その祖父が満鉄社員として北京(一時はハルピン)で働くことになり、結婚しても家族は大連に残して単身赴任生活をしていたので、父にはほとんど「父親」という存在の記憶がない。以前伯母から聞いた話によれば祖父がたまに満州の家に帰ってくると父は「どこそこのおじちゃんが来たよ」と無邪気に喜んでいたのだそうな。そして祖父は父が中学に入る前に病死してしまう。よって私にとっても父方祖父は最初から存在しないものであったが、父にとっても非常に希薄で、取り様によってはこれまで私が父方祖父の話をほとんど何も知らなかったというのも満更不思議な話でもないのである。
ちなみに当時において内地の一般サラリーマンの給料が60円だったのに対し、満鉄社員の給料は100円だったそうで、曾爺さんから祖父の代になっても単身赴任とはいえ、暮らし振りに不自由はまるでなかったようだ。父に『満州メモリー・マップ』の本の話をして、その舞台となっている奉天(現在の審陽)や新京(現在の長春)のさらに果てのチチハルという地名や開拓団のことを話すと、それは同じ満州とは言っても全然違う世界・生活だったはずだと言っていた。ただ、大連で優雅に暮らしていた人たちからすると開拓団の人たちは一部が破落戸(ヤクザ)化していたそうで、その苛酷で貧しい暮らしぶりを知っていてもそれを決して可哀想だとは思えなかったのだと言う。特に父の場合は中学に入ったくらいの頃に一度、開拓団の連中にオーバーコートを強奪されたことがあったらしく、余計にそのイメージを悪くしてしまっている。
大連在中、父は母兄姉と共に北京に2回、ハルピンに2回、半分は観光旅行のような気分で単身赴任した父親のもとを訪ねている。そのときには必ず奉天の親戚の家(現在四国在住)にも寄って行ったらしい。父によれば、奉天は商人の街、新京は官僚街、ハルピンは帝政ロシアの色の混じった異国情緒漂う街といった印象だったようだ。まあ、何はともあれ父にとっての開拓地は観光の対象以上ではなかったわけだ。
しかし、第二次世界大戦での日本の敗戦により、そこからは『満州メモリー・マップ』の作者と同様に引き揚げ船に押し込められ、財産すべてを取り上げられた状態で帰国することになる。そういえば同書では「引き揚げ船に乗せられた乗船者たちは各々の湾に到着すると上陸前に錨を下ろされ、約1週間そのまま海上で停泊させられ、夏の太陽に焼かれて船内がオーブンのようになり、オーブンの中で伝染病の保菌者が発病するのを待って、もし感染者が現れた場合、その船まるごと上陸を許されず放置された(引用者再構成)」という怖ろしい描写があったが、父が帰港した佐世保ではそのようなことはなかったらしい。ただ、DDT(殺虫剤)を服の中にまで突っ込んで吹き付けられて真っ白にさせられる経験は何度もあったとか。
そしてこれも似た話が書かれているが、引き揚げ者収容所で20歳以上は1000円、以下は500円が手渡され、祖母、伯母、父の3人は合計2500円を手渡され、もともと生家のあった山口の萩に帰ってゼロ(ではなく2500円)からの再出発を切る。このとき父は「もし大金持ち曾爺さんに先見の明があって、満州だけでなく、内地にも土地を持ってればお前だって片手内輪とまでは行かないまでも小金持ちくらいの気分は味わえたのかもしれないけどな!」と笑いながら話してくれた。
そんなところで今回は満鉄社員だった祖父にあやかり、絵葉書は満州鉄道の描かれたものをアップする。また、途中に出てくる写真の方は左から伯母、祖母、父、祖父の順で撮影場所は不明である。しかし、こうして書いていて最後の最後まで父方祖父を「祖父」と書くことの違和感が私には拭えなかった。
なお、このエントリーは当初は帰阪直後の記憶の薄れぬうちにさっさと書き出しておきたかったのだが、毎度おなじみ帰阪後の仕事蓄積地獄でそんな暇は一向に作れず。
で、書くタイミングを逃しかけてたところで、ちょうど Abejas e Colmenas のみつばこさんが「満州 記憶の断片から 1片」「満州 記憶の断片から 2片」と立て続けに満州絡みのエントリーをされてたので、それに便乗した勢いだけで書けました。謝謝!
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