2006年02月28日 (火)
解体作業で伊東忠太の壁画にまで手を染め始めた「阪急コンコース」が1位から陥落。
代わりに前回4位に割り込んできた「玄関アプローチ」が首位に立った。こんな言葉で検索する人って結構いるんだね。「曙ハウス」はランクインしそうな気がしてたけど、26位止まり。それとトリノオリンピックのフィギアスケートについてちょこっと書いてしまったせいで GEDEVANISHVILI 選手の名前が終盤激しい追い上げを見せた。
- 玄関アプローチ 5.6%
- 阪急コンコース 5.5%
- 上棟式 2.4%
- グヤーシュ 1.6%
- 谷中 1.2%
- 梅田 1.1%
- 地鎮祭 1.0%
- 高過庵 0.8%
- 根津 0.8%
- 外構 0.7%
2006年1月の解析結果は
こちらから。
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2006年02月27日 (月)
flickr の ya maさんがアップされた桃林堂の鯛焼き写真に触発されてのエントリー。
ya maさんの行かれた桃林堂は表参道の青山店のようだが、同店は芸大横にも上野店を構え、私は2002年12月、まだ前任建築家との基本計画中に一度行っている。
2002年の12月といえばその前月に建築家の方から提出された焼き直しプラン(放射案と呼んでいた)に家族全員が首を傾げてしまい、どうにも立ち行かなくなってしまっていた頃である。そこで、その放射案をそのまま通してしまってよいのか、リアルに検証できないか?とこの計画の野次馬イラストレーター CT氏を引き連れ、三鷹から現地に赴いていたのである。やっぱり現場以上にモノを考えられる場所はない。ただ、その時はあまりに寒かったもんで、帰りしなに溜まらずこの店に入ったように記憶している。
で、当時は何の前知識もなかったので、確かずいぶん小さな鯛焼きだな〜と思いながらペロリと平らげてしまったような気がするが、何分3年も前の話なので味のことまでは忘れた。まあ、どっちかというと暖かい抹茶の方をありがたがってたような。。それと当時は古材の再利用について色々考えていた時期でもあったので、体が温まってきてからは店内の設えの方に意識は向いていた。我が家の施工をお願いした阿部建築が桃林堂上野店の改装工事をしていることを知るのはそれから1年以上も先の話である。
ちなみに桃林堂の公式サイトによれば、この全長8cmの小鯛焼には「とりたてて由来と言うほどのものはございません」と些か肩透かし気味のコメントが掲載されているが、それでも、この小ささの中に「桃林堂の大納言粒餡をいれて3日ぐらいは美味しく食べられるように」と贅と工夫が凝らされていることが記載されている。まあ、現にこの私もその小ささのインパクトにおいてしっかり記憶に留めているのだから、その点だけをとっても商品としては成功してるといえるのだろう。
余談ではあるが、三鷹には「甘味処たかね」という鯛焼き屋が古くからあり(昭和28年創業)、現在その店を切り盛りしているのは私の小学校の同級生らしい。らしいと書くのは卒業後1回も話していないのだ(^^;) だが、評判は上々らしく、公式サイトも立ち上げているようなので、ここにて宣伝。驚くべきは英語のみならず、フランス語、中国語のページまで用意してあることだろうか(中国語は準備中)。
ただ、一尾125円とは、、子供の頃は60円くらいで食べてた記憶があるんだがな〜。
次回、三鷹へ行く機会があればちょっと寄ってみたい。
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2006年02月25日 (土)
数年前まで私はフライト3時間以上の飛行機に乗ると着陸後に必ず体調を崩していた。離着陸時の急激な気圧の変化に体が過敏に反応してしまうらしい。あるとき、こうした症状には耳栓が効くという話を聞き、少し調べて「サイレンシア・フライト」なる2千円近くもする耳栓を買ってみた。上の写真を見てもわかるように3層の膜を耳孔に押し込むかなり特殊な形状の耳栓で、馴れるまでは若干耳が痛い。防音効果の方はおそらく普通の耳栓よりも相当高くて、エンジン音等の騒音が抑えられるのは良いが、同行者や機内アナウンスの声などが聞きづらくなるところが困るっちゃー困る。でも、2千円の威力とでも言うべきか、これ装着して以来、飛行機による体調不良が一気に解消されてしまったのだから、海外旅行には手放せないアイテムとなってしまった。
ところで去年、iPod mini を買って間もなく、せっかくだからちょっと贅沢なイヤホンもついでに買おうと色々物色していたときに、ドイツの ETYMOTIC RESEARCH社が出している「ER6i」というイヤホンがほとんどサイレンシア・フライトと同じ形状をしているということを知った。値段は2千円どころか1万円ちょいもするものなのだが、「あのアメリカのブッシュ大統領もオフでマウンテンバイクに乗る時には必ず GIRO のヘルメットに iPod & ETYMOTIC RESEARCHのER-6i」という商品説明に魅せられて思わず買ってしまった。だって、ネオコンのブッシュが新左翼系アップルの人気製品とセットで使ってるというアンバランスさは、それだけでも「オレ、ブッシュと同じもん使ってるんだぜ!」という超アホアホネタになるじゃーないですか!!(^^;)
で、肝心の使い心地はこれまたサイレンシア・フライト同様、馴れるまでに多少時間が掛かった。ちゃんと装着すれば音は漏らさず拾ってくれるのであるが、音が脳髄に響くとでも言ったらいいか、ちょっと漏れなさ過ぎで頭が痛くなってくるのである。ただ、結果的にこれも使ってるうちに馴れてしまって、音を漏らさず拾うってだけに外への音漏れもほとんどなく、まあ、ふだんひきこもりなんでそう頻繁に使うわけでもないが、これまた旅行には手放せない必携アイテムとなっている。
そして今回のフライト計13時間の中欧旅行には一応両方持参したが、使ったのは専らイヤホンの方で、充分それでサイレンシア・フライトと同等の役割を果たしてくれたと言える。特に行きの飛行機では父と席が離れてしまった上に、同列の通路側に座った人の鼾がうるさかったので、iPod 持って行っておいてよかった〜とつくづく思わさせられたのである。なお、写真のサイレンシア・フライトと ER6i の色が随分違うのは ER6i の方が使い込んでて、耳垢というか耳油で染まってしまったのである(汗)
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2006年02月23日 (木)
「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」の有志・協力メンバーたちと初のオフ会をしてきました。まあ、オフ会というより、伊東忠太の壁画も撤去作業に入ってしまった現在となっては残念会という方が相応しいものでしたが、こうした出来事を通して新たな人と人の繋がりが生まれ、また新たな活動の萌芽となりそうな予感もあって、全くの付け焼き刃な突貫起動ではあったけど、やってよかったとつくづく思ってます。
もちろん保存の訴え第一ではあったけど、活動を通してブログの展開法を模索する機会にもなったし、自分の仕事にフィードバックさせて考えても経験として非常に価値の高いものでした。あと、こうした活動を立ち上げたときにブロガー仲間たちが一斉に協力体制を作ってくれたのが本当に嬉しかった。これはここ数年で一番嬉しかった出来事と言ってもいいかもしれません。本当に皆さんには感謝しています。
しかし、オフ会に関しては私が発起人ということで幹事をやったんですが、携帯持ってない人間が幹事やるという点ですでに人選ミス的なところもあり、ネットで店予約する際に緊急連絡先と書かれた欄があったもんだから、メンバーの一人の携帯番号を書いておいたらそのことを本人に伝えるより先にそっちの方に確認の連絡が行ってしまったりして大いにヘマをやらかしてしまいました。改めてごめんなさい。
それからオフ会の席でも、まず自分が先頭切って自己紹介したら、その自己紹介がこのブログ同様長文化してしまって(阪急に対する想いとか話してしまったので)、私以降もその流れのまま、ほとんど自己紹介だけで3時間半過ぎてしまうという、それはそれで面白かったんだけど、端から見たら相当段取りの悪い会となってしまいました(汗)
まあ、集まったメンバーが個性派揃いで、私のダメ幹事ぶりも救われたと言いますか、梅田ウォッチングのスペシャリストがいたり、景観プレイに走る性別不明編集長がいたり、阪神間の近代建築にモッサ詳しい人物がいたり、嘗てひたすら字限図とにらめっこしてた特派員がいたり、手塚治虫マニアック奥様がいたりと、こう書き出しただけでも自己紹介だけで充分楽しめそうなことは伝わると思いますが、どうやらこの一見バラバラなメンバーで今後も集まれる一つのテーマは会の終盤でしっかり見出されました。
関西まち歩き・・そう、まさに私がこれからこのブログでやって行こうかと思っていたことが、そのまま実現することになり、これは充分関東のアースダイビング大会にも対抗できそうです(って、何を勝手に対抗意識燃やしてるんだ?って話ですが>笑)。
おそらく第一回は手塚治虫記念館を中心とした宝塚市ということになりそうで、ただ、アースダイビングのように最初からテーマを絞るのではなく、阪急コンコースブログ同様突貫的に何らかのテーマを複数見出せていければ楽しいんじゃないかと思っています(って、やっぱり謎の対抗意識を燃やしてるね>汗)。
近々専用カテゴリーも作成する予定。
【写真】2006.02.23 22:58 オフ会終了後に解体作業中のコンコースで記念撮影
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2006年02月22日 (水)
ついでなので「トリノオリンピック」ネタでもう一つ。
ここ2つ粉飾日時エントリーが続いたが、このエントリーは現在形でのリアルタイムエントリーである。つまり、女子フィギアスケート見てて寝られないのである(笑)
今現在、荒川静香選手がほとんどミスのない演技でスルツカヤ選手に次ぐ2位の得点を得て、最終組の「Resurfacing of the Ice」を待ち中。ミキティはまあ、こんなもんだろな〜と見ていたが、荒川選手と衣装が逆でも良いように思った。
個人的に気に入ったのは、グルジアの GEDEVANISHVILI Elene 選手。ミキティの前に演技したのだが、154cmと小柄な選手でまだ16歳。現時点(最終組前)で順位は4位だと思うが、154cmとはとても思えない伸びやかな演技を見せてくれた。
浅田真央選手の演技を見られなかった分、彼女が補ってくれたような気分だ。
以上、建築の話はどこ行ったんや?って感じのエントリーだが、本当にそれはどこにもなくて、ただ、冒頭の写真のようなヒビだらけの氷の上でやるスケート競技ってのがあっても、それはそれで面白いのでは?と思って書いてみたってだけの話(汗)
いや、でも、モーグルみたいなデコボコ競技があるんだから、スケートで飛び跳ねていくようなのがあっても面白いと思うんだけどな〜。織田信成君あたりどうだろか?(^^;)
ちなみに今回の冬季オリンピックで私が最も楽しめた競技がスノーボードクロス。
さあ、そろそろ村主章枝選手が始まるので、アップせねば。。
【写真】2005年11月8日ルフトハンザ航空(成田→フランクフルト)から撮影
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2006年02月20日 (月)
「シベリアのへび道」以来、中欧旅行の続編エントリーは一月ぶりとなってしまった。
この写真も同じくルフトハンザがシベリア上空を飛行中に撮ったものである。
モーグルにもアルペンスキーにもスノーボードクロスにも向かなさそうな雪面ではあるが、トリノオリンピック見ていたらこの雪の表情をアップしたくなってしまった。
雪って陽を浴びると陽の当たってないところが蒼くなるところが何ともたまらない。
ところで「どうでもいーいですよー」の話ですが、うちの妻がアイススケート解説者の堀井氏の甘い声にすっかりトリコになってしまったようです(汗)
【写真】2005年11月8日ルフトハンザ航空(成田→フランクフルト)から撮影
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2006年02月19日 (日)
前エントリー「電線の景観*N的画譚」では画家の視点・撮影者の視点を借りて谷中の電線を好意的に捉えてみようとした。家づくりに集中していた頃には工事・引越・建築撮影と何かと障害物となっていた電線なだけに、その試みには些かこじつけ的な感もなかったとは言えない。ただ、それでも電線を「景観」の一つとしてポジティヴに見られたのは、やはりそこが「谷中」という場所だったという点が大きい。
谷中は敢えて乱暴に言ってしまえば「観光地」なのである。
観光地とは余所者から見られることを宿命づけられた場所、即ち「景観」としての特性に自覚的足らざるを得ないところである。ただし、そうした観光地でも行政主導で観光化を目的とした地域もあれば、自然発生的に人々が集まるようになった場所もある(最初は自然発生でそれに行政が飛びつくケースも当然ある)。その点で言うと谷中は後者でさらには行政はそれを放っておいているような印象が強い(その証拠に曙ハウスの解体でも特に区で何か考えようとする動きは特に見られなかった)。
そして谷中が観光地化した最大の理由は、都内でも珍しく戦火を浴びなかったおかげで大正・昭和の薫りが温存された(悪く言えば取り残された)ことにある。「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ」ならずとも土日ともなればカメラを手にした学生や老人たち(その中間層はあまり見ない)が町中をうろうろしている光景は珍しいものではない。
彼らが一様にレンズを向けているその先にあるものとは大正・昭和の息吹を感じさせるものである。その一つに電線や電線の踊る光景があることは言うまでもない。
ただし、それをもう一度「景観」という視座まで下がってみたときに、電線が観光的に持て囃されているから良いとか悪いとかという議論にはなり得ないと思う。ひとえに「景観」といっても、そこには住民の視点もあれば、単なる通行人、車に乗っている人、遠く離れたところから俯瞰している人、そして観光客と様々な視点が介在する。
そのような混在する視点の中から敢えて「景観」の良し悪しを指し示そうとしようとするならば、そこにその立地与条件や周辺環境、あるいはそれを選択した人間の名前および立場を明記してもらいたいものである。
当初、このエントリーは前エントリーの補遺として完結させるつもりのものだったが、前エントリーへのコメントを見ていると、単純に大正・昭和の名残とは別次元のレベルで人の電線に対する欲望は尽きせぬものがあるようで(って、それが自分にもあることは最初からわかってたんだけど)、その辺はまた別の機会に触れられたらと思う。
旧阪急梅田駅コンコースに対する私の思い入れというのは、案外そうした電線に対する欲望と近いところにあるものなのかもしれない。
注)写真は2006年1月22日に藍染大通りにて撮影
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2006年02月13日 (月)
谷中や根津の風物詩の一つに縦横無尽に入り組んだ「電線」がある。
谷中の半住人どころか年間で10日も谷中に滞在してない私は、つい最近までそのことに割と無頓着だった。というか、それ以前に家の建築写真を撮ることにおいて邪魔くさいとすら思っていたところもあり、ポジティヴ・シンカー garaikaさんの「電信柱って」のエントリー・コメントでも結構散々なことを書いてしまっている。
ところが、先月「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ」で一緒に散策した nodocaさんが flickr にアップされた「雪融け谷中」の写真についたコメントを読むと、電線のことが住民・家主の視点からでないせいか、決して悪印象では捉えられていないのである。
悪い景観100景「街並みを汚くしている電線・電柱」では電線ケーブルが「視界をますます低く圧迫している」と悲観しているが、nodocaさんは「とにかく電線は多くて低い位置にある気がする」と言うだけで、決してそれが良いとか悪いとかは言わない。そのことにアレ?っと思っていたところに更なる決定打が現れた。
Kai-Wai 散策の masaさんを通して親しくなった根津在住の画家 neonさんの作品がそれである。数日前に neonさんから『陋巷画日記』と題する作品のポストカードをいただいたのだが、それら陋巷をモチーフとした数点の画にはすべて電線が描かれているのだ。そして、その電線の線は画のほとんど絶対的要素と言ってよいほど、重要な構成因子となっている。このさり気なくもユーモラスに踊る電線のラインがなければ、私は節度なくパウル・クレーの名前を出していたかもしれないが(って出しちゃってるけど)、それをしれっと拒む力がこの電線の線にはあるような気がする。そしてまたそれが在り来たりな「電線」の線であるというところが何ともニクイ!
こうして私は電線に対する考え方を少し改めなければならなくなってしまったのであるが、しかし、だからと言って突然電線賛美するようになるわけでもないし、依然として実家の前の電線を疎ましく思わなくなったわけでもない。ただ、一つ変わった点は電線を谷中や根津ならではの「景観」としても見られるようになったということである。
neonさんの作品はこれまでも Kai-Wai 散策「neonさんの絵葉書」で紹介されているのを見ることができたが、この程 neonさんご本人がブログ「N的画譚」を開設された。恥ずかしながら「陋巷(ろうこう)」という言葉を知ったのは今回のことをきっかけにしてなのであるが、N町在住の neonさんが描く陋巷の名も無き建築物たちをこれから楽しみにしていきたい。
注)写真は2006年1月22日に根津銀座界隈にて撮影
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2006年02月12日 (日)
あさみ新聞でシリーズ化している「悪い景観100景を考え直す」のエントリー。
実は先日からこのブログでも何か書こうと思ってアレコレ書き留めてはいるのだが、どうもエントリーするまでには至れない。すでに検索すれば「悪い景観100景」を公表した「美しい景観を創る会」に対する批判的エントリーは山ほど出てくるし、今更その組織とテーマに対する批判をこのブログでやってても生産的ではない気がする。
ところでヤフーで「悪い景観100景」を検索すると、その4ページ目に「景観100景」というブログがヒットする(2006年2月12日現在)。このブログ、どうやら「悪い景観100景」で取り上げられた情報をまるごとコピーして、コメント+トラックバック歓迎の体制を取って行こうとしているもののようである(作者不明)。
実は最近、ブログの可能性というのは情報発信のそれと同時に情報の受け皿としての機能も重視すべきと考えているのであるが(っていうか、実は一つお仕事でもうそういうことしてるし、阪急コンコースのブログだってある種その路線だし)、このブログも云わばその延長線上のブログと言える。
で、現実を見れば「美しい景観を創る会」も最初からこの仕組みを作ってしまっていれば、そんなに全体枠としての批判を受けることもなかったろうし、純粋に一個一個の個別事例に対して、賛否両論をデータベース化して行けたのだ。その意味で考えるならばこの「景観100景」というブログは「美しい景観を創る会」に対する嫌がらせとして存在しているのではなく、むしろ真性のフォロー部隊と言ってもよいのではないか?
てなわけで、谷中M類栖でも今後は取り上げられた「悪い景観100景」に類する主旨のエントリーをするときには「景観100景」ブログに賛否問わず積極的にトラックバックして行きたいと思っている。おそらくはそうした個別事例に対して複数からなる個別視線を集積していくことこそが唯一このテーマの生産的有り様であろう。
ちなみにこのエントリーのタイトルは当初書いていた非生産的主旨、即ち「景観とはなんぞと心得とるのじゃ!」を書いてしまいそうになってたときに付けようとしていたタイトルである。そこではヒューザーの小嶋社長やら伊藤公介元国土庁長官の名前と「美しい景観を創る会」を並べて語ろうとしてしまっていたのであるが、まあ、その辺のところは「きっこのブログ」にでも任せて、このエントリーのタイトルにその名残だけを残しておこうと思う今日この頃なのである。
■「悪い景観100景」関連リンク ←随時追加予定
・あさみ新聞: 悪い景観100景を考え直す
・あさみ新聞: 悪い景観100景(2006.01.07)
・あさみ新聞: 悪い景観100景を考え直す(1)(2006.01.24)
・あさみ新聞: 100景を考え直す(2)(2006.01.26)
・あさみ新聞: 美しい景観 神戸シンポジウム(2006.02.03)
・あさみ新聞: 美しい景観 神戸シンポジウム(その2)(2006.02.11)
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2006年02月10日 (金)
先月、カメラ購入直後にウィルス性結膜炎に掛かってカメラのファインダーが覗けなくなるという間抜けな出来事があった。眼科医からは感染の可能性もあるので、なるべく家族に近づくな!タオル等同じモノは一切使うな!と厳しく言いつけられ、ちょっとした家庭内隔離状態になっていた。
そんな最中、私たち夫婦は思わぬものの威力を実感することとなる。
それは私が2000年10月に京都のトレゾーアーツという雑貨ギャラリーで「おらないがみ」という展示をしたとき、妻がギャラリーの入り口用にと作ってくれた暖簾である。
展示が終わってからは、自分たちの住むマンションの廊下からリビングへの扉の手前側にずっと掛けていたのだが、そこを通り抜ける度に必ず顔が生地に当たるのである。つまりは暖簾もタオル等の共有物の一つに入って来るでは?ということで取り外さねばならなくなってしまったのである。
その外した場合と掛けてる場合の様子が右上の2枚の写真。写真ではおそらく大した差は感じられないだろうが、我々にとってはそこに暖簾があるのとないのではもう全く世界が違った。というか、外すともうそこは自分たちの家ではない!って言いたくなるくらいの違和感を覚えてしまったのである。そして、その違和感は結膜炎が完治するまでの約一週間、拭えぬままだった。1ヶ月だったらさすがに慣れてたかもしれんが。。
高が布切れ一枚。それも薄くて向こうが透き通しで見えるくらいのもんなんだが、その存在感や絶大である。我が家ではその扉を開けっ放しにしてる時間の方が圧倒的に長いので、扉以上に部屋の輪郭としての仕切りとしての機能を果たしていたのだろう。
しかし、こうして暖簾の威力についてなんて書いていると、つい「暖簾に腕押し」って諺が頭に浮かび、その諺を掛けたオヤジギャグに走ってしまいそうになるが、それをセーブするためにも最後に簾の語源的なところを少し拾っておきたい。
暖簾(のれん)という字は見ればすぐわかるが、書けと言われたらすぐ思い浮かばない人の方が多いのではないか?(私は完全にそう) そして実際の暖簾の使われ方を考えてみてもすぐには思いつかない字の組み合わせである。「簾」とはスダレとかスノコのスで、そんなスカスカなもんに「暖」の字がくっつくのだから不思議という他ない。
しかし、その語源を繙くと「もと、禅家で簾(す)のすきまをおおい風よけとする布の帳(とばり)をいった」というのであるから、なるほどというものである。
要するに素直に暖かい簾(すだれ)って考えておけばよかったのだろう。
だから昔の暖簾は我が家や現在商売等で使われるような半暖簾ではなく、ちゃんと足下まで届くもので、云わば今で言うところの断熱材となっていたわけだ。
ちなみに我が家の暖簾は私の中年期顔面脂性(冬場は、と同時に乾燥肌でもあるが)によって、リビング側から見るとかなり変色してしまっているのであるが(汗)
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2006年02月08日 (水)
Kai-Wai 散策「根津渋の欠片」のエントリーに「栃乃花関 年男奉仕」と筆で書かれた短冊の写真がアップされた。この写真、先日の「無邪気な Kai-Wai フリッカーズ」で私も撮っていたのだが、masaさんはそのときに撮られたのではなく、その後の曙ハウスの解体現場パトロールの折に撮られたもののようだ。
栃乃花関といえば平成12年五月場所で新入幕後、3場所で三役まで駆け上がる活躍を見せていたのだが、怪我で幕下まで陥落し、長らく低迷。同年七月場所に新入幕を果たした高見盛関も同じように入幕間もなく怪我で幕下まで落ちて苦しんだが、それでも1年半で幕内復帰を遂げている。相撲マニアの妹のおかげで、高見盛関のことは人気が出る前から気に掛けていて1年半でも充分長く感じられたくらいだから、5年の歳月といったらどのくらいのものだったのだろう。それを考えただけでも応援したい気分になる。
ところでその「栃乃花関 年男奉仕」の短冊であるが、それは根津のサイタという質屋のある細い通りの小さな告知板に一枚だけピラッと貼ってあって、それを見たときにそれが何を意味するものなのかがよくわからなかった。そして、その前を通ったときには谷根千案内人と化した masaさんが近くには居られなかったものだから、特に意味を追求するでもなくやり過ごしていた。それが思いも掛けない形でやっぱり masaさんから知らされることになる。それが冒頭にリンクを張ったエントリーである。
その短冊の意味するところとは、「節分の日に、根津神社での豆まきに栃乃花関が来るよ」ということらしい。実は masaさんもその短冊だけを見てそのことがわかったわけではなく「町内のお店の店頭などに貼ってある、神社配布のチラシを見て納得した」とのことであるが、そういうところに目が行き着くあたりがさすがは masaさんである。
ちなみに「年男奉仕」でググッて検出されるのはたったの6件。基本的にどれも節分と関取ネタのサイトに飛ぶ。
実はそんな私も今年は年男なのであるが、では、今年の私の豆まきは妻への「年男奉仕」ってことになるんだろうか?(汗)
そんな節分ネタのエントリーを見透かしてか、masaさんが谷中M類栖に来訪された折には鶴屋吉信の節分豆の形をした饅頭の菓子折をいただいてしまった。さすがに節分過ぎたせいか、もうサイトの商品紹介ページに「福ハ内」というお菓子は出ていないが、大変美味しくいただいた。
尚、我が家では子鬼が一杯いるため、「鬼モ内」と言って豆まきしている(`Θ´)
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