが、済州島のトルハルバン の石造にはなぜか無性に惹かれるところがあり、韓国土産では必ずオレンジ味のトルハルバンチョコレートを買って帰る)。
2011年1月29日にこりあんコミュニティ研究会 +コリアン・マイノリティ研究会 主催で『龍王宮の記憶(仮)』(監督・撮影:金稔万 、2011年)が上映されたようで、その情報には上映後に気づいたので観られなかったのが残念でならないが、また上映機会の情報を見つけたときにはこのブログでも案内したい(1月29日の報告 )。
龍王宮については検索すると色々出てくるが、「龍王宮とは?」というこりあんコミュニティ研究会+コリアン・マイノリティ研究会が作成したと思われるテクストが各所で転載されているので、ここでも出典明示でリンクの上、転載させていただくこととする(問題ありましたらコメントにてご一報ください)。
こりあんコミュニティ研究会「最後の龍王宮祝祭 」より 【龍王宮とは?】
©高 仁鳳 氏撮影(1963年) JR環状線「桜ノ宮駅」西側の鉄橋の下、大川(旧淀川)の河川敷に戦前(解放前)から続く、済州島(チェヂュド)出身の在日1世の女たちの祈り「クッ」の場「龍王宮」があります。河川敷を管理する大阪府からは「不法占拠」であるとして、これまで再三立ち退きを言われてきました。しかし、そこは大阪を下から支えてきた在日朝鮮人のコミュニティが息づく場であり、龍王宮の水辺がふるさとの済州島につながっていると考えられています。済州島出身の女たちは、ここで祈り、泣き、笑い、そして癒されてきました。多文化都市としての大阪の底辺を支えてきたもう一つの無形文化財・文化資源とも言えるでしょう。私たちは昨年3月以来、「龍王宮の記憶を残すためのプロジェクト」をたちあげ、関係者へのインタビューや建物の実測や「クッ」の記録などを行ってきました。昨年8月22日には、「龍王宮祝祭—もうひとつの水都大阪2009—」を開催し、100名以上の参加を得て、その存在を広く伝えました。
この1年間、国内外から数多くの人々が龍王宮を見学しました。また、先月、こりあんコミュニティ研究会は『コリアンコミュニティ研究』創刊号(800円+送料)を発刊し、特集「マイノリティ空間の記憶をどう伝えるか」で龍王宮を扱いました。先日のフィールドワークでは、近くに暮らす住民の証言から、龍王宮のプレハブの建物は国鉄時代の飯場(工事労働者の仮宿泊施設)を建設業者から払い下げられたものであることが新たにわかりました。これを龍王宮が祈りの場に転用していたわけです。しかし、龍王宮は「韓国併合」100年の今年、残念ながらその歴史に終止符を打ち、近々立ち退くことになりました。今回、龍王宮を管理してきた高田商店の協力のもと、緊急に「最後の龍王宮祝祭—もうひとつの水都大阪2010—」を企画しました。充分な準備はできないものの、「龍王宮」に来たことのある人もない人も、形があるうちにぜひお越しください。当日は天神祭の奉納花火の日に当たります。龍王宮からの眺めは最高です。
また、私たちは今後も引きづづき、龍王宮での祈り「クッ」にかかわった神房(シンバン)・菩薩(ポサル)・僧任(スニム)・利用者・関係者への聞き取りや資料収集、龍王宮の記憶を残していくための調査研究活動をしていく予定です。
尚、この情報はコネクタテレビ という映像番組のサイトで私が関わった「張智恵が舞う韓国伝統舞踊 」というインタビュー映像をわきたさんにご紹介いただき、そのおかげで「SACRA THE BUS HOUSE」が「龍王宮」へと導かれたと言える。同インタビューのことも改めてこのブログで触れる機会を作りたいと考えている。
参考サイト:
・MINDAN:退去迫られる在日祈りの場「桜ノ宮龍王宮」 (龍王宮内の写真あり)
・ソウル・ヨガ:桜ノ宮「龍王宮」にいってきた (撤去直前の画像数点)
・仏教と仏教美術の日々:桜ノ宮・龍王宮が存続の危機に陥ってるらしい (鋭い考察)
・日々。生きる現代文学:龍王宮 (闘う詩人、上田假奈代さんのブログ)
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2009年11月02日 (月)
今年も「ですます」調を「である」調に差し替えるのが面倒で(文意が変わることもあるし)、そのまま丸井金猊公式サイトで書いた記事を転載してしまうが、芸工展としては4回目となる丸井金猊「生誕百年」展 を終え、今年何よりも感じたのは金猊が谷中にだいぶ定着してきたな〜ということだった。
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芸工展参加としては四回目を数える丸井金猊「生誕百年」展 も無事終えることができました。谷中M類栖/1f まで足をお運びいただいた皆様、大変ありがとうございました。
今年は金猊「生誕百年」ということから、同じ「生誕百年」で話題になっている太宰治に便乗した思わせぶりなメッセージを芸工展マップの70字以内の企画概要に掲載。そのため会期前ににわか仕込みで太宰の中短編を何篇か読み、なぜ太宰?と聞かれても良いように、三鷹時代の表札を玄関前室に置いて、母には去年三鷹に出来た太宰治文学サロンまで行ってもらって太宰に関する資料を数冊買ってきてもらい、太宰と金猊の生涯比較年表も用意していました。[PDF: 140KB ]
が、それも取り越し苦労だったようで、会期中、太宰についてのツッコミは特になし(´-`;)
とはいえ、この機会に多少なりとも太宰を囓ったおかげで、彼への歪んだ先入観はだいぶ変わりました。最初に手にした『ヴィヨンの妻』は半分くらい読んで、まるっきり頭に入らなかったのですが、そこで太田光が推薦する『富嶽百景』に切り替えたらこれがなかなか面白く、それを読み終えてから『ヴィヨンの妻』に戻ると、太宰のある種、落語のようにも感じられる語調に乗せられるように読めるようになりました。
『女生徒』は文句なしにうまい!と唸らされながら読みました。ただ、どうもそれを女性が読むとおねえ口調のようでわざとらしいって感じられるようで、なかなかその辺の解釈は人によりけりのようです。
ともあれ、金猊と太宰の共通点と言ったら、その同じ年生まれと三鷹在住ということ以外は特に見当たらず(せいぜい気取り屋なところくらいか?)、それは準備前からの想定通りで、なぜ太宰?と聞かれたら、同時代同地域作家ながらまるで方向性の違う人間が太宰とは別に存在したのだということを見てもらいたい展示なのだと説明するつもりでいました。ですので、特に展示物に太宰との共通性を考える必要もなかったのですが、ただ、『富嶽百景』の何ページかを読んだときには、晩年作の『青龍老栖富嶽の図 』を愛知県は稲沢の親戚方から借りようかと一瞬迷いました。結果的に時間がなくて、借りるには至らなかったのですが。。
さて、事実上太宰とは無関係な展示の方は、それでも太宰には存在しなかった「晩年」(小説『晩年』があるので話がややこしいですが)の画を一つは出したいと思い、「洋蘭図 」を入口左手のスペースに展示しました。この「洋蘭図」は1997年に三鷹市美術ギャラリーで開催した「丸井金猊とその周辺の人たち」展で、美術評論家の椹木野衣氏に一番興味深いと言われた画で、当時晩年作は身内の間でも評価がいまいちだったので「なぜに洋蘭図?」と思ってたのですが、自分の中でも見ているうちにだんだんと面白く感じられるようになった画です。特にマーク・ロスコを思わせる背景の描き方、金猊はこのときアメリカの抽象表現主義絵画をどのくらい見ていたのか定かではありませんが、まずそれへの意識があったのかどうか知りたいところです。そして今年も観に来てくれた画家の今村仁氏が「そのロスコ風をぼかすんじゃなくて、オレは全部描くよって気概で一本一本線描写に入ってるんだよね」という画家ならではの興味深い言葉を残して帰りました。
続いて毎年出している「さだゑ図」、初年度に出した「*芥子花圖 」をいつもの位置に掛け、その下の水屋箪笥に今年は引き出しを開けてその上に三鷹金猊居の設計図を展示しました。箪笥の上には同じく設計図面の展開図冊子を、その横には金猊の詩集を置き、箪笥の前には金猊作の六脚箱 を置きました。そして正面には「壁畫に集ふ 」の定番屏風。
収納扉スペースには谷中初出の「寿 」。この切り貼りデザインに関心を寄せるのはやはり若い人に多く、しかし、さきの今村氏はこの画も画家の仕事だということを強調してました。確かに箔を張り、切り紙も紙によっては筆で色を塗った紙が張られていて、ある種、パピエ・コレ的なアプローチに近いと言える面もありそうです。
その隣に「鷺圖 」。これはいつもと違うスペースでの展示で、今年は例年よりも少し展示位置を下げたので、いつもより画の上の方が見やすかったはず。
そして、今年の目玉が完全初出の下絵「*柿と八手と猫 」でした。これは母もその存在を忘れていたくらいの、あまり金猊らしくないタッチの完成作不明の下絵なんですが、どちらかというと犬好きな金猊が猫を描いている という点でも注目に値します。それもその猫がまた切り貼りで張り直してあるという(下絵なので、そういう操作は珍しくはありませんが)(^^;) 実際、本作がどのような描写になったのかは想像がつきませんが、この下絵段階の特に八手の配置が非常に複雑で、まずこの下絵を出そうと考えたことから同じ並びの「寿」「鷺圖」は同じ構成要素の強い、かつ複雑なものにしようという判断が生まれました。ちなみに母が偶然にもその画の脇に置かれる備前壺に柿を活けていたのは思わぬシンクロでした。
谷中へ行く前のイメージとしてはこれで主な展示は終わりのつもりだったのですが、いざ北側壁面を見ると毎年出している軸物が一点もないことに気づき、額だと額の下のスペースが妙に空いています。ということで、今年はそのスペースを活用して、これまで1点ずつくらいしか披露できなかった美校一年生時に学校の課題で描いた植物画を5点並べることにしました。
これによって今年はなかなかバラエティに富んだ見応えのある展示になったのではないかと思っております。当初は毎年そう代わり映えしないし、けど、お知らせしないのも何だかな〜だしということで、一応お知らせはするけど、わざわざ来てもらわなくてもいいですよ〜的なメールを流してたんですが、いざ終わってみると案外貴重な展示だったかな〜と。特に「*柿と八手と猫」は下絵なだけに次の展示機会が何年後になるかわかりません。
ともあれ、今年で四回目の芸工展参加で、金猊がだいぶ谷中に定着してきたな〜ということを実感した展示機会となりました。何人かのお客様は毎年秋に金猊に会えることを楽しみにしてると言ってくださってます。また、教え子の皆様方の間では何となく谷中M類栖/1f が同窓会の場的な雰囲気にもなっていて、是非是非今後とも活用していただきたいところです。今年も金猊がレタリングの授業では特に「R」の描き方に厳しかったことや、資生堂「花椿」の木偏が撥ねるのは間違っているということをしつこく授業で話していたことなど、オモシロエピソードを幾つか聞かせていただくことができました。
本当はもうちょっと長い会期を取ってやれると良いのでしょうが、なかなか遠隔地からの出張だと時間を作るのが難しく、来年も2〜3日の会期ということになってしまうかもしれませんが、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
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2009年09月06日 (日)
谷中界隈の地元で毎年秋に開催されている町ぐるみの展覧会「芸工展2009 」に
谷中M類栖/1f は今年も丸井金猊リソース の展示で参加します。
芸工展2009 参加プロジェクト [EM-014]
日本画家・丸井金猊「生誕百年」展 Kingei Resources vol.11
日時:2009年10月16日(金)〜18日(日) 13:00〜17:00
場所:谷中M類栖/1f(Google Map )
生誕百年に湧く太宰治と同じ年に生まれた日本画家丸井金猊。終の栖となる三鷹に住み始めたのも同じ年。ところが両者の共通項は不思議と少ない。はて...
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以上が芸工展実行委員会に7月に提出した申込情報。
今年は去年よりも1日長く、時間は開始・終了ともに1時間早い。
「はて…」と思わせぶりな企画内容については、実は太宰治の桜桃忌が話題になっている頃に申込入力していたので、つい SEO対策を!とあらぬ欲が出てしまった。が、実のところ、ほとんどノープランに近い(汗)
実際、太宰と金猊は時空間的には重なる要素が多い割に、まるっきり共通性が見えないというか、そもそも金猊は三島由紀夫の生理的嫌悪ほどではないにせよ、太宰を好ましくは思っていなかったとも伝え聞く。「生まれてすみません」の太宰が入水自殺してしまった戦後間もない1948年、金猊は新制神奈川県立神奈川工業高校の工芸図案科で本格的な教員生活をスタートさせた。しかし、それは金猊が画業で生きることを諦めた、云わば「画家としての死」を完全に受け入れた瞬間でもあった。
その後、金猊は教職にのめり込み、厳しい学生指導に当たった。誰が選んだか知らないが、私が flickr にアップしていた金猊が教鞭に立つ姿の写真のスキャン画像が「学校教育現場の情景」として Wikipedia「教育 」に掲載されている(魚拓 )。
後から顧みれば「画家としての死」の後の生を、画業以上に強い意欲を持って美育に生きたようにも伺える金猊(参考:神工デザイン科ルネッサンス )。生誕百年となる今年は、いつもの展示リソースにそんな眼差も紛れ込ませられたら面白いかもしれない。
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2009年06月30日 (火)
通常ランク外の「川端」「針江」「滋賀」「琵琶湖」というキーワードがドドッと入り込んできた。これは琵琶湖北西部の高島市新旭町針江地区の川端 (かばた)のことがテレビ朝日系列の「素敵な宇宙船 地球号」という番組で<「日本こころの百景」〜其の三 琵琶湖水物語〜 >で6月7日に放送されたからだろう。
最初にこの地を取り上げた NHK の番組に較べると軽い作りではあったが、それでもこの素晴らしい集落の持つ力というべきか、懐かしい気持ちで番組を見ることができた。良いのか悪いのかわからないけれども、この集落の水や生き物や人や風景がどれも強烈なキャラクターを持っていて、2ch の実況を追っていると、お!あの川端の鯉!あそこの水車!三五郎さん!といった具合にパーツパーツで盛り上がれてしまう。三五郎さんのことを指してパーツと書くのは失礼かと思いつつも、しかし彼は確実にあの集落の一風景として存在している。まずご健在であるところが見られたのが嬉しかった。
軍艦アパート 5.7% 川端 4.4% 針江 3.4% 上棟式 3.2% グヤーシュ 2.1% 滋賀 1.7% 谷中 1.5% 琵琶湖 1.3% 高過庵 1.1% 臭突 1.0%
先月(2009年5月)の解析結果はこちら から。
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2009年06月19日 (金)
ちはるさん(ちはろぐ )の加古川の仕事(古民家改修 )が無事終了し、その竣工写真の撮影を頼まれて二度目の現地訪問。加古川といってもJR加古川駅から車でそれなりのところなので、周辺には田んぼもあって長閑な場所である。
その田んぼで見つけたのが写真にも二匹写っているカブトエビである。
最初、田んぼの中をにょろにょろ動いているのが見えたときには、最近、空から降ってくることで話題のおたまじゃくしかと思ったのだが、よく見たら違った。
カブトエビとはそう、あの学研の「科学」の付録 に付いてくる「生きている化石」とも言われる甲殻類の淡水生物である。乾燥した卵を水に入れておくと孵化してミジンコのように泳ぎ出すというインスタントラーメン感覚で飼える生物だった。ただ、孵化してちょろちょろ泳ぎ回るようになって以後の記憶がほとんどない。Wikipedia にも寿命が短く数ヶ月で死んでしまうとあるが、結局飼育ケースだけ使い回してた気がする。
ところでカブトエビを発見したとき、実は私はちはるさんに「カブトガニがいる」と話していた。それに対し、ちはるさんは正しく「カブトエビ」と言い直して受け答えされていたのだが、私は私であくまでも「カブトガニ」と繰り返し呼んでいた。というのも学研の付録では「カブトガニ」という名前だった印象が強くあったからだ。
しかし、Wikipedia で調べればそれは「カブトエビ 」であり、「カブトガニ 」は別種の節足動物(甲殻類ではない)として紹介されている。「生きた化石」と呼ばれる共通性はあるが、前者は淡水、後者は海水の生物なのだ。ちはるさんもさぞかし訝しく思われてたことだろう・・とここは素直に自分の記憶違いを反省すべきところなんだろうが、ところが「教えて!goo 」には一つ興味深い質問が載っていた。それは私と同じように学研の付録には「カブトガニとあったのでは?」というものである。完全に裏の取れた回答が得られているわけではないので、実際のところは定かではないが、どうやらある時期の世代はカブトガニを飼っていたか、あるいは記載ミスか何かで「カブトエビ」を「カブトガニ」と思い込まされていた可能性が考えられる。
と読み間違えの言い訳はこの辺にするが、ついでにもう一つ、確証の持てないこぼれ話を(笑) 例の空から降ってくるおたまじゃくしだが、義父によれば、あれは鷺の仕業じゃろうとのこと。この時期、鷺は子育てのために口の中におたまじゃくしなどの餌を大量に含んで、それを雛の待つ巣まで運んでやるんだとか。とすれば、何かの拍子にそれをごそっと落とすことも充分考えられる。日本野鳥の会は「オタマジャクシは鳥にとってまずい食べ物。栄養価も低い」と否定的なんだそうだが。。
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2009年05月31日 (日)
今月もほぼ代わり映えなし。軍艦アパートの比率が少し落ちた程度か。。
写真は仕事の打合せで生野区の南巽に行ったときのもの。
予定の時刻より少し早く着いたので、周辺をふらふら歩いていたらバイクがSMプレイ中 であるかのようにぶらさがったショップに出くわした。背後の壁に moonfactroy.cc と URL があったので確認すると、インポートバイク&スクーター販売およびメンテナンスなどをやっている店らしい。それもそのインポート先は中国限定で、社員が現地に赴き、商品を厳選してメーカ契約を行っているとのこと。今後この業種に限らず、安いだけでなく良い物を中国からという発想の業態は増えていきそうだ。
ただ、ショップの前に止めてあった錆び錆び自転車載っけた車は何なんだろか(^^;)
軍艦アパート 7.0% グヤーシュ 2.4% 谷中 2.2% 上棟式 2.0% 高過庵 1.7% 橋本遊郭 1.3% 山門不幸 1.1% 臭突 1.0% 庇 0.9% 蟻鱒鳶ル 0.8%
先月(2009年4月)の解析結果はこちら から。
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2009年04月30日 (木)
今月もおなじみの検索ワードのノミネート。もしやこのパーセンテージが上がっての固まり様は、アクセス検索ワードランキングのエントリーだけが毎月なされることによって余計強固なものになりつつあるとも言えるのか。それを考えると月末報告の場と化している、このエントリー自体も見直した方がよいのかもしれない。
写真は天神橋筋三丁目の商店街から路地入ったところにある定点観測ポイント。放置されたバイクの位置はもう何年も前からほぼ変わらない。植物のレイアウト だけが季節と共に変わって、、何となくいつの間にかアロエだけに純化されてきた気がする。ちょっとこのブログのアクセス結果と同じではないか(汗)
軍艦アパート 11% 上棟式 3.9% 谷中 2.7% グヤーシュ 1.9% 高過庵 1.5% 臭突 1.3% 山門不幸 1.1% 橋本遊郭 1.0% 若人の広場 0.9% 庇 0.8%
先月(2009年3月)の解析結果はこちら から。
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2009年04月21日 (火)
当ブログ人気アクセスワードの一つでもある「橋本遊郭 」の存在を教えていただいたり「曙ハウス 」の件で何かとお世話になったN的画譚 の neonさんと谷中銀座の脇にあるステンドガラス工房「nido 」さんとのコラボ展示企画のお知らせ。
期間中の上京が難しそうなので(て、もう半年くらい東京行ってないけど)伺えそうにないのが残念ですが、お近くの方は是非! DM手にしてるだけでも幸せな感じ♪
nido x neon collaboration exhibition
色硝子の町
2009年4月27日(月)〜5月6日(水) 会期中無休 11:00〜20:00
〒110-0001東京都台東区谷中3-13-6(map ) TEL&FAX: 03-3824-2257
□◇
なつかしくて、浪漫的で、ちょっぴり切ない・・・
そんな雰囲気の、色硝子に飾られた記憶の中の町。
忘れかけていた夢のかけらを、丁寧に拾うように作品に凝縮しました。
昨年も大好評だった大倉ひとみ×nidoのコラボ展です。
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2009年04月10日 (金)
2009年4月6日 16:01, 大阪市/桜ノ宮, Nikon D300/120mm
今年も恒例の‥‥と思ったら去年は金猊展 に向けての準備で手一杯で見に行ってすらなかったようだ。というか、谷中M類栖ではアクセス解析に託けての季節ネタエントリーしかしてなかった大川端の桜バスハウスこと「SACRA THE BUSHOUSE 」。
勝手に命名してるだけなのだが、谷中の住まいの近所にも風呂屋をリノベーションして出来た「SCAI THE BUTHHOUSE 」というギャラリーがあるもんで、つい大阪自宅近くの、バスをラスタベーションして出来た桜の木の下の小屋も愛着を込めてそんな風に呼んでみたくなってしまう。去年は見損ねてしまったが、一昨年一昨昨年と定点観測しているので較べてみると、仮設トイレが新たに設置されたことがわかる。
2007年4月6日 14:52, 大阪市/桜ノ宮, Nikon D50/78mm
2006年4月7日 12:24, 大阪市/桜ノ宮, Nikon D50/135mm
Google Map の航空写真でもバスの屋根は辛うじて確認できる。しかし、それを見て驚いたのが、バスの横に並ぶトタンで出来た建物群。そこには「高田商店」というれっきとした商店名が書かれていたのだ。とすると、バスハウスは店の広告塔とでも呼ぶべき、看板的存在なのか?
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このあたりは昔は東南アジアの水上マーケットのようだったと以前この界隈に住むホームレスに聞いた。そうあってこその水都「大阪」ではないだろうか。
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2009年03月31日 (火)
上棟式のパーセンテージが高い。三月は上棟式の多い季節なんだろうか? そういえば谷中の家の上棟式 も三月だった。しかし、年度末となる三月は毎年〆切地獄に襲われ、身も心もボロボロになる(せめて確定申告提出を四月にしてほしいんだけど)。
そんな三月に大相撲大阪場所 は開催され、ここ2年は泣く泣く行けず仕舞いだったが、今年は無茶を承知で一日空けて、な、なんと!九日目に枡席にて観戦。高見盛 を筆頭に贔屓の力士が概ね勝って満足な一日だったが、ドルジは把瑠都との一戦で精魂尽き果ててしまったのかもしれない。物凄い形相で抱え上げようとしていたから。
軍艦アパート 9.3% 上棟式 3.5% 谷中 2.7% グヤーシュ 1.8% 臭突 1.6% 高過庵 1.4% いろはに木工所 1.2% 庇 1.1% 橋本遊郭 1.0% 若人の広場 0.9%
先月(2009年2月)の解析結果はこちら から。
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2009年02月28日 (土)
地鎮祭と床の間が入れ替わった以外、先月とほとんど代わり映えのない2月。
その並びはグヤーシュを除くと「和」の色合いが強い。ってことから強引なこじつけでバレンタインデーの日に京都の磔磔で「ニッポン・ガールズ 」という邦楽女子ユニットのライブを観たので、その写真を貼り付けておく。オリジナル楽曲 から津軽じょんがら節、アンコールではキューティーハニー と和楽器演奏ながら多様な世界を堪能できた。
曲名リンクで動画も観られるので、興味持たれた方は是非♪
軍艦アパート 7.8% グヤーシュ 2.6% 臭突 1.8% 上棟式 1.6% 谷中 1.6% 山門不幸 1.3% 高過庵 1.2% 橋本遊郭 1.1% 床の間 0.9% 庇 0.8%
先月(2009年1月)の解析結果はこちら から。
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2009年02月18日 (水)
去年の夏に幡ヶ谷にあるポポンタ というレストランで開催された写真展の連続告知 エントリーをしたが、今回はマダム・ポポンタによる「poponta×flickr 」コラボレーションプロジェクト・part-6 の告知である。ポポンタ界隈に住んでいる猫たちを、猫の夢を見て眠る ya_ma さんが撮られた絵はがきサイズの写真展。
"ya ma" mini photo exhibition
ポポンタ界隈ねこ横町
2009年2月18日(水)〜 平日18:00〜22:00 日曜18:00〜21:30 月・火定休
ポポンタレストラン(京王新線幡ヶ谷駅北口から徒歩6分)
〒151-0072 東京都渋谷区幡ヶ谷3-8-7-1F(map ) tel/fax: 03-3373-0507
□◇
「なにしてるのかにゃぁ」裏口のぽこより
「それが好きにゃんです」落ちてる猫より
yamaはなにかを見つめている猫を見つけると、
カメラのシャッターを切ります。
横町にはいつまでだって見つめていたい猫がいっぱいだから。
そんな猫たちが、絵はがきサイズになって、あなたに話しかけてきたら……!
words by mistubako
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2009年02月07日 (土)
2006年の告知エントリー では十数年来の友人と書いたが、もう十五年来にはなりそうな今村仁の個展 が渋谷のギャラリー ニモード で開催されるという案内が届いた。
今回は銅版画にもチャレンジしているようで行けるものなら行きたいが、この年度末、東京行く時間を作る余裕がまるで出来そうにないのが残念なところ。私に代わって渋谷・原宿方面にお出ましの方は是非覗いてみてください。
案内に掲載されていた「アカハゼ」という作品などは、ゆるキャラ好きな女子高生にも渋好みのオッチャンにも好まれそうな気がします。
今村 仁 展
JIN IMAMURA EXHIBITION gallery ni modo
2009年2月10日(火)〜2月15日(日) 12:00〜19:00(最終日17:00まで)
ギャラリー ニモード(初日17時頃からオープニングパーティー)
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-23-3 tel/fax 03-3407-2623
メトロ渋谷駅13番出口/メトロ明治神宮前駅4番出口 共に徒歩約7分
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□◇案内より作家(今村仁)の言葉
自分自身で「絵」という限定された枠組みのなかの空間を選んだのだから、そのなかでは自由でありたいと思う。観ていて心地よい絵だけではなく、時には不愉快な感情を催す絵も必要とあらば描きたい。描いている過程で起きる失敗や、意図しない出来事を拾い上げる事でさらに失敗したり、自分でも意外なものが出来る時がある。そのような「飛躍」を失う事なく全うさせたいし、楽しみたい。
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2007年3月18日, 東京都文京区本郷, Nikon D50/46mm
「曙ハウス 」関連展示でお世話になった文京ふるさと歴史館 から平成20年度収蔵品展「蔵出し!文京ゆかりの絵画 ─逸品・珍品、勢ぞろい─ 」という展示案内が届いた。
個人的には長谷川雪旦「昇竜図」(1824年)を観たいところだが、根津・千駄木界隈を描いた画も多く出品されるようで、昔日の風景を知る意味でも楽しめそうだ。
企画展「蔵出し!文京ゆかりの絵画 ─逸品・珍品、勢ぞろい─」
会期:2009年2月14日(土)~3月22日(日)
主催:文京区・文京ふるさと歴史館
開館時間:午前10時~午後5時
休館日:毎週月曜日
入館料:一般個人100円・団体(20人以上)70円 ※65歳以上・中学生以下は無料
展示解説:2月19日(木)、3月12日(木) 午後2時~30分程度 担当学芸員
ところで一つ余談にはなるが、ちょうどテレビ朝日の開局50周年記念ドラマスペシャルということで、「警官の血 」という戦後60年に渡る警官三代を描いた大河ミステリーのドラマが2夜連続放送されていて、昭和32年に焼失した谷中・天王寺の五重塔が一つの舞台となっていた。谷中は文京区ではないし、町としての意味合いもだいぶ違うけど、それでも時代の空気感としては近しいものが描かれていたはずだ。キャストも豪華で、そんな中、阿藤快さんがキャイ〜ンのウドちゃんに見えて仕方なかった(笑)
冒頭の写真は2年前に撮影した文京ふるさと歴史館のすぐ近所の写真。
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2009年01月31日 (土)
2006年3月4日 14:04, 大阪市天王寺区下寺町, Nikon D50/31mm
家づくりブログとしては不本意ながら(?)ずっとトップを快走する軍艦アパートのパーセンテージがいつも以上に高いのは、おそらくビジュアルアーツギャラリー東京で、山下豊写真展「軍艦アパート」 が開催中だからだろう。リンク先の説明にもあるように氏は1989年頃から軍艦アパートを撮り続けて来られた方で、私のように解体間際にちょろっとのぞき見した程度の野次馬とは比較するのもおこがましい。Google も彼を紹介するようなサイトがトップ表示されるよう最適化を心掛けるべきである。
軍艦アパート 11.2% グヤーシュ 3.0% 上棟式 2.0% 谷中 1.5% 臭突 1.4% 高過庵 1.3% 橋本遊郭 1.1% 山門不幸 1.1% 庇 0.9% 地鎮祭 0.8%
先月(2008年12月)の解析結果はこちら から。
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2009年01月28日 (水)
Photo: sympathy, Scanning: m-louis(書籍表紙より)
正月恒例、妻の実家・総領への18きっぷ帰省往復の時間を使って、長らく読めずにいた俵寛司著『境界の考古学 対馬を掘ればアジアが見える 』(ブックレット《アジアを学ぼう》12・風響社・700円+税)を読んだ。著者は「軍艦アパート 」解体の頃から接点のある sympathy さんの相方の中華丼 さん。お二人には谷中M類栖/1f での金猊展示にもお越しいただいているが、それより前のまだ一度も対面したことのない頃に谷中のあかじ坂を下ったあたりで突然声を掛けられ 、びっくりした のが思い出深く残っている。
うっすらと水平線上に朝鮮半島が浮かぶ表紙の写真は sympathyさんが撮られたもので微笑ましきコラボとも言えようか。しかし、その内容は対馬という、境界領域をテーマとしているだけに穏やかなものではない。というより、穏やかさとかそういう形容とは無関係に、「対馬」という地理的境界を考古学するために、まず「考古学」という学問自体の、一般的にはあまり知られていない(そう考えられていない)学問分野としての境界部にメスを入れる。ある意味では徹頭徹尾リアリズムを貫こうとする書籍と言ってよいのではないだろうか。
よって若干60ページの本書の三分の一(「おわりに」と注でも三分の一取るので、事実上は二分の一である)が「考古学」の境界を問い直すことに割かれることに最初は面喰らったが、個人的にはむしろその学問自体の境界を問う前半の方が書物としては楽しく読めてしまった。その理由は、近代以降に導入された「日本画」というジャンル生成と同列に読み得るところが幾つか出てきたからだ。どうやら日本の考古学もまた日本画と同様に、近代化の曲折のなかで恣意的に作られ(境界を固められ)、国家創立に都合良く利用されてきた側面を強く持っている。中華丼さんはその先でこう記す。
有史以前に遡れば、現在の「国境」や「国家」はもちろん、「民族」の区分すらほとんど意味をなさない。そうした大きな観点からみれば、現在の区分そのものが本来すべて「恣意的」なものである。逆に、それら恣意的な区分を往復するような領域を「境界」と呼ぶならば、本書の目的とは、すなわち、「境界」の持つ本来の意味や可能性の経路を「発掘」していく試みでもある。
この視点に著者の慧眼を見た気がするのは自分だけだろうか。アートジャンルではこの論旨が出てくると短絡的なナショナリズム批判へと展開して、そこでチャンチャン!と終わっちゃうことがままあるが(て、昔の自分も若干そうだったような>汗)、著者はおそらくそこでその恣意性の振れ幅こそを問題としている。その意味において、対馬という境界領域はその島の実質面積よりも遙かに広く大きい。
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2009年01月13日 (火)
以前「長居公園テント村跡地にて 」のエントリーで、代々木公園でテント生活をしている友人・小川てつオ氏のことに触れたが、年末年始の派遣村の一件で彼がどういう所感を持っているのか気になっていた。するとどうやら彼は一日だけ派遣村にお邪魔して、ボランティア活動をしていたようだ。そのときの様子がホームレス文化「あけましておめでとうございます 」にて記されている。
マスコミのような上から目線でも、今回の当事者である派遣労働者でもない視点から現場を捉えた彼の受け取り方は非常に興味深く、是非一読することをオススメしたい。
2009年01月01日 (木)
2009年1月1日 15:12, 大阪市北区天満, Nikon D300/20mm
大阪環状線、天満駅を降りて、徒歩1分といったところだろうか。
申し訳程度にスナックやパブの入った雑居ビルがあり、その脇の細い路地を入っていくと津田式ポンプ製作所 が作った井戸が出てくる(そういえば中崎町の井戸はもうなくなってしまったようだ)。
その井戸の存在は何年か前から知っていたが、一昨年の大晦日 にたまたまその前を通ったら、井戸の上に鏡餅 が載せられているのに遭遇。小粋なことをする人もいるものだと感心して今年も見に行ったら、今年も同じようにしてパックの鏡餅が載せてあった。
ただ、一昨年と大きく違っていたのは、井戸のまわりにペットボトルが立ち並んでいたこと。猫対策ということなんだろうが、ペットボトルに囲まれた井戸の上の鏡餅 とは、ロートレアモンの「解剖台の上のミシンとコウモリ傘」に「水」繋がりさえなければちょっと肉薄していたのに‥‥。
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2008年12月31日 (水)
2008年11月11日 12:45, 大阪市西成区太子, Nikon D300/70mm
「床の間」が入って「針江」が落ちた以外、先月とほとんど変化なし。
そりゃこのアクセス解析以外、更新してないのだから、当たり前の結果である。
何度も書いてきたことだが、やはり家づくりが終わって、その作った「家」からも離れた生活をしていると、そのコンセプトまわりで何か書くというのは非常に難しい。それをポジティヴに受け止めるならば、自分は現場主義の人間と言えるのかもしれないが。
一応、来年もアクセス解析投稿は続ける予定だが、もう少し工夫したいところである。
軍艦アパート 7.8% グヤーシュ 2.8% 谷中 1.6% 臭突 1.4% 上棟式 1.3% 高過庵 1.3% 橋本遊郭 1.2% 若人の広場 1.1% 床の間 0.9% 藤森照信 0.7%
先月(2008年11月)の解析結果はこちら から。
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2008年11月30日 (日)
寒くなってきたこの季節、例年通り「グヤーシュ 」がまた順位を上げてきた。定番の高過庵 ではなく、藤森照信氏の名前が久々にランクインしたが、これは編集出版組織体アセテートから『藤森照信 グランド・ツアー 』(全5巻3,990円 各巻903円)が発売されるからだろう(12月24日発売予定・予約受付中・直接購入は消費税不要)。
ところで上記ネタとは関係ないけど、12月14日頃、Google のカバー画が0系新幹線 になってたので、記念にキャプチャしておきます。背景には富士山も描かれてる。
軍艦アパート 8.2% グヤーシュ 2.9% 谷中 1.8% 臭突 1.4% 高過庵 1.3% 上棟式 1.2% 橋本遊郭 1.2% 若人の広場 1.0% 藤森照信 0.9% 針江 0.8%
先月(2008年10月)の解析結果はこちら から。
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2008年10月31日 (金)
2008年10月20日 02:02, 東京/谷中M類栖/1f, Nikon D300/16mm
一応 Google の2ページ目に掲載されてるので、もう少しアクセスあっても良いと思うのだが、ベスト10はおろかベスト100にも入ってこなかった「芸工展」。地域としての範囲が広がっているという事情は知りつつも「谷中芸工展」の「谷中」は出発点として外してほしくなかったような気がする。何よりも人に説明するのが面倒くさい。
ところで今年は三鷹金猊居の廊下梁として使用されていた丸太の列柱に、芸工展の鞄をぶら下げてみた。来年は今年の分を引っかけることになるかもしれない。
軍艦アパート 14.7% 谷中 2.2% 上棟式 2.1% グヤーシュ 1.8% 臭突 1.4% 高過庵 1.3% 橋本遊郭 1.2% 若人の広場 1.0% 地鎮祭 0.9% 針江 0.8%
先月(2008年9月)の解析結果はこちら から。
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2008年10月30日 (木)
芸工展2008 が終わってもう10日も経っている(芸工展本体の終了日は10月26日)。
ブログ更新の習慣を失って以降、こうした展示活動の記録もつい億劫になりがちで、思えば一宮市博物館 での特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」の総括も未だにできていない。まあ、あれは大展示だったので、期間中に考えたことの色々はその後も頭の中を巡っていて発酵しつつあるので構わないが、こちらの小展示での些細な出来事というのはもう何日かするときれいさっぱり記憶の彼方に消えてしまいそうなので、何とか仕事の隙間(でもないんだが)を見つけて記録しておくことにした。といっても、まるまる丸井金猊公式サイト で書いた記事の転載ではあるが(写真の配置が少しだけ違う)。
あと、リソース展のタイトル変更を会期直前に行ったが、どうもしっくり来ないので、もう一度バージョン表記を復活させ、丸井金猊展を一から数えたボリューム表記の方はシャープ(#)で短縮して、バージョン表記の後に付けることにした。
-- 以下、丸井金猊「丸井金猊リソース ver3.0 #10 を終えて 」より転載 -----
芸工展2008 「丸井金猊リソース ver3.0 #10 」で谷中M類栖/1f までお越しいただいた皆様、大変ありがとうございました。前エントリーでご案内したように今年は4月末から約1ヶ月、愛知県の一宮市博物館で特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」が開催されました。展覧会図録や講演会では美術史家の山本陽子さんが金猊作品について触れられ、とりわけ屏風絵「*観音前の婚姻圖 」についての作品分析が強く印象に残っています。そこで今年の芸工展は「*観音前の婚姻圖」をメインに据えた展示にしようと特別展開催中から考えていました。
「*観音前の婚姻圖」は谷中では初展示ということになります。これまで展示してきた「壁畫に集ふ 」も人物を中心とした屏風でしたが、「*観音前の婚姻圖」には観音様という人物の並びの中に似て非なる違和が入り込んだことによって、それが人物画だという意識がかえって強烈に働き、であれば、今回は人物画を中心とした展示にしようという考えに至りました。
そこで最初に思いついたのが、特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」では作品の傷みが激しいという理由で展示を見送られた江南の叔父のところにある「*聖徳太子二童子像 」2点を展示しようということでした。これによって、愛知県まではるばる足を運んでいただいた方にも未見の作品があるという楽しみをお持ちいただけたのではないかと思います。
そして、もう一つの目玉として、所在不明となっている「ハープとピアノ 」という作品の下絵を展示しました。この「ハープとピアノ」の下絵は2点あり、完成作の様子はアルバムに残されていたセピア色の写真1枚によってしか知り得ないのですが、今回展示した下絵はその完成作とは異なるものの方です。見較べていただければ一目瞭然ですが、ピアノを弾いている人物が今回展示した下絵は男性、完成作では女性で、完成作には犬も描かれています。もう一つの下絵はその完成作と同じもので、一宮市博物館でも展示の計画はあったのですが、スペースの都合から見送られました。尚、うちで完成作でない方の下絵を選んだのは、そちらの方が下絵の上部がしっかりしていて、画鋲で留めやすかったこと。もう一つは下絵の線が濃く描かれていて、他の実作と比較されても見劣りしないで済みそうだと思えたからです。
一宮市博物館の特別展含め、これまで下絵の展示は何度か行ってきましたが、谷中では初めての試みだったので、ギャラリーとはいえ、居室でもある空間で合うかどうか、実際に展示してみるまでは若干心配でもありました。しかし、その心配は杞憂に終わったと言えそうで、今後も下絵をある種の「新作」として随時公開していきたいと考えています。
他、今年の展示作品は去年も展示した軸の「浴女 」と毎年展示している版画の「さだゑ圖」、そして谷中では初出となる「婦女圖 」、菊池契月の模写画「稚児圖條暢 」を展示して人物画としてまとめました。しかし、人物画とは言っているものの、それらの人物たちはどれもリアルな肉感を携えた描写とはほど遠く、金猊の妻・さだゑの言葉を借りれば「霞を食べて生きている」ような人物像ばかり(「さだゑ圖」の版画は除く)。基本的には金猊が若い時分に何度となく模写を繰り返した仏像や歴史画の人相をしています。そんな中、ぽつんと人間としては描かれていない観音様がおわしまして、ところがその顔を見つめると誰よりも人間味を帯びているように見えてくるという、そんな不思議感覚を楽しんでいただけたらと思っておりました。
しかし、こういう展示でなかなかそうしたコンセプチュアルな主旨を伝えるというのは容易ではなく、美術史家の山本陽子氏が図録で書かれた「*観音前の婚姻圖」の作品分析も一部抜粋して会場で読めるようにしておいたのですが、会場内の他のお客さんという人物が結構たくさんいらっしゃる中でテクストをお読みいただくというのはなかなか難しく、そういう話はなるべく口答で話しかけるようにしていった方がよさそうだという今後の課題も見えました。
去年の無告知展示で知人の中では唯一お越しいただいた flickr 仲間の otarakoさん のアドバイスに従って、今年は最初から玄関ドアを全開にしたので、以前よりはだいぶ入りやすくなったのでは?と思います(今年も招き猫ならぬマネキオタラコスモスの効果絶大でした!)。
また、一宮市博物館の特別展で使われた年表や写真などの展示パネルを譲り受けたので、今回の展示から金猊の横顔が以前にも増して伝わりやすくなったのでは?と思っています。ただ、年表は横幅が180cmあり、それを展示空間に持ってくると2作品分くらい取ってしまうので、玄関前室に設置する以外なく、年表と「菊花讃頌 」パネルの組み合わせは毎年定番ということになりそうです(ポートレイトを華燈窓に持ってくると葬式写真みたいなので辞めました)。
来年は金猊生誕100年ということで、10月19日という金猊の誕生日もちょうど芸工展期間内となるので、今年よりは会期に余裕を持たせての展示を行いたいと思います。
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2008年10月15日 (水)
さて、今年も「谷中芸工展」改め「芸工展 」の季節である。と、
ふと、このエントリーを書き出す段になって、これまで芸工展シリーズとしてカウントしてきた今時な小数点バージョン表示を辞めて、純粋に丸井金猊リソースの展示機会を一から数えて行こうという気になったので、急遽タイトル変更しての告知である。
谷中芸工展 参加プロジェクト
丸井金猊リソース ver 3.0 〜知られざる日本画家 丸井金猊〜
↓ ↓
芸工展2008 参加プロジェクト [B-30★]
丸井金猊リソース vol.10 〜知られざる日本画家 丸井金猊〜
日時:2008年10月18日(土)・19日(日) 14:00〜18:00
場所:谷中M類栖/1f(Google Map )
URL:http://kingei.org/
と、芸工展期間中(約3週間)たった2日の展示を今年も開催することにした。
それも開催3日前の告知(Bcc: メールもさきほど送ったばかり)。告知さえしなかった去年よりはだいぶマシだろうが、今年は印刷に出したDMが見事に失敗し、それで出すべきか迷っているうちに会期は迫り、Bcc: メールとブログでの告知という形を取ることになった。ひさびさのメールで Undelivery mail もたくさん返ってきているし、住所しか存じ上げない方にはお知らせすることもできなくなってしまった。
以下はその Bcc: メールで書いた後半文章の転載である。前半は芸工展のことなどについて触れているので、このブログでは無用だろうということで。
--
今年は4月26日から6月1日まで金猊の故郷となる愛知県の一宮市博物館で特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」が開催され、金猊の遺作が約10年ぶりに一堂に会しました。
展覧会図録や講演会では生前の金猊と面識のあった美術史家が鋭い作品分析を繰り広げ、私自身も知らなかった/気づいていなかった発見が多々あって大変貴重な機会となりました。その美術史家が着目した法隆寺の百済観音をモチーフとした屏風絵「観音前の婚姻圖 」を本展では谷中で初披露し、他、特別展では展示されなかった聖徳太子二童子像 含む人物画を中心とした展示を行う予定です(特別展の展示風景もスライドショーで流す予定)。
期間は2日と短いですが、この週末、谷根千散策がてらに芸工展巡りでも♪なんて気分でしたらお立ち寄りいただけると幸いです。
PS. 芸工展巡りでのオススメは‥‥
A-6)阿部建築【木で遊ぼう】 貸はらっぱ音地
B-7)谷中ボッサ【はとイラスト展「黒ネコのタンゴ」】
B-31)イコアン【マクケノエン】
B広告)アトリエ アラン ウエスト
C-9)中原絵亜【詩展 空の日記】
D-6)コジマユウジ【コジマユウジキチ vol.1】 美容室CLASSICAL
E-8)グループ phase『phase(フェイズ)』 ギャラリーTEN
番外編)芸工展とは関係ありませんが、根津でのご近所写真展:)
写真=松村大輔(nodoca) 俳句=中村正則 お野菜=晴れ晴れ屋
【写真と俳句と秋のお野菜 みちゆき──the road to somewhere】
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2008年09月30日 (火)
2008年7月13日 11:25, 東京/谷中M類栖/光庭, Ricoh GR Digital/28mm
今月代わり映えしたところがあるのは「インテリア」のみ。しかし、そのキーワードだけでこのブログが高ランクに付けるとは思えず、何のキーワードと検索フレーズで絡んだのか確認すると、先月ランクインしていた「床の間 」とのセットだった。
床の間──現実的に我が実家でそれが「床の間」として活かされるのは、祖父の命日の日だけな気がする。その日は遠い親戚でもあるお坊さんが実家を訪れ、お経をあげてくださる。そして、そのときだけ仏壇が床の間の方に移され、そのときだけ荷物置き場と化していた床の間が本来の姿を現すというわけだ。その一日のためだけにある床の間が無駄なのかどうかはわからないが、私個人はそのお坊さんと1年に1回話ができるのが楽しみで、無理をしてでもその日は東京に出向くようにしている。今年で御年86歳。
冒頭の写真はその床の間ではなく、お坊さんが来られた7月13日の光庭。
軍艦アパート 7.0% グヤーシュ 1.7% 谷中 1.7% 上棟式 1.5% 針江 1.4% 高過庵 1.3% 遊郭 1.2% 臭突 1.2% 川端 1.0% インテリア 0.9%
先月(2008年8月)の解析結果はこちら から。
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2008年09月20日 (土)
2008年7月6日 16:51, 韓国/ソウル市鍾路区, Nikon D300/16mm
研究調査のため中国を訪問中の「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発 」のわきたさんが、現地からワクワクさせてくれる写真を添えてエントリーされる「中国の町角から 」シリーズが最近の楽しみの一つである。そこでピックアップされる写真は、北京五輪でTVに映し出されることのなかった中国の一面であり、天安門事件の直後に貧乏旅行で自分が訪れた中国とも色彩の豊かさ や暖かさ という点で、随分異なる印象だ。
それらのエントリーに触発されて、7月初旬に数日行った韓国の町角写真 を少しこちらでも紹介しておこうかという気になった。わきたさんのように現地に溶け込んでというわけではないので、通りすがりの町角でしかないが、Google ストリートビューカーが通りすがることは当面なさそうな場所とは言えそうである(俯瞰はされるが)。
冒頭の写真は、鍾路 (종로・Jongno)という光化門と東大門の間に位置するソウルの中心街から一歩裏手に入ったところで撮ったものである。1998年に一人旅でインド に行ったとき、トランジットでソウルに数泊せねばならず、そのとき空港で教えてもらった格安ホテル「新進荘 」がこの鍾路の路地裏にあった。以来、格安で地の利が良いことに加え、この界隈の雰囲気が好きでソウルではいつもここに泊まるようにしている。
2008年7月6日 10:46, 韓国/ソウル市鍾路区, Nikon D300/16mm
ちなみにこの界隈の路地裏には李氏朝鮮時代から名付けられたピマッコル という呼び名があり、詳しくはリンクした Wikipedia を確認いただければと思うが、鍾路を通る高官たちの馬を避けて庶民たちが通った道という意味を持つ「避馬(ぴま)」という言葉に由来するそうだ。安宿の他にも飲み屋や食堂、風俗店 、ビリヤード場 などが迷路状の細い路地の間に雑然と存在し、そんな中に民家もひょっこり顔を覗かせる。都心部の中の都心部という立地にあって、ネオンと庶民の生活が混在するピマッコル。しかしここでも都市開発の荒波は押し寄せてきているらしい。
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2008年08月31日 (日)
2006年5月22日 16:22, 東京都渋谷区広尾, Nikon D50/200mm
これは迂闊だったというべきか?(汗)
「ストリートビュー 」について書いたエントリーに「女子高生」という語を織り交ぜてしまったため、そのフレーズ検索で当下流ブログにも「ストリートビュー」という人気用語でのアクセスがあるらしい。ま、訪問者には期待外れもいいところだろうが(笑)
ところで「ストリートビュー 女子高生 」を確認がてら(暇人!)で気づいたのだが、不適切画像の指摘のあった画像の修正はすでに始まっているようで、そこは差し替えではなく、真っ黒画面に「この画像はなくなりました 」と記されている。いずれ撮り直し画像が掲載されるんだろうか? ちなみにこの場面で掲載されてた画像は、こんな「なんとも羨ましい瞬間 」の画像であるが、顔にぼかし入れるくらいならその時点で削除してもよかろうに?と思うところをしてないところが何とも Google らしい。
とまれ、期待外れ訪問者のために一応思わせぶりなサービス画像は提供しておく。
軍艦アパート 7.5% ストリートビュー 1.9% 谷中 1.8% 高過庵 1.6% グヤーシュ 1.4% 上棟式 1.3% 臭突 1.2% 女子高生 1.1% 遊郭 1.1% 床の間 1.0%
先月(2008年7月)の解析結果はこちら から。
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2008年08月27日 (水)
2008年8月17日 9:53, 広島県庄原市総領町/田総川, SANYO Xacti J4
家づくり、行ったり来たり「雨を下から眺める 」にて、garaikaさんはご自宅のガラス屋根に落ちる雨粒がおりなす波紋を眺めながら、「池の中の魚はこのような風景を見ているのだろうかなどと想像」され、雨の週末を楽しむ方向に持って行かれている。何という大人の優雅さだろう(それが「貧乏性」と結びつけられるところがまた面白い)。
それに引き換え、お盆に妻の実家で自分のしてきたことと言えば、何とも子供じみたというか、Google Map のストビュー じみた露見趣味である。川の中で魚が見ているだろう風景を、とあるオモチャを使って撮ってきてしまったのだ。
そのオモチャとは DiCAPac なるコンデジを透明のビニールケースに入れて水中撮影が出来るというもので、価格は4000円弱。うちでは妻が使っている SANYO Xacti J4 がムービーも割とキレイに撮れるので、対応表 に掲載されていないにもかかわらず、WP711 というレンズ用突出部分のないケースを購入。カメラをケースの上側にぴっちり詰めるようにすれば、何とか使えた。しかし、ちょっとでもズレるとレンズ部分にレンズ用窓枠がかぶってしまう。あの窓枠、もっと大きく設計できないもんなんだろうか?
2008年8月17日 9:53, 広島県庄原市総領町/田総川, SANYO Xacti J4
それと J4 はモニタが小さい上に、DiCAPac のビニールケースが水中では角度によってテカってしまって非常に見づらい。てなわけで事実上ほとんどノールックの目測撮影をするしかなかった。そうなると捉えきれる魚は群れなして泳いでいる稚魚か、川底を這っているヨシノボリ に限られる。ダボハゼとも言われるヨシノボリは、三鷹での少年時分、井の頭公園で赤虫かベニサシを餌に一番小さな釣り針を使ってよく釣っていた。彼らの愛嬌ある顔と動きは大人になってから懐かしく見飽きることがない。
2008年8月17日 9:51, 広島県庄原市総領町/田総川, SANYO Xacti J4
他方で群れなす稚魚は割と水面すれすれのところを泳いでいる。そこでこちらは完全にノールックでカメラを上に向けて撮影すると、稚魚以外にも冒頭の写真のような思わぬ光景が撮れるということに気づいた。要するに水中からの空と川の縁の写真である。もちろん川泳ぎをしているときにも目にしているはずの光景ではあるのだが、水の屈折によってか魚眼レンズを覗いているような写真が撮れる。そして、ここで Wikipedia で「魚眼 」を調べてしまうと、ストビュー以外にも地味に Google Map に搭載されていた「その他」機能とほとんど変わらないことを演じていることになるのである。
ちなみにムービーで撮るとこんな感じ。
Tabusa River from m-louis on Vimeo .
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2008年08月05日 (火)
やっちまったな〜! てか、一体いつから機能追加されてたんだ?
というのは、 Google Map でも NY あたりならば、だいぶ前から機能搭載されていた
Street View こと、ストリートビューの話。谷中の実家も大阪の自宅も両方とも自分の家がまんま見られるようになってしまっている。もちろん妻の実家の総領町はまだ当分写りそうにはないんだけど(笑)
しかし、この Street View に関しては米国でも幾つかプライバシーの侵害で裁判沙汰になったというニュースを見ているが、モンスター何とやら増殖中と言われるこの日本ではどうなることやら? 実は大阪自宅の方の写真には通学途中の女子高生が二人写っていたりして、撮った輩をうらやましく思っていたりもするのだが(汗)
あと、その他で、写真と Wikipedia 情報も載っかるようになって、こうなるとますます flickr は Yahoo ではなく、Google に買収されてほしかったと思ってしまうが、それについては Panoramio にサインアップするしかありまへんな。
2008年6月8日 16:19, 谷中M類栖, Nikon D300/16mm
ちなみに谷中の写真には「いまあざやかに 丸井金猊展 」のポスターが写っているので4〜6月の間に撮影されたということになるのだろう。
□◇ストリートビュー関連エントリー
・ちはろぐ:Google ストリートビュー (2008.08.05)
・建築プロデューサー朝妻義征:Googleマップ ストリートビュー (2008.08.05)
・家づくり、行ったり来たり:ストビューの遊び方を考えてみる (2008.08.06)
・ノアノア:Google Maps ストリートビュー (2008.08.06)
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2008年08月03日 (日)
2008年7月19日 15:02, 奈良市/三条通, Nikon D300/50mm
先月、奈良に用があって、奈良の三条通りを歩いていたら見つけたのがこのポスター。
あさみ新聞「まんとくん 」のエントリーで、せんとくんとまんとくん、対立してるよりお笑いユニットでも組んだら?という提案というか進言があったが、一応、三条通りのショッピングモールにおいては仲良くしてる模様であることを報告しておこう。
ところで、この写真を flickr にアップしたら「鹿坊」を見てから「せんとくん」見るとかわいくて仕方ないというコメントがあり、「鹿坊」とはなんぞや?と思って確認するとこれがまたすごいヴィジュアル(汗)
時遊zine「せんとくんの兄、鹿坊 不気味に登場 」のエントリーから画像拝借させてもらったが、そのタイトル通り、鹿坊はせんとくんの兄ということらしく、ここまで来るとさすがに作者の存在が気になり、藪内佐斗司美術館 なるサイトを発見。そこに掲載されてる作品を見ていくと、まず「鹿坊」誕生は非常に納得の行くものがあり、と同時に彼が著した NHK「知るを楽しむ」シリーズの「ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心 」の表紙に用いられている阿修羅像からの影響も大であることが察せられる。
ただ、そのブロンズ「鹿坊」が逆に平面イラスト「せんとくん」におりてくると、そのソースというのはなかなか読めず、それが多くの人々の違和感にも繋がっていたのかもしれない。
他方で「まんとくん」のルーツはやっぱりおじゃる丸の「電ボ 」っぴか?(`Θ´)
2008年7月19日 17:11, 奈良市/奈良公園, Nikon D300/52mm
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2008年07月31日 (木)
2008年7月25日 20:42, 大阪/自宅, Nikon D300/35mm
間違いなく今月だけ浮上するキーワード「花火 」に「天神祭 」。例年は友人が集まって広島/大阪風のお好み食べながらという感じになるのだが、今年は忙しさも手伝って、身内だけで静かに眺める花火だった(といっても下は人だかりで超うるさいが)。
ついでに先月のアクセス解析 も今頃更新。
軍艦アパート 8.7% 花火 3.2% 天神祭 3.1% 上棟式 1.5% 谷中 1.4% 高過庵 1.3% 川端 1.2% 地鎮祭 1.1% グヤーシュ 1.0% 臭突 1.0%
2008年7月25日 21:11, 大阪/自宅, Nikon D300/105mm
先月(2008年6月)の解析結果はこちら から。
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2008年07月28日 (月)
前エントリーでも紹介した ya ma さんのレストラン「ポポンタ 」での flickr 仲間たちによる展覧会はその後も続き、いよいよ第5弾 mistubakoさんの「ポポンタ de sky 」を以て最終回を迎えようとしている。私個人は祖父の法事がてら、第2弾 otarakoさん「おたらこ印 」に立ち寄らせてもらったが、1サイクル1週間ではなく1ヶ月くらいのんびりやっててくれたら、他のも観に行けたのにな〜と思わないでもない。
フライヤーは第1弾の nodoca氏が基本デザインを手掛けられたもので、これを並べて観ているだけでも flickr メンバーそれぞれの個性が引き出されて楽しく、数年後にこの企画が溜まったらフライヤーを一斉に並べた展示などがあっても面白いだろう。
以下そのフライヤーを並べてタイトルのご紹介。
poponta×flickr コラボ写真展 part-4
Green Planet / Chizu* photo exhibition
2008.7.23〜7.27
poponta×flickr コラボ写真展 part-3
路的 - 幡ヶ谷篇 / McCOCK mini photo exhibition
2008.7.14〜7.20
poponta×flickr コラボ写真展 第2弾
おたらこ印 / otarako photo "mini" exhibition
2008.7.9〜7.13
2008年07月02日 (水)
2006年1月、「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ 」で一緒に谷中散策した nodoca さんが flickr 仲間の ya ma さんのレストラン「ポポンタ 」にて、「食堂車」松村大輔/写真展 を開催されている。
6月30日(月)〜7月6日(日) までと期間が短く、残念ながら私は駆けつけられそうにないのだが、写真展タイトルや flickr 上で ya maさんが作家本人付き で紹介されてる写真を見る限りでも、単に写真展というよりはレストランという空間をガラッと変えそうな(それでいて、そこが「食堂車」であるという関連状況がまたたまらない)コンセプチュアルな展示のようで、個人的に非常に興味をそそられる。本当に駆けつけられないのが残念でならない。
ちなみにその後も flickr 仲間による展示は続くので、幡ヶ谷方面においでの方は是非!
part 2☆7/ 9 ~ 7/13 otarako
part 3☆7/ 14 ~ 7/20 McCOCK
part 4☆7/23 ~ 7/27 Chizu*
part 5☆7/28 ~ 8/ 3 mistubako
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2008年06月30日 (月)
2006年11月11日 13:25, 滋賀県高島市新旭町, Minolta DiMARGE G400
一宮市博物館で開催された特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」も6月1日を以て無事終了。と終わってみたら、あっという間に「丸井金猊」キーワードは圏外14位に転落。
先月 の予感的中で、やはりまだまだ企画あってのものなんだな〜と実感。
その一方で「針江」「川端」と出てきたのは、6月6日に NHK のアンコール放送「ふるさとをもう一度愛せますか〜琵琶湖畔・水を守る農家の6か月〜 」があったからだろう。また行きたいな〜。新旭町 。
軍艦アパート 6.5% 田植え 4.0% 谷中 1.6% 上棟式 1.4% 臭突 1.3% グヤーシュ 1.2% 無印の家 1.1% 針江 1.1% 山門不幸 1.0% 川端 0.9%
先月(2008年5月)の解析結果はこちら から。
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2008年06月15日 (日)
2008年6月10日 19:34, 東京八重洲のカフェにて garaikaさんから直接手渡されたところ。
祖父の遺作展 を控えた4月中旬、銀座にある中村活字 という活版工房で活版印刷の名刺を作った。「丸井金猊プロフィール 」のエントリーで祖父が教師をしていた県立神奈川工業高校の卒業生・よもうにみちけるさんから「タイポグラフィーの基本をいやというほど叩き込まれました」とコメントいただいているように、展覧会場で祖父の教え子と名刺交換することになったときに、あまり恥ずかしい名刺は出せないなと思ったのである。それですぐに思いついたのが、Kai-Wai 散策「中村活字で名刺を 」のエントリー。
名刺のデザインは祖父がかつて使っていた縦型名刺を参照し、敢えて名前の上に余白を与え、大阪の住所、郵便番号、電話番号、谷中M類栖のURLのみを記載した至ってシンプルなものとした。メールアドレスも携帯番号(そもそも持ってない)も載ってない。
ただ、それでも注文してそれなりにコスト掛けて作った名刺を持つと、その名刺をそれまでのいい加減なホームプリンタ印刷名刺のように財布から出してというのも気が引ける(ま、それまでは名刺持ってること自体が恥ずかしいというモラトリアムな自意識があり、今持ち合わせがなくて・・で済ませてしまうことの方が多かったのだが)。
ところがそんな矢先、garaikaさんの家づくり行ったり来たり で「Eさんの名刺入れ 」という記事がエントリーされたのである。以前からレザークラフトで作られたものを度々ブログで紹介されていた garaikaさんにはいつか何か注文してみたいと思っていたのだが、その名刺入れの写真を見た瞬間、そのときは来た!とばかりに早速相談のメールを送っていた。そして、それから約2ヶ月後の6月10日、できれば郵送よりも手渡しでということで、仕上がった作品を直接受け取ったときの写真が冒頭のものになる。
しかし、ご覧いただくとわかるように、その写真には名刺入れの他に手帳と何やら棒状のものが写っている。それらこそ garaikaさんに注文したならではのオーダーメイドの醍醐味のようなものだったのだが、その話は後回しにして、まずは名刺入れのことから触れていくことにしよう。
名刺入れについては「Eさんの名刺入れ 」という明確なモデルがあったので、色の好みを言って、ポケットの数と何枚くらい入るようにするか、そして装飾をどうするかということを決めるくらいの話だった。当初は(^^;)
ところがメールのやりとりをしながら実際の仕上がりのイメージが自分の中でリアルに想像出来始めてくると、私の悪いクセとでも言うか、気まぐれな思いつきがつい口をついてアレコレ出て来てしまったのである。しかし、そこはさすがは garaikaさん!
その思い付きに付き合われながら、徐々に私が求めているものが何かを整理されていった。ただ、一応は家づくり経験1回の私も多少は施主馴れしてきてるのか、その自己解体→交通整理の過程は自分で自分を楽しみながら(敢えて無理を言ってみつつ、最後はシンプルにまとまるようにという意識を持って)、創作に立ち会えたように思う。
無論、家のように大きなものではないからというところもあるんだろうが、この互いに余裕をもった落ち着きの中で家づくりに臨めたなら、家づくりも「オトナの嗜み」の域で贅沢に(金銭的な意味でなく)味わい尽くすことができるだろう。と同時にふだんの自分が創作の側にまわっているときにもクライアントにそのような感覚を味わってもらえるように持って行きたいものである。
最終的にはヌメ革をそのまま使ったシンプルな名刺入れに。今後アメ色に変色していくのが楽しみ。
さて、仕上がった名刺入れは満足を超えて何度も唸らせられる仕上がりだった。最終的にM字で決着したステッチによる装飾は漠然と想像していたこじんまりとした意匠からは掛け離れた、見ての通りの超大胆なものとなっていた。ついM字開脚と書いてしまいたくなる面一杯のMである(笑) ただ、そのMがタダのMでないのが、名刺入れを開いたときにわかるようにしっかり折り返された革の縫い合わせとして最も適当な位置にあしらわれていることである。さらに嬉しいことにその開いた面にもMの刻印があり、そして名刺を取り出しやすいように逆三角形を入れたことで、その面全体もまたMに見えなくもない。まさにM尽くしの名刺('M'eishi)であり、「超S imple、だけど"M "」というのが garaikaさんのコンセプトだった。
名刺入れに名刺を挟んだところ。枚数が入るように膨らみを持たせられている。
そして、そんなシンプルかつ大胆な名刺入れが仕上がっていく過程で私が言い出した気まぐれ思い付き注文が、その名刺入れにふだん手帳に挟み込んでいるミニシャープペンを差し込めないかという話だったのだが、garaikaさんからは名刺入れにペンホルダーという組み合わせ上の違和感と、ホルダー部分を付けるとその分だけ名刺入れに厚みが増すことを指摘され、むしろペンホルダーの付いてない手帳の方にペンホルダーを付けたらどうかという提案がなされたのだった。
常用しているみずほ銀行の手帳と興銀のシャーペンに合わせて作ってもらったペンホルダー。
その結果として生まれたのが上記のような板状のものにペンホルダーを付け、それを手帳に挟んでゴムバンドで留めるというものである。板状なのでそれは栞としても使え、また裏面にはこれも私が思い付きで言い出したポケットを付けてもらって、そこに数枚カードを挟んでおくこともでき、名刺入れを忘れたときの予備名刺入れとしても活用できるだろう。装飾はこちらもM字をステッチで描き、それがそのまま中の塩ビ板を革でくるむ端を留める役割を果たしている。また、私の思い付きのポケットがここで思わぬ効果を果たし、本来だとどこかで革の継ぎ目が見えてしまうのだが、それがポケット部に来ることでほとんど見えなくて済んでしまった。
ポケットをあしらってもらった面。朝妻さんにプレゼントされた消しゴムスタンプの印 がここにも(^^;)
garaikaさんにとってペンホルダーは初めて手掛けられたもので、ステッチを細いものにしておけばよかったと若干納得のいかないところもあるようなのだが、名刺入れと並べて置くと、兄弟というか、漫才コンビというか、ドンキホーテとサンチョパンサみたいな姿形が同じ太さのM字ステッチだからこそ浮かんできて、愛着を覚えるものである。また、ゴムバンドの劣化を視野に入れて、それを取り外し式にされてるあたりは、さすがは福田政権の200年住宅ビジョンを評価 されている garaikaさんである(笑)
何となくボケとツッコミって感じの名刺入れとペンホルダー。ゴムバンドはツッコミ入れる手か?(^^;)
そして最後にオマケを一つ。これは garaikaさんが製作過程に入られてから思いつかれた別のペンホルダーで、ペンホルダーにプッチンクリップ というクリップを付けて、それを手帳の1ページに装着するというものである。ゴムバンドの付け外しをしなくてよいという点ではこちらの方が簡便なので、しばらくは両方を実用で使ってみて、使いやすい方をメインの手帳で使っていきたい。
このようにクリップでペンホルダーを装着する。
以上、どれも手に取ると自然と笑みがこぼれてくるのだが、ひとつ悔しいのは私が平常ひきこもりで人と会う機会があまりないということである。以前ブログ始めてブログのネタのために行動するなんて本末転倒な話を耳にしたが、私の場合、名刺入れを人に見せびらかせるために、人と会うなんていう本末転倒を演じるのだろうか(汗)
□◇
このエントリーは garaikaさんから名刺入れ等々を受け取ったときに話を示し合わせて同日エントリーにしようということになっていた。garaikaさんはひょっとして待たれていたのかもしれないが、時間的にもちょうど私がエントリーしたのとほぼ同じタイミングでエントリーされたようだ。
⇒ m-loiusさんの名刺入れ──「超S、だけどM」なモノ
そのエントリーの文末でも書かれているように、何を書くかは相談せず、ただ、エントリー日だけを示し合わせたものだったが、そのエントリーを読んでるとまた自然と笑みがこぼれてくる。何ともクライアントとして良い時間を過ごさせてもらった。というかその良い時間は名刺入れの経年変化と共に今後も続く。
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2008年06月10日 (火)
2008年6月7日 18:08, 大阪/自室, Nikon D300/26mm
祖父の遺作展で慌ただしくてたもので、時差ボケはおろか三週差ボケの祝辞である。
Kai-Wai 散策 の masaさんこと、村田賢比古氏が写真集を出版された。そのタイトルは『時差ボケ東京 』。Kai-Wai 散策ではご本人の人柄よろしく控えめな紹介に留められているので、より詳しく写真集の情報をお求めの方は、もはや masanager とも言えそうな、わきたさんのエントリー「村田賢比古・写真集『時差ボケ東京』 」を随時チェックされることをオススメする。
また、写真集を見ているとどうしても知りたくなってしまうその撮影手法については masaさんの盟友である玉井一匡氏の「「時差ボケ東京」を開く 」のエントリーを読まれると幾つかのヒントが見えてくるだろう。ただ、そのエントリーを読まれるタイミングは実際に写真集を手に取られてからの方が良いかもしれない。そういう意味では『時差ボケ東京』を一家に一冊まだお買い求めでない方は、まず一番に LOVEGARDEN の「『時差ボケ東京』当店にて発売中! 」にアクセスすべしだろう(^^;)
冒頭の写真は『時差ボケ東京』を書棚に収めたところなのだが、見ての通り、収めたというよりは飾られたという方が相応しい。収めるスペースがなかったという理由はあったにせよ、それ以上に『THE PICASSO PAPERS 』と並べて飾りたくなる表紙だったということの方が大きい。いろんな意味で大きな写真集である。必見必携の書!
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2008年05月31日 (土)
2008年5月30日 12:29, 一宮市/妙興寺駅南出口, Nikon D300/20mm
5月は一宮市博物館で開催された特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」一色で終わってしまったと言いたいところだけど、必ずしもそうではない。不在中に仕事が重なり、それに追われて、思ってたほど足繁く博物館に通うということはできなかった。それが残念でならない。
ともあれ、収穫も色々あったので、それはいずれ丸井金猊サイトの方で纏めようと思っている。ランクは8位→3位と上昇したが、来月いきなり圏外だと寂しいな。
軍艦アパート 9.1% 田植え 4.5% 丸井金猊 1.9% 谷中 1.6% 上棟式 1.4% 高過庵 1.3% グヤーシュ 1.2% 遊郭 1.1% 無印の家 1.1% 山門不幸 1.0%
先月(2008年4月)の解析結果はこちら から。
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2008年05月18日 (日)
2008年5月18日 12:29, 一宮市博物館北側入り口, Nikon D300/90mm
一宮市博物館 の特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」も折り返し地点を過ぎ、後半戦に突入。これまで私は開会式、講演会と自分が関与する日にしか訪問できていなかったので、18日(日)はようやく落ち着いて会場を回ることができた。といっても、新聞社の取材があったりで決して自由な身というわけでもなかったのだが‥‥。
ちなみにその日は学芸員による二度目のギャラリートークの日で、取材が長引いて最初の方は見られなかったけど、たくさんのお客さんを引き連れてギャラリートークしている様子を背後からこっそり覗かせてもらった。何は言っても祖父・丸井金猊はまだまだ知られざる 存在なだけに、ギャラリートークの意義は有名作家の展覧会よりも大きいということは、その聞きやすくわかりやすい解説を傾聴しながら改めて実感した。トークを終えたばかりの学芸員の伊藤さんも「今日は緊張しました」と言われながらもその必要性は強く感じておられたようで、チラシでの告知はないが、今後も週末は人数が集まっていればギャラリートークされるおつもりのようである。
また、個人的に申し込んでいただければ解説もしますとのことなので、もし解説付きの観覧をご希望の場合は、受付時に「学芸員の伊藤さんを」と尋ねてみてください。ただ、伊藤さんもお休みや外仕事の日もあるので、何が何でも解説付きでと考えられてる方は事前に博物館まで電話で問い合わせされた方がよいかもしれません(Tel. 0586-46-3215)。
あと、今頃気づくな!って感じだけど、以下に私と母の博物館滞在スケジュールを記載しておきます。もしかすると私の方はもう一日二日増えるかもしれません。
母:4/26(土)、5/4(日)、5/5(月・祝)、5/13(火)〜18(日)、5/31(土)、6/1(日)
m-louis:4/26(土)、5/4(日)、5/5(月・祝)、5/18(日)、5/30(金)〜6/1(日)
※最後の3日間は妙興寺が最寄り駅のビジネスホテル「サカイ」 に m-louis は宿泊。
※5/27(火) の予定が都合により行けなくなりました。
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2008年04月30日 (水)
2008年4月22日 13:43, 一宮市博物館北側入り口, Nikon D300/18mm
19位→12位とランクアップしてきた祖父の名前「丸井金猊」が無事一宮市博物館での特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」開催と同時に8位にランクイン。ただ、「金猊」の「猊」の字がすぐに変換されないため、ひらがな検索や「貌」などの間違った文字で検索している人もいるようで、それらも加えたら「臭突」は抜かしていただろう。ちなみに「猊」の字は最近何かと話題のダライ・ラマ猊下の「猊下(げいか)」と書いて下をカットすると良いだろう。
他は季節が変わり、グヤーシュが消えて、田植えが出てきた。
軍艦アパート 8.3% 上棟式 3.6% 谷中 2.3% 高過庵 1.6% 田植え 1.5% 山門不幸 1.4% 臭突 1.3% 丸井金猊 1.2% 藤森照信 1.1% 遊郭 1.1%
先月(2008年3月)の解析結果はこちら から。
2008年4月22日 13:43, 一宮市博物館北側入り口, Nikon D300/42mm
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2008年04月19日 (土)
B3ポスター
これまで幾度か予告エントリーをしてきたように、祖父の故郷・愛知県の一宮市博物館 で、特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」が開催されることになった。これまでの展示活動はずっと自主企画だったのに対し、今回は公的機関である一宮市博物館の主催で、チラシ・ポスターに加え、図録も作られることになっており、贅沢な限りである。
ただ、自主企画のときには自分でDMを拵え、ダーッとプリンタで直接葉書に印刷するだけで済んでいたのが、今回はチラシを折って封筒に入れ、宛名ラベルも別途用意しなければならないので(切手代も80円)、思いの外、その作業に苦心している。
チラシ・ポスター等のデザインも博物館側が決めたデザイン会社に委託し、フォントのことなど多少口は出したが、基本的にはお任せという形になった。なので、おそらく私がデザインしていたら絶対起こらなかっただろうことが一つ起きている。それは祖父の屏風をご存知の方ならすでにお気づきかもしれないが、屏風の折れ目が消えているのである。当初ゲラ刷確認のときには私はその屏風の折れ目位置についてばかり注文を加えていたのだが、最終確認段階でそれが消えてしまって、注文の必要がなくなってしまった。まあ、祖父の画は必ずしも屏風の折れ目というフレームを意識した構成になっているわけではないので、それほど重要ではないのかもしれないが、この辺が自主企画ではない展覧会なんだな〜という実感を強くしていた。
ただ、結果的には目が馴れてしまったというところもあるけれど、担当の学芸員さんが考えられた「いまあざやかに」という副題のひらがな赤字ともマッチして、その言葉との相乗サブリミナル効果を持ちそうなものに仕上がったなと大変満足している。
展覧会の詳しい情報等は丸井金猊公式サイト の方でご覧いただきたいが、ときどきこちらのブログでもちょっと余談的なエントリーというのはまたするかもしれない。
[左] B2ポスター/チラシ [右] チラシ裏面
【会 期】2008(平成20)年4月26日(土)〜6月1日(日)
【時 間】午前9時30分〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
【休館日】4月28日(月)・30日(火)、5月7日(水)・12日(月)・19日(月)・26日(月)
【会 場】一宮市博物館 〒491-0922 愛知県一宮市大和町妙興寺2390(Google Map )
【最寄り駅】名古屋より名鉄名古屋本線岐阜行きにて妙興寺駅下車南口より徒歩7分
東海道本線・尾張一宮駅からタクシーで行く方法もあります
【お問い合わせ先】0586-46-3215(一宮市博物館)
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2008年04月15日 (火)
2005年「家づくりは、はじめてですか? 」のエントリーで、業界唯一完全独立系建築プロデューサーの朝妻義征 氏が出された同タイトルの自費出版著書を紹介したが、その後に氏は改訂版を出されたあと(その改訂版では上記エントリーでツッコミ入れてた背表紙タイトルも追加された)、さらにバージョンアップさせた本格書籍を幻冬舎ルネッサンスから発行された。
タイトルも新生『 家づくり物語』へと変わっている。ちなみに梅田ジュンク堂で書籍検索すると、なぜか「文芸」のカテゴリで出てくる。物語ってタイトルだからなのか、それとも幻冬舎だからなのか、書店の検索機も複数カテゴリ指定の機能は搭載していてもらいたいものである。
レビュー(感想文 )は、我が家づくり仲間の仲間内では、
・ちはろぐ: 『家づくり物語』
・家づくり行ったり来たり: 「家づくり物語」──友人が書いた本をオススメする
・あさみ新聞: 家づくりのススメ
と強力なエントリーが続き、正直それに続くには尻込みしてしまうというのが本音だ。
そのくらい上記エントリーは強力(なぜかここで最初「協力」と変換されてしまったのだが、ある意味で「協力」的でもある)なので、同書籍をお持ちの方、心惹かれてる方はそれを読まれるより先に『家づくり物語』を読まれた方がいいかもしれない。そして読後にそれらエントリーを読むと、『家づくり物語』が如何にスゴイ本だったかを改めて実感されることだろう(て、読んでる途中で気づく人は気づいちゃうだろうけど)。
さて、朝妻さんが心待ちにされてるような感想文だけど、スンマセン。2005年のエントリーで内容面についてはそれなりに書いてしまっているので、今回は少々斜めからの切り口で捉えさせてもらいます(ある意味直接的な内容には触れない)。
それで今回『家づくり物語』を読みながら、というよりも読む前から朝妻さんがブログなどで漏らされてた言葉 を聞きながら思ったのは、この本において朝妻さんははじめて(?)施主(クライアント)という立場に立たれて、本づくりと向き合うことになったんだろうなということである。これまでの自費出版は云わば「DIY」で作られていたようなもので、特に改訂前の版では誤字脱字なども結構あって(笑)、でも、おそらくは自分の作りたいように自分の中から湧き出る言葉を紡ぎ出して来られたのだと思う。
ところが、今回は編集者(建築家?)が間に入り、装丁・イラスト(左官?)と色々な人たちとの共同作業のなかで、本づくりのリーダーとして、ときには迷子になったり、もしかすると本づくりの妖精とどこかで出会って、その共同作業ゆえに編み出された一つの形となったものがこの『家づくり物語』なのだろうなと思った。なので、朝妻さん本人と直接お会いしたことのある者としては、ここは自分が知ってるはずの朝妻さんぽくないなと思うところがないわけではない。しかし、私にとって家づくりが面白かったのはそういう「100%純然たる自分」ではないところが、建築家や工務店、家族とのやりとりのなかで紛れ込んでくることであった。そして、もう一つ面白いのがそうして紛れ込んできた新たなる要素が気づかぬうちに、それもまた「自分」の一部であるかのように感じられるようになっているということである。
実は私自身、ふだんはクリエイターの側の立場にあるので、実家の家づくり自体がはじめての施主(クライアント)体験だったと言っていい。しかし、その経験は言うまでもなくその後の本業活動において大きな糧となっている。おそらくは建築プロデューサー朝妻さんにとっても、本づくりというクライアント体験は本業の実績を踏むこととは別の意味で大きな糧となったに違いない(家づくりの迷子にとっては、より一層朝妻さんが身近で親しみの持てる妖精となっていることだろう)。
書籍配本直前、朝妻さんは某所で「孫の誕生を待つおじいちゃんのような心境かも? うん?なぜ子供じゃなくて孫なんだろう? 」と語られていた。その心理は自費(DIY)ではなく、より多くの仲間(家族)に囲まれて迎える産声だったからではないだろうか。よく孫の誕生は我が子よりも嬉しいなんて話聞くし。。
以上、本エントリーでは著作本編の具体的な部分には一切触れずに書いてしまったが、ブログ迷走中 の身にとって『家づくり物語』は家づくりの過程を想起するネタ満載なので、祖父の展示が終わって落ち着いたら、本文中の唐突な一行をきっかけに妄想を繰り広げるようなエントリーを小出しにできたらと思っている。
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2008年04月08日 (火)
本当は先月中に告知すべきだったし、もっと言うと、とうの昔に作っておかなければならなかったものなのだが、ようやく我が祖父・丸井金猊の公式サイト を再始動させた。それはここ最近連続している祖父関連のエントリーでも記した通り、4月末から愛知県の一宮市博物館で特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」が始まるため、それに合わせてというのが大きいのだが、作り始めたきっかけは「Mobable Type 4.1 でβ版サイト構築 」でも書いているように MT4.1 の様子見で空きスペースとなっていた kingei.org を使って色々試していたら、汎用テンプレートセットをそのまま使うんでも何とかなりそうということで、そのままβ版でリリースしちゃおうという運びになったのである。
この流れは実は谷中M類栖の始動時と一緒で、その経緯は「blog 開始 」に記してある。当初は妻の日記サイトを用意するつもりで MT をいじっていたら、これは家づくり記録にもってこいだということで、これまたデフォルトテンプレートにちょこっと味付けを加えた程度でスタートさせたのだ。その10ヶ月後 にはデザインを独自仕様に変えているので、今回も同様のことがあるかもしれないが、とりあえず当面はこの仕様で、中身を徐々に増殖させていきたい。
尚、トラックバックやコメントがあることからもわかるように、公式サイトといってもベースは完全にブログでできている。作品一点一点に対するコメント&TBも歓迎だ。サイト構築する上で特に心がけたのはあらゆる角度から作品との遭遇確率を高めるということで、デザインはデフォルトながら、その仕掛けには多様なプラグインを多数組み込んである。リスト一覧 で見るもよし、画像一覧 で見るもよし、とにかく「おっ!と思える作品に最小クリック数でアクセスしてもらえることができたなら幸いである。また、こちらのブログではこだわり続けた「作品」と呼ばずに「リソース」と呼ぶこと。このこだわりも一旦解除して「Artworks - 作品 - 」というカテゴリー名にしてしまっている。これも見る人が直線的に作品に触れられることを第一とし、それ以上の余計なノイズを与えたくなかったからである。
現在、トップページは一宮市博物館特別展対応の情報がメインとなっているが、ここでは当初に作成したトップページのイメージを貼り付けておくことにする。
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2008年04月02日 (水)
広報一宮に続き、一宮市博物館 の公式サイトでも「催し物のお知らせ>展覧会 」のページで、特別展「丸井金猊展」の情報が掲載された。館内マップ をご覧いただくとわかると思うが、今回の展示はギャラリー、ラウンジ、展示室と展示空間が分散され、回廊する感覚で観ることになる。これまで一室空間ばかりでの展示だったので、どのような展示になるのか待ち遠しい限りである。
*
特別展「丸井金猊展」
■開催日時:4月26日(土)~6月1日(日)
丸井金猊(きんげい)(1909-1979)は一宮市北方町出身の日本画家です。昭和初期に和洋入り混じった画風で活躍しました。主な作品は、阪急電鉄創業者の小林一三委嘱による東宝劇場階段ホール壁画(火災により焼失)があります。一宮出身の知られざる画家の魅力あふれる表現の数々を展観します。
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2008年04月01日 (火)
4月になったら・・と仄めかしていた「アクセス検索ワード2008.02 」のエントリー。
とりあえずエイプリルフール時点で公開されている情報のみここで紹介しておこう。
その情報は祖父の故郷、愛知県の一宮市の広報紙「広報一宮2008年4月号 」に掲載されている。30〜39ページ「情報ボックス 」のPDF版をダウンロードし、37ページをご覧になられたい。と言わずとも本掲載画像を見れば一目瞭然だろうが、この度、一宮市博物館 企画による特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」が開催されることになった。
チラシが届き次第、改めて告知する予定だが、ひとまず表に出た情報をベースに小出しに伝えていく予定(その方がエントリー数稼げて、SEO対策にもなる)。
*
博物館特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」
丸井金猊(きんげい・1909〜1979)は、北方町に生まれた日本画家です。東京美術学校で学び、和洋が入り混じった独特の画風を生みだしました。
戦前に愛国生命保険(のち日本生命保険)壁画製作、東宝劇場階段ホール壁画製作(火災により焼失)など華々しい活躍をしました。戦後はほとんど創作に向かうことなく教育者として後進の育成指導にあたりました。
独特の美意識のもとで生み出された作品50点を地元で初めて展示します。魅力ある表現の数々をご覧ください。
▼日時/4月26日(土)〜6月1日(日) 午前9時30分〜午後5時(入館は4時30分まで)
▼会場/博物館
▼料金/大人500円、高・大学生300円、小中学生200円
▼休館/期間中の4月28日(月)・30日(火)、5月7日(水)・12日(月)・19日(月)・26日(月)
▼電話/0586-46-3215(一宮市博物館)
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2008年03月31日 (月)
1962年1月, 奈良県生駒郡斑鳩町
まだトップ10までは入らないが、先月の19位に続き、祖父の名前「丸井金猊」が12位まであがってきた。来月にはいよいよトップ10ランクインしてくれるだろうか。
軍艦アパート 8.8% 上棟式 3.7% 谷中 1.8% グヤーシュ 1.7% 無印の家 1.6% 高過庵 1.4% 山門不幸 1.3% 遊郭 1.2% 臭突 1.1% 藤森照信 1.0%
先月(2008年2月)の解析結果はこちら から。
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2008年03月24日 (月)
豊田さんから「まちの木霊プロジェクト2008」のDMが届いた。当初、今年は自分も参加予定だったのだが、結局年度末のドタバタで見送らざるを得なくなってしまった。来年もこの時期だとすると、なかなか参加は難しいかな〜。それと搬入・搬出で二度上京しなければならないのも経済的にしんどいと言えばしんどい。
ま、18きっぷの時期なので、時間があれば片道2,300円で済むのだが。。
それと今回「金猊リソース消ゆ? 」で匂わしたように、現在、谷中M類栖/1f から金猊リソースが出払った状態なので、本当言うとうちも会場提供できたとも言える。こんな時期そうそうないので、勿体なかったかな。
第5回 まちの木霊 プロジェクト 2007
私達の傍らに活きる自然の不思議・驚き笑いを作品にする展示会
【会期】2008年3月25日(火)〜3月30日(日)
【時間】通常日 12:00〜19:00 最終日12:00〜17:00
【会場】ギャラリーSD602 KINGYO 文京区千駄木2-49-10 Tel. 050-7573-7890
English Tea House Pokoe 台東区池之端4-22-8
【主催】谷中学校 坪庭開拓団
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2008年03月12日 (水)
2008年3月12日(水) 09:19, 東京都台東区谷中(谷中M類栖/1f ), Nikon D300/18mm
春の珍事か? 谷中に越してきてからずっと1階に鎮座していた金猊リソースの屏風や軸、額が一斉に梱包され、外に運び出されている。さて行き先や何処に?
2008年3月12日(水) 15:12, 東京都台東区谷中(谷中M類栖/車寄せ), Nikon D300/18mm
それにしても検分+梱包+搬出作業に朝9時から始まって16時くらいまで掛かった。
関係者の皆さん、御苦労様でした。
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2008年02月29日 (金)
1975年4月, 東京都三鷹市, 三鷹金猊居前にて
「いろはに木工所 」のランクイン以外は特に目新しい変化のない今月。ブログ再開したものの、大したエントリーを書く間もなく終わってしまったのだから当然といえば当然だが、ただ、それとは全く関係なく、これまでアクセス解析画面をスクロールしないと出てこなかった祖父の名前が19位まで浮上してきたのが何とも喜ばしい。
これは現在水面下で動いている企画を知る人がアクセスしてくれているのだろう。感謝したい。その水面下の企画は諸般の事情により4月に入るまで告知できないが、4月に入ったらすぐこのブログ上でも告知する予定である。4月1日にというのも何やけど。
軍艦アパート 10.8% 上棟式 2.8% 谷中 2.0% グヤーシュ 1.6% いろはに木工所 1.5% 遊郭 1.4% 高過庵 1.2% 山門不幸 1.1% 臭突 1.1% 無印の家 1.0%
先月(2008年1月)の解析結果はこちら から。
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2008年02月13日 (水)
2006.11.26 16:48, 韓国ソウル市中区(南大門), Nikon D50/18mm
ソウルの南大門の名で知られる崇礼門(崇禮門 )が放火されるとは!(朝鮮日報魚拓 )
2006年秋に門をくぐってきてるだけに、あれま〜の感は強い。まあ、確かに警備は門番いたっけな〜というくらいに手ぬるい感じではあった。写真右下に SECOM のマークが見えてるが、監視カメラなども「無用の長物 」で終わっていたということらしい。ただ、個人的にはこうした事件を機に世間が監視強化を是とする方向に傾き、それに国が便乗するのはあまり好ましいことだとは思わない。形は違うが、姉歯事件により建築基準法が改正されるという対症療法的な法整備を想起してしまう。
朝鮮日報では、すでに「再建に使う木材は? 」という記事も書かれ、補修工事の予算は2〜3年掛かりで約23億円と見込まれているようだ。文化財庁は「日本統治時代に改造された崇礼門の左右の城壁も原型通り復元する計画を打ち出している」らしいが、できることなら今回の火災まで含めた歴史的経緯の見える再建計画を立ててもらいたいもんである(国宝指定の問題 で右往左往なんぞしてないで、ある意味 Wikipedia 的にね)。
ちなみに2006年時点の門前の説明書きには以下のようにしか記されてなかった。
ソウル崇礼門 (スンネムン) この門は、ソウル城郭の正門である。また、城郭の南側にあるため、南大門とも呼ばれている。朝鮮第1代王、太祖7年(1398) に創建され、第4代王、世宗30年(1448) に大々的に改築された。
上下階が、正面5間、側面2間のこの門は、典型的な多包様式の建物で、しっかりとした木造建築物の技術がここに見られる。また、現存する城門としては、韓国最大の規模を誇っている。門に掛かっている扁額の字に関してはいくつかの説があるが、《芝峰類説》には、第3代王、太宗の長男、譲寧大君が書いたと記録されている。
門をくぐり、天井を見上げると龍の天井画があったんだが、そのことは Wikipedia には触れられていない模様。
flickr に写真をアップしたら、タグ 伝いにメディアでは流れていない火災現場の様子 なども見ることができる。言ってしまえば、それもまた記念撮影の場と化しているといっても過言ではないのだが、それに対してとやかく言える立場では自分はないようだ。
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2008年02月04日 (月)
2003.12.02 11:30, 東京都台東区谷中(谷中M類栖敷地), MINOLTA DiMAGE G400
2月2日、所用により近鉄電車を利用して名古屋まで行った。その道中、二度ほど地鎮祭の風景が目に入ってきたのだが、それを見て改めて地鎮祭っていいもんだなと思った。
理由は別に土地の神(霊)を鎮める神道思想に則りというほど、自分は信心深い人間ではない。ただ単にその空間がまだ「風景」であることを担保しながらも「建築」となることを天に向かって示しているような、それでいて慎ましくも空虚な感じであること。
昨日たまたま読んでいた福岡伸一著『生物と無生物のあいだ 』で出てきた言葉を借りるなら「界面」と言っていいのかもしれない。それは空間上ではなく、時間軸上の話ではあるが、しかし、新幹線ほど速すぎない近鉄特急の車窓からはっきりと目で捕らえることのできた地鎮祭の風景は、地平上の「界面」であるとも言いたくなるものであった。
2003年12月2日、我が家も先勝の日に地鎮祭を行った。改めて「地鎮祭 」エントリーを掘り返してみると、近鉄の車窓から見えた地鎮祭風景に較べ、我が家の注連縄 (しめなわ)で四方に囲われた領域(祭場)の小ささにはびっくりする。当時はナンチャッテ地鎮祭のつもりだったので全く気にも留めなかったが、こんなにもかわいい感じだったとは! 写真で見る限り、四方約1.5mくらいしかない感じである。そこで気になって調べてみると「地鎮祭の調度品 」「地鎮祭などの祭事コラム 」などによれば、敷地中央付近に2m間隔でとのことだが、Google イメージ検索 で見ると、大小様々のようにも見える。もちろん敷地の大きさにも拠るだろうが、地域差なんてのもあるのだろうか。
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2008年02月02日 (土)
2008.02.01 17:31, 大阪市西区九条(シネ・ヌーヴォ ), Nikon D50/24mm
前エントリーで「家づくり」に立ち返って‥‥と方針転換を示唆しておきながら、いきなり何だが、学生時代からの友人がユニット監督・撮影を担当した(総監督は別)映画『 東京ソーダ水』が東京・大阪でロードショー中なので紹介しておく。
東京ソーダ水
めくるめく東京。変わりゆく8人の女の日常(ライフ)ドキュメンタリー。
東京:渋谷 アップリンクX 2月15日(金)まで
大阪:九条 シネ・ヌーヴォ 2月7日(木)まで
前売り価格で鑑賞できる当日精算券予約はこちら
まだ放映中なので内容に踏み込むのは控えるが、個人的に新鮮だったことを一つ。
途中スクリーンを4分割するシーン(つまり4人分の女の日常)が何度か出てくる。当然最初それは違和感をもって迎えることになるのだが、そんな違和感を抱きながらもそれら4つのシーンが観れてしまっている(ら抜きだが、何か「観れて」と言いたい)。それがこの映画の目方なんだろうなと観ている途中から思っていた。
とっころで、この8人の女の中にうちの妹が入ってるってのを観てみたかったな。
‥‥とここで無理矢理「家」絡みの話を挿入。「変わりゆく東京」という以前の谷中M類栖なら取り上げそうなネタもあったのだが、仮に方針転換を図ってなかったとしてもあまりここで取り上げようという気にはなれない。ただのフリのようにも思えた。
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2008年02月01日 (金)
2008.01.07 16:54, 大阪市北区天満(桜ノ宮橋), Nikon D50/35mm
「blog 開始 」のエントリーから4年が経つ。ここ半年くらい更新をサボッていたので余計にそうなのかもしれないが、その間に自身のブログというメディアの受け止め方は随分変わったし、また日常的に見ているブログの傾向もすっかり変わってしまった。
「家づくり」という高揚感は、当時の自分を、その志向から周辺環境(交友関係)まで大きく変えたが、年月とともにそれが冷めてきたとき、どこか家づくりを始める前の自分に舞い戻っているような気がしなくもない。そんな折、20代の自分という存在に大いなる影響を与えてくれた友人が死んだ。その出来事は自分にとっては不思議と出来事感を一切感じることなく自然と受け止めることが出来たが、それが回り回ってきたなりの30代の経験の垢ということなのか? そこはまだよくわからない。
Custom Field 標準搭載の Movable Type 4.1 がリリースされたが、この谷中M類栖でそこまでの機能拡張は不要なので、ver3 台の最終形である MT3.35 に MT3.21 からスモールバージョンアップして、リスタートを切ることにした。ただし、このバージョンアップにおいても、タグの標準搭載という結構な変化があり、それまで Tagwire のプラグインで無理矢理宛がっていたタグは一旦捨てて、面倒ではあるものの、徐々に再入力していこうかと考えている。何せ、前タグリスト はあまりにぐちゃぐちゃだから。
それともう一点。過去エントリーにタグを再入力する過程で、当時のことを振り返るエントリーをしても良いかな〜と思っている。どうもネタ切れから、家づくりとは近しいようで、実は反対の方向を向いていた「まち・建物探訪 」のカテゴリーを安易に作ってしまったところからこのブログに対する意欲は落ち始めており、もう一度立て直すには「家づくり」とがっぷり四つだった頃の過去エントリーを見つめ直すところから着手した方が賢明と踏んだ。その流れで、過去エントリーよりもさらに過去の経緯についても触れられたら、それは当初このブログで目論んでいたことと一致する。
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2008年01月31日 (木)
2005.10.24 16:14, 徳島県徳島市(徳島港), MINOLTA DiMAGE G400
「無印の家 」がランクイン。それにしても最近は近所の100円ショップがどこも充実してしまっているので、無印良品行く機会ってまるでない。まあ、谷中から東京港→徳島→和歌山とフェリーで経由し、和歌山からは漕いで帰った無印の電動アシスト自転車 のお世話には日々なっているのであるが‥‥。
軍艦アパート 9.2% 上棟式 2.2% 遊郭 1.7% グヤーシュ 1.5% 谷中 1.4% 無印の家 1.3% 写真 1.2% 臭突 1.1% 山門不幸 0.9% 板塀 0.8%
先月(2007年12月)の解析結果はこちら から。
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2007年12月31日 (月)
2007.12.19 15:30, 大阪市北区天満(桜ノ宮橋), Nikon D50/38mm
「軍艦アパート 」の8.5%はこれまでの最高数値ではないだろうか。エントリー増がないため、いよいよ検索結果が純化されて来ているということか。「結婚できない男 」のひさびさランクインは阿部ちゃんへのご祝儀検索ということかもしれない(笑)
検索ランキングとは関係ないが、以前にエントリーした新桜ノ宮橋が開通し、その横に並ぶ元桜ノ宮橋(愛称・銀橋)が解体または修復工事中で、橋のど真ん中を歩けるようになっている。年の瀬。ゆく鳶くる年。2007年末はちょい運が悪かった。
軍艦アパート 8.5% 上棟式 3.5% 谷中 1.6% グヤーシュ 1.5% 遊郭 1.3% 写真 1.1% 高過庵 1.0% 臭突 0.9% 結婚できない男 0.9% 板塀 0.8%
先月(2007年11月)の解析結果はこちら から。
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2007年11月30日 (金)
2007.10.07 14:55, 広島県庄原市総領町(妻実家), Nikon D50/50mm
ここ半年、なかなか安定した感じで「臭突 」が常時ランクインしている。と言っても、谷中の実家に臭突はあるまでもなく、私がふだん臭突のお世話になるのは専ら総領町の妻の実家においてである。10月に帰省したときには、彼岸花と一緒に屹立していた。
軍艦アパート 6.8% 上棟式 2.7% 谷中 2.0% 高過庵 1.7% グヤーシュ 1.7% 臭突 1.4% 遊郭 1.3% 写真 1.1% 地鎮祭 0.9% 板塀 0.8%
先月(2007年10月)の解析結果はこちら から。
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2007年10月31日 (水)
2007.10.14 18:41, 東京都台東区谷中(谷中M類栖/1f より), Nikon D50/50mm
谷中芸工展 開催月だが、今年は最終3日間のみ参加はしたものの、DMでもネットでも無告知での参加であったため、それをそのまま反映してというべきか、「谷中芸工展 」検索ワードでのアクセスは46位で0.2%しかなかった。それにしても「軍艦アパート 」がどこまでも高い検索率を誇っていることにびっくりする。
軍艦アパート 6.6% 上棟式 2.7% グヤーシュ 1.8% 谷中 1.7% 高過庵 1.1% 遊郭 0.9% 写真 0.7% 臭突 0.6% 板塀 0.6% 山門不幸 0.6%
先月(2007年9月)の解析結果はこちら から。
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2007年09月30日 (日)
2006.08.23 15:45, 大阪市北区(自宅), Nikon D50/50mm
利用しているアクセス解析が直近4ヶ月分のログしか残さないもので、迂闊にも8月分のログを取りこぼしてしまった。しかし、9月もまだ夏の終わりというべきか(これを書いてるのは12月なのだが)、アカアシクワガタ がランクイン。
軍艦アパート 5.8% 上棟式 4.6% 谷中 1.5% グヤーシュ 1.4% 高過庵 1.1% アカアシクワガタ 0.9% 遊郭 0.8% 臭突 0.8% 針江 0.7% 川端 0.6%
先々月(2007年7月)の解析結果はこちら から。
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2007年07月31日 (火)
2006.07.15 09:51, 滋賀県近江八幡市(水郷巡り ), Nikon D50/18mm
今月も季節モノとして「天神祭」「花火」が上位ランクした。
ただ、そんな観光ネタ話題にしたことあったか?とサイト内検索してみると「近江八幡の葦と天神祭 」が出てきて、なるほどそっから来てたんか〜と滋賀県好きなだけに頬もゆるむ。さらに同じ滋賀圏内の湖北にある高島市新旭町の「針江 」も度々顔を覗かせてくれるのは、もっと頬がゆるむ。
軍艦アパート 5.2% 高過庵 2.6% 天神祭 2.3% 花火 2.0% 上棟式 1.8% 谷中 1.4% 針江 1.2% グヤーシュ 1.1% 川端 1.1% 遊郭 1.0%
先月(2007年6月)の解析結果はこちら から。
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2007年06月30日 (土)
2007.11.10 08:56, 長野県諏訪市(源泉の宿 緑水 より), Nikon D50/95mm
季節モノとしてか、「蛍・辰野 」が入ってきた。
すでに2年前の、母と土地処遇問題で諏訪に行ったときのオプション的話だが、何とも懐かしい。諏訪の宅地 の方は特に話は進んでないが、いずれはセルフビルドを!と考えていて、このブログをその妄想の場にできればと考えている。
しかし、グヤーシュ は全く季節モノではないはずだが、なぜまだ入ってるんだ?(汗)
軍艦アパート 4.2% 高過庵 2.1% 谷中 1.9% 上棟式 1.7% グヤーシュ 1.4% 遊郭 1.3% 蛍 1.2% 臭突 1.1% 川端 1.0% 辰野 0.9%
先月(2007年5月)の解析結果はこちら から。
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2007年05月31日 (木)
2007.04.13 13:48, 東京都港区三田(蟻鱒鳶ル), Ricoh GR Digital
「結婚できない男 」が再浮上。DVD でも出たのかな?(笑)
そして着目すべきは丹下健三と並んで岡さんの名前がノミネートされたこと。
そういえば先月久々に蟻鱒鳶ル 見に行って撮った写真がそのままになっているので、ここで数枚アップしておこう(写真クリックすると違う写真を表示)。
軍艦アパート 5.0% 高過庵 2.6% 谷中 2.4% 遊郭 1.8% 上棟式 1.5% グヤーシュ 1.3% 結婚できない男 1.2% 臭突 1.2% 丹下健三 1.1% 岡啓輔 0.9%
先月(2007年4月)の解析結果はこちら から。
2007.04.13 14:11, 東京都港区三田(蟻鱒鳶ル), Ricoh GR Digital
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2007年04月30日 (月)
2007.04.06 13:42, 大阪市都島区(桜ノ宮), Ricoh GR Digital
丹下健三の復活以外、特に大きな変化はなし。建物・地名情報が多いのは検索する絶対数が多いということもあるんだろうが、最近もう少しちゃんと住宅ブログらしい用語が検索されるブログでありたいと反省気味である。
と言いながら、今後アクセス解析のエントリーでオマケ掲載する写真は、本文内容に囚われず、その月に撮った写真などを適当にピックアップしていく予定。そうしておかないと毎月軍艦アパートの写真ってことになってしまう(汗)
無論関連した写真をアップする月もあるだろうけど。。
軍艦アパート 4.4% 谷中 2.4% 高過庵 2.3% 上棟式 1.9% ファーブル昆虫館 1.5% 遊郭 1.4% グヤーシュ 1.3% 臭突 1.2% 針江 1.0% 丹下健三 0.9%
先月(2007年3月)の解析結果はこちら から。
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2007年03月31日 (土)
おそらく今頃更地と化したであろう軍艦アパート が先月に続き、高いアクセス数を堅持しているので、今月も軍艦アパートからの写真をピックアップしておこう。他、川端で知られる滋賀県は新旭町の針江区 と千駄木のファーブル昆虫館 がどちらもエントリーからはだいぶ経つのにランクインしてきた。
軍艦アパート 3.1% 谷中 2.3% 遊郭 1.8% グヤーシュ 1.5% 高過庵 1.4% 針江 1.3% 臭突 1.2% フッコー 1.1% ファーブル昆虫館 1.0% 上棟式 0.9%
2007年2月の解析結果はこちら から。
【写真左】2006.02.27 16:02, 大阪市浪速区下寺町・軍艦アパート北棟東側にて
【写真右】2006.02.27 16:31, 大阪市浪速区下寺町・軍艦アパート北棟西側にて
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2007年03月29日 (木)
インフルエンザ(A・B両方併発のレアケース)を患い、すっかり乗り遅れてしまったが、最近住宅関連のエントリーが欠乏しているので、栄養補給も兼ねて住宅建築占い !
m-louisさんは 契約書 です! ●契約書さんは、センスが良く、とても洗練された人。品のあるもの、優雅なものを好むタイプで、あくせくした暮らしは好きではないでしょう。それにふさわしいだけの心の余裕や、品位を持っている人なのです。経済的な生活レベルは普通でも、美的感覚に優れているので、日々の生活に自然と美しいものを取り入れていけるはず。庭の花を一輪飾るにしても、あなたが飾ると、その場が急におしゃれな空間になるのです。そういった才能に早くから気づいた人は、インテリアやファッション関係、デザイン関係の道に進むかもしれません。恋愛面は、どちらかと言うと受け身でしょう。特に意識することはありませんが、相手に合わせた恋愛をしていきそうです。
●m-louisさんの開運一人称は、「わて」です!
とりあえずこの占い、血液型不明の項目があったおかげでやってみることができたのだが、もしそれがなければ、照明器具か設計図のどちらかという結果になっていた。というか、申告上は血液型不明の私も両親の子供であればA型かO型かのどちらかになるので、本当は照明器具 か設計図 のどちらかなのである。でも、ここでは契約書 として振る舞おうとしてるのだから、何ともおかしな話だ。
そして、そのそもそも本当ではない結果内容が私 と一致しているかは最早問題にもならないような気がするが、それ以前に気になるのがその本文内容が何で契約書 とイコールで結ばれるのか?ということである。事務関係の道でも進めるべきだと思うが?
それとも〆切来ないと腰を上げぬデザイナーは契約書 で縛っておけということか?(^^;)
ちなみに家づくり仲間の結果はこちら!
・照明器具 の garaikaさん: 住宅建築占い――「照明器具さん」でよかったか
・土台 のノアノアさん: 「住宅建築占い」
・柱 の finziさん: 住宅建築占い
・フローリング のちはるさん: 「住宅建築占い」、おいどんは・・・・
【写真】2007.03.19 08:30, 谷中M類栖/rf/タラップにて
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2007年03月26日 (月)
今年は豊田さんからのDMが届く前に、N的画譚「飛び入り参加の展示のお知らせ 」で知ることになった「まちの木霊プロジェクト2007 」。neonさんも参加ということで是非とも行きたいところではあるのだが、またまたバッドタイミングで行けそうにない。
というわけで、告知だけでものエントリー。
gallery J2 が閉廊してしまったので、今年はどこでやるのかな?と思っていたら、ギャラリー Kingyo と English Tea House Pokoe の2つの会場を活用するということらしい。今後も複数の会場を使うということなら、谷中M類栖/1f も場の提供に吝かではないが、ただ、結局人員確保の面で難しいのかもしれないな〜。会場増えちゃうと逆に。
ともあれ、いつか谷中M類栖/1f で「豊田館」(車販売じゃないですよ)みたいなことを是非ともやってもらいたいものである。
まちの木霊 プロジェクト 2007
私達の傍らに活きる自然の不思議・驚き・笑いを作品にする展示会
【会期】2007年4月3日(火)〜4月8日(日)
【時間】通常日 12:00〜19:00 最終日12:00〜17:00
【会場】ギャラリーSD602 KINGYO 文京区千駄木2-49-10 Tel. 050-7573-7890
English Tea House Pokoe 台東区池之端4-22-8
【主催】谷中学校 坪庭開拓団
【追記】
その後に豊田さんから届いたメールで、来年私も参加しないかというお誘いがあった。自分が参加するということはなぜか全く考えてもみなかったが、年4、5回は谷中にも帰っているので、意識的に「まちの木霊」を拾うようにしていれば何かできるかもしれない。というか、個人的には植物系統の好きな母に何かやらせたい気もする。
あと、界隈を彷徨いてるご近所ブロガー仲間を誘って、第三会場「谷中M類栖/1f」をわかすというのもまたひとつのアイデアかもしれない。
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2007年03月18日 (日)
文京ふるさと歴史館 企画展「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形デザイン 」に最終日ギリギリで行ってきた。関連企画の江戸東京フォーラム と合わせて行ったため、実質的に展示物を観賞できたのは正味30分。曙ハウスの展示だけはしっかり観てきたものの、他の展示は流し見する程度で、幾つかあった映像展示も5秒と観られず。やはり根津教会での連携展示 が行われていた時期に行っておくべきだったと後悔は大きい。
企画展では、曙ハウスの展示だけが1階にあって、エントランス入ってすぐの券売所の手前で観られるようになっていた。つまり、そんな人が居たのかどうかは知らないが、曙ハウスの展示だけ観て帰るのなら、入場券要らず(100円だけど)とも言えるのだ。観覧料取らずに観られてるあたりが、如何にも曙ハウスらしくて笑けてしまった。
久々の「スウハ曙」プレートとの対面は、それを見る視座と距離感が違うので、一概に「久々」とも言い難い妙な感覚。話には聞いていたものの、とにかくデカい! よくぞこんな大きなものを解体現場から救い出し、ふるさと歴史館の収蔵 にまで漕ぎ着けられたものだと、改めて masaさんを始めとする関係者の方々には頭の下がる思いがした。
斜めに設置されたプレートの側に顔を寄せると、取り外されて1年というのに、未だに焼け焦げたような匂いがする。その匂いに何よりも胸を打たれた。建物(身体)は解体され、プレート自体(顔?)も屍として展示空間に収められているはずなのに、傍らのプレートは超然と生々しく呼吸し続けているかのようだった。畏るべし「スウハ曙」。
間取り図 に関しては、neonさんが仕上げられて本当に良かったと思った。もしそれが私が書いたものでなくとも CAD図面をプリントしたもので展示されていたならば、曙ハウスの遺品や masaさんの写真、neonさんの画によってもたらされる「古色を感じさせる、でも温かみのある雰囲気」(by neonさん)は台無しになっていたことだろう。
加えて地階では設計当時の古い手書き図面を展示しているところが多く(板図の展示もあった)、それに肩を並べられるという意味でも、neonさんの描かれる味わい深い線と文字は唯一&不可欠なものであった。微力ながら、その下図作成 段階で私も協力できたことは大いに光栄である。また、この魅力あふれる企画を立案され、こうした機会を与えてくださった文京ふるさと歴史館の学芸員さんにも深く感謝したい。
【写真】2006.01.22 13:26, 文京区根津・在りし日の「スウハ曙」プレート
【お詫び】「曙ハウス・リターンズ 」のコメントで、私は他のブログに会場内の写真が出ていたことから「会場内撮影可なようで 」と書いてしまったが、会場内にはしっかり「撮影禁止」の表示があり、迂闊にも誤った情報を流してしまっていたようである。一応前コメント上でも訂正追記しているが、この場を借りて深くお詫び申し上げたい。
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2007年03月07日 (水)
文京ふるさと歴史館 で現在展示中の neonさんの描かれた曙ハウスの間取り図については、N的画譚「曙ハウス 間取り図を描く 」にその制作経緯が詳しくまとめられているが、拙ブログではその制作前段階の下図作成がどのような手順で行われたか(ある意味どういう情報を書き落とし書き損ねてるかに重点を置いて)触れておくことにしたい。
まず差し当たって行ったのが、曙ハウス跡地の実測である。ところが、ここでいきなり思いも寄らぬ数字に直面する。約13×13m。てっきり長屋風と思っていた曙ハウスの敷地が、実はほとんど正方形の形状をしていたのである。奥行きが意外にあるということも更地になったことで知ったことだが、まさか正面の幅と同じだけの奥行きがあるとは思わなかった。現在のコインパーキングになっている跡地は、敷地の奥が冒頭の写真のように3mほど仮囲いされて奥行きを奪われた状態にあり、それがまた敷地が平たいという印象を与えてもいたのだろう。
しかしながら、この敷地が正方形であるという前提は案外私を苦しめた。というのも、私の脳裏には私が今回この下図(以後「下図M」と表記)を書く前にすでに neonさんの書かれていた手書き図面(「曙ハウス†スウハ曙 」収録・以後「原図N」と表記)があって、その横広がりの長方形に収められた間取り感覚(間隔)は至って妥当な感じであり、なかなかその先入観から抜け出すことができなかったからである。というのも、正方形の敷地をベースに間取りを決めていくと、1階手前の各室が「原図N」からは想像し難いほどに細長くなってしまうのだ。
最終的にはハウス内部を見られている masaさんの「手前側の各部屋は鰻の寝床級に細長かった」という言葉によって、どうにかその正方形の敷地に合わせた図面を書き上げることができたが、少なくともお借りした写真を見ているだけではそれを細長い部屋のイメージに結びつけることはできなかっただろう。これは現在展示中の neonさんの間取り図を見ていただくしかないが、ハウス1階手前側の各室の細長い部屋割りはそのような迷いの末に構成されている。
それとこれはだいぶ後になって masaさんから出てきた話なので、展示中の間取り図にも反映されていないかもしれないが、図面上1階右端手前の細長い部屋(すぐ上の写真の緑トタンの部屋)は、部屋を前後に分断する仕切りがあったようだ。今にして思えば、なぜハウスの路地側手前(路地側から見たら左端)のところに外に出入りできるドアがあったのかも、その証言によって理解可能である(むしろそれは細長い部屋割りだったからこそ、その仕切りが可能になったともいえる)。そして、そうすると部屋数は一時1・2階各7部屋の14部屋ということで決着が付いていたが、この事実を踏まえると1階8部屋、2階7部屋の計15部屋だったということになるのだろう。
「原図N」では neonさんが記憶される限りの窓位置が記されていたが、「下図M」ではその表記はしないことにした。というのも、さすがに masaさんも全室の写真を撮られたわけではなく(モノが散乱して入れない部屋もあったようだ)、つまり masaさんの写真から判断付く限りでしか、窓位置の提示ができなかったからだ。今、このエントリーを書いている時点ではわかってる範囲内だけでも書き記しておくべきであったようにも思えてしまうのだが、「下図M」作成段階では、最終的には neonさんの描かれる「間取り図」という作品的なものになるため、わざわざ「この部分に窓があったかは不明」といったような補註を描き込ませるのも鬱陶しいように思えたのである。
また、私自身、図面を専門に書く仕事をしているわけでもないので、私の「下図M」はCAD系の製図ソフトではなく、グラフィック系の Illustrator で書いていた。そして、neonさんがそれをトレースして、「間取り図」作品に仕上げられるということを想定し、2本線の必要となる壁厚は書き込まずに、単に線の太さによってのみ、壁厚がイメージできるような描写にしていた(実際、壁厚の寸法自体わからなかったし)。
寸法は基本的に半間=90cmという単位で捉えていくことにした。江戸間か京間か団地間かという問題もあるが、そこはもう厳密に追いようがないので、単純に計算のしやすさを優先してしまった。2階右奥の部屋がたぶん四畳半だったという情報を基に、ひとまず270×270cmの正方形を配置し、そこから横軸のスペース配分を考えていく。
また中央を左右に走る廊下幅は、床に敷かれた割板の幅を1枚30cm×7=210cm と想定(つまりかなり幅広の廊下 だった)、そこから三和土+押入スペースを90cmと大目に見積もって引き算し、縦軸の間隔に見当を付けた。ただ、そこで割り出されたのが奥行き5m近くになる鰻の寝床型1階手前の各室だったので、しばらくの間、迷わせられることになってしまったのであった。
階段 は24cm13段で当たりを付けてしまったが、これは寸法から来るイメージ優先採択なのであまり段数は数えないでおいてほしい。家づくり、行ったり来たり「階段の段数 」では、13段という段数は縁起がよくないということが書かれていて、まあ、特にその根拠はないようなのだが、昔の建物なだけにそうしたものを気にしている可能性がないことはないかもしれない。というか、図面に書き起こすことをもっと早くに考えていたならば、masaさんに階段の段数と幅を計っておいてもらえばよかったのである。それがわかれば平面は元より、その高さも推定がしやすくなったというものである。
他、もう一つ迷わさせられたのが、共同便所のあった奥廊下側の間取りであった。これが現在の建物であるならば、トイレというのは割と規格サイズから諸々想定しやすくなるのだが、如何せん昔のトイレなだけにどう解釈してよいのかわからない。さらに和式便器だとばかり思っていたら、取り替え型の洋式便器に替えられていて、masaさんも「曙ハウスらしくない!(^^;」と写真を撮られていなかったのである。それはそれで、ちょっと面白いエピソードなのでここに書き記しておきたい(笑)
ともあれ、この「下図M」は masaさんの写真と、masaさんを始めとする何人かの方の記憶を合わせなければ、到底書き上げられるものではなかった。ハウス左手の手前側1・2階の物干し台と増築部分の複雑に入り組んだ位置関係も masaさんの写真を幾つかの角度から検証することによってどうにか書き落とせたものである。ただ、さきほどもちょこっと触れたように、私は製図を専門にしているわけではない、只の施主(それも、つい自分で図面を引いちゃいました系のダメ施主)なので、文京ふるさと歴史館で展示中の間取り図は、あくまで曙ハウスの雰囲気や味わいを感じ、愉しむものとして、そして何よりも neonさんの一つの作品として、ご覧いただければ幸いである。
設計図、平面図といった言葉を使わずに「間取り図」という現代建築家たちからしたら少々野暮ったい言葉の表記にこだわったのも、その厳密性が担保できないことに因る。
尚、私が作成した「下図M」は、文京ふるさと歴史館での展示終了後、気が向けばこのブログで公開するかもしれない。
【写真上】2007.01.12 13:31, 東京都台東区根津・曙ハウス跡地
【写真中】2006.01.22 13:24, 東京都台東区根津・解体を1週間前に控えた曙ハウス
本文中「1階右端手前の細長い部屋」の分断された手前側のスペースを外(正面)から写したもの。右手側面側に庇が見え、その下に外に直接出入り可能なドアがあった。
【写真下】2006.01.22 13:26, 同上・曙ハウスの正面から見て左側スペース
【註】テキストリンクは一部「Kai-Wai 散策 」の写真にダイレクトでリンクしている
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2007年02月28日 (水)
臭突がじわじわと勢力を伸ばし始め、何だかブログ界でもすっかり市民権を得た感じがする。軍艦アパート はその最後の最後を見に行けなかったが、完全になくなって しまったようだ。曙ハウスは13位と惜しくもトップ10圏外。それと先月、突如逆転現象を起こしたヤフー vs グーグルは今月は52%:42%と再びヤフーが盛り返していた。
グヤーシュ 2.6% 遊郭 2.5% 上棟式 2.4% 軍艦アパート 2.3% 谷中 1.7% 臭突 1.5% 高過庵 1.4% 丹下健三 1.2% 桃林堂 1.0% 板塀 0.9%
2007年1月の解析結果はこちら から。
※先月から月末のアクセス解析エントリーにも写真を掲載!
【写真】2006.11.14 16:55, 大阪市浪速区下寺町・解体を前にした軍艦アパート
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2007年02月22日 (木)
「戦没学徒記念 若人の広場 」で記したように、仕事で初上陸した淡路島。残念ながら車窓風景以外にプライベートで撮れた写真は少なかったが、仕事が終わって車に乗り込む直前に唯一撮れた淡路島の家の写真がこれである。場所は洲本市由良の由良大橋の袂。もちろん淡路島の家はみんなこんな感じというわけでは決してない。ただ、さすがにこのタイル&臭突は、、撮らずんば男が廃るという気がして撮ってきた(汗)
洲本市 由良は、向かいに成ヶ島 という淡路橋立とも称される細長い砂州に覆われた形の漁港で、今もハマチの養殖などで知られている。おそらくこの全面タイル張りは漁から帰ってきた漁師達が長靴などを水場で流しやすいようにと設えられたのではないかと思うが、どうだろう。ただ、こんだけカラフルなのはここでしか見なかったので、ひょっとすると別の用途で建てられた家屋という可能性もある。背後との繋がりまで見てくる余裕もなかったが、何とも不思議なハイブリッド建築だった。
また、タイルハウスの右手奥に見える屋根瓦は、本葺き瓦 (丸瓦と平瓦を組み合わせた瓦)というのだが、この界隈の古い家屋の屋根には本葺き瓦が乗っているところが多くて、なかなか重厚壮観なものがあった。と思ってちょっとググってみると、淡路島って「淡路瓦 」で知られる瓦を伝統工芸的地場産業にしてるところだったのだ。次行くときはもう少し瓦を意識して見てまわると面白いかもしれない(というか、町並み視線って事実上屋根で構成されてるので、意識しなくても実は皆それで峻別してるのだが)。
【写真】2007.02.05 16:24, 兵庫県洲本市由良(淡路島)・由良大橋袂にて
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2007年02月15日 (木)
仕事の取材だったものの、淡路島に初めて行くことになり、同行取材者にお願いして、ほんのわずかな時間ながら丹下健三が1966年に設計した「戦没学徒記念 若人の広場」を見てくることができた。「若人の広場」は一昨年の3月22日、丹下氏の訃報に接し、「丹下健三氏、没 」という追悼エントリーを書いたとき、akanemさんが撮られた写真を借りて感想メールと共に紹介した場所である。あれからもう2年が経つんだなぁ。
取材前日、日の暮れかかった頃 に宿泊先の休暇村南淡路 に到着し、その晩はまさかそのホテルから見えるとは思っていなかったのだが、翌朝、日の出 前に部屋の窓から外を見やると、福良港を挟んだ向かいの大見山に▲のシルエットがぽっかりと浮かび、こりゃ尚更行かずんばなるまいという気にさせてくれたのだった(偶然にもホテルから近いところにあったおかげで行かせてもらえたとも言える)。それにしても早朝の福良港で漁船が先を争うように出航していく様子 は、眺めていてなかなか楽しいものがあった。
しかし、肝心の若人の広場に関しては、本当に短い時間に早足で一通り見て回るだけで終わってしまったので、あまり感想らしい感想を書く気にはなれない。というか、2年前に akanemさんから借りた感想メール以上の言葉を自分では見つけられないというのが正直なところ。私が見せられるものといえば、これも早足のため雑にしか撮れてはいないのだが、2月始めの朝の若人の広場の空気を伝える写真くらいだろうか。
ただ、幾つかのブログで丹下さんがこの記念館のことを公表しなかったという情報に触れ、それがなぜかということを知りたくなったので、「丹下健三氏、没 」のエントリーでも余談で紹介した¥28,500- の大著: 丹下健三・藤森照信著『丹下健三 』を閲覧しに天六の住まいのミュージアム・情報プラザ まで行ってきた(やはり買えん>汗)。
すると、当時の設計担当だった神谷宏治氏と藤森氏が1998年に行った談話が掲載されていて、それによってなぜ丹下氏が公表を拒んだのかの理由を伺い知ることができた。その談話部分のみ抜粋することにしよう。
神谷:あの施設の主体は動員学徒援護会という文部省傘下の財団法人で、戦没学徒を記念し慰霊するというわけだから、丹下さんは意気込んで設計したわけです。いよいよ完成して引き渡し、そのオープンの記念式典の案内状が届いた。主催者として記されていた名前は、岸信介、奥野誠亮など、いずれもいわゆる右翼と呼ばれるような戦中に指導的な地位にあった政治家です。当日、岬の下を自衛艦が航行し、観閲式もある、と書いてある。全く予想もしてなかった内容だけに、丹下さんは“私は行かない”といって、オープンの式典に欠席です。だから、発表もされずじまいでしたね。
なるほど政治的背景によるものだったのかという感じで、しかし、それによって公表の機会まで自ら取り消すというのは、当時の思想的な時代情況もあったのかもしれないけど、やはり「学徒として戦争に‘生き残った’丹下」氏の直接的な個人体験がよほどの怒りへと繋がっていったのだろう。
ただ、「家づくり」という経験を通して、建築家の意志(魂)よりも、その建物がその建物として姿形を変えながらも逞しく生きていくその住/築歴(霊)を重んじるようになってしまった私としては、仮に岸信介の孫の安倍晋三が主導することになろうとも、この広場の復興(そして学徒のともしびが消えないこと)を願うばかりである。
【参考リンク】
・動員学徒記念 若人の広場復興委員会
・神戸観光壁紙写真集:戦没学徒記念 若人の広場 壁紙写真
・JANJAN:廃墟になった「戦没学徒記念若人の広場」 (2005.06.21)
・ポリタン・コスモ:戦没学徒記念館_by_丹下健三 (2005.01.08)
・あさみ新聞:戦没学徒記念 若人の広場 (2005.04.30)
・ALL-A:戦没学徒記念館 若人の広場01 (2006.2.14), 02 (2.15), 03 (2.17)
・東海秘密倶楽部: 未だ消えず、阪神淡路大震災の傷跡 〜戦没学徒記念 若○の広場〜 前編 /後編
・おとなしやにっき。: 戦没学徒記念 若人の広場 (2007.05.02)
【写真】2007.02.05 09:00前, 兵庫県南あわじ市・戦没学徒記念 若人の広場にて
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2007年02月09日 (金)
根津の曙ハウスが取り壊され、その地が更地と化したのが去年のちょうど今頃。
そのとき「曙ハウス」という実体のほとんどはこの世から姿を消して行ったが、それでも曙ハウスを強烈に印象づけていた看板役者「スウハ曙」の看板プレート、1階階段の手摺り支柱は、処分される前に「Kai-Wai 散策 」の masaさんの手によって救い出され、古物商の協力を得ながら、文京ふるさと歴史館 に収蔵されている(その経緯については Kai-Wai 散策「曙ハウス・プレートの行方 」「曙ハウス - 再び 」に詳しい)。
その命拾いした看板プレートと手摺り支柱がこの度、文京ふるさと歴史館の企画展「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形・デザイン」にて、収蔵後、初披露の機会を得ることになった。展示にあたっては、それらの収蔵品の他に masaさん撮影の曙ハウスの写真、また「N的画譚 」の neonさんが描かれた画「曙ハウス 」。そして、同じくneonさんの描かれた曙ハウスの間取り図が公開される(この間取り図については、私も微力ながら協力させていただいたが、neonさんが「曙ハウス 間取り図を描く 」のエントリーで図面起こしの経緯を詳しく書かれているので是非ご覧になられたい)。
ここから先の話は実際に展示を観てからということで。何とも待ち遠しい限りである。
文京ふるさと歴史館企画展
「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形デザイン 」
第1部 伝統の継承と西洋への憧憬
「5 木造2階建てのアパートメントハウス 曙ハウス 1920年代」
2007年2月10日(土)〜3月18日(日) 10:00〜17:00 月曜日休館
文京ふるさと歴史館 文京区本郷4-9-29
連携企画
「まちかどの近代建築写真展 IN 根津 」
日本基督教団根津教会 文京区根津1-19-6
2007年2月10日(土)〜2月17日(土) 10:00〜17:00(最終日は15:00まで)
【写真】2004.03.07 14:29, 東京都文京区根津・在りし日の曙ハウス
【参考】曙ハウス関連リンク集: 曙ハウス†スウハ曙
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2007年02月06日 (火)
2月5日、大阪・長居公園のテント村が市の行政代執行によって強制撤去されている。
当日は各種報道番組などでも盛んに取り上げられていたらしいのだが、生憎その日、私は大阪に居なかったもので、その撤去中の映像情報に生で接することはできなかった。
(といっても、YouTube で「長居公園 」検索すれば幾つか出てくるので確認は可能)
ただ、その翌日、「ホームレス文化 」の小川てつオ氏が「去りがたい夜」と題して、撤去の約2週間ほど前からテント村で描いた絵を展示するということで、それを見に行ってきた。とはいっても私、これまで長居公園という場所に行ったことがなく、加えて前日の撤去の映像もまるで見てないので、かなりピンボケ状態での訪問だったと言っていい。それでも公園内に入ると、昨日の出来事を話題にしていると思われる人たちの姿がそこかしこで見られ、まだ何となく前日の気配は残っているようにも感じられた。
テント村のあった場所はフェンスで囲われ、そこに「安全第一」と書かれた白い工事用シートが張られ、中が見えにくいようになっていた。てつオ氏はそのフェンスの手前に絵をビニール紐で括り付けて展示していた。聞けば警備の人に注意はされたらしいのだが、ねばり強く交渉したら諦めて立ち去っていってしまったらしい。私が到着したときにはちょうどギャラリーがたくさん居て、てつオ氏は質問を受けていたので、しばらく遠巻きにボーッと様子を眺めていた。するとまあ、人のよく通ること。夕方4時くらいの時間帯。もちろん通勤通学や散歩でここを通る人もいるのだが、ウォーキングというものがこれほど流行ってるとは知らなかった(ただし、ウォーキングの人たちは絵の前を通ってもほとんど立ち止まって見ようとはしない)。
その後、写真を撮らせてもらいながら話の輪に加わると、支援者の方が来られたり、昨日までそこでテント生活をされてた方も来られたり。その方が昨日と今日の各紙新聞を持ってられたので、それを見せてもらってようやく撤去時の状況を知る。といっても、そこでてつオ氏含む皆の話に耳を傾けていると、どうやら新聞に掲載された情報にはそれぞれ不満があるらしい。もちろん各新聞社によってそのスタンスは異なるわけだが、どの記事も撤去時の最も過激な側面ばかりを取り上げて、決まり切った騒動の枠組みに話を落とし込もうとしているということのようだった。
とりわけ舞台上では必ずしも抗議行動一辺倒ではない、「争いではなく、話し合いの場を」求めたユーモア溢れる表現活動が繰り広げられていたようなのだが、そうした側面に注目する記事は少なく、専ら抗争をベースにその是非を問う定型文ばかり(読売新聞では「同じことの繰り返し 」という見出しが躍るが、そもそもその書き方において「同じことの繰り返し」をしているのが新聞メディアである)。結局、それが大手メディアの構造的限界を指し示してしまっているのかもしれないが、だとすれば、ブログなどの個人発信メディアの果たせる役割の一つは自明だと言ってもいいだろう。
ところで、てつオ氏の絵を見ていたら、彼が1998年に妻の実家のある総領町でやっていた「こんにちわテント 」のことが思い出され、何だかとても懐かしい気分になってしまった。あの頃、居候ライフをしていた彼はその後いつしか代々木でテント生活を始め、その話を聞いたときには「アレ? ある意味、定住者になってしまったのか?」とどこか納得のいかない気分にもなったのだが、彼は別に定住/移住ということをテーマにしていたわけではなく、おそらくは誰もが単純に思うように、豊かな暮らしを求めてホームレスになったのだろうと最近は思うようになった。
それは「こんにちわテント」で、「コウホ地」と言って「テントを張りたい場所を探」し、その「利点・欠点」を考察していたのと基本的には変わらないことだったのかもしれない。というか、テント村に定住する(長期的時間軸を得る)ことによって、より社会化したというべきだろうか?
彼が2005年に始めたブログの最初のエントリー「ホームレスということ 」からは、すでにそうした方向性が酌み取れると同時に、なぜそのブログのタイトルが「ホームレス文化」というのかも理解できるものとなっている。また、彼はできることならば、また大阪に来たときや来年の2月5日に同様の展示を長居公園でやりたいと話していた。
【参考】「長居公園テント村強制撤去問題 」に関連リンク含む詳細情報
【写真】2007.02.06 16:00前後, 長居公園テント村跡地前にて
【追記】下から二番目の写真の、人物が並んで描かれている絵は、てつオ氏と共に応援に来られていたいちむらみさこさん の描かれた絵です。彼女のブログや、てつオ氏のお兄さんが運営されてるキョートット出版 でも長居公園のことが取り上げられてるので、是非ご覧ください。
ブルーテント村とチョコレート:長居公園テント村「劇団パニック」と、 (2007.2.8)
キョートット出版:長居公園の芝居のこと (2007.02.18)
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2007年02月03日 (土)
この写真はチャングムテーマパークへ行くのに議政府北部駅から乗ったタクシーの中から撮影したもの。走行中なだけにかなりの無茶撮りではあるが、屋根裏部屋(?) 手前にあるバルコニーの、何とな〜くプリティな様子が気に入って flickr にアップしていた。
しかし、前々エントリーの「K的臭突 」でもそうだったように、韓国の建物は日本のそれと較べて妙にスケール感の小さな建具や設備を見掛けることが多い。この写真の民家の場合でもバルコニーに出る扉がどう考えても小さい。日本の茶室の躙り口(にじりぐち)に毛が生えた程度の、肩を窄めて潜らないと出られないくらいの大きさである。
・・と書いたところで、試しに「茶室 」を Wikipedia で確認してみたところ、
にじり口は、千利休が河内枚方の淀川河畔で漁夫が船小屋に入る様子を見てヒントを得た、とされる。朝鮮半島の民家からヒントを得て考案した という説もある。しかし、にじり口の原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られ、また商家の大戸に明けられた潜りなど同類の試みは多種見られることから、利休の発明とは言えない。
と、諸説あるうちで「朝鮮半島の民家からヒントを得て考案した説もある」ことを知る。ま、だから「バルコニーの躙り口」というタイトルを付けたというわけではないのだが、私のように本格的な茶室で茶を嗜んだ経験のない者にとっては、この写真の戸口と茶室の躙り口が、ある点でそんなには違わないものに感じられてしまう。
要するに「狭い戸口を肩を窄めて潜る」という所作には、それが「出る」という行為であれ、「入る」という行為であれ、どこかしら子供の時分から持ち合わせている悪戯心を擽るようなところがあるように思えてならないのだ。秘密基地への侵入とでも言うともう少しわかりやすいだろうか? ただ、そのことを妻に話してもあまり理解は得られなかった。そのことからつい話がジェンダーへと傾きそうになるが、時の厚生労働相の二の舞は御免なので、ここで話は止めておくことにしよう。
それにしても彼の失言は、ル・コルビュジエの「家は住むための機械である」を知っててのものだったのだろうか。だとしたら、もうちょっと気の利いた言い訳でも考えついたようにも思うのだが‥‥。
【写真】2006.11.23 13:44, 韓国京幾道議政府市・タクシー走行中の車内より
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2007年01月31日 (水)
今月はこのブログにとっては至って順当な結果。ただ、1位獲得の「高過庵」のパーセンテージがエライ高い。またTVで放映されたりなどしたんだろうか?
ところで今月はアクセス検索ワードとは別に、検索エンジン利用度の当ブログ内解析において興味深い変化が現れた。これまで大方6:3:1の割合で「Yahoo:Google:その他」だったのが、なぜか突如、Yahoo と Google の比率が入れ替わってしまったのである。わきた・けんいちさんのブログで紹介されている「グーグル革命の衝撃 」という番組がNHKで放映されたせいとも思えないんだけど、一応、先進国とされている国の中では日本だけがヤフー利用率が高いという一匹狼ぶりを発揮してたのに、どうしちゃったんだろうねぇ。まさかソフトバンクのきみちゃんいじめ(仲間はずれ)CM がよっぽど評判悪くて、ヤフー離れしたなんてこともあるまいだろうし(汗)
高過庵 10.4% 上棟式 4.1% グヤーシュ 3.6% 遊郭 3.0% 谷中 1.8% 山門不幸 1.5% 軍艦アパート 1.4% 橋本 1.3% 板塀 1.0% 臭突 0.9%
2006年12月の解析結果はこちら から。
※今年からこの月末解析エントリーにも写真貼り付けることにします。
(たぶん、エントリー内容とはあんまり関係ないものになっちゃうだろうけど)
【写真】2006.10.29 12:38, 阪急京都線「相川」駅付近の車窓から神崎川
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2007年01月21日 (日)
Kai-Wai 散策「N的家譚 (2) 」の主題「N的」にではなく、その部分パーツ「臭突」に触発されてのエントリー。去年の韓国旅行2日目(妻の LBGO「久々の韓国・二日目(その3) 」)、主目的の大長今テーマパークを見た帰り、最寄りのバス停で約1時間待ち惚けを喰ってる間、そのバス停の向かいに見えていたのがこの光景である。
flickr にアップしたら J16さんから日本の臭突よりも太いのでは?という指摘を受けたがどうなんだろう? 背後の住居のスケールが小さいもんで、それで太く見えるようにも感じられる。臭突比較文化論用ということで Korea 的臭突もアップしておく。
【写真上】2006.11.23 16:10, 韓国京幾道楊州市・MBC 大長今テーマパーク 付近
【写真下】2006.11.23 16:17, 上記の臭突ハウスの右隣の家・こちらにも臭突とは別のN的パーツが散見されるが、やはり「N的 」とはどこか違う感じがする
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2007年01月14日 (日)
総領の義父は数年前から畑の焚き火場脇に種から育てたミカンとポンカンを植え、ワシが生きとる間に育つかの〜と言いながら、その発育具合を楽しんでいる。ただ、義父が言うには冬の寒さの厳しい総領では実を実らすのが難しいばかりか(実際、冬場は防寒用に上の写真のような袋を被せている)、仮に実がなったとしても、甘ない(あもーない)ミカンにしかならんだろうという。
その理由は潮風にあるのだそうだ。ミカンは不思議と潮風を受けることによって甘みが増すものらしい。思えば名産地とされる、愛媛、和歌山、静岡と皆、潮風をたっぷり受けることが出来そうな立地ばかり。総領町の属する広島県にも「大長みかん」というブランド商品があるにはあるが、それらはいずれも瀬戸内海に浮かぶ群島で生産されている。総領のような中国山地の山奥とは縁遠い世界である。
ところでミカンと潮風の関係を調べようと「みかん 潮風」でググっていたら、山口の「周防大島ドットコム 大島みかん白書 」というページが出てきて、そこで紹介されてる絵には大いに笑わさせてもらった。そういえば父の第二故郷となる山口の萩でも土塀に囲われたミカンの木を見た記憶が残っている。そこは日本海の潮風ということか。。
【写真上】2006.01.05 14:20, 広島県庄原市総領町・妻の実家の畑にて
【写真下】2001.12.06 12:05, 山口県萩市にて
【追記】ミカン話でもう一つ思い出したので追記。実家にいた頃って冬になるといつもミカンの入った箱があって、とにかく無造作にというか、ワケもなく無闇にミカンを貪り食っていて、それでも箱の底の方にあったミカンは腐っちゃうという感じだった。それは妻も同じだったと言う。しかし現在、我が家にミカンがあったとしてもそれは他の菓子類同様に貴重品で、常に個数平等、同じ時に食べる代物という風になってしまっている。ミカンが不自由なく食べられるくらいの生活力を持ちたいものだが。。
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2007年01月08日 (月)
去年の10月にエントリーした「△▲△▲△△▲▲ 」とどことなく共通性を感じる。
ソウル市南部を流れる漢江に架かる東湖大橋を渡っているときにバスから撮った写真。
丘の上の乱立状態とでも言えばいいだろうか?(個人的にはこちらの方が好きかな)。
ただ、「△▲△▲△△▲▲」の方は本当はこういうイメージを模倣したかったのかな?
一昨年11月の中欧旅行で行ったチェコのシュテルンベルク城からの風景。もちろん乱立してないということもあるんだけど、やはりその土地に堆積する時間を、ある瞬間だけ切り取ってパクろうとすると「△▲△▲△△▲▲」になっちゃうんだろうなぁ。
【写真上】2006.11.23 11:15, ソウル市龍山區・東湖大橋を渡るバス車窓
【写真下】2005.11.09 09:46, チェコ Sazava・シュテルンベルク城から
【追記】乱立状態と書いたけど、よくよく考えてみたら都市部の住宅街はどこも所狭しと家が乱立してるものである。より厳密に言えば、滅茶苦茶に乱れてではなく、そこそこ整然と立っている。それは「△▲△▲△△▲▲」も同じで、ただ、ここで取り上げた三つの場所に共通するのはそれが南向きの斜面上に建てられているため、ある視点から見るとほぼ全ての家のファサードがこちらを向いて見えてしまうということである。
その点で「景観」として、町全体が問われるポイントは多くなってしまいそうである。
妻の韓国旅行記 LBGO「久々の韓国・二日目(その2) 」もヨロシクちゅせよ!
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2007年01月05日 (金)
総領に初霜が降りたから「初霜総領」というタイトルにしたわけではない。
毎年元旦明けて2日に帰省する総領で、初めて雪の降らない正月を過ごし、その代わりに初めて霜の降りた田畑を目にする機会を得たので、そういうタイトルになった。
それにしても大阪のアスファルトジャングルに住んでると、霜自体見る機会がまるでなくなってしまった。三鷹に住んでた頃は霜をザクザク踏み潰すのが好きだったのだが、ひょっとして温暖化により、都心部で土のあるところでも霜はもう降りてなかったり?
2007年01月01日 (月)
わきた・けんいちさんの呼び掛け などもあり、「My Place」の玉井さんが提唱される「わがやのお雑煮大会 」にアースダイブ未参加ながらも参加してみることにした。
うちは妻が広島出身、私は東京の出身で、なぜか大阪に住んでいる。で、特にどちらの親とも同居はしていないので、基本的に作るのは妻ではあるものの、何となく住んでる場所同様、お互いの中間地点にあるようなお雑煮になっている。毎年恒例2日から妻の実家に帰省することになっていて、そこではもっと具だくさんで濃厚な雑煮が出る。他方、私の東京の実家は蕎麦つゆの濃さで有名な東京だけれども、至って薄口好み。
具はにんじん、ほうれん草、大根、ネギと至って凡庸なものばかりだが、それに松茸が入るところが他とちょっと違うところか?──ちなみにこの松茸は広島の妻の実家の近くの山で採れる。今年は私も山に入ったので、もしかすると自分で採ってきた松茸かもしれない。これを見たら何と贅沢な!と思われるかも知れないが、どうも松茸狩りに連れて行ってもらうようになってからというもの、国産松茸のありがたみをそれほど感じなくなってしまった。毎年1本だけ冷凍しておいて、それを正月に食べる。また、毎年恒例で2日から妻の実家に帰省すれば、お雑煮だけでなく、すき焼きやら焼肉やらと昔なら考えられなかった局面で松茸を食べる。それが正月というものになった。
ちなみに妻の実家では上記の具に蛤が加わり、うちの実家では鶏肉とかまぼこあたりが追加される程度で、むしろ違うのはだしの味付けといったところか? あと、餅は妻の実家の方で付いた丸餅を使う。これも慣れると市販の餅がまずくて食えなくなる。
ところで、わがやのお雑煮大会のための写真を撮ろうとするものの、肝心の餅が底の方に沈んでしまって、結局箸で掘り出したヤラセ雑煮のようになってしまった。この企画に参加された他のブロガーもふだん敷かないランチョンマットを敷いてみたりとか、いつもより少し気取った雑煮になっているのだろうか? まあ、いざ食べ始めたら伸びる餅にこんな表情 やこんな表情 になってしまうわけだけど(笑)
それでは、本年もよろしくお願い申し上げます。
【写真】2006.01.01, 13:53, 大阪自宅にて
□◇
以下ご近所ブログの「わがやのお雑煮大会」。アップした時間で見るのも面白い。
(ちなみにうちの日時は撮影時刻に偽装したものですが‥‥)
・N的画譚: わがやのお雑煮 (2007.01.01 11:59)
・藍blog: わがやのお雑煮 (2007.01.01 09:32)
・aki's STOCKTAKING: わがやのお雑煮 (2007.01.01 15:00)
・MyPlace: わがやのお雑煮 (2007.01.01 20:20)
・Kai-Wai 散策: わがやのお雑煮 (2007.01.01 21:06)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 『わがやのお雑煮大会』参加エントリー (2007.01.02)
・MyPlace: わがやのお雑煮:三日目に (2007.01.03 12:20)
・MyPlace: 石川県加賀のシンプル雑煮 (2007.01.05 20:50)
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2006年12月31日 (日)
先月も書いたが、トップランクインの検索ワードはちょっと勘弁して欲しい。試しにググってみても最初の数ページで出て来ないのだから、よほどその言葉自体がよく検索されているということだろう。ドラマ「結婚できない男」は年末再放送されてるので、再び盛り返してるのか? 結構見てしまっている。
ところで最近、このブログでコメントができないというメールを度々いただく。どうもサーバがおかしいのか何なのか、コメントができるときとできないときがあるようで、エラーが出てしまった場合はお手数ですが、ブラウザの「戻る」ボタンで戻って、再度[POST COMMENT]ボタンを押してみてください。
イナムラショウゾウ 3.5% グヤーシュ 2.5% 谷中 1.9% 遊郭 1.9% 高過庵 1.4% 上棟式 1.2% 結婚できない男 1.1% 板塀 0.9% 蟻鱒鳶ル 0.8% 軍艦アパート 0.7%
2006年11月の解析結果はこちら から。
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2006年12月26日 (火)
先月末、韓国旅行に行ったのだが(それについては妻が LBGO「久々の韓国・一日目 」「久々の韓国・二日目(その1) 」で連載エントリー中)、関空へ向かう南海空港線の電車の中、おそらくは貝塚駅を過ぎたあたりで見えてきたのが上の写真の光景だった。
カット&パーマ「シェルター大阪舘」というネーミングもすごいが、その建物全体が醸し出す雰囲気はアジアの辺境に住み着いた日本人が現地で経営するゲストハウスのようである(ふとインドはバラナシの久美子ハウス のことが頭に思い浮かんだので、当時の旅行記を振り返るとちょっと雰囲気は違っていた。でも、こんなんはよく見掛ける)。
貝塚に行く機会って限りなく低い気はするけど、もし行くようなことがあれば駅から近いはずだし、是非とも反対側からも見てみたいもんである。
【写真】2006.11.22, 14:17, 大阪府貝塚市・南海空港線より
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2006年12月25日 (月)
クリスマスツリーというと、=モミの木だと思っていたけど、Wikipedia「クリスマスツリー 」を読むと「常緑の針葉樹(主に幼木)が使われ、ヨーロッパではドイツトウヒだが、日本ではモミが主で」とあり、クリスマスの本場ではモミの木が一般的ではないということを今初めて知った。ついでなので「ドイツトウヒ 」という耳慣れぬ木も調べてみるとマツ科トウヒ (唐檜)属の針葉樹で「樹形や葉の付き方はモミ属と非常によく似るが、樹皮は茶色で鱗状に割け、(中略)モミ属と異なっている」とあり、要はモミの木がドイツトウヒとパッと見で似ていたから日本ではモミの木がクリスマスツリーに使われるようになったんだろうな〜ということが伺える(但し別説もある模様)。
つまりは拡大解釈するなら、針葉樹系であれば結構なんだってアリなんじゃ?と思い、谷中のランドマークの一つでもある、みかどパン 前のヒマラヤスギ写真を出してみた。このヒマラヤ杉については Kai-Wai 散策「大樹とパン屋 」「大樹とパン屋 (つづき) 」でその生い立ちが紹介され、Roc写真箱「ランドマーク 」ではみかどパンの名前の由来となった三叉路の「三角」に仰天ピントのあったモノクロ写真がアップされるなど、既に紹介され尽くされた感もあるが、ここでは参考までに豊田さんが関わっておられる「まちの木霊 」プロジェクトが作ったマップ上のヒマラヤ杉紹介文を引用しておこう。
「まちの木霊」マップ No.29
谷中のランドマーク、みかどパンのヒマラヤスギは二代目。先代は建物の中から突き出たエノキ。玉虫が掃くほどいた。
ヒマラヤスギは50年ぐらい雄木で、やがて子孫を増やすために雌木に変わる 。スギといっても本当はマツの仲間 。
緑字部分の話もビックリだけど、赤字部分によって何の躊躇いもなくクリスマスツリーとしてこのヒララヤスギ写真もアップできるというものである。
まあ、クリスマスなのに不気味という顰蹙の方をむしろ買うかもしれないが(汗)
というわけで、以下に昼夜の比較写真でも一枚ずつ。
【上】2006.10.20 23:42, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(夜)
【左下】2006.10.18 15:47, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(昼)
【右下】2006.10.20 23:41, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(夜)
□◇
このスポットは以前にエントリーした「アミノバリュー BCAA 」でもCMに映った場所として軽く紹介はしている。そこからの関連等で以下リンク先も参照されたい。
・だんだん「ランドマーク(家と木) 」(2006.06.13)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発「谷中とアミノバリューCM 」(2006.07.14)
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2006年12月24日 (日)
前エントリー では mitsubakoさんのブログから「日本人の居住空間から床の間が消えていったのも、おもしろさが失せたからだろう」というアランさんの言葉を引用した。このエントリーではもう少しその床の間について、うちを実例にして考えてみたい。
まずうちの場合、前任建築家との計画初期段階から、すでに床の間は図面上に書き記されている。これにはおそらく三鷹金猊居から持ち込んだ行器(ほかい) ・鏡 等の古道具を置くスペースとして床の間を活用するのが妥当だという判断が、三鷹金猊居時代の住まい方に倣って我々(施主側)のうちにあったものと思われる。そして床の間の導入はその後、特に大きな疑問を持たれることもなくそのまま採用されることになった。
しかし、2階の居間の現状を見る限りにおいて、それはなくても良かったと言える状況にあることは認めざるを得ない。その最大の要因は母が自分用の居室として用意された3階個室を完全に物置きとしてしまい、居間兼客間と想定されていた2階共有スペースを居間兼寝室にしてしまったことにある。その部屋が住人のベッドスペース(布団敷きだけど)となってしまったことによって、客間であれば求められたはずのところの遊び感覚(おもしろさ)が完全に別のベクトルを向いてしまったのだ(簡単にいえば、モノによって床の間前の空間が無為に埋められてしまったということ)。
ただ、こうした住宅事情というのは狭小スペースを余儀なくされやすい都内においてはうちが特殊ケースとは言えない面もあろうかと思う。Wikipedia「床の間 」では、その冒頭で「床の間とは、日本住宅の畳の部屋に見られる座敷飾りの一つ。ハレの空間である客間の一角に造られ」と記されるが、うちのように「ハレの空間」と「ケの空間」を混在させざるを得ない住環境にある家というのは決して少なくはあるまい(うちの場合は住まい方の拙劣さにおいてそうなってしまっているわけだが)。
としたとき、形骸化しただけの床の間が無思慮に導入されるくらいなら、ない方が良いというのは賢明な選択である。正直、これは自分で図面を書いてしまった本人も含めての話なのだが、どの図面であっても「床の間」は何となく空いたスペースに嵌め込まれでもするように書き込まれるケースが多く見受けられた。Web/DTP のレイアウトでいえば、ここ空いちゃったから埋めとくか!ってノリにちょっと近い。しかし、そういう部分に「おもしろさ」ってなかなか現れはしないものである。
その代わりと言っては何だが、意欲的な設計者がハレとケの混在空間を前にしたならば床の間という形式にはこだわらずとも床の間的「おもしろさ」を演出するような空間は頼まずとも作り出すことだろう。うちの場合はそれが1階の階段〜濡れ縁あたりの三鷹金猊居から再利用した丸太梁を絡めた空間にしっかり実現されているように思われる。ただ、その空間はやはり余白に何となく嵌め込まれたのではなく、吟味に吟味を重ね、しっかり議論の持たれた場所であった。
以上、アランさんの論からはだいぶズレたところでの話の展開になってしまったが、床の間そのものの「おもしろさ」については機会を改めてまた考えてみたい。
【追記】
今回珍しく写真なしでのエントリーとなってしまったのは、完成直後に撮影して以降、ロクに床の間の写真を撮っていなかったためである。そのことからも我が家の床の間に対する私の関心の度合いが透けて見えそうである。他方で、床の間的「おもしろさ」が演出されているとした「1階の階段〜濡れ縁」の方は写真に撮ってはいるのだが、いまいちその空間的おもしろさの伝わる写真が撮れてないのでアップしていない。広角レンズが欲しくなる今日この頃である(宝くじでも当たらない限り買わないだろうけど)。
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2006年12月19日 (火)
アランさん のアトリエにはこのブログでもお馴染みの mitsubakoさん 、flickr 仲間でこの日が初対面だった(といってもまるでそんな気しなかったけど) ya maさん 、そして幼馴染みのRちゃんと行った。なぜこの3人と一緒に行くことになったかというと、以前にエントリーした「山門不幸 」がその引き金となっている。実はこの前日に長運寺の前を通ったらまだ「山門不幸」の立て札が立っていて、同エントリーを読んでくれてた3人が見たいということで、案内ついでにアランさんのところにも寄ったのだ(ちなみに同エントリーの補記で出てくる「その筋の友人」こそがRちゃんである)。
mitsubakoさんは Abejas e Colmenas「午後の谷中 」、ya maさんは posinega「秋の個展めぐり(1) 」でそれぞれこの日のことを書かれていて、mitsubakoさんがアランさんのアトリエでのことにも触れられているので、それを一部引用させてもらおう。
彼の床の間の考察は自由だ。日本人の居住空間から床の間が消えていったのも、おもしろさが失せたからだろう と彼はいう。規格化された床の間からは個性が消失し、有用性もなくなってしまった からなのだろうか。
考えてみると、小さいころ、床の間がわたしの部屋だったことがある。本棚と机がそこにはめ込まれて、妙な空間だったことを覚えている。まがった床柱が邪魔で、薄暗い感じが嫌いだった。
アランさんの目線でアランさんのような作家によって、いったん床の間の概念が崩されて、また、新しい床の間という空間が息づいてくるのかもしれない。
この床の間の話はアランさんから聞けた興味深い話の一つだったわけだが(床の間が規格化した背景にはおそらく LDK 発想ってもんがあったように思える)が、それ以外にも何を筆置き代わりにするといいか?って話や、表装を無難に収めようとすると失敗するという話など、この3人と一緒だったからこそ聞けた話がたくさんあった(ちなみに「その筋の友人」であるRちゃんのご実家は表具屋さんで、実際、丸井金猊の未表装リソースの表装はほとんどこちらにお願いしている)。
アランさんご本人については「アランさんのアトリエ訪問 」を筆頭に幾つかエントリーしてるので、ここで改めて触れはしないが、今回は初めてうちにお越しいただき、祖父の画を生で観てもらえたのが何よりも嬉しかった。で、最後にそのときに聞くことのできた話を一つ。
テーマとして扱ったことはないものの、これまでにも何度か触れている「落款」の有無について。アランさんの場合、落款を押すのは大抵その作品が完成したときというよりも、その作品が売れて人手に渡るときなのだという。あくまで人にもよりけりとした上で、アランさんの場合は作品の完成は作家本人が一旦完成だと思ったとしても、後からまた手を加えたくなることはいくらでもあり、実際に手を加えることもある。だから、手許にある限りは落款は押さずにおいて、手を加えられない状況が来たとき(すなわち人手に渡るとき)に押すようにしているのだという。
なるほどこのことから考えれば、祖父のリソースも落款がないからと言って本人が作品としてまだ満足していないだろうと推測するのは判断が早急に過ぎるということになりそうだ。もちろんこれらも全ては推測に過ぎず、いずれにせよ祖父の画を「作品」とは呼ばずに「リソース」とする姿勢を崩すつもりはまだないが、一つ肩の荷が軽くなったというのは事実である。
尚、冒頭の写真は夜中の23時過ぎにアランさんのアトリエ正面から撮ったものである。本当はもう一度くらい訪問したかったが、どこの企画も1回まわるので精一杯。ただ、アランさんのアトリエは時間終了してても、こうしてまた別世界の表情を外からでも十二分に堪能できるので、夜中の訪問もオススメである。
谷中芸工展2006 【37(?) アトリエ アラン ウエスト: 谷中の床の間 】
普段は絵の制作に使っているアトリエを、いろいろな時代の床の間であしらいます。案内を片手に各々の床の間をご覧下さい。公開制作もしております。
期間中無休/12:00〜17:00(日曜は13:00〜) 台東区谷中1丁目
⇒公式サイト: ALLAN WEST:アラン ウェスト オフィシャルサイト
【写真上】2006.10.20 23:33, 台東区谷中1丁目 アトリエ アラン ウエスト前
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2006年12月17日 (日)
芸工展マップで一つ場所を読み違えてしまったのが「いろはに木工所 」だった。パッと見ると★マークがへび道沿いに表示されているので、ついそのつもりで探してしまったのだが、よく見ると「いろはに木工所」と書かれた枠から細くて短い線が伸びていて、それがへび道から一本外れた通りを指していた。なので、別の企画に向かおうとして出くわしたときには、自身のマップ読み違いに気づいてなかったもんで、へび道さえ迷う自分はまだまだ谷中モグリやな〜とプチ落胆したものである。
ただ、その「いろはに木工所」自体も谷中に根付いてまだ日は割と浅い。オープンしたのが2005年春ということなので、うちよりも半年後輩ということになる。とは言っても2004年の芸工展参加をきっかけにこの地で独立開業を考えられたというのだから、今年芸工展初参加のうちとは比較にならないくらい町には溶け込んでいそうである。
それどころか、実は私の気づかぬうちにすでに我が家にもしっかり浸透していたのだった。うちの玄関入ってすぐの前室には三鷹金猊居から移築させた華燈窓 があり、いつからかその左下のところにベンガル地方の一弦琴ゴピジャントラ のような不思議な形の花生けが置かれるようになっていた。まあ、母が買ってきてそこに置いたであろうことは疑いないのだが、それは私の目から見てもなかなか趣味良くというか、始めからそうなっていたといってもおかしくないくらいその場にしっくり収まっていたのである。
それが「いろはに木工所」製作のものであったとは、、こうして自分の知らぬうちに企画間コラボが実現しているというのも、谷中芸工展ならではの話なのかもしれない。
DMを置いてもらうようお願いしたら、さすがは木工所なだけにうちの把手には前から目を付けられていたようで、うちも把手だけは谷中に浸透してることを実感した。
谷中芸工展2006 【69(愛) いろはに木工所: お茶の間家具展 】
かつてはどの家にもあった、ちゃぶ台、箱膳 、茶だんす、踏台などが「いろはに風」で登場です。ワークショップも行います。詳しくはお問い合わせ下さい。
10/7〜9, 14〜23(10/16,17 休/通常は土日宿営業)/13:00〜19:00
台東区谷中2-15-13 tel: 03-3828-8617
⇒谷中芸工展2005 参加者インタビュー: いろはに木工所 山下純子さん
⇒Joy-Quest.com: いろはに木工所
【写真上】2006.10.18 16:12, 台東区谷中2丁目 いろはに木工所正面
【写真下】2006.10.20 23:54, 谷中M類栖/1f/前室 華燈窓
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2006年12月12日 (火)
のんびりペースとはいえ、あんまり律儀に芸工展巡りでの企画紹介ばかりしていると、さすがに書く方も飽きてくる。ということで、今回は芸工展巡りの最中に見つけた柿の写真でもアップしよう。この柿は大名時計博物館前の通りからあかぢ坂を下りて程なくのところにあるアパートの塀の上に、無造作にというよりはどちらかというと造作的な感じで置かれていた。※註・追記≫ 下の写真をご覧になるとわかるだろうが、一部囓られた痕があり、ひょっとすると住人が鳥の餌にでもと置いておいたのかもしれない。
柿といえば、学生時代に漫画『美味しんぼ 』で柿の甘みが菓子の原点にあるという話を読み囓った覚えがあった。早速ググってみると第26巻「菓子対決(前) 」にその話は出ていた。リンク先(夜刊ロロモ )にはその巻の仔細なあらすじが掲載されているので、興味を持たれた方は同ページ4〜5章をご覧になられると良いだろう。
現代のお菓子の大半は甘みを砂糖に頼っているが、18世紀以前の日本では砂糖が高価で庶民の手に簡単には入らず、甘みへの欲求は果物によって満たされていた。上記あらすじから暫く引用してみると「菓子の菓と果実の果は同じ、木になった果物のこと」「すなわち、菓子とはもともと果物のことだったのだ」というように、その語義自体に菓子のルーツが隠されていて「中でも柿は日本独特の物」「ほかの果物と違って干し柿として保存がきくので貴重だった」として、海原雄山に「水菓子としての果物といわゆる菓子の中間点、いわば菓子の原型として考えられるのが干し柿」では?と結論づけられている。
そういえば韓国ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い 』でも、第5話「変革 」で子供時代のチャングムが料理の隠し味に熟した柿が使われていることを一人言い当てるシーンがあるのだが、朝鮮王朝時代の韓国料理においても甘みを引き出すのに柿が使われていたという点では日本と同様のようである。余談だが、「なぜ、柿だと思う」と最高尚宮に聞かれ、「食べた時に柿の味がしたから、柿だと言ったので、なぜ柿かと聞かれても柿の味がしたからだと」子チャングムが答えるこのシーンが私は無性に好きでたまらない。
【写真上・中】2006.10.18 15:49, 台東区谷中・あかじ坂にて
【写真下】2006.11.11 13:41, 滋賀県高島市新旭町・正傳寺鐘つき堂の干し柿
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2006年12月05日 (火)
美容室 CLASSICAL は、千駄木駅から三崎坂を上ること3分。江戸千代紙「いせ辰 」の斜め向かいにある。ふだん三崎坂を上り下りするときは「いせ辰」の羽子板看板に目を奪われてどうしても死角となりがちだが、芸工展期間中は芸工展フラッグと共に店先に「谷中芸工展・コジマユウジ展・開催中」と三段組みの立て看板が「おいでよ」って感じに親しげな様子で構えていて、髪切る目的がなくても気軽に入って行けた。
会期中も美容室は営業していて、どちらかというとエントランス手前の方に作品は展示されているのだが、奥で営業中の美容サロンの方も額縁に入った鏡がイーゼルに架けられ、美容室自体が不思議な雰囲気。これは芸工展期間中の特別仕様か?とも思ったが、「美容室 CLASSICAL 」公式サイトを見てもわかるように、ふだんからイーゼル額縁鏡でカットやパーマは行われているようだ。トイレにもオーナーさんのナイショの展示があったりと美容室全体から芸工展を楽しもうとする雰囲気は伝わってきた。
タイミング良く作家のコジマユウジさんも見えていて、コーヒーをいただきながらしばし談笑。歳が私と一つ違いということもあってか、何だかとっても話しやすかった。彼は谷根千界隈在住の人というわけではないが、この美容室で毎年展示して今年で3回目だという。今回、このブログで芸工展の企画を幾つか紹介してきて、あまり表立って作品画像を見せるようなことはせぬよう心掛けてきたが、このコジマユウジ作品に限っては語るよりも見てもらいたい!という感じなので、以下に1枚アップする。
まあ、見せるといってもここに掲載してるのは展示されていた作品ではなく、展示中に配布されていた作家紹介のペーパーと、美容室で出されたコーヒーの入っていた紙コップを家に帰ってから撮影した画像である。ちなみに紙コップの方は私がもらってきたものではなく、母がもらってきたもの。目敏い方はコップの端に口紅が付いていることに気づかれるかもしれないが、母の口紅なので意味深なことは想像されぬよう。
とくだらない余談はさておき、この紙コップと用紙に描かれた何とも言えないキャラクター、それがコジマユウジという作家を象徴していると言っても過言ではないのだろう。線画を中心とした彼の作風もさることながら(キャラクターの有無に関わらず)、まず何よりもこのキャラクターの風貌がどう見ても彼にそっくりなのである(笑)
また、このキャラクターの胸のあたりにはおそらく心臓(心)と思われる、やや尖ったハートのマークが付いている。紹介用紙に「ココロはどうやって作るの?」をテーマに創作活動をされているとある通り、このキャラクターがただカワイイってだけではない雰囲気を漂わせるのは、そうした問題意識を持たれているからなのかもしれない。ちなみに美容室サイトの「RING RING RING 」ではページを捲ると、期間中「一番人気のオブジェ 」や「段ボール素材のオブジェ 」の画像を見ることもできる。
個人的には「公園に行く道 おかし屋に行く道 かくれんぼの道 この町のひみつの道」と書かれた絵(このひょーひょーとした文字がまた何とも言えない)と、天井の描かれた絵がかなり気に入り、私にしては珍しく非常に激しい所有欲に掻き立てられた。残念ながらそれらのポストカードは売ってなかったので、何も買わずに帰ってしまったのだが、後になって他のでも買っておけばよかったな〜とちょっと後悔。だったもんで、後日、コジマユウジさんから新たな展示のお知らせDMが届いて、大変ありがたかった。コジマさん、多謝!
「コジマユウジ展・4 TOYBOX」
2006年12月5日(火)〜12月10日(日) 12:00〜19:30(最終日のみ18:00まで)
〒166-0003 東京都杉並区高円寺南3-60-6 Tel&Fax: 03-3313-8829
Url: http://sky.zero.ad.jp/tamago/
本当はもっと早くに紹介すべきだったのだが、韓国旅行やら何やらでブログ更新自体が滞り、期間中の告知となってしまった。お近くの方は是非!!
尚、コジマユウジさんと美容室のスタッフさんは後日うちの展示にも見えて、一応そのときに上の掲載画像を見せてアップする旨の承諾は得ている。それと帰りがけの記帳の際に氏名欄の余白にこのキャラの絵を描き残して行かれた。何とも心憎い限りである。
谷中芸工展2006 【69(想) 美容室 CLASSICAL: コジマユウジ展 】
こんにちは。コジマユウジです。美容室という場に会期中絵を展示します。ちょっとかわった空間をどうぞ見に来て下さい。
美容室は火休(展示は開催)/10:00〜20:00 台東区谷中3丁目
⇒公式サイト: 美容室 CLASSICAL
【写真上】2006.10.17 12:53, 台東区谷中3丁目/美容室 CLASSICAL 前
【写真下】2006.10.17 21:39, 谷中M類栖/2f 居間にて
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2006年11月30日 (木)
寒くなってきたからというよりも何かのテレビで紹介されたのだろうか?
ハンガリー料理のグヤーシュ が1位に急浮上。まあ、これは検索を意識して、完全なるレシピを載せているので、引っ掛かった方も外れた感はそうはあるまい。
ただ、ちょっとまずいのが上野桜木のケーキ屋パティシエ・イナムラショウゾウ も急浮上してしまったことだ。随分昔のエントリーなのだが、ちょっと悪口を書いてしまっている。まあ、超人気の店なので、それでへこたれることはないだろうが、逆にこっちが潰されたりして?なんて思ったりして、、いずれにせよ、秋はやっぱり食欲の秋ということなのだろう。ほしのあき ではなく(笑)
グヤーシュ 4.0% 上棟式 3.7% 谷中 1.9% 遊郭 1.8% イナムラショウゾウ 1.7% 高過庵 1.4% 軍艦アパート 1.3% 結婚できない男 1.2% ダイニングテーブル 0.9% 板塀 0.8%
2006年10月の解析結果はこちら から。
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2006年11月11日 (土)
琵琶湖北西部に位置する高島市新旭町に、生水(しょうず)=湧き水を今も生活用水にしている針江という集落がある。川端(かばた)と呼ばれる水場が家の内外に作られ、そこには鯉や鱒が放たれ、自然と人が共存する「美しい日本」がここには確かにあるとさえ思いたくなるが、現首相が言ってるそれと通ずるものがあるのかは彼の著作を読んだことがないのでわからない。
小雨の降る一日だったが、その川端を見に妻と針江生水の郷委員会主催のエコツアーに参加してきた。ツアーを利用しないと人家の中に川端はあるだけに見ることができないのである。また、この地域では、こうした地域の特性を守るため、敢えてエコツアーを敢行して、外来種ともいうべき観光客の行動を限定している。このあたりの詳細は京都新聞で針江生水の郷委員会のことを紹介した「エコな挑戦 」を参照のこと。
川端については「琵琶湖のカイツブリと共に 」のエントリーでも紹介したわきた・けんいちさんにいただいた今森光彦著『藍い宇宙 琵琶湖水系をめぐる 』に出てくるので、それと合わせて詳しく追っていきたいところなのだが、現在あまりブログに時間を割ける状態にないので、とりあえずは妻の LBGO「滋賀/川端ツアー 」にリンクすることでこの日の備忘録としておきたい。いずれ機会を改め川端については書くつもりである。
【写真】2006.11.11 13:59, 滋賀県高島市新旭町針江区にて
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2006年11月07日 (火)
区画は違うが実家から歩いて1分もないところにある台東桜木郵便局では「絵手紙展」と称して、手描きの絵葉書が壁一面に飾られていた。マップの解説文に「へたで良い・へたが良い」と書かれているが、結構一つ一つ見ていくと味があって面白い。とりわけおばあさんが「動けなくなった(つまりは死んじゃった?)カブトムシは描きやすい」と書き添えて描かれていたカブトムシの絵には笑えた。
郵便局のような場所がこうした芸工展のような催しに参加するのは日に日に難しい世の中になりつつあるような気もするが、良い意味での鈍感さを持って、今後も参加し続けてもらいたいものである。
谷中芸工展2006 【34 台東桜木郵便局: 絵手紙展 寺田純子 他 】
へたで良い・へたが良い<素直に心の感じるままに>そんな絵手紙展を今年も桜木郵便局からお届けします。
10/14〜22/9:00〜17:00頃 台東区上野桜木1丁目
⇒公式サイト: 台東桜木郵便局
【写真上】2006.10.17 10:54, 上野桜木1丁目/台東桜木郵便局前
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2006年11月06日 (月)
アジア雑貨を主に扱う「nagomiya わぁい」は藍染大通りへと繋がるあかじ坂を下って澤の屋旅館の手前十字路を右に曲がってしばらく歩いたところにある。「生活の中に 和<なごみ>の雑貨を提供」ということから店の名前が付いたようだ。
芸工展には『手仕事展』というタイトルで「手作り」であることをコンセプトに集められた雑貨が主に置かれていた。特に目を引いたのは、オーナーさん自らが作られた文庫用ブックカバーで、ご本人が本を読まれる際に不満に感じられていること(例えばヒモしおりが中途半端なところで折れてたり、読むのに邪魔になったりするなど)を解決すべく工夫が凝らされていて、ちょっと食指が動かされたが、何分ふだんの生活で文庫本を読む機会が激減してしまっているので、買うのは控えてしまった。
どうも最近は「良いな」と思っても「買おう」にまで至るものといえば、食べ物くらいである。食べ物はなくなってくれるからいいが、それ以外のものは「モノ」として増えることがつい頭を過ぎり、踏み留まってしまう。なので、「良いな」と思ったその感情が「買う」という行為なしでも作り手に伝わる何某かのシステムはないものか?と芸工展を巡りながらしばしば考えていた。ただその場で言葉の上で「良いですね」と言ってみても「買う」という飛躍的行為に値する万感(交換/交感)はなかなか得られるものではない。せめてこうしてブログで書くまでである。
谷中芸工展2006 【56(?) nagomiya わぁい: 手仕事展 】
谷中で和小物とアジア雑貨の店をやっています。芸工展期間中は手仕事展をやります。 文庫カバーや小さな手提げ等のオリジナル商品を展開します。
木休/10:30〜18:00 台東区谷中2丁目
⇒公式サイト: nagomiya わぁい
【写真上】2006.10.16 12:24, 谷中2丁目/nagomiya わぁい前
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2006年11月05日 (日)
7月末に「朝鮮人街道、高麗橋まで 」というエントリーで近江八幡に行った際に「朝鮮人街道」という石碑を見つけ、そこから「朝鮮通信使」の存在を知るに至る経緯を書いた。そのコメントでわきた・けんいち さんから推薦を受けた『「朝鮮人街道」をゆく 』(サンライズ出版・¥1,020)という彦根東高校新聞部の調査結果を下敷きにして書かれた本を読み、朝鮮通信使について僅かながらもミニ知識を身につけてしまったもんだから、11月5日に難波宮で本祭の行われた古代アジアの国際交流を雅やかに再現するという「四天王寺ワッソ 」では、妙なところで一人興奮せずにはいられなかった。
その最たるものが、雨森芳洲の登場である。
雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)について詳しくは Wikipedia を参照されるとよいだろう。その冒頭文のみ引用すれば「中国語、朝鮮語に通じ、江戸時代中期の日本を代表する儒者」であり、「対馬藩に仕え、李氏朝鮮との通好実務にも携わった」鎖国時代に近江から出てきた国際人である。恥ずかしながら私は朝鮮通信使を通じて初めてその名を知ったくらいなのだが、先の著書では「雨森芳洲と高月町雨森」として1章のうちの四分の一が雨森について割かれていて、そこで取り上げられたエピソードなどを読んでいると、もう雨森シンパにならずにはいられない(笑) どうやら彼は徹底的なまでに真実を生きようとするリアリストだったようで、同時にそのことが幾つもの危うい論争を招く結果ともなっていたようである。
例えば1711年の通信使来日にあたり、新井白石が対面にこだわってか、これまで国書に「日本国大君」と記されていたのを「日本国大王」と改めさせた。この王号問題に反論し、深刻な論争に持ち込んだのが雨森なのだが、当時の雨森は白石の引き立てで幕府への仕官を望んでいる状態だったという。今の政治家や学者で自分の立場を顧みず、こうした論争を挑んでいける人物はどれくらいいるのだろうか?(しかし、新井白石ってのは歴史音痴の私でも名前知ってたくらいだけど、この「日本」という国に対する不理解ぶりを聞くと結構アホアホな人だったのでは?と思いたくなってしまう>汗)
また、こうした事例を知ると雨森が『交隣提醒』という著書で朝鮮との交わりについて記した「真実を持っての交わりを誠信というのであって、朝鮮人は日本人を欺かない、日本人も朝鮮人を欺かない、そして互いに真実を持って交わることが、誠信の交わりである」の「誠信」の意味がより明白になってくることだろう。
これは『「朝鮮人街道」をゆく 』に記されていたのだが、「通信」の意味とは語源を辿るならば「信」を「通ずる」という意であって、このネット時代にあって我々はとかく単なる情報伝達や報告手段としての「通信」を軽く受け留めがちだが、その本義は「誠信」を通ずるという至って重いものだったのである。
ところで先の「四天王寺ワッソ」では雨森芳洲に扮した一行は正直かなり地味で、私一人しか拍手してる人がいないのでは?って感じだったけど(冒頭の写真を見ても向い側の客が誰も見てないことが伺える)、私個人にとっては世宗大王や旅芸人一座、アクロバティックな JUMP よりも興奮の度合いは遙かに高かったのである。もちろん浜村淳演ずる聖徳太子よりも(^^;)
雨森の生まれた高月町では彼の業績を顕影し、アジアとの国際交流を目指すユニークなまちづくりが取り組まれているのだという。彼の生家も「東アジア交流ハウス 」として活用されているらしいので、また暖かくなってきた頃にでも尋ねてみたいものだ。
最後に一つ余談。ATOK で「あめのもりほうしゅう」を変換すると「雨の漏り報酬」とビミョーに住宅建築寄りの文字変換される(^^;)
【写真上】2006.11.05 14:47, 大阪・難波宮「四天王寺ワッソ 」にて
【写真中】高月町立観音の里歴史民俗資料館 サイトの「雨森芳洲について 」から「雨森芳洲肖像画(63KB) 」を転載。同サイトは「雨森芳洲と朝鮮通信使 」をはじめ、雨森芳洲に関する興味深いテクストが多数掲載されている。
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2006年11月04日 (土)
根津藍染町の丁子屋 さんの通りを挟んで向かいにキウイ棚のあるお宅があり、その脇の路地を入っていくと大阪屋荘という、なぜに谷中で大阪や?とツッコまずにはおれない集合住宅が出てきて(って、そのツッコミをいつも受けてるのはこのブログでありますが>汗)、その1階に金継ぎ「nico 」はあった。
実は最初、前回エントリーしたステンドグラス工房「nido 」のつもりで行ってみたらば「nico」だったという、、「d」「c」違いだったわけだが、そもそも私が「金継ぎ」の意味をちゃんとわかってなかったから、このような勘違いは生まれたのである。
「金継ぎ」とは芸工展マップの金継ぎ「nico」説明冒頭にもあるように「割れた陶磁器を漆で直す技法」のことである。読み方は「かなつぎ」ではなく、「きんつぎ 」であることもググっているうちに知った。「かなつぎ」という風に読むと、如何にも額などを作ってそうなところに感じられないだろうか?(汗)
展示は内外両方にあって、外は終日入り口前のブロック塀に金継ぎした陶磁器などの写真展示パネルを、中は土日と最終日のみの展示で、金継ぎした陶磁器を展示して、それらに触ってもよいことになっていた。もともと割れた陶磁器を継いだものとはいえ、デジタル一眼レフを肩からぶら下げていたので、別のところを傷つけてしまわないかと結構緊張した(いや〜、こーゆー場にごっつぇぇデジ一はホンマに鬱陶しいです)。
会場では「漆直しセット」なるものが 3,000円で売っていた。「漆直しと金継ぎの違いについて 」は金継ぎ「nico」サイトの同エントリーを読まれるとよいだろう。とにかく「漆直し」の技術だけで陶磁器の補修は可能ということのようだ。ご興味あられる方は同「販売しています! 」のエントリーまで。ちょっと面白いのが、同エントリーで紹介されてる「漆直しセット」の写真を見てると、芸工展マップが想起されること(笑)
尚、10月17日付の Kai-Wai 散策「nico 」のエントリーで紹介されてる「湯島のnico」というお店は輸入雑貨メインのお店ですので、くれぐれもお間違えなく!
あと、全然関係ないけど、Velvet Underground の nico は1938年10月16日生まれのようで、偶然にも私が金継ぎ「nico」に初めて行った日と一致していた。まあ、休みだったのだけど(泪)
谷中芸工展2006 【51(逢) 金継ぎ nico: 金継ぎの展示 】
割れた陶磁器を漆で直す技法「金継ぎ」を展示します。
また小さなカケならご自宅で簡単に直せる「漆直しキット」を販売します。
期間中は予約不要です。
10/14, 15, 21〜23/11:00〜18:00頃 台東区谷中2丁目
⇒公式サイト: 金継ぎ nico
【写真上】2006.10.16 11:44, 谷中2丁目/nico 前の路地
【写真下】2006.10.16 11:42, 谷中2丁目/nico の入り口看板
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2006年11月03日 (金)
ステンドグラス工房「nido 」は neonさんが今年の5月にノマドカフェで行われた個展「ピアニシモな建築たち 」で一部の画の額を作られ、「nido×neon 」って形でコラボレーション展示されていたので、前から気になっていた場所だった。neonさんご自身も、去年の芸工展をきっかけに「nido」を見つけられ、そこからコラボ展示へと話が展開していったことを「てのひらサイズの画 」というエントリーで書かれている。
確かに芸工展のような機会でもないと、谷中ぎんざのすぐ脇にあるとはいえ、細い路地の一歩奥に入ったところにある nidoは、若い女性などには入っていくのにちょっと勇気の要る場所かもしれない。
入り口に「ファミリー服装学院」「マキシマ研究所」といった看板があるってことも、最初から目的にして行く人でないと、深追い散策人でもない限りは私有地に侵入するような感覚に陥りそうである(笑)
ところで公式サイトの「about us 」によると「nido」とはスペイン語の「巣」の意味であるらしい。
ということは、谷中M類栖の「栖」と意味を同じくす るというわけだ。
芸工展バッヂの一文字漢字には「蝉」が割り当てられていたが、もし自由に漢字を決めることができたならば、nidoさんはきっと「巣」にされていたにちがいない。
ちなみにうちだったらば迷わず「栖」だった。が、実際に割り振られたバッヂは「遊」と「懐」だった。なぜか間違って二つ配られていたのである。
展示物としては手前のギャラリースペースではフォトグラファー中藤毅彦さんの写真展『atmosphere 』が、奥の工房スペースではNゲージの模型電車にステンドグラスを被せた「nido特製花電車 」が置いてあって、夜7時からの気まぐれキャンドルタイムではあかりのついたキャンドルハウスの間を花電車が走るらしい。生憎私は昼時に行ってしまったので花電車が動くところだけ見せてもらったが、一回くらい夜に見に行っておくべきだったと今にしてちょっと後悔している。
谷中M類栖/1f で今回展示した祖父が祖母を描いた小さな肖像画などは安物の味気ない額に入っているので、いつか nidoさんと一緒に作ってみるのも面白そうである。
谷中芸工展2006 【92(蝉) nido: 明かりの時間 】
細い路地の奥へ入るとキラキラと幻想的な光が漏れる手作りガラス工房 nido があります。夕暮れ時から気まぐれキャンドルタイムが始まります。
水休/11:00〜20:00 台東区谷中3丁目
⇒公式サイト: contemporary glass nido
⇒ブログ: nido
【写真上】2006.10.21 11:54, 谷中・よみせ通り/nido への路地入り口
【写真下】2006.10.21 11:54, 谷中・よみせ通り/nido の入り口看板
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2006年11月02日 (木)
「94. 中原絵亜: 空の日記(詩展) 」を見た後、すずらん通りを不忍通りに抜けて、まだ昼までに少し時間があったので寄ってみたのがこの古書ほうろう。まだまだ谷根千モグリなだけにこの古本屋に入ったのも恥ずかしながら初めてだったのだが(前を通ったことはあって気にはなってたのだけど)、谷中を生活拠点にし出したら間違いなく何度となく通うことになるであろう私にとっては充実した品揃えだった。
展示の方はUZOメンバーによる原画や絵が店頭・店内の至る所に飾られている。というか、お!こんなところにもあったぞ!と書店内でどこに作品が置かれているのかを探す楽しみもちょっとある感じだった。それだけ作品が古書店の日常風景(インテリア)に溶け込んでいるとも言えるわけだ。個人的にはポケットティッシュに入ってる絵、というか、そうした絵がポケットティッシュに入って置かれてるその雰囲気が好きだった。
尚、時間がなかったこともあって、店番されてた方にはうちのDM渡すだけであまりお話しなかったのだが、そのとき話した女性が「古書ほうろうの日々録 」というブログをされてるのかどうか? 芸工展絡みでも「UZO展が始まってるよ。 」「UZO展大盛況です! 」「谷中芸工展、あと3日。 」とエントリーされている。大通りなれども、不忍通りも掘り出していくとまだまだ侮れないものが見つかりそうである。
谷中芸工展2006 【98(鯉) 古書ほうろう: オルタナマンガミニコミUZO展 】
芸工展期間中、田中六大編集ミニコミUZOメンバーによる原画や絵の展示。
新作もあり。期間外10/9, 18:00〜友部正人ライブ「夜の本屋」(要予約)。
第三火曜休/平日10:00〜23:00 日祝12:00〜20:00 文京区千駄木3丁目
⇒古書ほうろう - 谷根千ねっと
⇒古書ほうろうの日々録
⇒漫画ミニコミUZO
【写真上】2006.10.21 11:38, 千駄木・不忍通り/古書ほうろう前
【写真下】2006.10.21 11:41, 千駄木・不忍通り/古書ほうろう店頭 UZO作品
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2006年11月01日 (水)
さて「谷中芸工展2006巡り 」で「個人的に印象の強かったところを幾つかピックアップして、追々個別にエントリー」としてみたものの、どのように紹介していくべきか?
私にとっては芸工展巡りのほとんど一番最後の方で回った場所であったが、まずは千駄木のすずらん通りの一角を利用して展示されていた中原絵亜 さんの「空の日記(詩展)」から取り上げてみたい。この企画、捉えようによっては今年の芸工展で唯一(?)芸工展そのものをモチーフとした非常にメタ色の強い企画なのである。
すずらん通りという名称は芸工展マップ上に明記されていない(以前のはあったらしい)のだが、よみせ通りを谷中ぎんざよりもさらに北上して向かって左手3本目の不忍通りとの間の道のことを言う。東京の商店街を歩こう「文京区/千駄木3すずらん通り商店会 」の言葉を借りれば「夜の店」の商店街とも言うべき、スナックや料理屋の並ぶ小さな街路で、おそらく私は今回初めてここを通ったはずだ。午前中だったので閑散としていたが、夜は下町の中の一つ裏に入った世界の小さな賑わいを見せているにちがいない。
中原絵亜さんの企画は、そんなすずらん通りの少し奥まったところのスペースを利用してトタン塀には今年の「空の日記」を、その向かいのドアを開くと階段のみが存在する不思議なスペースでは去年の芸工展での日記や詩、また今年の芸工展で開催中の他の企画のDMが階段をうまいこと利用して展示されていた(谷中M類栖/1f のもあった)。
「空の日記」というのは、芸工展期間中の「毎日の空」の写真に「毎日の詩」を書き込んでいくというものである。つまりそれは毎日一枚ずつ増えていくというわけだ。ただ、詩の書かれてない空の写真が二日分すでに吊されてたけど、あれはスペース確保用だったのだろうか?
とまあ、そんな細かいことはさておき、それらが洗濯鋏で干されたようになっているところが何とも愛嬌があって楽しかった。
また、向かいのちょっと入っていいのかな?って感じの2つ並んだドアのうちの一つも開けて中に入れるようになっていて、さきほども書いたように入っていきなり階段があって、階段を上がるとそのまま行き止まりになっている(もちろん上った先にはドアがあって、平常は居住空間用の階段として使われているのだろう)。
その階段一つ一つに並べられた他の企画のDMを見ていると、この作家さんは会期中に芸工展をいろいろと回られて、そうして回った経験それ自体を作品化されてるんだなぁということがしみじみと感じられる。マップ上では隅っこなのだが、今年の芸工展が濃縮されてここにあるといっても過言ではないだろう。そして、それが5年間続いてきてるというところが何とも感慨深い。
作家ご本人とはその場では会えなかったが、そこから程ないところで偶然出くわし、挨拶を交わした。なぜ互いに顔を知っていたかといえば、すでにご本人は谷中M類栖/1f ご訪問済みだったからである(笑)
谷中芸工展2006 【94(躍) 中原絵亜: 空の日記(詩展) 】
すずらん通りの一角で詩を展示します。皆さんも書いていってください。
家の前のトタン塀と中の階段で行います。どうぞ扉を開けてご覧ください。
期間中無休/11:00〜19:00 文京区千駄木3丁目
⇒中原絵亜さんの公式サイト?: 中原絵亜のページ
【写真上】2006.10.21 11:28, 千駄木・すずらん通り/94.中原絵亜: 空の日記(詩展)
【写真中】2006.10.21 11:24, 千駄木・すずらん通り
【写真下】2006.10.21 11:26, 千駄木・すずらん通り/94.中原絵亜: 空の日記(詩展)
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2006年10月31日 (火)
今月はどうしてもベスト10にランクインしてほしい検索ワードがあったのだけど、無事9位に滑り込んでくれた。谷中芸工展…10月はこれに明け暮れた月だったと言ってもよい。それに「谷中芸工展」でググると公式サイトに次いで2番目にこのブログが出てくる状態なので、谷中芸工展の面目に掛けても登場してもらわないわけにはいかなかったのである。…と誰に気を遣う必要もないのに、ホッとしている自分って一体?(汗)
他方でここ数ヶ月ぶっちぎりでトップを快走してきたドラマ「結婚できない男」が放映終了と共にガタッとランクダウンしてしまった。ドラマのアドバイザー役もされていた建築プロデューサーの朝妻さんも「あ〜ぁ、やっぱりね! 」で似たようなこと書かれているが、こうした現象もまたテレビの力の裏返しとでも言うべきなのか?(^^;)
谷中 2.3% 上棟式 2.1% 高過庵 2.0% グヤーシュ 1.7% 結婚できない男 1.6% 遊郭 1.4% 軍艦アパート 1.3% 藤森照信 1.1% 谷中芸工展 1.0% 板塀 0.9%
2006年8月の解析結果はこちら から。
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2006年10月30日 (月)
なんだかまたバタバタし出してきていて、丸井金猊リソース紹介はおろか、主に午前中に巡った谷中芸工展の他の参加企画のことも書くのが遅延して行きそうな気配濃厚である。とはいえ、幾つかの企画のところではエントリーさせてもらいますね!などと言ってきてしまっているので、とりあえずは遅れそうな旨、言い訳のエントリー(汗)
「雨音と共に終了す 」でも書いたように、うちは午後2時スタートという緩い時間設定にしたおかげで、午前中に少しは他の企画を見て回る時間を作ることができた。それでも大抵の場所では、互いに企画参加者同士ということでつい話がはずんでしまい、1日で3つ4つ程度しか回ることはできなかったのだ。そんなわけで、必ずしもたくさんの企画を紹介できるわけでもないが、まあ、個人的に印象の強かったところを幾つかピックアップして、追々個別にエントリーしていけたらと考えている(ちなみに既に「一服して最終日を 」のエントリーで40番「マクケノエン」は紹介済み)。
尚、各企画まわっていて何かと話題になったのが、自分のところで参加してしまうと他の企画を見に行くことができないという悩みと、谷中M類栖のブログ見てますよ!という話だった。後者は嬉し恥ずかしという以上に、固有の場を晒して書いているだけにその顔が知れるともう下手なこと書けないなというプレッシャーが少々。それと自分が大阪在住であることを話すとなぜに谷中の話題にたまに大阪の話題が混じるのかという疑問が晴れるのだった(笑)
ちなみにスタンプラリーは私と母はしっかり10個集めて今年の景品「芸工展オリジナルエコバッグ 」をゲット! ふだん手ぶらであることの多い私ですが、このバッグは底が安定していて、なかなか使い勝手もよろしい(ウッくんがちょうど入る )ようです。
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2006年10月26日 (木)
1932(昭和7)年に描かれた『南天絵圖 』は、サイズ W725×H1,200mmで、絹本に着彩・軸の仕様。保存状態は前回紹介した『鷺圖 (仮) 』よりはマシな環境といえるだろうか? 一応は桐の絵具箪笥の下段抽斗の中に絹本を丸めた状態にして包装紙で包んで収められていた。タイトル・年数情報はその包装紙に祖父がペン字で書き記していたものによる。表装は昔から何かとお世話になっている三鷹の飛高堂にお願いした。
1932年というと祖父が東京美術学校の日本画科を卒業する前年にあたり、学内の課題として描いていた可能性も高い。そう思って同期の花である杉山寧氏のアーカイヴを調べてみたところ、『南天図 』という作品を1929(昭和4)年に描かれていることがわかった(鎌倉大谷記念美術館 蔵)。しかし、3年早く描かれている上に葉の色付き方もまるで違う。学内の課題で描いたと早急に結論づけるのはちょっと難しそうだ。
右の画像が『南天絵圖 』の表具を除いた全体像を複写したもので、丸井金猊リソースの中でもとりわけ描写の細密度が高いものであることは画像をクリックしてこちら にアクセスすれば、実物をご覧になられたことのない方でもある程度は理解できるはずだ。実際、この時期の動植物を中心とした静物画を、コンセプチュアルな画題を求めた活動期後半(といっても20代後半だけど)の大作よりも好まれる方は意外と多い。それは画のリアリティをどこに求めるかによっても違ってくるのだろう。
私個人が興味深く見ているのは、冒頭で掲載した南天が実を付けた部分のディテールである。これもほとんど実物大となる Largeサイズ にして見てもらうとより一層わかりやすいだろうが、実の幾つかの塗料が剥離し、下塗りした明るい朱色が浮き出ててるように見える部分があることにお気づきいただけるだろうか? 私にはその塗料の剥離した調子がより一層南天の実をリアルに見せることに貢献しているように感じられるのだ。それは祖父が最初から剥離を想定して描いていたのか、それとも剥離したように敢えて見せかけて描いたのか(つまり剥離していないということになる)、そこのところはよくわからない。ただ、どうも out of control のボーダーラインをさまよう事象に心吸い寄せられがちになってしまうのは私の体質とでも言うしかない(汗)
ところで今回の展示では大作屏風『壁畫に集ふ』に、新しく出てきた『霜晨』『芥子花圖(仮)』、あとは常設状態になってる『鷺圖(仮) 』を出すということが決まっていた以外は現場判断で展示物を決めようということになっていた。それで芸工展の行われている秋だからということで、季節に合わせて南天、百合、椎茸、西洋芙蓉といったモチーフの画が選ばれることになった。まあ、芸工展の行われる季節は毎年秋なので、毎回秋モノを選んでいたらすぐネタ切れになってしまうとも言えるのだが。。
ともあれ実家には三鷹金猊居から持ってきた南天の鉢が、2Fのバルコニーに置いてあり、展示期間中、まだ『南天絵圖』のような実までは付けなかったが、徐々に葉を色づかせ始めていた。いよいよ秋も本格的に深まっていきそうな気配だ。
【写真】2006.10.22 10:21, 谷中M類栖/2f バルコニーにて
【補遺】展示終了後に、祖父が遺した下絵を再確認していたら、この『南天絵圖』の下絵も出てきたのだが、驚いたことに上記の軸装した『南天絵圖』はその下絵の左半分で、実は鳥の描かれた右側半分があったことが判明したのだ(下絵画像 参照)。以前に下絵もすべてチェックしたつもりでいたのに、すっかりその事実を忘れていた。こういうものはしっかり情報整理して書き残しておかないといけない。
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2006年10月24日 (火)
ふだんは所在地・時刻情報等をなるべく正確に記すよう心掛けている谷中M類栖であるが、このエントリーでは写真だけでノーコメントってことで(^^;)
【追記】2007年1月12日に再び撮影した写真に興味深いモノが写っていたので追加。
棟上げ前後と覚しき2棟の建物は果たしてどのようになっていくのか?
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10月22日の「雨音と共に終了す 」のエントリーでも書いたように、芸工展自体の最終日は終日雨が降り続いていた。ただ、谷中M類栖/1f はその日を片付け日に当てていたので、雨のおかげでどこも出掛ける気にもならず片付け作業に集中できたとも言える。雨が降っていなければ、おそらくは近場で行き損ねていた時夢草庵 と午後からしかやっていなかった谷中ホテルを見に行ってしまって、片付け作業も一日で済ませて24日の昼過ぎに帰阪の途に付くこともできなかっただろう。
そんな秋雨を降らす原因となっていたのが、関東南岸を通過していた低気圧である。帰りの新幹線ではこの低気圧の影響で低い雲が物凄い勢いで動いていて、窓の外を見ていて全然飽きなかった。車両の左右でも全然雲行きは違うし、トンネル一つ抜けると空の様子が一変したりする。8月8日エントリーの「cloud 88 」では台風の影響で東京でも大阪でもブログ騒然の空となっていたことは触れたが、この日の空の面白さはその形よりも変容ぶりの方にあったので、ブログでそれを言及するとしたらおそらくは日中に新幹線に乗っていた者だけに限られるだろう。
冒頭の写真と以下の写真は小田原より少し前あたりを走っていたときに撮影したものでその時間差はたったの1分しかない。共に太平洋側の車窓を撮ったものだが、空の様子はたったの1分でこれほど違ったのである。雲の低さも伺えるはず。
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2006年10月22日 (日)
谷中芸工展はここ2年、雨に祟られていたらしい。終了後のアンケートでも雨が降らなきゃ…という声が多かったらしく、今年は台風シーズンを避けた2週遅れの10月14日スタートとしたことが大正解だったようだ。実行委員日記「芸工展最終日 」にもあるように最終日前日22日の16時過ぎくらいから最終日終了までは降られてしまったが、それ以外の日は概ね晴れやかな日が続いてくれた。開催時期をずらしたことで、例年は同時開催的だった art-link とは14日・15日の2日間しか重複しなかったが、それを差し引いたとしても、マップ片手に回る芸工展にとって天気という条件は大きい。
谷中M類栖/1f は私が大阪から出向かねばならない都合上、芸工展の会期より1日遅く始まり、1日早く終了というスケジュールにしていたため、幸運にも雨に祟られたのは終了間際のほんのわずかな時間のみ。というか、土日はうちの展示スペースの面積からするとどう考えても定員オーバーの状況がずっと続いてしまっていたので、終了間際を静かに収めてくれたのはむしろ恵みの雨だったと言えるのかもしれない。
会期だけでなく、開始時間もうちは14時からと遅めの設定にしていたが、それは午前中に他の参加企画を見に行けるという点で正解であり、午前中にうちの近くを通った人を拒むことになってしまったという点で失敗だったと言えるだろう。まあ、うちが初めての参加で、まずは様子見のつもりで臨んでいたということからすると全体を見通せたという意味では正解要素の方が強かったかもしれない(もう一つは体力的な面でも)。
おおよそ準備の片が付いた10/16(月)〜20(金) まではなるべく積極的に他の参加企画を回るようにした。まあ、積極的にとはいっても、一企画を見る時間が思いの外長くなってしまって、そんなにたくさん回れたわけでもないのだが、、これはうちも企画参加してるせいか、とにかくどこへ行っても話が長くなってしまうのだ(笑)
というか、うちに来てくれたお客さんも企画参加していなくても、長居して行かれる方が多かったので、一企画で長居というのは芸工展ならではの特色なのかもしれない。まあ、スタンプラリーだけして帰って行く方ってのもそれなりにいたのだが(汗)
後半になると増えたのが「ココには凄いモノがある」という噂をどこかで耳にしてやってきてくれたお客さんだった。噂元が幾つあるのかはわからないが、こういう噂が立つということ自体なかなか嬉しいものだ。まあ、こんな感じで、丸井金猊リソースが徐々に谷中という場所で定着していってもらえればと思っている。
会期中、結局できなかったリソース紹介や、午前中に見て回った他の参加企画については幾つか気になったものなどを改めて個別にエントリーしていきたいと思っている。また、見に来てくれたブログ仲間の何人かが谷中M類栖/1f「丸井金猊リソース ver1.0」をネタにエントリーしてくれている。我が家のケヤキの把手を引いてくださった皆様、差し入れをくださった皆様と共にここにリンクにて謝辞とさせていただきたい。
・sympathy 〜共感〜: 谷中M類栖/1f (2006.10.08)
・Abejas e Colmenas: 谷中M類栖/1f (2006.10.09)
・Barcarolle: 写真と絵と食の魅惑の谷中ツアー (2006.10.15)
・sympathy 〜共感〜: 谷中M類栖/1f と谷中芸工展 (2006.10.16)
・Abejas e Colmenas: 午後の谷中 (2006.10.17)
・posinega: 秋の個展めぐり(1) (2006.10.17)
・谷中芸工展実行委員日記: 芸工展6日目 (2006.10.19)
・Kai-Wai 散策: 谷中M類栖 /1f (2006.10.20)
・家作りその他つれづれなく: 谷中M類栖/1f[丸井金猊リソース ver1.0]/谷中芸工展つれづれ (2006.10.22)
【写真】2006.10.21 23:56, 谷中M類栖エントランス(この写真は前日夜のもの)
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2006年10月21日 (土)
明日で谷中M類栖/1f は谷中芸工展よりも一足お先に(一日早く)終了。
で、あと一踏ん張りということで、ちょっと一服って感じのエントリーを一つ(笑)
谷中M類栖/1f は芸工展マップでは38番という番号が割り当てられてるんだけど、一つ間を空けて40番のマクケノエンでは図画工作愛好家の佐藤直樹さんの粘土人形(?)が気持ちよさそうにお灸で一服中 。
いっきゅうさん に いっぷくさん
あわてない あわてない
ひとやすみ ひとやすみ
イコアン
あと1日。こんな感じ で過ごせたらな〜と思うけど、無理やろな(^^;)
ちなみにマクケノエンのフラッグバッチは「蝶」。
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2006年10月20日 (金)
時すでに遅しの感もないでもないが、芸工展マップを玄関先に貼ってみることにした。展示が始まる前の午前中を利用して、なるべく他の参加企画も見に行くよう心掛けるようにしていたのだが、芸工展マップは地図が企画説明の裏面になっているため、町中で両方を照合するのに結構苦労することが多い。サイズが大きいので、マップを広げたときに風が吹くと思い切り煽られるし、細い路地や小さなお店のなかでも、広げるのにはちょっと向かないサイズなのだ。そんなとき、本部の蒲生邸脇や初音すまい研究所 前にマップが貼ってあったのは非常に重宝した。この状態なら、企画説明の解説をマップを見ながらちゃんと確認できたのである。
そんなわけで前日訪問された実行委員さんにうちでもマップを貼りたいので、真ん中に切り込みのないマップを購入できないか聞いてみたら、本部に残部があったはずなので取りに行ってほしいとのこと。本来マップは企画参加者も購入することになっているのだが、公的に貼る用だということで無料で一枚いただけた。
早速貼ってみると結構通り掛かりの人でマップを見ていく人は多い。・・ということが確認できるのはうちの玄関ドアには採光用のスリッドガラス を入れていて、ちょうど展示スペースのデスクに腰掛けるとその間からマップを見に来た人が覗ける恰好になっているのだ。こんなことならもっと早くにマップを貼っておくんだったという以上に、企画参加者にも切り込みなしのマップをそれぞれ配って、なるべく表に貼って貰うようにしてもよかったのではないか?と思う。そうすると次の企画に梯子するのがかなり便利になったはずだ。
尚、谷中M類栖/1f ではマップを貼る段階で自分のところがスタンプラリーをやってることを知らせるために、広島のもみじ饅頭で有名なにしき堂 の焼き餅咲ちゃん の協力を得て「スタンプラリーやってます」と記している。
【写真】2006.10.22 11:39, 谷中M類栖エントランスにて
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2006年10月19日 (木)
本日、谷中芸工展2006 の実行委員さんが見え、ひょっとするとうちのバルコニーの外壁に張られたポスターが今芸工展中、一番高いところに張られたポスターじゃないか?とのお話。なるほど、そんなことは全く考えたことがなかったけど、谷中は全体的に低い建物が多いので、その可能性は高いのかもしれない。加えてうちは谷根千でも最も海抜の高い立地にあるので、海抜で考えても一番高いのかもしれない(笑)
ただ、写真からもわかるように、こういうのを見るともう一回り大きなポスターを作った方がよかったかもしれませんねということを実行委員さんの方から言われた。どうも町のポスターを張らせてもらえる掲示板のサイズ規定があるらしく、それ優先で大きさは決まってしまっていったらしい。個人的には A4サイズのチラシがあったらな〜とは思ったが(それを何枚も張るって手もあるので)、そこは予算の都合もあるのだろう。
ポスターのデザインに関しては初見時のエントリーで「ド派手な 」と書いたけど、それ故に町中ではそれが目印としてしっかり機能して、非常に良かったのではないかと思った。もちろんディテールを見れば漢字が散りばめられて渋いところもあるんだけど、基本的にこういうもんは渋さよりも少し派手過ぎるくらいを追求した方がよさそうだ。
この日のことは実行委員会日記「芸工展6日目 」でも取り上げられ、「自宅を公開して参加をして下さっている方々には本当に感謝」ということは訪問中にも言われていた。意外と自宅公開の数は少ないらしい。言われてみればそんな気もする。数年前に回ったときに印象深かった自宅公開のお宅も今年は参加していなかった。まあ、実際に今回、初めて自宅の1階を公開という形で参加してみて、それなりの難しさ(課題)を感じなかったわけではない。それについてはまた改めてエントリーしていきたい。
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2006年10月15日 (日)
谷中M類栖/1f 、なんとか告知した10月15日の14:00 までに片付け&展示作業を終え、無事オープンさせることができました。初日からお越しいただいた皆さん、大変ありがとうございます。ただ、せっかく初日にお越しいただいたのに大変申し訳ないことに、丸井金猊リソースの展示リストとプロフィールを記した用紙の準備が間に合わず、それをお渡しすることができませんでした。同用紙の PDF ファイル(2.7MB) をサーバ上にあげておきましたので、よろしければこちら からダウンロードしてみてください。
尚、以下は初日を終えての所感(以上で「ですます」調は終了)。
・予想通り、玄関ドアホンを鳴らして入ってもらうという状態は敷居が高すぎた。
・靴脱ぎ〜スリッパへの履き替え指示が難しい。スリッパは下にあった方がいいかも?
・スタンプラリーだけを目的にしてる人もいるので、入口すぐのところに置くべきか?
・スタンプラリー用のデスクが小さすぎた。
・芳名帳は思いの外、住所まで書いてくださる方が多かったが、やはりご近所ゆえか?
・撮影禁止の札を母が付けていたが、文字情報が絵と喧嘩してないか、ちょい疑問。
・3組以上のお客さんが入ったときの対応がなかなか難しい。
・入口脇の軸がドアの風圧で揺れる(neonさん のご指摘)。場所or押さえ要検討。
・思った以上に気を抜ける時間がない。うちは開館時間が短いから午前中に出まわれる
けど、終日オープンにしているところは他のところを見に行くことができなさそう。
と以上が概ね本日気づいた点。
明日は平日で art-Link も終わってしまっているので、客足もだいぶ遠のくのでは?ということで、誰も来ない時間を有効利用して、上記課題の修正をはかっていく予定。夜は芸工展参加者たちが集うパーティーで、そこで初めてのご挨拶ということになる。
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2006年10月14日 (土)
芸工展の準備をしていたら夕方過ぎに玄関からパサッという音が‥‥。
夕刊や郵便にはちょっと遅いだろうと思って見に行ったら、郵便受けに届いていたのは台東区谷中坂町々会の回覧板だった。今住む大阪のマンションはもとより、三鷹でも見たことなかったのに、さすがは下町・谷中と言うべきか?
しかし、中を見ると専ら広告が主でお知らせ事項はほんのわずかだった。
でも、可能であるなら、これにうちのDMを副えたい気分である(^^;)
本日、谷中芸工展2006 が始まりましたが、
谷中M類栖/1f「丸井金猊リソース ver1.0」 は明日10/15(日) 14:00 からです。
本日ご訪問されても、まだ準備中ですので、お間違えのなきよう、、
というか、準備中=片付けが今なお終わらず、明日ホンマに始められるんかい?といった状況。これからオープンまでオフライン状況が続く可能性も高く、メールやコメント等ご対応が遅くなるかもしれませんが、その旨ご容赦ください。
それにしても会期前に丸井金猊リソース紹介とか、もう少ししたかったのだけど、1週間以上、家を空けるツケは大きく、ほとんど何もできぬままになってしまいました。会期中に余裕があれば、また展開していく予定です。
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2006年10月13日 (金)
谷中芸工展スタンプラリー 用の印肉、紫色のを大阪の100円ショップで買って行ったんだけど、少々色付きが悪い。やはり安物は安物ということか?(泪)
紫色を選んだのは、マップの地色に緑が多いので、そこから少々遠い色の方がよいかと思ったからだ。ただ、保護色の赤まで行くと行き過ぎかな?と。。
ちなみに私が押して回った中では黒が一番多く、そして一番しっかり発色していた。安物でない黒は家にあったので最初からそちらを使えば良かったとちょっと後悔。
それにしてもスタンプラリーをゲットするためだけにチャリで界隈を走り回ってるガキんちょ共がいたとはね(^^;)
何となく彼らの元気ぶりに押されて、最初は靴脱いで家に上がらないと押せなかったスタンプを玄関すぐの靴履いたまま押せる場所に移動してしまった。さてはて、どっちがよかったんだか??
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2006年10月07日 (土)
これから会期までの間に今回展示予定の金猊リソースを何点か紹介していこうと思う。
まず最初に展示が確定しているものとして、この「鷺圖 (仮) 」から取り上げてみたい。
「鷺圖 (仮)」は (仮) が示すようにタイトル不明、作品として完成しているのか、未完成なのかも不明なリソースである。「鷺圖」という仮のタイトルは分類のために私共遺族が仮に付けている。そうしないとタイトル不詳ばかりで整理が大変だからである。
サイズはW1,300×H1,300mmで、絹本に着彩の額装。ひょっとすると祖父は軸想定で描いたのかもしれないが、130cmの本紙に地の余白スペースを考えると相当横幅を広く取られることから表具屋さんのアドバイスにより額装となった。
制作年も同じく不詳だが、線描写に余裕と遊びが感じられること、また鷺という単一モチーフではあるものの、それを複雑に絡ませて画面を構成していることから、屏風や壁画などの複数モチーフを扱った大作を描くより前のもの(1930〜35年・20〜25歳)ではないかと思われる。ただ、構成という側面のみで見るならば「鷺圖」の方が単一モチーフで色数が少ない分、構成そのものの醍醐味はダイレクトに伝わるだろう。
と同時に画面中央の鷺が混み入ってるあたりは鷺の頭・胴体・足の繋がりが目で追っていくうちにどんどんわからなくなってくるので、それもまた興味深いところである。一見すると鷺の群れを描いたように思えるだろうが、頭数と足数が厳密に揃わないところを鑑みるに、これは群れを描いていたのではなく、一羽の鷺を複数の時間軸において捉え、それを一画面に落としたと空想してみるのも面白いかもしれない。
すると「兵庫県美のジャコメッティ展 」のエントリーで、ジャコメッティの絵画について書いたのと同様の高速アニメ一コマ落としの原理(「鷺圖」の場合は低速だけど)がここに見出され、レイヤー上の奥行きとは別種の、動きの中から生まれる空間が読み取れるようになってくるだろう。
・・と、そんな妄想に至ったのは、そもそも鷺って群れでいることあったっけ?と思うほど、私が街や田舎で出くわす鷺はいつも一匹狼鷺だったからなのだが(^^;)、ところが試しに「鷺の群れ」でググってみたらあっさりイメージ検索で幾つも写真が出て来るではないか! 祖父はやっぱりフツウにただ群れを見て描いてただけなのかもしれない。
ちなみにこの「鷺圖」、落款もなければ、そもそも見つかったときの状態もいい加減極まりないものだった。なんと!三鷹金猊居のお蔵の天井下、梁と梁の間に渡した板の上に要らなくなったポスターやカレンダー同然の扱いでポイっと置いてあったのである。実物を見れば幾つか黒目がないことに気づかれると思うが、それは発見直後に丸まった絹本を開いたら、ポロッと落ちてしまったのであった(汗)
ついでにこぼれ話を一つ。flickr contact の otarakoさん の写真で知ったのだが、この世には「鷺草 」なる植物もあるらしい。
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2006年10月04日 (水)
1909年愛知県に生まれる。本名 丸井金蔵。1933年東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科卒業。'35年同校研究科終了。市立川村女学院美術科、埼玉県立浦和第一高等女学校教諭を経て、'47年東京美術学校工藝科講師。'48年より以後20年以上に渡って神奈川県立工業高校工芸図案科(のち産業デザイン科)教諭を務める。
和洋エジプト入り乱れた独特の画風で、学生時代より旺盛な創作活動を見せるが、30歳に差し掛かる頃、時代は戦争へと暗転。以後ほとんど自作品の創作に向かうことなく、晩年を迎える。神奈川工業高校退職後、「死ぬ前に一度個展を」と再び絵筆を握り始めるが、1979年心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて急逝(享年69歳)。
1930年国際美術協会主催第一回美術展覧会入賞主席。主な仕事として'35年愛国生命保険(のち日本生命保険)壁画製作、'37年には阪急電鉄の創業者である小林一三氏の委嘱により東宝劇場階段ホール壁画製作 (火災により焼失)などを行っている。
以上は、1997年10月に三鷹市美術ギャラリーで開催した「丸井金猊とその周辺の人たち展」のチラシで掲載した祖父のプロフィールに一部加筆したものである(チラシをお持ちの方はどこを変更したか較べられると面白いかもしれない)。
この文章を書くにあたっては以下に転載する祖父本人が書き記した履歴書の他に、メモ帳や祖父のところに届いた手紙、また祖父の実娘である母や親戚の話などを参照した。
本来であれば、約40年に渡って連れ添った祖母に話を聞くのが一番なのであるが、事実上、祖父の遺作展を企図したのが脳梗塞で約3年間寝たきりを続けた(ほぼ喋ることもできなかった)祖母が亡くなってからだったので、どうにもならなかったのである。端から見れば何でもっと早くにと思われるだろうが、そもそも私が超無気力高校時代などを送ってしまって、祖父の早熟ぶりとは対照的にあらゆることに目覚めるのが遅かったのだからやむを得まい。だからといって、あの無駄に過ごした高校時代をやり直したいとも特には思わないのだが(無駄で馬鹿なりのよさがあったし)、やはり一つ惜しむべきは祖母からの情報収集がまるでできなかった点だろう。
「和洋エジプト入り乱れた独特の画風 」なんてのも今からするとかなり恥ずかしい表現だけど、まあ、事実でもあるので、そこはそのまま掲載した。でも、「入り乱れた」というよりは「異物をうまいこと構成した」と言った方が適当かもしれない(笑)
以下、転載する履歴書は基本的に祖父の記述をベースに西暦と年齢を添えただけのものであるが、最後の個人略歴と遺作展歴は私の方で新たに追加している。
□◇
丸井 金猊 履歴書
雅号 丸井金猊(キンゲイ) または 金臣(キンシン ※最初期)
本名 丸井金蔵 1909.10.19(明治42年10月19日)生
■学歴
1928.03(昭和 3年) 愛知県立工業学校図案科卒業
1928.04(昭和 3年) 東京美術学校日本画科入学
1933.03(昭和 8年) 東京美術学校日本画科卒業(修業年限5ヶ年)
1935.03(昭和10年) 東京美術学校研究科卒業(修業年限2ヶ年)
■画歴並びに業務略歴
1930.06 国際美術協会主催第一回美術展覧会に出品、入賞首席
昭和 5年・20歳(画題「菊」二曲屏風半双、東京平尾賛平氏買上)
1931.06 国際美術協会主催第二回美術展覧会に出品(無鑑査)
昭和 6年・21歳(画題「閑庭」二曲屏風壱双、公爵近衛文麿氏買上)
1933.03 東京美術学校卒業成績作品
昭和 8年・23歳(画題「菊花讃頌」二曲屏風二双連作、外務省政務次官瀧正雄氏買上)
1934.10 愛知社主催東都在住作家日本画展覧会出品
昭和 9年・24歳(画題「麗人散策」衝立、公爵近衛文麿氏買上)
1935.04 東京、私立川村女学院美術科講師並びに常任幹事職員
昭和10年・25歳(1941/昭和16年6月退職)
1935.11 愛国生命保険株式会社(社長原邦造氏)の委嘱に依り壁画製作
昭和10年・26歳(画題「奏楽」竪、幅共ニ十尺)
1937.05 (株) 東宝劇場(社長小林一三氏)の委嘱に依り同劇場階段ホール壁画製作
昭和12年・27歳(画題「薫風 」=騎馬婦人群像図、竪十尺、幅十八尺)
1942.01 東京、私立帝都学園高等女学校講師
昭和17年・32歳(同年3月退職)
1942.04 埼玉県立浦和第一高等女学校教諭
昭和17年・32歳
1945.12 埼玉県立浦和第一高等女学校勤務、高等官待遇(内閣)、地方教官二級
昭和20年・36歳
1946.10 浦和日本画家協会幹事並びに浦和市文化連盟会員
昭和21年・36歳
1947.04 東京美術学校講師を嘱託 工藝科勤務
昭和22年・37歳
1948.04 神奈川県立神奈川工業高校教諭 工芸図案科 勤務
昭和23年・38歳(1971/昭和46年3月退職・61歳)
■個人略歴
1909.10.19 愛知県葉栗郡北方村大字中島で丸井貝二・みわの三男として生れる
明治42年・0歳(現・愛知県一宮市北方町中島/兄弟は9人兄弟姉妹)
1928.04〜? 東京美術学校日本画科入学後、暫く谷中清水町に下宿
昭和 3年・18歳
1930.01.05 長兄・久右エ門、病没(享年28歳)
昭和 5年・20歳
1935〜 東京美術学校日本画科卒業 、この頃、親友・宮内秀雄 氏と知り合う
昭和10年・25歳(宮内氏はコンサイス英和辞典の編者で知られる英文学者)
1937.03.02 茅野さだゑと結婚
昭和12年・27歳(戸塚から下落合に転居)
1938.10.23 父・貝二、死去(享年70歳)
昭和13年・29歳
1939.03.23 弟・末太郎 、戦病死(享年24歳)
昭和14年・29歳
1939.11.03 三鷹金猊居、上棟
昭和14年・30歳(下落合から三鷹に転居/三鷹金猊居は金猊本人の設計)
1941.04.09 母・みわ、死去(享年63歳)
昭和16年・31歳
1942.04 戦争のため、一時的に三鷹金猊居を空けて浦和に疎開
昭和17年・32歳
1944.02 長女・美鷹 、誕生
昭和19年・34歳(妻さだゑの実家上諏訪にて)
1944.11.17 弟・了二、戦没(享年26歳)
昭和19年・35歳
1946.11 次女・鏡子、誕生
昭和21年・37歳
1970.11.24 初孫・隆人 、誕生
昭和45年・61歳(三鷹市村越産婦人科にて)
1972.03〜06 東村山市緑風荘に入院療養
昭和47年・62歳(病院からの手紙 )
1979.07.12 心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて死去(享年69歳)
昭和54年・69歳
1995.11.12 妻・さだゑ、三鷹市篠原病院にて死去(享年87歳)
平成 7年(脳梗塞から肺炎等を併発)
2003.08.05 妹・八恵、愛知県江南市の病院にて死去(享年91歳)
平成15年(金猊最後の兄弟姉妹)
■遺作展歴
1997.06.18〜06.22 「≪所有≫の所在」展(三鷹市美術ギャラリー)
平成 9年(屏風「壁畫に集ふ」の完成作とその下絵を並置)
1997.10.22〜10.26 丸井金猊とその周辺の人たち展(三鷹市美術ギャラリー)
平成 9年(当時発見済みの全リソース約60点をゆかりの人々の作品と共に公開)
1999.01.08〜01.17 飛高堂表装 丸井金猊 展(ぎゃれりぁ飛高堂)
平成11年(三鷹の飛高堂で表装した作品を展示)
1999.03.15〜03.19 丸井金猊展(東京丸の内・東京マリンギャラリー)
平成11年(副題:「閉ざされた成熟」のなかで/約50点展示)
2000.11.09〜11.13 浦和第一女子高等学校創立百周年記念美術・書道展
平成12年(伊勢丹浦和店7階アートホール/「白鷺圖」を出品)
2002.10.04〜10.13 家の中の金猊(三鷹金猊居)
平成14年(三鷹金猊居解体前の家そのものを展示空間とした展示)
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2006年10月03日 (火)
谷中M類栖の1階展示スペース名を「谷中M類栖/1f という名前 」にしたわけだが、
谷中芸工展に参加するプロジェクトの企画名は「丸井金猊リソース ver1.0」としている。これについても幾らかは説明を加えておいた方がよいだろう。
リソースとは「resource=資源」の意味で、現在にあっては IT 関連用語としての認知の方が圧倒的に強まってしまった感がある。実際、私が Web制作関連書籍で唯一影響を受けたと言ってもよい『スタイルシート Webデザイン 』の著者すみけんたろう氏のサイト名も「Ks Resource! 」であり、そのサイト内では「ホームページ」という和製用語の使用を批判し、その代案として「リソース」という言葉を提唱している。
まあ、その場合の「リソース」という言葉はあまり広まらなかったようだが、私は今回祖父の創作物をなるべく「作品」とは呼ばず、「リソース」として取り扱いたいという考えから「丸井金猊リソース ver1.0」というプロジェクト名を名付けることにした。
1997年に私は祖父の遺作展を初めて開催するに先立ち、「≪所有≫の所在」展という奇妙なタイトルの展示を行った。この展示では、祖父の屏風作品「壁畫に集ふ」とその下絵、また私の平面作品「おらないがみ」とそのプログラムを仕込んだPCという具合に、二つの完成作品とその創作過程を並置させ、作者と作品の間に生じ得る(あるいは幻想として生じているかに見える)所有関係を実験的に問おうとしていた。
しかし、それは事実上、そのあとに行う祖父の遺作展のための布石というか、祖父に対する言い訳のようなものだったのである。というのも、祖父が何も言わずに遺していった創作物の中には描き掛けのものもあれば、落款のないもの、また無造作に絹本のまま丸まって表装されてないものも多数存在していた。その中から私は祖父がどれなら自分の作品として認められて、どれなら認められないかという判断を厳密に行うことはできないと思ったし、そう思う以前に自分の感性に中途半端に頼って、曖昧な作品選別をするようなことだけはしたくないと思ったのである
そこで、半分は本気、半分は言い訳として行ったのが、祖父の手によるものと思われる遺品を出来得る限りナンバリング→データ化して、「作品」としてよりも、時代考証のための「資料・資源(リソース)」として提示するということだった。
そして、その考えは今もほとんど変わっていない。どころかインターネット時代の到来と共に、もはや祖父への言い訳として取り繕う必要性すら感じなくなってきている。
てなわけで、本展からはもう単刀直入に「丸井金猊リソース」と称してそれをシリーズ化し、今後は完全に自由なリソースの組み合わせとして展示機会を継続的に作っていきたいと考えている。ちなみにバージョンの小数点表示は、臨時の展示や企画延長なんてことを想定して融通を効かせやすいよう、設定したものである。
【冒頭画】「≪所有≫の所在」展で展示した丸井金猊 作『壁畫に集ふ』下絵・部分
※画像の上にマウスのカーソルを置くと、完成作の同部分が表示されます。
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2006年10月01日 (日)
9月29日(金) に谷中芸工展ガイドマップの折り込み作業「四季折々 」を手伝いに行った母が手伝い特典として早めに受け取ったマップをDMと一緒に送ってくれた。
まだマップの紹介は公式サイトでもされてないようなので、ネタバレになっても何だしまたの機会に譲るとして、このエントリーではDMの方を軽く紹介しておこう。
以前に紹介した「谷中芸工展2006 ポスター 」同様、DMにも楷書体の漢字が書き込まれている。ポスターでは少々ランダムにレイアウトされていた多数の漢字が、DMでは7×7−1で整列し、中央に「谷中芸工展」の文字が赤く浮かぶものとなった。パッと見た限りではポスターとDMの漢字は一致しているようで、おそらくは谷根千界隈をイメージする漢字を選んだのだろう。それとも漢詩であるとか、実は別のメッセージが織り込まれているのだろうか? ちなみに左下の空欄に「ここには好きな文字を!」とのことだが、うちは迷わず「栖」を選びたい。
ところで今年の芸工展参加企画数はぴったり100なのだそうだが、その100企画がどんな漢字を当て嵌めたのか、それを回収して並べ直してみても面白い気がした。ネットでならタグ機能を使って幾つ重なったのかを確認するのも面白いだろう。
なお、切手面の方には以下のように書いてある。
うちは芸工展の開催日と最終日はオープンしてないので、くれぐれもご注意のほど!
まちじゅうが展覧会場
谷中芸工展二〇〇六
十月十四日(土)〜二十三日(月)
谷中・根津・千駄木・上野桜木
池之端・日暮里界隈の
まちじゅうが展覧会場になります。
地図を片手に
いつもと同じまち
いつもと違うまちを
ぷらぷらしてみませんか?
あなただけの発見を探しに。
谷中芸工展事務局
ホームページ:http://www.geikoten.net/
※ガイドマップは本部・参加店等にあります
(谷中芸工展は谷中学校を母体として活動しています)
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2006年09月30日 (土)
もはや抵抗するつもりもない。というよりももう阿部ちゃん、っていうか金田の更新がもう見られないのかと思うとかなり寂しい。ちなみに「金田裕之のホームページ 」という検索ワードでのアクセスも3件ありました(笑) 続編希望します!
結婚できない男 6.6% 軍艦アパート 2.6% 無印良品 1.8% 遊郭 1.4% 高過庵 1.2% 谷中 1.1% 上棟式 1.3% 岡啓輔 1.0% グヤーシュ 0.9% 家 0.8%
2006年8月の解析結果はこちら から。
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2006年09月28日 (木)
開館以来、久々に安藤忠雄氏が設計した兵庫県立美術館に行った。
と建築系ブログのような書き出しだけど、見に行ったのは建物ではなくて、10月1日迄開催中の『アルベルト・ジャコメッティ展──矢内原伊作とともに 』である。神奈川県立近代美術館での開催中 に行けなかったので、兵庫県美でやることを知ったときには小躍りしたくなったものだが、そんな小躍りを遙かに上回る満足の得られた展示だった。
「谷中M類栖/1f という名前 」のエントリーで私は「告知も半径3kmくらいまでにしておこうか」とコメントしているが、ジャコメッティ展ならば半径120km(新快速からの乗り継ぎで来られる米原を想定)くらいまで告知したい気分である。
というわけで、会期もあとわずかなので取り急ぎの告知エントリーなのだが、今回面白かったのはジャコメッティといえばの印象が強い細長彫刻もさることながら、雑誌の表紙や紙ナプキンに描かれた落書き資料と共に多数展示されていた絵画作品だった。
館内では「アルベルト・ジャコメッティ展 かわら版」なるQ&A式の解説が裏表に書かれた一枚の用紙が配布され、その中でも絵画が沢山展示されていることに触れ、「人物を描いた絵画では、顔にタッチが集中して、まるで彫刻のような立体感が感じられるでしょう」とまとめられている。で、確かにタッチが集中していて、立体を見ているような感覚は得られるのだが(館内ではしきりにジャコメッティの有名な言葉「見えるものを見えるとおりに表わす」が掲示されている)、果たしてその立体感というのは、文字通りの3D的意味での立体感か?という点では少々疑問を感じないでもなかった。
むしろ私にはそのタッチの描き込みが一コマに無理矢理落とし込まれた高速アニメのように見えてしまって、基本的には静止しているはずのモデルのわずかな動きが時間軸をもって捉えられ、その動きによって立体的に見える、そんな印象だった。そして、それに慣れた目で再び彫刻を見るとこれがまた面白い。最初のうちは彫刻は絵画のように、絵画は彫刻のように見えるものだと思いながら見ていたが、彫刻には面ごとに高速アニメの上積み分がさらに載っているのである。ロダンも好きな彫刻家の一人だけど、彼の作品はどこかマッスの単位で見てしまうところがあって、それゆえにカラクリを見出すとついその先を見てないことがあるのだが、その点でジャコメッティはキューブの作品であってもずっと見続けてなければならない感覚に襲われる。そんなの私だけ?(汗)
かわら版では「枠」の話についても触れられているが、このブログは作品分析を目的にするものではないので、参考文献として、宮川淳 著『鏡・空間・イマージュ 』(白馬書房・¥2.625-)を、また、今回展示数が多かったわけではないけど、それでも数点見ることのできたキューブの作品については、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン 著『ジャコメッティ──キューブと顔 』PARCO出版・¥3,600-)を挙げておく。
後者の本は絶版になってしまったのか、ユーズド価格¥8,500- ですと?!
なお、兵庫県立美術館が会期終了した後は、千葉の川村記念美術館 に巡回するようだ。
主催・東京新聞の紹介サイトはこちら 。
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2006年09月26日 (火)
すでに「谷中芸工展の紹介文 」の時点から記載してきたように、谷中M類栖の1F展示スペースはそのままベタに「谷中M類栖/1f 」という名前にすることになった。「1階」という意味での「1f」。実家からは「if =もしも」に見えるというツッコミもあったがURL「yanaka.m-louis.org/1f 」との連係から、ここは小文字にこだわることにした。
もし流通性といったことを考えるならば素直に「谷中M類栖ギャラリー」などとしておいた方が賢明だったかもしれない。しかし、どうも「ギャラリー」という言葉を用いることに、うちの1階スペースにおいては抵抗を感じてしまうのである。
Wikipedia「ギャラリー 」にも出ているが、ギャラリー=ガレリアは本来イタリア語で「回廊」を意味するものである。ところがうちの展示スペースにはあまり回廊っぽさがない。自立する巨大屏風の常設を想定して設計されたため、展示壁面の面積も少なく、事実上、一壁面の一室空間といっても過言ではない設えとなっている。つまり廊下的要素のあるところに展示物がまるでないのだ。それをギャラリーと呼ぶのってどうだろうか? 別に「言葉」なのだからどこまでも語源に忠実である必要もないのだが、どうも出来上がったうちのあの空間を見て、ギャラリーと言うのには違和感を覚えたのだ。
またギャラリーの対訳として日本では一般化している「画廊」という側面においても、当面の間はうちが画廊的機能・サービスを提供できるとは考えられない。これは私が東京に住むことになったとしても難しい仕事だと思うが、そんな運営者すら不在の現在にあって画廊なりギャラリーなりと銘打つのはちょっと烏滸がましい気もするのだ。
と同時にやはり何は言っても、我が家は住宅なのである。これも私が住んでいれば話はまた別だが、私的空間に公共性を持ち込む以上、セキュリティのことも相応に意識しておかなければならない。住所や電話番号の表記等、本当に迷いどころである。
そんなところから、今回、この展示スペースの名称を「谷中M類栖/1f 」という、ある意味1階という場所をただそのまま指してるだけの名前にすることになった。まあ、これで定着してくれるなら、それはそれでいいだろうし、状況にそぐわないようなら変更することもあるかもしれない。その辺の気軽さは自宅ならではである。
オチになるかは微妙だが、ついでにもう一つだけ、「谷中M類栖ギャラリー」を避けた理由を書いておこう。それは「作品管理・展示空間考 」のカテゴリに既に「gallery」というディレクトリを割り当ててしまっていたので、専用サイトを設けたときに URL が被るという問題があったのだ。その点で「1f」は語数も短く、URL 向きだった。
というか、この URL 問題が先にあって、そこから上述の理由が後付けられたのでは?という問いがあったとしても、決してそれは穿った見方だとは言えない(笑)
【写真】2005.03.09 18:35, 谷中M類栖1階, 正面の屏風は『観音前の婚礼圖(仮)』
(「谷中M類栖/1f──丸井金猊リソース ver1.0」で上記の作品は展示されません)
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2006年09月23日 (土)
先月、前から調子の悪かったプリンタがとうとう御陀仏になってしまった。一応、自前修復できないかと中を開けてみたのだが、夏の暑さのせいだろう、インクを左右に移動させるベルトのようなものが伸びきってしまっていて、それを交換する必要があるようだ。となるとその部品から探さねばならず、やむなく処分することにしてしまった。
ただ、その処分のおかげ?というべきか、本棚の上に置いていたプリンタ一箱分、空きスペースが出来た。そこで地震対策も考え、天井までぴったりと嵌る本棚を作り、日常手に取ることの少ない書類やカタログ類を置くことにした。しかし、だいぶ前から容量オーバーとなっていた本棚だけに、オーバー分であっさり埋まってしまったのである。
というわけで、いずれは売るなり処分するなりすることを考えねばならないのだが、そうなったときに一番に槍玉にあがるのは家づくりのときに各種取り寄せたカタログ類ということになるだろう。もうだいぶ処分してはいるのだが、あと一棚分、一応最終的に利用することになった設備等のものが捨てられずにあるのだ。何だかそれはいざというときの確認用として残しておきたい気もするし、それにいつかブログで触れるかもしれないと思うと何だか捨てられないのである(汗)
実際、施主卒業生のみなさんはカタログってどうされてるんだろうか?
個人的には必要なところだけスクラップして、1、2冊のファイルにまとめるのが一番と思っているのだけど、なかなかそれをやる時間というのは作れるものではない。こういうカタログというのは年ごとにどんどん変わっていくので、誰かに譲れるものでもないしなぁ。先のプリンタ同様、事物的リサイクル性に乏しい代物と化しつつある(何かの土台に使うという手はあるが)。まあ、商品がそう簡単にリサイクルできないんだから、そのカタログも同じ運命を辿るしかないんだろうが。。
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2006年09月21日 (木)
実家からの荷物に芸大絵画棟8Fから我が家の方角を撮影した写真が入っていた。
なんでも芸大が9月8日〜10日まで藝祭 期間中とのことで、その期間に8Fまで上ってきたようだ(まあ、ふだんからうちの両親は頻繁に芸大 に入り込んでいるのだが)。
で、先日の「工事中@Google Earth 」ではないが、わかる人にはわかるうちの建物3Fより上部分が今度はちゃんとタラップ薄緑青色で写っている。
ちなみに Google Earth で似たような角度を見るとこんな感じ。
当たり前っちゃ当たり前だけど、実際に見るのとは全然違う。まだまだ一般にネット上に転がる街並み写真はそれはそれで貴重なものと言えるのだろう。
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2006年09月18日 (月)
Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」の「50,000 のキリ番・企画 」。
私が見たときにはもう 50,005で、一応その旨コメントしておいたら、キリ番ゲットのラッキー人物が現れなかったため、前後賞ならぬ五後賞にまで記念品が出るとの話。
「琵琶湖畔発にふさわしいもの」として今森光彦著『藍い宇宙 琵琶湖水系をめぐる 』が本日届いたのである。これは7月に近江八幡の水郷巡り をしてきたばかりの我々夫婦には非常にタイムリーな嬉しいプレゼントだった。わきたさん、多謝!
内表紙を捲ると琵琶湖水流図と琵琶湖面の写真。さらにもう1ページ捲ると近江八幡の
水郷地帯に残るヨシの集積場の写真が出てくる。朝靄の中といったところだろうか──その薄暗い集積場に葦の束ねられた写真に私は早速ノックダウンを喰らってしまった。
177ページには水郷巡りのときにその名を知ったカイツブリもしっかり載っていた。冒頭の写真は今森氏の写真には遠く及ばないが、水郷巡りの船から撮影したカイツブリである。「ヨシ原の際に巣をつくるカイツブリは、天真爛漫のように見えるが、わずかな風のそよぎにも敏感に反応して首をキョロキョロさせている。絶えず周りに聞き耳を立て、一瞬たりとも警戒を緩めない」とあるように、船からある一定の距離離れたところで潜っては浮き、潜っては浮きして、餌を探し求めていた。
その点、カモは人懐っこかった。
右上写真の一輪のカモはしばらく船の前を航路を案内するかのようにぷかぷか泳いでいたし、左の写真のカモたちは船がすぐ真横を通過しても飛んでるんだか跳ねてるんだかという感じでギャーギャーと井戸端会議でもしてるような雰囲気だった。
81ページには琵琶湖西岸にある針江大川河口の船着き場に集まる鳥たちが皆人懐っこいと書かれている。琵琶湖東で人懐っこいのはカモだけだったが、西の船着き場ではカモ以外の鳥たちも人懐っこい表情を見せるらしい。まだ琵琶湖の西側はあまり攻めてないので、この本を便りに琵琶湖西岸域の旅程も組んで行きたいものである。
ところでこの本の著者であり写真家でもある今森光彦氏のことを、私は氏が『昆虫記 』という大型本を上梓されたときから知っていた。アマゾンで発売年をチェックすると1988年。私が高校生のときだったわけだが、当時、昆虫図鑑といえば写真ではなく絵で描かれたものが主流だったので、その生写真版が出たということでちょっとした話題となり、私も吉祥寺のロンロンの本屋で何度も立ち読みしたことを覚えている。
ただ、買うことはなかった。まず高校生だった私にとって3000円の書籍というのはちょっと手を出すには高値過ぎたというのが第一。また、その頃あたりから私の興味・関心は美術や建築といった文化的なものにシフトチェンジし始め、昆虫への思い入れが薄らぎ始めていた頃でもあった。そしてもう一つ買わなかった理由はおそらくその昆虫生写真が当時の私には少々リアル過ぎたのである。
人の顔同様、昆虫だって左右の形状が100%対称形である虫なんてどこにもいない。ところが従来型の昆虫図版に馴れてしまっていた私の目にはそれらの非対称が何ともグロテスクに映っていたのだろう。今の私であれば、むしろそうしたリアリティの方こそを求めるか、あるいは絵なら絵でとことんデフォルメされるかティピカルなものを喜びそうだが、当時の私はその辺でまだまだ初心な純情少年だったのである。
ただ、『今森光彦・昆虫記』を買わなかったことが心の奥底でずーっと引っ掛かっていたのも事実である。そうでなければ今回わきたさんからいただいたプレゼントに「今森光彦 」という名前を見つけて、すぐにハッとすることもなかっただろう。17年前の躊躇が琵琶湖のカイツブリと共に浮いて来ようとしているようだ。
50,001をゲットされた AKiさんも aki's STOCKTAKING「藍い宇宙 / 琵琶湖水系をめぐる 」で本が届いたことを報告されている。
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2006年09月17日 (日)
家作りその他つれづれなく「クリエイターズ/世田谷美術館にて 」で『クリエイターズ - 長大作/細谷巖/矢吹申彦 』という企画展が世田谷美術館で行われているということを知った。期間は9月24日(日) までで残念ながら私は行けそうにないが、実家にはこの情報を伝え、時間をつくることができるならば観に行くようにと話しておいた。
というのも、この3人のクリエイターのうちの一人、細谷巖氏は私の祖父・丸井金猊が神奈川工業高校 工芸図案科(のち工芸デザイン科)の教鞭を取っていたときの教え子であり、また1997年に『丸井金猊とその周辺の人たち展』という展示をしたときには出品協力をお願いし、祖父へのメッセージもいただいているのだ。正直ここで「教え子」だなんて書くこと自体も烏滸がましい存在なのだが、当時の私は怖いもの知らずもいいところで、神工出身の名だたるデザイナーたちに無理難題な協力をお願いしていたのである。今思えばデザインの「デ」の字も知らない分際で、超一流のデザイナーたちによくもあんな無粋なチラシや発行物を平然と送っていたものである(汗)
細谷巖氏に関しては世田美の企画展プロフィールを読んでもらえればと思ったのだが、どうも世田美のサイトは期間が終わると次の企画展情報に切り替わってしまって、過去の企画展は概要のみしか記されなくなるようなので、以下に引用しておくことにした。
世田谷美術館・企画展『クリエイターズ』──細谷巖
日本で最初の広告制作会社である「ライトパブリシテイ」に高校卒業後、入社。現在に至るまで、独立せず、テレビCMではなく紙媒体を基本に広告制作を続ける。1955年日宣美展にて特選を受賞し、以降、田中一光、和田誠らと日本のグラフィックデザインの隆盛期を築いた。1975年よりキユーピーマヨネーズの雑誌広告、新聞広告等を手掛ける。写真、コピー、ロゴマークのみで構成するシンプルな作品は、時が経っても新鮮さを失わないものとなっており、ストレートな広告が長く力を持つことを再認識させる。
finziさんも書かれていたように、細谷さんの作品をご覧になると「ああ、あれもこれもみんなそうなんだ〜」ときっと多くの人が思われることだろう。記憶の片隅からほじくり出してくるというよりは、記憶の中心にどーんと座って一端を見せればすぐに蘇ってくるという感じの作品なのだ。気になる方は「タイムトンネルシリーズVol.19 タイムトンネル:細谷巖アートディレクション 1954→ 」のページを参照されるとよいだろう。
当時、細谷巖氏にいただいたメッセージはできればここで紹介したいところだが、本人確認が必要と思われるのでこの場では控えることにした。短い文章ではあるものの、祖父から正倉院御物の宝石箱の真珠にからめられた唐草の模写を課題に出されたときのエピソードなども書かれている。当時作った冊子の残部はまだ少々あるので、ご希望される方は谷中芸工展開催時の「谷中M類栖/1f 」会場でお申し出ください。
尚、右の書籍写真は2004年10月に白水社から出版された『細谷巖のデザインロード69 』という伝風半生記で、神工時代に思い出に祖父の名前も見つけることができる。
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2006年09月16日 (土)
さて、谷中芸工展2006 までいよいよ1ヶ月を切ってしまった。
差し当たってこれから約1ヶ月半くらいの間は、芸工展関連とその出展物作者である母方祖父=丸井金猊絡みのエントリーが増えてくると思う。祖父についてはこれまで結構色々なところでアウトプットしてきたせいか、思いの外、このブログで触れていないことに気づいた。そこで今回の展示を機に祖父の経歴等も改めて紹介していこうと思う(現在、祖父を紹介するサイトも閉鎖→再制作検討中状態にあるので)。
それと、ふと気づくと谷中芸工展サイトのリンクページ には既に「谷中M類栖/1f 」へのリンク(申込み時に申請した URL に)も張られているので、慌てて情報を詰め込んだページを作成。気づく人は気づくだろうが、ほとんど flickr のパクリ である(汗)
当座はこのページを「谷中M類栖/1f 」のトップページとして凌いで、行く行くは全面的にデザインチェンジして「谷中M類栖/1f」のギャラリーサイトとしていく予定である。
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2006年09月15日 (金)
日本語版「Google Earth 」が公開された。去年6月にも「Google Satellite 」というエントリーで、Google Maps BETA版の Satellite 機能を紹介したが、前回が世界地図の衛星画像版だったとすれば、今度の「Google Earth」は衛星写真の地球儀化とでも言えようか? いや、NYタイムズ誌が「鳥のように飛べたらいいなと思ったことはありませんか…」とレビューしたように、鳥のように上下左右にグラインド可能な視座を得たとも言える。と言っても、結局画像自体は一視点で撮られた写真に過ぎないので、ズームインすれば所詮その3D感覚は画像を歪ませることによって錯覚させられているものであり、視点の切れ目のズレ(アラ)は補いようのないものなのであるが、、そういう意味では「Google Earth」が楽しく感じられるのはズームインしたときよりもズームアウトしながら「地球は丸い」と感じさせられるときである。
ところで「Google Satellite」で谷中の実家位置を確認したら、そこがまだ更地だったことは前回書いたが、今回確認したら家は一応あるようなのだが、緑青色をイメージして塗ったはずのタラップがまだ鉄骨の赤色のままなのである。ということはこの谷中界隈の衛星写真は鉄骨が立ち上がって、竣工するまでの工事期間、つまり2004年3月〜7月までの間に撮られた写真だということになる。
冒頭の写真でわかる人はどこに赤いタラップがあるかわかるはず(笑)
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2006年09月13日 (水)
ここ数日ずいぶん涼しくなってきたが(今日は半袖では寒かった)、この写真はもっとお寒く今年の2月に近所で撮影したものである。場所は都島橋西詰の樋之口町 。うちから大川を上流に歩いて徒歩10分、800mくらいのところなので充分散歩コースの圏内。しかし、私がこの場所を歩いたのはこの日が初めてだった。
この近くには宮脇書店と100円ショップのダイソーがあるので、それなりに足を向ける場所ではあるものの、ふだんはチャリで行ってしまっているので、大通りからなかなか一歩踏み込む機会を持てずにいた。私道なのか公道なのか見分けづらいくらいに細くて狭い路地なので、住民でもないのにチャリで入るのは気が引けるというのもあった。
この日の私はたまたま大川べりを散歩していて、都島橋下の行き止まりで都島通に出る最短距離を取らず、一つ手前の路地から大通りに出てみよう、そう思って踏み込んでみたら、それが樋之口町内をジグザグに抜ける陋巷だったのである。「陋巷」とは neonさんのブログ「N的画譚 」のタイトル下説明文で初めて知った言葉だったのだが、この場所はまさに「陋巷」だと思える場所だった。その意味は敢えて記す気はないので、ご存知ない方は辞書などで調べられるとよいだろう。
ちなみに冒頭のタイルの剥げ落ちたブロック塀を写した写真は必ずしもこの場所を表象するものではない。多彩な表情を持つ陋巷の一場面を写したに過ぎないが、ただ、私がこの塀の前を通ったときに感じたのは9年前にインドを一人旅 したときにトランジットで寄ったソウルの安宿街の路地の記憶だった。タイル張りという共通点は持たないが、路地を撮った写真も残していたので、参考までに一枚スキャンしてアップしておく。
【写真上】2006.02.10 15:41 大阪市北区樋之口町の路地にて
【写真下】1997.12.16 韓国ソウル市鍾路(チョンノ)北側の路地にて
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2006年09月10日 (日)
ここのところ仕事の方が妙に忙しくて、ブログ更新してる余裕がまるで持てず。
で、ブログ更新はやむを得ないにせよ、谷中芸工展 の準備にまるで時間が割けないって方がちょっとピンチ。会期1ヵ月前にして未だDM作成すらできてない(汗)
とはいえ、実家の方も今回は様子見って感覚の方が強く、ないならないでもいいよ!と言ってくれてるので、気分的にはかなり楽というか、その甘い誘惑にノッてしまいそうな自分が今ここにいる。やはり家での展示ってのは緊張感ってもんが、まったく起きてこないもんなのだなぁ。これがどこかに場所を借りて賃料払ってのものだったなら、忙しかろうがDMくらいは作っていたことだろう。
てなわけで、とりあえず今回ここでお披露目するのは、7月末〆切ですでに提出済みとなってるスタンプラリー用の判子原稿。うちに遊びに来たことのある人はこの妙な形が何なのかはわかってくれるんではないかな〜。さて、朱肉の色は何色にしたものか?
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2006年09月01日 (金)
実家から「谷中芸工展2006 」のポスターが届いたという電話。
早速デジカメで撮影して添付で送ってもらった。母曰く、三崎坂を歩いていたらこのド派手な(といっても、決して鬱陶しいわけではない)ポスターを見つけ、あら?と思って家に帰ったら、うちのポストにも3枚入っていたらしい。
このブログでは縦長サイズの画像はサムネイルで見せるようにしているのだが、今回は特別にそのままベタ張り。すでに町中では張られているということだが、ひょっとしてネット上で最初に張られたのは谷中の看板背負った大阪発のブログだったりして(汗)
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2006年08月31日 (木)
このブログもとうとう完全に阿部ちゃんにうっちゃられてしまった(^^;)
これまで対抗馬だった「上棟式 」が5位に転落し、その代わりに「岡啓輔 」が急浮上。これは間違いなく、ほぼ日刊イトイ新聞に「ひとりでビルを建てる男。 」というタイトルで岡さんのセルフビルド連載が始まったからで、改めて人気サイトの力を実感。
他、興味深いところでは「家」という一文字漢字が初ランクイン。
一体何ページ目で検出されてるのやら?(汗)
結婚できない男 5.4% 軍艦アパート 2.2% 谷中 1.8% 岡啓輔 1,4% 上棟式 1.3% 家 1.1% 高過庵 1.0% 地鎮祭 0.9% 遊郭 0.8% グヤーシュ 0.7%
2006年7月の解析結果はこちら から。
余談。阿部ちゃんドラマの建築家「金田裕之のホームページ 」ホンマにあります(^^;)
ふと気づけば「結婚できない男」と「ひとりでビルを建てる男。」って微妙に似通った表現だけど、後者はひとりものではありません、一応(^^ゞ
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2006年08月29日 (火)
上の画像は長らく私が PowerBook のデスクトップ用壁紙にしているものである。
「CWVF≒臭突 」のエントリーで、ちはる さんから「子供の頃はココからサンタさんが入ってくるのだと信じたものです」というコメントを受け、思い出したのが私も子供の頃、つまり三鷹金猊居在住時代に風呂場の煙突を見上げながら、首を傾けつつもそれでもサンタクロースを信じようとしていたことである。
三鷹金猊居は敷地内に風呂場が独立して存在する、それだけ聞くとかなり贅沢な家だった。しかし、田舎育ちの妻でさえ驚いたように、その独立風呂小屋ともいえる風呂場はなかなか年季が入っていて、戸・窓はガタガタのスカスカ、ある意味、覗きもし放題。冬場は冷たい風がピューピュー吹き込んでくるような、裸になったら即風呂に飛び込まないとやってられん!くらいのオンボロ風呂だったのである。
風呂は木桶でガスで沸かし、そのガスの換気口ということだったのだろうか? 煙突が付いていた。しかし、風呂を沸かしても煙が出たわけではないので、むしろ臭突に近いものだったと言えるのかもしれない。
小学校高学年になるくらいまで純粋培養の超無邪気少年だった私はサンタクロースの話も何の疑いもなく信じてしまうようなアホな子供だった。ただ、そんなサンタを信じつつもちょっとだけおかしいなとは思ってもいたのである。それはまず第一に煙突の穴が通気用の細い穴しかなくて、とても人が入れるような大きさではなかったこと。もう一つは風呂場が独立しているので、どうやって私の寝ていた母屋まで入ってきたのか?ということ。そういうプラグマティックな面だけは空想世界に対する無思考ぶりに対し、多少は冷静に考えようという側面を子供ながらに兼ね備えていたようである。
デスクトップの壁紙に冒頭の画像を選んだ理由は色相のバラツキが少なく、彩度抑えめで背景として目に鬱陶しくないというのが第一ではあったが、どこかこの煙突には何とも言い難い懐かしさのようなものがあり、それを無意識裡に選び、長く使い続けている理由にも繋がっているのだろう。そしてまたそれを無意識裡に日々見続けていることが私の必要以上の「CWVF≒臭突」への興味・関心にも繋がっているのかもしれない。
臭突を通れぬサンタの最大のプレゼントは「臭突」そのものだったのである。
【写真上】2002.10.07 09:33 三鷹金猊居・風呂場の煙突・モデル:ウスケ
【写真中】2002.10.03 10:53 三鷹金猊居・風呂場の浴室・モデル:ウスケ
【写真下】2002.10.14 05:36 三鷹金猊居解体日の早朝・風呂場の正面写真
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2006年08月26日 (土)
幼馴染みの moopee 氏来阪ということで1日大阪観光を付き合った。
で、まあ、定番の新世界・通天閣にも寄ったところ、これが何と「ネオン広告意匠製作中」というシートが被せられ、ナマ通天閣を見ることができなかったのである。まあ、通天閣が珍しくも何ともない大阪居住者にとってはかえって珍しい光景だったもので、喜んで撮影していたのだが、moopee氏にとっては残念というか、話を聞くとどうも彼は塔運が悪いらしく、以前パリに行ったときもエッフェル塔が工事中で60%減の状態でしか見られなかったということらしい。南無〜(汗)
ちなみに「ネオン広告意匠製作中」以外の面は右の2枚の写真からもわかるように「HITACHI」と「10月28日 通天閣開業50周年」という垂れ幕的シートが被され、もう一面は見てくるのを忘れた。そういえば、今まで1回も真下から東面は見たことないな。市立美術館くらいのところからは見たことあるんやけど。。
通天閣のオフィシャルサイト によれば「10月28日 通天閣開業50周年」の垂れ幕通り、それを記念してネオンの全面リニューアルを計画。本年7月1日から工事は始まり、10月27日に新たなネオンが点灯するということが「通天閣ネオンの全面的なリニューアル工事に着工 」という同サイト内ニュースに書いてあった。
とまあ、ここまではタイトルの話。
ここから先はちょっとだけ冒頭にアップした写真=昔の通天閣のことを書いてみることにする。現在、通天閣のちょい南東にあるジャンジャン横丁 もこれまた通りの北東部一面が開発工事中で、工事塀には通天閣の歴史を写真で見せるパネルが展示されている。あのジャンジャン横丁は正直あまり開発されて欲しくないが、ただ、その通天閣歴史パネル自体はかなり面白い。そんなパネル写真の中の一枚が冒頭の写真なのだが、見ての通り、現在の通天閣とは姿・形共にだいぶ違う。っていうか、どっちかというと、先程 moopee氏の塔運のことで引き合いに出したエッフェル塔の方がよっぽど近い。
で、それが実は「それもそのはず」なのである。まずこの通天閣写真は1956年に完成した現在の二代目通天閣ではなく、1912年、ルナパークと共に建設された64mというその当時東洋一の高さを誇っていた初代通天閣であり、そのデザインはパリのエッフェル塔と凱旋門を模したものとされているのである(この2つを組み合わせるという発想が何とも笑える)。ちなみに初代通天閣のことは通天閣オフィシャルサイトを見るよりも、Wikipedia「通天閣 」の方が少しは詳しいだろう。
それにしてもエッフェル塔と凱旋門のドッキングもさることながら、ルナパークと通天閣がロープウェーで結ばれている(それも明治時代に)というのは凄いの一言に尽きる。これならばここが「新世界」と呼ばれても誰も違和感は持たないに違いない。
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2006年08月24日 (木)
去年の秋に flickr で nodoca さんらと「臭突」のことが話題になったことがあった。
臭突とは水洗化されてないトイレ(所謂汲み取り式便所)の臭いを外気に排出する煙突状のファンのようなものである。それまでは漠然と煙突との区別なしに田舎でときおり目にする光景として捉えていたが、それが話題になってからは妙に意識して見るようになってしまった。というか、まず最初はその名前がわからなかったのである。
そして名前のわからないまま、「トイレの換気するヤツ (Copyrighting by isado )」についての Group「chimney with ventilation fan=CWVF 」を nodocaさんが flickr に立ち上げられる。で、「CWVF」という造語が flickr 仲間(といっても極数名)間での通称となっていたのだが、今年の正月に妻の実家・総領に帰省した折り、当然のように2器備わっている 家なので義父母に聞いてみたのである。
すると最初はその名前に思い当たらないのか、換気なんとかじゃろと誤魔化していたのだが、帰阪日の車の中で二人が何食わぬ顔して「あの臭突が・・」などと話しているのである。う〜む、彼らはどこかで調べていたのだろうか? それとも突如思い出したのか? いずれにせよ、その名前ならば CWVF を表現するのにもしっくり来る。早速帰宅後にググってみると wikipedia の「汲み取り式便所 」説明文に「臭突」という言葉は出ており、また、ネポン という会社からはしっかり「臭突 」という名の付いたソケット等が販売されていた。どうやら義父母の弁に間違いはなかったようである。
ところで今回なぜ「臭突」の話を突如エントリーしたかというと、Kai-Wai 散策「N的家譚 」で masaさんが江戸川区平井で見つけられた如何にも neonさん画仕立てな家の写真をアップされ「これで臭突が装備されていたら…」と悔しがられるのだが、そしたら neonさんがN的画譚「紫陽花色の家 」でお返しとばかりに臭突装備の画をアップされるという経緯があり、まあ、何となく私もそれに反応して「臭突」のことに触れたくなってしまったのである。ちなみに neonさんはコメントで「臭突」の「臭」の字が哀しいので「もっと他の呼び名はないもんでしょうか?」と書かれているのだが、とりあえず私共で提供できるのは「CWVF」と、他に nodocaさんがミクシィで発見して教えてくれた「クルクル王子様 」なんてのがある。どないでしょか?(汗)
尚、冒頭の写真は flickr「CWVF 」Group のアイコンとして採用されてる(nodocaさん、多謝!)私が去年の夏に愛知県の稲沢市で撮ったもの。また下のランダムで表示が切り替わる正方形サムネイル写真は「CWVF」Group にプールされたもの。
それとトイレ絡みの写真をひたすら収集されてる satohknackさんという方の Yahoo! フォトアルバム「HTE 臭突 」「くるくる臭突 」は臭突選として大いに見応えアリ!
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2006年08月23日 (水)
去年来のサテライト写真ブームのおかげで、最近は専ら地図検索には Google Map や Yahoo! 地図情報 しか地図検索に使わなくなってしまっていたのだが、久々にマピオン にアクセスしたら「キョリ測β 」なる新機能を発見! コレ、以前からPC上で地図を見るときに欲しいと思っていた機能なのである。例えば大阪自宅から桜宮橋東詰のドンキホーテまで行くのに、源八橋を通るのと桜宮橋(銀橋) を通るのとどっちが近いか?とか、谷中実家のJR最寄り駅は上野・鶯谷・日暮里でどれが近いのか?とか、駅を拒んだ町・妻の実家総領町の最寄り駅は上下で正しいのか?とか。。
これまではそれをモニタに定規を当てて計測してたのだが、この「キョリ測β」のおかげでこれからはそんなことをする必要もない。正確な距離はもちろんのこと、徒歩、自転車、自動車での所要時間も出してくれるし、さらには性別・体重・年齢を入力して消費カロリー計算までしてくれる。まあ、所要時間計算の方は徒歩(3.2km/h)というのは少し遅すぎるし、自動車(40km/h)は標準速度なのかもしれんが、信号などが想定されてないようなので、ちょっとアテにならない。谷中実家から上野駅まで2分で付くとは到底考えられないからだ。
とはいえ、この機能はこれからも私にマピオンのアクセス機会を増やさせてくれそうである。ただ、Google Map や Yahoo! 地図情報等にその機能をパクられたら、またそっちに行ってしまいそうではあるが(汗)←サテライト付ければいいのに>マピオン!
ちなみにさきほど例示した3件についての結果はこうであった。
大阪自宅→桜宮橋東詰のドンキホーテ
・源八橋経由:約1.1km(1085m) 自転車6分 消費カロリー約29kcal 1356歩
・桜宮橋経由:約1.2km(1182m) 自転車6分 消費カロリー約29kcal 1477歩
谷中実家→最寄り駅
・上 野:約1.2km(1153m) 徒歩22分 消費カロリー約65kcal 1441歩
・鶯 谷:約1.3km(1344m) 徒歩25分 消費カロリー約74kcal 1680歩
・日暮里:約1.0km( 991m) 徒歩19分 消費カロリー約56kcal 1239歩
総領実家→最寄り駅
・上 下:約13.7km(13736m) 自動車21分 自転車75分 徒歩258分 17170歩
・甲 奴:約16.2km(16199m) 自動車24分 自転車88分 徒歩304分 20249歩
・備後安田:約11.9km(11947m) 自動車18分 自転車65分 徒歩224分 14934歩
・備後庄原:約13.0km(13017m) 自動車20分 自転車71分 徒歩244分 16271歩
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2006年08月21日 (月)
お盆に妻の実家(広島県総領町)への帰省で、毎年楽しみの一つにしてるのがクワガタ獲りである。まあ、クワガタ獲りといっても、山に分け入って探しに行くのではなく、町のスーパーに備えられた誘虫灯や街灯、自動販売機に集まったクワガタを夜中に探しに行くだけの話。今年はコクワガタ♂ 2匹、♀2匹にアカアシクワガタの♂を1匹捕まえた。コクワのペアは甥がいるときに捕まえたので、甥にプレゼントし、甥が帰ってからさらにコクワのペアとアカアシクワガタの♂を捕まえたもので、それは大阪に連れて帰り、現在は私のPC椅子の後ろのカゴの中でゴソゴソ元気に動き回っている。
ところで私は35にして初めてアカアシクワガタを捕まえた。というか、生きているアカアシクワガタを見たのも初めてかもしれない。捕まえたときにはコクワだと思っていたのだが、家に帰って明るいところで見たら腹と足が小豆色をしていて、これはアカアシクワガタに間違いないと思ったのである。非常にセコい話なのだが、捕まえたのが甥の帰った後で良かったと思ってしまったのは、私が幼い証拠である(汗)
ちなみにクワガタに詳しくない人にアカアシクワガタのクワガタ界でのポジショニングを説明するのに、Google の検索検出結果数比較をしてみようか。
アカアシクワガタ 11,200 件
コクワガタ 127,000 件
オオクワガタ 403,000 件
ヒラタクワガタ 124,000 件
ミヤマクワガタ 153,000 件
ノコギリクワガタ 221,000 件
カブトムシ 2,590,000 件
以上からもアカアシクワガタが如何にマイナーなクワガタかは理解できよう。
とりあえず「Dorcus Breeding Studio 」というサイトの「アカアシクワガタ 」のページを見ると、成虫の越冬は可能ということで、年寄りでなければ長く飼い続けることもできそうだ(コクワは3年くらい生きる)。ただ、高温に弱いとのことで、エアコン利用頻度の低い我が家もアカアシ君のためにエアコンつけねばならなくなってしまった。
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2006年08月18日 (金)
諏訪の高過庵 を見に行ったゴリモンさんのエントリー「木の上に住んでみたい♪ 」コメントで、X-Knowledge HOME 特別編集 No.7『ザ・藤森照信』 を紹介しておきながら自分は目を通してないというのも何なので、本日、堂島のジュンク堂で買ってきた。
まだパラパラと写真を見ながら、藤森照信×岡崎乾二郎=対談「最後に残る建築は?」しか読んでないのだが、藤森建築撮り下ろしと称する写真、これがふだん建築雑誌等で見掛ける写真とちょっと違う。というか、ゴリモンさんが Photoshop 加工して最近よく遊んでられる「箱庭梅田 」写真にそっくり? てゆーかゴリモンさん、それらの写真を指して"本城直季もどき"って書かれてたんだけど、『ザ・藤森照信』の撮影者とはまさしく本城直季氏ご当人だったのである。
高額な建築雑誌を買えない身分の藤森ファンの一人としては、建築雑誌でしか見られなかった藤森建築写真も所収されているということで、フツウの建築写真(写真としての作品色の強くない)を期待していたのだが、それはあくまでプチマニアックな個人的所有欲ということで本城直季氏の写真を採用した編集方針の是非についてはさておく。
しかし、私が興味深かったのは藤森×岡崎対談の中で、藤森氏が神長官守矢史料館 の実物をオープン前に見たらそれが模型に見えてしまって恐怖を覚えたと告白していることである。この告白があって本城直季氏が撮影者として選ばれたのかはわからないが、この実物/模型についての話は建築論としても写真論としても面白く読めるので、以下に引用しておく。
藤森照信×岡崎乾二郎=対談「最後に残る建築は?」(『ザ・藤森照信』P.126) 神長官守矢史料館(1991)を作った時にものすごいショックを受けたのは、作ってオープン前ですけど、見ているとなんか実物が模型に見えた。ものすごい恐怖でさ。それは実は草の生え方の問題だったんです。地べたと土蔵のほうの外壁は、湿気の問題で切ってあるんですよ。スーと線で空いてた。あわててそこへ土を盛ったらちゃんと地べたに生えた。で、要するにそのことだけで実物になったり模型になったりするということがえらく恐怖で、ちょっとしたことで付いたり離れたりする本質を僕の建物は持っている ということに、もう初期に気づいたのね。
本城直季氏がどのように撮影→現像してるのかは知らないので、あくまでここではゴリモンさんの「もどき」話に限定するが、彼は「箱庭梅田」写真を Photoshop で「コントランストを強めにして上でピンボケ加工する」ようにして作られている。その際の加工技術は「箱庭」の持っているリアリティに近づくべく費やされている。しかしながら考えるまでもなく、その「箱庭」のリアリティとは「箱庭」自体が現実の世界のリアリティを得ようとして得損ねた部分にこそ現れているのである。そしてその得損ねた部分を得るために必要とされる技術がコントラスト強めだったりピンボケだったり、、そして『ザ・藤森照信』の大半の写真がそんな感じで模型の複写なのだか、現物の複写なのだかよくわからないのである。
しかし、おそらく藤森氏はこの刷り上がった『ザ・藤森照信』を手にしてもその実物だか模型だかわからない建築写真に「ものすごい恐怖」を感じることはないだろうという気はする。それは本城直季氏の写真の質の問題とは無関係に、それが写真であること、そして藤森氏が建築家であることに起因すると見るのは純朴すぎるだろうか?
ゴリモンさんには是非この冊子を手にする前に、高過庵箱庭にも挑戦してもらいたい♪
【写真】『ザ・藤森照信』表紙をスキャンしたものの部分掲載(撮影:本城直季氏)
【追記】後でググってみたところ、本城氏の写真は「大判カメラを用い、アオリによって擬似的に浅い被写界深度を表現することによって、実際の風景をまるでミニチュアの接写であるかのように見せる手法が特徴的」(by はてな )とのことで、Photoshop 加工を積極的に取り入れた写真ではないようだ。「Tokyo Source: 012 本城直季(写真家) 」で彼のプロフィールと自作品についてのインタビューが掲載されている。
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2006年08月09日 (水)
年配の友人からのメールに「お施餓鬼」という言葉が使われていて、恥ずかしながら私はその言葉にそこで初めて接したのだった。そのメールには親切にその意味も添えられていたが、当然初めての言葉に接したときには Google である(笑)
ここでは葬儀・葬祭会社の文章を引用する。本来、読点の入りそうな場所が全角スペースになっていてちょっと読みづらいので、その部分はこちらで適宜修正を施した。また赤字・緑字は本文とは別のところで使っている。
お施餓鬼とは (ファミリーホール株式会社 )お施餓鬼は餓鬼道の世界に落ちて苦しんでいるものに、飲食を施す という意味で、すべての生き物の生命を尊ぶことを教えています。人間としてある私たちも、いつかは餓鬼道に落ちるかもしれません ので、施すことを怠ってはいけない ということでしょう。
『施餓鬼会』は、通常、お盆の時期に行われますが、本来は特定の日に限定されるものではございません。お盆の由来の目連尊者のお話と施餓鬼の由来の阿難尊者のお話が似ていることから、この時期に行われるようになったようです。
これを読んでいて一つピンと来たことがあった。
「施餓鬼」という文字に含まれる「施」という言葉についてである。それは言うまでもなく「施主」の「施」とも一致し、「施す」という意味において、その語義の方向性的にも共通するものだろう。しかし、私は「住宅建築と施主」というブログを立ち上げ、実際「施主」という立場で家づくりに関わってきたにもかかわらず、どうもその言葉に馴染めずにいたのである。
それはその「施す」という言葉のイメージが妙に横柄に感じられ、如何にも身分不相応のことをしているように思えていたからというのがまずは大きい。特にうちの場合、三鷹の土地を手放して得たお金で建てた家なので、誰にも自分の身銭を切るという感覚がなく、余計に「施す」という意識が遠くなってしまっていたのかもしれない。
しかし、上記引用した「施餓鬼」の意味を読んでいて、「施す」にはもう少し深い意味が込められているように感じたのである。それはその言葉の前提に「回る」という観念が組み込まれてはいないだろうか?ということだ。要するに餓鬼道に落ちた亡者に我々が食べ物を施すのは、現世の我々もまたいつの日か餓鬼道に落ちてしまうかもしれないという輪廻の循環を前提としてのものである。としたとき、「施主」という立場もそうした循環=リサイクルシステムの中において、回り回って施し施されしているのではないか?ということである。少なくともそれは昔の村社会での家づくりであれば、建て主が「お施主さん」と言われるのは非常に頷けるものがあった。家を建てるということ自体が村の祝い=お祭りのようなものであり、その家が建てばそのお施主さんは今度は別のお施主さんに協力したり何だりと、その立場自体が循環していくる。その点で上棟式の餅投げの図はそれを象徴する振る舞いとして非常に納得できるものがある。
ところが都市生活において、そうした風習は一部の儀式のみが形骸化して残りはしたものの、その意味自体はほとんど失われたものとなってしまっている。だから、そんな都市空間での家づくりで「お施主さん」と言われても、それは営業トークの「社長」とか「先生」って言葉と同程度のものにしか聞こえない。
また都市生活者の施主はそういう人との繋がり以外においても、建築過程全体の循環=リサイクルからも切断されてしまってるように思えてならない。その一例として友人のセルフビルダー:岡啓輔氏(彼の家づくり記録は現在、ほぼ日刊イトイ新聞「ひとりでビルを建てる男 」で掲載されてます!)から聞いた話を最後に紹介しておく。
基礎工事で掘られて余った土って、その処分料を施主は支払い、あとで再び土が必要となったときにはまた別途、新たな土を購入しなければならない。もちろん一度処分した土の保管は経費が嵩むから、掘った土をそのまま使い回せとは言うわけではない。しかし、他でも土を必要としている施主はいるだろうだから処分せずにリサイクルシステムをしっかり構築すればいいのにと思っていた。そしたら、どこもとは言わないが、結構それらの土は処分されずにリサイクルされてるのだという。それを聞いたとき、損をするのは施主だけど、まあ、リサイクルされてるのなら少しはマシか?と思っていたのだけど、やはりそういうシステムがあることを施主に直接的に感じさせないというところが、施主を「施主」の語義ならざるものにしてるな〜とも感じずにはいられなかった。
結局、現世界の家づくり環境で自分を「施主」と思い込むのは難しい。
【追記1】
garaikaさんが「「解体」の違和感 」というエントリーで「現代の「カイタイ」は「解体」ではなく「壊体」ではないのだろうか」と書かれていたが、この「壊体」工事も施主から「施主」感覚を奪う一つの例と言えるだろう。
【追記2】
「施餓鬼」という言葉を知って程なく、総領の義母から「今年のお盆は施餓鬼に行きんさい」という電話。物凄いタイミングにびっくり。まあ、そういうタイミングの季節でもあるのだが、、何はともあれ、暑中お見舞い申し上げます。
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2006年08月08日 (火)
8月8日、東京発のブログではサンセットブームなるものが起こっていたらしい。敢えてそのブログタイトル名等は記さず、その地名から以下に幾つかリンクしておく。
下北沢 、高井戸 、井の頭通り 、京島 、根津 、清瀬 、三鷹 、浦安 、、
どうやらそれらのエントリー内容から察するに台風接近の影響で、夕焼け空への雲のレイヤーの掛かり方が尋常ならざるものとなっていたらしい。ところでその日、大阪は?というと、同じく台風は接近していたものの、結局、雨すら降らず。
そして夕焼け時間には夕食の準備などをしていて、ベランダに出ることすらしなかったのだけど、それより少し前の17時過ぎ、大阪の雲も東京とはちょっと違う感じで面白いことになっていたので、マンションの最上階の非常階段から撮影。何だかマグリットが冗談めかして描いた空のようだった。
ちなみに関西でも夕焼けを撮ってた(または語る?)ブログ等はあって、それらの地名リンクも幾つか追加しておこう。
伊吹 、吹田 、、と、オイ!尻取りか?(^^;)
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2006年07月31日 (月)
「ブログの力」よりも「テレビの力」の方がまだまだデカいってことを実感させられた今月。上位常連ワード「上棟式 」が辛うじて施主ブログの面目を保ってくれた(汗)
「フランクフルト空港 」が10位に入ってきたのは、ドイツワールド杯の名残か?
例年だと「不忍池 」「蓮」といったアクセスワードがこの月だけ上位ランクインするのだが、今年それがなかったということは検索サイトで後の方のページに回されてしまったということだろう。まあ、全然それで構わないんだけど‥‥。
上棟式 4.9% 結婚できない男 4.7% 軍艦アパート 2.8% 谷中 1.6% 天神祭 1.5% 遊郭 1.4% 高過庵 1.2% 写真 0.8% 橋本遊郭 0.7% フランクフルト空港 0.6%
2006年6月の解析結果はこちら から。
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2006年07月29日 (土)
LBGO「近江八幡日帰りの旅・その3 」で京街道商店街の丁稚羊羹で有名な紙平老舗のことが書かれているのを読んでいて、お店のご主人から教わった話を一つ思い出した。
それはその商店街のある京街道が近江八幡〜彦根あたりまでにかけて朝鮮人街道とも呼ばれているということについてである。ちょうど市立資料館を出て、商店街へと向かう途中に「朝鮮人街道 」と書かれた石碑があり、その脇には近江八幡観光物産協会による以下のような説明書きがなされている。
朝鮮人街道(京街道) 近江八幡観光物産協会 江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やした と言われています。
行程は、ソウルから江戸までの約2,000キロにもなりますが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれています。
本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行われました。
江戸幕府が鎖国中にオランダを始めとする数カ国との国交を維持し続けていたのは知っていたが、まさか朝鮮からの使者をこれほど盛大に迎えていたとは知らなかった(国交といってももっと細々としたものと思っていたのだ)。その「多い時には500人規模で組織され」たという「朝鮮通信使」については、はちまんガイド「やさしい朝鮮通信使の話 」や「Wikipedia (幕府と李王朝の仲介役となった対馬藩の話が面白い)」を参照されるとよいだろう。
関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が中山道の脇街道だったこの京街道を凱旋したことから、京街道は吉例の道とされ、大名行列の往来などが禁じられる。そんな中で朝鮮通信使は特別扱いの厚遇を受けて、その吉道の行列通行を唯一認可されたのである(そこには幕府の内政威圧意図もあったようだが)。おそらくはそのことから近江庶民の間で京街道を「朝鮮人街道」と呼ぶ習わしができたのだろう。
紙平老舗のご主人によれば、何年か前(おそらく2002年10月19日・20日)に当時の朝鮮通信使の行列通行を再現する行事が行われ(おそらく「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流大会 」)、ふだん見慣れぬ衣装を着た人たちの行列が店の前を通ってとても面白かったと言われていた。最近『宮廷女官 チャングムの誓い』にハマッているので、その様子は何となく想像ができ、もしまたの機会があれば是非とも行ってみたいものだ。
ところで朝鮮人街道と呼ばれる区域ではないものの、京街道といえば、今年の3月に行った橋本遊郭 も京街道沿いの宿場町の一つなのであった。また、その終着点というか出発点は豊臣時代に京橋から高麗橋に移されたというが、高麗橋といえば如何にも朝鮮的な名前であり、実際「Wikipedia 」にも朝鮮半島との関係が複数の説において語られている。で、その高麗橋は家からチャリで10分程度のところなので、改めて確認に行ってみると何度か通ったことのある阪神高速下の橋で、橋の脇にあった石碑の文章をこれまた引用しておこう。何となく欄干の擬宝珠のデザイン を見て韓国風に感じたのだけれど、そのことについては特に触れられていなかった。
高麗橋 (こうらいばし) 昭和51年春 大阪市東横堀川は大坂城築城のとき外堀として改修されたといわれる。高麗橋はそのころにかけられたらしく現在大坂城天守閣に保存されている慶長九年(1604)の銘のある鉄製擬宝珠(ぎぼし)はこの橋のものと伝えられている。
江戸時代の高麗橋は幕府管理の十二公儀橋の中でも格式高く、西詰に幕府の御触書を掲示する制札場があったほか諸方への距離をはかる起点にもなっていた。
明治三年(1870)九月大阪最初の鉄橋にかけかえられ、さらに昭和四年(1929)六月に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかわった。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷(やぐらやしき)を模した柱は昔の面影をしのぶよすがとなっている。
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2006年07月22日 (土)
わきた・けんいちさんの Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」で「トヨクニハウス 」という戦前のRC造集合住宅を知って以降、都島方面に用がある度に何度か見に行っているのだが、なかなかそれについてエントリーする機会を持てずにいた。この日もコーナン都島店にフライパンを買いに行く必要があったため、前を通りはしたものの、今は大相撲名古屋場所期間中なもので、夕方の外出でそう悠長に寄り道してもいられない。というわけで、自転車に乗ったまま撮影したトヨクニハウスのロゴのみ今回は紹介することにしよう。厳密にはロゴそのものよりも、「トヨクニハウス・A」のロゴが夕陽を浴びて出来た影の方を撮りたかったのであるが。。
この愛らしい鉄の文字にはドロップシャドーが付くとまた何とも言えない味わいが出てくるのである。そして、改めて写真でその影を見ていると、ふと、ある4文字が頭の中で錯覚を起こして浮上してくる。私の世代にとっては懐かしのロールプレイングゲーム「ドラクエ」である。
おそらく「ドラクエ」がこのような書体を使ってたことはなかったと思うが、しかし、トヨクニハウスの持っている雰囲気はどこかドラクエに出てきてもよさそうな趣がある。そんなトヨクニハウスに関しては自分の中の「団地」という問題意識と重ねて機会を改めて触れる予定にしている。
【写真】2006.07.22 16:02, 大阪市都島区高倉町1(地図 )
【関連エントリー】
・ALL-A: トヨクニハウス01 (2005.11.13)
・ALL-A: トヨクニハウス02 (2005.11.16)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: トヨクニハウス (2006.05.04)
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2006年07月21日 (金)
妻の LBGO「近江八幡日帰りの旅・その1 」では近江八幡の葦が天神祭で大阪天満宮 に奉納されるということについて触れられている。近江八幡への日帰り旅行で水郷めぐりをしたとき、船頭さんからその話題が出て、天神祭ご当地に住む我々としてはさすがにその話に食いつかない訳にはいかなかった。はるばる近江八幡まで来て、自分たちの住む街とリンクする話題が出るというのはそれだけでも嬉しくなるものだ。
その話の経緯は妻のブログに譲るとして、こちらではその葦と大阪天満宮との繋がりについて少しググってみることにした。すると思いのほか、その歴史は浅い。天神橋筋商店連合会会長の土居年樹氏の紹介ページ や伴ピーアール株式会社の環境事業部のサイト などによると、その試みが始まったのは1997年。水上祭として水環境への問題意識を高めると共に観光資源のPRとして、天神祭の行われる大川の源である琵琶湖の葦をという話になったらしい。「琵琶湖を流れでた水は大川の天神橋まで約23時間、大阪湾までは約24時間で流れ着きます」という話で、どうせならば丸一日掛けて葦を船に載せて流しても面白いように思うが、ちょうど水郷めぐりの船を降りて我々が目にしたものとは「天神祭御用 茅輪御用材 奉納 龍神のよし」と書かれ、葦を荷台に載せた軽トラックだった(汗)
まあ、とはいえ、この我々が乗った「元祖近江八幡水郷めぐり 」の船を出している近江八幡和船観光協同組合の協力により、そうした事業展開、町のつながりができているというのは嬉しい話である。妻もベタ褒めしている我々の船を漕いでくれた72歳の船頭さんも毎年天神祭には招待されているらしい。
ちなみにその船頭さん、『御宿かわせみ 』というドラマで主演の高島礼子を船に乗せる船頭役としてドラマにも出演しているのである。本当に職人気質というタイプの船頭さんだったけど、高島礼子さんのことを話すときだけは妙にデレデレだった(^^;)
ところでいよいよその天神祭も間近ということで、人で混み合う前に大阪天満宮の大門に近江八幡の葦で作った茅の輪を確認に行ってみた。なるほど今まで気にして見たことなかったけど、天満宮に訪れる人は皆、この琵琶湖の葦で出来た茅の輪をくぐることになる。しかし、この葦の茅の輪、どこかで見覚えがあるな〜と思っていたら、同じ大阪天満宮で行われる「星愛七夕祭 」のときにも利用されていたのだ。このときは茅の輪をくぐる道が作られるので、むしろそのときの方がインパクトは強いと言えるかもしれない。
尚、先に紹介した伴ピーアール株式会社では琵琶湖の葦を使って「レイク パピルス 」という紙を作っているらしい。その用紙で出来た封筒・葉書 や名刺 があるみたいだけど、もし真っ当な名刺を作ろうと思ったときにはここのを使っても良い気分。また同じくその「レイク パピルス」で作ったという絵本『ヨシものがたり 〜水と共に生きる暮らしの中で〜 』というのもかなり気になるところだ。
※写真はクリックするとどれも微妙に違う拡大写真が出ます。
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2006年07月17日 (月)
ドリアン 求めて野田のジャスコに行くときは、いつも最短距離の国道2号線をチャリで突っ走るのだが、この日は何となくJR東西線福島駅のあたりから路地に入って寄り道気分。すると間もなく出てきたのが、この淀川マシン産業株式会社の建物だった。
写真を見てもわかるようにかなりアヴァンギャルド(無茶)な形状をしている。
特に正面2階の斜めに反り立った部分は床面の骨組みが半分露出していて、ブルーシートが被さられているだけなのだ。会社名でググると一応電話帳登録ページなども出てくるが、現在も健在なのかはよくわからなかった。
2006年07月15日 (土)
3連休の初日、旅欲求不満気味の妻と近江八幡に日帰りで行ってきたのだが(詳しくはLBGO「近江八幡日帰りの旅・その1 」参照)、そこで思わぬものと巡り会った。
古くから三鷹の実家にあったもので、谷中にも持ち込みはしたものの、1階で行き場もなく水屋箪笥の上に置かれた「行器(ホカイ)」である。それとほぼそっくりなものが2器、近江八幡の歴史民俗博物館 に展示されていたのだ。
この行器、実はこれまでどういう漢字なのかを知らなかった。基本設計期間中に「家具・建具・古材 再利用リスト 」を用意したときにもそこではどういう漢字なのかわからず「ほかい」と平仮名で書いてしまっている。「ほかい」という呼称を教えてくれた母も漢字まではわからず、前任建築家たちとの間でも、豊田さんとの間でも「ほかい」と平仮名のまま、図面上に記入され続けてきたのである。今にして思えばググれよ!と言いたくなるところだが、当時もググってはいたものの出て来なかったのか、その辺のところは忘れてしまった。
近江八幡の歴史民俗博物館ではその行器に「行器(食器を運ぶのに用いる容器)」というキャプションが付いていて、もちろんふりがなも振ってあった。
ちなみに私は漢字や読み方は知らなかったものの、用途については子供の頃から知っていて(実際うちの行器にも器が入っていた)、それをなぜ知っていたかをこれから書くこととしよう。
小学校の何年生の頃だったか忘れたが、「附子(ブス)」という狂言を学校で観に行ったことがあった。太郎冠者と次郎冠者という二人の召使いが出てきて、主人が留守にする間、ある容器(附子)の蓋を開けるなと命じられる。その附子の中には本当は砂糖が入っていて、それを主人は留守中、誰にも食べられたくなかったので「附子を開けると中の毒で死ぬぞ!」とまで脅して出掛けるのだが、太郎冠者と次郎冠者は興味に駆られて附子を開けてしまい、さらには中味を全部食べてしまうという話である。
・・と思っていたら、実際のところはちょっと違った。
狂言 「附子」 というページなどによると、まず「附子」というのは容器ではなくて、植物から作る毒(何と!トリカブトらしい)のことで、主人はその容器には本当は砂糖が入っているのに「附子(毒)が入っているから、その風に当たってもいけない」と二人を脅して出掛けたのだそうな。当時から国語に関しては至って低脳だった私が如何にも犯しそうな勘違いではあるが、国語嫌いの私でもこの話は妙にインパクトが強かった。なぜって「ブス」だからである(笑)
そしてこの学校で観に行った狂言では「附子」を入れた容器に件の「行器」が使われていたのである(ちなみにその容器は壺だったり、桶だったりと多説あるようだ)。なので、当時の私は「うちにはブスがある」としきりに自慢していた記憶が残っている。
ここで悪戯好きの少年であれば、当然さらなる好奇心に駆られることだろう。すなわち「うちのブスは大丈夫だろうか?」と。そして私も親や祖父母には内緒でこっそりブスの蓋を開けてみたのである。すると何と言うことはない、そこに入っていたものとはまさしく行器の用途そのままに漆塗りの器(茶碗)だった。あのときのがっかり気分(+ひそかな安堵感)と言ったらなかった。そういう体験は得てして後々まで残るものだ。
基本設計で三鷹金猊居から谷中へ持って行く家具類をリストアップしていたとき、私は言うまでもなく当初「ホカイ」を「ブス」と呼んで話していた。当然、ほどなく母からのツッコミを受けることになるわけだが、それでもその漢字は知らぬまま数年、それが今回の近江八幡の旅で「行器」という漢字に辿り着き、何となく私は少しだけ自分が大人になったような気分がしたのである。
【写真上】2002.10.04 01:36, 三鷹金猊居 畫室 床の間にて
【写真中】2005.05.25 09:38, 谷中M類栖1階 展示スペース(ちなみに行器の手前の趣味の悪いカバーは、当時、実家では無用でしかなかった電動アシスト自転車 に被せられていたものである。現在その自転車は私が大阪まで乗り帰ったため、ない)
【写真下】2006.07.15 16:40, 近江八幡 歴史民俗博物館にて
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2006年07月06日 (木)
前々からあってもいいかと思っていた「ツール・アイテム 」のカテゴリを追加した。
もちろんメインは日曜大工道具的なものでありたいと思っているが、カメラ関係の遊び道具や、果ては Movable Type 関連のブログツールまで含めたカテゴリにしようかと思っている。まあ、その辺は紹介というよりも備忘録としてのエントリーね。
しかし一応、新カテ作るに当たって、辞書で「 tool」の意味を調べてみたんだけど、一般的に知られる「道具」絡みの意味以外に「(人の)手先」「男根(penis)」なんて意味も持っているのね。ま、どっちも「道具」といえば道具なんだけど(^^;)
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2006年07月04日 (火)
本来、火曜日は私がTV権を握っている日なので(ロンドンハーツ〜リンカーンと続く黄金デー)、ドラマ好きな妻にチャンネルを譲ることはないのですが、今クールから、なぜか私の方でドラマチェックが必要になりました。阿部ちゃん好きの妻には嬉しい話かもしれません。
何やら関西テレビ『結婚できない男 』というドラマで、建築家や建築プロデューサーが登場人物となるらしい。いや、厳密には高島礼子演じる住宅プロデューサーということらしいけど、やはりそんなニューカマーな職業なだけに、そのググって最初に出てくる我らが建築プロデューサー朝妻さんはそのアドバイザーとして製作の手伝いをされたとのこと(詳しくは彼の「建築プロデューサーがドラマに登場!? 」のエントリーへ)。
どんな話になるのかはわかりませんが、まずは告知しておきます。
タイトルを考えるとあまりない話のようにも思いますが、世俗を反映するなら構造建築家とかも出てきちゃうのでしょうか?(汗)
意外にこういうドラマって今後の建築家の営業に微妙に響くような気もします。
【関連エントリー】
・ちはろぐ:建築するとドラマかも (2006.05.27)
・建築プロデューサー朝妻義征:建築プロデューサーがドラマに登場!? (2006.07.01)
・ノアノア:「結婚できない男」 (2006.07.04)
・建築プロデューサー朝妻義征:ドラマ 『結婚できない男』 (2006.07.05)
・家づくり、行ったり来たり:「結婚できない男」を見た (2006.07.05)
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2006年07月02日 (日)
当初はこのために上京も考えていたのだが、時間&交通費の工面が難しく、代理で母に行ってもらった。芸工展サイトの「説明会のお知らせ 」にもあるように期日・場所は
【期日】2006年7月2日(日) 19:30〜20:30/2006年7月3日(月) 19:30〜20:30
【会場】不忍通りふれあい館(文京区根津2-20-7)
で、母の電話によれば、参加したのは7、8組。実行委員のメンバーは5、6人来ていたとのこと。基本的には募集要項の提出とそれについての質問、後はサイトに掲載されている説明内容通りで、母に言わせると、わざわざこれのためだけに上京までしなくてよかったんじゃない?ということだったが、個人的には芸工展の公式サイト が今年はどのように展開するのかを知りたかった(あるいは内容次第では提案したかった)ので、その点で行けなかった不満は大きい。それともこの際、スタッフ募集もしてるので応募してしまおうか? でも、さすがに提案のみスタッフじゃ要らんだろな(^^;)
「谷中芸工展の紹介文 」のエントリーでも書いたけど、提出した募集要項の主な情報を再度掲載しておく(追加情報+微妙な変更アリ←中日を休日にすることにした)。
・日付:10/15(日)〜10/22(日)
・時間:14:00〜18:00(10/20(金) は20:00まで)
・休日:10/18(水)
・企画(店舗)名:谷中M類栖──丸井金猊リソース ver1.0
・参加者名:谷中M類栖/1f
・紹介文(70字厳守):竣工して2年、いよいよ谷中M類栖がオフラインで始動します。その第1弾は昭和8年東京美校日本画科卒の丸井金猊が戦前に描いた屏風・軸・額を公開。
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2006年06月30日 (金)
もともとこのブログでは根強い検索ワードである「上棟式 」が久々トップに返り咲き。それも今月のパーセンテージはふだんよりも随分と高い。この時期に上棟式って多く行われるものなのかしら? 梅雨シーズンに剥き出しの構造材濡らしちゃってあまり良い季節とも思えないのだけれども。。それとせっかく「上棟式」でアクセスいただいてもまるで参考にならない話しか掲載されてなくて、スンマセン。まあ、施主挨拶は長いとハズすよ!というのはむしろ有益な情報と言うべきかもしれんが(汗)
上棟式 9.5% 軍艦アパート 2.8% 谷中 2.4% 田植え 1.4% 遊郭 1.2% 高過庵 1.1% 写真 1.1% 谷中ボッサ 1.0% グヤーシュ 1.0% 曙ハウス 0.9%
2006年5月の解析結果はこちら から。
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2006年06月18日 (日)
妻と大阪歴史博物館 に初めて行ってみた(詳細は LBGO「大阪歴史博物館 」へ)。
本当はチャングムグッズを求めて NHK大阪放送局に行くのが目的だったのだが、グッズコーナーにはチャングムの携帯ストラップしか置いておらず、5分と時間を必要としなかったので、隣接する大阪歴史博物館に入館したのである。ところがここが思いのほか面白く、閉館1時間前に入館したのは失敗だったと思ってしまったくらいだった。
とりわけ興味深かったのが難波宮に関する資料である。恥ずかしながら私は今年になるまで難波宮の存在すら知らなかったのだが、4月に玉造神社への行き掛けに遺跡を思わせる広場に出くわし、その存在が気になり出したのである。大阪市都市協會 が歴史散策 というページでも紹介しているが、ここでは Wikipedia 冒頭の文章を引用しておく。
ちなみに現在では宮殿のあった場所は若者のダンス練習台と化していた(^^;)
Wikipedia「難波宮 」 難波宮(なにわのみや)は、現在の大阪市中央区にあった飛鳥時代・奈良時代の宮殿。それまで史書には載っていたが、所在地は不明なままであった。1961年(昭和36)、山根徳太郎らの発掘により、聖武天皇時代の(後期)難波宮・大極殿跡が発見されその存在が確認された。さらにこれより古い飛鳥時代の宮殿址も見つかっており、これは前期・難波宮と言われる。
山根は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり」という発言を残した。
ところで大阪歴史博物館の7階・近代現代フロアは当時の代表的な住まいや暮らしを再現したセット空間だった。こういう大正・昭和レトロ再現空間って最近流行ってるらしいけど、私個人は古いものが好きな割にそれほど心動かされることがない。むしろ私が興味を抱くのは当時の書籍とか新聞、紙幣、または映像といった情報資料である。これをちゃんと見ていくと、この博物館は丸1日掛けても足りないくらいに充実している。7階の近代現代フロアもセットだけだったら素通りだったろうが、当時の映像が映し出されるモニタが数カ所置かれていたので、閉館時間が迫ってるのが惜しくてならなかった。そんな近代現代フロアは一部吹き抜けになっていて、8階からも見下ろすことができる。その8階を先に歩いてたときに妻に指さされたのが冒頭の写真だった。
つまり、既に在りし日のうめだ阪急百貨店が組み込まれたコラージュ写真である。
もうその阪急も今では解体工事のパネルで外観も完全に覆われ、伊東忠太の壁画も取り払われ、ゴリモンな日々「梅田の街は“白い壁”でいっぱい 」によれば 7月11日からはいよいよコンコース自体が通行止めになるのだそうである。
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2006年06月17日 (土)
竣工して2年、いよいよ谷中M類栖がオフラインで始動します。
目指すは谷中芸工展参加!
ちなみに例年通りに art-Link と芸工展の開催時期が重なってたのであれば、
両方の参加も検討したいところだったのですが、どうも今年は
・谷中芸工展 :10/14(土)〜10/23(月) <10日間>
・art-Link :9/23(土)〜10/9(月) <17日間>
というスケジュールなもんで、残念ながら art-Link の参加は見送ることにしました。
うちの場合、企画内容的には art-Link 向きなのかもしれませんが、参加費が少し張ることと私のスケジュール的な問題、そして芸工展の方には豊田さんも一枚噛んでるということから、今年は芸工展のみで大人しく様子を見ようと考えています。
芸工展の申込締切は7月31日(月)。
それまでにガイドマップ掲載情報の必要項目を考えておく必要があります。それで
・企画(店舗名)名:
・企画者名:
・紹介文(70字厳守):
の3項目と所在地情報等をどこまで掲載するかで、やや頭を悩ましています。
まず所在地情報等に関して、昔であればほとんど気にも留めなかったのですが、最近はそうした情報自体が売買されるようになって悪用される可能性もあり、いずれにしても自宅で開催するものなので、どこまで出すべきかで迷っています。
そして企画名や紹介文。ここでの出品作家である祖父が有名人であるなら名前だけでも充分なんですが、まず祖父が何者なのか?というところから始めて70文字以内に収めなければならないのが難しいところ。そしてさらに厄介なのが本人が既にこの世にいないということです。そうすると案外、企画者の立場というのも重要なんですね。ところがその企画者たる私個人が谷中には住んでいない。てか、遠い遠い大阪にいる(汗)
そこで現在考えているのが、まずこの企画の主体(企画者名)をこのブログ、すなわち「谷中M類栖」にしてしまうということ。実は展示スペース名も同じく「谷中M類栖」のつもりではあるんだけど、ブログ自体が主体であるという考え方にすると意外と話の辻褄が合わせやすいんですね。それに現段階では谷中において身内絡みで一番有名なのは祖父よりも断然このブログ「谷中M類栖」なのです(笑) そういう意味でも、工事が始まってからではあったものの、このブログを始め ておいてつくづく良かったな〜と思います。というか、ブログなしで大阪に住んでるだけだったら、昔からの知人以外で谷中界隈仲間なんて誰一人出来なかっただろうし、展示活動の指針となるものもほとんど見えないままスタートを切ることになっていたでしょう。
と考えが及んだとき、紹介文はとことん図々しく偉そうに書いてしまうってのも、この際アリなのかもしれないなと思いました。それが冒頭の文章に繋がっていきます。
・企画名:谷中M類栖/1f──丸井金猊リソース ver1.0
・企画者名:谷中M類栖
・紹介文:竣工して2年、いよいよ谷中M類栖がオフラインで始動します。その第1弾に昭和8年東京美校日本画科卒=丸井金猊が戦前に描いた屏風・軸・額を公開。
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2006年06月12日 (月)
ドイツワールドカップ2006 開催を記念して、去年の中欧旅行 でトランジットのために立ち寄ったフランクフルト空港での数コマを軽く紹介してみたい。
まず最初は空港内通路スペースにずらっと設置されたベンチというか寝椅子。
上の写真を見てもわかるように、これがかなりクールなデザインしてて、つい日本とは違うな〜と思いたくなってしまうのだ。機上ではずっと足が下に下がってて、半ば血行障害のような状態になっているので、足を前に突き出せる椅子というところが嬉しい。私も乗り換えを待つ間、しばしこんな感じ で足をだらんと伸ばしていた(笑)
次いでもう一つクールデザインとして紹介したいのが右の写真の公衆電話。
携帯電話を持たない私にとって、最近の日本では駅や空港でも電話を探すだけでも一苦労。最近じゃーわざわざ目立たないところに設置しようとしてる風にも見えるのだが、ここフランクフルト空港ではしっかりここだぞ!とその存在感を主張していてくれた。まあ、実際に利用したわけではないので、使い勝手がどうだったかまでは言えないが、それでも電話機の下のところにちょこっと突き出した荷物置きがあったりと、クールな雰囲気は壊さずに気の利くところは利いているという感じだ。日本もこんな電話を導入してくれとは言わないが、もう少し公共の場で電話の所在がはっきりわかるように、そして一つ箇所に複数台置くよりも、そこそこ要所に分散して配置するようにしてもらいたいものである。
最後にもう一つ、公衆トイレについて触れておく。
アジア以外の海外を旅したことのある一般日本人男性ならば大抵経験したことあると思うのだが、男性用便器の位置がちょっと高いのだ。特にここフランクフルト空港の便器は左の写真からもわかるように便器が小さい上に受け口が上を向いてしまっていて、小用を足すのに微妙に背伸びが必要だった。とりあえず私は日本人平均身長はあるのでまだマシだが、160cm台の身長で足が短い人だとかなり大変だろう。というか、それよりも気になるのが子供はどうやっておしっこしてるのか?ということである。
しかし、このことを書いていてふと思い出したのが、「小便器は男の小宇宙である」という名言を呟かれた「家づくり、行ったり来たり 」の garaikaさんである。彼はこれまでにも
・トイレ自慢──男性限定
・小用姿勢の問題を解決する便器
というエントリーで、そのエントリー内外に小便器文化論を飛び散らして来られているが、その中でも興味深かったのが、男が立って用を足すのはオスとして危機対応能力から来てるのではないか?という説である。この説は別のところ にも飛び火して、男性機能の低下の要因に 「座り小便」 があるのでは?という話にまで展開し、すなわち立ち小便時の力む姿勢は「男」を強化するのに一役買ってるのではないか?という話にまで発展しているのである(後半の飛躍した文章はほとんど私の創作)。
それで私が思ったことというのは、日本人がこのフランクフルト空港の小便器を使えば更なる背伸び状態による力みも増して、すなわち更なる性能力の回復にも繋がり、昨今話題となりがちな少子化問題にも一役買うのではないか?ということである。
ただ、そんな私個人は日本が少子化していくことに賛成派なのであるが(汗)
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2006年05月31日 (水)
月末に「あさみ新聞 」の景観問題ネタが朝日新聞で取り上げられ、アクセス急上昇という話を聞いていたので、ひょっとしてのこのブログにもリンクで流れてくるのかな〜と思っていたら期待するほどの数字はあがらない。と思っていたら、どうもリンクではなく、アクセス検索ワードにおいてその影響は現れた恰好だ。
やっぱり全国紙の影響力ってまだまだ大きいのね。
軍艦アパート 3.2% 悪い景観100景 3.1% 谷中ボッサ 2.7% 谷中 2.4% 遊郭 2.1% トタン 1.6% 上棟式 1.5% 高過庵 1.0% グヤーシュ 0.8% 写真 0.7%
2006年4月の解析結果は
こちら から。
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2006年05月23日 (火)
当初より1日遅らせた帰阪日。午前中は荷物まとめと家の整理に時間を費やし、昼から奏楽堂のコンサートへ行くという両親と芸大学食で昼食を食べて、上野駅へと向かうことにした。ちなみに芸大学食〜奏楽堂は両親の生活サイクルに完全に組み込まれた一つのコースで、私はその動向を観察したかったので同行することにしたのである。
芸大の学食は私自身も昔、芸大に友人が居たりで美術・音楽共に食べたことはあった。しかし、学生時分に学食のレベルを問う暇などなく、どっちがウマイかなんて考えたこともなかった。しかし、ランチ巡りが趣味の両親は芸大学食もとことん食べ較べていて洋食や肉系を食べるなら音楽がうまくて、総菜ものならば美術がうまいというしっかりした結論を出していた。特に美術学部の雪花菜はうまいらしい(汗)
で、この日食べたのは音楽の方のトンカツ定食。確か600円でボリューム満点。これならどこのとは言わないが、近所のトンカツ屋の1500円の定食とも大差ない。それと笑えるのが、父はすっかり学食の券売員らとも親しくなっていて、呆れたことに「教授」と呼ばれているのだ(笑) まあ、その話は散々聞かされていた話ではあったのだが、実際呼ばれるところを見て、改めて両親はすっかり谷中ライフというよりも上野ライフに馴染んでしまったんだな〜という実感を得る。
食後は馴れた足取りで、奏楽堂 へ。奏楽堂では芸大の作曲・声楽・ピアノ・オルガン・弦楽・管打楽の各科から選ばれた優秀な学生による演奏会が毎日午前午後と開かれている。それをうちの両親はスケジュール表を仕入れて、好きな楽曲のときにしょっちゅう聴きに行っているのだ。とにかく家から5分程度のところなので、ツッカケ気分で、それもそこら辺の市民コンサートよりも全然レベルの高い演奏が聴けるのである。オーディオマニアだった父は家ではほとんど音楽を聴かなくなってしまったという話だ。
といったわけで、芸大をすっかり自分たちの庭としてしまった両親を尻目に私は帰途に着いたのだが、そういえば奏楽堂というのはてっきり都美術館の裏手にある古い建物だと思っていたら、それは旧奏楽堂で、新しい方は芸大音楽部の奥の方だったということをこの日知ったのである。その旧奏楽堂の写真が冒頭の写真。
【写真上】2006.05.23 14:25 旧東京音楽学校奏楽堂
【写真中】2006.05.23 13:37 東京芸大音楽学部の学食にて
【写真下】2006.05.23 14:16 奏楽堂ホールで「じゃ〜ね」と心はもう演奏会の両親
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2006年05月22日 (月)
プチオフ から帰宅後、酔いも醒めてまだ余力があったので、迷惑か?とは思いつつも、夜22時過ぎに突如池之端にお住まいの Pruscilla さんに電話する。こういう思い切りが持てるのは、在京中ってのが半ば「旅の恥は掻き捨て」状態というか、この瞬間逃すと次が当分ないよという切迫感があるからだろう。大阪でもそんな気持ちでいれば、もう少し引きこもりにならなくて済むのかもしれないが、どうにも家にいることに安住してしまう自分をそれ以上掻き立てることはできそうにない(笑)
で、電話で呼び出した Pruscillaさん(ちなみに彼女も携帯持ってない人)とはノマドに行った。さすがに「再々ノマド」ともなると店員さんにも顔覚えられてしまったようでというか「この人、毎回別の人と来るけど一体何者?」と思われたことだろう。それも一緒に行った人たちの方が常連さんで、店側からすれば私の方が連れて来られてる客のはずなのに、なぜか連日常連を連れて来ているのである。これは謎という他ない。
さすがにこの日ばかりは neonさんを呼び出すことはしなかったが、ある意味でそれは正解だったかもしれない。なぜならこの晩が一番しっかり作品を観られたからである。引きこもりに加えて、相手の顔を見て話もできないダメ人間であることを自認している私は、実は作品と対峙するときもそこに人の目があるとなかなかそれを観ることに集中できなくなってしまう。言わんやそれがその作品の制作者であれば尚更である。そういう意味でこの日、ようやく制作者の目から開放された状態で作品と向き合えたのだ。
ちなみに Pruscillaさんと私の一番気に入った作品は偶然にも(?)一致していた。
ノマド閉店後は Pruscillaさん宅へ行った。Pruscillaさんが「アニメーション会議」という仲間たちと作った『The Selfish Giant 』というアニメーション作品を是非観て欲しいということでの訪問だった。Pruscillaさんはテレビモニタの前にアンティークの椅子をドカッと置いてそこに私を座らせ、電気を消して私を部屋に一人きりにする。おそらくこれまでにも友人を招いてはそのようにされてたのだろうが、なかなかその観賞の時間と空間は不思議な緊張感がありつつも、落ち着いて観られて心地よいものだった。
オスカー・ワイルド著『わがままな巨人 』を原作とするこの作品。原作はネットで検索するとほぼ全文掲載されたサイト「5月のお話 わがままな巨人 」「わがままな巨人 」等が幾つか出てくるので、それらを参照されたい。一応ここではアニメーションを紹介しているページに掲載されたあらすじを転載しておく。
あらすじ
巨人が長らく留守にしていた家に帰ってみると、庭で子供たちが遊びまわっていた。
彼は怒ってみんなを追い出したが、それからその庭には春が訪れなくなった。
けれどもある日、小さな男の子に出会った。巨人は心が溶けるのを感じた。
何というか、私はこのアニメーションに世界のすべてが詰め込まれているような、そんな感覚に誘われた。それがアニメーション自体の絵やコマ割り、それとも物語によって感じさせられるものなのかはよくわからない。ただ、その紹介ページでプレビューされてるムービーやカット画像を見てもわかるように、画面構成上の一番奥にあるレイヤーがほとんどの場面において半透明というか、さらにその背後が透けて見えてるような感じで映されていて、つまりそれは万華鏡を見ているような錯覚に囚われるのである。
興味を持たれた方は是非こちら まで!
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