2005年06月09日 (木)

祖父は満鉄社員だった

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先月の上京中にから満州の話、そして父の父、つまり私の祖父の話を聞いた。
前回の「父と満州」のエントリーでは、小宮清著『満州メモリー・マップ』(筑摩書房・999円)を読んだのをきっかけに父が満州出身であることを私の視点で書いただけだったが、今回は0歳から14歳まで満州の大連で過ごした父の視点を借りて、私のほとんど知らない父方の先祖を繙きながら「満州」にも一歩近づいてみたい。

まず私の父方祖先である父の祖父、つまり私の曾爺さんに当たる人物は日露戦争に従軍し、戦後、満州に残って土建・不動産の仕事を始め、それでボロ儲けしたのだという。
満州から北東に100km程のところにある貔子窩(ひしか:現在の皮口)という街で一番大きなホテルを建設・保有し、とにかく孫の代まで寝て暮らせるくらいの大金持ちだったんだとか‥‥。その証拠に父の父、つまり私の祖父は本当は内地に帰って大学で勉強したかったらしいのだが、身内から「片手内輪で暮らせるのにわざわざ大学など行く必要ない」と猛反対され、結局高校までしか出ていないのである。まあ、その後、満州鉄道に就職してるので、片手内輪の生活はしてなかったようなのだが。。

その祖父が満鉄社員として北京(一時はハルピン)で働くことになり、結婚しても家族は大連に残して単身赴任生活をしていたので、父にはほとんど「父親」という存在の記憶がない。以前伯母から聞いた話によれば祖父がたまに満州の家に帰ってくると父は「どこそこのおじちゃんが来たよ」と無邪気に喜んでいたのだそうな。そして祖父は父が中学に入る前に病死してしまう。よって私にとっても父方祖父は最初から存在しないものであったが、父にとっても非常に希薄で、取り様によってはこれまで私が父方祖父の話をほとんど何も知らなかったというのも満更不思議な話でもないのである。

ちなみに当時において内地の一般サラリーマンの給料が60円だったのに対し、満鉄社員の給料は100円だったそうで、曾爺さんから祖父の代になっても単身赴任とはいえ、暮らし振りに不自由はまるでなかったようだ。父に『満州メモリー・マップ』の本の話をして、その舞台となっている奉天(現在の審陽)や新京(現在の長春)のさらに果てのチチハルという地名や開拓団のことを話すと、それは同じ満州とは言っても全然違う世界・生活だったはずだと言っていた。ただ、大連で優雅に暮らしていた人たちからすると開拓団の人たちは一部が破落戸(ヤクザ)化していたそうで、その苛酷で貧しい暮らしぶりを知っていてもそれを決して可哀想だとは思えなかったのだと言う。特に父の場合は中学に入ったくらいの頃に一度、開拓団の連中にオーバーコートを強奪されたことがあったらしく、余計にそのイメージを悪くしてしまっている。

大連在中、父は母兄姉と共に北京に2回、ハルピンに2回、半分は観光旅行のような気分で単身赴任した父親のもとを訪ねている。そのときには必ず奉天の親戚の家(現在四国在住)にも寄って行ったらしい。父によれば、奉天は商人の街、新京は官僚街、ハルピンは帝政ロシアの色の混じった異国情緒漂う街といった印象だったようだ。まあ、何はともあれ父にとっての開拓地は観光の対象以上ではなかったわけだ。

しかし、第二次世界大戦での日本の敗戦により、そこからは『満州メモリー・マップ』の作者と同様に引き揚げ船に押し込められ、財産すべてを取り上げられた状態で帰国することになる。そういえば同書では「引き揚げ船に乗せられた乗船者たちは各々の湾に到着すると上陸前に錨を下ろされ、約1週間そのまま海上で停泊させられ、夏の太陽に焼かれて船内がオーブンのようになり、オーブンの中で伝染病の保菌者が発病するのを待って、もし感染者が現れた場合、その船まるごと上陸を許されず放置された(引用者再構成)」という怖ろしい描写があったが、父が帰港した佐世保ではそのようなことはなかったらしい。ただ、DDT(殺虫剤)を服の中にまで突っ込んで吹き付けられて真っ白にさせられる経験は何度もあったとか。
そしてこれも似た話が書かれているが、引き揚げ者収容所で20歳以上は1000円、以下は500円が手渡され、祖母、伯母、父の3人は合計2500円を手渡され、もともと生家のあった山口の萩に帰ってゼロ(ではなく2500円)からの再出発を切る。このとき父は「もし大金持ち曾爺さんに先見の明があって、満州だけでなく、内地にも土地を持ってればお前だって片手内輪とまでは行かないまでも小金持ちくらいの気分は味わえたのかもしれないけどな!」と笑いながら話してくれた。

そんなところで今回は満鉄社員だった祖父にあやかり、絵葉書は満州鉄道の描かれたものをアップする。また、途中に出てくる写真の方は左から伯母、祖母、父、祖父の順で撮影場所は不明である。しかし、こうして書いていて最後の最後まで父方祖父を「祖父」と書くことの違和感が私には拭えなかった。

なお、このエントリーは当初は帰阪直後の記憶の薄れぬうちにさっさと書き出しておきたかったのだが、毎度おなじみ帰阪後の仕事蓄積地獄でそんな暇は一向に作れず。
で、書くタイミングを逃しかけてたところで、ちょうど Abejas e Colmenas のみつばこさんが「満州 記憶の断片から 1片」「満州 記憶の断片から 2片」と立て続けに満州絡みのエントリーをされてたので、それに便乗した勢いだけで書けました。謝謝!

by m-louis : 2005.06.09 03:52
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2005年06月10日 15:43
機械らしい
excerpt: 「男らしいというのが褒め言葉だとすれば、機械らしいという褒め言葉があって良いように思います。」と河さんがおっしゃっておられたが、河さん的には「機械らすい」とおっしゃるのかな。 とにかく「機械らしい」機械といえば、蒸気機関車はその最たるものであろう。蒸気...
weblog: aki's STOCKTAKING
comment

M類さんの場合、父上から話が聞けるというのがうらやましいです。しかも本当に満州国の存在と同じ長さだけそこに居たのですね。大連と聞いて、少し父上に伺ってもらいたいことがあります。

以後、私のblogの方でも書いて行きますが、当時、日本から満州の蜜源に一攫千金を夢みて近代養蜂を持ち込んだ大規模な計画が実施されました。それは、満鉄の温存のもとという部分もあるし、鉄道草ではないけれど、線路の敷設と共に近代産業を拡大して行こうという狙い目があったのではないかと思われます。以前から、この記事に関しては知っていたのですが、さらにミツバチ科学研究所の施設を訪れて、中村純さんから印刷されたものを頂いて、興味深く思っています。満州の断片を寄せ集めて書いていた昔の私の文章と、蜜蜂がここで接点を持った気がしています。当時は駅名で蜜蜂というのがあるほど盛況で駅に近いところで蜂箱が設置されていたというのです。

それとは、また別に、場所も違いますが、眞崎弘海さんのサイト『ライカと鉄道写真』から芭石鉄路沿線に、汽車のスイッチバックポイントに蜜蜂岩という駅名があると知って、また私の頭の中で様々な妄想が膨らみはじめてます。

養蜂レポート:http://www11.ocn.ne.jp/~youhou/youhou-report.html

こちらで、満州養蜂のことは読めます。

話が長くなりました、父上、養蜂とか蜜蜂の話は何か記憶になかったでしょうか?

*同じコメントを私のblogにも転記しておきます。

by mitsubako : 2005.06.09 11:10

>mitsubakoさん

父は子供の頃、ハトをたくさん飼っていたという話は何度も聞かされてますけど、ミツバチの話は一度も聞いたことがないので、果たして知っているかどうか?? でも、今度実家と電話する機会があったら聞いてみます。

それと父にとっての満州は何だかんだ言っても少年時代の記憶であり、まず間違いなく社会の仕組みといったものにはまだ目が向いていなかったかと思います(決して早熟タイプでもないので)。そういう意味では今年80歳になる伯母の方がミツバチ話も知ってる可能性は高いかもしれません。これも機会があったら、それとなく聞いてみます。知ってた場合は mitsubakoさんが直接会って話を聞いた方がいいかもしれませんね。伯母は武蔵野市に住んでますので。。

by m-louis : 2005.06.10 03:36

満鉄の特急アジア号の絵葉書がかっこいいですね。

このアジア号がでている鉄道技術本のエントリーでトラックバックさせていただきます。このアジア号にはアメリカのキャリア製の冷房が設備されていたようです。

お二方のお話にお役にたつかどうか分かりませんが、川村湊・著「満州鉄道まぼろし旅行」という本があります。私の手元にあるのは単行本ですが、今は文春文庫でにあります。

架空の旅行記がその頃の資料で構成されています。写真や地図、図版が多くて十分旅行気分です。

by AKi : 2005.06.10 15:40

AKiさん

TB&コメントありがとうございます。

実はこのエントリーしたとき、AKiさんの満州エントリーにもTB送ろうとしてたんですが、何回か試してもエラーになってしまってました。

川村湊といえば文芸評論家ですよね。彼の著作ってあまり真正面から読んだことないんですが(書評等ならあるけど)早速アマゾンで注文してみようと思います。

売り切れになってる共著「歴史としての天皇制」も何だか興味深いですが。。

by m-louis : 2005.06.10 23:35

M類さん

ハトですかぁ。一文字違いですね。当時、養蜂というのはもしかすると日本人にとっては珍しくもなんともないことだったのかもしれないですね。例えば、どこの家の庭先にもニワトリが放し飼いでいた風景みたいに、ミツバチも飼っている風景が当たり前のように目に入って来ていたというのでしょうか。今だと都心で飼おうものならちょっとした有名人になってしまいますから…。

伯母さまにも是非、機会あらば伺ってみてください。もし何かお話が聞けそうなら、もちろん飛んで行きます。

Akiさん

「満州鉄道まぼろし旅行」教えて下さりありがとうございます。私も早速、図書館で少し調べてみようと思います。地図や写真が多いというのがちょっと嬉しいです。

by mitsubako : 2005.06.11 10:14

はじめまして、
来月、貔子窩に行くのですが、昔の神社、寺の場所等を探す方法はありませんか?

by maru : 2010.09.15 18:40









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