2006年03月08日 (水)
飛行機の座席で私は絶対窓側派だ。もし同行者が同じように窓側派であるなら、それが妻であろうと恋人だろうと私は「なら、離れた席に座ろう」と言うだろう。そのくらいに機上からの眺めは楽しく刺激に充ち満ちている。だから万一窓側に座れなかったときは航空運賃半分返せ!と言いたいくらいにブルーな気分なのだ。
今回の中欧旅行で同行した父は幸いにも眺望にはさほど興味がなく、という以前に年を取ってトイレが近くなったため、むしろ積極的に通路側に座りたい人だったおかげで行き帰りとも私は窓側座席に座って滞空時間を満喫することができた。でも、父のように年を取ってなくてもトイレ立席を優先視して通路側を希望する人は案外多いようだ。やはり長時間フライトで寝ている人も多く、その寝ている人をわざわざ起こしてトイレに立つという面倒を厭う人が多いのだろう。でも、私はその面倒と眺望を天秤に掛けても明らかに眺望が勝る。どう考えたってアレを見ないのは勿体ないという他ない。
ちなみに「飛行機ライフ耳編 」でも書いたように旅行代理店の準備不足で往路は父と離れたところに座らなければならなくなってしまったので、私の隣は食事時間以外はほぼ寝っぱなしのオッサンが座っていた。なので、極力迷惑が掛からないようにトイレはなるべく食事のあとに少し長めに時間を取って行った。トイレでは用を足すだけではなく歯磨きしたり顔を洗ったり、またトイレの近くのスペースで体操したりスチュワーデスと話したりと身動きの取れない座席で停滞した血液に流れを与えるべく工夫した。
飛行機の中ではこのように意識的に滞空時間を楽しむよう心掛けた方がエコノミーでも充分高い運賃を払うだけのものを得られると思うのだが、どんなものだろうか? そのおかげで皆が寝てる中、一人楽しんでいたのがバルト海上空に広がる青い世界だった。
【写真】2005.11.08 13:30 ルフトハンザ航空・バルト海上空より
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2006年03月06日 (月)
横浜への出張ついでに谷中に一泊することを実家に伝えたら、それから程なくして母のところから『うえの 』という小冊子(上野のれん会 発行)の2006年3月号が届いた。
冊子にはフランス文学者・奥本大三郎氏の書かれた「ファーブル昆虫館 」のページに付箋が貼られ、彼が千駄木の元実家のあったところに新しく昆虫館を建て、3月6日(月) にオープンさせるという記事が掲載されていた。
設計カルテの自己プロフィール では全く触れなかったが、何あろう、私の子供の頃の夢は昆虫博士になることであった。あるタイプの極めて一般的な夢の一つとも言えそうだが、その仕事を続けてもそう簡単には食ってはいけないということを知った頃にはその夢を口にすることもなくなり、いつしか昆虫少年時代を終えていた。
しかし、親というのは(それもたぶん異性の親)そういう子供時代に子供が語る夢というものを決して忘れてはいないようで、それが今回の付箋となって現れたわけである。というわけで、そのオープンの日に偶然にも谷中に居合わすことのできた私は、Fleur という洋食屋で両親+野次馬CT氏とランチしたあと、昆虫にはまるで興味のない父を残して3人で千駄木小学校のすぐ側にある「虫の詩人の館*ファーブル昆虫館 」へと向かったのである。
現代建築にはほとんど興味のない私としては(なんてココで言っていいのか?>汗)、建物そのものについてはノーコメントとしておくが、奥本氏の言葉をそのまま借りれば「地下一階、地上四階の、シルヴァー・グレーにレモン・イエローという、ちょっと目立つ建築物である」という感じで、まあ、まち歩きしててこの前を通っても写真を撮るようなことはなかっただろう(尊敬する奥本先生のお家なので、こんなこと本当は書きたくないのであるが>汗>汗)。
ともあれ、中の展示物に関しては私の心を踊らさずにはいられないものが待ち構えていた。基本的に元個人宅規模の昆虫館なので、例えばデパート等でやられる昆虫展のような派手さはないが、私個人としては国内の昆虫標本を中心とした展示の方が、子供時分の記憶が存分に蘇ってむしろ楽しい。それから甲虫標本の日本・フランス比較展示などもあって、フランスの甲虫が日本の甲虫以上に小さく地味であったことにはだいぶ驚かさせられた。ファーブルは幼少時代にこんな地味な昆虫たち相手に昆虫オタクになれたのかと妙な感心をしてしまった。というか、現在のフランスの子供たちの間にどのくらい昆虫少年っているんだろうか? 私は昆虫に関してだけは日本に生まれて良かったと思いっきりナショナリストになってしまうのである(笑)
ちなみに地下1階には生きたヘラクレスオオツノカブトムシやコーカサスオオカブト、ニジイロクワガタといった海外の甲虫類、またタイコウチやコオイムシ、ミズカマキリといった国内の水中昆虫が展示されている。最近は海外産の昆虫も手軽にペットショップで買える時代になってしまったので、決して珍しいものでもないが、それでもペット屋で見掛けるものよりも形も大きさも立派だったので見応え充分だった。でも、やっぱり昆虫ナショナリストな私は国産水中昆虫の方に心奪われてしまったな〜。記憶力が絶望的に悪いはずの自分なのに、すべての名前がすらすら出てくるし。。
なお、1階の展示コーナーは季節によって展示替えしていくらしい。
通常は金・土・日のみの13〜17時と開館時間は短いが、拝観料が無料なので今後も散歩がてら何度も足を運んでしまいそうである。
【写真】2006.03.06 14:32 千駄木5丁目・千駄木小学校より北に程なくの位置
道路を渡ろうとしているのは野次馬CT氏と母。写真に気合いがない。
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2006年02月19日 (日)
前エントリー「電線の景観*N的画譚 」では画家の視点・撮影者の視点を借りて谷中の電線を好意的に捉えてみようとした。家づくりに集中していた頃には工事・引越・建築撮影と何かと障害物となっていた電線なだけに、その試みには些かこじつけ的な感もなかったとは言えない。ただ、それでも電線を「景観」の一つとしてポジティヴに見られたのは、やはりそこが「谷中」という場所だったという点が大きい。
谷中は敢えて乱暴に言ってしまえば「観光地」なのである。
観光地とは余所者から見られることを宿命づけられた場所、即ち「景観」としての特性に自覚的足らざるを得ないところである。ただし、そうした観光地でも行政主導で観光化を目的とした地域もあれば、自然発生的に人々が集まるようになった場所もある(最初は自然発生でそれに行政が飛びつくケースも当然ある)。その点で言うと谷中は後者でさらには行政はそれを放っておいているような印象が強い(その証拠に曙ハウスの解体 でも特に区で何か考えようとする動きは特に見られなかった)。
そして谷中が観光地化した最大の理由は、都内でも珍しく戦火を浴びなかったおかげで大正・昭和の薫りが温存された(悪く言えば取り残された)ことにある。「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ 」ならずとも土日ともなればカメラを手にした学生や老人たち(その中間層はあまり見ない)が町中をうろうろしている光景は珍しいものではない。
彼らが一様にレンズを向けているその先にあるものとは大正・昭和の息吹を感じさせるものである。その一つに電線や電線の踊る光景があることは言うまでもない。
ただし、それをもう一度「景観」という視座まで下がってみたときに、電線が観光的に持て囃されているから良いとか悪いとかという議論にはなり得ないと思う。ひとえに「景観」といっても、そこには住民の視点もあれば、単なる通行人、車に乗っている人、遠く離れたところから俯瞰している人、そして観光客と様々な視点が介在する。
そのような混在する視点の中から敢えて「景観」の良し悪し を指し示そうとしようとするならば、そこにその立地与条件や周辺環境、あるいはそれを選択した人間の名前および立場を明記してもらいたいものである。
当初、このエントリーは前エントリーの補遺として完結させるつもりのものだったが、前エントリーへのコメントを見ていると、単純に大正・昭和の名残とは別次元のレベルで人の電線に対する欲望は尽きせぬものがあるようで(って、それが自分にもあることは最初からわかってたんだけど)、その辺はまた別の機会に触れられたらと思う。
旧阪急梅田駅コンコース に対する私の思い入れというのは、案外そうした電線に対する欲望と近いところにあるものなのかもしれない。
注)写真は2006年1月22日に藍染大通りにて撮影
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2006年02月13日 (月)
谷中や根津の風物詩の一つに縦横無尽に入り組んだ「電線」がある。
谷中の半住人どころか年間で10日も谷中に滞在してない私は、つい最近までそのことに割と無頓着だった。というか、それ以前に家の建築写真を撮ることにおいて邪魔くさいとすら思っていたところもあり、ポジティヴ・シンカー garaikaさんの「電信柱って 」のエントリー・コメントでも結構散々なことを書いてしまっている。
ところが、先月「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ 」で一緒に散策した nodocaさんが flickr にアップされた「雪融け谷中 」の写真についたコメントを読むと、電線のことが住民・家主の視点からでないせいか、決して悪印象では捉えられていないのである。
悪い景観100景「街並みを汚くしている電線・電柱 」では電線ケーブルが「視界をますます低く圧迫している」と悲観しているが、nodocaさんは「とにかく電線は多くて低い位置にある気がする」と言うだけで、決してそれが良いとか悪いとかは言わない。そのことにアレ?っと思っていたところに更なる決定打が現れた。
Kai-Wai 散策の masaさんを通して親しくなった根津在住の画家 neonさんの作品がそれである。数日前に neonさんから『陋巷画日記 』と題する作品のポストカードをいただいたのだが、それら陋巷をモチーフとした数点の画にはすべて電線が描かれているのだ。そして、その電線の線は画のほとんど絶対的要素と言ってよいほど、重要な構成因子となっている。このさり気なくもユーモラスに踊る電線のラインがなければ、私は節度なくパウル・クレーの名前を出していたかもしれないが(って出しちゃってるけど)、それをしれっと拒む力がこの電線の線にはあるような気がする。そしてまたそれが在り来たりな「電線」の線であるというところが何ともニクイ!
こうして私は電線に対する考え方を少し改めなければならなくなってしまったのであるが、しかし、だからと言って突然電線賛美するようになるわけでもないし、依然として実家の前の電線を疎ましく思わなくなったわけでもない。ただ、一つ変わった点は電線を谷中や根津ならではの「景観」としても見られるようになったということである。
neonさんの作品はこれまでも Kai-Wai 散策「neonさんの絵葉書 」で紹介されているのを見ることができたが、この程 neonさんご本人がブログ「N的画譚 」を開設された。恥ずかしながら「陋巷(ろうこう)」という言葉を知ったのは今回のことをきっかけにしてなのであるが、N町在住の neonさんが描く陋巷の名も無き建築物たちをこれから楽しみにしていきたい。
注)写真は2006年1月22日に根津銀座界隈にて撮影
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2006年02月12日 (日)
あさみ新聞でシリーズ化している「悪い景観100景を考え直す 」のエントリー。
実は先日からこのブログでも何か書こうと思ってアレコレ書き留めてはいるのだが、どうもエントリーするまでには至れない。すでに検索すれば「悪い景観100景 」を公表した「美しい景観を創る会 」に対する批判的エントリーは山ほど出てくるし、今更その組織とテーマに対する批判をこのブログでやってても生産的ではない気がする。
ところでヤフーで「悪い景観100景」を検索すると、その4ページ目に「景観100景 」というブログがヒットする(2006年2月12日現在)。このブログ、どうやら「悪い景観100景」で取り上げられた情報をまるごとコピーして、コメント+トラックバック歓迎の体制を取って行こうとしているもののようである(作者不明)。
実は最近、ブログの可能性というのは情報発信のそれと同時に情報の受け皿としての機能も重視すべきと考えているのであるが(っていうか、実は一つお仕事でもうそういうことしてるし、阪急コンコースのブログ だってある種その路線だし)、このブログも云わばその延長線上のブログと言える。
で、現実を見れば「美しい景観を創る会」も最初からこの仕組みを作ってしまっていれば、そんなに全体枠としての批判を受けることもなかったろうし、純粋に一個一個の個別事例に対して、賛否両論をデータベース化して行けたのだ。その意味で考えるならばこの「景観100景 」というブログは「美しい景観を創る会」に対する嫌がらせとして存在しているのではなく、むしろ真性のフォロー部隊と言ってもよいのではないか?
てなわけで、谷中M類栖でも今後は取り上げられた「悪い景観100景」に類する主旨のエントリーをするときには「景観100景 」ブログに賛否問わず積極的にトラックバックして行きたいと思っている。おそらくはそうした個別事例に対して複数からなる個別視線を集積していくことこそが唯一このテーマの生産的有り様であろう。
ちなみにこのエントリーのタイトルは当初書いていた非生産的主旨、即ち「景観とはなんぞと心得とるのじゃ!」を書いてしまいそうになってたときに付けようとしていたタイトルである。そこではヒューザーの小嶋社長やら伊藤公介元国土庁長官の名前と「美しい景観を創る会」を並べて語ろうとしてしまっていたのであるが、まあ、その辺のところは「きっこのブログ 」にでも任せて、このエントリーのタイトルにその名残だけを残しておこうと思う今日この頃なのである。
■「悪い景観100景」関連リンク ←随時追加予定
・あさみ新聞: 悪い景観100景を考え直す
・あさみ新聞: 悪い景観100景 (2006.01.07)
・あさみ新聞: 悪い景観100景を考え直す(1) (2006.01.24)
・あさみ新聞: 100景を考え直す(2) (2006.01.26)
・あさみ新聞: 美しい景観 神戸シンポジウム (2006.02.03)
・あさみ新聞: 美しい景観 神戸シンポジウム(その2) (2006.02.11)
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2006年01月12日 (木)
この写真は中欧旅行の行きの飛行機、成田を飛び立ち北上して程なく眼下に見えてくる光景である。場所は鹿島港の入口 で鹿島発電所、鹿島石油、住友金属工業鹿島製鉄所等がある。最初にそれが目に入ってきたとき、その色彩に目を奪われた。
地面が焦げている。
私は自分でさほど「廃墟フェチ」の嗜好性が強い方ではないと思っているが、それでもこうした凄惨な場所に好奇の目が向くことを隠すことはできない。というか、この場所は決して凄惨な場所ではなく、人が働いている工業地帯なのだ。
Google サテライトの画像 では細密表示可能な地区となっていないため、私が撮った写真の方がこの場所に関しての情報量は多い。だが、情報量の少ない(つまり焦点距離の遠い)サテライト画像でも充分焦げていることはわかる。「焦土」というふだんあまり使い慣れていない言葉が自然と頭に浮かぶ。
戦時中「焦土作戦 」なる戦術があったらしい。ロシアがそれを得意としたというが、このあと、飛行機はエトロフ上空 あたりまで北上し、シベリア大陸 を横断する。
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2005年12月05日 (月)
関西圏でしか発売してないかもしれないけど、『大阪人 』という雑誌の最新2006年1月号(vol.60)「発掘 the OSAKA」のコラムにて「阪急百貨店大阪うめだ本店」が取り上げられている。もちろんメインテーマはコンコースで、伊東忠太の四神モザイク壁画 の制作のエピソードについても触れられている。「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」の歴史解説コラムで日間仁氏の書かれた力作「阪急ビルディングの建築に就いて 」では、伊東忠太の言葉を引用しながらより詳しく書かれているが、玄武・朱雀・鳳凰・白虎の四神を発想のもとに描かれたはずの壁画が龍・翼馬・獅子・鳳の四動物となってしまった経緯など、その説明は非常にわかりやすい。
コンコースこそを阪急ビルの「内なるファサード」と表現する執筆者の酒井一光氏(大阪歴史博物館学芸員)は、そのテクスト冒頭からこの場所に対する愛情溢れる記述を続けられるが、その文末で「建物が変わってしまうのは寂しいことだが、新しい時代の建物に期待したい」と結ばれている。それだけは本心だろうか?と勘ぐりながら読んでしまった。
「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」では有志メンバー:のりみ さんの書かれた同誌に対するコメント を掲載しています。
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2005年10月08日 (土)
「小林一三とのコラボ 」でまずは母方の祖父がらみで阪急創設者の小林一三氏との縁について取り上げたが、今度は父がらみの関係で阪急との縁を見ていきたい。
前回「父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二 氏と知り合い」と書いたが、もう少し正確に書こう。父は満州は大連で暮らした中学時代、浜崎真二氏の息子さんと同級生で、その縁で浜崎真二氏にもかわいがってもらっていたのだ。
ネットで検索すると、1901年に広島で生まれた浜崎氏は慶応大学を卒業後、大連に渡り、大連満州倶楽部という社会人野球チームで活躍していたことがわかる。実際、父が言うには当時、満州では野球が大いに盛り上がっていて、相当に迫力ある試合が見られたという話だ。父が生まれる前の話だが、都市対抗野球の歴代優勝チームの記録 を見ると第1回から3回まで3年連続で満州倶楽部が優勝しているのだから、その実力のほどは確かである。
終戦後、日本に引き揚げた浜崎氏は当時まだ「ブレーブス」という愛称の付いていない時代の阪急軍の監督に就任し、兼任で投手としても投げている。彼の48歳での登板記録というのは今もまだ破られていない。それともう一つ特筆すべきなのがその身長。150センチだったというのだ。「小さな大投手」と呼ばれた選手はこれまでにもいたが、ここまでミニマムで大投手と呼び得た選手もおそらくは彼しかいないだろう。
引き揚げ後、いったんは郷里である山口(萩)に初めて帰った父であるが(三男坊の父だけは大連で生まれた子なのである)、まもなく同志社大学に入学し、関西に寄る辺のない父はそこで再び浜崎氏の世話を受けることになる。どうも最初のうちは当時、西宮球場にあった阪急選手たちの寮に寝泊まりさせてもらっていたらしいのだ。また、浜崎氏の息子さんと遊ぶのに、宝塚にあったという浜崎監督邸にも遊びに行っていたらしい。そして、その縁で父の阪急ブレーブス・ファンの歴史は始まり、それが東京で生まれ育った、そう簡単には阪急との縁を持ちにくい私にも伝染したというわけだ。もちろん私が物心付いた頃の阪急ブレーブスは山田・福本・加藤の同級生トリオが円熟期を迎え、物凄く強かったことも子供ながらに魅せられる要因ではあったろう。中学・高校時代の親と話したくなくなる年頃にあっても、どうにか父と子の対話は首の皮一つ阪急で繋がれていたように記憶する。まあ、それしか会話がなかった気もするが(笑)
と以上、これまで「父と満州 」「祖父は満鉄社員だった 」と二度にわたって取り上げてきた「満州」の話をこうして「阪急」がらみですることになろうとは私自身、予測もつかなかったことである。しかし、考えてみれば私の父方祖父は満州鉄道の社員であり、阪急もそのベースとしてあるのは阪急電鉄という鉄道会社なのだ。
近代社会においては鉄道会社こそがまさしく「線路」という線を土地に引くことによって、その周辺のまちづくり、そして人々の生活のイメージを築き上げてきた。今回、冒頭に取り上げた絵葉書は大連・連鎖街という云わば百貨店の建ち並ぶ大連市内の様子を描いたものである。もはや言うまでもないだろう。それが1929年創業の阪急百貨店うめだ本店のファサードに似通ってるということなど。
大連・連鎖街 CHAIN-STORE STREET, DAIREN 二百有余の各種専門商店が一つの統一ある体制の下に整然たる商店街を造るのが連鎖商店街である。言はゞ百貨店の街であり、街そのものが百貨店である。而も其処には映画殿堂や児童遊園、大浴場、支那料理店等があり、大連の新名所として又大連のプロムネイドとして見るべきものが多い。
最後にはなるが、父を阪急に引き合わせてくれた浜崎氏の息子さんである父の友人が去年の12月に亡くなり、父は葬儀にも参列したらしい。おそらくその父の友人の存在なしにはこのエントリーもなければ、あの「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」のブログもなかったことだろう。ここに浜崎親子のご冥福を謹んでお祈りいたします。
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2005年09月10日 (土)
「「らしさ」について 」のエントリーでTB誤送信したら、朝妻さんからは新規エントリーで「“ らしい ” 家について ちょっと思ったこと 」、そして garaikaさんからも「「らしい家」考 」というTBが返ってきた。さらには朝妻さんのエントリーではノアノアさんのコメントもあって、TB誤送信というのも満更悪くないものである(笑)
それにしても「らしさ」という言葉は厄介なものである。いや、厄介だからこそ便利に使えると言うべきか? garaikaさんは〈「らしさ」とはあいまいな言葉だ。〉と書かれているが、実際のところ、人から何某かの評価を求められたとき、「〜さんらしい」と答えてしまうのが最も無難な回答となり得るのは言わずと知れた話である。なぜならその言葉は仮に答えた側にとってマイナス評価のものであったとしてもその含意は伝わらず、尚かつ言ってることにウソはない。もちろんプラス評価の場合も然りである。
「らしさ」とはおそらくどんな側面を指しても言えるものだろう。
garaikaさんも書かれているようにそもそも関わること関わらないことそれ自体が「らしさ」を示してしまっている。前回の自分のエントリーを反語的に言うならば、イメージとしての「私らしさ」が直接的に表現されていないプランを選んでいること自体が「m-louis らしい」とも言い得てしまう。そして garaikaさんは関わり方の深度に良い意味での「らしさ」を求められているが、前エントリーで私が懐疑的に捉えていたのは何か先験的に「らしさ」を表現に落とし込んでしまうことに対してなのであった。
期せずして garaikaさんもノアノアさんブログで春先に起こった「熱い日々 〜化合論 」 (勝手に命名)のことを取り上げておられるが、私も前エントリーを書いている時点でそのことがずっと頭にあったことをここに告白しておきたい。当時、建築家派vsHM派(ヘビーメタルではなくハウスメーカー)という、ありがちといえばありがちなのかもしれないが、ネット上バトルにしては珍しく最低限のマナーは守られた中での激論がブログのコメントスペースにて繰り広げられていた。そこで途中参戦した私はしろさん というHM派の中でもとりわけポジショニングの堅い方に向けて、かなり一方的にコメントし続けてしまったのだが、彼女のガードは堅く(それは彼女の自己認識力が非常に高いゆえのものだった)、むしろ私の方が感服する結果となったことを思い出す。
簡単にいえば彼女は幼い頃からの憧れだった赤毛のアンの「グリーンゲーブルズの家」のような家をHMで建てているのである。であれば、しろさんを知る親しい友人がしろさんの家を見て「しろさんらしい」と口を揃えて言うことは間違いない。
そして前エントリーから私が問うていた「らしさ」とはおおよそこの論点のうちにある。ただ、そういうと恰もしろさんをダシに使ったように思われてしまうかもしれないが、彼女に関してはコメント時のやりとりにおいて、この人は筋金入りのグリーンゲーブリアン(そんな言葉ないけど)だと認識させられており、上記の懐疑は適合しない。
彼女はおそらく生涯にわたって自分の家を愛し続けていける人だろう(※1) 。
ともあれ、私が警句を発したかったのはしろさんほどに筋の入っていない「自分らしさ」を安直に追ってしまって、それを自分の家の表現として落とし込んで行ってしまうことに対してのものだった。特に家族の中でも特定の個人のテイストが強く現れた家を作ってしまった直後にその個人が故人となってしまった場合、遺族たちはその家にその故人の「らしさ」を見、それを愛し続けていくことができるだろうか? そればかりではない。個人のテイストというのは思いの外、流されやすいものである。特に時流から見出されたテイストは飽きてしまったとき、恥ずかしいばかりか憎々しくすらあるものとなってしまうこともある。家は服のように簡単に脱ぎ捨てられるものではない。
garaikaさんはなぜか m-louis らしいとして引き合いに出した「光庭 」のリンク先を私の昔の三鷹の家の庭の写真が掲載されたページの方に飛ばされている。それが狙ってのことなのかはわからないが、おそらく「自分らしさ」を穿り出して行く際に必要とされる手段の一つとして有効なのはこうした自分の子供の頃から慣れ親しんだ環境、暮らしを一つの歴史として繙いて行くことなのではないだろうか? もちろんそれが直接に表現と結びついて行くという訳ではない。だが、この作業を所々で設計者と共有しながら進めていくことは双方にとって関わり方の深度を深めることに他ならない。
尚、前エントリー最後で私は建築家の「作風」に対しては手緩い記述に留めていたが、ホンネを言うならば上記の議論はそっくりそのまま建築家にも返してしまいたいのである。素材一つ取り上げて自分の「作風」にされたら、施主はたまらんてな!(※2)
□◇
※1)「熱い日々 」当時、私はしろさんに対して建築家との化合について蕩々と説いてしまったが、改めて考えるに彼女がHMを選択したという判断は間違っていなかったと思う。ノアノアさんは「まとめてレス 」にて〈しろさんが思い描く「グリーンゲーブルズ」が100%完全なイメージがある!というなら建築家はその通りにつくってくれると思います、多分。でも、100%じゃなくって、90%だったりしたら、残りの10%が建築家によって色々に変化すると思うんです。それが受け入れられるか、受け入れられないか、それはやってみないと分からないんでしょうね。〉と書かれているが、おそらく彼女には100%のイメージが最初からあって、それを忠実に実現してくれる存在こそが重要だったのであろう。その意味においては明らかにHMの方が自分の作風にこだわらざるを得ない建築家よりも理に適っていたはずだ。
ただ、それでも尚かつ建築家と取り組むメリットを見出すとするなら、それは筋金入りのグリーンゲーブリアン建築家と組むことだ。それであれば、その家作りは100%を超えて120%、150%のものが仕上がるに違いない。ただ、残念ながら現在のところ、そうした建築家を探すことは容易ではないと思われてしまっている。でも、私はブログ、ネット、そして建築プロデューサーという存在の登場によって、そうしたグリーンゲーブリアン同士の出会いを可能とする土壌はすでに備わっていると考える。
あとはそうしたネットワークを如何に構築するかというだけの話である。
※2)最後の段落の建築家ってのは先の石川さん、豊田さん、前任建築家等、特定の個人を指すモノでないことは一筆入れておきたい。強いて言えば、大島本 のゲージツ家に属する建築家たちに対して物申してるところはあるかもしれないが(笑)
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2005年09月07日 (水)
朝妻さんの「石川淳氏 設計の家 見てきました。 」というエントリーで書かれていた「いつもながら“ 石川さんらしい ” 家でした。」を読んで思ったこと。
この場合の "石川さん" とは建築家であって施主ではない(そういえば昔、石川淳 という作家はいたが...)。そして外観から内部の様子に至るまで計10枚、おそらくは家の見せ場であろう写真が掲載されており、何となくそれを見るだけでも "石川さんらしさ" は充分伝わってくる。石川淳氏の公式サイト で過去の作品を幾つか見てみたが、朝妻さんの "石川さんらしい" というコメントはなるほど頷けるものであった。
ところでこうした「らしさ」というものは施主という観点で見るとどうなるのだろう。
実をいうと私は自分の家を「自分らしい家」だとは思っていない。それは家づくりにおいて実質的に私と同等の権限を握っていた母についても同様で「母らしい家」でもなければ「父/妹/妻らしい家」でもないという風に現時点の私には見えている。
こうした話を建築家の豊田さんとは話したことがないので、豊田さんがそれを聞いてどう思われるのかはわからないし、もし「私たちの家族らしさ」を考えて設計されたのだとしたら、この話は耳を背けたくなるだろう(スミマセン、豊田さん>汗)。
ちなみに豊田さんと取り組むことになる以前、つまり前任建築家たちの解任劇が続いた頃のプランというのはある意味で「私たちの家族らしい」家としての空気感を持ち合わせていた。というのも解任前に進められていたプランというのは実は父が書いた図面をベースにしたものであり、さらにそのもう一段階前の時点では私の書いた図面も検討されていて、それがそのまま実現ということになっていたとしたら、それはかなり「私らしさ」が前面に出てしまった建物となってしまっていたことだろう。
ところが結果的にそうした自分たちらしさを表象したプランを推さず、豊田新案で再スタートしようと思い立った背景には、むしろ私の中で「らしさ」を家の表現として追求することの危険性を感じていたからに他ならない。私にとっては父らしい家や私らしい家であるよりも、誰かを特定しない家であった方が、少なくとも「家族」という単位が暮らす場所としては住みよいのではないか?と思ったのである。同じ「らしさ」を追求するのなら「谷中らしい」家であることの方が重要だった。
ただ、冒頭で引き合いに出した建築家の場合はやはり逆のベクトルということになるのだろうか。それこそ「作風」という言葉があるように、そしてそれは実質的に建築家の実績=営業ともリンクするので、簡単には否定し難いはずのものである。
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