2005年02月22日 (火)

施主適齢期

住宅建築ネットワーク」のコメントスペースでは施主と設計者の「恋愛結婚」という言葉が出て来たが、結婚適齢期という言葉があるように施主が家を建てる適齢期というものはあるのだろうか。今回は祖父のケースを引き合いに出して考えてみたい。

050222_mitaka1.jpg

私の祖父は自邸=三鷹金猊居を29歳で建てている。
身内贔屓であることを承知で言うならば、あらゆる意味において早熟だった私の祖父は自分の家を建てるということにあっても、自ら実施図面まで引いて大工を指示する辣腕振りを発揮していた。当時祖父の本職は日本画家だったが、工芸や建築への造詣も深く、日本画での繊細な描写を得意とする祖父にとっては建築図面を精緻に描くことはお茶の子さいさいだったにちがいない。何せ残された図面のコピーを見た私の知り合いの建築史家もぶったまげてたくらいだから。

しかし、そんな早熟多才な祖父が私の目から見て決して満足な一生を送れなかったように思える理由の一つにこの三鷹金猊居の存在があるような気がしてならない。1997年10月に祖父の遺作展(※1)を企画した私はその挨拶文で「不遇」という言葉を使ったが、今回の家作りという経験はその言葉の採用に些かの疑問を抱くものとなった。私は9歳のときに祖父を亡くして以降、母方の身内からは事あるごとに祖父は無念を残したまま死んでしまった、時代が悪かったという話を聞かされてきたが、果たしてその話を鵜呑みにしていて良いのだろうかと思い始めたのである。

「不遇」という言葉には運や巡り合わせといった自力ではどうにもならない不可抗力が働いてしまったからこそ陥ってしまった不幸な境遇といったニュアンスがある。確かに祖父の場合は「時代が悪かった」という言葉が示す通り、人生これからというときに太平洋戦争を迎え、また両親に弟の戦死と相次ぐ身内の不幸にも翻弄された──そんな話を聞かされれば迷うことなく「不遇」という言葉をあてがいたくなってしまうものだが、どうだろう? もし祖父がそうした人生の分岐点ともいうべき時期に自身の家を構えていなかったとしたら? 家作りという大事業に身を投じることなく画業に専念していたとしたら?──もちろんこの疑問に答えを出すことはできない。だが、祖父の履歴書は自邸の完成以前以後であまりにも歴然とその明暗が分かれているのである。即ちそれは祖父が人生の岐路において致命的な選択ミスをしていたのではないか?(つまりおしなべて「不遇」とは言い切れないのではないか?)ということだ。

050222_kingei2.jpgここで結論を出す前に祖父が家を建てた時期のことを再検証しておきたい。
三鷹金猊居は資料に拠れば1939(昭和14)年、即ち日独伊三国同盟が成立する前年、第二次世界大戦が勃発せんというときに建てられている。その2年前の27歳で祖父は結婚しているので、年齢的には早いような気もするが、結婚を機に一家の主として居を構えたくなったというのは当時においても自然な流れと言えるだろう。
だが、ここで当時の時代背景の方に目を傾けると、何て不安定な時期にそれも東京の三鷹という充分戦火の及びそうな地域に家を建ててしまったのか?という声が聞こえてきそうである。だが、それは歴史を後から見た者の視点であり、実は北朝鮮のテポドンがいつ飛んで来るか知れぬのにそのことにさほどリアリティを持てずにいる現在の我々と似たような状況なのかもしれない。つまり築造当時、東京が戦場になることなど多くの国民は考えもしなかったのではないか。とすれば、その時代性において祖父が家を建てる時期を見誤ったとは一概には言いづらくなってくる。

むしろ私が疑いを掛けたいのは当時の祖父の内面の方にある。さきほど私は結婚→新築を自然な流れとしたが、それはあくまで当時にあって完全に自立した一般成人のことを差しているのであって、祖父にもそれが該当するとは実は考えていない。家作りの経緯については長女である母でさえ家が完成して5年後に生まれているので、例えばどのような資金繰りが行われたのかとかいう実情を子供心に見ることもできなければ、ちゃんとした話としても聞かされてもいない。だから想像でしかモノが言えないのだが、少なくとも私の目から見て、日本画家だった祖父が自力で家を建てたとは到底思えないのである。ましてや東京という土地でありながら広大な敷地に精巧極まる建具意匠と、とても標準的な家のスケールでは収まり切らぬ、言ってしまえば屋敷に近い家を建ててしまうことが出来たのには、祖父母両実家およびその周辺親族の財力(援助)あっての話と思わざるを得ない。

050222_kingei1.jpgこれも推測に過ぎないのだが、おそらく祖父は祖母と結婚したことで、その虚栄心から三鷹金猊居をあのような若さで建ててしまったのではないか?──それが私が今回の家作りを通して辿り着いた祖父の「不遇」という境遇に対する新たな見方であった。即ち祖父は不遇な境遇から自分の人生を貧しくしたのではなく、自らの虚栄心によって人生のバッドカードを引いてしまったのではないか?ということだ。それは何だかんだ言いつつ30代前半で自分がすぐに住むという訳ではないものの、施主責任者として2年掛かりで家作りに没頭していた私自身にも微妙に重なっている。

少なくとも祖父は自分がアーティストだという自覚で生きていこうとする限り、そんな歳で家を持つ必要などまったくなかったはずだ。大作を描くためのアトリエが欲しかったということもあるのかもしれないが、まともなアトリエを持たずに大成した画家など幾らでもいる。むしろ画家と貧乏はいつの時代も背中合わせのものであり、アトリエ持つのも家を構えるのも、それらは本人の納得行く成果が得られてからでも遅くはなかったのではないだろうか。良くも悪くも家を建てるということはその人間の自由を束縛するものなのだから。


以上、これはほんの一握りしかいないアーティストという職種の特殊事例とも言えるが、自分の家を建てる時期というものが人生に及ぼす影響という意味では、どんな職種の人間にとってもそのタイミング(適齢期)の重要性は変わらないだろう。

住宅ローンの金利が変わるとか、住宅減税、消費税といった類の利率が変わるといったことから住宅購入を急かせようとする業者はたくさんおり、漠然と家を建てたいと思っている者にとっては仮に1%でも額が額だけについ心を揺さぶられがちになるのはやむを得ない心情だろう(言うまでもなく営業担当者はそこを突いてくる)。実際、我が家でも税金控除を目当てに最初の建築家に設計期間の短縮を迫ったことはあった(まあ、最初がのろのろしすぎてたとも言えるのだけど)。だが、そうした焦りから来る切迫は失敗に結びつきやすいものであり、事実それによる失敗を経験した現在、まあ、自分自身が今後自分のために家を建てるということは全く考えられないけど、もしそれがあるとするならば、それは自分を含めた家族が家を持つということに当たって完全に機が熟したと感じられるようになってからで充分なような気はしている。タイミングを誤った人生はなかなか取り返しが利かないが、利息分のお金というものは節約しながら働けば何とかなるものである。住環境を半ばゼロから再整備するに等しい家作りは、社会における自身の力量がおおよそ見え始めるだろう(それは自ずと自身の晩年が朧気ながら見渡せるようになるときであろう)人生の折り返し地点あたりがその適齢期ではないか?というのが私の現時点での持論である。


050222_kinsada.jpg最後にもう一度祖父の話に戻るが、私の中では今回こうした結論を出しておきながら、他方で祖父は画業で満足な結果が残せなくても、実は愛する妻との暮らしを心ゆくまで楽しんでおり、まわりが言うほどには不幸な人生でもなかったのではないか?とも考えていることを追記しておきたい。まあ、それを言ってしまうとここまで書いてきた話がすべて身も蓋もなくなってしまうのだが、ある種の諦めの境地の上に成立する(余生?)しかしながら幸せな生活ってどうなんだろう?ってことを34歳の人間が言うべきじゃないんだろうけど、私もまたすでに家を建ててしまってるだけに自らに引き寄せて考えたくなったりもするのだ(汗)

祖父の遺作展で作成したリーフレットには、晩年の祖父が祖母に宛てて書いた手紙が掲載されている。もちろん祖父の許可なんてものはある訳なく、というよりもその過激な内容のため、身内の検閲(顰蹙)を半ば無視する形で私が強引に載せてしまったのだが、その手紙を読んでいると人生の敗北を語りながらもどう見ても不幸というよりは幸福にしか見えない夫婦像が浮かび上がってくるのである。
どこかにテキストデータは残ってるはずなので、見つけたらここでもアップしちゃおっかな〜と(笑)


□◇

※1)「丸井金猊とその周辺の人たち」展 ── ごあいさつ 昭和初期の社会的混乱期に日本画家としてスタートを切った不遇の芸術家、丸井金猊。この展覧会は、没後20年になろうとする金猊のほとんど知られることのなかった作品を、初めて公に公開しようとする金猊の初個展であり、と同時に遺作展です。
 活動期から60年以上の年月が経ち、あらゆる情報が風化/混濁化しているため、大作屏風2点を含む軸・額・オブジェ・習作など60点あまりの残された作品(と思われるもの)は、ある程度の時代区分を設けるだけで、こちらの趣意による特別な選定をできる限り避けて展示することにしました。
 他方、薄れゆく金猊の情報を現時点で少しでも確保しておくために、金猊とゆかりのある作家、あるいは友人、教え子、親族らに本展に寄せて出品、もしくはメッセージをお願いし、金猊の情報に少しでも多く触れられるよう工夫をしてみました。作品という饒舌/寡黙な物質とはまた別の側面で、作家の肖像に親しんでいただけたらと思っております。
 最後になりましたが、この展覧会実現のため貴重な作品の貸出しをご承諾下さいました所蔵家の皆様、ならびに関係各位に深い感謝の念を表します。また本展の軸・屏風のほとんどの表装を手掛けて下さいました牛田商事【飛高堂】様には、搬出入から企画の相談まで格別のご協力を賜り、心から御礼申し上げます。
1997年10月  主催者

by m-louis : 2005.02.22 19:18
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comment

大作の執筆、お疲れさまでしたv(o ̄∇ ̄o)

御祖父様自らかかれた実施図面の緻密さはすごいですね!

テキストデータ、是非探し出してアップして下さい!

by ノアノア : 2005.02.22 20:28

>ノアノアさん

コメントありがとうございます。

実はこのエントリー、書き始めは今月頭くらいだったんですが、その後、忙しくなってしまってしばらく放置してたものだったのです。だから真ん中くらいからだいぶ最初に書こうと思ってたのと違うことを書く結果となってしまいました。ま、書こうとした主旨はそんな変わらないんですけど。

祖父の手紙は近日中にアップさせてもらうつもりです。MOに入っちゃってるんで出すのが面倒くさいんですね。何しろ現在、MOと繋がってないPC使ってますもので。。

by m-louis : 2005.02.23 01:38

同じく祖父の建てた家をかなり意識している身としては、このエントリにコメントをつけないわけにはいきません(笑)。

m-louisさんのお祖父さんが描いたという図面、原寸大で是非見てみたいものです。

建具を見てもスゴさがにじみ出ていましたから、さぞ、という思いです。

私の方は、祖父が私が生まれる前に逝去しており、祖母も亡くなった現在にあっては、家の由来がm-louisさんのところ以上に不明です。

我が家は当時、田舎で半農半工のような仕事をしていましたから、祖父が建てた家は洗練とは遠いです。ただ、戦後で物資が足りない時期にそこそこの資金をつぎ込んで「まっとうな家」をあえて建てたのには、やはり何がしか祖父なりの理由があったに違いありません。

m-louisさんのエントリを読んで、どんな背景があったか知りたくなりました。父がどれだけ知っているかは分かりませんが、あらためて聞いてみようと思います。

古屋とくっつく今度のあたらしい家については、由来や背景がわかるよう、自分のblogをはじめ、いろいろなところに記録を残しておこうと思っています。少なくとも、ひ孫くらいまでは愛着を持って使える家にしたいので。

前のエントリでお墓のことがありましたが、家を大事に使うということも先祖を大事にすることとつながっていると改めて思います。

by garaika : 2005.02.24 07:15

>garaikaさん

私も叶うことなら祖父が建てた家を残したまま増築という形を取りたかったのですが、三鷹の土地が借地だったということが結果的には一番の仇となってしまいました。この辺の経緯についてはいずれ触れねばなるまいと思ってます。

しかし、過去の情報を求めようとしたとき、日記があれば言うことなしですが、それがない場合に有効な情報源として手紙というものが出て来ます。が、この手紙、現在のメールのように送信した手紙が手許に残らないんですよね。実際、祖父はかなりの手紙のやりとりをしていて、受け取った手紙はそれなりに保存してあったのですが、最も親しくやり取りしていた方のご遺族に問い合わせたところ、祖父の出した手紙は残ってないとのことでした。もう少し私が早く生まれていればまた状況は違ったんだろうと残念に思います。

しかし、garaikaさんの場合、そのお祖父さんの直接の記憶すらもないんですね。そうした状況下で尚かつお祖父さんの建てた家に興味を持たれるというのはやはりその家自体が持っている魅力のせいでしょうね。先日の現場記録写真で足場が屋根に掛かってる写真が見られましたが、私個人としてはオープンハウスのときには古屋もオープンしていただきたいくらいです。いや、もちろん無理は申しませんが(笑)

祖父の書いた図面はいずれギャラリースペースを活用できるようになったときには展示することもあると思います。というか、三鷹金猊居に限定した企画をやるというのもいいかな〜と思ってまして、、それとせっかく自由に使えるスペースなので、今こうしてやりとりしてる施主ブロガー集結して何かやるってのも面白いかも知れません。

by m-louis : 2005.02.24 13:04

m-louisさん、いちおう古屋もオープンするつもりです。

ただ、もしかしたら補修工事の途中、という状況になるかもしれません。

内壁を塗りなおしたりしておりますので。

オープンハウスの連絡もまもなくできると思います。

こちらとしても谷中のギャラリースペースのこと楽しみにしています。何かやるときは教えてください。

by garaika : 2005.02.26 08:18

『施主適齢期』非常に興味深く読みました。絵画も見させていただいた、おじい様はもはや、おなじみな感じがするぐらいになりました。それにしても、適齢期とはおもしろいところに着目しましたね。そんなこと考えたこともなかったです。私の祖父の場合は、もっと歳がいってからのことだったし、しかも人にお任せの設計だった。ただ、ヴォーリズだったところが、ちょっとあの時代にユートピアをもった人だったのではと思ったりしてます。それか、ただバター臭いものが好きだったのか……。

M類さんのおじい様がひいた図面からもひしひしと情熱のようなものを感じます。筆を持ている写真がM類さんの若かりし頃に似ています。(笑)

by mtsubako : 2005.02.26 22:14

>garaikaさん

古屋もオープンですか、、それは本当に楽しみです。

ギャラリースペースの方はとりあえず今度上京したときに1Fの整理具合と実家の家族の様子を見てみないことには何とも言えませんが、ただ、ノアノアさんのところでお見受けしたところ、単身赴任に終止符のご様子。そうすると気軽にいらしてくださいとは言いづらくなってしまいますね。

>mitsubakoさん

適齢期について考えさせられたのはやはり今回の家作りを経験した結果です。履歴書を見れば本当に見事にそこで分断されているので、勘が良ければ家作り前に気づくこともできたんでしょうが、仮にそこで気づいたとしても今こうして実感してるようなことを思うことはできなかったでしょう。これは明らかに今回の家作りがもたらしてくれたもの(=成果)だと思っています。

by m-louis : 2005.02.27 02:28

m-louisさん、

確かに気軽さは後退しますが、勤務地は東京ですし、新幹線定期という強力なツールがあるので金銭的な気軽さはまだあります。

半日休暇をもらって見に行くことも可能ではあります。

ま、その都度告知してみてください。

by garaika : 2005.02.28 08:56









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