2009年06月19日 (金)
ちはるさん(ちはろぐ)の加古川の仕事(古民家改修)が無事終了し、その竣工写真の撮影を頼まれて二度目の現地訪問。加古川といってもJR加古川駅から車でそれなりのところなので、周辺には田んぼもあって長閑な場所である。
その田んぼで見つけたのが写真にも二匹写っているカブトエビである。
最初、田んぼの中をにょろにょろ動いているのが見えたときには、最近、空から降ってくることで話題のおたまじゃくしかと思ったのだが、よく見たら違った。
カブトエビとはそう、あの学研の「科学」の付録に付いてくる「生きている化石」とも言われる甲殻類の淡水生物である。乾燥した卵を水に入れておくと孵化してミジンコのように泳ぎ出すというインスタントラーメン感覚で飼える生物だった。ただ、孵化してちょろちょろ泳ぎ回るようになって以後の記憶がほとんどない。Wikipedia にも寿命が短く数ヶ月で死んでしまうとあるが、結局飼育ケースだけ使い回してた気がする。
ところでカブトエビを発見したとき、実は私はちはるさんに「カブトガニがいる」と話していた。それに対し、ちはるさんは正しく「カブトエビ」と言い直して受け答えされていたのだが、私は私であくまでも「カブトガニ」と繰り返し呼んでいた。というのも学研の付録では「カブトガニ」という名前だった印象が強くあったからだ。
しかし、Wikipedia で調べればそれは「カブトエビ」であり、「カブトガニ」は別種の節足動物(甲殻類ではない)として紹介されている。「生きた化石」と呼ばれる共通性はあるが、前者は淡水、後者は海水の生物なのだ。ちはるさんもさぞかし訝しく思われてたことだろう・・とここは素直に自分の記憶違いを反省すべきところなんだろうが、ところが「教えて!goo」には一つ興味深い質問が載っていた。それは私と同じように学研の付録には「カブトガニとあったのでは?」というものである。完全に裏の取れた回答が得られているわけではないので、実際のところは定かではないが、どうやらある時期の世代はカブトガニを飼っていたか、あるいは記載ミスか何かで「カブトエビ」を「カブトガニ」と思い込まされていた可能性が考えられる。
と読み間違えの言い訳はこの辺にするが、ついでにもう一つ、確証の持てないこぼれ話を(笑) 例の空から降ってくるおたまじゃくしだが、義父によれば、あれは鷺の仕業じゃろうとのこと。この時期、鷺は子育てのために口の中におたまじゃくしなどの餌を大量に含んで、それを雛の待つ巣まで運んでやるんだとか。とすれば、何かの拍子にそれをごそっと落とすことも充分考えられる。日本野鳥の会は「オタマジャクシは鳥にとってまずい食べ物。栄養価も低い」と否定的なんだそうだが。。
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2008年09月30日 (火)
2008年7月13日 11:25, 東京/谷中M類栖/光庭, Ricoh GR Digital/28mm
今月代わり映えしたところがあるのは「インテリア」のみ。しかし、そのキーワードだけでこのブログが高ランクに付けるとは思えず、何のキーワードと検索フレーズで絡んだのか確認すると、先月ランクインしていた「床の間」とのセットだった。
床の間──現実的に我が実家でそれが「床の間」として活かされるのは、祖父の命日の日だけな気がする。その日は遠い親戚でもあるお坊さんが実家を訪れ、お経をあげてくださる。そして、そのときだけ仏壇が床の間の方に移され、そのときだけ荷物置き場と化していた床の間が本来の姿を現すというわけだ。その一日のためだけにある床の間が無駄なのかどうかはわからないが、私個人はそのお坊さんと1年に1回話ができるのが楽しみで、無理をしてでもその日は東京に出向くようにしている。今年で御年86歳。
冒頭の写真はその床の間ではなく、お坊さんが来られた7月13日の光庭。
- 軍艦アパート 7.0%
- グヤーシュ 1.7%
- 谷中 1.7%
- 上棟式 1.5%
- 針江 1.4%
- 高過庵 1.3%
- 遊郭 1.2%
- 臭突 1.2%
- 川端 1.0%
- インテリア 0.9%
先月(2008年8月)の解析結果はこちらから。
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2007年01月05日 (金)
総領に初霜が降りたから「初霜総領」というタイトルにしたわけではない。
毎年元旦明けて2日に帰省する総領で、初めて雪の降らない正月を過ごし、その代わりに初めて霜の降りた田畑を目にする機会を得たので、そういうタイトルになった。
それにしても大阪のアスファルトジャングルに住んでると、霜自体見る機会がまるでなくなってしまった。三鷹に住んでた頃は霜をザクザク踏み潰すのが好きだったのだが、ひょっとして温暖化により、都心部で土のあるところでも霜はもう降りてなかったり?
2006年12月25日 (月)
クリスマスツリーというと、=モミの木だと思っていたけど、Wikipedia「クリスマスツリー」を読むと「常緑の針葉樹(主に幼木)が使われ、ヨーロッパではドイツトウヒだが、日本ではモミが主で」とあり、クリスマスの本場ではモミの木が一般的ではないということを今初めて知った。ついでなので「ドイツトウヒ」という耳慣れぬ木も調べてみるとマツ科トウヒ(唐檜)属の針葉樹で「樹形や葉の付き方はモミ属と非常によく似るが、樹皮は茶色で鱗状に割け、(中略)モミ属と異なっている」とあり、要はモミの木がドイツトウヒとパッと見で似ていたから日本ではモミの木がクリスマスツリーに使われるようになったんだろうな〜ということが伺える(但し別説もある模様)。
つまりは拡大解釈するなら、針葉樹系であれば結構なんだってアリなんじゃ?と思い、谷中のランドマークの一つでもある、みかどパン前のヒマラヤスギ写真を出してみた。このヒマラヤ杉については Kai-Wai 散策「大樹とパン屋」「大樹とパン屋 (つづき)」でその生い立ちが紹介され、Roc写真箱「ランドマーク」ではみかどパンの名前の由来となった三叉路の「三角」に仰天ピントのあったモノクロ写真がアップされるなど、既に紹介され尽くされた感もあるが、ここでは参考までに豊田さんが関わっておられる「まちの木霊」プロジェクトが作ったマップ上のヒマラヤ杉紹介文を引用しておこう。
緑字部分の話もビックリだけど、赤字部分によって何の躊躇いもなくクリスマスツリーとしてこのヒララヤスギ写真もアップできるというものである。
まあ、クリスマスなのに不気味という顰蹙の方をむしろ買うかもしれないが(汗)
というわけで、以下に昼夜の比較写真でも一枚ずつ。
【上】2006.10.20 23:42, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(夜)
【左下】2006.10.18 15:47, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(昼)
【右下】2006.10.20 23:41, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(夜)
□◇
このスポットは以前にエントリーした「アミノバリュー BCAA」でもCMに映った場所として軽く紹介はしている。そこからの関連等で以下リンク先も参照されたい。
・だんだん「ランドマーク(家と木)」(2006.06.13)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発「谷中とアミノバリューCM」(2006.07.14)
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2006年09月18日 (月)
Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」の「50,000 のキリ番・企画」。
私が見たときにはもう 50,005で、一応その旨コメントしておいたら、キリ番ゲットのラッキー人物が現れなかったため、前後賞ならぬ五後賞にまで記念品が出るとの話。
「琵琶湖畔発にふさわしいもの」として今森光彦著『藍い宇宙 琵琶湖水系をめぐる』が本日届いたのである。これは7月に近江八幡の水郷巡りをしてきたばかりの我々夫婦には非常にタイムリーな嬉しいプレゼントだった。わきたさん、多謝!
内表紙を捲ると琵琶湖水流図と琵琶湖面の写真。さらにもう1ページ捲ると近江八幡の
水郷地帯に残るヨシの集積場の写真が出てくる。朝靄の中といったところだろうか──その薄暗い集積場に葦の束ねられた写真に私は早速ノックダウンを喰らってしまった。
177ページには水郷巡りのときにその名を知ったカイツブリもしっかり載っていた。冒頭の写真は今森氏の写真には遠く及ばないが、水郷巡りの船から撮影したカイツブリである。「ヨシ原の際に巣をつくるカイツブリは、天真爛漫のように見えるが、わずかな風のそよぎにも敏感に反応して首をキョロキョロさせている。絶えず周りに聞き耳を立て、一瞬たりとも警戒を緩めない」とあるように、船からある一定の距離離れたところで潜っては浮き、潜っては浮きして、餌を探し求めていた。
その点、カモは人懐っこかった。
右上写真の一輪のカモはしばらく船の前を航路を案内するかのようにぷかぷか泳いでいたし、左の写真のカモたちは船がすぐ真横を通過しても飛んでるんだか跳ねてるんだかという感じでギャーギャーと井戸端会議でもしてるような雰囲気だった。
81ページには琵琶湖西岸にある針江大川河口の船着き場に集まる鳥たちが皆人懐っこいと書かれている。琵琶湖東で人懐っこいのはカモだけだったが、西の船着き場ではカモ以外の鳥たちも人懐っこい表情を見せるらしい。まだ琵琶湖の西側はあまり攻めてないので、この本を便りに琵琶湖西岸域の旅程も組んで行きたいものである。
ところでこの本の著者であり写真家でもある今森光彦氏のことを、私は氏が『昆虫記』という大型本を上梓されたときから知っていた。アマゾンで発売年をチェックすると1988年。私が高校生のときだったわけだが、当時、昆虫図鑑といえば写真ではなく絵で描かれたものが主流だったので、その生写真版が出たということでちょっとした話題となり、私も吉祥寺のロンロンの本屋で何度も立ち読みしたことを覚えている。
ただ、買うことはなかった。まず高校生だった私にとって3000円の書籍というのはちょっと手を出すには高値過ぎたというのが第一。また、その頃あたりから私の興味・関心は美術や建築といった文化的なものにシフトチェンジし始め、昆虫への思い入れが薄らぎ始めていた頃でもあった。そしてもう一つ買わなかった理由はおそらくその昆虫生写真が当時の私には少々リアル過ぎたのである。
人の顔同様、昆虫だって左右の形状が100%対称形である虫なんてどこにもいない。ところが従来型の昆虫図版に馴れてしまっていた私の目にはそれらの非対称が何ともグロテスクに映っていたのだろう。今の私であれば、むしろそうしたリアリティの方こそを求めるか、あるいは絵なら絵でとことんデフォルメされるかティピカルなものを喜びそうだが、当時の私はその辺でまだまだ初心な純情少年だったのである。
ただ、『今森光彦・昆虫記』を買わなかったことが心の奥底でずーっと引っ掛かっていたのも事実である。そうでなければ今回わきたさんからいただいたプレゼントに「今森光彦」という名前を見つけて、すぐにハッとすることもなかっただろう。17年前の躊躇が琵琶湖のカイツブリと共に浮いて来ようとしているようだ。
50,001をゲットされた AKiさんも aki's STOCKTAKING「藍い宇宙 / 琵琶湖水系をめぐる」で本が届いたことを報告されている。
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2006年08月21日 (月)
お盆に妻の実家(広島県総領町)への帰省で、毎年楽しみの一つにしてるのがクワガタ獲りである。まあ、クワガタ獲りといっても、山に分け入って探しに行くのではなく、町のスーパーに備えられた誘虫灯や街灯、自動販売機に集まったクワガタを夜中に探しに行くだけの話。今年はコクワガタ♂2匹、♀2匹にアカアシクワガタの♂を1匹捕まえた。コクワのペアは甥がいるときに捕まえたので、甥にプレゼントし、甥が帰ってからさらにコクワのペアとアカアシクワガタの♂を捕まえたもので、それは大阪に連れて帰り、現在は私のPC椅子の後ろのカゴの中でゴソゴソ元気に動き回っている。
ところで私は35にして初めてアカアシクワガタを捕まえた。というか、生きているアカアシクワガタを見たのも初めてかもしれない。捕まえたときにはコクワだと思っていたのだが、家に帰って明るいところで見たら腹と足が小豆色をしていて、これはアカアシクワガタに間違いないと思ったのである。非常にセコい話なのだが、捕まえたのが甥の帰った後で良かったと思ってしまったのは、私が幼い証拠である(汗)
ちなみにクワガタに詳しくない人にアカアシクワガタのクワガタ界でのポジショニングを説明するのに、Google の検索検出結果数比較をしてみようか。
アカアシクワガタ 11,200 件
コクワガタ 127,000 件
オオクワガタ 403,000 件
ヒラタクワガタ 124,000 件
ミヤマクワガタ 153,000 件
ノコギリクワガタ 221,000 件
カブトムシ 2,590,000 件
以上からもアカアシクワガタが如何にマイナーなクワガタかは理解できよう。
とりあえず「Dorcus Breeding Studio」というサイトの「アカアシクワガタ」のページを見ると、成虫の越冬は可能ということで、年寄りでなければ長く飼い続けることもできそうだ(コクワは3年くらい生きる)。ただ、高温に弱いとのことで、エアコン利用頻度の低い我が家もアカアシ君のためにエアコンつけねばならなくなってしまった。
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2006年05月21日 (日)
この日は豊田さんと家で一緒に夕食をということで、実家の居間での打合せとなった。
主な打合せ内容は相変わらずの「エアカルテット」問題と、母が希望している追加工事をすべきか否かの話。「エアカルテット」問題はこれから梅雨の時期に去年との比較をしてみないと何とも言えず、その結果待ちということで、もう少し決着までには時間が掛かりそう。ただ、応急処置として、場合によっては扇風機をピアノ下に置いて風を循環させる工夫をしてもいいかもしれないという話にはなった。
追加工事の方は前庭にも水道を回す(倉庫の中には既にある)という工事は行うこととし、その代わり、電気コンセントを外にも付けるという話はなしということになった。
あと、2階のサッシに紫外線防止フィルムを張るのも工事費が高いことと、網ガラスに張るとガラスが割れる例があるということで、現時点では控えることになった。
ただ、この打合せ的な話はほんの数分程度で終わってしまい、残る時間はほとんど両親の旅行自慢話大会。母が言うには前日、母の友人宅を訪ねたときには父はほとんど喋らず半分恥掻かされたとのことなのだが、この日はべらべらとよく喋るもんで、豊田さんなら喋るのねとちょっと呆れて果てていた。
食後は二人でカフェノマドへ。そこで neonさん、それから谷中から千駄木に引っ越された lislenさん+naoさんと会う。neonさんはありがたいことに曙ハウス作品前の席を取っておいてくださった。ノマドは客の座ってるテーブル上の作品をじっくり見るのにはちょっとばかり勇気がいるのである。しかし豊田さん、メールで伝えておいたはずなのに「曙ハウスなくなっちゃったんですか?」なんて言い出すオオボケぶり、、って私も人のこと、まったく言えた立場ではないんですが(^^;)
・・とそれはともかく、neonさんが先に帰られたあと、naoさんと豊田さんがイタリアの同じ大学に留学していたことが判明し、話はめっちゃ遠い世界のローカルな話となって lislenさんと私は「ココはどこ?」の人状態になってたのでありました(^^;)
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2006年05月20日 (土)
これまでにも幾度か書いたが、三鷹金猊居に住んでた頃、子供ながらの自慢は家の庭に実のなる樹がたくさんあることだった。葡萄、無花果、茱萸、金柑、蜜柑、木苺、苺、姫林檎、キウイ、ブルーベリー、、と思いつく限り書いてみたが、中でもとりわけ好きだったのが、ブドウとグミとキイチゴだった(今度はカタカナで書いてみた)。
特に葡萄は子供の頃、葡萄棚が駐車スペース後方一面に張り巡らされ、よく家の屋根にのぼって貪り食べていたものである。その後、いつだったかはよく覚えていないが、父が2台車を持った時期があって、そのとき葡萄が落ちて車が汚れるとかの理由で駐車スペース上の棚は刈り取られ、縮小化した棚を寂しく思った記憶がある(右の写真は2001年夏の縮小してだいぶ経ってからの写真。ちなみにその頃はまだ家を解体することになるなんて思ってもいなかった。奥に見えるのは現在光庭の石灯籠)。
一応、その葡萄は母が気を利かせてくれて、差し木によって今は谷中の家のバルコニーで植木鉢上で再生している。が、実を付けることを期待するならどこかに植えなければならないだろう。父が高齢でそろそろ車を手放すかと言っているので、車がなくなったら玄関前からパーゴラを葡萄棚とする可能性は高い。葡萄棚といえば、もう15年以上前に中国奥地ウイグル自治区のトルファンという町に行ったことを思い出す。この中国でも有数のワインの特産地であるこの町は、町全体が葡萄棚といっても過言ではないくらいにどこにでも葡萄棚が張り巡らされていたのだ(今は違うかもしれないが)。
さて冒頭の写真は根津の曙ハウス跡地から少し北東に歩いたところにある、家壁に葡萄蔓が這う集合住宅である。実は前日、曙ハウス会合のあとに masaさんの案内で通ったところで、もう一度じっくり見に行ってみたくなっていたのである。10月の谷中芸工展の時期にはおそらく谷中にいると思うので、その頃、再チェックしに行ってみねば!である。問題は誘惑に駆られて食べないように注意せねばならぬところではあるが(笑)
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2006年05月19日 (金)
具体的事例をなるべくそのままタイトルにしようと心掛けているこのブログでは珍しい題の付け方かもしれない。そのくらいこの日はいろいろなことがあり、しかし、当の私はそれを「いろいろ」という以上に思い起こせるほどの余力を残していなかった。まさかN的画譚「個展にわか掲示板」で自ら提案したこの日に、仕事の〆切がかち合ってしまうとは・・結局一睡もせず(新幹線で寝られない質なのも痛い)に集合場所の根津駅2番出口に向かい、約6時間の「いろいろ」を経て、仕事の修正確認のため、家の近所の一乗寺裏手折れ角に来たところで皆と別れたのである。
というわけで、この日、根津と谷中で何があったかは、集まったブログ仲間たちの関連エントリーへのリンクで賄わせていただくこととする。・・と勿体付けて書いてるけど、要は手抜きか?(^^ゞ
・N的画譚: 皆様ありがとうございました(2006.05.19)
・Kai-Wai 散策: ピアニシモな建築たち(2006.05.19)
・みどりの大冒険: 根津の名所へ突撃!曙ハウスとneonさん個展(2006.05.20)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 根津と谷中を訪れる(1)(2006.05.29)
・だんだん: はじめのエントリー(2006.05.30)
・Roc写真箱: ソース注しのある食堂(2006.02.19)
冒頭の写真はどうにか仕事の修正確認を終えて気晴らしに家の屋上に上がったら見えた夕焼けである。その頃、みんなは再びかめや食堂で2度目の定食だったらしい(^^;)
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2006年05月17日 (水)
「苗の朝露」でお披露目した我が家のベランダ苗はミニビニールハウスの中ですくすく成長し、5日ほどでハウスの天井に背丈が届いてしまった。ハウスがミニチュアだからといって苗もミニチュアで育ってくれるわけではないのである(笑)
結局ハウスは約一週間でお役ご免。その後、田植えのタイミングを見計らっていたのだが、ここのところの天候不順でなかなか田植え日和の日が来ない。別にマンションのベランダなんでいつ植えても構わないのだが、何となく米モノ(=神様?)なだけにお天道様の元というのが常道のような気がして、ついつい晴れ間を待ってしまっていた。しかし、私の上京日程も迫り、また根っこの一部が少し黴び始めて来てもいたので、この日、曇り空ながら田植えを行うことにした。
実は去年「プランタ稲作@ベランダ」をエントリー以降、全然稲作ネタのエントリーがなかったのは、ベランダ田植え第一弾時に買ってきたばかりの土に肥料を与えすぎていきなり枯らしてしまったり、第二弾でも私の不在期間中に妻が水やりを忘れていて枯らしてしまったりと散々な結果で、ほんのちょっとしか稲穂を実らせることができなかったからである。そんなわけで今年は去年の轍は踏まぬよう、肥料は与えず、横長のプランタ、バケツ、ペットボトルと幾種類かの容器で田植えをすることにした。
ただ、去年は横長プランタであれば4×1列しか苗を植えなかったのを今年は8×2列という相当混雑した植え方にしてしまっている。というのも、去年あまりちゃんとした生育を見られなかったため、つい稲を舐めてしまっているというか、まあ、途中で間引く必要は出てくるかもしれない。今年はどうにかこの稲作エントリーの続編があってほしいものである。
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2006年05月01日 (月)
今朝(といってもお昼なのだが)起きて、ちょっと感動の出来事があった。
先月「黄砂の苗代」の文末で冗談まじりに「ミニビニールハウスでも作ってまおうか」と書いていたのだが、4月17日に弁当箱を利用して籾撒きした苗がニョキニョキ育ってきたのを見ていたら、なんだかやっぱり本当に作りたくなってしまって、昨日、針金とサランラップを駆使して作ってしまったのである。
そして今朝、ミニビニールハウスを覗いてみると写真のような朝露の水玉が葉の上部にポロロポロロと光り輝いていたのである。これは決して霧吹きで吹き付けた水の滴ではない。自然の力ってスゲエと思わせられた一瞬であった。
ちなみに我が家のベランダは西向きなので、14時過ぎにならないと日が入ってこない。しかし、その西日が入ってきてから立ちどころにハウスの内側が白く曇ってしまった。ミニでも一端のビニールハウスである。そしてさらに感動だったのが、写真を撮ろうとレンズをハウスの内側にまで突っ込むとあっという間にレンズも曇ってしまう。これでまた湿度たっぷりであることを実感。ふつう家づくり関連ブログでは「露」は結露等で痛い言葉であるはずなのだが、「露」に感動してる施主ブロガーなのであった(笑)
あ、それと去年もチャレンジした「和棉」の種もこの日蒔いた。
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2006年04月24日 (月)
総領町帰省中に田んぼのあぜ道で撮った土筆(つくし)の写真を flickr にアップ。
ツクシを「土筆」と書くことを今回文字変換して初めて知った。岩波国語辞典によれば「土手などに筆の形をして生える」と書いてあって、まあ、そのまんまの当て字だ。
長らく土筆を食べた記憶がない。と妻に写真を見せながら話すと土筆のあるところにはおしっこが掛かってることが多いから気をつけた方がよいとのこと。てか、おしっこが掛かると土筆はより一層育ちやすいんだとか?(汗)
flickr の写真は黄砂の吹いた夕まずめに撮ったのだが、なぜだか妙に赤っぽいサイケデリックカラーの写真に仕上がってしまった。土筆の回り一面に姫踊子草が咲いていて、その薄紫色が反射してこうなってしまったのか? 結局土筆はまだ食べていない。
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2006年04月08日 (土)
去年に続いて今年も妻の実家(広島県庄原市総領町)で「苗代」の手伝いをしてきた。
しかし、今年は苗代当日、物凄い黄砂が西日本を中心に観測され、また寒冷前線の通過で、これまた物凄い強風が吹き荒れ、大きなビニールシートを被せてビニールハウスを作る苗代作業の日としては最悪の一日だった。我々が行かなければ間違いなく別の日に行われていたことだろう。我々がいたおかげで四隅を押さえられ、強風の中でもどうにかシートを被せてしまえたが、仕上がりも雑で手伝って良かったのかな?とも思う。
尚、上の写真だとあまり黄砂の雰囲気は感じられないだろうが、後日、灰塚ダムのその後の写真をアップするつもりなので、そちらで黄砂の様子は実感していただきたい。
しかし、今回総領に D50 を持って行って感じたのは、デジタル一眼レフは農作業中の撮影には決定的に向かないということだった。去年は農作業をしつつ、胸ポケットからちょいと G400 を取り出して撮影なんてことも気軽に出来ていたのだが、今年は撮影のためにいちいち自分の作業を中断しなければならない。要するにデジ一眼だとカメラが主役に回ってしまうのである。それはある意味、これまでの自分の撮影スタイルとは真逆のところで取り扱わねばならないツールにカメラがなってしまっているということである。その辺のカメラ問題は機会を改めてまたエントリーしたい。
ちなみに今年は稲の種を貰ってきているので、苗となる手前の段階から「稲作@ベランダ」に挑戦である。ミニビニールハウスでも作ってまおうかな。プチ家づくり気分で。
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2006年04月03日 (月)
以前このブログでは「石 求ム!」と庭石を募集する告知をしたことがあったが、今回はそれとは逆に余った土いりませんか?の告知である。
「蟻鱒鳶ル初見学」で紹介した岡さんの現場で、掘り出した土を収めた土嚢が山盛り状態らしい。最終的な処分のアテはあるようなので困ってるということではないが、東京近郊にお住まいで自分で取りに来られるという方おられましたら、こちらまでコメントもしくはコンタクトフォームからお問い合わせください。岡さんに話繋ぎます。
岡さん曰く、日に日に掘り出す土が粘土化してるらしいので、もう畑には使えないだろうとのことですが、それでも用途があって欲しいという方。岡さん的には「土が欲しい」って人と出会ってみたいという好奇心は強く持たれてるようです。
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2006年03月07日 (火)
光庭も2回目の春を迎え(1回目)、だいぶ地に足付いてきたというか、植物がサイクルしていることを実感できるようになってきた。なんて言いながら、やっぱり一番目が向いてしまうのはこの時期だとユキノシタとフキである。嗚呼、天ぷらや〜(^^;)
しかし、我が実家ではキッチンの換気口が汚れるのを嫌って、天ぷらはおろか、油モノもほとんど作らなくなってしまった。まあ、それは三鷹に居た祖母が亡くなった頃から既にそうだったので、谷中に来て作らなくなったものでもないのだが。。
ときどき思うのが「揚げ屋」ってないものか?ということである。
庭先とか釣りに行ってでもいいけど、どこかで仕入れた食材を持参して、それを揚げてくれるお店。まあ、店の儲けは極めて低いだろうから絶対やるところないだろうけど、やれるとしたら食べ放題の串揚げ屋にこっそり食材持ち込んで揚げてしまうという方法か?(逆に私は食べ放題で食べきれなかった串をこっそり持ち帰ったことはあるけど)
光庭に話を戻すと、その他には万両が赤い実を付け、アオキや三鷹から持ち込んだ木イチゴ、英国青鈴も若々しい芽を出していた。木イチゴが実を付けるのが楽しみ♪
って結局また食べ物話題だが、広い庭のあった三鷹にいたときも愛着を持って接していたのは果物系の植物ばかりだったのである(笑)
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2006年01月22日 (日)
無邪気な Kai-Wai フリッカーズが予定通り18時に谷中M類栖に戻ってくると出迎えてくれたのがこの雪だるまだった。
まさか近所のガキんちょが作ってわざわざうちの玄関先に置いて行ったなんてこともあるまい。
後から聞けば、母が2Fバルコニーに溜まった雪のやり場に困って(そういえばさすがに雪のことまでは計算に入れてなかった)、バルコニーで雪をまるめて下まで持って降りて、雪だるまにしたのだという。
この日、谷根千を散策する間に何体もの雪だるまを見たが(masa・nodoca・m-louis 撮影)、身内のひいき目かもしれないが、母の雪だるまはなかなかの出来映えである。まあ、有利な点を挙げれば大人だけで作っていることと、バルコニーに土がなく、土の混ざってない雪だるまが作れるという点があげられようか?
唇に赤く染まった南天の葉を使ったのだろうか?──微妙に表情が艶っぽく、それなりに疲れて帰ってきた我々を最後の最後に和ませてくれた粋な演出だった。
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2005年12月25日 (日)
「戻る棉」で収穫しておいた棉毛に思わぬ形で活躍の場が訪れた。我が家には高さ15cm程度の贋物クリスマスツリーしかないのだが、これまではクリスマス時期に何の装飾もなく表に出されていたのが、今年は棉雪をまとってのツリーとなったのである。
綿雪ではなく「棉」雪である!
flickr! でも書いたが、贋物のツリーに雪に似せた本物の棉を使うという妙な倒錯感が面白い。姉歯構造設計・木村建設施工で外観に大理石使ってる感覚だろうか?(汗)
ちなみに今年我が家ではクリスマスケーキの代わりに冷凍ドリアンを食べました。
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2005年12月19日 (月)
もうだいぶ前からの話ではあるのだが、「棉の芽」「育つ棉」「咲く棉」「生る棉?」と来て「戻る棉」で棉毛を収穫されて役目を終えた棉の木がベランダの他の植木同様に葉を枯らした。
茎も伸び盛りの頃のような青々しい、どこまで伸びるのか心配させられるほどの元気さはもちろんなく、老人のように首をもたげ、105cm まで伸びた丈も1mを切ってしまった(写真では背後の壁に寄りかからせているので、まっすぐに見える)。
それに二つほど開いて棉毛の出ていない実が残っていて、それがまた年老いた棉の木に負担を掛けているのだ。ということは、頭でっかちは老後がつらいという話にもなってきそうだが>>やばいぞ、自分(汗)
植木鉢の方は他の植木同様、春になるとまた若芽を出すのかはわからないが、とりあえずこのまま置いておくことにする。でも、復活したらどのくらい大きくなるのか?とこれまたちょっと心配でもある(笑)
2005年12月16日 (金)
これまでのエントリーやコメントでも仄めかせてはいたが、もう一月も前の11月8日〜15日まで父と中欧旅行に行って来た。何で?と聞かれても困るのだが、簡単に言えば父が最初は母と行こうとしたものの、母から断られ(体調不良により)、その代役となった恰好。基本的な旅費は父持ちという話だったこともあるが、ここは行っておくべきと判断をしたのには家づくりをしたという経験が大きく作用しているような気がする。もし家づくり以前にこの話があったならば、あっさり断っていたように感じるからだ。
ツアー同行者からも珍しがられたように、ふつう父と息子が二人で海外を旅するというような話はそうそう聞くものではない。母娘はまだあり得ると思うが父+息子はオイディプスの話を取り上げるまでもなく、照れも入り混じる妙な距離感があるというのが大方ではなかろうか。ご多分に漏れず、家づくりする前の私も明らかにそうした息子の一人だったのだ。
とそれはともかく、Flickr! の方で写真をアップし始めたので、それに連動してときどきこのブログでも中欧旅行の話をエントリーして行ければと思う。と言いながら、最初の写真は出発日の朝に屋上で撮った朝焼けなのだが。。
こんな日でもないと、そうそうこの時間に屋上に上がることはない。
右手の高い建物は芸大の絵画棟だか彫刻科棟だったっけかな?
10月末にフェリーで見た朝焼けもよかったが、谷中の屋上もまんざら悪くない。
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2005年09月11日 (日)
「棉の芽」「育つ棉」「咲く棉」「生る棉?」とシリーズ化してきた我が家の棉はどうやら一つの終着を迎えたようだ。
というか円環を結んだというべきか?
植物であれば当然の帰結であるが、青々としていた棉の実は皮が干からびたように捲れ上がり、中からほわほわの白い棉が顔を覗かせた。mitsubakoさんに棉の種として最初にいただいたほわほわの状態に戻ったのである。
ちなみに写真に写っているほわほわは3つの房のように見えるが、これらの房の一つ一つに数個の種が含まれ、それらが一体化したような状態になっている。それをバラすと mitsubakoさんからいただいた棉帽付きの種となる。ちょっとした感動である。
2005年08月23日 (火)
「棉の芽」「育つ棉」「咲く棉」とシリーズ化しつつある我が家の棉の近況報告であるが、花が咲かなくなったと思っていたら今度はその花の咲いていたところにウメボシ大くらいの実が生っているのを発見。
相変わらず先の読めない植物を育てるというのはその都度変化に驚かされて楽しいものだ。棉というだけにこの実がパカッと開いて白い棉が吹き出て来るのだろうか?
今後も様子を見守って行きたい。
ちなみに背丈は96cm。1m越えまでわずかに足りなかった。
2005年08月20日 (土)
「棉の芽」「育つ棉」と経過をレポートしてきた棉の木(?)に花が咲いた。
‥‥と咲いたのはもう3週間ほど前の話で早速 mitsubakoさんに報告したところ、
mitsubakoさんのところではまだ咲いていなかった。うちの方が植えた時期は遅かったのだが、やはり大阪の方が湿度が高いので発育が早いのだろうか?
それから間もなく、mitsubakoさんのところも一週間遅れくらいで「咲いては落ちて」が始まったとのコメントがあったので、こちらでも写真と共に花の様子をアップすることにした(といっても既に一週間遅れではあるが)。ちなみにうちも3週間前からずっと咲いては落ちての日々が続いている。なぜか一斉に咲き乱れてはくれない。
なお、7/31(日) の時点では65cmだった背丈は本日計ったら90cm。
masaさんの「m-louisさんが綿の木に登ってボヤいている図を想像してしまいます」は笑いでは済まなくなっていくのかもしれない(^^;)
2005年07月31日 (日)
「棉の芽」で書いた mitsubakoさんからいただいた棉が総領での「田植え」の際に持ち帰った「苗」とは対照的に順調に生育している。
っていうか、大した植木鉢でもないのにすでに背丈が65cmにまで育ち、このままどこまで大きくなるのだろう?とちょっと心配なくらいである。
先日の天神祭の花火大会で遊びに来た友人に余った種があるので育ててみないか?と訊ねてみたのだが、どこまで大きくなるのかわからないと言ったら「なんか不気味」とか言われて断られてしまった(笑)
いや、まあ、そのくらいのことまで調べてから勧めればよかったのだが、この際だからどこまで大きくなるのか知らないままに育ててみるのも面白いかもしれない。
mitsubakoさんのところの「和棉(発芽の様子)」「和棉その2(本葉出始め)」以降の様子もちょっと気になるところである。「稲」の方は順調な様子だが。。
□◇
エントリーした矢先、mitsubakoさんのブログに「和棉その3」の暑中見舞いが‥‥。
しかし、なぜかうちより早く植えたのにうちほど大きくはなってないそうです。
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2005年07月28日 (木)
garaikaさんが「涼み台で花火鑑賞」と自慢(?)されている(笑)
谷中の家も立地的には隅田川の花火が屋上から見えるところにあるのだが、生憎「とある障害物」のおかげで花火の方角の景観はすべて遮断されてしまっている。
他方、私が現在住んでいる大阪のマンションは裏が天神祭の行われる大川で、天神祭の花火大会も部屋からは3/4、非常階段に出ればバッチリ間近で見られるので、涼み台には叶わぬものの、花火を見るロケーションとしてはうってつけである。
マンションもこの日くらい屋上を開放してくれてもいいのに!とも思うのだが。。
ちなみにそのマンションに引っ越した去年、私は実家の引越手伝い等で天神祭もギャル御輿も花火大会も見逃していて、家からの花火は今年が初めてであった(ちなみに現在のところに引っ越す前もすぐ近所に住んでいたので、毎年花火は見ていた)。
で、我々が住む8階、もしくは11階の非常階段から目線と同じ高さに上がる花火をしばらく見ていたのだが、何かが物足りない。大阪に越してきたばかりの夏、大川を望む帝国ホテルの上階から見たらさぞ迫力満点だろうと思っていたが、花火の音が聞こえず何とも寂しい思いをしたことがある。だから花火に音は不可欠と思っていたが、どうも私にとって花火というのはそれ以外にも必要な要素があったようである。
それはあの普段は鬱陶しくてならないはずの人混みに紛れて、あんぐりとアホっぽく口を開けて、多少首を痛くしながら上を見上げて花火を見るというあの汗苦しい猥雑な感覚じゃないだろうか? 別に garaikaさんの「涼み台」や谷中の家の「とある障害物」恨めしさから言うつもりはないが、祭や花火ってもんには「雑踏」が持っている過剰な高揚感が不可欠な気がしてならない。
□◇
※)本文中に採用した写真は去年妻が部屋から撮ったものです。
※)関連エントリー
・greenplastic.net「天神祭奉納花火」: 川の向かい側から撮られた花火を発見!
・ノアノア「花火」: 名古屋マンション生活時代の花火体験談
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2005年06月14日 (火)
5/22(日) に「ブログ仲間の訪問」で来訪された mitsubako さんから「苗」との交換でいただいた「和棉」の種が芽を出した。本当に棉帽を被ったまま発芽するんだな〜。
うちは「苗」の方が肥料の与え過ぎと私の上京中に妻が枯らしてしまったことにより今イチ芳しくないので、緑色の棉の芽が妙に生き生きして見える。
ところで mitsubako さんから棉の話が出て来たとき、「わた」って「綿」って書くんじゃなかったっけ?と思ったんだけど、その「綿」は精製された「わた」のことで、繭から製したもの、木や草から製したものといろいろあって、その木の「わた」である、あおい科のわたの木のことを「棉」と書くんですな。だから「木棉綿(もめんわた)」という読み方もあるらしい。原産はインド・エジプト。
ちなみに mitsubako さんによれば、その棉送りの発信源は「鴨川和棉農園」です。
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2005年05月08日 (日)
「田植え」のエントリーで予告していたベランダでの稲作。
とりあえずプランターに新しい土を盛って植えてみました。肥料も少々。
検索するとゴマンと出てくるんで、困ったときにみりゃいいやとそんなにしっかり見てないんだけど、とりあえず「ベランダで育てる稲」「バケツ稲の観察日記」「バケツ稲づくりネットワーク」「プランタン農業へのチャレンジ」のようなイメージで育っていくのかな?と。。
ただ、義父が稲の長さだけ根は伸びるけぇ〜と言ってたので、もっとそこの深い所謂バケツをプランターにした方がよかったかもしれない。
尚、苗を少し多く持って来すぎたので、大阪天満もしくは私が上京時(5月中に1回予定)の谷中宅まで取りに来てくれる方、苗、お裾分けします。ま、どちらにせよ、ご近所さんでないと交通費の方が植木屋で買う苗代より高く付きそうですが。。
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2005年05月04日 (水)
前回の「苗代」エントリーに続き、GWを利用して田植えの手伝いに行ってきました。
田植えは苗代と違って誰でも知ってそうな言葉ですが、試しにヤフー辞書検索すると
と出て来ます。が、これだけでは物足りないので知恵蔵からも引用してみました。
どことなくその変遷が村人総出で手伝いに来た時代の家づくりを連想させます。「さなぶり」は云わば「棟上げ」にあたる行事だったのでしょう。しかし、近代化の波は過疎村の隅まで行き届き、我が実家の田植えもその例に漏れず、ほとんどの部分は田植機がやってしまい、手伝いといえば田植機に苗を移すとか運ぶとかその程度のものでした。
冒頭の画像は「苗代」のエントリー最初に見せた2002年時の画像とほぼ同じ田植え前日のまだビニールハウスが取り払われていない時点での苗の様子です。
こちらは田植え前日の水田の様子。お隣りの水田はもう田植えが終わっていました。
前日夕方、ハウスを片付け、苗へ最後の水撒きです。相変わらず義父の専売特許。
そして当日、私たち夫婦が起きる前(朝7時前)にはすでに農薬が撒かれ(写真右の白い粒状のものが農薬)、準備万端の状態になっていました。
8時過ぎ、田植機が到着。義従兄弟のR三君が今年新しく買った田植機でやってくれることになっています。まずはトラックの荷台から田植機を降ろしました。
義父は苗のケースごとに底面に付いた土を払ってから田植機に載せていきます。
これが苗を田植機に載せた状態。背中の苗が少なくなったら手前の苗を補充します。
乗り切らない分は運搬車に乗せて田の畔に移動。義父はR三君に田植え位置を指示しなければならないので、ケースの土を払って運ぶ作業は途中から私が請け負いました。
田植えは水田の中程がやや深くなっているため、一部植え付けがちゃんとできずに同じところをやり直さなければならないこともありましたが、概ね順調のようです。
一往復すると補充分含めて田植機上の苗が切れる少し前の状態になるので、そこで新しい苗を畔から受け取って補充します。
田植機にセッティングされて不要になった苗用ケースを洗って乾かす作業は主に義母と妻がやってました。畔の横に水が流れているので楽チンです。
しかし、それらの作業が終わってしまうとあとはR三君の田植えの様子を見守るばかりで何もやることがありゃーせん状態です。昔は家族総出だったのに、田植機恐るべし。
二往復したところで10時のおやつ。とその前に私も田植機に乗せてもらってヤラセ写真を撮らせてもらいました。苗の受け渡し作業だけは本当にやってましたが。。
休憩後、再びR三君が残る列を順調に往復。完全カメラ目線で余裕のポーズ。
最後の列を終えてから手前と奥の隅を横列で往復させて田植機は11時でお役ご免。
帰り際にR三君と義父が「これで一段落付いたけぇ〜、あとは稲刈りまで一安心じゃ」と言ってたのが妙に印象に残りました。稲作って思ってたよりお気楽なんだろか?
残る作業は我ら家族で田植機が植えきれなかったところなどを手作業で埋め合わせ。
昔はこれをすべてやってたのかと思うと、そりゃ昔の老人は腰が曲がるのも頷けます。
作業は簡単な片づけを残して12時半で終わりました。
夕方、田んぼに出てみるとさすがにまだ田植機で掻き乱された水は濁っています。
が、翌帰阪前には濁りも落ち着き、透き通った瑞々しい水田となってました。
しかし、レポート途中でも書いたように、どうやらこの田植えが終わると本当に一段落付いてしまって秋の収穫までに一、二度、農薬を撒く程度の仕事しかないようです。その農薬も何やらボール状のダンゴを2、3個投げ込んでおけばそれで済むらしく、ましてや去年から水田まわりに猪等が入ってこないようにと部落ぐるみで感電性の電気柵まで設けているので、ホントに手が掛かりません。
こうした手間の掛からぬ状況を可能としたのがそれこそ知恵蔵からの引用で説明されている「水田」というシステムの威力なのだと思います。ある意味、建築基準法改正で条件付けられた24時間換気システムと似てるっちゃー似てるような、、水田ははるかに前から24時間換水システムを備えていたというわけですね(笑)
尚、余った稲を少しばかり持ち帰ったので、みつばこさんの「種子の時間」に倣って今度はベランダ田植えに挑戦してみるつもりです。それといつか田植機を自分で操作してみたい!!
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2005年05月02日 (月)
2002年10月の三鷹金猊居解体後、なぎ倒された家の破片も片付けられ、地均しされた土地を見に行ったとき、そこで木屑の混ざった土の表面に豆粒大の膠色の球根のようなものがめり込んでいるのを見つけ、そっとポケットに忍ばせて大阪に持ち帰りました。そのときは何の球根だろう?と妻と首を傾げていたのですが、妻が植木鉢に植えておいたら翌年の春には青い芽を出して、ちょうど今頃、見事な紫色の花を咲かせてくれました。もちろん三鷹の庭に生えていた見覚えのある花です。
そして去年もちゃんと咲いたのですが、去年の今頃ちょうど私は実家の工事で慌ただしく上京を繰り返していたので花の咲くところを見ることができず。ただ、去年その花が枯れてから妻がちゃんと手入れをしておいてくれたおかげで、球根の数は結構な数になってました。
で、今年も先月初め頃から元気に新芽を見せてくれていたのですが、どうも一つの植木鉢にとっては飽和状態になってしまっていたようで、茎の伸び具合が悪く、花も例年よりも寂しい感じにスケールダウンしてしまいました。花びらの反っくり返り加減が心許ない感じです。というわけで、今年の秋口には谷中の家に株分けしようと考えています。
元々、母はこの花がお気に入りの一つだったようなのですが、家の解体が10月でその頃は球根が土中に埋もれてしまい、すっかり掘り出しておくのを忘れていたそうです。そんな三鷹の庭に埋もれていた一株が偶然命救われ大阪に運ばれ、大阪で命を吹き返し、再び三鷹の庭で一緒に咲いていた他の草花たちのいる谷中の庭に帰還する。なんだか不思議な嬉しい気持ちになるものです。草花たちにとっては「お前、どこ行ってたんだよ?」って感じでしょうか(笑)
ちなみにその花の名前はイングリッシュブルーベル。ユリ科ツルボ属の多年草で、学名は Scilla non-scripta。あとで母から聞いたところによると、今年育ち具合が今イチだったのは土に肥料分が足りてないのでは?というアドバイスがありました。確かにその辺も考えておいた方がよさそうです。
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2005年04月26日 (火)
施主ブロガーの garaikaさん「庭ができた──苔の帰還」、yoshiさん「庭師物語-14」などで続々自家製庭の写真がアップされてるところにちょうど実家からうちの光庭の様子を納めた写真が2枚ほど送られてきたのでここにアップ。
うちの光庭が一番スケール小さいけど、冬場に植えた苗や三鷹金猊居からの持ち込み植木が根付いて青々と茂り始めてるという点で我が家の勝利!(笑)
いや、まあ、もちろんそれは植える時期が早かったからならではの今だけの話ではありますが、しかし、自分で手を掛けた庭というのはかわいいもんなのであります。っていうか、もっと手を加えたかったけど、それは住んだときの楽しみに残しておきます。
ちなみにクリックして見えるかどうか微妙ですが、左側写真の中央右寄りのところに白い春欄の花が一輪、それから右側写真の右端中央に木苺の花があり、これらは三鷹金猊居から持ち込んだ植物で、とりわけ私は木苺には愛着を持ってました。ま、基本的に愛着ある植物ってグミ、無花果、金柑、蜜柑、姫林檎、ブルーベリー、キウイ、それから葡萄、木苺、苺と食べられるものばかりだったのですが、この中で谷中に持ち込めた果実植物は「それから」のあとに書かれた3種のみでした。勿体なかったな。
※)これまでてっきり光庭完成時のことはエントリーしたつもりになってたけど、フォトログにアップしただけだったようです。いずれ時間を見つけてアップしたいと思いますが、とりあえず完成直後の様子はこちらから!
※)最初タイトルを「光庭の初春」ってしようとしたんですが、「初の春」のつもりが「初春」とすると別の意味を持ってしまうので、やむなく「春初体験」とせざるを得ませんでした。ちょっとカッコワルイあるね。
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2005年04月10日 (日)
週末、妻の実家(広島の庄原市にこの春吸収合併された総領町)にて苗代の手伝いをしてきました。苗代というのは検索サイトの辞書検索結果によれば
といったところで、我々はその苗代となるビニールハウスを押っ立て、育苗箱に籾米を無肥土でサンドし、ビニールハウス内に積み重ねるところまで手伝ってきました。このあと田植えまでの約25日間、積み重ねた育苗箱の順番を幾度か反転させて蒸れ具合を均等にし、発芽した頃から一段ずつハウス全体に並べて行くのだそうです。
上の写真は2002年のGWに田植えの手伝いに行ったときに撮った田植え直前の育苗箱の並べられた様子です。すでにハウスは取り払われ、青々と背を伸ばした苗が田植えの瞬間を待ち構えていました。このあとの追記欄では今回手伝いをした苗代作りの経緯を写真と共に紹介します。
まず最初にビニールハウスの骨組みである竹を差し込むための4cm四方、深さ20cmくらいの穴を掘ります。一応、毎年同じ位置に穴をあけているので、冬の間もパイプを差し込んで目印代わりにしてはいるのですが、それでも細くて深い穴を掘るのって意外と大変。苗代づくりではこの作業が一番重労働なんじゃないかな? 穴は2箇所ずつ掘ったらすぐに竹が弧を描くように両端に差し込みます(穴に小石が落ちるとまずいので)。この作業は最初のうちは義父がやって、途中からは私が担当しました。
またハウス作りと同時進行で女性陣は育苗箱に無肥土を敷き、その上に籾米を均等に蒔いてからジョーロでたっぷり水をかけてやり、水が落ちたところで再び無肥土を被せるサンドイッチ作業をひたすら続けます。
ハウスの骨組みが完成しました。ハウスの中央部ではすでに籾米を無肥土でサンドした育苗箱が積み重ねられて行ってます。
育苗箱は7枚ずつ間に角材を挟んで重ねるので、わずかな狂いも致命傷になりかねません。しかし、この作業も途中から私に任せてもらえました。
その間、義父は籾米に水を撒いていました。本当にたっぷりたっぷり育苗箱に水を撒くのですが、この水撒きが案外難しいらしく、私はやらせてもらえませんでした。
育苗箱のセッティングがすべて終わってから、ハウスの骨組みをより強固にする作業です。道路側には水平垂直軸にも竹をまわし、全ての交差箇所を紐で縛ります。
竹の骨組がしっかりしたらビニールシートを被せ、ひとまず石で固定したあと、ビニールの左右両端を少しばかり土に埋めます。
そして最後にビニールの上から弾力性のある紐をまわして杭で留め、入り口側にも石を置いて完成。完成後ほんの数分経っただけで、もうハウス内はめっちゃ暑いです。義父曰く、この中に人を閉じこめたら1時間もしないうちに死ぬはずじゃと言ってました。
しかし、籾米はこんな蒸し暑い環境に置いてやらないと簡単には発芽しないようで、、そりゃ考えてみたら、お米が米櫃の中で発芽したりしたら困るもんね。
GW中にまた総領町に行くこと出来たら、今度は田植えの手順をレポートします。
□◇
家のベランダでも稲作は可能です。
Abejas e Colmenas のみつばこさんがブログ始められる前に発芽から稲穂が垂れるまでの経過をまとめられた「種子の時間」をご参照ください。そして収穫の少し前にブログを始められたようで「収穫」だけはブログ内でエントリーされてました。
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2005年01月20日 (木)
Yanaka*M3c ── フォトログ1F編をアップ。
ギャラリー兼ピアノ室メインの1Fはほぼ一室空間なため、仕切ることによって生まれる見せ場は少ないが、空間全体の雰囲気や華燈窓・丸太列柱といった三鷹金猊居からの再利用古材を懐かしんでもらえたら幸いである。
届いたばかりの光庭完成写真も追加。これで残すは外観のみ。
2005年01月03日 (月)
毎年恒例、義父との初釣りでもうじき灰塚ダムに沈む田総川(広島県北)に行ってきた。すでにその場所はダム工事で立ち入り禁止区域となっているのだが、工事事務所が正月休みの隙をついて最後の釣りを楽しんできたというわけだ(本年中に試験湛水が施行される)。残念ながら魚が竹藪前の足場の取れないところに集まってしまっていて釣果はあがらなかったが、おそらくそのポイントでは最後の釣りになるだろうからその瞬間を義父と過ごせてよかったと思う。
ところでその釣りポイントは河原ではないが、光庭にお誂え向きの石ころはその辺にごろごろ転がっていた。正直、それを恨めしく見つめてしまった心情をここに告白しておきたい。もちろん私はケチくさい男であるから豊田さんが見つけてきてくれたサボ石が1個1500円で送料が一律5000円であることを高いと思う気持ちがあることも隠す気はない(あ、もちろん、忙しい中、探してくださった豊田さんには感謝!ですが)。だが、そうした金銭的な問題とは離れたところで何かまだ恨めしい気持ちが残っている気がするのである。
「石 求ム!」でコメントしてくださった garaikaさんへのレスで私は尤もらしく「一級河川は国土交通省の管轄で、実際そこに転がる石ころを拾うのは違法にあたる」という豊田さんに言われたことを書いていたが、実際のところ、私の心は石を自ら拾いたい気分で一杯だったのである。というか、私自身の心情としては石を買うことの方が許せない、そんな気分が充満していた。どうもその気分は単なるケチくささとは別のところにあるように思う。
何というか「石ころ」なのである。「石」ではなく「石ころ」と「ころ」が付く。「石ころ」を広辞苑で引くと
いしころ【石塊】小石。いしくれ。
と出て来て、何だかうちの光庭で使ってるサイズの石に使う言葉としては適切でない気もするが、とにかくその辺にころころ転がっている石である。その中から自分の気に入ったものを探し出し、拾ってそれを家の庭に置く。どうもその行為にはそこにそれ以上のことが入り込んできてはいけないような気がしてしまうのだ(運送は致し方ないとして)。ケチな私でも最初から造園業者に頼んでどこぞの石を買ってきてという話であるなら、だいぶ高くつくだろうがお金を支払うことに特にこれといった抵抗はない。とにかく石ころというもんはその辺で拾ってくるもんじゃないのか?という感覚。どうもこれがいつまで経っても抜けないというか、この釣り場でごろごろ転がってる石ころを見ていると、その感覚というのは人が石ころを前にしたときの何か途轍もなくベーシックな感情と繋がっているのではないか?という大袈裟な思いと繋がる。拾って・投げて・置いて・割る──すべてが子供たちの遊びの中に含まれているではないか?
すでに実家からは去年末に購入したサボ石を矢原さんが石組みされたという報告は受けた。私はまだその様子を確認していないが、ただ、まあ、いずれ私が谷中に住むようになったときには色々なところで拾ってきた石をちょこちょこ加えて行きたい。
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2004年12月14日 (火)
株式会社アマナ提供 Fotologue.jp をフォトアルバムとして導入してみた。
タイトルは「Yanaka*M3c ── Yanaka M-Louis.(R) Completed」。
そんな意味深でもなく、3人のMの付く撮影者による谷中M類栖の完成写真(概ね)といったところか。建築写真撮影のエントリーで予告して長らくそのままになってた友人フォトグラファー清真美氏の撮影した写真もこれでようやく表に出せる機会を作れたのである(但し、今回の屋上編ではまだ彼女の写真はアップされていない)。
本当言うと、この機会は前々から考えていて、というよりも準備を進めてはいたのだが、とある理由から頓挫してしまっていたのである。その理由というのが、図面のWeb掲載って・・のエントリーで不安視していた図面掲載による泥棒問題である。
当初は清氏および私が撮った建築写真はまとめて概観できるように3D型平面図にViewボタンを書き入れ、それをクリックすると写真が出るというような仕組みを Flash で作ろうと考えていた。ところが、図面掲載による泥棒責任問題を危惧して別の見せ方を考えようと方針転換。転換したまま良いアイデアが浮かばずの状態だったのである。
そんな折に Fotologue.jp の存在を知り、これならわざわざ作る手間を掛けずともハイクオリティなインターフェースで建築写真がサラッと見せられちゃうなと思い、それに自己サーバの容量を他で持たせられるというのも大きく(まあ、5MBという制限はあるが)こうして試してみたというわけである。
ただ、写真選択とかアップデートに意外と時間が掛かるんで、とりあえず屋上分がアップ出来たところでここでも告知することにした。暇を見つけて、他の階も加えて行きたい(屋上からになったのは全部アップしたときに玄関から見られるようにとの意図)。
なお、撮影者3Mとは、清氏(mami)、私(m-louis)、母(mitaka)である。
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2004年11月24日 (水)
豊田さんから光庭の土留め用石としてサボ石(山石)はどうか?というメール。
東久留米市の有限会社 東石という石屋さんのところで、1個1500円、送料は一律5000円(あくまで個人庭レベルの場合)ということで売られているらしい。大きさは直径約20〜30cm。
ただ、気になるのが写真で見てもわかるように山石でかなり角張っていること。色味的には三波石よりマシだが、ある程度の物量持ってくるとこれまた三波石同様に結構強烈な存在感を持ってしまって庭石としての面白味が欠けはしないか懸念されるところ。
豊田さんは20個くらい買われたらどうかと言われている。角が気になるのなら落とせばよいということで、まあ、本当は「石 求ム!」で書いたように気長に集めたい気もするのだが、実家の方も構わないと言っているので承諾した。
あと、豊田さんの方で別途大きな石を3、4個(直径約40〜50cm)入手しており、それは無料で譲っていただけるとのこと。そちらは三鷹金猊居から持ち込んだ石同様、角の落ちた石らしく、大きさのこともあるから充分ポイントとなる石となってくれるだろう。問題は光庭まで運ぶのが大変そうってことだ。
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2004年11月14日 (日)
光庭の土留め用石垣で使う石が不足している。
現在、使われているのが上の写真にも一部示されているように
・三鷹金猊居から持ち込んだ石:約20個
・ドイトで購入した買った三波石:中10個+小10個
で、最低でもあと同じくらいの数量(約40個)は欲しいと思っている。
希望サイズは写真の石もそうだが、概ね直径10〜30cm程度。
おじゃる丸のカズマではないが、1個ウン万もするような庭石然とした高級石ではなく、河原あたりにごろごろしてそうな、どうってことないけど味があるといった石が望ましい。
ドイトで買った三波石(上記写真左から2番目と4番目)はホームセンターで売られているだけに形自体は微妙に異なるけれども、青っぽい色味、石質、表情といったものが揃いすぎていて面白くない。これが現在は全体のうちの半分を占めた状態にあり、なるべく隅に追いやり土台として隠れるようにしているものの、まだまだうるさい感じだ。
そういう意味ではあまり同じ店で一揃いに買わず、いろんな石を織り交ぜて使った方が面白い石垣になっていきそうだ。
そんなわけで石を募集。なるべく谷中に近いところで石をお持ちで持て余しているとか、譲っても構わないという方おられましたら、ぜひぜひこちらのコメント欄までご一報ください。近場であれば数は1個からでも受け付けます。またはこういうところに落ちてるよ!売ってるよ!といった間接情報でも構いません。よろしくお願いします。
2004年11月08日 (月)
矢原さんから板塀工事完了の報せがメールで届いた。
私の滞在中に完成できなかったことに対するお詫びの一言も添えられていたが、天候のことや砂利、石、塗料等の買い足しなど素人仕事では分量予測が難しかったことは一緒に作業していただけに余計にわかっており、心配ご無用、とにかく感謝と労いの言葉を捧げたい。
昨夜の時点で父からも良い感じに仕上がっていると聞いていたが、想像以上の出来だ。それにやはり何のかんの言っても自分たちが手を染めて作ったものだけに愛着の度合いが違う。
あとは石が不足している石垣と植栽。植栽の方は母と妹にも頑張ってもらって、家族皆が大事にしたくなる庭になってもらいたいものだ。
2004年11月02日 (火)
光庭についての打合せの時に豊田さんがコオロギが集まってくるような庭にしたいと言われていた。実はその後、庭造りに入る前だというのにすでに光庭でコオロギを見掛けていたのだが、今回はエントランスの杉板張りした板壁で気持ちよさそうに日向ぼっこしているコオロギを発見。
発見時、隣にいた豊田さんにもうここにコオロギいますねと指さすと、
あ、ホントだ! でもこの種は一体何蟋蟀だ?
と首をひねっておられた。
2004年10月28日 (木)
ただいま庭造りのため上京中。こういう作業してるとPC繋がなくなってきます。
2004年10月27日 (水)
舗装工事終了→隣地段差のエントリーで豊田さんから報告を受けていた車寄せ後方、西側隣地とのレベル差を補うための方策として、レンガでハッキリとした段を設け、そこに倉庫手前のところに植えるのと同じヤブランを植栽しようということで話は落ち着いていた。
そこでこの日、豊田さん、矢原さん、父、母、私で窮屈な父の車に無理矢理5人乗ってドイト西新井店までレンガを買いに行ったのである。我々家族が如何にもガーデニングガーデニングした雰囲気を好まないのを豊田さんが知っているという以前に、豊田さんもそういうのはあまり好まれない方なので、もっともシンプルなコンクリートレンガで話は簡単に決まった。加えてこれがドイトで売ってる中では一番安い。84円。これを19個と他にモルタルやハケ、その他、土などこれから庭造りをするにあたって必要なモノも何点か買って帰った。
2004年10月26日 (火)
昨日の矢原さんとの打合せ(※)で大方、光庭造庭自体の説明は聞いていたので、この日は上京中の大まかなスケジュールというよりは天気予報や材料の手配日数なども踏まえた細かい段取りを決めて行く話し合いが行われた。それらについては追記にて。
また、未済/駄目/新規追加工事も再度チェック。収蔵庫扉アンダーカット(※) のエントリーでやむを得なしとしていた収蔵庫右扉のクラッチが甘い点に関しては扉下側の磁石が少し曲がっている点を豊田さんが発見され、向きを変えれば直るかもしれないとのこと。他、1Fトイレの引き戸の締まり具合が真ん中幅木に若干たるみがあって悪い点も判明。それについては阿部建築に指示を出すとのこと。
−谷中M類栖2F和室、光庭
−16:00〜19:00
−豊田さん、矢原さん、父、母、私
□◇
初音すまい研究所@打合せ記録より(記録者:矢原・一部編集了)
■
前庭
・斑入りヤブラン(25〜30株/平米)(120〜170円/株)×45ポット
・普通のヒイラギナンテン3本立ちで1株程度(1200〜1300円/株)×1株
以上を植える事をご了承いただきました(中高木は後日)。
■
光庭
・光庭レベル:光庭の奥をGL+1000mmくらい(現状より+約450mm)想定
・塀:ブロック塀より高くはしない事とします
・支持:コンクリートボンドでブロック塀に取付金物を接着する
・板材:応接室との意匠を合わせる意味でも杉(節あり)とする
以上、ご了承いただきました。
■
スケジュール
10/27(水) 植物発注、ドイトでレンガ、植栽用客土、支持金物、コンクリボンド等購入
10/28(木) 土作業、クラッシャーレンガ到着>敷込、レンガ建込
10/29(金) 三幸木材へ発注、オスモ等の塗料発注、植物到着>植栽?
10/30(土) 土、石の不足量購入
10/31(日)
11/01(月) 塀塗装、組立
11/02(火) 塀組立
11/03(水)
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2004年10月25日 (月)
一乗寺(※) に続き、A見邸でも境界塀の相談。こちらは第31回打合せ: 光庭(※) でも書いたように、現在A見邸の方で建てられたブロック塀に板塀を取り付けたいという話。
まあ、こちらの意図するところはこちらが話さぬうちにA見さんの方から言ってくれた。つまり「うちの塀があまり見栄えよくないから、それを覆っちゃいたいってわけですね!」と。。ある意味単刀直入には言いづらいことだったので、すぐに察して自ら切り出してくれたことは大助かりだったが、しかし、それとは別の予期せぬところで1点、注文を付けられてしまったのである。
それはこの絵の板塀のところをご覧になるとわかりやすいと思うが、豊田さんが想定していた風通しと目隠し機能を持った上部庇についてである。A見さん曰く「うちはお宅さんの家が出来たことで相当の日照権を奪われてしまった。今では10時くらいまでしかまともに日が入らない。だからほんのわずかな日差しでも遮るようなものは避けたい。よってうちが建てたブロックより飛び出るようなものは一切付けないでほしい。それ以下であればブロックが壊れないものであるなら何を付けてもらっても構わない」というような主旨で、つまり塀に近いあたりの土盛りがかなり高くなっていて目隠しにしようと配慮のつもりで取り付けていた庇が不要と言われてしまったのである。もちろんその庇は機能的問題だけでなく、意匠上の要素もあったわけだが。。で、とりあえずその場には母と私と矢原さんしか居なかったため、矢原さんの判断でその条件でこちらも話を呑むことになった。翌日豊田さんはもし自分がその場に居合わせていたら一悶着起きてたかもしれないからかえって居なくてよかったかもしれないと言われたのだが(笑) 豊田さんにとってはうちがどれほど計画初期段階でA見邸の日照の問題に配慮したか理解してもらえてなかったことが殊のほか残念だったようだ。
ところでA見邸ではもう一つ話しておかなければならないことがあった。それは数日前に母が洗濯物をバルコニーで干しているときに発見したものなのだが、A見邸の柿の木に直径20cm前後のスズメバチの巣があったのだ。最近、柿の葉が落ちるようになって母は気づいたんだとか。そのことを私のデジカメ画像も交えて話すとA見さんはまったく知らなかったようだが、しかし、それについてはすぐに業者に頼んで一番良い方法を検討してもらいますと即座に対応を約束してくれた。ただ、スズメバチの巣自体が5mくらいの高さのところにあるため、A見邸の庭下からはまったくそれが見えないらしく、翌日、できれば業者に電話する前に確認させてほしいということで、ちょうどうちのバルコニーに干していた傘がA見邸庭に飛んでしまって連絡したついでに我が家を訪問された。谷中に越してきて、我が家に初めて足を踏み入れられたのがA見さんということになるんだろうか。
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第31回打合せ: 光庭(※) でも書いたように、一乗寺の塀を蔦で覆うプランで話は進んでいるので、その了解を得るため一乗寺へ。
もちろん第一目的はその承諾を得ることだが、今回、久々に座敷に上がらせていただき、初めて挨拶に伺ったとき以来の中庭にお目に掛かることできた。一乗寺の中庭は外から見えないのが本当に勿体ないくらい素晴らしくて、出来れば今回また見れないものかな〜とひそかに思っていたのだ。
目的の話はすぐ済んだ。郵便局から帰って来られた住職さんはもう図面を見るまでもなく腰を下ろす間にOKですよの二つ返事で、一応の条件として、塀を傷めないこと、蔦が塀を乗り越えないことを挙げられたが、それらはうちの方でも当然の注意事項として考えていたことだ。で、実際に図面を見ると、あれ? ここにこんなに広い庭作れましたっけ?と塀問題よりも我が家の光庭用敷地の方に関心の的は移ってしまう。いや〜、この図面で見ると妙に立派な庭に見えてしまうんですよ〜などとこちらも冗談交じりに受け答えして、和んだひとときを過ごすことができた。しかし、まあ、豊田さんの光庭の絵見るとみんな立派な庭だと錯覚しますな(笑)
話を終えて腰をあげるときに一乗寺の中庭の素晴らしさを母と共に口にすると、ゆっくりご覧になってってくださいと回廊に出るのを薦め、お茶まで出していただけた。矢原さんも一乗寺の中庭は初めてとあって「こんなになってたのか〜」と驚きの表情。30平米は悠にありそうな正方形の苔庭に3つの灯籠、庭石、手水鉢、蛙がバランスよく配され、飛び石伝いにそれらの間を縫うことができる。植栽も高木から低木まで多すぎず少なすぎず手入れが行き届き、無論うちでは真似出来そうもないプロの仕事。豊田さんにも見せたかった。庭だけでなく、堂内も障子、襖、天井、欄間、他様々なところに目を見張る意匠が懲らされている。さすがは1573-91年創建のお寺なだけのことはある。昔はお化け松が植わってたなんて話もあるらしいが。。
それからもう一つ我々の目に留まったのが、平成10年(1998年)に撮影された一乗寺の航空写真。我々は自分たちの土地が更地になってからの状態しか知らなかったが、それ以前の様子をここで(しかも真上から)拝めることになるとは。。飾られていた写真がガラスの額に入って暗いところにあったので、ちゃんと撮れてないが一応デジカメで撮った画像を右にアップしておく。画面の一部コントラストが極端に高められてるところがうちの敷地。血縁関係のない2世帯がその敷地に住んでたという話の通り、非常に見にくいけど家は2軒ある(見にくいので右上に簡単に図示した)。ただ、謎なのは1軒がうちのバルコニースペースのところだけに立地しており(青線三角形)、道路に接する面がないのだ。その住人はどうやってその家を出入りしてたのだろうか。まあ、昔の長屋的住まい方なら他人の家の敷地を通って表に出るなんてことも珍しいことではなかったのかもしれないが。。
帰りしな、一乗寺の住職&奥さんに手招きされ、ここからお宅のタラップが見えるんですよ!と奥廊下の方までも案内された。確かにうちのタラップが屋根の間から見える。ということは、タラップからこの場所も見えるのか?と一瞬思ったが、見えているのがタラップの上層部だけなのでそこによじ登らなければこちらは見えないだろう。ちなみにその奥廊下のうちが見えるところには坪庭というのにぴったりなサイズの小庭があり、割と午後の陽が建物の反射でしっかり落ちてきて、光庭考(※) で書いた「光庭」の意味が字義通り使える、光と風の抜ける場所なのだろうなと思った。
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間に合わせのデッキパネルでエントリーした通り、間に合わせのつもりで設置したウッドデッキパネルだったが、どうも「間に合わせ」のものではなくなりそうな気配濃厚だ。
1週間ほど前に母から報告を受けていたのだが、防水工事完了間もなく、職人さんの大丈夫の声で敷いたウッドデッキパネルが防水塗膜剤に付着してしまっているようなのだ。母が掃除するため持ち上げようとしたら固まってしまって動かすことすらできなかったという。今回、私も試してみたが、相当無理にこじ上げない限り、取れそうにはない。というか、こじ上げたときには間違いなく塗膜剤がぺらっとデッキパネルの方にくっついてしまいそうである。
たぶんパネルの設置してある側は雨漏りには関係ない場所とは思うのだが、今回はこのままにしておくことにした。っていうか、永久設置になっちゃいそうですね、もう(^^;)
2004年10月19日 (火)
豊田さんから車寄せ部分のコンクリート舗装工事が終わった旨のメール。
ただ、西側隣地とのレベルの取り合いで段差が生じているので、ブロックかレンガを並べる必要があるとのこと。計画ではこの段差は生まれないはずだったが、排水管の深さの問題がありこのレベルで施工したとの報告を受けたらしい。豊田さんの想定と少し違っていたとか。。
また、隣地側も地面のレベルが少し高いので(隣地の土を勝手にさらう訳にはいかない)植栽意匠含めて検討が必要とのこと。
私個人としては隣地境界との段差以上に車の後輪の後ろに2つ突き出た某かのキャップらしきものの方が気になってしまった。
2004年10月16日 (土)
陰性植物としてオススメなものはないか義父に聞いてみたら、センリョウ・マンリョウはどうか?と庭のマンリョウを指さしながら薦めてくれた。センリョウ・マンリョウは共に日陰を好む低木で冬枯れすることなく、また赤い実をつけるので園芸的にも楽しめる植物だ。尤も庭のマンリョウはまだ実が赤くなっておらず、「マンリョウには白い実のつくものもあるんじゃ。確か寺にワシが種を蒔いたのがあったはずじゃけー」ということで隣の寺にも見に行ってみたのだが、そこにあったのは赤い実をつけたマンリョウだけで、今年のマンリョウは白い実をつけなかったようだ。
マンリョウは実を皮を剥いて地面に落としておいてやるとまた根を張って育つものらしい。「鳥が食うとそこでよく増えるんじゃ」──そう言いながら義父はマンリョウの実を幾つか毟って皮を剥いて落としていた。
ちなみにマンリョウとセンリョウは同じ赤い実を付け似ているが、品種は違う。マンリョウがヤブコウジ科でセンリョウはセンリョウ科。わかりやすい違いはマンリョウに較べてセンリョウは必ず四方に分かれた葉の中心に上を向いて実を付けることだ。確かマンリョウは三鷹金猊居でも鹿威しのそばにあった気がする。
□◇
共にマイペディアより
マンリョウ
ヤブコウジ科の常緑低木。本州中部〜九州の樹下にはえ、東南アジアにも広く分布。茎は緑色で分枝し高さ30〜60センチ。葉は互生し、長楕円形で縁には波状の鋸歯(キョシ)がある。夏、枝先に白色の小花を散房状に開く。花冠は杯形で5裂。果実は球形赤色で、冬も落ちないので観賞用として庭にも植えられる。江戸時代には多くの品種が作られたが、今はあまり作られない。
センリョウ
センリョウ科の常緑小低木。中部地方〜九州,東南アジアに分布。茎は少し枝分れして、高さ70センチ内外、節は隆起し、長楕円形の葉を対生する。夏、黄緑色の花が枝先に短い穂状につく。花被はなく、雄しべ1個。果実は球形、肉質で、冬に赤〜黄色に熟す。果実は観賞用、生花とする。名前はヤブコウジ科の⇒マンリョウに対してついたもの。
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2004年10月08日 (金)
赤瀬川原平著『我輩は施主である』文庫版124ページから始まる「中庭をめぐるウニドロ問題」の章。ここでは土地も決まり、間取りもあーだこーだしながら(それを赤瀬川氏はアメーバーや将棋に喩えるが)だいぶ見えてきた段階で、赤瀬川氏の奥さんから中庭がほしいという希望が出る。それには赤瀬川氏も積極的に賛同し、設計のF森教授に進言するのだがすぐさま却下されたのだそうである。少し長くなるが、そのときのやりとりをここに引用してみたい。
で中庭なんだけど、
「シロートの人はすぐ中庭が欲しいというけど、やめた方がいい」
F森教授にはすぐ却下された。
「え? だっていいじゃない、勝手な空間で。裸で日光浴もできるし。別にしないけど。何で駄目なの」
「中庭でも大きけりゃいいけど、どうせ小さいわけでしょう、中庭願望は。どうしてもじめついてくるんだよ。日本じゃやめた方がいい」
「でも日本家屋ではよくあるでしょう、中庭。坪庭というやつ」
「うん、だからあれはじめついてるじゃない。暗くて。写真で見ると良さそうに見えるけど、大変だよ、必ず後悔するから」
断言された。そうかなあ。
京都の町家などでよく坪庭がある。一坪の坪で、家の中の小さな庭。手水鉢に柄杓が置いてあったりして、苔むした庭石があったりして、緑の葉っぱがちょっと生えたりして、庭下駄が揃えてあったりして。
「だから苔むして、じめついてるでしょ」
「でも風情があるじゃない」
「それはね、写真では風情だけど、住んだら駄目だって」
「駄目?」
「後悔する」
建築史の人である。あらゆる建物を見てきている。その人にこうもいわれたら、やっぱり駄目なのか。
「だいたいイメージなんだよ。写真のイメージ。だから見た目にはいいけど、源門さん(赤瀬川氏)だって見てるだけで、実際に住んだことはないでしょう」
「うん」
たしかに坪庭付きの風情のある家になんて住んだことはない。でも路上観察のみんなで泊まった京都の旅館には、中庭があったじゃない。たしか二つもあったよ。
「だから旅館ていうのは、いわば写真のイメージでしょ。そりゃ一日か二日泊まるけど、自分で住むわけじゃない。一日か二日見るだけ」
「まぁ、そりゃたしかに」
「行った時だけ見るというのと、住むというのはぜんぜん違うんだよ。だって自分で掃除したり、維持して、管理する物件なんだよ」
「物件かぁ」
たしかにそれはわかる。旅行者の目と住民の目はどうしても違う。生活がかかってくる。そうすると見るだけの美学じゃなくて、機能性というのがぐーんと問題になってくる。といって機能だけで出来上がっているものも味気なくてつまんないんだけど。
諦めきれないでいると、F森教授が講義した。
日本家屋というのは物凄く贅沢なんだということ。座敷や床の間、濡れ縁、欄間、露地、茶室、木戸、とかいうのは、空間があってこそ生きるんだという。床の間とか濡れ縁とか、その物に限って見れば質素だけど、それが風情として生きてくるのはそれを囲む空間があってのことだという。
なるほど。
空間が贅沢でも何でもない時代には、日本家屋も質素な建物だったのかもしれない。でもいまみたいに空間そのものが贅沢になってしまうと、日本家屋の質素さをあらわすことが贅沢になってしまった。
「だからね、空間のゆとりのないところに日本家屋の物件だけ持ってくると、質素というより、貧相になるんだよ」
「うーん」
それはわかる。そうすると、
「あれだね、召使いとか『使用人』のいない日本人が、ルイヴィトンのバッグだけ持って見ても、かえって貧相に見えるというのと同じだね」
「そうそう」
いや別にルイヴィトンに他意はない。でもたしかに日本家屋の空間意識は、借景という言葉にもあらわれている。借りるわけで、借景という美学そのものは質素さからきているけれど、借景でこそ生きていた庭というのは、借りる景がなくなったこんにち、それごと全部造らなければいけないので、これは大変な贅沢である。
と以上、この章の余談であるウニドロ問題の話より前のところをほぼ全文引用する形になってしまったが、まあ、何にせよこのF森教授の頭からの中庭否定に思い起こさずにはいられないのが、光庭考(※) のエントリー後半でも書いた前任建築家MH氏との坪庭論議である。そちらのエントリーを読んでもらえればわかると思うが、閉塞空間に対する危惧、京都云々とかジメジメとか施主シロート対クロート建築家のやりとりはほとんどそっくりである。
これでMH氏から上記引用文赤字で示した建築家講義でもあれば、我々も坪庭願望から降りてしまっていたのかもしれない、、って、でも、どうだったろうな? 源門こと赤瀬川氏もこうした講義にもめげず食い下がって中庭を南面オープンにした半中庭案をF森教授から勝ち取っているのだ。それに我々の場合、引用文緑字で示してる箇所などF森教授に否定された中庭願望とは条件的に異なる面もあり、それはむしろ光庭採用積極策にシフトできるようにも思わずにはいられない。
うちの計画を初期段階から野次馬後見人として見てきたCT氏(このブログでも幾度かコメントしている)からは「建築を勉強して」きた建築家が「今回の、三鷹->谷中の条件にあってすら」光庭を「しりぞけた根拠については、たんに」自分「には想像できないという理由から積極的に興味がある」などとも言われているのだが、実際問題当時において赤瀬川氏がF森教授の講義を引き出したくらいにもっと踏み込んだ議論をすべきだったという反省は残る。私が聞き出せたのは否定項の代理として、ではMH氏が認める庭とは何か?(その答えはカラッと晴れた青空のもとでカーッとビールでも飲めるようなところというものであったが)というところまでであった。なぜ駄目なのかというもう一歩踏み込んだところを今からでも聞けるものならば聞いてみたいところだ。
ちなみに先の引用文緑字やCT氏の指摘にもあるように、私が光庭を希求した根拠は
・借景にしないとどう考えても勿体ないA見邸の庭がある
・住人がもともと庭と共に住むことに慣れている(三鷹金猊居がそうだった)
の2つで大局的なところは語り得ているだろう。まあ、1F応接室がギャラリー&ピアノ室ともなり、フツウの住宅よりかは見せ物としての光庭の効果も高いんだろうが、それはオマケといってもよい。
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2004年10月02日 (土)
一ヶ月住んでみてのエントリーにて母が希求していた2Fバルコニーのタラップ下に庇的機能を持ったものを取り付けられないか?という件だが、昨日ドイトで見つけた波板ポリカーボネートを本日ドイトに両親と車で出向いて買ってきたので、さっそくタラップ階段下側床面に敷いてみた。
ポリカの横幅が60cmしかなく、足りない分は縦幅の余り分で補っておいたが、果たしてどのくらいの雨避け効果があることやら? ちなみにポリカーボネートは透明タイプではなく、庇用と銘打たれた網入りタイプのものにした。この方が頑丈で踏んでもそう簡単には割れそうにない。
ところでドイトでは商品の店内加工はワンカット幾らという形で店員が行うのだが、このポリカーボネートに関しては対象商品に入ってないということで鋏を無料で貸してくれて隅の方で自分で切らせてくれた。カットしていかないと車に乗らないのだ。
コーナンだと全て道具無料貸出の店内 DIY なんですけどね。
2004年09月30日 (木)
いつ取り付けられたのか不明なのだが、屋上タラップの滑車用金具のエントリーで確定していたタラップ天井に滑車がぶら下がっているのを確認。ワイヤーは自分たちで購入しなければならない。が、3Fのタラップへ行くための通路が荷物で通るのもやっとの状態なので、当面それを使うこともなさそうだ。というか、これを実際に使うのは自分たちの代になってからのような気がする。しかし、どうも上から間近で見てると絞首刑の死刑台を想起してしまっていけない(^^;)
2004年09月28日 (火)
9月下旬17時過ぎ。まだ夕焼け空というほど赤くない。鴉が通り過ぎる。
光庭についてはこれまでも「光庭考」という形で幾度か自分自身の考え方や豊田さんとのメールのやりとりで考えられたことなどをブログ上でエントリーしてきたが、今回の打合せで豊田さんが描いた具体的な光庭イメージのスケッチを見せられ、「何とここまでやろうとしてられたのか〜、さすがは坪庭開拓団の団長さん!」と改めて思わずにはいられなくなってしまった。というか、こんだけの仕事して「基本的に植栽整備作業は団員による無償作業を理念として」いいのだろうか?という感じ(^^;) まあ、それはともかくまずはその具体案平面図を以下に(クリックで拡大可)。
正直言って私はここまでしっかりしたものは考えていなかった。
第31回打合せの打合せ記録(※) で「石垣で土留めをして、奥を少し高くする」とあるが、濡れ縁降りてまずは砂利敷、そして石で土留めして2段目は苔をメインに小植物を石のまわりに絡ませ、3段目に灯籠といった階段状の3段構成。こうした高低差を段階的に設けることでピアノ室からも灯籠が見えるようにした上で、もう一つの狙いはこの元々小さな空間をさらに浅く見せてしまうこと。そうすることで借景となるA見邸の樹木がぐんとこちらに引き寄せられ、云わばうちの庭と連続してるように見えてくる。
ただ、とはいえ、盛り土が高くなるとそれはこちらにはよくてもA見邸側からはそこに立たれれば塀越しに覗かれるという決して気分のよいものではなくなってしまう。そこで現在のブロック塀を覆う形で右図のような板塀を付けてやるというわけだ。塗装は一乗寺側室内壁面と同じオスモカラー。材も同じく杉板でよいのでは?とのこと。そして実際に張る板自体は背後のブロック塀と高さは揃えるがその上に簡易な庇みたいなものを幾本かの小柱の上に渡して載せる。その分の高さによって感覚的に覗かれてる意識は和らげられ、且つ軒下に隙間ができるので風通しを遮られたという印象も薄れる。この覆い塀の作成は発注でも自前制作でもいいけどと言われていたけど、出来ることなら DIY で行きたい(まあ、問題は私の時間だね)。
植栽は2つの点で面白いアイデアが出ている。私個人は漠然と灯籠の背後に少し丈のある樹木をなんて考えていたが、豊田さんはどちらかというと逆で、向かって右手一番手前に少し背のある笹類、そして左手端の狭くなったところに背後の塀が見えなくなるくらいの大きな植物を茂らせ、石垣2段目3段目灯籠回りの中央部をシダやフキ、ギボウシ等の小さな陰性植物たちで賑わせる考え方なのだ。そしてこの考え方が先のA見邸を如何様に借景とするかを基軸としたものであることはすぐに理解できたので、当然私の漠然とした考えなどはあっさりすっ飛んだ。
それともう一つの面白いアイデアが一乗寺側壁面をヘデラ等の蔦類で覆うという考えである。私個人は一乗寺の4mある壁をそれほど鬱陶しくは思っていないが、設計者として日常生活を営む者の視点に立ったときにはそれを遠ざけたいと思うものなのかもしれない。4mもあるだけにそこをヘデラが這うという絵も私には好ましく思え、即座に了解した。自邸を実験台としてタンポポ・ハウスを建てた藤森照信氏が本当にやりたいのは新宿副都心の都庁ツインビルを天辺まで蔦で這わせ、緑ですっぽり包むことだそうだが、そうした野蛮さには基本的に心が疼く私なのである。
ちなみに豊田さんが候補にあげてるヘデラってのはどちらかというと西洋系の植物で、それと灯籠や苔が組み合わさると奇妙な和洋混在状態になっていく可能性がある。でも、もともと1F室内も屏風『壁畫に集ふ』の主題も皆和洋混在。だから構いませんよね?と豊田さんは冗談めかして言われていたが、無論その方が歓迎である。
しかし、豊田さんの平面スケッチ見てるとなんだかとっても大きな立派な庭のように見えてきちゃうんだよね。実際にはホント坪庭というのがぴったりな程度の小庭なんですが、、一応、再度ここで上から見下ろして撮影した画像を左に掲載しておこう。
それとそうそう、「光庭考(※)」のエントリー最後で書いていた「なぜに豊田さんが<光庭>という言葉を使ったか」だが、特に深い企図があってのことではなかったようで、ただ、坪庭っていうと家の中にある庭のイメージだし、裏庭って言ってしまうとちょっと寂しいし、、ということで、光が落ちてくる庭ということでの<光庭>だったそうだ。
それと最後に今回アップしてるスケッチ画像だが、色の付いてる方の立面イメージ図については豊田さんが繰り返し「これは雑にスケッチしただけですので」と言われていたことを補足しておく。
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先月上京できなかったので、2ヶ月ぶりの打合せ。
今回も前回と同じく場所は谷中M類栖で。確か矢原さんが冗談で、初音の事務所よりこちらの方がテーブルが大きいんですよと言われていた気もするが、まあ、工事状況等チェックするにもこちらでやってた方が手っ取り早いというのはある。
打合せ内容は今回も実際に住んでみての問題点報告と未済・補修・追加工事について、そしてメールでも少しずつやりとりの行われていた光庭について。光庭の件と打合せ記録で追加工事検討事項として取り扱われた1F応接室スピーカーアウトレットの件は別稿でエントリーする。
−谷中M類栖2F和室
−14:00〜17:00
−豊田さん、矢原さん、父、母、私
−光庭想定スケッチ3枚、植物関係参考書5冊、打合せ記録
□◇
初音すまい研究所@打合せ記録より(記録者:矢原)
■
問題について
・浴室でシャワーを使っていると、お湯が急に水に変わってしまう事が時々あるとのお話。
・1F廊下-1 水漏れについて
2Fバルコニー全面に塗膜防水を行う事をご了承いただきました。
表面の素材感が異なってしまう事を確認しました。
・バルコニー物干金物のビスがキチンと止まってないようにみえるとのご指摘を受けました。
■未済・補修箇所について
・9/22(水) 再チェック事項をご確認いただきました。
■追加工事のご要望
・1F応接室スピーカーアウトレットのうち、屏風上をメクラプレートとしたいとのご要望(要検討)。
・トイレ-2 内収納下部の扉に換気用の穴を設けたいとのご要望をいただきました。
■庭についてのご要望
<光庭>
・ブロック塀をかくす方法として、板塀を設ける。
・石垣で土留めをして、奥を少し高くする。
・日陰でも育つ植物で考えていく。
<玄関側>
・自転車をとめるスペースを確保する。
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人が来訪したときに食後のニオイが残っていることを母は嫌う。我が家のキッチンが閉鎖的なのはそうした面への配慮から来ている。しかしこの日、初音すまい研究所との打合せ(※) が午後から我が家の和室であるとなると昼食は外でという話になってしまうのだから、考慮を重ねた間取りもぶっ飛びだ。
で、この日は父+母と言問通り沿いの「谷中 くいものや もへい」へ行った。先日は夜だと高いということで入らなかった(※) が、8月末にオープンしたばかりの店で父+母はすでに1回行ってるらしい。 <非日常をテーマとしながら、居心地のよい空間で沖縄出身の店長が「医食同源」をテーマに炭火焼と沖縄料理でおもてなし!>とのことだが、私が食べた日替りランチ(けんちんうどんと鉄火丼)はデザートのサーターアンダギー以外、沖縄っぽさはなかった。父+母が食べてたお重セットも同様で、沖縄を楽しむなら夜なのかもしれない。
むしろこの店で気を留めるのは店内外のイン・エクステリアだろう。
道路際にはちょうどうちの光庭三角形の尖った方が切られたような形の前庭がある。庭を眺める視点が二方向なので、うちとは柵の配置が違ってくるがサッシを挟んで店内外を跨ぐ縁台があり、サイズ的にも参考になりそうだ。
植栽は龍の髭を河原に見立て、玉砂利の敷かれたところが川、トクサの生えているところが島のように見受けられる。隣地との境界には本物の竹か笹の塀。その手前に高木を数本。やはり視点が異なるとサイズが似ていても構成そのものがまるっきり変わってくる。
店内も掘り炬燵仕様の座席の間に移動可能な板を挟み込んだり、他、衣紋掛けを突き出した壁との隙間に収まるようにしてたりいくつか工夫が見られる。庭の様子は店内から見た場合の方が参考になるかもしれない。サッシにはブラインドが使われ、雪見障子のように半分降りていて、それは非常に良い感じ。うちの場合、ピアノの反響問題があるためカーテンを選んだが、紫外線を避けるためにいつも閉じられてしまいそうなことを考えると足下だけでも見えるブラインドやロールスクリーンが羨ましく思えてしまう。
2004年09月26日 (日)
丸井金猊の屏風や軸の表装でも何かとお世話になってる表具屋 飛高堂の Webサイトリニューアルの件で牛田邸訪問。このサイト、1996年時に作ったまんま(恥ずかしいけど、URL公開)。一部中味は社長がいじっているが、プロバイダ変更時も任せっぱなしでサーバ上のデータが完全に移行出来てなかったりと要メンテナンスというよりはまるごと作り直す必要に迫られている。
しかし、その打合せに行ったつもりが、私と同級生のRちゃん夫婦も夕食に見えて、話はほとんど谷中の家の話と飛高堂でも1Fの中庭を再構築(プロに発注)しようとしているということで庭造りの話題で終わってしまった。後日、飛高堂から完成した庭写真が送られて来ているのでその画像をアップしておこう。ここの中庭は四角いマンションの真ん中が1Fまですっぽり吹き抜けになっていて、1Fがガラスで覆われた中庭となっている。どうせなら工事前の様子も写真に収めておけばよかったが、伺ったときにはもう夕方過ぎていて写真に撮るにはもう暗かった。
2004年09月25日 (土)
昨晩遅くから降り出した小雨で、濡れ縁(※1) が文字通り「濡れた縁側」になりました。
濡れ縁、いつ取り付けられたのか報告受けてなかったんだけど、とりあえず私は昨日サッシ越しに確認し、本日はじめて濡れた縁の上に立ってみた。光庭に降りることを考えるとやはりこの濡れ縁はあった方がいい。
ただ、ピアノの紫外線保護のため、平常はほとんどこのサッシがカーテンで覆われてしまうことを考えると、そんなにはこの濡れ縁に出られる機会もないのかな〜と、、コレ言うとこれまでの「光庭考」が身も蓋もなくなっちゃうんですが(^^;)
□◇
※1)濡れ縁
Yahoo! 不動産 - 不動産用語集 - 濡れ縁 より
濡れ縁【ぬれえん】
住宅の外部に設けられた雨ざらしの縁側のこと。「縁」「雨縁」ともいう。建物の内部にある縁側は長手方向(敷居と平行)に板が張られるが、濡れ縁は縁側と直角方向に板を張ることが多い。これを「切れ目縁」といい、板の木口面が外側から見える。また、板と板の間にすき間をあけた「すの子縁」にしたり、竹を用いた「竹縁」にして、水切れをよくするケースも珍しくない。なお、縁側よりさらに一段低い位置に設けたものは「落ち縁」。
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2004年09月22日 (水)
追記欄にて引用される西澤文隆(※) と小林古径(日本画家)による2つの文は共に<自然>と対峙したときに求められる技巧について触れているので、ここに並置しておきたいと思う。
ジャンルこそ異なれ、ここに共通するのは<現実>というフレームに絶えず意識を働かせる視線である。そのフレームは常に<時制>によって脅かされているゆえ、決して形式として固定することが許されず、すなわちその都度違う解決法(=応用力)が求められる。
光庭において縮景・残山剰水といったレベルでの作庭を考えているわけではないが、ただ自然のままにというのではなく、誇張やデフォルメといった要素も取り込んだ庭づくりを楽しんでみたい。
右上の図版は
小林古径【三宝柑】1939年 絹本彩色・軸 60.0×72.0cm 山種美術館蔵
□◇
『西澤文隆の仕事──2. すまう』(P.59) より
日本における木の扱いは、これとまったく異なる。木は、自然のままの姿で使われる。もちろん庭園においては、ことに日本のように室内との関わり合いをもち、ことに室内の延長として意識される場合において、自然は馴化されていなければならない。したがってある程度の剪定が行われ、自然はより自然らしく、やさしく飼い馴らされる。しかし、これはあくまで自然を人工化するのとはおよそ異なる方向である。木は、ヨーロッパにおけるように幾何学的に配置されることなく、さも自然の植生のあるべき姿のように、三々五々、バランスを取りながら植え込まれる。木は1本独立させて使われることはほとんどない。互いに相寄り、相助け合いながら配置されるだけではなく、木は互いに透けていて枝の下に見通しがあり、奥へ奥へと、さも自然植生の姿であるかのごとく、すなわちエコロジカルな様相に植え込まれる。木には添え木があり、さらに下木や下草があって、自然な雰囲気に近いほど、しっとりとよい庭であるとされる。もちろん、先にのべた通り、庭はあくまで庭であって、自然そのものではない。第一、スケールが庭と自然とでは根本的に異なる。その狭いスケールの中でいかに自然らしい庭をつくり出すかが日本庭園のデザインのポイントであるとすれば、そのスケールに合わせて、自然を不自然さを感じさせずに縮小化する必要を生じる。このようにして、縮景と残山剰水の技法が生まれてくる。
東京国立近代美術館企画展図録『写実の系譜 IV:「絵画」の成熟』(P.16) より
ここにあるこの盆一つにしても、ぢつと見てゐると生きてゐる気がする。叩けば音がするし盆には盆の生命があることがわかるのだ。ところが、それを絵にすると、なかなか音がしない。音のする盆をかくのは大変だ。写実といふものも、そこまで行かなければ本当の写実ではない。
ところで、音のするやうな盆をかくのに、真ツ正面からかいてももちろんいゝが、さうするよりも、そのまゝを写さないで、選であらはしたり、また色をなくしてやる方が、よくあらはれる場合がある。そこにウソも生じてくるし、誇張も必要になつてくるだらう。これも技巧だ。
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2004年09月17日 (金)
光庭の件で私の希望を記したメールに対して、打合せ(9/18)前の段階で豊田さんからレスポンスを戴けた。結論から言うと基本的な判断は二人ともほぼ一致しており、あとは9/18(土) に豊田さんの方で母の希望を聞いてもらってから実際にどんな植物を選んで行くのかという話になっていくことだろう。
とりあえずこのエントリーでは、互いのメールで具体名のあがった植物をネット上で拾った画像で紹介しておきたい。また、両メール必要箇所のみ追記にて転載しておく。
thanks to web site: 素路、薬草園、植物園、ヤサシイエンゲイ、電脳植物園
□◇
私の希望:
基本的には苔が生えてて、少し蒸したような感じがあって、割と緑や苔に囲まれた感じで灯籠が同居しているという感じ。うちの方で持ってきた灯籠は玉砂利敷いてっていうような乾いたイメージはちょっと合わないのではないかと思います。
シダ・リュウノヒゲ、シュウカイドウあたりを三鷹から持ち込んだ石で囲み、その背後にもう少し背の高い樹木がある。三鷹のときはグミの木があって私はそれにすごく愛着がありましたが、残念ながら谷中には持ってきませんでした。
豊田さんからのレス:
m-louis さんの考えに基本的に賛成です。
今回のお庭は、陽当たりが厳しいのでシダ類 苔類が生息に適しています。ただ、湿り気も必要です。
これらの植物はどれも小さいので、陰性に適して比較的大きく育つ、かつ、あまり広がり過ぎて庭が狭く見えない様な・・・そんな都合の良い植物を探し中です。
今の所、案としてヘデラ類(蔦植物)を検討しています。
他の小さい植物には、笹類 ギボウシ類 フキ類 ユキノシタ も良いと思っています。
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2004年09月15日 (水)
9/18(土) に設計者による駄目工事チェックが行われるついでに豊田さんと母の間で光庭についての打合せもするそうである。というわけで、それより前に私個人の光庭に構築したいイメージをまとめておかなければならなくなった。まあ、ここ最近は庭に関する書物や写真を幾つか手に取って色々イメージしてはいたのだが、もともとガーデニング趣味のない(というよりも如何にもガーデニング的なガーデニングが嫌いである)ことから自ずと雑草をどう見せるかとかそんなことの書かれてる本の方ばかりに目が向いてしまう。しかし、あれこれ考えたのち、やはりうちの場合は原点に立ち返って、なるべく三鷹金猊居のときの庭の様子に従うという考え方が一番妥当ではないかというところに落ち着いている。まあ、しかし、それなりに作庭ということを意識するのであるならば近年のよりかは祖父=金猊が生きていた20年前当時の金猊居の庭のイメージを借りる形にした方がよかろう。
ただ、残念ながら祖父は私が9歳時の1979年に亡くなっており、私の中で庭の確かなイメージは当時の写真からしか引き出すことができない。その上、そうしたアルバムは実家にすべて置いてあるので、今、それを引っ張り出して模索するということはできないのだが、取り敢えず母には打合せ時にはアルバムを引っ張り出して検討するようメールで伝えておいた。
金猊居からの持ち込みアイテムには私が記憶しているかぎりでは、
石灯籠、備前壺、瓦、石があり、まず瓦以外はすべてを組み合わせて使うことが前提だ。その意味で三鷹金猊居の庭を参照するのは全く以て間違った選択ではないだろう。
なお、光庭の立地条件は「光庭考」(※) のエントリーでも書いていたように決して庭として良い場所と言えるところにあるわけではない。右の写真(庭を上から撮った)からも伺えるように三角形の三辺が塀と壁に囲まれ、この写真では日が差し込んでいるが、家の北側に面するため、実際のところは日陰の湿りがちな空間であることの方が多いであろう。
ただ、大きなメリットもないわけではない。北西側1.5m弱のブロック塀の向こうにはA見邸の木々が緑生い茂っているのだ。特にうちの敷地にまで葉を伸ばしそうな柿の木は素晴らしく、それは応接室からも悠々見上げられて、そのまま借景にできるといった按配なのだ。それを活かさない手はなく、そうした意味でも私はこの三角コーナーには是が非でも庭を造りたかったのだが、実際真夏日に背後に青々と茂る緑を見て、そうなって本当によかったと思った。
さて、三鷹金猊居に戻るが、金猊居にも後庭とでもいうべき、家の後ろに位置するあまり光の差さない庭が母屋の西側にあった。その庭は縁側を挟んで私の部屋の横にあり、ひなびてはいたが、私自身にとっては愛着のある庭だった。谷中に持ってくることはしなかったのだが、お地蔵さんがあり、グミや杏の木もあって、地面には苔が生えていた。また、手入れがあまりされなくなってからは朽ちてしまったが、鹿威しの音も雨の日にはカーンと鳴り響いていた。
裏寂れた庭ではあったが、私の中では後庭のイメージをベースとして、他に石灯籠は石灯籠があった場所の雰囲気(母屋側中庭のある意味中心的な位置に立っていた)を借用しといった具合に進めていくのがよいのではないかと思う。
最初は玉砂利敷いての枯山水的なことも考えはしたが、掃除の大変さのこともあるし、土に苔がベースでいいんじゃないだろうか。2つあったうちのうちが持ってきた石灯籠がどちらかというと灯籠自体が苔生した感じになってるいるので、なおさら玉砂利とは合わない気がするのだ(ちなみにもう一つの従兄弟の家に行った灯籠は割と輪郭がはっきりとして玉砂利にも合う感じだ)。
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2004年09月10日 (金)
まず光庭の具体的イメージを考えていく前に「光庭」という言葉自体に触れてみたい。
実は私自身「光庭」という用語を豊田さんの書かれた1F平面図を見るまでは知らなかった。いや、読み知った言葉ではあったかもしれないが、朧気ながらイメージできる言葉だったので、厳密な語義を知ろうとしていなかった。
確か打合せの席上では「ひかりにわ」と言って話もしていたので、その読み方に間違いないと思うのだが、広辞苑には出ていない。代わりに「こうてい」で探してみると「後庭」(※1) というのが出て来て、それはうちの庭を表現するのにある意味もっと適した言葉だったりする(笑) だが、その意味は「光庭」の活字が持つイメージとはだいぶ違う。もちろん「こうてい」で調べても「光庭」は出て来ない。
しかし、Google で検索すると「光庭」の検索結果は約333,000件に及び、そうマイナーな言葉とも言えなそうだ。ひとまず建築士の我流な庭づくり講座・気ままな庭というサイトの「自分流に愉しむ気ままな庭づくり、光庭」という記事に光庭のニュアンスを伝える文が出ているので、それを一部引用しておきたい。
「光庭」。ひかりにわ。読んで字のごとく、光の庭。建築で使う言葉です。例えば、五階建てのマンションだとして、建物の外周が全部バルコニーになっていて、建物の中央部にある階段や玄関まわりが暗いときに、吹き抜けをとったりします。その吹き抜けは天空の光をとり入れるためのものですね。そして、その吹き抜けの底が、「光庭」といわれる庭です。
しかし、庭といっても、光庭ではほとんどの場合は植物が植わっているわけではありません。もともと暗い場所ですし、そういう建て方をするくらいですから敷地に余裕があるわけでもありません。草木を植える庭という概念はありません。たいていは、狭い井戸の底のような空間。それでも天空の光の力は絶大で、ひと息つける空間になるわけです。何もないときもありますが、椅子が置いてあったり、ファウンテンがしつらえてあったりします。場合によっては石庭だったりします。
また、集合住宅博物館というサイトの新・集合住宅史という記事の最後の方に「光庭」の起源的なことが書かれているので、その内容については全文引用しておきたい。
■光庭(ライトウェル)...1904年 ゲスナー(ドイツ)
19世紀の産業革命によって、欧米の諸都市に人口が流入し、増築を繰り返し街区がどんどん建て詰まっていく。それにともない中庭の規模もどんどん縮小され、結果として光庭程度の大きさの中庭ができてくる。しかしこれは計画の産物ではない。
計画してつくられた「光庭」は、ドイツの建築家ゲスナーの発明とする。ゲスナーは、オウエル(サクソニー)で生まれ、ドレスデンとベルリンで建築を学んだ理論家であり実践的な建築家である。1897に自分の事務所を構えるまでに、アルフレッド・メッセルらの事務所で修行していた。
彼は、平面計画の理論的な分析をおこない、光庭とそれを囲む部屋の構成の最適解を生み出した。光庭は、小さなホールと玄関をもつ暗い廊下をなくしたばかりでなく、それまで縦に並んでいた居間と寝室の関係を機能的に配列することを可能にしている。
1904年のモンセンシュトラーセ、1905年のニーズアシュトラーセの住棟に「光庭」がみられ、階段室とホールを明るくし、住戸を開放的にしたかを示す優れた例となっている。
以上、多少の脱線要素まで加えたが、上記の引用記事などから類推すると「光庭」とはどちらかという植木があって何があっての庭というよりは、自然光を採り入れるためのスキマ空間と捉えた方が良さそうである。国立国会図書館などがその極端なわかりやすい例になりそうだ。
さて、そうした語義に忠実に従って見たとき、我が家の庭が「光庭」となりうるのかは、実は私自身の中では四季を通して確認してからでないと何とも言い難いところがある。とりあえず私は夏しかまだあの家を経験してない訳だが、少なくとも日差しの角度が高くなる夏においてはあの場所は充分「光庭」だった。
しかし、こうして私が「光庭」という語句に対して妙に慎重な姿勢を見せるのにはちょっとしたワケがある。それはこの家作りの計画が始まった中初期の頃(2002年12月頃)に話は遡るのだが、その頃お願いしていた前任建築家のMH氏とそこの場所に庭を作るか否かで大議論になったのである。そのとき私はそこに是非とも庭がほしいという主張をして、結局、半ば強引に建築家に受け入れてもらうことになったのだが(そのときの議論内容はいずれ書き起こすことになるだろう)、そこに庭スペースを作ること自体がMH氏には大いに心配されたのである。そしてその理由は「光庭」という言葉を使われた豊田さんとはおよそ対極のものであった。
敷地の北側にある上に、一乗寺の4mの境界塀、そして我が家の10mの高さの壁に囲まれた空間に光など差し込むべくもなく、ましてやそれが庭として気持ちいい空間になるはずがない。
MH氏の心配は乱暴に纏めれば確かこんな論旨だったと思う。
ただ、私自身はその場所に光が入らないというのも承知の上で、尚且つ、それでも庭が欲しいと言っていた。それは京都在住時代、町屋にはさほど有名でもないお店でもちょっとしたところに小庭(坪庭)があったりして、それが何とも気持ちを落ち着かせてくれたのだ。中にはまるで光の入って来そうにないジメジメした坪庭もあった。しかし、それはそれでまた別の味わいがあるというか、むしろそれを効果的に見せる演出のなされた場所などいくらでもあった。だから私は仮にそこが悲観すべき場所であったとしても、小庭スペースが欲しかったのである。
とはいえ、さすがに私にとってもそのスペースは「坪庭」というのがせいぜいであり、あるいはさきほど広辞苑で出て来た「後庭」ってあたりが妥当な消極スペースとしての認識だった。ところが豊田さんの図面には「光庭」というポジティヴな言葉が用いられ、ビックリ&慎重にならざるを得なかったのである。まあ、豊田さんの計画になって建物の一部が高さ10m→4mとなり、以前よりは光が入り込みやすくなったという実情も「光庭」という言葉の選択に加味しているのかもしれないが。。いずれにせよ今度の上京時になぜに豊田さんが「光庭」という言葉を使ったのかは聞いておこうと思う。
□◇
※1)後庭(こうてい)
【広辞苑】(1) 家の後ろの庭。(2) 奥向きの宮殿
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2004年09月07日 (火)
予定では8/31(火) の打合せ時に話し合うことになっていた光庭についてであるが、打合せ自体が延期となってしまったため、約1ヶ月、話は持ち越しとなってしまった。
ただ、母が植栽の時期についての心配を口にしており、それに関しては豊田さんにメールで問い合わせたところ、以下のような返事が返ってきたので一部転載しておきたい。
植栽の件ですが、植付け/植え替えのことだけ申しますと、植物の種類によっても違ってきますが、夏場の暑いシーズンの植付けはあまりしません。むしろ春前か秋から冬前にかけてがその時期となります。
大まかな考え方ですが、花を咲かせる時期はエネルギーをそちらに取られるのでその前までに植付け/植え替えする。夏は温度調節の為、葉から多くの水分を蒸散させるので根を傷めたく無いので植え替えは好ましく無いというふうに学んでいます。
ですからこれからが植栽はオンシーズンになると考えています。
というわけで、9月末でも心配はなさそうだが、計画は早め早めにしておいた方がいいということで、私の上京前に一度、母と話し合う場を考えておいてくれるとのこと。
私自身の光庭に対するイメージは打合せ前にもここで何度かエントリーしてみようと思います。
2004年07月27日 (火)
施主検査の日、特に深く考えもせずに豊田さんと裸足でバルコニーに降りたら、二人ともアッチッチーの飛び跳ね状態。どうやら午前中の日差しだけでも相当強烈にバルコニーの生コンクリートは過熱するらしい。
というわけで豊田さんとは「植物を直に置いてたらイチコロですね」という話になって、取り急ぎ買ってみたのがガーデニング用のウッドデッキパネル5枚。7/25(日) に三鷹のJマート行ったときに今更作ってる暇も探してる暇もないからコレだなということになったのである。本当言うと私はこういうガーデニングテイストなものが好きではないが、既に到着済みの植物の命には換えられないということでやむなしの選択。
しかし、私が三鷹仮住居の植物をほぼ全て谷中に持ち込むという離れ業を演じたため、実際に植木を置いてみるとデッキの上は鉢で一杯となり、ある意味ガーデニングっぽさは全然なくなってしまった(笑)
というか、さすがに窮屈過ぎるので、あと5枚くらいは必要かもしれない。
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2004年07月20日 (火)
畳工事(※) の最中に阿部建築の山本さんも見え、光庭の土均しをされていた。土均しされたことによってA見邸のブロック塀はちょうど男性平均身長くらいの高さになった感じだろうか。
父が濡れ縁がないと1F階段通路から降りるにはちょっと怖い高さだと言っていたが、これ以上土を盛ってしまうと塀越しにA見邸が覗ける状態になってしまうので、それは向こうにとって良くない。
それにしてもこの三角コーナーは蚊が多い。
というか、谷中自体が蚊が多いんですよと以前に豊田さんか阿部さんから聞いた気がする。それに対して母が「やなか=ヤな蚊」とオヤジギャグを言っていたことをよく覚えている。