2009年01月28日 (水)
Photo: sympathy, Scanning: m-louis(書籍表紙より)
正月恒例、妻の実家・総領への18きっぷ帰省往復の時間を使って、長らく読めずにいた俵寛司著『境界の考古学 対馬を掘ればアジアが見える 』(ブックレット《アジアを学ぼう》12・風響社・700円+税)を読んだ。著者は「軍艦アパート 」解体の頃から接点のある sympathy さんの相方の中華丼 さん。お二人には谷中M類栖/1f での金猊展示にもお越しいただいているが、それより前のまだ一度も対面したことのない頃に谷中のあかじ坂を下ったあたりで突然声を掛けられ 、びっくりした のが思い出深く残っている。
うっすらと水平線上に朝鮮半島が浮かぶ表紙の写真は sympathyさんが撮られたもので微笑ましきコラボとも言えようか。しかし、その内容は対馬という、境界領域をテーマとしているだけに穏やかなものではない。というより、穏やかさとかそういう形容とは無関係に、「対馬」という地理的境界を考古学するために、まず「考古学」という学問自体の、一般的にはあまり知られていない(そう考えられていない)学問分野としての境界部にメスを入れる。ある意味では徹頭徹尾リアリズムを貫こうとする書籍と言ってよいのではないだろうか。
よって若干60ページの本書の三分の一(「おわりに」と注でも三分の一取るので、事実上は二分の一である)が「考古学」の境界を問い直すことに割かれることに最初は面喰らったが、個人的にはむしろその学問自体の境界を問う前半の方が書物としては楽しく読めてしまった。その理由は、近代以降に導入された「日本画」というジャンル生成と同列に読み得るところが幾つか出てきたからだ。どうやら日本の考古学もまた日本画と同様に、近代化の曲折のなかで恣意的に作られ(境界を固められ)、国家創立に都合良く利用されてきた側面を強く持っている。中華丼さんはその先でこう記す。
有史以前に遡れば、現在の「国境」や「国家」はもちろん、「民族」の区分すらほとんど意味をなさない。そうした大きな観点からみれば、現在の区分そのものが本来すべて「恣意的」なものである。逆に、それら恣意的な区分を往復するような領域を「境界」と呼ぶならば、本書の目的とは、すなわち、「境界」の持つ本来の意味や可能性の経路を「発掘」していく試みでもある。
この視点に著者の慧眼を見た気がするのは自分だけだろうか。アートジャンルではこの論旨が出てくると短絡的なナショナリズム批判へと展開して、そこでチャンチャン!と終わっちゃうことがままあるが(て、昔の自分も若干そうだったような>汗)、著者はおそらくそこでその恣意性の振れ幅こそを問題としている。その意味において、対馬という境界領域はその島の実質面積よりも遙かに広く大きい。
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2008年10月30日 (木)
芸工展2008 が終わってもう10日も経っている(芸工展本体の終了日は10月26日)。
ブログ更新の習慣を失って以降、こうした展示活動の記録もつい億劫になりがちで、思えば一宮市博物館 での特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」の総括も未だにできていない。まあ、あれは大展示だったので、期間中に考えたことの色々はその後も頭の中を巡っていて発酵しつつあるので構わないが、こちらの小展示での些細な出来事というのはもう何日かするときれいさっぱり記憶の彼方に消えてしまいそうなので、何とか仕事の隙間(でもないんだが)を見つけて記録しておくことにした。といっても、まるまる丸井金猊公式サイト で書いた記事の転載ではあるが(写真の配置が少しだけ違う)。
あと、リソース展のタイトル変更を会期直前に行ったが、どうもしっくり来ないので、もう一度バージョン表記を復活させ、丸井金猊展を一から数えたボリューム表記の方はシャープ(#)で短縮して、バージョン表記の後に付けることにした。
-- 以下、丸井金猊「丸井金猊リソース ver3.0 #10 を終えて 」より転載 -----
芸工展2008 「丸井金猊リソース ver3.0 #10 」で谷中M類栖/1f までお越しいただいた皆様、大変ありがとうございました。前エントリーでご案内したように今年は4月末から約1ヶ月、愛知県の一宮市博物館で特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」が開催されました。展覧会図録や講演会では美術史家の山本陽子さんが金猊作品について触れられ、とりわけ屏風絵「*観音前の婚姻圖 」についての作品分析が強く印象に残っています。そこで今年の芸工展は「*観音前の婚姻圖」をメインに据えた展示にしようと特別展開催中から考えていました。
「*観音前の婚姻圖」は谷中では初展示ということになります。これまで展示してきた「壁畫に集ふ 」も人物を中心とした屏風でしたが、「*観音前の婚姻圖」には観音様という人物の並びの中に似て非なる違和が入り込んだことによって、それが人物画だという意識がかえって強烈に働き、であれば、今回は人物画を中心とした展示にしようという考えに至りました。
そこで最初に思いついたのが、特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」では作品の傷みが激しいという理由で展示を見送られた江南の叔父のところにある「*聖徳太子二童子像 」2点を展示しようということでした。これによって、愛知県まではるばる足を運んでいただいた方にも未見の作品があるという楽しみをお持ちいただけたのではないかと思います。
そして、もう一つの目玉として、所在不明となっている「ハープとピアノ 」という作品の下絵を展示しました。この「ハープとピアノ」の下絵は2点あり、完成作の様子はアルバムに残されていたセピア色の写真1枚によってしか知り得ないのですが、今回展示した下絵はその完成作とは異なるものの方です。見較べていただければ一目瞭然ですが、ピアノを弾いている人物が今回展示した下絵は男性、完成作では女性で、完成作には犬も描かれています。もう一つの下絵はその完成作と同じもので、一宮市博物館でも展示の計画はあったのですが、スペースの都合から見送られました。尚、うちで完成作でない方の下絵を選んだのは、そちらの方が下絵の上部がしっかりしていて、画鋲で留めやすかったこと。もう一つは下絵の線が濃く描かれていて、他の実作と比較されても見劣りしないで済みそうだと思えたからです。
一宮市博物館の特別展含め、これまで下絵の展示は何度か行ってきましたが、谷中では初めての試みだったので、ギャラリーとはいえ、居室でもある空間で合うかどうか、実際に展示してみるまでは若干心配でもありました。しかし、その心配は杞憂に終わったと言えそうで、今後も下絵をある種の「新作」として随時公開していきたいと考えています。
他、今年の展示作品は去年も展示した軸の「浴女 」と毎年展示している版画の「さだゑ圖」、そして谷中では初出となる「婦女圖 」、菊池契月の模写画「稚児圖條暢 」を展示して人物画としてまとめました。しかし、人物画とは言っているものの、それらの人物たちはどれもリアルな肉感を携えた描写とはほど遠く、金猊の妻・さだゑの言葉を借りれば「霞を食べて生きている」ような人物像ばかり(「さだゑ圖」の版画は除く)。基本的には金猊が若い時分に何度となく模写を繰り返した仏像や歴史画の人相をしています。そんな中、ぽつんと人間としては描かれていない観音様がおわしまして、ところがその顔を見つめると誰よりも人間味を帯びているように見えてくるという、そんな不思議感覚を楽しんでいただけたらと思っておりました。
しかし、こういう展示でなかなかそうしたコンセプチュアルな主旨を伝えるというのは容易ではなく、美術史家の山本陽子氏が図録で書かれた「*観音前の婚姻圖」の作品分析も一部抜粋して会場で読めるようにしておいたのですが、会場内の他のお客さんという人物が結構たくさんいらっしゃる中でテクストをお読みいただくというのはなかなか難しく、そういう話はなるべく口答で話しかけるようにしていった方がよさそうだという今後の課題も見えました。
去年の無告知展示で知人の中では唯一お越しいただいた flickr 仲間の otarakoさん のアドバイスに従って、今年は最初から玄関ドアを全開にしたので、以前よりはだいぶ入りやすくなったのでは?と思います(今年も招き猫ならぬマネキオタラコスモスの効果絶大でした!)。
また、一宮市博物館の特別展で使われた年表や写真などの展示パネルを譲り受けたので、今回の展示から金猊の横顔が以前にも増して伝わりやすくなったのでは?と思っています。ただ、年表は横幅が180cmあり、それを展示空間に持ってくると2作品分くらい取ってしまうので、玄関前室に設置する以外なく、年表と「菊花讃頌 」パネルの組み合わせは毎年定番ということになりそうです(ポートレイトを華燈窓に持ってくると葬式写真みたいなので辞めました)。
来年は金猊生誕100年ということで、10月19日という金猊の誕生日もちょうど芸工展期間内となるので、今年よりは会期に余裕を持たせての展示を行いたいと思います。
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2008年06月10日 (火)
2008年6月7日 18:08, 大阪/自室, Nikon D300/26mm
祖父の遺作展で慌ただしくてたもので、時差ボケはおろか三週差ボケの祝辞である。
Kai-Wai 散策 の masaさんこと、村田賢比古氏が写真集を出版された。そのタイトルは『時差ボケ東京 』。Kai-Wai 散策ではご本人の人柄よろしく控えめな紹介に留められているので、より詳しく写真集の情報をお求めの方は、もはや masanager とも言えそうな、わきたさんのエントリー「村田賢比古・写真集『時差ボケ東京』 」を随時チェックされることをオススメする。
また、写真集を見ているとどうしても知りたくなってしまうその撮影手法については masaさんの盟友である玉井一匡氏の「「時差ボケ東京」を開く 」のエントリーを読まれると幾つかのヒントが見えてくるだろう。ただ、そのエントリーを読まれるタイミングは実際に写真集を手に取られてからの方が良いかもしれない。そういう意味では『時差ボケ東京』を一家に一冊まだお買い求めでない方は、まず一番に LOVEGARDEN の「『時差ボケ東京』当店にて発売中! 」にアクセスすべしだろう(^^;)
冒頭の写真は『時差ボケ東京』を書棚に収めたところなのだが、見ての通り、収めたというよりは飾られたという方が相応しい。収めるスペースがなかったという理由はあったにせよ、それ以上に『THE PICASSO PAPERS 』と並べて飾りたくなる表紙だったということの方が大きい。いろんな意味で大きな写真集である。必見必携の書!
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2008年04月15日 (火)
2005年「家づくりは、はじめてですか? 」のエントリーで、業界唯一完全独立系建築プロデューサーの朝妻義征 氏が出された同タイトルの自費出版著書を紹介したが、その後に氏は改訂版を出されたあと(その改訂版では上記エントリーでツッコミ入れてた背表紙タイトルも追加された)、さらにバージョンアップさせた本格書籍を幻冬舎ルネッサンスから発行された。
タイトルも新生『 家づくり物語』へと変わっている。ちなみに梅田ジュンク堂で書籍検索すると、なぜか「文芸」のカテゴリで出てくる。物語ってタイトルだからなのか、それとも幻冬舎だからなのか、書店の検索機も複数カテゴリ指定の機能は搭載していてもらいたいものである。
レビュー(感想文 )は、我が家づくり仲間の仲間内では、
・ちはろぐ: 『家づくり物語』
・家づくり行ったり来たり: 「家づくり物語」──友人が書いた本をオススメする
・あさみ新聞: 家づくりのススメ
と強力なエントリーが続き、正直それに続くには尻込みしてしまうというのが本音だ。
そのくらい上記エントリーは強力(なぜかここで最初「協力」と変換されてしまったのだが、ある意味で「協力」的でもある)なので、同書籍をお持ちの方、心惹かれてる方はそれを読まれるより先に『家づくり物語』を読まれた方がいいかもしれない。そして読後にそれらエントリーを読むと、『家づくり物語』が如何にスゴイ本だったかを改めて実感されることだろう(て、読んでる途中で気づく人は気づいちゃうだろうけど)。
さて、朝妻さんが心待ちにされてるような感想文だけど、スンマセン。2005年のエントリーで内容面についてはそれなりに書いてしまっているので、今回は少々斜めからの切り口で捉えさせてもらいます(ある意味直接的な内容には触れない)。
それで今回『家づくり物語』を読みながら、というよりも読む前から朝妻さんがブログなどで漏らされてた言葉 を聞きながら思ったのは、この本において朝妻さんははじめて(?)施主(クライアント)という立場に立たれて、本づくりと向き合うことになったんだろうなということである。これまでの自費出版は云わば「DIY」で作られていたようなもので、特に改訂前の版では誤字脱字なども結構あって(笑)、でも、おそらくは自分の作りたいように自分の中から湧き出る言葉を紡ぎ出して来られたのだと思う。
ところが、今回は編集者(建築家?)が間に入り、装丁・イラスト(左官?)と色々な人たちとの共同作業のなかで、本づくりのリーダーとして、ときには迷子になったり、もしかすると本づくりの妖精とどこかで出会って、その共同作業ゆえに編み出された一つの形となったものがこの『家づくり物語』なのだろうなと思った。なので、朝妻さん本人と直接お会いしたことのある者としては、ここは自分が知ってるはずの朝妻さんぽくないなと思うところがないわけではない。しかし、私にとって家づくりが面白かったのはそういう「100%純然たる自分」ではないところが、建築家や工務店、家族とのやりとりのなかで紛れ込んでくることであった。そして、もう一つ面白いのがそうして紛れ込んできた新たなる要素が気づかぬうちに、それもまた「自分」の一部であるかのように感じられるようになっているということである。
実は私自身、ふだんはクリエイターの側の立場にあるので、実家の家づくり自体がはじめての施主(クライアント)体験だったと言っていい。しかし、その経験は言うまでもなくその後の本業活動において大きな糧となっている。おそらくは建築プロデューサー朝妻さんにとっても、本づくりというクライアント体験は本業の実績を踏むこととは別の意味で大きな糧となったに違いない(家づくりの迷子にとっては、より一層朝妻さんが身近で親しみの持てる妖精となっていることだろう)。
書籍配本直前、朝妻さんは某所で「孫の誕生を待つおじいちゃんのような心境かも? うん?なぜ子供じゃなくて孫なんだろう? 」と語られていた。その心理は自費(DIY)ではなく、より多くの仲間(家族)に囲まれて迎える産声だったからではないだろうか。よく孫の誕生は我が子よりも嬉しいなんて話聞くし。。
以上、本エントリーでは著作本編の具体的な部分には一切触れずに書いてしまったが、ブログ迷走中 の身にとって『家づくり物語』は家づくりの過程を想起するネタ満載なので、祖父の展示が終わって落ち着いたら、本文中の唐突な一行をきっかけに妄想を繰り広げるようなエントリーを小出しにできたらと思っている。
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2007年03月07日 (水)
文京ふるさと歴史館 で現在展示中の neonさんの描かれた曙ハウスの間取り図については、N的画譚「曙ハウス 間取り図を描く 」にその制作経緯が詳しくまとめられているが、拙ブログではその制作前段階の下図作成がどのような手順で行われたか(ある意味どういう情報を書き落とし書き損ねてるかに重点を置いて)触れておくことにしたい。
まず差し当たって行ったのが、曙ハウス跡地の実測である。ところが、ここでいきなり思いも寄らぬ数字に直面する。約13×13m。てっきり長屋風と思っていた曙ハウスの敷地が、実はほとんど正方形の形状をしていたのである。奥行きが意外にあるということも更地になったことで知ったことだが、まさか正面の幅と同じだけの奥行きがあるとは思わなかった。現在のコインパーキングになっている跡地は、敷地の奥が冒頭の写真のように3mほど仮囲いされて奥行きを奪われた状態にあり、それがまた敷地が平たいという印象を与えてもいたのだろう。
しかしながら、この敷地が正方形であるという前提は案外私を苦しめた。というのも、私の脳裏には私が今回この下図(以後「下図M」と表記)を書く前にすでに neonさんの書かれていた手書き図面(「曙ハウス†スウハ曙 」収録・以後「原図N」と表記)があって、その横広がりの長方形に収められた間取り感覚(間隔)は至って妥当な感じであり、なかなかその先入観から抜け出すことができなかったからである。というのも、正方形の敷地をベースに間取りを決めていくと、1階手前の各室が「原図N」からは想像し難いほどに細長くなってしまうのだ。
最終的にはハウス内部を見られている masaさんの「手前側の各部屋は鰻の寝床級に細長かった」という言葉によって、どうにかその正方形の敷地に合わせた図面を書き上げることができたが、少なくともお借りした写真を見ているだけではそれを細長い部屋のイメージに結びつけることはできなかっただろう。これは現在展示中の neonさんの間取り図を見ていただくしかないが、ハウス1階手前側の各室の細長い部屋割りはそのような迷いの末に構成されている。
それとこれはだいぶ後になって masaさんから出てきた話なので、展示中の間取り図にも反映されていないかもしれないが、図面上1階右端手前の細長い部屋(すぐ上の写真の緑トタンの部屋)は、部屋を前後に分断する仕切りがあったようだ。今にして思えば、なぜハウスの路地側手前(路地側から見たら左端)のところに外に出入りできるドアがあったのかも、その証言によって理解可能である(むしろそれは細長い部屋割りだったからこそ、その仕切りが可能になったともいえる)。そして、そうすると部屋数は一時1・2階各7部屋の14部屋ということで決着が付いていたが、この事実を踏まえると1階8部屋、2階7部屋の計15部屋だったということになるのだろう。
「原図N」では neonさんが記憶される限りの窓位置が記されていたが、「下図M」ではその表記はしないことにした。というのも、さすがに masaさんも全室の写真を撮られたわけではなく(モノが散乱して入れない部屋もあったようだ)、つまり masaさんの写真から判断付く限りでしか、窓位置の提示ができなかったからだ。今、このエントリーを書いている時点ではわかってる範囲内だけでも書き記しておくべきであったようにも思えてしまうのだが、「下図M」作成段階では、最終的には neonさんの描かれる「間取り図」という作品的なものになるため、わざわざ「この部分に窓があったかは不明」といったような補註を描き込ませるのも鬱陶しいように思えたのである。
また、私自身、図面を専門に書く仕事をしているわけでもないので、私の「下図M」はCAD系の製図ソフトではなく、グラフィック系の Illustrator で書いていた。そして、neonさんがそれをトレースして、「間取り図」作品に仕上げられるということを想定し、2本線の必要となる壁厚は書き込まずに、単に線の太さによってのみ、壁厚がイメージできるような描写にしていた(実際、壁厚の寸法自体わからなかったし)。
寸法は基本的に半間=90cmという単位で捉えていくことにした。江戸間か京間か団地間かという問題もあるが、そこはもう厳密に追いようがないので、単純に計算のしやすさを優先してしまった。2階右奥の部屋がたぶん四畳半だったという情報を基に、ひとまず270×270cmの正方形を配置し、そこから横軸のスペース配分を考えていく。
また中央を左右に走る廊下幅は、床に敷かれた割板の幅を1枚30cm×7=210cm と想定(つまりかなり幅広の廊下 だった)、そこから三和土+押入スペースを90cmと大目に見積もって引き算し、縦軸の間隔に見当を付けた。ただ、そこで割り出されたのが奥行き5m近くになる鰻の寝床型1階手前の各室だったので、しばらくの間、迷わせられることになってしまったのであった。
階段 は24cm13段で当たりを付けてしまったが、これは寸法から来るイメージ優先採択なのであまり段数は数えないでおいてほしい。家づくり、行ったり来たり「階段の段数 」では、13段という段数は縁起がよくないということが書かれていて、まあ、特にその根拠はないようなのだが、昔の建物なだけにそうしたものを気にしている可能性がないことはないかもしれない。というか、図面に書き起こすことをもっと早くに考えていたならば、masaさんに階段の段数と幅を計っておいてもらえばよかったのである。それがわかれば平面は元より、その高さも推定がしやすくなったというものである。
他、もう一つ迷わさせられたのが、共同便所のあった奥廊下側の間取りであった。これが現在の建物であるならば、トイレというのは割と規格サイズから諸々想定しやすくなるのだが、如何せん昔のトイレなだけにどう解釈してよいのかわからない。さらに和式便器だとばかり思っていたら、取り替え型の洋式便器に替えられていて、masaさんも「曙ハウスらしくない!(^^;」と写真を撮られていなかったのである。それはそれで、ちょっと面白いエピソードなのでここに書き記しておきたい(笑)
ともあれ、この「下図M」は masaさんの写真と、masaさんを始めとする何人かの方の記憶を合わせなければ、到底書き上げられるものではなかった。ハウス左手の手前側1・2階の物干し台と増築部分の複雑に入り組んだ位置関係も masaさんの写真を幾つかの角度から検証することによってどうにか書き落とせたものである。ただ、さきほどもちょこっと触れたように、私は製図を専門にしているわけではない、只の施主(それも、つい自分で図面を引いちゃいました系のダメ施主)なので、文京ふるさと歴史館で展示中の間取り図は、あくまで曙ハウスの雰囲気や味わいを感じ、愉しむものとして、そして何よりも neonさんの一つの作品として、ご覧いただければ幸いである。
設計図、平面図といった言葉を使わずに「間取り図」という現代建築家たちからしたら少々野暮ったい言葉の表記にこだわったのも、その厳密性が担保できないことに因る。
尚、私が作成した「下図M」は、文京ふるさと歴史館での展示終了後、気が向けばこのブログで公開するかもしれない。
【写真上】2007.01.12 13:31, 東京都台東区根津・曙ハウス跡地
【写真中】2006.01.22 13:24, 東京都台東区根津・解体を1週間前に控えた曙ハウス
本文中「1階右端手前の細長い部屋」の分断された手前側のスペースを外(正面)から写したもの。右手側面側に庇が見え、その下に外に直接出入り可能なドアがあった。
【写真下】2006.01.22 13:26, 同上・曙ハウスの正面から見て左側スペース
【註】テキストリンクは一部「Kai-Wai 散策 」の写真にダイレクトでリンクしている
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2007年02月15日 (木)
仕事の取材だったものの、淡路島に初めて行くことになり、同行取材者にお願いして、ほんのわずかな時間ながら丹下健三が1966年に設計した「戦没学徒記念 若人の広場」を見てくることができた。「若人の広場」は一昨年の3月22日、丹下氏の訃報に接し、「丹下健三氏、没 」という追悼エントリーを書いたとき、akanemさんが撮られた写真を借りて感想メールと共に紹介した場所である。あれからもう2年が経つんだなぁ。
取材前日、日の暮れかかった頃 に宿泊先の休暇村南淡路 に到着し、その晩はまさかそのホテルから見えるとは思っていなかったのだが、翌朝、日の出 前に部屋の窓から外を見やると、福良港を挟んだ向かいの大見山に▲のシルエットがぽっかりと浮かび、こりゃ尚更行かずんばなるまいという気にさせてくれたのだった(偶然にもホテルから近いところにあったおかげで行かせてもらえたとも言える)。それにしても早朝の福良港で漁船が先を争うように出航していく様子 は、眺めていてなかなか楽しいものがあった。
しかし、肝心の若人の広場に関しては、本当に短い時間に早足で一通り見て回るだけで終わってしまったので、あまり感想らしい感想を書く気にはなれない。というか、2年前に akanemさんから借りた感想メール以上の言葉を自分では見つけられないというのが正直なところ。私が見せられるものといえば、これも早足のため雑にしか撮れてはいないのだが、2月始めの朝の若人の広場の空気を伝える写真くらいだろうか。
ただ、幾つかのブログで丹下さんがこの記念館のことを公表しなかったという情報に触れ、それがなぜかということを知りたくなったので、「丹下健三氏、没 」のエントリーでも余談で紹介した¥28,500- の大著: 丹下健三・藤森照信著『丹下健三 』を閲覧しに天六の住まいのミュージアム・情報プラザ まで行ってきた(やはり買えん>汗)。
すると、当時の設計担当だった神谷宏治氏と藤森氏が1998年に行った談話が掲載されていて、それによってなぜ丹下氏が公表を拒んだのかの理由を伺い知ることができた。その談話部分のみ抜粋することにしよう。
神谷:あの施設の主体は動員学徒援護会という文部省傘下の財団法人で、戦没学徒を記念し慰霊するというわけだから、丹下さんは意気込んで設計したわけです。いよいよ完成して引き渡し、そのオープンの記念式典の案内状が届いた。主催者として記されていた名前は、岸信介、奥野誠亮など、いずれもいわゆる右翼と呼ばれるような戦中に指導的な地位にあった政治家です。当日、岬の下を自衛艦が航行し、観閲式もある、と書いてある。全く予想もしてなかった内容だけに、丹下さんは“私は行かない”といって、オープンの式典に欠席です。だから、発表もされずじまいでしたね。
なるほど政治的背景によるものだったのかという感じで、しかし、それによって公表の機会まで自ら取り消すというのは、当時の思想的な時代情況もあったのかもしれないけど、やはり「学徒として戦争に‘生き残った’丹下」氏の直接的な個人体験がよほどの怒りへと繋がっていったのだろう。
ただ、「家づくり」という経験を通して、建築家の意志(魂)よりも、その建物がその建物として姿形を変えながらも逞しく生きていくその住/築歴(霊)を重んじるようになってしまった私としては、仮に岸信介の孫の安倍晋三が主導することになろうとも、この広場の復興(そして学徒のともしびが消えないこと)を願うばかりである。
【参考リンク】
・動員学徒記念 若人の広場復興委員会
・神戸観光壁紙写真集:戦没学徒記念 若人の広場 壁紙写真
・JANJAN:廃墟になった「戦没学徒記念若人の広場」 (2005.06.21)
・ポリタン・コスモ:戦没学徒記念館_by_丹下健三 (2005.01.08)
・あさみ新聞:戦没学徒記念 若人の広場 (2005.04.30)
・ALL-A:戦没学徒記念館 若人の広場01 (2006.2.14), 02 (2.15), 03 (2.17)
・東海秘密倶楽部: 未だ消えず、阪神淡路大震災の傷跡 〜戦没学徒記念 若○の広場〜 前編 /後編
・おとなしやにっき。: 戦没学徒記念 若人の広場 (2007.05.02)
【写真】2007.02.05 09:00前, 兵庫県南あわじ市・戦没学徒記念 若人の広場にて
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2006年10月07日 (土)
これから会期までの間に今回展示予定の金猊リソースを何点か紹介していこうと思う。
まず最初に展示が確定しているものとして、この「鷺圖 (仮) 」から取り上げてみたい。
「鷺圖 (仮)」は (仮) が示すようにタイトル不明、作品として完成しているのか、未完成なのかも不明なリソースである。「鷺圖」という仮のタイトルは分類のために私共遺族が仮に付けている。そうしないとタイトル不詳ばかりで整理が大変だからである。
サイズはW1,300×H1,300mmで、絹本に着彩の額装。ひょっとすると祖父は軸想定で描いたのかもしれないが、130cmの本紙に地の余白スペースを考えると相当横幅を広く取られることから表具屋さんのアドバイスにより額装となった。
制作年も同じく不詳だが、線描写に余裕と遊びが感じられること、また鷺という単一モチーフではあるものの、それを複雑に絡ませて画面を構成していることから、屏風や壁画などの複数モチーフを扱った大作を描くより前のもの(1930〜35年・20〜25歳)ではないかと思われる。ただ、構成という側面のみで見るならば「鷺圖」の方が単一モチーフで色数が少ない分、構成そのものの醍醐味はダイレクトに伝わるだろう。
と同時に画面中央の鷺が混み入ってるあたりは鷺の頭・胴体・足の繋がりが目で追っていくうちにどんどんわからなくなってくるので、それもまた興味深いところである。一見すると鷺の群れを描いたように思えるだろうが、頭数と足数が厳密に揃わないところを鑑みるに、これは群れを描いていたのではなく、一羽の鷺を複数の時間軸において捉え、それを一画面に落としたと空想してみるのも面白いかもしれない。
すると「兵庫県美のジャコメッティ展 」のエントリーで、ジャコメッティの絵画について書いたのと同様の高速アニメ一コマ落としの原理(「鷺圖」の場合は低速だけど)がここに見出され、レイヤー上の奥行きとは別種の、動きの中から生まれる空間が読み取れるようになってくるだろう。
・・と、そんな妄想に至ったのは、そもそも鷺って群れでいることあったっけ?と思うほど、私が街や田舎で出くわす鷺はいつも一匹狼鷺だったからなのだが(^^;)、ところが試しに「鷺の群れ」でググってみたらあっさりイメージ検索で幾つも写真が出て来るではないか! 祖父はやっぱりフツウにただ群れを見て描いてただけなのかもしれない。
ちなみにこの「鷺圖」、落款もなければ、そもそも見つかったときの状態もいい加減極まりないものだった。なんと!三鷹金猊居のお蔵の天井下、梁と梁の間に渡した板の上に要らなくなったポスターやカレンダー同然の扱いでポイっと置いてあったのである。実物を見れば幾つか黒目がないことに気づかれると思うが、それは発見直後に丸まった絹本を開いたら、ポロッと落ちてしまったのであった(汗)
ついでにこぼれ話を一つ。flickr contact の otarakoさん の写真で知ったのだが、この世には「鷺草 」なる植物もあるらしい。
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2006年10月03日 (火)
谷中M類栖の1階展示スペース名を「谷中M類栖/1f という名前 」にしたわけだが、
谷中芸工展に参加するプロジェクトの企画名は「丸井金猊リソース ver1.0」としている。これについても幾らかは説明を加えておいた方がよいだろう。
リソースとは「resource=資源」の意味で、現在にあっては IT 関連用語としての認知の方が圧倒的に強まってしまった感がある。実際、私が Web制作関連書籍で唯一影響を受けたと言ってもよい『スタイルシート Webデザイン 』の著者すみけんたろう氏のサイト名も「Ks Resource! 」であり、そのサイト内では「ホームページ」という和製用語の使用を批判し、その代案として「リソース」という言葉を提唱している。
まあ、その場合の「リソース」という言葉はあまり広まらなかったようだが、私は今回祖父の創作物をなるべく「作品」とは呼ばず、「リソース」として取り扱いたいという考えから「丸井金猊リソース ver1.0」というプロジェクト名を名付けることにした。
1997年に私は祖父の遺作展を初めて開催するに先立ち、「≪所有≫の所在」展という奇妙なタイトルの展示を行った。この展示では、祖父の屏風作品「壁畫に集ふ」とその下絵、また私の平面作品「おらないがみ」とそのプログラムを仕込んだPCという具合に、二つの完成作品とその創作過程を並置させ、作者と作品の間に生じ得る(あるいは幻想として生じているかに見える)所有関係を実験的に問おうとしていた。
しかし、それは事実上、そのあとに行う祖父の遺作展のための布石というか、祖父に対する言い訳のようなものだったのである。というのも、祖父が何も言わずに遺していった創作物の中には描き掛けのものもあれば、落款のないもの、また無造作に絹本のまま丸まって表装されてないものも多数存在していた。その中から私は祖父がどれなら自分の作品として認められて、どれなら認められないかという判断を厳密に行うことはできないと思ったし、そう思う以前に自分の感性に中途半端に頼って、曖昧な作品選別をするようなことだけはしたくないと思ったのである
そこで、半分は本気、半分は言い訳として行ったのが、祖父の手によるものと思われる遺品を出来得る限りナンバリング→データ化して、「作品」としてよりも、時代考証のための「資料・資源(リソース)」として提示するということだった。
そして、その考えは今もほとんど変わっていない。どころかインターネット時代の到来と共に、もはや祖父への言い訳として取り繕う必要性すら感じなくなってきている。
てなわけで、本展からはもう単刀直入に「丸井金猊リソース」と称してそれをシリーズ化し、今後は完全に自由なリソースの組み合わせとして展示機会を継続的に作っていきたいと考えている。ちなみにバージョンの小数点表示は、臨時の展示や企画延長なんてことを想定して融通を効かせやすいよう、設定したものである。
【冒頭画】「≪所有≫の所在」展で展示した丸井金猊 作『壁畫に集ふ』下絵・部分
※画像の上にマウスのカーソルを置くと、完成作の同部分が表示されます。
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2006年09月26日 (火)
すでに「谷中芸工展の紹介文 」の時点から記載してきたように、谷中M類栖の1F展示スペースはそのままベタに「谷中M類栖/1f 」という名前にすることになった。「1階」という意味での「1f」。実家からは「if =もしも」に見えるというツッコミもあったがURL「yanaka.m-louis.org/1f 」との連係から、ここは小文字にこだわることにした。
もし流通性といったことを考えるならば素直に「谷中M類栖ギャラリー」などとしておいた方が賢明だったかもしれない。しかし、どうも「ギャラリー」という言葉を用いることに、うちの1階スペースにおいては抵抗を感じてしまうのである。
Wikipedia「ギャラリー 」にも出ているが、ギャラリー=ガレリアは本来イタリア語で「回廊」を意味するものである。ところがうちの展示スペースにはあまり回廊っぽさがない。自立する巨大屏風の常設を想定して設計されたため、展示壁面の面積も少なく、事実上、一壁面の一室空間といっても過言ではない設えとなっている。つまり廊下的要素のあるところに展示物がまるでないのだ。それをギャラリーと呼ぶのってどうだろうか? 別に「言葉」なのだからどこまでも語源に忠実である必要もないのだが、どうも出来上がったうちのあの空間を見て、ギャラリーと言うのには違和感を覚えたのだ。
またギャラリーの対訳として日本では一般化している「画廊」という側面においても、当面の間はうちが画廊的機能・サービスを提供できるとは考えられない。これは私が東京に住むことになったとしても難しい仕事だと思うが、そんな運営者すら不在の現在にあって画廊なりギャラリーなりと銘打つのはちょっと烏滸がましい気もするのだ。
と同時にやはり何は言っても、我が家は住宅なのである。これも私が住んでいれば話はまた別だが、私的空間に公共性を持ち込む以上、セキュリティのことも相応に意識しておかなければならない。住所や電話番号の表記等、本当に迷いどころである。
そんなところから、今回、この展示スペースの名称を「谷中M類栖/1f 」という、ある意味1階という場所をただそのまま指してるだけの名前にすることになった。まあ、これで定着してくれるなら、それはそれでいいだろうし、状況にそぐわないようなら変更することもあるかもしれない。その辺の気軽さは自宅ならではである。
オチになるかは微妙だが、ついでにもう一つだけ、「谷中M類栖ギャラリー」を避けた理由を書いておこう。それは「作品管理・展示空間考 」のカテゴリに既に「gallery」というディレクトリを割り当ててしまっていたので、専用サイトを設けたときに URL が被るという問題があったのだ。その点で「1f」は語数も短く、URL 向きだった。
というか、この URL 問題が先にあって、そこから上述の理由が後付けられたのでは?という問いがあったとしても、決してそれは穿った見方だとは言えない(笑)
【写真】2005.03.09 18:35, 谷中M類栖1階, 正面の屏風は『観音前の婚礼圖(仮)』
(「谷中M類栖/1f──丸井金猊リソース ver1.0」で上記の作品は展示されません)
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2006年09月23日 (土)
先月、前から調子の悪かったプリンタがとうとう御陀仏になってしまった。一応、自前修復できないかと中を開けてみたのだが、夏の暑さのせいだろう、インクを左右に移動させるベルトのようなものが伸びきってしまっていて、それを交換する必要があるようだ。となるとその部品から探さねばならず、やむなく処分することにしてしまった。
ただ、その処分のおかげ?というべきか、本棚の上に置いていたプリンタ一箱分、空きスペースが出来た。そこで地震対策も考え、天井までぴったりと嵌る本棚を作り、日常手に取ることの少ない書類やカタログ類を置くことにした。しかし、だいぶ前から容量オーバーとなっていた本棚だけに、オーバー分であっさり埋まってしまったのである。
というわけで、いずれは売るなり処分するなりすることを考えねばならないのだが、そうなったときに一番に槍玉にあがるのは家づくりのときに各種取り寄せたカタログ類ということになるだろう。もうだいぶ処分してはいるのだが、あと一棚分、一応最終的に利用することになった設備等のものが捨てられずにあるのだ。何だかそれはいざというときの確認用として残しておきたい気もするし、それにいつかブログで触れるかもしれないと思うと何だか捨てられないのである(汗)
実際、施主卒業生のみなさんはカタログってどうされてるんだろうか?
個人的には必要なところだけスクラップして、1、2冊のファイルにまとめるのが一番と思っているのだけど、なかなかそれをやる時間というのは作れるものではない。こういうカタログというのは年ごとにどんどん変わっていくので、誰かに譲れるものでもないしなぁ。先のプリンタ同様、事物的リサイクル性に乏しい代物と化しつつある(何かの土台に使うという手はあるが)。まあ、商品がそう簡単にリサイクルできないんだから、そのカタログも同じ運命を辿るしかないんだろうが。。
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2006年08月18日 (金)
諏訪の高過庵 を見に行ったゴリモンさんのエントリー「木の上に住んでみたい♪ 」コメントで、X-Knowledge HOME 特別編集 No.7『ザ・藤森照信』 を紹介しておきながら自分は目を通してないというのも何なので、本日、堂島のジュンク堂で買ってきた。
まだパラパラと写真を見ながら、藤森照信×岡崎乾二郎=対談「最後に残る建築は?」しか読んでないのだが、藤森建築撮り下ろしと称する写真、これがふだん建築雑誌等で見掛ける写真とちょっと違う。というか、ゴリモンさんが Photoshop 加工して最近よく遊んでられる「箱庭梅田 」写真にそっくり? てゆーかゴリモンさん、それらの写真を指して"本城直季もどき"って書かれてたんだけど、『ザ・藤森照信』の撮影者とはまさしく本城直季氏ご当人だったのである。
高額な建築雑誌を買えない身分の藤森ファンの一人としては、建築雑誌でしか見られなかった藤森建築写真も所収されているということで、フツウの建築写真(写真としての作品色の強くない)を期待していたのだが、それはあくまでプチマニアックな個人的所有欲ということで本城直季氏の写真を採用した編集方針の是非についてはさておく。
しかし、私が興味深かったのは藤森×岡崎対談の中で、藤森氏が神長官守矢史料館 の実物をオープン前に見たらそれが模型に見えてしまって恐怖を覚えたと告白していることである。この告白があって本城直季氏が撮影者として選ばれたのかはわからないが、この実物/模型についての話は建築論としても写真論としても面白く読めるので、以下に引用しておく。
藤森照信×岡崎乾二郎=対談「最後に残る建築は?」(『ザ・藤森照信』P.126) 神長官守矢史料館(1991)を作った時にものすごいショックを受けたのは、作ってオープン前ですけど、見ているとなんか実物が模型に見えた。ものすごい恐怖でさ。それは実は草の生え方の問題だったんです。地べたと土蔵のほうの外壁は、湿気の問題で切ってあるんですよ。スーと線で空いてた。あわててそこへ土を盛ったらちゃんと地べたに生えた。で、要するにそのことだけで実物になったり模型になったりするということがえらく恐怖で、ちょっとしたことで付いたり離れたりする本質を僕の建物は持っている ということに、もう初期に気づいたのね。
本城直季氏がどのように撮影→現像してるのかは知らないので、あくまでここではゴリモンさんの「もどき」話に限定するが、彼は「箱庭梅田」写真を Photoshop で「コントランストを強めにして上でピンボケ加工する」ようにして作られている。その際の加工技術は「箱庭」の持っているリアリティに近づくべく費やされている。しかしながら考えるまでもなく、その「箱庭」のリアリティとは「箱庭」自体が現実の世界のリアリティを得ようとして得損ねた部分にこそ現れているのである。そしてその得損ねた部分を得るために必要とされる技術がコントラスト強めだったりピンボケだったり、、そして『ザ・藤森照信』の大半の写真がそんな感じで模型の複写なのだか、現物の複写なのだかよくわからないのである。
しかし、おそらく藤森氏はこの刷り上がった『ザ・藤森照信』を手にしてもその実物だか模型だかわからない建築写真に「ものすごい恐怖」を感じることはないだろうという気はする。それは本城直季氏の写真の質の問題とは無関係に、それが写真であること、そして藤森氏が建築家であることに起因すると見るのは純朴すぎるだろうか?
ゴリモンさんには是非この冊子を手にする前に、高過庵箱庭にも挑戦してもらいたい♪
【写真】『ザ・藤森照信』表紙をスキャンしたものの部分掲載(撮影:本城直季氏)
【追記】後でググってみたところ、本城氏の写真は「大判カメラを用い、アオリによって擬似的に浅い被写界深度を表現することによって、実際の風景をまるでミニチュアの接写であるかのように見せる手法が特徴的」(by はてな )とのことで、Photoshop 加工を積極的に取り入れた写真ではないようだ。「Tokyo Source: 012 本城直季(写真家) 」で彼のプロフィールと自作品についてのインタビューが掲載されている。
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2006年08月09日 (水)
年配の友人からのメールに「お施餓鬼」という言葉が使われていて、恥ずかしながら私はその言葉にそこで初めて接したのだった。そのメールには親切にその意味も添えられていたが、当然初めての言葉に接したときには Google である(笑)
ここでは葬儀・葬祭会社の文章を引用する。本来、読点の入りそうな場所が全角スペースになっていてちょっと読みづらいので、その部分はこちらで適宜修正を施した。また赤字・緑字は本文とは別のところで使っている。
お施餓鬼とは (ファミリーホール株式会社 )お施餓鬼は餓鬼道の世界に落ちて苦しんでいるものに、飲食を施す という意味で、すべての生き物の生命を尊ぶことを教えています。人間としてある私たちも、いつかは餓鬼道に落ちるかもしれません ので、施すことを怠ってはいけない ということでしょう。
『施餓鬼会』は、通常、お盆の時期に行われますが、本来は特定の日に限定されるものではございません。お盆の由来の目連尊者のお話と施餓鬼の由来の阿難尊者のお話が似ていることから、この時期に行われるようになったようです。
これを読んでいて一つピンと来たことがあった。
「施餓鬼」という文字に含まれる「施」という言葉についてである。それは言うまでもなく「施主」の「施」とも一致し、「施す」という意味において、その語義の方向性的にも共通するものだろう。しかし、私は「住宅建築と施主」というブログを立ち上げ、実際「施主」という立場で家づくりに関わってきたにもかかわらず、どうもその言葉に馴染めずにいたのである。
それはその「施す」という言葉のイメージが妙に横柄に感じられ、如何にも身分不相応のことをしているように思えていたからというのがまずは大きい。特にうちの場合、三鷹の土地を手放して得たお金で建てた家なので、誰にも自分の身銭を切るという感覚がなく、余計に「施す」という意識が遠くなってしまっていたのかもしれない。
しかし、上記引用した「施餓鬼」の意味を読んでいて、「施す」にはもう少し深い意味が込められているように感じたのである。それはその言葉の前提に「回る」という観念が組み込まれてはいないだろうか?ということだ。要するに餓鬼道に落ちた亡者に我々が食べ物を施すのは、現世の我々もまたいつの日か餓鬼道に落ちてしまうかもしれないという輪廻の循環を前提としてのものである。としたとき、「施主」という立場もそうした循環=リサイクルシステムの中において、回り回って施し施されしているのではないか?ということである。少なくともそれは昔の村社会での家づくりであれば、建て主が「お施主さん」と言われるのは非常に頷けるものがあった。家を建てるということ自体が村の祝い=お祭りのようなものであり、その家が建てばそのお施主さんは今度は別のお施主さんに協力したり何だりと、その立場自体が循環していくる。その点で上棟式の餅投げの図はそれを象徴する振る舞いとして非常に納得できるものがある。
ところが都市生活において、そうした風習は一部の儀式のみが形骸化して残りはしたものの、その意味自体はほとんど失われたものとなってしまっている。だから、そんな都市空間での家づくりで「お施主さん」と言われても、それは営業トークの「社長」とか「先生」って言葉と同程度のものにしか聞こえない。
また都市生活者の施主はそういう人との繋がり以外においても、建築過程全体の循環=リサイクルからも切断されてしまってるように思えてならない。その一例として友人のセルフビルダー:岡啓輔氏(彼の家づくり記録は現在、ほぼ日刊イトイ新聞「ひとりでビルを建てる男 」で掲載されてます!)から聞いた話を最後に紹介しておく。
基礎工事で掘られて余った土って、その処分料を施主は支払い、あとで再び土が必要となったときにはまた別途、新たな土を購入しなければならない。もちろん一度処分した土の保管は経費が嵩むから、掘った土をそのまま使い回せとは言うわけではない。しかし、他でも土を必要としている施主はいるだろうだから処分せずにリサイクルシステムをしっかり構築すればいいのにと思っていた。そしたら、どこもとは言わないが、結構それらの土は処分されずにリサイクルされてるのだという。それを聞いたとき、損をするのは施主だけど、まあ、リサイクルされてるのなら少しはマシか?と思っていたのだけど、やはりそういうシステムがあることを施主に直接的に感じさせないというところが、施主を「施主」の語義ならざるものにしてるな〜とも感じずにはいられなかった。
結局、現世界の家づくり環境で自分を「施主」と思い込むのは難しい。
【追記1】
garaikaさんが「「解体」の違和感 」というエントリーで「現代の「カイタイ」は「解体」ではなく「壊体」ではないのだろうか」と書かれていたが、この「壊体」工事も施主から「施主」感覚を奪う一つの例と言えるだろう。
【追記2】
「施餓鬼」という言葉を知って程なく、総領の義母から「今年のお盆は施餓鬼に行きんさい」という電話。物凄いタイミングにびっくり。まあ、そういうタイミングの季節でもあるのだが、、何はともあれ、暑中お見舞い申し上げます。
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2006年04月29日 (土)
5回にわたってエントリーしてきた「耐震強度偽装問題への提言」のシリーズ。
その全編にいつもの私の悪い癖(長文化)は出まくってしまったので、このエントリーではそれらを目次形式にしてもう少しコンパクトにまとめておきたいと思っている。
耐震強度偽装問題への提言1
・前置き(素人の妄想的暴論が持つ可能性について)
・参照書籍(多田英之著『建築の設計と責任 』+『法律と科学技術 』)の紹介
・被害マンションの「耐震構造→免震構造」化の再考を提言
耐震強度偽装問題への提言2
・耐震建築と免震建築の歴史的背景とその立場について
・免震化が困難と言われる一番の理由(免震建築はコストが高くつく)について
耐震強度偽装問題への提言3
・免震建築事例(六本木ヒルズ・首相官邸・中之島公会堂)の紹介
・建築業界の既得権益層が「免震建築は高くつく」というイメージを喧伝していること
耐震強度偽装問題への提言4
・業界の耐震・免震に対する既得権益意識を産官学の「学」を中心に検証
・耐震建築はあらゆる意味で「金」の生る美味しい木になっているということ
耐震強度偽装問題への提言5
・耐震強度偽装事件に関与する人物たちの一斉逮捕の報
・全被害マンション免震化へ向けての戦略1(被害住民のネットワーク構築)
・全被害マンション免震化へ向けての戦略2(逮捕者たちやマスコミの活用法)
・建築の設計と責任、そして施主の位相(消費者に留まるか当事者として考えるか)
以上がこのシリーズの話の流れを目次形式にまとめたもので、それだけでこちらの思惑がどれだけ伝わるのかは自分でもよくわからないが、興味のあるエントリーなどあればそのタイトルをクリックしていただけると幸いである。
尚、このシリーズでは全編にわたって被害マンションの免震化を唱えており、当然それを書いた私が免震建築推奨の関係者か信者と思われてもやむを得ないところはある。しかし、私個人としては、ここで免震化を主張したのは、一つには素人目に考えてそれが常識として言われてるのとは逆に、最もコストを抑えてこの問題を解決できる方法だと思ったこと。そしてもう一つはその常識と言われている「免震建築は高くつく」というイメージ自体が実は建築業界内外の利権維持体質から生まれているものであり、今回のような事件で国民的関心を集めているときこそ、その堆積した膿を白日の下に晒す絶好の機会になると思えたからである。
この歪んだ常識を覆すことが出来れば、被害者住民にとっては一番無難に元通りの生活を取り戻すことができるだろうし、また一般市民にとってもこれまで一部の特権階級のものでしかなかった免震建築を安全な住まいを考える上での一つの選択肢として数えることができるようになるだろう。耐震強度偽装事件において免震化の再考を提言するということは、ただ、局所的な解決を求めること以上に、業界の体質改善を明確な具体策に寄って立って図っていこうとするものなのである。
さて、ここまでこのシリーズを続けてきて、しかし、私はこれまでの5つのエントリーからはどこにもトラックバックを送信したりしていない。それはこのエントリーの冒頭でも触れたように一つ一つ見るとかなり脈略のない長文なだけのエントリーなので、そこからTBしても何のこっちゃ?なものになってしまうと思えたからだが、それとは別にもう一つ理由があったことをここに記しておく。
実は今回のシリーズを書くにあたって、私はほとんど関連ブログの渉猟をしなかったのだ。ふだんのエントリーではなるべく裏を取ることを心掛けているが、このシリーズに限っては「素人の思いつき(妄想的暴論)」であることを最重視したかったので、ほとんど情報源は多田氏の著作2冊に限定することとした。そのため、大きな勘違いや偽りの情報を書いてしまっている可能性も充分あるので、もしおかしいと思うところがあれば、遠慮なくコメント等でのご指南・ご指摘お待ちしている(匿名でも歓迎)。
ついでだから関連ブログを渉猟しなかった理由も記しておく。
それはこの耐震強度偽装問題に対する情報があまりに多すぎるということだ。ニュースにせよ個人ブログにせよ、関連する用語で検索すればあまりに大量に検出されるので、それらを精査して書く気力が持てなかったというのが実情である。それと本音を言えば私はこの問題の当事者ではないので、そこまで深い関心を寄せられなかったという現実もある(例えば旧阪急梅田駅コンコース でやれたようには)。
しかし、このエントリーではこれから先、興味を持った関連ブログには有名無名問わず積極的にTB送信していくつもりである。というのも、この提言を各所に散りばめて、できることならマンション住民の目に触れるところまで送り届け、あわよくば免震化を再考するよう促すことこそがこのシリーズの実践的目的であるからだ。ただ、如何せん先ほども申し上げたように当事者でない私の意欲はそんなに深いものではない。なのでこの私の素人の思いつきを面白いと共感されたり、もう何ひねりかしたら実践も可能と思われるような方がおられたら、それをもっと精巧な論に仕立て上げて、どんどん公表するなりブログで書くなりして膨らませて行ってほしい。
また、それとは別にこのサイトやブログで面白いこと書かれてるとか、そういう情報をご存知ならばコメントしていただけると幸いである。もちろん我こそは!という記事を書かれているなら、このエントリーへのトラックバックも歓迎している。
一応このエントリーでも関連リンクリストはこれから作って行く予定なので。。
【耐震強度偽装問題・関連リンク 】←随時追加予定
・家づくり、建物づくり: マンション問題 (2005.11.21)
・家づくり、建物づくり: 建築基準法 (2005.11.29)
・家づくり、建物づくり: 建築士の役割 (2006.02.01)
・家づくり、建物づくり: 建築士の役割 2 (2006.02.07)
・家づくり、行ったり来たり: 「経済設計」とは何か--欠陥マンション問題で考えた (2005.11.27)
・家づくり、行ったり来たり: 基準すれすれのリスク (2005.11.28)
・家づくり、行ったり来たり: 構造計算をチェックするのにふさわしい組織――今後のために (2005.11.30)
・ちはろぐ: 『建築の設計と責任』 (2006.05.25)
・板倉雄一郎事務所: Deep KISS第24号「商流と責任」 (2005.11.27)
・真理を求めて: 耐震強度偽装問題の事実は何か
・高山峯夫のホームページ: 建築物の耐震安全性について (2006.03.13・PDF)
・高山峯夫のホームページ: 姉歯事件と免震構造 (2006.03.13・PDF)
・高山峯夫のホームページ: 地震力からの解放をめざして (2006.03.13・PDF)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 構造計算の偽造 (2005.11.18)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 構造計算の偽造(その3) (2005.12.01)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 構造計算の偽造(その4) (2005.12.03)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 耐震計算の偽造(その5) (2005.12.06)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: アカウンタビリティ (2005.12.06)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: はかる (2005.12.20)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 話題のマンション (2005.12.23)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 緊急集会 (2005.12.26)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: デベロッパーに保険加入? (2006.01.28)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 耐震強度偽装問題についてシンポジウム (2006.01.28)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 建築物の安全性確保のための建築行政のあり方について (2006.02.06)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: TV取材 (2006.02.08)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 耐震偽装が10000件? (2006.02.10)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: シンポジウムのご案内 (2006.02.12)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 多田先生ビデオ出演する (2006.02.13)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 耐震偽装から日本を立て直す会 (2006.02.18)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: シンポジウムの報告 (2006.02.19)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 耐震偽装問題 (2006.03.09)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 建築学会の中間報告会 (2006.03.20)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 耐震偽装の真実 (2006.03.21)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: イーホームズ立件? (2006.04.20)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 亡国マンション (2006.04.22)
・高山峯夫 - 教授のひとりごと: 住宅建築と施主 (2006.05.20)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 耐震強度偽装問題 (2005.11.26)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 「崩壊の危機」に直面する住民の苦悩 (2005.11.27)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 耐震強度偽装問題参考人招致 (2005.11.28)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 事実の確認 (2005.11.30)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 「事実の確認」からの逃避!? (2005.12.01)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 再度の参考人招致質疑 (2005.12.03)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: ウェークアップ!ぷらす (2005.12.03)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 奈良の耐震偽装問題現場視察 (2005.12.04)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 二転三転の参考人 (2005.12.06)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 民主党耐震強度偽装問題対策本部 (2005.12.07)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 主役たちのいない舞台 (2005.12.08)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: ヘナチョコ「喚問」決定 (2005.12.10)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 不穏な周辺の動き (2005.12.10)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 怒涛の証人喚問(その1) (2005.12.16)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 怒涛の証人喚問(その2) (2005.12.16)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 怒涛の証人喚問(その3) (2005.12.16)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 身辺警護と祭 (2005.12.20)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 幕引き許さず (2005.12.20)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 前人未到の荒野 (2005.12.20)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 与党、幕引き完了 (2005.12.21)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 政権不信! (2005.12.22)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 国民の声が届く (2005.12.23)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 証人喚問打ち合わせ (2005.12.29)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 二度目の証人喚問 (2006.01.11)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 転がりだしたか?! (2006.01.13)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: ストレスのたまる証人喚問 (2006.01.17)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 証人喚問の反響 (2006.01.19)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 反省と新たな決意 (2006.01.27)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 住民の目線 (2006.01.29)
・まぶちすみおの「不易塾」日記: 波状攻撃 (2006.02.13)
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2006年04月27日 (木)
さて、このエントリーでようやく本題ともいうべき耐震強度偽装問題への提言(素人の暴論)に入りたいと思うが、その前に時事ネタを一つ。周知の通り、4月26日、とうとう耐震強度偽装事件の一斉逮捕が行われた。この問題を国会で最も鋭く追究して来られた民主党議員の馬淵澄夫氏もご自身のブログで「160日目の逮捕 」というタイトルでエントリーされているが決して感慨に耽ってなどいない。その文末で〈160日目の逮捕は、新たな展開のゴングでもある。 〉と結ばれているように、彼の視線は〈平成10年の建築基準法改正の議論の時に、制度の抜本的改正を行わねばならない立場にいる建設省ならびに与党の議員たちの不作為の責 〉と〈建築基準法改正審議 〉に向いている。
しかし、私個人としては行政側の問題は馬淵氏らにお任せするとして、むしろ今回逮捕された面々+αに、あくまで「建築」という次元に踏み留まった上での追究をしていきたいと考えている。それは私が彼らに「建築」という「業」で生きてきたからには「建築」という「業」においての責任をしっかり果たしてもらいたいと考えているからだ。
(まあ、その辺が素人の無邪気な暴論・空論と言えるところでもあるんだけど)
そのために彼らに実施してもらいたいと考えたのが「提言1 」で早々に結論づけた〈退去勧告の出された一連のマンションを耐震構造から免震構造に置き換えよ! 〉である。
もちろん彼らは建築士資格を剥奪されたり、破産申請していたりと既にそれを実現する実行力はもう持ち合わせてないだろう。しかし、それを実現させるために奔走してもらうことは刑期を終えれば可能だし、たとえ拘束中の身でも彼らの発言の伝搬力は他の専門家の声を遙かに凌ぐ力を持っている。良くも悪くも彼らはメディアの寵児であるのだ。そのことにもっと意識的になってほしい(姉歯氏はなってるのかもしれないが)。
ところで耐震強度偽装で退去勧告の出されたマンションのうち、幾つかのマンション住民(例: GS東向島 ・GS藤沢 )は解体→建て替えを決議したそうだが、国の支援をアテにした解決方法が全国規模でどこまで可能なのだろうか? 私はその決議が見切り発進のものでないことを祈るが、しかし、建て替えるだけの予算と覚悟があるならば、ここは被害者住民たちが一丸となって全被害マンション免震化を再考してみるべきと思うのである。そこで重要なのは個別にこの問題を協議するのではなく、被害マンション住人同士がネットワークを組んで、スクラム状態でこの問題に立ち向かうことだ。そして「免震建築は高くつく」という常識がねじれた常識であることに彼らが気づいたとき、国民の注目を集める彼らの発言はそのねじれをまっすぐにさせる可能性を持つはずだ。言うなれば被害マンションが免震化実践のキャンペーンモデルになるというわけだ。
そしてここで使えるのが今回逮捕された面々+αである。
これまでのエントリーでも再三繰り返してきたように、免震化を訴えれば当然既得権益耐震軍団の抵抗が始まるだろう。そのとき彼らに矢面に立ってもらって、あくまで「建築」という「業」のプロフェッショナルとして、被害住民の訴えをフォローする立場に回ってもらいたい。なぜなら彼らはある意味この業界ではもう失うもののない怖いモノなし状態であるはずだからだ。そして彼らの行動なり言動は好都合にもマスコミが延々追いかけ回してくれている。被害住民からすれば、彼らの協力など以ての外の話なのかもしれない。しかし、彼らはまだ取り返しのつかないことをしてしまった後の人間ではない(つまりまだこの問題で死者が出るようなことにはなっていない)のである。
それに彼らがこれから詐欺容疑等で実刑判決を下されたとしても、被害住民たちの腹の虫は収まるだろうか? おそらく彼らが真に責任を取り得る場があるとするならば、それは彼らが「業」としてきた「建築」という現場において他ないように思うのだ。
マンション住人は「建築家と施主」の施主の立場にあるものではないが、しかし、そのマンションを選んだという時点でデベロッパーの向こう側にある関係性(施工者・設計者・確認業者等からなる)とも共生関係にあったことを今回の事件は教えてくれたような気がする。マンションとはいえ、そこは人が生活する場であり、どんなにシステム化されていようとも、人の手によって作り出されたものなのだ。であるならば、こうした事件に際して、ただ被害者面で苦情だけを繰り返していても、それは自分の住処を消費しているにすぎない淋しいものとするだけである。それよりはデベロッパーと同時にその向こう側にあったものまでを見据え、解決への道を彼らを徒に排除するというのではなく、探ってみてもらいたい。彼らが道を踏み過ったのは事実だろうが、彼らも元はといえば「建築」に何らかの思いを来してこの業界に入ってきた人たちなのだ。もちろん未だに責任回避することしか頭にない者は話にならないが、真正面からこの問題に立ち向かおうとする者がいるならば、それを受け入れ、良い意味で使ってやってほしい。
私は現時点でも被害者住民と作り手側の共生(コラボ)が、そしてメディアや一般市民を巻き込むことが、この問題(事件ではない)の解決の鍵となると信じている。というか、そのくらいの挙党一致体制を敷かないと、結局は既得権益層の良いようにあしらわれるだけで終わってしまいそうなことをただただ危惧するばかりなのである。
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2006年04月25日 (火)
このエントリーでは「耐震強度偽装問題への提言2 」で書いた〈耐震建築が既に一つの「体制」として一人歩きし、産官学が民を顧みずに既得権益に預かろうとする図式(歴史)が成立してしまった 〉ということに関して、もう一歩踏み込んだ具体論を展開しておく。本来「提言2」でそれは済ませておくべきだったのだが、毎度お馴染みの長文化が始まってたので、ちょいと遠慮すべき?という老婆心が働いてしまったのである。
さて、ここでは説明を簡素化するため、冒頭で引用した問題は「耐震既得権益問題」と名付けることとする。それでこの耐震既得権益問題で最初に検証としようと考えているのが一番意外に思われるかもしれない「学」の領域と耐震建築の関係についてである。
「学」の領域には研究者・開発者と並んで、建築家という若干特殊な職種も加えていいかもしれない。そんな彼らが耐震建築のどんな既得権益に固執するかというと、まず一つは彼らの惰性的習慣である。端的にいえば彼らは耐震建築で計画することに馴れ過ぎてしまってわざわざ新しいことに取り掛かる手間を嫌う。その手間は技術的な問題のみならず、法的な問題でより一層求められるから余計に鬱陶しく感じられるはずだ。
そして手間が掛かるということは、当然それはそのままコストに跳ね返ってくる。
それが「免震建築は高くつく」という業界の常識に繋がるわけだ。
他方で、今の話とはある意味では対照的なようにも見える話がもう一つある。
免震建築は「提言2 」でも触れたように耐震建築に遅れを取ったものの、多田英之氏の著書の帯で免震建築においてはその〈能力を遺憾なく発揮するシステムが既に完成し、すべてのデータが公表されている 〉とされるものにまでなっている。その技術的根拠については氏の著書 等を手にしてほしいが、それに対して耐震建築は地震と構造物の関係を「みなし」としてしか計れず、依然として理論的な体系化ができていない。
このことによって何が生ずるかというと、耐震建築の方が永遠にその強度を高めるための細部の研究・開発が可能になるのである。そこにはもちろん研究者たちの研究心をくすぐる良い意味での開発意欲ももたらされるのであろうが、根源的なところではその研究や開発は対症療法・各論に過ぎない。多田氏の言葉を借りれば〈研究者が論文を書きやすい、ということのために「部分的」なものがずっとはびこってきた 〉という事実は知っておかなければならない。無論これも研究費というコストと繋がる話である。
以上、一番意外な「学」の耐震既得権益問題を説明することで、残る「産官」の説明はさほどいらなくなっただろう。言うまでもなく、それらも手間の問題から免震を避けるか、コスト増という選択肢のみが「民」には与えられ、また耐震建築の非完結性を「不安」という煽りに置き換えて、安心のための強度=コストアップが図られていく。
つまり耐震建築というのは「産官学」どの領域にとっても非常に都合の良いアプリケーションなのだ。というか、逆にいえば既に体系として完成している免震建築が一般に流通し、生産ラインに乗るような事態となってしまったら、彼らは大きな金の儲け口(既得権益)を失ってしまうことになるのだ。そうならないためにも彼らにとっては「免震建築は高くつく」という幻想が一般市民に染み込んでいないとならない。
そうした「産官学」が既得権益にぶらさがって「民」を一向に顧みない状況を瓦解させるのに、今回の耐震強度偽装事件は多くのきっかけを与えてくれると思うのだ。
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2006年04月20日 (木)
このエントリーでは当初、前エントリー の終わりの方で予告していた「より実践的なレベルで免震建築の話をどう耐震強度偽装問題に切り込ませたらよいかについて」書くつもりでいた。しかし、理屈っぽい話ばかりずっと続くと疲れるので、このエントリーはちょっと軽い話題(事例を中心に紹介して)をして閑話休題ということにしたい。
まずこれまで解決案として打ち出してきた免震建築であるが、実際にそれが取り入れられている有名建築を3つほど挙げてみることにする。ちなみにこの3つの建築が免震建築であることを知ったのは、丸激のトークでと多田英之氏の著作によってである。
その一つ目はライブドア事件のせいで最近めっきり評判の悪くなった六本木ヒルズ。噂によると Yahoo! も「ヒルズ族 」というマイナスイメージを嫌ってテナントから離れるとかいう話を聞いたこともある。個人的には差したる興味もないので、あそこが廃墟になろうとどうなろうと知ったこっちゃないのだが(ってか、森ビルというくらいだから、この際、各階の窓を取っ払って床には土を盛って植樹して高層の森にしちゃってはどうだろうか?)、それはともかくあのビルは免震建築で出来ているらしい。六本木ヒルズのサイトに〈「六本木ヒルズ震災訓練」と「防災ボランティアフェア」 〉というプレスリリースページがあって「ハード面の対策として、建物には最新の制振・免震構造を取り入れているため、大型の地震でも構造部材への損傷がほとんどなく建物機能、都市機能を維持します」と書かれているので、より厳密にいうと制震・免震の混構造ということになるようだが。。
続いて紹介するのはあまり建物としてのイメージ自体が流通しているものではないが、誰でもその存在があることだけは知っている首相官邸。それも2002年に竣工した新官邸ばかりか、その完成と共に曳家(ひきや)工事を始めた旧官邸もまた免震化 されたのである。こうした古い建物を免震化することを「免震レトロフィット」というらしいのだが、それについてはもう一つ紹介予定の免震建築で触れるつもりである。
それとどうもこの首相官邸は多田氏が免震の研究を積んで来られた福岡大学が関係しているようなので、定年退職されたとはいえ、多田氏も一枚噛んでいるに違いない。
しかし、小泉首相に限って言えば、彼は他人と同等に自分の命もそんなに惜しんでない人に見えるので(そこが並の政治家とはちょっと違う)、地震で自分だけ救われたいなんて決して思ってなさそうにも見えるのだが(汗)
そして「免震レトロフィット 」として3つ目に紹介するのが、「中之島公会堂 」の名で知られる大阪市中央公会堂である。この建物の建て替え計画は安藤忠雄氏が内部空間に卵型のホールを挿入するというぶっ飛んだ案を出して注目され、当時は東京で学生だった私はワケもわからずスゲーとか思ってその建物の存在だけは知っていた。しかし、それがその後どうなったか知らぬまま、私自身が大阪に住み始め、気づけば日常の中で中之島公会堂をふつうに公会堂として利用するようになっていた。それが実は多田氏の尽力により免震化という形で建て替えられたことを、恥ずかしくも彼の著作によって知ったのである。それは少しばかり大人になった今の私からすれば最適解だったのではないか?と思う。そして若気の至りで卵に魅了された時期を経ていただけに、余計にこの話は興味深く読むことができたようにも思う。そして、さらなる因縁話を打ち明けるならば、この中之島公会堂の免震レトロフィット設計を担当したのは日建設計 (後日、TKYMさんのコメントにより日建設計の設計ではなく、坂倉、平田、青山などの設計共同企業体による設計であることが判明)であり、多田氏は日建設計の出身なのである。日建設計と言ったらば、そう、旧阪急梅田駅コンコース の建て替え工事で設計を担当するのが日建設計なのだ。まあ、このあたりの話はまた改めて機会を作って、今回の耐震強度偽装問題としてではなく、阪急コンコースの話として取り上げられればと思っている。
以上、3つの免震建築の建物を紹介したが、要はここで伝えておきたかったのは、上層社会においては地震対策には免震化というのが完全に主流の手法になって来ているということだ。それも免震が魅力的なのは「免震レトロフィット」で示し得ているように既存の耐震建築(それも近代建築まで)を免震化することが可能だということだ。
そしてこの「耐震強度偽装問題への提言 」シリーズのエントリーで目的としているのが現在の上層社会・上層階級にしか存在してないかのように見える免震建築を中産階級ないし一般市民にまで引きづり下ろせ!ということなのだ。それは多田氏の著作を読む限り、ある部分の堰を崩してしまえば簡単に実現できるように思える話なのに、それが一部の既得権益層によって知られないように囲い込まれている。あるいは「免震建築は高くつく」という幻想によって端からの常識として諦めさせられてしまっている。
しかし、今も何とかマスコミの注目を寄せ続けている耐震強度偽装事件がそれを切り崩す恰好の手段となるように私には思えてならない。そのために必要な条件を次か次の次のエントリーで考えていきたいと思う。「次の次の」としたのは、この閑話でもう一つ書き残しているところがあるからである。
【写真上】
2004.03.07 15:05 上棟式の翌日、妻&ウスケスケと東京観光での六本木ヒルズ。
建物自体に魅力を感じてないので、1枚も建物単体の写真を撮ってない(`Θ´)
クリックすると建物内部の写真(2004.03.07 17:30)。
【写真下】
2005.08.26 14:26 中之島公会堂の南側面天井部。
クリックすると北東側からの中之島公会堂夜景(2005.12.16 20:13)
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2006年04月18日 (火)
現状の耐震偽装マンションの構造を免震化するという手法はコストが掛かり過ぎて話にならないと私の見たワイドショーではパネル説明されていた(※1) 。ところが「耐震強度偽装問題への提言1 」で取り上げた多田英之氏のトークや著作ではまったくそれとは逆のことが言われている。つまりは「免震建築は耐震建築に比べてコストが安くなる」というわけだが、私にはそのどちらが正しいのかを判断することはできない。ただ、多田氏の著作を読み進めると実際どちらの言ってることも正しく捉えられそうな視点が存在することは想像でき、その両義性をこのエントリーでは繙いてみようと思うが、それを始める前にまずは前エントリーで予告してあった耐震建築と免震建築の置かれている立場の違いについて軽く触れておきたい。
耐震建築と免震建築の違いはその字義からもおおよそのところは推測可能だと思うが、前出の多田英之氏が代表を務める日本免震研究センター のサイトにその違いをわかりやすく見せたかわいい GIF アニメがあるので、それをまずは縮小転載させていただくこととする(尚、日本免震研究センターにはいずれリンクや画像転載の件で連絡取らせていただくつもりではいるが、それはもう少し議論の見えたところまでこのシリーズを続けてからにしたいと思っているので、先に見つけられたとしたらご勘弁である) 。
RSL免震システム : 1. 耐震・制振、免震構造について
詳しくはこの図の記されたページ をご覧いただくのが手っ取り早いが、その原理的な違いは耐震が「地震に耐える構造を考える」であるのに対し、免震が「空間そのものを地震から守る」ということにある。その結果として、耐震はどんなに頑丈に作って倒壊を免れたとしても激しい地震であれば家具が倒れたりということがあるのに対し、免震は揺れ自体がゆっくりなので家具損傷のおそれはほとんどない。
こうした説明を読むと私を含む多くの一般市民は免震建築の方がいいじゃん!って思うのではないだろうか? もちろんこの説明は免震建築を奨励するサイトのものなので、免震建築のメリットが引き立つようになってはいるのだろう。だが、そうした事情を差し引いたとしても、その原理から考えて免震建築に分があるように見えてしまうのは、そう外れた読み取り方ではないはずだ(一般的に考えれば考えるほど)。ところが現実的に国内の大半の建築物は耐震構造で作られているのである。
多田氏の著書『建築の設計と責任 』によれば「免震という概念自体は古くからあった」が、戦前は「解析技術が十分でない」ことから実際の建物への適用ができなかったと記されている。昭和初期には「柔剛論争」なる建築界を二分する大論争も起きていたらしい。そこで技術解決で先んじたことにより勝者となった「剛」たるところの耐震建築が建築業界の主流となり、「柔」たるところの免震建築は敗北するばかりかタブー扱いとなってしまう。そしてそれを決定的なものとしたのが、建築基準法だったという。
勘の良い人であれば、ここまでの話でそこから先、何が起きたかは想像できるだろう。
免震建築はその後「解析技術が十分」な時代となっても、そう簡単にそれを実現することができなかった。耐震建築が既に一つの「体制」として一人歩きし、産官学が民を顧みずに既得権益に預かろうとする図式(歴史)が成立してしまったのだ。こういった話はもうどの分野からも聞こえてくる社会の膿のような話だが、それが建築業界の場合、よく話題になる談合問題以外でも、免震建築から耐震建築を見つめ直すことによって焙り出し可能なのである。
以上、話は長くなったが、免震建築と耐震建築が単純に並列の選択肢として置かれているわけではないことはご理解いただけたのではないかと思う。さて、そこで冒頭のコストの両義性に話は戻るのだが、免震建築が高くつくというワイドショーコメントがなぜに生まれるかといえば、それはまさにこの免震建築の置かれた立場の弱さによるものではないのだろうか? というのも、先ほど耐震建築の既得権と書いたが、良くも悪くも耐震建築は既存の工法となっているため、生産ラインも安定していて、大量受発注が敏速に行える体制だけは整っている。それに対して免震建築は多田氏によればニセモノ免震も出回っているようで、思わぬところでのコスト増大ということも計算に入れておかなければならない。
何だかこうしたことを書いていると耐震建築が自民党で免震建築が民主党であるような気分になってくるのだが、まあ、しかし、上記でリンクを張った日本免震研究センターのページ に書かれた「免震建築は耐震建築に比べてコストが安くなる」というのは原理的に考えれば素人でも理解可能な話なのである。要はそこからそのための信用できる体制が作れているかの問題なのだ。
そこで次のエントリー(間に別テーマのエントリーが入ってくるかもしれないが)ではより実践的なレベルで免震建築の話をどう耐震強度偽装問題に切り込ませたらよいかについて考えてみたい。ただ、ここ数日、耐震強度偽装事件の主役級が一斉に事情聴取、立件という運びとなっており、みんな逮捕ということになってしまうと個人的にはこの人たちにも一役買って欲しいと思っていたので(この業界での信用ゼロ状態になってしまったからこそ怖いモノなしで出来ることもあると思うのだ)、ちょっと自分の提言しようとしていたアイデアも変更を余儀なくされそうである。
本当は彼らもただ刑事&賠償責任を負わされるだけでなく、一緒に解決すべき問題だと思うんだけどなぁ(それこそが本当の「責任」というべきものである)。住民は彼らの顔も見たくないんだろうけど、現実的に彼らほどメディアを動かせる顔を持ったキャラも他にはいないわけで、その利用価値を失うのは今後の大きな損失である。
□◇
※1)後日、検索チェック中に彼の問題人物と目されながらもうまく逃げおおせた感のある伊藤公介元国土庁長官が、実は小嶋社長から相談受けていたことというのが『免震技術のある大成建設を紹介してほしい』ということで、また伊藤氏も「自分も免震技術について勉強したいと思ったので出向いた」と話していたということを遅ればせながら知った。
これが事実だとすれば、仮に彼らが逃げの一手でこの話をしていたとしても、私は彼らにある一定の評価は与えたいと思う。というか、彼らに無理だと諭した技術者の根拠を再度問い直してみる必要があるのではないだろうか?(もちろんそれが「かなり難しい」と言われる業界の通念自体を見直す形で、かつ多田氏を交えた複数の専門家を招く形においてである)
読売新聞: 伊藤元国土庁長官、ヒューザー社長とゼネコンへ (2005.12.22)
読売新聞:「小嶋社長に同行も、国交省に紹介せず」伊藤元長官 (2006.01.19)
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2006年04月15日 (土)
これまでこのブログでは冗談程度にしか耐震偽装 の問題について触れてこなかった。
それは誰が悪いだの誰に責任があるだのと今更ここで書いてみても一般論の域を到底出るものではないし、きっこのブログ のような特別な情報を持ち合わせているわけでもないので、無闇に検出されるエントリー数を増やして本当に必要な情報を求めている当事者たち(マンション住民?)の邪魔をしたくないとも思ったのである(ってことは冗談でも触れるべきじゃなかったとも言えるけど)。
それともう一つ、これは他の社会現象とも大枠で繋がりそうな話なのだが、昨今の建築物に規制を与えているはずの建築基準法──その法制度のあり方そのものに対して以前から漠然とした疑問を抱いていて、ただ、その法令については何ら詳しい知識があるわけではないので、あまりいい加減なことも書けないと思っていたのである。
ところが、去年の秋から視聴し始めた丸激トーク・オン・デマンド「videonews.com 」の2月11日の回にゲスト出演した多田英之氏(日本免震研究センター代表・一級建築士)の話「耐震偽装の深層──安全な建物とは何なのか 」を聞いたことによって、それまで漠然としていた疑問の輪郭がかなり鮮明なものとなってきた。
そこで早速、彼の著書『建築の設計と責任──なぜ今も地震で建物が壊れるのか 』(岩波書店・¥2.310-)を購入。またトーク中に取り上げられた『法律と科学技術──第三者機関が消滅する 』という非売品書籍も入手。これらの書籍は共に耐震強度偽装問題が世で騒がれる前に書き下ろされたものであったが、まさにこうした問題が先の法制度上の問題として必然的に浮上することを説いた警告の書だったと言って間違いない。トークを聞き始めたときには、威勢の良い爺さんが出てきたもんだくらいの感じで見ていたのだが、聞き手の宮台真司氏も繰り返されるように目から鱗の話だらけで途中から釘付けとなってしまった。
なお、このエントリーではタイトルに〈1〉と付けているように、まずは耐震強度偽装問題への提言として、その結論だけ述べて、続くエントリーで多田氏の著作やトークを参照しながら、その結論に対する補足説明の形を取っていくつもりである。
もちろん多田氏の書籍を参照するからといって、私の提言が素人の域を出るものとなるわけでないことは心得ているつもりである。それを承知で提言という形でのエントリーをしようと思ったのは、一向に解決への糸口の見えてこない難題に対しては門外漢の妄想的暴論が思わぬところでヒントとなることもあるのではないか?と思ったこと。またそれと他にもう一つ理由があるのだが、それは今後のエントリーで自分の出した結論への説明を加えていく過程で伝わるのではないかと思っている。
さて、その結論だが、それは免震建築の第一人者である多田氏の影響をそのまま受けてしまったんじゃないか?と疑われそうだが、私の提言する結論とは、退去勧告の出された一連のマンションを耐震構造から免震構造に置き換えよ! というものである。
なんだ!素人の暴論と勿体ぶってそんなあり来たりな話か!と拍子抜けされるかもしれない。実際、免震構造化の話はワイドショーレベルでも取り沙汰されていて、コストが掛かり過ぎることを理由に選択肢から外される場面を私も何度か目にしている。だが、その「コストが掛かり過ぎるから」と諦められている、そこのところにこの問題の入口があるように私には見えるのだ。その入口をこじ開けるためにも、耐震建築と免震建築の国内で置かれている立場をもう少し見えやすくしておく必要がある。
それを次のエントリーでまずはなるべく平たく説明していきたい。
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2006年03月27日 (月)
N的画譚 の neonさん、ちはろぐ のちはるさんと京阪沿線・京都のはずれは八幡市にある橋本 を散策した。橋本は元々は遊郭として栄えた小さな宿場町で、私はその所在はおろか地名すらも知らなかったのだが、20年前に橋本を訪れたことが今の作品スタイルの確立へと繋がったという neonさんとの交流をきっかけに知る機会を得たのである。
「京都断章*1 」「京都断章*2 」「京都断章*3 」と neonさんが橋本との接点について断続的に書かれているので、まずはそちらを参照されたい。特に「京都断章*2 」で紹介される作品は、そのエントリーでもコメントさせていただいたようにそのモチーフである「建物の中に neonさんの絵がある」と感じさせられた必見の大作である。
(橋本から帰られた neonさんは「橋本幻景 」というエントリーを新たにされている)
ただ、残念ながらというべきか、そのモチーフとなった建物は6年前に neonさんが橋本を再訪された時点ですでになく、neonさんの言葉を借りれば「保存とか修復とかいう言葉は、この町には無縁のもののよう」に郊外型の戸建分譲住宅が遊郭だったスペースを何もなかったかの如く覆いつつある状況だった。
ところでふと考えてみると私はこれまで「遊郭 」と呼ばれる地をまともに歩いたことがなかったかもしれない。京都に住んでいたときには上七軒 など近所にあったが、あれは芸事を中心に据えた「花街 」であって、肉体を目的とした遊郭とは趣を異にしている。
だから橋本を歩いていて、異国とまでは言わないものの、どことなくこれまで歩いたことのないような場所を歩いている感を強くした。たとえそこが旧遊郭跡地であって半滅状態にあろうとも、遊郭だったという歴史が持つ特異な空気感はそう簡単に消えるものではないのかもしれない(中沢新一著『アースダイバー 』だったら「そこに流れた精子の霊が・・」みたいな書き方になりそうではあるが>笑)。
さて、ふつうに歩けば10分掛からず回れるだろう区画を我々は1時間半掛けて回ったところで、駅を降りてすぐのところにある「やをりき」という洋食屋に入った。入り口のところに階段があることからそこも遊郭の一つだったのでは?と neonさんは思われていたが、お店のおばちゃんに話を聞くとそうではないことが判明。
1924(大正14)年、そのおばちゃんの生まれた年に建てられたその建物は1Fが食堂で2Fはカフエーとして営業していたのだという。当時は入り口が今とは違う階段正面の位置にあってそこに美しい図柄のタイルが張られていた(何の図柄だったか忘れた)という。そして、それに続く階段、2Fのカフエーまでもタイルで敷き詰めていたそうだが、2Fを住居として使うようになってタイルは1Fの現スペースのみとなってしまったらしい。外装も手を加えられていて、かつての佇まいを残すのは1Fの食堂スペースのみとなっていた。
あいにく階段部分の写真を撮ってくるのを忘れてしまったが、店内の様子は左右の写真から幾分かは伺えるであろう。
そういえばその写真を見て思い出したが、当時はこの界隈で大型冷蔵庫を持っているのはうちだけだったと自慢されてたことも付け加えておこう。失われ行く記憶を手繰ろうとするとき、人々の中に宿る「自慢の心」というのはそれを強烈に記憶の縁へと呼び戻す可能性を持つものであり、何とも重要なのである。
ちなみに昼食を済ませて来ていた3人は表が暑かったこともあってサイダーのみ注文。
neonさんは橋本の昔の様子を収めた写真を持参されていて、おばちゃんやもう一人いたおばちゃんと同年代くらいのお客さんにも見てもらっていた。その様子を見ているとおばちゃんたちの受け答えが面白い。面白いというか、厳密に言ってしまうと記憶がいい加減なのだ。だから本気で彼の地を調査しようとしている者にとっては困った話かもしれないが、私はおばちゃんたちと neonさんのやりとりを微笑ましく見守っていた。
町の記憶とはおそらくはそんなものなのだ。「景観喚問 」のエントリー以降、このブログでも「景観 」についての問い掛けは何度かし始めているが、住民ほどに自分の町を記号化して見てしまっている(=見ないでしまっている)ということは往々にしてあり得る話なのではないだろうか。だから彼女たちは見ているはずの昔の建物の写真を見ても「こんなのあった?」と言うこともあれば、軒より下の方に視線を集中してもらうことでようやく思い出してもらえるなんてこともある。それは彼女たちが建物を建物全体として見る必要がなかったのだから当然の話である。
他方で「やをりき」を出て、neonさん&ちはるさんと別れ、私がもう一度一人で橋本をぐるっと回っていたときに話し掛けてきたおばちゃんは「ここも京都市内の町家のように、古い建物を活かすような改装をして、カフェやショップなどのような形で人を呼べればいいのに」と言われていた。それは私がカメラを持って如何にも物好きしか撮らないようなものを撮っていたからそんな発言になってたのかもしれないが、しかし、そのおばちゃんの発言からある種の景観意識のようなものを読み取ることはそう困難なことではない。ただ、私はその発想が「正」なのか?と問われたら、何も答えられないのが現状である。つまり、私はそれを「悪」だとも言い難いし、また「やをりき」のおばちゃんたちのようにかつての橋本の情景を懐かしみつつも、景観に対して無意識であることによって、時の流れとともに自然に自分たちの記憶を押し流してしまってることも「悪」だとは言えないと思うのだ。
橋本遊郭の建物そのものや町並みの話からは逸れてしまったが、それらについては冒頭でリンク張った neonさんのエントリーおよび作品に触れていただくのが一番だろう。
あとは flickr の方の「橋本遊郭 」タグで20〜30枚程度、今回撮った写真をちびりちびりアップしてくつもりなので、たまに覗いてもらえたら幸いである。というか、それに乗じて個別の建物についてのエントリーの可能性も大かもしれない。
□◇
もう少し期日が迫ったら改めてエントリーする予定ですが、neonさんが5月に根津の cafe NOMAD で作品展示をされます。ご興味ある方はまずはこちら まで。
Exhibition
ピアニシモな建築たち 〜小さく音楽がきこえてくる
2006.05.11(木)〜05.30(火)(但し、5/16、17、24は休業)
cafe NOMAD(〒113-0031 東京都文京区根津2-19-5 tel. 03-3822-2341)
open*14:00-24:00(カフェですので、1オーダーよろしくお願いします)
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2006年03月11日 (土)
最近にわかに温泉&城めぐり趣味を持った妻に付き合って青春18きっぷで赤穂 と日生 に日帰りで行った。赤穂は言うまでもなく赤穂浪士と塩田の有名な城下町で、赤穂城跡と赤穂温泉の宿「潮彩きらら 祥吉 」を中心にレンタルサイクル (1日200円)で回った。
個人的に赤穂浪士や忠臣蔵に特に思い入れがないので、感慨を持っての観光は難しい。加えてこの日、天気予報では日中20度近くまで気温が上がるということだったのに、実際は物凄い濃霧で気温がまるで上がらず、春の装いで寒空のもとをチャリで風を切って走らなければならないという、非常に苛酷な一日となってしまった。
だから妻が事前にチェックしていた赤穂で人気のピザ屋「さくら組 」に入ったときにはその店がピザを石窯で焼いているだけに店内が非常に暖かく、もうずっとそこに居たいと思ってしまったくらいである。とはいえ、人気店なだけに外で待ってる客も居るので長居をするわけにもいかず、ピザ一枚を二人で分けて食べ終えたら早々に店を出るしかなかった。ちなみにこのピザ屋で食べた100%水牛のモッツァレラの入ったマルゲリータ インテグラーレはこれまで食べてたピザって何?って思いたくなるくらいに超激ウマ♪ 値段は2300円とそれなりだけど、それも充分許せる味。たぶんこの100%水牛ってところがミソなんだと思う。これから100%水牛にはこだわってしまいそうだ。
続いて行った日生は妻の実家に18きっぷで帰省する際、播州赤穂線に乗ると途中で停車する駅(赤穂と岡山の間にある)で、日生(ひなせ)という読み方がまずは気になり、あとは駅のホームからでもそこがひなびた港町であることが伺え、以前から一度下車してみたいと思っていたところなのである。
ここも事前に妻がこの町は牡蠣のお好み焼き「カキオコ」が有名ということをチェックしていて、夕飯を食べる場所探しの延長で町中散策をしていたのだが、想像通りのひなびたぶりで、大いに私の撮影欲を掻き立ててくれた。まあ、夕方暗くなりかけていたのが一つ残念なところではあったが。。
ところで「虫の詩人の館*ファーブル昆虫館 」のエントリーで私は「現代建築にはほとんど興味がない」と施主ブログにはあるまじき言明をしていたが、この赤穂と日生の旅を通して少しその言い方を改めなければならないと思ったのだった。それは次のような形で書き表すことができるだろう。
私は「現代建築にはほとんど興味がない」
↓
私は「新しく建てられたばかりの建物の外観にはほとんど興味がない」
私が「新しく建てられたばかりの建物で興味があるのは主に内装である」
現代建築の多くは「まだ新しく建てられたばかりの建物である」
現代建築でも「築後30年経ったものであれば、興味の湧く建物になる可能性は高い」
私が「古い建物に興味を持つのはそこに人が残した染みや垢が積もっているからだ」
以上、言語ゲームめいた記述になってしまったが、こうした言辞を大いに実感させられたのがまず赤穂の城下町として再整備された目抜き通りを見てであった。それは去年の夏に彦根に行ったときにも同じ印象を持たされたのだが、この二つの町が観光PRを意識して都市計画の基準においたのが「城下町」としての都市再生ということであろう。
ところが私はそれによって再創造された「古さ」を新しく装った町並みにまるでカメラのレンズを向ける気になれないのである(実は冒頭の写真はブログ用にと渋々撮っておいたものである)。このことは都市部で新しく建てられた現代建築に対してもほぼ同様なのであるが、いずれにせよ、そこで私が写真を撮るか撮らないか、つまりは興味や愛情を持って接することができるかどうかは、建築物のタイプや性質といったものよりも建物の年季によって決まってくるということがはっきりとわかった。
それをさらに実証してくれたのが、ひなびた港町・日生である。先述したようにこちらに到着したときはすでに夕方で徐々に暗くなり始めていた頃だったのだが、海岸通りを歩くと斜面には無理無理増改築を繰り返しながら現存している野蛮な住居群が見えて来たり、路地を歩けばそこに住む人々の生活上の知恵や工夫から汲み取られていったであろう意匠や小細工を至るところで見掛けることができる。それに対してはもうたとえ暗くてぶれてしまってもカメラを向けずにはいられなかった。
もちろんここで「写真を撮る」という行為が建築論(またはまちづくり)とどう関わるかという問題は別にあるということは承知しておいた上で、私は私自身の問題として断言しておきたい。私は新しく建てられた建物の外観上の良し悪しを言うためには少なくともその建物が建ってから2、30年は経ってくれないと何にも言えない。それは現代建築だろうが「古さ」を装った建物でも同様で、とにかく30年経って勝負に来い!と言いたいし、谷中M類栖も30年経ってからが勝負だと思っている。
ただ、どうも最近の住宅というのは耐久年数30年を目安として建てられているようで、それじゃ〜一体いつ勝負すりゃエエねん!とツッコみたくなってしまうのであるが。
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2006年03月08日 (水)
飛行機の座席で私は絶対窓側派だ。もし同行者が同じように窓側派であるなら、それが妻であろうと恋人だろうと私は「なら、離れた席に座ろう」と言うだろう。そのくらいに機上からの眺めは楽しく刺激に充ち満ちている。だから万一窓側に座れなかったときは航空運賃半分返せ!と言いたいくらいにブルーな気分なのだ。
今回の中欧旅行で同行した父は幸いにも眺望にはさほど興味がなく、という以前に年を取ってトイレが近くなったため、むしろ積極的に通路側に座りたい人だったおかげで行き帰りとも私は窓側座席に座って滞空時間を満喫することができた。でも、父のように年を取ってなくてもトイレ立席を優先視して通路側を希望する人は案外多いようだ。やはり長時間フライトで寝ている人も多く、その寝ている人をわざわざ起こしてトイレに立つという面倒を厭う人が多いのだろう。でも、私はその面倒と眺望を天秤に掛けても明らかに眺望が勝る。どう考えたってアレを見ないのは勿体ないという他ない。
ちなみに「飛行機ライフ耳編 」でも書いたように旅行代理店の準備不足で往路は父と離れたところに座らなければならなくなってしまったので、私の隣は食事時間以外はほぼ寝っぱなしのオッサンが座っていた。なので、極力迷惑が掛からないようにトイレはなるべく食事のあとに少し長めに時間を取って行った。トイレでは用を足すだけではなく歯磨きしたり顔を洗ったり、またトイレの近くのスペースで体操したりスチュワーデスと話したりと身動きの取れない座席で停滞した血液に流れを与えるべく工夫した。
飛行機の中ではこのように意識的に滞空時間を楽しむよう心掛けた方がエコノミーでも充分高い運賃を払うだけのものを得られると思うのだが、どんなものだろうか? そのおかげで皆が寝てる中、一人楽しんでいたのがバルト海上空に広がる青い世界だった。
【写真】2005.11.08 13:30 ルフトハンザ航空・バルト海上空より
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2006年03月06日 (月)
横浜への出張ついでに谷中に一泊することを実家に伝えたら、それから程なくして母のところから『うえの 』という小冊子(上野のれん会 発行)の2006年3月号が届いた。
冊子にはフランス文学者・奥本大三郎氏の書かれた「ファーブル昆虫館 」のページに付箋が貼られ、彼が千駄木の元実家のあったところに新しく昆虫館を建て、3月6日(月) にオープンさせるという記事が掲載されていた。
設計カルテの自己プロフィール では全く触れなかったが、何あろう、私の子供の頃の夢は昆虫博士になることであった。あるタイプの極めて一般的な夢の一つとも言えそうだが、その仕事を続けてもそう簡単には食ってはいけないということを知った頃にはその夢を口にすることもなくなり、いつしか昆虫少年時代を終えていた。
しかし、親というのは(それもたぶん異性の親)そういう子供時代に子供が語る夢というものを決して忘れてはいないようで、それが今回の付箋となって現れたわけである。というわけで、そのオープンの日に偶然にも谷中に居合わすことのできた私は、Fleur という洋食屋で両親+野次馬CT氏とランチしたあと、昆虫にはまるで興味のない父を残して3人で千駄木小学校のすぐ側にある「虫の詩人の館*ファーブル昆虫館 」へと向かったのである。
現代建築にはほとんど興味のない私としては(なんてココで言っていいのか?>汗)、建物そのものについてはノーコメントとしておくが、奥本氏の言葉をそのまま借りれば「地下一階、地上四階の、シルヴァー・グレーにレモン・イエローという、ちょっと目立つ建築物である」という感じで、まあ、まち歩きしててこの前を通っても写真を撮るようなことはなかっただろう(尊敬する奥本先生のお家なので、こんなこと本当は書きたくないのであるが>汗>汗)。
ともあれ、中の展示物に関しては私の心を踊らさずにはいられないものが待ち構えていた。基本的に元個人宅規模の昆虫館なので、例えばデパート等でやられる昆虫展のような派手さはないが、私個人としては国内の昆虫標本を中心とした展示の方が、子供時分の記憶が存分に蘇ってむしろ楽しい。それから甲虫標本の日本・フランス比較展示などもあって、フランスの甲虫が日本の甲虫以上に小さく地味であったことにはだいぶ驚かさせられた。ファーブルは幼少時代にこんな地味な昆虫たち相手に昆虫オタクになれたのかと妙な感心をしてしまった。というか、現在のフランスの子供たちの間にどのくらい昆虫少年っているんだろうか? 私は昆虫に関してだけは日本に生まれて良かったと思いっきりナショナリストになってしまうのである(笑)
ちなみに地下1階には生きたヘラクレスオオツノカブトムシやコーカサスオオカブト、ニジイロクワガタといった海外の甲虫類、またタイコウチやコオイムシ、ミズカマキリといった国内の水中昆虫が展示されている。最近は海外産の昆虫も手軽にペットショップで買える時代になってしまったので、決して珍しいものでもないが、それでもペット屋で見掛けるものよりも形も大きさも立派だったので見応え充分だった。でも、やっぱり昆虫ナショナリストな私は国産水中昆虫の方に心奪われてしまったな〜。記憶力が絶望的に悪いはずの自分なのに、すべての名前がすらすら出てくるし。。
なお、1階の展示コーナーは季節によって展示替えしていくらしい。
通常は金・土・日のみの13〜17時と開館時間は短いが、拝観料が無料なので今後も散歩がてら何度も足を運んでしまいそうである。
【写真】2006.03.06 14:32 千駄木5丁目・千駄木小学校より北に程なくの位置
道路を渡ろうとしているのは野次馬CT氏と母。写真に気合いがない。
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2006年02月19日 (日)
前エントリー「電線の景観*N的画譚 」では画家の視点・撮影者の視点を借りて谷中の電線を好意的に捉えてみようとした。家づくりに集中していた頃には工事・引越・建築撮影と何かと障害物となっていた電線なだけに、その試みには些かこじつけ的な感もなかったとは言えない。ただ、それでも電線を「景観」の一つとしてポジティヴに見られたのは、やはりそこが「谷中」という場所だったという点が大きい。
谷中は敢えて乱暴に言ってしまえば「観光地」なのである。
観光地とは余所者から見られることを宿命づけられた場所、即ち「景観」としての特性に自覚的足らざるを得ないところである。ただし、そうした観光地でも行政主導で観光化を目的とした地域もあれば、自然発生的に人々が集まるようになった場所もある(最初は自然発生でそれに行政が飛びつくケースも当然ある)。その点で言うと谷中は後者でさらには行政はそれを放っておいているような印象が強い(その証拠に曙ハウスの解体 でも特に区で何か考えようとする動きは特に見られなかった)。
そして谷中が観光地化した最大の理由は、都内でも珍しく戦火を浴びなかったおかげで大正・昭和の薫りが温存された(悪く言えば取り残された)ことにある。「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ 」ならずとも土日ともなればカメラを手にした学生や老人たち(その中間層はあまり見ない)が町中をうろうろしている光景は珍しいものではない。
彼らが一様にレンズを向けているその先にあるものとは大正・昭和の息吹を感じさせるものである。その一つに電線や電線の踊る光景があることは言うまでもない。
ただし、それをもう一度「景観」という視座まで下がってみたときに、電線が観光的に持て囃されているから良いとか悪いとかという議論にはなり得ないと思う。ひとえに「景観」といっても、そこには住民の視点もあれば、単なる通行人、車に乗っている人、遠く離れたところから俯瞰している人、そして観光客と様々な視点が介在する。
そのような混在する視点の中から敢えて「景観」の良し悪し を指し示そうとしようとするならば、そこにその立地与条件や周辺環境、あるいはそれを選択した人間の名前および立場を明記してもらいたいものである。
当初、このエントリーは前エントリーの補遺として完結させるつもりのものだったが、前エントリーへのコメントを見ていると、単純に大正・昭和の名残とは別次元のレベルで人の電線に対する欲望は尽きせぬものがあるようで(って、それが自分にもあることは最初からわかってたんだけど)、その辺はまた別の機会に触れられたらと思う。
旧阪急梅田駅コンコース に対する私の思い入れというのは、案外そうした電線に対する欲望と近いところにあるものなのかもしれない。
注)写真は2006年1月22日に藍染大通りにて撮影
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2006年02月13日 (月)
谷中や根津の風物詩の一つに縦横無尽に入り組んだ「電線」がある。
谷中の半住人どころか年間で10日も谷中に滞在してない私は、つい最近までそのことに割と無頓着だった。というか、それ以前に家の建築写真を撮ることにおいて邪魔くさいとすら思っていたところもあり、ポジティヴ・シンカー garaikaさんの「電信柱って 」のエントリー・コメントでも結構散々なことを書いてしまっている。
ところが、先月「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ 」で一緒に散策した nodocaさんが flickr にアップされた「雪融け谷中 」の写真についたコメントを読むと、電線のことが住民・家主の視点からでないせいか、決して悪印象では捉えられていないのである。
悪い景観100景「街並みを汚くしている電線・電柱 」では電線ケーブルが「視界をますます低く圧迫している」と悲観しているが、nodocaさんは「とにかく電線は多くて低い位置にある気がする」と言うだけで、決してそれが良いとか悪いとかは言わない。そのことにアレ?っと思っていたところに更なる決定打が現れた。
Kai-Wai 散策の masaさんを通して親しくなった根津在住の画家 neonさんの作品がそれである。数日前に neonさんから『陋巷画日記 』と題する作品のポストカードをいただいたのだが、それら陋巷をモチーフとした数点の画にはすべて電線が描かれているのだ。そして、その電線の線は画のほとんど絶対的要素と言ってよいほど、重要な構成因子となっている。このさり気なくもユーモラスに踊る電線のラインがなければ、私は節度なくパウル・クレーの名前を出していたかもしれないが(って出しちゃってるけど)、それをしれっと拒む力がこの電線の線にはあるような気がする。そしてまたそれが在り来たりな「電線」の線であるというところが何ともニクイ!
こうして私は電線に対する考え方を少し改めなければならなくなってしまったのであるが、しかし、だからと言って突然電線賛美するようになるわけでもないし、依然として実家の前の電線を疎ましく思わなくなったわけでもない。ただ、一つ変わった点は電線を谷中や根津ならではの「景観」としても見られるようになったということである。
neonさんの作品はこれまでも Kai-Wai 散策「neonさんの絵葉書 」で紹介されているのを見ることができたが、この程 neonさんご本人がブログ「N的画譚 」を開設された。恥ずかしながら「陋巷(ろうこう)」という言葉を知ったのは今回のことをきっかけにしてなのであるが、N町在住の neonさんが描く陋巷の名も無き建築物たちをこれから楽しみにしていきたい。
注)写真は2006年1月22日に根津銀座界隈にて撮影
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2006年02月12日 (日)
あさみ新聞でシリーズ化している「悪い景観100景を考え直す 」のエントリー。
実は先日からこのブログでも何か書こうと思ってアレコレ書き留めてはいるのだが、どうもエントリーするまでには至れない。すでに検索すれば「悪い景観100景 」を公表した「美しい景観を創る会 」に対する批判的エントリーは山ほど出てくるし、今更その組織とテーマに対する批判をこのブログでやってても生産的ではない気がする。
ところでヤフーで「悪い景観100景」を検索すると、その4ページ目に「景観100景 」というブログがヒットする(2006年2月12日現在)。このブログ、どうやら「悪い景観100景」で取り上げられた情報をまるごとコピーして、コメント+トラックバック歓迎の体制を取って行こうとしているもののようである(作者不明)。
実は最近、ブログの可能性というのは情報発信のそれと同時に情報の受け皿としての機能も重視すべきと考えているのであるが(っていうか、実は一つお仕事でもうそういうことしてるし、阪急コンコースのブログ だってある種その路線だし)、このブログも云わばその延長線上のブログと言える。
で、現実を見れば「美しい景観を創る会」も最初からこの仕組みを作ってしまっていれば、そんなに全体枠としての批判を受けることもなかったろうし、純粋に一個一個の個別事例に対して、賛否両論をデータベース化して行けたのだ。その意味で考えるならばこの「景観100景 」というブログは「美しい景観を創る会」に対する嫌がらせとして存在しているのではなく、むしろ真性のフォロー部隊と言ってもよいのではないか?
てなわけで、谷中M類栖でも今後は取り上げられた「悪い景観100景」に類する主旨のエントリーをするときには「景観100景 」ブログに賛否問わず積極的にトラックバックして行きたいと思っている。おそらくはそうした個別事例に対して複数からなる個別視線を集積していくことこそが唯一このテーマの生産的有り様であろう。
ちなみにこのエントリーのタイトルは当初書いていた非生産的主旨、即ち「景観とはなんぞと心得とるのじゃ!」を書いてしまいそうになってたときに付けようとしていたタイトルである。そこではヒューザーの小嶋社長やら伊藤公介元国土庁長官の名前と「美しい景観を創る会」を並べて語ろうとしてしまっていたのであるが、まあ、その辺のところは「きっこのブログ 」にでも任せて、このエントリーのタイトルにその名残だけを残しておこうと思う今日この頃なのである。
■「悪い景観100景」関連リンク ←随時追加予定
・あさみ新聞: 悪い景観100景を考え直す
・あさみ新聞: 悪い景観100景 (2006.01.07)
・あさみ新聞: 悪い景観100景を考え直す(1) (2006.01.24)
・あさみ新聞: 100景を考え直す(2) (2006.01.26)
・あさみ新聞: 美しい景観 神戸シンポジウム (2006.02.03)
・あさみ新聞: 美しい景観 神戸シンポジウム(その2) (2006.02.11)
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2006年01月12日 (木)
この写真は中欧旅行の行きの飛行機、成田を飛び立ち北上して程なく眼下に見えてくる光景である。場所は鹿島港の入口 で鹿島発電所、鹿島石油、住友金属工業鹿島製鉄所等がある。最初にそれが目に入ってきたとき、その色彩に目を奪われた。
地面が焦げている。
私は自分でさほど「廃墟フェチ」の嗜好性が強い方ではないと思っているが、それでもこうした凄惨な場所に好奇の目が向くことを隠すことはできない。というか、この場所は決して凄惨な場所ではなく、人が働いている工業地帯なのだ。
Google サテライトの画像 では細密表示可能な地区となっていないため、私が撮った写真の方がこの場所に関しての情報量は多い。だが、情報量の少ない(つまり焦点距離の遠い)サテライト画像でも充分焦げていることはわかる。「焦土」というふだんあまり使い慣れていない言葉が自然と頭に浮かぶ。
戦時中「焦土作戦 」なる戦術があったらしい。ロシアがそれを得意としたというが、このあと、飛行機はエトロフ上空 あたりまで北上し、シベリア大陸 を横断する。
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2005年12月05日 (月)
関西圏でしか発売してないかもしれないけど、『大阪人 』という雑誌の最新2006年1月号(vol.60)「発掘 the OSAKA」のコラムにて「阪急百貨店大阪うめだ本店」が取り上げられている。もちろんメインテーマはコンコースで、伊東忠太の四神モザイク壁画 の制作のエピソードについても触れられている。「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」の歴史解説コラムで日間仁氏の書かれた力作「阪急ビルディングの建築に就いて 」では、伊東忠太の言葉を引用しながらより詳しく書かれているが、玄武・朱雀・鳳凰・白虎の四神を発想のもとに描かれたはずの壁画が龍・翼馬・獅子・鳳の四動物となってしまった経緯など、その説明は非常にわかりやすい。
コンコースこそを阪急ビルの「内なるファサード」と表現する執筆者の酒井一光氏(大阪歴史博物館学芸員)は、そのテクスト冒頭からこの場所に対する愛情溢れる記述を続けられるが、その文末で「建物が変わってしまうのは寂しいことだが、新しい時代の建物に期待したい」と結ばれている。それだけは本心だろうか?と勘ぐりながら読んでしまった。
「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」では有志メンバー:のりみ さんの書かれた同誌に対するコメント を掲載しています。
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2005年10月08日 (土)
「小林一三とのコラボ 」でまずは母方の祖父がらみで阪急創設者の小林一三氏との縁について取り上げたが、今度は父がらみの関係で阪急との縁を見ていきたい。
前回「父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二 氏と知り合い」と書いたが、もう少し正確に書こう。父は満州は大連で暮らした中学時代、浜崎真二氏の息子さんと同級生で、その縁で浜崎真二氏にもかわいがってもらっていたのだ。
ネットで検索すると、1901年に広島で生まれた浜崎氏は慶応大学を卒業後、大連に渡り、大連満州倶楽部という社会人野球チームで活躍していたことがわかる。実際、父が言うには当時、満州では野球が大いに盛り上がっていて、相当に迫力ある試合が見られたという話だ。父が生まれる前の話だが、都市対抗野球の歴代優勝チームの記録 を見ると第1回から3回まで3年連続で満州倶楽部が優勝しているのだから、その実力のほどは確かである。
終戦後、日本に引き揚げた浜崎氏は当時まだ「ブレーブス」という愛称の付いていない時代の阪急軍の監督に就任し、兼任で投手としても投げている。彼の48歳での登板記録というのは今もまだ破られていない。それともう一つ特筆すべきなのがその身長。150センチだったというのだ。「小さな大投手」と呼ばれた選手はこれまでにもいたが、ここまでミニマムで大投手と呼び得た選手もおそらくは彼しかいないだろう。
引き揚げ後、いったんは郷里である山口(萩)に初めて帰った父であるが(三男坊の父だけは大連で生まれた子なのである)、まもなく同志社大学に入学し、関西に寄る辺のない父はそこで再び浜崎氏の世話を受けることになる。どうも最初のうちは当時、西宮球場にあった阪急選手たちの寮に寝泊まりさせてもらっていたらしいのだ。また、浜崎氏の息子さんと遊ぶのに、宝塚にあったという浜崎監督邸にも遊びに行っていたらしい。そして、その縁で父の阪急ブレーブス・ファンの歴史は始まり、それが東京で生まれ育った、そう簡単には阪急との縁を持ちにくい私にも伝染したというわけだ。もちろん私が物心付いた頃の阪急ブレーブスは山田・福本・加藤の同級生トリオが円熟期を迎え、物凄く強かったことも子供ながらに魅せられる要因ではあったろう。中学・高校時代の親と話したくなくなる年頃にあっても、どうにか父と子の対話は首の皮一つ阪急で繋がれていたように記憶する。まあ、それしか会話がなかった気もするが(笑)
と以上、これまで「父と満州 」「祖父は満鉄社員だった 」と二度にわたって取り上げてきた「満州」の話をこうして「阪急」がらみですることになろうとは私自身、予測もつかなかったことである。しかし、考えてみれば私の父方祖父は満州鉄道の社員であり、阪急もそのベースとしてあるのは阪急電鉄という鉄道会社なのだ。
近代社会においては鉄道会社こそがまさしく「線路」という線を土地に引くことによって、その周辺のまちづくり、そして人々の生活のイメージを築き上げてきた。今回、冒頭に取り上げた絵葉書は大連・連鎖街という云わば百貨店の建ち並ぶ大連市内の様子を描いたものである。もはや言うまでもないだろう。それが1929年創業の阪急百貨店うめだ本店のファサードに似通ってるということなど。
大連・連鎖街 CHAIN-STORE STREET, DAIREN 二百有余の各種専門商店が一つの統一ある体制の下に整然たる商店街を造るのが連鎖商店街である。言はゞ百貨店の街であり、街そのものが百貨店である。而も其処には映画殿堂や児童遊園、大浴場、支那料理店等があり、大連の新名所として又大連のプロムネイドとして見るべきものが多い。
最後にはなるが、父を阪急に引き合わせてくれた浜崎氏の息子さんである父の友人が去年の12月に亡くなり、父は葬儀にも参列したらしい。おそらくその父の友人の存在なしにはこのエントリーもなければ、あの「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」のブログもなかったことだろう。ここに浜崎親子のご冥福を謹んでお祈りいたします。
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2005年09月10日 (土)
「「らしさ」について 」のエントリーでTB誤送信したら、朝妻さんからは新規エントリーで「“ らしい ” 家について ちょっと思ったこと 」、そして garaikaさんからも「「らしい家」考 」というTBが返ってきた。さらには朝妻さんのエントリーではノアノアさんのコメントもあって、TB誤送信というのも満更悪くないものである(笑)
それにしても「らしさ」という言葉は厄介なものである。いや、厄介だからこそ便利に使えると言うべきか? garaikaさんは〈「らしさ」とはあいまいな言葉だ。〉と書かれているが、実際のところ、人から何某かの評価を求められたとき、「〜さんらしい」と答えてしまうのが最も無難な回答となり得るのは言わずと知れた話である。なぜならその言葉は仮に答えた側にとってマイナス評価のものであったとしてもその含意は伝わらず、尚かつ言ってることにウソはない。もちろんプラス評価の場合も然りである。
「らしさ」とはおそらくどんな側面を指しても言えるものだろう。
garaikaさんも書かれているようにそもそも関わること関わらないことそれ自体が「らしさ」を示してしまっている。前回の自分のエントリーを反語的に言うならば、イメージとしての「私らしさ」が直接的に表現されていないプランを選んでいること自体が「m-louis らしい」とも言い得てしまう。そして garaikaさんは関わり方の深度に良い意味での「らしさ」を求められているが、前エントリーで私が懐疑的に捉えていたのは何か先験的に「らしさ」を表現に落とし込んでしまうことに対してなのであった。
期せずして garaikaさんもノアノアさんブログで春先に起こった「熱い日々 〜化合論 」 (勝手に命名)のことを取り上げておられるが、私も前エントリーを書いている時点でそのことがずっと頭にあったことをここに告白しておきたい。当時、建築家派vsHM派(ヘビーメタルではなくハウスメーカー)という、ありがちといえばありがちなのかもしれないが、ネット上バトルにしては珍しく最低限のマナーは守られた中での激論がブログのコメントスペースにて繰り広げられていた。そこで途中参戦した私はしろさん というHM派の中でもとりわけポジショニングの堅い方に向けて、かなり一方的にコメントし続けてしまったのだが、彼女のガードは堅く(それは彼女の自己認識力が非常に高いゆえのものだった)、むしろ私の方が感服する結果となったことを思い出す。
簡単にいえば彼女は幼い頃からの憧れだった赤毛のアンの「グリーンゲーブルズの家」のような家をHMで建てているのである。であれば、しろさんを知る親しい友人がしろさんの家を見て「しろさんらしい」と口を揃えて言うことは間違いない。
そして前エントリーから私が問うていた「らしさ」とはおおよそこの論点のうちにある。ただ、そういうと恰もしろさんをダシに使ったように思われてしまうかもしれないが、彼女に関してはコメント時のやりとりにおいて、この人は筋金入りのグリーンゲーブリアン(そんな言葉ないけど)だと認識させられており、上記の懐疑は適合しない。
彼女はおそらく生涯にわたって自分の家を愛し続けていける人だろう(※1) 。
ともあれ、私が警句を発したかったのはしろさんほどに筋の入っていない「自分らしさ」を安直に追ってしまって、それを自分の家の表現として落とし込んで行ってしまうことに対してのものだった。特に家族の中でも特定の個人のテイストが強く現れた家を作ってしまった直後にその個人が故人となってしまった場合、遺族たちはその家にその故人の「らしさ」を見、それを愛し続けていくことができるだろうか? そればかりではない。個人のテイストというのは思いの外、流されやすいものである。特に時流から見出されたテイストは飽きてしまったとき、恥ずかしいばかりか憎々しくすらあるものとなってしまうこともある。家は服のように簡単に脱ぎ捨てられるものではない。
garaikaさんはなぜか m-louis らしいとして引き合いに出した「光庭 」のリンク先を私の昔の三鷹の家の庭の写真が掲載されたページの方に飛ばされている。それが狙ってのことなのかはわからないが、おそらく「自分らしさ」を穿り出して行く際に必要とされる手段の一つとして有効なのはこうした自分の子供の頃から慣れ親しんだ環境、暮らしを一つの歴史として繙いて行くことなのではないだろうか? もちろんそれが直接に表現と結びついて行くという訳ではない。だが、この作業を所々で設計者と共有しながら進めていくことは双方にとって関わり方の深度を深めることに他ならない。
尚、前エントリー最後で私は建築家の「作風」に対しては手緩い記述に留めていたが、ホンネを言うならば上記の議論はそっくりそのまま建築家にも返してしまいたいのである。素材一つ取り上げて自分の「作風」にされたら、施主はたまらんてな!(※2)
□◇
※1)「熱い日々 」当時、私はしろさんに対して建築家との化合について蕩々と説いてしまったが、改めて考えるに彼女がHMを選択したという判断は間違っていなかったと思う。ノアノアさんは「まとめてレス 」にて〈しろさんが思い描く「グリーンゲーブルズ」が100%完全なイメージがある!というなら建築家はその通りにつくってくれると思います、多分。でも、100%じゃなくって、90%だったりしたら、残りの10%が建築家によって色々に変化すると思うんです。それが受け入れられるか、受け入れられないか、それはやってみないと分からないんでしょうね。〉と書かれているが、おそらく彼女には100%のイメージが最初からあって、それを忠実に実現してくれる存在こそが重要だったのであろう。その意味においては明らかにHMの方が自分の作風にこだわらざるを得ない建築家よりも理に適っていたはずだ。
ただ、それでも尚かつ建築家と取り組むメリットを見出すとするなら、それは筋金入りのグリーンゲーブリアン建築家と組むことだ。それであれば、その家作りは100%を超えて120%、150%のものが仕上がるに違いない。ただ、残念ながら現在のところ、そうした建築家を探すことは容易ではないと思われてしまっている。でも、私はブログ、ネット、そして建築プロデューサーという存在の登場によって、そうしたグリーンゲーブリアン同士の出会いを可能とする土壌はすでに備わっていると考える。
あとはそうしたネットワークを如何に構築するかというだけの話である。
※2)最後の段落の建築家ってのは先の石川さん、豊田さん、前任建築家等、特定の個人を指すモノでないことは一筆入れておきたい。強いて言えば、大島本 のゲージツ家に属する建築家たちに対して物申してるところはあるかもしれないが(笑)
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2005年09月07日 (水)
朝妻さんの「石川淳氏 設計の家 見てきました。 」というエントリーで書かれていた「いつもながら“ 石川さんらしい ” 家でした。」を読んで思ったこと。
この場合の "石川さん" とは建築家であって施主ではない(そういえば昔、石川淳 という作家はいたが...)。そして外観から内部の様子に至るまで計10枚、おそらくは家の見せ場であろう写真が掲載されており、何となくそれを見るだけでも "石川さんらしさ" は充分伝わってくる。石川淳氏の公式サイト で過去の作品を幾つか見てみたが、朝妻さんの "石川さんらしい" というコメントはなるほど頷けるものであった。
ところでこうした「らしさ」というものは施主という観点で見るとどうなるのだろう。
実をいうと私は自分の家を「自分らしい家」だとは思っていない。それは家づくりにおいて実質的に私と同等の権限を握っていた母についても同様で「母らしい家」でもなければ「父/妹/妻らしい家」でもないという風に現時点の私には見えている。
こうした話を建築家の豊田さんとは話したことがないので、豊田さんがそれを聞いてどう思われるのかはわからないし、もし「私たちの家族らしさ」を考えて設計されたのだとしたら、この話は耳を背けたくなるだろう(スミマセン、豊田さん>汗)。
ちなみに豊田さんと取り組むことになる以前、つまり前任建築家たちの解任劇が続いた頃のプランというのはある意味で「私たちの家族らしい」家としての空気感を持ち合わせていた。というのも解任前に進められていたプランというのは実は父が書いた図面をベースにしたものであり、さらにそのもう一段階前の時点では私の書いた図面も検討されていて、それがそのまま実現ということになっていたとしたら、それはかなり「私らしさ」が前面に出てしまった建物となってしまっていたことだろう。
ところが結果的にそうした自分たちらしさを表象したプランを推さず、豊田新案で再スタートしようと思い立った背景には、むしろ私の中で「らしさ」を家の表現として追求することの危険性を感じていたからに他ならない。私にとっては父らしい家や私らしい家であるよりも、誰かを特定しない家であった方が、少なくとも「家族」という単位が暮らす場所としては住みよいのではないか?と思ったのである。同じ「らしさ」を追求するのなら「谷中らしい」家であることの方が重要だった。
ただ、冒頭で引き合いに出した建築家の場合はやはり逆のベクトルということになるのだろうか。それこそ「作風」という言葉があるように、そしてそれは実質的に建築家の実績=営業ともリンクするので、簡単には否定し難いはずのものである。
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2005年08月21日 (日)
NHK新日曜美術館のアートシーンにて「建築家 清家清 展 ──《私の家》から50年 」
(松下電工汐留ミュージアム)が紹介されていた。この展覧会、清家清自邸の原寸大模型が体感できるらしく、「移動畳 」も含めて大変興味深いのだが 9/25(土) までに東京に行く用が出てくるかはかなり微妙で観られない可能性の方が高い(泪)
ところで番組では清家氏生前の肉声が流されていた。
ハウスっていうのはハードウェアですよ。そいでホームっていうのはソフトウェアだと思っていただいていいと思う。ハウスは火事で焼けることもあるし、地震で壊れることもあるし、戦争で壊れることもあるけどね。ホームが壊れなかったら、まず一番救われるんじゃないかしら、人は‥‥。
とそれを聞いて、妻とつい「そうだよ、そうだよ」とほだされてしまっていたのだが、ホリエモン流に乱暴に見るならば、これら両面共「金」との結びつき抜きには維持できないのが現代なのかもしれない。貧しさ(ここでは金持ちが急に陥る下落的絶望も含む)が「狂気」を呼ぶということが残念ながら確率論的に見て高い時代だからである。
*
話は似ているようで脱線するが、最近ブログを知らない人にブログの説明を求められたときに「家」と「部屋」を例にして話すことがある。私は元来ホームページという言葉の使用をあまり好まないのだが(→理由 )、ここではホームページと言った方が直感的にホーム(家)を連想しやすいので、ホームページで話を続けることにする。
まず従来ながらのホームページを家(ホーム)とし、ブログを部屋(ルーム)という風に想像してみよう。そして友達の家に遊びに行ったという風に仮定する。そのとき、友達の家のリビング的な場所(ホーム)ではどこかよそよそしい感じなのが、友人の部屋(ルーム)に通されると胡座でも掻きながら腹を割って話そうって気分になれないだろうか? それと似た感覚がホームページとブログの違いにはあるような気がする。
従来の個人ホームページという場には玄関+LDK+客間と似たようにトップペー+趣味ページ+BBSなどがあったりしたわけだが、どこに居ても行儀良くしてないといけないという感覚が家(ホーム)同様に感じられていた。
それに対してブログはダイレクトに友達の部屋に入った感覚、そしてその気になれば模様替えも簡単だったり(対してホームページのリフォーム=リニューアルは大変)と何かと似ている要素は多い。さらに部屋の本棚の本を貸し合ったり(トラックバック?)なんてことも気安くできるのだ。
‥‥とここで清家清の「ハウスとホーム」に結びつける気はさらさらないのだが、一見閉じた殻のように見える住宅(ハウス&ホーム)が外部に接続しているのは、「縁側」が失われて以降の時代においては殻の中の殻である部屋(ルーム)ということになってしまったのかもしれない。インターネット時代、いやブログの到来によって、その通達度(漏れ度)はますます深まって(広がって)いくばかりである。
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2005年08月08日 (月)
Nakatani's Blography にて「すまいにおける写真、写真におけるすまい 」というミニシンポジウムが10/14(金)に開催されることが予告されている。パネリストに植田実氏(住宅建築評論家)、高梨豊氏(写真家)を迎え、司会が中谷礼仁氏(建築史家?)とたいへん興味深い催しである。が、生憎その翌週なら東京ではなく横浜に仕事で行く用もあるのだが、その一週前とはちょっとタイミングが悪かった(泪)
シンポジウムのテーマである「住宅写真」といえば、一応、我が家でも建築写真専門ではないものの、友人のフォトグラファーにお願いして新築時に撮影 してもらっている。また自分でもデジカメで数え切れないくらいの量を撮り、友人に撮ってもらった写真と合わせて Fotologue.jp という写真ギャラリースペースに公開している。
→ Yanaka*M3c 「フォトログ1F編 」「同2F編 」「同3F編 」「同屋上編 」
で、ご覧になればわかると思うが、この Fotologue.jp、全編 Flash のゴージャスなインターフェースで、たぶん私の写真というよりもそのグランドデザインに惹きつけられる人は多いんじゃないか?と思う。事実、私も最初はそうだった。家の写真をアップしたあとにも日常撮ってる写真を別口でアップして最初のうちは楽しんでいた(あまりその URL は告知してないけど)。が、何だかいつの間にか飽きてしまったのである。
確かに Fotologue.jp に写真をアップすると、自分が撮った写真がそれ以上のもののように見えてしまう錯覚にとらわれるのである。それは言ってみれば下手な絵でも額に入れると良く見えるという論理と同じであろう。だが、それは自分の写真だけでなく、他人の写真も同様で、Fotologue.jp のトップページに行くと人気ランキングだとか新着だとか幾つかソートが掛けられて他のユーザの写真も見ることができるのだが、何だかどれもこれも似たような写真に見えてきて、結局他人の写真はヌード写真のような際立った写真しかクリックしなくなってしまったのである。それはもうほとんどただのポルノ写真を追い求める感覚と違いはない。
そんな Fotologue.jp に飽き始めてきた折(というか、ひょっとするとそれは Flickr! を始めたから飽きたのかもしれないが)、Flickr! という写真共有サービスを始め、私はそれにすっかりハマってしまった。この Flickr! というのは、これまた見てもらうのが一番早いと思うが、サイトとしての精度は高いものの、Fotologue.jp ほどクールなインターフェースというわけでもなく、Yahoo! が買収してるだけに Yahoo! テイストも若干感じられる誰にでも取っつきやすいデザインのサイトである。そして一枚一枚の写真も額に入ったというよりはブログで見掛ける写真のようなノリで、淡々と見せる仕掛けになっている。ただ、Fotologue.jp と一番違うのは Flickr! は写真ギャラリースペースではなく、写真共有サービスだという点である。Tags の機能など世界中の写真とキーワード一つでポンと繋がり、気を許すとつい数時間ボーッと色んな写真を辿ってしまう危険性すらある。特に私は中近東関係の怪しい写真を見てるのが好きだ。
と、そんな Flickr! の素晴らしい共有機能であるが、ここではそれを Fotologue.jp と比較してどうこう言おうというわけではない(そもそもサービスの目的が違うのだからそれを言っても仕方ないはずだ)。それよりも私が着目したいのは、さきほども触れた Fotologue.jp の額縁に入れられたような感覚(錯覚)についてである。おそらく私が Fotologue.jp に飽きてしまった一番の理由がここにあるような気がしてならない。
みんな同じ写真に見えてしまうこと。対して Flickr! の写真はどこかレポート性を持った、そして同じ撮影者の写真を何枚か見るとその撮影者の個性が何となく見えたような気にさせてくれる、額縁化をうまいこと回避したインターフェースなのだ。
ここまで読むと察しの良い方は気付かれることだろう。私が額縁感覚を建築雑誌の写真においても同様に抱いているということを。正直、私はある時期から建築雑誌というものをすっかり放っぽり出してしまった。それは建築写真の専門カメラマンが撮った優れた建築写真が収録されているにもかかわらず、どれもこれも同じような写真に見えてならないのである。もちろん建築に携わるプロであればそんなことはないのかもしれないが、少なくとも私のようなヘタレ施主の多くは似たような所感を持ち合わせているのではないだろうか?(そして同様に「建築雑誌」という存在が真新しかった頃はスゲー!カックイーと息を呑んでいたのではなかろうか? それこそ Fotologue.jp のように)
そして話は振り出しに戻るが「すまいにおける写真、写真におけるすまい」ではどんな話が繰り広げられるのだろうか? 私はそれを「すまいにおける Flickr!、Fotologue におけるすまい」と読んでみたくなったのだが、実際の話の流れは如何に?
いずれどなたかのシンポジウムレポを見つけて、赤恥覚悟でTB送りたいものである。
□◇
Flickr! の badge 機能を使って「yanaka」セットの写真を出力してみた。
招待制ではないので、興味ある方は是非登録してみてください。
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2005年07月19日 (火)
Yahoo! のトップページで「シックハウス 北京でも波紋 」というトピックスを見掛けたのでクリックすると案の定と言うべきか「北京市の子供部屋のうち7割以上がシックハウス」という衝撃的な調査結果を報告する記事だった。
中国建築バブルが伝えられて久しいが、ときおり建築雑誌などで様子を掻い摘んでいるだけでも、中国は日本の建築バブルの惨状を反面教師とするどころか、むしろ倍加する勢いで新しい家やらビルやら公共建築やらを建てまくっているように見受けられる。
だからこのような調査結果は衝撃でも何でもなく、単に日本の数年前が十倍増化してやってきたというだけのようにも思えるのだが、ただ、最近は日本の著名な建築家の多くが中国に渡って様々な活動を繰り広げている現状を見ると、なぜにバブルの反省を中国で「建築教育」という形でもっと積極的に伝えていくことができなかったのか?ということは考えてしまう。
国際協力って資金援助とか事業開発協力以上に「失敗の経験」を如何に前もって事が起きてしまう前に情報伝達できるかというところにあると思うのだが。。
□◇
Yahoo! ニュース - サーチナ・中国情報局 【中国】ホルムアルデヒドで子供部屋7割がシックハウスに
「北京市の子供部屋のうち7割以上がシックハウス」という衝撃的な調査結果が発表された。原因物質は最近、中国製ビールをめぐり波紋を呼んだホルムアルデヒドだ。17日付で中国新聞社が伝えた。
この調査は、北京市産品品質監督検疫所、中国室内装飾協会室内環境観測センター(室内環境センター)、北京連合大学室内環境観測センター、北京安家康環境品質検査センターが共同で行ったもの。北京市内にある、改修して1−2年以内の子供部屋500室が調査対象となった。
1立方メートルあたり0.1ミリグラムの国家基準を超えるホルムアルデヒドが検出された部屋は361室で、全体の72.2%を占めた。最高で、基準値の8倍もの濃度のホルムアルデヒドが検出された。
室内環境センターの宋広生・主任は「高温の夏は、ホルムアルデヒドの濃度が他の季節より20−30%高い。子供部屋の木製家具、プラスチック製のおもちゃ、カーテンなどがホルムアルデヒドの発生源だ」「夏休み期間、子供は1日の80%の時間を室内で過ごすため、ホルムアルデヒドを長時間吸入すれば、白血病が容易に誘発される」と危険性を指摘している。
中国では白血病の患者は毎年4万人増えているが、そのうち半数は子供で、2−7歳児が多い。北京市児童病院で白血病にかかった子供のうち、90%近くが家を改修したばかりだったというデータもある。(編集担当:菅原大輔)
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2005年07月07日 (木)
先月あたりからすっかりハマッてしまった Photo Sharing Service の Flickr! (サーバ容量気にされてる方にも使えると思う)。
写真共有のネットワークなだけに国内に留まらず世界とアクセスしてた方が圧倒的に面白いので、なるべく頑張って英語でタイトル表記 してるのだが、そこで結構困りものになってるのが建築用語君たちである。
例えば「トタン」。
一部の好事家 の間でこよなく愛されるこの建材を和英辞書で引いてみると「galvanized iron」なんて出てくるのだが、これじゃー若手建築家などが好んで使いたがる「ガルバリウム」と同列になってしまい、味も素っ気もあったもんじゃない。まあ、ガルバ派の人たちからしたら、錆付きやすい亜鉛合金めっきだけのトタンとそれに長期耐久性を兼ね備えたアルミニウムを混入させたガルバを一緒にすんなよ!とむしろ反論喰らいそうでもあるが、いずれにせよ、一緒くたにされては困る用語たちなのである。
ところでその「ガルバリウム」であるが、この言葉、一つおかしくないだろうか?
rattlehead さんも「今日の低脳ホラー 」というエントリーで取り上げられているが、そもそも先の「galvanized iron」から引くなら「galvan+ium」であって即ち「ガルバニウム」となるはずのもの。galvanized が「亜鉛メッキした」という意味を持ち、それにアルミニウムの混成語として文字通り2語を掛け合わせたとしても「ガルバニウム」の方が語としての適正を持っていると見るのが自然だろう。
ところが、そのガルバニウムを Google 検索すると検出数は約840件、それに対してガルバリウムは約18,100件と後者の圧勝なのだ。実際、rattlehead さんもスペルは「GALVALIUM」なのですと言われながら何となく首を傾げられている。
そこで今度は「galvanium」「galvalium」と英字検索して検出数比較をしてみた。すると267:182 で「ガルバニウム」が勝利を収めるのだが、先の検出数との比較からしたら、このくらいでは僅差と言う他なく、こんな少数対決ではこの用語がそもそも建築用に作られた造語であることしか意味しはしない。ちなみに我が家のバルコニー上外壁 でもガルバ君は使われてはいるのだが(汗)
さて、ここでもう一度話を「トタン」に戻そう。
というのも実はこのトタンにはポルトガル語で「tutanaga 」という、まさにトタンをイメージさせてくれる言葉があり、先の和英辞書にもそれは付記されていたのだ。どうやらトタンの語源がポルトガル語の「tutanaga 」にあったということらしい。ただ、その言葉は現在のポルトガルではもう使われていないと言う。。
それでも私は Flickr! では「TUTANAGA 」という英字をタイトルに採用することにした。やっぱりトタンの茶目っ気は「GALVANIZED IRON」では示せない。
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2005年07月02日 (土)
まず「高過庵 」へこれから行ってみたいと思っている人たちのために書いておく。
高過庵に行くには「神長官守矢史料館 」を目指せばよい。茅野駅から「宮川高部の〜」とでも言い添えてタクシー運転手に話せば、大抵のタクシーは連れて行ってくれるはずだ。ただ、宮川高部で帰りのタクシーを拾うのは難しいかもしれないので、待機してもらうか事前にタクシー会社の電話番号を控えておいた方がよいだろう。
そして高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えないが(※1) 、史料館右手30m先くらいのところにある舗装された道に出れば、山の方にぽつんと浮かび上がってるのが確認できるはずだ。または史料館で場所を聞けば、説明好きな館長さんがいつでも気さくに教えてくれることだろう。私たちに対してもそうだったが、ネット上でも館長さんの親切な人柄については多くのサイトで触れられている。
ちなみに母と私は史料館に来るのは2回目。
ところが諏訪在住の善n叔父さんはこうした施設があることすらご存知なく(後でお会いした奥様は学校の先生をされてるだけに知っていたが、地元ではあまり知られていないのだろうか?)、それで高過庵に向かう前にまずは史料館に入館した。そこで館長さんから高過庵の場所を聞いて、上記のように舗装道路に出て行くか(車でも行ける)、あるいは畑の中を強引に直進するかの方法を教わった訳だが、ここは年配者二人に合わせて舗装道路迂回順路で行くことになった。
ところで「そんないざ行かん!」とする直前に私は史料館の中で高過庵の姿を見つけてしまったのである。
何と!高過庵は史料館のトイレから窓越し に見えるのだ♪
人見知りがちで、高過庵の場所を誰にも聞く勇気が持てない人(世話好きの館長さんと話さないということの方が難しそうだが)とか、窓越しの写真を撮るのが好きな方は、用がなくともまずは史料館でトイレに入ることをオススメしておく。
さて、その高過庵は史料館から歩いて2,3分程度のところにある。
NHK-ETV特集「スロー建築のススメ 〜藤森照信流 家の作り方〜 」のビデオで予習した通り、のどかな田園風景を横目に赤瀬川原平氏と南伸坊氏がスローブ状のゆったり上がる坂道を藤森照信氏に案内されながら上っていく光景そのままだった。
で、いよいよ高過庵を目の前にしたとき、最初の印象が「アレ?思ったほど高過ぎないぞ!」だったのにはちょっと拍子抜けした(笑)
遠くから見ていたときは手前の草で足下が隠れて高さが掴めないままだったのが、遮るものもなくなりスーッと目の前に立ち現れた瞬間、あまり高さを感じなかったのは箱部分のボリュームが思ってた以上に大きかったせいかもしれない。
よく頭でっかちだとチビに見えるというではないか!?
この日の天気はうっすら青空が見える程度で、写真日和とは言えなかった。それでもなるべく色んな角度からデジカメで撮っておきたいと撮影始めて間もなく、善n叔父さんと母はもう来た道をスタスタと帰路につき始めているのである(汗)
そんな訳で私は思うままに撮影することも叶わず、あとを追ったのであったが、その追い掛け始めて高過庵の方に目をやった瞬間、最初は頭でっかちだという風に見てしまっていた高過庵が、とある男の顔とダブって見えてしまったのである。
それはあまりに如何にもなイメージなのだが、タイトルでも既に書いたようにムーミンに出てくるスナフキン。帽子の色は違うけど、こうして見較べてみると目(窓)の感じなんてそっくりじゃないだろうか? 藤森さんの作品って兎角ジブリ作品と並べて語られがちのようだけど、実はムーミン谷の世界観の方が近いんじゃないか?と一つ発見したつもりになって、帰阪してから「藤森照信 ムーミン」で検索してみると、それなりに出て来てしまってちょっとがっくり(泪)
まあ、「高過庵 スナフキン」では何も出て来なかったので、ひょっとしたらそれは第一発見者かもしれないが(笑)
ETV特集では赤瀬川さんが「ゴンドラのように揺れるね」と言われていたが、下から見ている限りではそんなに揺れてる感じはなかった。
それにしても番組内で赤瀬川さんはやたらと寝転びながら擬音語にしづらい呻き声を出してたけど、あれはやっぱり老人力ならぬ老人声ってヤツなんだろうか?(汗)
このエントリーを書いている最中、藤森さんが高過庵の次に同じ敷地内に「低過庵」を計画していることを知り、そのプランが紹介されてる「GA HOUSE No.86 」をチェックしてきたが、そこで彼が書いていることって、私が「諏訪の宅地 」で妄想していることに若干似ていて、結構「げげげ」なのであった(汗)
GA HOUSE No.86 (P.149)
「高過庵」では、神さまのように天空からではなく、人間のように地上からでもなく、地上から少し上がった高さにある極小空間にこもって、窓の高さから地上を眺める視線の新鮮さ楽しさを知ったが、今度の作では、地中、といっても地中に完全にもぐるんじゃなくて、地中に建物一つぶんだけ沈み、上がオープンな空間がどんなものかを試してみたい。
「高過庵」は、ふつう言われるツリー・ハウスとはちがい、正確には高床式住宅の極端な例だが、今度のは、さしづめ竪穴式住宅の極端例ということになるだろう。日本の原始時代の住宅には、高床式と竪穴式の二つのタイプがあったことは、よく知られている。
中に入り、座り、炉の火に照らされた薄明かりのなかでお茶を喫み、しばし後、スライド式の屋根を開けると‥‥。はたしてどんな空間体験が待ちかまえているか。楽しみである。
□◇
※1)高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えない
私が見たときには高過庵の手前の緑が生い茂りすぎていたせいか確認できなかったが、Ranch Girl in the kitchen 「2005年5月4日の日記 」によると、館長さんが場所を直接示してくれたらしいので、見えているのかもしれない。
※)その他の関連記事
・X-Knowledge HOME 特別編集 No.7『ザ・藤森照信 』: 設計作品の撮り下ろし
・藤森研究室「高過庵 」: 外内観写真+図面+コメント+建築情報
・新建築2004年9月号「高過庵 」: 写真+建築情報
・JA56号「高過庵 」: 写真+建築情報
・石山修武 世田谷村日記「2004年十一月二十八日 日曜日 」: 藤森さんに呼ばれてレポ
・風に吹かれて「高過庵 2 」: 藤森さんと一緒の訪問レポート+青空写真
・aki's STOCKTAKING「F教授の......... 」: 秋山さんの見学所感
・見もの・読みもの日記「おじさん少年・藤森照信と仲間たち 」: ETV特集見ての所感
・Nakatani's Blography「高過庵 建築見ずに ただ遊ぶ 」: 中谷礼仁氏の見学レポ
・Nakatani seminar「『高過庵』訪問記 大公開 」: 中谷ゼミ生訪問記+スケッチ
・omolo.com「news: 2005/07/12 (Tue) 」: 高過庵に糸電話(?)
・ゴリモンな日々「木の上に住んでみたい♪ 」: 2006年お盆の高過庵
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2005年06月30日 (木)
さて今回、墓参りと土地処遇問題で諏訪までやって来たわけだが、「諏訪」といえばやっぱり御柱祭 であり藤森照信 である。
下諏訪出身の伊東豊雄 氏もいるが、「ザ・スワ」の建築家と言ったら藤森照信氏以外思い当たらない。
そこで今回の訪問でもし時間の都合が付くならば、以前に「藤森照信: スロー建築のススメ 」のエントリーで番組宣伝だけしてそのままになってた「高過庵 」を見に行ってみたいと思っていたのである。そして幸運にも善n叔父さんが車を回してくれることになり、泰n叔父さんを一旦自宅まで送ってから3人で探しに行くことになった。「探す」というのは住所レベルの個人情報まではネット上に出ていないので、あさみ編集長から教わった「神長官守矢史料館のそば 」という情報を頼りに自分たちで探すしかなかったのである。
尚、本エントリー、焦らすつもりはないのだが、先にその藤森照信氏の処女作「神長官守矢史料館 」について触れておきたい。といっても史料館の概要・解説はすでにネット上に幾らでも転がってるので(※1) 、ここではあくまで個人的な雑感のみ。
まず私がここに来たのは2度目である。2000年にも妻・母・妹と墓参りついでで来ていて、ところがそのとき私はデジカメを持っていなかった。だから当時、母がコンパクトカメラで撮ったスナップ写真と今回自分で撮ったデジカメ画像を見較べているのだが、外壁に張られたサワラの割板の色にそう変化は感じられない。ところが『藤森照信野蛮ギャルド建築 』(TOTO出版・¥1,800-)に掲載された1991年竣工時の写真と見較べると劇的に違う。経年変化がいつ頃はっきり現れるのかが気になるところだ(というのも、うちもいずれは軒下の杉板甲板が黒くなるって豊田さんに言われている)。
また、私は大阪から諏訪へはいつも高速バスを利用するのだが(往復1万円で列車利用と大した時間差はない)、今回車中では藤森照信著『タンポポの綿毛 』(朝日新聞社 2000年4月発行 ¥1,680-)という本を読んできた。彼の「テルボ」と呼ばれていた子供時代の話がエッセイ風にまとめられた単行本である。
この本にはテルボが子供時代に遊んでいた集落の地図(藤森氏本人の手書きによる)が収録されていて「高過庵」の場所を探すのにも何か手掛かりになるのでは?と思っていたのである。しかし、諏訪に向かう車中でこの本を読んでいるとやはり読む現実感もまた一塩違ってくるものだ。場所の持つ磁力ってヤツだろうか。何度も爆笑を堪えながら読んでいたのだが、中でもとりわけバカ受けした「トンボ捕り」の話を一部引用しよう。
藤森照信著『タンポポの綿毛 』 ──「トンボ捕り(P.98)」 以上のトンボ捕りは秋津洲大和国の各地の少年少女が体験していると思うが、最後に、信州のいたずら小僧の得意技を紹介しておこう。これはゲーム性とヒミツ性をかねそなえたすばらしい捕り方なのだが、だれにでもできるものではないので、読者各位におかれては御自分の立場や歳をよく考えてから実行に移していただきたい。
ふつうのときにはやらない。水遊びのときにやる。
学校にまだプールがないから、川に行って水泳をしていた。子ども用の水泳パンツもなく、黒い三角形の小さな布きれにタテ一筋、ヨコ一本の黒いヒモをとりつけただけの、いまにして思うとなかなか先鋭的形態の "水泳フンドシ" なるものを着け、イヌカキをしながら水に浮いて流れ下るのを楽しみ、疲れると河原に上がり、砂と石の混じる上でコウラを干す。そのとき、だれかがトンボの捕りっこをしようといって、ゲームははじまる。
もともと小学生にはなんのために着けているのかわからないし、中身のこぼれ気味の三角の布きれをはずしてスッポンポンになり、上向きに寝転がる。ここまで書くとあとのやり方はわかると思うが、御賢察のとおり、各人エイイドリョクしてカラダの中心の棒をできるだけ高く立てる のである。
トンボは高いところから先にとまる習性をもつ。羽を下ろしたのを見はからい、腰の脇からそっと手を動かして‥‥ 。
トンボから見ると、棒の先だけでなく地面まで急に人体に変わったわけで納得できないかもしれないが、人のチエだからしかたない。
私はこの笑い話に藤森建築の主題の一つが隠されてるような気がしてならなかった。
いや、隠されてるなんてもんじゃなく、内容同様モロ出しされてるといった方がよいだろう。それはユリイカ2004年11月号で特集された『藤森照信──建築快楽主義 』(青土社 ¥1,300-)で、赤瀬川原平氏が「てっぺん性」という言葉で表現してたり、また特集にあたって藤森氏ご本人が対談相手にリクエストされてたんじゃないかと思われる宗教人類学者の中沢新一氏に「天に発射するスタンディング・ストーンとリンガの問題」を問い掛けている。即ちそれらは河原に横たわった身体から上へ向かって立ち上がる(場合によっては発射される)勃起力そのものの話であるのは言わずもがなだろう。
だが、もう一つ忘れてならないのが「トンボ」である。といってもワケわからないだろうから少し説明すると、処女作「神長官守矢史料館」から始まる藤森氏の一連の建築物でてっぺんに向かってオッ起てられた柱や棒ってどれも「どうだ!オレのを見ろ!」っていうほどは堂々としてなくて、どっちかというと華奢で慎ましく立ってる感じはしないだろうか? で、たぶんコレを品位とかそういうレベルで捉えてちゃ駄目で、私にはどうしてもそれがトンボを捕まえたいからああいう木を選ばれてるような気がしてならないのである。堂々とし過ぎた木に決してトンボは止まりはしない。
もちろんここでの「トンボ」が昆虫のトンボだけを指してる訳ではないことは言うまでもなく、おそらく氏はどんなものが近づいて来ても「腰の脇からそっと手を動かして」「‥‥」しようとしてるに違いない。そんな藤森氏に私はピカソが1966年に残したエッチング・アクアチントを勝手に捧ぐ。
Pablo Picasso, Untitled, 15 November 1966 VI.
□◇
・藤森研究室「神長官守矢史料館 」: 外内観写真+図面+コメント+建築情報
・茅野市ホームページ「神長官守矢史料館 」: 公共施設案内(休館日情報)
・建築リフル「001 神長官守矢史料館 」: 写真集(藤塚光政/隈研吾 著)
・建築マップ「神長官守矢史料館 」: 訪問レポート+詳細情報
・美的建築ワールド「茅野市神長官守矢史料館 」: レポート+建築情報
・月間進路指導「あの人に聞きたい私の選んだ道 , 2P , 3P 」: 藤森照信に聞く
・Sputnik「yield 」: 藤森照信へのインタビュー
・asahi.com - 信州館めぐり「名建築の中に諏訪大社の歴史 」: 新聞掲載記事
・SEEDS ON WHITESNOW「ETV特集「スロー建築のススメ」 -守矢の里の不思議な建物たち- 」: 地元出身者の番組レビュー(ブログ)
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2005年05月16日 (月)
Off Space : bside さんから、うちの施工をお願いしていた阿部建築 の若頭=山本さんがブログ「谷中の住人 」やってますと教えられ、正直ここ最近では一番の吃驚でした。
早速挨拶のコメントをすると、何でも「仕事関係の方から進められて勢いで始めてみました」とのこと。確かに始められたのは今年の3月からで、今のところ日常的な話題と建築絡みの話がメインのブログのようです(施工風景の写真なども載ってます)。
いや〜、こんなことなら私がもっと前に薦めておけば、ご近所の satohshinya さんからブログを通じて工事の進捗状況を教わるなんていう面白すぎるハプニングも起きず、みっちりその工程をリアルタイムでチェック出来ていたのかもしれません。それと山本さんのブログを現在のお施主さんが見られてるのかはわかりませんが、施工者側がクライアントに対してではない形で、対外的に自分の家について語っているところを見られるというのもこれまた非常に興味深いものがあります。
と、こうしたことを書いていると当然そこに設計者も加わって、一つの家づくりに三者三様の視点でブログ記事が書かれるという状況を思い浮かべない訳でもないのですが、私個人としてはそれはそんなに簡単には行かない夢物語みたいな話だろうと思ってました。それはクリエイティヴな仕事に従事されたことのある方であれば、おそらくは警戒を強めるように、人と人との間でモノを作るということがそう簡単なものではないからです(これについてはまた改めて掘り下げて書く予定)。
ところがこの世の常と言いますか、ネット世界の原則とでも言うか、そうしたものって既に存在してるんですね。まあ、私が今回知ったのは施主・施工者・設計者の三角形ではなく、施主と設計者の相互ブログというヤツですが、たまたま「新桜宮橋のゴンドラ 」というエントリーにコメントされたはりこさんというお施主さんの「『華門楽家』建築奮闘記録 」とtsutsui_1972さんという建築家の「KIHAKU's blog 」が双方向発信ブログという形態が取られているのです(もちろん相互に無関係な話もエントリーされてますが)。
とりあえずまだ両ブログ知ったばかりなのでその内容を問うつもりはありませんが、正直私は勇気ある試みだな〜と思いました。特に設計者。でも、この双方向発信ブログを見ているとこのまま工事に入っても悠然と施工者まで含めた三方向ブログをやってのけそうな雰囲気を感じてしまいます。まあ、それは単純に施主と設計者の間でしっかり信頼関係が築けているように見えるからこそそう思えるのですが、当然これから先、このように幸せな形になってない三角形ブログなんてのも出て来ちゃうと思うんですよね。
そこにはやはり情報開示と信用の間の時差・認識差といった問題が大きく浮上します。
そういえば宇多田ヒカルがマイクロソフト社の「Xbox360」というゲーム機名称を発表前に Web日記 で流出してしまったというけど、これがトラブルなく不問にされたのはひとえに宇多田さんの信用(作家性=権威)のおかげっていうもんでしょう。
でも、こうした事例は極めて特例だと思ってないとフツウの施主はヤバいです。
あと、どうでもいい話ですが、任天堂DSのCM での宇多田さんのデブっぷりって、あれはご本人も映像開示承諾してたんでしょうか?(^^;)
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2005年05月11日 (水)
これまでこのブログでは登場機会の少なかった父 であるが、その理由はうちがある種、サザエさん的家庭だということにある。即ちこれまで何度か登場した祖父母とはまさしくサザエさんにとっての波平とフネであり、私はといえばフグ田タラオだったのが、祖父の死を機に知らぬ前に磯野カツオにすり替えられていた(つまり知らぬ間に養子になってた)のである。だから当然マスオさんである父の存在感は家づくりにおいても薄く、ブログでもそれほどスポットを当てられることがないまま来てしまった。
そんな父が生を受けたのは1931年(昭和6年)、かつて日本の植民地だった満州の大連である。父は自分が士族の出であることを何かと強調するのだが、父の祖父にあたる人は非常に商才に長けた人だったらしく、父はちょっとした金持ちの家のお坊っちゃまとして育っているらしい(右の写真の中央が父)。言うまでもなく第二次世界大戦の敗戦で父の家族もまた身ぐるみ剥がされほとんど無一文状態で引き揚げることになるのだが、私はそのあたりの経緯をそんなに詳しく知らない(というか、父に聞いてない)。
それは一つには私が知らぬ間とはいえ、母方の家の養子となり、なんだかんだフグ田家ではなく磯野家の嫡子としての自覚を植え付けられていただろうことが考えられるが、それとは別に子供の頃に友達同士の間で「残留孤児」と卑下された記憶がどこかで自分に影を落としてるような気がしなくもない。なぜに父が満州の生まれだったことが友達に知られたのかは今以て謎だが、私が小六〜中一前後だった1982年2月、厚生省による第二回中国残留孤児の「親探しの旅」で60人の孤児のことが何かとマスメディアを賑わせていた。そうした報道に子供特有の差別意識が働き、私へと向けられたのだろう。父は「引き揚げ者」であり、決して「残留孤児」ではないにもかかわらず、私は「残留孤児」のレッテルを貼られ、そうしたイジメから逃れるためにとかく私は父が満州生まれだったという事実を隠そうとしていた。
と書いたところで唐突な話にはなるが、
先月、aki's STOCKTAKING 「父の遺言書 /1943 」のエントリーにて少しそのことをコメントしていて、その後、同ブログの「満州走馬燈 / 満州メモリー・マップ 」のエントリーで紹介された小宮清 著『満州メモリー・マップ 』(筑摩書房・999円)を購入して、つい先日ようやく読み終えたところなのである。
今に始まったことではないのかもしれないが、日中間がギクシャクしている現在、満州という存在がそのギクシャクの要因としてどのくらいのところを占めているのか私には今もよくわからない。ただ、この本はそうした日本の侵略の歴史を、いや、もう少し厳密にいえば侵略した土地を開拓する日本人の生活を、私の父よりもさらに5歳若い著者の子供時代の視点において描いている。そこには昨今の行きすぎた報道にありがちな誇張もなければ諧謔もない。ただ、訥々と絵日記のように綴られた記述に当時の大人たちにも見えてなかった歴史的な視線がオーバーラップされているのである。
冒頭でアップした画像は伯母の家にあった大連大広場の絵葉書をデジカメで複写したものである。葉書はまだあと3枚あるので、今度はこの本の気になった箇所など引用しながら、それを元手に父や伯母に満州の話をもう少し詳しく聞いて、それらのレポートと共にここで紹介していきたい。
□◇
Abejas e Colmenas のみつばこさんも aki's STOCKTAKING の同エントリーで紹介されていた『満州走馬燈 きよしのメモリーマップ』の方を読まれていて「オンドルの見える風景 」「泣きそうになった箇所 」というエントリーをされてます。
その後に MyPlace の玉井一匡さんも「満州走馬燈 」で同タイトル著作を再読してのエントリーをされてます。またTB受けた「真綿のお供え餅と大連 」のエントリーも要チェック!
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2005年04月15日 (金)
我が家では語学オタクの妻に合わせて大抵一つ二つNHKの語学講座が毎年見られている。で、今クールといえば一番の注目は妻も LBGO で書いてるように笑い飯 の出ているスペイン語会話 。先週の初回分を見逃してしまったもんで、今日はTVに「笑い飯」という紙を貼り付けて忘れないように見た。
スペイン語には男性名詞と女性名詞があって、概ね男性名詞は語尾の母音に「o」が付き、女性名詞は「a」が付くという。その例として「libro(本)」と「casa(家)」が挙げられていた。どっちも日本で固有名詞的に扱われているのでスペイン語を勉強してなくても知ってる単語だけど、「casa」はやっぱり女性名詞なんだな〜。
それを聞いて作家の島田雅彦氏と建築家の隈研吾氏の対談で隈氏が次のようにぼやいてたのを思い出した。
島田雅彦著『衣食足りて、住にかまける 』 (P.27) 隈:建築家の仕事のほとんどは女性相手で、女性が持っている、空間に対するはてしない欲望みたいなものに常に晒されてほとんど辟易しているわけです。その解毒作用として建築家にはホモが多いという説もあって、実際アメリカの建築家はヘテロよりホモの方が多いかもしれない。僕もあんまり女の顔は見たくないから、事務所のスタッフは美青年ばかりですね(笑)。
2005年04月14日 (木)
「祖父から祖母への手紙 」コメント欄の下の方をご覧になればわかると思うが、昨夜、私は一人であくせくしまくっていた。そこでも書いているように同エントリーの本文の文章がコメント欄に自分でコメントした文章にすり替わってしまっているのを見つけたのである。最初は表示上のバグかと思っていたのだが、編集画面のフォーム内を見てもそこにもコメントの文章が来てしまっていて、もはやどうにもならなさそうな状況が見えてきていた。
私はふだんエントリーするのもコメントするのも一旦別のエディタ上で書いたモノをコピー&ペーストする形で投稿しているので、原文が残っているといえば残っているのだが、しかしペーストして公開したあとにもう一度ブラウザ上でエントリーを読み直し、校正をかける。もちろんブラウザやプラットホームの環境差があるのは承知の上で、それでも私は Mac/Safari でもっとも読みよいように微妙に改行部分などの調整を掛けたりしている。
そんな中でも「祖父から祖母への手紙 」は公開後に文章そのものも相当に変更修正を加えたエントリーだった。だから、そのデータが消えたということを認めずには居られなくなったときの喪失感は非常に大きなものだった。エディタ上で下書きしたものを再アップはできるが、それは校正後の文章ではないのである。
もちろんこうした喪失体験はこれまでにも幾度も体験している。一番単純な例としては保存し忘れとか、誤ってデータ削除してしまったとか、、で、そうしたときもしばらくは茫然とするしかないのだが、しかしそれらのケースでは不思議と取り返し可能な力が自分の中に残っていた。もちろん文章をまるごとそっくり再現できるという訳ではない。だが、実際のところ、もう一度書き直したとき、喪失前に書いたものよりもグレードアップした文章に仕上がるのがそうした場合の常である。確かにデータとしては消えてしまったかもしれないが、自分の中で元の文章を書き上げたときの経験が上積み要素となってより優れた文章を書かせてくれるのである。
ところが今回の喪失においてはそうした期待がまるで持てなかった。まず第一にもう一度書き直すなんて気力はまったく持てないし、仮に書いたとしても相当端折ったものになったであろう。で、実際書く気力のない私はとりあえず下書きの文章をそのままペーストして写真についてはソースを自ら書き込んでどうにか体裁だけは復活させる形を取ってみた。だが、何ともやるせない気分になるのである。この際エントリーごと削除してしまおうかとも思ったのだが、すでにたくさんのコメントももらっているので、さすがにそれもしのびなく、如何ともし難い状態。
そこで考え始めていたのが、ネット上のどこかに何らかの形で旧データがまるごと残ってたりしないか?ということだったのである。で、いろいろ考えてふと思い当たったのが Google のキャッシュ 。ここには Google の検索ロボットが巡回時に読み取った情報(つまり何日か前のサイトの状態)が保存されている。だからもしや?と思ったら、案の定4/9(土) 時点のものが出て来てくれたのである。いや〜、このときの安堵感と言ったらそりゃなかったッス!
しかし、今回の経験をきっかけに考えたのが、今回私がデータ上の復活は考えても、頭の中からの書き直しを一切考えようとしなかったのはそれがブログ上の文章だったからではないか?ということである。他の方がどうかはわからないが、少なくとも私はブログの記事をもう一度書き直すというモチベーションをそう簡単には持てそうにない。
[R]Richistyles!「ブログと思考の濃度 」 ブログをはじめてから半年以上がたった。これだけ長い間、安定してものを書いていったのは生まれて初めて。
ニュース、ネタ、雑感、議論といろいろ書いていったが、感想としては特にそれで利口になったとは感じない。ただ、文章を書く作業は早くなったし、文章力はだいぶ伸びた。しかし、これは文章としての中身が良くなったというより、莫大な情報を処理して、それを簡単にまとめたり、適当な意見を書き上げたりする作業効率が上がっただけに過ぎない。
ここに書かれているブログ実感と似たような感覚を私も持つのであるが、どうもブログで書くという行為はこれまで文章を書いていたときのそれとはどこか感覚的に違う。まず、何よりも常に同じフォーマットに従ってエントリーしていくという一連の動作から駆り立てられるもの、richstyles 氏の言葉を借りるなら「処理」という感覚が強くあるのである。それが私にデータ上の復活は考えさせても、内面上の復活にまでは至らせなかった理由ではないだろうか?
実をいうとこの問題を私は最近 garaikaさんが書かれた「オーダーメイド 」とレディメイドとの関係、あるいはアナログとデジタルとの関係において平行させて考えたいと思っているのだが、どうもまだうまく纏められきれず(処理しきれず)にいる。
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2005年03月22日 (火)
一酔千日戯言覚書2「丹下健三さんが亡くなりました 」にて日本建築界の重鎮・丹下健三 氏の訃報に接する。それを読んだ時点でまだニュースサイトにその情報は出回ってなかったが、それからしばらくして「建築界リード 丹下健三氏死去 」という見出しでヤフーのトップニュース扱いとなっていた。91歳だったという。
丹下氏の存在は私にとっては必ずしもその輝かしい功績と符合するものではない。80年代末、東京都新都庁舎 計画で当時一番背高ノッポのツインビルプランでコンペを勝ち取った丹下氏の存在は学生だった私の目には政治家の腹黒いドン(金丸信にもちょっと似てたし)のように映っていた。むしろ当時の私は周囲の副都心高層ビル群よりも低い庁舎計画案を出した磯崎新氏のプランの方に惹かれていたものだ。
だが、学生時代の青臭さが抜け、ポストモダン建築よりも近代建築に魅了されるようになってからは、少なくとも公共建築に関してはやっぱり丹下の方が磯崎より全然すげーやと思うようになっていたのである。それには時代背景による素材=経済感覚の違いもあるのでやむを得ないところもあるのだが。。
当時、東京にいた私は一度ライブで代々木・国立屋内総合競技場 に行ったことがあるのだが、そこがオリンピックプール として使われていたのかと思っただけで背筋がゾクッとしたものである。建築で武者震いする経験って他に国内で思い出せるのは白井晟一の作品群くらいのものである。
ところで私は大阪に住むようになってまだ淡路島には行ったことがないのだが、先月たまたま友人の akanem 氏から淡路島南端の「若人の丘」に建つ丹下作の戦没学徒記念館 に行ってきたというメールをもらった。上記掲載写真は彼女が撮ってきた記念館の写真。私も花粉が飛ばなくなった頃にでも行ってみたいものだ。以下に彼女からのメールにあった訪問時の感想を一部転載しておく。
On 2005/02/27, at 21:46, akanem wrote:
今日は、前から行ってみたい、と思っていた丹下健三の幻の作品といわれる、
戦没学徒記念館に行ってきました。
ご存知ですか?(淡路島南端の「若人の丘」に建ってます)
震災後、閉館されたままで、いまや廃墟と化してますが、
最近の建物ではあまり感じたことのない、崇高さというか緊張感を感じました。
すでに崩れかけている石積みの美しさというか、なんというか。。。
建物自体にも力がある、ということを改めて感じさせられました。
中の展示物の一部は残されたまま埃をかぶっていて、
(それも、戦時中の写真や日章旗など)
周りの風景の美しさ、静けさ、建物の美しさとは対照的に、
何ともいえない雰囲気をかもし出していました。
機会があれば、ぜひ。というくらいオススメの場所です。
普通に景色が気持ちいいです。
□◇
※余談1)
丹下健三といえば、建築史家の藤森照信氏がまとめた限定2500部の 丹下健三・藤森照信 著『丹下健三 』があるんだけど、¥28,500- に未だ手が出ません。
※余談2)
丹下健三の公式サイト「KENZO TANGE OFFICIAL SITE 」ってどこが作ったか知らないけど、Flash のバカ使いの典型でアクセシビリティ最悪。特に「作品 」のコンテンツはメニューの「作品」クリックするよりも「プロフィール >代表作品 」で見た方がわかりやすいです。
※余談3)
戦没学徒記念館レポートのあるブログです。
・ポリタン・コスモ「戦没学徒記念館_by_丹下健三 」
・あさみ新聞「戦没学徒記念 若人の広場 」
※余談4)
読売新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。
読売新聞「丹下健三さんが死去…世界の建築界をリード 」 日本の建築界をリードし、「世界の丹下」と評価された文化勲章受章者の建築家、丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが、22日午前2時8分、心不全のため東京都港区内の自宅で亡くなった。91歳だった。
告別式は25日正午、文京区関口3の16の15東京カテドラル聖マリア大聖堂。喪主は妻、孝子さん。
1913年、大阪府生まれ。中学まで愛媛県今治市で過ごし、38年に東大工学部建築科を卒業。前川国男建築事務所に勤めた後、東大に戻り、助教授を経て64年に教授となった。
都市計画を専門とし、機能性と美の融合を図る近代建築を推進。広島市の平和記念公園(49年)のコンペで1等に選ばれて注目され、東京都庁第1庁舎(57年)や東京オリンピックの代々木・国立屋内総合競技場(64年)などの設計で世界的な評価を得た。
大阪万博の会場構成(70年)のほか、海外での仕事も多く、ユーゴスラビア、イタリア、中東などの都市計画、復興計画を手がけた。日本建築学会賞(54、55、58年)や英王室建築家協会のロイヤル金賞(65年)など内外の賞を多数受賞。74年に東大を退官して名誉教授になり、79年に文化功労者、80年に文化勲章を受章した。
以後は東京都の新庁舎(91年)、フジサンケイグループ本社ビル(97年)、東京ドームホテル(2000年)などの仕事がある。著書に「東京計画1960」「建築と都市」「一本の鉛筆から」など。
毎日新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。
毎日新聞「訃報:丹下健三さん91歳=建築家 」 東京オリンピックの舞台となった国立代々木競技場や東京都新庁舎など、戦後の代表的建築多数の設計を手がけ、日本建築史に巨大な足跡を残した建築家で文化勲章受章者の丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが22日午前2時8分、心不全のため東京都港区の自宅で死去した。91歳だった。葬儀は25日正午、文京区関口3の16の15の東京カテドラル聖マリア大聖堂。自宅住所の詳細は公表しない。連絡先は新宿区大京町24の丹下都市建築設計(03・3357・1888)。喪主は妻孝子(たかこ)さん。
大阪府出身。高校時代、ル・コルビュジェに傾倒し建築家を志した。1942年の大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選するなど、早くから頭角を現した。東大建築学科助教授を経て、64〜74年、都市工学科教授を務める一方、61年、丹下健三都市建築設計研究所を開設した。
この間、49年の広島市平和記念公園及び記念館の設計競技で1等入選。また、丸の内の旧東京都庁舎や愛媛県民館、香川県庁舎など公共建築を次々と手がけ、建築界に大きな地歩を築いた。
その存在を一躍国内外に知らせたのは、ユニークな曲線の屋根で、東京オリンピックのシンボルともなった64年の国立代々木競技場。つり構造が生み出した巨大な内部空間は、開かれた都市像の象徴とも評された。
以後、国家的プロジェクトの中心的担い手となり、70年の大阪万博では基幹施設プロデューサーとして、お祭り広場を設計。海外の都市再開発にかかわる一方、東京都の新都庁舎の指名競技設計にも1等入選。91年にオープンした同庁舎はスケールの大きさと壮麗なデザインで話題を集め、新宿新都心でも際立った建築となった。
79年、文化功労者。80年、文化勲章を受章。東大時代は丹下研究室から磯崎新、黒川紀章、槙文彦ら世界的な建築家を輩出するなど、後進の育成にも大きく寄与した。3冊の作品集や自伝「一本の鉛筆から」の他、「日本建築の原形」「人間と建築」など著書多数。
◇建築や都市設計が社会発展とともにあった時代の最後の巨匠
日本のモダニズム建築をリードした丹下健三さんが22日、亡くなった。広島平和記念公園、東京オリンピックの記念碑的建造物・国立代々木競技場、東京都庁舎。戦後日本の各時代を象徴し、人々の記憶に残る名建築を手がけてきた人だけに、その死はまさに巨星落つの感を与えずにはいない。
戦時下の東大大学院時代、日本の大きな設計競技で3年連続1等を獲得。建築界の鬼才として、すでにその名は広く知れ渡っていた。
戦後の都市復興計画に際し、広島担当を強く望んだのは、自分が高校時代を過ごすとともに、そこが両親の最後の地でもあったからだろう。
広島市の仕事が戦後復興のシンボルとすれば、60年代の高度成長期の記念碑は、オリンピック功績賞を受けた国立代々木競技場にほかならない。丹下さんは従来の柱りょう構造をやめ、「大工さんがヒモをつるして屋根のこう配を決める」ように、スチールの張力によるつり屋根構造を採用。多数の観客が柱に邪魔されず、流れるように移動できる豊かな空間を生み出すのに成功したのである。
丹下さんはその後も、世界建築界の巨匠として名声を博していくが、社会的な話題性という点で他を圧するのは、91年に完工した新宿の東京都庁舎だろう。総工費が1500億円以上にふくれ上がり、デザインの豪華さが際立つ外観も手伝って、当時は「バブルの塔」などの批判にさらされもした。
しかし、丹下さんは新都庁舎を「自治のシンボル」と言い切り、「批判するのは建築の贅(ぜい)を知らない人」と、最後まで動じなかった。その意味で丹下さんは、建築や都市の設計が社会の発展とともにあった時代を代表する、最後の巨匠だったのかもしれない。もしも丹下さんがなお健在であったなら、あらゆる発展神話が崩壊した現代の建築や都市のありようについて、どんなビジョンを差し出してくれただろうか。【三田晴夫】
■建築家、磯崎新さんの話──日本代表する仕事
日本で初めて近代建築を体現した建築家といえる。丹下さんの出現は20世紀後半の日本の建築を方向づけた。戦後、70年代前半までの時期に最も活躍し、広島平和記念公園や代々木体育館、大阪万博など、国家的なプロジェクトで中心的役割を果たした。戦後日本の成長とともに歩み、かつ日本を代表する仕事をした。巡り合わせもあるが、まれに見る建築家であり、それに値する実力を持っていた。
70年代以降、日本で国家的スケールのイベントが姿を消すに従い世界に場所を移し、そこでも中東諸国の国家的な建築物を手掛けた。突然の知らせを受け、時代の一つの大きな区切りを感じた。
■藤森照信・東大教授(建築史)の話──戦後史そのもの
日本人が思っている以上に世界的な建築家で、戦後日本が誇る造船や橋りょうの技術を使った代々木の競技場は世界に広く知られている。先端技術を駆使しながら日本の伝統的な美意識を取り入れた点でも高度な建築物だ。日本で一般大衆に名前を知られた最初の建築家だろう。広島の平和記念公園、東京五輪、大阪万博など、その足跡は日本の戦後史そのものといえる。
■建築家、東大名誉教授、安藤忠雄さんの話──大きな刺激受けた
世界中の建築家が、とりわけ広島の平和記念公園、香川県庁舎、代々木体育館に大きな刺激を受けたと思う。私たち後に続く建築家の心の中に、永遠に先生は生き続ける。
■建築史家、東大教授、鈴木博之さんの話──日本のモダニズム建築の父
日本の近代建築を真の意味で国際的にした巨人だ。先生に続く建築家が国際的に活躍する、まさにその下地を作った。その意味で、日本のモダニズム建築の父と言っていい。
◆主な作品・業績一覧◆
広島平和記念公園(広島市)1950年
香川県庁舎(高松市)58年
国立代々木競技場<代々木体育館>(東京都渋谷区)64年
日本万国博覧会マスタープラン(大阪府)70年
草月会館(東京都港区)77年
サウジアラビア国家宮殿(サウジアラビア・ジッダ)82年
赤坂プリンスホテル(東京都千代田区)82年
アラビアンガルフ大学(バーレーン・マナマ)88年
パリ・イタリア広場<グラン・テクラン>(フランス・パリ)91年東京都新都庁舎(新宿区)91年
フジテレビ本社ビル(東京都港区)96年
※余談5)
大阪万博での丹下氏は岡本太郎に引け劣らぬ原動力となった立役者のうちの一人だった。おそらく愛知万博直前の死にそうした因縁を持ち出す記事が多発されるだろうが、それはちょっと丹下氏には失礼では?と思ってしまうのは愛知万博をよく知らないから言えることなのか? どーなんでしょ?
愛・地球博 (^^;)
※余談6)
BLOG×PROCESS5「世界旅行 Vol.11 丹下 健三 」に Google Satellite による代々木国立屋内総合競技場の映像が掲載されてます。一般に建築家は模型でモノを考えてるだろうからこうした俯瞰イメージは思いっきり想定内なんだろうけど、ビジターとしてこういう視点に立つとなかなか刺激的なものです。
そして最後にはなりましたが、丹下氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。拝
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2005年03月20日 (日)
ノアノアさんが奮闘続けてられる「どこと建てるべきかシリーズ (いや、これが朝妻さんも旋毛曲げちゃうくらいに《つづく》続きなんですが、teacup のブログって本文スペースの横幅狭いもんで、その方が見せ方としてはビジターに優しい気もします。ただ、トラックバックしようとするとどれ選ぶかで迷いますが)」のエントリー。
ノアノアさんの場合、私のように端から建築家じゃないと〜というのではなく、順繰りにすべてを体験された上で(契約したハウスメーカーを解約もされているらしい)、ハウスメーカー、建築家、工務店それぞれの立場に立たれて見られていて興味深い。特に建築家を「擁護すべき立場なのでは」という視点に立たれたのは、やはりまず何よりも家づくりが「成功(朝妻さんが使う言葉の意味において)」だったことを示しているように思う。それと同時にそうした視点に立たれたからこそ、家づくりが終わったあともこうしてブログで意欲的に「家」のことについて、それも「自分の家」自慢を超越したところで書き続けられているのではないだろうか。
よってこの件に関するリアルな観点からの議論はノアノアさんにこのままお任せしてしまおうと思うが(コメント欄のバトルも決して掲示板等にありがちな貧しいバトルに終わってないのでお見逃しなく)、私の方ではある種冗談レベルに話を落として、もう少し遠く離れたところからこの問題について考えてみたい。コメント欄ではノアノアさんでさえ「現実離れした理想論」と言われてしまっているが、私の方はもう最初から積極的に現実離れしたところに話に持って行くつもりである。
まず、ノアノアさんがどこと建てるかで出されていた選択肢が「ハウスメーカー」か「建築家」かなのであるが、私はこれに以下の選択肢を付け加えることにする。
・ハウスメーカー
・建築家
・工務店企画
・施主企画工務店持込
・建築プロデューサー
・セルフビルド
・中古物件リノベーション
・マンション
・賃貸
・家なし
他にも考えればいろいろ出てくるだろうが、あまり書きすぎてもわかりづらくなるだろうからこの辺で止めておく。で、これらを横の軸としたとき、そこに縦の軸として家族内の関係力学という視点を紛れ込ますとこれらの選択肢がどのように瓦解していくか?──それが本エントリーのテーマである。
ここで少し具体的な話に戻すと私の家でも実際計画を進めている最中、あるいは終えてしばらく経った現在にあっても、家族各人でどの選択肢が向いていたかはまるで異なるように思えるものだった。それが一つの選択肢に絞れてしまえたのは、当然家族内の力関係があるからに他ならない(我が家では名義上の筆頭施主である私と実質上の仕切人である母による判断がその主を占めた)。
もちろん世の中には家族皆が大枠のレベルで同じ方向を向いた幸せな家も存在するのだろうが、現実的には様々な現代病が「事件」として浮上するこの時代、そうした幸せな形自体が稀少価値となっている気がするというのは強ち穿った見方とも言えないだろう。乱暴に言ってしまえば、家づくりという現場はすでにそれをやるかやらぬかの時点からして家族内での「お仕着せ」というものが始まっているのだ。
ただ、私はそのことを必ずしも悪いことだとは思っていない。多かれ少なかれ何らかのプロジェクトを始める際にはそうした上下関係は発生するし、また上下関係があった方が事の進行をスムーズにさせることの方が多いからだ(そこをスローでやれたらそれはそれで素晴らしい話なんだろうけど)。ただ、ここで私が言っておきたいのは、仕切る立場に立った者は常に仕切られてる側の立場を振り返って計画を進めるべきではないか?ということだ。もちろん自分の趣味で飾られた家をとことん追求したい気持ちもわかるが、世の中、大概に置いて「他人の趣味」というのはウザイものだったりするのである。たまたまさきほど rattlehead さんの「今日のかまける 」にコメントしたばかりだが、作家の島田雅彦氏が自邸公開住宅論『衣食足りて、住にかまける 』において
客人には緊張感を楽しんでもらう(P.50) 他人の家に招かれた時の居心地の悪さは何に由来するか? その家が家主の趣味で調度や置物などが統一されていると、何か気詰まりに感じることがある。住人にとっては自分の趣味で統一した部屋の居心地は最高だろうが、客の方はこの趣味を押しつけられるわけで、居心地がいいとはとても思えない。
案外、殺風景な家の方こそ居心地がいいものである。
と書かれているのと話はリンクする。同じ家族であってもそれは個人の集合体であるのだから、本質的にはこの問題が残っていることを忘れてはならない。
が、ここで一見反動的なようだが、個人の欲望を最大限追求するのに最適な方法として「家なし」を挙げたい。ホームレスというと悪い印象を抱くかもしれないが、私は現実的に現時代にあっては豊かな「家なし」生活を送ることは可能と見ている。
これは先日上京したとき、建築家の豊田さんとも話したことなのだが、無線 LAN が駅や大手ビル、またファミレスなどで導入されるようになってきた現在、ノートPC一つを洒落たリュックか何かに入れて、プジョーあたりの高級折りたたみ自転車を乗り回し、企業では有能プログラマーとして重宝される「家なし」族が現れても一向におかしくない時代が来ていると思う。彼らの寝場所はもちろんホテルであってもいいし、会社、友人宅、カラオケルーム、マンガ喫茶、サウナ等々、探せば幾らでもあるので、その日の気分次第で寝泊まりするところを選べるのだ。調子が悪ければ病院で寝るってことだってできるだろう。そして趣味の世界はどこかに簡易スペースを借りてそこを趣味のものだけで満たすってこともできるだろうが、それ以前に現在はノートPC一つあればかなりの趣味領域をその液晶モニタの中だけで満喫できる。この話は一見極端なようだが、私はこうした輩がこの先溢れ出てくるのがもう目と鼻の先のように思えてならない。
なお、今、私は敢えてファッショナブルに優雅な「家なし」ライフの側面を取り上げたが、実は私の友人に「居候ライフ 」というプロジェクトを立てて、もう10年近くずーっと他人の家を渡り歩く居候生活を続けている小川てつオという存在がいる。彼の生き方は上記のファッショナブルライフとは程遠いが、おそらく彼の毎日はそうしたレベルとも比較にならないくらい色んなレベルにおいて豊かなもののはずである(その豊かさにはもちろん負の経験も含まれている)。一度は哲学的に考えてみるべき事例として紹介しておきたい。あるいは彼を居候させてやってください♪
さて、すでに話がだいぶ長くなってしまったので、ここではもう一つの選択肢のみを取り上げて終わりにしてしまうことにする(他のものはすでに各所で語られているので、私が取り上げるまでもないでしょう)。それは以前に「岡土建と無印良品の家 」のエントリーでも紹介した、岡啓輔氏が自邸で取り組んでいるセルフビルドである。実は同エントリー内でも触れた岡氏が藤森照信特別賞を受賞した「SDレビュー2003 」では岡氏以外のノミネート作品においてもセルフビルドの傾向は強くあったのである。
セルフビルドといえば、garaika さんのお父様が建てられたログハウス も同様にセルフビルドによる代物だが、この家が家族総出で作られたとされているように、セルフビルドで臨む場合、これはもう「家族」という範疇に留まらず親戚から友人、ご近所さんまで、それこそまわりの仲間たちと家族的な関係を結んで、目的達成へと向かって行かねばならないのは自明のことだろう。セルフビルドとはその名称に反して、一見個的でありながら、実は最も公的な取り組みとならざるを得ないものなのだ。まあ、昔の家づくりというものが本来はそういうもんだったと思うのだが。。
以上、こうしてここでは2つの極端な事例を取り上げてみたわけだが、もちろん私を含む多くの一般人はその間でどういう選択肢が自分たちに向いているのかを考えて行くこととなる。だが、必ず訪れる行き詰まりのときにこうした極端な視点に今一度立ち返ってみると案外それまで考えもしなかった見え方が出てくるかもしれないということは頭の片隅に入れておいてもよいのではないだろうか。机上の空論は全く役に立たないものではないはずである。というか、これまでも匂わせてきたように、机上の空論の方が現実に肉薄しつつある畏るべき現在なのだ。
ちなみにこれら極論のみならず、すべての方向性の間に立ってくれそうな存在として「建築プロデューサー」なる新職種が生まれ始めている。どうにも立ち行かなくなっているのであれば、一度相談してみるというのも手かもしれない。おそらく精神分析医のようにこんがらがってるところを一つ一つ繙いて行ってくれることだろう。メンタルヘルスを恥じらうような時代でもないわけだし、、と最後に微妙に営業モード(笑)
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2005年02月28日 (月)
最近何かとコメントやトラックバックでお世話になってる業界唯一完全独立系建築プロデューサーの朝妻義征 氏から氏のプロデューサー暦10年の集大成!! という著書『家づくりは、はじめてですか? 』を送っていただいた。ここ最近ずっと仕事で忙しくしてるもので、リクエストしておきながらすぐ読み掛かれるような状況ではなかったはずなのだが、食事中に数ページを捲ってしまったのがまずかった。朝妻さんを思わせるジンという怪しい男に誘われて、ついそのまま最後まで驀進。ま、精神衛生的にもこうしたものが手許に読まれぬままあっては仕事にも身が入らなかったろうからやむを得ない(スミマセン、クライアント様)のだが、いずれにせよ家づくりした者が一旦読み始めたら絶対最後まで読まずにはいられないだろう本だった。
「家づくりの迷路に迷い込んだ30代の主婦の前に『家づくり成功ツアーのガイド』と名乗る変な妖精が突然現れた。彼女は無事に迷路の出口を見つけることができるのか?」と帯にもあるように話はファンタジックな物語仕立てで進むのだが、何だか最後までずっと「ふむふむ」「ふむふむ」と頷きながら読んでいたような気がする。ネタバレになるのであまりディテールには踏み込まないでおくが、ここには家作りを通して学べた思考展開がファンタジーとしてはかなり胡散臭い(だからこそリアルで面白いのだが)やりとりの中でじっくりと常に後ろを振り返りながら再現されていく。
で、ここで重要なのがこの「じっくりと常に後ろを振り返りながら」という点だろう。家づくりにおいては自分を含む家族の生活・趣味・嗜好から家づくりという行為そのものに対してまで常にそれをゼロから洗い直しとことん見つめ直すことが求められるが、それらは「じっくりと常に後ろを振り返りながら」やっていく以外に方法はない。というか、それを端折ろうとするのなら何もわざわざ建築家と家づくりする必要もないのだ。ある種、新ジャンルとも言えそうな胡散臭いオヤジファンタジーという形式が採用されたのも、この「じっくりと常に後ろを振り返りながら」を何とか表現のレベルに落としていくための手法だったのではないだろうか。
と以上は家づくりを終えた施主視線による雑感。
が、他方ではこの本を読みながら、もし家づくりを始める前の施主が読んだらどんな印象を持つのだろうか?ということも考えていた。それについては家づくり前に戻れぬ私にはもはや想像でしかないのだが、ひょっとすると「じっくりと常に後ろを振り返りながら」が仇となる可能性もなくはないかも?とも思えてしまった。家づくりをこれから始めようとしている多くの施主は手っ取り早く家づくり成功の秘訣だけ教えてくれる本を求めているような気がするからだ。
とすると、これは家づくり完了組の施主が「とにかく騙されたと思って読んでみぃ!」と各所で積極的に推薦していくべきではなかろうか?(朝妻さん、失礼な物言いでスミマセン) ノアノアさんのエントリー「施主適齢期 」コメント欄で書き込んだ「施主連合で施主必読書50」ってのも結構マジで考えたい企画なのである。
それと最後に余計なツッコミを一つ。
本を書棚に収めようとしたときに気づいたんですが、朝妻さん、なぜに背表紙を白紙(+赤)にされちゃったのでしょう? 規格外れの本って何だかんだ最初は目立っても後々始末に負えなくなってくるものですが、何も地味な方向性で規格外れなことされなくても....(^^;)
□◇
朝妻本に捧げるレビューが施主ブログで続々エントリーされてるので以下リンク一覧。
著者本人による自著本についてのエントリー一覧。
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2005年02月22日 (火)
「住宅建築ネットワーク 」のコメントスペースでは施主と設計者の「恋愛結婚」という言葉が出て来たが、結婚適齢期という言葉があるように施主が家を建てる適齢期というものはあるのだろうか。今回は祖父のケースを引き合いに出して考えてみたい。
私の祖父は自邸=三鷹金猊居を29歳で建てている。
身内贔屓であることを承知で言うならば、あらゆる意味において早熟だった私の祖父は自分の家を建てるということにあっても、自ら実施図面 まで引いて大工を指示する辣腕振りを発揮していた。当時祖父の本職は日本画家だったが、工芸や建築への造詣も深く、日本画での繊細な描写 を得意とする祖父にとっては建築図面を精緻に描くことはお茶の子さいさいだったにちがいない。何せ残された図面のコピーを見た私の知り合いの建築史家もぶったまげてたくらいだから。
しかし、そんな早熟多才な祖父が私の目から見て決して満足な一生を送れなかったように思える理由の一つにこの三鷹金猊居の存在があるような気がしてならない。1997年10月に祖父の遺作展(※1) を企画した私はその挨拶文で「不遇」という言葉を使ったが、今回の家作りという経験はその言葉の採用に些かの疑問を抱くものとなった。私は9歳のときに祖父を亡くして以降、母方の身内からは事あるごとに祖父は無念を残したまま死んでしまった、時代が悪かったという話を聞かされてきたが、果たしてその話を鵜呑みにしていて良いのだろうかと思い始めたのである。
「不遇」という言葉には運や巡り合わせといった自力ではどうにもならない不可抗力が働いてしまったからこそ陥ってしまった不幸な境遇といったニュアンスがある。確かに祖父の場合は「時代が悪かった」という言葉が示す通り、人生これからというときに太平洋戦争を迎え、また両親に弟の戦死と相次ぐ身内の不幸にも翻弄された──そんな話を聞かされれば迷うことなく「不遇」という言葉をあてがいたくなってしまうものだが、どうだろう? もし祖父がそうした人生の分岐点ともいうべき時期に自身の家を構えていなかったとしたら? 家作りという大事業に身を投じることなく画業に専念していたとしたら?──もちろんこの疑問に答えを出すことはできない。だが、祖父の履歴書は自邸の完成以前以後であまりにも歴然とその明暗が分かれているのである。即ちそれは祖父が人生の岐路において致命的な選択ミスをしていたのではないか?(つまりおしなべて「不遇」とは言い切れないのではないか?)ということだ。
ここで結論を出す前に祖父が家を建てた時期のことを再検証しておきたい。
三鷹金猊居は資料に拠れば1939(昭和14)年、即ち日独伊三国同盟が成立する前年、第二次世界大戦が勃発せんというときに建てられている。その2年前の27歳で祖父は結婚しているので、年齢的には早いような気もするが、結婚を機に一家の主として居を構えたくなったというのは当時においても自然な流れと言えるだろう。
だが、ここで当時の時代背景の方に目を傾けると、何て不安定な時期にそれも東京の三鷹という充分戦火の及びそうな地域に家を建ててしまったのか?という声が聞こえてきそうである。だが、それは歴史を後から見た者の視点であり、実は北朝鮮のテポドンがいつ飛んで来るか知れぬのにそのことにさほどリアリティを持てずにいる現在の我々と似たような状況なのかもしれない。つまり築造当時、東京が戦場になることなど多くの国民は考えもしなかったのではないか。とすれば、その時代性において祖父が家を建てる時期を見誤ったとは一概には言いづらくなってくる。
むしろ私が疑いを掛けたいのは当時の祖父の内面の方にある。さきほど私は結婚→新築を自然な流れとしたが、それはあくまで当時にあって完全に自立した一般成人のことを差しているのであって、祖父にもそれが該当するとは実は考えていない。家作りの経緯については長女である母でさえ家が完成して5年後に生まれているので、例えばどのような資金繰りが行われたのかとかいう実情を子供心に見ることもできなければ、ちゃんとした話としても聞かされてもいない。だから想像でしかモノが言えないのだが、少なくとも私の目から見て、日本画家だった祖父が自力で家を建てたとは到底思えないのである。ましてや東京という土地でありながら広大な敷地に精巧極まる建具意匠と、とても標準的な家のスケールでは収まり切らぬ、言ってしまえば屋敷に近い家を建ててしまうことが出来たのには、祖父母両実家およびその周辺親族の財力(援助)あっての話と思わざるを得ない。
これも推測に過ぎないのだが、おそらく祖父は祖母と結婚したことで、その虚栄心から三鷹金猊居をあのような若さで建ててしまったのではないか?──それが私が今回の家作りを通して辿り着いた祖父の「不遇」という境遇に対する新たな見方であった。即ち祖父は不遇な境遇から自分の人生を貧しくしたのではなく、自らの虚栄心によって人生のバッドカードを引いてしまったのではないか?ということだ。それは何だかんだ言いつつ30代前半で自分がすぐに住むという訳ではないものの、施主責任者として2年掛かりで家作りに没頭していた私自身にも微妙に重なっている。
少なくとも祖父は自分がアーティストだという自覚で生きていこうとする限り、そんな歳で家を持つ必要などまったくなかったはずだ。大作を描くためのアトリエが欲しかったということもあるのかもしれないが、まともなアトリエを持たずに大成した画家など幾らでもいる。むしろ画家と貧乏はいつの時代も背中合わせのものであり、アトリエ持つのも家を構えるのも、それらは本人の納得行く成果が得られてからでも遅くはなかったのではないだろうか。良くも悪くも家を建てるということはその人間の自由を束縛するものなのだから。
*
以上、これはほんの一握りしかいないアーティストという職種の特殊事例とも言えるが、自分の家を建てる時期というものが人生に及ぼす影響という意味では、どんな職種の人間にとってもそのタイミング(適齢期)の重要性は変わらないだろう。
住宅ローンの金利が変わるとか、住宅減税、消費税といった類の利率が変わるといったことから住宅購入を急かせようとする業者はたくさんおり、漠然と家を建てたいと思っている者にとっては仮に1%でも額が額だけについ心を揺さぶられがちになるのはやむを得ない心情だろう(言うまでもなく営業担当者はそこを突いてくる)。実際、我が家でも税金控除を目当てに最初の建築家に設計期間の短縮を迫ったことはあった(まあ、最初がのろのろしすぎてたとも言えるのだけど)。だが、そうした焦りから来る切迫は失敗に結びつきやすいものであり、事実それによる失敗を経験した現在、まあ、自分自身が今後自分のために家を建てるということは全く考えられないけど、もしそれがあるとするならば、それは自分を含めた家族が家を持つということに当たって完全に機が熟したと感じられるようになってからで充分なような気はしている。タイミングを誤った人生はなかなか取り返しが利かないが、利息分のお金というものは節約しながら働けば何とかなるものである。住環境を半ばゼロから再整備するに等しい家作りは、社会における自身の力量がおおよそ見え始めるだろう(それは自ずと自身の晩年が朧気ながら見渡せるようになるときであろう)人生の折り返し地点あたりがその適齢期ではないか?というのが私の現時点での持論である。
*
最後にもう一度祖父の話に戻るが、私の中では今回こうした結論を出しておきながら、他方で祖父は画業で満足な結果が残せなくても、実は愛する妻との暮らしを心ゆくまで楽しんでおり、まわりが言うほどには不幸な人生でもなかったのではないか?とも考えていることを追記しておきたい。まあ、それを言ってしまうとここまで書いてきた話がすべて身も蓋もなくなってしまうのだが、ある種の諦めの境地の上に成立する(余生?)しかしながら幸せな生活ってどうなんだろう?ってことを34歳の人間が言うべきじゃないんだろうけど、私もまたすでに家を建ててしまってるだけに自らに引き寄せて考えたくなったりもするのだ(汗)
祖父の遺作展で作成したリーフレットには、晩年の祖父が祖母に宛てて書いた手紙が掲載されている。もちろん祖父の許可なんてものはある訳なく、というよりもその過激な内容のため、身内の検閲(顰蹙)を半ば無視する形で私が強引に載せてしまったのだが、その手紙を読んでいると人生の敗北を語りながらもどう見ても不幸というよりは幸福にしか見えない夫婦像が浮かび上がってくるのである。
どこかにテキストデータは残ってるはずなので、見つけたらここでもアップしちゃおっかな〜と(笑)
□◇
※1)「丸井金猊とその周辺の人たち」展 ── ごあいさつ 昭和初期の社会的混乱期に日本画家としてスタートを切った不遇の芸術家、丸井金猊。この展覧会は、没後20年になろうとする金猊のほとんど知られることのなかった作品を、初めて公に公開しようとする金猊の初個展であり、と同時に遺作展です。
活動期から60年以上の年月が経ち、あらゆる情報が風化/混濁化しているため、大作屏風2点を含む軸・額・オブジェ・習作など60点あまりの残された作品(と思われるもの)は、ある程度の時代区分を設けるだけで、こちらの趣意による特別な選定をできる限り避けて展示することにしました。
他方、薄れゆく金猊の情報を現時点で少しでも確保しておくために、金猊とゆかりのある作家、あるいは友人、教え子、親族らに本展に寄せて出品、もしくはメッセージをお願いし、金猊の情報に少しでも多く触れられるよう工夫をしてみました。作品という饒舌/寡黙な物質とはまた別の側面で、作家の肖像に親しんでいただけたらと思っております。
最後になりましたが、この展覧会実現のため貴重な作品の貸出しをご承諾下さいました所蔵家の皆様、ならびに関係各位に深い感謝の念を表します。また本展の軸・屏風のほとんどの表装を手掛けて下さいました牛田商事【飛高堂】様には、搬出入から企画の相談まで格別のご協力を賜り、心から御礼申し上げます。
1997年10月 主催者
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2005年02月11日 (金)
社会学者の宮台真司氏が TEPCOインターカレッジデザイン選手権 という公開審査会の司会をされていたらしく、自身のブログ でも「第二回 TEPCO インターカレッジデザイン選手権を終えて 」というエントリーで手短かにその模様を伝えている。
私自身はその審査会自体、宮台氏のブログで知ったくらいなのでここで何も触れられることはないが、宮台氏がまとめられた記事には短いながら建築関係者のみならず施主にとっても気になるテーマが各所に散りばめられているので、少しここに引用しながらコメントしてみたい。尚、引用してるので余計な解説は省略する。
□◇
■「コミュニケーションを触媒する住宅」というお題を出した。住宅から街づくりまで、「何を設計したのか」の実質は、見栄えになく、不可視のコミュニケーションにある。
■触媒は、無いものを作り出すのでなく、既存の化学反応の生起確率を上げるもの。「住宅に現にどんなコミュニケーションが存在するか」の観察を、僕なりに要求したつもりだ。
「住宅に現にどんなコミュニケーションが存在するか」の観察を施主家族が手っ取り早く行える手段として、それまで住んでいた家の間取りを描いてみるという方法がある。そのことに私は最初の建築家たちとの間で行き詰まってどうにも立ち行かなくなり、自分で図面を書くという禁を犯したときに初めて気づいた。自分の書いた図面には局所局所で構造的に昔の家を模したところが不思議と現れてくるのである。
うちの家族は決して円満な家庭と言えるものではない。というか、これまでも幾度か触れてきたように問題の最も多いのが両親の関係である。その両親は前の三鷹金猊居では父が一人ハナレで暮らすという、ほとんど敷地内別居と言ってよい状況だった。建築家にはそうした状況も踏まえた上で基本設計のプランニングを進めてもらっていたのだが、実際そこで伝達されるのは「両親が仲が悪くて敷地内別居生活」という情報までで、そこでどんな生活動線が描かれていたかというレベルにまでは話は及んでいない。
例えば母は洗濯物をハナレに住む父の部屋の前で干していて、実は視線上無意識裡に互いの存在を確認している時間があったなんて話は、ただ、施主が自分たちの希望案件を言葉で列挙していくだけではそう簡単には出て来ない、しかしながらこの決して円満とは言えない家族にとってはこうした些事でも「コミュニケーションを触媒する」一つの有効な手掛かりとなるはずだ。そして、こうした話は頭でアレコレ言うよりも大概において手を動かして具体的なオブジェクトをなぞってみたりするうちに思い出されるものである。その際に注意すべきは単にこの部屋は広くてこの部屋は狭いということよりも部屋と部屋がどう接続していたか、あるいは何によって切断されていたかということを注意深く見つめ話し合うと良いだろう。長く住んでいた家の間取りには必ずその家の暮らしの文法みたいなものが凝縮されているはずである。
■第一に、透明に見通せることを「コミュニケーションの触媒」だと勘違いする作品が多過ぎた。それではコミュニケーションに必要な最低限の感情的安全が得られないだろう。
こうした提案が多く出てくるというのは、以前に「岡土建と無印良品の家 」のエントリーでも触れた「開放的な一室空間」志向が世間的にブームとして囃され過ぎてることから来ていると思う。おそらく「コミュニケーションの触媒」というテーマ設定がなくともそうしたプランが出て来てしまうのではあるまいか。
ただ、こうした方向性は同エントリーでも記したようになかなか侮れないところもある。あらゆる面での効率化と零度(透明性)への志向というものは案外一致するところが多いからだ。そして、そこに閉じられた領域とはいえ「可変性」というオプションが加わった状態というのは、言ってしまえば Movable Type のテンプレートをちょこっと弄ればサイト全体の雰囲気を一気に変えられるといったようなもので、私自身もその手軽さについ安住してしまっているのだ。とにかく侮れない。
■第二に、家や町が公私と上下の組合せから成り立つことを見抜いてほしい。洞窟の奥の見えにくい所が私。出口近くが公。私的な場に居て良いのは、上(強者)か下(弱者)か。
この問いは如何にも社会学者ならではの視点と言えそうだけど、裏を返せば私たちは家作りにおいて既存の(困った)上下関係を組み替えるチャンスを持っているとも言える。これも以前に住んでいた家の間取りを自分の手で書き出してみることから始めると面白い発見があるかもしれない。
■第三に、時間/空間的に視角が限定され過ぎだ。時間的には「今」を相対化し、住居史に知恵を探りたい。空間的には「ここ」を相対化し、立地場所に想像力を働かせたい。
■建築は、見えるものを通じて見えないもの(コミュニケーション)を制御する。それを徹底して思考することが建築家に要求され、それを批判することが社会学者に要求される。
「今ここ」を相対化する(できる)のが学者の仕事。だが、建築家にそうした学者の視点は必要なのか私にはよくわからない。というより、施主の我が儘な立場からすれば依頼した建築家には確定した土地とその周辺(人まで含めた)、そして計画を進めている現在の取り組みから家の経年変化を見通したところのメンテまでを最大限見つめられる視野を持っていて欲しいと思ってしまう。実際、建築家に「哲学」を感じたのはそうしたものへの視座を見せられたときだった。そういう意味では時間/空間の固有性に囚われず行われるコンテストの類は何の哲学・技能が問われているのか今イチ謎である。
ところで施主に要求されているのは何か?
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2005年01月29日 (土)
garaikaさんの「施主予備軍のBLOG活用──依頼先探しにどうか 」のコメントスペースで再び施主連に建築プロデューサーの朝妻さん も交えて話が盛り上がっている。
「ブログ」というメディアを通してこれから家を建てようとしている施主と建築家が結びつくような、そんな新たなコミュニティ(ネットワーク)は作れないものか?というわけだが、おそらくこの発想はこれまであったような個人の「ホームページ」ではなく「ブログ」だからこそ、そこまで話を発展させて考えられるようになった性質のものであるような気がしてならない。もちろんこれまでにも建築家と施主を結びつけるようなサイトは幾つか立ち上がっていたが、端から見ているとどうも他人行儀というか、言ってしまえばお見合いだけして結婚してしまうようなシステムのもとに作られているように見えてしまうのだ。もちろん見合い結婚だって成功の例はいくらでもあるだろうが、やはりそれは運任せの要素が強い。無論10年付き合ってみたからといって、相手のことは何でもお見通しというほど「人間」は簡単ではないが、それは結婚後も同様の話である。
話が脱線したが、要は「ブログ」の存在ってものが見合いより一歩踏み込んだところで相手のことを見つめることができる、そうしたメディアになりつつあるということだ。無論、虚飾で塗り固めたブログもあるだろうが、日々淡々と更新される「ブログ」というメディアは、そのある種強迫的ともいえる反復性によって個人の無意識を露見しやすいものにしていることは疑いない。そしてそうした無意識的繰り返しの中で漠然と見えてくるものこそが「人の個性」というものではないだろうか。それはこれまでのきちんとした、敢えて言うなら個人の趣味の寄せ集めのような「ホームページ」からでは伺い知れなかったところだ。それは建築家の運営する Web サイトにおいても同様で、もちろんこれまでどんな家を建てて来たのかということをチェックできるという意味では重要だが、サイトのデザインや雰囲気ってものはいくらでも外注可能なのだ。それは言ってしまえば、見合いの席で相手の収入や家柄、業績や身長なんかをチェックするようなもんで、一体それで相手の何が知れただろう?という話なワケである。
まあ、しかし、だからといって施主と建築家のブログを結ぶ有効な手段が見つかっているわけではない。そこで私は garaikaさんのところのコメントで、ある意味ではありきたりだが建築家と施主を交えたワークショップを一つのきっかけとして提案したわけだが、こうしたものが、ただ単発で行われるのではなく、個人ブログともリンクしながら自然発生的に醸成していくことが望ましいと考えている。もちろんインターネットを通じて遠くの人とのやりとりが盛んになるのも喜ばしいことだが、住宅建築の場合、やはり何はともあれ「土地」という動かぬ物件があるのである。人と人が、人と土地が直接顔をまみえることほど重要な繋がりはない。
ただ、実をいうと私はあんまり「ワークショップ」という言葉が好きではない。1995年頃から妻の地元で行われていた灰塚アースワークプロジェクトに関わっていたときには画期的な活動だと思っていたが、最近は公共機関などが猫も杓子もワークショップやっておけば問題ないみたいな状勢になってしまっていて、ほとんどお遊戯の延長みたいに見えてしまう場合がある。ちょうどそんな風に疎ましく思い始めていた矢先に「自らが組織したいと思うワークショップの計画案」という課題で計画書を提出する必要が出て来たもんで、ワークショップに対する鬱憤晴らしと言わんばかりに家作りに託けた「ワークショップ計画案」を去年の2月頃に書いていた。とにかくそこでは実践的であることを第一義に考えた起案となっているのだが、rattlehead さんの「今日の素人作図 」のコメントスペースで書いていたこととも内容的に対応している。
そんな訳で長いけど、以下追記欄に全文掲載しておきたい。
□◇
自らが組織したいと思うワークショップの計画案
現在、私の実家は東京の谷中(台東区)にギャラリースペースを併設する新しい家を計画・建設中である。計画は2002年夏から始まり、当初の予定では2003年夏竣工のはずだった。ところが初めに依頼した建築家(私の友人だった)とある段階からうまく行かなくなってしまい、結局辛い決断とはなったがその建築家を解約し、新たに地元で見つけた建築家と再スタートを切ることとなった。幸い新しい建築家とは相性も良く、その後の計画はトントン拍子で進み、来月初旬には上棟式、そして本年夏竣工と完成までの工事日程も概ね固まっている。
こうしてほとんど一年遅れとはなってしまったが、最終的に家族全員納得の行く家ができそうだというところまで辿り着いたという意味では、前建築家との失敗の経緯も含めて、施主としての不満はない。だが、本来クリエイター側の立場にあり、クライアントと相対する仕事をしてきた者としては今回の施主経験は大いに考えさせられるものがあった。
先ほど、私は今度の建築家とは相性が良かったと書いた。それは言い換えれば前建築家とは相性が悪かったということを意味する。もちろん施主として仕事を発注する際にクリエイターの資質、制作志向&嗜好といったものを確認しておくのは当然の心構えだろう。うちの場合は最初それが昔から知る友人であり、彼の独立後第一作となる予定だったから、ある意味で彼の学生時代からの言動や活動内容にかける期待の方が大きく、相性といったものが二の次的になってしまっていたことは否めない。だが、私の中では「相性」というものが仮に多少ズレていたとしても所詮は趣味の相違の問題であり、それらをファンクションで捉えて別のものに置き換える器量があれば乗り越えられるという考えがあった。おそらくその認識は最初に依頼した建築家も共有していたはずだ。
しかし、現実にはその「相性」に負けてしまったのである。
もしこれが住宅建築ではなく、Webサイト構築の話だったならばどうだったろうか? もちろんこの二つのメディアを安易に比較するのは危険である。だが、Webサイト構築の現場にクリエイターとして携わってきた者として言うならば、今回の自分たちほどに厄介なクライアントと出くわしたことはなかった。
無論、Web制作においてもクライアントとの相性の良し悪しはある。だが、Webにはカスタマーズユーザという第三者の存在が非常に大きくあり、もちろん単純な相互妥協による解決も多く存在しうるが、クライアントとクリエイターの相性とは別のレベルで議論の余地が残されている。
ところが、今回施主経験した住宅建築には事実上そうした第三者は存在しない。住宅という性質からも創造の現場は常に閉ざされた中で模索され、そこでの成果は建築家を媒介として工務店をはじめとする各専門ジャンルのエンジニアや職人に伝えられていく。例えば仮に工務店が建築家に批判があったとしても、本来その声は決して施主に届くことはない。詰まるところ、施主は建築家を信じるか否かの選択肢の中だけで次のステップを踏んでいかなければならないし、建築家もまた施主の不信を買ってしまった場合に挽回する術をほとんど持ち得ないのである。
こうした性質を持つ職業として他に医者、弁護士あたりが咄嗟に思いつくが、それらはどれもクライアントのプライバシーに深く関わるという意味において似ているし、ゆえに相互間の「相性」が重要視されるのも謂わずと知れた話だ。
今回、私が住宅建築の施主を経験して痛感したのは、「建築」というクリエーション行為が他のそれとは少し趣を異にしているということと、だが、しかしそれを今後ともに「相性」の問題で片付けてしまっていてよいのか?という問題である。実は私は今回の経験を通して、しかし、この密室で行われる「建築」ほど強力な実践的現場もないと思った。それはおそらく「医療」でも「裁判」でも同様であろう。これらの仕事は最も人間の「生」に根ざしたところで技術力や判断力が求められている。だからこそ、施主もまたとことん自己であるとか家族といったものと真剣に向き合わねばならない。そして、この差し迫った状況というのは実は誰しもに訪れる可能性のあるものだ。
ところが、一般に人はその種の経験に対してほとんどが未知の初心者・素人でしかいられない。家作りにせよ、手術・裁判にせよ、それらには莫大な費用が掛かり、一市民がそう何度も繰り返し経験のできるものではないからである。本来、緊迫した局面にありながら「相性」の問題が半分は運頼みのようになってしまうのも、そうした経験の一回性(振り返る時間的金銭的余裕もない)によるところが大きいのではないか?
そこで提言するのが、クライアントとクリエイターののっぴきならない関係を再現するワークショップである。ここでの第一の目的はクライアントがクライアントであるための訓練だ。また参加者にクリエイターも加わるのであれば、クリエイターもクライアントとしての訓練を積んでみること、反対にクライアントはクリエイターの立場に立ってみるのもよい。
年齢や職業も違えば、趣味・価値観も異なる人たちが集まる市民参加型のワークショップでは参加者たちの対話を成立させるだけでも容易なことではないので、なるべくプログラムは混み入ったものにしないでおいた方が無難だろう。ここでは一つの手順を提示しておくが、やりようはいくらでもある。
参加者たちにクジなどで適当に二人組グループを作らせる。
二人組でジャンケンなどさせ、勝った方にクライアント、負けた方にクリエイターの役割を負わせる。
ここで両者の間で作らせるものは何でもよい。むしろ時間・予算といったことから相互に話し合いを行い、成果物を考えていった方がより実践的だろう。
一日限りのワークショップであれば、成果物を前になぜこのようなものが出来ていったかを両者が説明する講評会。二日あるなら次回は両者の立場を交換する。
長期で行えるワークショップならば、毎回グループの組み合わせを替えて上記プログラムを繰り返し、ある段階から自分と相性の合う相手とトレードが行える仕組みにしても面白いだろう。但しここで一つ必要なルール設定はトレードを行う権限が持てるのはクライアント側ではなくクリエイター側にするということである。クリエイターは自分がそのクライアントと物づくりを進めるに当たって限界を感じたとき、そのクライアントに相応しい代役を見つけてあげることも一つの責任ある仕事と言えないだろうか? それは「相性」問題を否定する考え方ではないが、少なくともそれにぶつかったときに、ただ、運が悪かったで終わらせるのではない一歩進んだ考え方がここでは訓練されることになる。
以上、極めて単純な設定説明しかしなかったが、ワークショップは初期設定の準備をしすぎると、参加者はつかみのところでしらけたり、その後の予想外の展開に対応できなくなってしまうものだ。このワークショップは実践的であることを第一義にその内容を考案したものだが、そもそもこうしたワークショップ設定のフレーム自体も実践的であるべくなければならないだろう。
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2005年01月17日 (月)
たまには閑話休題っていうか思いつきのアホアホ小話。
先ほど見つけた「★けんちく家のホンネ。 」というブログの「建築家ってなんだ?(その壱) 」というエントリーに「建築家」という呼称に対する疑問が書かれていて、これについては garaikaさんところの「「家(か)」の問題 」などでも取り上げられているように建築系ブログではとかく取り上げられやすいテーマである。まあ、既成概念として受け入れるよりは一度は疑ってみる必要のある言葉ではあることには違いない。
と、しかし、ここではその話は横に置いておく。私が「★けんちく家のホンネ。」のブログを見ていて、咄嗟に反応してしまったのは別のところにあるからだ。それは「★けんちく家のホンネ。」のブログ作者が「建築家」という言葉の代用として選んだのがブログタイトルとしても使われている「けんちく家」で、で、たぶんこのサイトがベースフォントを明朝系にしているせいだと思うのだが、なぜだか私は見ているうちに「けんちく家」という明朝書体が朧気に「うんちく家」という風に錯覚して見えて来てしまったのである。
蘊蓄(うんちく)といえば、去年の前半くらいまでくりーむしちゅー の上田晋也の存在などによって空前の蘊蓄ブームが起こっていた訳だが、言うまでもなくその言葉自体はブームの終焉と共に廃れていくものではない。というか、私はその錯覚を遊び心に換えて、ちょっとした言葉遊びに興じてみたくなった。
「うん」と「ん」は発音上ほとんど同音なので、どっちで見立ててもいい。とにかく一度見落とした最初の「け」を「家」という漢字に置き換えて復活させてみるのだ。すると「家(う)んちく家」となる。すなわち「家」に関して「蘊蓄」のある人 ── 家蘊蓄家。う〜む、素晴らしい。上田晋也の蘊蓄ばりにこういう人が現れて、いつでも傍らで何に対してでも蘊蓄を傾けてくれたらどんなに便利なことか!?
だが、私はそのような「家蘊蓄家」など、絶対にあり得ないと考えている。なぜなら建築とは一個人の手には到底負えないほど手広く、雑多な諸事にまで通底している領域にあるものだからだ。そういう意味において私は逆説的なようだが、「建築家」とは自身が永遠にプロフェッショナルとはなり得ないアマチュアであることを絶望的なまでに自覚している人のことを指すのではないか?と考える。
ま、そうは言っても、建築家に何かでしてやられると「うわっ、さすがプロ!」とか思っちゃったりするんですがね(^^;)
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2005年01月16日 (日)
SDレビュー2003 で藤森賞を受賞したセルフビルダー・岡啓輔氏の自邸「蟻鱒鳶ル」(港区三田)。彼からの年賀状でようやく役場申請を出そうとしているところでジキに着工という報せを受け、我が家の野次馬CT氏にもメールでそのことを伝えると彼からの返信でそれとは別に「無印良品の家 」の話が返ってきた。
aki's STOCKTAKING 「無印良品/間取り計画 」のエントリーでも取り上げられていたことから私も無印が家にまで進出し始めた話は知っていたが、すでに三鷹に一棟、実際の施工例があることは知らなかった。また有楽町には「木の家 」モデルハウスなるものもあるらしい。
「住空間 MUJI+INFILL 」のページでは、そのコンセプト として「可変性」「一室空間」「モジュール」という3つのキーワードが使われている。そのベースにあるのが暮らしや住まい方を施主本人が「編集」していくという考え方で、そうした方向性をより明快簡潔に効率よくコストも掛からず且つ自由に展開させられるツールとして、モジュール化(規格寸法に即した)された無印商品による無駄の少ない「インフィル」と一室空間を構成する「スケルトン」がある。と同時に、それら内外で扱われるアイテムが徹底してシンプルであることを追究していることによって、ある一定の洗練されたデザインレベルの維持を可能にするという狙いもあるのだろう。おそらく無印良品にはデザインそのものを徹底してシンプルにすることこそが人間とモノとの関係において一つの究極のカタチ(終局)を作り出すというくらいの野心もあるのではなかろうか。
一方、岡啓輔氏の「蟻鱒鳶ル」である。
これまで踊りをする傍ら、土木作業員→鳶職人→鉄筋工→型枠工→2×4大工→在来大工という実務修行を続けてきた彼が「セルフビルド岡土建」としてその第一作となる自邸「蟻鱒鳶ル ── Ari.Masu.Tonbi.Le(Arimasuton Building)」の建築に取り掛かり始めたのはいつ頃だったか。
冒頭にも書いたように計画途中で藤森照信氏から「生涯かけてつくり続けるよう願って」と特別賞を特別に出してもらって拍車がかかったかどうかは知らないが、いずれにせよこうした愛しむべきユニークな取り組みの計画過程が雑誌メディアで紹介され、しっかり記録として残ったのは喜ばしいことだ。本当言うと途中で止まってしまった岡氏本人による「レッツゴー岡土建!」Webサイトの復活が一番望まれるところだが。。
以前、岡氏が送ってくれた「蟻鱒鳶ル」のプロジェクトプランには次のような詩ともつかぬメッセージが添えられている。
セルフビルドで踊れ!
踊りで学んだ沢山の事を、この建築にそそぎ込む。
着工前に決定しとかなきゃいけない要素を極力へらし、多くを現場で即興的にセルフビルドで拵えてゆく。
デザインは「頭」だけに依らず、からだ全て、そして気分や勘、虫や月、太陽、音楽、サイコロ、友達、多くに依る。
心を開き、広がるイメージを見つめ、現れた「何か」を形に定着させる。
それが連鎖してゆく事によって、徐々に全体の姿が現れてくる。
汗を流し、筋肉軋ませ、全身で集中し、、この過程を楽しみたい。
そう、この作戦の要は「楽しんで作る」だ。
この事が実は最大の難問。簡単じゃない。
「楽しんでいるフリ」は最悪。それは瞬時に暴かれる。
欺瞞なく楽しめれば、出来たモノは自分にとって何より美しく、リアルなモノになる。
そして、人にも伝わる。この事は踊りに教わった。
アリマストンの現場は「楽しんで建築を作る」を学び直す稽古場なのだ。
工法的にも真新しいことに挑もうとしているプランの詳細は今後、工事見学に行った機会などに改めて紹介したいと思うが、このメッセージを読んでいると「無印良品の家」とは別の意味で「究極のカタチ」が見えてくるような気がする。それは無印良品が「究極のシンプル」という云わば無機的な零度(もちろん「何もない」という意味ではなく「ない」ことこそが意味を作り出す)を志向するのとは対極に、過剰なまでに雑多で肉感的な有機性に充ち満ちている。おそらく「蟻鱒鳶ル」ではすべての部材、すべてのインテリア、すべての外観、すべての工程がそれぞれに何某か主張し合い、それに纏わる記憶を住人たちはいつでも導き出すことができるだろう。岡氏は「建築」という行為それ自体で「人生」そのものを「編集」しているはずだ。それもまた一つの「究極のカタチ」と言えないだろうか。以前に彼からもらった手紙にはこんな一文があった。
ちくしょう。つくらず、死ねるか。
尚、このエントリーについてはさらに話を「エロス/タナトス」の対立概念へと飛躍させて、再エントリーの機会を設けたいと考えている。決して「無印良品」という検出率の高いキーワードでアクセス増 を狙おうというものではありません(汗)
以下は本文でリンクされたもの以外でエントリーにあたって参照したサイトである。
「無印良品の家」に関して
・GALLERY−MA : 無印良品の未来 (レポーター:河内一泰)
・SFC Design Systems : MUJI+INFILL 木の家
・NEUTRULE : 木の家 / 無印良品
「蟻鱒鳶ル」に関して
・おがてつ図書館 : 岡画郎
・AKIRA-MANIA : 岡画郎
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2005年01月08日 (土)
garaikaさんのブログ「家づくり、行ったり来たり 」で元旦早々に「施主の心構え 」というエントリーがあった。翌2日から妻の実家に帰省予定だった私はそれにざっと目を通しただけで家を空けたのだが、帰省中もずーっとそのエントリーのことが気になってしょうがなかった。施主であった者ならば、施主でブログのような家作りの記録を Web 上で公開している者ならば、どう考えても見過ごさずにはいられない重たいテーマである。
まず garaikaさんは施主を CEO(最高経営責任者)に喩えるが、私もそのことには同感である。いや、厳密にいえば、私の場合、最初から同じ考え方で臨めていたのではなく、諸々の変遷を経た上でようやくその考えに辿り着いた、言ってしまえば「ヘタレ施主」であった。であるからこそ、そうなってしかるべき失敗を繰り返し、必要以上のお金と時間、それに迷惑を掛けてしまったという事実がここにある。
実際、私の場合、まず自分の立っている立場からして施主としては甘いものなのだ。
まず第一に今回の家を私は自分の稼いだお金(あるいは住宅ローン)で建てていない。母方の祖父母が築いた三鷹の家と土地を、都市計画などの事情によって引き払わざるを得なくなり(この辺の事情も歪んでいるのでまた別の機会にエントリーしたい)、それによって生じたお金で新しく谷中に家を建てただけなのである。もちろん谷中に越して家を建てるにあたっては祖父母の遺志と思われるものを最大限引き継いだつもりで計画はスタートさせたが、それでも現実問題としてやはり身代を切ってないということが危機意識や緊張感の薄さといったものを所々で露呈していた。それは谷中の家にまず当面の間は住まう両親や妹にしても同様で、敢えて言うなら家族の誰もがただ先代からの貰い物を横に転がしていただけなのである。
だが、私個人はこうして概ね2年半近くも掛けてどうにか終えた家作りプロジェクトに関して後悔の念はない。もちろんその感慨は上記の甘さがあるからこそなのかもしれないが、失敗も含めて良い経験だったと思っているし、そうした失敗があったからこそ生まれたカタチや産物を家の随所に見られることを大変喜ばしく思っている。豊田さんとプロジェクトをリスタートさせるときに豊田さんから求められた設計カルテ で私は自分の新居への夢 として「色んな人の顔が見えてくる家」と回答したが、その言葉には解約した前任建築家とのプロセスを活かすばかりか可能ならばそこで生まれたアイデアを実質的なカタチとして残したいという想いがあった。だが、それはそうした想い、意志を持たずとも自ずと表に現れていたようだ。前任建築家たちによって我々は「施主」として成長させてもらっていたのである。
garaikaさんは施主が自ら施工ミスなどについてわざわざブログで書き立てるのは「社長(施主)がプロジェクトメンバーの社員(施工者・建築家)を公衆の面前で、さらしものにしているのに近い行為のように見える」(カッコ内は引用者による)と書かれている。確かに家作りを一大プロジェクトと見立てれば、それは間違いなく愚かな行為と言えよう。ただ、私のブログではこれまでのエントリーを見ればわかるように、そうした愚かさに足を踏み入れてしまっている部分が多分に見つかるだろう。そうした禁を犯してしまうのには、おそらく私のこれまでのミスだらけの人生というものが大きく左右している。「人」という以前にまず「自分」がミスをするのは当たり前で、だが、そうしたミスった状態からどう立ち直るか、どうやり直すか、どう修繕するか、どう克服するか、どうも私個人はそうしたプロセス自体に興味の的が向かってしまうのだ。施工者の技能も如何に完璧なものを最初から作れるかよりも、ミスが生じたときに如何なる対処対応を示すかで問うていた節がある。それらを自身のことまで含めて傍観者的に記録していくということへの欲求に抗うことはなかなかできなかった。
おそらくその傾向は家作りを終えた今後、より深まっていくだろう。それはそろそろ前任建築家との経緯についても触れなければならないと思っていることに加え、家族の問題がこの家作りとどうしても切り離せないからだ。家族というか、すでに亡くなっている祖父母の代からの家族関係の捻れが今回の家作りにも深く影を落としており、それを記述することは私自身の使命のように感じ取られてしまっている。それは社長(施主)一家の闇部を公衆の面前でさらしているだけの行為と捉えられるかもしれないが、そこに「住宅建築と施主」という「家作り」のフィルターを通すことで、単なる暴露話で終わらないようにしたいとは思っている。
garaikaさんや赤瀬川原平氏ともまた違ったあらわれ方にはなるのだろうが、私自身もこの家作りが楽しかったことに変わりはない。それは「blog 開始 」という最初のエントリーで書いていた所信/初心の表明と何ら変わることはなかった。ひょっとすると garaikaさんのエントリーも年が明けて気持ちを新たに書かれた所信表明だったのかもしれないが、このエントリーもそれに倣うものである。ちょっと遅いですが、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
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2005年01月03日 (月)
毎年恒例、義父との初釣りでもうじき灰塚ダム に沈む田総川 (広島県北)に行ってきた。すでにその場所はダム工事で立ち入り禁止区域となっているのだが、工事事務所が正月休みの隙をついて最後の釣りを楽しんできたというわけだ(本年中に試験湛水が施行される)。残念ながら魚が竹藪前の足場の取れないところに集まってしまっていて釣果はあがらなかったが、おそらくそのポイントでは最後の釣りになるだろうからその瞬間を義父 と過ごせてよかったと思う。
ところでその釣りポイントは河原ではないが、光庭 にお誂え向きの石ころはその辺にごろごろ転がっていた。正直、それを恨めしく見つめてしまった心情をここに告白しておきたい。もちろん私はケチくさい男であるから豊田さんが見つけてきてくれたサボ石 が1個1500円で送料が一律5000円であることを高いと思う気持ちがあることも隠す気はない(あ、もちろん、忙しい中、探してくださった豊田さんには感謝!ですが)。だが、そうした金銭的な問題とは離れたところで何かまだ恨めしい気持ちが残っている気がするのである。
「石 求ム! 」でコメントしてくださった garaika さんへのレスで私は尤もらしく「一級河川は国土交通省の管轄で、実際そこに転がる石ころを拾うのは違法にあたる」という豊田さんに言われたことを書いていたが、実際のところ、私の心は石を自ら拾いたい気分で一杯だったのである。というか、私自身の心情としては石を買うことの方が許せない、そんな気分が充満していた。どうもその気分は単なるケチくささとは別のところにあるように思う。
何というか「石ころ」なのである。「石」ではなく「石ころ」と「ころ」が付く。「石ころ」を広辞苑で引くと
いしころ【石塊】小石。いしくれ。
と出て来て、何だかうちの光庭で使ってるサイズの石に使う言葉としては適切でない気もするが、とにかくその辺にころころ転がっている石である。その中から自分の気に入ったものを探し出し、拾ってそれを家の庭に置く。どうもその行為にはそこにそれ以上のことが入り込んできてはいけないような気がしてしまうのだ(運送は致し方ないとして)。ケチな私でも最初から造園業者に頼んでどこぞの石を買ってきてという話であるなら、だいぶ高くつくだろうがお金を支払うことに特にこれといった抵抗はない。とにかく石ころというもんはその辺で拾ってくるもんじゃないのか?という感覚。どうもこれがいつまで経っても抜けないというか、この釣り場でごろごろ転がってる石ころを見ていると、その感覚というのは人が石ころを前にしたときの何か途轍もなくベーシックな感情と繋がっているのではないか?という大袈裟な思いと繋がる。拾って・投げて・置いて・割る──すべてが子供たちの遊びの中に含まれているではないか?
すでに実家からは去年末に購入したサボ石 を矢原さんが石組みされたという報告は受けた。私はまだその様子を確認していないが、ただ、まあ、いずれ私が谷中に住むようになったときには色々なところで拾ってきた石をちょこちょこ加えて行きたい。
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2004年12月18日 (土)
Off Space で「建築士事務所の役割と設計料 」というエントリーがあったのに乗じて、少し「設計料」について書いておきたい(いや、前々から書かなくてはと思っていたことなのだ)。
まずうちの場合、前任建築家のときも初音すまい研究所のときも設計料は工事費の何%という形での請求を受けた。このパターンは Off Space のエントリーを取り上げるまでもなく、建築業界の常識となっている形のようである。が、正直言うと私は本当はこれに「待った」を掛けたかった。もちろん私本人も Web の仕事をするときにギャラの話になると決まって困ることになるのだが、それは建築家もおそらく同じことで、つまりは妥当な見積もりを算出する目安が欲しい訳だ。これが工務店なら建材が幾らで人夫代が幾らでと算盤を弾きやすいが、設計料というのはそういう目に見える算出の材料を持たない。そこで工事費の何%という話が出て来るのだと思う。
だが、この目安というものが計画が進み、工務店に見積もり取る段階になるとじわじわと施主にボディブローのように効いてくる。というのも、大方の計画は工事費予算オーバーというケースの方が多いだろうから、何を削るかと四苦八苦する際にはどうしても設計費も頭を掠める存在となってくるわけだ。
ところがその段階において、実は施主ばかりか建築家の方も奇妙なディレンマに遭遇している。工事費が予算オーバーしたときに、ではもちろん何を削るかの最終決断をするのは施主だが、その工事費を抑えるための具体的算段を練ったり、各種工務店に値切りの直談判をするのは設計事務所の立派な一つの仕事(つまり、そうしたやり取りにおいても設計事務所の能力は問われている)。だが、この仕事に関してはその能力が優れれば優れるほど、自分たちのギャランティを下げる結果をもたらすという矛盾(工事費が下がるわけで)と結びついているのだ。
どうもこの仕組みは納得が行かない。うちの場合、というか、初音すまい研究所の対応に限定した話だが、まあ、豊田さんは相当に苦心工面してくださった。だから、うちもこうして工事を進めることが出来たのだが、それがなければ今頃もまだ路頭に彷徨っていたということだって大袈裟ではなくあり得たかもしれない。だから、正直言って感謝と共に済まない気持ちで一杯である。
だが、それとは反対のことだって考えられ得るのである。つまりはギャラを下げたくないから見積もり調整で努力してくれない建築家だっているはずである。この辺のところはドラマ「白い巨塔 」ではないが、医者から「手術するしかないのです」と言われてしまったら手術せざるを得なくなるように「これ以上工事費を下げるのは無理です」と建築家に言われてしまっては施主はもはやどうにも立ち行かなくなってしまうのだ。これが計画始まって間もなくなら考え直すことも出来るだろうが、共に数ヶ月なり数年なり歩いて来た時点での通告となるともはや後戻りが効かない。何せ大抵の施主は一杯一杯の状態で計画に臨んでいるだろうからして、、そして、そのとき設計費の増減が頭を掠めるのもやむを得ない心理であり、それが原因で建築家との関係がまずくなるということも起こりやすいポイントだと思う。
例えばそうした問題の打開策としてテレビ朝日系列「建もの探訪 」でお馴染みの渡辺篤史氏はその著作『渡辺篤史のこんな家に住みたい 』において工事費に対する%提示ではなく、坪あたりいくらという計算はどうかという問いかけをしている。もちろん設備の入れ方、敷地の建築条件によって坪計算は工事費の「坪単価」計算同様、なかなか微妙な問題を孕んではいるが、見積もり算段の影響を受けないという意味ではまだマシな気がしなくもない(ただ、あまりに色々なケースバイケースとなりそうなところがやはり目安としては微妙なところであるが)。
ただ、本当いうと設計費はそうした影響云々の問題はもとより、漠然とした目安とか経費とかも抜きにして、努力への感謝の気持ちとして、そして技能に対する尊敬の気持ちとして、施主が思った額を払いたいものである。もちろんそれが現状社会経済では夢見物語に近いことはわかっているが、例えば柄谷行人 氏が進めようとして頓挫した市民通貨「Q 」の盲点を完全にカバーできるような経済システムの構築が可能となれば非現実的な話ではなくなってくる。
ともあれ、我が家のことに話を引き戻すと、Off Space の
住宅(工事費2100万)で設計監理料300万だとか。
確認申請等は別なので、申請手続きまで含めると15%になる計算です。
事務所協会が想定する業務を行って場合の算定金額である。
それならば、
それ以上の仕事しているのに設計料10%の設計事務所は安い!と、住宅建築の施主の方々には思って欲しいのですが。。。。
を読むと10%をどんどん高いものに感じて行ってしまった(特に初期計画時に)我々も少し勉強と理解が足りないという感じではあるが、我々の1回目の挫折のことなども踏まえて設計費としては出血大々サービスの%提示をしてくださった豊田さんには本当に頭が下がる思いである。というか、下がるばかりではいられず、最後の分の設計費を支払う前に家族とそのことについてもう一度考え直す機会を作りたかったのだが、引越後から私と実家との関係がいまいち芳しくなくて、そうした相談をするような状態を作れぬまま(一度持ち掛けてはいたのだが)、最後の支払いを終えたという報告だけ受けてしまった。
だが、私個人としては気分的には全く以て感謝の消化不良で、とはいえ、個人的にポケットマネーを出せるほど裕福でもなく(何せ今年の私の収入は妻のパート代より少ない、たぶん)、いろいろ考えたのだが、やはり私のお返しできるものといったら一つしかないので、それについては豊田さんに少し相談を持ち掛けてみたいと思う。話が進んだならば、いずれこの場でも結果報告できるかもしれない。私なりの「Q」のやり方である。Q〜♪
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2004年11月05日 (金)
なぜだかこの谷中M類栖の「New Entries について 」と aki's STOCKTAKING の「検索される blog ブログ 」間で行われた相互トラックバックが、GEODESIC 編著『ブログの力──Blogの可能性に気づいたユーザーたち 』(九天社 ・1,680円)にてトラックバックの見本として紹介されてます。
ブログを始める人が増えてくると、昔流行ったポケベルのように、直感的に使っているブロガーが多くなってきたように感じます。「私はここにいます!」と自分の存在を知らせている。たどっていくと、トラックバックされたエントリーとはまったく関係のない場合があります。苦笑いしますが、その数が増えてくるとトラックバックの機能が開発者の意図とは関係なく、すでに一人歩きを始めていると思うのです。
正統的なコミュニケーション論など、ここで説明するつもりはありませんが、現象としてすでに使われてしまっている使い方と、まさにトラックバックの理想的な使われ方だと感じた事例を紹介 する事にしましょう。
と、このあと、両エントリーをピックアップしてトラックバックマナーのようなことが論じられるのだが、電話の応対で無愛想すぎと何かとクレーム付けられがちな私がこうしたコミュニケーションレベルのところで理想の形として取り上げられるのは何とも気恥ずかしい。
当初、掲載許諾の問い合わせが来たときには Recent Updated Entries を記載するためのタグ紹介が目的で、そうすると人違い(それなら Toyoakiさん )だよな〜と思ってたんだけど、こういう話だったとはね〜(笑)
しかし、どうせ取り上げられるなら「aki's STOCKTAKING で 」⇔「 谷中M類栖 」エントリー間でトラックバックされた互いの掲載画面入れ子状態だったら笑えたろうに。
ちなみにこの書籍ではその aki's STOCKTAKING のエントリーが何かと参照項として取り上げられており、それゆえか同ブログで出版と同時にアップされたエントリー「ブログの力 」が本書の概要としては最も的確/適格かと思う。
また、書籍と連動した専用ブログ では読者サポートと共に「ブログならではの物語やエピソード」の紹介コーナー も設けているようなので、併せてご覧になられるとよいだろう。
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2004年10月08日 (金)
赤瀬川原平著『我輩は施主である』 文庫版124ページから始まる「中庭をめぐるウニドロ問題」の章。ここでは土地も決まり、間取りもあーだこーだしながら(それを赤瀬川氏はアメーバーや将棋に喩えるが)だいぶ見えてきた段階で、赤瀬川氏の奥さんから中庭がほしいという希望が出る。それには赤瀬川氏も積極的に賛同し、設計のF森教授に進言するのだがすぐさま却下されたのだそうである。少し長くなるが、そのときのやりとりをここに引用してみたい。
で中庭なんだけど、
「シロートの人はすぐ中庭が欲しいというけど、やめた方がいい」
F森教授にはすぐ却下された。
「え? だっていいじゃない、勝手な空間で。裸で日光浴もできるし。別にしないけど。何で駄目なの」
「中庭でも大きけりゃいいけど、どうせ小さいわけでしょう、中庭願望は。どうしてもじめついてくるんだよ。日本じゃやめた方がいい」
「でも日本家屋ではよくあるでしょう、中庭。坪庭というやつ」
「うん、だからあれはじめついてるじゃない。暗くて。写真で見ると良さそうに見えるけど、大変だよ、必ず後悔する から」
断言された。そうかなあ。
京都の町家などでよく坪庭がある。一坪の坪で、家の中の小さな庭。手水鉢に柄杓が置いてあったりして、苔むした庭石があったりして、緑の葉っぱがちょっと生えたりして、庭下駄が揃えてあったりして。
「だから苔むして、じめついてるでしょ」
「でも風情があるじゃない」
「それはね、写真では風情だけど、住んだら駄目 だって」
「駄目?」
「後悔する」
建築史の人である。あらゆる建物を見てきている。その人にこうもいわれたら、やっぱり駄目なのか。
「だいたいイメージなんだよ。写真のイメージ 。だから見た目にはいいけど、源門さん(赤瀬川氏)だって見てるだけで、実際に住んだことはない でしょう」
「うん」
たしかに坪庭付きの風情のある家になんて住んだことはない。でも路上観察のみんなで泊まった京都の旅館には、中庭があったじゃない。たしか二つもあったよ。
「だから旅館ていうのは、いわば写真のイメージでしょ。そりゃ一日か二日泊まるけど、自分で住むわけじゃない。一日か二日見るだけ」
「まぁ、そりゃたしかに」
「行った時だけ見るというのと、住むというのはぜんぜん違うんだよ。だって自分で掃除したり、維持して、管理する物件 なんだよ」
「物件かぁ」
たしかにそれはわかる。旅行者の目と住民の目はどうしても違う。生活がかかってくる。そうすると見るだけの美学じゃなくて、機能性というのがぐーんと問題になってくる。といって機能だけで出来上がっているものも味気なくてつまんないんだけど。
諦めきれないでいると、F森教授が講義した。
日本家屋というのは物凄く贅沢なんだということ。座敷や床の間、濡れ縁、欄間、露地、茶室、木戸、とかいうのは、空間があってこそ生きるんだという。床の間とか濡れ縁とか、その物に限って見れば質素だけど、それが風情として生きてくるのはそれを囲む空間があってのこと だという。
なるほど。
空間が贅沢でも何でもない時代には、日本家屋も質素な建物だったのかもしれない。でもいまみたいに空間そのものが贅沢になってしまうと、日本家屋の質素さをあらわすことが贅沢になってしまった。
「だからね、空間のゆとりのないところに日本家屋の物件だけ持ってくると、質素というより、貧相になる んだよ」
「うーん」
それはわかる。そうすると、
「あれだね、召使いとか『使用人』のいない日本人が、ルイヴィトンのバッグだけ持って見ても、かえって貧相に見えるというのと同じだね」
「そうそう」
いや別にルイヴィトンに他意はない。でもたしかに日本家屋の空間意識は、借景という言葉にもあらわれている。借りるわけで、借景という美学そのものは質素さからきているけれど、借景でこそ生きていた庭というのは、借りる景がなくなったこんにち、それごと全部造らなければいけないので、これは大変な贅沢 である。
と以上、この章の余談であるウニドロ問題の話より前のところをほぼ全文引用する形になってしまったが、まあ、何にせよこのF森教授の頭からの中庭否定に思い起こさずにはいられないのが、光庭考(※) のエントリー後半でも書いた前任建築家MH氏との坪庭論議である。そちらのエントリーを読んでもらえればわかると思うが、閉塞空間に対する危惧、京都云々とかジメジメとか施主シロート対クロート建築家のやりとりはほとんどそっくりである。
これでMH氏から上記引用文赤字で示した建築家講義でもあれば、我々も坪庭願望から降りてしまっていたのかもしれない、、って、でも、どうだったろうな? 源門こと赤瀬川氏もこうした講義にもめげず食い下がって中庭を南面オープンにした半中庭案をF森教授から勝ち取っているのだ。それに我々の場合、引用文緑字で示してる箇所などF森教授に否定された中庭願望とは条件的に異なる面もあり、それはむしろ光庭採用積極策にシフトできるようにも思わずにはいられない。
うちの計画を初期段階から野次馬後見人として見てきたCT氏(このブログでも幾度かコメントしている)からは「建築を勉強して」きた建築家が「今回の、三鷹->谷中の条件にあってすら」光庭を「しりぞけた根拠については、たんに」自分「には想像できないという理由から積極的に興味がある」などとも言われているのだが、実際問題当時において赤瀬川氏がF森教授の講義を引き出したくらいにもっと踏み込んだ議論をすべきだったという反省は残る。私が聞き出せたのは否定項の代理として、ではMH氏が認める庭とは何か?(その答えはカラッと晴れた青空のもとでカーッとビールでも飲めるようなところというものであったが)というところまでであった。なぜ駄目なのかというもう一歩踏み込んだところを今からでも聞けるものならば聞いてみたいところだ。
ちなみに先の引用文緑字やCT氏の指摘にもあるように、私が光庭を希求した根拠は
・借景にしないとどう考えても勿体ないA見邸の庭がある
・住人がもともと庭と共に住むことに慣れている(三鷹金猊居がそうだった)
の2つで大局的なところは語り得ているだろう。まあ、1F応接室がギャラリー&ピアノ室ともなり、フツウの住宅よりかは見せ物としての光庭の効果も高いんだろうが、それはオマケといってもよい。
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2004年09月22日 (水)
追記欄にて引用される西澤文隆(※) と小林古径 (日本画家)による2つの文は共に<自然>と対峙したときに求められる技巧について触れているので、ここに並置しておきたいと思う。
ジャンルこそ異なれ、ここに共通するのは<現実>というフレームに絶えず意識を働かせる視線である。そのフレームは常に<時制>によって脅かされているゆえ、決して形式として固定することが許されず、すなわちその都度違う解決法(=応用力)が求められる。
光庭において縮景・残山剰水といったレベルでの作庭を考えているわけではないが、ただ自然のままにというのではなく、誇張やデフォルメといった要素も取り込んだ庭づくりを楽しんでみたい。
右上の図版は
小林古径【三宝柑】1939年 絹本彩色・軸 60.0×72.0cm 山種美術館蔵
□◇
『西澤文隆の仕事──2. すまう』 (P.59) より
日本における木の扱いは、これとまったく異なる。木は、自然のままの姿で使われる。もちろん庭園においては、ことに日本のように室内との関わり合いをもち、ことに室内の延長として意識される場合において、自然は馴化されていなければならない。したがってある程度の剪定が行われ、自然はより自然らしく、やさしく飼い馴らされる。しかし、これはあくまで自然を人工化するのとはおよそ異なる方向である。木は、ヨーロッパにおけるように幾何学的に配置されることなく、さも自然の植生のあるべき姿のように、三々五々、バランスを取りながら植え込まれる。木は1本独立させて使われることはほとんどない。互いに相寄り、相助け合いながら配置されるだけではなく、木は互いに透けていて枝の下に見通しがあり、奥へ奥へと、さも自然植生の姿であるかのごとく、すなわちエコロジカルな様相に植え込まれる。木には添え木があり、さらに下木や下草があって、自然な雰囲気に近いほど、しっとりとよい庭であるとされる。もちろん、先にのべた通り、庭はあくまで庭であって、自然そのものではない。第一、スケールが庭と自然とでは根本的に異なる。その狭いスケールの中でいかに自然らしい庭をつくり出すかが日本庭園のデザインのポイントであるとすれば、そのスケールに合わせて、自然を不自然さを感じさせずに縮小化する必要を生じる。このようにして、縮景と残山剰水の技法が生まれてくる。
東京国立近代美術館 企画展図録『写実の系譜 IV:「絵画」の成熟』 (P.16) より
ここにあるこの盆一つにしても、ぢつと見てゐると生きてゐる気がする。叩けば音がするし盆には盆の生命があることがわかるのだ。ところが、それを絵にすると、なかなか音がしない。音のする盆をかくのは大変だ。写実といふものも、そこまで行かなければ本当の写実ではない。
ところで、音のするやうな盆をかくのに、真ツ正面からかいてももちろんいゝが、さうするよりも、そのまゝを写さないで、選であらはしたり、また色をなくしてやる方が、よくあらはれる場合がある。そこにウソも生じてくるし、誇張も必要になつてくるだらう。これも技巧だ。
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2004年09月15日 (水)
9/18(土) に設計者による駄目工事チェックが行われるついでに豊田さんと母の間で光庭についての打合せもするそうである。というわけで、それより前に私個人の光庭に構築したいイメージをまとめておかなければならなくなった。まあ、ここ最近は庭に関する書物や写真を幾つか手に取って色々イメージしてはいたのだが、もともとガーデニング趣味のない(というよりも如何にもガーデニング的なガーデニングが嫌いである)ことから自ずと雑草をどう見せるかとかそんなことの書かれてる本の方ばかりに目が向いてしまう。しかし、あれこれ考えたのち、やはりうちの場合は原点に立ち返って、なるべく三鷹金猊居のときの庭の様子に従うという考え方が一番妥当ではないかというところに落ち着いている。まあ、しかし、それなりに作庭ということを意識するのであるならば近年のよりかは祖父=金猊が生きていた20年前当時の金猊居の庭のイメージを借りる形にした方がよかろう。
ただ、残念ながら祖父は私が9歳時の1979年に亡くなっており、私の中で庭の確かなイメージは当時の写真からしか引き出すことができない。その上、そうしたアルバムは実家にすべて置いてあるので、今、それを引っ張り出して模索するということはできないのだが、取り敢えず母には打合せ時にはアルバムを引っ張り出して検討するようメールで伝えておいた。
金猊居からの持ち込みアイテムには私が記憶しているかぎりでは、
石灯籠 、備前壺 、瓦、石があり、まず瓦以外はすべてを組み合わせて使うことが前提だ。その意味で三鷹金猊居の庭を参照するのは全く以て間違った選択ではないだろう。
なお、光庭の立地条件は「光庭考」(※) のエントリーでも書いていたように決して庭として良い場所と言えるところにあるわけではない。右の写真(庭を上から撮った)からも伺えるように三角形の三辺が塀と壁に囲まれ、この写真では日が差し込んでいるが、家の北側に面するため、実際のところは日陰の湿りがちな空間であることの方が多いであろう。
ただ、大きなメリットもないわけではない。北西側1.5m弱のブロック塀の向こうにはA見邸の木々が緑生い茂っているのだ。特にうちの敷地にまで葉を伸ばしそうな柿の木は素晴らしく、それは応接室からも悠々見上げられて、そのまま借景にできるといった按配なのだ。それを活かさない手はなく、そうした意味でも私はこの三角コーナーには是が非でも庭を造りたかったのだが、実際真夏日に背後に青々と茂る緑を見て、そうなって本当によかったと思った。
さて、三鷹金猊居に戻るが、金猊居にも後庭とでもいうべき、家の後ろに位置するあまり光の差さない庭が母屋の西側にあった。その庭は縁側を挟んで私の部屋の横にあり、ひなびてはいたが、私自身にとっては愛着のある庭だった。谷中に持ってくることはしなかったのだが、お地蔵さんがあり、グミや杏の木もあって、地面には苔が生えていた。また、手入れがあまりされなくなってからは朽ちてしまったが、鹿威しの音も雨の日にはカーンと鳴り響いていた。
裏寂れた庭ではあったが、私の中では後庭のイメージをベースとして、他に石灯籠は石灯籠があった場所の雰囲気(母屋側中庭のある意味中心的な位置に立っていた)を借用しといった具合に進めていくのがよいのではないかと思う。
最初は玉砂利敷いての枯山水的なことも考えはしたが、掃除の大変さのこともあるし、土に苔がベースでいいんじゃないだろうか。2つあったうちのうちが持ってきた石灯籠がどちらかというと灯籠自体が苔生した感じになってるいるので、なおさら玉砂利とは合わない気がするのだ(ちなみにもう一つの従兄弟の家に行った灯籠 は割と輪郭がはっきりとして玉砂利にも合う感じだ)。
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2004年09月12日 (日)
赤瀬川原平著『我輩は施主である』 文庫版46ページあたりにA瀬川氏が子供時分、門司に住んでいたときの話が出てくる。門司は「港からぐんと切り立っている地形で、家の回りは上も坂道、下も坂道で、世の中はそういうものだというのが僕の基本に焼きついているのだろうか」と氏は言うのだが、そういう意味では私含め、長らく三鷹に住みついてきた我が家族は家の回りが平地であることが焼きついていることになるのだろうか。
A瀬川氏はその後、東京での活動期(氏はその時期を賃貸呼吸の頃と表現する)を中央線沿線の平地がちなところで過ごしたそうだが、その頃は忙し過ぎて子供の頃に焼きついた基本(デコボコ感覚)は忘れていたそうである。それが賃貸呼吸からローン呼吸へ変わる年頃になって再び子供の頃の感覚が蘇り始めたらしい。というか、実際のところデコボコ感覚が土地決定の決め手になったというくらいなのだ。
それを読むと、私たちの土地選択は果たして正しかっただろうか?という不安に駆られぬでもない。何しろ今度の谷中の家は千代田線・根津の駅から歩いて7分は続く坂道の頂上にあり、そこからまた坂道を下っていくような、いわゆる坂の天辺にあるのだ。地名は谷中だけど、どっちかというと谷上と呼びたくなるようなところなのだ。
ここで土地選択の理由を書き出すと長くなるので、それはいずれ書くであろう計画初期時のエントリーに譲るが、いずれにせよ、谷中という場所を一つのターゲットに決めて土地探しを始めたとき、この坂の天辺の谷上をここならいいんじゃないか!と最初に言った張本人はこの私なのだ。いや、別に責任逃れをしようというワケじゃーないのだが、こうした土地決定においてまだまだ賃貸呼吸真っ只中の若造の直感を信じてしまって良かったのか?という話である。
ちなみに私個人は三鷹を離れてから京都千本今出川・大阪天満と住んでいるが、いずれも大した坂のない平地に住んでいる。それは偶然、最初から坂のない町で不動産屋を回っていたから考えもしなかったことだが、もし坂の多い町を候補地としていたなら、そこでそのことに考え(躊躇)は及んでいたであろうか?──こればかりは結果論でしかないが、谷中の土地選択にあたっては先の賃貸呼吸に加え、私自身が当面はそこに住むことがないという「住む」ことに対するリアリティの薄さも、そうした問題を気に留めなかった要因となっていたことだろう。
ところで現住人からは今のところは坂に対する苦情は聞かれない。実は引越直後に何日か私が先にあの家に寝泊まりしていたとき、まず、いの一番の必需品として電動アシスト自転車(※) を思い、母に急ぎ購入させたのだが、それは思い切り余計なお節介の買い物となってしまった。欲しくもないのに買わされたと後になって言われ、諸経費はすべて私持ちとすることとし、今や1F前室を窮屈にするだけの無用の長物となってしまっている。ホントに誰か買ってくれないだろうか?
とそれはともかくとして、今後、子供の頃からのベースとしてきた平地感覚とは違うところで住み続ける住人のことが心配なことは心配である。特に高齢の二人には単純に感覚の問題だけでなく、身体的にきついということもあろう。ただ、A瀬川氏の家を設計したF森教授に言わせれば「やっぱりね、お城のてっぺんがいちばん気持ちいいんだよ、人間は」と天守閣こそ一級物件とのことなので、まあ、そちらの気持ちよさに馴染んでもらうしかない。確かに屋上なんか上がるとつい口を突いて出そうにはなるんだよね。北島康介の例のセリフが(汗)
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2004年09月10日 (金)
まず光庭の具体的イメージを考えていく前に「光庭」という言葉自体に触れてみたい。
実は私自身「光庭」という用語を豊田さんの書かれた1F平面図を見るまでは知らなかった。いや、読み知った言葉ではあったかもしれないが、朧気ながらイメージできる言葉だったので、厳密な語義を知ろうとしていなかった。
確か打合せの席上では「ひかりにわ」と言って話もしていたので、その読み方に間違いないと思うのだが、広辞苑には出ていない。代わりに「こうてい」で探してみると「後庭」(※1) というのが出て来て、それはうちの庭を表現するのにある意味もっと適した言葉だったりする(笑) だが、その意味は「光庭」の活字が持つイメージとはだいぶ違う。もちろん「こうてい」で調べても「光庭」は出て来ない。
しかし、Google で検索すると「光庭」の検索結果は約333,000件に及び、そうマイナーな言葉とも言えなそうだ。ひとまず建築士の我流な庭づくり講座・気ままな庭 というサイトの「自分流に愉しむ気ままな庭づくり、光庭 」という記事に光庭のニュアンスを伝える文が出ているので、それを一部引用しておきたい。
「光庭」。ひかりにわ。読んで字のごとく、光の庭。建築で使う言葉です。例えば、五階建てのマンションだとして、建物の外周が全部バルコニーになっていて、建物の中央部にある階段や玄関まわりが暗いときに、吹き抜けをとったりします。その吹き抜けは天空の光をとり入れるためのものですね。そして、その吹き抜けの底が、「光庭」といわれる庭です。
しかし、庭といっても、光庭ではほとんどの場合は植物が植わっているわけではありません。もともと暗い場所ですし、そういう建て方をするくらいですから敷地に余裕があるわけでもありません。草木を植える庭という概念はありません。たいていは、狭い井戸の底のような空間。それでも天空の光の力は絶大で、ひと息つける空間になるわけです。何もないときもありますが、椅子が置いてあったり、ファウンテンがしつらえてあったりします。場合によっては石庭だったりします。
また、集合住宅博物館 というサイトの新・集合住宅史 という記事の最後の方に「光庭」の起源的なことが書かれているので、その内容については全文引用しておきたい。
■光庭(ライトウェル)...1904年 ゲスナー(ドイツ)
19世紀の産業革命によって、欧米の諸都市に人口が流入し、増築を繰り返し街区がどんどん建て詰まっていく。それにともない中庭の規模もどんどん縮小され、結果として光庭程度の大きさの中庭ができてくる。しかしこれは計画の産物ではない。
計画してつくられた「光庭」は、ドイツの建築家ゲスナーの発明とする。ゲスナーは、オウエル(サクソニー)で生まれ、ドレスデンとベルリンで建築を学んだ理論家であり実践的な建築家である。1897に自分の事務所を構えるまでに、アルフレッド・メッセルらの事務所で修行していた。
彼は、平面計画の理論的な分析をおこない、光庭とそれを囲む部屋の構成の最適解を生み出した。光庭は、小さなホールと玄関をもつ暗い廊下をなくしたばかりでなく、それまで縦に並んでいた居間と寝室の関係を機能的に配列することを可能にしている。
1904年のモンセンシュトラーセ、1905年のニーズアシュトラーセの住棟に「光庭」がみられ、階段室とホールを明るくし、住戸を開放的にしたかを示す優れた例となっている。
以上、多少の脱線要素まで加えたが、上記の引用記事などから類推すると「光庭」とはどちらかという植木があって何があっての庭というよりは、自然光を採り入れるためのスキマ空間と捉えた方が良さそうである。国立国会図書館 などがその極端なわかりやすい例になりそうだ。
さて、そうした語義に忠実に従って見たとき、我が家の庭が「光庭」となりうるのかは、実は私自身の中では四季を通して確認してからでないと何とも言い難いところがある。とりあえず私は夏しかまだあの家を経験してない訳だが、少なくとも日差しの角度が高くなる夏においてはあの場所は充分「光庭」だった。
しかし、こうして私が「光庭」という語句に対して妙に慎重な姿勢を見せるのにはちょっとしたワケがある。それはこの家作りの計画が始まった中初期の頃(2002年12月頃)に話は遡るのだが、その頃お願いしていた前任建築家のMH氏とそこの場所に庭を作るか否かで大議論になったのである。そのとき私はそこに是非とも庭がほしいという主張をして、結局、半ば強引に建築家に受け入れてもらうことになったのだが(そのときの議論内容はいずれ書き起こすことになるだろう)、そこに庭スペースを作ること自体がMH氏には大いに心配されたのである。そしてその理由は「光庭」という言葉を使われた豊田さんとはおよそ対極のものであった。
敷地の北側にある上に、一乗寺の4mの境界塀、そして我が家の10mの高さの壁に囲まれた空間に光など差し込むべくもなく、ましてやそれが庭として気持ちいい空間になるはずがない。
MH氏の心配は乱暴に纏めれば確かこんな論旨だったと思う。
ただ、私自身はその場所に光が入らないというのも承知の上で、尚且つ、それでも庭が欲しいと言っていた。それは京都在住時代、町屋にはさほど有名でもないお店でもちょっとしたところに小庭(坪庭)があったりして、それが何とも気持ちを落ち着かせてくれたのだ。中にはまるで光の入って来そうにないジメジメした坪庭もあった。しかし、それはそれでまた別の味わいがあるというか、むしろそれを効果的に見せる演出のなされた場所などいくらでもあった。だから私は仮にそこが悲観すべき場所であったとしても、小庭スペースが欲しかったのである。
とはいえ、さすがに私にとってもそのスペースは「坪庭」というのがせいぜいであり、あるいはさきほど広辞苑で出て来た「後庭」ってあたりが妥当な消極スペースとしての認識だった。ところが豊田さんの図面には「光庭」というポジティヴな言葉が用いられ、ビックリ&慎重にならざるを得なかったのである。まあ、豊田さんの計画になって建物の一部が高さ10m→4mとなり、以前よりは光が入り込みやすくなったという実情も「光庭」という言葉の選択に加味しているのかもしれないが。。いずれにせよ今度の上京時になぜに豊田さんが「光庭」という言葉を使ったのかは聞いておこうと思う。
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※1)後庭(こうてい)
【広辞苑】(1) 家の後ろの庭。(2) 奥向きの宮殿
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2004年09月09日 (木)
我輩は施主である(※) のエントリーで同著を「回りくどい」と数ページ読んだだけの私は評していたが、その理由がもう数ページ読み進めることで不意にわかった気がした。
しかし、こういうことって本当に読み進めているうちに不意に見えてくるもので、決してどのページのどの行がそう判じさせたというものではない。と既にこのエントリー自体が回りくどくなってきているので本題に入るが、なぜに赤瀬川原平氏の『我輩は施主である』 が回りくどく感じられたかと言えば、それは氏が施主であり、読者の私も施主だったからである。
現代美術あがりでおそらく著作活動には照れというのもあるのだろう。どこか冗談めかした氏の文体はもともと回りくどさを兼ね備えていたと言えなくもない。だが、それは氏の持ち味であり、むしろ私はそれを氏一連のユーモアとして好意的に読めていたはずである。ところが『我輩は施主である』だけは私にとってどうも本当に回りくどい(今風にいえばウザい)のである。その理由はさきほど示した通りだが、それはおそらく施主になったことのない読者が読んでる限りはウザいと感じられるほどには回りくどくないという逆命題に繋がるはずだ。
もう少し具体的に書こう。
赤瀬川氏も本書のはじめの方(文庫本16P)で「施主」と「素人」を結びつけるが、世の多くの施主は家作りに対し素人で始まり、計画〜契約〜工事へと至る過程で建築に関する特殊な知識を身につけ、竣工する頃には一端の玄人さんになっている。ところがそうした経験を活かしてまた次の家を建てる機会に恵まれる施主はほんの一握りしかいない。多くの施主にとって家作りとは人生で1回限りのものなのだ。
昔であればそうした1回きりの豊穣な経験は、家の完成と共に日常の中で埋もれていくか、せいぜいが新しく家を建てようとする身内や友人たちの相談相手となることで役立つ機会が保たれていたようなものだろう。
しかし、インターネットというメディアが普及というレベルを超えて定着した近年、多くの施主たちは自身の施主体験を日記を基本とする様々な形で公開し始めている。この谷中M類栖もそのうちの一つだが、特にブログ(Weblog)というツールの出現はその傾向を加速させるに違いない。私も含め、なぜ多くの施主たちがこうして家作りの体験記を書いているかといえば、間違いなくそれは「自分が今、トンでもない経験をしている」と思っているからだ。さらには、ある程度の施主玄人になってくると「こうした自分の過剰な体験をこれから施主になろうとしている人に伝えてあげたい(素人だったときの自分に諭すように)」という妙な使命感まで湧いてくる。とにかく建築業界というところは言葉も習慣も一般生活者には不馴れな閉鎖したところなのだ。そんな世界を戦い抜いてきた多くの先進の施主たちは、そんな異様な世界を歩いてきただけに、後進の施主素人たちにはなるべく道を広く開けておきたいという親切心に充ち満ちている。
そして赤瀬川氏の『我輩は施主である』もまったくその例に漏れない著作だと言っていい。施主素人に対して物凄く親切に書かれているのだ。まして本書は単なる体験記ではなく、体験的超物件小説である。小説なのにこんなに親切でいいのか?と言いたいところであるが、ただ、この親切ぶりこそが文体とは別のところで施主玄人になってしまった者にとっては「回りくどい」という致命的欠陥に結びついてしまっているのだ。
しかし、ここで赤瀬川氏が反省する必要はまったくない。なぜなら、この「回りくどさ」という致命傷は建築業界の閉鎖性の中にこそあるものだからだ。何しろこれまでの建築体験それ自体回りくどかったのであるから。。まるで昨今の合併問題に揺れるプロ野球界のような話だね(^^;)
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2004年09月06日 (月)
ずっと前から欲しいと思っていたのだが、古本屋回ってもなかなか見つけることの出来なかった赤瀬川原平著『我輩は施主である』 (中公文庫)をやっとこさ Amazon のユーズド商品って形でゲット(99円+送料310円)。
ま、単行本 でもいいなら定価でもいつでも買えたんですが、無闇に蔵書を増やしたくない関係で文庫の出待ちしてました。
まだ数ページしか読んでないけど、施主を2年もやってきた者にとってはちょっと回りくどい(そういう意味ではこの blog も同様だろうが)と言うか、いつもの赤瀬川節がなぜか小煩く感じられる。この印象は読み進めるうちに変わってくるだろうとは思うが。。
それとタイトルからの想像通り、冒頭で「我輩は施主である。家はまだない。」と漱石の『吾輩は猫である』 をパクるのだが、「吾輩」を「我輩」としたのは何か意味あってのことなのかな? 余談だが、ATOK で返還すると「わがはい」は「吾輩」か「我が輩」と「我輩」の方は間に「が」が入ったのしか出て来ないので、いちいち「が」を消すのが面倒くさい。登録するほどのもんでもないし。。
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2004年09月03日 (金)
All About Japan の「今日のイチオシ」のところに「住宅展示場にコルビュジエ登場」という記事を見つけ、どういうこっちゃ?と思わずクリックしてしまったのだが、よく見たら「住宅展示場にコンシェルジュ登場 」の勘違いでした。
それにしても昔からずーっと疑問に思っていながら恥ずかしくて誰にも聞かずに来たんだけど、「コルビュジエ」って何で最後の「エ」が「ェ」じゃないんだろか? それにみんな「コルビジェ」って発声しますよね(笑)
2004年09月01日 (水)
天神橋筋商店街の古書店(天五古書店 books&thoughts →矢野書房 →天牛書店 )でそれぞれ購入(以下購入順)。
なんだか難い本を軟らかい書店で、軟らかい本を難い書店で買ってしまった感じ。
コーリン・ロウ『コーリン・ロウは語る──回顧録と著作選』 (鹿島出版会・¥4,830→¥2,800)
渡辺篤史『渡辺篤史のこんな家に住みたい』 (講談社・¥1,700→¥800)
藤森照信『藤森照信の特選美術館三昧』 (TOTO出版・¥2,500→¥1,280)
建築関連本とはいえ、まるで並列されそうにない3冊だが、一つ共通項があるとするなら、すべて本のタイトルに著者名が入っていることだ。
2004年04月29日 (木)
以前(※) 、初外部 trackback した aki's STOCKTAKING の blog で谷中M類栖が紹介されました。その返信コメントにまだここではそれほど触れてなかった谷中M類栖のタイトルのことや副題について少し書いてます。これをきっかけに今後、副題絡みの話も書いていかないとな。
せっかくなので、私の方でも aki's STOCKTAKING の画面を以下に。このまま繰り返すとブラウザの入れ子状態ができるかな?(笑)
コメント内容は追記にて。
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秋山さん、谷中M類栖 の blog 紹介、大変ありがとうございます。
"M-Louis" というのは実は私の祖父がときどき落款で使っていたもので、それを私が無断借用しています(笑)
"Louis" を仏語読みして "M" と繋げると、私の苗字になるんですね。"M類" というのは半ばその冗談でだいぶ以前からニックネームの一つとして使ってました。今回の家作りにあたっては、それに[(ある所に生物が)住んでいること]といった意味を持つ "栖" という文字を加えて、"Louis" をそのまま英語読みできる形にしてしまったというわけです。ちなみに "栖" という文字を選んだ経緯はいずれ blog で書いていくつもりですが、磯崎新の『栖十二』という本から直接引いたわけではありません。その本は blog 開始前から持ってはいましたが、"栖" という文字にこだわり出したのはその本の存在を知るよりも前の話でした。
と、名前の説明が長くなってしまいましたが、谷中M類栖の blog は御紹介いただいたように、東京の谷中に7月完成予定の実家の家作りの過程を blog を使って記録していこうというものです。ただ、trackback していただいた「blog 開始」(※) でも書いているように blog の有用性に気づくのが遅かったため、実際に blog をリアルタイムで活用し始めたのが設計段階からではなく工事開始後になってしまったことが、自分自身何とも悔やまれるところです。と同時に、そうした途中から始まってることが事情を知らない訪問者の方にはちょっと取っつきにくい不親切な blog になってるんだろうなと思っています。
また「住宅建築と施主」という副題は、ふだんは対施主という形で仕事をしている自分が、今回逆の立場にまわったことで、クライアントとクリエイターの関係について改めて考えさせられるところがあって、そうしたタイトルを付けました。「住宅建築と」としたのは扱う事例がそれだからということもありますが、「住宅建築」という仕事がどこか他のクリエイティブ系の仕事とは大きく異なるように見えてならなくて、その違いについても検証してみたいという気持ちがあったからです。ただ、これらの議論は「思考ノート」のカテゴリで書き綴っていくつもりだったんですが、今のところ工事記録等をまとめるのに手一杯でそこまで書いている余裕がありません。と言いますか、今回秋山さんに取り上げていただいたことで、初めてそれについて触れたというのが現状です。というわけで、これをきっかけにボチボチ副題絡みのことも書いていきたいので、こちらのエントリーに対しては谷中M類栖の方からも trackback させていただきたく思っております。
と以上、書き出すとキリがなくなってしまうので、とりあえずこの辺にて。多謝!
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2004年03月30日 (火)
blog 開始 以後、blog 作成自体に熱中してたのと、それとは相反するようだけど自分の中でネット離れが進行していたため、全然チェックしようとしなかったことをさきほど初めてしてみました。
Google で「建築+家作り+blog」といったキーワードで検索してみること。
で、その先頭に出て来たのが、秋山東一さんという建築家の aki's STOCKTAKING というサイトなんだけど、この人のサイトは過去にも見た記憶がある。
たぶん閲覧した当時はまだ blog の体裁を取ってなかったと思うんだが、プロフィール を見るとOMソーラー のことが出てるんで、その流れで彼のサイトに辿り着いたんだろう。とすると、ひょっとしてどこかで阿部建築 とも繋がりあったりして?(笑)
記事数だいぶたっぷりだけど、少し詳しく見ていく価値あるかも?です。
建築系 blog を一覧できるページがあるんで、ちょっと試しに初外部 trackback!
2004年03月03日 (水)
現場見学の帰り、せっかく上野近辺まで来ているのだしということで、銀座線に乗って京橋の INAXブックギャラリー まで足を運んでみた。
そしたらば生憎の店舗改装中で、中で店員がごちょごちょやってるのは見えるのだけど、中に入れない。う〜む、ついてないというか、こういうこと、私、滅法多いのです。
家族には雨男ならぬ休業男と言われてる。
ただ、上階のギャラリーやショールームは空いてるみたいだったので、中に入ってここで働く知人のTさんがいないか聞いてみたら、ギャラリーのところまで降りてきてくれた。
すると私が INAX: サーモフロア といった記事を書いてたことも見ててくれて、ショールームで詳しく聞いてみたら?と勧めてくれたり、あとは 塚本由晴+西沢大良著『現代住宅研究』 はなかなか侮れない本だって話をしたり(まだ私は立ち読みしかしてないんですが)、あとは 10+1 のサイトが最近 Movable Type 仕様に作り替えたって話を教えてもらったり、結局書店は改装中だったけど、本屋で立ち読みするのに相当するぐらいのお買い得情報をいろいろゲットすることができました。Tさん、謝謝!
ショールームでサーモフロア体験については別稿 にて。
2004年01月16日 (金)
梅田ジュンク堂で故・西澤文隆氏(※1) の全集『西澤文隆の仕事──1. 透ける・2. すまう』を買った。本当は全3巻で、『3. つくる』もあるのだけど、1冊がどれも高いので、ひとまずそれはお預け。
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※1)西澤文隆 [1915-1986]
西澤文隆の存在は庭に関する書物を読み漁っていて知ったのだが、どうやら彼の言動は庭に限らず面白そうだと感じ、この著作を見つけ購入した。他に名著の謂われ高い『コート・ハウス論──その親密なる空間』 があるのだが、絶版状態なのか今のところ見つけることができない。本書の刊行委員には安藤忠雄、池田武邦、出江寛、磯崎新、内田祥哉、阪田誠造、林昌二、宮脇檀、山崎泰孝と錚々たる顔ぶれが揃う。
1998年、ギャラリー・間にて『西澤文隆の眼と手──日本の建築と庭 実測図展』 という展示が行われていた。彼の略歴はその展示紹介サイト内 でも読めるが、他に「追想 JIAの建築家達」 という記事でわかりやすく紹介されているので以下に全コピーしておく。
西澤文隆 (1986年逝去。享年71歳)
西澤文隆は、1940年東大卒業後直ちに板倉準三建築研究所に入り、戦後その大阪支所開設後は同支所長となり、更に板倉準三死去によりその代表となり、1986年71歳で逝去されるまで一貫して同研究所とともにあった。しかし、コルビュジェ追従の「近代建築」には常に反発し、むしろ日本建築に傾斜し、そこで自ら真剣勝負をして独特の和風を作り上げたかと思うと、最後の「自邸」は、コンクリート打放しによる「現代住宅」であった。それにもかかわらず、それらを一貫する「西澤文隆の世界」が形成されているところに、西澤の骨頂がある。
西澤は、芸術も知識も、頭ではなく体で習うもの、しかもそれらを消化、吸収して自分の体の一部にすること、というようなことを言っていたが、その一つの典型が彼の建築と庭園の実測ではなかったか。これまでの建築と造園とは別々の、しかも間違いだらけの実測図が多い現状を嘆きながら、建築と庭園がもつれ合いながら造られていった過程を身を持って体得しようとするのである。憑かれたように実測していく気持ちを、通り魔とか色魔という言葉があるとすれば、実測魔という言葉があってもいいじゃないかとしながら、次のように言っている。「私を実測魔に仕立て上げてくれたものは、増築に増築を重ねながら、その瞬間瞬間の時点でもっともふさわしい建築と庭園の関係を造っていった人々であり、その結果として現に私を包み込んでいる『ものを作る』面白さそのものである」と。そしてまた「・・・日本建築の奥に潜む厳しさとユーモアが身に染みて感得できるのは、実測をやっているその瞬間である。切って切って切りまくる果たし合いの瞬間とは、まさにこのようなものであろうか。己を空しくして天地と合一するという言葉の通りなのである。・・・実測は私を駆り立て、想像力と発想力を付け加えてくれる。実際の仕事でも一本勝負ができるよう私を育て上げてくれるのである」と言う。
しかし、彼は、とどまるところを知らぬほどに、あらゆることを学び、エネルギーを蓄積し、それらを反復租借しながら仕事に体当たりし続けたがゆえに、体を壊し、死を早めたのではなかろうか。西澤文隆は、関西支部でも人望厚く、種々の役職を兼ねていた。
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