2014年08月04日 (月)
すっかり更新ご無沙汰してしまいましたが、ひさびさにこちらでも告知!
谷中M類栖/1f は今年も「芸工展2014 」に参加します。
芸工展2014 参加プロジェクト
「金猊馬考」展 Kingei Resources vol.19
日時:2014年10月11日(土)~13日(月・祝)・24日(金)〜26日(日) 13:00〜17:00
会場:谷中M類栖/1f
〒110-0001 東京都台東区谷中1-6-3(Google Map )
午年に因んで今年は日本画家・丸井金猊が繰り返しモチーフとした馬の絵を展示。
なぜ金猊は馬を好んで描いたのか? さらには人はなぜ絵を描いてきたのか?
また、焼失した東宝劇場壁画「薫風(騎馬婦人群像圖) 」下絵(1937年作)を観ながらの塗り絵ワークショップを開催。戦前の画家は壁画にどんな色を使おうとしたのか?
想像の翼を広げて考えてみましょう。
2009年11月02日 (月)
今年も「ですます」調を「である」調に差し替えるのが面倒で(文意が変わることもあるし)、そのまま丸井金猊公式サイトで書いた記事を転載してしまうが、芸工展としては4回目となる丸井金猊「生誕百年」展 を終え、今年何よりも感じたのは金猊が谷中にだいぶ定着してきたな〜ということだった。
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芸工展参加としては四回目を数える丸井金猊「生誕百年」展 も無事終えることができました。谷中M類栖/1f まで足をお運びいただいた皆様、大変ありがとうございました。
今年は金猊「生誕百年」ということから、同じ「生誕百年」で話題になっている太宰治に便乗した思わせぶりなメッセージを芸工展マップの70字以内の企画概要に掲載。そのため会期前ににわか仕込みで太宰の中短編を何篇か読み、なぜ太宰?と聞かれても良いように、三鷹時代の表札を玄関前室に置いて、母には去年三鷹に出来た太宰治文学サロンまで行ってもらって太宰に関する資料を数冊買ってきてもらい、太宰と金猊の生涯比較年表も用意していました。[PDF: 140KB ]
が、それも取り越し苦労だったようで、会期中、太宰についてのツッコミは特になし(´-`;)
とはいえ、この機会に多少なりとも太宰を囓ったおかげで、彼への歪んだ先入観はだいぶ変わりました。最初に手にした『ヴィヨンの妻』は半分くらい読んで、まるっきり頭に入らなかったのですが、そこで太田光が推薦する『富嶽百景』に切り替えたらこれがなかなか面白く、それを読み終えてから『ヴィヨンの妻』に戻ると、太宰のある種、落語のようにも感じられる語調に乗せられるように読めるようになりました。
『女生徒』は文句なしにうまい!と唸らされながら読みました。ただ、どうもそれを女性が読むとおねえ口調のようでわざとらしいって感じられるようで、なかなかその辺の解釈は人によりけりのようです。
ともあれ、金猊と太宰の共通点と言ったら、その同じ年生まれと三鷹在住ということ以外は特に見当たらず(せいぜい気取り屋なところくらいか?)、それは準備前からの想定通りで、なぜ太宰?と聞かれたら、同時代同地域作家ながらまるで方向性の違う人間が太宰とは別に存在したのだということを見てもらいたい展示なのだと説明するつもりでいました。ですので、特に展示物に太宰との共通性を考える必要もなかったのですが、ただ、『富嶽百景』の何ページかを読んだときには、晩年作の『青龍老栖富嶽の図 』を愛知県は稲沢の親戚方から借りようかと一瞬迷いました。結果的に時間がなくて、借りるには至らなかったのですが。。
さて、事実上太宰とは無関係な展示の方は、それでも太宰には存在しなかった「晩年」(小説『晩年』があるので話がややこしいですが)の画を一つは出したいと思い、「洋蘭図 」を入口左手のスペースに展示しました。この「洋蘭図」は1997年に三鷹市美術ギャラリーで開催した「丸井金猊とその周辺の人たち」展で、美術評論家の椹木野衣氏に一番興味深いと言われた画で、当時晩年作は身内の間でも評価がいまいちだったので「なぜに洋蘭図?」と思ってたのですが、自分の中でも見ているうちにだんだんと面白く感じられるようになった画です。特にマーク・ロスコを思わせる背景の描き方、金猊はこのときアメリカの抽象表現主義絵画をどのくらい見ていたのか定かではありませんが、まずそれへの意識があったのかどうか知りたいところです。そして今年も観に来てくれた画家の今村仁氏が「そのロスコ風をぼかすんじゃなくて、オレは全部描くよって気概で一本一本線描写に入ってるんだよね」という画家ならではの興味深い言葉を残して帰りました。
続いて毎年出している「さだゑ図」、初年度に出した「*芥子花圖 」をいつもの位置に掛け、その下の水屋箪笥に今年は引き出しを開けてその上に三鷹金猊居の設計図を展示しました。箪笥の上には同じく設計図面の展開図冊子を、その横には金猊の詩集を置き、箪笥の前には金猊作の六脚箱 を置きました。そして正面には「壁畫に集ふ 」の定番屏風。
収納扉スペースには谷中初出の「寿 」。この切り貼りデザインに関心を寄せるのはやはり若い人に多く、しかし、さきの今村氏はこの画も画家の仕事だということを強調してました。確かに箔を張り、切り紙も紙によっては筆で色を塗った紙が張られていて、ある種、パピエ・コレ的なアプローチに近いと言える面もありそうです。
その隣に「鷺圖 」。これはいつもと違うスペースでの展示で、今年は例年よりも少し展示位置を下げたので、いつもより画の上の方が見やすかったはず。
そして、今年の目玉が完全初出の下絵「*柿と八手と猫 」でした。これは母もその存在を忘れていたくらいの、あまり金猊らしくないタッチの完成作不明の下絵なんですが、どちらかというと犬好きな金猊が猫を描いている という点でも注目に値します。それもその猫がまた切り貼りで張り直してあるという(下絵なので、そういう操作は珍しくはありませんが)(^^;) 実際、本作がどのような描写になったのかは想像がつきませんが、この下絵段階の特に八手の配置が非常に複雑で、まずこの下絵を出そうと考えたことから同じ並びの「寿」「鷺圖」は同じ構成要素の強い、かつ複雑なものにしようという判断が生まれました。ちなみに母が偶然にもその画の脇に置かれる備前壺に柿を活けていたのは思わぬシンクロでした。
谷中へ行く前のイメージとしてはこれで主な展示は終わりのつもりだったのですが、いざ北側壁面を見ると毎年出している軸物が一点もないことに気づき、額だと額の下のスペースが妙に空いています。ということで、今年はそのスペースを活用して、これまで1点ずつくらいしか披露できなかった美校一年生時に学校の課題で描いた植物画を5点並べることにしました。
これによって今年はなかなかバラエティに富んだ見応えのある展示になったのではないかと思っております。当初は毎年そう代わり映えしないし、けど、お知らせしないのも何だかな〜だしということで、一応お知らせはするけど、わざわざ来てもらわなくてもいいですよ〜的なメールを流してたんですが、いざ終わってみると案外貴重な展示だったかな〜と。特に「*柿と八手と猫」は下絵なだけに次の展示機会が何年後になるかわかりません。
ともあれ、今年で四回目の芸工展参加で、金猊がだいぶ谷中に定着してきたな〜ということを実感した展示機会となりました。何人かのお客様は毎年秋に金猊に会えることを楽しみにしてると言ってくださってます。また、教え子の皆様方の間では何となく谷中M類栖/1f が同窓会の場的な雰囲気にもなっていて、是非是非今後とも活用していただきたいところです。今年も金猊がレタリングの授業では特に「R」の描き方に厳しかったことや、資生堂「花椿」の木偏が撥ねるのは間違っているということをしつこく授業で話していたことなど、オモシロエピソードを幾つか聞かせていただくことができました。
本当はもうちょっと長い会期を取ってやれると良いのでしょうが、なかなか遠隔地からの出張だと時間を作るのが難しく、来年も2〜3日の会期ということになってしまうかもしれませんが、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
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2009年09月06日 (日)
谷中界隈の地元で毎年秋に開催されている町ぐるみの展覧会「芸工展2009 」に
谷中M類栖/1f は今年も丸井金猊リソース の展示で参加します。
芸工展2009 参加プロジェクト [EM-014]
日本画家・丸井金猊「生誕百年」展 Kingei Resources vol.11
日時:2009年10月16日(金)〜18日(日) 13:00〜17:00
場所:谷中M類栖/1f(Google Map )
生誕百年に湧く太宰治と同じ年に生まれた日本画家丸井金猊。終の栖となる三鷹に住み始めたのも同じ年。ところが両者の共通項は不思議と少ない。はて...
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以上が芸工展実行委員会に7月に提出した申込情報。
今年は去年よりも1日長く、時間は開始・終了ともに1時間早い。
「はて…」と思わせぶりな企画内容については、実は太宰治の桜桃忌が話題になっている頃に申込入力していたので、つい SEO対策を!とあらぬ欲が出てしまった。が、実のところ、ほとんどノープランに近い(汗)
実際、太宰と金猊は時空間的には重なる要素が多い割に、まるっきり共通性が見えないというか、そもそも金猊は三島由紀夫の生理的嫌悪ほどではないにせよ、太宰を好ましくは思っていなかったとも伝え聞く。「生まれてすみません」の太宰が入水自殺してしまった戦後間もない1948年、金猊は新制神奈川県立神奈川工業高校の工芸図案科で本格的な教員生活をスタートさせた。しかし、それは金猊が画業で生きることを諦めた、云わば「画家としての死」を完全に受け入れた瞬間でもあった。
その後、金猊は教職にのめり込み、厳しい学生指導に当たった。誰が選んだか知らないが、私が flickr にアップしていた金猊が教鞭に立つ姿の写真のスキャン画像が「学校教育現場の情景」として Wikipedia「教育 」に掲載されている(魚拓 )。
後から顧みれば「画家としての死」の後の生を、画業以上に強い意欲を持って美育に生きたようにも伺える金猊(参考:神工デザイン科ルネッサンス )。生誕百年となる今年は、いつもの展示リソースにそんな眼差も紛れ込ませられたら面白いかもしれない。
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2009年02月07日 (土)
2007年3月18日, 東京都文京区本郷, Nikon D50/46mm
「曙ハウス 」関連展示でお世話になった文京ふるさと歴史館 から平成20年度収蔵品展「蔵出し!文京ゆかりの絵画 ─逸品・珍品、勢ぞろい─ 」という展示案内が届いた。
個人的には長谷川雪旦「昇竜図」(1824年)を観たいところだが、根津・千駄木界隈を描いた画も多く出品されるようで、昔日の風景を知る意味でも楽しめそうだ。
企画展「蔵出し!文京ゆかりの絵画 ─逸品・珍品、勢ぞろい─」
会期:2009年2月14日(土)~3月22日(日)
主催:文京区・文京ふるさと歴史館
開館時間:午前10時~午後5時
休館日:毎週月曜日
入館料:一般個人100円・団体(20人以上)70円 ※65歳以上・中学生以下は無料
展示解説:2月19日(木)、3月12日(木) 午後2時~30分程度 担当学芸員
ところで一つ余談にはなるが、ちょうどテレビ朝日の開局50周年記念ドラマスペシャルということで、「警官の血 」という戦後60年に渡る警官三代を描いた大河ミステリーのドラマが2夜連続放送されていて、昭和32年に焼失した谷中・天王寺の五重塔が一つの舞台となっていた。谷中は文京区ではないし、町としての意味合いもだいぶ違うけど、それでも時代の空気感としては近しいものが描かれていたはずだ。キャストも豪華で、そんな中、阿藤快さんがキャイ〜ンのウドちゃんに見えて仕方なかった(笑)
冒頭の写真は2年前に撮影した文京ふるさと歴史館のすぐ近所の写真。
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2008年10月30日 (木)
芸工展2008 が終わってもう10日も経っている(芸工展本体の終了日は10月26日)。
ブログ更新の習慣を失って以降、こうした展示活動の記録もつい億劫になりがちで、思えば一宮市博物館 での特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」の総括も未だにできていない。まあ、あれは大展示だったので、期間中に考えたことの色々はその後も頭の中を巡っていて発酵しつつあるので構わないが、こちらの小展示での些細な出来事というのはもう何日かするときれいさっぱり記憶の彼方に消えてしまいそうなので、何とか仕事の隙間(でもないんだが)を見つけて記録しておくことにした。といっても、まるまる丸井金猊公式サイト で書いた記事の転載ではあるが(写真の配置が少しだけ違う)。
あと、リソース展のタイトル変更を会期直前に行ったが、どうもしっくり来ないので、もう一度バージョン表記を復活させ、丸井金猊展を一から数えたボリューム表記の方はシャープ(#)で短縮して、バージョン表記の後に付けることにした。
-- 以下、丸井金猊「丸井金猊リソース ver3.0 #10 を終えて 」より転載 -----
芸工展2008 「丸井金猊リソース ver3.0 #10 」で谷中M類栖/1f までお越しいただいた皆様、大変ありがとうございました。前エントリーでご案内したように今年は4月末から約1ヶ月、愛知県の一宮市博物館で特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」が開催されました。展覧会図録や講演会では美術史家の山本陽子さんが金猊作品について触れられ、とりわけ屏風絵「*観音前の婚姻圖 」についての作品分析が強く印象に残っています。そこで今年の芸工展は「*観音前の婚姻圖」をメインに据えた展示にしようと特別展開催中から考えていました。
「*観音前の婚姻圖」は谷中では初展示ということになります。これまで展示してきた「壁畫に集ふ 」も人物を中心とした屏風でしたが、「*観音前の婚姻圖」には観音様という人物の並びの中に似て非なる違和が入り込んだことによって、それが人物画だという意識がかえって強烈に働き、であれば、今回は人物画を中心とした展示にしようという考えに至りました。
そこで最初に思いついたのが、特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」では作品の傷みが激しいという理由で展示を見送られた江南の叔父のところにある「*聖徳太子二童子像 」2点を展示しようということでした。これによって、愛知県まではるばる足を運んでいただいた方にも未見の作品があるという楽しみをお持ちいただけたのではないかと思います。
そして、もう一つの目玉として、所在不明となっている「ハープとピアノ 」という作品の下絵を展示しました。この「ハープとピアノ」の下絵は2点あり、完成作の様子はアルバムに残されていたセピア色の写真1枚によってしか知り得ないのですが、今回展示した下絵はその完成作とは異なるものの方です。見較べていただければ一目瞭然ですが、ピアノを弾いている人物が今回展示した下絵は男性、完成作では女性で、完成作には犬も描かれています。もう一つの下絵はその完成作と同じもので、一宮市博物館でも展示の計画はあったのですが、スペースの都合から見送られました。尚、うちで完成作でない方の下絵を選んだのは、そちらの方が下絵の上部がしっかりしていて、画鋲で留めやすかったこと。もう一つは下絵の線が濃く描かれていて、他の実作と比較されても見劣りしないで済みそうだと思えたからです。
一宮市博物館の特別展含め、これまで下絵の展示は何度か行ってきましたが、谷中では初めての試みだったので、ギャラリーとはいえ、居室でもある空間で合うかどうか、実際に展示してみるまでは若干心配でもありました。しかし、その心配は杞憂に終わったと言えそうで、今後も下絵をある種の「新作」として随時公開していきたいと考えています。
他、今年の展示作品は去年も展示した軸の「浴女 」と毎年展示している版画の「さだゑ圖」、そして谷中では初出となる「婦女圖 」、菊池契月の模写画「稚児圖條暢 」を展示して人物画としてまとめました。しかし、人物画とは言っているものの、それらの人物たちはどれもリアルな肉感を携えた描写とはほど遠く、金猊の妻・さだゑの言葉を借りれば「霞を食べて生きている」ような人物像ばかり(「さだゑ圖」の版画は除く)。基本的には金猊が若い時分に何度となく模写を繰り返した仏像や歴史画の人相をしています。そんな中、ぽつんと人間としては描かれていない観音様がおわしまして、ところがその顔を見つめると誰よりも人間味を帯びているように見えてくるという、そんな不思議感覚を楽しんでいただけたらと思っておりました。
しかし、こういう展示でなかなかそうしたコンセプチュアルな主旨を伝えるというのは容易ではなく、美術史家の山本陽子氏が図録で書かれた「*観音前の婚姻圖」の作品分析も一部抜粋して会場で読めるようにしておいたのですが、会場内の他のお客さんという人物が結構たくさんいらっしゃる中でテクストをお読みいただくというのはなかなか難しく、そういう話はなるべく口答で話しかけるようにしていった方がよさそうだという今後の課題も見えました。
去年の無告知展示で知人の中では唯一お越しいただいた flickr 仲間の otarakoさん のアドバイスに従って、今年は最初から玄関ドアを全開にしたので、以前よりはだいぶ入りやすくなったのでは?と思います(今年も招き猫ならぬマネキオタラコスモスの効果絶大でした!)。
また、一宮市博物館の特別展で使われた年表や写真などの展示パネルを譲り受けたので、今回の展示から金猊の横顔が以前にも増して伝わりやすくなったのでは?と思っています。ただ、年表は横幅が180cmあり、それを展示空間に持ってくると2作品分くらい取ってしまうので、玄関前室に設置する以外なく、年表と「菊花讃頌 」パネルの組み合わせは毎年定番ということになりそうです(ポートレイトを華燈窓に持ってくると葬式写真みたいなので辞めました)。
来年は金猊生誕100年ということで、10月19日という金猊の誕生日もちょうど芸工展期間内となるので、今年よりは会期に余裕を持たせての展示を行いたいと思います。
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2008年10月15日 (水)
さて、今年も「谷中芸工展」改め「芸工展 」の季節である。と、
ふと、このエントリーを書き出す段になって、これまで芸工展シリーズとしてカウントしてきた今時な小数点バージョン表示を辞めて、純粋に丸井金猊リソースの展示機会を一から数えて行こうという気になったので、急遽タイトル変更しての告知である。
谷中芸工展 参加プロジェクト
丸井金猊リソース ver 3.0 〜知られざる日本画家 丸井金猊〜
↓ ↓
芸工展2008 参加プロジェクト [B-30★]
丸井金猊リソース vol.10 〜知られざる日本画家 丸井金猊〜
日時:2008年10月18日(土)・19日(日) 14:00〜18:00
場所:谷中M類栖/1f(Google Map )
URL:http://kingei.org/
と、芸工展期間中(約3週間)たった2日の展示を今年も開催することにした。
それも開催3日前の告知(Bcc: メールもさきほど送ったばかり)。告知さえしなかった去年よりはだいぶマシだろうが、今年は印刷に出したDMが見事に失敗し、それで出すべきか迷っているうちに会期は迫り、Bcc: メールとブログでの告知という形を取ることになった。ひさびさのメールで Undelivery mail もたくさん返ってきているし、住所しか存じ上げない方にはお知らせすることもできなくなってしまった。
以下はその Bcc: メールで書いた後半文章の転載である。前半は芸工展のことなどについて触れているので、このブログでは無用だろうということで。
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今年は4月26日から6月1日まで金猊の故郷となる愛知県の一宮市博物館で特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」が開催され、金猊の遺作が約10年ぶりに一堂に会しました。
展覧会図録や講演会では生前の金猊と面識のあった美術史家が鋭い作品分析を繰り広げ、私自身も知らなかった/気づいていなかった発見が多々あって大変貴重な機会となりました。その美術史家が着目した法隆寺の百済観音をモチーフとした屏風絵「観音前の婚姻圖 」を本展では谷中で初披露し、他、特別展では展示されなかった聖徳太子二童子像 含む人物画を中心とした展示を行う予定です(特別展の展示風景もスライドショーで流す予定)。
期間は2日と短いですが、この週末、谷根千散策がてらに芸工展巡りでも♪なんて気分でしたらお立ち寄りいただけると幸いです。
PS. 芸工展巡りでのオススメは‥‥
A-6)阿部建築【木で遊ぼう】 貸はらっぱ音地
B-7)谷中ボッサ【はとイラスト展「黒ネコのタンゴ」】
B-31)イコアン【マクケノエン】
B広告)アトリエ アラン ウエスト
C-9)中原絵亜【詩展 空の日記】
D-6)コジマユウジ【コジマユウジキチ vol.1】 美容室CLASSICAL
E-8)グループ phase『phase(フェイズ)』 ギャラリーTEN
番外編)芸工展とは関係ありませんが、根津でのご近所写真展:)
写真=松村大輔(nodoca) 俳句=中村正則 お野菜=晴れ晴れ屋
【写真と俳句と秋のお野菜 みちゆき──the road to somewhere】
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2008年03月24日 (月)
豊田さんから「まちの木霊プロジェクト2008」のDMが届いた。当初、今年は自分も参加予定だったのだが、結局年度末のドタバタで見送らざるを得なくなってしまった。来年もこの時期だとすると、なかなか参加は難しいかな〜。それと搬入・搬出で二度上京しなければならないのも経済的にしんどいと言えばしんどい。
ま、18きっぷの時期なので、時間があれば片道2,300円で済むのだが。。
それと今回「金猊リソース消ゆ? 」で匂わしたように、現在、谷中M類栖/1f から金猊リソースが出払った状態なので、本当言うとうちも会場提供できたとも言える。こんな時期そうそうないので、勿体なかったかな。
第5回 まちの木霊 プロジェクト 2007
私達の傍らに活きる自然の不思議・驚き笑いを作品にする展示会
【会期】2008年3月25日(火)〜3月30日(日)
【時間】通常日 12:00〜19:00 最終日12:00〜17:00
【会場】ギャラリーSD602 KINGYO 文京区千駄木2-49-10 Tel. 050-7573-7890
English Tea House Pokoe 台東区池之端4-22-8
【主催】谷中学校 坪庭開拓団
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2007年03月26日 (月)
今年は豊田さんからのDMが届く前に、N的画譚「飛び入り参加の展示のお知らせ 」で知ることになった「まちの木霊プロジェクト2007 」。neonさんも参加ということで是非とも行きたいところではあるのだが、またまたバッドタイミングで行けそうにない。
というわけで、告知だけでものエントリー。
gallery J2 が閉廊してしまったので、今年はどこでやるのかな?と思っていたら、ギャラリー Kingyo と English Tea House Pokoe の2つの会場を活用するということらしい。今後も複数の会場を使うということなら、谷中M類栖/1f も場の提供に吝かではないが、ただ、結局人員確保の面で難しいのかもしれないな〜。会場増えちゃうと逆に。
ともあれ、いつか谷中M類栖/1f で「豊田館」(車販売じゃないですよ)みたいなことを是非ともやってもらいたいものである。
まちの木霊 プロジェクト 2007
私達の傍らに活きる自然の不思議・驚き・笑いを作品にする展示会
【会期】2007年4月3日(火)〜4月8日(日)
【時間】通常日 12:00〜19:00 最終日12:00〜17:00
【会場】ギャラリーSD602 KINGYO 文京区千駄木2-49-10 Tel. 050-7573-7890
English Tea House Pokoe 台東区池之端4-22-8
【主催】谷中学校 坪庭開拓団
【追記】
その後に豊田さんから届いたメールで、来年私も参加しないかというお誘いがあった。自分が参加するということはなぜか全く考えてもみなかったが、年4、5回は谷中にも帰っているので、意識的に「まちの木霊」を拾うようにしていれば何かできるかもしれない。というか、個人的には植物系統の好きな母に何かやらせたい気もする。
あと、界隈を彷徨いてるご近所ブロガー仲間を誘って、第三会場「谷中M類栖/1f」をわかすというのもまたひとつのアイデアかもしれない。
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2007年03月18日 (日)
文京ふるさと歴史館 企画展「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形デザイン 」に最終日ギリギリで行ってきた。関連企画の江戸東京フォーラム と合わせて行ったため、実質的に展示物を観賞できたのは正味30分。曙ハウスの展示だけはしっかり観てきたものの、他の展示は流し見する程度で、幾つかあった映像展示も5秒と観られず。やはり根津教会での連携展示 が行われていた時期に行っておくべきだったと後悔は大きい。
企画展では、曙ハウスの展示だけが1階にあって、エントランス入ってすぐの券売所の手前で観られるようになっていた。つまり、そんな人が居たのかどうかは知らないが、曙ハウスの展示だけ観て帰るのなら、入場券要らず(100円だけど)とも言えるのだ。観覧料取らずに観られてるあたりが、如何にも曙ハウスらしくて笑けてしまった。
久々の「スウハ曙」プレートとの対面は、それを見る視座と距離感が違うので、一概に「久々」とも言い難い妙な感覚。話には聞いていたものの、とにかくデカい! よくぞこんな大きなものを解体現場から救い出し、ふるさと歴史館の収蔵 にまで漕ぎ着けられたものだと、改めて masaさんを始めとする関係者の方々には頭の下がる思いがした。
斜めに設置されたプレートの側に顔を寄せると、取り外されて1年というのに、未だに焼け焦げたような匂いがする。その匂いに何よりも胸を打たれた。建物(身体)は解体され、プレート自体(顔?)も屍として展示空間に収められているはずなのに、傍らのプレートは超然と生々しく呼吸し続けているかのようだった。畏るべし「スウハ曙」。
間取り図 に関しては、neonさんが仕上げられて本当に良かったと思った。もしそれが私が書いたものでなくとも CAD図面をプリントしたもので展示されていたならば、曙ハウスの遺品や masaさんの写真、neonさんの画によってもたらされる「古色を感じさせる、でも温かみのある雰囲気」(by neonさん)は台無しになっていたことだろう。
加えて地階では設計当時の古い手書き図面を展示しているところが多く(板図の展示もあった)、それに肩を並べられるという意味でも、neonさんの描かれる味わい深い線と文字は唯一&不可欠なものであった。微力ながら、その下図作成 段階で私も協力できたことは大いに光栄である。また、この魅力あふれる企画を立案され、こうした機会を与えてくださった文京ふるさと歴史館の学芸員さんにも深く感謝したい。
【写真】2006.01.22 13:26, 文京区根津・在りし日の「スウハ曙」プレート
【お詫び】「曙ハウス・リターンズ 」のコメントで、私は他のブログに会場内の写真が出ていたことから「会場内撮影可なようで 」と書いてしまったが、会場内にはしっかり「撮影禁止」の表示があり、迂闊にも誤った情報を流してしまっていたようである。一応前コメント上でも訂正追記しているが、この場を借りて深くお詫び申し上げたい。
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2007年03月07日 (水)
文京ふるさと歴史館 で現在展示中の neonさんの描かれた曙ハウスの間取り図については、N的画譚「曙ハウス 間取り図を描く 」にその制作経緯が詳しくまとめられているが、拙ブログではその制作前段階の下図作成がどのような手順で行われたか(ある意味どういう情報を書き落とし書き損ねてるかに重点を置いて)触れておくことにしたい。
まず差し当たって行ったのが、曙ハウス跡地の実測である。ところが、ここでいきなり思いも寄らぬ数字に直面する。約13×13m。てっきり長屋風と思っていた曙ハウスの敷地が、実はほとんど正方形の形状をしていたのである。奥行きが意外にあるということも更地になったことで知ったことだが、まさか正面の幅と同じだけの奥行きがあるとは思わなかった。現在のコインパーキングになっている跡地は、敷地の奥が冒頭の写真のように3mほど仮囲いされて奥行きを奪われた状態にあり、それがまた敷地が平たいという印象を与えてもいたのだろう。
しかしながら、この敷地が正方形であるという前提は案外私を苦しめた。というのも、私の脳裏には私が今回この下図(以後「下図M」と表記)を書く前にすでに neonさんの書かれていた手書き図面(「曙ハウス†スウハ曙 」収録・以後「原図N」と表記)があって、その横広がりの長方形に収められた間取り感覚(間隔)は至って妥当な感じであり、なかなかその先入観から抜け出すことができなかったからである。というのも、正方形の敷地をベースに間取りを決めていくと、1階手前の各室が「原図N」からは想像し難いほどに細長くなってしまうのだ。
最終的にはハウス内部を見られている masaさんの「手前側の各部屋は鰻の寝床級に細長かった」という言葉によって、どうにかその正方形の敷地に合わせた図面を書き上げることができたが、少なくともお借りした写真を見ているだけではそれを細長い部屋のイメージに結びつけることはできなかっただろう。これは現在展示中の neonさんの間取り図を見ていただくしかないが、ハウス1階手前側の各室の細長い部屋割りはそのような迷いの末に構成されている。
それとこれはだいぶ後になって masaさんから出てきた話なので、展示中の間取り図にも反映されていないかもしれないが、図面上1階右端手前の細長い部屋(すぐ上の写真の緑トタンの部屋)は、部屋を前後に分断する仕切りがあったようだ。今にして思えば、なぜハウスの路地側手前(路地側から見たら左端)のところに外に出入りできるドアがあったのかも、その証言によって理解可能である(むしろそれは細長い部屋割りだったからこそ、その仕切りが可能になったともいえる)。そして、そうすると部屋数は一時1・2階各7部屋の14部屋ということで決着が付いていたが、この事実を踏まえると1階8部屋、2階7部屋の計15部屋だったということになるのだろう。
「原図N」では neonさんが記憶される限りの窓位置が記されていたが、「下図M」ではその表記はしないことにした。というのも、さすがに masaさんも全室の写真を撮られたわけではなく(モノが散乱して入れない部屋もあったようだ)、つまり masaさんの写真から判断付く限りでしか、窓位置の提示ができなかったからだ。今、このエントリーを書いている時点ではわかってる範囲内だけでも書き記しておくべきであったようにも思えてしまうのだが、「下図M」作成段階では、最終的には neonさんの描かれる「間取り図」という作品的なものになるため、わざわざ「この部分に窓があったかは不明」といったような補註を描き込ませるのも鬱陶しいように思えたのである。
また、私自身、図面を専門に書く仕事をしているわけでもないので、私の「下図M」はCAD系の製図ソフトではなく、グラフィック系の Illustrator で書いていた。そして、neonさんがそれをトレースして、「間取り図」作品に仕上げられるということを想定し、2本線の必要となる壁厚は書き込まずに、単に線の太さによってのみ、壁厚がイメージできるような描写にしていた(実際、壁厚の寸法自体わからなかったし)。
寸法は基本的に半間=90cmという単位で捉えていくことにした。江戸間か京間か団地間かという問題もあるが、そこはもう厳密に追いようがないので、単純に計算のしやすさを優先してしまった。2階右奥の部屋がたぶん四畳半だったという情報を基に、ひとまず270×270cmの正方形を配置し、そこから横軸のスペース配分を考えていく。
また中央を左右に走る廊下幅は、床に敷かれた割板の幅を1枚30cm×7=210cm と想定(つまりかなり幅広の廊下 だった)、そこから三和土+押入スペースを90cmと大目に見積もって引き算し、縦軸の間隔に見当を付けた。ただ、そこで割り出されたのが奥行き5m近くになる鰻の寝床型1階手前の各室だったので、しばらくの間、迷わせられることになってしまったのであった。
階段 は24cm13段で当たりを付けてしまったが、これは寸法から来るイメージ優先採択なのであまり段数は数えないでおいてほしい。家づくり、行ったり来たり「階段の段数 」では、13段という段数は縁起がよくないということが書かれていて、まあ、特にその根拠はないようなのだが、昔の建物なだけにそうしたものを気にしている可能性がないことはないかもしれない。というか、図面に書き起こすことをもっと早くに考えていたならば、masaさんに階段の段数と幅を計っておいてもらえばよかったのである。それがわかれば平面は元より、その高さも推定がしやすくなったというものである。
他、もう一つ迷わさせられたのが、共同便所のあった奥廊下側の間取りであった。これが現在の建物であるならば、トイレというのは割と規格サイズから諸々想定しやすくなるのだが、如何せん昔のトイレなだけにどう解釈してよいのかわからない。さらに和式便器だとばかり思っていたら、取り替え型の洋式便器に替えられていて、masaさんも「曙ハウスらしくない!(^^;」と写真を撮られていなかったのである。それはそれで、ちょっと面白いエピソードなのでここに書き記しておきたい(笑)
ともあれ、この「下図M」は masaさんの写真と、masaさんを始めとする何人かの方の記憶を合わせなければ、到底書き上げられるものではなかった。ハウス左手の手前側1・2階の物干し台と増築部分の複雑に入り組んだ位置関係も masaさんの写真を幾つかの角度から検証することによってどうにか書き落とせたものである。ただ、さきほどもちょこっと触れたように、私は製図を専門にしているわけではない、只の施主(それも、つい自分で図面を引いちゃいました系のダメ施主)なので、文京ふるさと歴史館で展示中の間取り図は、あくまで曙ハウスの雰囲気や味わいを感じ、愉しむものとして、そして何よりも neonさんの一つの作品として、ご覧いただければ幸いである。
設計図、平面図といった言葉を使わずに「間取り図」という現代建築家たちからしたら少々野暮ったい言葉の表記にこだわったのも、その厳密性が担保できないことに因る。
尚、私が作成した「下図M」は、文京ふるさと歴史館での展示終了後、気が向けばこのブログで公開するかもしれない。
【写真上】2007.01.12 13:31, 東京都台東区根津・曙ハウス跡地
【写真中】2006.01.22 13:24, 東京都台東区根津・解体を1週間前に控えた曙ハウス
本文中「1階右端手前の細長い部屋」の分断された手前側のスペースを外(正面)から写したもの。右手側面側に庇が見え、その下に外に直接出入り可能なドアがあった。
【写真下】2006.01.22 13:26, 同上・曙ハウスの正面から見て左側スペース
【註】テキストリンクは一部「Kai-Wai 散策 」の写真にダイレクトでリンクしている
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2007年02月09日 (金)
根津の曙ハウスが取り壊され、その地が更地と化したのが去年のちょうど今頃。
そのとき「曙ハウス」という実体のほとんどはこの世から姿を消して行ったが、それでも曙ハウスを強烈に印象づけていた看板役者「スウハ曙」の看板プレート、1階階段の手摺り支柱は、処分される前に「Kai-Wai 散策 」の masaさんの手によって救い出され、古物商の協力を得ながら、文京ふるさと歴史館 に収蔵されている(その経緯については Kai-Wai 散策「曙ハウス・プレートの行方 」「曙ハウス - 再び 」に詳しい)。
その命拾いした看板プレートと手摺り支柱がこの度、文京ふるさと歴史館の企画展「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形・デザイン」にて、収蔵後、初披露の機会を得ることになった。展示にあたっては、それらの収蔵品の他に masaさん撮影の曙ハウスの写真、また「N的画譚 」の neonさんが描かれた画「曙ハウス 」。そして、同じくneonさんの描かれた曙ハウスの間取り図が公開される(この間取り図については、私も微力ながら協力させていただいたが、neonさんが「曙ハウス 間取り図を描く 」のエントリーで図面起こしの経緯を詳しく書かれているので是非ご覧になられたい)。
ここから先の話は実際に展示を観てからということで。何とも待ち遠しい限りである。
文京ふるさと歴史館企画展
「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形デザイン 」
第1部 伝統の継承と西洋への憧憬
「5 木造2階建てのアパートメントハウス 曙ハウス 1920年代」
2007年2月10日(土)〜3月18日(日) 10:00〜17:00 月曜日休館
文京ふるさと歴史館 文京区本郷4-9-29
連携企画
「まちかどの近代建築写真展 IN 根津 」
日本基督教団根津教会 文京区根津1-19-6
2007年2月10日(土)〜2月17日(土) 10:00〜17:00(最終日は15:00まで)
【写真】2004.03.07 14:29, 東京都文京区根津・在りし日の曙ハウス
【参考】曙ハウス関連リンク集: 曙ハウス†スウハ曙
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2006年12月25日 (月)
クリスマスツリーというと、=モミの木だと思っていたけど、Wikipedia「クリスマスツリー 」を読むと「常緑の針葉樹(主に幼木)が使われ、ヨーロッパではドイツトウヒだが、日本ではモミが主で」とあり、クリスマスの本場ではモミの木が一般的ではないということを今初めて知った。ついでなので「ドイツトウヒ 」という耳慣れぬ木も調べてみるとマツ科トウヒ (唐檜)属の針葉樹で「樹形や葉の付き方はモミ属と非常によく似るが、樹皮は茶色で鱗状に割け、(中略)モミ属と異なっている」とあり、要はモミの木がドイツトウヒとパッと見で似ていたから日本ではモミの木がクリスマスツリーに使われるようになったんだろうな〜ということが伺える(但し別説もある模様)。
つまりは拡大解釈するなら、針葉樹系であれば結構なんだってアリなんじゃ?と思い、谷中のランドマークの一つでもある、みかどパン 前のヒマラヤスギ写真を出してみた。このヒマラヤ杉については Kai-Wai 散策「大樹とパン屋 」「大樹とパン屋 (つづき) 」でその生い立ちが紹介され、Roc写真箱「ランドマーク 」ではみかどパンの名前の由来となった三叉路の「三角」に仰天ピントのあったモノクロ写真がアップされるなど、既に紹介され尽くされた感もあるが、ここでは参考までに豊田さんが関わっておられる「まちの木霊 」プロジェクトが作ったマップ上のヒマラヤ杉紹介文を引用しておこう。
「まちの木霊」マップ No.29
谷中のランドマーク、みかどパンのヒマラヤスギは二代目。先代は建物の中から突き出たエノキ。玉虫が掃くほどいた。
ヒマラヤスギは50年ぐらい雄木で、やがて子孫を増やすために雌木に変わる 。スギといっても本当はマツの仲間 。
緑字部分の話もビックリだけど、赤字部分によって何の躊躇いもなくクリスマスツリーとしてこのヒララヤスギ写真もアップできるというものである。
まあ、クリスマスなのに不気味という顰蹙の方をむしろ買うかもしれないが(汗)
というわけで、以下に昼夜の比較写真でも一枚ずつ。
【上】2006.10.20 23:42, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(夜)
【左下】2006.10.18 15:47, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(昼)
【右下】2006.10.20 23:41, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(夜)
□◇
このスポットは以前にエントリーした「アミノバリュー BCAA 」でもCMに映った場所として軽く紹介はしている。そこからの関連等で以下リンク先も参照されたい。
・だんだん「ランドマーク(家と木) 」(2006.06.13)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発「谷中とアミノバリューCM 」(2006.07.14)
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2006年12月19日 (火)
アランさん のアトリエにはこのブログでもお馴染みの mitsubakoさん 、flickr 仲間でこの日が初対面だった(といってもまるでそんな気しなかったけど) ya maさん 、そして幼馴染みのRちゃんと行った。なぜこの3人と一緒に行くことになったかというと、以前にエントリーした「山門不幸 」がその引き金となっている。実はこの前日に長運寺の前を通ったらまだ「山門不幸」の立て札が立っていて、同エントリーを読んでくれてた3人が見たいということで、案内ついでにアランさんのところにも寄ったのだ(ちなみに同エントリーの補記で出てくる「その筋の友人」こそがRちゃんである)。
mitsubakoさんは Abejas e Colmenas「午後の谷中 」、ya maさんは posinega「秋の個展めぐり(1) 」でそれぞれこの日のことを書かれていて、mitsubakoさんがアランさんのアトリエでのことにも触れられているので、それを一部引用させてもらおう。
彼の床の間の考察は自由だ。日本人の居住空間から床の間が消えていったのも、おもしろさが失せたからだろう と彼はいう。規格化された床の間からは個性が消失し、有用性もなくなってしまった からなのだろうか。
考えてみると、小さいころ、床の間がわたしの部屋だったことがある。本棚と机がそこにはめ込まれて、妙な空間だったことを覚えている。まがった床柱が邪魔で、薄暗い感じが嫌いだった。
アランさんの目線でアランさんのような作家によって、いったん床の間の概念が崩されて、また、新しい床の間という空間が息づいてくるのかもしれない。
この床の間の話はアランさんから聞けた興味深い話の一つだったわけだが(床の間が規格化した背景にはおそらく LDK 発想ってもんがあったように思える)が、それ以外にも何を筆置き代わりにするといいか?って話や、表装を無難に収めようとすると失敗するという話など、この3人と一緒だったからこそ聞けた話がたくさんあった(ちなみに「その筋の友人」であるRちゃんのご実家は表具屋さんで、実際、丸井金猊の未表装リソースの表装はほとんどこちらにお願いしている)。
アランさんご本人については「アランさんのアトリエ訪問 」を筆頭に幾つかエントリーしてるので、ここで改めて触れはしないが、今回は初めてうちにお越しいただき、祖父の画を生で観てもらえたのが何よりも嬉しかった。で、最後にそのときに聞くことのできた話を一つ。
テーマとして扱ったことはないものの、これまでにも何度か触れている「落款」の有無について。アランさんの場合、落款を押すのは大抵その作品が完成したときというよりも、その作品が売れて人手に渡るときなのだという。あくまで人にもよりけりとした上で、アランさんの場合は作品の完成は作家本人が一旦完成だと思ったとしても、後からまた手を加えたくなることはいくらでもあり、実際に手を加えることもある。だから、手許にある限りは落款は押さずにおいて、手を加えられない状況が来たとき(すなわち人手に渡るとき)に押すようにしているのだという。
なるほどこのことから考えれば、祖父のリソースも落款がないからと言って本人が作品としてまだ満足していないだろうと推測するのは判断が早急に過ぎるということになりそうだ。もちろんこれらも全ては推測に過ぎず、いずれにせよ祖父の画を「作品」とは呼ばずに「リソース」とする姿勢を崩すつもりはまだないが、一つ肩の荷が軽くなったというのは事実である。
尚、冒頭の写真は夜中の23時過ぎにアランさんのアトリエ正面から撮ったものである。本当はもう一度くらい訪問したかったが、どこの企画も1回まわるので精一杯。ただ、アランさんのアトリエは時間終了してても、こうしてまた別世界の表情を外からでも十二分に堪能できるので、夜中の訪問もオススメである。
谷中芸工展2006 【37(?) アトリエ アラン ウエスト: 谷中の床の間 】
普段は絵の制作に使っているアトリエを、いろいろな時代の床の間であしらいます。案内を片手に各々の床の間をご覧下さい。公開制作もしております。
期間中無休/12:00〜17:00(日曜は13:00〜) 台東区谷中1丁目
⇒公式サイト: ALLAN WEST:アラン ウェスト オフィシャルサイト
【写真上】2006.10.20 23:33, 台東区谷中1丁目 アトリエ アラン ウエスト前
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2006年12月17日 (日)
芸工展マップで一つ場所を読み違えてしまったのが「いろはに木工所 」だった。パッと見ると★マークがへび道沿いに表示されているので、ついそのつもりで探してしまったのだが、よく見ると「いろはに木工所」と書かれた枠から細くて短い線が伸びていて、それがへび道から一本外れた通りを指していた。なので、別の企画に向かおうとして出くわしたときには、自身のマップ読み違いに気づいてなかったもんで、へび道さえ迷う自分はまだまだ谷中モグリやな〜とプチ落胆したものである。
ただ、その「いろはに木工所」自体も谷中に根付いてまだ日は割と浅い。オープンしたのが2005年春ということなので、うちよりも半年後輩ということになる。とは言っても2004年の芸工展参加をきっかけにこの地で独立開業を考えられたというのだから、今年芸工展初参加のうちとは比較にならないくらい町には溶け込んでいそうである。
それどころか、実は私の気づかぬうちにすでに我が家にもしっかり浸透していたのだった。うちの玄関入ってすぐの前室には三鷹金猊居から移築させた華燈窓 があり、いつからかその左下のところにベンガル地方の一弦琴ゴピジャントラ のような不思議な形の花生けが置かれるようになっていた。まあ、母が買ってきてそこに置いたであろうことは疑いないのだが、それは私の目から見てもなかなか趣味良くというか、始めからそうなっていたといってもおかしくないくらいその場にしっくり収まっていたのである。
それが「いろはに木工所」製作のものであったとは、、こうして自分の知らぬうちに企画間コラボが実現しているというのも、谷中芸工展ならではの話なのかもしれない。
DMを置いてもらうようお願いしたら、さすがは木工所なだけにうちの把手には前から目を付けられていたようで、うちも把手だけは谷中に浸透してることを実感した。
谷中芸工展2006 【69(愛) いろはに木工所: お茶の間家具展 】
かつてはどの家にもあった、ちゃぶ台、箱膳 、茶だんす、踏台などが「いろはに風」で登場です。ワークショップも行います。詳しくはお問い合わせ下さい。
10/7〜9, 14〜23(10/16,17 休/通常は土日宿営業)/13:00〜19:00
台東区谷中2-15-13 tel: 03-3828-8617
⇒谷中芸工展2005 参加者インタビュー: いろはに木工所 山下純子さん
⇒Joy-Quest.com: いろはに木工所
【写真上】2006.10.18 16:12, 台東区谷中2丁目 いろはに木工所正面
【写真下】2006.10.20 23:54, 谷中M類栖/1f/前室 華燈窓
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2006年12月12日 (火)
のんびりペースとはいえ、あんまり律儀に芸工展巡りでの企画紹介ばかりしていると、さすがに書く方も飽きてくる。ということで、今回は芸工展巡りの最中に見つけた柿の写真でもアップしよう。この柿は大名時計博物館前の通りからあかぢ坂を下りて程なくのところにあるアパートの塀の上に、無造作にというよりはどちらかというと造作的な感じで置かれていた。※註・追記≫ 下の写真をご覧になるとわかるだろうが、一部囓られた痕があり、ひょっとすると住人が鳥の餌にでもと置いておいたのかもしれない。
柿といえば、学生時代に漫画『美味しんぼ 』で柿の甘みが菓子の原点にあるという話を読み囓った覚えがあった。早速ググってみると第26巻「菓子対決(前) 」にその話は出ていた。リンク先(夜刊ロロモ )にはその巻の仔細なあらすじが掲載されているので、興味を持たれた方は同ページ4〜5章をご覧になられると良いだろう。
現代のお菓子の大半は甘みを砂糖に頼っているが、18世紀以前の日本では砂糖が高価で庶民の手に簡単には入らず、甘みへの欲求は果物によって満たされていた。上記あらすじから暫く引用してみると「菓子の菓と果実の果は同じ、木になった果物のこと」「すなわち、菓子とはもともと果物のことだったのだ」というように、その語義自体に菓子のルーツが隠されていて「中でも柿は日本独特の物」「ほかの果物と違って干し柿として保存がきくので貴重だった」として、海原雄山に「水菓子としての果物といわゆる菓子の中間点、いわば菓子の原型として考えられるのが干し柿」では?と結論づけられている。
そういえば韓国ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い 』でも、第5話「変革 」で子供時代のチャングムが料理の隠し味に熟した柿が使われていることを一人言い当てるシーンがあるのだが、朝鮮王朝時代の韓国料理においても甘みを引き出すのに柿が使われていたという点では日本と同様のようである。余談だが、「なぜ、柿だと思う」と最高尚宮に聞かれ、「食べた時に柿の味がしたから、柿だと言ったので、なぜ柿かと聞かれても柿の味がしたからだと」子チャングムが答えるこのシーンが私は無性に好きでたまらない。
【写真上・中】2006.10.18 15:49, 台東区谷中・あかじ坂にて
【写真下】2006.11.11 13:41, 滋賀県高島市新旭町・正傳寺鐘つき堂の干し柿
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2006年12月05日 (火)
美容室 CLASSICAL は、千駄木駅から三崎坂を上ること3分。江戸千代紙「いせ辰 」の斜め向かいにある。ふだん三崎坂を上り下りするときは「いせ辰」の羽子板看板に目を奪われてどうしても死角となりがちだが、芸工展期間中は芸工展フラッグと共に店先に「谷中芸工展・コジマユウジ展・開催中」と三段組みの立て看板が「おいでよ」って感じに親しげな様子で構えていて、髪切る目的がなくても気軽に入って行けた。
会期中も美容室は営業していて、どちらかというとエントランス手前の方に作品は展示されているのだが、奥で営業中の美容サロンの方も額縁に入った鏡がイーゼルに架けられ、美容室自体が不思議な雰囲気。これは芸工展期間中の特別仕様か?とも思ったが、「美容室 CLASSICAL 」公式サイトを見てもわかるように、ふだんからイーゼル額縁鏡でカットやパーマは行われているようだ。トイレにもオーナーさんのナイショの展示があったりと美容室全体から芸工展を楽しもうとする雰囲気は伝わってきた。
タイミング良く作家のコジマユウジさんも見えていて、コーヒーをいただきながらしばし談笑。歳が私と一つ違いということもあってか、何だかとっても話しやすかった。彼は谷根千界隈在住の人というわけではないが、この美容室で毎年展示して今年で3回目だという。今回、このブログで芸工展の企画を幾つか紹介してきて、あまり表立って作品画像を見せるようなことはせぬよう心掛けてきたが、このコジマユウジ作品に限っては語るよりも見てもらいたい!という感じなので、以下に1枚アップする。
まあ、見せるといってもここに掲載してるのは展示されていた作品ではなく、展示中に配布されていた作家紹介のペーパーと、美容室で出されたコーヒーの入っていた紙コップを家に帰ってから撮影した画像である。ちなみに紙コップの方は私がもらってきたものではなく、母がもらってきたもの。目敏い方はコップの端に口紅が付いていることに気づかれるかもしれないが、母の口紅なので意味深なことは想像されぬよう。
とくだらない余談はさておき、この紙コップと用紙に描かれた何とも言えないキャラクター、それがコジマユウジという作家を象徴していると言っても過言ではないのだろう。線画を中心とした彼の作風もさることながら(キャラクターの有無に関わらず)、まず何よりもこのキャラクターの風貌がどう見ても彼にそっくりなのである(笑)
また、このキャラクターの胸のあたりにはおそらく心臓(心)と思われる、やや尖ったハートのマークが付いている。紹介用紙に「ココロはどうやって作るの?」をテーマに創作活動をされているとある通り、このキャラクターがただカワイイってだけではない雰囲気を漂わせるのは、そうした問題意識を持たれているからなのかもしれない。ちなみに美容室サイトの「RING RING RING 」ではページを捲ると、期間中「一番人気のオブジェ 」や「段ボール素材のオブジェ 」の画像を見ることもできる。
個人的には「公園に行く道 おかし屋に行く道 かくれんぼの道 この町のひみつの道」と書かれた絵(このひょーひょーとした文字がまた何とも言えない)と、天井の描かれた絵がかなり気に入り、私にしては珍しく非常に激しい所有欲に掻き立てられた。残念ながらそれらのポストカードは売ってなかったので、何も買わずに帰ってしまったのだが、後になって他のでも買っておけばよかったな〜とちょっと後悔。だったもんで、後日、コジマユウジさんから新たな展示のお知らせDMが届いて、大変ありがたかった。コジマさん、多謝!
「コジマユウジ展・4 TOYBOX」
2006年12月5日(火)〜12月10日(日) 12:00〜19:30(最終日のみ18:00まで)
〒166-0003 東京都杉並区高円寺南3-60-6 Tel&Fax: 03-3313-8829
Url: http://sky.zero.ad.jp/tamago/
本当はもっと早くに紹介すべきだったのだが、韓国旅行やら何やらでブログ更新自体が滞り、期間中の告知となってしまった。お近くの方は是非!!
尚、コジマユウジさんと美容室のスタッフさんは後日うちの展示にも見えて、一応そのときに上の掲載画像を見せてアップする旨の承諾は得ている。それと帰りがけの記帳の際に氏名欄の余白にこのキャラの絵を描き残して行かれた。何とも心憎い限りである。
谷中芸工展2006 【69(想) 美容室 CLASSICAL: コジマユウジ展 】
こんにちは。コジマユウジです。美容室という場に会期中絵を展示します。ちょっとかわった空間をどうぞ見に来て下さい。
美容室は火休(展示は開催)/10:00〜20:00 台東区谷中3丁目
⇒公式サイト: 美容室 CLASSICAL
【写真上】2006.10.17 12:53, 台東区谷中3丁目/美容室 CLASSICAL 前
【写真下】2006.10.17 21:39, 谷中M類栖/2f 居間にて
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2006年11月07日 (火)
区画は違うが実家から歩いて1分もないところにある台東桜木郵便局では「絵手紙展」と称して、手描きの絵葉書が壁一面に飾られていた。マップの解説文に「へたで良い・へたが良い」と書かれているが、結構一つ一つ見ていくと味があって面白い。とりわけおばあさんが「動けなくなった(つまりは死んじゃった?)カブトムシは描きやすい」と書き添えて描かれていたカブトムシの絵には笑えた。
郵便局のような場所がこうした芸工展のような催しに参加するのは日に日に難しい世の中になりつつあるような気もするが、良い意味での鈍感さを持って、今後も参加し続けてもらいたいものである。
谷中芸工展2006 【34 台東桜木郵便局: 絵手紙展 寺田純子 他 】
へたで良い・へたが良い<素直に心の感じるままに>そんな絵手紙展を今年も桜木郵便局からお届けします。
10/14〜22/9:00〜17:00頃 台東区上野桜木1丁目
⇒公式サイト: 台東桜木郵便局
【写真上】2006.10.17 10:54, 上野桜木1丁目/台東桜木郵便局前
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2006年11月06日 (月)
アジア雑貨を主に扱う「nagomiya わぁい」は藍染大通りへと繋がるあかじ坂を下って澤の屋旅館の手前十字路を右に曲がってしばらく歩いたところにある。「生活の中に 和<なごみ>の雑貨を提供」ということから店の名前が付いたようだ。
芸工展には『手仕事展』というタイトルで「手作り」であることをコンセプトに集められた雑貨が主に置かれていた。特に目を引いたのは、オーナーさん自らが作られた文庫用ブックカバーで、ご本人が本を読まれる際に不満に感じられていること(例えばヒモしおりが中途半端なところで折れてたり、読むのに邪魔になったりするなど)を解決すべく工夫が凝らされていて、ちょっと食指が動かされたが、何分ふだんの生活で文庫本を読む機会が激減してしまっているので、買うのは控えてしまった。
どうも最近は「良いな」と思っても「買おう」にまで至るものといえば、食べ物くらいである。食べ物はなくなってくれるからいいが、それ以外のものは「モノ」として増えることがつい頭を過ぎり、踏み留まってしまう。なので、「良いな」と思ったその感情が「買う」という行為なしでも作り手に伝わる何某かのシステムはないものか?と芸工展を巡りながらしばしば考えていた。ただその場で言葉の上で「良いですね」と言ってみても「買う」という飛躍的行為に値する万感(交換/交感)はなかなか得られるものではない。せめてこうしてブログで書くまでである。
谷中芸工展2006 【56(?) nagomiya わぁい: 手仕事展 】
谷中で和小物とアジア雑貨の店をやっています。芸工展期間中は手仕事展をやります。 文庫カバーや小さな手提げ等のオリジナル商品を展開します。
木休/10:30〜18:00 台東区谷中2丁目
⇒公式サイト: nagomiya わぁい
【写真上】2006.10.16 12:24, 谷中2丁目/nagomiya わぁい前
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2006年11月04日 (土)
根津藍染町の丁子屋 さんの通りを挟んで向かいにキウイ棚のあるお宅があり、その脇の路地を入っていくと大阪屋荘という、なぜに谷中で大阪や?とツッコまずにはおれない集合住宅が出てきて(って、そのツッコミをいつも受けてるのはこのブログでありますが>汗)、その1階に金継ぎ「nico 」はあった。
実は最初、前回エントリーしたステンドグラス工房「nido 」のつもりで行ってみたらば「nico」だったという、、「d」「c」違いだったわけだが、そもそも私が「金継ぎ」の意味をちゃんとわかってなかったから、このような勘違いは生まれたのである。
「金継ぎ」とは芸工展マップの金継ぎ「nico」説明冒頭にもあるように「割れた陶磁器を漆で直す技法」のことである。読み方は「かなつぎ」ではなく、「きんつぎ 」であることもググっているうちに知った。「かなつぎ」という風に読むと、如何にも額などを作ってそうなところに感じられないだろうか?(汗)
展示は内外両方にあって、外は終日入り口前のブロック塀に金継ぎした陶磁器などの写真展示パネルを、中は土日と最終日のみの展示で、金継ぎした陶磁器を展示して、それらに触ってもよいことになっていた。もともと割れた陶磁器を継いだものとはいえ、デジタル一眼レフを肩からぶら下げていたので、別のところを傷つけてしまわないかと結構緊張した(いや〜、こーゆー場にごっつぇぇデジ一はホンマに鬱陶しいです)。
会場では「漆直しセット」なるものが 3,000円で売っていた。「漆直しと金継ぎの違いについて 」は金継ぎ「nico」サイトの同エントリーを読まれるとよいだろう。とにかく「漆直し」の技術だけで陶磁器の補修は可能ということのようだ。ご興味あられる方は同「販売しています! 」のエントリーまで。ちょっと面白いのが、同エントリーで紹介されてる「漆直しセット」の写真を見てると、芸工展マップが想起されること(笑)
尚、10月17日付の Kai-Wai 散策「nico 」のエントリーで紹介されてる「湯島のnico」というお店は輸入雑貨メインのお店ですので、くれぐれもお間違えなく!
あと、全然関係ないけど、Velvet Underground の nico は1938年10月16日生まれのようで、偶然にも私が金継ぎ「nico」に初めて行った日と一致していた。まあ、休みだったのだけど(泪)
谷中芸工展2006 【51(逢) 金継ぎ nico: 金継ぎの展示 】
割れた陶磁器を漆で直す技法「金継ぎ」を展示します。
また小さなカケならご自宅で簡単に直せる「漆直しキット」を販売します。
期間中は予約不要です。
10/14, 15, 21〜23/11:00〜18:00頃 台東区谷中2丁目
⇒公式サイト: 金継ぎ nico
【写真上】2006.10.16 11:44, 谷中2丁目/nico 前の路地
【写真下】2006.10.16 11:42, 谷中2丁目/nico の入り口看板
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2006年11月03日 (金)
ステンドグラス工房「nido 」は neonさんが今年の5月にノマドカフェで行われた個展「ピアニシモな建築たち 」で一部の画の額を作られ、「nido×neon 」って形でコラボレーション展示されていたので、前から気になっていた場所だった。neonさんご自身も、去年の芸工展をきっかけに「nido」を見つけられ、そこからコラボ展示へと話が展開していったことを「てのひらサイズの画 」というエントリーで書かれている。
確かに芸工展のような機会でもないと、谷中ぎんざのすぐ脇にあるとはいえ、細い路地の一歩奥に入ったところにある nidoは、若い女性などには入っていくのにちょっと勇気の要る場所かもしれない。
入り口に「ファミリー服装学院」「マキシマ研究所」といった看板があるってことも、最初から目的にして行く人でないと、深追い散策人でもない限りは私有地に侵入するような感覚に陥りそうである(笑)
ところで公式サイトの「about us 」によると「nido」とはスペイン語の「巣」の意味であるらしい。
ということは、谷中M類栖の「栖」と意味を同じくす るというわけだ。
芸工展バッヂの一文字漢字には「蝉」が割り当てられていたが、もし自由に漢字を決めることができたならば、nidoさんはきっと「巣」にされていたにちがいない。
ちなみにうちだったらば迷わず「栖」だった。が、実際に割り振られたバッヂは「遊」と「懐」だった。なぜか間違って二つ配られていたのである。
展示物としては手前のギャラリースペースではフォトグラファー中藤毅彦さんの写真展『atmosphere 』が、奥の工房スペースではNゲージの模型電車にステンドグラスを被せた「nido特製花電車 」が置いてあって、夜7時からの気まぐれキャンドルタイムではあかりのついたキャンドルハウスの間を花電車が走るらしい。生憎私は昼時に行ってしまったので花電車が動くところだけ見せてもらったが、一回くらい夜に見に行っておくべきだったと今にしてちょっと後悔している。
谷中M類栖/1f で今回展示した祖父が祖母を描いた小さな肖像画などは安物の味気ない額に入っているので、いつか nidoさんと一緒に作ってみるのも面白そうである。
谷中芸工展2006 【92(蝉) nido: 明かりの時間 】
細い路地の奥へ入るとキラキラと幻想的な光が漏れる手作りガラス工房 nido があります。夕暮れ時から気まぐれキャンドルタイムが始まります。
水休/11:00〜20:00 台東区谷中3丁目
⇒公式サイト: contemporary glass nido
⇒ブログ: nido
【写真上】2006.10.21 11:54, 谷中・よみせ通り/nido への路地入り口
【写真下】2006.10.21 11:54, 谷中・よみせ通り/nido の入り口看板
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2006年11月02日 (木)
「94. 中原絵亜: 空の日記(詩展) 」を見た後、すずらん通りを不忍通りに抜けて、まだ昼までに少し時間があったので寄ってみたのがこの古書ほうろう。まだまだ谷根千モグリなだけにこの古本屋に入ったのも恥ずかしながら初めてだったのだが(前を通ったことはあって気にはなってたのだけど)、谷中を生活拠点にし出したら間違いなく何度となく通うことになるであろう私にとっては充実した品揃えだった。
展示の方はUZOメンバーによる原画や絵が店頭・店内の至る所に飾られている。というか、お!こんなところにもあったぞ!と書店内でどこに作品が置かれているのかを探す楽しみもちょっとある感じだった。それだけ作品が古書店の日常風景(インテリア)に溶け込んでいるとも言えるわけだ。個人的にはポケットティッシュに入ってる絵、というか、そうした絵がポケットティッシュに入って置かれてるその雰囲気が好きだった。
尚、時間がなかったこともあって、店番されてた方にはうちのDM渡すだけであまりお話しなかったのだが、そのとき話した女性が「古書ほうろうの日々録 」というブログをされてるのかどうか? 芸工展絡みでも「UZO展が始まってるよ。 」「UZO展大盛況です! 」「谷中芸工展、あと3日。 」とエントリーされている。大通りなれども、不忍通りも掘り出していくとまだまだ侮れないものが見つかりそうである。
谷中芸工展2006 【98(鯉) 古書ほうろう: オルタナマンガミニコミUZO展 】
芸工展期間中、田中六大編集ミニコミUZOメンバーによる原画や絵の展示。
新作もあり。期間外10/9, 18:00〜友部正人ライブ「夜の本屋」(要予約)。
第三火曜休/平日10:00〜23:00 日祝12:00〜20:00 文京区千駄木3丁目
⇒古書ほうろう - 谷根千ねっと
⇒古書ほうろうの日々録
⇒漫画ミニコミUZO
【写真上】2006.10.21 11:38, 千駄木・不忍通り/古書ほうろう前
【写真下】2006.10.21 11:41, 千駄木・不忍通り/古書ほうろう店頭 UZO作品
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2006年11月01日 (水)
さて「谷中芸工展2006巡り 」で「個人的に印象の強かったところを幾つかピックアップして、追々個別にエントリー」としてみたものの、どのように紹介していくべきか?
私にとっては芸工展巡りのほとんど一番最後の方で回った場所であったが、まずは千駄木のすずらん通りの一角を利用して展示されていた中原絵亜 さんの「空の日記(詩展)」から取り上げてみたい。この企画、捉えようによっては今年の芸工展で唯一(?)芸工展そのものをモチーフとした非常にメタ色の強い企画なのである。
すずらん通りという名称は芸工展マップ上に明記されていない(以前のはあったらしい)のだが、よみせ通りを谷中ぎんざよりもさらに北上して向かって左手3本目の不忍通りとの間の道のことを言う。東京の商店街を歩こう「文京区/千駄木3すずらん通り商店会 」の言葉を借りれば「夜の店」の商店街とも言うべき、スナックや料理屋の並ぶ小さな街路で、おそらく私は今回初めてここを通ったはずだ。午前中だったので閑散としていたが、夜は下町の中の一つ裏に入った世界の小さな賑わいを見せているにちがいない。
中原絵亜さんの企画は、そんなすずらん通りの少し奥まったところのスペースを利用してトタン塀には今年の「空の日記」を、その向かいのドアを開くと階段のみが存在する不思議なスペースでは去年の芸工展での日記や詩、また今年の芸工展で開催中の他の企画のDMが階段をうまいこと利用して展示されていた(谷中M類栖/1f のもあった)。
「空の日記」というのは、芸工展期間中の「毎日の空」の写真に「毎日の詩」を書き込んでいくというものである。つまりそれは毎日一枚ずつ増えていくというわけだ。ただ、詩の書かれてない空の写真が二日分すでに吊されてたけど、あれはスペース確保用だったのだろうか?
とまあ、そんな細かいことはさておき、それらが洗濯鋏で干されたようになっているところが何とも愛嬌があって楽しかった。
また、向かいのちょっと入っていいのかな?って感じの2つ並んだドアのうちの一つも開けて中に入れるようになっていて、さきほども書いたように入っていきなり階段があって、階段を上がるとそのまま行き止まりになっている(もちろん上った先にはドアがあって、平常は居住空間用の階段として使われているのだろう)。
その階段一つ一つに並べられた他の企画のDMを見ていると、この作家さんは会期中に芸工展をいろいろと回られて、そうして回った経験それ自体を作品化されてるんだなぁということがしみじみと感じられる。マップ上では隅っこなのだが、今年の芸工展が濃縮されてここにあるといっても過言ではないだろう。そして、それが5年間続いてきてるというところが何とも感慨深い。
作家ご本人とはその場では会えなかったが、そこから程ないところで偶然出くわし、挨拶を交わした。なぜ互いに顔を知っていたかといえば、すでにご本人は谷中M類栖/1f ご訪問済みだったからである(笑)
谷中芸工展2006 【94(躍) 中原絵亜: 空の日記(詩展) 】
すずらん通りの一角で詩を展示します。皆さんも書いていってください。
家の前のトタン塀と中の階段で行います。どうぞ扉を開けてご覧ください。
期間中無休/11:00〜19:00 文京区千駄木3丁目
⇒中原絵亜さんの公式サイト?: 中原絵亜のページ
【写真上】2006.10.21 11:28, 千駄木・すずらん通り/94.中原絵亜: 空の日記(詩展)
【写真中】2006.10.21 11:24, 千駄木・すずらん通り
【写真下】2006.10.21 11:26, 千駄木・すずらん通り/94.中原絵亜: 空の日記(詩展)
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2006年10月30日 (月)
なんだかまたバタバタし出してきていて、丸井金猊リソース紹介はおろか、主に午前中に巡った谷中芸工展の他の参加企画のことも書くのが遅延して行きそうな気配濃厚である。とはいえ、幾つかの企画のところではエントリーさせてもらいますね!などと言ってきてしまっているので、とりあえずは遅れそうな旨、言い訳のエントリー(汗)
「雨音と共に終了す 」でも書いたように、うちは午後2時スタートという緩い時間設定にしたおかげで、午前中に少しは他の企画を見て回る時間を作ることができた。それでも大抵の場所では、互いに企画参加者同士ということでつい話がはずんでしまい、1日で3つ4つ程度しか回ることはできなかったのだ。そんなわけで、必ずしもたくさんの企画を紹介できるわけでもないが、まあ、個人的に印象の強かったところを幾つかピックアップして、追々個別にエントリーしていけたらと考えている(ちなみに既に「一服して最終日を 」のエントリーで40番「マクケノエン」は紹介済み)。
尚、各企画まわっていて何かと話題になったのが、自分のところで参加してしまうと他の企画を見に行くことができないという悩みと、谷中M類栖のブログ見てますよ!という話だった。後者は嬉し恥ずかしという以上に、固有の場を晒して書いているだけにその顔が知れるともう下手なこと書けないなというプレッシャーが少々。それと自分が大阪在住であることを話すとなぜに谷中の話題にたまに大阪の話題が混じるのかという疑問が晴れるのだった(笑)
ちなみにスタンプラリーは私と母はしっかり10個集めて今年の景品「芸工展オリジナルエコバッグ 」をゲット! ふだん手ぶらであることの多い私ですが、このバッグは底が安定していて、なかなか使い勝手もよろしい(ウッくんがちょうど入る )ようです。
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2006年10月26日 (木)
1932(昭和7)年に描かれた『南天絵圖 』は、サイズ W725×H1,200mmで、絹本に着彩・軸の仕様。保存状態は前回紹介した『鷺圖 (仮) 』よりはマシな環境といえるだろうか? 一応は桐の絵具箪笥の下段抽斗の中に絹本を丸めた状態にして包装紙で包んで収められていた。タイトル・年数情報はその包装紙に祖父がペン字で書き記していたものによる。表装は昔から何かとお世話になっている三鷹の飛高堂にお願いした。
1932年というと祖父が東京美術学校の日本画科を卒業する前年にあたり、学内の課題として描いていた可能性も高い。そう思って同期の花である杉山寧氏のアーカイヴを調べてみたところ、『南天図 』という作品を1929(昭和4)年に描かれていることがわかった(鎌倉大谷記念美術館 蔵)。しかし、3年早く描かれている上に葉の色付き方もまるで違う。学内の課題で描いたと早急に結論づけるのはちょっと難しそうだ。
右の画像が『南天絵圖 』の表具を除いた全体像を複写したもので、丸井金猊リソースの中でもとりわけ描写の細密度が高いものであることは画像をクリックしてこちら にアクセスすれば、実物をご覧になられたことのない方でもある程度は理解できるはずだ。実際、この時期の動植物を中心とした静物画を、コンセプチュアルな画題を求めた活動期後半(といっても20代後半だけど)の大作よりも好まれる方は意外と多い。それは画のリアリティをどこに求めるかによっても違ってくるのだろう。
私個人が興味深く見ているのは、冒頭で掲載した南天が実を付けた部分のディテールである。これもほとんど実物大となる Largeサイズ にして見てもらうとより一層わかりやすいだろうが、実の幾つかの塗料が剥離し、下塗りした明るい朱色が浮き出ててるように見える部分があることにお気づきいただけるだろうか? 私にはその塗料の剥離した調子がより一層南天の実をリアルに見せることに貢献しているように感じられるのだ。それは祖父が最初から剥離を想定して描いていたのか、それとも剥離したように敢えて見せかけて描いたのか(つまり剥離していないということになる)、そこのところはよくわからない。ただ、どうも out of control のボーダーラインをさまよう事象に心吸い寄せられがちになってしまうのは私の体質とでも言うしかない(汗)
ところで今回の展示では大作屏風『壁畫に集ふ』に、新しく出てきた『霜晨』『芥子花圖(仮)』、あとは常設状態になってる『鷺圖(仮) 』を出すということが決まっていた以外は現場判断で展示物を決めようということになっていた。それで芸工展の行われている秋だからということで、季節に合わせて南天、百合、椎茸、西洋芙蓉といったモチーフの画が選ばれることになった。まあ、芸工展の行われる季節は毎年秋なので、毎回秋モノを選んでいたらすぐネタ切れになってしまうとも言えるのだが。。
ともあれ実家には三鷹金猊居から持ってきた南天の鉢が、2Fのバルコニーに置いてあり、展示期間中、まだ『南天絵圖』のような実までは付けなかったが、徐々に葉を色づかせ始めていた。いよいよ秋も本格的に深まっていきそうな気配だ。
【写真】2006.10.22 10:21, 谷中M類栖/2f バルコニーにて
【補遺】展示終了後に、祖父が遺した下絵を再確認していたら、この『南天絵圖』の下絵も出てきたのだが、驚いたことに上記の軸装した『南天絵圖』はその下絵の左半分で、実は鳥の描かれた右側半分があったことが判明したのだ(下絵画像 参照)。以前に下絵もすべてチェックしたつもりでいたのに、すっかりその事実を忘れていた。こういうものはしっかり情報整理して書き残しておかないといけない。
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2006年10月22日 (日)
谷中芸工展はここ2年、雨に祟られていたらしい。終了後のアンケートでも雨が降らなきゃ…という声が多かったらしく、今年は台風シーズンを避けた2週遅れの10月14日スタートとしたことが大正解だったようだ。実行委員日記「芸工展最終日 」にもあるように最終日前日22日の16時過ぎくらいから最終日終了までは降られてしまったが、それ以外の日は概ね晴れやかな日が続いてくれた。開催時期をずらしたことで、例年は同時開催的だった art-link とは14日・15日の2日間しか重複しなかったが、それを差し引いたとしても、マップ片手に回る芸工展にとって天気という条件は大きい。
谷中M類栖/1f は私が大阪から出向かねばならない都合上、芸工展の会期より1日遅く始まり、1日早く終了というスケジュールにしていたため、幸運にも雨に祟られたのは終了間際のほんのわずかな時間のみ。というか、土日はうちの展示スペースの面積からするとどう考えても定員オーバーの状況がずっと続いてしまっていたので、終了間際を静かに収めてくれたのはむしろ恵みの雨だったと言えるのかもしれない。
会期だけでなく、開始時間もうちは14時からと遅めの設定にしていたが、それは午前中に他の参加企画を見に行けるという点で正解であり、午前中にうちの近くを通った人を拒むことになってしまったという点で失敗だったと言えるだろう。まあ、うちが初めての参加で、まずは様子見のつもりで臨んでいたということからすると全体を見通せたという意味では正解要素の方が強かったかもしれない(もう一つは体力的な面でも)。
おおよそ準備の片が付いた10/16(月)〜20(金) まではなるべく積極的に他の参加企画を回るようにした。まあ、積極的にとはいっても、一企画を見る時間が思いの外長くなってしまって、そんなにたくさん回れたわけでもないのだが、、これはうちも企画参加してるせいか、とにかくどこへ行っても話が長くなってしまうのだ(笑)
というか、うちに来てくれたお客さんも企画参加していなくても、長居して行かれる方が多かったので、一企画で長居というのは芸工展ならではの特色なのかもしれない。まあ、スタンプラリーだけして帰って行く方ってのもそれなりにいたのだが(汗)
後半になると増えたのが「ココには凄いモノがある」という噂をどこかで耳にしてやってきてくれたお客さんだった。噂元が幾つあるのかはわからないが、こういう噂が立つということ自体なかなか嬉しいものだ。まあ、こんな感じで、丸井金猊リソースが徐々に谷中という場所で定着していってもらえればと思っている。
会期中、結局できなかったリソース紹介や、午前中に見て回った他の参加企画については幾つか気になったものなどを改めて個別にエントリーしていきたいと思っている。また、見に来てくれたブログ仲間の何人かが谷中M類栖/1f「丸井金猊リソース ver1.0」をネタにエントリーしてくれている。我が家のケヤキの把手を引いてくださった皆様、差し入れをくださった皆様と共にここにリンクにて謝辞とさせていただきたい。
・sympathy 〜共感〜: 谷中M類栖/1f (2006.10.08)
・Abejas e Colmenas: 谷中M類栖/1f (2006.10.09)
・Barcarolle: 写真と絵と食の魅惑の谷中ツアー (2006.10.15)
・sympathy 〜共感〜: 谷中M類栖/1f と谷中芸工展 (2006.10.16)
・Abejas e Colmenas: 午後の谷中 (2006.10.17)
・posinega: 秋の個展めぐり(1) (2006.10.17)
・谷中芸工展実行委員日記: 芸工展6日目 (2006.10.19)
・Kai-Wai 散策: 谷中M類栖 /1f (2006.10.20)
・家作りその他つれづれなく: 谷中M類栖/1f[丸井金猊リソース ver1.0]/谷中芸工展つれづれ (2006.10.22)
【写真】2006.10.21 23:56, 谷中M類栖エントランス(この写真は前日夜のもの)
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2006年10月21日 (土)
明日で谷中M類栖/1f は谷中芸工展よりも一足お先に(一日早く)終了。
で、あと一踏ん張りということで、ちょっと一服って感じのエントリーを一つ(笑)
谷中M類栖/1f は芸工展マップでは38番という番号が割り当てられてるんだけど、一つ間を空けて40番のマクケノエンでは図画工作愛好家の佐藤直樹さんの粘土人形(?)が気持ちよさそうにお灸で一服中 。
いっきゅうさん に いっぷくさん
あわてない あわてない
ひとやすみ ひとやすみ
イコアン
あと1日。こんな感じ で過ごせたらな〜と思うけど、無理やろな(^^;)
ちなみにマクケノエンのフラッグバッチは「蝶」。
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2006年10月20日 (金)
時すでに遅しの感もないでもないが、芸工展マップを玄関先に貼ってみることにした。展示が始まる前の午前中を利用して、なるべく他の参加企画も見に行くよう心掛けるようにしていたのだが、芸工展マップは地図が企画説明の裏面になっているため、町中で両方を照合するのに結構苦労することが多い。サイズが大きいので、マップを広げたときに風が吹くと思い切り煽られるし、細い路地や小さなお店のなかでも、広げるのにはちょっと向かないサイズなのだ。そんなとき、本部の蒲生邸脇や初音すまい研究所 前にマップが貼ってあったのは非常に重宝した。この状態なら、企画説明の解説をマップを見ながらちゃんと確認できたのである。
そんなわけで前日訪問された実行委員さんにうちでもマップを貼りたいので、真ん中に切り込みのないマップを購入できないか聞いてみたら、本部に残部があったはずなので取りに行ってほしいとのこと。本来マップは企画参加者も購入することになっているのだが、公的に貼る用だということで無料で一枚いただけた。
早速貼ってみると結構通り掛かりの人でマップを見ていく人は多い。・・ということが確認できるのはうちの玄関ドアには採光用のスリッドガラス を入れていて、ちょうど展示スペースのデスクに腰掛けるとその間からマップを見に来た人が覗ける恰好になっているのだ。こんなことならもっと早くにマップを貼っておくんだったという以上に、企画参加者にも切り込みなしのマップをそれぞれ配って、なるべく表に貼って貰うようにしてもよかったのではないか?と思う。そうすると次の企画に梯子するのがかなり便利になったはずだ。
尚、谷中M類栖/1f ではマップを貼る段階で自分のところがスタンプラリーをやってることを知らせるために、広島のもみじ饅頭で有名なにしき堂 の焼き餅咲ちゃん の協力を得て「スタンプラリーやってます」と記している。
【写真】2006.10.22 11:39, 谷中M類栖エントランスにて
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2006年10月19日 (木)
本日、谷中芸工展2006 の実行委員さんが見え、ひょっとするとうちのバルコニーの外壁に張られたポスターが今芸工展中、一番高いところに張られたポスターじゃないか?とのお話。なるほど、そんなことは全く考えたことがなかったけど、谷中は全体的に低い建物が多いので、その可能性は高いのかもしれない。加えてうちは谷根千でも最も海抜の高い立地にあるので、海抜で考えても一番高いのかもしれない(笑)
ただ、写真からもわかるように、こういうのを見るともう一回り大きなポスターを作った方がよかったかもしれませんねということを実行委員さんの方から言われた。どうも町のポスターを張らせてもらえる掲示板のサイズ規定があるらしく、それ優先で大きさは決まってしまっていったらしい。個人的には A4サイズのチラシがあったらな〜とは思ったが(それを何枚も張るって手もあるので)、そこは予算の都合もあるのだろう。
ポスターのデザインに関しては初見時のエントリーで「ド派手な 」と書いたけど、それ故に町中ではそれが目印としてしっかり機能して、非常に良かったのではないかと思った。もちろんディテールを見れば漢字が散りばめられて渋いところもあるんだけど、基本的にこういうもんは渋さよりも少し派手過ぎるくらいを追求した方がよさそうだ。
この日のことは実行委員会日記「芸工展6日目 」でも取り上げられ、「自宅を公開して参加をして下さっている方々には本当に感謝」ということは訪問中にも言われていた。意外と自宅公開の数は少ないらしい。言われてみればそんな気もする。数年前に回ったときに印象深かった自宅公開のお宅も今年は参加していなかった。まあ、実際に今回、初めて自宅の1階を公開という形で参加してみて、それなりの難しさ(課題)を感じなかったわけではない。それについてはまた改めてエントリーしていきたい。
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2006年10月15日 (日)
谷中M類栖/1f 、なんとか告知した10月15日の14:00 までに片付け&展示作業を終え、無事オープンさせることができました。初日からお越しいただいた皆さん、大変ありがとうございます。ただ、せっかく初日にお越しいただいたのに大変申し訳ないことに、丸井金猊リソースの展示リストとプロフィールを記した用紙の準備が間に合わず、それをお渡しすることができませんでした。同用紙の PDF ファイル(2.7MB) をサーバ上にあげておきましたので、よろしければこちら からダウンロードしてみてください。
尚、以下は初日を終えての所感(以上で「ですます」調は終了)。
・予想通り、玄関ドアホンを鳴らして入ってもらうという状態は敷居が高すぎた。
・靴脱ぎ〜スリッパへの履き替え指示が難しい。スリッパは下にあった方がいいかも?
・スタンプラリーだけを目的にしてる人もいるので、入口すぐのところに置くべきか?
・スタンプラリー用のデスクが小さすぎた。
・芳名帳は思いの外、住所まで書いてくださる方が多かったが、やはりご近所ゆえか?
・撮影禁止の札を母が付けていたが、文字情報が絵と喧嘩してないか、ちょい疑問。
・3組以上のお客さんが入ったときの対応がなかなか難しい。
・入口脇の軸がドアの風圧で揺れる(neonさん のご指摘)。場所or押さえ要検討。
・思った以上に気を抜ける時間がない。うちは開館時間が短いから午前中に出まわれる
けど、終日オープンにしているところは他のところを見に行くことができなさそう。
と以上が概ね本日気づいた点。
明日は平日で art-Link も終わってしまっているので、客足もだいぶ遠のくのでは?ということで、誰も来ない時間を有効利用して、上記課題の修正をはかっていく予定。夜は芸工展参加者たちが集うパーティーで、そこで初めてのご挨拶ということになる。
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2006年10月14日 (土)
芸工展の準備をしていたら夕方過ぎに玄関からパサッという音が‥‥。
夕刊や郵便にはちょっと遅いだろうと思って見に行ったら、郵便受けに届いていたのは台東区谷中坂町々会の回覧板だった。今住む大阪のマンションはもとより、三鷹でも見たことなかったのに、さすがは下町・谷中と言うべきか?
しかし、中を見ると専ら広告が主でお知らせ事項はほんのわずかだった。
でも、可能であるなら、これにうちのDMを副えたい気分である(^^;)
2006年10月13日 (金)
谷中芸工展スタンプラリー 用の印肉、紫色のを大阪の100円ショップで買って行ったんだけど、少々色付きが悪い。やはり安物は安物ということか?(泪)
紫色を選んだのは、マップの地色に緑が多いので、そこから少々遠い色の方がよいかと思ったからだ。ただ、保護色の赤まで行くと行き過ぎかな?と。。
ちなみに私が押して回った中では黒が一番多く、そして一番しっかり発色していた。安物でない黒は家にあったので最初からそちらを使えば良かったとちょっと後悔。
それにしてもスタンプラリーをゲットするためだけにチャリで界隈を走り回ってるガキんちょ共がいたとはね(^^;)
何となく彼らの元気ぶりに押されて、最初は靴脱いで家に上がらないと押せなかったスタンプを玄関すぐの靴履いたまま押せる場所に移動してしまった。さてはて、どっちがよかったんだか??
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2006年10月01日 (日)
9月29日(金) に谷中芸工展ガイドマップの折り込み作業「四季折々 」を手伝いに行った母が手伝い特典として早めに受け取ったマップをDMと一緒に送ってくれた。
まだマップの紹介は公式サイトでもされてないようなので、ネタバレになっても何だしまたの機会に譲るとして、このエントリーではDMの方を軽く紹介しておこう。
以前に紹介した「谷中芸工展2006 ポスター 」同様、DMにも楷書体の漢字が書き込まれている。ポスターでは少々ランダムにレイアウトされていた多数の漢字が、DMでは7×7−1で整列し、中央に「谷中芸工展」の文字が赤く浮かぶものとなった。パッと見た限りではポスターとDMの漢字は一致しているようで、おそらくは谷根千界隈をイメージする漢字を選んだのだろう。それとも漢詩であるとか、実は別のメッセージが織り込まれているのだろうか? ちなみに左下の空欄に「ここには好きな文字を!」とのことだが、うちは迷わず「栖」を選びたい。
ところで今年の芸工展参加企画数はぴったり100なのだそうだが、その100企画がどんな漢字を当て嵌めたのか、それを回収して並べ直してみても面白い気がした。ネットでならタグ機能を使って幾つ重なったのかを確認するのも面白いだろう。
なお、切手面の方には以下のように書いてある。
うちは芸工展の開催日と最終日はオープンしてないので、くれぐれもご注意のほど!
まちじゅうが展覧会場
谷中芸工展二〇〇六
十月十四日(土)〜二十三日(月)
谷中・根津・千駄木・上野桜木
池之端・日暮里界隈の
まちじゅうが展覧会場になります。
地図を片手に
いつもと同じまち
いつもと違うまちを
ぷらぷらしてみませんか?
あなただけの発見を探しに。
谷中芸工展事務局
ホームページ:http://www.geikoten.net/
※ガイドマップは本部・参加店等にあります
(谷中芸工展は谷中学校を母体として活動しています)
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2006年09月21日 (木)
実家からの荷物に芸大絵画棟8Fから我が家の方角を撮影した写真が入っていた。
なんでも芸大が9月8日〜10日まで藝祭 期間中とのことで、その期間に8Fまで上ってきたようだ(まあ、ふだんからうちの両親は頻繁に芸大 に入り込んでいるのだが)。
で、先日の「工事中@Google Earth 」ではないが、わかる人にはわかるうちの建物3Fより上部分が今度はちゃんとタラップ薄緑青色で写っている。
ちなみに Google Earth で似たような角度を見るとこんな感じ。
当たり前っちゃ当たり前だけど、実際に見るのとは全然違う。まだまだ一般にネット上に転がる街並み写真はそれはそれで貴重なものと言えるのだろう。
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2006年09月16日 (土)
さて、谷中芸工展2006 までいよいよ1ヶ月を切ってしまった。
差し当たってこれから約1ヶ月半くらいの間は、芸工展関連とその出展物作者である母方祖父=丸井金猊絡みのエントリーが増えてくると思う。祖父についてはこれまで結構色々なところでアウトプットしてきたせいか、思いの外、このブログで触れていないことに気づいた。そこで今回の展示を機に祖父の経歴等も改めて紹介していこうと思う(現在、祖父を紹介するサイトも閉鎖→再制作検討中状態にあるので)。
それと、ふと気づくと谷中芸工展サイトのリンクページ には既に「谷中M類栖/1f 」へのリンク(申込み時に申請した URL に)も張られているので、慌てて情報を詰め込んだページを作成。気づく人は気づくだろうが、ほとんど flickr のパクリ である(汗)
当座はこのページを「谷中M類栖/1f 」のトップページとして凌いで、行く行くは全面的にデザインチェンジして「谷中M類栖/1f」のギャラリーサイトとしていく予定である。
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2006年09月15日 (金)
日本語版「Google Earth 」が公開された。去年6月にも「Google Satellite 」というエントリーで、Google Maps BETA版の Satellite 機能を紹介したが、前回が世界地図の衛星画像版だったとすれば、今度の「Google Earth」は衛星写真の地球儀化とでも言えようか? いや、NYタイムズ誌が「鳥のように飛べたらいいなと思ったことはありませんか…」とレビューしたように、鳥のように上下左右にグラインド可能な視座を得たとも言える。と言っても、結局画像自体は一視点で撮られた写真に過ぎないので、ズームインすれば所詮その3D感覚は画像を歪ませることによって錯覚させられているものであり、視点の切れ目のズレ(アラ)は補いようのないものなのであるが、、そういう意味では「Google Earth」が楽しく感じられるのはズームインしたときよりもズームアウトしながら「地球は丸い」と感じさせられるときである。
ところで「Google Satellite」で谷中の実家位置を確認したら、そこがまだ更地だったことは前回書いたが、今回確認したら家は一応あるようなのだが、緑青色をイメージして塗ったはずのタラップがまだ鉄骨の赤色のままなのである。ということはこの谷中界隈の衛星写真は鉄骨が立ち上がって、竣工するまでの工事期間、つまり2004年3月〜7月までの間に撮られた写真だということになる。
冒頭の写真でわかる人はどこに赤いタラップがあるかわかるはず(笑)
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2006年09月01日 (金)
実家から「谷中芸工展2006 」のポスターが届いたという電話。
早速デジカメで撮影して添付で送ってもらった。母曰く、三崎坂を歩いていたらこのド派手な(といっても、決して鬱陶しいわけではない)ポスターを見つけ、あら?と思って家に帰ったら、うちのポストにも3枚入っていたらしい。
このブログでは縦長サイズの画像はサムネイルで見せるようにしているのだが、今回は特別にそのままベタ張り。すでに町中では張られているということだが、ひょっとしてネット上で最初に張られたのは谷中の看板背負った大阪発のブログだったりして(汗)
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2006年08月23日 (水)
去年来のサテライト写真ブームのおかげで、最近は専ら地図検索には Google Map や Yahoo! 地図情報 しか地図検索に使わなくなってしまっていたのだが、久々にマピオン にアクセスしたら「キョリ測β 」なる新機能を発見! コレ、以前からPC上で地図を見るときに欲しいと思っていた機能なのである。例えば大阪自宅から桜宮橋東詰のドンキホーテまで行くのに、源八橋を通るのと桜宮橋(銀橋) を通るのとどっちが近いか?とか、谷中実家のJR最寄り駅は上野・鶯谷・日暮里でどれが近いのか?とか、駅を拒んだ町・妻の実家総領町の最寄り駅は上下で正しいのか?とか。。
これまではそれをモニタに定規を当てて計測してたのだが、この「キョリ測β」のおかげでこれからはそんなことをする必要もない。正確な距離はもちろんのこと、徒歩、自転車、自動車での所要時間も出してくれるし、さらには性別・体重・年齢を入力して消費カロリー計算までしてくれる。まあ、所要時間計算の方は徒歩(3.2km/h)というのは少し遅すぎるし、自動車(40km/h)は標準速度なのかもしれんが、信号などが想定されてないようなので、ちょっとアテにならない。谷中実家から上野駅まで2分で付くとは到底考えられないからだ。
とはいえ、この機能はこれからも私にマピオンのアクセス機会を増やさせてくれそうである。ただ、Google Map や Yahoo! 地図情報等にその機能をパクられたら、またそっちに行ってしまいそうではあるが(汗)←サテライト付ければいいのに>マピオン!
ちなみにさきほど例示した3件についての結果はこうであった。
大阪自宅→桜宮橋東詰のドンキホーテ
・源八橋経由:約1.1km(1085m) 自転車6分 消費カロリー約29kcal 1356歩
・桜宮橋経由:約1.2km(1182m) 自転車6分 消費カロリー約29kcal 1477歩
谷中実家→最寄り駅
・上 野:約1.2km(1153m) 徒歩22分 消費カロリー約65kcal 1441歩
・鶯 谷:約1.3km(1344m) 徒歩25分 消費カロリー約74kcal 1680歩
・日暮里:約1.0km( 991m) 徒歩19分 消費カロリー約56kcal 1239歩
総領実家→最寄り駅
・上 下:約13.7km(13736m) 自動車21分 自転車75分 徒歩258分 17170歩
・甲 奴:約16.2km(16199m) 自動車24分 自転車88分 徒歩304分 20249歩
・備後安田:約11.9km(11947m) 自動車18分 自転車65分 徒歩224分 14934歩
・備後庄原:約13.0km(13017m) 自動車20分 自転車71分 徒歩244分 16271歩
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2006年07月02日 (日)
当初はこのために上京も考えていたのだが、時間&交通費の工面が難しく、代理で母に行ってもらった。芸工展サイトの「説明会のお知らせ 」にもあるように期日・場所は
【期日】2006年7月2日(日) 19:30〜20:30/2006年7月3日(月) 19:30〜20:30
【会場】不忍通りふれあい館(文京区根津2-20-7)
で、母の電話によれば、参加したのは7、8組。実行委員のメンバーは5、6人来ていたとのこと。基本的には募集要項の提出とそれについての質問、後はサイトに掲載されている説明内容通りで、母に言わせると、わざわざこれのためだけに上京までしなくてよかったんじゃない?ということだったが、個人的には芸工展の公式サイト が今年はどのように展開するのかを知りたかった(あるいは内容次第では提案したかった)ので、その点で行けなかった不満は大きい。それともこの際、スタッフ募集もしてるので応募してしまおうか? でも、さすがに提案のみスタッフじゃ要らんだろな(^^;)
「谷中芸工展の紹介文 」のエントリーでも書いたけど、提出した募集要項の主な情報を再度掲載しておく(追加情報+微妙な変更アリ←中日を休日にすることにした)。
・日付:10/15(日)〜10/22(日)
・時間:14:00〜18:00(10/20(金) は20:00まで)
・休日:10/18(水)
・企画(店舗)名:谷中M類栖──丸井金猊リソース ver1.0
・参加者名:谷中M類栖/1f
・紹介文(70字厳守):竣工して2年、いよいよ谷中M類栖がオフラインで始動します。その第1弾は昭和8年東京美校日本画科卒の丸井金猊が戦前に描いた屏風・軸・額を公開。
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2006年06月17日 (土)
竣工して2年、いよいよ谷中M類栖がオフラインで始動します。
目指すは谷中芸工展参加!
ちなみに例年通りに art-Link と芸工展の開催時期が重なってたのであれば、
両方の参加も検討したいところだったのですが、どうも今年は
・谷中芸工展 :10/14(土)〜10/23(月) <10日間>
・art-Link :9/23(土)〜10/9(月) <17日間>
というスケジュールなもんで、残念ながら art-Link の参加は見送ることにしました。
うちの場合、企画内容的には art-Link 向きなのかもしれませんが、参加費が少し張ることと私のスケジュール的な問題、そして芸工展の方には豊田さんも一枚噛んでるということから、今年は芸工展のみで大人しく様子を見ようと考えています。
芸工展の申込締切は7月31日(月)。
それまでにガイドマップ掲載情報の必要項目を考えておく必要があります。それで
・企画(店舗名)名:
・企画者名:
・紹介文(70字厳守):
の3項目と所在地情報等をどこまで掲載するかで、やや頭を悩ましています。
まず所在地情報等に関して、昔であればほとんど気にも留めなかったのですが、最近はそうした情報自体が売買されるようになって悪用される可能性もあり、いずれにしても自宅で開催するものなので、どこまで出すべきかで迷っています。
そして企画名や紹介文。ここでの出品作家である祖父が有名人であるなら名前だけでも充分なんですが、まず祖父が何者なのか?というところから始めて70文字以内に収めなければならないのが難しいところ。そしてさらに厄介なのが本人が既にこの世にいないということです。そうすると案外、企画者の立場というのも重要なんですね。ところがその企画者たる私個人が谷中には住んでいない。てか、遠い遠い大阪にいる(汗)
そこで現在考えているのが、まずこの企画の主体(企画者名)をこのブログ、すなわち「谷中M類栖」にしてしまうということ。実は展示スペース名も同じく「谷中M類栖」のつもりではあるんだけど、ブログ自体が主体であるという考え方にすると意外と話の辻褄が合わせやすいんですね。それに現段階では谷中において身内絡みで一番有名なのは祖父よりも断然このブログ「谷中M類栖」なのです(笑) そういう意味でも、工事が始まってからではあったものの、このブログを始め ておいてつくづく良かったな〜と思います。というか、ブログなしで大阪に住んでるだけだったら、昔からの知人以外で谷中界隈仲間なんて誰一人出来なかっただろうし、展示活動の指針となるものもほとんど見えないままスタートを切ることになっていたでしょう。
と考えが及んだとき、紹介文はとことん図々しく偉そうに書いてしまうってのも、この際アリなのかもしれないなと思いました。それが冒頭の文章に繋がっていきます。
・企画名:谷中M類栖/1f──丸井金猊リソース ver1.0
・企画者名:谷中M類栖
・紹介文:竣工して2年、いよいよ谷中M類栖がオフラインで始動します。その第1弾に昭和8年東京美校日本画科卒=丸井金猊が戦前に描いた屏風・軸・額を公開。
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2006年05月23日 (火)
当初より1日遅らせた帰阪日。午前中は荷物まとめと家の整理に時間を費やし、昼から奏楽堂のコンサートへ行くという両親と芸大学食で昼食を食べて、上野駅へと向かうことにした。ちなみに芸大学食〜奏楽堂は両親の生活サイクルに完全に組み込まれた一つのコースで、私はその動向を観察したかったので同行することにしたのである。
芸大の学食は私自身も昔、芸大に友人が居たりで美術・音楽共に食べたことはあった。しかし、学生時分に学食のレベルを問う暇などなく、どっちがウマイかなんて考えたこともなかった。しかし、ランチ巡りが趣味の両親は芸大学食もとことん食べ較べていて洋食や肉系を食べるなら音楽がうまくて、総菜ものならば美術がうまいというしっかりした結論を出していた。特に美術学部の雪花菜はうまいらしい(汗)
で、この日食べたのは音楽の方のトンカツ定食。確か600円でボリューム満点。これならどこのとは言わないが、近所のトンカツ屋の1500円の定食とも大差ない。それと笑えるのが、父はすっかり学食の券売員らとも親しくなっていて、呆れたことに「教授」と呼ばれているのだ(笑) まあ、その話は散々聞かされていた話ではあったのだが、実際呼ばれるところを見て、改めて両親はすっかり谷中ライフというよりも上野ライフに馴染んでしまったんだな〜という実感を得る。
食後は馴れた足取りで、奏楽堂 へ。奏楽堂では芸大の作曲・声楽・ピアノ・オルガン・弦楽・管打楽の各科から選ばれた優秀な学生による演奏会が毎日午前午後と開かれている。それをうちの両親はスケジュール表を仕入れて、好きな楽曲のときにしょっちゅう聴きに行っているのだ。とにかく家から5分程度のところなので、ツッカケ気分で、それもそこら辺の市民コンサートよりも全然レベルの高い演奏が聴けるのである。オーディオマニアだった父は家ではほとんど音楽を聴かなくなってしまったという話だ。
といったわけで、芸大をすっかり自分たちの庭としてしまった両親を尻目に私は帰途に着いたのだが、そういえば奏楽堂というのはてっきり都美術館の裏手にある古い建物だと思っていたら、それは旧奏楽堂で、新しい方は芸大音楽部の奥の方だったということをこの日知ったのである。その旧奏楽堂の写真が冒頭の写真。
【写真上】2006.05.23 14:25 旧東京音楽学校奏楽堂
【写真中】2006.05.23 13:37 東京芸大音楽学部の学食にて
【写真下】2006.05.23 14:16 奏楽堂ホールで「じゃ〜ね」と心はもう演奏会の両親
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2006年05月22日 (月)
プチオフ から帰宅後、酔いも醒めてまだ余力があったので、迷惑か?とは思いつつも、夜22時過ぎに突如池之端にお住まいの Pruscilla さんに電話する。こういう思い切りが持てるのは、在京中ってのが半ば「旅の恥は掻き捨て」状態というか、この瞬間逃すと次が当分ないよという切迫感があるからだろう。大阪でもそんな気持ちでいれば、もう少し引きこもりにならなくて済むのかもしれないが、どうにも家にいることに安住してしまう自分をそれ以上掻き立てることはできそうにない(笑)
で、電話で呼び出した Pruscillaさん(ちなみに彼女も携帯持ってない人)とはノマドに行った。さすがに「再々ノマド」ともなると店員さんにも顔覚えられてしまったようでというか「この人、毎回別の人と来るけど一体何者?」と思われたことだろう。それも一緒に行った人たちの方が常連さんで、店側からすれば私の方が連れて来られてる客のはずなのに、なぜか連日常連を連れて来ているのである。これは謎という他ない。
さすがにこの日ばかりは neonさんを呼び出すことはしなかったが、ある意味でそれは正解だったかもしれない。なぜならこの晩が一番しっかり作品を観られたからである。引きこもりに加えて、相手の顔を見て話もできないダメ人間であることを自認している私は、実は作品と対峙するときもそこに人の目があるとなかなかそれを観ることに集中できなくなってしまう。言わんやそれがその作品の制作者であれば尚更である。そういう意味でこの日、ようやく制作者の目から開放された状態で作品と向き合えたのだ。
ちなみに Pruscillaさんと私の一番気に入った作品は偶然にも(?)一致していた。
ノマド閉店後は Pruscillaさん宅へ行った。Pruscillaさんが「アニメーション会議」という仲間たちと作った『The Selfish Giant 』というアニメーション作品を是非観て欲しいということでの訪問だった。Pruscillaさんはテレビモニタの前にアンティークの椅子をドカッと置いてそこに私を座らせ、電気を消して私を部屋に一人きりにする。おそらくこれまでにも友人を招いてはそのようにされてたのだろうが、なかなかその観賞の時間と空間は不思議な緊張感がありつつも、落ち着いて観られて心地よいものだった。
オスカー・ワイルド著『わがままな巨人 』を原作とするこの作品。原作はネットで検索するとほぼ全文掲載されたサイト「5月のお話 わがままな巨人 」「わがままな巨人 」等が幾つか出てくるので、それらを参照されたい。一応ここではアニメーションを紹介しているページに掲載されたあらすじを転載しておく。
あらすじ
巨人が長らく留守にしていた家に帰ってみると、庭で子供たちが遊びまわっていた。
彼は怒ってみんなを追い出したが、それからその庭には春が訪れなくなった。
けれどもある日、小さな男の子に出会った。巨人は心が溶けるのを感じた。
何というか、私はこのアニメーションに世界のすべてが詰め込まれているような、そんな感覚に誘われた。それがアニメーション自体の絵やコマ割り、それとも物語によって感じさせられるものなのかはよくわからない。ただ、その紹介ページでプレビューされてるムービーやカット画像を見てもわかるように、画面構成上の一番奥にあるレイヤーがほとんどの場面において半透明というか、さらにその背後が透けて見えてるような感じで映されていて、つまりそれは万華鏡を見ているような錯覚に囚われるのである。
興味を持たれた方は是非こちら まで!
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2006年05月21日 (日)
この日は豊田さんと家で一緒に夕食をということで、実家の居間での打合せとなった。
主な打合せ内容は相変わらずの「エアカルテット 」問題と、母が希望している追加工事をすべきか否かの話。「エアカルテット」問題はこれから梅雨の時期に去年との比較をしてみないと何とも言えず、その結果待ちということで、もう少し決着までには時間が掛かりそう。ただ、応急処置として、場合によっては扇風機をピアノ下に置いて風を循環させる工夫をしてもいいかもしれないという話にはなった。
追加工事の方は前庭にも水道を回す(倉庫の中には既にある)という工事は行うこととし、その代わり、電気コンセントを外にも付けるという話はなしということになった。
あと、2階のサッシに紫外線防止フィルムを張るのも工事費が高いことと、網ガラスに張るとガラスが割れる例があるということで、現時点では控えることになった。
ただ、この打合せ的な話はほんの数分程度で終わってしまい、残る時間はほとんど両親の旅行自慢話大会。母が言うには前日、母の友人宅を訪ねたときには父はほとんど喋らず半分恥掻かされたとのことなのだが、この日はべらべらとよく喋るもんで、豊田さんなら喋るのねとちょっと呆れて果てていた。
食後は二人でカフェノマドへ。そこで neon さん、それから谷中から千駄木に引っ越された lislen さん+naoさんと会う。neonさんはありがたいことに曙ハウス作品 前の席を取っておいてくださった。ノマドは客の座ってるテーブル上の作品をじっくり見るのにはちょっとばかり勇気がいるのである。しかし豊田さん、メールで伝えておいたはずなのに「曙ハウスなくなっちゃったんですか?」なんて言い出すオオボケぶり、、って私も人のこと、まったく言えた立場ではないんですが(^^;)
・・とそれはともかく、neonさんが先に帰られたあと、naoさんと豊田さんがイタリアの同じ大学に留学していたことが判明し、話はめっちゃ遠い世界のローカルな話となって lislenさんと私は「ココはどこ?」の人状態になってたのでありました(^^;)
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谷根千を歩き馴れてる人がこの写真を見れば、それがどこかすぐわかるはず。
日暮里駅北口下車して、夕焼けだんだん〜谷中銀座へと階段降りる手前のY字路です。
しかし、この写真を見て、アレ?と首をひねることがなければ、あなたもまだまだ谷根千マニアとは言えないでしょう。なぜならこの写真は約15年ほど前のものだからです。
当時学生だった私は美大の建築科に在籍していたのですが、つい全館エアコンの効いた 新校舎に釣られて、新設の映像学科に3年次に途中編入してしまったのです。で、そのときになぜかゼミで選択したのが、街中散策ばかりしている藪野ゼミコース。今にして思えば写真でもアニメでももっと専門性の高いゼミを選択しておけばよかったと思うのですが、当時は楽そうだからという理由で呑気に遠足に付いて行ってました。
そんな遠足コースの一つとして、西日暮里から朝倉彫塑館までを歩くというコースの日があり、そのときに撮ったのがこの写真です。今回の上京中に昔のアルバムを開いたらこの写真が出てきたので、大阪に持ち帰って参りました。
で、下の写真が現在の同じ場所。質屋おぢさんと DOG ショップは健在ですが、DOG ショップの方はだいぶ店の看板が変わりました。それとその横のオノ堂カバン店は店を畳んでしまったのか、それとも看板が見えません。しかし、質屋おぢさんの方は看板を変えずに頑張ってるところは見上げたものです。
□◇
「余剰の夕暮れ谷根 」でもリンクしてますが、J16さんが「だんだん 」というブログを始められました。
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2006年05月20日 (土)
これまでにも幾度か書いたが、三鷹金猊居に住んでた頃、子供ながらの自慢は家の庭に実のなる樹がたくさんあることだった。葡萄、無花果、茱萸、金柑、蜜柑、木苺、苺、姫林檎、キウイ、ブルーベリー、、と思いつく限り書いてみたが、中でもとりわけ好きだったのが、ブドウとグミとキイチゴだった(今度はカタカナで書いてみた)。
特に葡萄は子供の頃、葡萄棚が駐車スペース後方一面に張り巡らされ、よく家の屋根にのぼって貪り食べていたものである。その後、いつだったかはよく覚えていないが、父が2台車を持った時期があって、そのとき葡萄が落ちて車が汚れるとかの理由で駐車スペース上の棚は刈り取られ、縮小化した棚を寂しく思った記憶がある(右の写真は2001年夏の縮小してだいぶ経ってからの写真。ちなみにその頃はまだ家を解体することになるなんて思ってもいなかった。奥に見えるのは現在光庭の石灯籠)。
一応、その葡萄は母が気を利かせてくれて、差し木によって今は谷中の家のバルコニーで植木鉢上で再生している。が、実を付けることを期待するならどこかに植えなければならないだろう。父が高齢でそろそろ車を手放すかと言っているので、車がなくなったら玄関前からパーゴラを葡萄棚とする可能性は高い。葡萄棚といえば、もう15年以上前に中国奥地ウイグル自治区のトルファンという町に行ったことを思い出す。この中国でも有数のワインの特産地であるこの町は、町全体が葡萄棚といっても過言ではないくらいにどこにでも葡萄棚が張り巡らされていたのだ(今は違うかもしれないが)。
さて冒頭の写真は根津の曙ハウス跡地から少し北東に歩いたところにある、家壁に葡萄蔓が這う集合住宅である。実は前日、曙ハウス会合のあとに masaさんの案内で通ったところで、もう一度じっくり見に行ってみたくなっていたのである。10月の谷中芸工展の時期にはおそらく谷中にいると思うので、その頃、再チェックしに行ってみねば!である。問題は誘惑に駆られて食べないように注意せねばならぬところではあるが(笑)
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生まれも育ちもトキョモンにとって、まともな蕎麦を食わせる店が生活圏内にあるというのは、オサカモンにとってのお好みやたこ焼き屋が近所にちゃんとあるのと同じくらい重要なことである。ただし、ここで「まともな蕎麦」と言ってるのは特に味の好みをどうこう言おうというようなものではない。ただ、ちゃんと自分のところで挽いた蕎麦を打って出している店ということだ(まあ、大抵そういう店はうまいが)。
幸いにも関西で暮らすようになって7年。東京に較べれば蕎麦屋の少ない大阪でも2軒ばかりまともな蕎麦屋をチャリ圏内で見つけているので、蕎麦で欲求不満が溜まる心配はいらない。それよりも気掛かりだったのが、谷中の実家界隈でそれが確保できるかということだったが、幸いにも上棟式 の日の昼食に豊田さんに案内されて行った「鷹匠 」という蕎麦屋が十分すぎるほどにまともな蕎麦屋だったので、ホッと一息撫で下ろしたのだった(というのも実家の家族も蕎麦へのこだわりは強いので)。
その後、私も上京の機会に何度か行っているし、実家家族にとっては昼のレパートリーの一つでお客さんをもてなすのに連れていくことも多いようだ。私はまだ行ったことがないのだが、朝7:30〜9:30にも営業していて朝から蕎麦を決め込むこともできる。
ところでこの店に友人を連れて行って、蕎麦とは別にもう一つ、我々には自慢の逸品がある。それは店内奥の壁に掛けられたバナナの葉っぱのオブジェ(右の写真)である。この作品、実はうちの建築家の豊田さんの手によるものなのだ。2005年から2年続けて行われている「まちの木霊 」というプロジェクトの展示でも出品されているのだが、お店に行かれることがあれば、是非奥の壁にも目を向けて欲しい。まあ、店内の設えも随所に工夫が凝らされているので、そうした興味があれば否応なく目にされるだろう。
この日は母と二人で12時少し前に行って昼からの開店一番乗りだった。それで今まで座ったことのなかった裏庭に唯一面した座席に座ることが出来た。この座席で窓の外を見上げると見られる光景が左の写真である。季節が良いこともあって新緑からの木漏れ日が気持ちいい。というか、それ以上に心吸い寄せられたのが、隣家と思われる木造2階建ての古い家屋である。ところどころ土壁が剥き出しになっているところもあって、人が住んでいるのか定かではないが、一度正面から見据えてみたい建物だった。
鷹匠を出て間もなく、突然見知らぬ二人組から「m-louisさんですか?(ニックネームではなく本名で)」と声を掛けられ、たじろいでいるとしばらくしてそれが flickr コンタクトの sympathyさん であることがわかった。ニックネームで呼ばれ、ニックネームを名乗られたらすぐわかったんだろうけど、最近初めて会う人とはニックネームで呼ぶべきか本名にすべきか、少々悩ましいところだ。ちなみに sympathyさんのこの日のことは「偶然だらけ 」で書かれてます。
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さて果て、うちの母というのはつくづくこういうもんが大好きな人なのである。
めぐりん ──台東区の循環バスで2001年から運行開始。当初、山手線の内側がルートに入ってなかったため、利用する機会がまるでなかったが、それがこのほど4月に開通し、我が実家のすぐ側の交差点も通ることになったのである。運賃は100円で、ルート間の相互乗り継ぎは自由。15分間隔で循環しており、重たい荷物があったときには便利なのよ、使ってみて!と、これはルート開通前後での母からの電話の弁である(笑)
なんだかもう「アンタはめぐりんの営業か?」と疑いたくなるほど、大阪までマップ を送ってきたり何だり、、実は我々夫婦は帝国ホテルの近所に住んでいて、梅田までは無料のシャトルバスを利用してたりするので、全然珍しくも何ともない(というか100円するという時点であまり乗る気もしない)せいで、ついその話が出てくると空返事での受け答えになってしまう。そして、今回の上京中も私にとにかく乗らせたいようだったが、特に重い荷物を持つようなこともなく、結局乗らないままで帰ることになった。
しかし、あれだけ「めぐりんめぐりん」と言われていると、さすがに実物に出くわしたときには「お!」と思ってシャッターを切ってしまうもので(^^;) それもちょうど実家の外観写真を撮っているときにファインダーに入り込んできたので、思いっきり慌てたタイミングでの写真になってしまった。しかも 必要ないのに RAW画像だし(汗)
5/23(火) の帰阪日にも、両親と上野方面に歩いていたら現れて、母が「めぐりん!コレがめぐりん!」と大騒ぎ。カメラを首からぶら下げていた私に「撮って!撮って!」とうるさいので撮った写真が↓。しかし、私はこの先、乗ることあるのかな?(笑)
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2006年05月19日 (金)
具体的事例をなるべくそのままタイトルにしようと心掛けているこのブログでは珍しい題の付け方かもしれない。そのくらいこの日はいろいろなことがあり、しかし、当の私はそれを「いろいろ」という以上に思い起こせるほどの余力を残していなかった。まさかN的画譚「個展にわか掲示板 」で自ら提案したこの日に、仕事の〆切がかち合ってしまうとは・・結局一睡もせず(新幹線で寝られない質なのも痛い)に集合場所の根津駅2番出口に向かい、約6時間の「いろいろ」を経て、仕事の修正確認のため、家の近所の一乗寺裏手折れ角に来たところで皆と別れたのである。
というわけで、この日、根津と谷中で何があったかは、集まったブログ仲間たちの関連エントリーへのリンクで賄わせていただくこととする。・・と勿体付けて書いてるけど、要は手抜きか?(^^ゞ
・N的画譚: 皆様ありがとうございました (2006.05.19)
・Kai-Wai 散策: ピアニシモな建築たち (2006.05.19)
・みどりの大冒険: 根津の名所へ突撃!曙ハウスとneonさん個展 (2006.05.20)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 根津と谷中を訪れる(1) (2006.05.29)
・だんだん: はじめのエントリー (2006.05.30)
・Roc写真箱: ソース注しのある食堂 (2006.02.19)
冒頭の写真はどうにか仕事の修正確認を終えて気晴らしに家の屋上に上がったら見えた夕焼けである。その頃、みんなは再びかめや食堂で2度目の定食だったらしい(^^;)
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よく建物の解体が行われるとその解体跡地に隣接していた家屋の側面が剥き出しに現れて無惨な印象を与えることがある。特に解体側の土地の建物が先にあって、隣接側が後に建てられ、互いに敷地目一杯に建ってる場合など、後に建てる側はさほどその外見を気にしなくてよい性質上、どうしてもなおざりになってしまいがちなものだ。
事実、三鷹金猊居も都市計画道路問題で背後がざっくりえぐられたときには納屋を増改築した部分が道路側に面してしまって、かなり情けない感じになってしまったし、現在の谷中の家も南西側のK山邸との境界壁面 に排水管や雨樋等が集中し、決して見栄えの良い見た目とは言えない(今思えばもうちょっと仕掛けを考えるべきだった)。
しかし、上記写真の曙ハウス 跡地のお隣さんはどうだろう? なかなか以て趣のある佇まいをしているではないか? 1Fには「さなえ」という居酒屋が入っていて、左手に見える道路面がその入口になっている。一見するとこの写真を正面としたとき、それなりに奥行きのある建物にも見えるかもしれないが、実際のところは奥行き一間強くらいの薄く平べったい建物なのだ。というか、正しくお店玄関を正面と見なせば鰻の寝床のような建物だといってもいいくらいである。
さて、もう一度写真に撮った面に目を向けると、やはり何といってもこの予期せぬ形で現れた側面ファサードをユーモラスに仕立て上げているのが左右形を違えて突き出した2階の増築部分だろう。これを増築した住人や職人がどこまで意識したものかはわからないが、波板トタンの配し方といい(特に右手トイレ部分と思われる小窓に斜めに取り付けられたトタン、これが非常に効いている)、窓枠の位置バランスといい、トイレ小窓下のなぜか壁の外に出てしまった左右が反対の黒L字といい、全体の色味といい、とにかく絵として面白い(neonさん もこれを見て描きたいと言われていた)。そうそう、上階の増築突き出しという点では軍艦アパート の「出家(でや)」と共通するところもあるように思うが、それについてはまだちゃんと書いてないので、また後日。
ちなみに曙ハウス跡地に何が建つかはまだ未定(2006年5月現在)のようなので、今暫くはこの側面を半ばファサードとして見ることができるだろう。いつかの日か neonさんの作品にどこかで見たことがあるような・・と思っていたら、この建物がモデルだったな〜んてこともあるのかもしれない(笑)
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わきた・けんいちさんの Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」のエントリー「根津と谷中を訪れる(1) 」で冒頭を飾る neonさんの描かれた曙ハウス作品を撮影する masaさんの後ろ姿(カフェノマドにて)。それを見ていて、先にエントリーした「余剰の夕暮れ谷根 」でこの日のことは片づけてしまったつもりでいたのだが、どうもそれだけでは気が済まなくなってきてしまった。
masaさんの後ろ姿をトラックバックしたくなってしまったのである。
この写真の中で masaさんが撮ろうとしているものとは、今年の2月まで存在していた曙ハウスの建っていたその空間である。それを単純に曙ハウスの跡地写真としてブログで公開することにはどこか憚れるものがあったが、曙ハウスの最期を看取られた 他ならぬ masaさんと一緒ならばそれも許されるだろう気がしたのだ。masaさんにはまたまたびっくりさせることとなってしまうかもしれないけど(^^;)
ところでこの日、曙ハウス7人衆(わきたさん命名)は曙ハウスのすぐ近くにある東京都指定食堂「かめや」でちょっとしたミーティングを開いていた。その席で neonさんが masaさんの曙ハウス内部写真やご自身で近所の聞き取り等して得られた情報を基に描かれた曙ハウスの平面図と周辺図 を持ってきてくださった(これがまた neonフォント同様に味があって素晴らしい!)。これを基にもっと本格的な図面なり、あわよくば模型なりが作れないか?というのがこの日の会合の主題だったわけだが、そのためにももう少し広範かつ詳細な情報が必要となる。
そこで neonさんの承諾を得て、この図面をネット上で公開 することにした。
とりあえず7人衆の持ち寄った情報としては masaさんがすでに「曙ハウス 」のエントリーで公開されてる内部写真がもっとも有用な情報なので、平面図上に eye point を設け、クリックするとその視点の写真にリンクするような仕掛けを施した。また周辺図は多くの方が外観写真を撮られているので、そういった写真にも同じくダイレクトリンクを張ることを考えている(現在は平面図のみで準備中)。これらの図面や写真をきっかけに特に内部のことで何か思い当たることなどあったら、「曙ハウスBBS 」という掲示板を併設しているので、是非情報提供のご協力をお願いします。
平面図+周辺図はこちら→「曙ハウス†スウハ曙 」
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2006年05月11日 (木)
「橋本遊郭の記憶 」でも予告しましたが、「電線の景観*N的画譚 」等にてご紹介したneonさんの個展「ピアニシモな建築たち 」が根津のカフェノマドで始まりました。私も来週末、上京の用事が複数出てきたので観に行くつもりでいます。
N的画譚の最新エントリー「小さな個展 」が芳名帳レスポンスの場になっていて、昔は芳名帳といえば次の展示機会でDM出すのに利用するくらいのものだったのに、即レスができちゃうというあたり、時代の変化を感じさせます。開催期間は結構長いので、お近くの方、また谷根千界隈にご用の方は是非ノマドで一服どうぞごゆるりと!
ちなみにうちの母は neonさんの書かれる字のファンです。開催情報の地図も必見!
Exhibition
ピアニシモな建築たち 〜小さく音楽がきこえてくる
2006.05.11(木)〜05.30(火)(但し、5/16、17、24は休業)14:00〜24:00
cafe NOMAD(カフェですので、1オーダーよろしくお願いします)
〒113-0031 東京都文京区根津2-19-5(地図 ) tel. 03-3822-2341
2006年05月08日 (月)
大塚製薬の「アミノバリュー BCAA 」という清涼飲料水のCMで、谷中界隈の映像が使われてることを発見! まだ気づいてから2回しか見てないので、はっきり確認できてないけど、夕焼けだんだん、みかどパン脇のヒマラヤ杉三角コーナー、不忍池が映っていることは確実。あと、最初の方で何が映ってたのかがわからない。何しろ、夕焼けだんだんが出てくるまではそのCMだってなかなか気づけないもんで(汗)
早くサイトのCM情報ページ 更新してくれへんかな〜。
(Flash バカ使いしてて、めっちゃイライラさせられるページやけど)
単に気づかなかっただけかもしれないけど、CM情報ページ 更新されてました。
「ウォーキング」30秒篇と15秒篇があって私の見てたのは15秒篇のようです。
30秒篇には最初に挙げた以外にも色々出てくるので是非チェックしてみてください。
ふだん健康飲料って飲まないけど、1回は買ってみようかな〜。
【関連リンク】
・Kai-Wai 散策: 大樹とパン屋 、大樹とパン屋 (つづき)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 谷中とアミノバリューCM (2006.07.14)
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2006年03月07日 (火)
今回の谷中滞在では家族単位で谷中をふらつく時間が多かったのだが、その間に何度か目にしたのがお寺の出入り口に立てられた「山門不幸」という立て札だった。当然疑問に思って谷中在住1年半の両親に聞いてみるも、どちらも知らないわからない。
というわけで、帰阪してからググってみたわけだが、都合良く谷中に住んで何年というおぐにあやこさんの「おぐにあやこの行った見た書いた 」というブログにそれに纏わることが書かれていたので一部引用させていただくことにした(といってもおぐにさんも検索による情報とのことではあるが)。
なんと。
そのお寺のご住職が逝去された時に立てる札なんだと。
いわゆる「喪中」というわけ。
他の検索結果も大体似通ったことが書かれていたので、この意味で間違いないだろう。
知ってみればなるほどだけど、ググるまではそういう意味を持つのでは?という予測が情けないことにまったく付かなかった。むしろ「山門不幸」と書くことで、人が無闇に入ってこないようにしてるんじゃないか?とか、基本的に不法侵入防御策のことばかり想像していた。自分の素性が知れるというものである(汗)
ところでおぐにさんは「毎回同じ寺院に立っているわけではなく、今日はここ、昨日はあちら、という感じ。でも必ずこの看板を1回は目にするような気がして」と書かれているのだが、私はこの2日間で妙にたくさん見た気がしたんだけど、どういうことか?
まあ、こういうものは2つ3つ見ただけでもたくさん見たような気になるので、単にそれだけの話かもしれないが、ひょっとして亡くなった住職と同じ宗派のお寺もこの立て札を出すということなのか? それとも喪に服す期間が長くて他と重なったのか?
その辺は寺関係者の伝手を頼りに、のちほど補記としたい。
[補記]
その後、山門不幸についてその筋の友人から話を聞くことができた。
まず2日間の間で妙にたくさんの立て札を見たような気がしたのは「おそらく偶然が重なった」からではないかとのこと。ただ、不思議と「今月はお寺さんのお葬式が多」いらしくて、「なぜか、お彼岸に集中したり、お盆の暑い時期などに亡くなる方が集中する・・・など、不思議に思うことがままあります。また、1件葬儀があると、立て続けに葬儀があるなど連鎖反応が起こるのも事実」という興味深い話も聞くことができた。
また、立て札の出されている期間については「葬儀が終われば札ははずされるので、亡くなってから葬儀が終わるまで札は立てられ」るとのこと。「ただし、一般家庭のように、すぐに葬儀が済む場合と、密葬と本葬を執り行う場合があるので、たとえば、とげぬきさんの場合はその間8日あまり、(中略)さらには長い場合だと本葬までの間、半年に及ぶ場合もあり、その葬儀の規模によっても様々」ということらしい。
ちなみに「正式にはいつに誰が逝去した云々の内容をも立て札には記載する」とのことで、それは札の裏側に書かれるということだろうか?
↑と書いたら、今回色々教えていただいてる友人から
「立て札の裏側には一切何も書かず、すべて表に記載されます。したがって「山門不幸」のみの立て札は略式だそうです。」というツッコミをいただいた(笑+多謝!)
いずれにしても山門不幸の立て札を見たときには、手を合わせるくらいのつもりでいた方がよいのかもしれない。
【写真】2006.03.07 13:35 谷中1丁目・長運寺
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2006年03月06日 (月)
横浜への出張ついでに谷中に一泊することを実家に伝えたら、それから程なくして母のところから『うえの 』という小冊子(上野のれん会 発行)の2006年3月号が届いた。
冊子にはフランス文学者・奥本大三郎氏の書かれた「ファーブル昆虫館 」のページに付箋が貼られ、彼が千駄木の元実家のあったところに新しく昆虫館を建て、3月6日(月) にオープンさせるという記事が掲載されていた。
設計カルテの自己プロフィール では全く触れなかったが、何あろう、私の子供の頃の夢は昆虫博士になることであった。あるタイプの極めて一般的な夢の一つとも言えそうだが、その仕事を続けてもそう簡単には食ってはいけないということを知った頃にはその夢を口にすることもなくなり、いつしか昆虫少年時代を終えていた。
しかし、親というのは(それもたぶん異性の親)そういう子供時代に子供が語る夢というものを決して忘れてはいないようで、それが今回の付箋となって現れたわけである。というわけで、そのオープンの日に偶然にも谷中に居合わすことのできた私は、Fleur という洋食屋で両親+野次馬CT氏とランチしたあと、昆虫にはまるで興味のない父を残して3人で千駄木小学校のすぐ側にある「虫の詩人の館*ファーブル昆虫館 」へと向かったのである。
現代建築にはほとんど興味のない私としては(なんてココで言っていいのか?>汗)、建物そのものについてはノーコメントとしておくが、奥本氏の言葉をそのまま借りれば「地下一階、地上四階の、シルヴァー・グレーにレモン・イエローという、ちょっと目立つ建築物である」という感じで、まあ、まち歩きしててこの前を通っても写真を撮るようなことはなかっただろう(尊敬する奥本先生のお家なので、こんなこと本当は書きたくないのであるが>汗>汗)。
ともあれ、中の展示物に関しては私の心を踊らさずにはいられないものが待ち構えていた。基本的に元個人宅規模の昆虫館なので、例えばデパート等でやられる昆虫展のような派手さはないが、私個人としては国内の昆虫標本を中心とした展示の方が、子供時分の記憶が存分に蘇ってむしろ楽しい。それから甲虫標本の日本・フランス比較展示などもあって、フランスの甲虫が日本の甲虫以上に小さく地味であったことにはだいぶ驚かさせられた。ファーブルは幼少時代にこんな地味な昆虫たち相手に昆虫オタクになれたのかと妙な感心をしてしまった。というか、現在のフランスの子供たちの間にどのくらい昆虫少年っているんだろうか? 私は昆虫に関してだけは日本に生まれて良かったと思いっきりナショナリストになってしまうのである(笑)
ちなみに地下1階には生きたヘラクレスオオツノカブトムシやコーカサスオオカブト、ニジイロクワガタといった海外の甲虫類、またタイコウチやコオイムシ、ミズカマキリといった国内の水中昆虫が展示されている。最近は海外産の昆虫も手軽にペットショップで買える時代になってしまったので、決して珍しいものでもないが、それでもペット屋で見掛けるものよりも形も大きさも立派だったので見応え充分だった。でも、やっぱり昆虫ナショナリストな私は国産水中昆虫の方に心奪われてしまったな〜。記憶力が絶望的に悪いはずの自分なのに、すべての名前がすらすら出てくるし。。
なお、1階の展示コーナーは季節によって展示替えしていくらしい。
通常は金・土・日のみの13〜17時と開館時間は短いが、拝観料が無料なので今後も散歩がてら何度も足を運んでしまいそうである。
【写真】2006.03.06 14:32 千駄木5丁目・千駄木小学校より北に程なくの位置
道路を渡ろうとしているのは野次馬CT氏と母。写真に気合いがない。
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2006年02月27日 (月)
flickr の ya ma さんがアップされた桃林堂の鯛焼き写真 に触発されてのエントリー。
ya maさんの行かれた桃林堂 は表参道の青山店のようだが、同店は芸大横にも上野店を構え、私は2002年12月、まだ前任建築家との基本計画中に一度行っている。
2002年の12月といえばその前月に建築家の方から提出された焼き直しプラン(放射案と呼んでいた)に家族全員が首を傾げてしまい、どうにも立ち行かなくなってしまっていた頃である。そこで、その放射案をそのまま通してしまってよいのか、リアルに検証できないか?とこの計画の野次馬イラストレーター CT氏を引き連れ、三鷹から現地に赴いていたのである。やっぱり現場以上にモノを考えられる場所はない。ただ、その時はあまりに寒かったもんで、帰りしなに溜まらずこの店に入ったように記憶している。
で、当時は何の前知識もなかったので、確かずいぶん小さな鯛焼きだな〜と思いながらペロリと平らげてしまったような気がするが、何分3年も前の話なので味のことまでは忘れた。まあ、どっちかというと暖かい抹茶の方をありがたがってたような。。それと当時は古材の再利用について色々考えていた時期でもあったので、体が温まってきてからは店内の設えの方に意識は向いていた。我が家の施工をお願いした阿部建築 が桃林堂上野店の改装工事をしていることを知るのはそれから1年以上も先の話である。
ちなみに桃林堂の公式サイトによれば、この全長8cmの小鯛焼には「とりたてて由来と言うほどのものはございません」と些か肩透かし気味のコメント が掲載されているが、それでも、この小ささの中に「桃林堂の大納言粒餡をいれて3日ぐらいは美味しく食べられるように」と贅と工夫が凝らされていることが記載されている。まあ、現にこの私もその小ささのインパクトにおいてしっかり記憶に留めているのだから、その点だけをとっても商品としては成功してるといえるのだろう。
余談ではあるが、三鷹には「甘味処たかね 」という鯛焼き屋が古くからあり(昭和28年創業)、現在その店を切り盛りしているのは私の小学校の同級生らしい。らしいと書くのは卒業後1回も話していないのだ(^^;) だが、評判は上々らしく、公式サイトも立ち上げているようなので、ここにて宣伝。驚くべきは英語のみならず、フランス語、中国語のページまで用意してあることだろうか(中国語は準備中)。
ただ、一尾125円とは、、子供の頃は60円くらいで食べてた記憶があるんだがな〜。
次回、三鷹へ行く機会があればちょっと寄ってみたい。
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2006年02月19日 (日)
前エントリー「電線の景観*N的画譚 」では画家の視点・撮影者の視点を借りて谷中の電線を好意的に捉えてみようとした。家づくりに集中していた頃には工事・引越・建築撮影と何かと障害物となっていた電線なだけに、その試みには些かこじつけ的な感もなかったとは言えない。ただ、それでも電線を「景観」の一つとしてポジティヴに見られたのは、やはりそこが「谷中」という場所だったという点が大きい。
谷中は敢えて乱暴に言ってしまえば「観光地」なのである。
観光地とは余所者から見られることを宿命づけられた場所、即ち「景観」としての特性に自覚的足らざるを得ないところである。ただし、そうした観光地でも行政主導で観光化を目的とした地域もあれば、自然発生的に人々が集まるようになった場所もある(最初は自然発生でそれに行政が飛びつくケースも当然ある)。その点で言うと谷中は後者でさらには行政はそれを放っておいているような印象が強い(その証拠に曙ハウスの解体 でも特に区で何か考えようとする動きは特に見られなかった)。
そして谷中が観光地化した最大の理由は、都内でも珍しく戦火を浴びなかったおかげで大正・昭和の薫りが温存された(悪く言えば取り残された)ことにある。「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ 」ならずとも土日ともなればカメラを手にした学生や老人たち(その中間層はあまり見ない)が町中をうろうろしている光景は珍しいものではない。
彼らが一様にレンズを向けているその先にあるものとは大正・昭和の息吹を感じさせるものである。その一つに電線や電線の踊る光景があることは言うまでもない。
ただし、それをもう一度「景観」という視座まで下がってみたときに、電線が観光的に持て囃されているから良いとか悪いとかという議論にはなり得ないと思う。ひとえに「景観」といっても、そこには住民の視点もあれば、単なる通行人、車に乗っている人、遠く離れたところから俯瞰している人、そして観光客と様々な視点が介在する。
そのような混在する視点の中から敢えて「景観」の良し悪し を指し示そうとしようとするならば、そこにその立地与条件や周辺環境、あるいはそれを選択した人間の名前および立場を明記してもらいたいものである。
当初、このエントリーは前エントリーの補遺として完結させるつもりのものだったが、前エントリーへのコメントを見ていると、単純に大正・昭和の名残とは別次元のレベルで人の電線に対する欲望は尽きせぬものがあるようで(って、それが自分にもあることは最初からわかってたんだけど)、その辺はまた別の機会に触れられたらと思う。
旧阪急梅田駅コンコース に対する私の思い入れというのは、案外そうした電線に対する欲望と近いところにあるものなのかもしれない。
注)写真は2006年1月22日に藍染大通りにて撮影
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2006年02月13日 (月)
谷中や根津の風物詩の一つに縦横無尽に入り組んだ「電線」がある。
谷中の半住人どころか年間で10日も谷中に滞在してない私は、つい最近までそのことに割と無頓着だった。というか、それ以前に家の建築写真を撮ることにおいて邪魔くさいとすら思っていたところもあり、ポジティヴ・シンカー garaikaさんの「電信柱って 」のエントリー・コメントでも結構散々なことを書いてしまっている。
ところが、先月「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ 」で一緒に散策した nodocaさんが flickr にアップされた「雪融け谷中 」の写真についたコメントを読むと、電線のことが住民・家主の視点からでないせいか、決して悪印象では捉えられていないのである。
悪い景観100景「街並みを汚くしている電線・電柱 」では電線ケーブルが「視界をますます低く圧迫している」と悲観しているが、nodocaさんは「とにかく電線は多くて低い位置にある気がする」と言うだけで、決してそれが良いとか悪いとかは言わない。そのことにアレ?っと思っていたところに更なる決定打が現れた。
Kai-Wai 散策の masaさんを通して親しくなった根津在住の画家 neonさんの作品がそれである。数日前に neonさんから『陋巷画日記 』と題する作品のポストカードをいただいたのだが、それら陋巷をモチーフとした数点の画にはすべて電線が描かれているのだ。そして、その電線の線は画のほとんど絶対的要素と言ってよいほど、重要な構成因子となっている。このさり気なくもユーモラスに踊る電線のラインがなければ、私は節度なくパウル・クレーの名前を出していたかもしれないが(って出しちゃってるけど)、それをしれっと拒む力がこの電線の線にはあるような気がする。そしてまたそれが在り来たりな「電線」の線であるというところが何ともニクイ!
こうして私は電線に対する考え方を少し改めなければならなくなってしまったのであるが、しかし、だからと言って突然電線賛美するようになるわけでもないし、依然として実家の前の電線を疎ましく思わなくなったわけでもない。ただ、一つ変わった点は電線を谷中や根津ならではの「景観」としても見られるようになったということである。
neonさんの作品はこれまでも Kai-Wai 散策「neonさんの絵葉書 」で紹介されているのを見ることができたが、この程 neonさんご本人がブログ「N的画譚 」を開設された。恥ずかしながら「陋巷(ろうこう)」という言葉を知ったのは今回のことをきっかけにしてなのであるが、N町在住の neonさんが描く陋巷の名も無き建築物たちをこれから楽しみにしていきたい。
注)写真は2006年1月22日に根津銀座界隈にて撮影
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2006年02月08日 (水)
Kai-Wai 散策「根津渋の欠片 」のエントリーに「栃乃花関 年男奉仕」と筆で書かれた短冊の写真がアップされた。この写真、先日の「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ 」で私も撮っていたのだが、masaさんはそのときに撮られたのではなく、その後の曙ハウスの解体現場パトロールの折に撮られたもののようだ。
栃乃花 関といえば平成12年五月場所で新入幕後、3場所で三役まで駆け上がる活躍を見せていたのだが、怪我で幕下まで陥落し、長らく低迷。同年七月場所に新入幕を果たした高見盛 関も同じように入幕間もなく怪我で幕下まで落ちて苦しんだが、それでも1年半で幕内復帰を遂げている。相撲マニアの妹のおかげで、高見盛関のことは人気が出る前から気に掛けていて1年半でも充分長く感じられたくらいだから、5年の歳月といったらどのくらいのものだったのだろう。それを考えただけでも応援したい気分になる。
ところでその「栃乃花関 年男奉仕」の短冊であるが、それは根津のサイタ という質屋のある細い通り の小さな告知板に一枚だけピラッと貼ってあって、それを見たときにそれが何を意味するものなのかがよくわからなかった。そして、その前を通ったときには谷根千案内人と化した masaさんが近くには居られなかったものだから、特に意味を追求するでもなくやり過ごしていた。それが思いも掛けない形でやっぱり masaさんから知らされることになる。それが冒頭にリンクを張ったエントリーである。
その短冊の意味するところとは、「節分の日に、根津神社での豆まきに栃乃花関が来るよ」ということらしい。実は masaさんもその短冊だけを見てそのことがわかったわけではなく「町内のお店の店頭などに貼ってある、神社配布のチラシを見て納得した」とのことであるが、そういうところに目が行き着くあたりがさすがは masaさんである。
ちなみに「年男奉仕 」でググッて検出されるのはたったの6件。基本的にどれも節分と関取ネタのサイトに飛ぶ。
実はそんな私も今年は年男なのであるが、では、今年の私の豆まきは妻への「年男奉仕」ってことになるんだろうか?(汗)
そんな節分ネタのエントリーを見透かしてか、masaさんが谷中M類栖に来訪された折には鶴屋吉信 の節分豆の形をした饅頭の菓子折をいただいてしまった。さすがに節分過ぎたせいか、もうサイトの商品紹介ページに「福ハ内」というお菓子は出ていないが、大変美味しくいただいた。
尚、我が家では子鬼 が一杯いるため、「鬼モ内」と言って豆まきしている(`Θ´)
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2006年01月30日 (月)
確か本日1月30日からだったと思う。
「スウハ曙」こと、旧根津片町の曙ハウスの解体工事が始まるのは。。
幸運にもとは決して言えないけど、約1週間前の「無邪気な Kai-Wai フリッカー 」のときに幾らか雪の被った曙ハウスとお別れしてくることができた。ただ、悔やむべきは「無邪気な〜」と書いているように初デジ一眼散策オフに少々浮かれすぎ ていて、しっかりと建物の最後の姿を目に焼き付けて来なかったこと。
Kai-Wai 散策でも「根津のブラックホール 」「曙ハウスの階段 」と二度にわたってエントリーされているようにこの場所は谷根千界隈を徘徊する者ならば一度ならずとも足を止めずには居れない場所だろう。実は谷中M類栖に住むようになってからでいいかとこれまでそれほど積極的に谷根千界隈を撮影してこなかった私でも2004年3月、まだ人が住んでいた頃の曙ハウスを撮影している。
阪急コンコース のときのようにこれからネット上で解体を惜しむエントリーが続出するのだろう。Kai-Wai 散策からの二次情報(参考:森まゆみ著『不思議の町 根津 』)によれば、曙ハウスは金の星社の創始者・斉藤佐次郎が大正末期から昭和初期にかけて建てたアパートのうちの一つとのこと。
金の星社は大正8年11月に設立され、業界で最も長い歴史を持つ子どもの本の専門出版社。会社案内 を見ると「初代編集長の野口雨情をはじめ、島崎藤村・有島生馬・若山牧水・中山晋平・本居長世。沖野岩三郎・岡本歸一・寺内萬治郎といった児童文化のそうそうたる先人達と共に、日本の近代的児童文化の成立をリードしました」とトップページ からはちょっと想像しがたい奥深さを持った出版社であることが窺い知れるが、こうした繋がりを書き記すことで、曙ハウスへの弔いとしたい。
追記)一時的に以下テキストを本エントリー冒頭に記し、告知のため日付変更してました。
Kai-Wai 散策の masaさんが曙ハウスの完全解体を受け、内部の様子まで公開した追悼記事「曙ハウス 」をエントリーされました。このエントリーは1月30日に書かれたものですが、一時的に日にちを変更してしばらくの間、インデックスページのトップに持ってくることにします。是非、Kai-Wai 散策の「曙ハウス 」エントリーにアクセスしてみてください。masaさん、本当に御苦労様&ありがとうございました。
そして、曙ハウスにも「ウトガリア」という言葉を贈ります。拝。
■曙ハウス関連リンク ←随時追加していく予定
・東京衛生博覧会: 曙ハウス (1999.10.03)
・Kai-Wai 散策: 根津のブラックホール (2004.06.04)
・Kai-Wai 散策: 曙ハウスの階段 (2004.10.02)
・Dragon Tips: 曙ハウスが消える!? (2005.03.03)
・ふミひコ的電脳世界観: やっぱり無人になってました (2005.11.29)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 東京文京区根津の「曙ハウス」 (2006.01.30)
・Kai-Wai 散策: 雨の根津の路地で (2006.02.02)
・ハッピーハウス: らなよさ スウハ曙+曙ハウス さよなら (2006.02.02)
・アセテート編集者日記: スウハ曙逝く。。。 (2006.02.05)
・Kai-Wai 散策: 曙ハウスの路地で (2006.02.06)
・Kai-Wai 散策: 曙ハウス最後の日 (2006.02.08)
・Kai-Wai 散策: 曙ハウス (2006.02.10)
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2006年01月22日 (日)
無邪気な Kai-Wai フリッカーズ が予定通り18時に谷中M類栖に戻ってくると出迎えてくれたのがこの雪だるまだった。
まさか近所のガキんちょが作ってわざわざうちの玄関先に置いて行ったなんてこともあるまい。
後から聞けば、母が2Fバルコニーに溜まった雪のやり場に困って(そういえばさすがに雪のことまでは計算に入れてなかった)、バルコニーで雪をまるめて下まで持って降りて、雪だるまにしたのだという。
この日、谷根千を散策する間に何体もの雪だるまを見たが(masa ・nodoca ・m-louis 撮影)、身内のひいき目かもしれないが、母の雪だるまはなかなかの出来映えである。まあ、有利な点を挙げれば大人だけで作っていることと、バルコニーに土がなく、土の混ざってない雪だるまが作れるという点があげられようか?
唇に赤く染まった南天の葉を使ったのだろうか?──微妙に表情が艶っぽく、それなりに疲れて帰ってきた我々を最後の最後に和ませてくれた粋な演出だった。
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11:00 谷中M類栖集合+しばらくM類栖宅内ご案内
12:00 谷中のどこかでランチ
13:00 谷根千散策&撮影タイム
17:00 谷中ボッサで一服&雑談
18:00 解散(以降、自由)
こんなスケジュールで計画された谷中散策ミニオフ会。
実際は Kai-Wai 散策 の masaさんが持参された GPS によって測定された移動平均時速2.8km/h(すなわち分速47m=1秒で1m歩いてない)というおそるべき牛歩の歩みでランチタイムが14時ギリギリ前と遅れつつ、また最後の落ち着きどころに想定していた谷中ボッサ が満席でやむなくデニーズとなりつつ、しかし、前夜のあれだけの雪から考えれば幸運としか言いようがない撮影日和に恵まれ、待ち侘びた1日が実現した。
集合時間の11時少し前、家の前で雪掻きしていると masaさんが最初にやってきた。私が初めて Kai-Wai 散策でコメントしたのが2005年2月24日の「ジオラマ上野桜木 」のエントリー。それからもう間もなく1年が経とうかというところで、次こそは次こそはと言っていた初対面の日を迎えることができた。でも、正直言うとまだ1年経ってなかったの?という感覚の方が強い。masaさんから差し出された手に当たり前のように握手してしまったが、もうずーっと前からの知り合いだったかのような、ネットで知り合った人とこれほど違和感なく出会えたのは初めてのような気がする。まあ、こんな写真 やこんな写真 を見ていたせいもあったかもしれないが(笑)
続いて nodoca iblog の nodoca さんが谷中6丁目交差点の方からやってきた。ひょっとして上野か日暮里から?と思いきや、交差点の先のコンビニに先に寄られていたのだという。というか、コンビニだけじゃなくて、一乗寺の脇ですでにこんな写真 やこんな写真 も撮られていた。
nodocaさんとはいつからお付き合いが始まったのかはっきりしない。いずれにしても出会いの場は flickr 。ということは自分の開始月を考えると長くとも半年くらいのお付き合いってところか? しかし、nodocaさんは私とは違って flickr の表示アイコンに自分の顔を貼り付けておられるので、コメント等やりとりしてると直接話してるような錯覚を覚えることがある(手をアイコンにしている私が nodocaさんにどう映っているかはわからないが)。そんなわけで nodocaさんが現れたときもこれまた違和感なく、すなわち違和感ないネットの出会い第2号が第1号の出現から間髪入れずに現れたのである。
最後に Abejas e Colmenas の mistubako さんがニコニコしながら坂を上ってきた。今すぐ山登りに出掛けても不自由しないくらいのフル装備態勢で(笑)
「日曜日のこと 」として mitsubakoさんにはすでに書かれてしまっているが、もうかれこれ10年来のお付き合いで、しかし基本は何らかのプロジェクト絡みで時間と場所を共有することの方が多かった。だから、私もまたこんな形で時間と場所を共有することになるとは想像すらしなかった。というか、この日の二人は旧来の本名に「さん」「君」を付けて話す二人ではなく、mistubako と m-louis だったのである。
・・とここまでの記述でお気づきの方もおられるかもしれないが、私は mitsubakoさんのスペルの t と s の位置を交互に入れ替えて書いている。コレ、実は blog と flickr で異なるもんで、それぞれの場で書く分には問題ないが、こういうところで書こうとすると「蜜箱」「霧雨箱」どっちを書いてよいのやら? なので、この後も基本的には交互に書いて行こうと思う。
さて、同行者の紹介だけで、既に得意(?)の長文化の傾向を見せ始めているが、このエントリーでは谷中のどこを歩いた等の話を書くつもりはない。私の場合、ブログタイトルに「谷中」の看板を出しておきながら、現実的に去年は4回しか谷中に来ていないし(そのうち2回は1泊のみ)、mistubakoさんからは「半住民のはずなのによそ者っぽい」と揶揄されてるような有り様なので、今回撮り溜めた写真で以て谷中の話をググって裏を取りながら小出しにしていこうと画策しているのである。
とはいえ、そんな半住民よそ者視線で Kai-Wai 散策の真似事のようなことをしたところで面白くなるわけがない。それは masaさんと一緒に町中を歩くことで尚一層痛感させられた。mitsubakoさんが「まるで自分の町内のように体の中にこの街の地図が浸透している」と書かれているように、masaさんご自身もまた優しく町の中に溶け込んでおられるのである。それを証拠づけるように masaさんは人が住まなくなってしまったところは興味がないんですよと言っておられた。私はそれを聞いて Kai-Wai 散策の「界隈」という単語に人の生のようなものを感じずにはいられなかった。もしこれが「周辺」だったならば、それは単に場所を起点とするだけの言葉で、例えばその場所が廃墟であったとしても散策の対象となっていたであろう。しかし、廃墟に「界隈」という言葉は似合わない。そして、にもかかわらず、masaさんが「界隈」を「Kai-Wai」としている点に、もしかすると「Kai」には「会」や「懐」の意味があったり、「Wai」には最も人間くさい「猥」の意味が込められているのかな〜と空想を巡らせてしまった。
ちなみに mistubakoさんは「わたしにとって初めて、デジタル一眼レフで撮影する方々と同行の1日がはじまった」と書かれているが、それは私にとっても同様であり、と同時に私にとっては初めて本格的にデジタル一眼レフを肩からぶら下げて町を撮り歩いた日でもあった。何というか、この一日によって一気にカメラを使い古した感がある(事実、いつおかしくなったのか定かではないが、買って間もないカメラのフラッシュが作動しなくなるというアクシデントにもいきなり見舞われてしまった)。ただ、カメラ自体に対する所感はまた別の機会でエントリーしたい。
それにしてもまず面白かったのが冒頭でも触れたようにこのデジ一眼+GR 撮影部隊の進みののろさである。移動平均速度ですら2.8km/h であるところに以て、全体平均速度に至っては0.9km/h(食事時間は含まれていないらしい)という数字。日常、私は常に撮影のために同行者を待たせることが多いのだが、それでも大急ぎで撮っているつもりなのである。ところがこの日はかなりゆっくり撮ったつもりでも、気づくと先頭に立っていたりする。flickr 仲間と何度かオフをされてる nodocaさんでさえも、こんなことは初めてですよ!とのこと(笑)
谷中M類栖を出て1時間ほど過ぎたあたりで(といっても、その時点でまだ1kmも歩いていなかったのだが)、nodocaさんがコンパクトフラッシュのメモリーカードを我が家に忘れてることに気づかれる。というわけで、彼には一人取りに戻ってもらったのだが、その間も誰一人「待っている」という感覚なく、思い思いの撮影に耽っていた。
そして、もう一つ面白かったのが、おおよそみんなの撮りそうなものというのがわかってしまうということ。あ、コレ、mitsubakoさんが撮るだろうなと思っていると案の定撮ってる 。それを後ろから見て「mistubakoしてますね〜」などと言いながら、私はひたすらそうした姿にレンズを向けてシャッターを切っていた。
nodocaさんに対しても然り。
ただ、masaさんはちょっと微妙にわかるようなわからないような、、それは彼が flickr ではないからなのか? いずれにしても flickr によって私は mistubako style、nodoca style なるものを感じずにはいられなくなっているのである。
ただ、同じく flickr である自分自身はどうなのか?というと、それがいまいち掴めない。彼らの口からも決して m-louis style という言葉が聞かれなかったように、どうも自分で自己分析する限りにおいても、m-louis style な対象となるものが曖昧なような気がする。言ってしまえば、mistubako style なものも、nodoca style なものも、あるいは isado style なものも無節操に撮ってしまっているというか‥‥。
それでも「m-louisさんらしい写真」という言葉は聞かれるかもしれない。としたとき、おそらく私の撮影個性なるものとは、一つには覗き魔の視点で撮られているもの、もう一つはどこにおいても旅でもしてるような、しかし、だからといってそこで捉えているものはその旅する場所の場所性ではなく、ひたすらその場所にいたときの「時刻確認をするための写真」という気がしてならない。
さきほどカメラ自体に対するエントリーはまた別の機会にとしているので、ここでは一言だけにしておくが、だから、そういう意味においても、私はデジ一眼不適任者である可能性は極めて高い。それは購入前からすでに感じていたことでもある。
御託を並べる悪い癖もだいぶ長く続いているので、この辺でこのエントリーは終わりにしておくが、しかし、この平均速度0.9km/h のオフ散策は「スローライフ」なんていう今時な言葉もぶっ飛ばすくらいののろさで皆が勝手気ままに無邪気な時間を送れたことが一番面白かったところではないかと思う。それもそれを演じているのが皆30歳過ぎた(一人はもうすぐ還暦)全くバラバラな世界の大人たち。それだけでも未来は明るい。
解散間際、谷中M類栖で祖父の屏風絵に挟まれて、買ったばかりのリモコンを使っての記念撮影。そんな幸せタイムのあとに待っていたのは、地獄の夜行バスだった(泪)
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2006年01月21日 (土)
バッドタイミング男 のさらなる面目躍如でしょうか?(^^;)
去年の5月以来、ひさびさ一泊以上の谷中滞在で今年一番の雪に降られました。
この写真は家から最寄り駅の根津駅へと向かう言問通りの途中(玉林寺 付近)振り返って撮影したもの。早朝から降り始めてはいましたが、家を出た12時過ぎの段階ではまだ路面の雪が積もる感じでもなく、目的地への行き帰り共に千代田線・小田急線は順調に動いてくれました。ただ、18時前後で帰宅したときはかなり足下に気をつけて歩かねばならぬ状態。その後、雪は深夜少し前まで降っていたようです。
下の写真は言問通りを挟んで玉林寺の向かい側。
ちなみに写真左手にかすかに写っているのが昨日豊田さんと昼食を食べた「谷中 くいものや もへい 」です。
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2006年01月16日 (月)
昔、そう遠くはない昔、根津と谷中の境にはくねくねと川が流れていた・・
と、この書き出しは Kai-Wai 散策「根津と藍染川の粋な関係 」のパクリというよりモロ写しである(^^;) 藍染川の由緒を繙くエントリーの続きはそのまま上のリンクをクリックしていただきたい。このエントリーでは1922年(大正10年)に暗渠(あんきょ:地下に設けた水路)化の始まった藍染川のその後、つまりくねくねした川の名残をそのまま通称化した「へび道」の名をただ拝借しようというだけのものである。
「鹿島焦土 」のエントリー文末ですでにリンクもしたが、上の写真は中欧旅行でまずはトランジット先のフランクフルトへと向かうルフトハンザ がシベリア上空を飛行中に撮影したものである。これが眼下に現れたときには思わず「へび道」と思ってしまった。
というか、谷根千の「へび道」が草むら散歩中の蛇だとすれば、こちらはいつ蜷局を巻いてもおかしくない臨戦態勢間近の蛇である。
撮影時刻を確認すると離陸後まだ4時間弱。約12時間のフライト時間から推測するに Google サテライトでこのあたり といったところか? シベリアだけに年中凍り付いたような世界なのかと思いきや、ツンドラ地帯 でも短い夏の間は土壌が解け、コケなどの地衣類や草本類、灌木などが生育するらしい。サテライトの何とも不思議な緑色はそうした湿地帯の色彩なのかもしれない。
ここで谷根千「へび道」のサテライト画像 と比較するのも何ではあるが、いざ歩行視点に立ったならば「へび道」体感度という点では谷根千の圧勝だろう。まあ、シベリアの彼の地に立つこと自体、エスキモーでもない限りは命懸けの話だろうが。。
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2006年01月15日 (日)
まちの木霊『MACHINO KODAMA PROJECT 2006』 のDMが豊田さんから送られてきたので、ここでも紹介しておきます。しかし、これまた何ちゅーバッドタイミング。あと1週間遅く開催されてたなら行けたのに、、という話。残念!
まちの木霊『MACHINO KODAMA PROJECT 2006』
私達の傍らに活きる自然の不思議・驚き・笑いをアートにする展示会
【日付】2006年1月10日(火)〜1月15日(日)
【時間】11:00〜19:00(最終日は17:00まで)
【場所】『gallery J2 』台東区上野桜木1-7-5 Tel. 03-3824-1300
【主催】谷中学校 坪庭開拓団
【参加者】東明美/ani/池田祥/河合嗣生/川原理子/川村南方彦/工藤桜子/関純子
菅原なな/でう&尺八部/トーマス安田/豊田聡朗/中島尚史/武藤歌織
村山節子&アトリエてるてるの仲間たち
豊田さんだけでなく、奥多摩 一緒に行った河合さんやでうさんも参加されてます。
まちの木霊『MACHINO KODAMA PROJECT 2004』のエントリーはこちら 。
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2005年09月27日 (火)
実家家族の都合 により残念ながら今年も参加できなかった谷中芸工展 ですが、今年は芸工展の方の Web が RSS 対応となり、去年より更新状況が見やすくなりました。
私個人がまだ谷中に住んでいないので、そんなに深いお付き合いが出来ているわけではありませんが、個人的に以下企画をこのブログでの告知という形で応援させていただきたいと思います。期間中に上京できたら、ここだけは回りたいってところです。
17. 谷中ボッサ 増田知己・秋本詩絵 → お店
34. 時夢草庵 ジム・ハサウェイ → ジムさん
35. 床の間巡りとアランウェストの公開制作 アラン・ウェスト → アランさん
37. マクケノエン イコアン → satoshinyaさん
93. ルーツ尺八『吹歩』 でう → でうさんインタビュー
しかし、どうせ RSS 対応にするなら、検索とトラックバックは欲しいな〜。
あと、山本さんの「谷中の住人 」ブログでは「谷中芸工展 」というエントリーで芸工展のポスター写真を掲載しての紹介がされてます。
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2005年07月23日 (土)
毎秋、谷中界隈の「まちじゅうが展覧会場」となる「谷中芸工展 」と「art-Link 」。
去年 も気付けばもう始まる寸前って感じで、やはりそこに住んでいないとうっかり忘れてしまいがちになるものである。が、今年は一応2ヶ月前の現段階で思い出したので、実家からの電話ついでに参加意志含めて聞いてみた。
そしたら回覧板のようなものがすでに回ってきていて、最初の説明会はもう終わってしまったんだとか。そして、どうも電話の様子だと今年もまだ参加したくないらしい。
結局、未だに家が片付いていないことと、1Fが何かとトラブル続きなもので、その1Fでギャラリー開く精神的余裕はとても持てそうにないということだった。
というわけで、どうやら年内のギャラリーオープンはなさそうです(謝)
まあ、私もここのところ仕事が結構詰まってきていて、長期谷中滞在は難しそうだし、それに10月末〜11月にかけて父とのTO計画 もあるので、来年からでもいいのかな?なんて妥協の気持ちの方が強くなり始めてしまっている。
尚、谷中芸工展はようやく独自ドメイン取得し、RSS対応になった模様。
ひょっとすると今年の私はネット上で谷中の秋なんてことになったりして?(汗)
□◇
谷中芸工展2005 :2005年10月1日(土) 〜10月10日(月)
art-Link 上野−谷中 2005 :2005年9月23日(金) 〜10月10日(月)
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2005年05月25日 (水)
今回はちょこっと穴場のレストランを御紹介。
私はこれまで国立西洋美術館 には絵以外に目的などなかったが(まあ、書籍コーナーも結構使えるけど)、さすがに谷中に住んでもうじき1年となる両親はいろいろ美味い店を探りまくっているようで、西洋美術館のカフェ「すいれん 」にも舌をのばし、そこのステーキランチ(1570円)がオススメだと言っている。
で、帰阪する日に母と二人で「すいれん」行ってきました。
言われるままにステーキランチを注文するとこれがボリュームも結構あって肉も柔らか、充分満足できる味。ちょっとした店探すよりもここの方が美味いかもしれない。ただ、知ってる人は知ってるらしく、それなりに行列も出来てるので、行くなら本当は11時半くらいまでに朝食べずに行くのがちょうどいいと母は得意げに話していた。
あと、中庭に面するカフェからは前川圀男氏が1979年に増築した新館側が見えるのだが、何かとル・コルビュジエの設計部分 ばかりが注目されがちな西洋美術館 ではあるものの、ご飯食べながらガラス越しに眺めてる分には非常に心地よい光景になってたと思う。ふだんも入れるようになってりゃいいのにな〜(って入れるのか?)。
□◇
去年(2004年)夏場に「建築探検−ぐるぐるめぐるル・コルビュジエの美術館 って企画を西洋美術館がやってたのは知ってたけど、さすがにあんとき美術館に行ってる余裕はまるでありませんでした。三太・ケンチク・日記 「ぐるぐるめぐるル・コルビュジェの美術館 」で細かくその模様がレポートされてます。
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2005年05月21日 (土)
父と二人で不忍通り沿いの「小松 」という焼鳥屋に行った。
この店は夜しかやってないので父もまだ行ったことがなかったのだが、父の仕事先の仲間がわざわざここの焼鳥を食べに根津まで来るという話を聞いていたので、前から唾は付けていたらしい。割と最近改装されたと思しきやや敷居の高そうな門構えから多少の出費は覚悟していたが、140円からタン・はつ・はらみ・なんこつ・シロ・レバーなどあって、思ったほどの出血にはならなかった。それに何と言っても焼鳥が美味い!
これまで焼鳥屋といえば父も私も吉祥寺の激安店「伊勢屋 」ぐらいしか思い浮かばないので、単に美味い焼鳥知らずなだけなんだろうが、こんなに焼鳥が美味いんならもっといろんな焼鳥屋に通ってみるべきだよ!と誠にアホらしい父子談議を繰り広げていた。
そんな最中である。父が母と私の妻に大顰蹙を買いそうな話をし出したのは!
父は6月中、行けるものなら一人クルマで東北旅行をしたいと計画しているのだが、それについては母はおろか私も歳が歳だし(74歳)あまり賛成できないと思っているということをこの場でも伝えた。そんなときである。父が「東欧に行きたい。でも、一人で行くと無駄に金が掛かってバカバカしいし、誰か一緒に行く人間は居ないもんか?」と言って、こちらにチラリと目配せしたのは!
そのときの答えを私はここに書くことは出来ない(笑)
とはいえ、このときの話の成り行きは概ね妻には話し、予想通り、怒り半分呆れ半分でその後その話が再び取り上げられてはいない。そしておそらく父は母には話していないだろう。というのも、我が家にとって東欧(特にハンガリー)は結構格別の地なのである。まず我が家で東欧に行ったことがあるのは母だけである。1969年に世界青少年交流協会ハンガリー班音楽係・記録係として派遣という形で、母の初めての海外旅行として東欧に行ったことについては彼女のプロフィール でも触れられている。
そんな音楽派遣された母にとっても、またオーディオマニア の父にとっても、また標本フェチ の私にとっても、20世紀のハンガリーを代表する作曲家のベラ・バルトーク (1881〜1945)の存在は非常に特別なものなのである。つい先日の清真美さんの『新釈肖像写真 』でもバルトークのアルバムがしっかりモチーフとして加えられていた。そのバルトークが生まれ、音の採集を行った地として、父がまだ足を踏み入れていない東欧に行きたいと思うのは至って自然な流れだ。父の中ではそれが最後の海外旅行になるんじゃないか?という気持ちもあるようだし。。
ただ、そこで父が一人で行く分には誰も文句がないのだが、その同行者に私が一人選ばれるというところに問題があるのである。実際、私もそれを面白く思えないどころか下手すりゃ憎々しくすら感じかねない我が家の女性陣の気持ちも私にはわからないではない。だが、これは後日豊田さんとも話して同感を得られたのだが、私個人としては行ってやりたい気がするし、行ってみたい気もしている。というか、何よりも行っておかないと非常に大きな後悔をすることになりそうな気がするというのが正直なところだ。
男のワガママと言ってしまえばそれまでだが、70歳過ぎた父親と二人で海外(それも憧れの東欧)を旅するというのは不思議とワイルドなイメージが抱けてしまう(笑)
少なくとも1年前にそんなことを思い描くことはありもしなかった。
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2005年04月01日 (金)
うちの裏手、アランさんのアトリエの近くに立ってる看板なのですが、抑止効果のほどや如何に?
しかし、ふと思うに前科のないドロボウってドロボウをするまではドロボウとは言えなさそうなので、「ドロボウ侵入禁止」という言葉が適合しないのではないか?と、、せめて「ドロボウ退出禁止」とか「関係者以外侵入禁止」とか、、でも、それを言い出すとドロボウってのも最早関係者ですな(汗)
2005年03月11日 (金)
実生活にまでは及んでなくとも、それ相応の日数、居候的生活を送っていると自ずと最寄り駅までの最短ルートや最も心地よい道のりといったものは探っているもの。この日は練馬区美術館 で開催中の「創造のさなかに −ただ今制作中!− 」展をIJ氏と見る約束で12時に西武池袋線中村橋駅で待ち合わせていたのだが、家を出たのが11:20。かなり大慌てで日暮里駅までの最短ルートと目される道を小走りに歩いていた。確かそのとき傘は差さなかったものの、小雨がぱらついていたように記憶している。
ちなみにそのルートの中間地点には初音すまい研究所があり、現場で工事が始まってからは何かとそのルートを往復することが多かった。つまり散策対象というよりは完全に日常の通い路としていそいそ歩く道となってしまったのである。ところがこの日、何を思ったのかいつもにも増して大急ぎのはずだったにもかかわらず、道すがらの路地で1枚だけ撮影していた写真があった。それが右の写真で、見ての通り半ボケ反ブレして構図もままならぬ公開に値しない写真だが、それをここに敢えて出す気になったのが偶然にも Kai-Wai 散策 「古材の門 」という3/12(土) 付エントリーでほぼ同じ場所の写真が撮られていたからである。
後日、豊田さんから聞かされた話によると Kai-Wai 散策の masaさんは1日に撮影する写真を基本的に1枚に限定してるとのことで、その話自体、無意識乱撮り後編集派の私には畏れ多き話なのだが(ちなみにそんな私のバカげた究極的撮影目標はファインダやモニタを覗かずに自分の思うような写真を撮れるようになることです)、言わずもがな「古材の門」で撮られている写真も私が今回撮影した写真とは較べるべくもない素晴らしいものである。そしてそれ以上に感心させられるのがそれを撮影した着眼点の方で
面白いことに、この家は、2階が増築されているようなのですが、2階を支える柱が1階部分の外側に通っている のです(写真でお分かりいただけますよね)。そして、2階部分は、全体が波形トタンで覆われています。したがって、古い平屋の上に、木造のピロティ式建物をぽんと被せたような感じがするのです。いったい、この2階を支える柱は、2階増築後に補強のために追加したものなのか、それとも本当に1階に負担をかけないために最初からこういう造りだったのか? 専門知識のない僕には???です。
という点に私はもう何度となくこの光景を目にしていながら、全く気づいていなかった。それに何故にこの日、日暮里駅までの道のりでここで急にデジカメ出して撮影してたのかも大いに謎なのである。
おそらく探せばこれよりももうちょいマシな写真も過去に撮影したものの中から出てくると思うが、ここでは1日違いの共時性を重視して、それと多少は「古材の門」記事の補足説明的写真にもなりそうなので、画像サイズを変更するのみに留めてそのまま無意識垂れ流しでエントリー&トラックバックしてしまおうと思う。
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2005年03月01日 (火)
子どもの頃、昆虫博士になりたいと思っていた私は祖父に教えられて昆虫の標本を覚え、あたり構わずそこいら中の虫を捕まえてきては発泡スチロールのケースにピンで刺し留めていた。それを夏休みの自由課題か何かで学校に持って行ったら、同クラスの女子から大顰蹙を買ってしまったのは今でも私の中でちょっとしたトラウマになっているが(昆虫少年はモテない)、それでもこうした標本化への意志とでもいうべき性向はなかなか変えられないもので、実際それは自身の「おらないがみ 」という作品シリーズにも現れているし、世の中のそこかしこに点在している標本的なものに出くわすとつい過敏に反応してしまうものだ。
先日、豊田さんからのメール追伸で「最近谷中近辺の方らしいのですが、ホームページを紹介されました。なかなか面白いHPです」ということで早速 URL をクリックしてみると「Kai-Wai散策 」というブログで、主に本郷、湯島、池之端、谷中、根津、千駄木界隈を散策しながら気になったところをデジカメに納めてほぼ一日一エントリーのペースで淡々と記録されているものだった。コレ、言うまでもなく私の好みの標本スタイルブログなのである。「はじめに」といったブログ趣旨を紹介するエントリーすらされてないのがまた小気味よい。標本的であることがこれだけ徹底されていれば最早そうした説明など必要ないのである。
早速うちの近所が写っていた「ジオラマ上野桜木 」というエントリーでコメント挨拶するとブログ制作者の masa さんはこちらのブログのことを既にご存知だったようで、私が谷中の住人ではなく大阪在住だから尚更こういうブログの存在がありがたいと話すと「もしも、どこか様子をお知りになりたい、などといったことがありましたら、大阪からリモートコントロールなさってください」と非常に嬉しいお返事をいただけた。
2/28(月) にはうちの裏手のアランさんのアトリエ にも行かれてるようだし、そのうち我が家がギャラリーオープンさせたら、何喰わぬ顔した標本の一つとして紹介されることもあるかもしれない。さすがに自分の関係するところが標本の一部となるというのはこれまで標本する側だった者としては何ともこそばゆいマゾヒスティックな感覚になりそうな気もするが(笑)
ところで「ジオラマ上野桜木 」のコメント欄では山田屋意匠堂 という方が私よりも先にコメントされていて、その方のサイトを見るとこれがまた見事な標本系。「塔的な」物件、墓石・屋形・門柱タイプに分類された御名刺受、メメント・モジとどれも標本魂を擽られずにはいられぬものばかりが陳列(標本化)されていた。こちらも早速ブックマーク。唯一難癖付けるとしたら、御名刺受の写真もポップアップで大きいのも見られたらな〜といったところか?(※1)
と書いてて、危うく書き忘れそうになってることがあったのを思い出した。「Kai-Wai散策」の魅力には作者独自の視点を巧みに織り交ぜながらもこざっぱり纏めてしまえる手腕(ブログにおける1エントリーの文字数が最適な気がする)もさることながら、とにかく写真が素晴らしいのだ。同ブログ内でもリンク張られてるけど、「MasahiContax 」の方も必見です。
□◇
※1)御名刺受の写真もポップアップで大きいのも見られたらな〜
後日、山田屋意匠堂さんとコンタクトを取る機会があり、大きな画像を見せられないのはプロバイダのサーバスペースの問題に拠るということが判明いたしました。それにしても山田屋意匠堂さん、これまた我が家のご近所さんのご様子です。
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2004年12月05日 (日)
そういえば今頃だったよな〜と思いながらも正確な期日を忘れていた地鎮祭 の日取りは去年の12/2(火) で、すでに3日ほど過ぎてはしまったが、実家で阿部建築にご苦労様の挨拶に行ったとの報告も受けていたので、私の方でも改めて阿部さんのところに着工して1年ということでお疲れ様のメールを送ることにした。どうもどこが終わりなのか今イチ判然としてなかったので、始まりから1年ってことを挨拶口上の取っ掛かりとしたわけだ。初音すまい研究所の方は庭造りがまだ残っているので、それが終わってからでもいいだろう。というか、改まった挨拶という関係でももうないような気もする。もう少し色々落ち着いたら豊田さんの実家のある別府 に皆で行くのもよかろう。豊田さんたちへの労いの気持ちはもちろん、何だかんだ色々あったが我が家族にも御苦労さん!と温泉にでも入ってのんびりしてもらいたい気分だ。
1年前の地鎮祭の日は見事なまでに青空が広がる快晴だった。だが、我が家の地鎮祭写真 を見るとまるで曇り模様。夏場以外の我が家は日中10時半から14時半くらいまでが向かいのマンションで日を遮られてしまうのだ。実家の家族は完成前の7月末からあの家に住み始めたので、今のところ夏と秋を体験し、これから本格的な冬場に突入する。まずは1年通して住んでもらわないことには新しい家の実感を畏まって聞くのには早急な気がする。一方で私は2004年の記録も儘ならぬまま、地鎮祭 のエントリーでとうとう2003年に踏み込んでしまったが、過去の記憶はどこまで辿れるだろうか?
昨日、フィリピン沖で大きな被害をもたらした台風が、強力低気圧として日本にも上陸。フィリピンほどではないが、国内でも各地で被害を受けたらしい。大阪では深夜、まるでスチームのような霧状の雨が強風で横殴りではなく横吹雪状態になっていた。そして今日は季節はずれの「夏日」となったり今年は本当に異常気象だな〜と思っていたら、パスワード設定した去年の地鎮祭のフォトアルバム コメントにも「前のマンションで日陰になってますが、連夜の雨模様(台風?)からは一転。最高の地鎮祭日和となりました。」と書かれていて、去年も充分異常気象の年だったんだなと思い知らされた。
去年の地鎮祭の日、気持ちよい晴れ空のもと、日暮里駅から初音すまい研究所へと向かう途中の谷中墓地で、途方もなく気持ちよく聳え立つ銀杏の木をデジカメで撮っていたので、かなり大きいけれど、大きなままでアップしておきたい。
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2004年10月27日 (水)
この日は父が夕方から出掛けるということで、夕飯は父がいるとなかなか行けない喫茶 谷中ボッサ でカレー。なぜに父がいると行けないかというと、一に不作法な父がいるとこういう店に入るのはちょっと恥ずかしい。もう一つは父がこういうカフェ飯では腹が満たされないということからです。引越前の撮影時に一度私は行っていてアイスカフェオレもスイーツも非常に美味しかったので(※) 、母に是非行ってみるといいと勧めていたのですが、その後、母と妹は何度か行ってたようで、谷中ボッサはカレーもチーズケーキも美味いということもよく知ってました。
というわけで、この日は野菜カレー にカフェオレ 、チーズケーキ を注文。言われた通り、どれも美味かった。というか、チーズケーキを食べながら、パティシェ イナムラ ショウゾウ よりも谷中ボッサの方が美味いと各々口々に断言していた我ら。ちなみに谷中ボッサのチーズケーキは近所の人ならテイクアウト可能とのことです。冷凍保存剤を用意してないので、遠くの人には無理らしい。ケーキ屋ではないですからね。
2004年10月25日 (月)
第31回打合せ: 光庭(※) でも書いたように、一乗寺の塀を蔦で覆うプランで話は進んでいるので、その了解を得るため一乗寺へ。
もちろん第一目的はその承諾を得ることだが、今回、久々に座敷に上がらせていただき、初めて挨拶に伺ったとき以来の中庭にお目に掛かることできた。一乗寺の中庭は外から見えないのが本当に勿体ないくらい素晴らしくて、出来れば今回また見れないものかな〜とひそかに思っていたのだ。
目的の話はすぐ済んだ。郵便局から帰って来られた住職さんはもう図面を見るまでもなく腰を下ろす間にOKですよの二つ返事で、一応の条件として、塀を傷めないこと、蔦が塀を乗り越えないことを挙げられたが、それらはうちの方でも当然の注意事項として考えていたことだ。で、実際に図面を見ると、あれ? ここにこんなに広い庭作れましたっけ?と塀問題よりも我が家の光庭用敷地の方に関心の的は移ってしまう。いや〜、この図面で見ると妙に立派な庭に見えてしまうんですよ〜などとこちらも冗談交じりに受け答えして、和んだひとときを過ごすことができた。しかし、まあ、豊田さんの光庭の絵 見るとみんな立派な庭だと錯覚しますな(笑)
話を終えて腰をあげるときに一乗寺の中庭の素晴らしさを母と共に口にすると、ゆっくりご覧になってってくださいと回廊に出るのを薦め、お茶まで出していただけた。矢原さんも一乗寺の中庭は初めてとあって「こんなになってたのか〜」と驚きの表情。30平米は悠にありそうな正方形の苔庭に3つの灯籠、庭石、手水鉢、蛙がバランスよく配され、飛び石伝いにそれらの間を縫うことができる。植栽も高木から低木まで多すぎず少なすぎず手入れが行き届き、無論うちでは真似出来そうもないプロの仕事。豊田さんにも見せたかった。庭だけでなく、堂内も障子、襖、天井、欄間、他様々なところに目を見張る意匠が懲らされている。さすがは1573-91年創建のお寺なだけのことはある。昔はお化け松 が植わってたなんて話もあるらしいが。。
それからもう一つ我々の目に留まったのが、平成10年(1998年)に撮影された一乗寺の航空写真。我々は自分たちの土地が更地になってからの状態しか知らなかったが、それ以前の様子をここで(しかも真上から)拝めることになるとは。。飾られていた写真がガラスの額に入って暗いところにあったので、ちゃんと撮れてないが一応デジカメで撮った画像を右にアップしておく。画面の一部コントラストが極端に高められてるところがうちの敷地。血縁関係のない2世帯がその敷地に住んでたという話の通り、非常に見にくいけど家は2軒ある(見にくいので右上に簡単に図示した)。ただ、謎なのは1軒がうちのバルコニースペースのところだけに立地しており(青線三角形)、道路に接する面がないのだ。その住人はどうやってその家を出入りしてたのだろうか。まあ、昔の長屋的住まい方なら他人の家の敷地を通って表に出るなんてことも珍しいことではなかったのかもしれないが。。
帰りしな、一乗寺の住職&奥さんに手招きされ、ここからお宅のタラップが見えるんですよ!と奥廊下の方までも案内された。確かにうちのタラップが屋根の間から見える。ということは、タラップからこの場所も見えるのか?と一瞬思ったが、見えているのがタラップの上層部だけなのでそこによじ登らなければこちらは見えないだろう。ちなみにその奥廊下のうちが見えるところには坪庭というのにぴったりなサイズの小庭があり、割と午後の陽が建物の反射でしっかり落ちてきて、光庭考(※) で書いた「光庭」の意味が字義通り使える、光と風の抜ける場所なのだろうなと思った。
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2004年10月06日 (水)
母のメモより
このとき、10/11(月) にアラン・ウエスト アトリエで予定されてる演奏会に招待され、母は花を持って行ったらしい。結構喜ばれたんだとか。。
写真は母の撮影。
2004年10月02日 (土)
谷中芸工展2004 、私の帰阪日が開催初日だったもんで、帰り支度やなんやと追われ、夕刻、裏のアトリエ アラン・ウエスト に顔出したのと、shinyaさん とこの憩庵(いこあん)「蒔家の縁(まくけのえん) 」をまわるのでやっとだった。
ちなみにアランさんのところはちょうど来客中で展示物拝観と軽く会釈のみ。憩庵は展示物が家の木塀に掛けてあって、これだけかな?と半信半疑だったけど、時間がないこともあって呼び鈴までは鳴らさなかった。あれは外展示だけだったのだろうか?(後日そうだったことが判明)
それにしても憩庵= shinyaさんのお宅は展示作品のタブローにも描かれていたが見事な柳の木が植わっていて、というか、この家は柳ありきで出来たもののように見えてならない(それとも後植えだったりして?>笑)。それと路地の奥まったところにポッと出てくる感じがまた面白い。落ち着いたらじっくり探検してみたい気分に駆られる。豊田さんちとどっちが近いんだろうか。
2004年10月01日 (金)
大阪ではコーナン 、三鷹ではJマート ってな具合に、谷中界隈でホームセンターないのか矢原さんに聞くと西新井(日暮里からバスで30分くらい)にドイト(DOit) があるとのこと。でも、さすがにバスで30分は遠いな〜思ってサイト確認してみたら、後楽園店というのがあって、そこならチャリで30分程度で行けそうだったので母と一緒に行ってみた。たぶん30分も掛からなかったと思う。コーナンやJマートほどの品揃えはないが、それなりの日用雑貨は揃っている。追加制作した本棚の転倒防止ストッパーや木ねじを買う。また波板ポリカーボネートも売ってるので、明日もう一度車で来て買って行ってもよさそうだ。昨日、ベニヤをチャリで抱えて走ってたら風で煽られ割れてしまった(※) ので、さすがに薄板モノ携帯チャリには懲りているのだ。何せ30分の道のり、2度も激しい坂、上らないとならんしね。
それにしても Do It でドイトとは何ともそのまんまな名前やね。
言問通りには「丸井」という鰻屋がある。
根津駅から商店街を上っていく途中左手側(我々の家と同じ側)にあるのだが、我々は谷中で土地探しを始めた頃から気にはなっていた。なぜって我々の苗字もまた「丸井」なのだからして(笑)
しかし、何はともあれ鰻屋の敷居は一般庶民には高く、土用の丑とかお客のもてなしとか何かしら鰻を食べても許されるようなきっかけでも見つけないとそうそう食べられるものではない。そんな我々がきっかけとしたのは、豊田さんが芸大助手時代に何度か研究室で注文することがあったらしく「遅いけど美味い丸井のうなぎ」という話を先日の打合せ時にされたことによる。ならば一度本当に遅くて美味しい鰻なのか試してみようと実は3日ほど前にも出向いてみたのだが、その日は生憎の火曜日定休でこの日が再挑戦となったのである。
で、父+母+私の3人で出向いたのだが、確かに聞いていた通り、入店したのが13時半、で、他に客はいなかったにも関わらず、鰻重が出て来たのは14時を回っていたのであった(^^;) どうやら注文受けて鰻を捌くところから始めるらしい。そりゃー時間が掛かるというもんである。しかし、待ってる間、全く退屈はしなかった。何しろお店のおばちゃんが世間話好きというか、すっかり「丸井」話で花咲かせてしまったからである。実は鰻屋の丸井でも、同じ言問通りに新しくできた「丸井」という表札の付いた我らが家のことを気にしていたのである。
ちなみにこの鰻屋の「丸井」は屋号が「丸井」というだけで、実際の姓は「丸井」ではないらしい。ところがお客さん皆に「お金がないないっていつも言ってるくせにしっかり家を建てちゃって」と何かと言えばからかわれていたらしい。というわけで、わざわざうちがどんな家かチェックしにも来ていたんだとか(笑) それにうちの母がピアノを教える人であり、将来的にはギャラリー兼ピアノ教室云々といった話もすでに町の噂で聞き知っていた。そして話は把手へと向かう。あの把手が何をイメージしたものなのか?と(^^;)
ちょうどその話に及んだ頃には出前から帰ってきた店の若旦那も話に加わり、おばちゃんはピアノ教室だというくらいだからヴァイオリンかギターをイメージした楽器じゃないか? 一方の若旦那はいやあれは女性の体をイメージしたものに違いない、あの右肩の斜めにくねったラインは女性の髪をイメージしてるとか、そんな話に花が咲いたところで大旦那が独りじっくり焼き付けていた鰻重が出て来た。
把手の意味については鰻を食べながら種明かししてしまったが、何かこちらで一つ面白い作り噺でも打った方がよかったか? ともあれ鰻はさすがに一から作り始めるだけにホクホクと美味しくてあっと言う間に食べ終えてしまった。無造作に皿に盛られた胡瓜の塩漬けも美味しい。ただ、如何せんこの店は待たされるだけに先に予約するか、出前注文を薦めるとお店の人たちにまで言われてしまった(笑)
それと最後に付け加えておくとこの店の駐車場側の壁面一面には紫色の朝顔が蔦状に咲き乱れ、言うまでもなく谷中散策ウォッチャーたちの恰好の撮影ポイントとなっている。
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2004年09月28日 (火)
人が来訪したときに食後のニオイが残っていることを母は嫌う。我が家のキッチンが閉鎖的なのはそうした面への配慮から来ている。しかしこの日、初音すまい研究所との打合せ(※) が午後から我が家の和室であるとなると昼食は外でという話になってしまうのだから、考慮を重ねた間取りもぶっ飛びだ。
で、この日は父+母と言問通り沿いの「谷中 くいものや もへい 」へ行った。先日は夜だと高いということで入らなかった(※) が、8月末にオープンしたばかりの店で父+母はすでに1回行ってるらしい。 <非日常をテーマとしながら、居心地のよい空間で沖縄出身の店長が「医食同源」をテーマに炭火焼と沖縄料理でおもてなし!>とのことだが、私が食べた日替りランチ (けんちんうどんと鉄火丼)はデザートのサーターアンダギー 以外、沖縄っぽさはなかった。父+母が食べてたお重セット も同様で、沖縄を楽しむなら夜なのかもしれない。
むしろこの店で気を留めるのは店内外のイン・エクステリアだろう。
道路際にはちょうどうちの光庭三角形の尖った方が切られたような形の前庭がある。庭を眺める視点が二方向なので、うちとは柵の配置が違ってくるがサッシを挟んで店内外を跨ぐ縁台があり、サイズ的にも参考になりそうだ。
植栽は龍の髭を河原に見立て、玉砂利の敷かれたところが川、トクサの生えているところが島のように見受けられる。隣地との境界には本物の竹か笹の塀。その手前に高木を数本。やはり視点が異なるとサイズが似ていても構成そのものがまるっきり変わってくる。
店内も掘り炬燵仕様の座席の間に移動可能な板を挟み込んだり、他、衣紋掛け を突き出した壁との隙間に収まるようにしてたりいくつか工夫が見られる。庭の様子は店内から見た場合 の方が参考になるかもしれない。サッシにはブラインドが使われ、雪見障子のように半分降りていて、それは非常に良い感じ。うちの場合、ピアノの反響問題があるためカーテンを選んだが、紫外線を避けるためにいつも閉じられてしまいそうなことを考えると足下だけでも見えるブラインドやロールスクリーンが羨ましく思えてしまう。
2004年09月26日 (日)
お昼に伯母が初見参(工事中にも一度来ている)。伯母は映画・TV業界の人なのだが、80歳を前にしても未だに仕事を依頼されるという、、そして超倹約家でもあり、今回も都営バス&電車を駆使して、武蔵野からタダでやってきた(^^;)
家→[バス]→吉祥寺→[バス]→新宿→[大江戸線]→上野御徒町→[バス]→谷中
と以上のようなルートで約1時間半。三鷹から中央線→千代田線と乗り継いで最速でも50分近くかかるので、タダで90分なら安いといえば安い。もちろんこのワザは老人にならないとできないが。。
家の中は父が案内していたが、父が一番自慢したいのは風呂のようだった。本当は屋上にも上がってもらうとよかったろうに、タラップまでの通路が埋もれた荷物でそこまで辿れず。片付いてないことは承知の上での来訪なので、呆れ顔はしてもそのことについてはコメントはなし。
伯母はトンカツ好きな人なので、ひとしきり見学の後、皆で「とんかつ 信濃屋 」で昼食。ここのところ、トンカツと言えば「蟻や」ばかりだったので久々だったが、前に味較べなどしてちょっと飽きたかなと思ってた頃の感覚はなくなって、フツウに美味しく食べられた。伯母+父+私がロースの上を注文。母+妹はヒレ。ちなみに味較べというのは以前、芯ころ(2000円)・ロース上(1500円)・ロース並(1000円)の3つを注文して、どのくらい違うか食べ較べたとき(右の写真はそのときのもの)、ロース上が一番美味いという結論に達し、ところがその結論を出した次の機会にロース上を食べたら、何だか妙に重たく感じて、以後しばらくお店に行かなくなってしまっていたのである。
ところで、このエントリーにあたって「信濃屋」検索したところ、ちぐちぐの日記 というブログに「とんかつ:上ロースと並ロースの違いは「大きさ」の違いなの? 」という記事があるのを発見。「並でも充分おいしいのよ。」というフォローでお店のおばちゃんは言ったとあとにフォローもあるんですが、大きさの違いだけじゃない(ま、写真の大きさはだいぶ違いますが)と思いまっせ。何せ、並べて食べ較べた訳でして。。
食後、私は急いで三鷹へ。所用済ませた晩にはこの伯母の家で一泊。
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2004年09月24日 (金)
お昼に説惇さんが見えたときに母が出した茶菓子が上野桜木の「パティシェ イナムラ ショウゾウ 」のケーキで、残りを夕食後帰宅してから母+妹+私の3人でアレコレ言いながら食べる。
この「パティシェ イナムラ ショウゾウ」、ケーキ屋の名前としても何だかとても偉そうなのだが、谷中界隈はもちろん都内にあっても超有名店のようで、休日などは交通整理まで出て並ぶ(※) らしい。豊田さんも御用達とまでは行かないまでも客人のお土産にこの店の洋菓子をということはあるようで、我々も一度いただいている。それと実は2001年10月に妻も上京して谷中で土地探しをしていた折に母がこの店有名だからと言って店の前でモンブランを食べてもいるのだ(そのときの印象は全くといっていいほど残ってないのだが)。
で、さきほどの3人によるアレコレなのだが、実はそれがどちらかという不平なのである。これだけ評価の高い店なのだが、3人とも共通して「甘すぎる」「これなら三鷹のふらんすや やレヴェ の方が安いし美味しかった」と口を揃えて言い、挙げ句の果てには「嗚呼、最近美味しいケーキ食べてない」と三鷹を懐かしみながら方々に不平を漏らすのである。
いやはやどうなんだろう。単に我々が「パティシェ イナムラ ショウゾウ」の味に不馴れなだけなのか? Web上でのべた褒めコメントではあの甘味の強さを買ってるコメントもあり、もう少し食べ馴れてみないと性急な判断は出来かねるが、しかし、如何せん高いよね。やっぱりケーキは300円台に抑えてもらわないとなかなか買う機会もなくなります。って今のご時世じゃそっちの方が甘いか?(^^;)
しかし、このエントリーはイナムラファンからの糾弾に合うかもしれませんな。
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この日は父が夕食を武蔵野の伯母のところで済ませてくるということで、母+妹+私の3人で外食することになった。
当初、母は「谷中 くいものや もへい 」という最近出来たらしい和風料理屋で食べたいと言っていたのだが、夜は値段が高いというのと、偏食の妹が食べられるものが少ないということで、赤札堂の横の細道入って数十メートルのところにある、母+妹はすでに入ったことのあるという「洋食ボボ 」に行った。
朝早くから出て来た疲れか、いまいち食欲のない私はカルボナーラを注文。『美味しんぼ 』でスパゲティ屋のコックの力量はカルボナーラで測れるという話があった気がしたが、この店はまあまあといったところ。まあ、スパゲティ屋じゃなくて洋食屋なので他のメニューを食べてたら印象もまた違ったでしょう。妹はハンバーグ、母はオムレツを食べておりました。
しかし、こうして書いていると三鷹のふらんすや のスパゲティはケーキ屋だったのに美味かったよな〜とつい思ってしまう。駅前開発で移転を余儀なくされたのだが、その移転先がわからない。ご存知の方おられましたら教えてください。ふらんすやのケーキとスパゲティが食べられるのなら、私はどこまでも追いかけて行く所存です。
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2004年09月21日 (火)
shinya さんの blog 記事 で気づいたんですが、そういえば今年ももう「art-Link 上野-谷中 2004 」「谷中芸工展 2004 」のシーズンである。
個人的な希望としては今年は人としてのギャラリーではなく、場所としてのギャラリーとして参加したかったのだが、今年の何月くらいだったろうか?──引越→片付で心身共に疲れ切った住人を蔑ろにそれでも参加しようとするのなら、それは私たちを殺そうとしてのものと考えると母から先陣切られ、もはや引き下がる他なかったのである。
両プロジェクトほぼ同時期に行われるため、この時期の谷中はマップ片手に首からカメラをぶら下げた人がいつも以上に徘徊する町となる(ふだんも土日は「谷中散策」と称してそういう人たちの集まるところであるが)。また、今年の art-Link は去年の「ガチャガチャ」プロジェクトの発展形として「ふくふくプロジェクト 」なる地域通貨の導入を掲げているようで、町ぐるみのプロジェクトとして地域通貨はすでに各所で実験されては来ているものの、その成果が気になるところである。
本当は無理にでも今年から参加していれば、家族も町のネットワークにも溶け込みやすくなるだろうと思ったのだが、私がそこに住んでない限りはそうした発想もすべて余計なお節介でしかない。そうしたことが最近骨身に染みて理解できるようになってきた。「住む」ということには何か侵犯し難い「家」それぞれの境界のようなものがあり、実家を出て6年経つ私はもはや完全に「別の家」の人間であって、その「家」の境界を跨ぐことはできない。
とりあえず私の上京スケジュールだと、art-Link は行けるが、芸工展の方は初日行けるかどうか?である。
art-Link 上野-谷中 2004 :9/25(金) 〜10/11(月) 事務局(080-5518-7008)
谷中芸工展 2004 :10/2(土)〜10/11(月) 事務局(03-3821-9118)
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2004年08月23日 (月)
愛飲してるやなか珈琲店 の珈琲(今回はモカ)が切れてしまった。今度上京したときにまた買って帰らねば。。
ちなみにこのやなか珈琲店の店舗施工は阿部建築がやってて、その建築例 として阿部建築 のサイトに写真が出てます。
やなか珈琲店では注文してから豆を挽くのでお店で買うと約20分待たされることになるんですが、その待ってる間に珈琲を一杯出してくれるので、ちょっと一杯美味い珈琲飲みたくなったときにはお店で買うのが一番! しかし、家で入れた珈琲ってお店で飲んだときの味が出ないんですよね。美味しい珈琲の入れ方ご存知の方、是非教えてください。
2004年07月30日 (金)
谷中に暮らして数日。その数日生活体験で最も必要と感じたアイテムが電動自転車。
何しろ、うちの敷地は言問通りでも一番高いところに位置し、何かと買い物に出掛けるスーパー赤札堂 が一番低いところにあるのだ。「行きはヨイヨイ帰りはツライ」をこれほど地でいくところもないだろうというくらいにその坂道は辛い。
実際、何度行き掛けて躊躇したことだろう。
と思ってた矢先、足りない本棚補うためにカラーボックスでも!と近くに無印良品 がないかとサイトで場所確認しようとしたら、無印のトップページに電動アシスト自転車 7/29(木) 新発売って出てるじゃないですか!
ましてやまだまだスポーツタイプは10万前後はしてしまうご時世下で¥52,290-。さっそく母に相談して試乗して大丈夫そうだったら買おうという話になりました。写真は上野の無印良品で試乗中の母。スポーツタイプに不馴れなため、ちょっとふらついてますが、サドルが低いので大丈夫だろうと、、ただ、カゴやらカギやらライトやらオプション付けて行ったら、あと5千円近く掛かってしまった(^^;)
店員からは受け取りにあたって18時前に電話するという話だったが、18時半過ぎまで電話がなく、こちらから掛けるとちょうど今装備取り付けられたって話(本当か?)。この日、帰阪予定の私は慌てて上野まで歩いて受け取りに出向いた。
で、私は帰り道に三段坂の方を通って早速昇ってみたのですが、確かにアシスト、しっかり効いてくれました。
っていうか、恥ずかしながら私は電動アシスト自転車のアシストの意味を当初理解してなくて、ペダル踏まなくても電動にすれば勝手に走ってくれるもんだと思ってたんですが、「それじゃバイクと変わらないですよ!」と矢原さんにもツッコまれた通り、まあ、要は
http://www.muji.net/new/electric_bicycle/
ペダルをこぐ力をセンサーが感知し、必要に応じた動力をモーターから補助する、電動アシスト自転車。
走り出しや上り坂など大きな力が必要な時に威力を発揮します。
ってことですね。平坦な道を走ってるときにはあんまりアシストしてくれなさそうではあります。でも、これなら赤札堂に行くのが厭にならなくて済みそう♪
【追記】
結局自転車は私が大阪に持ち帰り、自分で乗ることにしました。
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ここ何日か上野に出向く度(※) に目にしていたのだが、日に日に睡蓮の花の数が増えて来ている。といっても睡蓮見るなら朝(花が咲く瞬間、カポッと音が鳴るらしい)と言われているように、見事に咲いてるなという状態のものは少なく、ほとんどがツボミか半枯れしたような花ばかりだ。祖父は睡蓮の花を好んで描いた(※1) が、この不忍池の睡蓮も間違えなくモデルになっていたはずだ。
この日は母とチャリで2ケツだったので、写真好きの母に1枚不忍池を背景に撮ろうか?と聞くと、蓮は死の世界の近くにあるものだから撮らなくていいとのこと。血液年齢90歳と医者に窘められてる上に引越疲れが蓄積している母にとってはなまじ冗談とも言い切れぬ話で、蓮と一緒に撮りたくないという気持ちは充分理解できると共に、その拒否には母の生きたいという意思が伺えて個人的にはちょっと嬉しかった。
□◇
※1)丸井金猊と睡蓮
金猊が睡蓮を描いた作品には以下2点の軸の他に所在不明の「採蓮圖」がある。
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2004年07月21日 (水)
妹のPCデスクが設計時に想定されていたものと違うものとなったために、電源コンセントの位置がデスクの側板で隠れるようになってしまった。というわけで、兄心とでもいうか、秋葉原までチャリで出向いて(15分程度かな?)スイッチ付きの5股電源プラグを買ってきたのだが、その行き帰りで目に留まったのが不忍池の弁天堂。ライティングされて屋台が出て、、ってこういう光景ってどうしても気が浮き立ってしまう。
結局、帰りに上野で夕食食べてから寄ったらもう屋台も仕舞い掛けていたのだが、どうやら「うえの夏まつり 」ってのが行われていたようだ。実際に見てないので詳しくはわからないのだが、7/24(土) には夏まつりパレードと称して、各地のお祭りが寄せ集めパレードみたいのが行われていたみたいだね。残念ながらその日は三鷹仮住居の方の片づけで一杯一杯でした。
2004年07月17日 (土)
阿部建築での引き渡し終了後、豊田さんと一緒に谷中の家に戻る。この日は17時過ぎから設備設計の長田さんによる設備点検&指導を受けることになっていたのだ。
長田さんは初音すまい研究所との計画が始まる以前からうちの設備設計を見てくれてきた人で、メールでは何度もやりとりしてたのだが実際にお会いするのはこの日が初めて。年賀状で「長田!突然変異する」といって設備設計の会社から某ブロードバンド系インフラ会社に転職されるという、今年最初のオドロキを味合わせてくれた人だけに、そのことも含めてお会いできるのを楽しみにしていた。
とりあえず点検の方はまだ未済工事の部分も残っていたものの、電気系統のチェック他、水回り関係もトイレの水をしばらく流しっぱなしにして、その排水音をチェックされたり、本来なら施主検査のときに我々がやっておくべきようなことまでしっかり見て廻られた。豊田さん、母、私(時々、妹、妻も)が後ろに付いて各所説明を聞きながらだったが、長田さんのテキパキと的確にアドバイスを加えて行く様は家族は言うに及ばず誰が見てても感心しちゃうんじゃないかと思う。途中、工事で居合わせた電気屋さんにも細かく指示を与え、電気屋さんの方がたじたじになっていたくらいだ。
しかし、そのおかげで心配事の一つだった LAN 配線の問題が丸く解決しそうだ。これまでの話の流れでは工事をするのは空配線を張るところまでで、そこから先の実際の LAN 配線は自分たちでやらなければならないような話になっていたのだが、そうした作業もすべて電気屋さんがやってくれるという手筈をその場で取り付けてくれた。そうした交渉手腕も見ていて天晴れであった。
尚、なぜに長田さんのような設備の専門家にうちのような個人住宅を見てもらうという話になったかといえば、それは今後エントリー予定の初音以前のプロセス上で何度か触れることになると思うが(だいぶ先の話だろうけど)、簡単にいえば1F応接室に展示する屏風作品にとって最適な空調換気システムを考えたいというところから話は始まっている。
その結果としてダイキン のエアカルテット を導入することはこれまた初音との計画が始まる前から決まっていたのだが、それはそのまま初音との計画でも引き継がれ、こうして1Fの全スペースは古材の再利用などで一見古風な佇まいを見せるものの、長田さんの言葉を借りれば「めちゃくちゃハイテクなシステムの仕掛けられた」空間(※1) となったのである。
そのハイテクな仕組みに関しても詳しい説明を受け、ホホ〜と感心することしきりだったが、それについてはエアカルテット のサイトでもフラッシュアニメによる説明があるのでそちら をご覧いただきたい。
ただ、このハイテク装置の特性(※2) として、例えばこの室内に入ったときにエアコンのよく効いたところに暑いところから入って「おぉ〜、涼しいな」と感ずる、あの直裁的なわかりやすい体感性はないということを付け加えておきたい。むしろ入ってしばらくは空調の効いた室内に入った割には暑いな〜くらいに感じられてしまうはずだ。しかし、しばらくするとそこが一年中暑くも寒くもない空気の浄化された心地よい空間であることに気づく人は気づくのである。まあ、こうした話も後日、空調システムを検討していた際のプロセスを記したエントリーで改めてすることになるだろう。
余談ではあるが、1年以上も前にエアカルテット導入の方向で話が固まったときに長田さんとはダイキングッズのぴちょんくん の話もしていて、何と!そのときお願いしていたぴちょんくん関連グッズを1年以上も取り置きしてこの日に持ってきてくれたのである。これには我ら夫婦も大感動。ましてや1年前のものゆえに逆に激レア物になってたりして、でも、ここで何をもらったか書くと世のぴちょんくんファンにやっかみを買いそうなので、ここでの記述は差し控えさせてもらいます。ららら〜ん♪
何やかや長田さんとは家族交えて記念撮影までしたりと20時近くまでお付き合いしていただくことになってしまい、母の提案で長田さん、豊田さん、我ら夫婦で晩御飯を食べに行くことに。お店は、豊田さんが以前から私の妻が上京した折には是非とも連れて行きたいと言われていた日暮里駅すぐ側の「ポドゥナム(柳) 」という韓国料理屋。ユッケ、ケジャン、キムチチヂミ、冷麺を注文し、ちょっと値段は高い感じだったが(夜だから仕方ないともいえる)韓国料理にはうるさい妻にも充分満足な味。店内の雰囲気も韓国の焼肉屋をそのまま持ってきた感じで今度はお昼に寄ってみたいお店だった。
その帰り路、長田さんが車を置いていたうちの近所まで戻ってきてから「鞄をお店に忘れました」と思い出したように言われ、自分も忘れ物が多い方ゆえあまり人のことは言えないのだが、ご愛嬌までしっかり持ち合わせた人なのか〜と最後のオチまで感心してしまった長田さんとの出会いだった(笑)
尚、上記内容をエントリー前に長田さんに確認したところ、幾つか補足(※3) と指摘をいただけたので、それを追記にて記しておく。
□◇
※1)「めちゃくちゃハイテクなシステムの仕掛けられた」空間
この件に関しては長田さんからの補足説明があるので、一部こちらで手を加える形で(その部分はグレー で表示)引用しておく。
> 上記 の点ですが 住宅としては
> ダクト空調を行っている、温湿度(除湿、加湿)を設備設置している。
>
> なかなか一般的な住宅では行っていません。
> これはしっかり言ってよいと思います。
※2)ハイテク装置=エアカルテットの特性
これに関してはそれに続く文章について長田さんから次のようなコメントを戴いた。褒められ文で気恥ずかしくもあるのだが、大切な内容を含むので一部こちらで手を加えて(その部分はグレー で表示)引用しておく。
> こ のくだりは大変感心することしきりです。
> 人間の感覚に対する空調というよりも 作品に対する安定した空調を目指している
> そこがうまく表現されています。
>
> 当然別の部分でも記載されていると思いますが
> 建築構造上での細心の断熱計画が豊田さんによってな されている点も
> 触れておくべきでしょう 。
※3)補足
これに関しては本文というよりは計画自体に対する長田さんの補足だが、
> この前の竣工検査でお願いしている点
> とくに心配はメンテナンスですが
> 豊田さんからしっかりいってもらってくださいね。
> 設備は使いきって10年後に評価されるものだと思います。
こうした先を見た言葉って施主にとっては至極嬉しいものだ。その点においては豊田さんも完全に同じ視点に立っておられると思う。建築写真に対する考え方(※) などはその典型的な例だと思う。
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2004年07月16日 (金)
撮影というのは撮る方はもちろんだろうが、付き添う方というのもこれまた案外疲れるもので、撮影終了後に私の方が一休みしたくなり、カヤバ珈琲の並びにある喫茶 谷中ボッサ に入ることになった。実はこの店、この日発見して初めて入ったんだけど、今年の4月頃にはオープンしてたらしい。谷中ボッサの前の通りって通る機会がないわけじゃないんだけど、大抵 SCAI THE BATHHOUSE の前の道のところで右折しちゃうんで、この筋だけ外れちゃうんだよね。前を通ってたなら絶対気づいてたはずだもん。
しかし、なかなか良い店を発掘してしまいました。こんな近所でボサノヴァ聴きながら珈琲飲める店があるなんてちょっと幸せ。清さんから一口もらったスイーツもなかなかの味で、店の雰囲気もいいし、今後、上京の度に通うことになりそうです。
□◇
参考リンク:
Kai-Wai 散策: 雨の日に谷中ボッサで
ナイショのいい場所、ここだけの話。: 食#081 谷中ボッサ
江戸ブログ: 東京下町ほっつき歩記。谷中
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第29回打合せ: スケジュール(※) でも書いたように引き渡し→引越までの間が2日となり、その期間はすべて引越準備作業に当てなければならなくなってしまったため、事実上、完成お披露目といった機会は持てなくなってしまった。しかし、ムリムリでも引越前に写真撮影だけはしたかったので、工事の真っ最中に友人のフォトグラファーに撮影をお願いし、そのついでという形でフォトグラファーと何某かリンクしてる友人数人+先日相互 trackback で知り合ったばかりの Off Space の bside さんを招き、ささやかながらお披露目の場を作ることができた。
まあ、お披露目といっても日暮里のペルシャ・トルコ料理店「ざくろ」 で1000円のしあわせランチ を食べながら自己紹介&近況報告をして、その後、工事最中に現場見学をするという慌ただしいものだったのだが。。
ある意味、みんなが一番くつろいでくれたのは現場を離れて、近くのカヤバ珈琲でかき氷食べてたときだったんじゃなかろうか。でも、途中から雲行き怪しくなるし、何もかもが慌ただしい中で引きずり回すことになってしまって、ちょっと申し訳なかったくらいだ。
お越し頂いた皆さん、ありがとうございました。
今度は是非本当に完成してから!ということで。。
2003年12月02日 (火)
地鎮祭(※1) の日取りは六曜との関係から考えると大安か友引の日が一般的とされているらしい。だが、うちでは私の上京日程や工期のことなどあって 12/2(火) の先勝の日に行われることになった。地鎮祭を行う上で先勝は可もなく不可もなくといったところらしいが、そもそも私個人は知らなければ知らないまま六曜をやり過ごせる人間。豊田さんもどちらかというとそういう人なのだが、しかし、この計画は私一人でやれるものではなく、多くの人が関わり、その中にはそれを気にする人もいることだろう。そういう意味では地鎮祭以上に上棟式において日取りのことは気を遣った方がよいように思われる。地鎮祭は家族と工務店・建築家だけだが、上棟式にはいろんな職種の職人さんも見えるのだ。
豊田さんとは10:30 に初音すまい研究所前で集合、そして阿部さんたちとは11:00に現地集合ということで、敷地に着いたときには阿部さん、山本さんがすでに準備を整えられていた。うちの場合、神主なしの略式で行うことにしたので、基本的にすべて阿部建築にお任せのほとんど手ぶら参加。最近は阿部さんのところでもそういうケースがかなり増えているらしい。豊田さんは冗談交じりに阿部さんが神主さんのコスプレしてくれますよ!と言われていたが、さすがにそれはなかった(笑)
敷地中央奥に約2m四方の砂が敷かれ、四隅に笹竹を立て高さ2mくらいのところが注連縄 (しめなわ)で結ばれている。真ん中に簡易テーブルが祭壇として設えられ、御神酒、米、塩が飾られている。まあ、どこの地鎮祭でも見る光景。ただ、地面、竹、注連縄によって結ばれた2m角の立方体に小宇宙を見てしまう自分がいる。どうも気質的に正方形や立方体という形状に妄想が働きやすい質なのだ。それは祖父・金猊にもそういうところがあったらしい。そういえばこの日、私は祖父のマフラーをしてこの場に臨んでいた。
儀式は阿部さんがお米と塩、山本さんがその後ろで御神酒を手にまずは敷地の四隅+1(うちの場合、角が5箇所ある)と中央に蒔く。その後、なぜか一同揃って記念撮影 。で、鍬入れは阿部さんから「一応、エイッって掛け声あげて掘ることになってるんだけど、恥ずかしいから言わなくてもいいですよ」といった手解きを受け、施主筆頭の私、母、父、妹、豊田さん、山本さんの順に行われた(平日であったため、私の妻は参加出来なかった)。以上、30分弱でおしまい。片付けは山本さんがされる(ただし、この日は祭壇テーブルのみで笹竹・注連縄は数日このままだったようだ)ということで、我々は軽食を取ったあとに初音すまい研究所で打合せ。そして夕方から上野桜木にある阿部さん馴染みの花村 という懐石料理のお店で一同阿部さんの御馳走になった。趣味人、阿部さん行きつけの店だけあって、料理も店内も非常に洒落ている。今後、客人をもてなすときには使えそうな店だ。それにしても山本さん、妹と同じく刺身関係が駄目らしく、ちょっと料理が勿体なかったかな。まして妹と向かい合わせに座ってたし(^^;)
□◇
※1)地鎮祭
All About Japan: 住宅・インテリア チャネル の「地鎮祭レポート!! 地鎮祭にはどんな意味があるのか 」に準備するもの、その意味、手順などが写真付きで詳しく書かれている。
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