2004年09月12日 (日)
平地→坂住まい
赤瀬川原平著『我輩は施主である』文庫版46ページあたりにA瀬川氏が子供時分、門司に住んでいたときの話が出てくる。門司は「港からぐんと切り立っている地形で、家の回りは上も坂道、下も坂道で、世の中はそういうものだというのが僕の基本に焼きついているのだろうか」と氏は言うのだが、そういう意味では私含め、長らく三鷹に住みついてきた我が家族は家の回りが平地であることが焼きついていることになるのだろうか。
A瀬川氏はその後、東京での活動期(氏はその時期を賃貸呼吸の頃と表現する)を中央線沿線の平地がちなところで過ごしたそうだが、その頃は忙し過ぎて子供の頃に焼きついた基本(デコボコ感覚)は忘れていたそうである。それが賃貸呼吸からローン呼吸へ変わる年頃になって再び子供の頃の感覚が蘇り始めたらしい。というか、実際のところデコボコ感覚が土地決定の決め手になったというくらいなのだ。
それを読むと、私たちの土地選択は果たして正しかっただろうか?という不安に駆られぬでもない。何しろ今度の谷中の家は千代田線・根津の駅から歩いて7分は続く坂道の頂上にあり、そこからまた坂道を下っていくような、いわゆる坂の天辺にあるのだ。地名は谷中だけど、どっちかというと谷上と呼びたくなるようなところなのだ。
ここで土地選択の理由を書き出すと長くなるので、それはいずれ書くであろう計画初期時のエントリーに譲るが、いずれにせよ、谷中という場所を一つのターゲットに決めて土地探しを始めたとき、この坂の天辺の谷上をここならいいんじゃないか!と最初に言った張本人はこの私なのだ。いや、別に責任逃れをしようというワケじゃーないのだが、こうした土地決定においてまだまだ賃貸呼吸真っ只中の若造の直感を信じてしまって良かったのか?という話である。
ちなみに私個人は三鷹を離れてから京都千本今出川・大阪天満と住んでいるが、いずれも大した坂のない平地に住んでいる。それは偶然、最初から坂のない町で不動産屋を回っていたから考えもしなかったことだが、もし坂の多い町を候補地としていたなら、そこでそのことに考え(躊躇)は及んでいたであろうか?──こればかりは結果論でしかないが、谷中の土地選択にあたっては先の賃貸呼吸に加え、私自身が当面はそこに住むことがないという「住む」ことに対するリアリティの薄さも、そうした問題を気に留めなかった要因となっていたことだろう。
ところで現住人からは今のところは坂に対する苦情は聞かれない。実は引越直後に何日か私が先にあの家に寝泊まりしていたとき、まず、いの一番の必需品として電動アシスト自転車(※) を思い、母に急ぎ購入させたのだが、それは思い切り余計なお節介の買い物となってしまった。欲しくもないのに買わされたと後になって言われ、諸経費はすべて私持ちとすることとし、今や1F前室を窮屈にするだけの無用の長物となってしまっている。ホントに誰か買ってくれないだろうか?
とそれはともかくとして、今後、子供の頃からのベースとしてきた平地感覚とは違うところで住み続ける住人のことが心配なことは心配である。特に高齢の二人には単純に感覚の問題だけでなく、身体的にきついということもあろう。ただ、A瀬川氏の家を設計したF森教授に言わせれば「やっぱりね、お城のてっぺんがいちばん気持ちいいんだよ、人間は」と天守閣こそ一級物件とのことなので、まあ、そちらの気持ちよさに馴染んでもらうしかない。確かに屋上なんか上がるとつい口を突いて出そうにはなるんだよね。北島康介の例のセリフが(汗)