2005年05月11日 (水)

父と満州

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これまでこのブログでは登場機会の少なかったであるが、その理由はうちがある種、サザエさん的家庭だということにある。即ちこれまで何度か登場した祖父母とはまさしくサザエさんにとっての波平とフネであり、私はといえばフグ田タラオだったのが、祖父の死を機に知らぬ前に磯野カツオにすり替えられていた(つまり知らぬ間に養子になってた)のである。だから当然マスオさんである父の存在感は家づくりにおいても薄く、ブログでもそれほどスポットを当てられることがないまま来てしまった。

そんな父が生を受けたのは1931年(昭和6年)、かつて日本の植民地だった満州の大連である。父は自分が士族の出であることを何かと強調するのだが、父の祖父にあたる人は非常に商才に長けた人だったらしく、父はちょっとした金持ちの家のお坊っちゃまとして育っているらしい(右の写真の中央が父)。言うまでもなく第二次世界大戦の敗戦で父の家族もまた身ぐるみ剥がされほとんど無一文状態で引き揚げることになるのだが、私はそのあたりの経緯をそんなに詳しく知らない(というか、父に聞いてない)。

それは一つには私が知らぬ間とはいえ、母方の家の養子となり、なんだかんだフグ田家ではなく磯野家の嫡子としての自覚を植え付けられていただろうことが考えられるが、それとは別に子供の頃に友達同士の間で「残留孤児」と卑下された記憶がどこかで自分に影を落としてるような気がしなくもない。なぜに父が満州の生まれだったことが友達に知られたのかは今以て謎だが、私が小六〜中一前後だった1982年2月、厚生省による第二回中国残留孤児の「親探しの旅」で60人の孤児のことが何かとマスメディアを賑わせていた。そうした報道に子供特有の差別意識が働き、私へと向けられたのだろう。父は「引き揚げ者」であり、決して「残留孤児」ではないにもかかわらず、私は「残留孤児」のレッテルを貼られ、そうしたイジメから逃れるためにとかく私は父が満州生まれだったという事実を隠そうとしていた。

manshu_memory.jpgと書いたところで唐突な話にはなるが、
先月、aki's STOCKTAKING父の遺言書 /1943」のエントリーにて少しそのことをコメントしていて、その後、同ブログの「満州走馬燈 / 満州メモリー・マップ」のエントリーで紹介された小宮清著『満州メモリー・マップ』(筑摩書房・999円)を購入して、つい先日ようやく読み終えたところなのである。

今に始まったことではないのかもしれないが、日中間がギクシャクしている現在、満州という存在がそのギクシャクの要因としてどのくらいのところを占めているのか私には今もよくわからない。ただ、この本はそうした日本の侵略の歴史を、いや、もう少し厳密にいえば侵略した土地を開拓する日本人の生活を、私の父よりもさらに5歳若い著者の子供時代の視点において描いている。そこには昨今の行きすぎた報道にありがちな誇張もなければ諧謔もない。ただ、訥々と絵日記のように綴られた記述に当時の大人たちにも見えてなかった歴史的な視線がオーバーラップされているのである。

冒頭でアップした画像は伯母の家にあった大連大広場の絵葉書をデジカメで複写したものである。葉書はまだあと3枚あるので、今度はこの本の気になった箇所など引用しながら、それを元手に父や伯母に満州の話をもう少し詳しく聞いて、それらのレポートと共にここで紹介していきたい。

□◇
Abejas e Colmenas のみつばこさんも aki's STOCKTAKING の同エントリーで紹介されていた『満州走馬燈 きよしのメモリーマップ』の方を読まれていて「オンドルの見える風景」「泣きそうになった箇所」というエントリーをされてます。

その後に MyPlace の玉井一匡さんも「満州走馬燈」で同タイトル著作を再読してのエントリーをされてます。またTB受けた「真綿のお供え餅と大連」のエントリーも要チェック!

by m-louis : 2005.05.11 16:17
This Trackback No.
2005年05月14日 15:34
真綿のお供え餅と大連
excerpt:  先日、新潟で母を歯科医に連れて行った帰りに親戚の食器店の前をたまたま通りかかった。これまで店には寄ったことがなかったので、前のパーキングメーターのところにクルマをとめて中に入った。1,2階が店で4階に社長の夫人の母上がひとりで住んでおられる。子供のころ...
weblog: MyPlace
comment

丸井さんお久しぶりです

仕事関係の方から進められて勢いで始めてみました

まだまだ初心者の域を超えられません

谷中のお宅ではいろいろとご迷惑をお掛けして申し訳御座いません

今後とも宜しくお願いします

by 山本 : 2005.05.13 22:18

>山本さん

こちらにもコメントありがとうございます。

豊田さんはいつ始められるのかな?って感じですが(^^;)、

阿部さんが昔言われてた施主と施工者と設計者の三位一体って話が

そのうちブログ上でも実現していく時代になるのかもしれませんね。

by m-louis : 2005.05.14 16:33

父上のように満州でつらい経験をされた方たちは、なかなかそれを話そうとされないことが多いようですね。話そうとすれば、周りにいた多くの人たちを傷つけずにはいられないからなのだろうと考えると、その傷の深さを思います。

 満州そだちの畑正憲が、敗戦のあとの満州の出来事を・・・いまは書くことができなけれど、それによって傷つく人がいなくなったら、そのときには書き残すのだと書いていました。五木寛之も同じようなことをいっていましたが、いまはすこしずつ書いたり話したりしています。父上のような経験をお持ちの方の記録をお残しになることは、とても大切なことだと思います。秋山さんが、父上の遺書などをブログに残そうとしておられるのは、やはりそういう意図によるものだろうと思っています。

by 玉井一匡 : 2005.05.19 00:12

>玉井一匡さん

確かに仰るように父や伯母からは「話を聞いたことがなかった」のであると同時に「話をしようとしてなかった」のかもしれませんね。何はともあれ、今週末に実家に帰省しますので、ちょっとその当たりも含めて父に聞いてみるつもりです。

しかし、「傷つく」という言葉はひょっとするとその言葉自体によってある種の暴力を抑え込んでしまう面もあるのかな〜という気もしています。結局、傷ついた人に直面すると何も言えなくなってしまうワケですが、その何も言えなくなってしまうことによって暴力は隠蔽され、新しい暴力が何の反省もなく生まれていく。非常に難しいところです。

畑さんには元気なうちに書いていただきたいものです。

by m-louis : 2005.05.19 03:48









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