2005年02月11日 (金)

コミュニケーションを触媒する住宅

社会学者の宮台真司氏が TEPCOインターカレッジデザイン選手権 という公開審査会の司会をされていたらしく、自身のブログでも「第二回 TEPCO インターカレッジデザイン選手権を終えて」というエントリーで手短かにその模様を伝えている。
私自身はその審査会自体、宮台氏のブログで知ったくらいなのでここで何も触れられることはないが、宮台氏がまとめられた記事には短いながら建築関係者のみならず施主にとっても気になるテーマが各所に散りばめられているので、少しここに引用しながらコメントしてみたい。尚、引用してるので余計な解説は省略する。

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■「コミュニケーションを触媒する住宅」というお題を出した。住宅から街づくりまで、「何を設計したのか」の実質は、見栄えになく、不可視のコミュニケーションにある。
■触媒は、無いものを作り出すのでなく、既存の化学反応の生起確率を上げるもの。「住宅に現にどんなコミュニケーションが存在するか」の観察を、僕なりに要求したつもりだ。

「住宅に現にどんなコミュニケーションが存在するか」の観察を施主家族が手っ取り早く行える手段として、それまで住んでいた家の間取りを描いてみるという方法がある。そのことに私は最初の建築家たちとの間で行き詰まってどうにも立ち行かなくなり、自分で図面を書くという禁を犯したときに初めて気づいた。自分の書いた図面には局所局所で構造的に昔の家を模したところが不思議と現れてくるのである。

うちの家族は決して円満な家庭と言えるものではない。というか、これまでも幾度か触れてきたように問題の最も多いのが両親の関係である。その両親は前の三鷹金猊居では父が一人ハナレで暮らすという、ほとんど敷地内別居と言ってよい状況だった。建築家にはそうした状況も踏まえた上で基本設計のプランニングを進めてもらっていたのだが、実際そこで伝達されるのは「両親が仲が悪くて敷地内別居生活」という情報までで、そこでどんな生活動線が描かれていたかというレベルにまでは話は及んでいない。

例えば母は洗濯物をハナレに住む父の部屋の前で干していて、実は視線上無意識裡に互いの存在を確認している時間があったなんて話は、ただ、施主が自分たちの希望案件を言葉で列挙していくだけではそう簡単には出て来ない、しかしながらこの決して円満とは言えない家族にとってはこうした些事でも「コミュニケーションを触媒する」一つの有効な手掛かりとなるはずだ。そして、こうした話は頭でアレコレ言うよりも大概において手を動かして具体的なオブジェクトをなぞってみたりするうちに思い出されるものである。その際に注意すべきは単にこの部屋は広くてこの部屋は狭いということよりも部屋と部屋がどう接続していたか、あるいは何によって切断されていたかということを注意深く見つめ話し合うと良いだろう。長く住んでいた家の間取りには必ずその家の暮らしの文法みたいなものが凝縮されているはずである。

■第一に、透明に見通せることを「コミュニケーションの触媒」だと勘違いする作品が多過ぎた。それではコミュニケーションに必要な最低限の感情的安全が得られないだろう。

こうした提案が多く出てくるというのは、以前に「岡土建と無印良品の家」のエントリーでも触れた「開放的な一室空間」志向が世間的にブームとして囃され過ぎてることから来ていると思う。おそらく「コミュニケーションの触媒」というテーマ設定がなくともそうしたプランが出て来てしまうのではあるまいか。

ただ、こうした方向性は同エントリーでも記したようになかなか侮れないところもある。あらゆる面での効率化と零度(透明性)への志向というものは案外一致するところが多いからだ。そして、そこに閉じられた領域とはいえ「可変性」というオプションが加わった状態というのは、言ってしまえば Movable Type のテンプレートをちょこっと弄ればサイト全体の雰囲気を一気に変えられるといったようなもので、私自身もその手軽さについ安住してしまっているのだ。とにかく侮れない。

■第二に、家や町が公私と上下の組合せから成り立つことを見抜いてほしい。洞窟の奥の見えにくい所が私。出口近くが公。私的な場に居て良いのは、上(強者)か下(弱者)か。

この問いは如何にも社会学者ならではの視点と言えそうだけど、裏を返せば私たちは家作りにおいて既存の(困った)上下関係を組み替えるチャンスを持っているとも言える。これも以前に住んでいた家の間取りを自分の手で書き出してみることから始めると面白い発見があるかもしれない。

■第三に、時間/空間的に視角が限定され過ぎだ。時間的には「今」を相対化し、住居史に知恵を探りたい。空間的には「ここ」を相対化し、立地場所に想像力を働かせたい。
■建築は、見えるものを通じて見えないもの(コミュニケーション)を制御する。それを徹底して思考することが建築家に要求され、それを批判することが社会学者に要求される。

「今ここ」を相対化する(できる)のが学者の仕事。だが、建築家にそうした学者の視点は必要なのか私にはよくわからない。というより、施主の我が儘な立場からすれば依頼した建築家には確定した土地とその周辺(人まで含めた)、そして計画を進めている現在の取り組みから家の経年変化を見通したところのメンテまでを最大限見つめられる視野を持っていて欲しいと思ってしまう。実際、建築家に「哲学」を感じたのはそうしたものへの視座を見せられたときだった。そういう意味では時間/空間の固有性に囚われず行われるコンテストの類は何の哲学・技能が問われているのか今イチ謎である。

ところで施主に要求されているのは何か?

by m-louis : 2005.02.11 07:04
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