2005年08月21日 (日)
ハウスとホームとルーム
NHK新日曜美術館のアートシーンにて「建築家 清家清 展 ──《私の家》から50年」
(松下電工汐留ミュージアム)が紹介されていた。この展覧会、清家清自邸の原寸大模型が体感できるらしく、「移動畳」も含めて大変興味深いのだが 9/25(土) までに東京に行く用が出てくるかはかなり微妙で観られない可能性の方が高い(泪)
ところで番組では清家氏生前の肉声が流されていた。
ハウスっていうのはハードウェアですよ。そいでホームっていうのはソフトウェアだと思っていただいていいと思う。ハウスは火事で焼けることもあるし、地震で壊れることもあるし、戦争で壊れることもあるけどね。ホームが壊れなかったら、まず一番救われるんじゃないかしら、人は‥‥。
とそれを聞いて、妻とつい「そうだよ、そうだよ」とほだされてしまっていたのだが、ホリエモン流に乱暴に見るならば、これら両面共「金」との結びつき抜きには維持できないのが現代なのかもしれない。貧しさ(ここでは金持ちが急に陥る下落的絶望も含む)が「狂気」を呼ぶということが残念ながら確率論的に見て高い時代だからである。
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話は似ているようで脱線するが、最近ブログを知らない人にブログの説明を求められたときに「家」と「部屋」を例にして話すことがある。私は元来ホームページという言葉の使用をあまり好まないのだが(→理由)、ここではホームページと言った方が直感的にホーム(家)を連想しやすいので、ホームページで話を続けることにする。
まず従来ながらのホームページを家(ホーム)とし、ブログを部屋(ルーム)という風に想像してみよう。そして友達の家に遊びに行ったという風に仮定する。そのとき、友達の家のリビング的な場所(ホーム)ではどこかよそよそしい感じなのが、友人の部屋(ルーム)に通されると胡座でも掻きながら腹を割って話そうって気分になれないだろうか? それと似た感覚がホームページとブログの違いにはあるような気がする。
従来の個人ホームページという場には玄関+LDK+客間と似たようにトップペー+趣味ページ+BBSなどがあったりしたわけだが、どこに居ても行儀良くしてないといけないという感覚が家(ホーム)同様に感じられていた。
それに対してブログはダイレクトに友達の部屋に入った感覚、そしてその気になれば模様替えも簡単だったり(対してホームページのリフォーム=リニューアルは大変)と何かと似ている要素は多い。さらに部屋の本棚の本を貸し合ったり(トラックバック?)なんてことも気安くできるのだ。
‥‥とここで清家清の「ハウスとホーム」に結びつける気はさらさらないのだが、一見閉じた殻のように見える住宅(ハウス&ホーム)が外部に接続しているのは、「縁側」が失われて以降の時代においては殻の中の殻である部屋(ルーム)ということになってしまったのかもしれない。インターネット時代、いやブログの到来によって、その通達度(漏れ度)はますます深まって(広がって)いくばかりである。
「殻の中の殻である部屋(ルーム)」が外部との接続を担う、との視点は興味深いですね。現代では、かつての「縁側」のように、家族成員皆がその場所を外部との接点だと承認している空間が失われている、とも読めます。まさに「隣は何をする人ぞ」ですね。
by monodoi : 2005.08.26 18:37>monodoiさん
近年の大半の住宅が気密性を求めていく都合上、開きまくりの「縁側」は最もあり得ない存在になってしまうのでしょう。もちろん「家族」というものの捉え方そのものも時代の風潮・経済感覚とともに変わってきています。
ただ、現在の「快適性」重視の風潮はどこか人間の「欲望・欲動」といったものを無視していないか?と感じることがあります。これらは一見似ているようにも捉えられがちですが、はっきり陰陽(順番は逆)対峙するものでもあります。「縁側」はおそらくその両方を「縁」の曖昧さにおいて溶解させてたように思うのですが、現在は極端な方向に向かう以外に捌け口がなくなってしまったのかな?といろいろな事件に触れる度に感じさせられてしまいます。
by m-louis : 2005.08.27 02:21