2005年01月29日 (土)
garaikaさんの「施主予備軍のBLOG活用──依頼先探しにどうか」のコメントスペースで再び施主連に建築プロデューサーの朝妻さんも交えて話が盛り上がっている。
「ブログ」というメディアを通してこれから家を建てようとしている施主と建築家が結びつくような、そんな新たなコミュニティ(ネットワーク)は作れないものか?というわけだが、おそらくこの発想はこれまであったような個人の「ホームページ」ではなく「ブログ」だからこそ、そこまで話を発展させて考えられるようになった性質のものであるような気がしてならない。もちろんこれまでにも建築家と施主を結びつけるようなサイトは幾つか立ち上がっていたが、端から見ているとどうも他人行儀というか、言ってしまえばお見合いだけして結婚してしまうようなシステムのもとに作られているように見えてしまうのだ。もちろん見合い結婚だって成功の例はいくらでもあるだろうが、やはりそれは運任せの要素が強い。無論10年付き合ってみたからといって、相手のことは何でもお見通しというほど「人間」は簡単ではないが、それは結婚後も同様の話である。
話が脱線したが、要は「ブログ」の存在ってものが見合いより一歩踏み込んだところで相手のことを見つめることができる、そうしたメディアになりつつあるということだ。無論、虚飾で塗り固めたブログもあるだろうが、日々淡々と更新される「ブログ」というメディアは、そのある種強迫的ともいえる反復性によって個人の無意識を露見しやすいものにしていることは疑いない。そしてそうした無意識的繰り返しの中で漠然と見えてくるものこそが「人の個性」というものではないだろうか。それはこれまでのきちんとした、敢えて言うなら個人の趣味の寄せ集めのような「ホームページ」からでは伺い知れなかったところだ。それは建築家の運営する Web サイトにおいても同様で、もちろんこれまでどんな家を建てて来たのかということをチェックできるという意味では重要だが、サイトのデザインや雰囲気ってものはいくらでも外注可能なのだ。それは言ってしまえば、見合いの席で相手の収入や家柄、業績や身長なんかをチェックするようなもんで、一体それで相手の何が知れただろう?という話なワケである。
まあ、しかし、だからといって施主と建築家のブログを結ぶ有効な手段が見つかっているわけではない。そこで私は garaikaさんのところのコメントで、ある意味ではありきたりだが建築家と施主を交えたワークショップを一つのきっかけとして提案したわけだが、こうしたものが、ただ単発で行われるのではなく、個人ブログともリンクしながら自然発生的に醸成していくことが望ましいと考えている。もちろんインターネットを通じて遠くの人とのやりとりが盛んになるのも喜ばしいことだが、住宅建築の場合、やはり何はともあれ「土地」という動かぬ物件があるのである。人と人が、人と土地が直接顔をまみえることほど重要な繋がりはない。
ただ、実をいうと私はあんまり「ワークショップ」という言葉が好きではない。1995年頃から妻の地元で行われていた灰塚アースワークプロジェクトに関わっていたときには画期的な活動だと思っていたが、最近は公共機関などが猫も杓子もワークショップやっておけば問題ないみたいな状勢になってしまっていて、ほとんどお遊戯の延長みたいに見えてしまう場合がある。ちょうどそんな風に疎ましく思い始めていた矢先に「自らが組織したいと思うワークショップの計画案」という課題で計画書を提出する必要が出て来たもんで、ワークショップに対する鬱憤晴らしと言わんばかりに家作りに託けた「ワークショップ計画案」を去年の2月頃に書いていた。とにかくそこでは実践的であることを第一義に考えた起案となっているのだが、rattlehead さんの「今日の素人作図」のコメントスペースで書いていたこととも内容的に対応している。
そんな訳で長いけど、以下追記欄に全文掲載しておきたい。
□◇
自らが組織したいと思うワークショップの計画案
現在、私の実家は東京の谷中(台東区)にギャラリースペースを併設する新しい家を計画・建設中である。計画は2002年夏から始まり、当初の予定では2003年夏竣工のはずだった。ところが初めに依頼した建築家(私の友人だった)とある段階からうまく行かなくなってしまい、結局辛い決断とはなったがその建築家を解約し、新たに地元で見つけた建築家と再スタートを切ることとなった。幸い新しい建築家とは相性も良く、その後の計画はトントン拍子で進み、来月初旬には上棟式、そして本年夏竣工と完成までの工事日程も概ね固まっている。
こうしてほとんど一年遅れとはなってしまったが、最終的に家族全員納得の行く家ができそうだというところまで辿り着いたという意味では、前建築家との失敗の経緯も含めて、施主としての不満はない。だが、本来クリエイター側の立場にあり、クライアントと相対する仕事をしてきた者としては今回の施主経験は大いに考えさせられるものがあった。
先ほど、私は今度の建築家とは相性が良かったと書いた。それは言い換えれば前建築家とは相性が悪かったということを意味する。もちろん施主として仕事を発注する際にクリエイターの資質、制作志向&嗜好といったものを確認しておくのは当然の心構えだろう。うちの場合は最初それが昔から知る友人であり、彼の独立後第一作となる予定だったから、ある意味で彼の学生時代からの言動や活動内容にかける期待の方が大きく、相性といったものが二の次的になってしまっていたことは否めない。だが、私の中では「相性」というものが仮に多少ズレていたとしても所詮は趣味の相違の問題であり、それらをファンクションで捉えて別のものに置き換える器量があれば乗り越えられるという考えがあった。おそらくその認識は最初に依頼した建築家も共有していたはずだ。
しかし、現実にはその「相性」に負けてしまったのである。
もしこれが住宅建築ではなく、Webサイト構築の話だったならばどうだったろうか? もちろんこの二つのメディアを安易に比較するのは危険である。だが、Webサイト構築の現場にクリエイターとして携わってきた者として言うならば、今回の自分たちほどに厄介なクライアントと出くわしたことはなかった。
無論、Web制作においてもクライアントとの相性の良し悪しはある。だが、Webにはカスタマーズユーザという第三者の存在が非常に大きくあり、もちろん単純な相互妥協による解決も多く存在しうるが、クライアントとクリエイターの相性とは別のレベルで議論の余地が残されている。
ところが、今回施主経験した住宅建築には事実上そうした第三者は存在しない。住宅という性質からも創造の現場は常に閉ざされた中で模索され、そこでの成果は建築家を媒介として工務店をはじめとする各専門ジャンルのエンジニアや職人に伝えられていく。例えば仮に工務店が建築家に批判があったとしても、本来その声は決して施主に届くことはない。詰まるところ、施主は建築家を信じるか否かの選択肢の中だけで次のステップを踏んでいかなければならないし、建築家もまた施主の不信を買ってしまった場合に挽回する術をほとんど持ち得ないのである。
こうした性質を持つ職業として他に医者、弁護士あたりが咄嗟に思いつくが、それらはどれもクライアントのプライバシーに深く関わるという意味において似ているし、ゆえに相互間の「相性」が重要視されるのも謂わずと知れた話だ。
今回、私が住宅建築の施主を経験して痛感したのは、「建築」というクリエーション行為が他のそれとは少し趣を異にしているということと、だが、しかしそれを今後ともに「相性」の問題で片付けてしまっていてよいのか?という問題である。実は私は今回の経験を通して、しかし、この密室で行われる「建築」ほど強力な実践的現場もないと思った。それはおそらく「医療」でも「裁判」でも同様であろう。これらの仕事は最も人間の「生」に根ざしたところで技術力や判断力が求められている。だからこそ、施主もまたとことん自己であるとか家族といったものと真剣に向き合わねばならない。そして、この差し迫った状況というのは実は誰しもに訪れる可能性のあるものだ。
ところが、一般に人はその種の経験に対してほとんどが未知の初心者・素人でしかいられない。家作りにせよ、手術・裁判にせよ、それらには莫大な費用が掛かり、一市民がそう何度も繰り返し経験のできるものではないからである。本来、緊迫した局面にありながら「相性」の問題が半分は運頼みのようになってしまうのも、そうした経験の一回性(振り返る時間的金銭的余裕もない)によるところが大きいのではないか?
そこで提言するのが、クライアントとクリエイターののっぴきならない関係を再現するワークショップである。ここでの第一の目的はクライアントがクライアントであるための訓練だ。また参加者にクリエイターも加わるのであれば、クリエイターもクライアントとしての訓練を積んでみること、反対にクライアントはクリエイターの立場に立ってみるのもよい。
年齢や職業も違えば、趣味・価値観も異なる人たちが集まる市民参加型のワークショップでは参加者たちの対話を成立させるだけでも容易なことではないので、なるべくプログラムは混み入ったものにしないでおいた方が無難だろう。ここでは一つの手順を提示しておくが、やりようはいくらでもある。
- 参加者たちにクジなどで適当に二人組グループを作らせる。
- 二人組でジャンケンなどさせ、勝った方にクライアント、負けた方にクリエイターの役割を負わせる。
- ここで両者の間で作らせるものは何でもよい。むしろ時間・予算といったことから相互に話し合いを行い、成果物を考えていった方がより実践的だろう。
- 一日限りのワークショップであれば、成果物を前になぜこのようなものが出来ていったかを両者が説明する講評会。二日あるなら次回は両者の立場を交換する。
- 長期で行えるワークショップならば、毎回グループの組み合わせを替えて上記プログラムを繰り返し、ある段階から自分と相性の合う相手とトレードが行える仕組みにしても面白いだろう。但しここで一つ必要なルール設定はトレードを行う権限が持てるのはクライアント側ではなくクリエイター側にするということである。クリエイターは自分がそのクライアントと物づくりを進めるに当たって限界を感じたとき、そのクライアントに相応しい代役を見つけてあげることも一つの責任ある仕事と言えないだろうか? それは「相性」問題を否定する考え方ではないが、少なくともそれにぶつかったときに、ただ、運が悪かったで終わらせるのではない一歩進んだ考え方がここでは訓練されることになる。
以上、極めて単純な設定説明しかしなかったが、ワークショップは初期設定の準備をしすぎると、参加者はつかみのところでしらけたり、その後の予想外の展開に対応できなくなってしまうものだ。このワークショップは実践的であることを第一義にその内容を考案したものだが、そもそもこうしたワークショップ設定のフレーム自体も実践的であるべくなければならないだろう。
≪ 閉じる
2005年01月20日 (木)
Yanaka*M3c ── フォトログ1F編をアップ。
ギャラリー兼ピアノ室メインの1Fはほぼ一室空間なため、仕切ることによって生まれる見せ場は少ないが、空間全体の雰囲気や華燈窓・丸太列柱といった三鷹金猊居からの再利用古材を懐かしんでもらえたら幸いである。
届いたばかりの光庭完成写真も追加。これで残すは外観のみ。
2005年01月19日 (水)
我が大阪宅のこたつが突如故障。
事の詳細は妻のブログに委ねるが、まあ、とにかくその原因は上の写真で見ても分かるようにヒーターユニット部に10年分くらいの埃が溜まりこびり付いていたというワケ。
ヒーターユニット部の薄くなったコタツが出回るようになって、こたつの中がスッキリしたのはいいけど、こたつの原理自体は変わってないわけで、むしろそれが隠蔽された分、埃詰まりなどによる故障は増えたんじゃないだろうか? 昔のタイプのこたつなら汚れてるなってすぐ気づくけど、パンチングガードで覆い隠されてるだけにそれに気づかず、うちのようにほったらかしの家は結構多いはずだ。たまたまうちの場合は単にこたつが点かなくなるというこたつのストライキで済んだよかったけど、場合によっては塵が焼けて火事っていうことだって考えられないことはない。我が家は夏場もこたつをリビングのテーブルとして利用しているので、今後はこたつ布団を掛ける時期には必ずパンチングガードを開けて掃除しようと固く誓ったのであった。
National のサイトに「電気こたつの上手な使い方」というページがあるので参考まで。
それと「ヒーターユニット部」という言葉を知らなかったもので、最初に「こたつ」検索したんだけど、そんとき「こたつ隠れ/体位48手(18禁)」などというページが出て来て笑えました。いや〜、でもこれは昔のこたつだと結構大変だろうな〜(^^;)
≪ 閉じる
2005年01月17日 (月)
たまには閑話休題っていうか思いつきのアホアホ小話。
先ほど見つけた「★けんちく家のホンネ。」というブログの「建築家ってなんだ?(その壱)」というエントリーに「建築家」という呼称に対する疑問が書かれていて、これについては garaikaさんところの「「家(か)」の問題」などでも取り上げられているように建築系ブログではとかく取り上げられやすいテーマである。まあ、既成概念として受け入れるよりは一度は疑ってみる必要のある言葉ではあることには違いない。
と、しかし、ここではその話は横に置いておく。私が「★けんちく家のホンネ。」のブログを見ていて、咄嗟に反応してしまったのは別のところにあるからだ。それは「★けんちく家のホンネ。」のブログ作者が「建築家」という言葉の代用として選んだのがブログタイトルとしても使われている「けんちく家」で、で、たぶんこのサイトがベースフォントを明朝系にしているせいだと思うのだが、なぜだか私は見ているうちに「けんちく家」という明朝書体が朧気に「うんちく家」という風に錯覚して見えて来てしまったのである。
蘊蓄(うんちく)といえば、去年の前半くらいまでくりーむしちゅーの上田晋也の存在などによって空前の蘊蓄ブームが起こっていた訳だが、言うまでもなくその言葉自体はブームの終焉と共に廃れていくものではない。というか、私はその錯覚を遊び心に換えて、ちょっとした言葉遊びに興じてみたくなった。
「うん」と「ん」は発音上ほとんど同音なので、どっちで見立ててもいい。とにかく一度見落とした最初の「け」を「家」という漢字に置き換えて復活させてみるのだ。すると「家(う)んちく家」となる。すなわち「家」に関して「蘊蓄」のある人 ── 家蘊蓄家。う〜む、素晴らしい。上田晋也の蘊蓄ばりにこういう人が現れて、いつでも傍らで何に対してでも蘊蓄を傾けてくれたらどんなに便利なことか!?
だが、私はそのような「家蘊蓄家」など、絶対にあり得ないと考えている。なぜなら建築とは一個人の手には到底負えないほど手広く、雑多な諸事にまで通底している領域にあるものだからだ。そういう意味において私は逆説的なようだが、「建築家」とは自身が永遠にプロフェッショナルとはなり得ないアマチュアであることを絶望的なまでに自覚している人のことを指すのではないか?と考える。
ま、そうは言っても、建築家に何かでしてやられると「うわっ、さすがプロ!」とか思っちゃったりするんですがね(^^;)
≪ 閉じる
2005年01月16日 (日)
SDレビュー2003 で藤森賞を受賞したセルフビルダー・岡啓輔氏の自邸「蟻鱒鳶ル」(港区三田)。彼からの年賀状でようやく役場申請を出そうとしているところでジキに着工という報せを受け、我が家の野次馬CT氏にもメールでそのことを伝えると彼からの返信でそれとは別に「無印良品の家」の話が返ってきた。
aki's STOCKTAKING「無印良品/間取り計画」のエントリーでも取り上げられていたことから私も無印が家にまで進出し始めた話は知っていたが、すでに三鷹に一棟、実際の施工例があることは知らなかった。また有楽町には「木の家」モデルハウスなるものもあるらしい。
「住空間 MUJI+INFILL」のページでは、そのコンセプトとして「可変性」「一室空間」「モジュール」という3つのキーワードが使われている。そのベースにあるのが暮らしや住まい方を施主本人が「編集」していくという考え方で、そうした方向性をより明快簡潔に効率よくコストも掛からず且つ自由に展開させられるツールとして、モジュール化(規格寸法に即した)された無印商品による無駄の少ない「インフィル」と一室空間を構成する「スケルトン」がある。と同時に、それら内外で扱われるアイテムが徹底してシンプルであることを追究していることによって、ある一定の洗練されたデザインレベルの維持を可能にするという狙いもあるのだろう。おそらく無印良品にはデザインそのものを徹底してシンプルにすることこそが人間とモノとの関係において一つの究極のカタチ(終局)を作り出すというくらいの野心もあるのではなかろうか。
一方、岡啓輔氏の「蟻鱒鳶ル」である。
これまで踊りをする傍ら、土木作業員→鳶職人→鉄筋工→型枠工→2×4大工→在来大工という実務修行を続けてきた彼が「セルフビルド岡土建」としてその第一作となる自邸「蟻鱒鳶ル ── Ari.Masu.Tonbi.Le(Arimasuton Building)」の建築に取り掛かり始めたのはいつ頃だったか。
冒頭にも書いたように計画途中で藤森照信氏から「生涯かけてつくり続けるよう願って」と特別賞を特別に出してもらって拍車がかかったかどうかは知らないが、いずれにせよこうした愛しむべきユニークな取り組みの計画過程が雑誌メディアで紹介され、しっかり記録として残ったのは喜ばしいことだ。本当言うと途中で止まってしまった岡氏本人による「レッツゴー岡土建!」Webサイトの復活が一番望まれるところだが。。
以前、岡氏が送ってくれた「蟻鱒鳶ル」のプロジェクトプランには次のような詩ともつかぬメッセージが添えられている。
セルフビルドで踊れ!
踊りで学んだ沢山の事を、この建築にそそぎ込む。
着工前に決定しとかなきゃいけない要素を極力へらし、多くを現場で即興的にセルフビルドで拵えてゆく。
デザインは「頭」だけに依らず、からだ全て、そして気分や勘、虫や月、太陽、音楽、サイコロ、友達、多くに依る。
心を開き、広がるイメージを見つめ、現れた「何か」を形に定着させる。
それが連鎖してゆく事によって、徐々に全体の姿が現れてくる。
汗を流し、筋肉軋ませ、全身で集中し、、この過程を楽しみたい。
そう、この作戦の要は「楽しんで作る」だ。
この事が実は最大の難問。簡単じゃない。
「楽しんでいるフリ」は最悪。それは瞬時に暴かれる。
欺瞞なく楽しめれば、出来たモノは自分にとって何より美しく、リアルなモノになる。
そして、人にも伝わる。この事は踊りに教わった。
アリマストンの現場は「楽しんで建築を作る」を学び直す稽古場なのだ。
工法的にも真新しいことに挑もうとしているプランの詳細は今後、工事見学に行った機会などに改めて紹介したいと思うが、このメッセージを読んでいると「無印良品の家」とは別の意味で「究極のカタチ」が見えてくるような気がする。それは無印良品が「究極のシンプル」という云わば無機的な零度(もちろん「何もない」という意味ではなく「ない」ことこそが意味を作り出す)を志向するのとは対極に、過剰なまでに雑多で肉感的な有機性に充ち満ちている。おそらく「蟻鱒鳶ル」ではすべての部材、すべてのインテリア、すべての外観、すべての工程がそれぞれに何某か主張し合い、それに纏わる記憶を住人たちはいつでも導き出すことができるだろう。岡氏は「建築」という行為それ自体で「人生」そのものを「編集」しているはずだ。それもまた一つの「究極のカタチ」と言えないだろうか。以前に彼からもらった手紙にはこんな一文があった。
ちくしょう。つくらず、死ねるか。
尚、このエントリーについてはさらに話を「エロス/タナトス」の対立概念へと飛躍させて、再エントリーの機会を設けたいと考えている。決して「無印良品」という検出率の高いキーワードでアクセス増を狙おうというものではありません(汗)
以下は本文でリンクされたもの以外でエントリーにあたって参照したサイトである。
「無印良品の家」に関して
・GALLERY−MA: 無印良品の未来(レポーター:河内一泰)
・SFC Design Systems: MUJI+INFILL 木の家
・NEUTRULE: 木の家 / 無印良品
「蟻鱒鳶ル」に関して
・おがてつ図書館: 岡画郎
・AKIRA-MANIA: 岡画郎
≪ 閉じる