2004年09月30日 (木)
2〜3Fの階段脇本棚に梯子掛けが取り付けられた。これに関してはどのようなものにするという話し合いは特に持たれなかったのだが、基本的には階段手摺りとほとんど同じ。母は引っ張ると若干ぐらつくことをかなり気に掛けているようだが、実際のところ、使うことはなさそうな気がする。というのも、すでに私がその階段掛けの上の本棚には目一杯本を詰め込んでしまったからである。本というか、マンガ。『釣りキチ三平』とか『美味しんぼ』とか『ドラゴンボール』とか数十巻物のを中心に。どうもこの手のロング巻は滅多に読まないだろうが処分する気にはなれない。というわけで、下段書棚の天板に足を架けて梯子ナシで誰の手も届かないところにそういう本類を置き切ってしまったのである。つまりもう梯子は要らない。
しかし、正直言うとやはりこの私でも梯子を必要とするくらいの高さまで(言ってしまえば天井まで)本棚は作ってしまってもらった方がよかったように思う。困ったことにまだまだ全然書棚の量が足りないのである。それに大型画集を除くとほとんどの書棚は本が前後2冊ずつ入った状態になっており、奥に入ってしまった本はほとんど背表紙すら見ることはできない。この状態は収納に階層を持たせることを嫌う私にとって最も好まざる状態であるのだが、全く以て納まり切らないのだからやむを得まい。
前回上京時にも作ったが、今回もやむを得ず余った可動用棚板を使って追加の本棚を作ることにした。道具を人から借りることを極度に嫌う母の目を盗んで初音すまい研究所にドリルを借りに行き、前回と同じ要領で手短にビスをねじ込み組み立てる。ただ、前回は1〜2F階段脇の天板が天井板にくっつき、半ばそれ自体で支え棒の役割を果たすところだったからよかったが、今回は揺れに対してのツッカケとなるものがこれといってないので、一応左右のぐらつき対策も兼ねてベニアの瀬板を買ってきて張った。まあ、そのベニアを買って自転車で持ち帰るときに風に煽られ、一部割れてしまったのではあるが。。
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設備担当の長田さんから指摘のあった(※) 収蔵庫+給湯室扉アンダーカットする工事が、先日の未済工事チェック時に母が訊ねるまで手つかずのままになっていたらしい。
ここがアンダーカットされてないと収蔵庫に空気が回らず、せっかくダイキンのエアカルテットで24時間調湿換気され室内が絵にとってベストの状態になっていても、肝心の収蔵庫にその空気が巡回していないのではしょうもない。というわけで、なるべく早く対応してもらいたかったところではあるのだが、、如何せんもうデッサン系の作品は収納されているだけに。。
その工事が本日ようやく完了した。収蔵庫の右扉がクラッチ閉めたときにときどき空いてしまうんだけど、あれは磁石が弱いのか、それとも接する位置が悪いのか? まあ、閉まらないというわけではないので、良しとするか。。
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前夜の雨はさほどひどくならず、この日は朝から曇り空。工事はやるのかな?と思っていたら、お昼前に東京コートの防水屋さん2人が昨日持ち帰った網戸の取付と乾き具合の確認のためにやってきた。そのときは乾き具合が不充分だったのか気づかぬうちに帰られてしまったのだが、晴れ空の出て来た午後に再び来て本番塗膜工事をしていたようだ。「ようだ」と書くのはいつ頃から来てたのか全然気づかなかったからだ(^^;)
いずれにしても気づいたときにはバルコニーの底面は光沢のある灰色になっていて、まあ、本当にマニキュア塗ったあとのようである。やむを得ない話ではあるが、コンクリートの地肌に較べると如何にも作り物っぽい感じで、何だかちょっと寂しい。でも、たぶんこういう皮質の方が好きな人も多いような気はする。いや、こうじゃないとちゃんとなってないじゃないか!と文句言う人だっていることだろう。言ってしまえば、バルコニーがパッキングされた商品みたいになったようなもので、例えば剥き出しの野菜がカゴに入れられて無造作に売られているのよりもちゃんとパックに入って賞味期限の明記された商品を好む人にはそっちの方が安心なはずだ。
と話が脱線したが、実はこの日は母と私が何かと出入りが多く、夕方、暗くなって彼らが照明を欲しているのに父が大音量で音楽聴いてて彼らの呼び声にまったく気づかないというミステイクがあった。本当はそのとき妹も帰ってきていたようなのだが、妹はそういう工事には無関心というか、仮に呼び声があっても出ない人だし、てなわけで当然、母が帰ってきて彼らに気づき慌てて点灯し、当然その後には父に対する非難囂々が始まる訳だ。ちなみに私が帰宅したのはそんな囂々が納まり掛けたときであり、結局この日は一日、あまり自分の気づかぬうちに事が運んでしまう、そんな一日であった。あ、ただ、昼時に一時帰宅したとき、こちらが疑い掛けてた物干し用金物の留め具位置にも防水工事してるところは確認出来て、ひとまずはほっと一安心である。
尚、今夜は一日バルコニーには立ち入らないように、そして明日は朝から植木を置いても構わないという指導を母が受けて職人さんたちは帰られたらしい。母が帰宅しなかったらどうなってたんだろうか。
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いつ取り付けられたのか不明なのだが、屋上タラップの滑車用金具のエントリーで確定していたタラップ天井に滑車がぶら下がっているのを確認。ワイヤーは自分たちで購入しなければならない。が、3Fのタラップへ行くための通路が荷物で通るのもやっとの状態なので、当面それを使うこともなさそうだ。というか、これを実際に使うのは自分たちの代になってからのような気がする。しかし、どうも上から間近で見てると絞首刑の死刑台を想起してしまっていけない(^^;)
ビクター蓄音機売ります!(※) の告知とほとんど同内容ですが、上京予定が大幅に変更となったため、再告知させてもらいます。期日は9月末日まで。値段は5000円〜を想定してますが、随時ご相談&お問い合わせ comment 欄にて承ります。
商品説明は追記欄でご確認ください。
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ビクター(Victor)【SP盤蓄音機+チューナー】
実家の倉庫から出て来ました。SP盤の蓄音機とラジオとして利用されていたものだと思われます。
動作確認したかったのですが、電源コードのプラグ部分が壊れており、感電が怖くてちゃんとした確認はできませんでした。ただ、どうにかプラグを差し込むとブーッというノイズ音のようなものは鳴りました。年代等は不明。
現在商品紹介で使ってる画像はフタを閉じたものですが、撮影時にはフタが開くことに気づかず中がレコードプレーヤーの状態になってることも後になってから知りました。今週末に実家に行きますので、そのときにフタを開いた状態の写真を撮って後から追加したいと思います。
一応、動作確認云々の話を書きましたが、基本的にはこの商品の出品は電化製品としてはジャンクとしてであり、どちらかといえばアンティークの飾り物とお考えいただきたいと思います。蓄音機/ラジオの機能が満たせなくても、その件に関してはノークレーム&ノーリターンということで。。
私は大阪在住ですが、実家は東京の谷中になります。一度見に来ていただいてというのでも構いません。その場合はお早めに Q&A にご希望の日時とメールアドレスをお書き添えください。私は9/24(金)〜9/30(木)までは実家にいる予定です。
発送も谷中から。ヤマトの宅配便で着払いを想定しています。
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まだ一向に片付きそうにない2F和室であるが、1F収蔵庫整理中の私は長らく箱をあけていない軸の状態も確認しておきたかったので、お試しで2F和室の床の間スペースに「芥子花圖」の軸を掛けてみた。どうやら状態は悪くなっていないようで一安心。ただ、軸を掛けるときに紐を留め具に掛けるための棒が見当たらないんだけど、あれはどこに置いておいた(仕舞っておいた)んだか?? 結局見当たらなかった。
なお、軸はしばらく掛けておくまでもなく、床の間には一ヶ月住んでみてのエントリーで報告受けていた陽光が激しく差し込み、即刻取り下げ。
いや〜、和室南側サッシには障子が入ってて遮光カーテン引くわけにもいかないので、せっかく床の間に絵を飾れるようにしたものの、実際には複製品とか消耗しても構わないものしか掛けられそうにありませんな(^^;)
2004年09月29日 (水)
外倉庫内に設置されたガスメーターは、ガス屋さんがメーター確認時に倉庫の扉を開けなくて済むようにと、扉に小窓を付けてそこから覗き込めるように設計してあったのだが、その辺のことが図面だけでは理解してもらえてなかったのか、小窓を覗き込んでもメーターを見るにはちょっと厳しい位置にガスメーターは取り付けられていた。加えて、その設置位置は右の図で見てもわかるように明らかにそれほどひどくない倉庫の収納効率を悪くしており(青点線四角形が最初の位置)、二重の意味で修繕工事は必要とされていたのだ。
というわけで、この日、東京ガスの人が2人、朝8時半頃やってきて11時頃までガスメーターの移設工事に当たった。心配症の母はそんな簡単にメーターの移動なんてできるのかしら?と不安がっていたが、扉を開けないとメーターが見えないんじゃ大変だし、それに我々素人は「ガス」というとおっかなびっくりで移設を大袈裟に捉えがちだが、おそらくこれは建築設備の配線と同じようなもので手順さえ間違えなければそれほど難しいものではないような気がする。まあ、もちろんガスなだけに瞬発的な危険は隣り合わせだが。。
工事が終わって設置位置の確認を求められ、一応ちゃんとメーターも外から見えるようになっていたのでそのまま承諾したが、もし後5cm窓側に寄せてくださいなんて言ったら応じてくれたんだろうか?(^^;) とそんな意地悪はさておき、その後、ガス本体の動作確認ということで2Fキッチン、3Fバスの状態を父+母立ち合いのもとで見てもらう。
このとき、ついでに母が業者から換気扇の使い方やガス栓の閉め方などちゃんと説明を受けていなかったので、改めて解説してもらう。また、父が気にしていたシャワーの水がなかなかお湯にならないことも訊いてみるとそれについてはそういう仕様なのだそうだ。単純にいえば給湯システムから3Fのバスが遠いということ。ただ、それとは別に湯船の排水が遅すぎるようだという指摘を受ける。私は前回の滞在時に2回入り、実家ではこれまで暑かったのでほとんどシャワーで10回も入ってないというから、それだけの利用でそんな排水状態になるわけがないという。またしてもトラブル発生なのか?
それにしても呆れたというか、はぁーっと溜息尽きたくなったのが、父がまだ一度もこの風呂に入ってなかったという事実。父は使い方がわからなかったから入らなかったというのだが、母+妹は父に黙って何度か入浴していたわけで、何なんだろうな〜、この家は、、と思わずにはいられない。伯母が訪ねてきたときにも風呂を一番自慢げに見せていた父が実はまだ一度もその風呂に入っていない、、実家に帰ると悲しくなることばかりだ。
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2004年09月28日 (火)
9月下旬17時過ぎ。まだ夕焼け空というほど赤くない。鴉が通り過ぎる。
光庭についてはこれまでも「光庭考」という形で幾度か自分自身の考え方や豊田さんとのメールのやりとりで考えられたことなどをブログ上でエントリーしてきたが、今回の打合せで豊田さんが描いた具体的な光庭イメージのスケッチを見せられ、「何とここまでやろうとしてられたのか〜、さすがは坪庭開拓団の団長さん!」と改めて思わずにはいられなくなってしまった。というか、こんだけの仕事して「基本的に植栽整備作業は団員による無償作業を理念として」いいのだろうか?という感じ(^^;) まあ、それはともかくまずはその具体案平面図を以下に(クリックで拡大可)。
正直言って私はここまでしっかりしたものは考えていなかった。
第31回打合せの打合せ記録(※) で「石垣で土留めをして、奥を少し高くする」とあるが、濡れ縁降りてまずは砂利敷、そして石で土留めして2段目は苔をメインに小植物を石のまわりに絡ませ、3段目に灯籠といった階段状の3段構成。こうした高低差を段階的に設けることでピアノ室からも灯籠が見えるようにした上で、もう一つの狙いはこの元々小さな空間をさらに浅く見せてしまうこと。そうすることで借景となるA見邸の樹木がぐんとこちらに引き寄せられ、云わばうちの庭と連続してるように見えてくる。
ただ、とはいえ、盛り土が高くなるとそれはこちらにはよくてもA見邸側からはそこに立たれれば塀越しに覗かれるという決して気分のよいものではなくなってしまう。そこで現在のブロック塀を覆う形で右図のような板塀を付けてやるというわけだ。塗装は一乗寺側室内壁面と同じオスモカラー。材も同じく杉板でよいのでは?とのこと。そして実際に張る板自体は背後のブロック塀と高さは揃えるがその上に簡易な庇みたいなものを幾本かの小柱の上に渡して載せる。その分の高さによって感覚的に覗かれてる意識は和らげられ、且つ軒下に隙間ができるので風通しを遮られたという印象も薄れる。この覆い塀の作成は発注でも自前制作でもいいけどと言われていたけど、出来ることなら DIY で行きたい(まあ、問題は私の時間だね)。
植栽は2つの点で面白いアイデアが出ている。私個人は漠然と灯籠の背後に少し丈のある樹木をなんて考えていたが、豊田さんはどちらかというと逆で、向かって右手一番手前に少し背のある笹類、そして左手端の狭くなったところに背後の塀が見えなくなるくらいの大きな植物を茂らせ、石垣2段目3段目灯籠回りの中央部をシダやフキ、ギボウシ等の小さな陰性植物たちで賑わせる考え方なのだ。そしてこの考え方が先のA見邸を如何様に借景とするかを基軸としたものであることはすぐに理解できたので、当然私の漠然とした考えなどはあっさりすっ飛んだ。
それともう一つの面白いアイデアが一乗寺側壁面をヘデラ等の蔦類で覆うという考えである。私個人は一乗寺の4mある壁をそれほど鬱陶しくは思っていないが、設計者として日常生活を営む者の視点に立ったときにはそれを遠ざけたいと思うものなのかもしれない。4mもあるだけにそこをヘデラが這うという絵も私には好ましく思え、即座に了解した。自邸を実験台としてタンポポ・ハウスを建てた藤森照信氏が本当にやりたいのは新宿副都心の都庁ツインビルを天辺まで蔦で這わせ、緑ですっぽり包むことだそうだが、そうした野蛮さには基本的に心が疼く私なのである。
ちなみに豊田さんが候補にあげてるヘデラってのはどちらかというと西洋系の植物で、それと灯籠や苔が組み合わさると奇妙な和洋混在状態になっていく可能性がある。でも、もともと1F室内も屏風『壁畫に集ふ』の主題も皆和洋混在。だから構いませんよね?と豊田さんは冗談めかして言われていたが、無論その方が歓迎である。
しかし、豊田さんの平面スケッチ見てるとなんだかとっても大きな立派な庭のように見えてきちゃうんだよね。実際にはホント坪庭というのがぴったりな程度の小庭なんですが、、一応、再度ここで上から見下ろして撮影した画像を左に掲載しておこう。
それとそうそう、「光庭考(※)」のエントリー最後で書いていた「なぜに豊田さんが<光庭>という言葉を使ったか」だが、特に深い企図があってのことではなかったようで、ただ、坪庭っていうと家の中にある庭のイメージだし、裏庭って言ってしまうとちょっと寂しいし、、ということで、光が落ちてくる庭ということでの<光庭>だったそうだ。
それと最後に今回アップしてるスケッチ画像だが、色の付いてる方の立面イメージ図については豊田さんが繰り返し「これは雑にスケッチしただけですので」と言われていたことを補足しておく。
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当初の計画では1Fギャラリーの展示壁面上部両角に ALR JORDAN、ピアノ室側の梁高が低くなる手前の上部両角に BOSE と父所有のスピーカーを取り付ける予定で、配線もそうした具合で回してもらっていた。ところが父が取り付けようとしていたスピーカー、および父が買ってきた取付器具を見て、母がそのようなものは付けたくないと言い出してしまったのである。
そこで一応、打合せ時にスピーカーを1F応接室に持って行き、豊田さんとも相談してみることにした。ここでまず、私も豊田さんもそのスピーカーを見て悪い反応を示さない。というよりもシンプルでなかなか良い形ですねとか言い出しちゃったりして、母の眉間にはますますシワが寄るばかり。いや、別にここで母を貶そうとしているわけではない。単にそのスピーカーが心配するほど厳ついものでもなく、まあ、もちろんギャラリー壁面側上部にそれが取り付けられれば何もない状態よりはもちろん窮屈感あるだろうが、たぶん目は馴れるだろうといった範疇のものだ。実際のところ、豊田さんもそういう顔をしておられる。
しかし、母にはどうにもそれが気にくわないようで、先日屏風を開いたときにはピンと伸ばした状態になってないのに、ここまで来ていたからスピーカーと被るはずだとか、そんな物騒な取付金具を、しかも不器用な父が取り付けてスピーカー諸共落下して絵や床のタイルを傷つけたらどうするんだ?とか、とにかく難癖付けて何とかその取付を阻止したいようだ。取付に関しては豊田さんがその父が買ってきた商品を見てこれなら心配ありませんよ!とお墨付きをもらってしまったのだが(^^;)
しかし、こうなってしまった場合のいつもの倣いでこの件はやはり保留というか、取り止めということになりそうだ。結果から言えば展示壁面側は何も付けず、ピアノ室側の方にだけ展示壁面側の方に想定していたスピーカーを付ける。展示壁面側にはスピーカーのコードが延びてしまっているが、それは白く塗装して壁面に這わせておくしかないだろう。父も取り敢えず取付具は一組しか買ってきてなかったので無駄が出ずに済んだが、おそらく配線済みの工事費はそれなりの経費が掛かっていたはずだ(何せアンプからその部屋で一番遠くにあるのだから)。単純に言ってしまえば、打合せ時にもっと綿密にチェックしておくべきことだったのだが、母はそんなこと話した覚えがないというのだからやむを得まい。ま、このやむを得ないことによって生じる無駄がうちにはありすぎるという問題も残るのだが。。
それから母がここにスピーカーを取り付けるのを嫌う理由には別の根深い背景があることも見逃せない。それは父と母の結婚当初にまで戻らなければならないのだが、それについては機を見て別のエントリーで触れたい(こうした家族問題にどこまでこのブログで踏み込むべきか迷っているところなのである)。それとこれまで書いてきたことをまるっきりひっくり返すようだが、母は秋葉原の電気街で見掛けたらしき、BOZE の最新式の上から取り付けるタイプの洒落たスピーカーなら取り付けてもいいっていう以上に取り付けたいみたいなのだ。こうした論旨の矛盾が簡単に生じてしまうところに先のやむを得なさは容易に現れてくる。
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先月上京できなかったので、2ヶ月ぶりの打合せ。
今回も前回と同じく場所は谷中M類栖で。確か矢原さんが冗談で、初音の事務所よりこちらの方がテーブルが大きいんですよと言われていた気もするが、まあ、工事状況等チェックするにもこちらでやってた方が手っ取り早いというのはある。
打合せ内容は今回も実際に住んでみての問題点報告と未済・補修・追加工事について、そしてメールでも少しずつやりとりの行われていた光庭について。光庭の件と打合せ記録で追加工事検討事項として取り扱われた1F応接室スピーカーアウトレットの件は別稿でエントリーする。
−谷中M類栖2F和室
−14:00〜17:00
−豊田さん、矢原さん、父、母、私
−光庭想定スケッチ3枚、植物関係参考書5冊、打合せ記録
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初音すまい研究所@打合せ記録より(記録者:矢原)
■
問題について
・浴室でシャワーを使っていると、お湯が急に水に変わってしまう事が時々あるとのお話。
・1F廊下-1 水漏れについて
2Fバルコニー全面に塗膜防水を行う事をご了承いただきました。
表面の素材感が異なってしまう事を確認しました。
・バルコニー物干金物のビスがキチンと止まってないようにみえるとのご指摘を受けました。
■未済・補修箇所について
・9/22(水) 再チェック事項をご確認いただきました。
■追加工事のご要望
・1F応接室スピーカーアウトレットのうち、屏風上をメクラプレートとしたいとのご要望(要検討)。
・トイレ-2 内収納下部の扉に換気用の穴を設けたいとのご要望をいただきました。
■庭についてのご要望
<光庭>
・ブロック塀をかくす方法として、板塀を設ける。
・石垣で土留めをして、奥を少し高くする。
・日陰でも育つ植物で考えていく。
<玄関側>
・自転車をとめるスペースを確保する。
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人が来訪したときに食後のニオイが残っていることを母は嫌う。我が家のキッチンが閉鎖的なのはそうした面への配慮から来ている。しかしこの日、初音すまい研究所との打合せ(※) が午後から我が家の和室であるとなると昼食は外でという話になってしまうのだから、考慮を重ねた間取りもぶっ飛びだ。
で、この日は父+母と言問通り沿いの「谷中 くいものや もへい」へ行った。先日は夜だと高いということで入らなかった(※) が、8月末にオープンしたばかりの店で父+母はすでに1回行ってるらしい。 <非日常をテーマとしながら、居心地のよい空間で沖縄出身の店長が「医食同源」をテーマに炭火焼と沖縄料理でおもてなし!>とのことだが、私が食べた日替りランチ(けんちんうどんと鉄火丼)はデザートのサーターアンダギー以外、沖縄っぽさはなかった。父+母が食べてたお重セットも同様で、沖縄を楽しむなら夜なのかもしれない。
むしろこの店で気を留めるのは店内外のイン・エクステリアだろう。
道路際にはちょうどうちの光庭三角形の尖った方が切られたような形の前庭がある。庭を眺める視点が二方向なので、うちとは柵の配置が違ってくるがサッシを挟んで店内外を跨ぐ縁台があり、サイズ的にも参考になりそうだ。
植栽は龍の髭を河原に見立て、玉砂利の敷かれたところが川、トクサの生えているところが島のように見受けられる。隣地との境界には本物の竹か笹の塀。その手前に高木を数本。やはり視点が異なるとサイズが似ていても構成そのものがまるっきり変わってくる。
店内も掘り炬燵仕様の座席の間に移動可能な板を挟み込んだり、他、衣紋掛けを突き出した壁との隙間に収まるようにしてたりいくつか工夫が見られる。庭の様子は店内から見た場合の方が参考になるかもしれない。サッシにはブラインドが使われ、雪見障子のように半分降りていて、それは非常に良い感じ。うちの場合、ピアノの反響問題があるためカーテンを選んだが、紫外線を避けるためにいつも閉じられてしまいそうなことを考えると足下だけでも見えるブラインドやロールスクリーンが羨ましく思えてしまう。
2004年09月27日 (月)
前回の上京時に詰め込むだけ詰め込み、開くのも怖いってくらいになっていた1F収蔵庫だが、カトーレックの美術倉庫から屏風や軸が還ってきたわけで、それらも収まるようにしなくちゃならん(というか、それらの方がメインである)ということで、今回の上京では到着初日から収蔵庫内の再整理に取り掛かっていたのだが、ようやくその目途がついた感じになってきた。
再整理前には私や妹のデッサン他、無用な額なども入っていたのだが、それらを整理・処分し、軸は箱から出していつでも取り出しやすいようにして、何とか後は屏風を収めるだけ(一応そのスペースを計って空けてある)という状態にまで持って行くことが出来た。
また、私以外の誰かが何か作品を取り出したいというときにわかりやすいようにと3段に分けて収蔵分布図も書いておいたのだ。もちろん下段の作品を取り出すのは大変だが、このメモがあれば「あれ?あの作品どこ行ったっけ?」という話にはもうならないはずである。ちなみにこの方法は今年2月末に大阪市内で引越したとき(※) にも荷物の収納で試したもので、それは非常に役立っており、今回の片づけで多少時間が掛かってもそれはやっておくべきだと思っていた。念のため、今回書いた分布図はスキャンしてアップし、また箱ごとの作品名は追記にて記す。
□◇
デッサン額(1)
12. ダリア*
17. リンドウ+不如帰(ホトトギス)*
18. 浜菊(ハマギク)*
21. 兎(ウサギ)*
22. 鶉(ウヅラ)*
デッサン額(2)
02. 聖徳太子圖*(額のみ)
07. 宿根草(シュッコンソウ)*
08. カラー*
10. 白菖蒲(シロショウブ)*
11. 百日草(ヒャクニチソウ)*
デッサン額(3)
03. 草と花*
04. 菜の花*
13. おはぐろトンボ*
20. 伊勢海老と貝*
23. 鴛(オシ)*
24. 金魚*
25. 鱒(マス)*
26. 西洋芙蓉(セイヨウフヨウ)*
27. 椎茸(シイタケ)*
28. 鷺(サギ)*
39. 紅梅圖(コウバイズ)
色紙額
32. 赤松の山*
33. 松*
34. 松枝*
35. 夕日に松*
36〜38. 衣-1〜3*
晩年額
01. 聖徳太子圖*(額のみ)
58. 洋蘭図(ヨウランズ)
59. 白馬と埴輪の馬之図
晩年額(バラ)
55. 天馬図(テンマズ)
56. 牡丹花図(ボタンハナズ)
軸(バラ)
41. 鶯圖(ウグイスズ)
42. 芥子花圖(ケシハナズ)
43. 南天絵圖(ナンテンエズ)
46. 旭々波涛圖(キョクギョクハトウズ)
47. 稚児圖條暢(チゴズジョウチョウ)
48. 水辺の裸婦像*
49. 睡蓮の裸体女性像*
屏風・額
52. 観音前の婚姻之圖*
53. 壁畫に集ふ(ヘキガニツドウ)
61. 白鷺圖(シラサギズ)
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雨漏りテスト(※) した翌晩から雨が降り続け、とうとう本当に雨漏りしていることが確認される。当初の予定ではこの日にも塗膜防水工事をという話だったが、それも雨で見送り。そして今回の雨漏りは雨が長く降り続けているせいか、今までのよりもかなりひどい。今までは階段1段分にじわーっと垂れ染みがついていただけだったが、今回は数段にわたって垂れ染みがついた他、天井に換気用に設けられた窪みから直接滴が垂れて、階段をびしゃびしゃにし始めてしまった。だんだん漏れる部分の穴が大きくなってきているのだろうか?
母は中の鉄骨が錆びて腐らないか、また電気も近くに配線されているのでそれによって感電を引き起こすことがないか心配し始め、私は私で断熱ウールって湿るとどうなるのかな〜と心配してみたりする。とりあえず山本さんに連絡すると天気がやんだらすぐに補修しましょうとのこと。またこうした雨漏りしている状態をまだ初音すまい研究所の方では未確認なので、矢原さんに来てもらってちょこっと見て行ってもらった(写真も何枚か撮られて行かれる)。あと、ついでに明日の打合せ前に未済・補修・追加工事のリストをこちらでも実地確認しておきたかったので、そのリスト表も持ってきてもらった。
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2004年09月26日 (日)
丸井金猊の屏風や軸の表装でも何かとお世話になってる表具屋 飛高堂の Webサイトリニューアルの件で牛田邸訪問。このサイト、1996年時に作ったまんま(恥ずかしいけど、URL公開)。一部中味は社長がいじっているが、プロバイダ変更時も任せっぱなしでサーバ上のデータが完全に移行出来てなかったりと要メンテナンスというよりはまるごと作り直す必要に迫られている。
しかし、その打合せに行ったつもりが、私と同級生のRちゃん夫婦も夕食に見えて、話はほとんど谷中の家の話と飛高堂でも1Fの中庭を再構築(プロに発注)しようとしているということで庭造りの話題で終わってしまった。後日、飛高堂から完成した庭写真が送られて来ているのでその画像をアップしておこう。ここの中庭は四角いマンションの真ん中が1Fまですっぽり吹き抜けになっていて、1Fがガラスで覆われた中庭となっている。どうせなら工事前の様子も写真に収めておけばよかったが、伺ったときにはもう夕方過ぎていて写真に撮るにはもう暗かった。
お昼に伯母が初見参(工事中にも一度来ている)。伯母は映画・TV業界の人なのだが、80歳を前にしても未だに仕事を依頼されるという、、そして超倹約家でもあり、今回も都営バス&電車を駆使して、武蔵野からタダでやってきた(^^;)
家→[バス]→吉祥寺→[バス]→新宿→[大江戸線]→上野御徒町→[バス]→谷中
と以上のようなルートで約1時間半。三鷹から中央線→千代田線と乗り継いで最速でも50分近くかかるので、タダで90分なら安いといえば安い。もちろんこのワザは老人にならないとできないが。。
家の中は父が案内していたが、父が一番自慢したいのは風呂のようだった。本当は屋上にも上がってもらうとよかったろうに、タラップまでの通路が埋もれた荷物でそこまで辿れず。片付いてないことは承知の上での来訪なので、呆れ顔はしてもそのことについてはコメントはなし。
伯母はトンカツ好きな人なので、ひとしきり見学の後、皆で「とんかつ 信濃屋」で昼食。ここのところ、トンカツと言えば「蟻や」ばかりだったので久々だったが、前に味較べなどしてちょっと飽きたかなと思ってた頃の感覚はなくなって、フツウに美味しく食べられた。伯母+父+私がロースの上を注文。母+妹はヒレ。ちなみに味較べというのは以前、芯ころ(2000円)・ロース上(1500円)・ロース並(1000円)の3つを注文して、どのくらい違うか食べ較べたとき(右の写真はそのときのもの)、ロース上が一番美味いという結論に達し、ところがその結論を出した次の機会にロース上を食べたら、何だか妙に重たく感じて、以後しばらくお店に行かなくなってしまっていたのである。
ところで、このエントリーにあたって「信濃屋」検索したところ、ちぐちぐの日記というブログに「とんかつ:上ロースと並ロースの違いは「大きさ」の違いなの?」という記事があるのを発見。「並でも充分おいしいのよ。」というフォローでお店のおばちゃんは言ったとあとにフォローもあるんですが、大きさの違いだけじゃない(ま、写真の大きさはだいぶ違いますが)と思いまっせ。何せ、並べて食べ較べた訳でして。。
食後、私は急いで三鷹へ。所用済ませた晩にはこの伯母の家で一泊。
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2004年09月25日 (土)
NHK−ETV特集 で「スロー建築のススメ 〜藤森照信流 家の作り方〜」ってのが放送予定らしいですぞ。必見!
9/25(土) 22:00〜23:30 NHK教育テレビ
しかし、その日はもう東京。あぁ、落ち着いて大阪で見たかったなぁ。
一ヶ月住んでみて: 水回り編(※) で書いていたキッチンシンクの錆が相変わらずであることを確認。母曰く、某かのスポンジ類でこすると一時的には消えるがしばらくするとまた出て来てしまうと言う。私も一度こすってだいぶ消えた感じになったが翌日にはもう復活していた。
ただ、今回の上京では何かとバタついてたもんで、自分でコメントしていた暮し百科というサイトに出ていた「シンクすっきり大作戦」でのもらいサビが付いたケースでの対処法(洗濯用漂白剤を振り掛けて20分ほど置く)を試すのをうっかり忘れていた。
後日、実家の方でやってもらおう。
昨晩遅くから降り出した小雨で、濡れ縁(※1) が文字通り「濡れた縁側」になりました。
濡れ縁、いつ取り付けられたのか報告受けてなかったんだけど、とりあえず私は昨日サッシ越しに確認し、本日はじめて濡れた縁の上に立ってみた。光庭に降りることを考えるとやはりこの濡れ縁はあった方がいい。
ただ、ピアノの紫外線保護のため、平常はほとんどこのサッシがカーテンで覆われてしまうことを考えると、そんなにはこの濡れ縁に出られる機会もないのかな〜と、、コレ言うとこれまでの「光庭考」が身も蓋もなくなっちゃうんですが(^^;)
□◇
※1)濡れ縁
Yahoo! 不動産 - 不動産用語集 - 濡れ縁 より
濡れ縁【ぬれえん】
住宅の外部に設けられた雨ざらしの縁側のこと。「縁」「雨縁」ともいう。建物の内部にある縁側は長手方向(敷居と平行)に板が張られるが、濡れ縁は縁側と直角方向に板を張ることが多い。これを「切れ目縁」といい、板の木口面が外側から見える。また、板と板の間にすき間をあけた「すの子縁」にしたり、竹を用いた「竹縁」にして、水切れをよくするケースも珍しくない。なお、縁側よりさらに一段低い位置に設けたものは「落ち縁」。
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前日、山本さんに雨漏りの染み?(※) と疑われる小階段の染みを見てもらったところ、やはり考えられるのは雨漏りでまずは真上に位置するバルコニーに水を溜めて確かめてみましょうということで、本日雨漏りテストは行われることになった。
バルコニーの排水溝は一乗寺側縁にあり、そこからALCパネルを突き抜け一乗寺塀との間に縦樋を走らせ排水する形を取っている。一番考えやすいのはこの排水関係のどこかに漏れが生じたのではないかということ。あるいはまったく別にバルコニーのコンクリート床に日々など入ってそこから漏れが発生しているとも考えられないわけではない。ただ、母が一つ気掛かりにしているのはその雨漏り染みに気づいたのが、物干し竿用の留め具取付工事後だったということ。しかし、山本さんたちによるとその工事で雨漏りが発生するということはちょっと考えにくいという話だった。
さて、排水溝を塞いで水を溜め、待つこと20分。案の定とは言いたくないが、1F一乗寺側の壁面を伝って水は漏れてきた。これでこの階段上の染みが雨漏りに拠るものだったことは確実になったわけだ。ただ、基本的にポタポタと垂れてくるような漏れ方ではなく、杉板甲板の境界や表面をツーッと這うように落ちてきて、じわーっと階段上に滴を溜めていく。まさしく最初に発見された染みはそんな風にして出来た染みに違いない(そういう意味ではその染みは複数付けられたもののようには見えない)。
しかし、これだけでは雨漏りの原因を特定できないらしい。というわけで、その対処法としてひとまずバルコニー床全面に塗膜防水(※1) して様子を見るしかないということらしい。ただ、残念ながら塗膜防水をしてしまうとコンクリート地は完全に消えてしまう。言ってしまえば爪にマニキュアを塗るようなもので、生コンクリートの生きた表情ってのが完全に見えなくなってしまうわけだ。8月にも雨は降ったというのに、なぜに2ヶ月して急に漏れてきたのだろう? コンクリートは呼吸するというが、それで隙間でもできちゃったのかな?
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※1)塗膜防水
ONTEX [リフォーム用語集 -た-] より
塗膜防水【とまくぼうすい】
ウレタンを塗って防水層をつくるもので、ウレタンにタールを加えてつくられる。アクリル、エポキシ、合成ゴムなどを塗る方法もあるが、主流はウレタン系の防水である。
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2004年09月24日 (金)
実家では説惇さんが見えるということもあって、先週末に豊田さんたちが未済工事チェックで来られた際に『壁畫に集ふ』の梱包を解き、私抜きで屏風を立てるのを手伝ってもらったらしい。私が到着したときには屏風は二曲二双30度/150度のW字状態で展示壁面側に立てられ、1、2Fはそれなりに体裁取り繕う感じで片付けられていた(母は体裁取り繕う片付けなら得意なのだ)。
さて、この家の計画当初から我々の希望用件に絶対必要なものとして第一義にあげていたのが「ギャラリー(1階:3.7×2.7m の丸井金猊屏風が何よりも映えるよう)」(※) である。そういう意味ではファサードの立ち上がりや古材の再利用以上に『壁畫に集ふ』がどう見えるかは最重要テーマで、それに臨む瞬間は固唾を呑まずにはいられなかった。まあ、実際のところは体裁取り繕って片付けられたといっても、床には養生用の段ボールが敷かれ、両サイドには1Fに置いておく他ない家具・建具類が残っていたので、まだまだ屏風が屹立したとき、その壁面側空間にどれほどの緊張感が生まれるのかといったレベルで見ることはできなかったが、照明を点けた段階でそれなりの満足感が得られたことは確かだ。
豊田さんらと屏風を立てたというその晩に母からもらった電話では、屏風を広げるまでの豊田さんは非常に険しい顔をされていて、いざそれが空間に落ち着いてようやくいつもの穏やかな表情に戻られたらしい。豊田さんにとっても、この1F空間は屏風があって初めて成立するものだという認識のもとにあったのだ。そうした理解の上で設計に臨まれているというのは、施主にとっても屏風にとっても本当に嬉しい話だ。
それにしても屏風専用で考えたウォールウォッシャ(※) の照明は大正解だったと思う。これまで幾つかのギャラリー等でこの屏風を展示してきたが、常に不満の種はスポットライトによる照明だったからだ。これだけの大きさの屏風だとどうしても一面均等に光を当てることができない。また白熱灯の暖かい光色がどうもこの絵にはそぐわない感じがあったのだ。そうした問題群をウォールウォッシャはまるごと解決してくれた。ましてや美博用蛍光ランプで紫外線もカットされ、ランニングコストもかからないのだから。。
夕方、雨漏りチェックで見えた山本さんが、屏風の前でしばし茫然。我に返ってから「すごいですね」と言ってくれた。何だかそのときの山本さんの顔がいつもと違ってちょっとおかしかった。言葉にはしなかったが、そういう反応もこれまた嬉しい。
翌日からまた室内工事が始まるので屏風は片付けておいた方がいいという豊田さんからの指示もあり、父が帰ってきてから屏風を家族4人で再梱包し、久々の『壁畫に集ふ』ともお別れする。
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お昼に説惇さんが見えたときに母が出した茶菓子が上野桜木の「パティシェ イナムラ ショウゾウ」のケーキで、残りを夕食後帰宅してから母+妹+私の3人でアレコレ言いながら食べる。
この「パティシェ イナムラ ショウゾウ」、ケーキ屋の名前としても何だかとても偉そうなのだが、谷中界隈はもちろん都内にあっても超有名店のようで、休日などは交通整理まで出て並ぶ(※) らしい。豊田さんも御用達とまでは行かないまでも客人のお土産にこの店の洋菓子をということはあるようで、我々も一度いただいている。それと実は2001年10月に妻も上京して谷中で土地探しをしていた折に母がこの店有名だからと言って店の前でモンブランを食べてもいるのだ(そのときの印象は全くといっていいほど残ってないのだが)。
で、さきほどの3人によるアレコレなのだが、実はそれがどちらかという不平なのである。これだけ評価の高い店なのだが、3人とも共通して「甘すぎる」「これなら三鷹のふらんすややレヴェの方が安いし美味しかった」と口を揃えて言い、挙げ句の果てには「嗚呼、最近美味しいケーキ食べてない」と三鷹を懐かしみながら方々に不平を漏らすのである。
いやはやどうなんだろう。単に我々が「パティシェ イナムラ ショウゾウ」の味に不馴れなだけなのか? Web上でのべた褒めコメントではあの甘味の強さを買ってるコメントもあり、もう少し食べ馴れてみないと性急な判断は出来かねるが、しかし、如何せん高いよね。やっぱりケーキは300円台に抑えてもらわないとなかなか買う機会もなくなります。って今のご時世じゃそっちの方が甘いか?(^^;)
しかし、このエントリーはイナムラファンからの糾弾に合うかもしれませんな。
賛同してくれる人のトラックバックを待ちます。
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この日は父が夕食を武蔵野の伯母のところで済ませてくるということで、母+妹+私の3人で外食することになった。
当初、母は「谷中 くいものや もへい」という最近出来たらしい和風料理屋で食べたいと言っていたのだが、夜は値段が高いというのと、偏食の妹が食べられるものが少ないということで、赤札堂の横の細道入って数十メートルのところにある、母+妹はすでに入ったことのあるという「洋食ボボ」に行った。
朝早くから出て来た疲れか、いまいち食欲のない私はカルボナーラを注文。『美味しんぼ』でスパゲティ屋のコックの力量はカルボナーラで測れるという話があった気がしたが、この店はまあまあといったところ。まあ、スパゲティ屋じゃなくて洋食屋なので他のメニューを食べてたら印象もまた違ったでしょう。妹はハンバーグ、母はオムレツを食べておりました。
しかし、こうして書いていると三鷹のふらんすやのスパゲティはケーキ屋だったのに美味かったよな〜とつい思ってしまう。駅前開発で移転を余儀なくされたのだが、その移転先がわからない。ご存知の方おられましたら教えてください。ふらんすやのケーキとスパゲティが食べられるのなら、私はどこまでも追いかけて行く所存です。
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当初、9/23(木) に予定されていた説惇さんの開眼式(※) だったが、私の上京スケジュールに合わせて翌9/24(土) 午後に日程を工面してくださった。おかげで5年ぶりくらいの再会を果たせた訳だが、80歳を越えてるとは到底思えない元気な様子で、谷中の家までも根津駅から坂道を一人歩いて来られている。通りがうるさいでしょうと言ったら、家は街から近いところにあった方がいい。このくらいのうるささぐらいがちょうどいいんですよと言われていた(笑)
祖父か祖母の命日前後にいつもはいらしていただき、お経をあげてくださるのだが、今回は新しい仏壇の開眼式ということもあって、さすがにいつものお経のあげ方とはちょっと違う。最初に両手を開いて手の平をお仏壇の方に向け、はぁぁぁーっと深い息のようなものを仏壇に向かって送り込む。式後、説惇さんにそれは気のようなものを送っているのですか?と聞いたら、そうすることでその仏壇に魂を導き入れていたのだという。
なるほど開眼式のことは別名「入魂式」とも呼ぶわけだ。詳しくは伊勢丹の儀式110番なるサイトの第6章 季節の主なご挨拶を参照するとよいだろう。
式後、いつものように「では帰ります」という説惇さんをどうにか説き伏せケーキで一服。といってもほんのわずかな時間で、帰りは母が言問通りではなく裏道を案内しながら駅まで見送った。まあ、見送られること自体も何度も断られるような方なのだが。。
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2004年09月23日 (木)
開眼式に説惇さんが見えるということで母が1Fの床拭き掃除をしているときに発見したらしい。一乗寺側最初の上り小階段、上から2段目のところに明らかに水分質のものによると見られる染みがついているという。急ぎ初音すまい研究所および阿部建築に連絡を入れさせ、山本さんには翌日見に来てもらうことにしてもらった。
母によるとその染みはあまり古くから付いていたものには見えないという。そして前々日くらいに台風で雨量の多い雨が降ったので雨漏りというのが一番考えられるんじゃないか?とのこと。
ちなみにその階段部分というのは、一乗寺側通路に水屋箪笥を置いてしまったため、ふだん家人があまりその小階段をのぼらず(ギャラリー側からピアノ椅子を使ってダイレクトに光り側通路までのぼってしまう)、盲点となっていた場所ではある。
2004年09月22日 (水)
光庭考: アートネイチャー(※) のエントリー時に「小林古径」で検索かけたら小林古径邸の情報が出て来たので、重ねてエントリーしておきたい。
小林古径邸は「建築家・吉田五十八が設計し、棟梁・岡村仁三が施工した木造二階建・数寄屋造りの住宅」。1993年までは東京都大田区馬込にあったらしいのだが、築後約60年で惜しまれつつ解体。その解体部材を上越市が買い取り、 新潟県上越市本城町の高田公園内で復原工事に着手し、2001年春に完成したとのこと。
詳しくは上越市サイト内の小林古径邸のページに任せるが、どうやら移築後は入館ばかりかアトリエ利用までが可能となっているようだ。素晴らしい!
復原事業のあゆみなどを見ていると羨ましくなってしまう。
ちなみに祖父・金猊の古径から受けた影響は非常に大きい。
追記欄にて引用される西澤文隆(※) と小林古径(日本画家)による2つの文は共に<自然>と対峙したときに求められる技巧について触れているので、ここに並置しておきたいと思う。
ジャンルこそ異なれ、ここに共通するのは<現実>というフレームに絶えず意識を働かせる視線である。そのフレームは常に<時制>によって脅かされているゆえ、決して形式として固定することが許されず、すなわちその都度違う解決法(=応用力)が求められる。
光庭において縮景・残山剰水といったレベルでの作庭を考えているわけではないが、ただ自然のままにというのではなく、誇張やデフォルメといった要素も取り込んだ庭づくりを楽しんでみたい。
右上の図版は
小林古径【三宝柑】1939年 絹本彩色・軸 60.0×72.0cm 山種美術館蔵
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『西澤文隆の仕事──2. すまう』(P.59) より
日本における木の扱いは、これとまったく異なる。木は、自然のままの姿で使われる。もちろん庭園においては、ことに日本のように室内との関わり合いをもち、ことに室内の延長として意識される場合において、自然は馴化されていなければならない。したがってある程度の剪定が行われ、自然はより自然らしく、やさしく飼い馴らされる。しかし、これはあくまで自然を人工化するのとはおよそ異なる方向である。木は、ヨーロッパにおけるように幾何学的に配置されることなく、さも自然の植生のあるべき姿のように、三々五々、バランスを取りながら植え込まれる。木は1本独立させて使われることはほとんどない。互いに相寄り、相助け合いながら配置されるだけではなく、木は互いに透けていて枝の下に見通しがあり、奥へ奥へと、さも自然植生の姿であるかのごとく、すなわちエコロジカルな様相に植え込まれる。木には添え木があり、さらに下木や下草があって、自然な雰囲気に近いほど、しっとりとよい庭であるとされる。もちろん、先にのべた通り、庭はあくまで庭であって、自然そのものではない。第一、スケールが庭と自然とでは根本的に異なる。その狭いスケールの中でいかに自然らしい庭をつくり出すかが日本庭園のデザインのポイントであるとすれば、そのスケールに合わせて、自然を不自然さを感じさせずに縮小化する必要を生じる。このようにして、縮景と残山剰水の技法が生まれてくる。
東京国立近代美術館企画展図録『写実の系譜 IV:「絵画」の成熟』(P.16) より
ここにあるこの盆一つにしても、ぢつと見てゐると生きてゐる気がする。叩けば音がするし盆には盆の生命があることがわかるのだ。ところが、それを絵にすると、なかなか音がしない。音のする盆をかくのは大変だ。写実といふものも、そこまで行かなければ本当の写実ではない。
ところで、音のするやうな盆をかくのに、真ツ正面からかいてももちろんいゝが、さうするよりも、そのまゝを写さないで、選であらはしたり、また色をなくしてやる方が、よくあらはれる場合がある。そこにウソも生じてくるし、誇張も必要になつてくるだらう。これも技巧だ。
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2004年09月21日 (火)
shinya さんの blog 記事 で気づいたんですが、そういえば今年ももう「art-Link 上野-谷中 2004」「谷中芸工展 2004」のシーズンである。
個人的な希望としては今年は人としてのギャラリーではなく、場所としてのギャラリーとして参加したかったのだが、今年の何月くらいだったろうか?──引越→片付で心身共に疲れ切った住人を蔑ろにそれでも参加しようとするのなら、それは私たちを殺そうとしてのものと考えると母から先陣切られ、もはや引き下がる他なかったのである。
両プロジェクトほぼ同時期に行われるため、この時期の谷中はマップ片手に首からカメラをぶら下げた人がいつも以上に徘徊する町となる(ふだんも土日は「谷中散策」と称してそういう人たちの集まるところであるが)。また、今年の art-Link は去年の「ガチャガチャ」プロジェクトの発展形として「ふくふくプロジェクト」なる地域通貨の導入を掲げているようで、町ぐるみのプロジェクトとして地域通貨はすでに各所で実験されては来ているものの、その成果が気になるところである。
本当は無理にでも今年から参加していれば、家族も町のネットワークにも溶け込みやすくなるだろうと思ったのだが、私がそこに住んでない限りはそうした発想もすべて余計なお節介でしかない。そうしたことが最近骨身に染みて理解できるようになってきた。「住む」ということには何か侵犯し難い「家」それぞれの境界のようなものがあり、実家を出て6年経つ私はもはや完全に「別の家」の人間であって、その「家」の境界を跨ぐことはできない。
とりあえず私の上京スケジュールだと、art-Link は行けるが、芸工展の方は初日行けるかどうか?である。
art-Link 上野-谷中 2004:9/25(金) 〜10/11(月) 事務局(080-5518-7008)
谷中芸工展 2004:10/2(土)〜10/11(月) 事務局(03-3821-9118)
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2004年09月17日 (金)
光庭の件で私の希望を記したメールに対して、打合せ(9/18)前の段階で豊田さんからレスポンスを戴けた。結論から言うと基本的な判断は二人ともほぼ一致しており、あとは9/18(土) に豊田さんの方で母の希望を聞いてもらってから実際にどんな植物を選んで行くのかという話になっていくことだろう。
とりあえずこのエントリーでは、互いのメールで具体名のあがった植物をネット上で拾った画像で紹介しておきたい。また、両メール必要箇所のみ追記にて転載しておく。
thanks to web site: 素路、薬草園、植物園、ヤサシイエンゲイ、電脳植物園
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私の希望:
基本的には苔が生えてて、少し蒸したような感じがあって、割と緑や苔に囲まれた感じで灯籠が同居しているという感じ。うちの方で持ってきた灯籠は玉砂利敷いてっていうような乾いたイメージはちょっと合わないのではないかと思います。
シダ・リュウノヒゲ、シュウカイドウあたりを三鷹から持ち込んだ石で囲み、その背後にもう少し背の高い樹木がある。三鷹のときはグミの木があって私はそれにすごく愛着がありましたが、残念ながら谷中には持ってきませんでした。
豊田さんからのレス:
m-louis さんの考えに基本的に賛成です。
今回のお庭は、陽当たりが厳しいのでシダ類 苔類が生息に適しています。ただ、湿り気も必要です。
これらの植物はどれも小さいので、陰性に適して比較的大きく育つ、かつ、あまり広がり過ぎて庭が狭く見えない様な・・・そんな都合の良い植物を探し中です。
今の所、案としてヘデラ類(蔦植物)を検討しています。
他の小さい植物には、笹類 ギボウシ類 フキ類 ユキノシタ も良いと思っています。
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2004年09月15日 (水)
9/18(土) に設計者による駄目工事チェックが行われるついでに豊田さんと母の間で光庭についての打合せもするそうである。というわけで、それより前に私個人の光庭に構築したいイメージをまとめておかなければならなくなった。まあ、ここ最近は庭に関する書物や写真を幾つか手に取って色々イメージしてはいたのだが、もともとガーデニング趣味のない(というよりも如何にもガーデニング的なガーデニングが嫌いである)ことから自ずと雑草をどう見せるかとかそんなことの書かれてる本の方ばかりに目が向いてしまう。しかし、あれこれ考えたのち、やはりうちの場合は原点に立ち返って、なるべく三鷹金猊居のときの庭の様子に従うという考え方が一番妥当ではないかというところに落ち着いている。まあ、しかし、それなりに作庭ということを意識するのであるならば近年のよりかは祖父=金猊が生きていた20年前当時の金猊居の庭のイメージを借りる形にした方がよかろう。
ただ、残念ながら祖父は私が9歳時の1979年に亡くなっており、私の中で庭の確かなイメージは当時の写真からしか引き出すことができない。その上、そうしたアルバムは実家にすべて置いてあるので、今、それを引っ張り出して模索するということはできないのだが、取り敢えず母には打合せ時にはアルバムを引っ張り出して検討するようメールで伝えておいた。
金猊居からの持ち込みアイテムには私が記憶しているかぎりでは、
石灯籠、備前壺、瓦、石があり、まず瓦以外はすべてを組み合わせて使うことが前提だ。その意味で三鷹金猊居の庭を参照するのは全く以て間違った選択ではないだろう。
なお、光庭の立地条件は「光庭考」(※) のエントリーでも書いていたように決して庭として良い場所と言えるところにあるわけではない。右の写真(庭を上から撮った)からも伺えるように三角形の三辺が塀と壁に囲まれ、この写真では日が差し込んでいるが、家の北側に面するため、実際のところは日陰の湿りがちな空間であることの方が多いであろう。
ただ、大きなメリットもないわけではない。北西側1.5m弱のブロック塀の向こうにはA見邸の木々が緑生い茂っているのだ。特にうちの敷地にまで葉を伸ばしそうな柿の木は素晴らしく、それは応接室からも悠々見上げられて、そのまま借景にできるといった按配なのだ。それを活かさない手はなく、そうした意味でも私はこの三角コーナーには是が非でも庭を造りたかったのだが、実際真夏日に背後に青々と茂る緑を見て、そうなって本当によかったと思った。
さて、三鷹金猊居に戻るが、金猊居にも後庭とでもいうべき、家の後ろに位置するあまり光の差さない庭が母屋の西側にあった。その庭は縁側を挟んで私の部屋の横にあり、ひなびてはいたが、私自身にとっては愛着のある庭だった。谷中に持ってくることはしなかったのだが、お地蔵さんがあり、グミや杏の木もあって、地面には苔が生えていた。また、手入れがあまりされなくなってからは朽ちてしまったが、鹿威しの音も雨の日にはカーンと鳴り響いていた。
裏寂れた庭ではあったが、私の中では後庭のイメージをベースとして、他に石灯籠は石灯籠があった場所の雰囲気(母屋側中庭のある意味中心的な位置に立っていた)を借用しといった具合に進めていくのがよいのではないかと思う。
最初は玉砂利敷いての枯山水的なことも考えはしたが、掃除の大変さのこともあるし、土に苔がベースでいいんじゃないだろうか。2つあったうちのうちが持ってきた石灯籠がどちらかというと灯籠自体が苔生した感じになってるいるので、なおさら玉砂利とは合わない気がするのだ(ちなみにもう一つの従兄弟の家に行った灯籠は割と輪郭がはっきりとして玉砂利にも合う感じだ)。
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2004年09月14日 (火)
母からの言付けより。
雨の日の翌日、天気がいいので洗濯物を干していたら、上から大粒の雨が風の向きでドヒャーッと降ってくるので(晴れてるのに)、山本さんに言ったら屋上のタラップの天板(ポリカーボネート)に水が溜まってそこから落下するのでは?と一考してくれそうです(矢原さんの話では傾斜をつけとくべきなのに真っ直ぐ平らに張ったかもとのこと)。
その傾斜修正工事が本日行われたそうです。
2004年09月12日 (日)
赤瀬川原平著『我輩は施主である』文庫版46ページあたりにA瀬川氏が子供時分、門司に住んでいたときの話が出てくる。門司は「港からぐんと切り立っている地形で、家の回りは上も坂道、下も坂道で、世の中はそういうものだというのが僕の基本に焼きついているのだろうか」と氏は言うのだが、そういう意味では私含め、長らく三鷹に住みついてきた我が家族は家の回りが平地であることが焼きついていることになるのだろうか。
A瀬川氏はその後、東京での活動期(氏はその時期を賃貸呼吸の頃と表現する)を中央線沿線の平地がちなところで過ごしたそうだが、その頃は忙し過ぎて子供の頃に焼きついた基本(デコボコ感覚)は忘れていたそうである。それが賃貸呼吸からローン呼吸へ変わる年頃になって再び子供の頃の感覚が蘇り始めたらしい。というか、実際のところデコボコ感覚が土地決定の決め手になったというくらいなのだ。
それを読むと、私たちの土地選択は果たして正しかっただろうか?という不安に駆られぬでもない。何しろ今度の谷中の家は千代田線・根津の駅から歩いて7分は続く坂道の頂上にあり、そこからまた坂道を下っていくような、いわゆる坂の天辺にあるのだ。地名は谷中だけど、どっちかというと谷上と呼びたくなるようなところなのだ。
ここで土地選択の理由を書き出すと長くなるので、それはいずれ書くであろう計画初期時のエントリーに譲るが、いずれにせよ、谷中という場所を一つのターゲットに決めて土地探しを始めたとき、この坂の天辺の谷上をここならいいんじゃないか!と最初に言った張本人はこの私なのだ。いや、別に責任逃れをしようというワケじゃーないのだが、こうした土地決定においてまだまだ賃貸呼吸真っ只中の若造の直感を信じてしまって良かったのか?という話である。
ちなみに私個人は三鷹を離れてから京都千本今出川・大阪天満と住んでいるが、いずれも大した坂のない平地に住んでいる。それは偶然、最初から坂のない町で不動産屋を回っていたから考えもしなかったことだが、もし坂の多い町を候補地としていたなら、そこでそのことに考え(躊躇)は及んでいたであろうか?──こればかりは結果論でしかないが、谷中の土地選択にあたっては先の賃貸呼吸に加え、私自身が当面はそこに住むことがないという「住む」ことに対するリアリティの薄さも、そうした問題を気に留めなかった要因となっていたことだろう。
ところで現住人からは今のところは坂に対する苦情は聞かれない。実は引越直後に何日か私が先にあの家に寝泊まりしていたとき、まず、いの一番の必需品として電動アシスト自転車(※) を思い、母に急ぎ購入させたのだが、それは思い切り余計なお節介の買い物となってしまった。欲しくもないのに買わされたと後になって言われ、諸経費はすべて私持ちとすることとし、今や1F前室を窮屈にするだけの無用の長物となってしまっている。ホントに誰か買ってくれないだろうか?
とそれはともかくとして、今後、子供の頃からのベースとしてきた平地感覚とは違うところで住み続ける住人のことが心配なことは心配である。特に高齢の二人には単純に感覚の問題だけでなく、身体的にきついということもあろう。ただ、A瀬川氏の家を設計したF森教授に言わせれば「やっぱりね、お城のてっぺんがいちばん気持ちいいんだよ、人間は」と天守閣こそ一級物件とのことなので、まあ、そちらの気持ちよさに馴染んでもらうしかない。確かに屋上なんか上がるとつい口を突いて出そうにはなるんだよね。北島康介の例のセリフが(汗)
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2004年09月11日 (土)
まず何よりもショックが大きかったのがキッチンのシンクである。引越直後にシンクに小さなサビがたくさんあることに気づき、山本さん&豊田さんにも見てもらい、業者のクリナップに伝えておいてもらっていたのだが、クリナップからはそのようなサビが納品直後から付いているということは考えられず交換には応じられないという返事が返ってきたらしい。
まあ、確かに新品でサビ付きの製品を売りつける業者がいたらもうとっくに倒産しているだろうが、おそらく原因は工事直後の掃除のときに他のところを拭いてる間に雑巾に金属片か何かが混じり、それがサビを引き起こしてしまったのではないか?とのこと。シンクだけ返品という訳にもいかず、一応、山本さんの方で一時的なサビ止め対策は練ってくださるそうだが、使い始めからサビ付きのキッチンと付き合っていかなければならないというのは何とも淋しい話だ。
他、バス、トイレの入り心地については何も言っていなかった。私も含め、基本的にモノを誉めることの少ない家族なのである。
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まずこれは「一週間住んでみて」(※) のエントリー時には書かなかったことを繰り返し聞くことになったのだが、全体的にライトの数が多すぎるそうである。とりあえず8月の電気代が1万円を越えてしまったらしい。んなバカな?って感じだが(大阪の我が家は2人住まいで3〜4千円)、基礎アンペア数をもともと多く取っている(40A×2)ことが原因してるのかもしれない。今度、上京したときに明細を見てみたい。
それから、これは私も引越直後に何日か暮らして感じたことだが、確かにキッチン〜ダイニングのダウンライトの数は多すぎたかな?と思った。私の滞在中はダイニングでは壁付きのプラケットだけ点けるようにしてたのだが(3Fにあがる階段のところにもスイッチがあって便利なので)、実家ではそちらの方がなくてもよかったと言っている。どうも壁付きプラケットよりは壁に絵を飾るためのピクチャーレールの方が欲しかったようだ。さらにはプラケットがあると絵を飾るにも邪魔になってしまうのだ。実はこの点に関しては母は計画中もそんなことを仄めかせてはいたのだが、ハッキリ言わなかったのでプラケットで押してしまったのだ。
あと、2Fトイレ+洗面室のダウンライトも2つもいらなかったという。これは確かに我が家族は以前から洗面台本体に付いてる蛍光灯をダイレクトに点ける傾向が強かった訳で(ただし、私の妻は室内照明を点けることの方が多いようだ)、そうした生活習慣をもう一歩深く洗い出していれば1個分のダウンライトは浮かすことができたであろう。その辺は完全に施主側の見落としである。
スイッチやインターフォンに関しても、その設置位置に対して幾つか不満が出ていた。
ただ、インターフォンに関しては打合せ時は私のみが2Fの部屋の中心部(カウンタ上の壁)にあるのが一番使いやすいはずだと主張していて、初音の方としては意匠的問題、また母もカウンターにはトースターや電気ポットなど置きたいものが山ほどあるということからキッチンと洗面室の間の突き当たりの位置にと確定したのだが、母はそんな経緯はすっかり忘れているようで、何でインターフォンをカウンターの上にしなかったんだ!と相当に後悔しているようだった。塗装も中霧島だから交換するにも厄介だしね。他、電話の位置も気に入らず、さらには電話自体も使いにくいとか言って新しいものを買いたいようなのだが、さすがにそこまで無駄遣いしてたら罰が当たりますよ。それに関してはこちらで考えがあるからと一応宥めてはおいたが、今度行ったら新しい電話に変わってたりしてね(^^;)
スイッチに関しては、さきほどのライトの数の問題と同じで、要は少し多すぎだったためにそれだけ混乱も多いという状態のようだ。それともう一つ、これは設計段階でもっと検討の余地があったのだろうが、和室のシーリングライトのスイッチをダイニング側に付けてしまったのは結構大きな失敗だったようだ。やはりその部屋の電気はその部屋の中で点けたいと思うのが、我が家族の共通の心情のようで、そういえば私も谷中にいたときにはちょっと不便だなと思っていた。シーリングライトだけは少し奢ってリモコン付きのものでもいいのでは?と松下電工のショールームに行ったときに思ったものだが、言わず終いにしてしまった。まあ、コスト削減の方向にあったからね。
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東京も7月前半から40日間連続真夏日が続いたというだけに、引っ越して直後の住人たちの家のイメージは暑さに彩られているのかもしれない。2Fバルコニーでは植木がコンクリートの熱で焼けないように!とウッドデッキパネルを11枚ほど用意したが、それでも南天の実のなる方の植木鉢が一つ死んでしまったそうだ。
そしてバルコニーと言わず、2Fダイニング〜和室と一乗寺側開口部からの朝日はかなり強烈らしく、和室でゆっくり寝ること考えたらカーテンでも付けたいくらいだという話だった。
心配していたトップライトについては何も文句言ってなかったなぁ(こっちから聞けばよかったのだが、遠慮してたのだろうか?)
それから3Fタラップの床面はパンチングメタルになっていてその下にパーゴラはあるものの、光や水は筒抜け。よって雨の日などにバルコニーにちょこっと出る必要があるとき、そこに庇的機能を持つものがないのが結構不便なんだとか。。
母によれば3Fタラップ床面は穴の空いてない床の方がよかったという話だ。
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毎年祖父の命日前後でお経を上げに来てくださる説惇さん。今年はさすがに引越の前後する7月にお願いするのは無理だろうと話が先送りとなっていたのだが、その日程が 9/23(木) に決まったと実家から連絡が入った。仏壇も新しいのに変わったので、今年は開眼供養もしてもらわなければならない。
しかし、生憎にもその日は私が上京を考えていた前日。説惇さんは高齢ながら話のたいへん面白い方なので、たった一日遅れとはツイてなかった。
ところで実家からの電話で多少その後の谷中での住み心地についてなど聞けたので、前「一週間住んでみて」(※) エントリーの続編「一ヶ月住んでみて」ってことで、今回は少しエントリーを分散させて書いてみたい。
しかし、住み心地に対する住み手の声というのは前回もそうだったけど、厳しいもんですな。おそらくこれまでの生活習慣から外れるものはすべて不便と感じ、それに対し批判の声を上げてしまうのでしょう。設計・施工業者をフォローする訳ではありませんが、こうした前提条件が住み手の内部の声ではどうしても起こりがちであることを最初に宣しておきたいと思います。
何しろ引っ越してよかったこととして言っていたのが、芸大音楽部の学生コンサートが無料で観られる(母)、台東区立図書館の蔵書が案外良い(父)ってことくらいだと言ってた訳でして。。
ちなみに図書館まではチャリで20分くらい。父が三鷹の家から武蔵野市立図書館まで通ってたのと大体同じくらいの距離だそうです。
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2004年09月10日 (金)
まず光庭の具体的イメージを考えていく前に「光庭」という言葉自体に触れてみたい。
実は私自身「光庭」という用語を豊田さんの書かれた1F平面図を見るまでは知らなかった。いや、読み知った言葉ではあったかもしれないが、朧気ながらイメージできる言葉だったので、厳密な語義を知ろうとしていなかった。
確か打合せの席上では「ひかりにわ」と言って話もしていたので、その読み方に間違いないと思うのだが、広辞苑には出ていない。代わりに「こうてい」で探してみると「後庭」(※1) というのが出て来て、それはうちの庭を表現するのにある意味もっと適した言葉だったりする(笑) だが、その意味は「光庭」の活字が持つイメージとはだいぶ違う。もちろん「こうてい」で調べても「光庭」は出て来ない。
しかし、Google で検索すると「光庭」の検索結果は約333,000件に及び、そうマイナーな言葉とも言えなそうだ。ひとまず建築士の我流な庭づくり講座・気ままな庭というサイトの「自分流に愉しむ気ままな庭づくり、光庭」という記事に光庭のニュアンスを伝える文が出ているので、それを一部引用しておきたい。
「光庭」。ひかりにわ。読んで字のごとく、光の庭。建築で使う言葉です。例えば、五階建てのマンションだとして、建物の外周が全部バルコニーになっていて、建物の中央部にある階段や玄関まわりが暗いときに、吹き抜けをとったりします。その吹き抜けは天空の光をとり入れるためのものですね。そして、その吹き抜けの底が、「光庭」といわれる庭です。
しかし、庭といっても、光庭ではほとんどの場合は植物が植わっているわけではありません。もともと暗い場所ですし、そういう建て方をするくらいですから敷地に余裕があるわけでもありません。草木を植える庭という概念はありません。たいていは、狭い井戸の底のような空間。それでも天空の光の力は絶大で、ひと息つける空間になるわけです。何もないときもありますが、椅子が置いてあったり、ファウンテンがしつらえてあったりします。場合によっては石庭だったりします。
また、集合住宅博物館というサイトの新・集合住宅史という記事の最後の方に「光庭」の起源的なことが書かれているので、その内容については全文引用しておきたい。
■光庭(ライトウェル)...1904年 ゲスナー(ドイツ)
19世紀の産業革命によって、欧米の諸都市に人口が流入し、増築を繰り返し街区がどんどん建て詰まっていく。それにともない中庭の規模もどんどん縮小され、結果として光庭程度の大きさの中庭ができてくる。しかしこれは計画の産物ではない。
計画してつくられた「光庭」は、ドイツの建築家ゲスナーの発明とする。ゲスナーは、オウエル(サクソニー)で生まれ、ドレスデンとベルリンで建築を学んだ理論家であり実践的な建築家である。1897に自分の事務所を構えるまでに、アルフレッド・メッセルらの事務所で修行していた。
彼は、平面計画の理論的な分析をおこない、光庭とそれを囲む部屋の構成の最適解を生み出した。光庭は、小さなホールと玄関をもつ暗い廊下をなくしたばかりでなく、それまで縦に並んでいた居間と寝室の関係を機能的に配列することを可能にしている。
1904年のモンセンシュトラーセ、1905年のニーズアシュトラーセの住棟に「光庭」がみられ、階段室とホールを明るくし、住戸を開放的にしたかを示す優れた例となっている。
以上、多少の脱線要素まで加えたが、上記の引用記事などから類推すると「光庭」とはどちらかという植木があって何があっての庭というよりは、自然光を採り入れるためのスキマ空間と捉えた方が良さそうである。国立国会図書館などがその極端なわかりやすい例になりそうだ。
さて、そうした語義に忠実に従って見たとき、我が家の庭が「光庭」となりうるのかは、実は私自身の中では四季を通して確認してからでないと何とも言い難いところがある。とりあえず私は夏しかまだあの家を経験してない訳だが、少なくとも日差しの角度が高くなる夏においてはあの場所は充分「光庭」だった。
しかし、こうして私が「光庭」という語句に対して妙に慎重な姿勢を見せるのにはちょっとしたワケがある。それはこの家作りの計画が始まった中初期の頃(2002年12月頃)に話は遡るのだが、その頃お願いしていた前任建築家のMH氏とそこの場所に庭を作るか否かで大議論になったのである。そのとき私はそこに是非とも庭がほしいという主張をして、結局、半ば強引に建築家に受け入れてもらうことになったのだが(そのときの議論内容はいずれ書き起こすことになるだろう)、そこに庭スペースを作ること自体がMH氏には大いに心配されたのである。そしてその理由は「光庭」という言葉を使われた豊田さんとはおよそ対極のものであった。
敷地の北側にある上に、一乗寺の4mの境界塀、そして我が家の10mの高さの壁に囲まれた空間に光など差し込むべくもなく、ましてやそれが庭として気持ちいい空間になるはずがない。
MH氏の心配は乱暴に纏めれば確かこんな論旨だったと思う。
ただ、私自身はその場所に光が入らないというのも承知の上で、尚且つ、それでも庭が欲しいと言っていた。それは京都在住時代、町屋にはさほど有名でもないお店でもちょっとしたところに小庭(坪庭)があったりして、それが何とも気持ちを落ち着かせてくれたのだ。中にはまるで光の入って来そうにないジメジメした坪庭もあった。しかし、それはそれでまた別の味わいがあるというか、むしろそれを効果的に見せる演出のなされた場所などいくらでもあった。だから私は仮にそこが悲観すべき場所であったとしても、小庭スペースが欲しかったのである。
とはいえ、さすがに私にとってもそのスペースは「坪庭」というのがせいぜいであり、あるいはさきほど広辞苑で出て来た「後庭」ってあたりが妥当な消極スペースとしての認識だった。ところが豊田さんの図面には「光庭」というポジティヴな言葉が用いられ、ビックリ&慎重にならざるを得なかったのである。まあ、豊田さんの計画になって建物の一部が高さ10m→4mとなり、以前よりは光が入り込みやすくなったという実情も「光庭」という言葉の選択に加味しているのかもしれないが。。いずれにせよ今度の上京時になぜに豊田さんが「光庭」という言葉を使ったのかは聞いておこうと思う。
□◇
※1)後庭(こうてい)
【広辞苑】(1) 家の後ろの庭。(2) 奥向きの宮殿
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2004年09月09日 (木)
我輩は施主である(※) のエントリーで同著を「回りくどい」と数ページ読んだだけの私は評していたが、その理由がもう数ページ読み進めることで不意にわかった気がした。
しかし、こういうことって本当に読み進めているうちに不意に見えてくるもので、決してどのページのどの行がそう判じさせたというものではない。と既にこのエントリー自体が回りくどくなってきているので本題に入るが、なぜに赤瀬川原平氏の『我輩は施主である』が回りくどく感じられたかと言えば、それは氏が施主であり、読者の私も施主だったからである。
現代美術あがりでおそらく著作活動には照れというのもあるのだろう。どこか冗談めかした氏の文体はもともと回りくどさを兼ね備えていたと言えなくもない。だが、それは氏の持ち味であり、むしろ私はそれを氏一連のユーモアとして好意的に読めていたはずである。ところが『我輩は施主である』だけは私にとってどうも本当に回りくどい(今風にいえばウザい)のである。その理由はさきほど示した通りだが、それはおそらく施主になったことのない読者が読んでる限りはウザいと感じられるほどには回りくどくないという逆命題に繋がるはずだ。
もう少し具体的に書こう。
赤瀬川氏も本書のはじめの方(文庫本16P)で「施主」と「素人」を結びつけるが、世の多くの施主は家作りに対し素人で始まり、計画〜契約〜工事へと至る過程で建築に関する特殊な知識を身につけ、竣工する頃には一端の玄人さんになっている。ところがそうした経験を活かしてまた次の家を建てる機会に恵まれる施主はほんの一握りしかいない。多くの施主にとって家作りとは人生で1回限りのものなのだ。
昔であればそうした1回きりの豊穣な経験は、家の完成と共に日常の中で埋もれていくか、せいぜいが新しく家を建てようとする身内や友人たちの相談相手となることで役立つ機会が保たれていたようなものだろう。
しかし、インターネットというメディアが普及というレベルを超えて定着した近年、多くの施主たちは自身の施主体験を日記を基本とする様々な形で公開し始めている。この谷中M類栖もそのうちの一つだが、特にブログ(Weblog)というツールの出現はその傾向を加速させるに違いない。私も含め、なぜ多くの施主たちがこうして家作りの体験記を書いているかといえば、間違いなくそれは「自分が今、トンでもない経験をしている」と思っているからだ。さらには、ある程度の施主玄人になってくると「こうした自分の過剰な体験をこれから施主になろうとしている人に伝えてあげたい(素人だったときの自分に諭すように)」という妙な使命感まで湧いてくる。とにかく建築業界というところは言葉も習慣も一般生活者には不馴れな閉鎖したところなのだ。そんな世界を戦い抜いてきた多くの先進の施主たちは、そんな異様な世界を歩いてきただけに、後進の施主素人たちにはなるべく道を広く開けておきたいという親切心に充ち満ちている。
そして赤瀬川氏の『我輩は施主である』もまったくその例に漏れない著作だと言っていい。施主素人に対して物凄く親切に書かれているのだ。まして本書は単なる体験記ではなく、体験的超物件小説である。小説なのにこんなに親切でいいのか?と言いたいところであるが、ただ、この親切ぶりこそが文体とは別のところで施主玄人になってしまった者にとっては「回りくどい」という致命的欠陥に結びついてしまっているのだ。
しかし、ここで赤瀬川氏が反省する必要はまったくない。なぜなら、この「回りくどさ」という致命傷は建築業界の閉鎖性の中にこそあるものだからだ。何しろこれまでの建築体験それ自体回りくどかったのであるから。。まるで昨今の合併問題に揺れるプロ野球界のような話だね(^^;)
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2004年09月07日 (火)
予定では8/31(火) の打合せ時に話し合うことになっていた光庭についてであるが、打合せ自体が延期となってしまったため、約1ヶ月、話は持ち越しとなってしまった。
ただ、母が植栽の時期についての心配を口にしており、それに関しては豊田さんにメールで問い合わせたところ、以下のような返事が返ってきたので一部転載しておきたい。
植栽の件ですが、植付け/植え替えのことだけ申しますと、植物の種類によっても違ってきますが、夏場の暑いシーズンの植付けはあまりしません。むしろ春前か秋から冬前にかけてがその時期となります。
大まかな考え方ですが、花を咲かせる時期はエネルギーをそちらに取られるのでその前までに植付け/植え替えする。夏は温度調節の為、葉から多くの水分を蒸散させるので根を傷めたく無いので植え替えは好ましく無いというふうに学んでいます。
ですからこれからが植栽はオンシーズンになると考えています。
というわけで、9月末でも心配はなさそうだが、計画は早め早めにしておいた方がいいということで、私の上京前に一度、母と話し合う場を考えておいてくれるとのこと。
私自身の光庭に対するイメージは打合せ前にもここで何度かエントリーしてみようと思います。
2004年09月06日 (月)
ずっと前から欲しいと思っていたのだが、古本屋回ってもなかなか見つけることの出来なかった赤瀬川原平著『我輩は施主である』(中公文庫)をやっとこさ Amazon のユーズド商品って形でゲット(99円+送料310円)。
ま、単行本でもいいなら定価でもいつでも買えたんですが、無闇に蔵書を増やしたくない関係で文庫の出待ちしてました。
まだ数ページしか読んでないけど、施主を2年もやってきた者にとってはちょっと回りくどい(そういう意味ではこの blog も同様だろうが)と言うか、いつもの赤瀬川節がなぜか小煩く感じられる。この印象は読み進めるうちに変わってくるだろうとは思うが。。
それとタイトルからの想像通り、冒頭で「我輩は施主である。家はまだない。」と漱石の『吾輩は猫である』をパクるのだが、「吾輩」を「我輩」としたのは何か意味あってのことなのかな? 余談だが、ATOK で返還すると「わがはい」は「吾輩」か「我が輩」と「我輩」の方は間に「が」が入ったのしか出て来ないので、いちいち「が」を消すのが面倒くさい。登録するほどのもんでもないし。。
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2004年09月04日 (土)
8月末のスケジュール(※) では私の上京予定を書いていたが、この予定は実際にはまるごとなくなってしまった。歩道の切り下げ工事がその時期に行われる見込みがまったく立たなかったのである。
そして本日、ようやく矢原さんからのメールで工事の日程が確定したことがわかった。
歩道の切り下げ工事は 9/18(土)、9/19(日) を予定。
エントランスの玄関ポーチのタイル工事および車庫部分のコンクリート工事はその直後から行うが、9/20(月) 、9/23(木) が祝日のため、9/30(木) 前後まで掛かってしまうとのこと。
そういう訳で、私の上京予定は概ね1ヶ月遅れの9月最終週ということになりそうだ。
なお、歩道の切り下げ工事が土日に行われるのは道路のもっとも空いているときが選ばれているのにほかならない。それもおそらく夜に行われるであろう。
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その後、妻から「あなたは10/3(日) 15:00 にフェスティバルホールでのジョアン・ジルベルトの大阪公演チケットを買ってる(S席¥12,000-)ことを忘れないでね!」と言われ、危うく東京に居続けそうになってたことに気づく。
これは9月最終週の1週前に上京しておいた方が賢明かもしれない。
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たまたまお昼にボケーッと「プライスバラエティ ナンボDEなんぼ」という関西ローカルの番組を見ていたら、その中で紹介された豪快大金持ち=関口房朗さんの豪邸が、家の平面図をメディア上で公開されて以降、やたらと泥棒が入るようになったらしい。
まあ、クイズの解答でそういう話が出て来ただけなので、詳しい話までは聞けなかったのだが、やはり Web 上で家の平面図をアップしてしまうってのは危険なものなんだろうか?
思えば家作り系サイトで平面図を載せてるのってあんまり見た覚えがないんだよね。ただ、その代わりと言っちゃー何だけど、不動産絡みの建築系サイトでは売る目的があるために大抵載っている。そう考えるとその物件は売れる前の図面が出ている訳だから、売れる前に泥棒がプリントアウトしておいて、いざ人が住み始めたらそれを片手に侵入するってこともあってもおかしくないと思うのだが、どうなんだろか?
とこうしたことを書いたのは、実は「建築写真撮影」(※) で書いていた清さんの撮影による写真をアップするにあたり、平面図上に矢印入れてそれをボタン代わりに写真が切り替わるという見せ方をしようと考えていたのだが、やはり何かあったときにはいのいちばんに責任問われそうだよな〜と思い、留まっている次第。
しかし、思えば建築雑誌なんかだと平面図ばかりか断面図まで住宅でも出てることあるけど、それって当然施主の許可も取ってあるわけだよね? 泥棒については大丈夫と高を括っているのだろうか?
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2004年09月03日 (金)
All About Japan の「今日のイチオシ」のところに「住宅展示場にコルビュジエ登場」という記事を見つけ、どういうこっちゃ?と思わずクリックしてしまったのだが、よく見たら「住宅展示場にコンシェルジュ登場」の勘違いでした。
それにしても昔からずーっと疑問に思っていながら恥ずかしくて誰にも聞かずに来たんだけど、「コルビュジエ」って何で最後の「エ」が「ェ」じゃないんだろか? それにみんな「コルビジェ」って発声しますよね(笑)
2004年09月01日 (水)
天神橋筋商店街の古書店(天五古書店 books&thoughts→矢野書房→天牛書店)でそれぞれ購入(以下購入順)。
なんだか難い本を軟らかい書店で、軟らかい本を難い書店で買ってしまった感じ。
コーリン・ロウ『コーリン・ロウは語る──回顧録と著作選』(鹿島出版会・¥4,830→¥2,800)
渡辺篤史『渡辺篤史のこんな家に住みたい』(講談社・¥1,700→¥800)
藤森照信『藤森照信の特選美術館三昧』(TOTO出版・¥2,500→¥1,280)
建築関連本とはいえ、まるで並列されそうにない3冊だが、一つ共通項があるとするなら、すべて本のタイトルに著者名が入っていることだ。