2005年03月22日 (火)
一酔千日戯言覚書2「丹下健三さんが亡くなりました 」にて日本建築界の重鎮・丹下健三 氏の訃報に接する。それを読んだ時点でまだニュースサイトにその情報は出回ってなかったが、それからしばらくして「建築界リード 丹下健三氏死去 」という見出しでヤフーのトップニュース扱いとなっていた。91歳だったという。
丹下氏の存在は私にとっては必ずしもその輝かしい功績と符合するものではない。80年代末、東京都新都庁舎 計画で当時一番背高ノッポのツインビルプランでコンペを勝ち取った丹下氏の存在は学生だった私の目には政治家の腹黒いドン(金丸信にもちょっと似てたし)のように映っていた。むしろ当時の私は周囲の副都心高層ビル群よりも低い庁舎計画案を出した磯崎新氏のプランの方に惹かれていたものだ。
だが、学生時代の青臭さが抜け、ポストモダン建築よりも近代建築に魅了されるようになってからは、少なくとも公共建築に関してはやっぱり丹下の方が磯崎より全然すげーやと思うようになっていたのである。それには時代背景による素材=経済感覚の違いもあるのでやむを得ないところもあるのだが。。
当時、東京にいた私は一度ライブで代々木・国立屋内総合競技場 に行ったことがあるのだが、そこがオリンピックプール として使われていたのかと思っただけで背筋がゾクッとしたものである。建築で武者震いする経験って他に国内で思い出せるのは白井晟一の作品群くらいのものである。
ところで私は大阪に住むようになってまだ淡路島には行ったことがないのだが、先月たまたま友人の akanem 氏から淡路島南端の「若人の丘」に建つ丹下作の戦没学徒記念館 に行ってきたというメールをもらった。上記掲載写真は彼女が撮ってきた記念館の写真。私も花粉が飛ばなくなった頃にでも行ってみたいものだ。以下に彼女からのメールにあった訪問時の感想を一部転載しておく。
On 2005/02/27, at 21:46, akanem wrote:
今日は、前から行ってみたい、と思っていた丹下健三の幻の作品といわれる、
戦没学徒記念館に行ってきました。
ご存知ですか?(淡路島南端の「若人の丘」に建ってます)
震災後、閉館されたままで、いまや廃墟と化してますが、
最近の建物ではあまり感じたことのない、崇高さというか緊張感を感じました。
すでに崩れかけている石積みの美しさというか、なんというか。。。
建物自体にも力がある、ということを改めて感じさせられました。
中の展示物の一部は残されたまま埃をかぶっていて、
(それも、戦時中の写真や日章旗など)
周りの風景の美しさ、静けさ、建物の美しさとは対照的に、
何ともいえない雰囲気をかもし出していました。
機会があれば、ぜひ。というくらいオススメの場所です。
普通に景色が気持ちいいです。
□◇
※余談1)
丹下健三といえば、建築史家の藤森照信氏がまとめた限定2500部の 丹下健三・藤森照信 著『丹下健三 』があるんだけど、¥28,500- に未だ手が出ません。
※余談2)
丹下健三の公式サイト「KENZO TANGE OFFICIAL SITE 」ってどこが作ったか知らないけど、Flash のバカ使いの典型でアクセシビリティ最悪。特に「作品 」のコンテンツはメニューの「作品」クリックするよりも「プロフィール >代表作品 」で見た方がわかりやすいです。
※余談3)
戦没学徒記念館レポートのあるブログです。
・ポリタン・コスモ「戦没学徒記念館_by_丹下健三 」
・あさみ新聞「戦没学徒記念 若人の広場 」
※余談4)
読売新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。
読売新聞「丹下健三さんが死去…世界の建築界をリード 」 日本の建築界をリードし、「世界の丹下」と評価された文化勲章受章者の建築家、丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが、22日午前2時8分、心不全のため東京都港区内の自宅で亡くなった。91歳だった。
告別式は25日正午、文京区関口3の16の15東京カテドラル聖マリア大聖堂。喪主は妻、孝子さん。
1913年、大阪府生まれ。中学まで愛媛県今治市で過ごし、38年に東大工学部建築科を卒業。前川国男建築事務所に勤めた後、東大に戻り、助教授を経て64年に教授となった。
都市計画を専門とし、機能性と美の融合を図る近代建築を推進。広島市の平和記念公園(49年)のコンペで1等に選ばれて注目され、東京都庁第1庁舎(57年)や東京オリンピックの代々木・国立屋内総合競技場(64年)などの設計で世界的な評価を得た。
大阪万博の会場構成(70年)のほか、海外での仕事も多く、ユーゴスラビア、イタリア、中東などの都市計画、復興計画を手がけた。日本建築学会賞(54、55、58年)や英王室建築家協会のロイヤル金賞(65年)など内外の賞を多数受賞。74年に東大を退官して名誉教授になり、79年に文化功労者、80年に文化勲章を受章した。
以後は東京都の新庁舎(91年)、フジサンケイグループ本社ビル(97年)、東京ドームホテル(2000年)などの仕事がある。著書に「東京計画1960」「建築と都市」「一本の鉛筆から」など。
毎日新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。
毎日新聞「訃報:丹下健三さん91歳=建築家 」 東京オリンピックの舞台となった国立代々木競技場や東京都新庁舎など、戦後の代表的建築多数の設計を手がけ、日本建築史に巨大な足跡を残した建築家で文化勲章受章者の丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが22日午前2時8分、心不全のため東京都港区の自宅で死去した。91歳だった。葬儀は25日正午、文京区関口3の16の15の東京カテドラル聖マリア大聖堂。自宅住所の詳細は公表しない。連絡先は新宿区大京町24の丹下都市建築設計(03・3357・1888)。喪主は妻孝子(たかこ)さん。
大阪府出身。高校時代、ル・コルビュジェに傾倒し建築家を志した。1942年の大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選するなど、早くから頭角を現した。東大建築学科助教授を経て、64〜74年、都市工学科教授を務める一方、61年、丹下健三都市建築設計研究所を開設した。
この間、49年の広島市平和記念公園及び記念館の設計競技で1等入選。また、丸の内の旧東京都庁舎や愛媛県民館、香川県庁舎など公共建築を次々と手がけ、建築界に大きな地歩を築いた。
その存在を一躍国内外に知らせたのは、ユニークな曲線の屋根で、東京オリンピックのシンボルともなった64年の国立代々木競技場。つり構造が生み出した巨大な内部空間は、開かれた都市像の象徴とも評された。
以後、国家的プロジェクトの中心的担い手となり、70年の大阪万博では基幹施設プロデューサーとして、お祭り広場を設計。海外の都市再開発にかかわる一方、東京都の新都庁舎の指名競技設計にも1等入選。91年にオープンした同庁舎はスケールの大きさと壮麗なデザインで話題を集め、新宿新都心でも際立った建築となった。
79年、文化功労者。80年、文化勲章を受章。東大時代は丹下研究室から磯崎新、黒川紀章、槙文彦ら世界的な建築家を輩出するなど、後進の育成にも大きく寄与した。3冊の作品集や自伝「一本の鉛筆から」の他、「日本建築の原形」「人間と建築」など著書多数。
◇建築や都市設計が社会発展とともにあった時代の最後の巨匠
日本のモダニズム建築をリードした丹下健三さんが22日、亡くなった。広島平和記念公園、東京オリンピックの記念碑的建造物・国立代々木競技場、東京都庁舎。戦後日本の各時代を象徴し、人々の記憶に残る名建築を手がけてきた人だけに、その死はまさに巨星落つの感を与えずにはいない。
戦時下の東大大学院時代、日本の大きな設計競技で3年連続1等を獲得。建築界の鬼才として、すでにその名は広く知れ渡っていた。
戦後の都市復興計画に際し、広島担当を強く望んだのは、自分が高校時代を過ごすとともに、そこが両親の最後の地でもあったからだろう。
広島市の仕事が戦後復興のシンボルとすれば、60年代の高度成長期の記念碑は、オリンピック功績賞を受けた国立代々木競技場にほかならない。丹下さんは従来の柱りょう構造をやめ、「大工さんがヒモをつるして屋根のこう配を決める」ように、スチールの張力によるつり屋根構造を採用。多数の観客が柱に邪魔されず、流れるように移動できる豊かな空間を生み出すのに成功したのである。
丹下さんはその後も、世界建築界の巨匠として名声を博していくが、社会的な話題性という点で他を圧するのは、91年に完工した新宿の東京都庁舎だろう。総工費が1500億円以上にふくれ上がり、デザインの豪華さが際立つ外観も手伝って、当時は「バブルの塔」などの批判にさらされもした。
しかし、丹下さんは新都庁舎を「自治のシンボル」と言い切り、「批判するのは建築の贅(ぜい)を知らない人」と、最後まで動じなかった。その意味で丹下さんは、建築や都市の設計が社会の発展とともにあった時代を代表する、最後の巨匠だったのかもしれない。もしも丹下さんがなお健在であったなら、あらゆる発展神話が崩壊した現代の建築や都市のありようについて、どんなビジョンを差し出してくれただろうか。【三田晴夫】
■建築家、磯崎新さんの話──日本代表する仕事
日本で初めて近代建築を体現した建築家といえる。丹下さんの出現は20世紀後半の日本の建築を方向づけた。戦後、70年代前半までの時期に最も活躍し、広島平和記念公園や代々木体育館、大阪万博など、国家的なプロジェクトで中心的役割を果たした。戦後日本の成長とともに歩み、かつ日本を代表する仕事をした。巡り合わせもあるが、まれに見る建築家であり、それに値する実力を持っていた。
70年代以降、日本で国家的スケールのイベントが姿を消すに従い世界に場所を移し、そこでも中東諸国の国家的な建築物を手掛けた。突然の知らせを受け、時代の一つの大きな区切りを感じた。
■藤森照信・東大教授(建築史)の話──戦後史そのもの
日本人が思っている以上に世界的な建築家で、戦後日本が誇る造船や橋りょうの技術を使った代々木の競技場は世界に広く知られている。先端技術を駆使しながら日本の伝統的な美意識を取り入れた点でも高度な建築物だ。日本で一般大衆に名前を知られた最初の建築家だろう。広島の平和記念公園、東京五輪、大阪万博など、その足跡は日本の戦後史そのものといえる。
■建築家、東大名誉教授、安藤忠雄さんの話──大きな刺激受けた
世界中の建築家が、とりわけ広島の平和記念公園、香川県庁舎、代々木体育館に大きな刺激を受けたと思う。私たち後に続く建築家の心の中に、永遠に先生は生き続ける。
■建築史家、東大教授、鈴木博之さんの話──日本のモダニズム建築の父
日本の近代建築を真の意味で国際的にした巨人だ。先生に続く建築家が国際的に活躍する、まさにその下地を作った。その意味で、日本のモダニズム建築の父と言っていい。
◆主な作品・業績一覧◆
広島平和記念公園(広島市)1950年
香川県庁舎(高松市)58年
国立代々木競技場<代々木体育館>(東京都渋谷区)64年
日本万国博覧会マスタープラン(大阪府)70年
草月会館(東京都港区)77年
サウジアラビア国家宮殿(サウジアラビア・ジッダ)82年
赤坂プリンスホテル(東京都千代田区)82年
アラビアンガルフ大学(バーレーン・マナマ)88年
パリ・イタリア広場<グラン・テクラン>(フランス・パリ)91年東京都新都庁舎(新宿区)91年
フジテレビ本社ビル(東京都港区)96年
※余談5)
大阪万博での丹下氏は岡本太郎に引け劣らぬ原動力となった立役者のうちの一人だった。おそらく愛知万博直前の死にそうした因縁を持ち出す記事が多発されるだろうが、それはちょっと丹下氏には失礼では?と思ってしまうのは愛知万博をよく知らないから言えることなのか? どーなんでしょ?
愛・地球博 (^^;)
※余談6)
BLOG×PROCESS5「世界旅行 Vol.11 丹下 健三 」に Google Satellite による代々木国立屋内総合競技場の映像が掲載されてます。一般に建築家は模型でモノを考えてるだろうからこうした俯瞰イメージは思いっきり想定内なんだろうけど、ビジターとしてこういう視点に立つとなかなか刺激的なものです。
そして最後にはなりましたが、丹下氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。拝
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2005年03月20日 (日)
ノアノアさんが奮闘続けてられる「どこと建てるべきかシリーズ (いや、これが朝妻さんも旋毛曲げちゃうくらいに《つづく》続きなんですが、teacup のブログって本文スペースの横幅狭いもんで、その方が見せ方としてはビジターに優しい気もします。ただ、トラックバックしようとするとどれ選ぶかで迷いますが)」のエントリー。
ノアノアさんの場合、私のように端から建築家じゃないと〜というのではなく、順繰りにすべてを体験された上で(契約したハウスメーカーを解約もされているらしい)、ハウスメーカー、建築家、工務店それぞれの立場に立たれて見られていて興味深い。特に建築家を「擁護すべき立場なのでは」という視点に立たれたのは、やはりまず何よりも家づくりが「成功(朝妻さんが使う言葉の意味において)」だったことを示しているように思う。それと同時にそうした視点に立たれたからこそ、家づくりが終わったあともこうしてブログで意欲的に「家」のことについて、それも「自分の家」自慢を超越したところで書き続けられているのではないだろうか。
よってこの件に関するリアルな観点からの議論はノアノアさんにこのままお任せしてしまおうと思うが(コメント欄のバトルも決して掲示板等にありがちな貧しいバトルに終わってないのでお見逃しなく)、私の方ではある種冗談レベルに話を落として、もう少し遠く離れたところからこの問題について考えてみたい。コメント欄ではノアノアさんでさえ「現実離れした理想論」と言われてしまっているが、私の方はもう最初から積極的に現実離れしたところに話に持って行くつもりである。
まず、ノアノアさんがどこと建てるかで出されていた選択肢が「ハウスメーカー」か「建築家」かなのであるが、私はこれに以下の選択肢を付け加えることにする。
・ハウスメーカー
・建築家
・工務店企画
・施主企画工務店持込
・建築プロデューサー
・セルフビルド
・中古物件リノベーション
・マンション
・賃貸
・家なし
他にも考えればいろいろ出てくるだろうが、あまり書きすぎてもわかりづらくなるだろうからこの辺で止めておく。で、これらを横の軸としたとき、そこに縦の軸として家族内の関係力学という視点を紛れ込ますとこれらの選択肢がどのように瓦解していくか?──それが本エントリーのテーマである。
ここで少し具体的な話に戻すと私の家でも実際計画を進めている最中、あるいは終えてしばらく経った現在にあっても、家族各人でどの選択肢が向いていたかはまるで異なるように思えるものだった。それが一つの選択肢に絞れてしまえたのは、当然家族内の力関係があるからに他ならない(我が家では名義上の筆頭施主である私と実質上の仕切人である母による判断がその主を占めた)。
もちろん世の中には家族皆が大枠のレベルで同じ方向を向いた幸せな家も存在するのだろうが、現実的には様々な現代病が「事件」として浮上するこの時代、そうした幸せな形自体が稀少価値となっている気がするというのは強ち穿った見方とも言えないだろう。乱暴に言ってしまえば、家づくりという現場はすでにそれをやるかやらぬかの時点からして家族内での「お仕着せ」というものが始まっているのだ。
ただ、私はそのことを必ずしも悪いことだとは思っていない。多かれ少なかれ何らかのプロジェクトを始める際にはそうした上下関係は発生するし、また上下関係があった方が事の進行をスムーズにさせることの方が多いからだ(そこをスローでやれたらそれはそれで素晴らしい話なんだろうけど)。ただ、ここで私が言っておきたいのは、仕切る立場に立った者は常に仕切られてる側の立場を振り返って計画を進めるべきではないか?ということだ。もちろん自分の趣味で飾られた家をとことん追求したい気持ちもわかるが、世の中、大概に置いて「他人の趣味」というのはウザイものだったりするのである。たまたまさきほど rattlehead さんの「今日のかまける 」にコメントしたばかりだが、作家の島田雅彦氏が自邸公開住宅論『衣食足りて、住にかまける 』において
客人には緊張感を楽しんでもらう(P.50) 他人の家に招かれた時の居心地の悪さは何に由来するか? その家が家主の趣味で調度や置物などが統一されていると、何か気詰まりに感じることがある。住人にとっては自分の趣味で統一した部屋の居心地は最高だろうが、客の方はこの趣味を押しつけられるわけで、居心地がいいとはとても思えない。
案外、殺風景な家の方こそ居心地がいいものである。
と書かれているのと話はリンクする。同じ家族であってもそれは個人の集合体であるのだから、本質的にはこの問題が残っていることを忘れてはならない。
が、ここで一見反動的なようだが、個人の欲望を最大限追求するのに最適な方法として「家なし」を挙げたい。ホームレスというと悪い印象を抱くかもしれないが、私は現実的に現時代にあっては豊かな「家なし」生活を送ることは可能と見ている。
これは先日上京したとき、建築家の豊田さんとも話したことなのだが、無線 LAN が駅や大手ビル、またファミレスなどで導入されるようになってきた現在、ノートPC一つを洒落たリュックか何かに入れて、プジョーあたりの高級折りたたみ自転車を乗り回し、企業では有能プログラマーとして重宝される「家なし」族が現れても一向におかしくない時代が来ていると思う。彼らの寝場所はもちろんホテルであってもいいし、会社、友人宅、カラオケルーム、マンガ喫茶、サウナ等々、探せば幾らでもあるので、その日の気分次第で寝泊まりするところを選べるのだ。調子が悪ければ病院で寝るってことだってできるだろう。そして趣味の世界はどこかに簡易スペースを借りてそこを趣味のものだけで満たすってこともできるだろうが、それ以前に現在はノートPC一つあればかなりの趣味領域をその液晶モニタの中だけで満喫できる。この話は一見極端なようだが、私はこうした輩がこの先溢れ出てくるのがもう目と鼻の先のように思えてならない。
なお、今、私は敢えてファッショナブルに優雅な「家なし」ライフの側面を取り上げたが、実は私の友人に「居候ライフ 」というプロジェクトを立てて、もう10年近くずーっと他人の家を渡り歩く居候生活を続けている小川てつオという存在がいる。彼の生き方は上記のファッショナブルライフとは程遠いが、おそらく彼の毎日はそうしたレベルとも比較にならないくらい色んなレベルにおいて豊かなもののはずである(その豊かさにはもちろん負の経験も含まれている)。一度は哲学的に考えてみるべき事例として紹介しておきたい。あるいは彼を居候させてやってください♪
さて、すでに話がだいぶ長くなってしまったので、ここではもう一つの選択肢のみを取り上げて終わりにしてしまうことにする(他のものはすでに各所で語られているので、私が取り上げるまでもないでしょう)。それは以前に「岡土建と無印良品の家 」のエントリーでも紹介した、岡啓輔氏が自邸で取り組んでいるセルフビルドである。実は同エントリー内でも触れた岡氏が藤森照信特別賞を受賞した「SDレビュー2003 」では岡氏以外のノミネート作品においてもセルフビルドの傾向は強くあったのである。
セルフビルドといえば、garaika さんのお父様が建てられたログハウス も同様にセルフビルドによる代物だが、この家が家族総出で作られたとされているように、セルフビルドで臨む場合、これはもう「家族」という範疇に留まらず親戚から友人、ご近所さんまで、それこそまわりの仲間たちと家族的な関係を結んで、目的達成へと向かって行かねばならないのは自明のことだろう。セルフビルドとはその名称に反して、一見個的でありながら、実は最も公的な取り組みとならざるを得ないものなのだ。まあ、昔の家づくりというものが本来はそういうもんだったと思うのだが。。
以上、こうしてここでは2つの極端な事例を取り上げてみたわけだが、もちろん私を含む多くの一般人はその間でどういう選択肢が自分たちに向いているのかを考えて行くこととなる。だが、必ず訪れる行き詰まりのときにこうした極端な視点に今一度立ち返ってみると案外それまで考えもしなかった見え方が出てくるかもしれないということは頭の片隅に入れておいてもよいのではないだろうか。机上の空論は全く役に立たないものではないはずである。というか、これまでも匂わせてきたように、机上の空論の方が現実に肉薄しつつある畏るべき現在なのだ。
ちなみにこれら極論のみならず、すべての方向性の間に立ってくれそうな存在として「建築プロデューサー」なる新職種が生まれ始めている。どうにも立ち行かなくなっているのであれば、一度相談してみるというのも手かもしれない。おそらく精神分析医のようにこんがらがってるところを一つ一つ繙いて行ってくれることだろう。メンタルヘルスを恥じらうような時代でもないわけだし、、と最後に微妙に営業モード(笑)
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2005年02月28日 (月)
最近何かとコメントやトラックバックでお世話になってる業界唯一完全独立系建築プロデューサーの朝妻義征 氏から氏のプロデューサー暦10年の集大成!! という著書『家づくりは、はじめてですか? 』を送っていただいた。ここ最近ずっと仕事で忙しくしてるもので、リクエストしておきながらすぐ読み掛かれるような状況ではなかったはずなのだが、食事中に数ページを捲ってしまったのがまずかった。朝妻さんを思わせるジンという怪しい男に誘われて、ついそのまま最後まで驀進。ま、精神衛生的にもこうしたものが手許に読まれぬままあっては仕事にも身が入らなかったろうからやむを得ない(スミマセン、クライアント様)のだが、いずれにせよ家づくりした者が一旦読み始めたら絶対最後まで読まずにはいられないだろう本だった。
「家づくりの迷路に迷い込んだ30代の主婦の前に『家づくり成功ツアーのガイド』と名乗る変な妖精が突然現れた。彼女は無事に迷路の出口を見つけることができるのか?」と帯にもあるように話はファンタジックな物語仕立てで進むのだが、何だか最後までずっと「ふむふむ」「ふむふむ」と頷きながら読んでいたような気がする。ネタバレになるのであまりディテールには踏み込まないでおくが、ここには家作りを通して学べた思考展開がファンタジーとしてはかなり胡散臭い(だからこそリアルで面白いのだが)やりとりの中でじっくりと常に後ろを振り返りながら再現されていく。
で、ここで重要なのがこの「じっくりと常に後ろを振り返りながら」という点だろう。家づくりにおいては自分を含む家族の生活・趣味・嗜好から家づくりという行為そのものに対してまで常にそれをゼロから洗い直しとことん見つめ直すことが求められるが、それらは「じっくりと常に後ろを振り返りながら」やっていく以外に方法はない。というか、それを端折ろうとするのなら何もわざわざ建築家と家づくりする必要もないのだ。ある種、新ジャンルとも言えそうな胡散臭いオヤジファンタジーという形式が採用されたのも、この「じっくりと常に後ろを振り返りながら」を何とか表現のレベルに落としていくための手法だったのではないだろうか。
と以上は家づくりを終えた施主視線による雑感。
が、他方ではこの本を読みながら、もし家づくりを始める前の施主が読んだらどんな印象を持つのだろうか?ということも考えていた。それについては家づくり前に戻れぬ私にはもはや想像でしかないのだが、ひょっとすると「じっくりと常に後ろを振り返りながら」が仇となる可能性もなくはないかも?とも思えてしまった。家づくりをこれから始めようとしている多くの施主は手っ取り早く家づくり成功の秘訣だけ教えてくれる本を求めているような気がするからだ。
とすると、これは家づくり完了組の施主が「とにかく騙されたと思って読んでみぃ!」と各所で積極的に推薦していくべきではなかろうか?(朝妻さん、失礼な物言いでスミマセン) ノアノアさんのエントリー「施主適齢期 」コメント欄で書き込んだ「施主連合で施主必読書50」ってのも結構マジで考えたい企画なのである。
それと最後に余計なツッコミを一つ。
本を書棚に収めようとしたときに気づいたんですが、朝妻さん、なぜに背表紙を白紙(+赤)にされちゃったのでしょう? 規格外れの本って何だかんだ最初は目立っても後々始末に負えなくなってくるものですが、何も地味な方向性で規格外れなことされなくても....(^^;)
□◇
朝妻本に捧げるレビューが施主ブログで続々エントリーされてるので以下リンク一覧。
著者本人による自著本についてのエントリー一覧。
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2005年02月22日 (火)
「住宅建築ネットワーク 」のコメントスペースでは施主と設計者の「恋愛結婚」という言葉が出て来たが、結婚適齢期という言葉があるように施主が家を建てる適齢期というものはあるのだろうか。今回は祖父のケースを引き合いに出して考えてみたい。
私の祖父は自邸=三鷹金猊居を29歳で建てている。
身内贔屓であることを承知で言うならば、あらゆる意味において早熟だった私の祖父は自分の家を建てるということにあっても、自ら実施図面 まで引いて大工を指示する辣腕振りを発揮していた。当時祖父の本職は日本画家だったが、工芸や建築への造詣も深く、日本画での繊細な描写 を得意とする祖父にとっては建築図面を精緻に描くことはお茶の子さいさいだったにちがいない。何せ残された図面のコピーを見た私の知り合いの建築史家もぶったまげてたくらいだから。
しかし、そんな早熟多才な祖父が私の目から見て決して満足な一生を送れなかったように思える理由の一つにこの三鷹金猊居の存在があるような気がしてならない。1997年10月に祖父の遺作展(※1) を企画した私はその挨拶文で「不遇」という言葉を使ったが、今回の家作りという経験はその言葉の採用に些かの疑問を抱くものとなった。私は9歳のときに祖父を亡くして以降、母方の身内からは事あるごとに祖父は無念を残したまま死んでしまった、時代が悪かったという話を聞かされてきたが、果たしてその話を鵜呑みにしていて良いのだろうかと思い始めたのである。
「不遇」という言葉には運や巡り合わせといった自力ではどうにもならない不可抗力が働いてしまったからこそ陥ってしまった不幸な境遇といったニュアンスがある。確かに祖父の場合は「時代が悪かった」という言葉が示す通り、人生これからというときに太平洋戦争を迎え、また両親に弟の戦死と相次ぐ身内の不幸にも翻弄された──そんな話を聞かされれば迷うことなく「不遇」という言葉をあてがいたくなってしまうものだが、どうだろう? もし祖父がそうした人生の分岐点ともいうべき時期に自身の家を構えていなかったとしたら? 家作りという大事業に身を投じることなく画業に専念していたとしたら?──もちろんこの疑問に答えを出すことはできない。だが、祖父の履歴書は自邸の完成以前以後であまりにも歴然とその明暗が分かれているのである。即ちそれは祖父が人生の岐路において致命的な選択ミスをしていたのではないか?(つまりおしなべて「不遇」とは言い切れないのではないか?)ということだ。
ここで結論を出す前に祖父が家を建てた時期のことを再検証しておきたい。
三鷹金猊居は資料に拠れば1939(昭和14)年、即ち日独伊三国同盟が成立する前年、第二次世界大戦が勃発せんというときに建てられている。その2年前の27歳で祖父は結婚しているので、年齢的には早いような気もするが、結婚を機に一家の主として居を構えたくなったというのは当時においても自然な流れと言えるだろう。
だが、ここで当時の時代背景の方に目を傾けると、何て不安定な時期にそれも東京の三鷹という充分戦火の及びそうな地域に家を建ててしまったのか?という声が聞こえてきそうである。だが、それは歴史を後から見た者の視点であり、実は北朝鮮のテポドンがいつ飛んで来るか知れぬのにそのことにさほどリアリティを持てずにいる現在の我々と似たような状況なのかもしれない。つまり築造当時、東京が戦場になることなど多くの国民は考えもしなかったのではないか。とすれば、その時代性において祖父が家を建てる時期を見誤ったとは一概には言いづらくなってくる。
むしろ私が疑いを掛けたいのは当時の祖父の内面の方にある。さきほど私は結婚→新築を自然な流れとしたが、それはあくまで当時にあって完全に自立した一般成人のことを差しているのであって、祖父にもそれが該当するとは実は考えていない。家作りの経緯については長女である母でさえ家が完成して5年後に生まれているので、例えばどのような資金繰りが行われたのかとかいう実情を子供心に見ることもできなければ、ちゃんとした話としても聞かされてもいない。だから想像でしかモノが言えないのだが、少なくとも私の目から見て、日本画家だった祖父が自力で家を建てたとは到底思えないのである。ましてや東京という土地でありながら広大な敷地に精巧極まる建具意匠と、とても標準的な家のスケールでは収まり切らぬ、言ってしまえば屋敷に近い家を建ててしまうことが出来たのには、祖父母両実家およびその周辺親族の財力(援助)あっての話と思わざるを得ない。
これも推測に過ぎないのだが、おそらく祖父は祖母と結婚したことで、その虚栄心から三鷹金猊居をあのような若さで建ててしまったのではないか?──それが私が今回の家作りを通して辿り着いた祖父の「不遇」という境遇に対する新たな見方であった。即ち祖父は不遇な境遇から自分の人生を貧しくしたのではなく、自らの虚栄心によって人生のバッドカードを引いてしまったのではないか?ということだ。それは何だかんだ言いつつ30代前半で自分がすぐに住むという訳ではないものの、施主責任者として2年掛かりで家作りに没頭していた私自身にも微妙に重なっている。
少なくとも祖父は自分がアーティストだという自覚で生きていこうとする限り、そんな歳で家を持つ必要などまったくなかったはずだ。大作を描くためのアトリエが欲しかったということもあるのかもしれないが、まともなアトリエを持たずに大成した画家など幾らでもいる。むしろ画家と貧乏はいつの時代も背中合わせのものであり、アトリエ持つのも家を構えるのも、それらは本人の納得行く成果が得られてからでも遅くはなかったのではないだろうか。良くも悪くも家を建てるということはその人間の自由を束縛するものなのだから。
*
以上、これはほんの一握りしかいないアーティストという職種の特殊事例とも言えるが、自分の家を建てる時期というものが人生に及ぼす影響という意味では、どんな職種の人間にとってもそのタイミング(適齢期)の重要性は変わらないだろう。
住宅ローンの金利が変わるとか、住宅減税、消費税といった類の利率が変わるといったことから住宅購入を急かせようとする業者はたくさんおり、漠然と家を建てたいと思っている者にとっては仮に1%でも額が額だけについ心を揺さぶられがちになるのはやむを得ない心情だろう(言うまでもなく営業担当者はそこを突いてくる)。実際、我が家でも税金控除を目当てに最初の建築家に設計期間の短縮を迫ったことはあった(まあ、最初がのろのろしすぎてたとも言えるのだけど)。だが、そうした焦りから来る切迫は失敗に結びつきやすいものであり、事実それによる失敗を経験した現在、まあ、自分自身が今後自分のために家を建てるということは全く考えられないけど、もしそれがあるとするならば、それは自分を含めた家族が家を持つということに当たって完全に機が熟したと感じられるようになってからで充分なような気はしている。タイミングを誤った人生はなかなか取り返しが利かないが、利息分のお金というものは節約しながら働けば何とかなるものである。住環境を半ばゼロから再整備するに等しい家作りは、社会における自身の力量がおおよそ見え始めるだろう(それは自ずと自身の晩年が朧気ながら見渡せるようになるときであろう)人生の折り返し地点あたりがその適齢期ではないか?というのが私の現時点での持論である。
*
最後にもう一度祖父の話に戻るが、私の中では今回こうした結論を出しておきながら、他方で祖父は画業で満足な結果が残せなくても、実は愛する妻との暮らしを心ゆくまで楽しんでおり、まわりが言うほどには不幸な人生でもなかったのではないか?とも考えていることを追記しておきたい。まあ、それを言ってしまうとここまで書いてきた話がすべて身も蓋もなくなってしまうのだが、ある種の諦めの境地の上に成立する(余生?)しかしながら幸せな生活ってどうなんだろう?ってことを34歳の人間が言うべきじゃないんだろうけど、私もまたすでに家を建ててしまってるだけに自らに引き寄せて考えたくなったりもするのだ(汗)
祖父の遺作展で作成したリーフレットには、晩年の祖父が祖母に宛てて書いた手紙が掲載されている。もちろん祖父の許可なんてものはある訳なく、というよりもその過激な内容のため、身内の検閲(顰蹙)を半ば無視する形で私が強引に載せてしまったのだが、その手紙を読んでいると人生の敗北を語りながらもどう見ても不幸というよりは幸福にしか見えない夫婦像が浮かび上がってくるのである。
どこかにテキストデータは残ってるはずなので、見つけたらここでもアップしちゃおっかな〜と(笑)
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※1)「丸井金猊とその周辺の人たち」展 ── ごあいさつ 昭和初期の社会的混乱期に日本画家としてスタートを切った不遇の芸術家、丸井金猊。この展覧会は、没後20年になろうとする金猊のほとんど知られることのなかった作品を、初めて公に公開しようとする金猊の初個展であり、と同時に遺作展です。
活動期から60年以上の年月が経ち、あらゆる情報が風化/混濁化しているため、大作屏風2点を含む軸・額・オブジェ・習作など60点あまりの残された作品(と思われるもの)は、ある程度の時代区分を設けるだけで、こちらの趣意による特別な選定をできる限り避けて展示することにしました。
他方、薄れゆく金猊の情報を現時点で少しでも確保しておくために、金猊とゆかりのある作家、あるいは友人、教え子、親族らに本展に寄せて出品、もしくはメッセージをお願いし、金猊の情報に少しでも多く触れられるよう工夫をしてみました。作品という饒舌/寡黙な物質とはまた別の側面で、作家の肖像に親しんでいただけたらと思っております。
最後になりましたが、この展覧会実現のため貴重な作品の貸出しをご承諾下さいました所蔵家の皆様、ならびに関係各位に深い感謝の念を表します。また本展の軸・屏風のほとんどの表装を手掛けて下さいました牛田商事【飛高堂】様には、搬出入から企画の相談まで格別のご協力を賜り、心から御礼申し上げます。
1997年10月 主催者
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2005年02月11日 (金)
社会学者の宮台真司氏が TEPCOインターカレッジデザイン選手権 という公開審査会の司会をされていたらしく、自身のブログ でも「第二回 TEPCO インターカレッジデザイン選手権を終えて 」というエントリーで手短かにその模様を伝えている。
私自身はその審査会自体、宮台氏のブログで知ったくらいなのでここで何も触れられることはないが、宮台氏がまとめられた記事には短いながら建築関係者のみならず施主にとっても気になるテーマが各所に散りばめられているので、少しここに引用しながらコメントしてみたい。尚、引用してるので余計な解説は省略する。
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■「コミュニケーションを触媒する住宅」というお題を出した。住宅から街づくりまで、「何を設計したのか」の実質は、見栄えになく、不可視のコミュニケーションにある。
■触媒は、無いものを作り出すのでなく、既存の化学反応の生起確率を上げるもの。「住宅に現にどんなコミュニケーションが存在するか」の観察を、僕なりに要求したつもりだ。
「住宅に現にどんなコミュニケーションが存在するか」の観察を施主家族が手っ取り早く行える手段として、それまで住んでいた家の間取りを描いてみるという方法がある。そのことに私は最初の建築家たちとの間で行き詰まってどうにも立ち行かなくなり、自分で図面を書くという禁を犯したときに初めて気づいた。自分の書いた図面には局所局所で構造的に昔の家を模したところが不思議と現れてくるのである。
うちの家族は決して円満な家庭と言えるものではない。というか、これまでも幾度か触れてきたように問題の最も多いのが両親の関係である。その両親は前の三鷹金猊居では父が一人ハナレで暮らすという、ほとんど敷地内別居と言ってよい状況だった。建築家にはそうした状況も踏まえた上で基本設計のプランニングを進めてもらっていたのだが、実際そこで伝達されるのは「両親が仲が悪くて敷地内別居生活」という情報までで、そこでどんな生活動線が描かれていたかというレベルにまでは話は及んでいない。
例えば母は洗濯物をハナレに住む父の部屋の前で干していて、実は視線上無意識裡に互いの存在を確認している時間があったなんて話は、ただ、施主が自分たちの希望案件を言葉で列挙していくだけではそう簡単には出て来ない、しかしながらこの決して円満とは言えない家族にとってはこうした些事でも「コミュニケーションを触媒する」一つの有効な手掛かりとなるはずだ。そして、こうした話は頭でアレコレ言うよりも大概において手を動かして具体的なオブジェクトをなぞってみたりするうちに思い出されるものである。その際に注意すべきは単にこの部屋は広くてこの部屋は狭いということよりも部屋と部屋がどう接続していたか、あるいは何によって切断されていたかということを注意深く見つめ話し合うと良いだろう。長く住んでいた家の間取りには必ずその家の暮らしの文法みたいなものが凝縮されているはずである。
■第一に、透明に見通せることを「コミュニケーションの触媒」だと勘違いする作品が多過ぎた。それではコミュニケーションに必要な最低限の感情的安全が得られないだろう。
こうした提案が多く出てくるというのは、以前に「岡土建と無印良品の家 」のエントリーでも触れた「開放的な一室空間」志向が世間的にブームとして囃され過ぎてることから来ていると思う。おそらく「コミュニケーションの触媒」というテーマ設定がなくともそうしたプランが出て来てしまうのではあるまいか。
ただ、こうした方向性は同エントリーでも記したようになかなか侮れないところもある。あらゆる面での効率化と零度(透明性)への志向というものは案外一致するところが多いからだ。そして、そこに閉じられた領域とはいえ「可変性」というオプションが加わった状態というのは、言ってしまえば Movable Type のテンプレートをちょこっと弄ればサイト全体の雰囲気を一気に変えられるといったようなもので、私自身もその手軽さについ安住してしまっているのだ。とにかく侮れない。
■第二に、家や町が公私と上下の組合せから成り立つことを見抜いてほしい。洞窟の奥の見えにくい所が私。出口近くが公。私的な場に居て良いのは、上(強者)か下(弱者)か。
この問いは如何にも社会学者ならではの視点と言えそうだけど、裏を返せば私たちは家作りにおいて既存の(困った)上下関係を組み替えるチャンスを持っているとも言える。これも以前に住んでいた家の間取りを自分の手で書き出してみることから始めると面白い発見があるかもしれない。
■第三に、時間/空間的に視角が限定され過ぎだ。時間的には「今」を相対化し、住居史に知恵を探りたい。空間的には「ここ」を相対化し、立地場所に想像力を働かせたい。
■建築は、見えるものを通じて見えないもの(コミュニケーション)を制御する。それを徹底して思考することが建築家に要求され、それを批判することが社会学者に要求される。
「今ここ」を相対化する(できる)のが学者の仕事。だが、建築家にそうした学者の視点は必要なのか私にはよくわからない。というより、施主の我が儘な立場からすれば依頼した建築家には確定した土地とその周辺(人まで含めた)、そして計画を進めている現在の取り組みから家の経年変化を見通したところのメンテまでを最大限見つめられる視野を持っていて欲しいと思ってしまう。実際、建築家に「哲学」を感じたのはそうしたものへの視座を見せられたときだった。そういう意味では時間/空間の固有性に囚われず行われるコンテストの類は何の哲学・技能が問われているのか今イチ謎である。
ところで施主に要求されているのは何か?
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2005年01月29日 (土)
garaikaさんの「施主予備軍のBLOG活用──依頼先探しにどうか 」のコメントスペースで再び施主連に建築プロデューサーの朝妻さん も交えて話が盛り上がっている。
「ブログ」というメディアを通してこれから家を建てようとしている施主と建築家が結びつくような、そんな新たなコミュニティ(ネットワーク)は作れないものか?というわけだが、おそらくこの発想はこれまであったような個人の「ホームページ」ではなく「ブログ」だからこそ、そこまで話を発展させて考えられるようになった性質のものであるような気がしてならない。もちろんこれまでにも建築家と施主を結びつけるようなサイトは幾つか立ち上がっていたが、端から見ているとどうも他人行儀というか、言ってしまえばお見合いだけして結婚してしまうようなシステムのもとに作られているように見えてしまうのだ。もちろん見合い結婚だって成功の例はいくらでもあるだろうが、やはりそれは運任せの要素が強い。無論10年付き合ってみたからといって、相手のことは何でもお見通しというほど「人間」は簡単ではないが、それは結婚後も同様の話である。
話が脱線したが、要は「ブログ」の存在ってものが見合いより一歩踏み込んだところで相手のことを見つめることができる、そうしたメディアになりつつあるということだ。無論、虚飾で塗り固めたブログもあるだろうが、日々淡々と更新される「ブログ」というメディアは、そのある種強迫的ともいえる反復性によって個人の無意識を露見しやすいものにしていることは疑いない。そしてそうした無意識的繰り返しの中で漠然と見えてくるものこそが「人の個性」というものではないだろうか。それはこれまでのきちんとした、敢えて言うなら個人の趣味の寄せ集めのような「ホームページ」からでは伺い知れなかったところだ。それは建築家の運営する Web サイトにおいても同様で、もちろんこれまでどんな家を建てて来たのかということをチェックできるという意味では重要だが、サイトのデザインや雰囲気ってものはいくらでも外注可能なのだ。それは言ってしまえば、見合いの席で相手の収入や家柄、業績や身長なんかをチェックするようなもんで、一体それで相手の何が知れただろう?という話なワケである。
まあ、しかし、だからといって施主と建築家のブログを結ぶ有効な手段が見つかっているわけではない。そこで私は garaikaさんのところのコメントで、ある意味ではありきたりだが建築家と施主を交えたワークショップを一つのきっかけとして提案したわけだが、こうしたものが、ただ単発で行われるのではなく、個人ブログともリンクしながら自然発生的に醸成していくことが望ましいと考えている。もちろんインターネットを通じて遠くの人とのやりとりが盛んになるのも喜ばしいことだが、住宅建築の場合、やはり何はともあれ「土地」という動かぬ物件があるのである。人と人が、人と土地が直接顔をまみえることほど重要な繋がりはない。
ただ、実をいうと私はあんまり「ワークショップ」という言葉が好きではない。1995年頃から妻の地元で行われていた灰塚アースワークプロジェクトに関わっていたときには画期的な活動だと思っていたが、最近は公共機関などが猫も杓子もワークショップやっておけば問題ないみたいな状勢になってしまっていて、ほとんどお遊戯の延長みたいに見えてしまう場合がある。ちょうどそんな風に疎ましく思い始めていた矢先に「自らが組織したいと思うワークショップの計画案」という課題で計画書を提出する必要が出て来たもんで、ワークショップに対する鬱憤晴らしと言わんばかりに家作りに託けた「ワークショップ計画案」を去年の2月頃に書いていた。とにかくそこでは実践的であることを第一義に考えた起案となっているのだが、rattlehead さんの「今日の素人作図 」のコメントスペースで書いていたこととも内容的に対応している。
そんな訳で長いけど、以下追記欄に全文掲載しておきたい。
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自らが組織したいと思うワークショップの計画案
現在、私の実家は東京の谷中(台東区)にギャラリースペースを併設する新しい家を計画・建設中である。計画は2002年夏から始まり、当初の予定では2003年夏竣工のはずだった。ところが初めに依頼した建築家(私の友人だった)とある段階からうまく行かなくなってしまい、結局辛い決断とはなったがその建築家を解約し、新たに地元で見つけた建築家と再スタートを切ることとなった。幸い新しい建築家とは相性も良く、その後の計画はトントン拍子で進み、来月初旬には上棟式、そして本年夏竣工と完成までの工事日程も概ね固まっている。
こうしてほとんど一年遅れとはなってしまったが、最終的に家族全員納得の行く家ができそうだというところまで辿り着いたという意味では、前建築家との失敗の経緯も含めて、施主としての不満はない。だが、本来クリエイター側の立場にあり、クライアントと相対する仕事をしてきた者としては今回の施主経験は大いに考えさせられるものがあった。
先ほど、私は今度の建築家とは相性が良かったと書いた。それは言い換えれば前建築家とは相性が悪かったということを意味する。もちろん施主として仕事を発注する際にクリエイターの資質、制作志向&嗜好といったものを確認しておくのは当然の心構えだろう。うちの場合は最初それが昔から知る友人であり、彼の独立後第一作となる予定だったから、ある意味で彼の学生時代からの言動や活動内容にかける期待の方が大きく、相性といったものが二の次的になってしまっていたことは否めない。だが、私の中では「相性」というものが仮に多少ズレていたとしても所詮は趣味の相違の問題であり、それらをファンクションで捉えて別のものに置き換える器量があれば乗り越えられるという考えがあった。おそらくその認識は最初に依頼した建築家も共有していたはずだ。
しかし、現実にはその「相性」に負けてしまったのである。
もしこれが住宅建築ではなく、Webサイト構築の話だったならばどうだったろうか? もちろんこの二つのメディアを安易に比較するのは危険である。だが、Webサイト構築の現場にクリエイターとして携わってきた者として言うならば、今回の自分たちほどに厄介なクライアントと出くわしたことはなかった。
無論、Web制作においてもクライアントとの相性の良し悪しはある。だが、Webにはカスタマーズユーザという第三者の存在が非常に大きくあり、もちろん単純な相互妥協による解決も多く存在しうるが、クライアントとクリエイターの相性とは別のレベルで議論の余地が残されている。
ところが、今回施主経験した住宅建築には事実上そうした第三者は存在しない。住宅という性質からも創造の現場は常に閉ざされた中で模索され、そこでの成果は建築家を媒介として工務店をはじめとする各専門ジャンルのエンジニアや職人に伝えられていく。例えば仮に工務店が建築家に批判があったとしても、本来その声は決して施主に届くことはない。詰まるところ、施主は建築家を信じるか否かの選択肢の中だけで次のステップを踏んでいかなければならないし、建築家もまた施主の不信を買ってしまった場合に挽回する術をほとんど持ち得ないのである。
こうした性質を持つ職業として他に医者、弁護士あたりが咄嗟に思いつくが、それらはどれもクライアントのプライバシーに深く関わるという意味において似ているし、ゆえに相互間の「相性」が重要視されるのも謂わずと知れた話だ。
今回、私が住宅建築の施主を経験して痛感したのは、「建築」というクリエーション行為が他のそれとは少し趣を異にしているということと、だが、しかしそれを今後ともに「相性」の問題で片付けてしまっていてよいのか?という問題である。実は私は今回の経験を通して、しかし、この密室で行われる「建築」ほど強力な実践的現場もないと思った。それはおそらく「医療」でも「裁判」でも同様であろう。これらの仕事は最も人間の「生」に根ざしたところで技術力や判断力が求められている。だからこそ、施主もまたとことん自己であるとか家族といったものと真剣に向き合わねばならない。そして、この差し迫った状況というのは実は誰しもに訪れる可能性のあるものだ。
ところが、一般に人はその種の経験に対してほとんどが未知の初心者・素人でしかいられない。家作りにせよ、手術・裁判にせよ、それらには莫大な費用が掛かり、一市民がそう何度も繰り返し経験のできるものではないからである。本来、緊迫した局面にありながら「相性」の問題が半分は運頼みのようになってしまうのも、そうした経験の一回性(振り返る時間的金銭的余裕もない)によるところが大きいのではないか?
そこで提言するのが、クライアントとクリエイターののっぴきならない関係を再現するワークショップである。ここでの第一の目的はクライアントがクライアントであるための訓練だ。また参加者にクリエイターも加わるのであれば、クリエイターもクライアントとしての訓練を積んでみること、反対にクライアントはクリエイターの立場に立ってみるのもよい。
年齢や職業も違えば、趣味・価値観も異なる人たちが集まる市民参加型のワークショップでは参加者たちの対話を成立させるだけでも容易なことではないので、なるべくプログラムは混み入ったものにしないでおいた方が無難だろう。ここでは一つの手順を提示しておくが、やりようはいくらでもある。
参加者たちにクジなどで適当に二人組グループを作らせる。
二人組でジャンケンなどさせ、勝った方にクライアント、負けた方にクリエイターの役割を負わせる。
ここで両者の間で作らせるものは何でもよい。むしろ時間・予算といったことから相互に話し合いを行い、成果物を考えていった方がより実践的だろう。
一日限りのワークショップであれば、成果物を前になぜこのようなものが出来ていったかを両者が説明する講評会。二日あるなら次回は両者の立場を交換する。
長期で行えるワークショップならば、毎回グループの組み合わせを替えて上記プログラムを繰り返し、ある段階から自分と相性の合う相手とトレードが行える仕組みにしても面白いだろう。但しここで一つ必要なルール設定はトレードを行う権限が持てるのはクライアント側ではなくクリエイター側にするということである。クリエイターは自分がそのクライアントと物づくりを進めるに当たって限界を感じたとき、そのクライアントに相応しい代役を見つけてあげることも一つの責任ある仕事と言えないだろうか? それは「相性」問題を否定する考え方ではないが、少なくともそれにぶつかったときに、ただ、運が悪かったで終わらせるのではない一歩進んだ考え方がここでは訓練されることになる。
以上、極めて単純な設定説明しかしなかったが、ワークショップは初期設定の準備をしすぎると、参加者はつかみのところでしらけたり、その後の予想外の展開に対応できなくなってしまうものだ。このワークショップは実践的であることを第一義にその内容を考案したものだが、そもそもこうしたワークショップ設定のフレーム自体も実践的であるべくなければならないだろう。
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2005年01月17日 (月)
たまには閑話休題っていうか思いつきのアホアホ小話。
先ほど見つけた「★けんちく家のホンネ。 」というブログの「建築家ってなんだ?(その壱) 」というエントリーに「建築家」という呼称に対する疑問が書かれていて、これについては garaikaさんところの「「家(か)」の問題 」などでも取り上げられているように建築系ブログではとかく取り上げられやすいテーマである。まあ、既成概念として受け入れるよりは一度は疑ってみる必要のある言葉ではあることには違いない。
と、しかし、ここではその話は横に置いておく。私が「★けんちく家のホンネ。」のブログを見ていて、咄嗟に反応してしまったのは別のところにあるからだ。それは「★けんちく家のホンネ。」のブログ作者が「建築家」という言葉の代用として選んだのがブログタイトルとしても使われている「けんちく家」で、で、たぶんこのサイトがベースフォントを明朝系にしているせいだと思うのだが、なぜだか私は見ているうちに「けんちく家」という明朝書体が朧気に「うんちく家」という風に錯覚して見えて来てしまったのである。
蘊蓄(うんちく)といえば、去年の前半くらいまでくりーむしちゅー の上田晋也の存在などによって空前の蘊蓄ブームが起こっていた訳だが、言うまでもなくその言葉自体はブームの終焉と共に廃れていくものではない。というか、私はその錯覚を遊び心に換えて、ちょっとした言葉遊びに興じてみたくなった。
「うん」と「ん」は発音上ほとんど同音なので、どっちで見立ててもいい。とにかく一度見落とした最初の「け」を「家」という漢字に置き換えて復活させてみるのだ。すると「家(う)んちく家」となる。すなわち「家」に関して「蘊蓄」のある人 ── 家蘊蓄家。う〜む、素晴らしい。上田晋也の蘊蓄ばりにこういう人が現れて、いつでも傍らで何に対してでも蘊蓄を傾けてくれたらどんなに便利なことか!?
だが、私はそのような「家蘊蓄家」など、絶対にあり得ないと考えている。なぜなら建築とは一個人の手には到底負えないほど手広く、雑多な諸事にまで通底している領域にあるものだからだ。そういう意味において私は逆説的なようだが、「建築家」とは自身が永遠にプロフェッショナルとはなり得ないアマチュアであることを絶望的なまでに自覚している人のことを指すのではないか?と考える。
ま、そうは言っても、建築家に何かでしてやられると「うわっ、さすがプロ!」とか思っちゃったりするんですがね(^^;)
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2005年01月16日 (日)
SDレビュー2003 で藤森賞を受賞したセルフビルダー・岡啓輔氏の自邸「蟻鱒鳶ル」(港区三田)。彼からの年賀状でようやく役場申請を出そうとしているところでジキに着工という報せを受け、我が家の野次馬CT氏にもメールでそのことを伝えると彼からの返信でそれとは別に「無印良品の家 」の話が返ってきた。
aki's STOCKTAKING 「無印良品/間取り計画 」のエントリーでも取り上げられていたことから私も無印が家にまで進出し始めた話は知っていたが、すでに三鷹に一棟、実際の施工例があることは知らなかった。また有楽町には「木の家 」モデルハウスなるものもあるらしい。
「住空間 MUJI+INFILL 」のページでは、そのコンセプト として「可変性」「一室空間」「モジュール」という3つのキーワードが使われている。そのベースにあるのが暮らしや住まい方を施主本人が「編集」していくという考え方で、そうした方向性をより明快簡潔に効率よくコストも掛からず且つ自由に展開させられるツールとして、モジュール化(規格寸法に即した)された無印商品による無駄の少ない「インフィル」と一室空間を構成する「スケルトン」がある。と同時に、それら内外で扱われるアイテムが徹底してシンプルであることを追究していることによって、ある一定の洗練されたデザインレベルの維持を可能にするという狙いもあるのだろう。おそらく無印良品にはデザインそのものを徹底してシンプルにすることこそが人間とモノとの関係において一つの究極のカタチ(終局)を作り出すというくらいの野心もあるのではなかろうか。
一方、岡啓輔氏の「蟻鱒鳶ル」である。
これまで踊りをする傍ら、土木作業員→鳶職人→鉄筋工→型枠工→2×4大工→在来大工という実務修行を続けてきた彼が「セルフビルド岡土建」としてその第一作となる自邸「蟻鱒鳶ル ── Ari.Masu.Tonbi.Le(Arimasuton Building)」の建築に取り掛かり始めたのはいつ頃だったか。
冒頭にも書いたように計画途中で藤森照信氏から「生涯かけてつくり続けるよう願って」と特別賞を特別に出してもらって拍車がかかったかどうかは知らないが、いずれにせよこうした愛しむべきユニークな取り組みの計画過程が雑誌メディアで紹介され、しっかり記録として残ったのは喜ばしいことだ。本当言うと途中で止まってしまった岡氏本人による「レッツゴー岡土建!」Webサイトの復活が一番望まれるところだが。。
以前、岡氏が送ってくれた「蟻鱒鳶ル」のプロジェクトプランには次のような詩ともつかぬメッセージが添えられている。
セルフビルドで踊れ!
踊りで学んだ沢山の事を、この建築にそそぎ込む。
着工前に決定しとかなきゃいけない要素を極力へらし、多くを現場で即興的にセルフビルドで拵えてゆく。
デザインは「頭」だけに依らず、からだ全て、そして気分や勘、虫や月、太陽、音楽、サイコロ、友達、多くに依る。
心を開き、広がるイメージを見つめ、現れた「何か」を形に定着させる。
それが連鎖してゆく事によって、徐々に全体の姿が現れてくる。
汗を流し、筋肉軋ませ、全身で集中し、、この過程を楽しみたい。
そう、この作戦の要は「楽しんで作る」だ。
この事が実は最大の難問。簡単じゃない。
「楽しんでいるフリ」は最悪。それは瞬時に暴かれる。
欺瞞なく楽しめれば、出来たモノは自分にとって何より美しく、リアルなモノになる。
そして、人にも伝わる。この事は踊りに教わった。
アリマストンの現場は「楽しんで建築を作る」を学び直す稽古場なのだ。
工法的にも真新しいことに挑もうとしているプランの詳細は今後、工事見学に行った機会などに改めて紹介したいと思うが、このメッセージを読んでいると「無印良品の家」とは別の意味で「究極のカタチ」が見えてくるような気がする。それは無印良品が「究極のシンプル」という云わば無機的な零度(もちろん「何もない」という意味ではなく「ない」ことこそが意味を作り出す)を志向するのとは対極に、過剰なまでに雑多で肉感的な有機性に充ち満ちている。おそらく「蟻鱒鳶ル」ではすべての部材、すべてのインテリア、すべての外観、すべての工程がそれぞれに何某か主張し合い、それに纏わる記憶を住人たちはいつでも導き出すことができるだろう。岡氏は「建築」という行為それ自体で「人生」そのものを「編集」しているはずだ。それもまた一つの「究極のカタチ」と言えないだろうか。以前に彼からもらった手紙にはこんな一文があった。
ちくしょう。つくらず、死ねるか。
尚、このエントリーについてはさらに話を「エロス/タナトス」の対立概念へと飛躍させて、再エントリーの機会を設けたいと考えている。決して「無印良品」という検出率の高いキーワードでアクセス増 を狙おうというものではありません(汗)
以下は本文でリンクされたもの以外でエントリーにあたって参照したサイトである。
「無印良品の家」に関して
・GALLERY−MA : 無印良品の未来 (レポーター:河内一泰)
・SFC Design Systems : MUJI+INFILL 木の家
・NEUTRULE : 木の家 / 無印良品
「蟻鱒鳶ル」に関して
・おがてつ図書館 : 岡画郎
・AKIRA-MANIA : 岡画郎
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2005年01月08日 (土)
garaikaさんのブログ「家づくり、行ったり来たり 」で元旦早々に「施主の心構え 」というエントリーがあった。翌2日から妻の実家に帰省予定だった私はそれにざっと目を通しただけで家を空けたのだが、帰省中もずーっとそのエントリーのことが気になってしょうがなかった。施主であった者ならば、施主でブログのような家作りの記録を Web 上で公開している者ならば、どう考えても見過ごさずにはいられない重たいテーマである。
まず garaikaさんは施主を CEO(最高経営責任者)に喩えるが、私もそのことには同感である。いや、厳密にいえば、私の場合、最初から同じ考え方で臨めていたのではなく、諸々の変遷を経た上でようやくその考えに辿り着いた、言ってしまえば「ヘタレ施主」であった。であるからこそ、そうなってしかるべき失敗を繰り返し、必要以上のお金と時間、それに迷惑を掛けてしまったという事実がここにある。
実際、私の場合、まず自分の立っている立場からして施主としては甘いものなのだ。
まず第一に今回の家を私は自分の稼いだお金(あるいは住宅ローン)で建てていない。母方の祖父母が築いた三鷹の家と土地を、都市計画などの事情によって引き払わざるを得なくなり(この辺の事情も歪んでいるのでまた別の機会にエントリーしたい)、それによって生じたお金で新しく谷中に家を建てただけなのである。もちろん谷中に越して家を建てるにあたっては祖父母の遺志と思われるものを最大限引き継いだつもりで計画はスタートさせたが、それでも現実問題としてやはり身代を切ってないということが危機意識や緊張感の薄さといったものを所々で露呈していた。それは谷中の家にまず当面の間は住まう両親や妹にしても同様で、敢えて言うなら家族の誰もがただ先代からの貰い物を横に転がしていただけなのである。
だが、私個人はこうして概ね2年半近くも掛けてどうにか終えた家作りプロジェクトに関して後悔の念はない。もちろんその感慨は上記の甘さがあるからこそなのかもしれないが、失敗も含めて良い経験だったと思っているし、そうした失敗があったからこそ生まれたカタチや産物を家の随所に見られることを大変喜ばしく思っている。豊田さんとプロジェクトをリスタートさせるときに豊田さんから求められた設計カルテ で私は自分の新居への夢 として「色んな人の顔が見えてくる家」と回答したが、その言葉には解約した前任建築家とのプロセスを活かすばかりか可能ならばそこで生まれたアイデアを実質的なカタチとして残したいという想いがあった。だが、それはそうした想い、意志を持たずとも自ずと表に現れていたようだ。前任建築家たちによって我々は「施主」として成長させてもらっていたのである。
garaikaさんは施主が自ら施工ミスなどについてわざわざブログで書き立てるのは「社長(施主)がプロジェクトメンバーの社員(施工者・建築家)を公衆の面前で、さらしものにしているのに近い行為のように見える」(カッコ内は引用者による)と書かれている。確かに家作りを一大プロジェクトと見立てれば、それは間違いなく愚かな行為と言えよう。ただ、私のブログではこれまでのエントリーを見ればわかるように、そうした愚かさに足を踏み入れてしまっている部分が多分に見つかるだろう。そうした禁を犯してしまうのには、おそらく私のこれまでのミスだらけの人生というものが大きく左右している。「人」という以前にまず「自分」がミスをするのは当たり前で、だが、そうしたミスった状態からどう立ち直るか、どうやり直すか、どう修繕するか、どう克服するか、どうも私個人はそうしたプロセス自体に興味の的が向かってしまうのだ。施工者の技能も如何に完璧なものを最初から作れるかよりも、ミスが生じたときに如何なる対処対応を示すかで問うていた節がある。それらを自身のことまで含めて傍観者的に記録していくということへの欲求に抗うことはなかなかできなかった。
おそらくその傾向は家作りを終えた今後、より深まっていくだろう。それはそろそろ前任建築家との経緯についても触れなければならないと思っていることに加え、家族の問題がこの家作りとどうしても切り離せないからだ。家族というか、すでに亡くなっている祖父母の代からの家族関係の捻れが今回の家作りにも深く影を落としており、それを記述することは私自身の使命のように感じ取られてしまっている。それは社長(施主)一家の闇部を公衆の面前でさらしているだけの行為と捉えられるかもしれないが、そこに「住宅建築と施主」という「家作り」のフィルターを通すことで、単なる暴露話で終わらないようにしたいとは思っている。
garaikaさんや赤瀬川原平氏ともまた違ったあらわれ方にはなるのだろうが、私自身もこの家作りが楽しかったことに変わりはない。それは「blog 開始 」という最初のエントリーで書いていた所信/初心の表明と何ら変わることはなかった。ひょっとすると garaikaさんのエントリーも年が明けて気持ちを新たに書かれた所信表明だったのかもしれないが、このエントリーもそれに倣うものである。ちょっと遅いですが、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
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2005年01月03日 (月)
毎年恒例、義父との初釣りでもうじき灰塚ダム に沈む田総川 (広島県北)に行ってきた。すでにその場所はダム工事で立ち入り禁止区域となっているのだが、工事事務所が正月休みの隙をついて最後の釣りを楽しんできたというわけだ(本年中に試験湛水が施行される)。残念ながら魚が竹藪前の足場の取れないところに集まってしまっていて釣果はあがらなかったが、おそらくそのポイントでは最後の釣りになるだろうからその瞬間を義父 と過ごせてよかったと思う。
ところでその釣りポイントは河原ではないが、光庭 にお誂え向きの石ころはその辺にごろごろ転がっていた。正直、それを恨めしく見つめてしまった心情をここに告白しておきたい。もちろん私はケチくさい男であるから豊田さんが見つけてきてくれたサボ石 が1個1500円で送料が一律5000円であることを高いと思う気持ちがあることも隠す気はない(あ、もちろん、忙しい中、探してくださった豊田さんには感謝!ですが)。だが、そうした金銭的な問題とは離れたところで何かまだ恨めしい気持ちが残っている気がするのである。
「石 求ム! 」でコメントしてくださった garaika さんへのレスで私は尤もらしく「一級河川は国土交通省の管轄で、実際そこに転がる石ころを拾うのは違法にあたる」という豊田さんに言われたことを書いていたが、実際のところ、私の心は石を自ら拾いたい気分で一杯だったのである。というか、私自身の心情としては石を買うことの方が許せない、そんな気分が充満していた。どうもその気分は単なるケチくささとは別のところにあるように思う。
何というか「石ころ」なのである。「石」ではなく「石ころ」と「ころ」が付く。「石ころ」を広辞苑で引くと
いしころ【石塊】小石。いしくれ。
と出て来て、何だかうちの光庭で使ってるサイズの石に使う言葉としては適切でない気もするが、とにかくその辺にころころ転がっている石である。その中から自分の気に入ったものを探し出し、拾ってそれを家の庭に置く。どうもその行為にはそこにそれ以上のことが入り込んできてはいけないような気がしてしまうのだ(運送は致し方ないとして)。ケチな私でも最初から造園業者に頼んでどこぞの石を買ってきてという話であるなら、だいぶ高くつくだろうがお金を支払うことに特にこれといった抵抗はない。とにかく石ころというもんはその辺で拾ってくるもんじゃないのか?という感覚。どうもこれがいつまで経っても抜けないというか、この釣り場でごろごろ転がってる石ころを見ていると、その感覚というのは人が石ころを前にしたときの何か途轍もなくベーシックな感情と繋がっているのではないか?という大袈裟な思いと繋がる。拾って・投げて・置いて・割る──すべてが子供たちの遊びの中に含まれているではないか?
すでに実家からは去年末に購入したサボ石 を矢原さんが石組みされたという報告は受けた。私はまだその様子を確認していないが、ただ、まあ、いずれ私が谷中に住むようになったときには色々なところで拾ってきた石をちょこちょこ加えて行きたい。
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