2006年07月29日 (土)

朝鮮人街道、高麗橋まで

LBGO「近江八幡日帰りの旅・その3」で京街道商店街の丁稚羊羹で有名な紙平老舗のことが書かれているのを読んでいて、お店のご主人から教わった話を一つ思い出した。
それはその商店街のある京街道が近江八幡〜彦根あたりまでにかけて朝鮮人街道とも呼ばれているということについてである。ちょうど市立資料館を出て、商店街へと向かう途中に「朝鮮人街道」と書かれた石碑があり、その脇には近江八幡観光物産協会による以下のような説明書きがなされている。

朝鮮人街道(京街道) 近江八幡観光物産協会江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたと言われています。
行程は、ソウルから江戸までの約2,000キロにもなりますが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれています。
本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行われました。

江戸幕府が鎖国中にオランダを始めとする数カ国との国交を維持し続けていたのは知っていたが、まさか朝鮮からの使者をこれほど盛大に迎えていたとは知らなかった(国交といってももっと細々としたものと思っていたのだ)。その「多い時には500人規模で組織され」たという「朝鮮通信使」については、はちまんガイド「やさしい朝鮮通信使の話」や「Wikipedia(幕府と李王朝の仲介役となった対馬藩の話が面白い)」を参照されるとよいだろう。

関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が中山道の脇街道だったこの京街道を凱旋したことから、京街道は吉例の道とされ、大名行列の往来などが禁じられる。そんな中で朝鮮通信使は特別扱いの厚遇を受けて、その吉道の行列通行を唯一認可されたのである(そこには幕府の内政威圧意図もあったようだが)。おそらくはそのことから近江庶民の間で京街道を「朝鮮人街道」と呼ぶ習わしができたのだろう。

紙平老舗のご主人によれば、何年か前(おそらく2002年10月19日・20日)に当時の朝鮮通信使の行列通行を再現する行事が行われ(おそらく「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流大会」)、ふだん見慣れぬ衣装を着た人たちの行列が店の前を通ってとても面白かったと言われていた。最近『宮廷女官 チャングムの誓い』にハマッているので、その様子は何となく想像ができ、もしまたの機会があれば是非とも行ってみたいものだ。

ところで朝鮮人街道と呼ばれる区域ではないものの、京街道といえば、今年の3月に行った橋本遊郭も京街道沿いの宿場町の一つなのであった。また、その終着点というか出発点は豊臣時代に京橋から高麗橋に移されたというが、高麗橋といえば如何にも朝鮮的な名前であり、実際「Wikipedia」にも朝鮮半島との関係が複数の説において語られている。で、その高麗橋は家からチャリで10分程度のところなので、改めて確認に行ってみると何度か通ったことのある阪神高速下の橋で、橋の脇にあった石碑の文章をこれまた引用しておこう。何となく欄干の擬宝珠のデザインを見て韓国風に感じたのだけれど、そのことについては特に触れられていなかった。

高麗橋(こうらいばし) 昭和51年春 大阪市東横堀川は大坂城築城のとき外堀として改修されたといわれる。高麗橋はそのころにかけられたらしく現在大坂城天守閣に保存されている慶長九年(1604)の銘のある鉄製擬宝珠(ぎぼし)はこの橋のものと伝えられている。
江戸時代の高麗橋は幕府管理の十二公儀橋の中でも格式高く、西詰に幕府の御触書を掲示する制札場があったほか諸方への距離をはかる起点にもなっていた。
明治三年(1870)九月大阪最初の鉄橋にかけかえられ、さらに昭和四年(1929)六月に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかわった。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷(やぐらやしき)を模した柱は昔の面影をしのぶよすがとなっている。

by m-louis : 2006.07.29 17:31
comment

こんにちは、m-louisさん。関西にお住いだから当然なのですが、ここんとこしばらくのエントリーは、「おお、ここネ」というものばかり。なんだか、嬉しいです。私のばあい、関西に住んでいながら、最近、実際に自分の足でウロウロしているのは関東や東北ということになっているので、拙ブログはエントリーの内容と「看板」とのあいだにギャップから生まれつつあり、まずいな〜と思っています。ところで、朝鮮人街道ですが、こんな本もありますよ!!
http://www.biwacity.com/sunrise/index_com.jsp?itemClass=26349&item=27202

by わきた・けんいち : 2006.08.01 10:41

>わきた・けんいちさん
もう関西に「おかえりなさい」状態なのでしょうか?(^^;)
しかし、エントリーに関してはお互い様なところもありまして、うちのブログも「谷中」の看板背負ってるくせに、谷中の話題が出てくるのは年3、4回程度の帰省したときのみ。やはりどうしても現在形で目の前にあることが話題の中心になってしまいます。

わきた先生を前に滋賀県について触れるのは大変おこがましくもあるのですが、夫婦共に滋賀県の土地の魅力と人の良さにすっかり虜でして、今後も度々訪問したり、それについてエントリーしたりと出てきそうです。
ですので間違ってるところなどありましたら、ツッコミよろしくお願いします。

「「朝鮮人街道」をゆく」は中央図書館に蔵書があるようなので、まずは図書館で見てみるつもりです。

by m-louis : 2006.08.02 03:13

お久しぶりです。お元気ですか?
私もチャングムにハマっているので、朝鮮人街道、興味深い話です。

また、地元にも見るべきものは多々あるとわかっていつつ、今気になる所に関心が向いています。

by greenagain : 2006.08.02 12:31

>greenagainさん
アレレ?なぜか greenagainさんからのコメントがメールで届いてなくて、今、コメント付いてることに気づきました。

greenagainさんもチャングム、ハマッてられますか!
あのドラマを見て、朝鮮人街道の話に接するのとそうでないのとでは、その想像できるイメージはまるで違うんじゃないかと思います(笑)

それと仰るように地元っておそらくどこであれ、色々面白いモノは転がってるもんですが、つい外に目が向いてしまいがちなんですよね。地元民の視点と余所者の視点を自分の中で往復できるようになると、いろいろ見えてくるモノも変わってきそうな気がします。

by m-louis : 2006.08.07 03:08

またまたお久しぶりです!!

朝鮮通信使について、
江戸時代の幕府は朝鮮との国交窓口として対馬藩に10万石を与え、幕府の信頼を対馬に示すため 徳川歴代の位牌を万松院に納めています。朝鮮通信使には通訳として対馬藩が同行したのですが、こうして色んな場所に足跡があるにも関わらず、対馬以外にはあまり興味を持っていませんでした。
m-louisさんの記事を読んで、『あ、そうか!』と気づくありさまです。

いつもながら素晴らしい文章とリサーチ力に(涙)です。。。

by シンパ : 2006.08.08 22:32

>シンパさん
最近、通訳の果たす役割の大きさを何かと実感することの多い今日この頃です。
通訳的価値の高い人間は対立関係の中でも、活かされ、生かされますよね。
私は英語すらままならないのですが、うちの妻は英語・タイ語・韓国語と話せるので、それらの国と何かあったときには、妻だけ生き残って私は殺されちゃいそうです(汗)

実は樋口一葉の日記と一緒にわきた・けんいちさんが紹介してくださった『「朝鮮人街道」をゆく』もアマゾン注文しました。到着が超楽しみです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/488325108X/mlor-22

by m-louis : 2006.08.10 00:09









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