September 28, 2005

小林一三とのコラボ

BALMY BREEZE

父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二氏と知り合い。
祖父はその履歴に「1937年(昭和12年)、株式会社東宝劇場(社長小林一三氏)の委嘱に依り同劇場階段ホール壁画製作」とあり、「薫風(騎馬婦人群像図)」というタイトルの竪十尺(約3m)、幅十八尺(約4.8m)の壁画を制作している。残念ながらその壁画は1958年(昭和33年)東宝劇場の火災により焼失したが、我が家にはその下絵と葉書サイズのモノクロ写真、B5サイズのセピアカラー写真が残されている。

そんな二つの縁故が東京で生まれ育った私にも「阪急」をずっと身近なものにさせてくれたのかもしれない。京都に引越して初めて阪急電車に乗ったときも「おぉ〜、これが阪急電車か〜」と鉄道マニアでもないのに一際大きな感慨に浸ったものである。まあ、そうでなくともあの臙脂色の阪急電車ほどにカッチョええ電車を私は知らんが。。

ともあれ、東京に居ながらすでに「阪急」が特別なものだった私にとって、旧阪急梅田駅コンコースの印象はまさしく「ザ・阪急」とも呼ぶべき「阪急」イメージをMAXまで引き揚げてくれる象徴空間だった。あの金色のゴシック様式高天井にステンドグラスの取り付けられた薄暗い空間から一転、宝塚的な明るいヨーロピアン空間を抜け、地下鉄口へと降りていく。こんな場所、絶対東京にはないぞ!すげぇ関西!すげぇ大阪!と思って一年後に私はあっさり京都を捨てて大阪に移り住んでいたのである。

ただ、そのときの私にとってあのコンコースが「伊東忠太の・・」ということはどうでも良かった。むしろクライアントである「小林一三の・・」ということの方が俄然大きかったように思う。そんな個人的所感もまた gairaikaさんの「建てたのは誰か」の一例として通底してこよう。ついでに言うとかつて建築「家(か)」論で盛り上がったが、そもそも「Architect」の訳語を「建築家」としたのは伊東忠太であった。

ところで話は冒頭に戻るが、私にとっては実物を目にすることは永遠にあり得ない祖父が描いた東宝劇場の壁画だが、あの作品は私の中では他の祖父の作品とはどこか異質な印象が強い。もちろん祖父のいつも描いている線、よく取り上げるモチーフが描かれてはいるのだが、全体としての印象の中にそれこそ小林一三の色が入り込んで来てるように思えてならないのだ。小林一三本人に委嘱された祖父がどこまでのやりとりを氏と重ねてあの作品を描いたのかはわからないが、氏とのセッションなしにあの絵が生まれ得なかったことだけは確かだろう。そしてもちろんその壁画を見た多くの観客はそれを私の祖父の、としてではなく、やはり小林一三の、として見ていたはずである。

なお、せっかくの機会だから一つ便乗してしまうと、かつて有楽町の東宝劇場階段ホールにあった「薫風(騎馬婦人群像図)」というタイトルの壁画に見覚えのある方、またはそれに関する何らかの資料等をお持ちの方、コメントでもいただけたら幸いです。

父繋がりの阪急ブレーブス関連の話はまた後日。


by m-louis : September 28, 2005 03:25 AM
trackbacks
October 15, 2005 12:33 PM
さみしいきもち
excerpt: 小林一三さんは、どんな気持ちで見ていらしゃるのでしょうか?・・・
weblog: 心に映る由なし事 ココログ支店
comments

なるほど、そういうことだったのですね。
ブログが復旧したら阪急のことすぐ掲載しますね。。。
もう少しです。

by: mitsubako : September 29, 2005 05:51 PM
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