2006年10月26日 (木)
丸井金猊『南天絵圖』
1932(昭和7)年に描かれた『南天絵圖』は、サイズ W725×H1,200mmで、絹本に着彩・軸の仕様。保存状態は前回紹介した『鷺圖 (仮)』よりはマシな環境といえるだろうか? 一応は桐の絵具箪笥の下段抽斗の中に絹本を丸めた状態にして包装紙で包んで収められていた。タイトル・年数情報はその包装紙に祖父がペン字で書き記していたものによる。表装は昔から何かとお世話になっている三鷹の飛高堂にお願いした。
2006年08月29日 (火)
三鷹金猊居のサンタの入口
上の画像は長らく私が PowerBook のデスクトップ用壁紙にしているものである。
「CWVF≒臭突」のエントリーで、ちはるさんから「子供の頃はココからサンタさんが入ってくるのだと信じたものです」というコメントを受け、思い出したのが私も子供の頃、つまり三鷹金猊居在住時代に風呂場の煙突を見上げながら、首を傾けつつもそれでもサンタクロースを信じようとしていたことである。
2006年07月15日 (土)
行器と附子(ホカイとブス)
3連休の初日、旅欲求不満気味の妻と近江八幡に日帰りで行ってきたのだが(詳しくはLBGO「近江八幡日帰りの旅・その1」参照)、そこで思わぬものと巡り会った。
古くから三鷹の実家にあったもので、谷中にも持ち込みはしたものの、1階で行き場もなく水屋箪笥の上に置かれた「行器(ホカイ)」である。それとほぼそっくりなものが2器、近江八幡の歴史民俗博物館に展示されていたのだ。
2005年06月18日 (土)
諏訪の山林
6/18(土) は朝6時半に起床。
油屋旅館の天空風呂を運良く貸切状態で満喫して、9時半前に泰大叔父邸(現在は長男の泰n叔父さん御夫婦が住まわれている)に向かう。
そこで次男の善n叔父さんとも落ち合い、善n叔父さんの運転する車で、まずは祖父母の眠る墓地へ行った。というのも、墓地の場所が所有する山林への山道入口脇にあるのである。そこから車で無理矢理山に分け入ること約10分。徒歩だと30分くらい掛かるということらしい(私は本当は歩きたかったが)。
母も私もこの山に入ったのは初めてのことであった。母によれば、持ち主だった祖母でさえ、実際に見ているかは疑問とのこと。ただ、この山林の木が切り落とされ、三鷹金猊居の丸太梁や床柱等の主要木材として利用されたことは確かである。つまり祖父は間違いなくこの地に足を踏み込み、どの木を使うか考えていたはず。
2005年01月20日 (木)
フォトログ1F編
Yanaka*M3c ── フォトログ1F編をアップ。
ギャラリー兼ピアノ室メインの1Fはほぼ一室空間なため、仕切ることによって生まれる見せ場は少ないが、空間全体の雰囲気や華燈窓・丸太列柱といった三鷹金猊居からの再利用古材を懐かしんでもらえたら幸いである。
届いたばかりの光庭完成写真も追加。これで残すは外観のみ。
2005年01月12日 (水)
フォトログ2F編
前回の3F編から随分日が空いたが、Yanaka*M3c のフォトログ2F編をアップ。
三角形バルコニーに始まり、三鷹金猊居からの古材を再利用したダイニング〜居間、それから階段脇本棚、書斎にキッチン、洗面所と3Fに較べて見所は多い。
2004年11月17日 (水)
欄間を介して
石 求ム!(※) でコメントされた garaikaさんのブログ「家づくり、行ったり来たり」が面白い!
11/16(火) エントリーの「欄間を見直す──光、風、温度の共有」では当初想定外だった欄間が建築家からの提言(提図と言うべきか?)により再考され、そこから「プロの設計技術を感じる」瞬間が描かれるに至る。いや〜、この「プロの設計技術を感じる」瞬間というのが施主にとっては極上の愉悦とでもいうべきときである。
思えばうちでも欄間を介して建築家の「プロの設計技術を感じる」瞬間は訪れた。だが、それにはちょっとした紆余曲折も伴っている。実は現時点でこのブログは2004年6月のエントリーがごっそり抜け落ちているのだが、その理由は7/1(木) の「1Fタイル工事開始(※)」で書いていたこと以外にもあったのだ。
2004年10月25日 (月)
丸太と杉板のアク
丸太柱下にも染み?(※) で書いていた母の見つけた染みの問題だが、どうやら矢原さんが山本さんから聞いたところによると、材そのものから染み出たアクではないか?とのこと。タイル下のコンクリートから染みていたらまずいがアクならやむを得ない。気になるのであれば応接室室内杉縁甲板塗り残しの処理をするときに一緒にやりますが、、ということだったが、私はこのままで良い気がする。
それから丸太だけでなく、エントランス部アプローチ壁全面に張った杉板甲板からも同様にアクが出ていて、それは板自体ではなく、板の下の土台のコンクリートに板からアクが流れ出した感じになってしまっている。が、これに関しても特に材を傷めることにはならないので心配はいらないそうだ。要は見た目の問題。気にしていつも洗うのか、それとも放っておくのか。ま、玄関ドアが泥の跳ねで汚れ、さらには埃まみれになっていても差して気にせぬ実家のことだから、放っておかれることになるのだろう。大部分が車で隠れてしまうのもまたそれを助長している。
2004年10月16日 (土)
義父の超絶技巧書院
鉄道の日記念西日本一日乗り放題きっぷを使うと片道3000円で西日本ならどこでも行けるということで、急遽、妻の実家の総領町に帰省。といってもまあ、実は去年も高速バス使って同じ目的でこの時期帰省してたのだ、、と云うその目的は松茸狩りだったりする。ま、その話題は別のブログでするとして、こちらでは松茸とは別にもう一つ、今回、建築的趣旨の帰省目的もちゃんとあったので、それを紹介したい。
それは夏の帰省時に話は遡る。義父に清氏撮影建築写真(※) や私の撮影したデジカメ写真等を見せていたら、2F和室で再利用された三鷹金猊居書院など見てるうちに「ワシも若けー頃はこのくらいの仕事してたけー」とムラムラと大工魂というか職人魂に火が点いてしまったのである。で、総領自宅の書院はまだ「甘めーんじゃが、下領家の稲迫さんちでやったのはワシも苦労したけー」ということで、今回その書院を見に稲迫さんちにお邪魔することになったのである。手土産には庄原のジョイフルで買った巨峰となぜか500円分の造花(義母が自分が好きじゃけーということで)を持って(^^;)
2004年10月11日 (月)
丸太柱下にも染み?
母からの電話で一乗寺側階段だけでなく、丸太列柱底部にもこれまでなかったはずの染みが発生していることを聞く。それについても阿部建築&初音すまい研究所に連絡するよう伝え、山本さん、矢原さんに見てもらったらしいのだが、どうやらこの染みは雨漏りに拠るものではなく、コンクリートの水分を丸太が吸い取ったものじゃないか?とのこと。安藤忠雄設計「司馬遼太郎記念館」の坂本龍馬の亡霊染み(※) は関西ではちょっと有名な噂話だが、いずれにしてもコンクリートは建てて1年くらい水が出るのは防ぎようがない。そういう意味では丸太の下に銅板のようなものを敷いておいた方がよかったとも言えるのだが、構造柱になってるわけではないので気にするほどのことでもないでしょうとのこと。どうしても気になるのなら、杉縁甲板塗り残し部分にオスモカラーを塗る際に一緒に塗装しましょうか?と矢原さんが言われていたらしい。ま、正直なとこ、こればかりは見てみないと何とも言えないんだが。。