2009年01月28日 (水)

境界の考古学〜対馬を掘ればアジアが見える

sympathy
Photo: sympathy, Scanning: m-louis(書籍表紙より)

正月恒例、妻の実家・総領への18きっぷ帰省往復の時間を使って、長らく読めずにいた俵寛司著『境界の考古学 対馬を掘ればアジアが見える』(ブックレット《アジアを学ぼう》12・風響社・700円+税)を読んだ。著者は「軍艦アパート」解体の頃から接点のある sympathyさんの相方の中華丼さん。お二人には谷中M類栖/1f での金猊展示にもお越しいただいているが、それより前のまだ一度も対面したことのない頃に谷中のあかじ坂を下ったあたりで突然声を掛けられびっくりしたのが思い出深く残っている。

うっすらと水平線上に朝鮮半島が浮かぶ表紙の写真は sympathyさんが撮られたもので微笑ましきコラボとも言えようか。しかし、その内容は対馬という、境界領域をテーマとしているだけに穏やかなものではない。というより、穏やかさとかそういう形容とは無関係に、「対馬」という地理的境界を考古学するために、まず「考古学」という学問自体の、一般的にはあまり知られていない(そう考えられていない)学問分野としての境界部にメスを入れる。ある意味では徹頭徹尾リアリズムを貫こうとする書籍と言ってよいのではないだろうか。

よって若干60ページの本書の三分の一(「おわりに」と注でも三分の一取るので、事実上は二分の一である)が「考古学」の境界を問い直すことに割かれることに最初は面喰らったが、個人的にはむしろその学問自体の境界を問う前半の方が書物としては楽しく読めてしまった。その理由は、近代以降に導入された「日本画」というジャンル生成と同列に読み得るところが幾つか出てきたからだ。どうやら日本の考古学もまた日本画と同様に、近代化の曲折のなかで恣意的に作られ(境界を固められ)、国家創立に都合良く利用されてきた側面を強く持っている。中華丼さんはその先でこう記す。

有史以前に遡れば、現在の「国境」や「国家」はもちろん、「民族」の区分すらほとんど意味をなさない。そうした大きな観点からみれば、現在の区分そのものが本来すべて「恣意的」なものである。逆に、それら恣意的な区分を往復するような領域を「境界」と呼ぶならば、本書の目的とは、すなわち、「境界」の持つ本来の意味や可能性の経路を「発掘」していく試みでもある。

この視点に著者の慧眼を見た気がするのは自分だけだろうか。アートジャンルではこの論旨が出てくると短絡的なナショナリズム批判へと展開して、そこでチャンチャン!と終わっちゃうことがままあるが(て、昔の自分も若干そうだったような>汗)、著者はおそらくそこでその恣意性の振れ幅こそを問題としている。その意味において、対馬という境界領域はその島の実質面積よりも遙かに広く大きい。

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by m-louis : 2009.01.28 04:32
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