2009年01月13日 (火)
以前「長居公園テント村跡地にて」のエントリーで、代々木公園でテント生活をしている友人・小川てつオ氏のことに触れたが、年末年始の派遣村の一件で彼がどういう所感を持っているのか気になっていた。するとどうやら彼は一日だけ派遣村にお邪魔して、ボランティア活動をしていたようだ。そのときの様子がホームレス文化「あけましておめでとうございます」にて記されている。
マスコミのような上から目線でも、今回の当事者である派遣労働者でもない視点から現場を捉えた彼の受け取り方は非常に興味深く、是非一読することをオススメしたい。
2009年01月01日 (木)

2009年1月1日 15:12, 大阪市北区天満, Nikon D300/20mm
大阪環状線、天満駅を降りて、徒歩1分といったところだろうか。
申し訳程度にスナックやパブの入った雑居ビルがあり、その脇の細い路地を入っていくと津田式ポンプ製作所が作った井戸が出てくる(そういえば中崎町の井戸はもうなくなってしまったようだ)。
その井戸の存在は何年か前から知っていたが、一昨年の大晦日にたまたまその前を通ったら、井戸の上に鏡餅が載せられているのに遭遇。小粋なことをする人もいるものだと感心して今年も見に行ったら、今年も同じようにしてパックの鏡餅が載せてあった。
ただ、一昨年と大きく違っていたのは、井戸のまわりにペットボトルが立ち並んでいたこと。猫対策ということなんだろうが、ペットボトルに囲まれた井戸の上の鏡餅とは、ロートレアモンの「解剖台の上のミシンとコウモリ傘」に「水」繋がりさえなければちょっと肉薄していたのに‥‥。
≪ 閉じる
2008年09月30日 (火)

2008年7月13日 11:25, 東京/谷中M類栖/光庭, Ricoh GR Digital/28mm
今月代わり映えしたところがあるのは「インテリア」のみ。しかし、そのキーワードだけでこのブログが高ランクに付けるとは思えず、何のキーワードと検索フレーズで絡んだのか確認すると、先月ランクインしていた「床の間」とのセットだった。
床の間──現実的に我が実家でそれが「床の間」として活かされるのは、祖父の命日の日だけな気がする。その日は遠い親戚でもあるお坊さんが実家を訪れ、お経をあげてくださる。そして、そのときだけ仏壇が床の間の方に移され、そのときだけ荷物置き場と化していた床の間が本来の姿を現すというわけだ。その一日のためだけにある床の間が無駄なのかどうかはわからないが、私個人はそのお坊さんと1年に1回話ができるのが楽しみで、無理をしてでもその日は東京に出向くようにしている。今年で御年86歳。
冒頭の写真はその床の間ではなく、お坊さんが来られた7月13日の光庭。
- 軍艦アパート 7.0%
- グヤーシュ 1.7%
- 谷中 1.7%
- 上棟式 1.5%
- 針江 1.4%
- 高過庵 1.3%
- 遊郭 1.2%
- 臭突 1.2%
- 川端 1.0%
- インテリア 0.9%
先月(2008年8月)の解析結果はこちらから。
≪ 閉じる
2008年02月04日 (月)

2003.12.02 11:30, 東京都台東区谷中(谷中M類栖敷地), MINOLTA DiMAGE G400
2月2日、所用により近鉄電車を利用して名古屋まで行った。その道中、二度ほど地鎮祭の風景が目に入ってきたのだが、それを見て改めて地鎮祭っていいもんだなと思った。
理由は別に土地の神(霊)を鎮める神道思想に則りというほど、自分は信心深い人間ではない。ただ単にその空間がまだ「風景」であることを担保しながらも「建築」となることを天に向かって示しているような、それでいて慎ましくも空虚な感じであること。
昨日たまたま読んでいた福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』で出てきた言葉を借りるなら「界面」と言っていいのかもしれない。それは空間上ではなく、時間軸上の話ではあるが、しかし、新幹線ほど速すぎない近鉄特急の車窓からはっきりと目で捕らえることのできた地鎮祭の風景は、地平上の「界面」であるとも言いたくなるものであった。
2003年12月2日、我が家も先勝の日に地鎮祭を行った。改めて「地鎮祭」エントリーを掘り返してみると、近鉄の車窓から見えた地鎮祭風景に較べ、我が家の注連縄(しめなわ)で四方に囲われた領域(祭場)の小ささにはびっくりする。当時はナンチャッテ地鎮祭のつもりだったので全く気にも留めなかったが、こんなにもかわいい感じだったとは! 写真で見る限り、四方約1.5mくらいしかない感じである。そこで気になって調べてみると「地鎮祭の調度品」「地鎮祭などの祭事コラム」などによれば、敷地中央付近に2m間隔でとのことだが、Google イメージ検索で見ると、大小様々のようにも見える。もちろん敷地の大きさにも拠るだろうが、地域差なんてのもあるのだろうか。
≪ 閉じる
2007年01月14日 (日)

総領の義父は数年前から畑の焚き火場脇に種から育てたミカンとポンカンを植え、ワシが生きとる間に育つかの〜と言いながら、その発育具合を楽しんでいる。ただ、義父が言うには冬の寒さの厳しい総領では実を実らすのが難しいばかりか(実際、冬場は防寒用に上の写真のような袋を被せている)、仮に実がなったとしても、甘ない(あもーない)ミカンにしかならんだろうという。
その理由は潮風にあるのだそうだ。ミカンは不思議と潮風を受けることによって甘みが増すものらしい。思えば名産地とされる、愛媛、和歌山、静岡と皆、潮風をたっぷり受けることが出来そうな立地ばかり。総領町の属する広島県にも「大長みかん」というブランド商品があるにはあるが、それらはいずれも瀬戸内海に浮かぶ群島で生産されている。総領のような中国山地の山奥とは縁遠い世界である。
ところでミカンと潮風の関係を調べようと「みかん 潮風」でググっていたら、山口の「周防大島ドットコム 大島みかん白書」というページが出てきて、そこで紹介されてる絵には大いに笑わさせてもらった。そういえば父の第二故郷となる山口の萩でも土塀に囲われたミカンの木を見た記憶が残っている。そこは日本海の潮風ということか。。

【写真上】2006.01.05 14:20, 広島県庄原市総領町・妻の実家の畑にて
【写真下】2001.12.06 12:05, 山口県萩市にて
【追記】ミカン話でもう一つ思い出したので追記。実家にいた頃って冬になるといつもミカンの入った箱があって、とにかく無造作にというか、ワケもなく無闇にミカンを貪り食っていて、それでも箱の底の方にあったミカンは腐っちゃうという感じだった。それは妻も同じだったと言う。しかし現在、我が家にミカンがあったとしてもそれは他の菓子類同様に貴重品で、常に個数平等、同じ時に食べる代物という風になってしまっている。ミカンが不自由なく食べられるくらいの生活力を持ちたいものだが。。
≪ 閉じる
2007年01月01日 (月)

わきた・けんいちさんの呼び掛けなどもあり、「My Place」の玉井さんが提唱される「わがやのお雑煮大会」にアースダイブ未参加ながらも参加してみることにした。
うちは妻が広島出身、私は東京の出身で、なぜか大阪に住んでいる。で、特にどちらの親とも同居はしていないので、基本的に作るのは妻ではあるものの、何となく住んでる場所同様、お互いの中間地点にあるようなお雑煮になっている。毎年恒例2日から妻の実家に帰省することになっていて、そこではもっと具だくさんで濃厚な雑煮が出る。他方、私の東京の実家は蕎麦つゆの濃さで有名な東京だけれども、至って薄口好み。
具はにんじん、ほうれん草、大根、ネギと至って凡庸なものばかりだが、それに松茸が入るところが他とちょっと違うところか?──ちなみにこの松茸は広島の妻の実家の近くの山で採れる。今年は私も山に入ったので、もしかすると自分で採ってきた松茸かもしれない。これを見たら何と贅沢な!と思われるかも知れないが、どうも松茸狩りに連れて行ってもらうようになってからというもの、国産松茸のありがたみをそれほど感じなくなってしまった。毎年1本だけ冷凍しておいて、それを正月に食べる。また、毎年恒例で2日から妻の実家に帰省すれば、お雑煮だけでなく、すき焼きやら焼肉やらと昔なら考えられなかった局面で松茸を食べる。それが正月というものになった。
ちなみに妻の実家では上記の具に蛤が加わり、うちの実家では鶏肉とかまぼこあたりが追加される程度で、むしろ違うのはだしの味付けといったところか? あと、餅は妻の実家の方で付いた丸餅を使う。これも慣れると市販の餅がまずくて食えなくなる。
ところで、わがやのお雑煮大会のための写真を撮ろうとするものの、肝心の餅が底の方に沈んでしまって、結局箸で掘り出したヤラセ雑煮のようになってしまった。この企画に参加された他のブロガーもふだん敷かないランチョンマットを敷いてみたりとか、いつもより少し気取った雑煮になっているのだろうか? まあ、いざ食べ始めたら伸びる餅にこんな表情やこんな表情になってしまうわけだけど(笑)
それでは、本年もよろしくお願い申し上げます。
【写真】2006.01.01, 13:53, 大阪自宅にて
□◇
以下ご近所ブログの「わがやのお雑煮大会」。アップした時間で見るのも面白い。
(ちなみにうちの日時は撮影時刻に偽装したものですが‥‥)
・N的画譚: わがやのお雑煮(2007.01.01 11:59)
・藍blog: わがやのお雑煮(2007.01.01 09:32)
・aki's STOCKTAKING: わがやのお雑煮(2007.01.01 15:00)
・MyPlace: わがやのお雑煮(2007.01.01 20:20)
・Kai-Wai 散策: わがやのお雑煮(2007.01.01 21:06)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 『わがやのお雑煮大会』参加エントリー(2007.01.02)
・MyPlace: わがやのお雑煮:三日目に(2007.01.03 12:20)
・MyPlace: 石川県加賀のシンプル雑煮(2007.01.05 20:50)
≪ 閉じる
2006年12月24日 (日)
前エントリーでは mitsubakoさんのブログから「日本人の居住空間から床の間が消えていったのも、おもしろさが失せたからだろう」というアランさんの言葉を引用した。このエントリーではもう少しその床の間について、うちを実例にして考えてみたい。
まずうちの場合、前任建築家との計画初期段階から、すでに床の間は図面上に書き記されている。これにはおそらく三鷹金猊居から持ち込んだ行器(ほかい)・鏡等の古道具を置くスペースとして床の間を活用するのが妥当だという判断が、三鷹金猊居時代の住まい方に倣って我々(施主側)のうちにあったものと思われる。そして床の間の導入はその後、特に大きな疑問を持たれることもなくそのまま採用されることになった。
しかし、2階の居間の現状を見る限りにおいて、それはなくても良かったと言える状況にあることは認めざるを得ない。その最大の要因は母が自分用の居室として用意された3階個室を完全に物置きとしてしまい、居間兼客間と想定されていた2階共有スペースを居間兼寝室にしてしまったことにある。その部屋が住人のベッドスペース(布団敷きだけど)となってしまったことによって、客間であれば求められたはずのところの遊び感覚(おもしろさ)が完全に別のベクトルを向いてしまったのだ(簡単にいえば、モノによって床の間前の空間が無為に埋められてしまったということ)。
ただ、こうした住宅事情というのは狭小スペースを余儀なくされやすい都内においてはうちが特殊ケースとは言えない面もあろうかと思う。Wikipedia「床の間」では、その冒頭で「床の間とは、日本住宅の畳の部屋に見られる座敷飾りの一つ。ハレの空間である客間の一角に造られ」と記されるが、うちのように「ハレの空間」と「ケの空間」を混在させざるを得ない住環境にある家というのは決して少なくはあるまい(うちの場合は住まい方の拙劣さにおいてそうなってしまっているわけだが)。
としたとき、形骸化しただけの床の間が無思慮に導入されるくらいなら、ない方が良いというのは賢明な選択である。正直、これは自分で図面を書いてしまった本人も含めての話なのだが、どの図面であっても「床の間」は何となく空いたスペースに嵌め込まれでもするように書き込まれるケースが多く見受けられた。Web/DTP のレイアウトでいえば、ここ空いちゃったから埋めとくか!ってノリにちょっと近い。しかし、そういう部分に「おもしろさ」ってなかなか現れはしないものである。
その代わりと言っては何だが、意欲的な設計者がハレとケの混在空間を前にしたならば床の間という形式にはこだわらずとも床の間的「おもしろさ」を演出するような空間は頼まずとも作り出すことだろう。うちの場合はそれが1階の階段〜濡れ縁あたりの三鷹金猊居から再利用した丸太梁を絡めた空間にしっかり実現されているように思われる。ただ、その空間はやはり余白に何となく嵌め込まれたのではなく、吟味に吟味を重ね、しっかり議論の持たれた場所であった。
以上、アランさんの論からはだいぶズレたところでの話の展開になってしまったが、床の間そのものの「おもしろさ」については機会を改めてまた考えてみたい。
【追記】
今回珍しく写真なしでのエントリーとなってしまったのは、完成直後に撮影して以降、ロクに床の間の写真を撮っていなかったためである。そのことからも我が家の床の間に対する私の関心の度合いが透けて見えそうである。他方で、床の間的「おもしろさ」が演出されているとした「1階の階段〜濡れ縁」の方は写真に撮ってはいるのだが、いまいちその空間的おもしろさの伝わる写真が撮れてないのでアップしていない。広角レンズが欲しくなる今日この頃である(宝くじでも当たらない限り買わないだろうけど)。
≪ 閉じる
2006年12月12日 (火)

のんびりペースとはいえ、あんまり律儀に芸工展巡りでの企画紹介ばかりしていると、さすがに書く方も飽きてくる。ということで、今回は芸工展巡りの最中に見つけた柿の写真でもアップしよう。この柿は大名時計博物館前の通りからあかぢ坂を下りて程なくのところにあるアパートの塀の上に、無造作にというよりはどちらかというと造作的な感じで置かれていた。※註・追記≫下の写真をご覧になるとわかるだろうが、一部囓られた痕があり、ひょっとすると住人が鳥の餌にでもと置いておいたのかもしれない。

柿といえば、学生時代に漫画『美味しんぼ』で柿の甘みが菓子の原点にあるという話を読み囓った覚えがあった。早速ググってみると第26巻「菓子対決(前)」にその話は出ていた。リンク先(夜刊ロロモ)にはその巻の仔細なあらすじが掲載されているので、興味を持たれた方は同ページ4〜5章をご覧になられると良いだろう。
現代のお菓子の大半は甘みを砂糖に頼っているが、18世紀以前の日本では砂糖が高価で庶民の手に簡単には入らず、甘みへの欲求は果物によって満たされていた。上記あらすじから暫く引用してみると「菓子の菓と果実の果は同じ、木になった果物のこと」「すなわち、菓子とはもともと果物のことだったのだ」というように、その語義自体に菓子のルーツが隠されていて「中でも柿は日本独特の物」「ほかの果物と違って干し柿として保存がきくので貴重だった」として、海原雄山に「水菓子としての果物といわゆる菓子の中間点、いわば菓子の原型として考えられるのが干し柿」では?と結論づけられている。
そういえば韓国ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』でも、第5話「変革」で子供時代のチャングムが料理の隠し味に熟した柿が使われていることを一人言い当てるシーンがあるのだが、朝鮮王朝時代の韓国料理においても甘みを引き出すのに柿が使われていたという点では日本と同様のようである。余談だが、「なぜ、柿だと思う」と最高尚宮に聞かれ、「食べた時に柿の味がしたから、柿だと言ったので、なぜ柿かと聞かれても柿の味がしたからだと」子チャングムが答えるこのシーンが私は無性に好きでたまらない。
【写真上・中】2006.10.18 15:49, 台東区谷中・あかじ坂にて
【写真下】2006.11.11 13:41, 滋賀県高島市新旭町・正傳寺鐘つき堂の干し柿
≪ 閉じる
2006年11月06日 (月)

アジア雑貨を主に扱う「nagomiya わぁい」は藍染大通りへと繋がるあかじ坂を下って澤の屋旅館の手前十字路を右に曲がってしばらく歩いたところにある。「生活の中に 和<なごみ>の雑貨を提供」ということから店の名前が付いたようだ。
芸工展には『手仕事展』というタイトルで「手作り」であることをコンセプトに集められた雑貨が主に置かれていた。特に目を引いたのは、オーナーさん自らが作られた文庫用ブックカバーで、ご本人が本を読まれる際に不満に感じられていること(例えばヒモしおりが中途半端なところで折れてたり、読むのに邪魔になったりするなど)を解決すべく工夫が凝らされていて、ちょっと食指が動かされたが、何分ふだんの生活で文庫本を読む機会が激減してしまっているので、買うのは控えてしまった。
どうも最近は「良いな」と思っても「買おう」にまで至るものといえば、食べ物くらいである。食べ物はなくなってくれるからいいが、それ以外のものは「モノ」として増えることがつい頭を過ぎり、踏み留まってしまう。なので、「良いな」と思ったその感情が「買う」という行為なしでも作り手に伝わる何某かのシステムはないものか?と芸工展を巡りながらしばしば考えていた。ただその場で言葉の上で「良いですね」と言ってみても「買う」という飛躍的行為に値する万感(交換/交感)はなかなか得られるものではない。せめてこうしてブログで書くまでである。
【写真上】2006.10.16 12:24, 谷中2丁目/nagomiya わぁい前
≪ 閉じる
2006年10月14日 (土)

芸工展の準備をしていたら夕方過ぎに玄関からパサッという音が‥‥。
夕刊や郵便にはちょっと遅いだろうと思って見に行ったら、郵便受けに届いていたのは台東区谷中坂町々会の回覧板だった。今住む大阪のマンションはもとより、三鷹でも見たことなかったのに、さすがは下町・谷中と言うべきか?
しかし、中を見ると専ら広告が主でお知らせ事項はほんのわずかだった。
でも、可能であるなら、これにうちのDMを副えたい気分である(^^;)