2005年08月21日 (日)
NHK新日曜美術館のアートシーンにて「建築家 清家清 展 ──《私の家》から50年 」
(松下電工汐留ミュージアム)が紹介されていた。この展覧会、清家清自邸の原寸大模型が体感できるらしく、「移動畳 」も含めて大変興味深いのだが 9/25(土) までに東京に行く用が出てくるかはかなり微妙で観られない可能性の方が高い(泪)
ところで番組では清家氏生前の肉声が流されていた。
ハウスっていうのはハードウェアですよ。そいでホームっていうのはソフトウェアだと思っていただいていいと思う。ハウスは火事で焼けることもあるし、地震で壊れることもあるし、戦争で壊れることもあるけどね。ホームが壊れなかったら、まず一番救われるんじゃないかしら、人は‥‥。
とそれを聞いて、妻とつい「そうだよ、そうだよ」とほだされてしまっていたのだが、ホリエモン流に乱暴に見るならば、これら両面共「金」との結びつき抜きには維持できないのが現代なのかもしれない。貧しさ(ここでは金持ちが急に陥る下落的絶望も含む)が「狂気」を呼ぶということが残念ながら確率論的に見て高い時代だからである。
*
話は似ているようで脱線するが、最近ブログを知らない人にブログの説明を求められたときに「家」と「部屋」を例にして話すことがある。私は元来ホームページという言葉の使用をあまり好まないのだが(→理由 )、ここではホームページと言った方が直感的にホーム(家)を連想しやすいので、ホームページで話を続けることにする。
まず従来ながらのホームページを家(ホーム)とし、ブログを部屋(ルーム)という風に想像してみよう。そして友達の家に遊びに行ったという風に仮定する。そのとき、友達の家のリビング的な場所(ホーム)ではどこかよそよそしい感じなのが、友人の部屋(ルーム)に通されると胡座でも掻きながら腹を割って話そうって気分になれないだろうか? それと似た感覚がホームページとブログの違いにはあるような気がする。
従来の個人ホームページという場には玄関+LDK+客間と似たようにトップペー+趣味ページ+BBSなどがあったりしたわけだが、どこに居ても行儀良くしてないといけないという感覚が家(ホーム)同様に感じられていた。
それに対してブログはダイレクトに友達の部屋に入った感覚、そしてその気になれば模様替えも簡単だったり(対してホームページのリフォーム=リニューアルは大変)と何かと似ている要素は多い。さらに部屋の本棚の本を貸し合ったり(トラックバック?)なんてことも気安くできるのだ。
‥‥とここで清家清の「ハウスとホーム」に結びつける気はさらさらないのだが、一見閉じた殻のように見える住宅(ハウス&ホーム)が外部に接続しているのは、「縁側」が失われて以降の時代においては殻の中の殻である部屋(ルーム)ということになってしまったのかもしれない。インターネット時代、いやブログの到来によって、その通達度(漏れ度)はますます深まって(広がって)いくばかりである。
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2005年08月08日 (月)
Nakatani's Blography にて「すまいにおける写真、写真におけるすまい 」というミニシンポジウムが10/14(金)に開催されることが予告されている。パネリストに植田実氏(住宅建築評論家)、高梨豊氏(写真家)を迎え、司会が中谷礼仁氏(建築史家?)とたいへん興味深い催しである。が、生憎その翌週なら東京ではなく横浜に仕事で行く用もあるのだが、その一週前とはちょっとタイミングが悪かった(泪)
シンポジウムのテーマである「住宅写真」といえば、一応、我が家でも建築写真専門ではないものの、友人のフォトグラファーにお願いして新築時に撮影 してもらっている。また自分でもデジカメで数え切れないくらいの量を撮り、友人に撮ってもらった写真と合わせて Fotologue.jp という写真ギャラリースペースに公開している。
→ Yanaka*M3c 「フォトログ1F編 」「同2F編 」「同3F編 」「同屋上編 」
で、ご覧になればわかると思うが、この Fotologue.jp、全編 Flash のゴージャスなインターフェースで、たぶん私の写真というよりもそのグランドデザインに惹きつけられる人は多いんじゃないか?と思う。事実、私も最初はそうだった。家の写真をアップしたあとにも日常撮ってる写真を別口でアップして最初のうちは楽しんでいた(あまりその URL は告知してないけど)。が、何だかいつの間にか飽きてしまったのである。
確かに Fotologue.jp に写真をアップすると、自分が撮った写真がそれ以上のもののように見えてしまう錯覚にとらわれるのである。それは言ってみれば下手な絵でも額に入れると良く見えるという論理と同じであろう。だが、それは自分の写真だけでなく、他人の写真も同様で、Fotologue.jp のトップページに行くと人気ランキングだとか新着だとか幾つかソートが掛けられて他のユーザの写真も見ることができるのだが、何だかどれもこれも似たような写真に見えてきて、結局他人の写真はヌード写真のような際立った写真しかクリックしなくなってしまったのである。それはもうほとんどただのポルノ写真を追い求める感覚と違いはない。
そんな Fotologue.jp に飽き始めてきた折(というか、ひょっとするとそれは Flickr! を始めたから飽きたのかもしれないが)、Flickr! という写真共有サービスを始め、私はそれにすっかりハマってしまった。この Flickr! というのは、これまた見てもらうのが一番早いと思うが、サイトとしての精度は高いものの、Fotologue.jp ほどクールなインターフェースというわけでもなく、Yahoo! が買収してるだけに Yahoo! テイストも若干感じられる誰にでも取っつきやすいデザインのサイトである。そして一枚一枚の写真も額に入ったというよりはブログで見掛ける写真のようなノリで、淡々と見せる仕掛けになっている。ただ、Fotologue.jp と一番違うのは Flickr! は写真ギャラリースペースではなく、写真共有サービスだという点である。Tags の機能など世界中の写真とキーワード一つでポンと繋がり、気を許すとつい数時間ボーッと色んな写真を辿ってしまう危険性すらある。特に私は中近東関係の怪しい写真を見てるのが好きだ。
と、そんな Flickr! の素晴らしい共有機能であるが、ここではそれを Fotologue.jp と比較してどうこう言おうというわけではない(そもそもサービスの目的が違うのだからそれを言っても仕方ないはずだ)。それよりも私が着目したいのは、さきほども触れた Fotologue.jp の額縁に入れられたような感覚(錯覚)についてである。おそらく私が Fotologue.jp に飽きてしまった一番の理由がここにあるような気がしてならない。
みんな同じ写真に見えてしまうこと。対して Flickr! の写真はどこかレポート性を持った、そして同じ撮影者の写真を何枚か見るとその撮影者の個性が何となく見えたような気にさせてくれる、額縁化をうまいこと回避したインターフェースなのだ。
ここまで読むと察しの良い方は気付かれることだろう。私が額縁感覚を建築雑誌の写真においても同様に抱いているということを。正直、私はある時期から建築雑誌というものをすっかり放っぽり出してしまった。それは建築写真の専門カメラマンが撮った優れた建築写真が収録されているにもかかわらず、どれもこれも同じような写真に見えてならないのである。もちろん建築に携わるプロであればそんなことはないのかもしれないが、少なくとも私のようなヘタレ施主の多くは似たような所感を持ち合わせているのではないだろうか?(そして同様に「建築雑誌」という存在が真新しかった頃はスゲー!カックイーと息を呑んでいたのではなかろうか? それこそ Fotologue.jp のように)
そして話は振り出しに戻るが「すまいにおける写真、写真におけるすまい」ではどんな話が繰り広げられるのだろうか? 私はそれを「すまいにおける Flickr!、Fotologue におけるすまい」と読んでみたくなったのだが、実際の話の流れは如何に?
いずれどなたかのシンポジウムレポを見つけて、赤恥覚悟でTB送りたいものである。
□◇
Flickr! の badge 機能を使って「yanaka」セットの写真を出力してみた。
招待制ではないので、興味ある方は是非登録してみてください。
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2005年07月19日 (火)
Yahoo! のトップページで「シックハウス 北京でも波紋 」というトピックスを見掛けたのでクリックすると案の定と言うべきか「北京市の子供部屋のうち7割以上がシックハウス」という衝撃的な調査結果を報告する記事だった。
中国建築バブルが伝えられて久しいが、ときおり建築雑誌などで様子を掻い摘んでいるだけでも、中国は日本の建築バブルの惨状を反面教師とするどころか、むしろ倍加する勢いで新しい家やらビルやら公共建築やらを建てまくっているように見受けられる。
だからこのような調査結果は衝撃でも何でもなく、単に日本の数年前が十倍増化してやってきたというだけのようにも思えるのだが、ただ、最近は日本の著名な建築家の多くが中国に渡って様々な活動を繰り広げている現状を見ると、なぜにバブルの反省を中国で「建築教育」という形でもっと積極的に伝えていくことができなかったのか?ということは考えてしまう。
国際協力って資金援助とか事業開発協力以上に「失敗の経験」を如何に前もって事が起きてしまう前に情報伝達できるかというところにあると思うのだが。。
□◇
Yahoo! ニュース - サーチナ・中国情報局 【中国】ホルムアルデヒドで子供部屋7割がシックハウスに
「北京市の子供部屋のうち7割以上がシックハウス」という衝撃的な調査結果が発表された。原因物質は最近、中国製ビールをめぐり波紋を呼んだホルムアルデヒドだ。17日付で中国新聞社が伝えた。
この調査は、北京市産品品質監督検疫所、中国室内装飾協会室内環境観測センター(室内環境センター)、北京連合大学室内環境観測センター、北京安家康環境品質検査センターが共同で行ったもの。北京市内にある、改修して1−2年以内の子供部屋500室が調査対象となった。
1立方メートルあたり0.1ミリグラムの国家基準を超えるホルムアルデヒドが検出された部屋は361室で、全体の72.2%を占めた。最高で、基準値の8倍もの濃度のホルムアルデヒドが検出された。
室内環境センターの宋広生・主任は「高温の夏は、ホルムアルデヒドの濃度が他の季節より20−30%高い。子供部屋の木製家具、プラスチック製のおもちゃ、カーテンなどがホルムアルデヒドの発生源だ」「夏休み期間、子供は1日の80%の時間を室内で過ごすため、ホルムアルデヒドを長時間吸入すれば、白血病が容易に誘発される」と危険性を指摘している。
中国では白血病の患者は毎年4万人増えているが、そのうち半数は子供で、2−7歳児が多い。北京市児童病院で白血病にかかった子供のうち、90%近くが家を改修したばかりだったというデータもある。(編集担当:菅原大輔)
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2005年07月07日 (木)
先月あたりからすっかりハマッてしまった Photo Sharing Service の Flickr! (サーバ容量気にされてる方にも使えると思う)。
写真共有のネットワークなだけに国内に留まらず世界とアクセスしてた方が圧倒的に面白いので、なるべく頑張って英語でタイトル表記 してるのだが、そこで結構困りものになってるのが建築用語君たちである。
例えば「トタン」。
一部の好事家 の間でこよなく愛されるこの建材を和英辞書で引いてみると「galvanized iron」なんて出てくるのだが、これじゃー若手建築家などが好んで使いたがる「ガルバリウム」と同列になってしまい、味も素っ気もあったもんじゃない。まあ、ガルバ派の人たちからしたら、錆付きやすい亜鉛合金めっきだけのトタンとそれに長期耐久性を兼ね備えたアルミニウムを混入させたガルバを一緒にすんなよ!とむしろ反論喰らいそうでもあるが、いずれにせよ、一緒くたにされては困る用語たちなのである。
ところでその「ガルバリウム」であるが、この言葉、一つおかしくないだろうか?
rattlehead さんも「今日の低脳ホラー 」というエントリーで取り上げられているが、そもそも先の「galvanized iron」から引くなら「galvan+ium」であって即ち「ガルバニウム」となるはずのもの。galvanized が「亜鉛メッキした」という意味を持ち、それにアルミニウムの混成語として文字通り2語を掛け合わせたとしても「ガルバニウム」の方が語としての適正を持っていると見るのが自然だろう。
ところが、そのガルバニウムを Google 検索すると検出数は約840件、それに対してガルバリウムは約18,100件と後者の圧勝なのだ。実際、rattlehead さんもスペルは「GALVALIUM」なのですと言われながら何となく首を傾げられている。
そこで今度は「galvanium」「galvalium」と英字検索して検出数比較をしてみた。すると267:182 で「ガルバニウム」が勝利を収めるのだが、先の検出数との比較からしたら、このくらいでは僅差と言う他なく、こんな少数対決ではこの用語がそもそも建築用に作られた造語であることしか意味しはしない。ちなみに我が家のバルコニー上外壁 でもガルバ君は使われてはいるのだが(汗)
さて、ここでもう一度話を「トタン」に戻そう。
というのも実はこのトタンにはポルトガル語で「tutanaga 」という、まさにトタンをイメージさせてくれる言葉があり、先の和英辞書にもそれは付記されていたのだ。どうやらトタンの語源がポルトガル語の「tutanaga 」にあったということらしい。ただ、その言葉は現在のポルトガルではもう使われていないと言う。。
それでも私は Flickr! では「TUTANAGA 」という英字をタイトルに採用することにした。やっぱりトタンの茶目っ気は「GALVANIZED IRON」では示せない。
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2005年07月02日 (土)
まず「高過庵 」へこれから行ってみたいと思っている人たちのために書いておく。
高過庵に行くには「神長官守矢史料館 」を目指せばよい。茅野駅から「宮川高部の〜」とでも言い添えてタクシー運転手に話せば、大抵のタクシーは連れて行ってくれるはずだ。ただ、宮川高部で帰りのタクシーを拾うのは難しいかもしれないので、待機してもらうか事前にタクシー会社の電話番号を控えておいた方がよいだろう。
そして高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えないが(※1) 、史料館右手30m先くらいのところにある舗装された道に出れば、山の方にぽつんと浮かび上がってるのが確認できるはずだ。または史料館で場所を聞けば、説明好きな館長さんがいつでも気さくに教えてくれることだろう。私たちに対してもそうだったが、ネット上でも館長さんの親切な人柄については多くのサイトで触れられている。
ちなみに母と私は史料館に来るのは2回目。
ところが諏訪在住の善n叔父さんはこうした施設があることすらご存知なく(後でお会いした奥様は学校の先生をされてるだけに知っていたが、地元ではあまり知られていないのだろうか?)、それで高過庵に向かう前にまずは史料館に入館した。そこで館長さんから高過庵の場所を聞いて、上記のように舗装道路に出て行くか(車でも行ける)、あるいは畑の中を強引に直進するかの方法を教わった訳だが、ここは年配者二人に合わせて舗装道路迂回順路で行くことになった。
ところで「そんないざ行かん!」とする直前に私は史料館の中で高過庵の姿を見つけてしまったのである。
何と!高過庵は史料館のトイレから窓越し に見えるのだ♪
人見知りがちで、高過庵の場所を誰にも聞く勇気が持てない人(世話好きの館長さんと話さないということの方が難しそうだが)とか、窓越しの写真を撮るのが好きな方は、用がなくともまずは史料館でトイレに入ることをオススメしておく。
さて、その高過庵は史料館から歩いて2,3分程度のところにある。
NHK-ETV特集「スロー建築のススメ 〜藤森照信流 家の作り方〜 」のビデオで予習した通り、のどかな田園風景を横目に赤瀬川原平氏と南伸坊氏がスローブ状のゆったり上がる坂道を藤森照信氏に案内されながら上っていく光景そのままだった。
で、いよいよ高過庵を目の前にしたとき、最初の印象が「アレ?思ったほど高過ぎないぞ!」だったのにはちょっと拍子抜けした(笑)
遠くから見ていたときは手前の草で足下が隠れて高さが掴めないままだったのが、遮るものもなくなりスーッと目の前に立ち現れた瞬間、あまり高さを感じなかったのは箱部分のボリュームが思ってた以上に大きかったせいかもしれない。
よく頭でっかちだとチビに見えるというではないか!?
この日の天気はうっすら青空が見える程度で、写真日和とは言えなかった。それでもなるべく色んな角度からデジカメで撮っておきたいと撮影始めて間もなく、善n叔父さんと母はもう来た道をスタスタと帰路につき始めているのである(汗)
そんな訳で私は思うままに撮影することも叶わず、あとを追ったのであったが、その追い掛け始めて高過庵の方に目をやった瞬間、最初は頭でっかちだという風に見てしまっていた高過庵が、とある男の顔とダブって見えてしまったのである。
それはあまりに如何にもなイメージなのだが、タイトルでも既に書いたようにムーミンに出てくるスナフキン。帽子の色は違うけど、こうして見較べてみると目(窓)の感じなんてそっくりじゃないだろうか? 藤森さんの作品って兎角ジブリ作品と並べて語られがちのようだけど、実はムーミン谷の世界観の方が近いんじゃないか?と一つ発見したつもりになって、帰阪してから「藤森照信 ムーミン」で検索してみると、それなりに出て来てしまってちょっとがっくり(泪)
まあ、「高過庵 スナフキン」では何も出て来なかったので、ひょっとしたらそれは第一発見者かもしれないが(笑)
ETV特集では赤瀬川さんが「ゴンドラのように揺れるね」と言われていたが、下から見ている限りではそんなに揺れてる感じはなかった。
それにしても番組内で赤瀬川さんはやたらと寝転びながら擬音語にしづらい呻き声を出してたけど、あれはやっぱり老人力ならぬ老人声ってヤツなんだろうか?(汗)
このエントリーを書いている最中、藤森さんが高過庵の次に同じ敷地内に「低過庵」を計画していることを知り、そのプランが紹介されてる「GA HOUSE No.86 」をチェックしてきたが、そこで彼が書いていることって、私が「諏訪の宅地 」で妄想していることに若干似ていて、結構「げげげ」なのであった(汗)
GA HOUSE No.86 (P.149)
「高過庵」では、神さまのように天空からではなく、人間のように地上からでもなく、地上から少し上がった高さにある極小空間にこもって、窓の高さから地上を眺める視線の新鮮さ楽しさを知ったが、今度の作では、地中、といっても地中に完全にもぐるんじゃなくて、地中に建物一つぶんだけ沈み、上がオープンな空間がどんなものかを試してみたい。
「高過庵」は、ふつう言われるツリー・ハウスとはちがい、正確には高床式住宅の極端な例だが、今度のは、さしづめ竪穴式住宅の極端例ということになるだろう。日本の原始時代の住宅には、高床式と竪穴式の二つのタイプがあったことは、よく知られている。
中に入り、座り、炉の火に照らされた薄明かりのなかでお茶を喫み、しばし後、スライド式の屋根を開けると‥‥。はたしてどんな空間体験が待ちかまえているか。楽しみである。
□◇
※1)高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えない
私が見たときには高過庵の手前の緑が生い茂りすぎていたせいか確認できなかったが、Ranch Girl in the kitchen 「2005年5月4日の日記 」によると、館長さんが場所を直接示してくれたらしいので、見えているのかもしれない。
※)その他の関連記事
・X-Knowledge HOME 特別編集 No.7『ザ・藤森照信 』: 設計作品の撮り下ろし
・藤森研究室「高過庵 」: 外内観写真+図面+コメント+建築情報
・新建築2004年9月号「高過庵 」: 写真+建築情報
・JA56号「高過庵 」: 写真+建築情報
・石山修武 世田谷村日記「2004年十一月二十八日 日曜日 」: 藤森さんに呼ばれてレポ
・風に吹かれて「高過庵 2 」: 藤森さんと一緒の訪問レポート+青空写真
・aki's STOCKTAKING「F教授の......... 」: 秋山さんの見学所感
・見もの・読みもの日記「おじさん少年・藤森照信と仲間たち 」: ETV特集見ての所感
・Nakatani's Blography「高過庵 建築見ずに ただ遊ぶ 」: 中谷礼仁氏の見学レポ
・Nakatani seminar「『高過庵』訪問記 大公開 」: 中谷ゼミ生訪問記+スケッチ
・omolo.com「news: 2005/07/12 (Tue) 」: 高過庵に糸電話(?)
・ゴリモンな日々「木の上に住んでみたい♪ 」: 2006年お盆の高過庵
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2005年06月30日 (木)
さて今回、墓参りと土地処遇問題で諏訪までやって来たわけだが、「諏訪」といえばやっぱり御柱祭 であり藤森照信 である。
下諏訪出身の伊東豊雄 氏もいるが、「ザ・スワ」の建築家と言ったら藤森照信氏以外思い当たらない。
そこで今回の訪問でもし時間の都合が付くならば、以前に「藤森照信: スロー建築のススメ 」のエントリーで番組宣伝だけしてそのままになってた「高過庵 」を見に行ってみたいと思っていたのである。そして幸運にも善n叔父さんが車を回してくれることになり、泰n叔父さんを一旦自宅まで送ってから3人で探しに行くことになった。「探す」というのは住所レベルの個人情報まではネット上に出ていないので、あさみ編集長から教わった「神長官守矢史料館のそば 」という情報を頼りに自分たちで探すしかなかったのである。
尚、本エントリー、焦らすつもりはないのだが、先にその藤森照信氏の処女作「神長官守矢史料館 」について触れておきたい。といっても史料館の概要・解説はすでにネット上に幾らでも転がってるので(※1) 、ここではあくまで個人的な雑感のみ。
まず私がここに来たのは2度目である。2000年にも妻・母・妹と墓参りついでで来ていて、ところがそのとき私はデジカメを持っていなかった。だから当時、母がコンパクトカメラで撮ったスナップ写真と今回自分で撮ったデジカメ画像を見較べているのだが、外壁に張られたサワラの割板の色にそう変化は感じられない。ところが『藤森照信野蛮ギャルド建築 』(TOTO出版・¥1,800-)に掲載された1991年竣工時の写真と見較べると劇的に違う。経年変化がいつ頃はっきり現れるのかが気になるところだ(というのも、うちもいずれは軒下の杉板甲板が黒くなるって豊田さんに言われている)。
また、私は大阪から諏訪へはいつも高速バスを利用するのだが(往復1万円で列車利用と大した時間差はない)、今回車中では藤森照信著『タンポポの綿毛 』(朝日新聞社 2000年4月発行 ¥1,680-)という本を読んできた。彼の「テルボ」と呼ばれていた子供時代の話がエッセイ風にまとめられた単行本である。
この本にはテルボが子供時代に遊んでいた集落の地図(藤森氏本人の手書きによる)が収録されていて「高過庵」の場所を探すのにも何か手掛かりになるのでは?と思っていたのである。しかし、諏訪に向かう車中でこの本を読んでいるとやはり読む現実感もまた一塩違ってくるものだ。場所の持つ磁力ってヤツだろうか。何度も爆笑を堪えながら読んでいたのだが、中でもとりわけバカ受けした「トンボ捕り」の話を一部引用しよう。
藤森照信著『タンポポの綿毛 』 ──「トンボ捕り(P.98)」 以上のトンボ捕りは秋津洲大和国の各地の少年少女が体験していると思うが、最後に、信州のいたずら小僧の得意技を紹介しておこう。これはゲーム性とヒミツ性をかねそなえたすばらしい捕り方なのだが、だれにでもできるものではないので、読者各位におかれては御自分の立場や歳をよく考えてから実行に移していただきたい。
ふつうのときにはやらない。水遊びのときにやる。
学校にまだプールがないから、川に行って水泳をしていた。子ども用の水泳パンツもなく、黒い三角形の小さな布きれにタテ一筋、ヨコ一本の黒いヒモをとりつけただけの、いまにして思うとなかなか先鋭的形態の "水泳フンドシ" なるものを着け、イヌカキをしながら水に浮いて流れ下るのを楽しみ、疲れると河原に上がり、砂と石の混じる上でコウラを干す。そのとき、だれかがトンボの捕りっこをしようといって、ゲームははじまる。
もともと小学生にはなんのために着けているのかわからないし、中身のこぼれ気味の三角の布きれをはずしてスッポンポンになり、上向きに寝転がる。ここまで書くとあとのやり方はわかると思うが、御賢察のとおり、各人エイイドリョクしてカラダの中心の棒をできるだけ高く立てる のである。
トンボは高いところから先にとまる習性をもつ。羽を下ろしたのを見はからい、腰の脇からそっと手を動かして‥‥ 。
トンボから見ると、棒の先だけでなく地面まで急に人体に変わったわけで納得できないかもしれないが、人のチエだからしかたない。
私はこの笑い話に藤森建築の主題の一つが隠されてるような気がしてならなかった。
いや、隠されてるなんてもんじゃなく、内容同様モロ出しされてるといった方がよいだろう。それはユリイカ2004年11月号で特集された『藤森照信──建築快楽主義 』(青土社 ¥1,300-)で、赤瀬川原平氏が「てっぺん性」という言葉で表現してたり、また特集にあたって藤森氏ご本人が対談相手にリクエストされてたんじゃないかと思われる宗教人類学者の中沢新一氏に「天に発射するスタンディング・ストーンとリンガの問題」を問い掛けている。即ちそれらは河原に横たわった身体から上へ向かって立ち上がる(場合によっては発射される)勃起力そのものの話であるのは言わずもがなだろう。
だが、もう一つ忘れてならないのが「トンボ」である。といってもワケわからないだろうから少し説明すると、処女作「神長官守矢史料館」から始まる藤森氏の一連の建築物でてっぺんに向かってオッ起てられた柱や棒ってどれも「どうだ!オレのを見ろ!」っていうほどは堂々としてなくて、どっちかというと華奢で慎ましく立ってる感じはしないだろうか? で、たぶんコレを品位とかそういうレベルで捉えてちゃ駄目で、私にはどうしてもそれがトンボを捕まえたいからああいう木を選ばれてるような気がしてならないのである。堂々とし過ぎた木に決してトンボは止まりはしない。
もちろんここでの「トンボ」が昆虫のトンボだけを指してる訳ではないことは言うまでもなく、おそらく氏はどんなものが近づいて来ても「腰の脇からそっと手を動かして」「‥‥」しようとしてるに違いない。そんな藤森氏に私はピカソが1966年に残したエッチング・アクアチントを勝手に捧ぐ。
Pablo Picasso, Untitled, 15 November 1966 VI.
□◇
・藤森研究室「神長官守矢史料館 」: 外内観写真+図面+コメント+建築情報
・茅野市ホームページ「神長官守矢史料館 」: 公共施設案内(休館日情報)
・建築リフル「001 神長官守矢史料館 」: 写真集(藤塚光政/隈研吾 著)
・建築マップ「神長官守矢史料館 」: 訪問レポート+詳細情報
・美的建築ワールド「茅野市神長官守矢史料館 」: レポート+建築情報
・月間進路指導「あの人に聞きたい私の選んだ道 , 2P , 3P 」: 藤森照信に聞く
・Sputnik「yield 」: 藤森照信へのインタビュー
・asahi.com - 信州館めぐり「名建築の中に諏訪大社の歴史 」: 新聞掲載記事
・SEEDS ON WHITESNOW「ETV特集「スロー建築のススメ」 -守矢の里の不思議な建物たち- 」: 地元出身者の番組レビュー(ブログ)
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2005年05月16日 (月)
Off Space : bside さんから、うちの施工をお願いしていた阿部建築 の若頭=山本さんがブログ「谷中の住人 」やってますと教えられ、正直ここ最近では一番の吃驚でした。
早速挨拶のコメントをすると、何でも「仕事関係の方から進められて勢いで始めてみました」とのこと。確かに始められたのは今年の3月からで、今のところ日常的な話題と建築絡みの話がメインのブログのようです(施工風景の写真なども載ってます)。
いや〜、こんなことなら私がもっと前に薦めておけば、ご近所の satohshinya さんからブログを通じて工事の進捗状況を教わるなんていう面白すぎるハプニングも起きず、みっちりその工程をリアルタイムでチェック出来ていたのかもしれません。それと山本さんのブログを現在のお施主さんが見られてるのかはわかりませんが、施工者側がクライアントに対してではない形で、対外的に自分の家について語っているところを見られるというのもこれまた非常に興味深いものがあります。
と、こうしたことを書いていると当然そこに設計者も加わって、一つの家づくりに三者三様の視点でブログ記事が書かれるという状況を思い浮かべない訳でもないのですが、私個人としてはそれはそんなに簡単には行かない夢物語みたいな話だろうと思ってました。それはクリエイティヴな仕事に従事されたことのある方であれば、おそらくは警戒を強めるように、人と人との間でモノを作るということがそう簡単なものではないからです(これについてはまた改めて掘り下げて書く予定)。
ところがこの世の常と言いますか、ネット世界の原則とでも言うか、そうしたものって既に存在してるんですね。まあ、私が今回知ったのは施主・施工者・設計者の三角形ではなく、施主と設計者の相互ブログというヤツですが、たまたま「新桜宮橋のゴンドラ 」というエントリーにコメントされたはりこさんというお施主さんの「『華門楽家』建築奮闘記録 」とtsutsui_1972さんという建築家の「KIHAKU's blog 」が双方向発信ブログという形態が取られているのです(もちろん相互に無関係な話もエントリーされてますが)。
とりあえずまだ両ブログ知ったばかりなのでその内容を問うつもりはありませんが、正直私は勇気ある試みだな〜と思いました。特に設計者。でも、この双方向発信ブログを見ているとこのまま工事に入っても悠然と施工者まで含めた三方向ブログをやってのけそうな雰囲気を感じてしまいます。まあ、それは単純に施主と設計者の間でしっかり信頼関係が築けているように見えるからこそそう思えるのですが、当然これから先、このように幸せな形になってない三角形ブログなんてのも出て来ちゃうと思うんですよね。
そこにはやはり情報開示と信用の間の時差・認識差といった問題が大きく浮上します。
そういえば宇多田ヒカルがマイクロソフト社の「Xbox360」というゲーム機名称を発表前に Web日記 で流出してしまったというけど、これがトラブルなく不問にされたのはひとえに宇多田さんの信用(作家性=権威)のおかげっていうもんでしょう。
でも、こうした事例は極めて特例だと思ってないとフツウの施主はヤバいです。
あと、どうでもいい話ですが、任天堂DSのCM での宇多田さんのデブっぷりって、あれはご本人も映像開示承諾してたんでしょうか?(^^;)
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2005年05月11日 (水)
これまでこのブログでは登場機会の少なかった父 であるが、その理由はうちがある種、サザエさん的家庭だということにある。即ちこれまで何度か登場した祖父母とはまさしくサザエさんにとっての波平とフネであり、私はといえばフグ田タラオだったのが、祖父の死を機に知らぬ前に磯野カツオにすり替えられていた(つまり知らぬ間に養子になってた)のである。だから当然マスオさんである父の存在感は家づくりにおいても薄く、ブログでもそれほどスポットを当てられることがないまま来てしまった。
そんな父が生を受けたのは1931年(昭和6年)、かつて日本の植民地だった満州の大連である。父は自分が士族の出であることを何かと強調するのだが、父の祖父にあたる人は非常に商才に長けた人だったらしく、父はちょっとした金持ちの家のお坊っちゃまとして育っているらしい(右の写真の中央が父)。言うまでもなく第二次世界大戦の敗戦で父の家族もまた身ぐるみ剥がされほとんど無一文状態で引き揚げることになるのだが、私はそのあたりの経緯をそんなに詳しく知らない(というか、父に聞いてない)。
それは一つには私が知らぬ間とはいえ、母方の家の養子となり、なんだかんだフグ田家ではなく磯野家の嫡子としての自覚を植え付けられていただろうことが考えられるが、それとは別に子供の頃に友達同士の間で「残留孤児」と卑下された記憶がどこかで自分に影を落としてるような気がしなくもない。なぜに父が満州の生まれだったことが友達に知られたのかは今以て謎だが、私が小六〜中一前後だった1982年2月、厚生省による第二回中国残留孤児の「親探しの旅」で60人の孤児のことが何かとマスメディアを賑わせていた。そうした報道に子供特有の差別意識が働き、私へと向けられたのだろう。父は「引き揚げ者」であり、決して「残留孤児」ではないにもかかわらず、私は「残留孤児」のレッテルを貼られ、そうしたイジメから逃れるためにとかく私は父が満州生まれだったという事実を隠そうとしていた。
と書いたところで唐突な話にはなるが、
先月、aki's STOCKTAKING 「父の遺言書 /1943 」のエントリーにて少しそのことをコメントしていて、その後、同ブログの「満州走馬燈 / 満州メモリー・マップ 」のエントリーで紹介された小宮清 著『満州メモリー・マップ 』(筑摩書房・999円)を購入して、つい先日ようやく読み終えたところなのである。
今に始まったことではないのかもしれないが、日中間がギクシャクしている現在、満州という存在がそのギクシャクの要因としてどのくらいのところを占めているのか私には今もよくわからない。ただ、この本はそうした日本の侵略の歴史を、いや、もう少し厳密にいえば侵略した土地を開拓する日本人の生活を、私の父よりもさらに5歳若い著者の子供時代の視点において描いている。そこには昨今の行きすぎた報道にありがちな誇張もなければ諧謔もない。ただ、訥々と絵日記のように綴られた記述に当時の大人たちにも見えてなかった歴史的な視線がオーバーラップされているのである。
冒頭でアップした画像は伯母の家にあった大連大広場の絵葉書をデジカメで複写したものである。葉書はまだあと3枚あるので、今度はこの本の気になった箇所など引用しながら、それを元手に父や伯母に満州の話をもう少し詳しく聞いて、それらのレポートと共にここで紹介していきたい。
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Abejas e Colmenas のみつばこさんも aki's STOCKTAKING の同エントリーで紹介されていた『満州走馬燈 きよしのメモリーマップ』の方を読まれていて「オンドルの見える風景 」「泣きそうになった箇所 」というエントリーをされてます。
その後に MyPlace の玉井一匡さんも「満州走馬燈 」で同タイトル著作を再読してのエントリーをされてます。またTB受けた「真綿のお供え餅と大連 」のエントリーも要チェック!
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2005年04月15日 (金)
我が家では語学オタクの妻に合わせて大抵一つ二つNHKの語学講座が毎年見られている。で、今クールといえば一番の注目は妻も LBGO で書いてるように笑い飯 の出ているスペイン語会話 。先週の初回分を見逃してしまったもんで、今日はTVに「笑い飯」という紙を貼り付けて忘れないように見た。
スペイン語には男性名詞と女性名詞があって、概ね男性名詞は語尾の母音に「o」が付き、女性名詞は「a」が付くという。その例として「libro(本)」と「casa(家)」が挙げられていた。どっちも日本で固有名詞的に扱われているのでスペイン語を勉強してなくても知ってる単語だけど、「casa」はやっぱり女性名詞なんだな〜。
それを聞いて作家の島田雅彦氏と建築家の隈研吾氏の対談で隈氏が次のようにぼやいてたのを思い出した。
島田雅彦著『衣食足りて、住にかまける 』 (P.27) 隈:建築家の仕事のほとんどは女性相手で、女性が持っている、空間に対するはてしない欲望みたいなものに常に晒されてほとんど辟易しているわけです。その解毒作用として建築家にはホモが多いという説もあって、実際アメリカの建築家はヘテロよりホモの方が多いかもしれない。僕もあんまり女の顔は見たくないから、事務所のスタッフは美青年ばかりですね(笑)。
2005年04月14日 (木)
「祖父から祖母への手紙 」コメント欄の下の方をご覧になればわかると思うが、昨夜、私は一人であくせくしまくっていた。そこでも書いているように同エントリーの本文の文章がコメント欄に自分でコメントした文章にすり替わってしまっているのを見つけたのである。最初は表示上のバグかと思っていたのだが、編集画面のフォーム内を見てもそこにもコメントの文章が来てしまっていて、もはやどうにもならなさそうな状況が見えてきていた。
私はふだんエントリーするのもコメントするのも一旦別のエディタ上で書いたモノをコピー&ペーストする形で投稿しているので、原文が残っているといえば残っているのだが、しかしペーストして公開したあとにもう一度ブラウザ上でエントリーを読み直し、校正をかける。もちろんブラウザやプラットホームの環境差があるのは承知の上で、それでも私は Mac/Safari でもっとも読みよいように微妙に改行部分などの調整を掛けたりしている。
そんな中でも「祖父から祖母への手紙 」は公開後に文章そのものも相当に変更修正を加えたエントリーだった。だから、そのデータが消えたということを認めずには居られなくなったときの喪失感は非常に大きなものだった。エディタ上で下書きしたものを再アップはできるが、それは校正後の文章ではないのである。
もちろんこうした喪失体験はこれまでにも幾度も体験している。一番単純な例としては保存し忘れとか、誤ってデータ削除してしまったとか、、で、そうしたときもしばらくは茫然とするしかないのだが、しかしそれらのケースでは不思議と取り返し可能な力が自分の中に残っていた。もちろん文章をまるごとそっくり再現できるという訳ではない。だが、実際のところ、もう一度書き直したとき、喪失前に書いたものよりもグレードアップした文章に仕上がるのがそうした場合の常である。確かにデータとしては消えてしまったかもしれないが、自分の中で元の文章を書き上げたときの経験が上積み要素となってより優れた文章を書かせてくれるのである。
ところが今回の喪失においてはそうした期待がまるで持てなかった。まず第一にもう一度書き直すなんて気力はまったく持てないし、仮に書いたとしても相当端折ったものになったであろう。で、実際書く気力のない私はとりあえず下書きの文章をそのままペーストして写真についてはソースを自ら書き込んでどうにか体裁だけは復活させる形を取ってみた。だが、何ともやるせない気分になるのである。この際エントリーごと削除してしまおうかとも思ったのだが、すでにたくさんのコメントももらっているので、さすがにそれもしのびなく、如何ともし難い状態。
そこで考え始めていたのが、ネット上のどこかに何らかの形で旧データがまるごと残ってたりしないか?ということだったのである。で、いろいろ考えてふと思い当たったのが Google のキャッシュ 。ここには Google の検索ロボットが巡回時に読み取った情報(つまり何日か前のサイトの状態)が保存されている。だからもしや?と思ったら、案の定4/9(土) 時点のものが出て来てくれたのである。いや〜、このときの安堵感と言ったらそりゃなかったッス!
しかし、今回の経験をきっかけに考えたのが、今回私がデータ上の復活は考えても、頭の中からの書き直しを一切考えようとしなかったのはそれがブログ上の文章だったからではないか?ということである。他の方がどうかはわからないが、少なくとも私はブログの記事をもう一度書き直すというモチベーションをそう簡単には持てそうにない。
[R]Richistyles!「ブログと思考の濃度 」 ブログをはじめてから半年以上がたった。これだけ長い間、安定してものを書いていったのは生まれて初めて。
ニュース、ネタ、雑感、議論といろいろ書いていったが、感想としては特にそれで利口になったとは感じない。ただ、文章を書く作業は早くなったし、文章力はだいぶ伸びた。しかし、これは文章としての中身が良くなったというより、莫大な情報を処理して、それを簡単にまとめたり、適当な意見を書き上げたりする作業効率が上がっただけに過ぎない。
ここに書かれているブログ実感と似たような感覚を私も持つのであるが、どうもブログで書くという行為はこれまで文章を書いていたときのそれとはどこか感覚的に違う。まず、何よりも常に同じフォーマットに従ってエントリーしていくという一連の動作から駆り立てられるもの、richstyles 氏の言葉を借りるなら「処理」という感覚が強くあるのである。それが私にデータ上の復活は考えさせても、内面上の復活にまでは至らせなかった理由ではないだろうか?
実をいうとこの問題を私は最近 garaikaさんが書かれた「オーダーメイド 」とレディメイドとの関係、あるいはアナログとデジタルとの関係において平行させて考えたいと思っているのだが、どうもまだうまく纏められきれず(処理しきれず)にいる。
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