2009年01月13日 (火)
以前「長居公園テント村跡地にて 」のエントリーで、代々木公園でテント生活をしている友人・小川てつオ氏のことに触れたが、年末年始の派遣村の一件で彼がどういう所感を持っているのか気になっていた。するとどうやら彼は一日だけ派遣村にお邪魔して、ボランティア活動をしていたようだ。そのときの様子がホームレス文化「あけましておめでとうございます 」にて記されている。
マスコミのような上から目線でも、今回の当事者である派遣労働者でもない視点から現場を捉えた彼の受け取り方は非常に興味深く、是非一読することをオススメしたい。
2009年01月01日 (木)
2009年1月1日 15:12, 大阪市北区天満, Nikon D300/20mm
大阪環状線、天満駅を降りて、徒歩1分といったところだろうか。
申し訳程度にスナックやパブの入った雑居ビルがあり、その脇の細い路地を入っていくと津田式ポンプ製作所 が作った井戸が出てくる(そういえば中崎町の井戸はもうなくなってしまったようだ)。
その井戸の存在は何年か前から知っていたが、一昨年の大晦日 にたまたまその前を通ったら、井戸の上に鏡餅 が載せられているのに遭遇。小粋なことをする人もいるものだと感心して今年も見に行ったら、今年も同じようにしてパックの鏡餅が載せてあった。
ただ、一昨年と大きく違っていたのは、井戸のまわりにペットボトルが立ち並んでいたこと。猫対策ということなんだろうが、ペットボトルに囲まれた井戸の上の鏡餅 とは、ロートレアモンの「解剖台の上のミシンとコウモリ傘」に「水」繋がりさえなければちょっと肉薄していたのに‥‥。
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2008年09月30日 (火)
2008年7月13日 11:25, 東京/谷中M類栖/光庭, Ricoh GR Digital/28mm
今月代わり映えしたところがあるのは「インテリア」のみ。しかし、そのキーワードだけでこのブログが高ランクに付けるとは思えず、何のキーワードと検索フレーズで絡んだのか確認すると、先月ランクインしていた「床の間 」とのセットだった。
床の間──現実的に我が実家でそれが「床の間」として活かされるのは、祖父の命日の日だけな気がする。その日は遠い親戚でもあるお坊さんが実家を訪れ、お経をあげてくださる。そして、そのときだけ仏壇が床の間の方に移され、そのときだけ荷物置き場と化していた床の間が本来の姿を現すというわけだ。その一日のためだけにある床の間が無駄なのかどうかはわからないが、私個人はそのお坊さんと1年に1回話ができるのが楽しみで、無理をしてでもその日は東京に出向くようにしている。今年で御年86歳。
冒頭の写真はその床の間ではなく、お坊さんが来られた7月13日の光庭。
軍艦アパート 7.0% グヤーシュ 1.7% 谷中 1.7% 上棟式 1.5% 針江 1.4% 高過庵 1.3% 遊郭 1.2% 臭突 1.2% 川端 1.0% インテリア 0.9%
先月(2008年8月)の解析結果はこちら から。
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2008年02月04日 (月)
2003.12.02 11:30, 東京都台東区谷中(谷中M類栖敷地), MINOLTA DiMAGE G400
2月2日、所用により近鉄電車を利用して名古屋まで行った。その道中、二度ほど地鎮祭の風景が目に入ってきたのだが、それを見て改めて地鎮祭っていいもんだなと思った。
理由は別に土地の神(霊)を鎮める神道思想に則りというほど、自分は信心深い人間ではない。ただ単にその空間がまだ「風景」であることを担保しながらも「建築」となることを天に向かって示しているような、それでいて慎ましくも空虚な感じであること。
昨日たまたま読んでいた福岡伸一著『生物と無生物のあいだ 』で出てきた言葉を借りるなら「界面」と言っていいのかもしれない。それは空間上ではなく、時間軸上の話ではあるが、しかし、新幹線ほど速すぎない近鉄特急の車窓からはっきりと目で捕らえることのできた地鎮祭の風景は、地平上の「界面」であるとも言いたくなるものであった。
2003年12月2日、我が家も先勝の日に地鎮祭を行った。改めて「地鎮祭 」エントリーを掘り返してみると、近鉄の車窓から見えた地鎮祭風景に較べ、我が家の注連縄 (しめなわ)で四方に囲われた領域(祭場)の小ささにはびっくりする。当時はナンチャッテ地鎮祭のつもりだったので全く気にも留めなかったが、こんなにもかわいい感じだったとは! 写真で見る限り、四方約1.5mくらいしかない感じである。そこで気になって調べてみると「地鎮祭の調度品 」「地鎮祭などの祭事コラム 」などによれば、敷地中央付近に2m間隔でとのことだが、Google イメージ検索 で見ると、大小様々のようにも見える。もちろん敷地の大きさにも拠るだろうが、地域差なんてのもあるのだろうか。
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2007年01月14日 (日)
総領の義父は数年前から畑の焚き火場脇に種から育てたミカンとポンカンを植え、ワシが生きとる間に育つかの〜と言いながら、その発育具合を楽しんでいる。ただ、義父が言うには冬の寒さの厳しい総領では実を実らすのが難しいばかりか(実際、冬場は防寒用に上の写真のような袋を被せている)、仮に実がなったとしても、甘ない(あもーない)ミカンにしかならんだろうという。
その理由は潮風にあるのだそうだ。ミカンは不思議と潮風を受けることによって甘みが増すものらしい。思えば名産地とされる、愛媛、和歌山、静岡と皆、潮風をたっぷり受けることが出来そうな立地ばかり。総領町の属する広島県にも「大長みかん」というブランド商品があるにはあるが、それらはいずれも瀬戸内海に浮かぶ群島で生産されている。総領のような中国山地の山奥とは縁遠い世界である。
ところでミカンと潮風の関係を調べようと「みかん 潮風」でググっていたら、山口の「周防大島ドットコム 大島みかん白書 」というページが出てきて、そこで紹介されてる絵には大いに笑わさせてもらった。そういえば父の第二故郷となる山口の萩でも土塀に囲われたミカンの木を見た記憶が残っている。そこは日本海の潮風ということか。。
【写真上】2006.01.05 14:20, 広島県庄原市総領町・妻の実家の畑にて
【写真下】2001.12.06 12:05, 山口県萩市にて
【追記】ミカン話でもう一つ思い出したので追記。実家にいた頃って冬になるといつもミカンの入った箱があって、とにかく無造作にというか、ワケもなく無闇にミカンを貪り食っていて、それでも箱の底の方にあったミカンは腐っちゃうという感じだった。それは妻も同じだったと言う。しかし現在、我が家にミカンがあったとしてもそれは他の菓子類同様に貴重品で、常に個数平等、同じ時に食べる代物という風になってしまっている。ミカンが不自由なく食べられるくらいの生活力を持ちたいものだが。。
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2007年01月01日 (月)
わきた・けんいちさんの呼び掛け などもあり、「My Place」の玉井さんが提唱される「わがやのお雑煮大会 」にアースダイブ未参加ながらも参加してみることにした。
うちは妻が広島出身、私は東京の出身で、なぜか大阪に住んでいる。で、特にどちらの親とも同居はしていないので、基本的に作るのは妻ではあるものの、何となく住んでる場所同様、お互いの中間地点にあるようなお雑煮になっている。毎年恒例2日から妻の実家に帰省することになっていて、そこではもっと具だくさんで濃厚な雑煮が出る。他方、私の東京の実家は蕎麦つゆの濃さで有名な東京だけれども、至って薄口好み。
具はにんじん、ほうれん草、大根、ネギと至って凡庸なものばかりだが、それに松茸が入るところが他とちょっと違うところか?──ちなみにこの松茸は広島の妻の実家の近くの山で採れる。今年は私も山に入ったので、もしかすると自分で採ってきた松茸かもしれない。これを見たら何と贅沢な!と思われるかも知れないが、どうも松茸狩りに連れて行ってもらうようになってからというもの、国産松茸のありがたみをそれほど感じなくなってしまった。毎年1本だけ冷凍しておいて、それを正月に食べる。また、毎年恒例で2日から妻の実家に帰省すれば、お雑煮だけでなく、すき焼きやら焼肉やらと昔なら考えられなかった局面で松茸を食べる。それが正月というものになった。
ちなみに妻の実家では上記の具に蛤が加わり、うちの実家では鶏肉とかまぼこあたりが追加される程度で、むしろ違うのはだしの味付けといったところか? あと、餅は妻の実家の方で付いた丸餅を使う。これも慣れると市販の餅がまずくて食えなくなる。
ところで、わがやのお雑煮大会のための写真を撮ろうとするものの、肝心の餅が底の方に沈んでしまって、結局箸で掘り出したヤラセ雑煮のようになってしまった。この企画に参加された他のブロガーもふだん敷かないランチョンマットを敷いてみたりとか、いつもより少し気取った雑煮になっているのだろうか? まあ、いざ食べ始めたら伸びる餅にこんな表情 やこんな表情 になってしまうわけだけど(笑)
それでは、本年もよろしくお願い申し上げます。
【写真】2006.01.01, 13:53, 大阪自宅にて
□◇
以下ご近所ブログの「わがやのお雑煮大会」。アップした時間で見るのも面白い。
(ちなみにうちの日時は撮影時刻に偽装したものですが‥‥)
・N的画譚: わがやのお雑煮 (2007.01.01 11:59)
・藍blog: わがやのお雑煮 (2007.01.01 09:32)
・aki's STOCKTAKING: わがやのお雑煮 (2007.01.01 15:00)
・MyPlace: わがやのお雑煮 (2007.01.01 20:20)
・Kai-Wai 散策: わがやのお雑煮 (2007.01.01 21:06)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 『わがやのお雑煮大会』参加エントリー (2007.01.02)
・MyPlace: わがやのお雑煮:三日目に (2007.01.03 12:20)
・MyPlace: 石川県加賀のシンプル雑煮 (2007.01.05 20:50)
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2006年12月24日 (日)
前エントリー では mitsubakoさんのブログから「日本人の居住空間から床の間が消えていったのも、おもしろさが失せたからだろう」というアランさんの言葉を引用した。このエントリーではもう少しその床の間について、うちを実例にして考えてみたい。
まずうちの場合、前任建築家との計画初期段階から、すでに床の間は図面上に書き記されている。これにはおそらく三鷹金猊居から持ち込んだ行器(ほかい) ・鏡 等の古道具を置くスペースとして床の間を活用するのが妥当だという判断が、三鷹金猊居時代の住まい方に倣って我々(施主側)のうちにあったものと思われる。そして床の間の導入はその後、特に大きな疑問を持たれることもなくそのまま採用されることになった。
しかし、2階の居間の現状を見る限りにおいて、それはなくても良かったと言える状況にあることは認めざるを得ない。その最大の要因は母が自分用の居室として用意された3階個室を完全に物置きとしてしまい、居間兼客間と想定されていた2階共有スペースを居間兼寝室にしてしまったことにある。その部屋が住人のベッドスペース(布団敷きだけど)となってしまったことによって、客間であれば求められたはずのところの遊び感覚(おもしろさ)が完全に別のベクトルを向いてしまったのだ(簡単にいえば、モノによって床の間前の空間が無為に埋められてしまったということ)。
ただ、こうした住宅事情というのは狭小スペースを余儀なくされやすい都内においてはうちが特殊ケースとは言えない面もあろうかと思う。Wikipedia「床の間 」では、その冒頭で「床の間とは、日本住宅の畳の部屋に見られる座敷飾りの一つ。ハレの空間である客間の一角に造られ」と記されるが、うちのように「ハレの空間」と「ケの空間」を混在させざるを得ない住環境にある家というのは決して少なくはあるまい(うちの場合は住まい方の拙劣さにおいてそうなってしまっているわけだが)。
としたとき、形骸化しただけの床の間が無思慮に導入されるくらいなら、ない方が良いというのは賢明な選択である。正直、これは自分で図面を書いてしまった本人も含めての話なのだが、どの図面であっても「床の間」は何となく空いたスペースに嵌め込まれでもするように書き込まれるケースが多く見受けられた。Web/DTP のレイアウトでいえば、ここ空いちゃったから埋めとくか!ってノリにちょっと近い。しかし、そういう部分に「おもしろさ」ってなかなか現れはしないものである。
その代わりと言っては何だが、意欲的な設計者がハレとケの混在空間を前にしたならば床の間という形式にはこだわらずとも床の間的「おもしろさ」を演出するような空間は頼まずとも作り出すことだろう。うちの場合はそれが1階の階段〜濡れ縁あたりの三鷹金猊居から再利用した丸太梁を絡めた空間にしっかり実現されているように思われる。ただ、その空間はやはり余白に何となく嵌め込まれたのではなく、吟味に吟味を重ね、しっかり議論の持たれた場所であった。
以上、アランさんの論からはだいぶズレたところでの話の展開になってしまったが、床の間そのものの「おもしろさ」については機会を改めてまた考えてみたい。
【追記】
今回珍しく写真なしでのエントリーとなってしまったのは、完成直後に撮影して以降、ロクに床の間の写真を撮っていなかったためである。そのことからも我が家の床の間に対する私の関心の度合いが透けて見えそうである。他方で、床の間的「おもしろさ」が演出されているとした「1階の階段〜濡れ縁」の方は写真に撮ってはいるのだが、いまいちその空間的おもしろさの伝わる写真が撮れてないのでアップしていない。広角レンズが欲しくなる今日この頃である(宝くじでも当たらない限り買わないだろうけど)。
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2006年12月12日 (火)
のんびりペースとはいえ、あんまり律儀に芸工展巡りでの企画紹介ばかりしていると、さすがに書く方も飽きてくる。ということで、今回は芸工展巡りの最中に見つけた柿の写真でもアップしよう。この柿は大名時計博物館前の通りからあかぢ坂を下りて程なくのところにあるアパートの塀の上に、無造作にというよりはどちらかというと造作的な感じで置かれていた。※註・追記≫ 下の写真をご覧になるとわかるだろうが、一部囓られた痕があり、ひょっとすると住人が鳥の餌にでもと置いておいたのかもしれない。
柿といえば、学生時代に漫画『美味しんぼ 』で柿の甘みが菓子の原点にあるという話を読み囓った覚えがあった。早速ググってみると第26巻「菓子対決(前) 」にその話は出ていた。リンク先(夜刊ロロモ )にはその巻の仔細なあらすじが掲載されているので、興味を持たれた方は同ページ4〜5章をご覧になられると良いだろう。
現代のお菓子の大半は甘みを砂糖に頼っているが、18世紀以前の日本では砂糖が高価で庶民の手に簡単には入らず、甘みへの欲求は果物によって満たされていた。上記あらすじから暫く引用してみると「菓子の菓と果実の果は同じ、木になった果物のこと」「すなわち、菓子とはもともと果物のことだったのだ」というように、その語義自体に菓子のルーツが隠されていて「中でも柿は日本独特の物」「ほかの果物と違って干し柿として保存がきくので貴重だった」として、海原雄山に「水菓子としての果物といわゆる菓子の中間点、いわば菓子の原型として考えられるのが干し柿」では?と結論づけられている。
そういえば韓国ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い 』でも、第5話「変革 」で子供時代のチャングムが料理の隠し味に熟した柿が使われていることを一人言い当てるシーンがあるのだが、朝鮮王朝時代の韓国料理においても甘みを引き出すのに柿が使われていたという点では日本と同様のようである。余談だが、「なぜ、柿だと思う」と最高尚宮に聞かれ、「食べた時に柿の味がしたから、柿だと言ったので、なぜ柿かと聞かれても柿の味がしたからだと」子チャングムが答えるこのシーンが私は無性に好きでたまらない。
【写真上・中】2006.10.18 15:49, 台東区谷中・あかじ坂にて
【写真下】2006.11.11 13:41, 滋賀県高島市新旭町・正傳寺鐘つき堂の干し柿
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2006年11月06日 (月)
アジア雑貨を主に扱う「nagomiya わぁい」は藍染大通りへと繋がるあかじ坂を下って澤の屋旅館の手前十字路を右に曲がってしばらく歩いたところにある。「生活の中に 和<なごみ>の雑貨を提供」ということから店の名前が付いたようだ。
芸工展には『手仕事展』というタイトルで「手作り」であることをコンセプトに集められた雑貨が主に置かれていた。特に目を引いたのは、オーナーさん自らが作られた文庫用ブックカバーで、ご本人が本を読まれる際に不満に感じられていること(例えばヒモしおりが中途半端なところで折れてたり、読むのに邪魔になったりするなど)を解決すべく工夫が凝らされていて、ちょっと食指が動かされたが、何分ふだんの生活で文庫本を読む機会が激減してしまっているので、買うのは控えてしまった。
どうも最近は「良いな」と思っても「買おう」にまで至るものといえば、食べ物くらいである。食べ物はなくなってくれるからいいが、それ以外のものは「モノ」として増えることがつい頭を過ぎり、踏み留まってしまう。なので、「良いな」と思ったその感情が「買う」という行為なしでも作り手に伝わる何某かのシステムはないものか?と芸工展を巡りながらしばしば考えていた。ただその場で言葉の上で「良いですね」と言ってみても「買う」という飛躍的行為に値する万感(交換/交感)はなかなか得られるものではない。せめてこうしてブログで書くまでである。
谷中芸工展2006 【56(?) nagomiya わぁい: 手仕事展 】
谷中で和小物とアジア雑貨の店をやっています。芸工展期間中は手仕事展をやります。 文庫カバーや小さな手提げ等のオリジナル商品を展開します。
木休/10:30〜18:00 台東区谷中2丁目
⇒公式サイト: nagomiya わぁい
【写真上】2006.10.16 12:24, 谷中2丁目/nagomiya わぁい前
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2006年10月14日 (土)
芸工展の準備をしていたら夕方過ぎに玄関からパサッという音が‥‥。
夕刊や郵便にはちょっと遅いだろうと思って見に行ったら、郵便受けに届いていたのは台東区谷中坂町々会の回覧板だった。今住む大阪のマンションはもとより、三鷹でも見たことなかったのに、さすがは下町・谷中と言うべきか?
しかし、中を見ると専ら広告が主でお知らせ事項はほんのわずかだった。
でも、可能であるなら、これにうちのDMを副えたい気分である(^^;)
2006年10月04日 (水)
1909年愛知県に生まれる。本名 丸井金蔵。1933年東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科卒業。'35年同校研究科終了。市立川村女学院美術科、埼玉県立浦和第一高等女学校教諭を経て、'47年東京美術学校工藝科講師。'48年より以後20年以上に渡って神奈川県立工業高校工芸図案科(のち産業デザイン科)教諭を務める。
和洋エジプト入り乱れた独特の画風で、学生時代より旺盛な創作活動を見せるが、30歳に差し掛かる頃、時代は戦争へと暗転。以後ほとんど自作品の創作に向かうことなく、晩年を迎える。神奈川工業高校退職後、「死ぬ前に一度個展を」と再び絵筆を握り始めるが、1979年心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて急逝(享年69歳)。
1930年国際美術協会主催第一回美術展覧会入賞主席。主な仕事として'35年愛国生命保険(のち日本生命保険)壁画製作、'37年には阪急電鉄の創業者である小林一三氏の委嘱により東宝劇場階段ホール壁画製作 (火災により焼失)などを行っている。
以上は、1997年10月に三鷹市美術ギャラリーで開催した「丸井金猊とその周辺の人たち展」のチラシで掲載した祖父のプロフィールに一部加筆したものである(チラシをお持ちの方はどこを変更したか較べられると面白いかもしれない)。
この文章を書くにあたっては以下に転載する祖父本人が書き記した履歴書の他に、メモ帳や祖父のところに届いた手紙、また祖父の実娘である母や親戚の話などを参照した。
本来であれば、約40年に渡って連れ添った祖母に話を聞くのが一番なのであるが、事実上、祖父の遺作展を企図したのが脳梗塞で約3年間寝たきりを続けた(ほぼ喋ることもできなかった)祖母が亡くなってからだったので、どうにもならなかったのである。端から見れば何でもっと早くにと思われるだろうが、そもそも私が超無気力高校時代などを送ってしまって、祖父の早熟ぶりとは対照的にあらゆることに目覚めるのが遅かったのだからやむを得まい。だからといって、あの無駄に過ごした高校時代をやり直したいとも特には思わないのだが(無駄で馬鹿なりのよさがあったし)、やはり一つ惜しむべきは祖母からの情報収集がまるでできなかった点だろう。
「和洋エジプト入り乱れた独特の画風 」なんてのも今からするとかなり恥ずかしい表現だけど、まあ、事実でもあるので、そこはそのまま掲載した。でも、「入り乱れた」というよりは「異物をうまいこと構成した」と言った方が適当かもしれない(笑)
以下、転載する履歴書は基本的に祖父の記述をベースに西暦と年齢を添えただけのものであるが、最後の個人略歴と遺作展歴は私の方で新たに追加している。
□◇
丸井 金猊 履歴書
雅号 丸井金猊(キンゲイ) または 金臣(キンシン ※最初期)
本名 丸井金蔵 1909.10.19(明治42年10月19日)生
■学歴
1928.03(昭和 3年) 愛知県立工業学校図案科卒業
1928.04(昭和 3年) 東京美術学校日本画科入学
1933.03(昭和 8年) 東京美術学校日本画科卒業(修業年限5ヶ年)
1935.03(昭和10年) 東京美術学校研究科卒業(修業年限2ヶ年)
■画歴並びに業務略歴
1930.06 国際美術協会主催第一回美術展覧会に出品、入賞首席
昭和 5年・20歳(画題「菊」二曲屏風半双、東京平尾賛平氏買上)
1931.06 国際美術協会主催第二回美術展覧会に出品(無鑑査)
昭和 6年・21歳(画題「閑庭」二曲屏風壱双、公爵近衛文麿氏買上)
1933.03 東京美術学校卒業成績作品
昭和 8年・23歳(画題「菊花讃頌」二曲屏風二双連作、外務省政務次官瀧正雄氏買上)
1934.10 愛知社主催東都在住作家日本画展覧会出品
昭和 9年・24歳(画題「麗人散策」衝立、公爵近衛文麿氏買上)
1935.04 東京、私立川村女学院美術科講師並びに常任幹事職員
昭和10年・25歳(1941/昭和16年6月退職)
1935.11 愛国生命保険株式会社(社長原邦造氏)の委嘱に依り壁画製作
昭和10年・26歳(画題「奏楽」竪、幅共ニ十尺)
1937.05 (株) 東宝劇場(社長小林一三氏)の委嘱に依り同劇場階段ホール壁画製作
昭和12年・27歳(画題「薫風 」=騎馬婦人群像図、竪十尺、幅十八尺)
1942.01 東京、私立帝都学園高等女学校講師
昭和17年・32歳(同年3月退職)
1942.04 埼玉県立浦和第一高等女学校教諭
昭和17年・32歳
1945.12 埼玉県立浦和第一高等女学校勤務、高等官待遇(内閣)、地方教官二級
昭和20年・36歳
1946.10 浦和日本画家協会幹事並びに浦和市文化連盟会員
昭和21年・36歳
1947.04 東京美術学校講師を嘱託 工藝科勤務
昭和22年・37歳
1948.04 神奈川県立神奈川工業高校教諭 工芸図案科 勤務
昭和23年・38歳(1971/昭和46年3月退職・61歳)
■個人略歴
1909.10.19 愛知県葉栗郡北方村大字中島で丸井貝二・みわの三男として生れる
明治42年・0歳(現・愛知県一宮市北方町中島/兄弟は9人兄弟姉妹)
1928.04〜? 東京美術学校日本画科入学後、暫く谷中清水町に下宿
昭和 3年・18歳
1930.01.05 長兄・久右エ門、病没(享年28歳)
昭和 5年・20歳
1935〜 東京美術学校日本画科卒業 、この頃、親友・宮内秀雄 氏と知り合う
昭和10年・25歳(宮内氏はコンサイス英和辞典の編者で知られる英文学者)
1937.03.02 茅野さだゑと結婚
昭和12年・27歳(戸塚から下落合に転居)
1938.10.23 父・貝二、死去(享年70歳)
昭和13年・29歳
1939.03.23 弟・末太郎 、戦病死(享年24歳)
昭和14年・29歳
1939.11.03 三鷹金猊居、上棟
昭和14年・30歳(下落合から三鷹に転居/三鷹金猊居は金猊本人の設計)
1941.04.09 母・みわ、死去(享年63歳)
昭和16年・31歳
1942.04 戦争のため、一時的に三鷹金猊居を空けて浦和に疎開
昭和17年・32歳
1944.02 長女・美鷹 、誕生
昭和19年・34歳(妻さだゑの実家上諏訪にて)
1944.11.17 弟・了二、戦没(享年26歳)
昭和19年・35歳
1946.11 次女・鏡子、誕生
昭和21年・37歳
1970.11.24 初孫・隆人 、誕生
昭和45年・61歳(三鷹市村越産婦人科にて)
1972.03〜06 東村山市緑風荘に入院療養
昭和47年・62歳(病院からの手紙 )
1979.07.12 心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて死去(享年69歳)
昭和54年・69歳
1995.11.12 妻・さだゑ、三鷹市篠原病院にて死去(享年87歳)
平成 7年(脳梗塞から肺炎等を併発)
2003.08.05 妹・八恵、愛知県江南市の病院にて死去(享年91歳)
平成15年(金猊最後の兄弟姉妹)
■遺作展歴
1997.06.18〜06.22 「≪所有≫の所在」展(三鷹市美術ギャラリー)
平成 9年(屏風「壁畫に集ふ」の完成作とその下絵を並置)
1997.10.22〜10.26 丸井金猊とその周辺の人たち展(三鷹市美術ギャラリー)
平成 9年(当時発見済みの全リソース約60点をゆかりの人々の作品と共に公開)
1999.01.08〜01.17 飛高堂表装 丸井金猊 展(ぎゃれりぁ飛高堂)
平成11年(三鷹の飛高堂で表装した作品を展示)
1999.03.15〜03.19 丸井金猊展(東京丸の内・東京マリンギャラリー)
平成11年(副題:「閉ざされた成熟」のなかで/約50点展示)
2000.11.09〜11.13 浦和第一女子高等学校創立百周年記念美術・書道展
平成12年(伊勢丹浦和店7階アートホール/「白鷺圖」を出品)
2002.10.04〜10.13 家の中の金猊(三鷹金猊居)
平成14年(三鷹金猊居解体前の家そのものを展示空間とした展示)
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2006年09月23日 (土)
先月、前から調子の悪かったプリンタがとうとう御陀仏になってしまった。一応、自前修復できないかと中を開けてみたのだが、夏の暑さのせいだろう、インクを左右に移動させるベルトのようなものが伸びきってしまっていて、それを交換する必要があるようだ。となるとその部品から探さねばならず、やむなく処分することにしてしまった。
ただ、その処分のおかげ?というべきか、本棚の上に置いていたプリンタ一箱分、空きスペースが出来た。そこで地震対策も考え、天井までぴったりと嵌る本棚を作り、日常手に取ることの少ない書類やカタログ類を置くことにした。しかし、だいぶ前から容量オーバーとなっていた本棚だけに、オーバー分であっさり埋まってしまったのである。
というわけで、いずれは売るなり処分するなりすることを考えねばならないのだが、そうなったときに一番に槍玉にあがるのは家づくりのときに各種取り寄せたカタログ類ということになるだろう。もうだいぶ処分してはいるのだが、あと一棚分、一応最終的に利用することになった設備等のものが捨てられずにあるのだ。何だかそれはいざというときの確認用として残しておきたい気もするし、それにいつかブログで触れるかもしれないと思うと何だか捨てられないのである(汗)
実際、施主卒業生のみなさんはカタログってどうされてるんだろうか?
個人的には必要なところだけスクラップして、1、2冊のファイルにまとめるのが一番と思っているのだけど、なかなかそれをやる時間というのは作れるものではない。こういうカタログというのは年ごとにどんどん変わっていくので、誰かに譲れるものでもないしなぁ。先のプリンタ同様、事物的リサイクル性に乏しい代物と化しつつある(何かの土台に使うという手はあるが)。まあ、商品がそう簡単にリサイクルできないんだから、そのカタログも同じ運命を辿るしかないんだろうが。。
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2006年09月17日 (日)
家作りその他つれづれなく「クリエイターズ/世田谷美術館にて 」で『クリエイターズ - 長大作/細谷巖/矢吹申彦 』という企画展が世田谷美術館で行われているということを知った。期間は9月24日(日) までで残念ながら私は行けそうにないが、実家にはこの情報を伝え、時間をつくることができるならば観に行くようにと話しておいた。
というのも、この3人のクリエイターのうちの一人、細谷巖氏は私の祖父・丸井金猊が神奈川工業高校 工芸図案科(のち工芸デザイン科)の教鞭を取っていたときの教え子であり、また1997年に『丸井金猊とその周辺の人たち展』という展示をしたときには出品協力をお願いし、祖父へのメッセージもいただいているのだ。正直ここで「教え子」だなんて書くこと自体も烏滸がましい存在なのだが、当時の私は怖いもの知らずもいいところで、神工出身の名だたるデザイナーたちに無理難題な協力をお願いしていたのである。今思えばデザインの「デ」の字も知らない分際で、超一流のデザイナーたちによくもあんな無粋なチラシや発行物を平然と送っていたものである(汗)
細谷巖氏に関しては世田美の企画展プロフィールを読んでもらえればと思ったのだが、どうも世田美のサイトは期間が終わると次の企画展情報に切り替わってしまって、過去の企画展は概要のみしか記されなくなるようなので、以下に引用しておくことにした。
世田谷美術館・企画展『クリエイターズ』──細谷巖
日本で最初の広告制作会社である「ライトパブリシテイ」に高校卒業後、入社。現在に至るまで、独立せず、テレビCMではなく紙媒体を基本に広告制作を続ける。1955年日宣美展にて特選を受賞し、以降、田中一光、和田誠らと日本のグラフィックデザインの隆盛期を築いた。1975年よりキユーピーマヨネーズの雑誌広告、新聞広告等を手掛ける。写真、コピー、ロゴマークのみで構成するシンプルな作品は、時が経っても新鮮さを失わないものとなっており、ストレートな広告が長く力を持つことを再認識させる。
finziさんも書かれていたように、細谷さんの作品をご覧になると「ああ、あれもこれもみんなそうなんだ〜」ときっと多くの人が思われることだろう。記憶の片隅からほじくり出してくるというよりは、記憶の中心にどーんと座って一端を見せればすぐに蘇ってくるという感じの作品なのだ。気になる方は「タイムトンネルシリーズVol.19 タイムトンネル:細谷巖アートディレクション 1954→ 」のページを参照されるとよいだろう。
当時、細谷巖氏にいただいたメッセージはできればここで紹介したいところだが、本人確認が必要と思われるのでこの場では控えることにした。短い文章ではあるものの、祖父から正倉院御物の宝石箱の真珠にからめられた唐草の模写を課題に出されたときのエピソードなども書かれている。当時作った冊子の残部はまだ少々あるので、ご希望される方は谷中芸工展開催時の「谷中M類栖/1f 」会場でお申し出ください。
尚、右の書籍写真は2004年10月に白水社から出版された『細谷巖のデザインロード69 』という伝風半生記で、神工時代に思い出に祖父の名前も見つけることができる。
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2006年08月24日 (木)
去年の秋に flickr で nodoca さんらと「臭突」のことが話題になったことがあった。
臭突とは水洗化されてないトイレ(所謂汲み取り式便所)の臭いを外気に排出する煙突状のファンのようなものである。それまでは漠然と煙突との区別なしに田舎でときおり目にする光景として捉えていたが、それが話題になってからは妙に意識して見るようになってしまった。というか、まず最初はその名前がわからなかったのである。
そして名前のわからないまま、「トイレの換気するヤツ (Copyrighting by isado )」についての Group「chimney with ventilation fan=CWVF 」を nodocaさんが flickr に立ち上げられる。で、「CWVF」という造語が flickr 仲間(といっても極数名)間での通称となっていたのだが、今年の正月に妻の実家・総領に帰省した折り、当然のように2器備わっている 家なので義父母に聞いてみたのである。
すると最初はその名前に思い当たらないのか、換気なんとかじゃろと誤魔化していたのだが、帰阪日の車の中で二人が何食わぬ顔して「あの臭突が・・」などと話しているのである。う〜む、彼らはどこかで調べていたのだろうか? それとも突如思い出したのか? いずれにせよ、その名前ならば CWVF を表現するのにもしっくり来る。早速帰宅後にググってみると wikipedia の「汲み取り式便所 」説明文に「臭突」という言葉は出ており、また、ネポン という会社からはしっかり「臭突 」という名の付いたソケット等が販売されていた。どうやら義父母の弁に間違いはなかったようである。
ところで今回なぜ「臭突」の話を突如エントリーしたかというと、Kai-Wai 散策「N的家譚 」で masaさんが江戸川区平井で見つけられた如何にも neonさん画仕立てな家の写真をアップされ「これで臭突が装備されていたら…」と悔しがられるのだが、そしたら neonさんがN的画譚「紫陽花色の家 」でお返しとばかりに臭突装備の画をアップされるという経緯があり、まあ、何となく私もそれに反応して「臭突」のことに触れたくなってしまったのである。ちなみに neonさんはコメントで「臭突」の「臭」の字が哀しいので「もっと他の呼び名はないもんでしょうか?」と書かれているのだが、とりあえず私共で提供できるのは「CWVF」と、他に nodocaさんがミクシィで発見して教えてくれた「クルクル王子様 」なんてのがある。どないでしょか?(汗)
尚、冒頭の写真は flickr「CWVF 」Group のアイコンとして採用されてる(nodocaさん、多謝!)私が去年の夏に愛知県の稲沢市で撮ったもの。また下のランダムで表示が切り替わる正方形サムネイル写真は「CWVF」Group にプールされたもの。
それとトイレ絡みの写真をひたすら収集されてる satohknackさんという方の Yahoo! フォトアルバム「HTE 臭突 」「くるくる臭突 」は臭突選として大いに見応えアリ!
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2006年08月21日 (月)
お盆に妻の実家(広島県総領町)への帰省で、毎年楽しみの一つにしてるのがクワガタ獲りである。まあ、クワガタ獲りといっても、山に分け入って探しに行くのではなく、町のスーパーに備えられた誘虫灯や街灯、自動販売機に集まったクワガタを夜中に探しに行くだけの話。今年はコクワガタ♂ 2匹、♀2匹にアカアシクワガタの♂を1匹捕まえた。コクワのペアは甥がいるときに捕まえたので、甥にプレゼントし、甥が帰ってからさらにコクワのペアとアカアシクワガタの♂を捕まえたもので、それは大阪に連れて帰り、現在は私のPC椅子の後ろのカゴの中でゴソゴソ元気に動き回っている。
ところで私は35にして初めてアカアシクワガタを捕まえた。というか、生きているアカアシクワガタを見たのも初めてかもしれない。捕まえたときにはコクワだと思っていたのだが、家に帰って明るいところで見たら腹と足が小豆色をしていて、これはアカアシクワガタに間違いないと思ったのである。非常にセコい話なのだが、捕まえたのが甥の帰った後で良かったと思ってしまったのは、私が幼い証拠である(汗)
ちなみにクワガタに詳しくない人にアカアシクワガタのクワガタ界でのポジショニングを説明するのに、Google の検索検出結果数比較をしてみようか。
アカアシクワガタ 11,200 件
コクワガタ 127,000 件
オオクワガタ 403,000 件
ヒラタクワガタ 124,000 件
ミヤマクワガタ 153,000 件
ノコギリクワガタ 221,000 件
カブトムシ 2,590,000 件
以上からもアカアシクワガタが如何にマイナーなクワガタかは理解できよう。
とりあえず「Dorcus Breeding Studio 」というサイトの「アカアシクワガタ 」のページを見ると、成虫の越冬は可能ということで、年寄りでなければ長く飼い続けることもできそうだ(コクワは3年くらい生きる)。ただ、高温に弱いとのことで、エアコン利用頻度の低い我が家もアカアシ君のためにエアコンつけねばならなくなってしまった。
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2006年08月09日 (水)
年配の友人からのメールに「お施餓鬼」という言葉が使われていて、恥ずかしながら私はその言葉にそこで初めて接したのだった。そのメールには親切にその意味も添えられていたが、当然初めての言葉に接したときには Google である(笑)
ここでは葬儀・葬祭会社の文章を引用する。本来、読点の入りそうな場所が全角スペースになっていてちょっと読みづらいので、その部分はこちらで適宜修正を施した。また赤字・緑字は本文とは別のところで使っている。
お施餓鬼とは (ファミリーホール株式会社 )お施餓鬼は餓鬼道の世界に落ちて苦しんでいるものに、飲食を施す という意味で、すべての生き物の生命を尊ぶことを教えています。人間としてある私たちも、いつかは餓鬼道に落ちるかもしれません ので、施すことを怠ってはいけない ということでしょう。
『施餓鬼会』は、通常、お盆の時期に行われますが、本来は特定の日に限定されるものではございません。お盆の由来の目連尊者のお話と施餓鬼の由来の阿難尊者のお話が似ていることから、この時期に行われるようになったようです。
これを読んでいて一つピンと来たことがあった。
「施餓鬼」という文字に含まれる「施」という言葉についてである。それは言うまでもなく「施主」の「施」とも一致し、「施す」という意味において、その語義の方向性的にも共通するものだろう。しかし、私は「住宅建築と施主」というブログを立ち上げ、実際「施主」という立場で家づくりに関わってきたにもかかわらず、どうもその言葉に馴染めずにいたのである。
それはその「施す」という言葉のイメージが妙に横柄に感じられ、如何にも身分不相応のことをしているように思えていたからというのがまずは大きい。特にうちの場合、三鷹の土地を手放して得たお金で建てた家なので、誰にも自分の身銭を切るという感覚がなく、余計に「施す」という意識が遠くなってしまっていたのかもしれない。
しかし、上記引用した「施餓鬼」の意味を読んでいて、「施す」にはもう少し深い意味が込められているように感じたのである。それはその言葉の前提に「回る」という観念が組み込まれてはいないだろうか?ということだ。要するに餓鬼道に落ちた亡者に我々が食べ物を施すのは、現世の我々もまたいつの日か餓鬼道に落ちてしまうかもしれないという輪廻の循環を前提としてのものである。としたとき、「施主」という立場もそうした循環=リサイクルシステムの中において、回り回って施し施されしているのではないか?ということである。少なくともそれは昔の村社会での家づくりであれば、建て主が「お施主さん」と言われるのは非常に頷けるものがあった。家を建てるということ自体が村の祝い=お祭りのようなものであり、その家が建てばそのお施主さんは今度は別のお施主さんに協力したり何だりと、その立場自体が循環していくる。その点で上棟式の餅投げの図はそれを象徴する振る舞いとして非常に納得できるものがある。
ところが都市生活において、そうした風習は一部の儀式のみが形骸化して残りはしたものの、その意味自体はほとんど失われたものとなってしまっている。だから、そんな都市空間での家づくりで「お施主さん」と言われても、それは営業トークの「社長」とか「先生」って言葉と同程度のものにしか聞こえない。
また都市生活者の施主はそういう人との繋がり以外においても、建築過程全体の循環=リサイクルからも切断されてしまってるように思えてならない。その一例として友人のセルフビルダー:岡啓輔氏(彼の家づくり記録は現在、ほぼ日刊イトイ新聞「ひとりでビルを建てる男 」で掲載されてます!)から聞いた話を最後に紹介しておく。
基礎工事で掘られて余った土って、その処分料を施主は支払い、あとで再び土が必要となったときにはまた別途、新たな土を購入しなければならない。もちろん一度処分した土の保管は経費が嵩むから、掘った土をそのまま使い回せとは言うわけではない。しかし、他でも土を必要としている施主はいるだろうだから処分せずにリサイクルシステムをしっかり構築すればいいのにと思っていた。そしたら、どこもとは言わないが、結構それらの土は処分されずにリサイクルされてるのだという。それを聞いたとき、損をするのは施主だけど、まあ、リサイクルされてるのなら少しはマシか?と思っていたのだけど、やはりそういうシステムがあることを施主に直接的に感じさせないというところが、施主を「施主」の語義ならざるものにしてるな〜とも感じずにはいられなかった。
結局、現世界の家づくり環境で自分を「施主」と思い込むのは難しい。
【追記1】
garaikaさんが「「解体」の違和感 」というエントリーで「現代の「カイタイ」は「解体」ではなく「壊体」ではないのだろうか」と書かれていたが、この「壊体」工事も施主から「施主」感覚を奪う一つの例と言えるだろう。
【追記2】
「施餓鬼」という言葉を知って程なく、総領の義母から「今年のお盆は施餓鬼に行きんさい」という電話。物凄いタイミングにびっくり。まあ、そういうタイミングの季節でもあるのだが、、何はともあれ、暑中お見舞い申し上げます。
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2006年05月23日 (火)
当初より1日遅らせた帰阪日。午前中は荷物まとめと家の整理に時間を費やし、昼から奏楽堂のコンサートへ行くという両親と芸大学食で昼食を食べて、上野駅へと向かうことにした。ちなみに芸大学食〜奏楽堂は両親の生活サイクルに完全に組み込まれた一つのコースで、私はその動向を観察したかったので同行することにしたのである。
芸大の学食は私自身も昔、芸大に友人が居たりで美術・音楽共に食べたことはあった。しかし、学生時分に学食のレベルを問う暇などなく、どっちがウマイかなんて考えたこともなかった。しかし、ランチ巡りが趣味の両親は芸大学食もとことん食べ較べていて洋食や肉系を食べるなら音楽がうまくて、総菜ものならば美術がうまいというしっかりした結論を出していた。特に美術学部の雪花菜はうまいらしい(汗)
で、この日食べたのは音楽の方のトンカツ定食。確か600円でボリューム満点。これならどこのとは言わないが、近所のトンカツ屋の1500円の定食とも大差ない。それと笑えるのが、父はすっかり学食の券売員らとも親しくなっていて、呆れたことに「教授」と呼ばれているのだ(笑) まあ、その話は散々聞かされていた話ではあったのだが、実際呼ばれるところを見て、改めて両親はすっかり谷中ライフというよりも上野ライフに馴染んでしまったんだな〜という実感を得る。
食後は馴れた足取りで、奏楽堂 へ。奏楽堂では芸大の作曲・声楽・ピアノ・オルガン・弦楽・管打楽の各科から選ばれた優秀な学生による演奏会が毎日午前午後と開かれている。それをうちの両親はスケジュール表を仕入れて、好きな楽曲のときにしょっちゅう聴きに行っているのだ。とにかく家から5分程度のところなので、ツッカケ気分で、それもそこら辺の市民コンサートよりも全然レベルの高い演奏が聴けるのである。オーディオマニアだった父は家ではほとんど音楽を聴かなくなってしまったという話だ。
といったわけで、芸大をすっかり自分たちの庭としてしまった両親を尻目に私は帰途に着いたのだが、そういえば奏楽堂というのはてっきり都美術館の裏手にある古い建物だと思っていたら、それは旧奏楽堂で、新しい方は芸大音楽部の奥の方だったということをこの日知ったのである。その旧奏楽堂の写真が冒頭の写真。
【写真上】2006.05.23 14:25 旧東京音楽学校奏楽堂
【写真中】2006.05.23 13:37 東京芸大音楽学部の学食にて
【写真下】2006.05.23 14:16 奏楽堂ホールで「じゃ〜ね」と心はもう演奏会の両親
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2006年05月20日 (土)
生まれも育ちもトキョモンにとって、まともな蕎麦を食わせる店が生活圏内にあるというのは、オサカモンにとってのお好みやたこ焼き屋が近所にちゃんとあるのと同じくらい重要なことである。ただし、ここで「まともな蕎麦」と言ってるのは特に味の好みをどうこう言おうというようなものではない。ただ、ちゃんと自分のところで挽いた蕎麦を打って出している店ということだ(まあ、大抵そういう店はうまいが)。
幸いにも関西で暮らすようになって7年。東京に較べれば蕎麦屋の少ない大阪でも2軒ばかりまともな蕎麦屋をチャリ圏内で見つけているので、蕎麦で欲求不満が溜まる心配はいらない。それよりも気掛かりだったのが、谷中の実家界隈でそれが確保できるかということだったが、幸いにも上棟式 の日の昼食に豊田さんに案内されて行った「鷹匠 」という蕎麦屋が十分すぎるほどにまともな蕎麦屋だったので、ホッと一息撫で下ろしたのだった(というのも実家の家族も蕎麦へのこだわりは強いので)。
その後、私も上京の機会に何度か行っているし、実家家族にとっては昼のレパートリーの一つでお客さんをもてなすのに連れていくことも多いようだ。私はまだ行ったことがないのだが、朝7:30〜9:30にも営業していて朝から蕎麦を決め込むこともできる。
ところでこの店に友人を連れて行って、蕎麦とは別にもう一つ、我々には自慢の逸品がある。それは店内奥の壁に掛けられたバナナの葉っぱのオブジェ(右の写真)である。この作品、実はうちの建築家の豊田さんの手によるものなのだ。2005年から2年続けて行われている「まちの木霊 」というプロジェクトの展示でも出品されているのだが、お店に行かれることがあれば、是非奥の壁にも目を向けて欲しい。まあ、店内の設えも随所に工夫が凝らされているので、そうした興味があれば否応なく目にされるだろう。
この日は母と二人で12時少し前に行って昼からの開店一番乗りだった。それで今まで座ったことのなかった裏庭に唯一面した座席に座ることが出来た。この座席で窓の外を見上げると見られる光景が左の写真である。季節が良いこともあって新緑からの木漏れ日が気持ちいい。というか、それ以上に心吸い寄せられたのが、隣家と思われる木造2階建ての古い家屋である。ところどころ土壁が剥き出しになっているところもあって、人が住んでいるのか定かではないが、一度正面から見据えてみたい建物だった。
鷹匠を出て間もなく、突然見知らぬ二人組から「m-louisさんですか?(ニックネームではなく本名で)」と声を掛けられ、たじろいでいるとしばらくしてそれが flickr コンタクトの sympathyさん であることがわかった。ニックネームで呼ばれ、ニックネームを名乗られたらすぐわかったんだろうけど、最近初めて会う人とはニックネームで呼ぶべきか本名にすべきか、少々悩ましいところだ。ちなみに sympathyさんのこの日のことは「偶然だらけ 」で書かれてます。
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さて果て、うちの母というのはつくづくこういうもんが大好きな人なのである。
めぐりん ──台東区の循環バスで2001年から運行開始。当初、山手線の内側がルートに入ってなかったため、利用する機会がまるでなかったが、それがこのほど4月に開通し、我が実家のすぐ側の交差点も通ることになったのである。運賃は100円で、ルート間の相互乗り継ぎは自由。15分間隔で循環しており、重たい荷物があったときには便利なのよ、使ってみて!と、これはルート開通前後での母からの電話の弁である(笑)
なんだかもう「アンタはめぐりんの営業か?」と疑いたくなるほど、大阪までマップ を送ってきたり何だり、、実は我々夫婦は帝国ホテルの近所に住んでいて、梅田までは無料のシャトルバスを利用してたりするので、全然珍しくも何ともない(というか100円するという時点であまり乗る気もしない)せいで、ついその話が出てくると空返事での受け答えになってしまう。そして、今回の上京中も私にとにかく乗らせたいようだったが、特に重い荷物を持つようなこともなく、結局乗らないままで帰ることになった。
しかし、あれだけ「めぐりんめぐりん」と言われていると、さすがに実物に出くわしたときには「お!」と思ってシャッターを切ってしまうもので(^^;) それもちょうど実家の外観写真を撮っているときにファインダーに入り込んできたので、思いっきり慌てたタイミングでの写真になってしまった。しかも 必要ないのに RAW画像だし(汗)
5/23(火) の帰阪日にも、両親と上野方面に歩いていたら現れて、母が「めぐりん!コレがめぐりん!」と大騒ぎ。カメラを首からぶら下げていた私に「撮って!撮って!」とうるさいので撮った写真が↓。しかし、私はこの先、乗ることあるのかな?(笑)
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2006年04月08日 (土)
去年に続いて今年も妻の実家(広島県庄原市総領町)で「苗代 」の手伝いをしてきた。
しかし、今年は苗代当日、物凄い黄砂 が西日本を中心に観測され、また寒冷前線の通過で、これまた物凄い強風が吹き荒れ、大きなビニールシートを被せてビニールハウスを作る苗代作業の日としては最悪の一日だった。我々が行かなければ間違いなく別の日に行われていたことだろう。我々がいたおかげで四隅を押さえられ、強風の中でもどうにかシートを被せてしまえたが、仕上がりも雑で手伝って良かったのかな?とも思う。
尚、上の写真だとあまり黄砂の雰囲気は感じられないだろうが、後日、灰塚ダム のその後の写真をアップするつもりなので、そちらで黄砂の様子は実感していただきたい。
しかし、今回総領に D50 を持って行って感じたのは、デジタル一眼レフは農作業中の撮影には決定的に向かないということだった。去年は農作業をしつつ、胸ポケットからちょいと G400 を取り出して撮影なんてことも気軽に出来ていたのだが、今年は撮影のためにいちいち自分の作業を中断しなければならない。要するにデジ一眼だとカメラが主役に回ってしまうのである。それはある意味、これまでの自分の撮影スタイルとは真逆のところで取り扱わねばならないツールにカメラがなってしまっているということである。その辺のカメラ問題は機会を改めてまたエントリーしたい。
ちなみに今年は稲の種を貰ってきているので、苗となる手前の段階から「稲作@ベランダ 」に挑戦である。ミニビニールハウスでも作ってまおうかな。プチ家づくり気分で。
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2006年03月07日 (火)
光庭も2回目の春を迎え(1回目 )、だいぶ地に足付いてきたというか、植物がサイクルしていることを実感できるようになってきた。なんて言いながら、やっぱり一番目が向いてしまうのはこの時期だとユキノシタ とフキ である。嗚呼、天ぷらや〜(^^;)
しかし、我が実家ではキッチンの換気口が汚れるのを嫌って、天ぷらはおろか、油モノもほとんど作らなくなってしまった。まあ、それは三鷹に居た祖母が亡くなった頃から既にそうだったので、谷中に来て作らなくなったものでもないのだが。。
ときどき思うのが「揚げ屋」ってないものか?ということである。
庭先とか釣りに行ってでもいいけど、どこかで仕入れた食材を持参して、それを揚げてくれるお店。まあ、店の儲けは極めて低いだろうから絶対やるところないだろうけど、やれるとしたら食べ放題の串揚げ屋にこっそり食材持ち込んで揚げてしまうという方法か?(逆に私は食べ放題で食べきれなかった串をこっそり持ち帰ったことはあるけど)
光庭に話を戻すと、その他には万両 が赤い実を付け、アオキや三鷹から持ち込んだ木イチゴ 、英国青鈴 も若々しい芽 を出していた。木イチゴが実を付けるのが楽しみ♪
って結局また食べ物話題だが、広い庭のあった三鷹にいたときも愛着を持って接していたのは果物系の植物ばかりだったのである(笑)
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2006年03月03日 (金)
先月2月19日、garaikaさんの「ひな人形を飾る──「雨水」 」というエントリーを読まれたノアノアさんが焦って「雨水(うすい) 」のエントリーでトラックバックされていた。何で焦るのか?というと、それはお二人のブログにも書かれているが、
2月19日は二十四節気の「雨水」(うすい)という。
この日にひな人形を飾ると、女の子は良縁に恵まれるという。
ということから、娘さんが二人おられるノアノアさんは焦られたようだ。私はというと「雨水」という言葉自体知らなかった。岩波辞典程度の辞書では「あまみず」としか出て来ない。まあ、子供の居ない我々にとっては雨水の日を知っても特別焦ることもないのだが、それから何日かして妻は雛壇を模した風呂敷のようなものをハンガーに掛けていた。すっかり忘れていたが、そういえば毎年この時期になると我が家ではこの風呂敷がお目見えしていたのだ。
ところで冒頭の写真は去年3月9日に谷中の実家で撮影した雛人形である。「雨水」よりはおそらくメジャーであろう雛人形を雛祭の後もずっと出してるとその家の娘が嫁に行けなくなるという話は私も知っていたが、そのジンクスに該当する未婚の妹がいる我が実家では平然と6日過ぎた時点でも飾ってあったのである(笑) ひょっとして両親は妹を嫁に出したくないのだろうか? もう充分年頃を過ぎているのに。。
それと私は冒頭の写真の雛人形を見たのは実はそのときが初めてだった。
妹用に雛飾りはあったが、明らかにそれはもっと新しいものだった。去年撮影したときに母に聞き忘れたので、今度聞く機会があればその謂われを聞いておかなければならない。おそらく引越の片付け時に出てきたのだろう。ちょっと浅田真央ちゃん系の顔立ちのお雛様である。
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2006年02月27日 (月)
flickr の ya ma さんがアップされた桃林堂の鯛焼き写真 に触発されてのエントリー。
ya maさんの行かれた桃林堂 は表参道の青山店のようだが、同店は芸大横にも上野店を構え、私は2002年12月、まだ前任建築家との基本計画中に一度行っている。
2002年の12月といえばその前月に建築家の方から提出された焼き直しプラン(放射案と呼んでいた)に家族全員が首を傾げてしまい、どうにも立ち行かなくなってしまっていた頃である。そこで、その放射案をそのまま通してしまってよいのか、リアルに検証できないか?とこの計画の野次馬イラストレーター CT氏を引き連れ、三鷹から現地に赴いていたのである。やっぱり現場以上にモノを考えられる場所はない。ただ、その時はあまりに寒かったもんで、帰りしなに溜まらずこの店に入ったように記憶している。
で、当時は何の前知識もなかったので、確かずいぶん小さな鯛焼きだな〜と思いながらペロリと平らげてしまったような気がするが、何分3年も前の話なので味のことまでは忘れた。まあ、どっちかというと暖かい抹茶の方をありがたがってたような。。それと当時は古材の再利用について色々考えていた時期でもあったので、体が温まってきてからは店内の設えの方に意識は向いていた。我が家の施工をお願いした阿部建築 が桃林堂上野店の改装工事をしていることを知るのはそれから1年以上も先の話である。
ちなみに桃林堂の公式サイトによれば、この全長8cmの小鯛焼には「とりたてて由来と言うほどのものはございません」と些か肩透かし気味のコメント が掲載されているが、それでも、この小ささの中に「桃林堂の大納言粒餡をいれて3日ぐらいは美味しく食べられるように」と贅と工夫が凝らされていることが記載されている。まあ、現にこの私もその小ささのインパクトにおいてしっかり記憶に留めているのだから、その点だけをとっても商品としては成功してるといえるのだろう。
余談ではあるが、三鷹には「甘味処たかね 」という鯛焼き屋が古くからあり(昭和28年創業)、現在その店を切り盛りしているのは私の小学校の同級生らしい。らしいと書くのは卒業後1回も話していないのだ(^^;) だが、評判は上々らしく、公式サイトも立ち上げているようなので、ここにて宣伝。驚くべきは英語のみならず、フランス語、中国語のページまで用意してあることだろうか(中国語は準備中)。
ただ、一尾125円とは、、子供の頃は60円くらいで食べてた記憶があるんだがな〜。
次回、三鷹へ行く機会があればちょっと寄ってみたい。
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2006年02月25日 (土)
数年前まで私はフライト3時間以上の飛行機に乗ると着陸後に必ず体調を崩していた。離着陸時の急激な気圧の変化に体が過敏に反応してしまうらしい。あるとき、こうした症状には耳栓が効くという話を聞き、少し調べて「サイレンシア・フライト 」なる2千円近くもする耳栓を買ってみた。上の写真を見てもわかるように3層の膜を耳孔に押し込むかなり特殊な形状の耳栓で、馴れるまでは若干耳が痛い。防音効果の方はおそらく普通の耳栓よりも相当高くて、エンジン音等の騒音が抑えられるのは良いが、同行者や機内アナウンスの声などが聞きづらくなるところが困るっちゃー困る。でも、2千円の威力とでも言うべきか、これ装着して以来、飛行機による体調不良が一気に解消されてしまったのだから、海外旅行には手放せないアイテムとなってしまった。
ところで去年、iPod mini を買って間もなく、せっかくだからちょっと贅沢なイヤホンもついでに買おうと色々物色していたときに、ドイツの ETYMOTIC RESEARCH社 が出している「ER6i 」というイヤホンがほとんどサイレンシア・フライトと同じ形状をしているということを知った。値段は2千円どころか1万円ちょいもするものなのだが、「あのアメリカのブッシュ大統領もオフでマウンテンバイクに乗る時には必ず GIRO のヘルメットに iPod & ETYMOTIC RESEARCHのER-6i」という商品説明に魅せられて思わず買ってしまった。だって、ネオコンのブッシュが新左翼系アップルの人気製品とセットで使ってるというアンバランスさは、それだけでも「オレ、ブッシュと同じもん使ってるんだぜ!」という超アホアホネタになるじゃーないですか!!(^^;)
で、肝心の使い心地はこれまたサイレンシア・フライト同様、馴れるまでに多少時間が掛かった。ちゃんと装着すれば音は漏らさず拾ってくれるのであるが、音が脳髄に響くとでも言ったらいいか、ちょっと漏れなさ過ぎで頭が痛くなってくるのである。ただ、結果的にこれも使ってるうちに馴れてしまって、音を漏らさず拾うってだけに外への音漏れもほとんどなく、まあ、ふだんひきこもりなんでそう頻繁に使うわけでもないが、これまた旅行には手放せない必携アイテムとなっている。
そして今回のフライト計13時間の中欧旅行には一応両方持参したが、使ったのは専らイヤホンの方で、充分それでサイレンシア・フライトと同等の役割を果たしてくれたと言える。特に行きの飛行機では父と席が離れてしまった上に、同列の通路側に座った人の鼾がうるさかったので、iPod 持って行っておいてよかった〜とつくづく思わさせられたのである。なお、写真のサイレンシア・フライトと ER6i の色が随分違うのは ER6i の方が使い込んでて、耳垢というか耳油で染まってしまったのである(汗)
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2006年02月10日 (金)
先月、カメラ購入 直後にウィルス性結膜炎に掛かってカメラのファインダーが覗けなくなるという間抜けな出来事があった。眼科医からは感染の可能性もあるので、なるべく家族に近づくな!タオル等同じモノは一切使うな!と厳しく言いつけられ、ちょっとした家庭内隔離状態になっていた。
そんな最中、私たち夫婦は思わぬものの威力を実感することとなる。
それは私が2000年10月に京都のトレゾーアーツという雑貨ギャラリーで「おらないがみ 」という展示をしたとき、妻がギャラリーの入り口 用にと作ってくれた暖簾である。
展示が終わってからは、自分たちの住むマンションの廊下からリビングへの扉の手前側にずっと掛けていたのだが、そこを通り抜ける度に必ず顔が生地に当たるのである。つまりは暖簾もタオル等の共有物の一つに入って来るでは?ということで取り外さねばならなくなってしまったのである。
その外した場合 と掛けてる場合 の様子が右上の2枚の写真。写真ではおそらく大した差は感じられないだろうが、我々にとってはそこに暖簾があるのとないのではもう全く世界が違った。というか、外すともうそこは自分たちの家ではない!って言いたくなるくらいの違和感を覚えてしまったのである。そして、その違和感は結膜炎が完治するまでの約一週間、拭えぬままだった。1ヶ月だったらさすがに慣れてたかもしれんが。。
高が布切れ一枚。それも薄くて向こうが透き通しで見えるくらいのもんなんだが、その存在感や絶大である。我が家ではその扉を開けっ放しにしてる時間の方が圧倒的に長いので、扉以上に部屋の輪郭としての仕切りとしての機能を果たしていたのだろう。
しかし、こうして暖簾の威力についてなんて書いていると、つい「暖簾に腕押し」って諺が頭に浮かび、その諺を掛けたオヤジギャグに走ってしまいそうになるが、それをセーブするためにも最後に簾の語源的なところを少し拾っておきたい。
暖簾 (のれん)という字は見ればすぐわかるが、書けと言われたらすぐ思い浮かばない人の方が多いのではないか?(私は完全にそう) そして実際の暖簾の使われ方を考えてみてもすぐには思いつかない字の組み合わせである。「簾」とはスダレとかスノコのスで、そんなスカスカなもんに「暖」の字がくっつくのだから不思議という他ない。
しかし、その語源を繙くと「もと、禅家で簾(す)のすきまをおおい風よけとする布の帳(とばり)をいった」というのであるから、なるほどというものである。
要するに素直に暖かい簾(すだれ)って考えておけばよかったのだろう。
だから昔の暖簾は我が家や現在商売等で使われるような半暖簾ではなく、ちゃんと足下まで届くもので、云わば今で言うところの断熱材となっていたわけだ。
ちなみに我が家の暖簾は私の中年期顔面脂性(冬場は、と同時に乾燥肌でもあるが)によって、リビング側から 見るとかなり変色してしまっているのであるが(汗)
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2006年01月21日 (土)
朝から降り続いた雪 はたぶん21時頃には止んだ。
入浴時に今日は雪見風呂か?と窓を開けたら、もうその時点で止んでいたからそのくらいの時間だったのだと思う。湯冷めしないくらいの時間が経ってから表に出てみると見事に歩道の雪は踏み固められている。これは明日滑るな〜と思い、玄関脇に置いてあった板の端切れで雪掻きをしていると風呂から出たばかりの母が出てきて、一緒に雪掻きを始め出した。こういうときの母は残念ながら何を言っても言うことを聞かない。
ここでまたケンカになって明日を迎えるのも気分悪いので、何も言わずにおいた。
母は基本的に誰かと一緒に何かをやるのが好きな人なのだ。ただ、それだけなら良いのだが、そこで祖父仕込みの自分のやり方を誰それ構わず絶対と思って押しつけようとする。だから、みんな煙たがるのである。この押しつけが血の繋がった祖父から教わったものではなく、ある種の苦労の果てに身に付いたものだったなら、もう少し周囲の対応も違っただろう。と、しかし、この夜はそんな大した作業でもないので、車が通るときにささっと掻いて(音がうるさいので)、ささっと寄せて、明日に備えて寝た。
ま、その明日は明日 で庇の雪が見事に歩道に落ちて、もう一度雪掻きってことになってしまうのであるが(泪)
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2005年12月25日 (日)
「戻る棉 」で収穫しておいた棉毛に思わぬ形で活躍の場が訪れた。我が家には高さ15cm程度の贋物クリスマスツリーしかないのだが、これまではクリスマス時期に何の装飾もなく表に出されていたのが、今年は棉雪をまとってのツリーとなったのである。
綿雪ではなく「棉」雪である!
flickr! でも書いたが、贋物のツリーに雪に似せた本物の棉を使うという妙な倒錯感が面白い。姉歯構造設計・木村建設施工で外観に大理石使ってる感覚だろうか?(汗)
ちなみに今年我が家ではクリスマスケーキの代わりに冷凍ドリアン を食べました。
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2005年12月23日 (金)
中欧旅行 ではチェコ、オーストリア、ハンガリーの3ヶ国をまわった。
中でもとりわけ行きたかったのが作曲家のバルトークを生んだハンガリー。
そのハンガリーの名物料理「グヤーシュ」の作り方をここで簡単に紹介したい。何か突然「男の料理」ブログ化し始めたけど、写真見てもわかるように色合いがクリスマスっぽいということでの、季節モノエントリーです(笑)
グヤーシュとはハンガリー語で牛飼いを意味し、そもそもは大平原の牛飼いが食べていた牛肉の煮込み料理を「グヤーシュ」と呼んだことに始まった。現在のグヤーシュは牛肉の他にじゃがいも、玉葱などをパプリカの風味で煮込んだスープのことを指すのが一般的なようだが、当初は別にパプリカなしでも「グヤーシュ」と呼んでいたらしい。
ともあれ、現在はグヤーシュを持ち出すまでもなく、ハンガリーの大半の料理で調味料としてのパプリカは欠かせない存在となっており、何となく私もお土産としてパプリカ粉 を買ってきていたのである(ちなみに後から知ったが、日本のスーパーの調味料コーナーに行けばふつうに売ってる珍しくも何ともないもので、ちょっとがっかりしてしまった)。ツアーではブダペストのレストランのランチで一回食べる機会が用意されてるだけだったが、もう1、2回食べられたらな〜と思うくらいに美味しかった。右の写真がその1回限りのグヤーシュである。
で、帰国して、そのとき食べた味を頼りに、後はネット検索で見つけた「らくだ食堂 」「世界の料理 」あたりを参照しながら、かなり自分なりにアレンジして作ってしまったので、簡単にそれらをまとめた自分なりのレシピを以下にメモっておく。
【材料(2皿分)】
具:牛肉 200g(カレー用のを使用)、玉葱2個、人参1本、ジャガイモ2個
パプリカ 赤と黄色を1個ずつ、ニンニク1片
味付:パプリカ粉 大さじ2杯、塩・胡椒(白+黒)適当、月桂樹の葉1枚
ワイン ドバドバ、水 適量、オリーブオイル 適量
【料理手順】
1)鍋にオリーブオイルを入れ、玉葱とニンニクのみじん切りを炒める。
2)玉葱の色が透き通ってきたら、カレー用にカットされてる牛肉投入。
3)塩・胡椒を適当に振って、肉の色が完全に変わるまで炒める。
4)水を鍋半分くらいまで入れ、パプリカ粉 大さじ1杯を振って煮込む。
5)2〜30分置きにワインまたは水で水分補給し、2時間くらい煮込み続ける。
6)その後、火を止めて月桂樹の葉を落とし数時間置いてやると肉の旨味は倍増。
7)1〜2cm角程度に切ったじゃがいも、人参をすべて投入。20分煮込む。
8)生パプリカと残りの粉パプリカを投入。味を見ながら10分煮込んで完成。
以上、味付けは実はちゃんと計らずほとんど勘に任せてたけど、ハンガリーで食べたのよりも美味しいのが出来てしまったぞ!という感じ。たぶんワインを最後の最後までしつこいくらいに加えてたのが効いたんだと思います。それとカレー用肉は安物を買った場合はやはり2〜3時間は煮込まないと厳しいんじゃないかな? 聞くところによれば圧縮釜を使うともっと早く柔らかくなるというが。。
我が家のクリスマスは毎年恒例のモス vs KFC のチキン対決なのでグヤーシュの予定はありませんが、パプリカのおかげで彩りも大変きれいですし、今年は新しい料理に挑戦したいと思われてる方は是非一度お試しあれ!
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2005年12月16日 (金)
これまでのエントリーやコメントでも仄めかせてはいたが、もう一月も前の11月8日〜15日まで父と中欧旅行に行って来た。何で?と聞かれても困るのだが、簡単に言えば父が最初は母と行こうとしたものの、母から断られ(体調不良により)、その代役となった恰好。基本的な旅費は父持ちという話だったこともあるが、ここは行っておくべきと判断をしたのには家づくりをしたという経験が大きく作用しているような気がする。もし家づくり以前にこの話があったならば、あっさり断っていたように感じるからだ。
ツアー同行者からも珍しがられたように、ふつう父と息子が二人で海外を旅するというような話はそうそう聞くものではない。母娘はまだあり得ると思うが父+息子はオイディプスの話を取り上げるまでもなく、照れも入り混じる妙な距離感があるというのが大方ではなかろうか。ご多分に漏れず、家づくりする前の私も明らかにそうした息子の一人だったのだ。
とそれはともかく、Flickr! の方で写真をアップし始めたので、それに連動してときどきこのブログでも中欧旅行の話をエントリーして行ければと思う。と言いながら、最初の写真は出発日の朝に屋上で撮った朝焼けなのだが。。
こんな日でもないと、そうそうこの時間に屋上に上がることはない。
右手の高い建物は芸大の絵画棟だか彫刻科棟だったっけかな?
10月末にフェリーで見た朝焼け もよかったが、谷中の屋上もまんざら悪くない。
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2005年11月19日 (土)
5月にエントリーした「新釈肖像写真 」でフォトグラファーの清真美 さんが撮られた我が家および我が両親の写真が、この度、パルテノン多摩で開催される日本人若手作家6人の写真展「現在のポートレイト -You are here-」 で展示されることになりました。
清さんの作品は「人々・家族の肖像/People・Family」というテーマの中で紹介されていて、新作含む10点が出品されるとのこと。期間も長いのでお近くの方は是非!
日本人若手作家6人の写真展「現在のポートレイト -You are here- 」
【会 期】2005年11月21日(月)〜2006年1月22日(日) ※12/27〜1/3は休館日
【開館時間】10:00〜18:00(入場は17:30まで)
【場 所】パルテノン多摩 2F特別展示室
【出品作家】落合佐和子・澤田知子・長島有里枝・清真美・藤澤卓也・蔵真墨
【入場料】大人¥300 高校生¥150(高校生団体20名以上¥100)
中学生以下・65才以上・障害者手帳をお持ちの方 無料
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2005年10月08日 (土)
「小林一三とのコラボ 」でまずは母方の祖父がらみで阪急創設者の小林一三氏との縁について取り上げたが、今度は父がらみの関係で阪急との縁を見ていきたい。
前回「父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二 氏と知り合い」と書いたが、もう少し正確に書こう。父は満州は大連で暮らした中学時代、浜崎真二氏の息子さんと同級生で、その縁で浜崎真二氏にもかわいがってもらっていたのだ。
ネットで検索すると、1901年に広島で生まれた浜崎氏は慶応大学を卒業後、大連に渡り、大連満州倶楽部という社会人野球チームで活躍していたことがわかる。実際、父が言うには当時、満州では野球が大いに盛り上がっていて、相当に迫力ある試合が見られたという話だ。父が生まれる前の話だが、都市対抗野球の歴代優勝チームの記録 を見ると第1回から3回まで3年連続で満州倶楽部が優勝しているのだから、その実力のほどは確かである。
終戦後、日本に引き揚げた浜崎氏は当時まだ「ブレーブス」という愛称の付いていない時代の阪急軍の監督に就任し、兼任で投手としても投げている。彼の48歳での登板記録というのは今もまだ破られていない。それともう一つ特筆すべきなのがその身長。150センチだったというのだ。「小さな大投手」と呼ばれた選手はこれまでにもいたが、ここまでミニマムで大投手と呼び得た選手もおそらくは彼しかいないだろう。
引き揚げ後、いったんは郷里である山口(萩)に初めて帰った父であるが(三男坊の父だけは大連で生まれた子なのである)、まもなく同志社大学に入学し、関西に寄る辺のない父はそこで再び浜崎氏の世話を受けることになる。どうも最初のうちは当時、西宮球場にあった阪急選手たちの寮に寝泊まりさせてもらっていたらしいのだ。また、浜崎氏の息子さんと遊ぶのに、宝塚にあったという浜崎監督邸にも遊びに行っていたらしい。そして、その縁で父の阪急ブレーブス・ファンの歴史は始まり、それが東京で生まれ育った、そう簡単には阪急との縁を持ちにくい私にも伝染したというわけだ。もちろん私が物心付いた頃の阪急ブレーブスは山田・福本・加藤の同級生トリオが円熟期を迎え、物凄く強かったことも子供ながらに魅せられる要因ではあったろう。中学・高校時代の親と話したくなくなる年頃にあっても、どうにか父と子の対話は首の皮一つ阪急で繋がれていたように記憶する。まあ、それしか会話がなかった気もするが(笑)
と以上、これまで「父と満州 」「祖父は満鉄社員だった 」と二度にわたって取り上げてきた「満州」の話をこうして「阪急」がらみですることになろうとは私自身、予測もつかなかったことである。しかし、考えてみれば私の父方祖父は満州鉄道の社員であり、阪急もそのベースとしてあるのは阪急電鉄という鉄道会社なのだ。
近代社会においては鉄道会社こそがまさしく「線路」という線を土地に引くことによって、その周辺のまちづくり、そして人々の生活のイメージを築き上げてきた。今回、冒頭に取り上げた絵葉書は大連・連鎖街という云わば百貨店の建ち並ぶ大連市内の様子を描いたものである。もはや言うまでもないだろう。それが1929年創業の阪急百貨店うめだ本店のファサードに似通ってるということなど。
大連・連鎖街 CHAIN-STORE STREET, DAIREN 二百有余の各種専門商店が一つの統一ある体制の下に整然たる商店街を造るのが連鎖商店街である。言はゞ百貨店の街であり、街そのものが百貨店である。而も其処には映画殿堂や児童遊園、大浴場、支那料理店等があり、大連の新名所として又大連のプロムネイドとして見るべきものが多い。
最後にはなるが、父を阪急に引き合わせてくれた浜崎氏の息子さんである父の友人が去年の12月に亡くなり、父は葬儀にも参列したらしい。おそらくその父の友人の存在なしにはこのエントリーもなければ、あの「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」のブログもなかったことだろう。ここに浜崎親子のご冥福を謹んでお祈りいたします。
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2005年10月03日 (月)
実家から届いた荷物に北欧を旅された元?初音すまい研究所 の矢原さんからのお土産が入っていた。スウェーデン産チョコレートと STOCKHOLMS STADSBIBLIOTEK (ストックホルム市立図書館)のバッグである。ちなみに上の写真の鞄の絵柄だと平面的に見えるかもしれないが、2F部分の開口部の大きさが端に行くほど狭くなることからもわかるように、四角い箱状の1F中央部に円筒形の筒がどしんと埋め込まれたような感じで、内部の書架もぐるっと一回りできるようになっている。まあ、Flickr! などで実物の写真を見てもらった方が手っ取り早いだろう。
ちなみに設計したのは「スウェーデン建築の父 」と呼ばれるエリック・グンナール・アスプルンド(Erik Gunnar Asplund・1885-1940)。阪急の件で出て来た伊東忠太は日本の「建築巨人 」と呼ばれるが、彼は1867年に生まれ1954年に亡くなっているのでアスプルンドの人生をすっぽり覆うだけ生きていたことになる。それが父と巨人の違いってヤツだろうか?(^^;) 北欧デザイン紀行「アスプルンドとの出会い 」というページの下方には色が白のバッグの写真も出ている。判の大きな図録等を持ち歩く向きには(つまり建築科学生にとっては)如何にも便利そうである。
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2005年09月07日 (水)
朝妻さんの「石川淳氏 設計の家 見てきました。 」というエントリーで書かれていた「いつもながら“ 石川さんらしい ” 家でした。」を読んで思ったこと。
この場合の "石川さん" とは建築家であって施主ではない(そういえば昔、石川淳 という作家はいたが...)。そして外観から内部の様子に至るまで計10枚、おそらくは家の見せ場であろう写真が掲載されており、何となくそれを見るだけでも "石川さんらしさ" は充分伝わってくる。石川淳氏の公式サイト で過去の作品を幾つか見てみたが、朝妻さんの "石川さんらしい" というコメントはなるほど頷けるものであった。
ところでこうした「らしさ」というものは施主という観点で見るとどうなるのだろう。
実をいうと私は自分の家を「自分らしい家」だとは思っていない。それは家づくりにおいて実質的に私と同等の権限を握っていた母についても同様で「母らしい家」でもなければ「父/妹/妻らしい家」でもないという風に現時点の私には見えている。
こうした話を建築家の豊田さんとは話したことがないので、豊田さんがそれを聞いてどう思われるのかはわからないし、もし「私たちの家族らしさ」を考えて設計されたのだとしたら、この話は耳を背けたくなるだろう(スミマセン、豊田さん>汗)。
ちなみに豊田さんと取り組むことになる以前、つまり前任建築家たちの解任劇が続いた頃のプランというのはある意味で「私たちの家族らしい」家としての空気感を持ち合わせていた。というのも解任前に進められていたプランというのは実は父が書いた図面をベースにしたものであり、さらにそのもう一段階前の時点では私の書いた図面も検討されていて、それがそのまま実現ということになっていたとしたら、それはかなり「私らしさ」が前面に出てしまった建物となってしまっていたことだろう。
ところが結果的にそうした自分たちらしさを表象したプランを推さず、豊田新案で再スタートしようと思い立った背景には、むしろ私の中で「らしさ」を家の表現として追求することの危険性を感じていたからに他ならない。私にとっては父らしい家や私らしい家であるよりも、誰かを特定しない家であった方が、少なくとも「家族」という単位が暮らす場所としては住みよいのではないか?と思ったのである。同じ「らしさ」を追求するのなら「谷中らしい」家であることの方が重要だった。
ただ、冒頭で引き合いに出した建築家の場合はやはり逆のベクトルということになるのだろうか。それこそ「作風」という言葉があるように、そしてそれは実質的に建築家の実績=営業ともリンクするので、簡単には否定し難いはずのものである。
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2005年09月02日 (金)
8月の電気ご使用量のお知らせが届いた。
例年よりもエアコンを多用した気がしていたので、それなりの出費は覚悟してたんだけど、4,898円/237kwh。想像(6,000円強)してたよりは全然少なくて済んでしまった。こんなことならばもっと使っててもよかったんだな〜とちょい後悔。
しかし、これはあくまで私と妻が暮らす大阪のマンションの話。
谷中の実家が幾らだったか?なんて怖くて聞けやしない聞けやしない(汗)
一度実家家族と我々を住居交換して、月の電気ガス水道料がどうなるのかを実験測定してみたいものである。
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2005年08月10日 (水)
実はこのエントリーは一ヶ月ほど前に「蝉の破裂」というタイトルで頭の中だけで準備していたエントリーをリプレゼントしたものである。ただし季節ネタなだけに書くタイミングを逸して、多少タイトルと内容が変わって来てしまった。
1999年夏、大阪に越してきた日の翌日、私たち夫婦(当時はまだ夫婦ではなかった)を最初に驚かせたのが蝉の鳴き声だった。それは引越荷物の段ボールに囲まれ、寝苦しい夜を過ごしての早朝だった。だが、早朝から目を覚ましたのは決してその段ボールによる暑苦しさからではなく、開け放した窓の外から聞こえてきた「シャーシャーシャーシャー」と連続して響くクマゼミの鳴き声によってなのであった。
ただ、当時の私はそれがクマゼミの鳴き声だとはわからず、水道管か何かが破裂して、水が吹き出した音ではないか?と勘違いしていた。東京に生まれ、東京に育った私にとってクマゼミの鳴き声というのは馴染みの薄い音声 (88KB)である。東京都心部ではミンミンゼミ、郊外ではアブラゼミが主流を占め、他にツクツクボウシやヒグラシがいる程度で、クマゼミの鳴き声を聴くことはほぼ皆無に等しい。だからあの一斉に激しく始まるシャーシャー音を蝉の鳴き声と気付くのにしばらく時間が掛かってしまった(間近で聴く鳴き声とマンションの室内で聴こえる鳴き声の響きが違うこともそうした判断を鈍らせていた)。
だから今も7月半ばにクマゼミの一斉騒音が始まると、大阪に引っ越してきた日の朝のことを思い出す。おそらくこの記憶はクマゼミの鳴き声をマンション室内から聴く環境にある限り、忘れることはないだろう。それにしても大阪のクマゼミの数はちょっと異常に多すぎるんじゃないだろうか? 子供時分、セミ捕りに耽って北の丸公園などにわざわざ連れて行ってもらってたこともあったが(アブラゼミよりミンミンゼミの方が自分の中での価値が高かったため)、この大阪のクマゼミほどの数の蝉がそこかしこに居たとしたら蝉の価値も大したことなかったろう。それとも東京も同じように増えすぎた状態にあるのだろうか?
2015年の世界を描いた「新世紀エヴァンゲリオン 」では新東京市が一年中真夏で蝉が鳴き続けてる世界が描かれていた。現在の社会環境・地球環境を見ていると10年後にそんな状況に絶対にならないという保証はもはやどこにも見当たらないだろう。
蝉の破裂は人が納めて行かなければならないものだろう(無論一掃するのではなく)。
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2005年07月28日 (木)
garaikaさんが「涼み台で花火鑑賞 」と自慢(?)されている(笑)
谷中の家も立地的には隅田川の花火が屋上から見えるところにあるのだが、生憎「とある障害物 」のおかげで花火の方角の景観はすべて遮断されてしまっている。
他方、私が現在住んでいる大阪のマンションは裏が天神祭の行われる大川で、天神祭の花火大会も部屋からは3/4、非常階段に出ればバッチリ間近で見られるので、涼み台には叶わぬものの、花火を見るロケーションとしてはうってつけである。
マンションもこの日くらい屋上を開放してくれてもいいのに!とも思うのだが。。
ちなみにそのマンションに引っ越した去年、私は実家の引越手伝い等で天神祭 もギャル御輿 も花火大会 も見逃していて、家からの花火は今年が初めてであった(ちなみに現在のところに引っ越す前もすぐ近所に住んでいたので、毎年花火は見ていた)。
で、我々が住む8階、もしくは11階の非常階段から目線と同じ高さに上がる花火をしばらく見ていたのだが、何かが物足りない。大阪に越してきたばかりの夏、大川を望む帝国ホテルの上階から見たらさぞ迫力満点だろうと思っていたが、花火の音が聞こえず何とも寂しい思いをしたことがある。だから花火に音は不可欠と思っていたが、どうも私にとって花火というのはそれ以外にも必要な要素があったようである。
それはあの普段は鬱陶しくてならないはずの人混みに紛れて、あんぐりとアホっぽく口を開けて、多少首を痛くしながら上を見上げて花火を見るというあの汗苦しい猥雑な感覚じゃないだろうか? 別に garaikaさんの「涼み台 」や谷中の家の「とある障害物 」恨めしさから言うつもりはないが、祭や花火ってもんには「雑踏 」が持っている過剰な高揚感が不可欠な気がしてならない。
□◇
※)本文中に採用した写真は去年妻が部屋から撮ったものです。
※)関連エントリー
・greenplastic.net「天神祭奉納花火 」: 川の向かい側から撮られた花火を発見!
・ノアノア「花火 」: 名古屋マンション生活時代の花火体験談
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2005年07月20日 (水)
「食洗機とトップライト 」という個人ネタ(家族愚痴)エントリーに garaikaさんからTB いただいてちょっと恐縮気味なので、こちらでも食洗機談義に続編として触れておくこととする。というか、この際だからズバリその答えを書いてしまおう!
なーんて言うとずいぶん偉そうではあるが、その答えとは garaikaさんのTB元エントリーのタイトル「食洗機それぞれ 」であることは間違いない。要するに各家庭によって向いている家もあればそうでない家もある。そこのところをしっかり事前に話し合って(見極めて)決めた答えならばそれは正しく、その意味で我が家の事例を誤ってしまったケースとして前のエントリーでは取り上げていた。
しかし、こうした設備機器類のあるなし論というのは結構ヒートアップしやすいもので、一度使ってその便利さを覚えてしまったものは「なぜ?勿体ない!」となるだろうし、使ってない側は使ってない側で色々屁理屈が出てくるものである。
そこに garaikaさんのようにかつて使っていた立場ながら「使わない」選択をされてるような存在が出てくるとまたひと味違うが、それでもこの件に関しての論議は「それぞれ」でよいのだと思う。
ちなみに私は使ってない側なので、使わない側の屁理屈を幾つか挙げてみると
溜めてから洗わないと勿体ないという食洗機だが、溜まる前に使い回したい食器がすぐに出て来てしまうことが予測できる。 省エネというが、どうも信じ切れない。
(というか自分たちの洗い方がかなり省エネ的なので、それに勝てるのか?) そもそもあんまり皿を使ってない。
(買ってきた総菜をパックのまま食べてる実家の場合) 食器くらい自分の手で洗ってないと手や脳が鈍りそう。 といった具合だが、この中でも最後に挙げた話はある種バリアフリー/アリー問題と通ずるところがあるだろう。だが、これもやはり考え方は「それぞれ」であり、逆の立場からすれば、そこは手荒れの解消と食器洗いの時間を他のことに有効に使えるとして、それが実践されているのであれば全く問題はないのだろう。
ただ、まあ、私はどうも葡萄の皮は自分の手で剥いて食べたいクチで、それと似たようなもんなのだろう。種なし葡萄なんてのも余計なお節介もいいところで、あの種の回りのぷにゅっとした部分を舌先を使って取り出して食べてこそ葡萄だと思うのだが、そう思うのは滅茶苦茶少数派なのかもしれない。が、それもまた良しという話である。
□◇
※)参照エントリー
便利なモノを通じて人間の能力論に展開してるエントリーにTB。
・ノアノア「カーナビと食洗機 」
・Under the Bridge「物覚え・物忘れ 」
・家づくり、行ったり来たり「便利な道具の是非論 」
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2005年07月17日 (日)
家の引き渡し から1年が経つというのに、我が家では一度も使われていない設備機器がある。食洗機と略称される食器洗い乾燥機がソレだ。
この食洗機に関しては計画時それなりに一悶着あった。
唯でさえモノで溢れかえっている我が家なのだから、システムキッチンとして少しでも有効に収納スペースを取っておいた方がいいのでは?というのが母以外の意見であったが、母は食洗機にこだわったのである。確か「お客がたくさん来たときに苦労するのは結局私一人なのだ」とかなんとか言って‥‥。まあ、食洗機自体が収納の役割も果たせはするので、皆、母の願望に割と早くから折れた恰好にはなっていたが‥‥。
(というのも、ここで抵抗するとあとあと面倒くさいので)
ところがその食洗機がついこの間まで1回も使われていなかったのである。説明書を見るのが面倒くさいという理由によって。ただ、さすがに保証期間過ぎてから、初期不良だったなんてことがわかったというんじゃシャレにならないので、妹にお願いメールを出してどうにか動作確認だけしてもらった。で、その後の母の口ぶりからすると、今後もそれが使われそうな見込みはない。何でも動作中結構な熱を帯びるらしく、暑い夏にそれじゃ溜まらんってのもあるようだし、それにそもそも、そんな纏めて洗わなければならないほどの食器が出てくるような食卓ではないのである。うちの実家って。
その傾向は谷中に来る前からもだったが、谷中に住み始めて一層激しくなったようだ。何が?というと彼らの外食率が!である。そして家で食べるときにしても、買ってきた総菜などで賄われることが多いので、ロクに洗うものなんてないはずなのだ。
こうした状況まで考えるなら、母のヒステリーに脅えず、最後の増減見積調整段階で母を説得して、代わりにトップライトを開閉式にしなかったのが大いに悔やまれるところである。あそこが開くようになっていたなら、母の望む屋上での干し物もタラップ経由ではなく出来たわけだし、それ以上に風の通りが違ったはずなのだ。別の論理でヒステリーを沈静化させられる可能性もあったというわけだ。
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2005年07月12日 (火)
先週末、谷中の実家家族と私共夫婦合わせて5人で、愛知県一宮市北方町 の木曽川べりにある母方祖父の墓参りに行ってきた。先月行った諏訪の墓には祖父母ふたりの遺骨が眠るが、こちらはM類家代々の墓から数百メートル離れたところに分骨された祖父の骨だけが埋葬されている。要するに代々の墓はもう飽和状態なのである。曾祖父母の代までは土葬だったという話だし。。(汗)
以前「家と命 」というエントリーで細木数子の暴言を引き合いに出して、しかしながら家が出来たからにはご先祖様にその報告と感謝の気持ちは伝えておいた方がいいんじゃないかということを書いたが、竣工してもうすぐ1年というところでようやく墓前でのその機会は得られたということになる。血族ではない父も何となくそれを気にしてたらしきところがおかしかった。何はともあれ、我が家の新築に亡くなった祖父母の関与するところは大きいのである。
ところで旅疲れを抱えてそれぞれ帰京・帰阪してからの電話で母に聞いてみた。
「もうすぐ住んで一年経つけど、どう? その家がもう帰ってきたなって感じの家?」
すると母も父も妹もドカッと腰を下ろせる場所はもう完全に谷中になってるとのこと。
実際、私にとってのそういう場所は谷中ではなく、現在住んでいる大阪になるのだが、家族にとって谷中がそういう場になったという話を聞くのはホッとするものである。
祖父の命日の日に(1979年7月12日永眠)
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2005年06月28日 (火)
山林 では小一時間ほど過ごし、それから宅地に向かった。宅地は山林の麓の墓地から降りて行けば目と鼻の先にあるのだが、公道を通って行こうとすると結構迂回しなければならない。まあ、今回は車だったのであっと言う間だったが。。
ちなみにこちらの宅地は山林と違って一応は母も私も勝手知ったる場所で、墓参りの度に何をするでもなく立ち寄ってボケーッと見るだけ見て帰る。お隣さんに畑 として貸しているので、畑に踏み込むことは憚られたが、やはり自分たちの所有地だと思うと何となく確認だけはしておきたくなる、これまでの我々にとってはそんな場所だった。
ただ、この土地は上記区画図を見てもわかるように、宅地として考えたときの土地形状は頗る悪い。とにかく道路に面する間口 が狭すぎるのだ。祖母の話を伝え聞く母の話によれば昔はそれでも軽トラックが通るくらいの幅はあったということなのだが、持ち主の不在を良いことに隣地との境界線がどんどん浸食されていったらしい。
現在は計ってみたら実測約1.6mで、さらには入口すぐのところに石碑と灯籠 が立っているので、その分を差し引くと1mもない間口ということになってしまう。つまりは何をするにも搬出入に苦心しなければならない立地というわけだ。
そんなことから泰n叔父さんの口からは「ここは処分した方がいいな」という声が早々にあがっていた。とりあえずその場で私は沈黙するしかなかったが、その言い分は充分理解できるものである。何しろ私たちがここに来るのは年に多くても2回。どう考えてもこの土地にこれから先「住む」ということは考えられないし、また決して地の利のよい場所でもないので、そこにアパートのようなものを建てて家賃収入を期待するのも難しい。というか、それより何より先ほども書いたように、まず土地形状が宅地として考えると悪すぎるのである。
しかし、私はここも山林同様、処分したくないと考えていた。
その考えは今回の諏訪訪問以前から既に胸の内にあったものたが、実際に再確認して尚更その意思は強まったと言えよう。それは一つには祖母がこだわった茅野家唯一の証しともいえる土地を継承すべしという意識が多少なりとも自分の中に働いているというのもあるのかもしれない。だが、それ以上に私が手放したくないと思った理由は、その宅地としては悪すぎると言われる土地形状にこそ魅惑を感じてしまったからだ。
確かに搬出入では不便するだろうけど、幾つかの既成概念を取っ払ってその土地を見直してみれば、魅力的なアイデアは幾らでも沸き上がってくる。というか土地を見ながら色々イメージが湧いてしまってしょうがなかったのである(やっぱり建築ってのは「土地」=「条件」あってのものだね、今更ながら)。
現場の確認をしていると、敷地を畑 として貸しているお隣さんがちょうど出て来て挨拶旁々お茶に招かれた。母以外の3人は実質、初対面である。その席でこれまでの土地貸借の経緯について聞くことになった。
もともとこの辺一帯は茅野家の土地で、母曰くお隣さんは小作人だったという話なのだが、1947年GHQ指導による農地改革でその関係が一変したのだろう。その頃祖母は東京で私の母を産み、子育てに忙しかったはずだから、茅野家の土地のことは養父や弟の泰大叔父に任せっきりになっていたにちがいない。とすればその改革による土地の割り振りで思うような結果が残せなかったのもやむを得ない話だ。
お隣さんによれば土地を借りることになった当初、貸借に関する直接的な交渉は祖母の養父が行っていたらしい。それが泰大叔父に引き継がれ、結局祖母は1995年に亡くなるまで自分の土地は諏訪の親族に任せっきりにしてしまった。そして祖母の死後、私が名義上の所有者になっても変わらず泰大叔父が面倒を見てくれていたので、私も私でお隣さんはおろか泰大叔父との交渉も母に任せっきりにしていたのである。ところが泰大叔父が去年の春に亡くなり、土地の処遇問題が不意に浮上するのだが、それについては「母方祖母の系譜 」のエントリーで説明済みとなっている。
尚、お隣さんとしては処分するならするで仕方ない話だし(場合によってはお隣さんが買い取るということも考えられる)、処分せず当面何もする気がないのであればこれまで通り、畑として貸してほしいということだった。その場で即答はしなかったが、当面の間は私もそれで良いと思う。それとさきほど土地の形状について記したときには触れなかったが、この土地にはもう一つ問題があって、上記区画図からもわかるように土地が急斜面で二分されているのだ。そしてお隣さんに畑として貸しているのは右側の広い部分で左側の狭い区画は所謂空き地状態になってしまっている。何で全てを貸さなかったのかは聞いてないのだが、土地を見る限りその斜面がかなり急で日常的に気軽に上り下り出来るような場所ではないのである。ましてや西側面には手前の家の柵があるので云わば八方塞がりの状態。さすがに畑として使う気にもなれないだろう。
そして空き地ということは当然放っておけば雑草が生い茂ってくる。そこで泰大叔父がそこの手入れを年五千円でお隣さんに依頼し、年に一二度草むしりをしてくれていたらしい。しかし、その泰大叔父が亡くなったことによって支払いがなくなり、それからは目立つ草を刈るくらいでそんなにちゃんとは手を加えていないのだという。
ところが、これについてもここの近所に住む善n叔父さんがしばらくその場所を貸してほしいと申し出てくれて、当面の間は雑草の心配はしなくて済みそうである。
といったところで今回のエントリーは状況報告で留めておくが、すでに私の中で膨らみ始めている妄想の幾つかを披瀝するなら、そこには「小屋」「防空壕」「上から入る家」といったキーワードが浮上してくる。そしてその最初のターゲットとなるのは、出入り口のない八方塞がりになっている狭い方の土地だ。
これは私も rattlehead さんの「家の妄想の記録 」に倣って「小屋の妄想の記録」なるブログでももう一つ作った方がいいのかもしれない。
いや、まあ、カテゴリ追加するくらいでいいか?(笑)
今後の参考書籍として『小屋の力 』(ワールドムック社・¥3,800-)を挙げておく。
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2005年06月18日 (土)
6/18(土) は朝6時半に起床。
油屋旅館 の天空風呂 を運良く貸切状態 で満喫して、9時半前に泰大叔父邸(現在は長男の泰n叔父さん御夫婦が住まわれている)に向かう。
そこで次男の善n叔父さんとも落ち合い、善n叔父さんの運転する車で、まずは祖父母の眠る墓地へ行った。というのも、墓地の場所が所有する山林への山道入口脇にあるのである。そこから車で無理矢理山に分け入ること約10分。徒歩だと30分くらい掛かるということらしい(私は本当は歩きたかったが)。
母も私もこの山に入ったのは初めてのことであった。母によれば、持ち主だった祖母でさえ、実際に見ているかは疑問とのこと。ただ、この山林の木が切り落とされ、三鷹金猊居の丸太梁 や床柱等の主要木材として利用されたことは確かである。つまり祖父は間違いなくこの地に足を踏み込み、どの木を使うか考えていたはず。
現場に到着して、まずは地図を片手に泰&善n叔父さんたちにおおよその境界を示してもらうことになった。近年、義父とM茸狩りをするようになって山に入る機会が増えているのだが、そこが自分の持ち物だという視点で山を見たことはなかったから、何とも不思議な感覚である。
ただ、うちの所有する区画というのは特にこれといった目印が付けられているわけではないものの、かなり容易に判別できるところだった。
というのも、うちのまわりの山林は皆、杉なら杉 、桧なら桧という具合に均質に植林されているのに対し、うちだけ好き放題いろんな樹木 が生えているのである(笑)
広葉樹が多いせいか、下草も青々と茂り、ところどころには蛇苺 やグミのような赤い実なども見つけることができる。
まあ、これは私が山の素人だから思うだけの話かもしれないが、私はそういう色とりどりの野蛮な山の方が好きだし、そういうところもそれはそれで残ってないと!と安易に思ってしまうのだが、エコロジカルな観点からどちらが望ましいことなのかはよくわからない。もちろん将来的にこの山の木を何本か切り出して何かするということも考えないわけではないが、何はともあれこの山林を手放したくないという気持ちだけはより一層強いものとなった。
泰&善n叔父さんにこの山林が二束三文(1869m2 =565坪:約7万円)でしか売れないとして、では逆に買おうとしたら同じように二束三文で買えてしまうものなのか?と質問してみた。すると答えは無理というか、まずそれ以前に売ってないだろう(売ってくれるところを探すだけで一苦労だろう)という返事。
ただ、この質問を投げ掛けたことによって、私がこの山林を手放したくないと思っていることは朧気に伝わったように思う。帰りの車では二人とも持っててどこに迷惑が掛かっているというわけでもないので、わざわざ手放す必要もないか〜というような口調に落ち着いていた。母も同様の判断であったようである。
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2005年06月17日 (金)
「諏訪の油屋旅館と辰野の蛍 」のエントリーで私名義の宅地 と山林 について個別にエントリーすると予告したが、どうやらその前に私の母方祖母の系譜を少しばかり繙いておいた方が先の話を展開しやすくなりそうである。そんなわけでこのエントリーでは祖父があのラブレター を送ったその伴侶たる祖母の出生にスポットを当てることとする。
これまで祖母が諏訪の出身であることは「第25回打合せ: 丸太再検証 」「祖父から祖母への手紙 」のエントリーなどで触れてきた。祖母は諏訪の隣町の「茅野」という地名と同じ茅野家の第一子として1908(明治41)年に産声をあげる。だが、祖母の誕生を前に父親(私の曾祖父)が戦病死してしまうのである。よって祖母は実母が間もなく再婚した相手(実父の親友だったらしい)の家の長女(4人兄弟の)として育てられることになった。というか、生まれたときから実父はいなかったのだから、実際、養父と家族同然で暮らしてきたのである。
その祖母がそうした事実をいつ知ったのかとか、それに纏わる葛藤があったかといった情緒的な話はさておき、祖母が晩年においても茅野家のことをたいへん気に掛けていて、私をM類家の養子にしたあとに、あわよくば妹まで茅野家の世継ぎにと考えていたらしいことは小耳に挟んでいる。しかし、我々身内間でもさすがに茅野家の面倒までは見切れないだろうというのが大方の心情というものだった。ただ、幸いにも祖父母の墓は分骨されて諏訪の茅野家の墓の横にもあるので、墓参りをする人がいなくなってしまうということは少なくとも私の代まではない。
私名義の土地というのは、その祖母が茅野家唯一の相続人として受け継いできた茅野家の土地である。祖母が亡くなり、養子ながら唯一の嫡子として土地だけ一切合切を相続することになった私が祖母名義の宅地と山林も引き継いだのだ。
ただ、その土地はすでに祖母が東京に出て来た頃より、祖母の養父、そして諏訪に住む弟(長男)が実質的な面倒(隣家に畑として貸していたので、その交渉など)を見ており、祖母にとってはせいぜい何かが起きたときに遠くから判断を下す程度のものになっていたし、母や私にとっても墓参りのついでに宅地の方は寄りはすれど、山林は一回も足を運んだことのない場所だったのである。
そうした土地の処遇問題がなぜ浮上したかといえば、それは去年の春に祖母の弟である 泰大叔父が亡くなったことに拠る。その後、泰大叔父の息子さん兄弟が財産整理をするにあたって、その土地をどうするかの問い合わせがあったというワケだ。
彼らの共通した見解としては、自分たちの目が黒いうちはまだいいが、今後、代が変わっていくとその土地を近場で面倒見てくれる人がいなくなってしまうので、もし何だったらこれを機会に処分してしまってはどうか? まあ、二束三文にもならない土地ではあるけれど、、というようなもので、ただ、処分するしないに関わらず、今一度見て貰ってから判断した方がいいだろうということで、それで私と母が諏訪を訪れることになったのである。
そんな訳でここから先の話は山林と宅地に分けて見ていこうと思うが、ちなみに二束三文というのが具体的にどのくらいかというと、122m2 (37坪)の宅地評価額が約160万円、1869m2 (565坪)の山林が約7万円と計170万円前後で私にとっちゃ二束三文では決してないが、しかし東京の地価から考えたら、狭小住宅も真っ青なお値段なのである。「広大住宅」って本はできないのかしら?(笑)
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6/17(金)、18(土) と長野の諏訪に行ってきた。
主な目的は母方祖父母&大叔父の墓参りと私名義の土地の処遇について。土地の件は宅地 と山林 が少し離れたところにあるので、それぞれ別個にエントリーしていきたい。
このエントリーでは到着当日の旅の余話を二つばかり。翌日にももう一つ余話 はあるんだけど、そっちは建築絡みのとっておき の話なんで土地関連話のあとに単独エントリーさせるつもり(あさみ編集長 さんはたぶんその内容が想像できるはず)。
で、一つ目の余話は諏訪と云えばの温泉&旅館談義。
これまで法事絡みで諏訪に行くときの宿泊地はたいてい親任せか妹任せでホテルに泊まることが多かったのだが、今回は私と母の二人だけなので私がネットで探すことになった。それで選んでみたのが諏訪では老舗の油屋旅館 。
各種料理の付いたコースプランで申し込むとそれなりのお値段になってしまうのだが、素泊まりだと4200円〜。2名一室利用の場合で一人4725円。これだとその辺のビジネスホテルよりも安い。その上、展望露天風呂「天空の湯 」までが付いてくる。
そんなわけで迷わず利用してみたのだが、これが想像してた以上によかった。
部屋はトイレ・バス付きの十畳和室だった。老舗だけに古いといえば古いが、ロビーで休憩してれば茶菓子が出てくるし、中庭は綺麗に手入れされてるし、何と言っても従業員の持てなしの気持ちがこちらに伝わってくる。それで5000円以下というのはかなりのお買い得だろう。そして「天空の湯」。午後5時と朝7時の明るいときにしか入らなかったので夜景は見られなかったが、諏訪湖と北アルプスが一望できて非常に気持ちよかった。縁の部分に落下防止用のアクリル板が入っているのだが、それがなければもう一つ気持ちよかったろう。自己責任ってワケにはいかないものか?(^^;)
夜はこの時期限定のオプションツアーとなっている「数千匹のゲンジ蛍が乱舞!辰野の蛍鑑賞プラン 」に行ってみた。サイトのプラン案内に寄れば
数千匹のゲンジ蛍が乱舞!辰野の蛍鑑賞プラン◇昔心閣 油屋旅館より車30分。辰野町松尾峡では、6月中下旬、ゲンジボタルの幻想的な光を楽しむことができます。この期間に、数万匹発生するという名所なので、気候条件が合えば、夜8時頃から数千匹の蛍が乱舞する光景も見られます。特に6月11日〜20日の間は、蛍の数が多く、「松尾峡・辰野ほたる童謡公園(6月10〜19日は入場有料)」への入園券+往復のバスがセットになった期間限定オプションツアーはお勧めです。
とのことで、この日は湿度も高く、数千匹の蛍乱舞への期待が高まったが、まだ少し日にちが早かったようで、そこそこ飛び回ってはいたが、数千匹が乱舞というほどの光景には出会えなかった。っていうか、蛍よりも人出の方が多い感じだった(汗)
なお、上記写真は左側2枚が私が三脚も持ってないのにデジカメの夜景モードで無理矢理露出時間を長くして撮影したもの。右側の1枚は油屋旅館のプラン紹介に出ていた写真をコピらせてもらったものである。それらを見較べれば乱舞との差は一目瞭然だろうが、この右側の画像が冗談や合成ではないだろうことを私はここに記しておきたい。というのも、かつて私がインドを放浪 していたとき、この右端写真に匹敵するくらいの蛍の群れを実際にこの目で見ているのである。
以上、余話を掛け合わせて「天空の湯」から蛍鑑賞が出来たらほとんど極楽浄土の心境だろうが、それをローコストで実現している「山小屋 」もあったりするのである。
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2005年06月14日 (火)
実家から送られてきた荷物に「お隣の一乗寺 さんからいただいた品」と開封済みの包みに添え書きされた「追分羊かん 」なるものが入っていた。どこかで名前を聞いたことのあるようなないような、包みの裏を見ると今年の4月から静岡市に吸収合併された清水(現在は静岡市清水区)の銘菓とある。
ということは『ちびまる子ちゃん』で知ってるのか?と思い、「追分羊かん ちびまる子ちゃん」で検索すると、作者のさくらももこが大好物であり、また映画原作特別描き下ろし『ちびまる子ちゃん──大野君と杉山君 』の表紙に「追分羊かん」のお店の絵が描かれていることが判明。
『ちびまる子ちゃん 』全巻揃えてるだけに、それで朧気に覚えてたというわけか。
ちなみに味の方は羊羹の説明書きで「竹の皮包みの素朴な野趣と竹の皮の香の深く沁み込んだ言うに言えない静かな風味」と書かれているように、本当に言うに言えないどっしりした味わいがあり、取っつきやすい味ではないのだが、妻としみじみこれは美味いよ!と本当にしみじみしながら食べていた。最近は京菓子の洗練された味よりもこういうどっしり味の方が楽しめる舌になってきている。
なお、残念ながらというべきか幸いにというべきか店の公式サイトがないようなので、包みの裏面に記載された「追分羊羹の由来」を以下に引用しておく。
「追分羊羹の由来」 (詩人 長田恒雄・清水市)江戸三代将軍家光のころ府川のあるじ箱根の山中に
旅に病める明の僧と出合いこころあたたかく介抱
やがて病癒えたかの僧は感謝の涙とともに
小豆のあつものづくりの秘法をねんごろに伝授して去った。
それがそもそもこの追分羊羹のことの発り
ひたすらな善意と素朴な感謝がいみじくも交流したところから
この羮の風味は生れ出で、爾来三百年ひとの口に
ひとのこころにしみじみとしみわたってきている。
つつましくほのぼのと いまも
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2005年06月09日 (木)
先月の上京中に父 から満州の話、そして父の父、つまり私の祖父の話を聞いた。
前回の「父と満州 」のエントリーでは、小宮清著『満州メモリー・マップ 』(筑摩書房・999円)を読んだのをきっかけに父が満州出身であることを私の視点で書いただけだったが、今回は0歳から14歳まで満州の大連で過ごした父の視点を借りて、私のほとんど知らない父方の先祖を繙きながら「満州」にも一歩近づいてみたい。
まず私の父方祖先である父の祖父、つまり私の曾爺さんに当たる人物は日露戦争に従軍し、戦後、満州に残って土建・不動産の仕事を始め、それでボロ儲けしたのだという。
満州から北東に100km程のところにある貔子窩(ひしか:現在の皮口)という街で一番大きなホテルを建設・保有し、とにかく孫の代まで寝て暮らせるくらいの大金持ちだったんだとか‥‥。その証拠に父の父、つまり私の祖父は本当は内地に帰って大学で勉強したかったらしいのだが、身内から「片手内輪で暮らせるのにわざわざ大学など行く必要ない」と猛反対され、結局高校までしか出ていないのである。まあ、その後、満州鉄道に就職してるので、片手内輪の生活はしてなかったようなのだが。。
その祖父が満鉄社員として北京(一時はハルピン)で働くことになり、結婚しても家族は大連に残して単身赴任生活をしていたので、父にはほとんど「父親」という存在の記憶がない。以前伯母から聞いた話によれば祖父がたまに満州の家に帰ってくると父は「どこそこのおじちゃんが来たよ」と無邪気に喜んでいたのだそうな。そして祖父は父が中学に入る前に病死してしまう。よって私にとっても父方祖父は最初から存在しないものであったが、父にとっても非常に希薄で、取り様によってはこれまで私が父方祖父の話をほとんど何も知らなかったというのも満更不思議な話でもないのである。
ちなみに当時において内地の一般サラリーマンの給料が60円だったのに対し、満鉄社員の給料は100円だったそうで、曾爺さんから祖父の代になっても単身赴任とはいえ、暮らし振りに不自由はまるでなかったようだ。父に『満州メモリー・マップ』の本の話をして、その舞台となっている奉天(現在の審陽)や新京(現在の長春)のさらに果てのチチハルという地名や開拓団のことを話すと、それは同じ満州とは言っても全然違う世界・生活だったはずだと言っていた。ただ、大連で優雅に暮らしていた人たちからすると開拓団の人たちは一部が破落戸(ヤクザ)化していたそうで、その苛酷で貧しい暮らしぶりを知っていてもそれを決して可哀想だとは思えなかったのだと言う。特に父の場合は中学に入ったくらいの頃に一度、開拓団の連中にオーバーコートを強奪されたことがあったらしく、余計にそのイメージを悪くしてしまっている。
大連在中、父は母兄姉と共に北京に2回、ハルピンに2回、半分は観光旅行のような気分で単身赴任した父親のもとを訪ねている。そのときには必ず奉天の親戚の家(現在四国在住)にも寄って行ったらしい。父によれば、奉天は商人の街、新京は官僚街、ハルピンは帝政ロシアの色の混じった異国情緒漂う街といった印象だったようだ。まあ、何はともあれ父にとっての開拓地は観光の対象以上ではなかったわけだ。
しかし、第二次世界大戦での日本の敗戦により、そこからは『満州メモリー・マップ』の作者と同様に引き揚げ船に押し込められ、財産すべてを取り上げられた状態で帰国することになる。そういえば同書では「引き揚げ船に乗せられた乗船者たちは各々の湾に到着すると上陸前に錨を下ろされ、約1週間そのまま海上で停泊させられ、夏の太陽に焼かれて船内がオーブンのようになり、オーブンの中で伝染病の保菌者が発病するのを待って、もし感染者が現れた場合、その船まるごと上陸を許されず放置された(引用者再構成)」という怖ろしい描写があったが、父が帰港した佐世保ではそのようなことはなかったらしい。ただ、DDT(殺虫剤)を服の中にまで突っ込んで吹き付けられて真っ白にさせられる経験は何度もあったとか。
そしてこれも似た話が書かれているが、引き揚げ者収容所で20歳以上は1000円、以下は500円が手渡され、祖母、伯母、父の3人は合計2500円を手渡され、もともと生家のあった山口の萩に帰ってゼロ(ではなく2500円)からの再出発を切る。このとき父は「もし大金持ち曾爺さんに先見の明があって、満州だけでなく、内地にも土地を持ってればお前だって片手内輪とまでは行かないまでも小金持ちくらいの気分は味わえたのかもしれないけどな!」と笑いながら話してくれた。
そんなところで今回は満鉄社員だった祖父にあやかり、絵葉書は満州鉄道の描かれたものをアップする。また、途中に出てくる写真の方は左から伯母、祖母、父、祖父の順で撮影場所は不明である。しかし、こうして書いていて最後の最後まで父方祖父を「祖父」と書くことの違和感が私には拭えなかった。
なお、このエントリーは当初は帰阪直後の記憶の薄れぬうちにさっさと書き出しておきたかったのだが、毎度おなじみ帰阪後の仕事蓄積地獄でそんな暇は一向に作れず。
で、書くタイミングを逃しかけてたところで、ちょうど Abejas e Colmenas のみつばこさんが「満州 記憶の断片から 1片 」「満州 記憶の断片から 2片 」と立て続けに満州絡みのエントリーをされてたので、それに便乗した勢いだけで書けました。謝謝!
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2005年05月22日 (日)
5/21(土) と 5/22(日) の2日にわたってブログ仲間の訪問を受けた。
5/21(土) はまったく想定外だったのだが、梅丘の「橡の家−特別見学会 」で施主仲間と集まったとき、ふと garaikaさんは遠路はるばる出て来られてる訳だし(行ったり来たりの毎日には慣れられているとはいえ)せっかくの機会だから片付けも何もしてないけどお招きしてしまおうと思い当たったのである。ちょうどこの日は母も妹も出掛けているということだったので、そのことが招く側招かれる側どちらにとっても余計な気遣いがなくて済むなという判断も働いていた。
加えて梅丘から最寄り駅の千代田線根津駅はうまく乗れば一本で行けるってのも何となく自分から誘いやすい恰好の理由付けになってくれた。まあ、何はともあれ、ふだんほとんど人と会うことのない私は、人と話すのも誘うのも、まずは自分を納得させられるだけの動機を見つけられないとなかなか行動にまでは出られないのである(汗)
「橡の家」で朝妻 さんとおさらばして garaika さん、bside さんと谷中へ。bsideさんは「ささやかなお披露目 」のとき以来、二度目の訪問である。1Fから屋上まで手短に案内(というよりは誘導)して、その後、谷中ボッサ へ行った。ここがフツウの施主と私の大いに異なるところだろうが、要は私はこの家に住んでないのでこの家がまったく使い切れていないのである。珈琲一杯入れようにもどこに何があるのかさっぱりわからない。どこに座ってもらったらいいかもパッとは思い付かないくらいなのだ。
そういう意味で、私は家が完成したときまでは施主だったかもしれないが、今はただの客とそんなに替わらない立場にいるようなものである。だから、事実これは一人のときでもそうなのだが、友人を招いても一番落ち着ける場所が家族がほとんど利用してない屋上ってことになってしまうのである。ただ眺めが良いとか風が気持ち良いという以外にも屋上が居心地良い理由が悲しくもあるのである。
5/22(日) の訪問は「田植え 」コメントを見ればわかるように mitsubako さんに苗を渡す目的で最初から想定されたものだった。mitsubakoさんは古くからの友人。ブログのおかげで互いの近況が見えやすくなり、前から谷中界隈の仲間を集めてオフ会やりましょうという話が持ち上がっていた。そんなことから「田植え」コメントでも書いてたようにうちの建築家の豊田さん、それから mitsubakoさんと親しい私も古くからの友人である池之端在住の Pruscilla さん、そしてお二人の友人で谷中在住の aya さんと、ayaさんの言葉を借りるなら「合コンみたい♪」な夕食会になったのである。
豊田さんには事前に谷中界隈の友人紹介しますとは言ってたものの、性別までは伝えてなかったので、女性ばかりがお店で待ち構えていてちょっと驚いていたようだ。しかし食事の席では当然、私の知らないご近所ネタ噴出。あとはちょうど Pruscillaさんがヨーロッパ旅行に行かれたばかりだったこともあって海外の話が多かっただろうか?
+微妙に幽霊話にも話は及んで、そうすると当然また谷中とも繋がってくるわけだ。
食後は最初に Pruscillaさん宅を訪問。スコーンなどをいただいて一服してから、みんなで我が家へ。この日は母に友人が数名立ち寄るのでお茶だけ出してもらえるとありがたいと伝えておいたら、案の定、何やら色々茶菓子の類が出て来やした(笑)
もうこういう人を招いたときの母というのは得意満面の独壇場になってしまうのである。そんなわけでこの日は夜空の屋上に皆を案内したものの、屋上よりも2Fダイニングテーブル滞在時間が一番長いという結果になった。無論そこには母個人の接待趣味に因るところも大きいのではあるが、やはり友人を家に招き入れたとき、そこにその家の住人がいるのといないのとでは何かが大きく違うような気がしてしまった。
母は私の友人というやや遠い関係でありながら、それでも短い時間の中で家のことをあれやこれや楽しげに話していたのである。その話し口調は実は私が garaika邸オープンハウスを訪問したときの garaikaさんのそれを思わせるものがあり、ところが今回の私はそんな案内の言葉を訪問してくれた友人たちに対してまるで発することが出来なかったのである。それはちょっと寂しくもあるが、しかし悲観に暮れる話ではない。むしろこの家の建築計画に私は建築当初から住まないにもかかわらず首を突っ込みすぎてしまったことで、最初に住むはずの住人たちがこの完成した家を自分たちのものとして愛着抱きづらくなるのでは?と不安視していたのだが、その心配が無用だったことをこの日の母が証明してくれたのである。
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2005年05月21日 (土)
父と二人で不忍通り沿いの「小松 」という焼鳥屋に行った。
この店は夜しかやってないので父もまだ行ったことがなかったのだが、父の仕事先の仲間がわざわざここの焼鳥を食べに根津まで来るという話を聞いていたので、前から唾は付けていたらしい。割と最近改装されたと思しきやや敷居の高そうな門構えから多少の出費は覚悟していたが、140円からタン・はつ・はらみ・なんこつ・シロ・レバーなどあって、思ったほどの出血にはならなかった。それに何と言っても焼鳥が美味い!
これまで焼鳥屋といえば父も私も吉祥寺の激安店「伊勢屋 」ぐらいしか思い浮かばないので、単に美味い焼鳥知らずなだけなんだろうが、こんなに焼鳥が美味いんならもっといろんな焼鳥屋に通ってみるべきだよ!と誠にアホらしい父子談議を繰り広げていた。
そんな最中である。父が母と私の妻に大顰蹙を買いそうな話をし出したのは!
父は6月中、行けるものなら一人クルマで東北旅行をしたいと計画しているのだが、それについては母はおろか私も歳が歳だし(74歳)あまり賛成できないと思っているということをこの場でも伝えた。そんなときである。父が「東欧に行きたい。でも、一人で行くと無駄に金が掛かってバカバカしいし、誰か一緒に行く人間は居ないもんか?」と言って、こちらにチラリと目配せしたのは!
そのときの答えを私はここに書くことは出来ない(笑)
とはいえ、このときの話の成り行きは概ね妻には話し、予想通り、怒り半分呆れ半分でその後その話が再び取り上げられてはいない。そしておそらく父は母には話していないだろう。というのも、我が家にとって東欧(特にハンガリー)は結構格別の地なのである。まず我が家で東欧に行ったことがあるのは母だけである。1969年に世界青少年交流協会ハンガリー班音楽係・記録係として派遣という形で、母の初めての海外旅行として東欧に行ったことについては彼女のプロフィール でも触れられている。
そんな音楽派遣された母にとっても、またオーディオマニア の父にとっても、また標本フェチ の私にとっても、20世紀のハンガリーを代表する作曲家のベラ・バルトーク (1881〜1945)の存在は非常に特別なものなのである。つい先日の清真美さんの『新釈肖像写真 』でもバルトークのアルバムがしっかりモチーフとして加えられていた。そのバルトークが生まれ、音の採集を行った地として、父がまだ足を踏み入れていない東欧に行きたいと思うのは至って自然な流れだ。父の中ではそれが最後の海外旅行になるんじゃないか?という気持ちもあるようだし。。
ただ、そこで父が一人で行く分には誰も文句がないのだが、その同行者に私が一人選ばれるというところに問題があるのである。実際、私もそれを面白く思えないどころか下手すりゃ憎々しくすら感じかねない我が家の女性陣の気持ちも私にはわからないではない。だが、これは後日豊田さんとも話して同感を得られたのだが、私個人としては行ってやりたい気がするし、行ってみたい気もしている。というか、何よりも行っておかないと非常に大きな後悔をすることになりそうな気がするというのが正直なところだ。
男のワガママと言ってしまえばそれまでだが、70歳過ぎた父親と二人で海外(それも憧れの東欧)を旅するというのは不思議とワイルドなイメージが抱けてしまう(笑)
少なくとも1年前にそんなことを思い描くことはありもしなかった。
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2005年05月20日 (金)
三鷹金猊居時代、私の母はピアノ教室を自宅で開いていた。
一応、谷中の家でもいつそうした教室をやってもいいようにということで、1Fはギャラリーとしての機能と同時に防音にも気を遣った設計にしてはあるのだが、まあ、現在の生活状況を見ている限りではそんな日はやって来ないかもしれないな〜という予想の方が強く働いてしまう(汗)
と、それはともかく今回、フォトグラファーの清真美さん が「新釈肖像写真 」で母のグランドピアノを背景に写真を撮ることになったおかげで、私も滅多に見たことのなかったピアノのフタを開けた状態 を目にする機会を得ることができた。どうもカバーの掛けられたものってなかなかその真の姿をお目に掛かれないもののような気がしてしまうのは、おそらく私の実家の何でもカバーしておきたがる体質に負うところが大きいように思う。その反動か私自身は本でも何でも自分の範疇にあるものは剥き出しで使いたがる傾向が強いのだ。何だかもうカバーが掛かってるだけで、それは使っちゃいけないもののような強迫観念を植え付けられているのである。だからちゃんとモノを使うためにもカバーはなるべく掛けないようにしている。
なお、写真 をご覧になられれば一目瞭然なように母のグランドピアノはワインレッドなのである。これまたカバーが掛かるとふだんは黒ということになってしまうのでもあるが、何はともあれハッとさせられる色であることには違いない。母は学生時代にアルバイトでお金を貯めて買ったと言っていたが、親の資金援助があったかどうかまではわからない(たぶんその真実は話してくれないだろう)。ただ、このワインレッドのヤマハ製ピアノが期間限定商品だったということだけは確かなようである。
といっても購入してすでに40年近い月日が経ってしまっているため、音が古いのかレッスンでは専らもう一台の凡庸な黒のアップライトピアノが使われていた。とまあ、結局のところ、このカバーの掛かったワインレッドのグランドピアノも値打ちモノの茶器同様、写真モデルとしてしか出番のない骨董と化しているのである。
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去年、建築写真 を撮ってもらったフォトグラファーの清真美 さんが、今回は彼女自身の作品制作プロジェクト『新釈肖像写真』として我が家を訪問。まあ、半分は私が頼んだものなのであるが、モデルは私の両親である。
彼女の制作スタンスとしてはモデル希望者の自宅に出向いて、その生活環境の中で絵作りをしてポートレート撮影をするというもの。基本的にその絵作りは彼女自身がここで撮らせてくださいと押しつけるものではなく、あくまでモデルとの対話の中でどこで撮るべきか、どんな家具を配置するか、どんな衣装を着るべきかなどが決められていく。即ちどことなくモデルとフォトグラファーの関係が施主と建築家の関係に近い。
1週間前にすでに両親と彼女の3人でロケハン&打ち合わせは行われていて、両親を結ぶ一番大きな要素は「音楽」だから1Fのグランドピアノの前で撮ろうという話でまとまっていた。それ以外にもふだん使われることのない骨董モノの古茶碗などが並べられ、こんな機会でもないと値打ちモノは陽の目を浴びないのだな〜と改めて実感。
結局、器の類ってがさつに扱って割れても気にならない安物の方が使い勝手も良くなってしまった時代なのである。
ちなみに私は撮影前後の準備と後片付けだけ手伝い、本番の撮影時間は2Fに退散。それは清さんから事前に撮影時はモデルと自分だけにさせてほしいと言われていたことでもあり、また私もそのつもりでいたことである。その感覚というのは、おそらく「家作りブログ三角形 」のエントリーでも触れた「人と人との間でモノを作るということがそう簡単なものではない」といったことと関係するように思う。
とはいえ、2F書斎の階段から一番遠い部屋に居たにも関わらず、ときおり3人が爆笑してる声が聞こえてきた。両親共にああいう形でモデルになるのは初めてのことだったに違いないが、清さんと清さんのカメラがそこに持ち込まれたことで濃密な楽しい時間を過ごしていたようだ。撮影終了間際に1Fに呼ばれ、なぜか私も加わった写真を撮られたり、あと私が清さんを撮ったりとしばし記念撮影タイム。ひとまず見せられたポラでも、我が両親がモデルながらかなりいい写真が出来そうだという予感たっぷり。現像後のレタッチで何ヶ月か掛かるとのことだが、仕上がりが非常に楽しみだ。
家が完成した施主の皆さん、または何らかの理由で家の解体を余儀なくされた方など、是非是非、清さんの『新釈肖像写真』モデルとなってみませんか? そこに住人がモデルとなって入ることでその空間がまたひと味違ったものとして(プロジェクトの性質上、ある種、濃縮還元されたような形で)切り取られ、そして後世まで残せるものとなることでしょう。サイトの Contact のページにもありますように、現時点では撮影協力のお礼ということでA3サイズ程度の完成写真ももらえるのだそうです。遠方の方は交通費などが応相談になるかもしれませんが、本人はどこでも行くよ!と言ってましたので。。
ちなみに冒頭の写真は撮影場所を反対側から撮った撮影準備中の様子です。
あと、清さんのモデル募集の件は私が仲介役になっても構いません。もしいきなりメールするのに抵抗ありましたら、ひとまず私の方にコメントください。
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2005年05月11日 (水)
これまでこのブログでは登場機会の少なかった父 であるが、その理由はうちがある種、サザエさん的家庭だということにある。即ちこれまで何度か登場した祖父母とはまさしくサザエさんにとっての波平とフネであり、私はといえばフグ田タラオだったのが、祖父の死を機に知らぬ前に磯野カツオにすり替えられていた(つまり知らぬ間に養子になってた)のである。だから当然マスオさんである父の存在感は家づくりにおいても薄く、ブログでもそれほどスポットを当てられることがないまま来てしまった。
そんな父が生を受けたのは1931年(昭和6年)、かつて日本の植民地だった満州の大連である。父は自分が士族の出であることを何かと強調するのだが、父の祖父にあたる人は非常に商才に長けた人だったらしく、父はちょっとした金持ちの家のお坊っちゃまとして育っているらしい(右の写真の中央が父)。言うまでもなく第二次世界大戦の敗戦で父の家族もまた身ぐるみ剥がされほとんど無一文状態で引き揚げることになるのだが、私はそのあたりの経緯をそんなに詳しく知らない(というか、父に聞いてない)。
それは一つには私が知らぬ間とはいえ、母方の家の養子となり、なんだかんだフグ田家ではなく磯野家の嫡子としての自覚を植え付けられていただろうことが考えられるが、それとは別に子供の頃に友達同士の間で「残留孤児」と卑下された記憶がどこかで自分に影を落としてるような気がしなくもない。なぜに父が満州の生まれだったことが友達に知られたのかは今以て謎だが、私が小六〜中一前後だった1982年2月、厚生省による第二回中国残留孤児の「親探しの旅」で60人の孤児のことが何かとマスメディアを賑わせていた。そうした報道に子供特有の差別意識が働き、私へと向けられたのだろう。父は「引き揚げ者」であり、決して「残留孤児」ではないにもかかわらず、私は「残留孤児」のレッテルを貼られ、そうしたイジメから逃れるためにとかく私は父が満州生まれだったという事実を隠そうとしていた。
と書いたところで唐突な話にはなるが、
先月、aki's STOCKTAKING 「父の遺言書 /1943 」のエントリーにて少しそのことをコメントしていて、その後、同ブログの「満州走馬燈 / 満州メモリー・マップ 」のエントリーで紹介された小宮清 著『満州メモリー・マップ 』(筑摩書房・999円)を購入して、つい先日ようやく読み終えたところなのである。
今に始まったことではないのかもしれないが、日中間がギクシャクしている現在、満州という存在がそのギクシャクの要因としてどのくらいのところを占めているのか私には今もよくわからない。ただ、この本はそうした日本の侵略の歴史を、いや、もう少し厳密にいえば侵略した土地を開拓する日本人の生活を、私の父よりもさらに5歳若い著者の子供時代の視点において描いている。そこには昨今の行きすぎた報道にありがちな誇張もなければ諧謔もない。ただ、訥々と絵日記のように綴られた記述に当時の大人たちにも見えてなかった歴史的な視線がオーバーラップされているのである。
冒頭でアップした画像は伯母の家にあった大連大広場の絵葉書をデジカメで複写したものである。葉書はまだあと3枚あるので、今度はこの本の気になった箇所など引用しながら、それを元手に父や伯母に満州の話をもう少し詳しく聞いて、それらのレポートと共にここで紹介していきたい。
□◇
Abejas e Colmenas のみつばこさんも aki's STOCKTAKING の同エントリーで紹介されていた『満州走馬燈 きよしのメモリーマップ』の方を読まれていて「オンドルの見える風景 」「泣きそうになった箇所 」というエントリーをされてます。
その後に MyPlace の玉井一匡さんも「満州走馬燈 」で同タイトル著作を再読してのエントリーをされてます。またTB受けた「真綿のお供え餅と大連 」のエントリーも要チェック!
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2005年05月06日 (金)
「田植え 」のエントリーコメントでカエルの騒音話になったついでに、実家の交通騒音に対するその後の話をレポートしておこう。
家の前の言問通りがあの界隈で東西に抜ける唯一の抜け道となっているため交通量が多く、騒音が激しいことは上棟前の「現地ノイズ調査 」のエントリーで取り上げた。
また引き渡し後の「一週間住んでみて 」というエントリーでも実家家族全員が車の騒音に悩まされているということについても触れた。
が、今ではもうほとんど騒音が気にならないものになってしまったらしい(汗)
まあ、私から見れば以前の線路から100mと離れていない仮住居での電車騒音をモノともしてなかっただけに、谷中の騒音の方がよほど軽いと思っていたのだが、結局のところは慣れの問題というしかないのだろう。私も妻の実家で初めて寝泊まりした頃はカエルの鳴き声(昼版.wav[65KB] /夜版.wav[245KB] )があまりにうるさくてなかなか寝付けなかったし、それから大阪に越してきたばかりの頃は朝っぱらから始まるクマゼミの鳴き声に毎朝吃驚させられていたものだ(関東はアブラゼミやミンミンゼミが主流でクマゼミはほとんどいないのである)。
それとこれはあまり冗談にはならない話だが、一月ほど前にワイドショーを賑わせてた奈良の24時間騒音迷惑オバサン。彼女が逮捕されたあと、インタビュー受けた周辺住人が静かになったのはいいけど、逆に静かすぎて耳鳴りがして眠れないんですよと言っていた。これは重症だとも思ったが、あんな物凄い騒音にまで人は慣れるのかと逆に感心してしまった。ちなみにその騒音オバサン映像は僧兵魂「キチガイババア ラップを歌う 」というエントリーで見られます。いや〜、迷惑な話なんだけど、エントリーされたタイトルにもあるようにそのオバサンの騒音ラップセンスだけはそんじょそこらの J-Rap の遙かに上を行ってる気がします。
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2005年05月04日 (水)
前回の「苗代 」エントリーに続き、GWを利用して田植えの手伝いに行ってきました。
田植えは苗代と違って誰でも知ってそうな言葉ですが、試しにヤフー辞書検索すると
田植え (たうえ/たうゑ) 苗代で育てた稲の苗を水田に移し植えること。[季]初夏。
と出て来ます。が、これだけでは物足りないので知恵蔵からも引用してみました。
田植え (文化-日本食文化考・米) 昭和40年代に田植え機が普及してから、家族・親戚総動員しての田植えという風景は見られなくなった。そして、田植えの後、酒を酌み交わし、労働をねぎらう「さなぶり」も姿を消した。種籾を直接水田にまけば、「苗代」での苗作りや田植えという煩雑な作業は不要であるにも関わらず、田植えがおこなわれてきたのは、雑草対策である。「代掻(しろか)き」をして田んぼを平らにすると同時に、芽吹いた雑草を土の中にすきこんで殺す。雑草が一時的になくなった水田に苗代で育てた稲の苗を植えることで、初期の成長を容易にする。しかし、水田といえども、雑草の成長は早く、田植え後の「一番草」「二番草」「三番草」と呼ばれた手取り除草は農家にとって辛い作業だったが、除草剤の登場とともに、田んぼで「中耕除草機」を押す農民の姿は見えなくなった。
どことなくその変遷が村人総出で手伝いに来た時代の家づくりを連想させます。「さなぶり」は云わば「棟上げ」にあたる行事だったのでしょう。しかし、近代化の波は過疎村の隅まで行き届き、我が実家の田植えもその例に漏れず、ほとんどの部分は田植機がやってしまい、手伝いといえば田植機に苗を移すとか運ぶとかその程度のものでした。
冒頭の画像は「苗代」のエントリー最初に見せた2002年時の画像とほぼ同じ田植え前日のまだビニールハウスが取り払われていない時点での苗の様子です。
こちらは田植え前日の水田の様子。お隣りの水田はもう田植えが終わっていました。
前日夕方、ハウスを片付け、苗へ最後の水撒きです。相変わらず義父の専売特許。
そして当日、私たち夫婦が起きる前(朝7時前)にはすでに農薬が撒かれ(写真右の白い粒状のものが農薬)、準備万端の状態になっていました。
8時過ぎ、田植機が到着。義従兄弟のR三君が今年新しく買った田植機でやってくれることになっています。まずはトラックの荷台から田植機を降ろしました。
義父は苗のケースごとに底面に付いた土を払ってから田植機に載せていきます。
これが苗を田植機に載せた状態。背中の苗が少なくなったら手前の苗を補充します。
乗り切らない分は運搬車に乗せて田の畔に移動。義父はR三君に田植え位置を指示しなければならないので、ケースの土を払って運ぶ作業は途中から私が請け負いました。
田植えは水田の中程がやや深くなっているため、一部植え付けがちゃんとできずに同じところをやり直さなければならないこともありましたが、概ね順調のようです。
一往復すると補充分含めて田植機上の苗が切れる少し前の状態になるので、そこで新しい苗を畔から受け取って補充します。
田植機にセッティングされて不要になった苗用ケースを洗って乾かす作業は主に義母と妻がやってました。畔の横に水が流れているので楽チンです。
しかし、それらの作業が終わってしまうとあとはR三君の田植えの様子を見守るばかりで何もやることがありゃーせん状態です。昔は家族総出だったのに、田植機恐るべし。
二往復したところで10時のおやつ。とその前に私も田植機に乗せてもらってヤラセ写真を撮らせてもらいました。苗の受け渡し作業だけは本当にやってましたが。。
休憩後、再びR三君が残る列を順調に往復。完全カメラ目線で余裕のポーズ。
最後の列を終えてから手前と奥の隅を横列で往復させて田植機は11時でお役ご免。
帰り際にR三君と義父が「これで一段落付いたけぇ〜、あとは稲刈りまで一安心じゃ」と言ってたのが妙に印象に残りました。稲作って思ってたよりお気楽なんだろか?
残る作業は我ら家族で田植機が植えきれなかったところなどを手作業で埋め合わせ。
昔はこれをすべてやってたのかと思うと、そりゃ昔の老人は腰が曲がるのも頷けます。
作業は簡単な片づけを残して12時半で終わりました。
夕方、田んぼに出てみるとさすがにまだ田植機で掻き乱された水は濁っています。
が、翌帰阪前には濁りも落ち着き、透き通った瑞々しい水田となってました。
しかし、レポート途中でも書いたように、どうやらこの田植えが終わると本当に一段落付いてしまって秋の収穫までに一、二度、農薬を撒く程度の仕事しかないようです。その農薬も何やらボール状のダンゴ を2、3個投げ込んでおけばそれで済むらしく、ましてや去年から水田まわりに猪等が入ってこないようにと部落ぐるみで感電性の電気柵まで設けているので、ホントに手が掛かりません。
こうした手間の掛からぬ状況を可能としたのがそれこそ知恵蔵からの引用で説明されている「水田」というシステムの威力なのだと思います。ある意味、建築基準法改正で条件付けられた24時間換気システムと似てるっちゃー似てるような、、水田ははるかに前から24時間換水システムを備えていたというわけですね(笑)
尚、余った稲を少しばかり持ち帰ったので、みつばこさんの「種子の時間 」に倣って今度はベランダ田植えに挑戦してみるつもりです。それといつか田植機を自分で操作してみたい!!
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2005年04月15日 (金)
我が家では語学オタクの妻に合わせて大抵一つ二つNHKの語学講座が毎年見られている。で、今クールといえば一番の注目は妻も LBGO で書いてるように笑い飯 の出ているスペイン語会話 。先週の初回分を見逃してしまったもんで、今日はTVに「笑い飯」という紙を貼り付けて忘れないように見た。
スペイン語には男性名詞と女性名詞があって、概ね男性名詞は語尾の母音に「o」が付き、女性名詞は「a」が付くという。その例として「libro(本)」と「casa(家)」が挙げられていた。どっちも日本で固有名詞的に扱われているのでスペイン語を勉強してなくても知ってる単語だけど、「casa」はやっぱり女性名詞なんだな〜。
それを聞いて作家の島田雅彦氏と建築家の隈研吾氏の対談で隈氏が次のようにぼやいてたのを思い出した。
島田雅彦著『衣食足りて、住にかまける 』 (P.27) 隈:建築家の仕事のほとんどは女性相手で、女性が持っている、空間に対するはてしない欲望みたいなものに常に晒されてほとんど辟易しているわけです。その解毒作用として建築家にはホモが多いという説もあって、実際アメリカの建築家はヘテロよりホモの方が多いかもしれない。僕もあんまり女の顔は見たくないから、事務所のスタッフは美青年ばかりですね(笑)。
2005年04月10日 (日)
週末、妻の実家(広島の庄原市にこの春吸収合併された総領町)にて苗代の手伝いをしてきました。苗代というのは検索サイトの辞書検索結果によれば
苗代 (なわしろ/なえしろ) 稲の種をまいて苗を育てる所。苗代田。田植えが機械化された現在は育苗箱が多く用いられる。[季]春。
といったところで、我々はその苗代となるビニールハウスを押っ立て、育苗箱に籾米を無肥土でサンドし、ビニールハウス内に積み重ねるところまで手伝ってきました。このあと田植えまでの約25日間、積み重ねた育苗箱の順番を幾度か反転させて蒸れ具合を均等にし、発芽した頃から一段ずつハウス全体に並べて行くのだそうです。
上の写真は2002年のGWに田植えの手伝いに行ったときに撮った田植え直前の育苗箱の並べられた様子です。すでにハウスは取り払われ、青々と背を伸ばした苗が田植えの瞬間を待ち構えていました。このあとの追記欄では今回手伝いをした苗代作りの経緯を写真と共に紹介します。
まず最初にビニールハウスの骨組みである竹を差し込むための4cm四方、深さ20cmくらいの穴を掘ります。一応、毎年同じ位置に穴をあけているので、冬の間もパイプを差し込んで目印代わりにしてはいるのですが、それでも細くて深い穴を掘るのって意外と大変。苗代づくりではこの作業が一番重労働なんじゃないかな? 穴は2箇所ずつ掘ったらすぐに竹が弧を描くように両端に差し込みます(穴に小石が落ちるとまずいので)。この作業は最初のうちは義父がやって、途中からは私が担当しました。
またハウス作りと同時進行で女性陣は育苗箱に無肥土を敷き、その上に籾米 を均等に蒔いてからジョーロでたっぷり水をかけてやり、水が落ちたところで再び無肥土を被せるサンドイッチ作業をひたすら続けます。
ハウスの骨組みが完成しました。ハウスの中央部ではすでに籾米を無肥土でサンドした育苗箱が積み重ねられて行ってます。
育苗箱は7枚ずつ間に角材を挟んで重ねるので、わずかな狂いも致命傷になりかねません。しかし、この作業も途中から私に任せてもらえました。
その間、義父は籾米に水を撒いていました。本当にたっぷりたっぷり育苗箱に水を撒くのですが、この水撒きが案外難しいらしく、私はやらせてもらえませんでした。
育苗箱のセッティングがすべて終わってから、ハウスの骨組みをより強固にする作業です。道路側には水平垂直軸にも竹をまわし、全ての交差箇所を紐で縛ります。
竹の骨組がしっかりしたらビニールシートを被せ、ひとまず石で固定したあと、ビニールの左右両端を少しばかり土に埋めます。
そして最後にビニールの上から弾力性のある紐をまわして杭で留め、入り口側にも石を置いて完成。完成後ほんの数分経っただけで、もうハウス内はめっちゃ暑いです。義父曰く、この中に人を閉じこめたら1時間もしないうちに死ぬはずじゃと言ってました。
しかし、籾米はこんな蒸し暑い環境に置いてやらないと簡単には発芽しないようで、、そりゃ考えてみたら、お米が米櫃の中で発芽したりしたら困るもんね。
GW中にまた総領町に行くこと出来たら、今度は田植えの手順をレポートします。
□◇
家のベランダでも稲作は可能です。
Abejas e Colmenas のみつばこさんがブログ始められる前に発芽から稲穂が垂れるまでの経過をまとめられた「種子の時間 」をご参照ください。そして収穫の少し前にブログを始められたようで「収穫 」だけはブログ内でエントリーされてました。
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2005年04月05日 (火)
もう数週間くらい前になるだろうか。母から1F縁台通路下の収納に入れておいたヴァイオリンケースに厚さ数ミリの黴が生えていたという電話があった。私はその状況を見てないので何とも言い難いところだが、黴を見つけた母はやや一大事といった口ぶりで、ただ、すぐに工務店や設計事務所に苦情連絡するようなことはしてなかったので、ひとまずほっとした。
この問題、一概に設計・施工側に責任を求めるのは誤りである。というより、その責任の比重はどちらかといえば施主の方にあり、より厳密に見るならば諸々関係性の間において生じてしまったと見るのが正しいところだろう。
我が家の1Fが空調面において他の居住スペースとは異なるハイテク装置(エアカルテット)を導入していることについては去年7月の「設備点検&指導 」のエントリーで書いた。この選択は祖父の日本画作品保存を第一に考えてのもので、室内はほぼ一定の湿度を維持し、常に浄化された空気が循環するシステムが採用されている。ただ、その仕組みは作品収蔵庫にまでは適用させていたが、さすがに縁台通路下の小収納までは非対応だったのである。
つまり1Fは空調万全だから心配無用という油断がつい我々の間で働いてしまったというわけだが、こうした問題は住人がふだんの生活でもう少し家の隅々まで気配せする習慣を身に付けていれば未然に防げたろうにとも思えてしまう(特にまだ住み始めて間もないわけだから)。だが、この件は毎度の家族への愚痴に繋がるのでこれ以上書くのはやめておく。それよりももう一点、こうした問題を誘発した遠因として考えられるところについてここでは触れておきたい。
引越作業時にヴァイオリンをその小収納にしまったのは他ならぬこの私なのである。結果的に仮住居から新居への引越では計3回も(※) 引越業者に来てもらうことになってしまったのだが、実家家族が仮住居の荷詰め作業で手一杯なため、私は主に谷中新居側の到着済み荷物の整備に当たることになった。整理でなく整備と書くのは、私が自分や祖父関係以外の荷物まで開封して整理収納してしまうと後々余計な混乱を招き兼ねないので、とにかく次の引越屋が新たな荷物を持ってきても邪魔とならないスペースを作りつつ、段ボール箱をワレモノや軽いモノ、日常すぐ使いそうなモノが上に積まれるよう、すなわち整備してたというわけである。
そんな中でヴァイオリンは当初から収納場所が決まっていたので、特に疑うこともなく想定された収納位置に放り込んでいた。ただ、当時の私は在京に期限がある以上(それでも1週間くらい延長したのだが)、自分や祖父関連のモノを整理するだけでもギリギリ一杯で、とてもじゃないがそれ以外のモノの状態にまで気を配っている余裕はなかった。だから言い訳するわけではないが、ヴァイオリンを収納する場所の除湿にまでは頭が回らなかったのである。しかし、もしここで母が最初からそれを自分で片付けていたなら、その時点で除湿のことをすぐに考えていたかもしれないとも思うのである。だが、母は母で当時はキッチン回りなどの整理でそれどころではなかっただろうし、とにかくそうしたドタバタの中でヴァイオリンの存在は1Fだけは大丈夫という油断とも相俟って置き忘れられたような状態になってしまったのである。
幸い、黴が生えたのはヴァイオリンケースだけで、中のヴァイオリン本体は無事だったというから安堵はしているが、ヴァイオリンケースが皮で出来ていることを考えれば、早めに除湿対策を取っておくべきだったことは言うまでもない。ただ、それに気づくべき立場が1Fだけは万全!という油断と、引越時のドタバタによって宙に浮き、曖昧なまま日が過ぎてしまったのである。
こうした問題の責任を問うのはなかなか難しい。というか、こういう事態に遭遇したとき、自らを顧みず何でもかんでもシックハウス呼ばわりで業者に責任を押しつけるのは大きな誤りだ。また反対に何でもかんでも責任を自ら背負い込んでそれで一件落着にしてしまう態度もそれはそれでどうかと思う。肝要なのは、そうしたトラブルがどういう経緯でどのような関係の中で生じたかを冷静に分析して把握することである(大方のトラブルは関係性の間=伝言ゲームの最中において起こりやすいものなのだから)。そういう意味で私はNHKの海老沢会長が全容解明してから辞任すると言っていたその姿勢に対してだけはある一定の評価を与えたい(もちろん腹のうちでは視聴者を誤魔化すためだけの延命策だったのかもしれないが、それはさておくとして)。
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2005年03月31日 (木)
「施主適齢期 」のエントリー最後のところで予告した晩年の祖父が祖母に宛てて書いた手紙をここに掲載する。祖父は1979年に69歳で死んだ。はじめに晩年と書いたが、この手紙が書かれたのは1972年3月31日(金) で祖父はこのとき62歳。その後7年間は低空飛行ながらもそれなりに元気に自宅で暮らしている。手紙の受取人である祖母は祖父より1歳年上の姉さん女房で、祖父が亡くなってから16年間、つまり1995年89歳で永眠するまで生きた。ただ、生きたとはいってもその最晩年は脳梗塞で倒れ、数年間ほとんど植物人間に近い状態で家に帰ることも出来ず病院で亡くなってしまった。
そういえば今月10日に福島に行った際には、祖母の種違いの弟である茂雄大叔父とも会ってきた。もはや三鷹金猊居の昔を知る最後の人と言ってもいいかもしれない。今回は別のことを目的として出向いていたため、こちらの準備不足で一歩踏み込んだところまで話を聞くことはできなかったが、茂大叔父まわりの家系図のコピーを貰ってきたので、今後これをきちんと纏めてもう一度話を聞きに行きたいと思っている。
ところでそんな福島談義を土産話に谷中の実家に戻って母と話していたら、二人とも半分忘れかけていた事実を思い出した。いや、これが母にとってもかなりショックな話なのだが、なぜだか母も私もその話を忘れがちなようなので(あまりにショックだったからだろうか)、ただの身辺話にはなるが記憶保存も兼ねてここに記しておきたい。
祖母は祖父との結婚が2度目の結婚だったのである。
一度目の結婚は地元の茅野だか諏訪の人が相手で新婚生活は半年程度で途切れてしまったらしい。ただ、その途切れ方が時代を感じさせる。
その相手の男性というのがコミュニストだったのだ。教育県として今も知的イメージの強い長野には当時から田舎でありながらもコミュニズムの思想の広まりやすい土壌があったようだ。祖母の初婚の相手はその地域一帯のリーダー格ともいえる存在で、あるとき突然連行されて帰って来なくなってしまった(所謂特高によるアカ狩りというやつだろう)。そのとき祖母は幸いにしてというべきか、入籍届けは出していなかったので、身内のすすめでその結婚はなかったことにさせられたらしい。だから私の母がその事実を知ったのも祖母が亡くなって間もなく親戚の口から不意にその話が漏れたときのことであって、それは衝撃の事実だったわけだが、なぜだか母も私もその話を忘却の彼方に追いやろうとするきらいがあるようだ。
おそらくこのあとに掲載する手紙の差出人である祖父はこの事実を知っていたはずである。その後、そのコミュニストは出所してそれなりに有名な存在になったというから、祖父にとっては死せる亡霊とはまた違ったレベルで気が気ではなかったことだろう。今の時代なら妻の元カレを気にするナイーブな夫と言って片付けられそうだが、ここに時代差的感覚が生じるのかは断定できない。しかし、私も「一歩間違えれば」と仮定するほどのところでもないが、微妙にコミュニストが遠くないところにいたというわけだ。敢えて三歩間違えるなら「種違いのコミュニストの孫」だったわけである(笑)
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「母さん」よ、本当はボクにとっては妻なのだけれど、何故か、「おい」とも「お前」とも呼びづらいし、呼びづらい名前なので困ってしまう。だから、そして今では最もよびいい呼称で「母さん」── にする。こんどボクがこちらに入院してからいろいろと心配させてしまった。もちろん普段から亭主関白で何から何まで世話をかけ心配させ、厄介になり、困らせたりへこませたり、泣かせたりしぱなしで心から済まなく思っているのだけれど、今度のことは全く思い設けぬ突発事態で、何とも手の施し様がなかった。暗黙のうちに、退職後はお互いにもう少し落付いて家事にあたり、余裕をもつようにしてたまには二人で仲よく近くへ出かけたり、旅行や保養も実行に移したいと思っていた矢先だったのに、あっと云う間もなく即日入院、爾来一夜として抱き合って愛し合ったり寝たりしたこともない。すでに一ヶ月以上過ぎ去った。我々にとって一日は愚か、一時間、一分、一秒と雖も生きている間の貴重な時なのに。別居を余儀なくされた。
時々、病院へ見舞いに来て呉れても、いつもゆっくり手をとり合うことも、ましてや接吻一つ、抱擁一つ心に任せ、心ゆくまで味わい楽しむことができなかった。来て呉れるのが嬉しければ嬉しいだけ帰ってしまうのが悲しい。情けない話だけれどボクは昔からこの点、まことにロマンチックだけどセンチメンタルに過ぎ、こんなときは必ずホームシックにかかるのだった。綿々と女々しくクドクドと未練がましくて、自らはづかしいけれど、それは本当の心持なのだから遣切れぬ。ボクより孤独になれ、独居を心細からずにボクより気丈な母さんだね。ボクにはそれがよくわかる。そしてそれはボクにとって有難い場合も、安心に思う場合もあるけれど、かえってボクの気持に不安をもたせることもあり、淋しく感ずることもあった。物語や小説にもかかれることだけれど、女というものは、男がどんなに信じていても、女がどんなに貞節淑徳が固くても、男が暫しでも手をゆるめたり、放したり、隙を与えるとアッと言う間もなく他の者の手に落ち、抱かれ、容易に楽々と犯されてしまう。それは女が、意志が弱く体力が弱く容易に男の暴力や権力に負けたり忍従したりするのでもあるが、もともと女という魔性はそういうものであるらしい。そして生理的にも女は一夜に異なった男性と何人でも何回でも性交が可能だという肉体構造と精神構造によって形成されているからだ。そう思い定めるのに男は相当の諦念が必要だし、しかも、それがそのまま男の心性を苦しめる。女というものは、男がシッカリと所有している間だけ、女の美しさも愛情も貞節も誠実も自分の物でありえるし、女は、男が女を寝台の上で抱きとり、女の性欲を自分一人で充たしてやっている間だけ、彼女を自分のものとして独専することができる。「男は女を一刻たりとも手離してはならない。女が永久に美しく貞節であることができるように。」‥‥というのが真理なのだ。
この便箋はこれでおしまい。ボクはいま自分の妻を離れたところに置いている。たとえ妻にゼッタイの信頼をもつにせよ‥‥だ。そしてそれは逃れ得ぬ宿命だからといってガマン出来ることか。
こんな事を執拗に書きつらねるのは、女々しく浅墓で、嫉妬ぶかく無気力な男の愚痴に過ぎないと笑われるだろう。しかし、前にも云ったようにボクは、残念ながら小心で生まじめすぎる性質だし、人間として、教育家として、芸術家としての本来の魂がいつまでもボクにボクの責任を追窮するのだ。
世の中の生存競争の勝利者でないボクは、それだからこそ尚更に一生の半身たる妻の全身全霊をシッカリこの手でつかんで居たいと思う。その意味で、ボクはキミとの性行為中、正にボクの男根がキミの膣内に在って快感の血脈が共鳴しているときだけが生き甲斐を感ずる。本当は行為が一旦終わって快感が遠ざかり、お互いに性器を離すと、とたんにボクは哀れに心細く孤独になってしまう。傍に寝ているキミがずっと遠く隔たり去ってしまうのではないかとさえ感ずる。ましてやこのごろのように離れて暮らすと、如何にもキミが外國異郷に居る者のごとく、幽明境を別にした如く、もうすでに半ばキミが赤の他人の仲間入りしてしまったような疎遠さを感じる。近所に住んでいても○○さんの奥さんに手が出せないように、どんな素敵な婦人でも電車の向かい側に坐っている人のように、自分にとって無縁の女性になり行くのではないかと侘しく寂しくなってしまうのだ。平清盛のような英雄豪傑ですら病重体になってからは阿弥陀如来の絵像の手から糸綱を吾が手に連絡して「引接」を待ったという。溺れる者、藁をも掴むとか、一筋の藁か糸か絆か、ボクはそも何でキミの生身をつなぎとめていたらよいだろう。鬼もすれば去って行ってしまう、離れて行ってしまう。再びボクの方を顧みもせず、今にもはや夢にも思い出さなくなるだろう。夫婦の死の別離以前にこうして事実上の別離が死別同然の結果をもたらすのではないだろうか。そんなことボクはいやだ。我慢できない。死ぬ苦しみだ。何ともボク達だけの心情ではないかも知れないが、最愛の妻か子を亡くしたり、不運にもこれを無理無体に奪取奪略された人の痛憤はどんなであろう。想像するだに吾が胸しめつけらるるいきを呑む苦悩であるものを。
ああ、ボクの一陽は今も次の瞬間も、いつも、いつまでもキミの花の門にあこがれ恋い慕い、埋没したい、溺れたい、花の奥の蜜を吸いたい。突入してあばれ、火のような白濁の精液を噴出し最後の一滴までもキミの胎内へ送り込みたいと、せがみあせり、もどかしさで辛抱できずにじれている。
母さんよ、キミの奥宮はどんな様子かね。誰一人参拝人もないさびれた社殿のように、周囲の境内も荒れはて、吹くは木枯らし、小鳥のさえずり、粟鼠のかそけきささやきも聞こえず、古びた〆縄が千切れ千切れにひらめいているのだろうか。それとも早春に魁けて奥殿に陽炎い紫に紅に、艶やかになまめかしく、綻ぶ花瓣の重なり、扉を押し開けばさらに匂い立つ花蕋と蕊、そしてその真底の子房をめぐり甘露蜂蜜よりうまい淫液香水。四周を包む肉壁、肉の衾(ふすま) 、肉の帳(とばり) は、天鵞絨(ビロード) よりも光沢ゆたかに仔鹿の鞣革よりもしなやかで、きつからずゆるからず引き緊り、脈動しやまず、しかも、血より温く、乳液よりも滋味のある粘汁は絶えず堂内をうるおし、潤滑油となって一陽来るときに具えての膣内ムード照明万全の用意ありや無しや。先ずは先ず、平素は平素、閑雅にも閑静にも「常寂光」の隠り堂なれば、いざ本番の祭典を楽しみに乾望、起請をかけ、深く幽玄にかたく閉鎖し、いついかなる悪鬼といえ、暴漢といえ、将又、仮面の紳士、美青年の侵犯、来訪、慰問にも耳をかさず、言を拒み、開扉開張の魔手を排除し、「剛鑰」をシカと胸臆に蔵しつづけ、守護し通して貰いたい。事し無くば今日も今宵も入浴潔斎、清浄無垢に保養し、たとえ最愛の一陽君の来訪なき折も怠りなく薄化粧を施し、入念な手入れとマッサージを欠かす事なかれ。時に独り寝の寂しさ堪え難くば、静かに安らかに我とわが手指もて、さも一陽君の習性を想起しつつ、己が奥所押しひらきクリトリス探し求めてこれをいたわり撫でつつ、やがて快気催すにつれてジワジワと大小陰唇の谷間にすべりこませ、洞窟に忍び入らせ給えかし。南無大慈大悲の観世音菩薩、忝けなや歓喜光如来、白狐大明神、さてもおん身独りにして大抱擁、大喜悦、夢中迅速の大昇天、失神せんもはかり難し。危い哉、気絶哉。それはいや、いや、困ります。
万が一、いや大きな可能性もて、そのまま眠りのなかに一陽との本富を夢みることもあらんかし。さればうれしやボクもきけば安心。わが一陽を褒めてやります。さあ、いつまでもこうしたことを書続けても行きつまる。要は現実生活を如何にするかだ。色々考えてみる。まわりの実情をみる、院長、婦長、看護婦、知りあった患者たちにきいた事などを総合してみる。まだハッキリした予測はゆるされぬが、このまま逆転せねば四月初旬に外出外泊ができそうだ。それまで辛抱はせずばなるまいと思う。そして第一回の外出外泊の結果故障がなく、起因してまた経過を見る。その間にレントゲン検査、菌検出などの精密検診の結果をみるという順序をふむことになるだろう。極めて順調に行っても最小限入院以来満二ヶ月以上三ヶ月以上、まず半年は退院できまい。
順次そうした状況をみつつ対策方針を樹てねばならないだろう。とに角、結核保菌者として退院を急ぎ家庭療養するとは一面、T(=私) に感染する危険を省察せねばならないので、それについても予め対策を研究する必要がある。おセンチなことをもう少し書いてペンを止めるつもり。
部屋の白壁に白い割烹衣がかかっている。向い側の壁には私の丹前(キミが縫った)がかかっている。昨日入浴(第二回目)のあとで新調のゆかたに着更えた。卓の上には奥富婦人が呉れた春の花が薫る。置戸棚の中にはキミが運んで来た食品や缶詰があり、誰彼から頂いた果物もある。人の世の頼み難いのも真実ながらまた善意あふれる友情に温められるところもあるのだ。大いに感謝して、十分自戒自重して静養につとめる心掛を誓う。「母さん」や、キミの真情を信じている。甘えてもいる。虫のいいボクをゆるして親切に世話をして下さい頼みます。
貞子どの 三月三十一日
夫より
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2005年03月20日 (日)
ノアノアさんが奮闘続けてられる「どこと建てるべきかシリーズ (いや、これが朝妻さんも旋毛曲げちゃうくらいに《つづく》続きなんですが、teacup のブログって本文スペースの横幅狭いもんで、その方が見せ方としてはビジターに優しい気もします。ただ、トラックバックしようとするとどれ選ぶかで迷いますが)」のエントリー。
ノアノアさんの場合、私のように端から建築家じゃないと〜というのではなく、順繰りにすべてを体験された上で(契約したハウスメーカーを解約もされているらしい)、ハウスメーカー、建築家、工務店それぞれの立場に立たれて見られていて興味深い。特に建築家を「擁護すべき立場なのでは」という視点に立たれたのは、やはりまず何よりも家づくりが「成功(朝妻さんが使う言葉の意味において)」だったことを示しているように思う。それと同時にそうした視点に立たれたからこそ、家づくりが終わったあともこうしてブログで意欲的に「家」のことについて、それも「自分の家」自慢を超越したところで書き続けられているのではないだろうか。
よってこの件に関するリアルな観点からの議論はノアノアさんにこのままお任せしてしまおうと思うが(コメント欄のバトルも決して掲示板等にありがちな貧しいバトルに終わってないのでお見逃しなく)、私の方ではある種冗談レベルに話を落として、もう少し遠く離れたところからこの問題について考えてみたい。コメント欄ではノアノアさんでさえ「現実離れした理想論」と言われてしまっているが、私の方はもう最初から積極的に現実離れしたところに話に持って行くつもりである。
まず、ノアノアさんがどこと建てるかで出されていた選択肢が「ハウスメーカー」か「建築家」かなのであるが、私はこれに以下の選択肢を付け加えることにする。
・ハウスメーカー
・建築家
・工務店企画
・施主企画工務店持込
・建築プロデューサー
・セルフビルド
・中古物件リノベーション
・マンション
・賃貸
・家なし
他にも考えればいろいろ出てくるだろうが、あまり書きすぎてもわかりづらくなるだろうからこの辺で止めておく。で、これらを横の軸としたとき、そこに縦の軸として家族内の関係力学という視点を紛れ込ますとこれらの選択肢がどのように瓦解していくか?──それが本エントリーのテーマである。
ここで少し具体的な話に戻すと私の家でも実際計画を進めている最中、あるいは終えてしばらく経った現在にあっても、家族各人でどの選択肢が向いていたかはまるで異なるように思えるものだった。それが一つの選択肢に絞れてしまえたのは、当然家族内の力関係があるからに他ならない(我が家では名義上の筆頭施主である私と実質上の仕切人である母による判断がその主を占めた)。
もちろん世の中には家族皆が大枠のレベルで同じ方向を向いた幸せな家も存在するのだろうが、現実的には様々な現代病が「事件」として浮上するこの時代、そうした幸せな形自体が稀少価値となっている気がするというのは強ち穿った見方とも言えないだろう。乱暴に言ってしまえば、家づくりという現場はすでにそれをやるかやらぬかの時点からして家族内での「お仕着せ」というものが始まっているのだ。
ただ、私はそのことを必ずしも悪いことだとは思っていない。多かれ少なかれ何らかのプロジェクトを始める際にはそうした上下関係は発生するし、また上下関係があった方が事の進行をスムーズにさせることの方が多いからだ(そこをスローでやれたらそれはそれで素晴らしい話なんだろうけど)。ただ、ここで私が言っておきたいのは、仕切る立場に立った者は常に仕切られてる側の立場を振り返って計画を進めるべきではないか?ということだ。もちろん自分の趣味で飾られた家をとことん追求したい気持ちもわかるが、世の中、大概に置いて「他人の趣味」というのはウザイものだったりするのである。たまたまさきほど rattlehead さんの「今日のかまける 」にコメントしたばかりだが、作家の島田雅彦氏が自邸公開住宅論『衣食足りて、住にかまける 』において
客人には緊張感を楽しんでもらう(P.50) 他人の家に招かれた時の居心地の悪さは何に由来するか? その家が家主の趣味で調度や置物などが統一されていると、何か気詰まりに感じることがある。住人にとっては自分の趣味で統一した部屋の居心地は最高だろうが、客の方はこの趣味を押しつけられるわけで、居心地がいいとはとても思えない。
案外、殺風景な家の方こそ居心地がいいものである。
と書かれているのと話はリンクする。同じ家族であってもそれは個人の集合体であるのだから、本質的にはこの問題が残っていることを忘れてはならない。
が、ここで一見反動的なようだが、個人の欲望を最大限追求するのに最適な方法として「家なし」を挙げたい。ホームレスというと悪い印象を抱くかもしれないが、私は現実的に現時代にあっては豊かな「家なし」生活を送ることは可能と見ている。
これは先日上京したとき、建築家の豊田さんとも話したことなのだが、無線 LAN が駅や大手ビル、またファミレスなどで導入されるようになってきた現在、ノートPC一つを洒落たリュックか何かに入れて、プジョーあたりの高級折りたたみ自転車を乗り回し、企業では有能プログラマーとして重宝される「家なし」族が現れても一向におかしくない時代が来ていると思う。彼らの寝場所はもちろんホテルであってもいいし、会社、友人宅、カラオケルーム、マンガ喫茶、サウナ等々、探せば幾らでもあるので、その日の気分次第で寝泊まりするところを選べるのだ。調子が悪ければ病院で寝るってことだってできるだろう。そして趣味の世界はどこかに簡易スペースを借りてそこを趣味のものだけで満たすってこともできるだろうが、それ以前に現在はノートPC一つあればかなりの趣味領域をその液晶モニタの中だけで満喫できる。この話は一見極端なようだが、私はこうした輩がこの先溢れ出てくるのがもう目と鼻の先のように思えてならない。
なお、今、私は敢えてファッショナブルに優雅な「家なし」ライフの側面を取り上げたが、実は私の友人に「居候ライフ 」というプロジェクトを立てて、もう10年近くずーっと他人の家を渡り歩く居候生活を続けている小川てつオという存在がいる。彼の生き方は上記のファッショナブルライフとは程遠いが、おそらく彼の毎日はそうしたレベルとも比較にならないくらい色んなレベルにおいて豊かなもののはずである(その豊かさにはもちろん負の経験も含まれている)。一度は哲学的に考えてみるべき事例として紹介しておきたい。あるいは彼を居候させてやってください♪
さて、すでに話がだいぶ長くなってしまったので、ここではもう一つの選択肢のみを取り上げて終わりにしてしまうことにする(他のものはすでに各所で語られているので、私が取り上げるまでもないでしょう)。それは以前に「岡土建と無印良品の家 」のエントリーでも紹介した、岡啓輔氏が自邸で取り組んでいるセルフビルドである。実は同エントリー内でも触れた岡氏が藤森照信特別賞を受賞した「SDレビュー2003 」では岡氏以外のノミネート作品においてもセルフビルドの傾向は強くあったのである。
セルフビルドといえば、garaika さんのお父様が建てられたログハウス も同様にセルフビルドによる代物だが、この家が家族総出で作られたとされているように、セルフビルドで臨む場合、これはもう「家族」という範疇に留まらず親戚から友人、ご近所さんまで、それこそまわりの仲間たちと家族的な関係を結んで、目的達成へと向かって行かねばならないのは自明のことだろう。セルフビルドとはその名称に反して、一見個的でありながら、実は最も公的な取り組みとならざるを得ないものなのだ。まあ、昔の家づくりというものが本来はそういうもんだったと思うのだが。。
以上、こうしてここでは2つの極端な事例を取り上げてみたわけだが、もちろん私を含む多くの一般人はその間でどういう選択肢が自分たちに向いているのかを考えて行くこととなる。だが、必ず訪れる行き詰まりのときにこうした極端な視点に今一度立ち返ってみると案外それまで考えもしなかった見え方が出てくるかもしれないということは頭の片隅に入れておいてもよいのではないだろうか。机上の空論は全く役に立たないものではないはずである。というか、これまでも匂わせてきたように、机上の空論の方が現実に肉薄しつつある畏るべき現在なのだ。
ちなみにこれら極論のみならず、すべての方向性の間に立ってくれそうな存在として「建築プロデューサー」なる新職種が生まれ始めている。どうにも立ち行かなくなっているのであれば、一度相談してみるというのも手かもしれない。おそらく精神分析医のようにこんがらがってるところを一つ一つ繙いて行ってくれることだろう。メンタルヘルスを恥じらうような時代でもないわけだし、、と最後に微妙に営業モード(笑)
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2005年03月09日 (水)
去年の11月以来のひさびさ上京。
で、4ヶ月ぶりに我が家を外から見た最初の印象は「ずいぶん茶ばんだな〜」だった。壁を吹付塗装にしてるので、細かな粉塵が付着しやすいというのもあるのだろうが、やはり言問通りの交通量が尋常でないことを物語っているような気がする。壁面のみならず、駐車している車や自転車、さらには玄関ドアの把手上っ面まで見てすぐわかるくらい埃を被って黒ずんでいた。というか、何でこの家の住人はそれらを拭き取らずに平気なのだろうか?という寂しい疑問もあるのだが、さすがに壁面の茶ばみばかりはどうしようもない。むしろ薄汚れたことで壁の色として落ち着いたというくらいに見てしかるべきだろう。
しかし、繰り返しにはなるが、義父が作ってくれた把手くらいは自分たちだけでなく、お客さんも手で触れるところなのだから、もう少しキレイにしててもらいたいよな〜と思ってしまう。とまあ、それはおそらくこの後に愚痴エントリーとなるであろう室内にあっても同様というか、それ以上にひどい(というより物凄い)話は出て来てしまうのであるが。。
それと余談ではあるが、自転車が1台増えていた。それについてもたっぷり愚痴は零せるがもうそこまでの話はこのブログではしたくない。ただ一つ、半ば呆れ半ば感心した笑い話として、その1台増えたという自転車は決して新しく買ったものではない。武蔵野市の伯母の家に預けてあったものを現在74歳になる父が3時間掛けて一人で谷中まで漕いで来たそうなのである。
2005年02月22日 (火)
「住宅建築ネットワーク 」のコメントスペースでは施主と設計者の「恋愛結婚」という言葉が出て来たが、結婚適齢期という言葉があるように施主が家を建てる適齢期というものはあるのだろうか。今回は祖父のケースを引き合いに出して考えてみたい。
私の祖父は自邸=三鷹金猊居を29歳で建てている。
身内贔屓であることを承知で言うならば、あらゆる意味において早熟だった私の祖父は自分の家を建てるということにあっても、自ら実施図面 まで引いて大工を指示する辣腕振りを発揮していた。当時祖父の本職は日本画家だったが、工芸や建築への造詣も深く、日本画での繊細な描写 を得意とする祖父にとっては建築図面を精緻に描くことはお茶の子さいさいだったにちがいない。何せ残された図面のコピーを見た私の知り合いの建築史家もぶったまげてたくらいだから。
しかし、そんな早熟多才な祖父が私の目から見て決して満足な一生を送れなかったように思える理由の一つにこの三鷹金猊居の存在があるような気がしてならない。1997年10月に祖父の遺作展(※1) を企画した私はその挨拶文で「不遇」という言葉を使ったが、今回の家作りという経験はその言葉の採用に些かの疑問を抱くものとなった。私は9歳のときに祖父を亡くして以降、母方の身内からは事あるごとに祖父は無念を残したまま死んでしまった、時代が悪かったという話を聞かされてきたが、果たしてその話を鵜呑みにしていて良いのだろうかと思い始めたのである。
「不遇」という言葉には運や巡り合わせといった自力ではどうにもならない不可抗力が働いてしまったからこそ陥ってしまった不幸な境遇といったニュアンスがある。確かに祖父の場合は「時代が悪かった」という言葉が示す通り、人生これからというときに太平洋戦争を迎え、また両親に弟の戦死と相次ぐ身内の不幸にも翻弄された──そんな話を聞かされれば迷うことなく「不遇」という言葉をあてがいたくなってしまうものだが、どうだろう? もし祖父がそうした人生の分岐点ともいうべき時期に自身の家を構えていなかったとしたら? 家作りという大事業に身を投じることなく画業に専念していたとしたら?──もちろんこの疑問に答えを出すことはできない。だが、祖父の履歴書は自邸の完成以前以後であまりにも歴然とその明暗が分かれているのである。即ちそれは祖父が人生の岐路において致命的な選択ミスをしていたのではないか?(つまりおしなべて「不遇」とは言い切れないのではないか?)ということだ。
ここで結論を出す前に祖父が家を建てた時期のことを再検証しておきたい。
三鷹金猊居は資料に拠れば1939(昭和14)年、即ち日独伊三国同盟が成立する前年、第二次世界大戦が勃発せんというときに建てられている。その2年前の27歳で祖父は結婚しているので、年齢的には早いような気もするが、結婚を機に一家の主として居を構えたくなったというのは当時においても自然な流れと言えるだろう。
だが、ここで当時の時代背景の方に目を傾けると、何て不安定な時期にそれも東京の三鷹という充分戦火の及びそうな地域に家を建ててしまったのか?という声が聞こえてきそうである。だが、それは歴史を後から見た者の視点であり、実は北朝鮮のテポドンがいつ飛んで来るか知れぬのにそのことにさほどリアリティを持てずにいる現在の我々と似たような状況なのかもしれない。つまり築造当時、東京が戦場になることなど多くの国民は考えもしなかったのではないか。とすれば、その時代性において祖父が家を建てる時期を見誤ったとは一概には言いづらくなってくる。
むしろ私が疑いを掛けたいのは当時の祖父の内面の方にある。さきほど私は結婚→新築を自然な流れとしたが、それはあくまで当時にあって完全に自立した一般成人のことを差しているのであって、祖父にもそれが該当するとは実は考えていない。家作りの経緯については長女である母でさえ家が完成して5年後に生まれているので、例えばどのような資金繰りが行われたのかとかいう実情を子供心に見ることもできなければ、ちゃんとした話としても聞かされてもいない。だから想像でしかモノが言えないのだが、少なくとも私の目から見て、日本画家だった祖父が自力で家を建てたとは到底思えないのである。ましてや東京という土地でありながら広大な敷地に精巧極まる建具意匠と、とても標準的な家のスケールでは収まり切らぬ、言ってしまえば屋敷に近い家を建ててしまうことが出来たのには、祖父母両実家およびその周辺親族の財力(援助)あっての話と思わざるを得ない。
これも推測に過ぎないのだが、おそらく祖父は祖母と結婚したことで、その虚栄心から三鷹金猊居をあのような若さで建ててしまったのではないか?──それが私が今回の家作りを通して辿り着いた祖父の「不遇」という境遇に対する新たな見方であった。即ち祖父は不遇な境遇から自分の人生を貧しくしたのではなく、自らの虚栄心によって人生のバッドカードを引いてしまったのではないか?ということだ。それは何だかんだ言いつつ30代前半で自分がすぐに住むという訳ではないものの、施主責任者として2年掛かりで家作りに没頭していた私自身にも微妙に重なっている。
少なくとも祖父は自分がアーティストだという自覚で生きていこうとする限り、そんな歳で家を持つ必要などまったくなかったはずだ。大作を描くためのアトリエが欲しかったということもあるのかもしれないが、まともなアトリエを持たずに大成した画家など幾らでもいる。むしろ画家と貧乏はいつの時代も背中合わせのものであり、アトリエ持つのも家を構えるのも、それらは本人の納得行く成果が得られてからでも遅くはなかったのではないだろうか。良くも悪くも家を建てるということはその人間の自由を束縛するものなのだから。
*
以上、これはほんの一握りしかいないアーティストという職種の特殊事例とも言えるが、自分の家を建てる時期というものが人生に及ぼす影響という意味では、どんな職種の人間にとってもそのタイミング(適齢期)の重要性は変わらないだろう。
住宅ローンの金利が変わるとか、住宅減税、消費税といった類の利率が変わるといったことから住宅購入を急かせようとする業者はたくさんおり、漠然と家を建てたいと思っている者にとっては仮に1%でも額が額だけについ心を揺さぶられがちになるのはやむを得ない心情だろう(言うまでもなく営業担当者はそこを突いてくる)。実際、我が家でも税金控除を目当てに最初の建築家に設計期間の短縮を迫ったことはあった(まあ、最初がのろのろしすぎてたとも言えるのだけど)。だが、そうした焦りから来る切迫は失敗に結びつきやすいものであり、事実それによる失敗を経験した現在、まあ、自分自身が今後自分のために家を建てるということは全く考えられないけど、もしそれがあるとするならば、それは自分を含めた家族が家を持つということに当たって完全に機が熟したと感じられるようになってからで充分なような気はしている。タイミングを誤った人生はなかなか取り返しが利かないが、利息分のお金というものは節約しながら働けば何とかなるものである。住環境を半ばゼロから再整備するに等しい家作りは、社会における自身の力量がおおよそ見え始めるだろう(それは自ずと自身の晩年が朧気ながら見渡せるようになるときであろう)人生の折り返し地点あたりがその適齢期ではないか?というのが私の現時点での持論である。
*
最後にもう一度祖父の話に戻るが、私の中では今回こうした結論を出しておきながら、他方で祖父は画業で満足な結果が残せなくても、実は愛する妻との暮らしを心ゆくまで楽しんでおり、まわりが言うほどには不幸な人生でもなかったのではないか?とも考えていることを追記しておきたい。まあ、それを言ってしまうとここまで書いてきた話がすべて身も蓋もなくなってしまうのだが、ある種の諦めの境地の上に成立する(余生?)しかしながら幸せな生活ってどうなんだろう?ってことを34歳の人間が言うべきじゃないんだろうけど、私もまたすでに家を建ててしまってるだけに自らに引き寄せて考えたくなったりもするのだ(汗)
祖父の遺作展で作成したリーフレットには、晩年の祖父が祖母に宛てて書いた手紙が掲載されている。もちろん祖父の許可なんてものはある訳なく、というよりもその過激な内容のため、身内の検閲(顰蹙)を半ば無視する形で私が強引に載せてしまったのだが、その手紙を読んでいると人生の敗北を語りながらもどう見ても不幸というよりは幸福にしか見えない夫婦像が浮かび上がってくるのである。
どこかにテキストデータは残ってるはずなので、見つけたらここでもアップしちゃおっかな〜と(笑)
□◇
※1)「丸井金猊とその周辺の人たち」展 ── ごあいさつ 昭和初期の社会的混乱期に日本画家としてスタートを切った不遇の芸術家、丸井金猊。この展覧会は、没後20年になろうとする金猊のほとんど知られることのなかった作品を、初めて公に公開しようとする金猊の初個展であり、と同時に遺作展です。
活動期から60年以上の年月が経ち、あらゆる情報が風化/混濁化しているため、大作屏風2点を含む軸・額・オブジェ・習作など60点あまりの残された作品(と思われるもの)は、ある程度の時代区分を設けるだけで、こちらの趣意による特別な選定をできる限り避けて展示することにしました。
他方、薄れゆく金猊の情報を現時点で少しでも確保しておくために、金猊とゆかりのある作家、あるいは友人、教え子、親族らに本展に寄せて出品、もしくはメッセージをお願いし、金猊の情報に少しでも多く触れられるよう工夫をしてみました。作品という饒舌/寡黙な物質とはまた別の側面で、作家の肖像に親しんでいただけたらと思っております。
最後になりましたが、この展覧会実現のため貴重な作品の貸出しをご承諾下さいました所蔵家の皆様、ならびに関係各位に深い感謝の念を表します。また本展の軸・屏風のほとんどの表装を手掛けて下さいました牛田商事【飛高堂】様には、搬出入から企画の相談まで格別のご協力を賜り、心から御礼申し上げます。
1997年10月 主催者
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2005年02月20日 (日)
直接家作りとは関係ない話だが、友人のブログ・コメントスペースで友人の誕生日に祝いの言葉を贈っていたとき、その友人が面白いことを書いてコメントレスしてくれた。
ひめごと 「波乱万丈な日々報告 」より 考えてみると、誕生日というのは、お母さんが大変な思いをして生んでくれた日なわけで。今日は休暇をとって一日フラフラ出歩く予定ですが、帰ったらちゃんと長崎の母に電話してご機嫌をうかがいたいなと思います。
正直、この話は目から鱗というか、言い得て妙の話である。うちの母は趣味がプレゼントといっても良いような人なもんで、つい反動的になってしまって、何やかんやと理由をつけて貰うことを拒絶する態度を示して来ていたのだが、こういう逆転の発想があったとは! というか、これだったらば何の抵抗感もなく親に対して素直に感謝の気持ちが現わせられるような気がする(玉川上水で入水心中したなよっちい文豪は違うかも知れないが)。というわけで、母の誕生日はもうすぐだが、それは妻に任せるとして、自分の誕生日には両親に対して何か考えてみたい。というか、まだだいぶ先なんだけど、なんだかそれはちょっと楽しみになってきた。
それからこれはバカバカしいといえばバカバカしい話なんだけど、今、「ズバリ言うわよ!」で何かと茶の間を騒がせてる占星術師(?)の細木数子女史。別に彼女の占いを信じる信じないはどうでもいい話なんだけど、たまたま夕食時にTVのチャンネルをいろいろ回していたら、いつものように何かの相談を受けてる彼女が出て来た。途中からしか聞いてないので、事の子細は掴めないが、相談者は家の新築後に何かと悪いことが起きているらしく、それでどうしたら良いかと細木に相談している。すると彼女はこんなようなことを言った。
あなたたちは自分の家を新しくするにあたって、先祖の墓も新しくしたのか?と。それに対し、質問者が特にそうしたことはしていないと言うと彼女は例のセリフに続けて、3年以内にあなたたち家族のうちの誰かが死ぬわよ!と捲し立てた。
コレ、今回の家作りに当たって私が一番心配してることなのである。よく新築・増築などするとその家の誰かが死ぬという話は耳にすることが多い。実際、私の祖母が脳梗塞で倒れたのも増築直後であったし、またこのブログでも一度書いてる親戚筋のうちの一人も4年ほど前に大きな屋敷を構えた直後に呆気なく亡くなってしまった。
私自身は迷信は何もかも信ずるという質ではないが、しかし、多くの迷信には科学的根拠に照らして説明可能な物も多く存在するという風には思っている。この話も同様で、まず何よりもその大きな理由は環境の変化であり、次いで一仕事(それもとても大きな)終えたという安堵感から来る気の抜けという理由などが挙げられるだろう。それに加えて、うちの場合、父は高齢であり、母はただでさえ心臓が弱い上にわざと自分の身を苛酷な状態に置いて何かを訴えようとする自虐的なところがあり、それによりますます自分の衰弱化を進めている。そんなもんだから、私はこの家を建てるという話が出たときからそのことが一番の心配で、何か起きたときのことは常に頭の片隅というよりは中心部にどーんと座ってる感じだったのだ。そして、そのことは今もまったく変わらない。だから、今回の細木の予言には彼女がどうのという問題以前に過敏に反応してしまうのである。
この件に関して彼女の考え方は至って明快で、即ち先祖から引き継いだ遺産で新しい家を建てた場合、それは先祖の恩恵で建てられているものなのであり、そのことに気を掛けずに地鎮祭なり上棟式なりをやったところでそれは単に自分たちのためだけの儀式であって、先祖に対しての感謝を示したことには全くならない。それを怠ればそれだけの罰が下るというわけである。
まあ、ここで先祖の霊魂を信じるか信じないかの問題は置いておくとして、家作りという重たい事業を成し遂げた後、一応、開眼供養 はやっているが、それはあくまでお坊さんにいらしていただいての、ある種、日常のなかで行われた儀式のようなところがある。正直、細木数子の言葉を受けてってことにはなってしまうが、今にして思うに家作りという先祖の存在があったなればこその事業の後で、そうした受け身の儀式だけでは足りてない気がしてきてしまった。やはり自らの手足、頭を動かして能動的に何かをせねば! その内容は個々人によるのだろうが。。
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2005年02月16日 (水)
東京で震度4の地震があったということでひさびさに実家と電話。
地震の方は新潟中越地震のときと同じくらいの揺れだったが、さほど心配するほどのこともなかったとのこと。ただ、それ以外で家のことについて話を聞いていると、どうも風呂の選択を誤ったかな〜という気がした。
INAX のユニットバス『i-bath2003 』という選択まではまだいいとして、問題なのはその大きさ。1620(1.6×2m)という、それなりにゆとりあるサイズを選択して広々贅沢気分を味わっていたのは最初だけ で、実際生活し始めると一人で風呂に入るのにそんな大きさは必要ないし、冬場はヒーター点けても暖まりにくく(サーモフロアの効果 も風呂場全体が寒すぎて体感どころの話ではないらしい)、掃除も大変。
冬になってからは面倒くさくて、4日に1回くらいしか風呂に入っていないのだそうだ(妹だけは毎日シャワーを浴びてるらしいが)。風呂がくつろぎの場所ではすっかりなくなってしまったと皆口々に漏らしているらしい。
まだ大阪の我ら夫婦のようにお風呂には必ず一緒に入って、そのまま二人で風呂掃除するような家族であれば大きなお風呂でも楽しいだろうが、基本的に一人でしか入浴しない家族に大きな風呂場は必要なかったのだ。それはうちの場合に限らず言えそうなことである。
広さというのは、ときには寂しさを呼び寄せるものである。
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2005年02月11日 (金)
社会学者の宮台真司氏が TEPCOインターカレッジデザイン選手権 という公開審査会の司会をされていたらしく、自身のブログ でも「第二回 TEPCO インターカレッジデザイン選手権を終えて 」というエントリーで手短かにその模様を伝えている。
私自身はその審査会自体、宮台氏のブログで知ったくらいなのでここで何も触れられることはないが、宮台氏がまとめられた記事には短いながら建築関係者のみならず施主にとっても気になるテーマが各所に散りばめられているので、少しここに引用しながらコメントしてみたい。尚、引用してるので余計な解説は省略する。
□◇
■「コミュニケーションを触媒する住宅」というお題を出した。住宅から街づくりまで、「何を設計したのか」の実質は、見栄えになく、不可視のコミュニケーションにある。
■触媒は、無いものを作り出すのでなく、既存の化学反応の生起確率を上げるもの。「住宅に現にどんなコミュニケーションが存在するか」の観察を、僕なりに要求したつもりだ。
「住宅に現にどんなコミュニケーションが存在するか」の観察を施主家族が手っ取り早く行える手段として、それまで住んでいた家の間取りを描いてみるという方法がある。そのことに私は最初の建築家たちとの間で行き詰まってどうにも立ち行かなくなり、自分で図面を書くという禁を犯したときに初めて気づいた。自分の書いた図面には局所局所で構造的に昔の家を模したところが不思議と現れてくるのである。
うちの家族は決して円満な家庭と言えるものではない。というか、これまでも幾度か触れてきたように問題の最も多いのが両親の関係である。その両親は前の三鷹金猊居では父が一人ハナレで暮らすという、ほとんど敷地内別居と言ってよい状況だった。建築家にはそうした状況も踏まえた上で基本設計のプランニングを進めてもらっていたのだが、実際そこで伝達されるのは「両親が仲が悪くて敷地内別居生活」という情報までで、そこでどんな生活動線が描かれていたかというレベルにまでは話は及んでいない。
例えば母は洗濯物をハナレに住む父の部屋の前で干していて、実は視線上無意識裡に互いの存在を確認している時間があったなんて話は、ただ、施主が自分たちの希望案件を言葉で列挙していくだけではそう簡単には出て来ない、しかしながらこの決して円満とは言えない家族にとってはこうした些事でも「コミュニケーションを触媒する」一つの有効な手掛かりとなるはずだ。そして、こうした話は頭でアレコレ言うよりも大概において手を動かして具体的なオブジェクトをなぞってみたりするうちに思い出されるものである。その際に注意すべきは単にこの部屋は広くてこの部屋は狭いということよりも部屋と部屋がどう接続していたか、あるいは何によって切断されていたかということを注意深く見つめ話し合うと良いだろう。長く住んでいた家の間取りには必ずその家の暮らしの文法みたいなものが凝縮されているはずである。
■第一に、透明に見通せることを「コミュニケーションの触媒」だと勘違いする作品が多過ぎた。それではコミュニケーションに必要な最低限の感情的安全が得られないだろう。
こうした提案が多く出てくるというのは、以前に「岡土建と無印良品の家 」のエントリーでも触れた「開放的な一室空間」志向が世間的にブームとして囃され過ぎてることから来ていると思う。おそらく「コミュニケーションの触媒」というテーマ設定がなくともそうしたプランが出て来てしまうのではあるまいか。
ただ、こうした方向性は同エントリーでも記したようになかなか侮れないところもある。あらゆる面での効率化と零度(透明性)への志向というものは案外一致するところが多いからだ。そして、そこに閉じられた領域とはいえ「可変性」というオプションが加わった状態というのは、言ってしまえば Movable Type のテンプレートをちょこっと弄ればサイト全体の雰囲気を一気に変えられるといったようなもので、私自身もその手軽さについ安住してしまっているのだ。とにかく侮れない。
■第二に、家や町が公私と上下の組合せから成り立つことを見抜いてほしい。洞窟の奥の見えにくい所が私。出口近くが公。私的な場に居て良いのは、上(強者)か下(弱者)か。
この問いは如何にも社会学者ならではの視点と言えそうだけど、裏を返せば私たちは家作りにおいて既存の(困った)上下関係を組み替えるチャンスを持っているとも言える。これも以前に住んでいた家の間取りを自分の手で書き出してみることから始めると面白い発見があるかもしれない。
■第三に、時間/空間的に視角が限定され過ぎだ。時間的には「今」を相対化し、住居史に知恵を探りたい。空間的には「ここ」を相対化し、立地場所に想像力を働かせたい。
■建築は、見えるものを通じて見えないもの(コミュニケーション)を制御する。それを徹底して思考することが建築家に要求され、それを批判することが社会学者に要求される。
「今ここ」を相対化する(できる)のが学者の仕事。だが、建築家にそうした学者の視点は必要なのか私にはよくわからない。というより、施主の我が儘な立場からすれば依頼した建築家には確定した土地とその周辺(人まで含めた)、そして計画を進めている現在の取り組みから家の経年変化を見通したところのメンテまでを最大限見つめられる視野を持っていて欲しいと思ってしまう。実際、建築家に「哲学」を感じたのはそうしたものへの視座を見せられたときだった。そういう意味では時間/空間の固有性に囚われず行われるコンテストの類は何の哲学・技能が問われているのか今イチ謎である。
ところで施主に要求されているのは何か?
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2004年12月16日 (木)
家族の肖像を設計カルテ でまとめたついでで、この谷中M類栖のブログに登場する主な登場人物をまとめてみた。
家族構成
父(Y) :住人(画像は私が生まれる前のサラリーマン時代・当時三鷹/現谷中在住)
母(M) :第二施主住人(画像は私が小学生の頃に描いた絵・当時三鷹/現谷中在住)
妹(A) :結婚したら家出るかも?住人(画像は本人幼児期・当時三鷹/現谷中在住)
私(T) :施主筆頭者だが当面は住まう予定なし(画像は本人幼児期・大阪在住)
妻(K) :常に私(夫=T)と同居(画像は2000年に描いた本人自画像・大阪在住)
設計事務所 (初音すまい研究所 )
豊田さん :設計・監理全般の中心的存在(画像は設計者検査の日のご本人・谷中在住)
矢原さん:実施設計中盤からアシスタント的に設計・監理を担当。2005年春退社。
手嶋さん:計画全体のアドバイザー(谷中在住)
西村さん:構造設計者(初音すまい研究所で外注・東京在住)
長田さん:設備設計者(MT&TK氏/初音すまい研究所で外注・東京在住)
工務店 (阿部建築 )
阿部さん:工務店社長(谷中在住)
山本さん :工務店若頭・工事全般を陣頭指揮(谷中在住)
前任建築家
MT氏:最初に依頼した私の友人建築家(2003年1月解約・海外在住)
TK氏:海外在住MT氏と連携・共同設計者(2003年4月解約・東京在住)
TD氏:構造設計者(MT&TK氏による外注・東京在住)
その他
金猊:母方の祖父・三鷹金猊居設計(日本画家・三鷹在住・1979年69歳で没)
さだゑ:母方の祖母(主婦・三鷹在住・1995年87歳で没)
日野婆ちゃん:父方の祖母(主婦・日野市在住・2001年97歳で没)
みよば:伯母・日野婆ちゃん入院時まで同居(映画業界・武蔵野市在住)
義父:妻の父・玄関把手作成(大工・指物師・総領町在住)
義母:妻の母(看護士・総領町在住)
八恵さん:金猊の妹(俳人・主婦・愛知県江南市在住・2003年没)
勝彦さん:従兄妹叔父・八恵さんの息子・建築相談役(美術教師・江南市在住)
泰叔父:祖母の弟(長男)なので本当は大叔父(長野県諏訪市在住・2004年没)
泰nさん:泰叔父の長男。なので本当は私の叔父(長野県諏訪市湯之脇在住)
善nさん:泰叔父の次男。なので本当は私の叔父(長野県諏訪市四賀村在住)
茂叔父:祖母の弟(次男)なので本当は大叔父(元建築事務所経営・福島県福島市在住)
MIZO氏 :母の従姉弟・建築相談役(画家・ギャラリー経営・福島在住)
O崎さん:計画初期の相談役(美術家・東京在住)
N谷さん:計画初期の相談役(建築史家・大阪在住)
O野さん:計画初期の相談役(建築家・東京在住)
岡さん:計画初期の相談役(舞踏家・セルフビルダー・東京在住)
M夫くん:計画後半の相談役(建築科院生・東京在住)
A木さん :ブログで交流始まってからの相談役(建築関連・東京在住)
shinyaさん :ブログきっかけのご近所さん・工事レポーター(建築家・谷中在住)
清真美 :引き渡し直前の建築写真撮影者(フォトグラファー・東京在住)
CT氏:計画全般の野次馬(イラストレーター・東京在住)
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2004年12月15日 (水)
去年の5月、豊田さんとの計画が始まった初期段階で家族全員(父 ・母 ・妹 ・私 ・妻 )への宿題となった設計カルテをまとめてアップしてみた。設計カルテとは豊田さんが私の住む大阪に来阪され、最初に行った打合せのときに持参されたアンケート用紙で、冒頭「このカルテは事業・設計をより細かくスムーズにすすめる際に資料となる簡単なアンケートです」と書かれた通りのものである。
もちろんこれに建築家がまるごと左右されることはないだろうが、やはりこれから設計しようとしているこの家には、他ならぬこの家族が住むのだからその面々の輪郭を朧気ながらでも掴んでおくというのは大切なことに違いない(特に豊田さんとは4月に初めてお会いしたばかりだからして)。
実際、このアンケートをやってみて、意外に家族の知らない面を初めて知ったり(例えば父が子象が好きだったこととか)ということもあったし、また自分自身の志向・嗜好を整理するのにもよい機会であった。ただ、もちろんこうしたアンケートの常で、このアンケートの回答に対して、家族全員必ずしも正直にすべてを書き出しているという保証はない。というか、私の目から見てもう少し本音を書かんかい!と思うところもなかったわけではないが、それでも半ばお見合いして初デート後みたいな豊田さんにとっては手掛かりとなる情報もそれなりに集まっていたと思う。
なお、私が今回ブログ上で再構成したアンケート結果は、ある程度こちらで手を加えて編集したものになっている。と言うのもアンケート用紙上で幾つか好きなモノ嫌いなモノを問う設問があり、嫌いなモノまで問うことを面白く思った私が回答事項を追加して、家族皆にその分も書いてもらうようにしていたのだ。だから今回その分を別途追記スペースでリスト化し書き加えることにした。
また、アンケート用紙に「中にはプライバシーに関わる項目もありますので、ご記入できる範囲でお願いします」とあったのと同様、ブログ掲載にあたってもプライバシーを侵害する可能性のある回答の掲載は控えるようにした。ただ、何となくそれぞれ登場人物たちのキャラクターをアイコン的に掴んでもらいたい狙いもあって、家族全員の肖像となるような画像を愛嬌半分載せてしまった。とりあえず現在のそれぞれの姿がダイレクトには伝わらないようなものを選んだつもりだが、何だかイラスト組の方の画像がかえって現在のそれをダイレクトに伝える結果となってしまってるような気もする。
また、私の方からお願いして豊田さん にも書いてもらっていたので(半ば自己紹介代わりになるということで)それも併せてアップさせてもらった。イメージ画像は下足入れのスリットミラーに朧気に映ってるご本人の画像だが、このくらいであればご愛嬌のうちに入るだろう。一番怒りを買いそうなのはたぶん私の妻である(笑)
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2004年12月10日 (金)
MIZO氏、来訪 のエントリーでも取り上げた私の母の従姉弟にあたる福島在住 MIZO氏が始められたギャラリー「ギャラリー宙(そら) 」のことを再度案内しておきたい。
MIZO氏は私が子供の頃に唯一、同じ視線で遊び相手になってくれる親戚筋の「お兄さん」であった。立場上は私の従姉弟叔父にあたるわけだが、「おじさん」という感覚はまったくなかった。母よりも10歳若いので、当時はまだ学生もしくは卒業したての頃だったはずで、もちろん見た目的にも「おじさん」という年齢ではない。だが、そうした実年齢的な問題以上に、これはちょっと失礼な言い方になるかもしれないが、とにかく子供時分の私にとっては唯一「大人」って感じのしない身内の大人だったってことが重要だったように思う。
彼には「お風呂」という抱っこ技があって、体を窄めて抱きかかえられ「アツーい熱い」といってぎゅーっと締められたかと思えば「ぬるーい温い」と開放される。ちょっと状況説明が難しいが当時の私はそんな動作を繰り返す「お風呂」が大好き(お風呂の中で行われていたわけではない)で、彼が三鷹の家に遊びに来たときにはいつも「お風呂やって! お風呂やって!」とまとわりついていたものだ。
その後、月日は流れ、私も「大人」といえるような年齢に達し、十数年振りくらいに再会したのは、祖母さだゑの葬儀のとき(1995年11月)であった。
MIZO氏は上記ギャラリーサイトのプロフィール ページには全く書かれていないが、私と同じ美術大学の日本画科の卒業生であり、一概に日本画家と括るのは難しいが、画業を志し、また一時期は福島県立美術館 の学芸員も務めてられた人である。だから、おそらくは私の家に寄られる理由は他の親戚のような、所謂親戚付き合いとしてのものとは異なるものだったに違いない。祖父・金猊に真っ向から芸術論を挑んでいたのか、あるいは直接的な技術指導を仰いでいたのか、それとも他愛もない話をするのを楽しんでいたのか、それは私の知るところではないが、いずれにせよ、MIZO氏にとって三鷹金猊居を訪問することにはある特別な意識が働いてただろうことは推察される。まあ、もちろん当時の私はそんなこととはつゆ知らず、遊べる大人が来たと喜んでいたわけだが、彼の存在を改めて意識し始めたのはやはり自分が学生時代の頃だっただろうか。
そして祖母の通夜の晩、親戚一同で食事をしたときには自然と彼と向かい合わせの位置に座っていた。
そのとき、何を話したかというのは覚えていない。だが、一つ言えるのはそのときの十数年ぶりの再会が「再開」となって現在に至るということだ。もちろん福島⇔東京、福島⇔大阪と距離の問題があってそう簡単にはお会いできないが、お互いに「ギャラリー」という場所を持ったこと、またプロフィール によると「目下、サイト管理人道猛特訓中」ということのようでもあるので、今後、コンタクトを取る機会も大いに増えそうである。また、これまでに開催した祖父の作品展のみならず今回の家作りにおいても MIZO氏が貴重なアドバイザーであったことはここに記して謝辞としたい。
以上、ギャラリーの案内というよりは、MIZO氏との思い出話に終始してしまったが、ギャラリーについてはまだ私が訪問していないので、福島まで行ったときに改めてレポートしたい。ちなみに現在、義兄の4人の子供たちに会うと「お風呂やって!やって!」とせがまれる自分がここにいる(長男は卒業したが)。
□◇
ギャラリー宙(そら)
所在地:福島市松木町2-9 松木町ギャラリービル2階
開廊時間:午後〜午後8時
入場無料/企画展開催中は無休
問い合わせ:tel/fax 024-533-4884
Webサイト:http://www.geocities.jp/jwgsq486/
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2004年12月05日 (日)
そういえば今頃だったよな〜と思いながらも正確な期日を忘れていた地鎮祭 の日取りは去年の12/2(火) で、すでに3日ほど過ぎてはしまったが、実家で阿部建築にご苦労様の挨拶に行ったとの報告も受けていたので、私の方でも改めて阿部さんのところに着工して1年ということでお疲れ様のメールを送ることにした。どうもどこが終わりなのか今イチ判然としてなかったので、始まりから1年ってことを挨拶口上の取っ掛かりとしたわけだ。初音すまい研究所の方は庭造りがまだ残っているので、それが終わってからでもいいだろう。というか、改まった挨拶という関係でももうないような気もする。もう少し色々落ち着いたら豊田さんの実家のある別府 に皆で行くのもよかろう。豊田さんたちへの労いの気持ちはもちろん、何だかんだ色々あったが我が家族にも御苦労さん!と温泉にでも入ってのんびりしてもらいたい気分だ。
1年前の地鎮祭の日は見事なまでに青空が広がる快晴だった。だが、我が家の地鎮祭写真 を見るとまるで曇り模様。夏場以外の我が家は日中10時半から14時半くらいまでが向かいのマンションで日を遮られてしまうのだ。実家の家族は完成前の7月末からあの家に住み始めたので、今のところ夏と秋を体験し、これから本格的な冬場に突入する。まずは1年通して住んでもらわないことには新しい家の実感を畏まって聞くのには早急な気がする。一方で私は2004年の記録も儘ならぬまま、地鎮祭 のエントリーでとうとう2003年に踏み込んでしまったが、過去の記憶はどこまで辿れるだろうか?
昨日、フィリピン沖で大きな被害をもたらした台風が、強力低気圧として日本にも上陸。フィリピンほどではないが、国内でも各地で被害を受けたらしい。大阪では深夜、まるでスチームのような霧状の雨が強風で横殴りではなく横吹雪状態になっていた。そして今日は季節はずれの「夏日」となったり今年は本当に異常気象だな〜と思っていたら、パスワード設定した去年の地鎮祭のフォトアルバム コメントにも「前のマンションで日陰になってますが、連夜の雨模様(台風?)からは一転。最高の地鎮祭日和となりました。」と書かれていて、去年も充分異常気象の年だったんだなと思い知らされた。
去年の地鎮祭の日、気持ちよい晴れ空のもと、日暮里駅から初音すまい研究所へと向かう途中の谷中墓地で、途方もなく気持ちよく聳え立つ銀杏の木をデジカメで撮っていたので、かなり大きいけれど、大きなままでアップしておきたい。
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2004年11月21日 (日)
福島から母方祖母の血筋にあたる MIZO氏がご両親と来訪。残念ながら私はお会いできなかったが、後日、MIZO氏から家の感想に写真を添えたメールが届いた。訪問前にメールで薦めておいた屋上にも上られたとのこと。また、MIZO氏は今年5月にオープンされた自身のギャラリー「ギャラリー宙(そら) 」と<通りに面した、ギャラリーのある三階建ての、美術・音楽・建築関係の書籍が沢山あって、ピアノもある建物>として共通性を見られていたようだ。
1F応接室床に養生用に敷いてた段ボールを取っ払ったとは聞いていたけど、屏風、『観音前の婚礼の圖(仮称)』の方を出したんだね。こっち向いて写真撮ってるのはうちの父。
2004年10月27日 (水)
この日は父が夕方から出掛けるということで、夕飯は父がいるとなかなか行けない喫茶 谷中ボッサ でカレー。なぜに父がいると行けないかというと、一に不作法な父がいるとこういう店に入るのはちょっと恥ずかしい。もう一つは父がこういうカフェ飯では腹が満たされないということからです。引越前の撮影時に一度私は行っていてアイスカフェオレもスイーツも非常に美味しかったので(※) 、母に是非行ってみるといいと勧めていたのですが、その後、母と妹は何度か行ってたようで、谷中ボッサはカレーもチーズケーキも美味いということもよく知ってました。
というわけで、この日は野菜カレー にカフェオレ 、チーズケーキ を注文。言われた通り、どれも美味かった。というか、チーズケーキを食べながら、パティシェ イナムラ ショウゾウ よりも谷中ボッサの方が美味いと各々口々に断言していた我ら。ちなみに谷中ボッサのチーズケーキは近所の人ならテイクアウト可能とのことです。冷凍保存剤を用意してないので、遠くの人には無理らしい。ケーキ屋ではないですからね。
家族がこの家に住まい始めて3ヶ月が経とうとしているが、すでにこの家は到底新築とは思えぬ様相を示し始めている。私が時たま訪れる第三者的視点に立つからとも言い得るところもあるのかもしれないが、やはり私の実家家族は掃除が得意な人種とは到底言えそうにない。いや、掃除の得手不得手の問題よりも、おそらく汚れを汚れと気づかない部類の種族の集まりと言えるのかもしれない。
とりあえず今回の上京で最も目に付いたのが、もうキッチンに関してはどうにも手の入れようがないので放っておくが、それ以外の場所として3F脱衣室の洗濯機上のサッシ網戸とトイレの排気口であった。これらの場所は母の部屋:洋室-1(M) が大開口を持ち、風通しが非常に良いのでその風の出口としての役割を一手に握らされてしまっているようだ。2Fはバルコニーなどもあって何かと障害も多いが、3Fは道路からの細かいホコリ等が風に乗ってダイレクトに家の中を抜けて行くようだ。
まあ、この状態 を見てよくも皆放っておいたな〜とも思ったが、このまま放っておけばいずれは汚れが油分と共に網戸にこびり付き、ちょっとやそっと洗ったくらいじゃー落ちなくなっていくので、ドイト にレンガを買いに行ったついでにクルー網戸ワイパー なるものも買ってきたのだ。商品説明の通り、ひとまず現時点においてはサッとひと拭き するだけで割としっかり汚れは落ち、元のピカピカ黒網 に戻ってはくれたが、油断はできない。一応、家族には今後定期的に掃除をするように、またワイパーの使い方も説明はしておいたが、掃除をしてくれるという保証はない。また何ヶ月後かに上京した際には家の汚れ総点検が必要となるのだろう。
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2004年10月09日 (土)
母のメモより
台風22号、都心直撃。四谷崖崩れ、中央線不通。
2004年10月05日 (火)
一ヶ月住んでみて: 電気編(※) で書いていた和室のシーリングライトのスイッチ位置が悪く、リモコン付きにしておけばよかったという話だが、部屋の整理中に溜まったカタログ類を処分しようと松下電工 「LIGHTINGMODE 2003-2004」のカタログを見ていたら、うちで取り付けていた「水月 」が最初からリモコン対応になっていることがわかった。もっともリモコンは別売とのこと。
当初、別売ならばTVやビデオにも対応する「あかリモコン (¥8,715-)」ってのを購入してもいいかと思ったが、リモコンに調光機能まで付くことを考えるとライト専用の「ダイレクト切替・調光用リモコン (¥2,940-)」の方が直感的にわかりやすくていいのかもしれない。値段もだいぶ違うしね。
まあ、この辺は<物>としてのリモコン一杯状態と一つのリモコンに<機能>ありすぎで頭一杯状態とどっちが良いか、住人の判断に任せるのがよかろう。
右の画像は敢えて 2003-2004年度版のカタログをスキャンしたものを載せておく。当時は新商品だったせいか最新版カタログよりも扱いがちゃんとしてるのだ。
それと「水月 松下電工 」で検索掛けたら、激安特価!とか書いてある通販サイトがたくさん出てくるんだよね。ひょっとしてそれで買ってた方がお買い得だったりして??(汗)
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2004年10月04日 (月)
7月末まで引越前後の後始末で谷中に滞在して以降、約2ヶ月ぶりの上京となったが、今回も終わりの見えない後片付けに追われ、暇という暇はほとんど作ることができなかった。建築関係外で人に会ったのも所用あって出向いた三鷹で3組ばかし。art-Link/谷中芸工展(※) も帰阪日夕方にチャリで急いで近場2軒回っただけだったという。。
しかし、予想通り片づけはまだまだというか、7月末ここは自分の荷物だから触らないでくれとまとめておいたものが方々に散らされ、かえって混乱を招くような仕舞われ方をされていたり、明らかに片付けていくべきものの順番が違う。ふだんそこに住まない息子の荷物よりも優先すべきものなどいくらでもあるだろうに(それもそれらが散らかってるならともかく、一箇所にまとめておいたのだ)それが出来ないというところには何かある種の病理が潜んでいるような気がしてならない。
ともあれ、この話題はさておく。それ以上に不安を募らせることがあったからだ。それは母の衰弱ぶりがより一層際立ってきたことだ。今回の上京中もいつもの例に漏れず、侃々諤々幾度かやり合ってしまったのが、そのうちの1回、口論後の何時間かのちに明らかに母はおかしくなっていた。父に聞くとこれまでにも何度かあったそうなのだが、云わば脳梗塞にでも陥ったかのような症状で、目はうつろ、ときどき意味不明の言葉を発し、こちらが話し掛けても気づきもしない。そのときは10分程度でその容態は納まり、蒲団に寝かせしばらく休ませるといつやら復活してたのだが、本人はそのときのことをまったく覚えていないという。元来、心臓は弱い方だが、今回のケースは家族と家での儘ならぬことだらけの状態から来る精神的圧迫=ストレスが最大要因になってることは紛れもない。そして、そのストレスの素が、何かといえば食い違う私と父であることは明白である。
それともう一つ、工事の遅れがストレスの要因になってるらしいことを本人は何度か口にしていた。実は今回こそ私は完成像が拝めると思い、その工事スケジュール(※) に合わせて出向いて来たのだが、結局、台風やら予想外の事件(雨漏り)やらで、またしてもそれを見ず帰阪の途に付かねばならなかった。
家作り最中は工事の様子は毎日でも見たいと言っていた母と私だが、さすがに住み始めた家の中で続く工事には職人さんとの時間調整や戸締まりのことなど気を遣う面も多く、気苦労の方がまさるのだろう。「完成にこだわることに意味はない」とは ETV特集(※) での石山修武の言葉だが、我が家の場合、母の体調を考えると「完成」の二文字は至急である。
10月半ばに把手(※) を作ってくれた義父のいる総領町に帰省予定なので、今度こそはファサード(エントランス)写真が見せられると思っていたが、それもまたお預け。そしてこの日の実家との電話で延期されこの日に予定されていたエントランス部コンクリート+タイル工事がまたしても雨で雨天順延になったことを知らされた。
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2004年10月01日 (金)
家族内での評判が頗るよろしくないのだが、現在のところ1Fの元々は祖父金猊が使っていた大型デスク上には初音すまい研究所から不要だというので貰い受けた21インチモニタが置いてある。まあ、確かにデスク自体極大な上にモニタもどっかり21インチではギャラリー空間が圧迫されていることは否めない。加えて母はそのモニタの如何にもPCって感じ(所謂昔ながらの肌灰色)の佇まいもが何とも気にくわないらしい。よって母はこれを現在2F書斎に置いてある iMac(これは主に母が利用する)とチェンジしたいらしいのだが、私はその交換条件として母に2F和室で寝るのを止め、3Fの自分の部屋でちゃんと寝るようにしてもらいたいということを話した。
母は引っ越して2ヶ月、引越直後に私が母の荷物が多い部屋でも寝るスペースだけは確保しておくようにしておいたにも関わらず、そこにまた別の荷物を持ち込んだり散らしたりと寝るスペースを自らなくして、それを理由に2F和室で眠るようになってしまったのだ。この件に関しては詳細を語るとかなり根深い家族間の問題を引き出さなければならないので、それはまた別の機会に譲りたいと思う。家族問題ではあるが、それは建築計画とも密接に関わる話なのでいずれ必ずエントリーしたい。
というわけで、ここではモニタの問題に引き戻すが、いずれにしても上記の交換条件を私が挙げたのはまず第一に母にちゃんと落ち着いて自分の部屋で寝てもらいたいということがあるのは言うまでもないが、残るところは私の個人的な事由による。
上京中、私は大阪から持参した PowerBook をその21インチモニタと接続して夜間仕事していることもあるのだが、もしそれ2F書斎で繋いだら、間違いなく母から睡眠の邪魔だ言われる以上に何かとちょっかいを出され、仕事どころではなくなってしまう不安があるからである。もともとこの2F書斎は私の仕事場兼母のたまのネット閲覧スペースとして考案されていた場所ではあった。だが、母が仕切のない隣の和室で寝、新たにもう一つモニタが加わったとなれば話はだいぶ変わってくるのだ。当面、1F応接室をギャラリーとして利用しない限りは現状のままでも構わないと思っているのだが、21インチモニタと iMac の設置場所移動を行うのは上記交換条件を母が満たしたときである。幸運にも母には21インチモニタを2Fに持ち運ぶだけの体力はない。モニタが立派な人質になってしまったというわけだ。
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2004年09月24日 (金)
当初、9/23(木) に予定されていた説惇さんの開眼式(※) だったが、私の上京スケジュールに合わせて翌9/24(土) 午後に日程を工面してくださった。おかげで5年ぶりくらいの再会を果たせた訳だが、80歳を越えてるとは到底思えない元気な様子で、谷中の家までも根津駅から坂道を一人歩いて来られている。通りがうるさいでしょうと言ったら、家は街から近いところにあった方がいい。このくらいのうるささぐらいがちょうどいいんですよと言われていた(笑)
祖父か祖母の命日前後にいつもはいらしていただき、お経をあげてくださるのだが、今回は新しい仏壇の開眼式ということもあって、さすがにいつものお経のあげ方とはちょっと違う。最初に両手を開いて手の平をお仏壇の方に向け、はぁぁぁーっと深い息のようなものを仏壇に向かって送り込む。式後、説惇さんにそれは気のようなものを送っているのですか?と聞いたら、そうすることでその仏壇に魂を導き入れていたのだという。
なるほど開眼式のことは別名「入魂式」とも呼ぶわけだ。詳しくは伊勢丹の儀式110番 なるサイトの第6章 季節の主なご挨拶 を参照するとよいだろう。
式後、いつものように「では帰ります」という説惇さんをどうにか説き伏せケーキで一服。といってもほんのわずかな時間で、帰りは母が言問通りではなく裏道を案内しながら駅まで見送った。まあ、見送られること自体も何度も断られるような方なのだが。。
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2004年09月12日 (日)
赤瀬川原平著『我輩は施主である』 文庫版46ページあたりにA瀬川氏が子供時分、門司に住んでいたときの話が出てくる。門司は「港からぐんと切り立っている地形で、家の回りは上も坂道、下も坂道で、世の中はそういうものだというのが僕の基本に焼きついているのだろうか」と氏は言うのだが、そういう意味では私含め、長らく三鷹に住みついてきた我が家族は家の回りが平地であることが焼きついていることになるのだろうか。
A瀬川氏はその後、東京での活動期(氏はその時期を賃貸呼吸の頃と表現する)を中央線沿線の平地がちなところで過ごしたそうだが、その頃は忙し過ぎて子供の頃に焼きついた基本(デコボコ感覚)は忘れていたそうである。それが賃貸呼吸からローン呼吸へ変わる年頃になって再び子供の頃の感覚が蘇り始めたらしい。というか、実際のところデコボコ感覚が土地決定の決め手になったというくらいなのだ。
それを読むと、私たちの土地選択は果たして正しかっただろうか?という不安に駆られぬでもない。何しろ今度の谷中の家は千代田線・根津の駅から歩いて7分は続く坂道の頂上にあり、そこからまた坂道を下っていくような、いわゆる坂の天辺にあるのだ。地名は谷中だけど、どっちかというと谷上と呼びたくなるようなところなのだ。
ここで土地選択の理由を書き出すと長くなるので、それはいずれ書くであろう計画初期時のエントリーに譲るが、いずれにせよ、谷中という場所を一つのターゲットに決めて土地探しを始めたとき、この坂の天辺の谷上をここならいいんじゃないか!と最初に言った張本人はこの私なのだ。いや、別に責任逃れをしようというワケじゃーないのだが、こうした土地決定においてまだまだ賃貸呼吸真っ只中の若造の直感を信じてしまって良かったのか?という話である。
ちなみに私個人は三鷹を離れてから京都千本今出川・大阪天満と住んでいるが、いずれも大した坂のない平地に住んでいる。それは偶然、最初から坂のない町で不動産屋を回っていたから考えもしなかったことだが、もし坂の多い町を候補地としていたなら、そこでそのことに考え(躊躇)は及んでいたであろうか?──こればかりは結果論でしかないが、谷中の土地選択にあたっては先の賃貸呼吸に加え、私自身が当面はそこに住むことがないという「住む」ことに対するリアリティの薄さも、そうした問題を気に留めなかった要因となっていたことだろう。
ところで現住人からは今のところは坂に対する苦情は聞かれない。実は引越直後に何日か私が先にあの家に寝泊まりしていたとき、まず、いの一番の必需品として電動アシスト自転車(※) を思い、母に急ぎ購入させたのだが、それは思い切り余計なお節介の買い物となってしまった。欲しくもないのに買わされたと後になって言われ、諸経費はすべて私持ちとすることとし、今や1F前室を窮屈にするだけの無用の長物となってしまっている。ホントに誰か買ってくれないだろうか?
とそれはともかくとして、今後、子供の頃からのベースとしてきた平地感覚とは違うところで住み続ける住人のことが心配なことは心配である。特に高齢の二人には単純に感覚の問題だけでなく、身体的にきついということもあろう。ただ、A瀬川氏の家を設計したF森教授に言わせれば「やっぱりね、お城のてっぺんがいちばん気持ちいいんだよ、人間は」と天守閣こそ一級物件とのことなので、まあ、そちらの気持ちよさに馴染んでもらうしかない。確かに屋上なんか上がるとつい口を突いて出そうにはなるんだよね。北島康介の例のセリフが(汗)
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2004年09月11日 (土)
まず何よりもショックが大きかったのがキッチンのシンクである。引越直後にシンクに小さなサビ がたくさんあることに気づき、山本さん&豊田さんにも見てもらい、業者のクリナップ に伝えておいてもらっていたのだが、クリナップからはそのようなサビが納品直後から付いているということは考えられず交換には応じられないという返事が返ってきたらしい。
まあ、確かに新品でサビ付きの製品を売りつける業者がいたらもうとっくに倒産しているだろうが、おそらく原因は工事直後の掃除のときに他のところを拭いてる間に雑巾に金属片か何かが混じり、それがサビを引き起こしてしまったのではないか?とのこと。シンクだけ返品という訳にもいかず、一応、山本さんの方で一時的なサビ止め対策は練ってくださるそうだが、使い始めからサビ付きのキッチンと付き合っていかなければならないというのは何とも淋しい話だ。
他、バス、トイレの入り心地については何も言っていなかった。私も含め、基本的にモノを誉めることの少ない家族なのである。
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まずこれは「一週間住んでみて」(※) のエントリー時には書かなかったことを繰り返し聞くことになったのだが、全体的にライトの数が多すぎるそうである。とりあえず8月の電気代が1万円を越えてしまったらしい。んなバカな?って感じだが(大阪の我が家は2人住まいで3〜4千円)、基礎アンペア数をもともと多く取っている(40A×2)ことが原因してるのかもしれない。今度、上京したときに明細を見てみたい。
それから、これは私も引越直後に何日か暮らして感じたことだが、確かにキッチン〜ダイニングのダウンライトの数は多すぎたかな?と思った。私の滞在中はダイニングでは壁付きのプラケットだけ点けるようにしてたのだが(3Fにあがる階段のところにもスイッチがあって便利なので)、実家ではそちらの方がなくてもよかったと言っている。どうも壁付きプラケットよりは壁に絵を飾るためのピクチャーレールの方が欲しかったようだ。さらにはプラケットがあると絵を飾るにも邪魔になってしまうのだ。実はこの点に関しては母は計画中もそんなことを仄めかせてはいたのだが、ハッキリ言わなかったのでプラケットで押してしまったのだ。
あと、2Fトイレ+洗面室のダウンライトも2つもいらなかったという。これは確かに我が家族は以前から洗面台本体に付いてる蛍光灯をダイレクトに点ける傾向が強かった訳で(ただし、私の妻は室内照明を点けることの方が多いようだ)、そうした生活習慣をもう一歩深く洗い出していれば1個分のダウンライトは浮かすことができたであろう。その辺は完全に施主側の見落としである。
スイッチやインターフォンに関しても、その設置位置に対して幾つか不満が出ていた。
ただ、インターフォンに関しては打合せ時は私のみが2Fの部屋の中心部(カウンタ上の壁)にあるのが一番使いやすいはずだと主張していて、初音の方としては意匠的問題、また母もカウンターにはトースターや電気ポットなど置きたいものが山ほどあるということからキッチンと洗面室の間の突き当たりの位置にと確定したのだが、母はそんな経緯はすっかり忘れているようで、何でインターフォンをカウンターの上にしなかったんだ!と相当に後悔しているようだった。塗装も中霧島だから交換するにも厄介だしね。他、電話の位置も気に入らず、さらには電話自体も使いにくいとか言って新しいものを買いたいようなのだが、さすがにそこまで無駄遣いしてたら罰が当たりますよ。それに関してはこちらで考えがあるからと一応宥めてはおいたが、今度行ったら新しい電話に変わってたりしてね(^^;)
スイッチに関しては、さきほどのライトの数の問題と同じで、要は少し多すぎだったためにそれだけ混乱も多いという状態のようだ。それともう一つ、これは設計段階でもっと検討の余地があったのだろうが、和室のシーリングライトのスイッチをダイニング側に付けてしまったのは結構大きな失敗だったようだ。やはりその部屋の電気はその部屋の中で点けたいと思うのが、我が家族の共通の心情のようで、そういえば私も谷中にいたときにはちょっと不便だなと思っていた。シーリングライトだけは少し奢ってリモコン付きのものでもいいのでは?と松下電工のショールームに行ったときに思ったものだが、言わず終いにしてしまった。まあ、コスト削減の方向にあったからね。
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東京も7月前半から40日間連続真夏日が続いたというだけに、引っ越して直後の住人たちの家のイメージは暑さに彩られているのかもしれない。2Fバルコニーでは植木がコンクリートの熱で焼けないように!とウッドデッキパネルを11枚ほど用意したが、それでも南天の実のなる方の植木鉢が一つ死んでしまったそうだ。
そしてバルコニーと言わず、2Fダイニング〜和室と一乗寺側開口部からの朝日はかなり強烈らしく、和室でゆっくり寝ること考えたらカーテンでも付けたいくらいだという話だった。
心配していたトップライトについては何も文句言ってなかったなぁ(こっちから聞けばよかったのだが、遠慮してたのだろうか?)
それから3Fタラップの床面はパンチングメタルになっていてその下にパーゴラはあるものの、光や水は筒抜け。よって雨の日などにバルコニーにちょこっと出る必要があるとき、そこに庇的機能を持つものがないのが結構不便なんだとか。。
母によれば3Fタラップ床面は穴の空いてない床の方がよかったという話だ。
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毎年祖父の命日前後でお経を上げに来てくださる説惇さん。今年はさすがに引越の前後する7月にお願いするのは無理だろうと話が先送りとなっていたのだが、その日程が 9/23(木) に決まったと実家から連絡が入った。仏壇も新しいのに変わったので、今年は開眼供養もしてもらわなければならない。
しかし、生憎にもその日は私が上京を考えていた前日。説惇さんは高齢ながら話のたいへん面白い方なので、たった一日遅れとはツイてなかった。
ところで実家からの電話で多少その後の谷中での住み心地についてなど聞けたので、前「一週間住んでみて」(※) エントリーの続編「一ヶ月住んでみて」ってことで、今回は少しエントリーを分散させて書いてみたい。
しかし、住み心地に対する住み手の声というのは前回もそうだったけど、厳しいもんですな。おそらくこれまでの生活習慣から外れるものはすべて不便と感じ、それに対し批判の声を上げてしまうのでしょう。設計・施工業者をフォローする訳ではありませんが、こうした前提条件が住み手の内部の声ではどうしても起こりがちであることを最初に宣しておきたいと思います。
何しろ引っ越してよかったこととして言っていたのが、芸大 音楽部の学生コンサートが無料で観られる(母)、台東区立図書館 の蔵書が案外良い(父)ってことくらいだと言ってた訳でして。。
ちなみに図書館まではチャリで20分くらい。父が三鷹の家から武蔵野市立図書館 まで通ってたのと大体同じくらいの距離だそうです。
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2004年09月04日 (土)
たまたまお昼にボケーッと「プライスバラエティ ナンボDEなんぼ 」という関西ローカルの番組を見ていたら、その中で紹介された豪快大金持ち=関口房朗 さんの豪邸が、家の平面図をメディア上で公開されて以降、やたらと泥棒が入るようになったらしい。
まあ、クイズの解答でそういう話が出て来ただけなので、詳しい話までは聞けなかったのだが、やはり Web 上で家の平面図をアップしてしまうってのは危険なものなんだろうか?
思えば家作り系サイトで平面図を載せてるのってあんまり見た覚えがないんだよね。ただ、その代わりと言っちゃー何だけど、不動産絡みの建築系サイトでは売る目的があるために大抵載っている。そう考えるとその物件は売れる前の図面が出ている訳だから、売れる前に泥棒がプリントアウトしておいて、いざ人が住み始めたらそれを片手に侵入するってこともあってもおかしくないと思うのだが、どうなんだろか?
とこうしたことを書いたのは、実は「建築写真撮影」(※) で書いていた清さんの撮影による写真をアップするにあたり、平面図上に矢印入れてそれをボタン代わりに写真が切り替わるという見せ方をしようと考えていたのだが、やはり何かあったときにはいのいちばんに責任問われそうだよな〜と思い、留まっている次第。
しかし、思えば建築雑誌なんかだと平面図ばかりか断面図まで住宅でも出てることあるけど、それって当然施主の許可も取ってあるわけだよね? 泥棒については大丈夫と高を括っているのだろうか?
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2004年08月13日 (金)
引越前の慌ただしいときにも母は一刻も早くダイニングテーブル として想定されているEL(エル) が欲しいとヒステリックなまでに言い立てていた。だが、もし母の希望を叶えてその時期に注文し、引越前後で搬入されていたらば本当に大変なことになっていただろう。ダイニングは1〜2F、2〜3Fへと上がる階段の中途に位置し、乱暴な見方をすれば階段の踊場であると言ってもいい、そんな機能を与えられた場所なのである。
当然そこは引越時には荷物を上下に振り分ける場所となり、また床がフローリングでがっしりしてることもあって、荷物を高く積み上げておいても差し支えのない場所であった。そうした一時的溜め置きスポットにダイニングテーブルがあったら邪魔以外の何物でもないことくらい容易に想像が付くであろうが、母にはそれよりも物欲の方が先立つのである。と、その切り捨て方ではさすがに冷たすぎるので多少フォローするなら、父や私が多少購入に反対の素振りを見せていることから、早めに既成事実を作ってしまいたいという気持ちがあったのだろう。物と人の関係というのは本当に難しい。
父や私の反対理由は以前にも書いた通り(※) 、約26万という価格が第一にある。やはりそれだけの大金を払ってあまり良くなかったとなったときの打撃は大きい。それ以外で私が気になっていた点は、確かに eye レベルが低いことで空間的な広がりは感じられるのだろうが、事実上の専有面積は標準的なダイニングセットよりもかなり大きく取ってしまうので、実際置くものの多い我が家にとっては少しでも有効スペースを残しておいた方がいいのでは?と思われること。それからもう一つは非常に単純な表現にはなるがまさにソファの硬さにおいてファミレスと言っていたように、本当にファミレスのようでちょっとダサい。まあ、ダイニングのサッシを通してデニーズの看板も見えたりするので、ちょうど対になっていっか!と冗談でムリヤリ自分を納得させるという手もあるが。。
ただ、そうした言い争いが引越最中に起きていたものだから、その後、ダイニングテーブルについて話し合う機会は失われてしまっていた。そうしてしばらくの後、私の上京予定を数週間前に控えた頃だろうか、、母から買ったからという報告を別の話の次いでとして聞かされる。確かその言い訳として、自分だけ専用のデスクがないということを挙げていただろうか? ただ、それによってあれだけ畳を傷めることを注意されていた和室が段ボール山積み置き場となっていくのである。
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2004年08月11日 (水)
そういえば谷中滞在中、1回目の引越が終わってまだ和室に段ボールがほとんど置かれてなかった時分、思わず疲労から新調畳(※) にゴロンと寝ころんで背中の汗で汗染みを作ってしまったのだが、妻がそれに対する対処法を教えてくれたので、ここに。
1リットルのぬるま湯に大さじ2杯の抹茶 を溶かし、雑巾を浸して固く絞り、畳の目に沿って拭くと、数日で新品同様の青い畳に戻ります。また、レモン汁を数滴 雑巾につけて拭くと、畳の黄ばみを防ぎ、長持ちさせてくれます。バケツ7分目くらいの水にさかずき1杯ほどの酢 を入れて、雑巾を浸して固く絞ったもので、畳を拭いても黄ばみが落ちます。
明日からしばし妻の実家に帰省です。総領は涼しいので嬉しい。
2004年08月05日 (木)
建築登記のために必要な書類等の在処を聞く必要があって母から電話。
先日の電話ではまだ不在のために両隣2軒しか済んでなかったご近所挨拶も道路挟んで向かい側4軒は全て終え、あとは裏の永松さんだけとのこと。ここは夫婦共に働いておられるので、週末を待つしかないだろう。
ところで実家の面々が谷中に寝泊まりするようになって1週間。そろそろ馴れてきた頃かと思いきや、どうも全員、車の騒音に苦しんでいるらしい。仮住居時には100mも程ない近くを走る電車の騒音に驚くほど動じなくなっていた彼らだというのに。。
電車は夜間通らなかったからな〜。
中でもとりわけ深刻なのが妹のようで、夜は寝付けず朝は5時前には目が覚めるで睡眠不足に悩まされているらしい。滞在中、妹のA部屋だけは本人に嫌がられるので部屋の寝心地を確認しなかったのだが、父のY部屋以上に風通しが悪く寝苦しいらしい。ベッドの手前の方は24時間空調の通路となってエアコンなしでもそれなりに涼しく感じていたのだが、母曰く、父のY部屋の方がまだM部屋と開け放しに使ってればマシということで、しかし、ってことはつまりYM夫婦は仕切戸を開け放してベッドと布団を隣り合わせて寝ているということか?(笑)
それとこの件に関するツッコミは聞かれなかったが、私が滞在中に気になっていたのがトップライトだ。3Fにあがったときにムワッと熱い空気が澱んでる感じになっていて、それは間違いなくトップライトを通した熱気のせいだと思う。早いうちに簾など何某か日差しを遮るものでトップライトを覆うか日が入らぬよう工夫した方がいい。内側でやるのと屋上で一工夫するのとどちらがよいのだろうか? そこに私が居ればいろいろ試せるのだが。。
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2004年08月01日 (日)
ところでご近所挨拶のために西川リビング でタオルセットを買ったのはいいとして、そのとき「セール中だったので無圧敷布団も一緒に買ったから」と電話で母が付け加えたのにはさすがに驚きを隠せなかった。
確かに母が自分用に購入した無圧敷布団 のことを私はベッドマットよりも数段良いと言いはした。そしてセール中で単価が単価(母のは5万以上したらしい)なだけにかなりの割引額が母の目に飛び込んで来たのかもしれない。
だが、この荷物の全く片付いていない、ばかりか布団だけでも相当数持ち込んで(布団袋たっぷり2袋←それも圧縮済)、これらを一つしかない押入にどう格納するのか大問題の状況下で、さらに新しく布団を買うなど言語道断というほかない。母の弁としては我々夫婦が泊まったときに布団が2組ないけどどうするんだ?ということなのだが、あれだけ大量に布団やマットレスを持ち込んで、その中に敷布団は含まれてなかったというのであろうか? それに事実上、私の妻は今後よほどの用でもない限り、谷中に出向くことはないだろうし、私にしたところで次回の屏風搬入のための上京が終わればもう建築費から交通費を出す訳にも行かなくなるだろうから、ほとんど東京に行く機会もなくなってしまうことだろう。
まあ、母に言わせれば母の大事な友人が泊まるときのためという言い訳でも成立するのだろうが、実際のところ何割引になったかは知らないが5万近くする無圧敷布団に人が寝る回数など年にたかだか10日程度しかないだろう。あるいは母自身が和室で寝たいという願望から買ったものなのか?(それならまだ話はマシだが、しかし、そうなると私が谷中の家を訪れる気はますます失せていくだろう) せめて買うにしても、現在の布団類が押入からどれくらいあぶれるのか、またそのあぶれたものを他の収納にどれくらい回すことができるか見当付いてからにしてほしかった。
しかし時期早計の弁を電話で切り出すと、母は「一言感謝の言葉を言えば済むのに、気分悪い」と逆ギレしてしまい、もう本当にどうしたらいいんだろうね〜の状況である。ところでこのうちでは何かと「ムアツシキフトン」と呼ばれてきた敷布団ですが、西川 のは「ムアツふとん 」って言うんですな。それと私自身はココで漢字で「無圧敷布団」と書くまでは漠然と「無圧式布団」かと考えちゃっておりやした(^^;)
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母からの電話で気掛かりだったご近所まわりを始めた由、聞く。
何しろ引越すること計3回。で、その1回目の引越が終わった時点から私一人、谷中の方に滞在し始めたため、約3週間近く人の気配がありながら、引っ越しましたのご挨拶がなかったことになる。
こういうことって待たせてる側にとってはあっと言う間でも、待ってる側からすれば何で来ないんだ?の長〜い3週間である。もちろん私が一人で挨拶に行くことも考えはしたが、住宅づくりのマニュアル本「How to make your own Home−ここち良い住まいをつくる」 に最初のご挨拶はなるべく家族全員でとあったので、そこに住まない私が行くよりはやはり家族が揃ってからの方がよいだろうと考えたのだが、しかしやはり今思えば、ちょい顔出し挨拶ってのでいいんで行っとくべきだった。
なお、ご近所まわりの際には西川リビング のタオルセットを手土産にしたらしい。
2004年07月30日 (金)
別に家族内で取り決められていた訳でもないが、家族全員分(父・妹のはごく一部)の書籍関係整理を請け負ってきた私はどうにか段ボール箱8個を残すところまで本棚に格納して帰阪の途についた。引越直後の写真を撮っておかなかったのが悔やまれるが、ダイニングのスペースは2度にわたって本の入った重たい段ボール箱の山が出来ていたのだ。
階段脇本棚に収まり切らなかった残り8箱はすべて書斎に移したので、私が去ったあと、そこを生活空間として活用することは可能だし、母お望みのダイニングテーブル を入れることもできるはずだ。
ちなみに本棚に収まり切らなかった残り8箱分は、棚板待ちになってる書斎本棚や2Fトイレに設置した金猊作書棚に詰められるだけ詰めて、それでも漏れるなら余った棚板を組み合わせて3F本棚上スペースに新たに本棚を積み上げるしかない。やっぱり最初から手の届かないところまでも本棚にしておいてもらうべきだった。
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谷中に暮らして数日。その数日生活体験で最も必要と感じたアイテムが電動自転車。
何しろ、うちの敷地は言問通りでも一番高いところに位置し、何かと買い物に出掛けるスーパー赤札堂 が一番低いところにあるのだ。「行きはヨイヨイ帰りはツライ」をこれほど地でいくところもないだろうというくらいにその坂道は辛い。
実際、何度行き掛けて躊躇したことだろう。
と思ってた矢先、足りない本棚補うためにカラーボックスでも!と近くに無印良品 がないかとサイトで場所確認しようとしたら、無印のトップページに電動アシスト自転車 7/29(木) 新発売って出てるじゃないですか!
ましてやまだまだスポーツタイプは10万前後はしてしまうご時世下で¥52,290-。さっそく母に相談して試乗して大丈夫そうだったら買おうという話になりました。写真は上野の無印良品で試乗中の母。スポーツタイプに不馴れなため、ちょっとふらついてますが、サドルが低いので大丈夫だろうと、、ただ、カゴやらカギやらライトやらオプション付けて行ったら、あと5千円近く掛かってしまった(^^;)
店員からは受け取りにあたって18時前に電話するという話だったが、18時半過ぎまで電話がなく、こちらから掛けるとちょうど今装備取り付けられたって話(本当か?)。この日、帰阪予定の私は慌てて上野まで歩いて受け取りに出向いた。
で、私は帰り道に三段坂の方を通って早速昇ってみたのですが、確かにアシスト、しっかり効いてくれました。
っていうか、恥ずかしながら私は電動アシスト自転車のアシストの意味を当初理解してなくて、ペダル踏まなくても電動にすれば勝手に走ってくれるもんだと思ってたんですが、「それじゃバイクと変わらないですよ!」と矢原さんにもツッコまれた通り、まあ、要は
http://www.muji.net/new/electric_bicycle/
ペダルをこぐ力をセンサーが感知し、必要に応じた動力をモーターから補助する、電動アシスト自転車。
走り出しや上り坂など大きな力が必要な時に威力を発揮します。
ってことですね。平坦な道を走ってるときにはあんまりアシストしてくれなさそうではあります。でも、これなら赤札堂に行くのが厭にならなくて済みそう♪
【追記】
結局自転車は私が大阪に持ち帰り、自分で乗ることにしました。
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2004年07月21日 (水)
我が家のトイレは2F以外はコスト削減のためにウォシュレットだけ別メーカー(松下製)の割安商品を施主購入&取付するということにしていたのだが、母が不器用な父の取付作業に対して心配を口にし始めて、結局施主取付は主に父が使うということになってる3Fのみ。1Fは商品自体は施主支給ではあるが、取付工事は本工事期間中に別途費用を払って業者にやってもらっていた。
というわけで、3Fのみは父が自分でということでこの日の11時頃にそれを取り付けるためにやってきたのだが、まあ、何となく予想はできたんだけど、母の不安は見事的中。トイレ水浸し事件が勃発したのである。
その辺、私も父に似てるところがないわけでもないのだが、父はあまり取扱説明書を精読するタイプではない。だから、それによる失敗も多く、その度に母や妹からお小言言われるのだが、どうもまるで懲りてないようで、今回もときどき作業の様子を覗くと箱の中の細かい部品をあたりに散らかしてゴチョゴチョやっている。で、一度、覗きに行った折に呼び止められて、ここのパイプがうまく嵌らないからちょっと試してみてもらえないか?と言われ、言われるままに嵌めるべきところを嵌めてみると、そう造作なく嵌めることはできた。ただ、そのとき気になったのがそのパイプの下に何らかの部品と思われるものが落ちていたこと。が、父はそれには気を掛けず、とりあえずパイプが嵌ったので安心したのか、一旦作業のために大元の栓を閉めていた水道を開栓してデニーズに昼食に行ってしまったのだ。
で、その間、私は2Fでお湯を沸かしてカップラーメンを食べていたのだが、どうも上の階からずーっとトイレの水が流れっぱなしのような音が聞こえてくるので、不審に思って階段を上がると、すでにトイレ床面は完全に水浸しとなり、脱衣室の方にまで水は流れ出ようとしていた。やはり私が気にしていた部品がないことによってか、とにかく水の堰き止め機能が失われてしまっているようであった。何にしても私は慌てて脱衣室にあったタオルを手に取り、まずは水浸しとなったトイレの床を拭く。しかし、便器後ろの配管部分からは続々と水が流れ出し、拭いても拭いてもまたすぐに水は溜まってくる状態。ひとまず私は水の滴り落ちる部分にタオルを敷き、トイレ手前の脱衣室に水を溜められるものがないか探す。本来であれば風呂場には手桶の類が幾つかあってそれが役立ったはずだったのだが、まだ家族は皆、仮住居で寝泊まりしており、生憎そうした道具はこちらには持ち運ばれていないのだ。そんなわけで私はトイレの水漏れ具合に気を取られつつも手当たり次第脱衣室にある箱などを開けて、何とか水受けに出来るものがないか探し、ようやく一つクリスタルグラスなる未開封のちょっと高価そうなコップを見つけ、一瞬躊躇はしたものの、そんなこと言ってる場合ではなく、それで急場を凌いだのである。とはいえ、グラスに水はほんの十数秒もしないうちに溜まってしまうので、まだまだ悠長なことはしていられない。元栓を止めない限り、この状態は収まらないわけであり、しかし、元栓を閉めるためには3Fから1Fまで降りねばならず、ましてや私自身は水道栓の場所をちゃんと確認していたわけではなかったので、どこにあるのか探すところから始めなければならない。その間に水がトイレ室内から溢れて脱衣室、さらには廊下や階段にまでこぼれ出す可能性がないとは言い切れなかった。
そこで、ひとまず思い付いたのが3Fの父の部屋に行ってコードレス電話を取ってきて、父の携帯に電話するということであった。何しろ父は歩いて3分もないデニーズで昼食を食べているのだ。で、片手で水の処理をしながら電話するとまずは出てくれたのでホッとした(父は携帯の電源を切ってることが多いので)が、事情を話すと「だったら下に降りて元栓閉めればいいじゃないか」と父。それができる水量ならとっくにしてるのだが、どうやら父はまだ食べている途中であるらしい。食いしん坊の父には途中で食べるのをやめて戻ってくるなどということは考えられないことであった。というわけで、とりあえず食べ終わるまで水受け作業を続けていてくれということで、十分ほどのちに帰ってきた父が元栓を閉めたことによってどうにかこのトラブルは収まった。
しかし、こんな状態になってしまって、ウォシュレットの取付作業をしたところで、水道本体の接続を誤ってしまっている可能性もあるので、水道屋を呼んで見てもらうことにしたところ、夕方やってきた水道屋さんは親切にパイプの修復をしたあとに無料でウォシュレットまで取り付けて行ってくれたのである。結果的にはコストの面では一番お得な方法が選べたことにはなったが、しかし、これだけ水浸しにしたとなるとフローリングのことが心配である。特にうちの場合、フローリングにはよくある業者の専用コーティングをせず、オスモ のクリアを薄塗りしただけなのだ。だが、矢原さんに早速電話で尋ねてみたところ、塗って間もない時期なので、材が変色・腐敗するような心配はないだろうとのこと。だが、とはいうものの、こうした天然木は将来どういう変化が起こるかわからない。そうした変化が起きたときに母がまた心配の声を撒き散らすとそれが一番疲れるので、父には今日あったことは母にちゃんと話すように!ときつく言っておいた。きっと家に帰ったら「やっぱり」と言われているはずだ。
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2004年07月19日 (月)
今回、主に父主導の判断で、我が家が2回(結果的には3回)に分けて引越をすることになったのには大きく3つの理由が挙げられる。
1)三鷹金猊居→仮住居への引越時も2度業者に頼むことになった。
2)仮住居から大きな家具類を出さないことには荷詰めするスペースが作れない。
3)市の規定で粗大ゴミや不燃物をいっぺんに一定量以上出すことが出来ない。
以上のことから引越業者2社と6月中旬に見積もり交渉。最終的には2社のうちで安い見積もりを出してきた方(父の弁では前回の引越時に母が推していた方)を選んだらしいのだが、竣工予定日から約2週間後の本日を1回目、そしてその1週間後にもう一回という形で2回分まとめて予約を入れたことが、結果的には二つの面で良くも悪くも働いてしまった。
一つは工事日程の問題。
引越予約後に外構吹付材のやり直しなどがあって大幅に竣工までの工事が遅れ、最終的には工事未済であるにもかかわらず引越予定日の2日前に無理矢理引き渡しをしてしまうという無茶なスケジュールになってしまった。こうした引き渡しのタイミングについては「第29回打合せ: スケジュール」(※) でも触れているように基本は駄目工事終了後が一般的である。当エントリーでは駄目工事どころか本工事完了前の引き渡しであったことをある種肯定的に書いてはいるが、本来ならばそうしたタイミングにしてしまったことは大変にまずい選択だったと言っていい。
ただ、それとは逆にこれは父がよく言うセリフだが、こうして〆切日をはっきりさせておかないとますます工事が延びていくんじゃないか?という不安があったというのもまた事実だろう。母はそれよりもあり得べき引き渡しのタイミングを望んでいたようだが、その辺の考え方の相違はそれぞれの金銭感覚に拠るところが大きい。一月遅れれば、当然仮住居+トランクルーム+美術倉庫+ピアノ倉庫+車庫分の家賃は一月分増していくのだ。
さてもう一つの良くも悪くもは同じ引越業者で2回分の引越を予約してしまったことである。
これまで計6回引越の現場を見ている私個人としては今回が初めての引越屋ハズレ体験だったのだが、とにかく遅刻してきたことから始まって何かとケチをつけたくなることの多い引越屋に当たってしまったのだ。業者名は「20X0マXー」とでもして半分伏せておくが、言ってしまえばその業者がまずいというよりはうちを担当した運び手のリーダー格の人物がちょっと厭なヤツだったということだ。何しろこちらとしては最初から2回に分けて考えているだけに運んでもらう順番が大事なのに、そうした説明も半ば無視された感じで彼なりの論理で勝手に積まれてしまった。初めから全員に説明できる状態をセッティングしてくれていれば、まだこうした事態にもならなかったろうが、説明を聞くのはリーダーだけ。そのあと、ミーティングと称してトラック内で15分ほど話していたが、本当に彼はその説明を他3人のメンバーたちに話していたのか甚だ疑問である。
しかし、いずれにしてもこちらの希望するものとは違うものをどんどん詰め込み、もう入りませんという態度。そして私が他のメンバーにこれをお願いしたいと言うと、そのリーダー格は「こちらは最善の方法でやってますんで!」と半分逆ギレした感じで詰め寄ってくるのだ。このとき2回目もこの業者に頼むということがなければ色々強くも言えただろうが、次に変な対応されては叶わんということで、どうも家族全員それに渋々従う感じになってしまった。
また、この業者は引越終了時までに引越の感想を書いて渡すようになっているのだが、次のことがあるので、母もひたすらおべっかの言葉を並べて提出していたようだ。
谷中到着後の荷下ろしでは運んでほしい部屋・階のマーキングはテープで色分けまでしてわかりやすく指定しておいたのに、かなり間違って運び込まれている。それと呆れたことに何も入ってない空箱を何箱か運んでいるのだ。ハンガーボックスも計12箱も積んできていたくせに使うかどうかも聞かずに空のままトラックに入れたままで搬送している。そして妹の可動棚用のビスも一つ紛失し、それに対しては妹に数百円渡して「コレで買えばお釣りが来ますよ!」などと言うのだ。とにかく人として鼻持ちならないリーダーが来てしまったわけで、これについては不運だったとしか言いようがないが、いまいち業者自体を責める気になれないのは、後日電話で次の引越のときにはこのリーダーだけ勘弁してくれ!と営業担当者にクレームをつけたら、途轍もなく良いリーダーが次の引越時には来てくれたのである。それについては引越2回目のエントリーで改めて書きたい。良くも悪くもと書いたのはそのためである。
最後に簡単にこの日の引越の流れを書いておくと、
08:00 私+妻:トランクルーム待機(実際は予定の30分ほど前から)
08:30 トランクルーム搬出作業開始(3tコンテナに2/3くらい分)
09:00 仮住居ではアップライトピアノのみ同業者で別搬送
10:00 仮住居搬出作業開始(3tコンテナ1台+1/3くらい分)
12:30 搬出作業終了→谷中へ移動(私+妻+妹のみ電車で移動)
14:00 谷中着→養生作業(私+妻+妹はコンビニおにぎりで昼食)
14:30 1台目搬入作業開始(主に段ボール箱中心)
16:00 2台目搬入作業開始(家具中心・2Fデスクと3F長箪笥は吊り上げ)
17:30 両親自家用車で到着
18:00 搬入作業終了→1回分代金支払い
19:00 私+妻:日暮里「天や」で夕食→妻を日暮里駅で見送り
19:30 アップライトピアノ到着→搬入
といった具合で、搬入時の段ボールと家具の運ぶ順も逆の方がよいように思えたが、とにかく不満の多く残る1回目の引越であった(唯一褒められそうな点は作業が異様に早いことくらいか?)。本来なら1回目の引越が終わった時点で、書籍類をはじめとする私担当の荷物はすべて運び終え、2回目の引越時までにはそれらを所定の位置に収めて場合によっては2回目の前に帰阪することも考えていたのだが、そんなことはまるでできない状態になってしまった。
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2004年07月18日 (日)
引越を翌日に控え、この日はデジカメで何か撮ってる余裕など全くなかろうと、谷中に置いて行ってしまったのだが、今にして思えばちょっとした休憩中でも撮ることはできたのだから、作業時刻の記録装置という意味でもやはり持参すべきだった。
ともあれ、この日の作業は我ら夫婦は仮住居に到着して一息入れさせてもらい、11時前くらいからスタート。夕方くらいまではトランクルームの整理、その後、仮住居に戻って主に2Fの段ボール群の分類やフトンの圧縮し直しなどする。当初の予定では夜に妻だけ谷中に戻るという話だったが、結局時間も遅くなってしまって妻も仮住居でこのまま一夜を過ごした方がいいという話になって行った。
ただ、今回の引越は最初から2回することを想定しているせいか、どこか皆まだ余裕があるというか、気の弛みみたいなものがあって、まさかこの日行くとは思ってなかったのだが、父の提案でお昼には父・妻・私の三人で妻が以前から何度か憧れを口にしていたレッドロブスター に行ってみたり、夜は夜で下連雀の弁当屋「いと半 」の名物チキン南蛮やレヴェ のショートケーキを買ってきて、この家では滅多にない団欒のひとときを過ごしたり。ヘンに優雅な一日だった。それにしても父がまったく別の話題をしてる最中、妻に向かって突然「な? いと半のチキン南蛮美味いだろ? 昔は胸肉使ってて大したことないと思ってたんだけど、腿肉使うようになってからはそんじょそこらの店で食べるより数倍美味い」と言い出したのには、いつものよくある話といえばそうなのだが、疲れた中でもたっぷり笑わせてもらった。
トランクルームでは主に私は祖父作成家具の梱包と段ボールの最終整理をし、妻にはその処理に一番困っていた三鷹金猊居から持ち込んだ天井板のキレイなのを8枚ピックアップし、それを近くの公園まで持って行き拭き掃除するという作業をお願いした。60年分の埃の溜まった天井板だけにさぞかし大変だったことだろう。
仮住居の方では母+妹は1Fで作業をしていたが、1、2Fで完全分業となっていたため(母の希望により)、彼女らの作業内容まではわからない。父はすでに自分の部屋の整理は概ね終えていたので、役所のゴミ出し日チェックやその他の交渉等、どちらかといえば事務的なことをやっていた。
この日、母は徹夜したそうだが、母以外は翌日に備え、ある程度の睡眠は取った。
妻は母のムアツふとん で、私は父のベッド(※) で寝た谷中初日の夜。エアコンが苦手な我々は当然窓という窓を開け放し、風通しを良くして眠ったのだが、一乗寺側窓が足下まで開く母の部屋は想像通り最高の風通しだったが、父の部屋は母の部屋との間の仕切戸を開けていたとしてもいまいち風の抜けが悪く空気が籠もりがちで、妻に較べ私は寝苦しい夜を過ごすことになった(右の写真は一回目の引越が終わった後のものだが手前が母のムアツふとん、奥が父のベッド)。
ただ、明け方、先に目覚めたのは妻。というのもまだカーテンが付いていないため、足下まで窓全開の母の部屋は朝日も見事全開に差し込んでくるのだ。ふと私が目を覚ましたとき、隣のムアツふとんで寝ているはずの妻の姿がなく、びっくりして部屋を出たら脱衣室の引き戸を閉じて光を遮り、床の上で寝ていたのである(笑)
車の騒音の方は、4車線の谷町筋に面したところに住む騒音馴れした我々ゆえか、音が近いという感じはあるものの、寝られなくなるほど気になるというでもなかった。
おそらくこの日、谷中に戻ってくることはないだろうとの予測のもと、引越屋がいつ来てもよい状態にまで全階整理をし、それと各階の写真を幾ばくか撮って、9時前に谷中を出た。もちろん行き先は引越を翌日に控える三鷹仮住居。だが、主に我々の準備作業はトランクルームの方で行われることになるだろう。ちなみにこの日の起床時刻は6時半。ふだんの私の就寝時間。
2004年07月17日 (土)
初寝泊まりの晩に入った風呂は当然初風呂となる。何となく、我々夫婦がそこに実際に住む家族よりも先に風呂に入ってしまうことがしのびないような気持ちがないことはなかったが、とりあえず夕方に妹がシャワーだけ浴びたと聞いていたので、そのことが自分たちの負い目を和らげる良い言い訳とはなっていた。
で、風呂の入り心地だが、ケチケチ夫婦の我々は当然湯量を真ん中線よりも2つ下に設定。それでも寝ころび気味に入れば充分胸元までお湯は来る。そんな INAX 『i-bath2003 』でまず最も心地よさを体感したのは湯船の丸味 だろうか。何というか背中で凭れて両腕を広げるとちょうど体のラインに湯船の丸味がフィットしてのんびり優雅な気分を味わえるのである。それから片側が腰湯できる状態になっているのものぼせやすい人には嬉しいところだろう。ただ、我々の場合、湯量が少ないので二人で入ってないと足しか漬かれない状態にはなってしまうが。。
洗い場の方はこの日はまだ座椅子がない状態だったので、サーモフロア の床に直座りだったのだが、床表面に設けられた独自の断熱層があることによってか足裏には良いがお尻にはちょっとざらざら痛い感じがする。まあ、座椅子が入ればお尻で触れることもそうはないだろうから、その点ではあまり気にするところでもないのだろうが、ただ、風呂から出る前に軽く拭き掃除をしたときにもそのざらつきは拭きにくいなという感じがあった。ちなみに肝心のサーモフロアの機能 についてはさすがに夜になっても暑苦しい夏の盛りでは判断のしようがない。
他にケチを付けるとするなら、シャワーノブを壁に掛けておく場所が2箇所固定で、その下側の方が少し低すぎるかな〜という印象。それと1620サイズは大きくて気持ちいい代わりに掃除が大変。もともと掃除を怠りがちな実家家族なだけにその辺は大いに心配である。
□◇
このエントリーは家創り日記 『INAX「サーモフロア」 vs. TOTO「魔法びん浴槽」 』からのトラックバック を受けて、思い出したように新規作成したものである。12月現在、実家からサーモフロアについての感想は聞いていないので、後日電話することなどあったときにでも聞いてみるつもりである。
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第29回打合せ: スケジュール(※) ですでに触れたように、引き渡しというのは本来タイミングを慎重に見極め、ある種、格式張った中で執り行われるものなのかもしれないが、うちの場合は私が一人でひょこひょこ阿部建築まで出向いて、必要書類と鍵を受け取り、未済&駄目工事の簡単な確認、そしてしばしの雑談ののち、豊田さんと共にのこのこ帰ってくるという、まあ、至ってお気楽なものだった。そうした気軽さ自体についても同エントリー(※) ではすでに触れている。
ただ一つ、引き渡しの席で心配だったのが矢原さんがちょこっと風邪気味になってたこと。うちの件でいろいろまとめたり検査したりとムリがたたってないとよいのだが、、
一応、引き渡し時刻を記録しておこうと阿部建築に入る前に阿部建築の建物の写真を撮っておいたのだが、我々が初めて阿部建築を訪問したのが去年の2月26日。あれから一年半が過ぎたのだな〜と実は事務所に足を踏み入れる前、建物を見ながらしみじみした想いに耽っていた。この「しみじみ」こそがそれで以て充分儀式的な充足をあらわすもののはずだ。
−阿部建築
−16:30〜17:00
−阿部さん、山本さん、豊田さん、矢原さん、私
−引き渡し通知書、資格証明書、印鑑証明書、設備関係説明書一式ファイル、鍵
2004年07月16日 (金)
第29回打合せ: スケジュール(※) でも書いたように引き渡し→引越までの間が2日となり、その期間はすべて引越準備作業に当てなければならなくなってしまったため、事実上、完成お披露目といった機会は持てなくなってしまった。しかし、ムリムリでも引越前に写真撮影だけはしたかったので、工事の真っ最中に友人のフォトグラファーに撮影をお願いし、そのついでという形でフォトグラファーと何某かリンクしてる友人数人+先日相互 trackback で知り合ったばかりの Off Space の bside さんを招き、ささやかながらお披露目の場を作ることができた。
まあ、お披露目といっても日暮里のペルシャ・トルコ料理店「ざくろ」 で1000円のしあわせランチ を食べながら自己紹介&近況報告をして、その後、工事最中に現場見学をするという慌ただしいものだったのだが。。
ある意味、みんなが一番くつろいでくれたのは現場を離れて、近くのカヤバ珈琲でかき氷食べてたときだったんじゃなかろうか。でも、途中から雲行き怪しくなるし、何もかもが慌ただしい中で引きずり回すことになってしまって、ちょっと申し訳なかったくらいだ。
お越し頂いた皆さん、ありがとうございました。
今度は是非本当に完成してから!ということで。。
2004年07月14日 (水)
引越手伝いで週末に妻が上京する前に、登記に印鑑証明や住民票等が必要かどうか確認しておいた方がよかろうということで東京法務局台東区出張所 に電話。
で、聞くところによると登記上、所有者が完全に一人で明確な場合には印鑑証明まではいらないらしいのだが、うちの場合は建物の権利が母と私の共有名義となっていて、書類上二人の名前が出てくるところもあるので結局妻には北区役所に行って両方取り寄せてもらわねばならぬことになった。
尚、この時点においては登記は父が自分でやると言っていたのだが、何やかんやと個人では難しいところもあり、結局7/29(木) の第30回打合せ(※) のときに司法書士さんを阿部さんから紹介してもらうということで落ち着いた。
追記に法務局から聞いた必要な書類関係を纏めておく。
□◇
表示登記に必要な書類関係
【施主側で準備するもの】
・住民票×1
・印鑑証明書×1
・領収書×1
【工務店に準備してもらうもの】
・引き渡し通知書×1
・資格証明書×1
・印鑑証明書×1
【設計者に準備してもらうもの】
・所在図×1
・各階平面図×1
・建築確認通知書×1
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2004年05月02日 (日)
以前 TOTO のショールームで入手した『HOME UP ── トイレ・洗面所のまるごとお掃除読本』 が最近の我が家のトイレ本(※1) になっているのだが、そこに出ていた「新聞紙でガラスや鏡を磨く」というのを今回初めて試してみた。そしたら、これが思ってた以上に調子良い。以下にその冊子の本文を転載するので、概念的なことはそちらをご覧いただきたいが、何が良いって新聞紙をまるめたときのふっくらボリューム加減が雑巾で乾拭きするよりも数段手に馴染むのだ。それから雑巾の場合は何だかんだ乾拭きしてても段々雑巾が湿ってくるけど、新聞紙の場合そうなったとしても気軽に取り替えが効く。また繊維が細かいせいか、落ちにくい汚れもあまり強く擦らずとも数回軽く擦っただけでしっかり消えてくれる。というわけで、こりゃオススメできるな!と思って blog にも書いておくことにしました。
ただ、ガラス面に傷がある場合はそこにインクの色が入っていきやすいので、それだけはご注意ください。
(1)鏡にガラス用洗剤を吹きつけ、充分に絞った布で磨きます。
(2)仕上げに丸めた新聞紙で磨くとインクの油分でツヤが出せます。
□◇
※)トイレ本
どこのうちにもあると思うが、トイレで読む用の本。
通勤・通学時間を持たぬ者としては意外にトイレで読み始めて、そのまま読み込んでしまうというケースは多い。最近は東京帰りの新幹線などで拾った新聞や雑誌などがラックには入っている。
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2004年03月06日 (土)
上棟式当日、大阪からやってくる妻と待ち合わせるため、家族よりも先に仮住居を出る。
10時過ぎ神田駅のホームで落ち合い日暮里で下車。いったん初音すまい研究所に荷物を預けて敷地まで行ってみる。
しかし計画が始まって約1年半。なんとこれが妻の敷地初見分なのである。思えば東京に来たのも三鷹金猊居解体時の手伝い以来か? 土地探しをしていた時分に谷中を訪れる機会は一度あったが、そのときにはまだこの土地は候補地としてあがっておらず、半径100m以内のところは歩いていながら生憎その前は通らなかったのだ。
敷地にはアランさんのアトリエ の前を通ってお稽古横丁側から行ったから、妻にとって最初にうちの敷地で目にしたものはタラップであった。敷地では基礎工事で使っていた足場用の鉄板を搬出する作業が行われていて、現場監督の山本さんがいらしたので軽く会釈を交わす。言問通りを挟んで向こう側からしばらく敷地を眺めたり、あとはすでに妻より先に敷地に足を踏み入れた経験のあるウッくんケッくん(※) が得意顔になってるところを記念撮影したり(右の写真はウッくん)。そして打合せ予定時刻の11時ちょっと前に SCAI THE BATHHOUSE の前を通って初音すまい研究所に戻った。初音すまい研究所での打合せ内容に関しては別稿 にて。
13時少し前に打合せを切り上げ、予定通り豊田さんオススメの蕎麦屋「鷹匠」 にて昼食。このレベルの蕎麦が味わえる店が近くにあるというのは何とも嬉しいものだ。個人的感想を言えば、蕎麦以上に豆腐が美味しく、またなぜかここのエビスビールが異様に美味かったのだが、それは気のせいというものか? 食後はぶらぶらとへび道〜よみせ通り〜谷中ぎんざ〜初音のみちを通って、しばし谷中散策。初音すまい研究所に戻り、上棟式用の荷物をまとめて再び敷地へと向かう。
15時、敷地にはすでに阿部建築の皆さんはじめ、鳶&鉄骨職人さんたちも集まっていて、お酒、軽食の準備も整っていた。さっそく一同揃ったところで棟飾(※) に向かい、阿部さんの先導で二拝二拍手一拝する。その後ろから山本さんが御神酒、塩でお清めを行い、同じ所作を建物の四隅で繰り返した。
そして施主挨拶(※1) 。これに関しては事前に言い渡されていたので、この手の挨拶を苦手とする私は原稿を臨んだのだが、それが大失敗だった。まず何より原稿が長くなりすぎたのがまずかったが、場の空気のまずさにすぐ気づきはしたものの、読み始めてしまった手前、途中で端折るタイミングがつかめず、どうにか途中で無理矢理読み終えはしたものの、まあ、何とも跋の悪い思いをするばかりだった。やっぱりこういう挨拶は極力短く、そしてみんなの顔を見ながら話した方が良いようだ。しかしまあ、途中で終わらせてしまってもいるので、追記にその用意していた文を全文掲載しておこう(※1) 。たぶん誰が見ても呆れるだろうが、本当に長いんだな、コレが(笑)
でも、ま、いろいろ感謝したくなってしまったのよね、ここまで来るの大変だったし。。
施主挨拶の後は阿部さんの音頭で乾杯。茶菓子を摘みながらしばし談笑の時間とはなったが、何となく皆が身内同士で話してしまい、正直、職人さんたちと和気藹々といった風にはなかなかなれなかった。というか、私があんな長々施主挨拶なんぞしてなければ、もう少しみんなが互いに紹介しあえる時間など持ててもっと和やかな雰囲気になっていたかもしれない。こういう経験ってもうそうそうないだろうが、挨拶に関しては一つ学んだかなという感じである。
その後、豊田さんに先導されて2階まで家族全員上がる。まだ折板が敷かれただけの状態なので、階段の踊り場からしか見られなかったが、遠目でもバルコニーから言問通りに沿ってかなり遠くまで見渡せることがわかった。式後に工事を再開したいということで、あまりじっくり伺い見ることはできなかったが、この時点では2階にあがった印象ってのはそれほど強烈なものはなかったかもしれない。3日 に1階だけではあったものの、かなりじっくり中をまわっていたせいもあったろう。下に降りてから一応全員で記念撮影させてもらって、帰る前に私は職人さん一人一人によろしくお願いしますと挨拶してまわった。そのときにはみなさんと一言ながらも目を合わせながら言葉を交わすことができて、ようやく和気藹々に通ずるものを感じることができたかな? ヘンに頭でっかちにならずに最初からこういう挨拶の仕方をしていればよかったのである。とはいえ、それは一人一人と話したからこそ感じられたことで、挨拶という場ではどうにもならない話かもしれないが。。
式後はさすがに家族全員疲れ切ってしまい、父はそのまま帰宅。母・妹・妻とは芋甚 で甘味を食べたが、豊田さんから誘われていた上野桜木会館 での19時からの手嶋さんのレクチャーは最終的にお断りし、この日、妻と私の二人分、宿泊の予約を入れていた 澤の屋旅館で22時前には寝てしまった。ちなみにこの旅館、浴場が男女別になっておらず、鍵を掛けてプライベートに入れるので、夫婦向きと言えるかもしれません。やっぱり大きな浴槽はキモチイイ♪
□◇
※1)上棟式挨拶
本日は生憎のお天気の中(※2) 、みなさんお集まりいただき、ありがとうございました。
私がこの家の施主のM類と申します。あれ?なんだか妙に幼いぞ!と思われるかもしれませんが、その通り33歳の若造です。世間で言うところの名なり功なりを成して居を構えようというのでは決してなく、祖父の遺産をたまたま引き継いだ私が身分不相応ながら施主の責を引き受けることになりました。常識知らず経験足らずなところも多々見受けられると思いますが、何卒ご容赦のほど、よろしくお願いします。
この家作りは計画が動き出したのが2002年の7月。準備不足で始動してしまったせいも多いにあるのですが、最初に依頼した建築家とうまく行かなくなってしまうという予期せぬ事態に陥り、行き詰まっていたところを救ってくださったのがインターネットで偶然発見した阿部建築さんでした。ちょうど去年の今頃のことです。
そして翌月には初音すまい研究所の豊田さんを建築家として御紹介いただき、再起動。その後は概ねトントン拍子で計画も進み、こうして上棟の日を迎えることができました。
実は私は大阪在住でして、工事の様子はときどきしか確認できないのですが、それでも根切り工事や基礎配筋、建方後の仮設工事の様子などを拝見し、どの工事も興奮しながらデジカメのシャッターを何度も切ってしまいました。何と言いますか、現場の皆様方にとっては当たり前の光景かもしれませんが、こうして土の上に垂直・平行に人が考え出したモノが人為的に突き刺さっていくということが物凄くエロティックなことのように思えてしまうのです。本当は毎日でも工事の様子を見に来たい、ここはそのくらい面白く感じられてしまうところです。
しかし、本来工事現場は面白いなんて悠長なことを言ってられるようなところではないのだろうと思います。今後の工事はもう少しソフトなものになっていくのかもしれませんが、いずれにしても危険と隣り合わせの現場ゆえ、みなさんの無事を祈ってやみません。特にうちの敷地は道路事情から搬出入が行いにくいことや土地が異形で壁ぎりぎりのやりづらい工事もあったりご苦労ばかりと思われますが、くれぐれも事故・怪我のないよう、よろしくお願い申し上げます。
最後にさきほど祖父の遺産と申しましたが、この家は1階を無名の日本画家だった祖父の作品を展示するスペースとして考えております。いつオープンできるかは我々の頑張り次第ですが、ふつうの家よりは出入りしやすいかと思いますので、お近くにお寄りの際にはちょっと自分の仕事がどうなったか見てみるかといった気軽なノリで(ひょっとするとそれが一番気軽になれないのかもしれませんが)お立ち寄りいただければ幸いです。
それではあと数ヶ月、誰一人として怪我・事故のないよう、お祈りしながら、施主の挨拶とさせていただきます。
本日はお集まりいただき、たいへんありがとうございました。
※2)天気
天気予報では降水確率70%以上で間違いなく雨だろうと思っていたら、午前中は晴れ、午後も曇りで微妙に雨雲っぽいのも出てはいたけど、結局一粒たりとも雨は降らなかった。その代わり、夜は途轍もなく寒かったけどね。
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2004年02月27日 (金)
突然ですが、引っ越しました。
といっても至って近所。ほとんど道路挟んではす向かいのようなところで電話番号も変わりません。
いずれ転居のお知らせメール送るつもりですが、事前に新連絡先を知りたい方はこちら まで。
ところで今回の引越、引越屋のトラックをさほど大きくないのにケチったりしたもんで、積みきれない荷物もたくさん残って、後から台車で何往復もするハメに陥ってしまいました(泪)
さすがに疲れた。つーか、あの三鷹金猊居から仮住居へ移ったときの悪夢が再び想起されたというか。
来るべき三鷹仮住居→谷中引越時のために、今回の反省点を二三、メモっておこう。
1)見積もりを取りに来てもらう際に、できることなら配布される段ボールを持って来てもらう。それが無理なら最低でもサイズを聞いておく。段ボール箱ってホンマにピンからキリまであります。取っ手穴のあるのないの、紙質の頑丈なのと柔なのと。そしてCDや文庫、A4などの規格サイズが収まりやすいサイズの段ボールかも要チェック。
2)収納ノートをつける。特に我が家の箱好きというか、箱を取っておいていざというときに使おうと考える体質の者が多い家では、それをしっかり書き留めておかないと「いざというとき」が絶対に「いざというとき」にならない。特に箱のなかに箱を入れている場合はその階層までしっかり書き留めるべし。
3)これは引越屋への注文ですが、段ボールを閉じる用のガムテープってアレ、色分けしたものを用意する気はないのかね? それがあれば、各部屋の名前を書いておかなくてもこの部屋はこの色みたいな感じで仕分けできる。たいてい引越屋が準備する段ボール箱って側面に品名・設置場所等を書く欄が用意されてるけど、引越屋の兄ちゃんの動き見てるといちいち側面確認するの面倒のようだし、依頼側としても設置場所が書いてない段ボールなら次の引越時にも使い回しが利く。各部屋の入口のところにその該当する色のテープを貼っておけば、引越屋にとってもワカリイイと思うんだがなぁ。
2004年02月03日 (火)
上棟式(※1) の日取りを豊田さんはしっかり足場の整う3月半ばあたりで望まれていたが(その方が我々が実地に立っていろいろイメージを膨らませやすいため)、山本さんからはその時期に現場に踏み込まれると工事進行上妨げになりかねないというお話。そこで波板型の鉄板床が入った直後ならということで、3/6(土)の大安日になった。ちなみに父は高所恐怖症で、棟にあがるのは遠慮するんだとか(父の高所恐怖症話、初めて聞きました)。
上棟式には鳶職人と鉄骨屋さんが参加。お祝儀として職人さんたちにそれぞれ1万ずつ、親方は2万というのが東京の相場らしい。地方に行くとそれが半分くらいになる様子。それ以外に準備するものとしては、お酒(一合瓶×人数分)、赤飯、千円前後の弁当もしくはお菓子(最近はお菓子が多いとのこと)で、お酒と赤飯は阿部さんがいつも頼んでいるところにお任せすることもできるらしい。
職人のみなさんはほとんど車で来ているので、実際にお酒を飲むことはできない。よって昔のように車座になってわいわいがやがや酔いしれるといった祝祭的イメージはおそらくない。たぶん乾杯で一口つけるだけになるだろう。
母が三隣亡(※2) の日に上棟式を行うのだけはやめてほしいと言っていたが、打合せ時にはそれを確認する術がなく、大安だからといって日柄に特に関心のない男たちだけで決めてしまった 3/6(土)は運良くその日を免れていた。
なお、山本さんから棟飾(※3) はつけますという話もあった。三鷹金猊居を解体するときに玄関屋根裏から加藤という棟梁の名の刻まれた棟飾が出て来ているのを見ているだけに、その申し出は素直に嬉しい。日柄とか気にする方ではないが、金猊居にあった幾つかの習わしは引き継ぎたいものである。しかし、鉄骨建築の場合、どこに飾るんでしょうね〜?(笑)
□◇
※1)上棟式(じょうとうしき)
建築祭礼のひとつ。棟木を上げるときに行われ、大地をつかさどる神に感謝し、完成まで工事の無事を願う祭事。建前(たてまえ)、棟上げ祭り(むねあげまつり)ともいう。基本的には工事関係者を慰労し、これからの無事と完成までの順調な進行を関係者にお願いする意味合いの方が強い。大安か友引が選ばれる。鉄骨の場合は鉄骨が立ち上がったときが棟上げにあたる。
※2)三隣亡(さんりんぼう)
三隣亡とは、有形無形の事物事象のことごとくが、生・旺・墓 の循環を繰り返して行く自然の鉄則の事をいう。 生気が進出して旺気に変化する瞬間に生気が亡して旺気となり、それが三隣にまで及んでいくという。そんなことからこの日に建築事を行うと火事や災いなどで三軒隣まで滅ぼすという迷信が生まれた。
しかし、江戸時代の暦には「三輪宝」と書かれ、屋立て好し、蔵立て好しなどとも注記されており、それがどこかで意字反転しまったのではないかという説もある。
http://allabout.co.jp/house/fusui/closeup/CU20030715A/index.htm
※3)棟飾(むねかざり)
民家の屋根の棟にとりつけた装飾、あるいは装飾的要素をもつ棟形式をいい、階層の象徴として用いられる場合が多い。雨水を防ぐという実質的機能をもち、その数の多少で地位を象徴する針覆(ハリオイ)、形式自体が階層を象徴する吉野地方の公事屋葺(クジヤブキ)など。
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2004年01月17日 (土)
2日ほど前に稲沢の森家(※1) の奥さんから、我々が見たことない金猊作品を一宮の今枝家(※2) から譲り受けたという驚きの連絡を受け、急遽、母と訪名する。
去年、八恵さん(※3) の四十九日の法要のときに今枝さんと森さんの間で金猊の話題が出て、金猊作品を数点持っているという今枝さんの話を聞いた森さんが今枝さんに譲ってほしいとお願いし、快諾されたらしい。我々は今枝さんのことは金猊の姉が今枝のところに嫁いでいるということを知っている程度で、その末裔のことまではまったく把握していなかった。だから、まさか今枝家に5点もの金猊作品が眠っていようとは考えもしなかったのである。
一方、森家とは2001年3月に亡くなられた哲夫さんと面識があったことから、母が年始の挨拶などで付き合いを続けていたし、私共夫婦も哲夫さんの葬儀には出席している。今回、母に連絡をくれたのは哲夫さんの奥様の洋子さんで、彼女からの連絡主旨は今枝のところから金猊作品を譲ってもらったことの報告と、一点、かなり傷んだ作品があるがそれをどうすべきかの相談であった。その傷んだ作品に関しては後述する。
洋子さんとしては丸井一族の大体の家が皆何某か金猊作品を所持しているのに、森家にだけそれがないということが幾ばくかの疑問として残っていて、それがそんな大袈裟に言うほどのものでもないけどちょっとした嫉妬(不満)みたいなものに結びついていたらしい。とりあえずそれに関しては我々にも当時のことがわからないので何とも返答のしようがなかったが、おそらく金猊が一族に作品を渡していたのは恣意的なものというよりは、単にそのとき世話になったとかそういった偶発的なものだったのでは?と推察できる。それがたまたま森家のところには渡す機会がなかったというだけの話だ。反対に今枝のところにたくさん残っていたのは、当時今枝家が一宮といえば有名な毛織物工場で一財産築いており、おそらく何某かの支援を金猊が仰いでいたことも想像に難くない。
ただ、森さんの中ではなぜうちだけ?という家同士の体面上のところで作品所有の所在が求められており、それが今回今枝さんに作品譲渡を申し込まれた直接動機となったという推測はあながち外れたものでもあるまい。しかし、そもそも今回の話は森さんが我々にこうした連絡を取ってくれなければそれら作品群が残っていたことすらわかり得なかったのだから、まずは何よりも森さんに大感謝である。
さて、東京から来る母とは稲沢の駅で朝9時半に待ち合わせ、駅まで迎えに来てくれた洋子さんの車で小雪の降る中、森家へと向かった。
挨拶もそこそこ絵の検分に入ったのだが、ここでは作品を見た順とは逆の順番で作品について触れることにする。
■霜晨 (そうしん)
この作品のタイトルがすぐにわかったのは、祖父の遺品に自作を単色刷のポストカードにしたものが幾つか残っていて、そのポストカード(右の画像左側)にしっかり作品タイトルまでが記されていたからである。しかし、見てすぐわかりはしたものの、その色づかいというか配色はおよそポストカードからは想像できないものであった。いや、鶏頭の花(※4) だとわかっていたのだからおおよその配色は想定できててもよかったはずなのだが、金猊作品でこれだけグレーを大胆に取り入れた作品というのは他になく、初見して度肝を抜かれてしまったのである。
洋子さんは今枝家から金猊作品を譲り受けるにあたって、さすがに譲ってもらう遠慮心から一番地味な作品を選びましたと言われていたが、それは見た目の色合いの話であって、今回出て来た作品の中ではこの作品が図抜けて研究価値の高いものであったことは間違いない。なお、冬枯れした鶏頭で季節的にもちょうどよくお正月には床の間に飾っていたらしい。一宮の由緒ある表具屋でかなりお金を掛けて軸装されたらしく、保管の面では問題なさそうだ。ただ、もう少しゆっくり時間を掛けて、できれば一人で作品と向かい合いたかったというのが正直なところである。
■芥子花圖 (仮題)
この作品が問題の傷みがかなり出てしまった作品。右の画像 をクリック拡大して見てもらうとわかりやすいかと思うが、画面向かって右上の方に完全に染みが浮き出てしまっており、また、画面右半分は花びら部分の絵の具が赤も白も共にほとんど落ちてしまっている。他に気になるのはX地で絹本に刻まれた網目模様といったところか。それは画面中央下側あたりがもっとも目立った状態で浮き上がっている。
なお、この作品のタイトルを『芥子花圖』としたのは、これとたいへんよく似た作品(というより画面中央の部分のみ描いたと言いたくなるような)が一点我が家に所蔵されており(※5) 、そのタイトルが『芥子花圖』だということはわかっていたので、それと同じ題で仮表記することとした。
この作品は今回見つかった作品のうちでもとりわけ描写力の確かさ(特に線の強さ)を確認すさせられる作品である。それは花の色が落ちてしまったことで尚更わかりやすく露見してしまった。洋子さんはこの作品を右半分切って左半分を軸装してはどうかと考えていたらしいが、それにはストップを掛け、こちらでも表具屋と相談させてほしいと願い出させてもらった。こうした場合、絵に求めているものがまるで異なるのだから、なかなか難しいところである。ただ、正直この作品は未表装の状態なので(つまり何らかのお金を掛けてしまった後ではない)、願わくばこちらで引き取ることはできないか?と折を見て相談してみるつもりである。
それにしてもこの作品である種決め手となっているのは、まさしく花を支える役割を果たしているグリッド状の竹の支柱ではないか? それが花だけでなく、余白を含めた画面全体を引き締めている。「井」の字の囲まれた中には何も描き込まれていない。
□◇
※1)森家
金猊の一番上の姉・森よね[1897-1968]の長男が哲夫さん[2001年3月没]でその奥様が洋子さん。
愛知県は稲沢市の子生和(こうわ)に大きなお屋敷を建ててお住まい。
※2)今枝家
金猊の三番目の姉・今枝ゆう[1901-1973]の長男が定也さんでその奥様が正子さん。
愛知県は一宮市、今伊勢町(いまいせちょう)にお住まい。敷地にはかつて栄華を誇っていたであろう大きな工場も残っているが、近年取り壊し予定なんだとか。できればそのときにはお伺いしてお手伝いの一つでもしたいものである。
※3)佐藤八恵(さとうやえ)[1915-2003]
金猊の一つ下(四女)の妹。晩年は次男の勝彦氏とともに愛知県は江南に住まわれる。
波乱の人生だったが、詩・俳句をこよなく愛し、私がもっとも親しく思っていた金猊の兄妹である(ま、ほかの兄弟とは付き合う機会がなかったとも言えるが)。
晩年、体を悪くされて入退院を繰り返すようになってから、勝彦氏の勧めで自分史を書き始められ、総ページ数185頁というその厚みを遙かに越えた濃厚な内容の自分史『思い出──悲喜越えて今倖せに千草咲く』を無事書き終えられている。勝彦さんが製本され、亡くなられてしばらくしてから近しい一族に配られた。
筆致はいたって冷静な客観描写で、それと並行させながら詩・俳句を読み進めると猶のこと面白い。兄弟や身内が亡くなると献花ならぬ献詩を送られていて、金猊への献詩「四角四面」は「丸井金猊とその周辺の人たち」展のチラシに全文掲載させていただいた。
勝彦氏のワープロ・データ損傷が惜しまれる限りだが、いずれ再度デジタルデータ化させねばなるまい。
※4)鶏頭(ケイトウ)
ひゆ科の一年生植物。夏・秋にニワトリのとさかに似た赤い花が咲く。
英語でも cocks-comb(鶏のとさか)らしい。
※5)芥子花圖(けしはな-ず)
絹本/軸 45.5×51.8cm 三鷹市/個人蔵
(現在江東区の美術倉庫・カトーレック で保管中)
この作品は三鷹金猊居の蔵の前の廊下にあった絵の具箪笥の薄い引き出しに無造作にくるっと丸まった状態で入っていた。1996年に見つけ、翌年、飛高堂に表装を委託。制作年は不詳だが、1930年代前半、学生時代の頃のものではないかと思われる。落款がないので、場合によっては未完成かもしれない。
タイトルは作品を包装した半紙に書かれていた。見ての通りの芥子の花の絵な訳だが、母の話によると昔、我が家では写生用に芥子の花を栽培していて、警察に注意を受けたことがあったということを金猊に聞かされたとか。今だったらば逮捕沙汰の話である。
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2004年01月09日 (金)
地鎮祭から一月以上空いてることと、前回打合せに私が出席できなかったことから、本格工事がスタートする 前日、豊田さんと個人的にお話しする機会を持たせてもらった。
しかし、臨時会談とはいえ、内容的にはかなり濃いものだったといえるかもしれない。まあ、二人が私の家族の存在に気を取られず建築のことをあれこれ話せたせいもあったが、この席で初めて建物の色調が提示されたことが何よりも大きいだろう。
豊田さんとしては生き抜き半分、色鉛筆を使ってお絵描きしてみました〜というような言い方をされていたが、ズバリ黄色で来た!というのは意外であると同時に、豊田さんならばあり得ない話でもないなという感じではあった。黄色い家という考え方は家作りが始まって、まだ豊田さんと出会う以前に計画されていた貫通案(※1) というプランのときに私と妻の間だけでイメージされていたことである。我々夫婦は殊の外、黄色という色に執着が強い(※2) のだが、だからと言って即座に好みの色を外観色に使いたいと言い出すほど建築をナメてはいない(笑) しかし、その貫通案においてはそのプランのヴィジョンと結びつく要素が黄色にあった。それは至って個人的動機によるものだが、私が初めて公に出した作品(※3) が全面黄色で覆われた箱型の作品で、箱の中央には思いっきり貫通孔が空いていたのである。だからそのプランを見るまで黄色い家ということは考えもしなかったが、ふと自分の作品との呼応ぶりから黄色い家も悪くないと思うようになり、そのことを妻に告げると、当時谷中の家作りに私が関わること自体がストレスとなっていた妻にも急に明るい兆しのようなものが見え始めてきて、それはそれで希望を与えてくれる色となっていたのである。もっともその色のことは当時の建築家たちに伝える前にそのプラン自体が頓挫してしまったが。。
その後、黄色い家のことはプランが変わって全く考えなくなっていたが、ここに来ての復活には何とも不思議な因縁みたいなものを感じさせられた。それと豊田さんならばあり得ない話でもないと感じたのは、あの立地条件に加え、何となく和風仕立てになってきているファサードにあって、黄色を使うというのは相当な挑戦心がないとできないことだと思ったからである。それは、これまでの取り組みの最中に幾度か豊田さんのその風貌からはちょっと想像できないようなマッチョ的(=良い意味で地中海のヒト的)とでも言うべき大胆なデザイン手腕を見せられてきているので、こうした挑戦も納得というか、任せてみたい気分になったのである。もちろん両親にでもわかりやすい説明をしてくれることや事業に対する誠実な対応にも信頼を置いているが、私が豊田さんという建築家と接して一番魅力を感じているのはこのパッと見の穏やかさに隠れた豪傑なところなのかもしれない。そういえば、ジュゼッペ・テラーニ(※4) が好きだって言ってたもんな(笑)
この日、豊田さんとは少しこれまでの経緯を振り返りながら互いの労をねぎらった。この計画の最大のミソは諸々要素を思い切り切り捨てたことによって出て来た2階のバルコニースペースにある。バルコニーに出て一乗寺やA見邸の緑を背に感じながら自分の家を見上げるとタラップの先には大きな空が広がっている。その空はこの上なく贅沢な我が家の一部として感じられるにちがいない。そんな話をしていたら、思わず涙腺が弛みそうになってしまったが、豊田さんも心なしか涙目になってたのは気のせいか?
−初音すまい研究所
−15:00〜18:30
−豊田さん、矢原さん、私
−ファサードのイメージ図、工事工程計画表、打合せ記録
□◇
※1)貫通案
この計画に関しては過去の記録が書き加えられていった段階で細かく記すことになると思う。
2002年9月半ばくらいにM氏から出されたプランで、中2階を持ち、車庫、リビング、書架廊下が各階でボコッ、ボコッと陥没穴でもできたかのように貫通している。
我々施主家族全員が気に入っていたプランだったが、予算と構造上の問題から却下された。
※2)黄色への執着
我々夫婦が黄色が好きなのは、NHK教育で夕方17:50から平日放映されている子供向けアニメ番組『おじゃる丸』 に出てくる「子鬼のトリオ」の一員、キスケの色が黄色いという何とも他愛もない理由による。しかし、我々のキスケに対する愛情は絶大なもので、それまでキャラクターグッズなどにはまるで無関心だった我々夫婦が今ではたくさんのキスケ、いや、正確にはウスケ、ケスケ、キスケ、パスケといったキスケたちに囲まれ、海外旅行にまで連れて行ってひたすら写真を撮りまくっている。
その写真等を公開してるのが『くわる丸ハウス』 。またキスケを通してできたキスケ仲間の『キスケスキ』 、『好き好きおじゃる丸』 は我々夫婦の巡回サイトである。
※3)作品『目に見えない所有』
パルコ主催『TOKYO URBANART COMPETITION 1992』に出品し、審査員賞(長谷川逸子賞)を受賞した作品。ほとんど世の中のこと何も知らずに何となく出品してみたら入賞してしまった。確か審査コメントにも「黄色い箱」と記されてた気がするけど、文字通り見た目黄色い立方体でその中央部分に角度を付けた正方形型の貫通孔がある。当時の自作解説を読むとかなりこっ恥ずかしくなるが、箱の中は海綿やゴム、コルクといった複数の軟質素材が用いられ、貫通孔の切り口は襞状にざらついていて言ってしまえばそのモチーフは子宮である。色の選択は黄色人種というところからまず来ており、確か重さも3000g前後という出生児の平均体重。一見ミニマルアートの体裁を装っているように見えるが、思いっきり生肉っぽい作品仕様であった。
※4)ジュゼッペ・テラーニ Giuseppe Terragni [1904-1943]
ムッソリーニ政権下のイタリアファシズム期にモダニズム運動の旗手の一人としてインターナショナルなレベルでの建築を目指した合理主義建築家。代表作に「コモのカサ・デル・ファッショ」、「サンテリア幼稚園」や近年修復を終え美しい姿を取り戻したセーヴェゾの個人住宅「ヴィッラ・ビアンカ」がある。
1998年、水戸芸術館現代美術センターにて「ジュゼッペ・テラーニ ファシズムを超えた建築」展 が開催されている。
⇒ Centro Studi Giuseppe Terragni
⇒ 米田 明「建築における内在性の硬度」
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2003年12月02日 (火)
地鎮祭(※1) の日取りは六曜との関係から考えると大安か友引の日が一般的とされているらしい。だが、うちでは私の上京日程や工期のことなどあって 12/2(火) の先勝の日に行われることになった。地鎮祭を行う上で先勝は可もなく不可もなくといったところらしいが、そもそも私個人は知らなければ知らないまま六曜をやり過ごせる人間。豊田さんもどちらかというとそういう人なのだが、しかし、この計画は私一人でやれるものではなく、多くの人が関わり、その中にはそれを気にする人もいることだろう。そういう意味では地鎮祭以上に上棟式において日取りのことは気を遣った方がよいように思われる。地鎮祭は家族と工務店・建築家だけだが、上棟式にはいろんな職種の職人さんも見えるのだ。
豊田さんとは10:30 に初音すまい研究所前で集合、そして阿部さんたちとは11:00に現地集合ということで、敷地に着いたときには阿部さん、山本さんがすでに準備を整えられていた。うちの場合、神主なしの略式で行うことにしたので、基本的にすべて阿部建築にお任せのほとんど手ぶら参加。最近は阿部さんのところでもそういうケースがかなり増えているらしい。豊田さんは冗談交じりに阿部さんが神主さんのコスプレしてくれますよ!と言われていたが、さすがにそれはなかった(笑)
敷地中央奥に約2m四方の砂が敷かれ、四隅に笹竹を立て高さ2mくらいのところが注連縄 (しめなわ)で結ばれている。真ん中に簡易テーブルが祭壇として設えられ、御神酒、米、塩が飾られている。まあ、どこの地鎮祭でも見る光景。ただ、地面、竹、注連縄によって結ばれた2m角の立方体に小宇宙を見てしまう自分がいる。どうも気質的に正方形や立方体という形状に妄想が働きやすい質なのだ。それは祖父・金猊にもそういうところがあったらしい。そういえばこの日、私は祖父のマフラーをしてこの場に臨んでいた。
儀式は阿部さんがお米と塩、山本さんがその後ろで御神酒を手にまずは敷地の四隅+1(うちの場合、角が5箇所ある)と中央に蒔く。その後、なぜか一同揃って記念撮影 。で、鍬入れは阿部さんから「一応、エイッって掛け声あげて掘ることになってるんだけど、恥ずかしいから言わなくてもいいですよ」といった手解きを受け、施主筆頭の私、母、父、妹、豊田さん、山本さんの順に行われた(平日であったため、私の妻は参加出来なかった)。以上、30分弱でおしまい。片付けは山本さんがされる(ただし、この日は祭壇テーブルのみで笹竹・注連縄は数日このままだったようだ)ということで、我々は軽食を取ったあとに初音すまい研究所で打合せ。そして夕方から上野桜木にある阿部さん馴染みの花村 という懐石料理のお店で一同阿部さんの御馳走になった。趣味人、阿部さん行きつけの店だけあって、料理も店内も非常に洒落ている。今後、客人をもてなすときには使えそうな店だ。それにしても山本さん、妹と同じく刺身関係が駄目らしく、ちょっと料理が勿体なかったかな。まして妹と向かい合わせに座ってたし(^^;)
□◇
※1)地鎮祭
All About Japan: 住宅・インテリア チャネル の「地鎮祭レポート!! 地鎮祭にはどんな意味があるのか 」に準備するもの、その意味、手順などが写真付きで詳しく書かれている。
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by m-louis :
11:00
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2003年05月19日 (月)
初音すまい研究所作成 設計カルテ より
表 記 名:妻(K・カスケ・kasuke)
生 年 月:1965(昭和40)年1月
出 身 地:広島県甲奴郡総領町
(本籍:東京都三鷹市になった)
現 住 所:大阪府大阪市北区
血 液 型:O型(O・OのO!)
職 業:タイ語や英語を教えたりいろいろ・近所
--
身 長:157cm
利 き 手:右・本来は左なので事によっては左も。
性 格:いろいろ気にしい。ビンカン。
アレルギ:花粉症。
持 病:小学校の頃からの偏頭痛。ひどい時は脳貧血になるまで吐く。
寒暑がり:暑いのはかなり平気。寒いのは苦手。
生活規則:まぁまぁ規則的か。本来は夜に弱い方。
しかし、結婚後は夫の影響か、夜にも強くなってきた。
ストレス:感じやすい
眠り深さ:浅い方。時間帯にもよるが、物音で簡単に起きる。
睡眠起床:夜 1:00 or 2:00 − 朝・行動による
--
趣 味:難しい設問ですな。趣味とは何か。
音楽関係や書いたりは趣味とは言い難く。やって楽しくすっきりするもの。
昔、タイで作文の宿題「趣味」で、モノがたくさんあるのが好きではない
から、時々整理して捨てることとしました。
海外経験:タイ(留学含む)、シンガポール、マレーシア、スリランカ、カンボジア、
韓国(留学含む)、ベトナム、ラオス
好きな国には何度も行くリピーター。滞在型。
新居の夢:広々・すっきり・光
--
もし暇な一日があって、天気が悪く家の中に居るとしたら?
テレビ見たり、PC触ったり、適当に食べて、勉強したり、歌うたったり、音楽聞いて、料理して、お昼寝して、夫も仕事がないなら夫とゆっくりしたい。
□◇
M類作成 好き嫌いリスト より
リスト
好き
嫌い
色・色彩
色としての色はみんな
使われ方による
季 節
春や夏、寒くないとき
寒いとき
国・場所
バンコク、韓国(ソウル)、スリランカ (タイや韓国に着くと安心する) 北海道(広くておおらか)、名古屋(楽しい)
総領(実家)、遺跡(石系)、お城
寒すぎる。雑然
時 間
安心してる時、お家でゆっくり
お腹が空いてる時、ばたばた出掛けたり、 急いで食べたり、ゆったりしてない時
食 べ 物
タイ料理、韓国料理(特にチャジャンミョン!)
麺類全般、果物、甘いもの 、たくさんありすぎ!
豚などの血のゼリー、なまこ、 豚の小腸を乾燥させたもの
飲 み 物
コーヒー、牛乳、 果汁100%ジュース(特にスイカ、いちご)
都会の水(浄水しても臭い!)
音 楽
各国のポップ、オルタナ系、
各国の各種ロック(ヘビメタ除く) 何たって70-80年代ですから(^^) その頃のU.K.モノが原型と言えるでしょう。 真摯な良質の音楽(ジャンル問わず)
(昔の)フュージョン (ジャズフュージョンはok)
学 科
語学、倫社、学問としては何でも (できるできないは別(^^;)
数学、物理等、理数系 (好きでも出来ない(^^;)
動 物
以下のもの以外
は虫類、両生類、いもむし類、 ウツボのような蛇に似た水中生物
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by m-louis :
15:47
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2003年05月17日 (土)
初音すまい研究所作成 設計カルテ より
表 記 名:父(Y)
生 年 月:1931(昭和6)年10月
出 身 地:大連(本籍:山口県萩市)
現 住 所:東京都三鷹市(現在は台東区谷中)
血 液 型:A型
職 業:自営(印刷関係)
--
身 長:166cm
利 き 手:右
性 格:温和、短気(食欲に関して)
アレルギー:無し
持 病:糖尿病
寒暑がり:寒がり
生活規則:正しい(年寄りなのに朝寝坊)
ストレス:感じない
眠り深さ:深くも浅くもない
就寝起床:夜12:30 − 朝8:45
--
趣 味:音楽鑑賞、オーディオコレクション
海外経験:香港、グアム(30年前くらい)
アメリカ西部(20年前くらい)
ドイツ、フランス、イタリア、スイス(17年前)
ハワイ(15年前)、ブラジル(14年前)、大連(5年前)
新居の夢:暖かい部屋
--
もし暇な一日があって、天気が悪く家の中に居るとしたら?
CDを聴いたり、テレビを見たり、ラジオを聴いたり、読書をしたり・・。
□◇
M類作成 好き嫌いリスト より
リスト
好き
嫌い
色・色彩
黒、グレー
ピンク
季 節
春
冬
国・場所
ドイツ
朝鮮
時 間
睡眠時間
起床時
食 べ 物
中華料理
朝鮮料理
飲 み 物
ビール
日本酒
音 楽
クラシック
ロック
学 科
歴史
理・化学
動 物
子象
ハイエナ
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by m-louis :
20:49
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2003年05月16日 (金)
初音すまい研究所作成 設計カルテ より
表 記 名:母(M)
生 年 月:1944(昭和19)年2月
出 身 地:三鷹(父:愛知・母:長野)
現 住 所:東京都三鷹市(現在は台東区谷中)
血 液 型:A型
職 業:主婦、ピアノの先生
--
身 長:159cm
利 き 手:右
性 格:事柄によって鷹揚さに差
アレルギー:ピリン系薬、抗生物質に弱い
持 病:軽高血圧症、不整脈
寒暑がり:暑がり
生活規則:土・日・祝のみ不規則
ストレス:自分にとって都合の悪い事がストレスとなるという事は、
周りにはた迷惑かも!?
眠り深さ:深かったり浅かったり
就寝起床:夜1:30 − 朝(平日) 6:30/(休日) 8:00
--
趣 味:美術・音楽鑑賞、旅行
海外経験:1969年に世界青少年交流協会ハンガリー班音楽係・記録係として派遣。
(チェコ・ドイツ・仏含めて33日間)
7年位前にエジプト8日間、2年前にインド8日間。友達とツアーで。
新居の夢:古材をうまくとり入れた風通しのいい家。屏風絵に似合う家。
--
もし暇な一日があって、天気が悪く家の中に居るとしたら?
クラシックを聴きながら片付け。
□◇
M類作成 好き嫌いリスト より
リスト
好き
嫌い
色・色彩
無彩色、木成色
赤系統
季 節
四季それぞれ味わいあるが、年とるにつれ猛暑極寒はつらい
真夏
国・場所
世界の古い街並み
公園のトイレ
時 間
趣味共有の友人と一緒
予定外の行動
食 べ 物
和食
油っこい料理
飲 み 物
緑茶
人工甘味ジュース
音 楽
クラシック、雅楽
演歌
学 科
民族(民俗)学
法律、経済
動 物
鳥(タカ、カワセミ)、ウマ
コウモリ、ヘビ
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by m-louis :
22:57
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2003年05月15日 (木)
初音すまい研究所作成 設計カルテ より
表 記 名:私(T・M類・m-louis)
生 年 月:1970(昭和45)年11月
出 身 地:三鷹(本籍:東京都三鷹市)
現 住 所:大阪府大阪市北区
血 液 型:未測定
職 業:Web Creator(在宅)
--
身 長:172cm
利 き 手:右
性 格:優柔不断、忘れ物が多い(記憶力が弱い)
アレルギー:子供の頃、卵アレルギー。現在は花粉症。
持 病:耳が若干遠い。歩くとすぐに足の裏が炎症を起こす(単なる運動不足)
寒暑がり:冬は寒がりと言い、夏は暑がりと言う。
生活規則:仕事次第で変わるけど、割と規則的。ただ、家族とはズレてます。
ストレス:仕事内容によりけり。あと家族問題で悩む傾向が強い。
眠り深さ:夢をよく見るので、浅い方かもしれない。
睡眠起床:夜(朝) 6:00 − 朝(昼) 11:30 夕食後に1〜2時間仮眠
--
趣 味:ジャンルよりは特定の個人にハマりやすい。
バランスの取れた人よりはどこか壊れた人間に魅了される。
海外経験:結婚前/中国、スペイン、モロッコ、トルコ、NY、韓国、インド
結婚後/タイ、韓国、ベトナム、ラオス
新居の夢:色んな人の顔が見えてくる家。前の住居同様、屏風が家人であるような。
--
もし暇な一日があって、天気が悪く家の中に居るとしたら?
ふだんから家に引き籠もって仕事とプライベートの区別のつかない生活をしているので、もはや自分の中で「暇な一日」というのを見出せなくなっている。それでもそういう日があるのなら一日ゆっくり寝て過ごすか、なかなか手掛ける機会の作れずにいる三鷹金猊居の精密模型を作りたい。
□◇
M類作成 好き嫌いリスト より
リスト
好き
嫌い
色・色彩
特に好き嫌いはないが、突拍子もない組み合わせを好む
特になし
季 節
秋
春(花粉症がなければ嫌いでない)
国・場所
路地、市場、田舎、川、時々無性に都市の雑踏
リクライニングシート
時 間
夢見てる時、自転車に乗ってる時
目覚め時
食 べ 物
果物全般、発酵食品、卵、麩、蕎麦
なし(高校1年時で完全克服)
飲 み 物
薬っぽい中国茶、ラオビール、100%果汁、牛乳、水
水道水
音 楽
南米&アジアポップ、オルタナ系、
NYアヴァンギャルド、現代音楽、バロック
そのときどき
学 科
数学
社会・語学
動 物
ゴマフアザラシ、ヒヨコ、コクワガタ、猫
媚びた犬
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2003年05月14日 (水)
初音すまい研究所作成 設計カルテ より
表 記 名:妹(A)
生 年 月:1973(昭和48)年5月
出 身 地:三鷹(本籍:山口県萩市)
現 住 所:東京都三鷹市(現在は台東区谷中)
血 液 型:未測定
職 業:公共機関(非常勤職員)
--
身 長:165cm
利 き 手:右
性 格:おとなしい
アレルギー:特になし
持 病:子供の頃、心臓弱し、今はなし
寒暑がり:暑がり
生活規則:不規則(土・日・祝のみ)
ストレス:感じ易い
眠り深さ:深い方
睡眠起床:夜2:00 − 朝(平日) 6:50/(休日) 12:00
--
趣 味:旅行、スポーツ観戦、HP作り
海外経験:なし
新居の夢:アート的な家でありながら、住み心地の良い、空間を活かした家。
--
もし暇な一日があって、天気が悪く家の中に居るとしたら?
インターネット、HP作り。
□◇
m-louis 作成 好き嫌いリスト より
リスト
好き
嫌い
色・色彩
ブルー
蛍光色
季 節
秋
真夏
国・場所
沖縄県恩納村
渋谷のセンター街、工場が建ち並ぶところ(大阪・千葉)
時 間
インターネットをしてる時
通勤時間
食 べ 物
パスタ、チーズ
なまもの
飲 み 物
焙じ茶、牛乳、コーラ
ビール
音 楽
バロック
パンク
学 科
地理、心理学
経済学
動 物
小さいうさぎ
爬虫類
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by m-louis :
00:46
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2003年05月10日 (土)
初音すまい研究所作成 設計カルテ より
表 記 名:豊田さん(建築家)
生 年 月:1961(昭和36)年4月
出 身 地:大分県別府(生まれは山口?)
現 住 所:東京都台東区谷中
血 液 型:O型
職 業:建築家
--
身 長:165cm
利 き 手:右
性 格:自分では廻りに気を使ってるつもりですが、おおざっぱだと思います。
短気 嫌な事はすぐに忘れる方。
アレルギー:毎春花粉に悩まされる。
持 病:子供の頃は梅雨の季節に草負けをよくしました。
暑寒がり:結構双方とも平気な方です。
生活規則:けして規則正しくは有りません。
(一人暮らしなので、仕事ペースで生活しています。)
ストレス:ゆっくり眠れば解消するタイプだと思っていましたが、最近残るようです。
眠 り:浅い眠りの方が多いです(眠るのが下手なようです。なかなか眠れない)
--
趣 味:散歩・釣り・庭いじり・最近はめっきりですがダイビングもやります。
コレクション:特に無し(集めるのが苦手です)
海外経験:イタリア(m-louis 追記:留学されてたという話を聞いてました)、他
家づくり:家は住んで慣れてしまえばどんな家でも当り前の生活空間になりますが、
美しい家造りにこだわりたいと考えています。
毎日飲む水や吸う空気と同じです。
少しくらい空気が汚れていても生活は出来ますが、美味しい水と空気が
有る環境が知らず知らず人を豊かにすると思うからです。
□◇
m-louis 作成 好き嫌いリスト より
リスト
好き
嫌い
色・色彩
たいていの色が好きです。
最近は白・クロ・紺・焦茶 (派手で無くシンプルな色にひかれる)
プラスチックの生っぽいブルーグリーン
(ビニール製品が嫌いです)
季 節
春先〜夏にかけて
夏の終わり(意味も無く淋しい気分になります)
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