2005年10月08日 (土)
「小林一三とのコラボ 」でまずは母方の祖父がらみで阪急創設者の小林一三氏との縁について取り上げたが、今度は父がらみの関係で阪急との縁を見ていきたい。
前回「父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二 氏と知り合い」と書いたが、もう少し正確に書こう。父は満州は大連で暮らした中学時代、浜崎真二氏の息子さんと同級生で、その縁で浜崎真二氏にもかわいがってもらっていたのだ。
ネットで検索すると、1901年に広島で生まれた浜崎氏は慶応大学を卒業後、大連に渡り、大連満州倶楽部という社会人野球チームで活躍していたことがわかる。実際、父が言うには当時、満州では野球が大いに盛り上がっていて、相当に迫力ある試合が見られたという話だ。父が生まれる前の話だが、都市対抗野球の歴代優勝チームの記録 を見ると第1回から3回まで3年連続で満州倶楽部が優勝しているのだから、その実力のほどは確かである。
終戦後、日本に引き揚げた浜崎氏は当時まだ「ブレーブス」という愛称の付いていない時代の阪急軍の監督に就任し、兼任で投手としても投げている。彼の48歳での登板記録というのは今もまだ破られていない。それともう一つ特筆すべきなのがその身長。150センチだったというのだ。「小さな大投手」と呼ばれた選手はこれまでにもいたが、ここまでミニマムで大投手と呼び得た選手もおそらくは彼しかいないだろう。
引き揚げ後、いったんは郷里である山口(萩)に初めて帰った父であるが(三男坊の父だけは大連で生まれた子なのである)、まもなく同志社大学に入学し、関西に寄る辺のない父はそこで再び浜崎氏の世話を受けることになる。どうも最初のうちは当時、西宮球場にあった阪急選手たちの寮に寝泊まりさせてもらっていたらしいのだ。また、浜崎氏の息子さんと遊ぶのに、宝塚にあったという浜崎監督邸にも遊びに行っていたらしい。そして、その縁で父の阪急ブレーブス・ファンの歴史は始まり、それが東京で生まれ育った、そう簡単には阪急との縁を持ちにくい私にも伝染したというわけだ。もちろん私が物心付いた頃の阪急ブレーブスは山田・福本・加藤の同級生トリオが円熟期を迎え、物凄く強かったことも子供ながらに魅せられる要因ではあったろう。中学・高校時代の親と話したくなくなる年頃にあっても、どうにか父と子の対話は首の皮一つ阪急で繋がれていたように記憶する。まあ、それしか会話がなかった気もするが(笑)
と以上、これまで「父と満州 」「祖父は満鉄社員だった 」と二度にわたって取り上げてきた「満州」の話をこうして「阪急」がらみですることになろうとは私自身、予測もつかなかったことである。しかし、考えてみれば私の父方祖父は満州鉄道の社員であり、阪急もそのベースとしてあるのは阪急電鉄という鉄道会社なのだ。
近代社会においては鉄道会社こそがまさしく「線路」という線を土地に引くことによって、その周辺のまちづくり、そして人々の生活のイメージを築き上げてきた。今回、冒頭に取り上げた絵葉書は大連・連鎖街という云わば百貨店の建ち並ぶ大連市内の様子を描いたものである。もはや言うまでもないだろう。それが1929年創業の阪急百貨店うめだ本店のファサードに似通ってるということなど。
大連・連鎖街 CHAIN-STORE STREET, DAIREN 二百有余の各種専門商店が一つの統一ある体制の下に整然たる商店街を造るのが連鎖商店街である。言はゞ百貨店の街であり、街そのものが百貨店である。而も其処には映画殿堂や児童遊園、大浴場、支那料理店等があり、大連の新名所として又大連のプロムネイドとして見るべきものが多い。
最後にはなるが、父を阪急に引き合わせてくれた浜崎氏の息子さんである父の友人が去年の12月に亡くなり、父は葬儀にも参列したらしい。おそらくその父の友人の存在なしにはこのエントリーもなければ、あの「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」のブログもなかったことだろう。ここに浜崎親子のご冥福を謹んでお祈りいたします。
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2005年10月03日 (月)
実家から届いた荷物に北欧を旅された元?初音すまい研究所 の矢原さんからのお土産が入っていた。スウェーデン産チョコレートと STOCKHOLMS STADSBIBLIOTEK (ストックホルム市立図書館)のバッグである。ちなみに上の写真の鞄の絵柄だと平面的に見えるかもしれないが、2F部分の開口部の大きさが端に行くほど狭くなることからもわかるように、四角い箱状の1F中央部に円筒形の筒がどしんと埋め込まれたような感じで、内部の書架もぐるっと一回りできるようになっている。まあ、Flickr! などで実物の写真を見てもらった方が手っ取り早いだろう。
ちなみに設計したのは「スウェーデン建築の父 」と呼ばれるエリック・グンナール・アスプルンド(Erik Gunnar Asplund・1885-1940)。阪急の件で出て来た伊東忠太は日本の「建築巨人 」と呼ばれるが、彼は1867年に生まれ1954年に亡くなっているのでアスプルンドの人生をすっぽり覆うだけ生きていたことになる。それが父と巨人の違いってヤツだろうか?(^^;) 北欧デザイン紀行「アスプルンドとの出会い 」というページの下方には色が白のバッグの写真も出ている。判の大きな図録等を持ち歩く向きには(つまり建築科学生にとっては)如何にも便利そうである。
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2005年09月07日 (水)
朝妻さんの「石川淳氏 設計の家 見てきました。 」というエントリーで書かれていた「いつもながら“ 石川さんらしい ” 家でした。」を読んで思ったこと。
この場合の "石川さん" とは建築家であって施主ではない(そういえば昔、石川淳 という作家はいたが...)。そして外観から内部の様子に至るまで計10枚、おそらくは家の見せ場であろう写真が掲載されており、何となくそれを見るだけでも "石川さんらしさ" は充分伝わってくる。石川淳氏の公式サイト で過去の作品を幾つか見てみたが、朝妻さんの "石川さんらしい" というコメントはなるほど頷けるものであった。
ところでこうした「らしさ」というものは施主という観点で見るとどうなるのだろう。
実をいうと私は自分の家を「自分らしい家」だとは思っていない。それは家づくりにおいて実質的に私と同等の権限を握っていた母についても同様で「母らしい家」でもなければ「父/妹/妻らしい家」でもないという風に現時点の私には見えている。
こうした話を建築家の豊田さんとは話したことがないので、豊田さんがそれを聞いてどう思われるのかはわからないし、もし「私たちの家族らしさ」を考えて設計されたのだとしたら、この話は耳を背けたくなるだろう(スミマセン、豊田さん>汗)。
ちなみに豊田さんと取り組むことになる以前、つまり前任建築家たちの解任劇が続いた頃のプランというのはある意味で「私たちの家族らしい」家としての空気感を持ち合わせていた。というのも解任前に進められていたプランというのは実は父が書いた図面をベースにしたものであり、さらにそのもう一段階前の時点では私の書いた図面も検討されていて、それがそのまま実現ということになっていたとしたら、それはかなり「私らしさ」が前面に出てしまった建物となってしまっていたことだろう。
ところが結果的にそうした自分たちらしさを表象したプランを推さず、豊田新案で再スタートしようと思い立った背景には、むしろ私の中で「らしさ」を家の表現として追求することの危険性を感じていたからに他ならない。私にとっては父らしい家や私らしい家であるよりも、誰かを特定しない家であった方が、少なくとも「家族」という単位が暮らす場所としては住みよいのではないか?と思ったのである。同じ「らしさ」を追求するのなら「谷中らしい」家であることの方が重要だった。
ただ、冒頭で引き合いに出した建築家の場合はやはり逆のベクトルということになるのだろうか。それこそ「作風」という言葉があるように、そしてそれは実質的に建築家の実績=営業ともリンクするので、簡単には否定し難いはずのものである。
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2005年09月02日 (金)
8月の電気ご使用量のお知らせが届いた。
例年よりもエアコンを多用した気がしていたので、それなりの出費は覚悟してたんだけど、4,898円/237kwh。想像(6,000円強)してたよりは全然少なくて済んでしまった。こんなことならばもっと使っててもよかったんだな〜とちょい後悔。
しかし、これはあくまで私と妻が暮らす大阪のマンションの話。
谷中の実家が幾らだったか?なんて怖くて聞けやしない聞けやしない(汗)
一度実家家族と我々を住居交換して、月の電気ガス水道料がどうなるのかを実験測定してみたいものである。
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2005年08月10日 (水)
実はこのエントリーは一ヶ月ほど前に「蝉の破裂」というタイトルで頭の中だけで準備していたエントリーをリプレゼントしたものである。ただし季節ネタなだけに書くタイミングを逸して、多少タイトルと内容が変わって来てしまった。
1999年夏、大阪に越してきた日の翌日、私たち夫婦(当時はまだ夫婦ではなかった)を最初に驚かせたのが蝉の鳴き声だった。それは引越荷物の段ボールに囲まれ、寝苦しい夜を過ごしての早朝だった。だが、早朝から目を覚ましたのは決してその段ボールによる暑苦しさからではなく、開け放した窓の外から聞こえてきた「シャーシャーシャーシャー」と連続して響くクマゼミの鳴き声によってなのであった。
ただ、当時の私はそれがクマゼミの鳴き声だとはわからず、水道管か何かが破裂して、水が吹き出した音ではないか?と勘違いしていた。東京に生まれ、東京に育った私にとってクマゼミの鳴き声というのは馴染みの薄い音声 (88KB)である。東京都心部ではミンミンゼミ、郊外ではアブラゼミが主流を占め、他にツクツクボウシやヒグラシがいる程度で、クマゼミの鳴き声を聴くことはほぼ皆無に等しい。だからあの一斉に激しく始まるシャーシャー音を蝉の鳴き声と気付くのにしばらく時間が掛かってしまった(間近で聴く鳴き声とマンションの室内で聴こえる鳴き声の響きが違うこともそうした判断を鈍らせていた)。
だから今も7月半ばにクマゼミの一斉騒音が始まると、大阪に引っ越してきた日の朝のことを思い出す。おそらくこの記憶はクマゼミの鳴き声をマンション室内から聴く環境にある限り、忘れることはないだろう。それにしても大阪のクマゼミの数はちょっと異常に多すぎるんじゃないだろうか? 子供時分、セミ捕りに耽って北の丸公園などにわざわざ連れて行ってもらってたこともあったが(アブラゼミよりミンミンゼミの方が自分の中での価値が高かったため)、この大阪のクマゼミほどの数の蝉がそこかしこに居たとしたら蝉の価値も大したことなかったろう。それとも東京も同じように増えすぎた状態にあるのだろうか?
2015年の世界を描いた「新世紀エヴァンゲリオン 」では新東京市が一年中真夏で蝉が鳴き続けてる世界が描かれていた。現在の社会環境・地球環境を見ていると10年後にそんな状況に絶対にならないという保証はもはやどこにも見当たらないだろう。
蝉の破裂は人が納めて行かなければならないものだろう(無論一掃するのではなく)。
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2005年07月28日 (木)
garaikaさんが「涼み台で花火鑑賞 」と自慢(?)されている(笑)
谷中の家も立地的には隅田川の花火が屋上から見えるところにあるのだが、生憎「とある障害物 」のおかげで花火の方角の景観はすべて遮断されてしまっている。
他方、私が現在住んでいる大阪のマンションは裏が天神祭の行われる大川で、天神祭の花火大会も部屋からは3/4、非常階段に出ればバッチリ間近で見られるので、涼み台には叶わぬものの、花火を見るロケーションとしてはうってつけである。
マンションもこの日くらい屋上を開放してくれてもいいのに!とも思うのだが。。
ちなみにそのマンションに引っ越した去年、私は実家の引越手伝い等で天神祭 もギャル御輿 も花火大会 も見逃していて、家からの花火は今年が初めてであった(ちなみに現在のところに引っ越す前もすぐ近所に住んでいたので、毎年花火は見ていた)。
で、我々が住む8階、もしくは11階の非常階段から目線と同じ高さに上がる花火をしばらく見ていたのだが、何かが物足りない。大阪に越してきたばかりの夏、大川を望む帝国ホテルの上階から見たらさぞ迫力満点だろうと思っていたが、花火の音が聞こえず何とも寂しい思いをしたことがある。だから花火に音は不可欠と思っていたが、どうも私にとって花火というのはそれ以外にも必要な要素があったようである。
それはあの普段は鬱陶しくてならないはずの人混みに紛れて、あんぐりとアホっぽく口を開けて、多少首を痛くしながら上を見上げて花火を見るというあの汗苦しい猥雑な感覚じゃないだろうか? 別に garaikaさんの「涼み台 」や谷中の家の「とある障害物 」恨めしさから言うつもりはないが、祭や花火ってもんには「雑踏 」が持っている過剰な高揚感が不可欠な気がしてならない。
□◇
※)本文中に採用した写真は去年妻が部屋から撮ったものです。
※)関連エントリー
・greenplastic.net「天神祭奉納花火 」: 川の向かい側から撮られた花火を発見!
・ノアノア「花火 」: 名古屋マンション生活時代の花火体験談
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2005年07月20日 (水)
「食洗機とトップライト 」という個人ネタ(家族愚痴)エントリーに garaikaさんからTB いただいてちょっと恐縮気味なので、こちらでも食洗機談義に続編として触れておくこととする。というか、この際だからズバリその答えを書いてしまおう!
なーんて言うとずいぶん偉そうではあるが、その答えとは garaikaさんのTB元エントリーのタイトル「食洗機それぞれ 」であることは間違いない。要するに各家庭によって向いている家もあればそうでない家もある。そこのところをしっかり事前に話し合って(見極めて)決めた答えならばそれは正しく、その意味で我が家の事例を誤ってしまったケースとして前のエントリーでは取り上げていた。
しかし、こうした設備機器類のあるなし論というのは結構ヒートアップしやすいもので、一度使ってその便利さを覚えてしまったものは「なぜ?勿体ない!」となるだろうし、使ってない側は使ってない側で色々屁理屈が出てくるものである。
そこに garaikaさんのようにかつて使っていた立場ながら「使わない」選択をされてるような存在が出てくるとまたひと味違うが、それでもこの件に関しての論議は「それぞれ」でよいのだと思う。
ちなみに私は使ってない側なので、使わない側の屁理屈を幾つか挙げてみると
溜めてから洗わないと勿体ないという食洗機だが、溜まる前に使い回したい食器がすぐに出て来てしまうことが予測できる。 省エネというが、どうも信じ切れない。
(というか自分たちの洗い方がかなり省エネ的なので、それに勝てるのか?) そもそもあんまり皿を使ってない。
(買ってきた総菜をパックのまま食べてる実家の場合) 食器くらい自分の手で洗ってないと手や脳が鈍りそう。 といった具合だが、この中でも最後に挙げた話はある種バリアフリー/アリー問題と通ずるところがあるだろう。だが、これもやはり考え方は「それぞれ」であり、逆の立場からすれば、そこは手荒れの解消と食器洗いの時間を他のことに有効に使えるとして、それが実践されているのであれば全く問題はないのだろう。
ただ、まあ、私はどうも葡萄の皮は自分の手で剥いて食べたいクチで、それと似たようなもんなのだろう。種なし葡萄なんてのも余計なお節介もいいところで、あの種の回りのぷにゅっとした部分を舌先を使って取り出して食べてこそ葡萄だと思うのだが、そう思うのは滅茶苦茶少数派なのかもしれない。が、それもまた良しという話である。
□◇
※)参照エントリー
便利なモノを通じて人間の能力論に展開してるエントリーにTB。
・ノアノア「カーナビと食洗機 」
・Under the Bridge「物覚え・物忘れ 」
・家づくり、行ったり来たり「便利な道具の是非論 」
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2005年07月17日 (日)
家の引き渡し から1年が経つというのに、我が家では一度も使われていない設備機器がある。食洗機と略称される食器洗い乾燥機がソレだ。
この食洗機に関しては計画時それなりに一悶着あった。
唯でさえモノで溢れかえっている我が家なのだから、システムキッチンとして少しでも有効に収納スペースを取っておいた方がいいのでは?というのが母以外の意見であったが、母は食洗機にこだわったのである。確か「お客がたくさん来たときに苦労するのは結局私一人なのだ」とかなんとか言って‥‥。まあ、食洗機自体が収納の役割も果たせはするので、皆、母の願望に割と早くから折れた恰好にはなっていたが‥‥。
(というのも、ここで抵抗するとあとあと面倒くさいので)
ところがその食洗機がついこの間まで1回も使われていなかったのである。説明書を見るのが面倒くさいという理由によって。ただ、さすがに保証期間過ぎてから、初期不良だったなんてことがわかったというんじゃシャレにならないので、妹にお願いメールを出してどうにか動作確認だけしてもらった。で、その後の母の口ぶりからすると、今後もそれが使われそうな見込みはない。何でも動作中結構な熱を帯びるらしく、暑い夏にそれじゃ溜まらんってのもあるようだし、それにそもそも、そんな纏めて洗わなければならないほどの食器が出てくるような食卓ではないのである。うちの実家って。
その傾向は谷中に来る前からもだったが、谷中に住み始めて一層激しくなったようだ。何が?というと彼らの外食率が!である。そして家で食べるときにしても、買ってきた総菜などで賄われることが多いので、ロクに洗うものなんてないはずなのだ。
こうした状況まで考えるなら、母のヒステリーに脅えず、最後の増減見積調整段階で母を説得して、代わりにトップライトを開閉式にしなかったのが大いに悔やまれるところである。あそこが開くようになっていたなら、母の望む屋上での干し物もタラップ経由ではなく出来たわけだし、それ以上に風の通りが違ったはずなのだ。別の論理でヒステリーを沈静化させられる可能性もあったというわけだ。
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2005年07月12日 (火)
先週末、谷中の実家家族と私共夫婦合わせて5人で、愛知県一宮市北方町 の木曽川べりにある母方祖父の墓参りに行ってきた。先月行った諏訪の墓には祖父母ふたりの遺骨が眠るが、こちらはM類家代々の墓から数百メートル離れたところに分骨された祖父の骨だけが埋葬されている。要するに代々の墓はもう飽和状態なのである。曾祖父母の代までは土葬だったという話だし。。(汗)
以前「家と命 」というエントリーで細木数子の暴言を引き合いに出して、しかしながら家が出来たからにはご先祖様にその報告と感謝の気持ちは伝えておいた方がいいんじゃないかということを書いたが、竣工してもうすぐ1年というところでようやく墓前でのその機会は得られたということになる。血族ではない父も何となくそれを気にしてたらしきところがおかしかった。何はともあれ、我が家の新築に亡くなった祖父母の関与するところは大きいのである。
ところで旅疲れを抱えてそれぞれ帰京・帰阪してからの電話で母に聞いてみた。
「もうすぐ住んで一年経つけど、どう? その家がもう帰ってきたなって感じの家?」
すると母も父も妹もドカッと腰を下ろせる場所はもう完全に谷中になってるとのこと。
実際、私にとってのそういう場所は谷中ではなく、現在住んでいる大阪になるのだが、家族にとって谷中がそういう場になったという話を聞くのはホッとするものである。
祖父の命日の日に(1979年7月12日永眠)
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2005年06月28日 (火)
山林 では小一時間ほど過ごし、それから宅地に向かった。宅地は山林の麓の墓地から降りて行けば目と鼻の先にあるのだが、公道を通って行こうとすると結構迂回しなければならない。まあ、今回は車だったのであっと言う間だったが。。
ちなみにこちらの宅地は山林と違って一応は母も私も勝手知ったる場所で、墓参りの度に何をするでもなく立ち寄ってボケーッと見るだけ見て帰る。お隣さんに畑 として貸しているので、畑に踏み込むことは憚られたが、やはり自分たちの所有地だと思うと何となく確認だけはしておきたくなる、これまでの我々にとってはそんな場所だった。
ただ、この土地は上記区画図を見てもわかるように、宅地として考えたときの土地形状は頗る悪い。とにかく道路に面する間口 が狭すぎるのだ。祖母の話を伝え聞く母の話によれば昔はそれでも軽トラックが通るくらいの幅はあったということなのだが、持ち主の不在を良いことに隣地との境界線がどんどん浸食されていったらしい。
現在は計ってみたら実測約1.6mで、さらには入口すぐのところに石碑と灯籠 が立っているので、その分を差し引くと1mもない間口ということになってしまう。つまりは何をするにも搬出入に苦心しなければならない立地というわけだ。
そんなことから泰n叔父さんの口からは「ここは処分した方がいいな」という声が早々にあがっていた。とりあえずその場で私は沈黙するしかなかったが、その言い分は充分理解できるものである。何しろ私たちがここに来るのは年に多くても2回。どう考えてもこの土地にこれから先「住む」ということは考えられないし、また決して地の利のよい場所でもないので、そこにアパートのようなものを建てて家賃収入を期待するのも難しい。というか、それより何より先ほども書いたように、まず土地形状が宅地として考えると悪すぎるのである。
しかし、私はここも山林同様、処分したくないと考えていた。
その考えは今回の諏訪訪問以前から既に胸の内にあったものたが、実際に再確認して尚更その意思は強まったと言えよう。それは一つには祖母がこだわった茅野家唯一の証しともいえる土地を継承すべしという意識が多少なりとも自分の中に働いているというのもあるのかもしれない。だが、それ以上に私が手放したくないと思った理由は、その宅地としては悪すぎると言われる土地形状にこそ魅惑を感じてしまったからだ。
確かに搬出入では不便するだろうけど、幾つかの既成概念を取っ払ってその土地を見直してみれば、魅力的なアイデアは幾らでも沸き上がってくる。というか土地を見ながら色々イメージが湧いてしまってしょうがなかったのである(やっぱり建築ってのは「土地」=「条件」あってのものだね、今更ながら)。
現場の確認をしていると、敷地を畑 として貸しているお隣さんがちょうど出て来て挨拶旁々お茶に招かれた。母以外の3人は実質、初対面である。その席でこれまでの土地貸借の経緯について聞くことになった。
もともとこの辺一帯は茅野家の土地で、母曰くお隣さんは小作人だったという話なのだが、1947年GHQ指導による農地改革でその関係が一変したのだろう。その頃祖母は東京で私の母を産み、子育てに忙しかったはずだから、茅野家の土地のことは養父や弟の泰大叔父に任せっきりになっていたにちがいない。とすればその改革による土地の割り振りで思うような結果が残せなかったのもやむを得ない話だ。
お隣さんによれば土地を借りることになった当初、貸借に関する直接的な交渉は祖母の養父が行っていたらしい。それが泰大叔父に引き継がれ、結局祖母は1995年に亡くなるまで自分の土地は諏訪の親族に任せっきりにしてしまった。そして祖母の死後、私が名義上の所有者になっても変わらず泰大叔父が面倒を見てくれていたので、私も私でお隣さんはおろか泰大叔父との交渉も母に任せっきりにしていたのである。ところが泰大叔父が去年の春に亡くなり、土地の処遇問題が不意に浮上するのだが、それについては「母方祖母の系譜 」のエントリーで説明済みとなっている。
尚、お隣さんとしては処分するならするで仕方ない話だし(場合によってはお隣さんが買い取るということも考えられる)、処分せず当面何もする気がないのであればこれまで通り、畑として貸してほしいということだった。その場で即答はしなかったが、当面の間は私もそれで良いと思う。それとさきほど土地の形状について記したときには触れなかったが、この土地にはもう一つ問題があって、上記区画図からもわかるように土地が急斜面で二分されているのだ。そしてお隣さんに畑として貸しているのは右側の広い部分で左側の狭い区画は所謂空き地状態になってしまっている。何で全てを貸さなかったのかは聞いてないのだが、土地を見る限りその斜面がかなり急で日常的に気軽に上り下り出来るような場所ではないのである。ましてや西側面には手前の家の柵があるので云わば八方塞がりの状態。さすがに畑として使う気にもなれないだろう。
そして空き地ということは当然放っておけば雑草が生い茂ってくる。そこで泰大叔父がそこの手入れを年五千円でお隣さんに依頼し、年に一二度草むしりをしてくれていたらしい。しかし、その泰大叔父が亡くなったことによって支払いがなくなり、それからは目立つ草を刈るくらいでそんなにちゃんとは手を加えていないのだという。
ところが、これについてもここの近所に住む善n叔父さんがしばらくその場所を貸してほしいと申し出てくれて、当面の間は雑草の心配はしなくて済みそうである。
といったところで今回のエントリーは状況報告で留めておくが、すでに私の中で膨らみ始めている妄想の幾つかを披瀝するなら、そこには「小屋」「防空壕」「上から入る家」といったキーワードが浮上してくる。そしてその最初のターゲットとなるのは、出入り口のない八方塞がりになっている狭い方の土地だ。
これは私も rattlehead さんの「家の妄想の記録 」に倣って「小屋の妄想の記録」なるブログでももう一つ作った方がいいのかもしれない。
いや、まあ、カテゴリ追加するくらいでいいか?(笑)
今後の参考書籍として『小屋の力 』(ワールドムック社・¥3,800-)を挙げておく。
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