June 17, 2005

母方祖母の系譜

諏訪の油屋旅館と辰野の蛍」のエントリーで私名義の宅地山林について個別にエントリーすると予告したが、どうやらその前に私の母方祖母の系譜を少しばかり繙いておいた方が先の話を展開しやすくなりそうである。そんなわけでこのエントリーでは祖父があのラブレターを送ったその伴侶たる祖母の出生にスポットを当てることとする。

GREAT-GRAND FAMILYこれまで祖母が諏訪の出身であることは「第25回打合せ: 丸太再検証」「祖父から祖母への手紙」のエントリーなどで触れてきた。祖母は諏訪の隣町の「茅野」という地名と同じ茅野家の第一子として1908(明治41)年に産声をあげる。だが、祖母の誕生を前に父親(私の曾祖父)が戦病死してしまうのである。よって祖母は実母が間もなく再婚した相手(実父の親友だったらしい)の家の長女(4人兄弟の)として育てられることになった。というか、生まれたときから実父はいなかったのだから、実際、養父と家族同然で暮らしてきたのである。

その祖母がそうした事実をいつ知ったのかとか、それに纏わる葛藤があったかといった情緒的な話はさておき、祖母が晩年においても茅野家のことをたいへん気に掛けていて、私をM類家の養子にしたあとに、あわよくば妹まで茅野家の世継ぎにと考えていたらしいことは小耳に挟んでいる。しかし、我々身内間でもさすがに茅野家の面倒までは見切れないだろうというのが大方の心情というものだった。ただ、幸いにも祖父母の墓は分骨されて諏訪の茅野家の墓の横にもあるので、墓参りをする人がいなくなってしまうということは少なくとも私の代まではない。

GREAT-GRAND FAMILY私名義の土地というのは、その祖母が茅野家唯一の相続人として受け継いできた茅野家の土地である。祖母が亡くなり、養子ながら唯一の嫡子として土地だけ一切合切を相続することになった私が祖母名義の宅地と山林も引き継いだのだ。
ただ、その土地はすでに祖母が東京に出て来た頃より、祖母の養父、そして諏訪に住む弟(長男)が実質的な面倒(隣家に畑として貸していたので、その交渉など)を見ており、祖母にとってはせいぜい何かが起きたときに遠くから判断を下す程度のものになっていたし、母や私にとっても墓参りのついでに宅地の方は寄りはすれど、山林は一回も足を運んだことのない場所だったのである。

そうした土地の処遇問題がなぜ浮上したかといえば、それは去年の春に祖母の弟である 泰大叔父が亡くなったことに拠る。その後、泰大叔父の息子さん兄弟が財産整理をするにあたって、その土地をどうするかの問い合わせがあったというワケだ。
彼らの共通した見解としては、自分たちの目が黒いうちはまだいいが、今後、代が変わっていくとその土地を近場で面倒見てくれる人がいなくなってしまうので、もし何だったらこれを機会に処分してしまってはどうか? まあ、二束三文にもならない土地ではあるけれど、、というようなもので、ただ、処分するしないに関わらず、今一度見て貰ってから判断した方がいいだろうということで、それで私と母が諏訪を訪れることになったのである。

そんな訳でここから先の話は山林と宅地に分けて見ていこうと思うが、ちなみに二束三文というのが具体的にどのくらいかというと、122m2(37坪)の宅地評価額が約160万円、1869m2(565坪)の山林が約7万円と計170万円前後で私にとっちゃ二束三文では決してないが、しかし東京の地価から考えたら、狭小住宅も真っ青なお値段なのである。「広大住宅」って本はできないのかしら?(笑)


by m-louis : June 17, 2005 03:24 PM
trackbacks
▲PAGETOP