2007年03月31日 (土)
おそらく今頃更地と化したであろう軍艦アパート が先月に続き、高いアクセス数を堅持しているので、今月も軍艦アパートからの写真をピックアップしておこう。他、川端で知られる滋賀県は新旭町の針江区 と千駄木のファーブル昆虫館 がどちらもエントリーからはだいぶ経つのにランクインしてきた。
軍艦アパート 3.1% 谷中 2.3% 遊郭 1.8% グヤーシュ 1.5% 高過庵 1.4% 針江 1.3% 臭突 1.2% フッコー 1.1% ファーブル昆虫館 1.0% 上棟式 0.9%
2007年2月の解析結果はこちら から。
【写真左】2006.02.27 16:02, 大阪市浪速区下寺町・軍艦アパート北棟東側にて
【写真右】2006.02.27 16:31, 大阪市浪速区下寺町・軍艦アパート北棟西側にて
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2007年03月29日 (木)
インフルエンザ(A・B両方併発のレアケース)を患い、すっかり乗り遅れてしまったが、最近住宅関連のエントリーが欠乏しているので、栄養補給も兼ねて住宅建築占い !
m-louisさんは 契約書 です! ●契約書さんは、センスが良く、とても洗練された人。品のあるもの、優雅なものを好むタイプで、あくせくした暮らしは好きではないでしょう。それにふさわしいだけの心の余裕や、品位を持っている人なのです。経済的な生活レベルは普通でも、美的感覚に優れているので、日々の生活に自然と美しいものを取り入れていけるはず。庭の花を一輪飾るにしても、あなたが飾ると、その場が急におしゃれな空間になるのです。そういった才能に早くから気づいた人は、インテリアやファッション関係、デザイン関係の道に進むかもしれません。恋愛面は、どちらかと言うと受け身でしょう。特に意識することはありませんが、相手に合わせた恋愛をしていきそうです。
●m-louisさんの開運一人称は、「わて」です!
とりあえずこの占い、血液型不明の項目があったおかげでやってみることができたのだが、もしそれがなければ、照明器具か設計図のどちらかという結果になっていた。というか、申告上は血液型不明の私も両親の子供であればA型かO型かのどちらかになるので、本当は照明器具 か設計図 のどちらかなのである。でも、ここでは契約書 として振る舞おうとしてるのだから、何ともおかしな話だ。
そして、そのそもそも本当ではない結果内容が私 と一致しているかは最早問題にもならないような気がするが、それ以前に気になるのがその本文内容が何で契約書 とイコールで結ばれるのか?ということである。事務関係の道でも進めるべきだと思うが?
それとも〆切来ないと腰を上げぬデザイナーは契約書 で縛っておけということか?(^^;)
ちなみに家づくり仲間の結果はこちら!
・照明器具 の garaikaさん: 住宅建築占い――「照明器具さん」でよかったか
・土台 のノアノアさん: 「住宅建築占い」
・柱 の finziさん: 住宅建築占い
・フローリング のちはるさん: 「住宅建築占い」、おいどんは・・・・
【写真】2007.03.19 08:30, 谷中M類栖/rf/タラップにて
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2007年03月26日 (月)
今年は豊田さんからのDMが届く前に、N的画譚「飛び入り参加の展示のお知らせ 」で知ることになった「まちの木霊プロジェクト2007 」。neonさんも参加ということで是非とも行きたいところではあるのだが、またまたバッドタイミングで行けそうにない。
というわけで、告知だけでものエントリー。
gallery J2 が閉廊してしまったので、今年はどこでやるのかな?と思っていたら、ギャラリー Kingyo と English Tea House Pokoe の2つの会場を活用するということらしい。今後も複数の会場を使うということなら、谷中M類栖/1f も場の提供に吝かではないが、ただ、結局人員確保の面で難しいのかもしれないな〜。会場増えちゃうと逆に。
ともあれ、いつか谷中M類栖/1f で「豊田館」(車販売じゃないですよ)みたいなことを是非ともやってもらいたいものである。
まちの木霊 プロジェクト 2007
私達の傍らに活きる自然の不思議・驚き・笑いを作品にする展示会
【会期】2007年4月3日(火)〜4月8日(日)
【時間】通常日 12:00〜19:00 最終日12:00〜17:00
【会場】ギャラリーSD602 KINGYO 文京区千駄木2-49-10 Tel. 050-7573-7890
English Tea House Pokoe 台東区池之端4-22-8
【主催】谷中学校 坪庭開拓団
【追記】
その後に豊田さんから届いたメールで、来年私も参加しないかというお誘いがあった。自分が参加するということはなぜか全く考えてもみなかったが、年4、5回は谷中にも帰っているので、意識的に「まちの木霊」を拾うようにしていれば何かできるかもしれない。というか、個人的には植物系統の好きな母に何かやらせたい気もする。
あと、界隈を彷徨いてるご近所ブロガー仲間を誘って、第三会場「谷中M類栖/1f」をわかすというのもまたひとつのアイデアかもしれない。
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2007年03月18日 (日)
文京ふるさと歴史館 企画展「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形デザイン 」に最終日ギリギリで行ってきた。関連企画の江戸東京フォーラム と合わせて行ったため、実質的に展示物を観賞できたのは正味30分。曙ハウスの展示だけはしっかり観てきたものの、他の展示は流し見する程度で、幾つかあった映像展示も5秒と観られず。やはり根津教会での連携展示 が行われていた時期に行っておくべきだったと後悔は大きい。
企画展では、曙ハウスの展示だけが1階にあって、エントランス入ってすぐの券売所の手前で観られるようになっていた。つまり、そんな人が居たのかどうかは知らないが、曙ハウスの展示だけ観て帰るのなら、入場券要らず(100円だけど)とも言えるのだ。観覧料取らずに観られてるあたりが、如何にも曙ハウスらしくて笑けてしまった。
久々の「スウハ曙」プレートとの対面は、それを見る視座と距離感が違うので、一概に「久々」とも言い難い妙な感覚。話には聞いていたものの、とにかくデカい! よくぞこんな大きなものを解体現場から救い出し、ふるさと歴史館の収蔵 にまで漕ぎ着けられたものだと、改めて masaさんを始めとする関係者の方々には頭の下がる思いがした。
斜めに設置されたプレートの側に顔を寄せると、取り外されて1年というのに、未だに焼け焦げたような匂いがする。その匂いに何よりも胸を打たれた。建物(身体)は解体され、プレート自体(顔?)も屍として展示空間に収められているはずなのに、傍らのプレートは超然と生々しく呼吸し続けているかのようだった。畏るべし「スウハ曙」。
間取り図 に関しては、neonさんが仕上げられて本当に良かったと思った。もしそれが私が書いたものでなくとも CAD図面をプリントしたもので展示されていたならば、曙ハウスの遺品や masaさんの写真、neonさんの画によってもたらされる「古色を感じさせる、でも温かみのある雰囲気」(by neonさん)は台無しになっていたことだろう。
加えて地階では設計当時の古い手書き図面を展示しているところが多く(板図の展示もあった)、それに肩を並べられるという意味でも、neonさんの描かれる味わい深い線と文字は唯一&不可欠なものであった。微力ながら、その下図作成 段階で私も協力できたことは大いに光栄である。また、この魅力あふれる企画を立案され、こうした機会を与えてくださった文京ふるさと歴史館の学芸員さんにも深く感謝したい。
【写真】2006.01.22 13:26, 文京区根津・在りし日の「スウハ曙」プレート
【お詫び】「曙ハウス・リターンズ 」のコメントで、私は他のブログに会場内の写真が出ていたことから「会場内撮影可なようで 」と書いてしまったが、会場内にはしっかり「撮影禁止」の表示があり、迂闊にも誤った情報を流してしまっていたようである。一応前コメント上でも訂正追記しているが、この場を借りて深くお詫び申し上げたい。
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2007年03月07日 (水)
文京ふるさと歴史館 で現在展示中の neonさんの描かれた曙ハウスの間取り図については、N的画譚「曙ハウス 間取り図を描く 」にその制作経緯が詳しくまとめられているが、拙ブログではその制作前段階の下図作成がどのような手順で行われたか(ある意味どういう情報を書き落とし書き損ねてるかに重点を置いて)触れておくことにしたい。
まず差し当たって行ったのが、曙ハウス跡地の実測である。ところが、ここでいきなり思いも寄らぬ数字に直面する。約13×13m。てっきり長屋風と思っていた曙ハウスの敷地が、実はほとんど正方形の形状をしていたのである。奥行きが意外にあるということも更地になったことで知ったことだが、まさか正面の幅と同じだけの奥行きがあるとは思わなかった。現在のコインパーキングになっている跡地は、敷地の奥が冒頭の写真のように3mほど仮囲いされて奥行きを奪われた状態にあり、それがまた敷地が平たいという印象を与えてもいたのだろう。
しかしながら、この敷地が正方形であるという前提は案外私を苦しめた。というのも、私の脳裏には私が今回この下図(以後「下図M」と表記)を書く前にすでに neonさんの書かれていた手書き図面(「曙ハウス†スウハ曙 」収録・以後「原図N」と表記)があって、その横広がりの長方形に収められた間取り感覚(間隔)は至って妥当な感じであり、なかなかその先入観から抜け出すことができなかったからである。というのも、正方形の敷地をベースに間取りを決めていくと、1階手前の各室が「原図N」からは想像し難いほどに細長くなってしまうのだ。
最終的にはハウス内部を見られている masaさんの「手前側の各部屋は鰻の寝床級に細長かった」という言葉によって、どうにかその正方形の敷地に合わせた図面を書き上げることができたが、少なくともお借りした写真を見ているだけではそれを細長い部屋のイメージに結びつけることはできなかっただろう。これは現在展示中の neonさんの間取り図を見ていただくしかないが、ハウス1階手前側の各室の細長い部屋割りはそのような迷いの末に構成されている。
それとこれはだいぶ後になって masaさんから出てきた話なので、展示中の間取り図にも反映されていないかもしれないが、図面上1階右端手前の細長い部屋(すぐ上の写真の緑トタンの部屋)は、部屋を前後に分断する仕切りがあったようだ。今にして思えば、なぜハウスの路地側手前(路地側から見たら左端)のところに外に出入りできるドアがあったのかも、その証言によって理解可能である(むしろそれは細長い部屋割りだったからこそ、その仕切りが可能になったともいえる)。そして、そうすると部屋数は一時1・2階各7部屋の14部屋ということで決着が付いていたが、この事実を踏まえると1階8部屋、2階7部屋の計15部屋だったということになるのだろう。
「原図N」では neonさんが記憶される限りの窓位置が記されていたが、「下図M」ではその表記はしないことにした。というのも、さすがに masaさんも全室の写真を撮られたわけではなく(モノが散乱して入れない部屋もあったようだ)、つまり masaさんの写真から判断付く限りでしか、窓位置の提示ができなかったからだ。今、このエントリーを書いている時点ではわかってる範囲内だけでも書き記しておくべきであったようにも思えてしまうのだが、「下図M」作成段階では、最終的には neonさんの描かれる「間取り図」という作品的なものになるため、わざわざ「この部分に窓があったかは不明」といったような補註を描き込ませるのも鬱陶しいように思えたのである。
また、私自身、図面を専門に書く仕事をしているわけでもないので、私の「下図M」はCAD系の製図ソフトではなく、グラフィック系の Illustrator で書いていた。そして、neonさんがそれをトレースして、「間取り図」作品に仕上げられるということを想定し、2本線の必要となる壁厚は書き込まずに、単に線の太さによってのみ、壁厚がイメージできるような描写にしていた(実際、壁厚の寸法自体わからなかったし)。
寸法は基本的に半間=90cmという単位で捉えていくことにした。江戸間か京間か団地間かという問題もあるが、そこはもう厳密に追いようがないので、単純に計算のしやすさを優先してしまった。2階右奥の部屋がたぶん四畳半だったという情報を基に、ひとまず270×270cmの正方形を配置し、そこから横軸のスペース配分を考えていく。
また中央を左右に走る廊下幅は、床に敷かれた割板の幅を1枚30cm×7=210cm と想定(つまりかなり幅広の廊下 だった)、そこから三和土+押入スペースを90cmと大目に見積もって引き算し、縦軸の間隔に見当を付けた。ただ、そこで割り出されたのが奥行き5m近くになる鰻の寝床型1階手前の各室だったので、しばらくの間、迷わせられることになってしまったのであった。
階段 は24cm13段で当たりを付けてしまったが、これは寸法から来るイメージ優先採択なのであまり段数は数えないでおいてほしい。家づくり、行ったり来たり「階段の段数 」では、13段という段数は縁起がよくないということが書かれていて、まあ、特にその根拠はないようなのだが、昔の建物なだけにそうしたものを気にしている可能性がないことはないかもしれない。というか、図面に書き起こすことをもっと早くに考えていたならば、masaさんに階段の段数と幅を計っておいてもらえばよかったのである。それがわかれば平面は元より、その高さも推定がしやすくなったというものである。
他、もう一つ迷わさせられたのが、共同便所のあった奥廊下側の間取りであった。これが現在の建物であるならば、トイレというのは割と規格サイズから諸々想定しやすくなるのだが、如何せん昔のトイレなだけにどう解釈してよいのかわからない。さらに和式便器だとばかり思っていたら、取り替え型の洋式便器に替えられていて、masaさんも「曙ハウスらしくない!(^^;」と写真を撮られていなかったのである。それはそれで、ちょっと面白いエピソードなのでここに書き記しておきたい(笑)
ともあれ、この「下図M」は masaさんの写真と、masaさんを始めとする何人かの方の記憶を合わせなければ、到底書き上げられるものではなかった。ハウス左手の手前側1・2階の物干し台と増築部分の複雑に入り組んだ位置関係も masaさんの写真を幾つかの角度から検証することによってどうにか書き落とせたものである。ただ、さきほどもちょこっと触れたように、私は製図を専門にしているわけではない、只の施主(それも、つい自分で図面を引いちゃいました系のダメ施主)なので、文京ふるさと歴史館で展示中の間取り図は、あくまで曙ハウスの雰囲気や味わいを感じ、愉しむものとして、そして何よりも neonさんの一つの作品として、ご覧いただければ幸いである。
設計図、平面図といった言葉を使わずに「間取り図」という現代建築家たちからしたら少々野暮ったい言葉の表記にこだわったのも、その厳密性が担保できないことに因る。
尚、私が作成した「下図M」は、文京ふるさと歴史館での展示終了後、気が向けばこのブログで公開するかもしれない。
【写真上】2007.01.12 13:31, 東京都台東区根津・曙ハウス跡地
【写真中】2006.01.22 13:24, 東京都台東区根津・解体を1週間前に控えた曙ハウス
本文中「1階右端手前の細長い部屋」の分断された手前側のスペースを外(正面)から写したもの。右手側面側に庇が見え、その下に外に直接出入り可能なドアがあった。
【写真下】2006.01.22 13:26, 同上・曙ハウスの正面から見て左側スペース
【註】テキストリンクは一部「Kai-Wai 散策 」の写真にダイレクトでリンクしている
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2007年02月28日 (水)
臭突がじわじわと勢力を伸ばし始め、何だかブログ界でもすっかり市民権を得た感じがする。軍艦アパート はその最後の最後を見に行けなかったが、完全になくなって しまったようだ。曙ハウスは13位と惜しくもトップ10圏外。それと先月、突如逆転現象を起こしたヤフー vs グーグルは今月は52%:42%と再びヤフーが盛り返していた。
グヤーシュ 2.6% 遊郭 2.5% 上棟式 2.4% 軍艦アパート 2.3% 谷中 1.7% 臭突 1.5% 高過庵 1.4% 丹下健三 1.2% 桃林堂 1.0% 板塀 0.9%
2007年1月の解析結果はこちら から。
※先月から月末のアクセス解析エントリーにも写真を掲載!
【写真】2006.11.14 16:55, 大阪市浪速区下寺町・解体を前にした軍艦アパート
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2007年02月22日 (木)
「戦没学徒記念 若人の広場 」で記したように、仕事で初上陸した淡路島。残念ながら車窓風景以外にプライベートで撮れた写真は少なかったが、仕事が終わって車に乗り込む直前に唯一撮れた淡路島の家の写真がこれである。場所は洲本市由良の由良大橋の袂。もちろん淡路島の家はみんなこんな感じというわけでは決してない。ただ、さすがにこのタイル&臭突は、、撮らずんば男が廃るという気がして撮ってきた(汗)
洲本市 由良は、向かいに成ヶ島 という淡路橋立とも称される細長い砂州に覆われた形の漁港で、今もハマチの養殖などで知られている。おそらくこの全面タイル張りは漁から帰ってきた漁師達が長靴などを水場で流しやすいようにと設えられたのではないかと思うが、どうだろう。ただ、こんだけカラフルなのはここでしか見なかったので、ひょっとすると別の用途で建てられた家屋という可能性もある。背後との繋がりまで見てくる余裕もなかったが、何とも不思議なハイブリッド建築だった。
また、タイルハウスの右手奥に見える屋根瓦は、本葺き瓦 (丸瓦と平瓦を組み合わせた瓦)というのだが、この界隈の古い家屋の屋根には本葺き瓦が乗っているところが多くて、なかなか重厚壮観なものがあった。と思ってちょっとググってみると、淡路島って「淡路瓦 」で知られる瓦を伝統工芸的地場産業にしてるところだったのだ。次行くときはもう少し瓦を意識して見てまわると面白いかもしれない(というか、町並み視線って事実上屋根で構成されてるので、意識しなくても実は皆それで峻別してるのだが)。
【写真】2007.02.05 16:24, 兵庫県洲本市由良(淡路島)・由良大橋袂にて
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2007年02月15日 (木)
仕事の取材だったものの、淡路島に初めて行くことになり、同行取材者にお願いして、ほんのわずかな時間ながら丹下健三が1966年に設計した「戦没学徒記念 若人の広場」を見てくることができた。「若人の広場」は一昨年の3月22日、丹下氏の訃報に接し、「丹下健三氏、没 」という追悼エントリーを書いたとき、akanemさんが撮られた写真を借りて感想メールと共に紹介した場所である。あれからもう2年が経つんだなぁ。
取材前日、日の暮れかかった頃 に宿泊先の休暇村南淡路 に到着し、その晩はまさかそのホテルから見えるとは思っていなかったのだが、翌朝、日の出 前に部屋の窓から外を見やると、福良港を挟んだ向かいの大見山に▲のシルエットがぽっかりと浮かび、こりゃ尚更行かずんばなるまいという気にさせてくれたのだった(偶然にもホテルから近いところにあったおかげで行かせてもらえたとも言える)。それにしても早朝の福良港で漁船が先を争うように出航していく様子 は、眺めていてなかなか楽しいものがあった。
しかし、肝心の若人の広場に関しては、本当に短い時間に早足で一通り見て回るだけで終わってしまったので、あまり感想らしい感想を書く気にはなれない。というか、2年前に akanemさんから借りた感想メール以上の言葉を自分では見つけられないというのが正直なところ。私が見せられるものといえば、これも早足のため雑にしか撮れてはいないのだが、2月始めの朝の若人の広場の空気を伝える写真くらいだろうか。
ただ、幾つかのブログで丹下さんがこの記念館のことを公表しなかったという情報に触れ、それがなぜかということを知りたくなったので、「丹下健三氏、没 」のエントリーでも余談で紹介した¥28,500- の大著: 丹下健三・藤森照信著『丹下健三 』を閲覧しに天六の住まいのミュージアム・情報プラザ まで行ってきた(やはり買えん>汗)。
すると、当時の設計担当だった神谷宏治氏と藤森氏が1998年に行った談話が掲載されていて、それによってなぜ丹下氏が公表を拒んだのかの理由を伺い知ることができた。その談話部分のみ抜粋することにしよう。
神谷:あの施設の主体は動員学徒援護会という文部省傘下の財団法人で、戦没学徒を記念し慰霊するというわけだから、丹下さんは意気込んで設計したわけです。いよいよ完成して引き渡し、そのオープンの記念式典の案内状が届いた。主催者として記されていた名前は、岸信介、奥野誠亮など、いずれもいわゆる右翼と呼ばれるような戦中に指導的な地位にあった政治家です。当日、岬の下を自衛艦が航行し、観閲式もある、と書いてある。全く予想もしてなかった内容だけに、丹下さんは“私は行かない”といって、オープンの式典に欠席です。だから、発表もされずじまいでしたね。
なるほど政治的背景によるものだったのかという感じで、しかし、それによって公表の機会まで自ら取り消すというのは、当時の思想的な時代情況もあったのかもしれないけど、やはり「学徒として戦争に‘生き残った’丹下」氏の直接的な個人体験がよほどの怒りへと繋がっていったのだろう。
ただ、「家づくり」という経験を通して、建築家の意志(魂)よりも、その建物がその建物として姿形を変えながらも逞しく生きていくその住/築歴(霊)を重んじるようになってしまった私としては、仮に岸信介の孫の安倍晋三が主導することになろうとも、この広場の復興(そして学徒のともしびが消えないこと)を願うばかりである。
【参考リンク】
・動員学徒記念 若人の広場復興委員会
・神戸観光壁紙写真集:戦没学徒記念 若人の広場 壁紙写真
・JANJAN:廃墟になった「戦没学徒記念若人の広場」 (2005.06.21)
・ポリタン・コスモ:戦没学徒記念館_by_丹下健三 (2005.01.08)
・あさみ新聞:戦没学徒記念 若人の広場 (2005.04.30)
・ALL-A:戦没学徒記念館 若人の広場01 (2006.2.14), 02 (2.15), 03 (2.17)
・東海秘密倶楽部: 未だ消えず、阪神淡路大震災の傷跡 〜戦没学徒記念 若○の広場〜 前編 /後編
・おとなしやにっき。: 戦没学徒記念 若人の広場 (2007.05.02)
【写真】2007.02.05 09:00前, 兵庫県南あわじ市・戦没学徒記念 若人の広場にて
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2007年02月09日 (金)
根津の曙ハウスが取り壊され、その地が更地と化したのが去年のちょうど今頃。
そのとき「曙ハウス」という実体のほとんどはこの世から姿を消して行ったが、それでも曙ハウスを強烈に印象づけていた看板役者「スウハ曙」の看板プレート、1階階段の手摺り支柱は、処分される前に「Kai-Wai 散策 」の masaさんの手によって救い出され、古物商の協力を得ながら、文京ふるさと歴史館 に収蔵されている(その経緯については Kai-Wai 散策「曙ハウス・プレートの行方 」「曙ハウス - 再び 」に詳しい)。
その命拾いした看板プレートと手摺り支柱がこの度、文京ふるさと歴史館の企画展「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形・デザイン」にて、収蔵後、初披露の機会を得ることになった。展示にあたっては、それらの収蔵品の他に masaさん撮影の曙ハウスの写真、また「N的画譚 」の neonさんが描かれた画「曙ハウス 」。そして、同じくneonさんの描かれた曙ハウスの間取り図が公開される(この間取り図については、私も微力ながら協力させていただいたが、neonさんが「曙ハウス 間取り図を描く 」のエントリーで図面起こしの経緯を詳しく書かれているので是非ご覧になられたい)。
ここから先の話は実際に展示を観てからということで。何とも待ち遠しい限りである。
文京ふるさと歴史館企画展
「文京・まち再発見2−近代建築 街角の造形デザイン 」
第1部 伝統の継承と西洋への憧憬
「5 木造2階建てのアパートメントハウス 曙ハウス 1920年代」
2007年2月10日(土)〜3月18日(日) 10:00〜17:00 月曜日休館
文京ふるさと歴史館 文京区本郷4-9-29
連携企画
「まちかどの近代建築写真展 IN 根津 」
日本基督教団根津教会 文京区根津1-19-6
2007年2月10日(土)〜2月17日(土) 10:00〜17:00(最終日は15:00まで)
【写真】2004.03.07 14:29, 東京都文京区根津・在りし日の曙ハウス
【参考】曙ハウス関連リンク集: 曙ハウス†スウハ曙
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2007年02月06日 (火)
2月5日、大阪・長居公園のテント村が市の行政代執行によって強制撤去されている。
当日は各種報道番組などでも盛んに取り上げられていたらしいのだが、生憎その日、私は大阪に居なかったもので、その撤去中の映像情報に生で接することはできなかった。
(といっても、YouTube で「長居公園 」検索すれば幾つか出てくるので確認は可能)
ただ、その翌日、「ホームレス文化 」の小川てつオ氏が「去りがたい夜」と題して、撤去の約2週間ほど前からテント村で描いた絵を展示するということで、それを見に行ってきた。とはいっても私、これまで長居公園という場所に行ったことがなく、加えて前日の撤去の映像もまるで見てないので、かなりピンボケ状態での訪問だったと言っていい。それでも公園内に入ると、昨日の出来事を話題にしていると思われる人たちの姿がそこかしこで見られ、まだ何となく前日の気配は残っているようにも感じられた。
テント村のあった場所はフェンスで囲われ、そこに「安全第一」と書かれた白い工事用シートが張られ、中が見えにくいようになっていた。てつオ氏はそのフェンスの手前に絵をビニール紐で括り付けて展示していた。聞けば警備の人に注意はされたらしいのだが、ねばり強く交渉したら諦めて立ち去っていってしまったらしい。私が到着したときにはちょうどギャラリーがたくさん居て、てつオ氏は質問を受けていたので、しばらく遠巻きにボーッと様子を眺めていた。するとまあ、人のよく通ること。夕方4時くらいの時間帯。もちろん通勤通学や散歩でここを通る人もいるのだが、ウォーキングというものがこれほど流行ってるとは知らなかった(ただし、ウォーキングの人たちは絵の前を通ってもほとんど立ち止まって見ようとはしない)。
その後、写真を撮らせてもらいながら話の輪に加わると、支援者の方が来られたり、昨日までそこでテント生活をされてた方も来られたり。その方が昨日と今日の各紙新聞を持ってられたので、それを見せてもらってようやく撤去時の状況を知る。といっても、そこでてつオ氏含む皆の話に耳を傾けていると、どうやら新聞に掲載された情報にはそれぞれ不満があるらしい。もちろん各新聞社によってそのスタンスは異なるわけだが、どの記事も撤去時の最も過激な側面ばかりを取り上げて、決まり切った騒動の枠組みに話を落とし込もうとしているということのようだった。
とりわけ舞台上では必ずしも抗議行動一辺倒ではない、「争いではなく、話し合いの場を」求めたユーモア溢れる表現活動が繰り広げられていたようなのだが、そうした側面に注目する記事は少なく、専ら抗争をベースにその是非を問う定型文ばかり(読売新聞では「同じことの繰り返し 」という見出しが躍るが、そもそもその書き方において「同じことの繰り返し」をしているのが新聞メディアである)。結局、それが大手メディアの構造的限界を指し示してしまっているのかもしれないが、だとすれば、ブログなどの個人発信メディアの果たせる役割の一つは自明だと言ってもいいだろう。
ところで、てつオ氏の絵を見ていたら、彼が1998年に妻の実家のある総領町でやっていた「こんにちわテント 」のことが思い出され、何だかとても懐かしい気分になってしまった。あの頃、居候ライフをしていた彼はその後いつしか代々木でテント生活を始め、その話を聞いたときには「アレ? ある意味、定住者になってしまったのか?」とどこか納得のいかない気分にもなったのだが、彼は別に定住/移住ということをテーマにしていたわけではなく、おそらくは誰もが単純に思うように、豊かな暮らしを求めてホームレスになったのだろうと最近は思うようになった。
それは「こんにちわテント」で、「コウホ地」と言って「テントを張りたい場所を探」し、その「利点・欠点」を考察していたのと基本的には変わらないことだったのかもしれない。というか、テント村に定住する(長期的時間軸を得る)ことによって、より社会化したというべきだろうか?
彼が2005年に始めたブログの最初のエントリー「ホームレスということ 」からは、すでにそうした方向性が酌み取れると同時に、なぜそのブログのタイトルが「ホームレス文化」というのかも理解できるものとなっている。また、彼はできることならば、また大阪に来たときや来年の2月5日に同様の展示を長居公園でやりたいと話していた。
【参考】「長居公園テント村強制撤去問題 」に関連リンク含む詳細情報
【写真】2007.02.06 16:00前後, 長居公園テント村跡地前にて
【追記】下から二番目の写真の、人物が並んで描かれている絵は、てつオ氏と共に応援に来られていたいちむらみさこさん の描かれた絵です。彼女のブログや、てつオ氏のお兄さんが運営されてるキョートット出版 でも長居公園のことが取り上げられてるので、是非ご覧ください。
ブルーテント村とチョコレート:長居公園テント村「劇団パニック」と、 (2007.2.8)
キョートット出版:長居公園の芝居のこと (2007.02.18)
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2007年02月03日 (土)
この写真はチャングムテーマパークへ行くのに議政府北部駅から乗ったタクシーの中から撮影したもの。走行中なだけにかなりの無茶撮りではあるが、屋根裏部屋(?) 手前にあるバルコニーの、何とな〜くプリティな様子が気に入って flickr にアップしていた。
しかし、前々エントリーの「K的臭突 」でもそうだったように、韓国の建物は日本のそれと較べて妙にスケール感の小さな建具や設備を見掛けることが多い。この写真の民家の場合でもバルコニーに出る扉がどう考えても小さい。日本の茶室の躙り口(にじりぐち)に毛が生えた程度の、肩を窄めて潜らないと出られないくらいの大きさである。
・・と書いたところで、試しに「茶室 」を Wikipedia で確認してみたところ、
にじり口は、千利休が河内枚方の淀川河畔で漁夫が船小屋に入る様子を見てヒントを得た、とされる。朝鮮半島の民家からヒントを得て考案した という説もある。しかし、にじり口の原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られ、また商家の大戸に明けられた潜りなど同類の試みは多種見られることから、利休の発明とは言えない。
と、諸説あるうちで「朝鮮半島の民家からヒントを得て考案した説もある」ことを知る。ま、だから「バルコニーの躙り口」というタイトルを付けたというわけではないのだが、私のように本格的な茶室で茶を嗜んだ経験のない者にとっては、この写真の戸口と茶室の躙り口が、ある点でそんなには違わないものに感じられてしまう。
要するに「狭い戸口を肩を窄めて潜る」という所作には、それが「出る」という行為であれ、「入る」という行為であれ、どこかしら子供の時分から持ち合わせている悪戯心を擽るようなところがあるように思えてならないのだ。秘密基地への侵入とでも言うともう少しわかりやすいだろうか? ただ、そのことを妻に話してもあまり理解は得られなかった。そのことからつい話がジェンダーへと傾きそうになるが、時の厚生労働相の二の舞は御免なので、ここで話は止めておくことにしよう。
それにしても彼の失言は、ル・コルビュジエの「家は住むための機械である」を知っててのものだったのだろうか。だとしたら、もうちょっと気の利いた言い訳でも考えついたようにも思うのだが‥‥。
【写真】2006.11.23 13:44, 韓国京幾道議政府市・タクシー走行中の車内より
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2007年01月31日 (水)
今月はこのブログにとっては至って順当な結果。ただ、1位獲得の「高過庵」のパーセンテージがエライ高い。またTVで放映されたりなどしたんだろうか?
ところで今月はアクセス検索ワードとは別に、検索エンジン利用度の当ブログ内解析において興味深い変化が現れた。これまで大方6:3:1の割合で「Yahoo:Google:その他」だったのが、なぜか突如、Yahoo と Google の比率が入れ替わってしまったのである。わきた・けんいちさんのブログで紹介されている「グーグル革命の衝撃 」という番組がNHKで放映されたせいとも思えないんだけど、一応、先進国とされている国の中では日本だけがヤフー利用率が高いという一匹狼ぶりを発揮してたのに、どうしちゃったんだろうねぇ。まさかソフトバンクのきみちゃんいじめ(仲間はずれ)CM がよっぽど評判悪くて、ヤフー離れしたなんてこともあるまいだろうし(汗)
高過庵 10.4% 上棟式 4.1% グヤーシュ 3.6% 遊郭 3.0% 谷中 1.8% 山門不幸 1.5% 軍艦アパート 1.4% 橋本 1.3% 板塀 1.0% 臭突 0.9%
2006年12月の解析結果はこちら から。
※今年からこの月末解析エントリーにも写真貼り付けることにします。
(たぶん、エントリー内容とはあんまり関係ないものになっちゃうだろうけど)
【写真】2006.10.29 12:38, 阪急京都線「相川」駅付近の車窓から神崎川
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2007年01月21日 (日)
Kai-Wai 散策「N的家譚 (2) 」の主題「N的」にではなく、その部分パーツ「臭突」に触発されてのエントリー。去年の韓国旅行2日目(妻の LBGO「久々の韓国・二日目(その3) 」)、主目的の大長今テーマパークを見た帰り、最寄りのバス停で約1時間待ち惚けを喰ってる間、そのバス停の向かいに見えていたのがこの光景である。
flickr にアップしたら J16さんから日本の臭突よりも太いのでは?という指摘を受けたがどうなんだろう? 背後の住居のスケールが小さいもんで、それで太く見えるようにも感じられる。臭突比較文化論用ということで Korea 的臭突もアップしておく。
【写真上】2006.11.23 16:10, 韓国京幾道楊州市・MBC 大長今テーマパーク 付近
【写真下】2006.11.23 16:17, 上記の臭突ハウスの右隣の家・こちらにも臭突とは別のN的パーツが散見されるが、やはり「N的 」とはどこか違う感じがする
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2007年01月14日 (日)
総領の義父は数年前から畑の焚き火場脇に種から育てたミカンとポンカンを植え、ワシが生きとる間に育つかの〜と言いながら、その発育具合を楽しんでいる。ただ、義父が言うには冬の寒さの厳しい総領では実を実らすのが難しいばかりか(実際、冬場は防寒用に上の写真のような袋を被せている)、仮に実がなったとしても、甘ない(あもーない)ミカンにしかならんだろうという。
その理由は潮風にあるのだそうだ。ミカンは不思議と潮風を受けることによって甘みが増すものらしい。思えば名産地とされる、愛媛、和歌山、静岡と皆、潮風をたっぷり受けることが出来そうな立地ばかり。総領町の属する広島県にも「大長みかん」というブランド商品があるにはあるが、それらはいずれも瀬戸内海に浮かぶ群島で生産されている。総領のような中国山地の山奥とは縁遠い世界である。
ところでミカンと潮風の関係を調べようと「みかん 潮風」でググっていたら、山口の「周防大島ドットコム 大島みかん白書 」というページが出てきて、そこで紹介されてる絵には大いに笑わさせてもらった。そういえば父の第二故郷となる山口の萩でも土塀に囲われたミカンの木を見た記憶が残っている。そこは日本海の潮風ということか。。
【写真上】2006.01.05 14:20, 広島県庄原市総領町・妻の実家の畑にて
【写真下】2001.12.06 12:05, 山口県萩市にて
【追記】ミカン話でもう一つ思い出したので追記。実家にいた頃って冬になるといつもミカンの入った箱があって、とにかく無造作にというか、ワケもなく無闇にミカンを貪り食っていて、それでも箱の底の方にあったミカンは腐っちゃうという感じだった。それは妻も同じだったと言う。しかし現在、我が家にミカンがあったとしてもそれは他の菓子類同様に貴重品で、常に個数平等、同じ時に食べる代物という風になってしまっている。ミカンが不自由なく食べられるくらいの生活力を持ちたいものだが。。
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2007年01月08日 (月)
去年の10月にエントリーした「△▲△▲△△▲▲ 」とどことなく共通性を感じる。
ソウル市南部を流れる漢江に架かる東湖大橋を渡っているときにバスから撮った写真。
丘の上の乱立状態とでも言えばいいだろうか?(個人的にはこちらの方が好きかな)。
ただ、「△▲△▲△△▲▲」の方は本当はこういうイメージを模倣したかったのかな?
一昨年11月の中欧旅行で行ったチェコのシュテルンベルク城からの風景。もちろん乱立してないということもあるんだけど、やはりその土地に堆積する時間を、ある瞬間だけ切り取ってパクろうとすると「△▲△▲△△▲▲」になっちゃうんだろうなぁ。
【写真上】2006.11.23 11:15, ソウル市龍山區・東湖大橋を渡るバス車窓
【写真下】2005.11.09 09:46, チェコ Sazava・シュテルンベルク城から
【追記】乱立状態と書いたけど、よくよく考えてみたら都市部の住宅街はどこも所狭しと家が乱立してるものである。より厳密に言えば、滅茶苦茶に乱れてではなく、そこそこ整然と立っている。それは「△▲△▲△△▲▲」も同じで、ただ、ここで取り上げた三つの場所に共通するのはそれが南向きの斜面上に建てられているため、ある視点から見るとほぼ全ての家のファサードがこちらを向いて見えてしまうということである。
その点で「景観」として、町全体が問われるポイントは多くなってしまいそうである。
妻の韓国旅行記 LBGO「久々の韓国・二日目(その2) 」もヨロシクちゅせよ!
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2007年01月05日 (金)
総領に初霜が降りたから「初霜総領」というタイトルにしたわけではない。
毎年元旦明けて2日に帰省する総領で、初めて雪の降らない正月を過ごし、その代わりに初めて霜の降りた田畑を目にする機会を得たので、そういうタイトルになった。
それにしても大阪のアスファルトジャングルに住んでると、霜自体見る機会がまるでなくなってしまった。三鷹に住んでた頃は霜をザクザク踏み潰すのが好きだったのだが、ひょっとして温暖化により、都心部で土のあるところでも霜はもう降りてなかったり?
2007年01月01日 (月)
わきた・けんいちさんの呼び掛け などもあり、「My Place」の玉井さんが提唱される「わがやのお雑煮大会 」にアースダイブ未参加ながらも参加してみることにした。
うちは妻が広島出身、私は東京の出身で、なぜか大阪に住んでいる。で、特にどちらの親とも同居はしていないので、基本的に作るのは妻ではあるものの、何となく住んでる場所同様、お互いの中間地点にあるようなお雑煮になっている。毎年恒例2日から妻の実家に帰省することになっていて、そこではもっと具だくさんで濃厚な雑煮が出る。他方、私の東京の実家は蕎麦つゆの濃さで有名な東京だけれども、至って薄口好み。
具はにんじん、ほうれん草、大根、ネギと至って凡庸なものばかりだが、それに松茸が入るところが他とちょっと違うところか?──ちなみにこの松茸は広島の妻の実家の近くの山で採れる。今年は私も山に入ったので、もしかすると自分で採ってきた松茸かもしれない。これを見たら何と贅沢な!と思われるかも知れないが、どうも松茸狩りに連れて行ってもらうようになってからというもの、国産松茸のありがたみをそれほど感じなくなってしまった。毎年1本だけ冷凍しておいて、それを正月に食べる。また、毎年恒例で2日から妻の実家に帰省すれば、お雑煮だけでなく、すき焼きやら焼肉やらと昔なら考えられなかった局面で松茸を食べる。それが正月というものになった。
ちなみに妻の実家では上記の具に蛤が加わり、うちの実家では鶏肉とかまぼこあたりが追加される程度で、むしろ違うのはだしの味付けといったところか? あと、餅は妻の実家の方で付いた丸餅を使う。これも慣れると市販の餅がまずくて食えなくなる。
ところで、わがやのお雑煮大会のための写真を撮ろうとするものの、肝心の餅が底の方に沈んでしまって、結局箸で掘り出したヤラセ雑煮のようになってしまった。この企画に参加された他のブロガーもふだん敷かないランチョンマットを敷いてみたりとか、いつもより少し気取った雑煮になっているのだろうか? まあ、いざ食べ始めたら伸びる餅にこんな表情 やこんな表情 になってしまうわけだけど(笑)
それでは、本年もよろしくお願い申し上げます。
【写真】2006.01.01, 13:53, 大阪自宅にて
□◇
以下ご近所ブログの「わがやのお雑煮大会」。アップした時間で見るのも面白い。
(ちなみにうちの日時は撮影時刻に偽装したものですが‥‥)
・N的画譚: わがやのお雑煮 (2007.01.01 11:59)
・藍blog: わがやのお雑煮 (2007.01.01 09:32)
・aki's STOCKTAKING: わがやのお雑煮 (2007.01.01 15:00)
・MyPlace: わがやのお雑煮 (2007.01.01 20:20)
・Kai-Wai 散策: わがやのお雑煮 (2007.01.01 21:06)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 『わがやのお雑煮大会』参加エントリー (2007.01.02)
・MyPlace: わがやのお雑煮:三日目に (2007.01.03 12:20)
・MyPlace: 石川県加賀のシンプル雑煮 (2007.01.05 20:50)
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2006年12月31日 (日)
先月も書いたが、トップランクインの検索ワードはちょっと勘弁して欲しい。試しにググってみても最初の数ページで出て来ないのだから、よほどその言葉自体がよく検索されているということだろう。ドラマ「結婚できない男」は年末再放送されてるので、再び盛り返してるのか? 結構見てしまっている。
ところで最近、このブログでコメントができないというメールを度々いただく。どうもサーバがおかしいのか何なのか、コメントができるときとできないときがあるようで、エラーが出てしまった場合はお手数ですが、ブラウザの「戻る」ボタンで戻って、再度[POST COMMENT]ボタンを押してみてください。
イナムラショウゾウ 3.5% グヤーシュ 2.5% 谷中 1.9% 遊郭 1.9% 高過庵 1.4% 上棟式 1.2% 結婚できない男 1.1% 板塀 0.9% 蟻鱒鳶ル 0.8% 軍艦アパート 0.7%
2006年11月の解析結果はこちら から。
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2006年12月26日 (火)
先月末、韓国旅行に行ったのだが(それについては妻が LBGO「久々の韓国・一日目 」「久々の韓国・二日目(その1) 」で連載エントリー中)、関空へ向かう南海空港線の電車の中、おそらくは貝塚駅を過ぎたあたりで見えてきたのが上の写真の光景だった。
カット&パーマ「シェルター大阪舘」というネーミングもすごいが、その建物全体が醸し出す雰囲気はアジアの辺境に住み着いた日本人が現地で経営するゲストハウスのようである(ふとインドはバラナシの久美子ハウス のことが頭に思い浮かんだので、当時の旅行記を振り返るとちょっと雰囲気は違っていた。でも、こんなんはよく見掛ける)。
貝塚に行く機会って限りなく低い気はするけど、もし行くようなことがあれば駅から近いはずだし、是非とも反対側からも見てみたいもんである。
【写真】2006.11.22, 14:17, 大阪府貝塚市・南海空港線より
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2006年12月25日 (月)
クリスマスツリーというと、=モミの木だと思っていたけど、Wikipedia「クリスマスツリー 」を読むと「常緑の針葉樹(主に幼木)が使われ、ヨーロッパではドイツトウヒだが、日本ではモミが主で」とあり、クリスマスの本場ではモミの木が一般的ではないということを今初めて知った。ついでなので「ドイツトウヒ 」という耳慣れぬ木も調べてみるとマツ科トウヒ (唐檜)属の針葉樹で「樹形や葉の付き方はモミ属と非常によく似るが、樹皮は茶色で鱗状に割け、(中略)モミ属と異なっている」とあり、要はモミの木がドイツトウヒとパッと見で似ていたから日本ではモミの木がクリスマスツリーに使われるようになったんだろうな〜ということが伺える(但し別説もある模様)。
つまりは拡大解釈するなら、針葉樹系であれば結構なんだってアリなんじゃ?と思い、谷中のランドマークの一つでもある、みかどパン 前のヒマラヤスギ写真を出してみた。このヒマラヤ杉については Kai-Wai 散策「大樹とパン屋 」「大樹とパン屋 (つづき) 」でその生い立ちが紹介され、Roc写真箱「ランドマーク 」ではみかどパンの名前の由来となった三叉路の「三角」に仰天ピントのあったモノクロ写真がアップされるなど、既に紹介され尽くされた感もあるが、ここでは参考までに豊田さんが関わっておられる「まちの木霊 」プロジェクトが作ったマップ上のヒマラヤ杉紹介文を引用しておこう。
「まちの木霊」マップ No.29
谷中のランドマーク、みかどパンのヒマラヤスギは二代目。先代は建物の中から突き出たエノキ。玉虫が掃くほどいた。
ヒマラヤスギは50年ぐらい雄木で、やがて子孫を増やすために雌木に変わる 。スギといっても本当はマツの仲間 。
緑字部分の話もビックリだけど、赤字部分によって何の躊躇いもなくクリスマスツリーとしてこのヒララヤスギ写真もアップできるというものである。
まあ、クリスマスなのに不気味という顰蹙の方をむしろ買うかもしれないが(汗)
というわけで、以下に昼夜の比較写真でも一枚ずつ。
【上】2006.10.20 23:42, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(夜)
【左下】2006.10.18 15:47, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(昼)
【右下】2006.10.20 23:41, 台東区谷中1丁目・みかどパンのヒマラヤスギ前(夜)
□◇
このスポットは以前にエントリーした「アミノバリュー BCAA 」でもCMに映った場所として軽く紹介はしている。そこからの関連等で以下リンク先も参照されたい。
・だんだん「ランドマーク(家と木) 」(2006.06.13)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発「谷中とアミノバリューCM 」(2006.07.14)
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2006年12月24日 (日)
前エントリー では mitsubakoさんのブログから「日本人の居住空間から床の間が消えていったのも、おもしろさが失せたからだろう」というアランさんの言葉を引用した。このエントリーではもう少しその床の間について、うちを実例にして考えてみたい。
まずうちの場合、前任建築家との計画初期段階から、すでに床の間は図面上に書き記されている。これにはおそらく三鷹金猊居から持ち込んだ行器(ほかい) ・鏡 等の古道具を置くスペースとして床の間を活用するのが妥当だという判断が、三鷹金猊居時代の住まい方に倣って我々(施主側)のうちにあったものと思われる。そして床の間の導入はその後、特に大きな疑問を持たれることもなくそのまま採用されることになった。
しかし、2階の居間の現状を見る限りにおいて、それはなくても良かったと言える状況にあることは認めざるを得ない。その最大の要因は母が自分用の居室として用意された3階個室を完全に物置きとしてしまい、居間兼客間と想定されていた2階共有スペースを居間兼寝室にしてしまったことにある。その部屋が住人のベッドスペース(布団敷きだけど)となってしまったことによって、客間であれば求められたはずのところの遊び感覚(おもしろさ)が完全に別のベクトルを向いてしまったのだ(簡単にいえば、モノによって床の間前の空間が無為に埋められてしまったということ)。
ただ、こうした住宅事情というのは狭小スペースを余儀なくされやすい都内においてはうちが特殊ケースとは言えない面もあろうかと思う。Wikipedia「床の間 」では、その冒頭で「床の間とは、日本住宅の畳の部屋に見られる座敷飾りの一つ。ハレの空間である客間の一角に造られ」と記されるが、うちのように「ハレの空間」と「ケの空間」を混在させざるを得ない住環境にある家というのは決して少なくはあるまい(うちの場合は住まい方の拙劣さにおいてそうなってしまっているわけだが)。
としたとき、形骸化しただけの床の間が無思慮に導入されるくらいなら、ない方が良いというのは賢明な選択である。正直、これは自分で図面を書いてしまった本人も含めての話なのだが、どの図面であっても「床の間」は何となく空いたスペースに嵌め込まれでもするように書き込まれるケースが多く見受けられた。Web/DTP のレイアウトでいえば、ここ空いちゃったから埋めとくか!ってノリにちょっと近い。しかし、そういう部分に「おもしろさ」ってなかなか現れはしないものである。
その代わりと言っては何だが、意欲的な設計者がハレとケの混在空間を前にしたならば床の間という形式にはこだわらずとも床の間的「おもしろさ」を演出するような空間は頼まずとも作り出すことだろう。うちの場合はそれが1階の階段〜濡れ縁あたりの三鷹金猊居から再利用した丸太梁を絡めた空間にしっかり実現されているように思われる。ただ、その空間はやはり余白に何となく嵌め込まれたのではなく、吟味に吟味を重ね、しっかり議論の持たれた場所であった。
以上、アランさんの論からはだいぶズレたところでの話の展開になってしまったが、床の間そのものの「おもしろさ」については機会を改めてまた考えてみたい。
【追記】
今回珍しく写真なしでのエントリーとなってしまったのは、完成直後に撮影して以降、ロクに床の間の写真を撮っていなかったためである。そのことからも我が家の床の間に対する私の関心の度合いが透けて見えそうである。他方で、床の間的「おもしろさ」が演出されているとした「1階の階段〜濡れ縁」の方は写真に撮ってはいるのだが、いまいちその空間的おもしろさの伝わる写真が撮れてないのでアップしていない。広角レンズが欲しくなる今日この頃である(宝くじでも当たらない限り買わないだろうけど)。
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2006年12月19日 (火)
アランさん のアトリエにはこのブログでもお馴染みの mitsubakoさん 、flickr 仲間でこの日が初対面だった(といってもまるでそんな気しなかったけど) ya maさん 、そして幼馴染みのRちゃんと行った。なぜこの3人と一緒に行くことになったかというと、以前にエントリーした「山門不幸 」がその引き金となっている。実はこの前日に長運寺の前を通ったらまだ「山門不幸」の立て札が立っていて、同エントリーを読んでくれてた3人が見たいということで、案内ついでにアランさんのところにも寄ったのだ(ちなみに同エントリーの補記で出てくる「その筋の友人」こそがRちゃんである)。
mitsubakoさんは Abejas e Colmenas「午後の谷中 」、ya maさんは posinega「秋の個展めぐり(1) 」でそれぞれこの日のことを書かれていて、mitsubakoさんがアランさんのアトリエでのことにも触れられているので、それを一部引用させてもらおう。
彼の床の間の考察は自由だ。日本人の居住空間から床の間が消えていったのも、おもしろさが失せたからだろう と彼はいう。規格化された床の間からは個性が消失し、有用性もなくなってしまった からなのだろうか。
考えてみると、小さいころ、床の間がわたしの部屋だったことがある。本棚と机がそこにはめ込まれて、妙な空間だったことを覚えている。まがった床柱が邪魔で、薄暗い感じが嫌いだった。
アランさんの目線でアランさんのような作家によって、いったん床の間の概念が崩されて、また、新しい床の間という空間が息づいてくるのかもしれない。
この床の間の話はアランさんから聞けた興味深い話の一つだったわけだが(床の間が規格化した背景にはおそらく LDK 発想ってもんがあったように思える)が、それ以外にも何を筆置き代わりにするといいか?って話や、表装を無難に収めようとすると失敗するという話など、この3人と一緒だったからこそ聞けた話がたくさんあった(ちなみに「その筋の友人」であるRちゃんのご実家は表具屋さんで、実際、丸井金猊の未表装リソースの表装はほとんどこちらにお願いしている)。
アランさんご本人については「アランさんのアトリエ訪問 」を筆頭に幾つかエントリーしてるので、ここで改めて触れはしないが、今回は初めてうちにお越しいただき、祖父の画を生で観てもらえたのが何よりも嬉しかった。で、最後にそのときに聞くことのできた話を一つ。
テーマとして扱ったことはないものの、これまでにも何度か触れている「落款」の有無について。アランさんの場合、落款を押すのは大抵その作品が完成したときというよりも、その作品が売れて人手に渡るときなのだという。あくまで人にもよりけりとした上で、アランさんの場合は作品の完成は作家本人が一旦完成だと思ったとしても、後からまた手を加えたくなることはいくらでもあり、実際に手を加えることもある。だから、手許にある限りは落款は押さずにおいて、手を加えられない状況が来たとき(すなわち人手に渡るとき)に押すようにしているのだという。
なるほどこのことから考えれば、祖父のリソースも落款がないからと言って本人が作品としてまだ満足していないだろうと推測するのは判断が早急に過ぎるということになりそうだ。もちろんこれらも全ては推測に過ぎず、いずれにせよ祖父の画を「作品」とは呼ばずに「リソース」とする姿勢を崩すつもりはまだないが、一つ肩の荷が軽くなったというのは事実である。
尚、冒頭の写真は夜中の23時過ぎにアランさんのアトリエ正面から撮ったものである。本当はもう一度くらい訪問したかったが、どこの企画も1回まわるので精一杯。ただ、アランさんのアトリエは時間終了してても、こうしてまた別世界の表情を外からでも十二分に堪能できるので、夜中の訪問もオススメである。
谷中芸工展2006 【37(?) アトリエ アラン ウエスト: 谷中の床の間 】
普段は絵の制作に使っているアトリエを、いろいろな時代の床の間であしらいます。案内を片手に各々の床の間をご覧下さい。公開制作もしております。
期間中無休/12:00〜17:00(日曜は13:00〜) 台東区谷中1丁目
⇒公式サイト: ALLAN WEST:アラン ウェスト オフィシャルサイト
【写真上】2006.10.20 23:33, 台東区谷中1丁目 アトリエ アラン ウエスト前
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2006年12月17日 (日)
芸工展マップで一つ場所を読み違えてしまったのが「いろはに木工所 」だった。パッと見ると★マークがへび道沿いに表示されているので、ついそのつもりで探してしまったのだが、よく見ると「いろはに木工所」と書かれた枠から細くて短い線が伸びていて、それがへび道から一本外れた通りを指していた。なので、別の企画に向かおうとして出くわしたときには、自身のマップ読み違いに気づいてなかったもんで、へび道さえ迷う自分はまだまだ谷中モグリやな〜とプチ落胆したものである。
ただ、その「いろはに木工所」自体も谷中に根付いてまだ日は割と浅い。オープンしたのが2005年春ということなので、うちよりも半年後輩ということになる。とは言っても2004年の芸工展参加をきっかけにこの地で独立開業を考えられたというのだから、今年芸工展初参加のうちとは比較にならないくらい町には溶け込んでいそうである。
それどころか、実は私の気づかぬうちにすでに我が家にもしっかり浸透していたのだった。うちの玄関入ってすぐの前室には三鷹金猊居から移築させた華燈窓 があり、いつからかその左下のところにベンガル地方の一弦琴ゴピジャントラ のような不思議な形の花生けが置かれるようになっていた。まあ、母が買ってきてそこに置いたであろうことは疑いないのだが、それは私の目から見てもなかなか趣味良くというか、始めからそうなっていたといってもおかしくないくらいその場にしっくり収まっていたのである。
それが「いろはに木工所」製作のものであったとは、、こうして自分の知らぬうちに企画間コラボが実現しているというのも、谷中芸工展ならではの話なのかもしれない。
DMを置いてもらうようお願いしたら、さすがは木工所なだけにうちの把手には前から目を付けられていたようで、うちも把手だけは谷中に浸透してることを実感した。
谷中芸工展2006 【69(愛) いろはに木工所: お茶の間家具展 】
かつてはどの家にもあった、ちゃぶ台、箱膳 、茶だんす、踏台などが「いろはに風」で登場です。ワークショップも行います。詳しくはお問い合わせ下さい。
10/7〜9, 14〜23(10/16,17 休/通常は土日宿営業)/13:00〜19:00
台東区谷中2-15-13 tel: 03-3828-8617
⇒谷中芸工展2005 参加者インタビュー: いろはに木工所 山下純子さん
⇒Joy-Quest.com: いろはに木工所
【写真上】2006.10.18 16:12, 台東区谷中2丁目 いろはに木工所正面
【写真下】2006.10.20 23:54, 谷中M類栖/1f/前室 華燈窓
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2006年12月12日 (火)
のんびりペースとはいえ、あんまり律儀に芸工展巡りでの企画紹介ばかりしていると、さすがに書く方も飽きてくる。ということで、今回は芸工展巡りの最中に見つけた柿の写真でもアップしよう。この柿は大名時計博物館前の通りからあかぢ坂を下りて程なくのところにあるアパートの塀の上に、無造作にというよりはどちらかというと造作的な感じで置かれていた。※註・追記≫ 下の写真をご覧になるとわかるだろうが、一部囓られた痕があり、ひょっとすると住人が鳥の餌にでもと置いておいたのかもしれない。
柿といえば、学生時代に漫画『美味しんぼ 』で柿の甘みが菓子の原点にあるという話を読み囓った覚えがあった。早速ググってみると第26巻「菓子対決(前) 」にその話は出ていた。リンク先(夜刊ロロモ )にはその巻の仔細なあらすじが掲載されているので、興味を持たれた方は同ページ4〜5章をご覧になられると良いだろう。
現代のお菓子の大半は甘みを砂糖に頼っているが、18世紀以前の日本では砂糖が高価で庶民の手に簡単には入らず、甘みへの欲求は果物によって満たされていた。上記あらすじから暫く引用してみると「菓子の菓と果実の果は同じ、木になった果物のこと」「すなわち、菓子とはもともと果物のことだったのだ」というように、その語義自体に菓子のルーツが隠されていて「中でも柿は日本独特の物」「ほかの果物と違って干し柿として保存がきくので貴重だった」として、海原雄山に「水菓子としての果物といわゆる菓子の中間点、いわば菓子の原型として考えられるのが干し柿」では?と結論づけられている。
そういえば韓国ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い 』でも、第5話「変革 」で子供時代のチャングムが料理の隠し味に熟した柿が使われていることを一人言い当てるシーンがあるのだが、朝鮮王朝時代の韓国料理においても甘みを引き出すのに柿が使われていたという点では日本と同様のようである。余談だが、「なぜ、柿だと思う」と最高尚宮に聞かれ、「食べた時に柿の味がしたから、柿だと言ったので、なぜ柿かと聞かれても柿の味がしたからだと」子チャングムが答えるこのシーンが私は無性に好きでたまらない。
【写真上・中】2006.10.18 15:49, 台東区谷中・あかじ坂にて
【写真下】2006.11.11 13:41, 滋賀県高島市新旭町・正傳寺鐘つき堂の干し柿
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2006年12月05日 (火)
美容室 CLASSICAL は、千駄木駅から三崎坂を上ること3分。江戸千代紙「いせ辰 」の斜め向かいにある。ふだん三崎坂を上り下りするときは「いせ辰」の羽子板看板に目を奪われてどうしても死角となりがちだが、芸工展期間中は芸工展フラッグと共に店先に「谷中芸工展・コジマユウジ展・開催中」と三段組みの立て看板が「おいでよ」って感じに親しげな様子で構えていて、髪切る目的がなくても気軽に入って行けた。
会期中も美容室は営業していて、どちらかというとエントランス手前の方に作品は展示されているのだが、奥で営業中の美容サロンの方も額縁に入った鏡がイーゼルに架けられ、美容室自体が不思議な雰囲気。これは芸工展期間中の特別仕様か?とも思ったが、「美容室 CLASSICAL 」公式サイトを見てもわかるように、ふだんからイーゼル額縁鏡でカットやパーマは行われているようだ。トイレにもオーナーさんのナイショの展示があったりと美容室全体から芸工展を楽しもうとする雰囲気は伝わってきた。
タイミング良く作家のコジマユウジさんも見えていて、コーヒーをいただきながらしばし談笑。歳が私と一つ違いということもあってか、何だかとっても話しやすかった。彼は谷根千界隈在住の人というわけではないが、この美容室で毎年展示して今年で3回目だという。今回、このブログで芸工展の企画を幾つか紹介してきて、あまり表立って作品画像を見せるようなことはせぬよう心掛けてきたが、このコジマユウジ作品に限っては語るよりも見てもらいたい!という感じなので、以下に1枚アップする。
まあ、見せるといってもここに掲載してるのは展示されていた作品ではなく、展示中に配布されていた作家紹介のペーパーと、美容室で出されたコーヒーの入っていた紙コップを家に帰ってから撮影した画像である。ちなみに紙コップの方は私がもらってきたものではなく、母がもらってきたもの。目敏い方はコップの端に口紅が付いていることに気づかれるかもしれないが、母の口紅なので意味深なことは想像されぬよう。
とくだらない余談はさておき、この紙コップと用紙に描かれた何とも言えないキャラクター、それがコジマユウジという作家を象徴していると言っても過言ではないのだろう。線画を中心とした彼の作風もさることながら(キャラクターの有無に関わらず)、まず何よりもこのキャラクターの風貌がどう見ても彼にそっくりなのである(笑)
また、このキャラクターの胸のあたりにはおそらく心臓(心)と思われる、やや尖ったハートのマークが付いている。紹介用紙に「ココロはどうやって作るの?」をテーマに創作活動をされているとある通り、このキャラクターがただカワイイってだけではない雰囲気を漂わせるのは、そうした問題意識を持たれているからなのかもしれない。ちなみに美容室サイトの「RING RING RING 」ではページを捲ると、期間中「一番人気のオブジェ 」や「段ボール素材のオブジェ 」の画像を見ることもできる。
個人的には「公園に行く道 おかし屋に行く道 かくれんぼの道 この町のひみつの道」と書かれた絵(このひょーひょーとした文字がまた何とも言えない)と、天井の描かれた絵がかなり気に入り、私にしては珍しく非常に激しい所有欲に掻き立てられた。残念ながらそれらのポストカードは売ってなかったので、何も買わずに帰ってしまったのだが、後になって他のでも買っておけばよかったな〜とちょっと後悔。だったもんで、後日、コジマユウジさんから新たな展示のお知らせDMが届いて、大変ありがたかった。コジマさん、多謝!
「コジマユウジ展・4 TOYBOX」
2006年12月5日(火)〜12月10日(日) 12:00〜19:30(最終日のみ18:00まで)
〒166-0003 東京都杉並区高円寺南3-60-6 Tel&Fax: 03-3313-8829
Url: http://sky.zero.ad.jp/tamago/
本当はもっと早くに紹介すべきだったのだが、韓国旅行やら何やらでブログ更新自体が滞り、期間中の告知となってしまった。お近くの方は是非!!
尚、コジマユウジさんと美容室のスタッフさんは後日うちの展示にも見えて、一応そのときに上の掲載画像を見せてアップする旨の承諾は得ている。それと帰りがけの記帳の際に氏名欄の余白にこのキャラの絵を描き残して行かれた。何とも心憎い限りである。
谷中芸工展2006 【69(想) 美容室 CLASSICAL: コジマユウジ展 】
こんにちは。コジマユウジです。美容室という場に会期中絵を展示します。ちょっとかわった空間をどうぞ見に来て下さい。
美容室は火休(展示は開催)/10:00〜20:00 台東区谷中3丁目
⇒公式サイト: 美容室 CLASSICAL
【写真上】2006.10.17 12:53, 台東区谷中3丁目/美容室 CLASSICAL 前
【写真下】2006.10.17 21:39, 谷中M類栖/2f 居間にて
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2006年11月30日 (木)
寒くなってきたからというよりも何かのテレビで紹介されたのだろうか?
ハンガリー料理のグヤーシュ が1位に急浮上。まあ、これは検索を意識して、完全なるレシピを載せているので、引っ掛かった方も外れた感はそうはあるまい。
ただ、ちょっとまずいのが上野桜木のケーキ屋パティシエ・イナムラショウゾウ も急浮上してしまったことだ。随分昔のエントリーなのだが、ちょっと悪口を書いてしまっている。まあ、超人気の店なので、それでへこたれることはないだろうが、逆にこっちが潰されたりして?なんて思ったりして、、いずれにせよ、秋はやっぱり食欲の秋ということなのだろう。ほしのあき ではなく(笑)
グヤーシュ 4.0% 上棟式 3.7% 谷中 1.9% 遊郭 1.8% イナムラショウゾウ 1.7% 高過庵 1.4% 軍艦アパート 1.3% 結婚できない男 1.2% ダイニングテーブル 0.9% 板塀 0.8%
2006年10月の解析結果はこちら から。
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2006年11月11日 (土)
琵琶湖北西部に位置する高島市新旭町に、生水(しょうず)=湧き水を今も生活用水にしている針江という集落がある。川端(かばた)と呼ばれる水場が家の内外に作られ、そこには鯉や鱒が放たれ、自然と人が共存する「美しい日本」がここには確かにあるとさえ思いたくなるが、現首相が言ってるそれと通ずるものがあるのかは彼の著作を読んだことがないのでわからない。
小雨の降る一日だったが、その川端を見に妻と針江生水の郷委員会主催のエコツアーに参加してきた。ツアーを利用しないと人家の中に川端はあるだけに見ることができないのである。また、この地域では、こうした地域の特性を守るため、敢えてエコツアーを敢行して、外来種ともいうべき観光客の行動を限定している。このあたりの詳細は京都新聞で針江生水の郷委員会のことを紹介した「エコな挑戦 」を参照のこと。
川端については「琵琶湖のカイツブリと共に 」のエントリーでも紹介したわきた・けんいちさんにいただいた今森光彦著『藍い宇宙 琵琶湖水系をめぐる 』に出てくるので、それと合わせて詳しく追っていきたいところなのだが、現在あまりブログに時間を割ける状態にないので、とりあえずは妻の LBGO「滋賀/川端ツアー 」にリンクすることでこの日の備忘録としておきたい。いずれ機会を改め川端については書くつもりである。
【写真】2006.11.11 13:59, 滋賀県高島市新旭町針江区にて
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2006年11月07日 (火)
区画は違うが実家から歩いて1分もないところにある台東桜木郵便局では「絵手紙展」と称して、手描きの絵葉書が壁一面に飾られていた。マップの解説文に「へたで良い・へたが良い」と書かれているが、結構一つ一つ見ていくと味があって面白い。とりわけおばあさんが「動けなくなった(つまりは死んじゃった?)カブトムシは描きやすい」と書き添えて描かれていたカブトムシの絵には笑えた。
郵便局のような場所がこうした芸工展のような催しに参加するのは日に日に難しい世の中になりつつあるような気もするが、良い意味での鈍感さを持って、今後も参加し続けてもらいたいものである。
谷中芸工展2006 【34 台東桜木郵便局: 絵手紙展 寺田純子 他 】
へたで良い・へたが良い<素直に心の感じるままに>そんな絵手紙展を今年も桜木郵便局からお届けします。
10/14〜22/9:00〜17:00頃 台東区上野桜木1丁目
⇒公式サイト: 台東桜木郵便局
【写真上】2006.10.17 10:54, 上野桜木1丁目/台東桜木郵便局前
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2006年11月06日 (月)
アジア雑貨を主に扱う「nagomiya わぁい」は藍染大通りへと繋がるあかじ坂を下って澤の屋旅館の手前十字路を右に曲がってしばらく歩いたところにある。「生活の中に 和<なごみ>の雑貨を提供」ということから店の名前が付いたようだ。
芸工展には『手仕事展』というタイトルで「手作り」であることをコンセプトに集められた雑貨が主に置かれていた。特に目を引いたのは、オーナーさん自らが作られた文庫用ブックカバーで、ご本人が本を読まれる際に不満に感じられていること(例えばヒモしおりが中途半端なところで折れてたり、読むのに邪魔になったりするなど)を解決すべく工夫が凝らされていて、ちょっと食指が動かされたが、何分ふだんの生活で文庫本を読む機会が激減してしまっているので、買うのは控えてしまった。
どうも最近は「良いな」と思っても「買おう」にまで至るものといえば、食べ物くらいである。食べ物はなくなってくれるからいいが、それ以外のものは「モノ」として増えることがつい頭を過ぎり、踏み留まってしまう。なので、「良いな」と思ったその感情が「買う」という行為なしでも作り手に伝わる何某かのシステムはないものか?と芸工展を巡りながらしばしば考えていた。ただその場で言葉の上で「良いですね」と言ってみても「買う」という飛躍的行為に値する万感(交換/交感)はなかなか得られるものではない。せめてこうしてブログで書くまでである。
谷中芸工展2006 【56(?) nagomiya わぁい: 手仕事展 】
谷中で和小物とアジア雑貨の店をやっています。芸工展期間中は手仕事展をやります。 文庫カバーや小さな手提げ等のオリジナル商品を展開します。
木休/10:30〜18:00 台東区谷中2丁目
⇒公式サイト: nagomiya わぁい
【写真上】2006.10.16 12:24, 谷中2丁目/nagomiya わぁい前
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2006年11月05日 (日)
7月末に「朝鮮人街道、高麗橋まで 」というエントリーで近江八幡に行った際に「朝鮮人街道」という石碑を見つけ、そこから「朝鮮通信使」の存在を知るに至る経緯を書いた。そのコメントでわきた・けんいち さんから推薦を受けた『「朝鮮人街道」をゆく 』(サンライズ出版・¥1,020)という彦根東高校新聞部の調査結果を下敷きにして書かれた本を読み、朝鮮通信使について僅かながらもミニ知識を身につけてしまったもんだから、11月5日に難波宮で本祭の行われた古代アジアの国際交流を雅やかに再現するという「四天王寺ワッソ 」では、妙なところで一人興奮せずにはいられなかった。
その最たるものが、雨森芳洲の登場である。
雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)について詳しくは Wikipedia を参照されるとよいだろう。その冒頭文のみ引用すれば「中国語、朝鮮語に通じ、江戸時代中期の日本を代表する儒者」であり、「対馬藩に仕え、李氏朝鮮との通好実務にも携わった」鎖国時代に近江から出てきた国際人である。恥ずかしながら私は朝鮮通信使を通じて初めてその名を知ったくらいなのだが、先の著書では「雨森芳洲と高月町雨森」として1章のうちの四分の一が雨森について割かれていて、そこで取り上げられたエピソードなどを読んでいると、もう雨森シンパにならずにはいられない(笑) どうやら彼は徹底的なまでに真実を生きようとするリアリストだったようで、同時にそのことが幾つもの危うい論争を招く結果ともなっていたようである。
例えば1711年の通信使来日にあたり、新井白石が対面にこだわってか、これまで国書に「日本国大君」と記されていたのを「日本国大王」と改めさせた。この王号問題に反論し、深刻な論争に持ち込んだのが雨森なのだが、当時の雨森は白石の引き立てで幕府への仕官を望んでいる状態だったという。今の政治家や学者で自分の立場を顧みず、こうした論争を挑んでいける人物はどれくらいいるのだろうか?(しかし、新井白石ってのは歴史音痴の私でも名前知ってたくらいだけど、この「日本」という国に対する不理解ぶりを聞くと結構アホアホな人だったのでは?と思いたくなってしまう>汗)
また、こうした事例を知ると雨森が『交隣提醒』という著書で朝鮮との交わりについて記した「真実を持っての交わりを誠信というのであって、朝鮮人は日本人を欺かない、日本人も朝鮮人を欺かない、そして互いに真実を持って交わることが、誠信の交わりである」の「誠信」の意味がより明白になってくることだろう。
これは『「朝鮮人街道」をゆく 』に記されていたのだが、「通信」の意味とは語源を辿るならば「信」を「通ずる」という意であって、このネット時代にあって我々はとかく単なる情報伝達や報告手段としての「通信」を軽く受け留めがちだが、その本義は「誠信」を通ずるという至って重いものだったのである。
ところで先の「四天王寺ワッソ」では雨森芳洲に扮した一行は正直かなり地味で、私一人しか拍手してる人がいないのでは?って感じだったけど(冒頭の写真を見ても向い側の客が誰も見てないことが伺える)、私個人にとっては世宗大王や旅芸人一座、アクロバティックな JUMP よりも興奮の度合いは遙かに高かったのである。もちろん浜村淳演ずる聖徳太子よりも(^^;)
雨森の生まれた高月町では彼の業績を顕影し、アジアとの国際交流を目指すユニークなまちづくりが取り組まれているのだという。彼の生家も「東アジア交流ハウス 」として活用されているらしいので、また暖かくなってきた頃にでも尋ねてみたいものだ。
最後に一つ余談。ATOK で「あめのもりほうしゅう」を変換すると「雨の漏り報酬」とビミョーに住宅建築寄りの文字変換される(^^;)
【写真上】2006.11.05 14:47, 大阪・難波宮「四天王寺ワッソ 」にて
【写真中】高月町立観音の里歴史民俗資料館 サイトの「雨森芳洲について 」から「雨森芳洲肖像画(63KB) 」を転載。同サイトは「雨森芳洲と朝鮮通信使 」をはじめ、雨森芳洲に関する興味深いテクストが多数掲載されている。
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2006年11月04日 (土)
根津藍染町の丁子屋 さんの通りを挟んで向かいにキウイ棚のあるお宅があり、その脇の路地を入っていくと大阪屋荘という、なぜに谷中で大阪や?とツッコまずにはおれない集合住宅が出てきて(って、そのツッコミをいつも受けてるのはこのブログでありますが>汗)、その1階に金継ぎ「nico 」はあった。
実は最初、前回エントリーしたステンドグラス工房「nido 」のつもりで行ってみたらば「nico」だったという、、「d」「c」違いだったわけだが、そもそも私が「金継ぎ」の意味をちゃんとわかってなかったから、このような勘違いは生まれたのである。
「金継ぎ」とは芸工展マップの金継ぎ「nico」説明冒頭にもあるように「割れた陶磁器を漆で直す技法」のことである。読み方は「かなつぎ」ではなく、「きんつぎ 」であることもググっているうちに知った。「かなつぎ」という風に読むと、如何にも額などを作ってそうなところに感じられないだろうか?(汗)
展示は内外両方にあって、外は終日入り口前のブロック塀に金継ぎした陶磁器などの写真展示パネルを、中は土日と最終日のみの展示で、金継ぎした陶磁器を展示して、それらに触ってもよいことになっていた。もともと割れた陶磁器を継いだものとはいえ、デジタル一眼レフを肩からぶら下げていたので、別のところを傷つけてしまわないかと結構緊張した(いや〜、こーゆー場にごっつぇぇデジ一はホンマに鬱陶しいです)。
会場では「漆直しセット」なるものが 3,000円で売っていた。「漆直しと金継ぎの違いについて 」は金継ぎ「nico」サイトの同エントリーを読まれるとよいだろう。とにかく「漆直し」の技術だけで陶磁器の補修は可能ということのようだ。ご興味あられる方は同「販売しています! 」のエントリーまで。ちょっと面白いのが、同エントリーで紹介されてる「漆直しセット」の写真を見てると、芸工展マップが想起されること(笑)
尚、10月17日付の Kai-Wai 散策「nico 」のエントリーで紹介されてる「湯島のnico」というお店は輸入雑貨メインのお店ですので、くれぐれもお間違えなく!
あと、全然関係ないけど、Velvet Underground の nico は1938年10月16日生まれのようで、偶然にも私が金継ぎ「nico」に初めて行った日と一致していた。まあ、休みだったのだけど(泪)
谷中芸工展2006 【51(逢) 金継ぎ nico: 金継ぎの展示 】
割れた陶磁器を漆で直す技法「金継ぎ」を展示します。
また小さなカケならご自宅で簡単に直せる「漆直しキット」を販売します。
期間中は予約不要です。
10/14, 15, 21〜23/11:00〜18:00頃 台東区谷中2丁目
⇒公式サイト: 金継ぎ nico
【写真上】2006.10.16 11:44, 谷中2丁目/nico 前の路地
【写真下】2006.10.16 11:42, 谷中2丁目/nico の入り口看板
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2006年11月03日 (金)
ステンドグラス工房「nido 」は neonさんが今年の5月にノマドカフェで行われた個展「ピアニシモな建築たち 」で一部の画の額を作られ、「nido×neon 」って形でコラボレーション展示されていたので、前から気になっていた場所だった。neonさんご自身も、去年の芸工展をきっかけに「nido」を見つけられ、そこからコラボ展示へと話が展開していったことを「てのひらサイズの画 」というエントリーで書かれている。
確かに芸工展のような機会でもないと、谷中ぎんざのすぐ脇にあるとはいえ、細い路地の一歩奥に入ったところにある nidoは、若い女性などには入っていくのにちょっと勇気の要る場所かもしれない。
入り口に「ファミリー服装学院」「マキシマ研究所」といった看板があるってことも、最初から目的にして行く人でないと、深追い散策人でもない限りは私有地に侵入するような感覚に陥りそうである(笑)
ところで公式サイトの「about us 」によると「nido」とはスペイン語の「巣」の意味であるらしい。
ということは、谷中M類栖の「栖」と意味を同じくす るというわけだ。
芸工展バッヂの一文字漢字には「蝉」が割り当てられていたが、もし自由に漢字を決めることができたならば、nidoさんはきっと「巣」にされていたにちがいない。
ちなみにうちだったらば迷わず「栖」だった。が、実際に割り振られたバッヂは「遊」と「懐」だった。なぜか間違って二つ配られていたのである。
展示物としては手前のギャラリースペースではフォトグラファー中藤毅彦さんの写真展『atmosphere 』が、奥の工房スペースではNゲージの模型電車にステンドグラスを被せた「nido特製花電車 」が置いてあって、夜7時からの気まぐれキャンドルタイムではあかりのついたキャンドルハウスの間を花電車が走るらしい。生憎私は昼時に行ってしまったので花電車が動くところだけ見せてもらったが、一回くらい夜に見に行っておくべきだったと今にしてちょっと後悔している。
谷中M類栖/1f で今回展示した祖父が祖母を描いた小さな肖像画などは安物の味気ない額に入っているので、いつか nidoさんと一緒に作ってみるのも面白そうである。
谷中芸工展2006 【92(蝉) nido: 明かりの時間 】
細い路地の奥へ入るとキラキラと幻想的な光が漏れる手作りガラス工房 nido があります。夕暮れ時から気まぐれキャンドルタイムが始まります。
水休/11:00〜20:00 台東区谷中3丁目
⇒公式サイト: contemporary glass nido
⇒ブログ: nido
【写真上】2006.10.21 11:54, 谷中・よみせ通り/nido への路地入り口
【写真下】2006.10.21 11:54, 谷中・よみせ通り/nido の入り口看板
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2006年11月02日 (木)
「94. 中原絵亜: 空の日記(詩展) 」を見た後、すずらん通りを不忍通りに抜けて、まだ昼までに少し時間があったので寄ってみたのがこの古書ほうろう。まだまだ谷根千モグリなだけにこの古本屋に入ったのも恥ずかしながら初めてだったのだが(前を通ったことはあって気にはなってたのだけど)、谷中を生活拠点にし出したら間違いなく何度となく通うことになるであろう私にとっては充実した品揃えだった。
展示の方はUZOメンバーによる原画や絵が店頭・店内の至る所に飾られている。というか、お!こんなところにもあったぞ!と書店内でどこに作品が置かれているのかを探す楽しみもちょっとある感じだった。それだけ作品が古書店の日常風景(インテリア)に溶け込んでいるとも言えるわけだ。個人的にはポケットティッシュに入ってる絵、というか、そうした絵がポケットティッシュに入って置かれてるその雰囲気が好きだった。
尚、時間がなかったこともあって、店番されてた方にはうちのDM渡すだけであまりお話しなかったのだが、そのとき話した女性が「古書ほうろうの日々録 」というブログをされてるのかどうか? 芸工展絡みでも「UZO展が始まってるよ。 」「UZO展大盛況です! 」「谷中芸工展、あと3日。 」とエントリーされている。大通りなれども、不忍通りも掘り出していくとまだまだ侮れないものが見つかりそうである。
谷中芸工展2006 【98(鯉) 古書ほうろう: オルタナマンガミニコミUZO展 】
芸工展期間中、田中六大編集ミニコミUZOメンバーによる原画や絵の展示。
新作もあり。期間外10/9, 18:00〜友部正人ライブ「夜の本屋」(要予約)。
第三火曜休/平日10:00〜23:00 日祝12:00〜20:00 文京区千駄木3丁目
⇒古書ほうろう - 谷根千ねっと
⇒古書ほうろうの日々録
⇒漫画ミニコミUZO
【写真上】2006.10.21 11:38, 千駄木・不忍通り/古書ほうろう前
【写真下】2006.10.21 11:41, 千駄木・不忍通り/古書ほうろう店頭 UZO作品
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2006年11月01日 (水)
さて「谷中芸工展2006巡り 」で「個人的に印象の強かったところを幾つかピックアップして、追々個別にエントリー」としてみたものの、どのように紹介していくべきか?
私にとっては芸工展巡りのほとんど一番最後の方で回った場所であったが、まずは千駄木のすずらん通りの一角を利用して展示されていた中原絵亜 さんの「空の日記(詩展)」から取り上げてみたい。この企画、捉えようによっては今年の芸工展で唯一(?)芸工展そのものをモチーフとした非常にメタ色の強い企画なのである。
すずらん通りという名称は芸工展マップ上に明記されていない(以前のはあったらしい)のだが、よみせ通りを谷中ぎんざよりもさらに北上して向かって左手3本目の不忍通りとの間の道のことを言う。東京の商店街を歩こう「文京区/千駄木3すずらん通り商店会 」の言葉を借りれば「夜の店」の商店街とも言うべき、スナックや料理屋の並ぶ小さな街路で、おそらく私は今回初めてここを通ったはずだ。午前中だったので閑散としていたが、夜は下町の中の一つ裏に入った世界の小さな賑わいを見せているにちがいない。
中原絵亜さんの企画は、そんなすずらん通りの少し奥まったところのスペースを利用してトタン塀には今年の「空の日記」を、その向かいのドアを開くと階段のみが存在する不思議なスペースでは去年の芸工展での日記や詩、また今年の芸工展で開催中の他の企画のDMが階段をうまいこと利用して展示されていた(谷中M類栖/1f のもあった)。
「空の日記」というのは、芸工展期間中の「毎日の空」の写真に「毎日の詩」を書き込んでいくというものである。つまりそれは毎日一枚ずつ増えていくというわけだ。ただ、詩の書かれてない空の写真が二日分すでに吊されてたけど、あれはスペース確保用だったのだろうか?
とまあ、そんな細かいことはさておき、それらが洗濯鋏で干されたようになっているところが何とも愛嬌があって楽しかった。
また、向かいのちょっと入っていいのかな?って感じの2つ並んだドアのうちの一つも開けて中に入れるようになっていて、さきほども書いたように入っていきなり階段があって、階段を上がるとそのまま行き止まりになっている(もちろん上った先にはドアがあって、平常は居住空間用の階段として使われているのだろう)。
その階段一つ一つに並べられた他の企画のDMを見ていると、この作家さんは会期中に芸工展をいろいろと回られて、そうして回った経験それ自体を作品化されてるんだなぁということがしみじみと感じられる。マップ上では隅っこなのだが、今年の芸工展が濃縮されてここにあるといっても過言ではないだろう。そして、それが5年間続いてきてるというところが何とも感慨深い。
作家ご本人とはその場では会えなかったが、そこから程ないところで偶然出くわし、挨拶を交わした。なぜ互いに顔を知っていたかといえば、すでにご本人は谷中M類栖/1f ご訪問済みだったからである(笑)
谷中芸工展2006 【94(躍) 中原絵亜: 空の日記(詩展) 】
すずらん通りの一角で詩を展示します。皆さんも書いていってください。
家の前のトタン塀と中の階段で行います。どうぞ扉を開けてご覧ください。
期間中無休/11:00〜19:00 文京区千駄木3丁目
⇒中原絵亜さんの公式サイト?: 中原絵亜のページ
【写真上】2006.10.21 11:28, 千駄木・すずらん通り/94.中原絵亜: 空の日記(詩展)
【写真中】2006.10.21 11:24, 千駄木・すずらん通り
【写真下】2006.10.21 11:26, 千駄木・すずらん通り/94.中原絵亜: 空の日記(詩展)
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2006年10月31日 (火)
今月はどうしてもベスト10にランクインしてほしい検索ワードがあったのだけど、無事9位に滑り込んでくれた。谷中芸工展…10月はこれに明け暮れた月だったと言ってもよい。それに「谷中芸工展」でググると公式サイトに次いで2番目にこのブログが出てくる状態なので、谷中芸工展の面目に掛けても登場してもらわないわけにはいかなかったのである。…と誰に気を遣う必要もないのに、ホッとしている自分って一体?(汗)
他方でここ数ヶ月ぶっちぎりでトップを快走してきたドラマ「結婚できない男」が放映終了と共にガタッとランクダウンしてしまった。ドラマのアドバイザー役もされていた建築プロデューサーの朝妻さんも「あ〜ぁ、やっぱりね! 」で似たようなこと書かれているが、こうした現象もまたテレビの力の裏返しとでも言うべきなのか?(^^;)
谷中 2.3% 上棟式 2.1% 高過庵 2.0% グヤーシュ 1.7% 結婚できない男 1.6% 遊郭 1.4% 軍艦アパート 1.3% 藤森照信 1.1% 谷中芸工展 1.0% 板塀 0.9%
2006年8月の解析結果はこちら から。
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2006年10月30日 (月)
なんだかまたバタバタし出してきていて、丸井金猊リソース紹介はおろか、主に午前中に巡った谷中芸工展の他の参加企画のことも書くのが遅延して行きそうな気配濃厚である。とはいえ、幾つかの企画のところではエントリーさせてもらいますね!などと言ってきてしまっているので、とりあえずは遅れそうな旨、言い訳のエントリー(汗)
「雨音と共に終了す 」でも書いたように、うちは午後2時スタートという緩い時間設定にしたおかげで、午前中に少しは他の企画を見て回る時間を作ることができた。それでも大抵の場所では、互いに企画参加者同士ということでつい話がはずんでしまい、1日で3つ4つ程度しか回ることはできなかったのだ。そんなわけで、必ずしもたくさんの企画を紹介できるわけでもないが、まあ、個人的に印象の強かったところを幾つかピックアップして、追々個別にエントリーしていけたらと考えている(ちなみに既に「一服して最終日を 」のエントリーで40番「マクケノエン」は紹介済み)。
尚、各企画まわっていて何かと話題になったのが、自分のところで参加してしまうと他の企画を見に行くことができないという悩みと、谷中M類栖のブログ見てますよ!という話だった。後者は嬉し恥ずかしという以上に、固有の場を晒して書いているだけにその顔が知れるともう下手なこと書けないなというプレッシャーが少々。それと自分が大阪在住であることを話すとなぜに谷中の話題にたまに大阪の話題が混じるのかという疑問が晴れるのだった(笑)
ちなみにスタンプラリーは私と母はしっかり10個集めて今年の景品「芸工展オリジナルエコバッグ 」をゲット! ふだん手ぶらであることの多い私ですが、このバッグは底が安定していて、なかなか使い勝手もよろしい(ウッくんがちょうど入る )ようです。
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2006年10月26日 (木)
1932(昭和7)年に描かれた『南天絵圖 』は、サイズ W725×H1,200mmで、絹本に着彩・軸の仕様。保存状態は前回紹介した『鷺圖 (仮) 』よりはマシな環境といえるだろうか? 一応は桐の絵具箪笥の下段抽斗の中に絹本を丸めた状態にして包装紙で包んで収められていた。タイトル・年数情報はその包装紙に祖父がペン字で書き記していたものによる。表装は昔から何かとお世話になっている三鷹の飛高堂にお願いした。
1932年というと祖父が東京美術学校の日本画科を卒業する前年にあたり、学内の課題として描いていた可能性も高い。そう思って同期の花である杉山寧氏のアーカイヴを調べてみたところ、『南天図 』という作品を1929(昭和4)年に描かれていることがわかった(鎌倉大谷記念美術館 蔵)。しかし、3年早く描かれている上に葉の色付き方もまるで違う。学内の課題で描いたと早急に結論づけるのはちょっと難しそうだ。
右の画像が『南天絵圖 』の表具を除いた全体像を複写したもので、丸井金猊リソースの中でもとりわけ描写の細密度が高いものであることは画像をクリックしてこちら にアクセスすれば、実物をご覧になられたことのない方でもある程度は理解できるはずだ。実際、この時期の動植物を中心とした静物画を、コンセプチュアルな画題を求めた活動期後半(といっても20代後半だけど)の大作よりも好まれる方は意外と多い。それは画のリアリティをどこに求めるかによっても違ってくるのだろう。
私個人が興味深く見ているのは、冒頭で掲載した南天が実を付けた部分のディテールである。これもほとんど実物大となる Largeサイズ にして見てもらうとより一層わかりやすいだろうが、実の幾つかの塗料が剥離し、下塗りした明るい朱色が浮き出ててるように見える部分があることにお気づきいただけるだろうか? 私にはその塗料の剥離した調子がより一層南天の実をリアルに見せることに貢献しているように感じられるのだ。それは祖父が最初から剥離を想定して描いていたのか、それとも剥離したように敢えて見せかけて描いたのか(つまり剥離していないということになる)、そこのところはよくわからない。ただ、どうも out of control のボーダーラインをさまよう事象に心吸い寄せられがちになってしまうのは私の体質とでも言うしかない(汗)
ところで今回の展示では大作屏風『壁畫に集ふ』に、新しく出てきた『霜晨』『芥子花圖(仮)』、あとは常設状態になってる『鷺圖(仮) 』を出すということが決まっていた以外は現場判断で展示物を決めようということになっていた。それで芸工展の行われている秋だからということで、季節に合わせて南天、百合、椎茸、西洋芙蓉といったモチーフの画が選ばれることになった。まあ、芸工展の行われる季節は毎年秋なので、毎回秋モノを選んでいたらすぐネタ切れになってしまうとも言えるのだが。。
ともあれ実家には三鷹金猊居から持ってきた南天の鉢が、2Fのバルコニーに置いてあり、展示期間中、まだ『南天絵圖』のような実までは付けなかったが、徐々に葉を色づかせ始めていた。いよいよ秋も本格的に深まっていきそうな気配だ。
【写真】2006.10.22 10:21, 谷中M類栖/2f バルコニーにて
【補遺】展示終了後に、祖父が遺した下絵を再確認していたら、この『南天絵圖』の下絵も出てきたのだが、驚いたことに上記の軸装した『南天絵圖』はその下絵の左半分で、実は鳥の描かれた右側半分があったことが判明したのだ(下絵画像 参照)。以前に下絵もすべてチェックしたつもりでいたのに、すっかりその事実を忘れていた。こういうものはしっかり情報整理して書き残しておかないといけない。
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1f
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2006年10月24日 (火)
ふだんは所在地・時刻情報等をなるべく正確に記すよう心掛けている谷中M類栖であるが、このエントリーでは写真だけでノーコメントってことで(^^;)
【追記】2007年1月12日に再び撮影した写真に興味深いモノが写っていたので追加。
棟上げ前後と覚しき2棟の建物は果たしてどのようになっていくのか?
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10月22日の「雨音と共に終了す 」のエントリーでも書いたように、芸工展自体の最終日は終日雨が降り続いていた。ただ、谷中M類栖/1f はその日を片付け日に当てていたので、雨のおかげでどこも出掛ける気にもならず片付け作業に集中できたとも言える。雨が降っていなければ、おそらくは近場で行き損ねていた時夢草庵 と午後からしかやっていなかった谷中ホテルを見に行ってしまって、片付け作業も一日で済ませて24日の昼過ぎに帰阪の途に付くこともできなかっただろう。
そんな秋雨を降らす原因となっていたのが、関東南岸を通過していた低気圧である。帰りの新幹線ではこの低気圧の影響で低い雲が物凄い勢いで動いていて、窓の外を見ていて全然飽きなかった。車両の左右でも全然雲行きは違うし、トンネル一つ抜けると空の様子が一変したりする。8月8日エントリーの「cloud 88 」では台風の影響で東京でも大阪でもブログ騒然の空となっていたことは触れたが、この日の空の面白さはその形よりも変容ぶりの方にあったので、ブログでそれを言及するとしたらおそらくは日中に新幹線に乗っていた者だけに限られるだろう。
冒頭の写真と以下の写真は小田原より少し前あたりを走っていたときに撮影したものでその時間差はたったの1分しかない。共に太平洋側の車窓を撮ったものだが、空の様子はたったの1分でこれほど違ったのである。雲の低さも伺えるはず。
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2006年10月22日 (日)
谷中芸工展はここ2年、雨に祟られていたらしい。終了後のアンケートでも雨が降らなきゃ…という声が多かったらしく、今年は台風シーズンを避けた2週遅れの10月14日スタートとしたことが大正解だったようだ。実行委員日記「芸工展最終日 」にもあるように最終日前日22日の16時過ぎくらいから最終日終了までは降られてしまったが、それ以外の日は概ね晴れやかな日が続いてくれた。開催時期をずらしたことで、例年は同時開催的だった art-link とは14日・15日の2日間しか重複しなかったが、それを差し引いたとしても、マップ片手に回る芸工展にとって天気という条件は大きい。
谷中M類栖/1f は私が大阪から出向かねばならない都合上、芸工展の会期より1日遅く始まり、1日早く終了というスケジュールにしていたため、幸運にも雨に祟られたのは終了間際のほんのわずかな時間のみ。というか、土日はうちの展示スペースの面積からするとどう考えても定員オーバーの状況がずっと続いてしまっていたので、終了間際を静かに収めてくれたのはむしろ恵みの雨だったと言えるのかもしれない。
会期だけでなく、開始時間もうちは14時からと遅めの設定にしていたが、それは午前中に他の参加企画を見に行けるという点で正解であり、午前中にうちの近くを通った人を拒むことになってしまったという点で失敗だったと言えるだろう。まあ、うちが初めての参加で、まずは様子見のつもりで臨んでいたということからすると全体を見通せたという意味では正解要素の方が強かったかもしれない(もう一つは体力的な面でも)。
おおよそ準備の片が付いた10/16(月)〜20(金) まではなるべく積極的に他の参加企画を回るようにした。まあ、積極的にとはいっても、一企画を見る時間が思いの外長くなってしまって、そんなにたくさん回れたわけでもないのだが、、これはうちも企画参加してるせいか、とにかくどこへ行っても話が長くなってしまうのだ(笑)
というか、うちに来てくれたお客さんも企画参加していなくても、長居して行かれる方が多かったので、一企画で長居というのは芸工展ならではの特色なのかもしれない。まあ、スタンプラリーだけして帰って行く方ってのもそれなりにいたのだが(汗)
後半になると増えたのが「ココには凄いモノがある」という噂をどこかで耳にしてやってきてくれたお客さんだった。噂元が幾つあるのかはわからないが、こういう噂が立つということ自体なかなか嬉しいものだ。まあ、こんな感じで、丸井金猊リソースが徐々に谷中という場所で定着していってもらえればと思っている。
会期中、結局できなかったリソース紹介や、午前中に見て回った他の参加企画については幾つか気になったものなどを改めて個別にエントリーしていきたいと思っている。また、見に来てくれたブログ仲間の何人かが谷中M類栖/1f「丸井金猊リソース ver1.0」をネタにエントリーしてくれている。我が家のケヤキの把手を引いてくださった皆様、差し入れをくださった皆様と共にここにリンクにて謝辞とさせていただきたい。
・sympathy 〜共感〜: 谷中M類栖/1f (2006.10.08)
・Abejas e Colmenas: 谷中M類栖/1f (2006.10.09)
・Barcarolle: 写真と絵と食の魅惑の谷中ツアー (2006.10.15)
・sympathy 〜共感〜: 谷中M類栖/1f と谷中芸工展 (2006.10.16)
・Abejas e Colmenas: 午後の谷中 (2006.10.17)
・posinega: 秋の個展めぐり(1) (2006.10.17)
・谷中芸工展実行委員日記: 芸工展6日目 (2006.10.19)
・Kai-Wai 散策: 谷中M類栖 /1f (2006.10.20)
・家作りその他つれづれなく: 谷中M類栖/1f[丸井金猊リソース ver1.0]/谷中芸工展つれづれ (2006.10.22)
【写真】2006.10.21 23:56, 谷中M類栖エントランス(この写真は前日夜のもの)
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2006年10月21日 (土)
明日で谷中M類栖/1f は谷中芸工展よりも一足お先に(一日早く)終了。
で、あと一踏ん張りということで、ちょっと一服って感じのエントリーを一つ(笑)
谷中M類栖/1f は芸工展マップでは38番という番号が割り当てられてるんだけど、一つ間を空けて40番のマクケノエンでは図画工作愛好家の佐藤直樹さんの粘土人形(?)が気持ちよさそうにお灸で一服中 。
いっきゅうさん に いっぷくさん
あわてない あわてない
ひとやすみ ひとやすみ
イコアン
あと1日。こんな感じ で過ごせたらな〜と思うけど、無理やろな(^^;)
ちなみにマクケノエンのフラッグバッチは「蝶」。
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2006年10月20日 (金)
時すでに遅しの感もないでもないが、芸工展マップを玄関先に貼ってみることにした。展示が始まる前の午前中を利用して、なるべく他の参加企画も見に行くよう心掛けるようにしていたのだが、芸工展マップは地図が企画説明の裏面になっているため、町中で両方を照合するのに結構苦労することが多い。サイズが大きいので、マップを広げたときに風が吹くと思い切り煽られるし、細い路地や小さなお店のなかでも、広げるのにはちょっと向かないサイズなのだ。そんなとき、本部の蒲生邸脇や初音すまい研究所 前にマップが貼ってあったのは非常に重宝した。この状態なら、企画説明の解説をマップを見ながらちゃんと確認できたのである。
そんなわけで前日訪問された実行委員さんにうちでもマップを貼りたいので、真ん中に切り込みのないマップを購入できないか聞いてみたら、本部に残部があったはずなので取りに行ってほしいとのこと。本来マップは企画参加者も購入することになっているのだが、公的に貼る用だということで無料で一枚いただけた。
早速貼ってみると結構通り掛かりの人でマップを見ていく人は多い。・・ということが確認できるのはうちの玄関ドアには採光用のスリッドガラス を入れていて、ちょうど展示スペースのデスクに腰掛けるとその間からマップを見に来た人が覗ける恰好になっているのだ。こんなことならもっと早くにマップを貼っておくんだったという以上に、企画参加者にも切り込みなしのマップをそれぞれ配って、なるべく表に貼って貰うようにしてもよかったのではないか?と思う。そうすると次の企画に梯子するのがかなり便利になったはずだ。
尚、谷中M類栖/1f ではマップを貼る段階で自分のところがスタンプラリーをやってることを知らせるために、広島のもみじ饅頭で有名なにしき堂 の焼き餅咲ちゃん の協力を得て「スタンプラリーやってます」と記している。
【写真】2006.10.22 11:39, 谷中M類栖エントランスにて
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2006年10月19日 (木)
本日、谷中芸工展2006 の実行委員さんが見え、ひょっとするとうちのバルコニーの外壁に張られたポスターが今芸工展中、一番高いところに張られたポスターじゃないか?とのお話。なるほど、そんなことは全く考えたことがなかったけど、谷中は全体的に低い建物が多いので、その可能性は高いのかもしれない。加えてうちは谷根千でも最も海抜の高い立地にあるので、海抜で考えても一番高いのかもしれない(笑)
ただ、写真からもわかるように、こういうのを見るともう一回り大きなポスターを作った方がよかったかもしれませんねということを実行委員さんの方から言われた。どうも町のポスターを張らせてもらえる掲示板のサイズ規定があるらしく、それ優先で大きさは決まってしまっていったらしい。個人的には A4サイズのチラシがあったらな〜とは思ったが(それを何枚も張るって手もあるので)、そこは予算の都合もあるのだろう。
ポスターのデザインに関しては初見時のエントリーで「ド派手な 」と書いたけど、それ故に町中ではそれが目印としてしっかり機能して、非常に良かったのではないかと思った。もちろんディテールを見れば漢字が散りばめられて渋いところもあるんだけど、基本的にこういうもんは渋さよりも少し派手過ぎるくらいを追求した方がよさそうだ。
この日のことは実行委員会日記「芸工展6日目 」でも取り上げられ、「自宅を公開して参加をして下さっている方々には本当に感謝」ということは訪問中にも言われていた。意外と自宅公開の数は少ないらしい。言われてみればそんな気もする。数年前に回ったときに印象深かった自宅公開のお宅も今年は参加していなかった。まあ、実際に今回、初めて自宅の1階を公開という形で参加してみて、それなりの難しさ(課題)を感じなかったわけではない。それについてはまた改めてエントリーしていきたい。
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2006年10月15日 (日)
谷中M類栖/1f 、なんとか告知した10月15日の14:00 までに片付け&展示作業を終え、無事オープンさせることができました。初日からお越しいただいた皆さん、大変ありがとうございます。ただ、せっかく初日にお越しいただいたのに大変申し訳ないことに、丸井金猊リソースの展示リストとプロフィールを記した用紙の準備が間に合わず、それをお渡しすることができませんでした。同用紙の PDF ファイル(2.7MB) をサーバ上にあげておきましたので、よろしければこちら からダウンロードしてみてください。
尚、以下は初日を終えての所感(以上で「ですます」調は終了)。
・予想通り、玄関ドアホンを鳴らして入ってもらうという状態は敷居が高すぎた。
・靴脱ぎ〜スリッパへの履き替え指示が難しい。スリッパは下にあった方がいいかも?
・スタンプラリーだけを目的にしてる人もいるので、入口すぐのところに置くべきか?
・スタンプラリー用のデスクが小さすぎた。
・芳名帳は思いの外、住所まで書いてくださる方が多かったが、やはりご近所ゆえか?
・撮影禁止の札を母が付けていたが、文字情報が絵と喧嘩してないか、ちょい疑問。
・3組以上のお客さんが入ったときの対応がなかなか難しい。
・入口脇の軸がドアの風圧で揺れる(neonさん のご指摘)。場所or押さえ要検討。
・思った以上に気を抜ける時間がない。うちは開館時間が短いから午前中に出まわれる
けど、終日オープンにしているところは他のところを見に行くことができなさそう。
と以上が概ね本日気づいた点。
明日は平日で art-Link も終わってしまっているので、客足もだいぶ遠のくのでは?ということで、誰も来ない時間を有効利用して、上記課題の修正をはかっていく予定。夜は芸工展参加者たちが集うパーティーで、そこで初めてのご挨拶ということになる。
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2006年10月14日 (土)
芸工展の準備をしていたら夕方過ぎに玄関からパサッという音が‥‥。
夕刊や郵便にはちょっと遅いだろうと思って見に行ったら、郵便受けに届いていたのは台東区谷中坂町々会の回覧板だった。今住む大阪のマンションはもとより、三鷹でも見たことなかったのに、さすがは下町・谷中と言うべきか?
しかし、中を見ると専ら広告が主でお知らせ事項はほんのわずかだった。
でも、可能であるなら、これにうちのDMを副えたい気分である(^^;)
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本日、谷中芸工展2006 が始まりましたが、
谷中M類栖/1f「丸井金猊リソース ver1.0」 は明日10/15(日) 14:00 からです。
本日ご訪問されても、まだ準備中ですので、お間違えのなきよう、、
というか、準備中=片付けが今なお終わらず、明日ホンマに始められるんかい?といった状況。これからオープンまでオフライン状況が続く可能性も高く、メールやコメント等ご対応が遅くなるかもしれませんが、その旨ご容赦ください。
それにしても会期前に丸井金猊リソース紹介とか、もう少ししたかったのだけど、1週間以上、家を空けるツケは大きく、ほとんど何もできぬままになってしまいました。会期中に余裕があれば、また展開していく予定です。
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by m-louis :
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2006年10月13日 (金)
谷中芸工展スタンプラリー 用の印肉、紫色のを大阪の100円ショップで買って行ったんだけど、少々色付きが悪い。やはり安物は安物ということか?(泪)
紫色を選んだのは、マップの地色に緑が多いので、そこから少々遠い色の方がよいかと思ったからだ。ただ、保護色の赤まで行くと行き過ぎかな?と。。
ちなみに私が押して回った中では黒が一番多く、そして一番しっかり発色していた。安物でない黒は家にあったので最初からそちらを使えば良かったとちょっと後悔。
それにしてもスタンプラリーをゲットするためだけにチャリで界隈を走り回ってるガキんちょ共がいたとはね(^^;)
何となく彼らの元気ぶりに押されて、最初は靴脱いで家に上がらないと押せなかったスタンプを玄関すぐの靴履いたまま押せる場所に移動してしまった。さてはて、どっちがよかったんだか??
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2006年10月07日 (土)
これから会期までの間に今回展示予定の金猊リソースを何点か紹介していこうと思う。
まず最初に展示が確定しているものとして、この「鷺圖 (仮) 」から取り上げてみたい。
「鷺圖 (仮)」は (仮) が示すようにタイトル不明、作品として完成しているのか、未完成なのかも不明なリソースである。「鷺圖」という仮のタイトルは分類のために私共遺族が仮に付けている。そうしないとタイトル不詳ばかりで整理が大変だからである。
サイズはW1,300×H1,300mmで、絹本に着彩の額装。ひょっとすると祖父は軸想定で描いたのかもしれないが、130cmの本紙に地の余白スペースを考えると相当横幅を広く取られることから表具屋さんのアドバイスにより額装となった。
制作年も同じく不詳だが、線描写に余裕と遊びが感じられること、また鷺という単一モチーフではあるものの、それを複雑に絡ませて画面を構成していることから、屏風や壁画などの複数モチーフを扱った大作を描くより前のもの(1930〜35年・20〜25歳)ではないかと思われる。ただ、構成という側面のみで見るならば「鷺圖」の方が単一モチーフで色数が少ない分、構成そのものの醍醐味はダイレクトに伝わるだろう。
と同時に画面中央の鷺が混み入ってるあたりは鷺の頭・胴体・足の繋がりが目で追っていくうちにどんどんわからなくなってくるので、それもまた興味深いところである。一見すると鷺の群れを描いたように思えるだろうが、頭数と足数が厳密に揃わないところを鑑みるに、これは群れを描いていたのではなく、一羽の鷺を複数の時間軸において捉え、それを一画面に落としたと空想してみるのも面白いかもしれない。
すると「兵庫県美のジャコメッティ展 」のエントリーで、ジャコメッティの絵画について書いたのと同様の高速アニメ一コマ落としの原理(「鷺圖」の場合は低速だけど)がここに見出され、レイヤー上の奥行きとは別種の、動きの中から生まれる空間が読み取れるようになってくるだろう。
・・と、そんな妄想に至ったのは、そもそも鷺って群れでいることあったっけ?と思うほど、私が街や田舎で出くわす鷺はいつも一匹狼鷺だったからなのだが(^^;)、ところが試しに「鷺の群れ」でググってみたらあっさりイメージ検索で幾つも写真が出て来るではないか! 祖父はやっぱりフツウにただ群れを見て描いてただけなのかもしれない。
ちなみにこの「鷺圖」、落款もなければ、そもそも見つかったときの状態もいい加減極まりないものだった。なんと!三鷹金猊居のお蔵の天井下、梁と梁の間に渡した板の上に要らなくなったポスターやカレンダー同然の扱いでポイっと置いてあったのである。実物を見れば幾つか黒目がないことに気づかれると思うが、それは発見直後に丸まった絹本を開いたら、ポロッと落ちてしまったのであった(汗)
ついでにこぼれ話を一つ。flickr contact の otarakoさん の写真で知ったのだが、この世には「鷺草 」なる植物もあるらしい。
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2006年10月04日 (水)
1909年愛知県に生まれる。本名 丸井金蔵。1933年東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科卒業。'35年同校研究科終了。市立川村女学院美術科、埼玉県立浦和第一高等女学校教諭を経て、'47年東京美術学校工藝科講師。'48年より以後20年以上に渡って神奈川県立工業高校工芸図案科(のち産業デザイン科)教諭を務める。
和洋エジプト入り乱れた独特の画風で、学生時代より旺盛な創作活動を見せるが、30歳に差し掛かる頃、時代は戦争へと暗転。以後ほとんど自作品の創作に向かうことなく、晩年を迎える。神奈川工業高校退職後、「死ぬ前に一度個展を」と再び絵筆を握り始めるが、1979年心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて急逝(享年69歳)。
1930年国際美術協会主催第一回美術展覧会入賞主席。主な仕事として'35年愛国生命保険(のち日本生命保険)壁画製作、'37年には阪急電鉄の創業者である小林一三氏の委嘱により東宝劇場階段ホール壁画製作 (火災により焼失)などを行っている。
以上は、1997年10月に三鷹市美術ギャラリーで開催した「丸井金猊とその周辺の人たち展」のチラシで掲載した祖父のプロフィールに一部加筆したものである(チラシをお持ちの方はどこを変更したか較べられると面白いかもしれない)。
この文章を書くにあたっては以下に転載する祖父本人が書き記した履歴書の他に、メモ帳や祖父のところに届いた手紙、また祖父の実娘である母や親戚の話などを参照した。
本来であれば、約40年に渡って連れ添った祖母に話を聞くのが一番なのであるが、事実上、祖父の遺作展を企図したのが脳梗塞で約3年間寝たきりを続けた(ほぼ喋ることもできなかった)祖母が亡くなってからだったので、どうにもならなかったのである。端から見れば何でもっと早くにと思われるだろうが、そもそも私が超無気力高校時代などを送ってしまって、祖父の早熟ぶりとは対照的にあらゆることに目覚めるのが遅かったのだからやむを得まい。だからといって、あの無駄に過ごした高校時代をやり直したいとも特には思わないのだが(無駄で馬鹿なりのよさがあったし)、やはり一つ惜しむべきは祖母からの情報収集がまるでできなかった点だろう。
「和洋エジプト入り乱れた独特の画風 」なんてのも今からするとかなり恥ずかしい表現だけど、まあ、事実でもあるので、そこはそのまま掲載した。でも、「入り乱れた」というよりは「異物をうまいこと構成した」と言った方が適当かもしれない(笑)
以下、転載する履歴書は基本的に祖父の記述をベースに西暦と年齢を添えただけのものであるが、最後の個人略歴と遺作展歴は私の方で新たに追加している。
□◇
丸井 金猊 履歴書
雅号 丸井金猊(キンゲイ) または 金臣(キンシン ※最初期)
本名 丸井金蔵 1909.10.19(明治42年10月19日)生
■学歴
1928.03(昭和 3年) 愛知県立工業学校図案科卒業
1928.04(昭和 3年) 東京美術学校日本画科入学
1933.03(昭和 8年) 東京美術学校日本画科卒業(修業年限5ヶ年)
1935.03(昭和10年) 東京美術学校研究科卒業(修業年限2ヶ年)
■画歴並びに業務略歴
1930.06 国際美術協会主催第一回美術展覧会に出品、入賞首席
昭和 5年・20歳(画題「菊」二曲屏風半双、東京平尾賛平氏買上)
1931.06 国際美術協会主催第二回美術展覧会に出品(無鑑査)
昭和 6年・21歳(画題「閑庭」二曲屏風壱双、公爵近衛文麿氏買上)
1933.03 東京美術学校卒業成績作品
昭和 8年・23歳(画題「菊花讃頌」二曲屏風二双連作、外務省政務次官瀧正雄氏買上)
1934.10 愛知社主催東都在住作家日本画展覧会出品
昭和 9年・24歳(画題「麗人散策」衝立、公爵近衛文麿氏買上)
1935.04 東京、私立川村女学院美術科講師並びに常任幹事職員
昭和10年・25歳(1941/昭和16年6月退職)
1935.11 愛国生命保険株式会社(社長原邦造氏)の委嘱に依り壁画製作
昭和10年・26歳(画題「奏楽」竪、幅共ニ十尺)
1937.05 (株) 東宝劇場(社長小林一三氏)の委嘱に依り同劇場階段ホール壁画製作
昭和12年・27歳(画題「薫風 」=騎馬婦人群像図、竪十尺、幅十八尺)
1942.01 東京、私立帝都学園高等女学校講師
昭和17年・32歳(同年3月退職)
1942.04 埼玉県立浦和第一高等女学校教諭
昭和17年・32歳
1945.12 埼玉県立浦和第一高等女学校勤務、高等官待遇(内閣)、地方教官二級
昭和20年・36歳
1946.10 浦和日本画家協会幹事並びに浦和市文化連盟会員
昭和21年・36歳
1947.04 東京美術学校講師を嘱託 工藝科勤務
昭和22年・37歳
1948.04 神奈川県立神奈川工業高校教諭 工芸図案科 勤務
昭和23年・38歳(1971/昭和46年3月退職・61歳)
■個人略歴
1909.10.19 愛知県葉栗郡北方村大字中島で丸井貝二・みわの三男として生れる
明治42年・0歳(現・愛知県一宮市北方町中島/兄弟は9人兄弟姉妹)
1928.04〜? 東京美術学校日本画科入学後、暫く谷中清水町に下宿
昭和 3年・18歳
1930.01.05 長兄・久右エ門、病没(享年28歳)
昭和 5年・20歳
1935〜 東京美術学校日本画科卒業 、この頃、親友・宮内秀雄 氏と知り合う
昭和10年・25歳(宮内氏はコンサイス英和辞典の編者で知られる英文学者)
1937.03.02 茅野さだゑと結婚
昭和12年・27歳(戸塚から下落合に転居)
1938.10.23 父・貝二、死去(享年70歳)
昭和13年・29歳
1939.03.23 弟・末太郎 、戦病死(享年24歳)
昭和14年・29歳
1939.11.03 三鷹金猊居、上棟
昭和14年・30歳(下落合から三鷹に転居/三鷹金猊居は金猊本人の設計)
1941.04.09 母・みわ、死去(享年63歳)
昭和16年・31歳
1942.04 戦争のため、一時的に三鷹金猊居を空けて浦和に疎開
昭和17年・32歳
1944.02.28 長女・美鷹 、誕生
昭和19年・34歳(浦和の疎開先にて)
1944.11.17 弟・了二、戦没(享年26歳)
昭和19年・35歳
1946.11.28 次女・鏡子、誕生
昭和21年・37歳
1970.11.24 初孫・隆人 、誕生
昭和45年・61歳(三鷹市村越産婦人科にて)
1972.03〜06 東村山市緑風荘に入院療養
昭和47年・62歳(病院からの手紙 )
1979.07.12 心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて死去(享年69歳)
昭和54年・69歳
1995.11.12 妻・さだゑ、三鷹市篠原病院にて死去(享年87歳)
平成 7年(脳梗塞から肺炎等を併発)
2003.08.05 妹・八恵、愛知県江南市の病院にて死去(享年91歳)
平成15年(金猊最後の兄弟姉妹)
■遺作展歴
1997.06.18〜06.22 「≪所有≫の所在」展(三鷹市美術ギャラリー)
平成 9年(屏風「壁畫に集ふ」の完成作とその下絵を並置)
1997.10.22〜10.26 丸井金猊とその周辺の人たち展(三鷹市美術ギャラリー)
平成 9年(当時発見済みの全リソース約60点をゆかりの人々の作品と共に公開)
1999.01.08〜01.17 飛高堂表装 丸井金猊 展(ぎゃれりぁ飛高堂)
平成11年(三鷹の飛高堂で表装した作品を展示)
1999.03.15〜03.19 丸井金猊展(東京丸の内・東京マリンギャラリー)
平成11年(副題:「閉ざされた成熟」のなかで/約50点展示)
2000.11.09〜11.13 浦和第一女子高等学校創立百周年記念美術・書道展
平成12年(伊勢丹浦和店7階アートホール/「白鷺圖」を出品)
2002.10.04〜10.13 家の中の金猊(三鷹金猊居)
平成14年(三鷹金猊居解体前の家そのものを展示空間とした展示)
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2006年10月03日 (火)
谷中M類栖の1階展示スペース名を「谷中M類栖/1f という名前 」にしたわけだが、
谷中芸工展に参加するプロジェクトの企画名は「丸井金猊リソース ver1.0」としている。これについても幾らかは説明を加えておいた方がよいだろう。
リソースとは「resource=資源」の意味で、現在にあっては IT 関連用語としての認知の方が圧倒的に強まってしまった感がある。実際、私が Web制作関連書籍で唯一影響を受けたと言ってもよい『スタイルシート Webデザイン 』の著者すみけんたろう氏のサイト名も「Ks Resource! 」であり、そのサイト内では「ホームページ」という和製用語の使用を批判し、その代案として「リソース」という言葉を提唱している。
まあ、その場合の「リソース」という言葉はあまり広まらなかったようだが、私は今回祖父の創作物をなるべく「作品」とは呼ばず、「リソース」として取り扱いたいという考えから「丸井金猊リソース ver1.0」というプロジェクト名を名付けることにした。
1997年に私は祖父の遺作展を初めて開催するに先立ち、「≪所有≫の所在」展という奇妙なタイトルの展示を行った。この展示では、祖父の屏風作品「壁畫に集ふ」とその下絵、また私の平面作品「おらないがみ」とそのプログラムを仕込んだPCという具合に、二つの完成作品とその創作過程を並置させ、作者と作品の間に生じ得る(あるいは幻想として生じているかに見える)所有関係を実験的に問おうとしていた。
しかし、それは事実上、そのあとに行う祖父の遺作展のための布石というか、祖父に対する言い訳のようなものだったのである。というのも、祖父が何も言わずに遺していった創作物の中には描き掛けのものもあれば、落款のないもの、また無造作に絹本のまま丸まって表装されてないものも多数存在していた。その中から私は祖父がどれなら自分の作品として認められて、どれなら認められないかという判断を厳密に行うことはできないと思ったし、そう思う以前に自分の感性に中途半端に頼って、曖昧な作品選別をするようなことだけはしたくないと思ったのである
そこで、半分は本気、半分は言い訳として行ったのが、祖父の手によるものと思われる遺品を出来得る限りナンバリング→データ化して、「作品」としてよりも、時代考証のための「資料・資源(リソース)」として提示するということだった。
そして、その考えは今もほとんど変わっていない。どころかインターネット時代の到来と共に、もはや祖父への言い訳として取り繕う必要性すら感じなくなってきている。
てなわけで、本展からはもう単刀直入に「丸井金猊リソース」と称してそれをシリーズ化し、今後は完全に自由なリソースの組み合わせとして展示機会を継続的に作っていきたいと考えている。ちなみにバージョンの小数点表示は、臨時の展示や企画延長なんてことを想定して融通を効かせやすいよう、設定したものである。
【冒頭画】「≪所有≫の所在」展で展示した丸井金猊 作『壁畫に集ふ』下絵・部分
※画像の上にマウスのカーソルを置くと、完成作の同部分が表示されます。
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