江戸幕府が鎖国中にオランダを始めとする数カ国との国交を維持し続けていたのは知っていたが、まさか朝鮮からの使者をこれほど盛大に迎えていたとは知らなかった(国交といってももっと細々としたものと思っていたのだ)。その「多い時には500人規模で組織され」たという「朝鮮通信使」については、はちまんガイド「やさしい朝鮮通信使の話」や「Wikipedia(幕府と李王朝の仲介役となった対馬藩の話が面白い)」を参照されるとよいだろう。
関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が中山道の脇街道だったこの京街道を凱旋したことから、京街道は吉例の道とされ、大名行列の往来などが禁じられる。そんな中で朝鮮通信使は特別扱いの厚遇を受けて、その吉道の行列通行を唯一認可されたのである(そこには幕府の内政威圧意図もあったようだが)。おそらくはそのことから近江庶民の間で京街道を「朝鮮人街道」と呼ぶ習わしができたのだろう。
紙平老舗のご主人によれば、何年か前(おそらく2002年10月19日・20日)に当時の朝鮮通信使の行列通行を再現する行事が行われ(おそらく「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流大会」)、ふだん見慣れぬ衣装を着た人たちの行列が店の前を通ってとても面白かったと言われていた。最近『宮廷女官 チャングムの誓い』にハマッているので、その様子は何となく想像ができ、もしまたの機会があれば是非とも行ってみたいものだ。
ところで朝鮮人街道と呼ばれる区域ではないものの、京街道といえば、今年の3月に行った橋本遊郭も京街道沿いの宿場町の一つなのであった。また、その終着点というか出発点は豊臣時代に京橋から高麗橋に移されたというが、高麗橋といえば如何にも朝鮮的な名前であり、実際「Wikipedia」にも朝鮮半島との関係が複数の説において語られている。で、その高麗橋は家からチャリで10分程度のところなので、改めて確認に行ってみると何度か通ったことのある阪神高速下の橋で、橋の脇にあった石碑の文章をこれまた引用しておこう。何となく欄干の擬宝珠のデザインを見て韓国風に感じたのだけれど、そのことについては特に触れられていなかった。
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