2005年12月07日 (水)

大阪日日新聞にて

051207_nichi2.gif旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」のブログとその活動が12/7(水) 付の大阪日日新聞で紹介されました。
これまで新聞取材ってあんまり良い印象なくて、正直大した期待もしてなかったんですが、これが箱を開けてみて吃驚。約1時間半の取材で喋りまくったことをほとんど余すことなく、また下手な誇張もなく、しっかり取り上げてもらえました。

まずは取材された記者の浜さんに感謝!
そしてこの話を繋いでくださった maybe5さん、
大森さんにも謝意を表します。
あと、名前も何もわからないのですが、この記事のレイアウトを組まれたデザイナーさんにも声を大にしてありがとうと言いたい。
なぜならこの記事唯一の縦組明朝見出しで

「阪急の心変わり」期待

の一行が掲載されたからです。

by m-louis : 22:35 | comments (6) | trackbacks (2)

2005年12月05日 (月)

『大阪人』で阪急が・・

osakajin0601.jpg関西圏でしか発売してないかもしれないけど、『大阪人』という雑誌の最新2006年1月号(vol.60)「発掘 the OSAKA」のコラムにて「阪急百貨店大阪うめだ本店」が取り上げられている。もちろんメインテーマはコンコースで、伊東忠太の四神モザイク壁画の制作のエピソードについても触れられている。「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」の歴史解説コラムで日間仁氏の書かれた力作「阪急ビルディングの建築に就いて」では、伊東忠太の言葉を引用しながらより詳しく書かれているが、玄武・朱雀・鳳凰・白虎の四神を発想のもとに描かれたはずの壁画が龍・翼馬・獅子・鳳の四動物となってしまった経緯など、その説明は非常にわかりやすい。

by m-louis : 00:48 | comments (2) | trackbacks (1)

2005年10月08日 (土)

父の満州と阪急

CHAIN-STORE STREET, DAIREN

小林一三とのコラボ」でまずは母方の祖父がらみで阪急創設者の小林一三氏との縁について取り上げたが、今度は父がらみの関係で阪急との縁を見ていきたい。

前回「父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二氏と知り合い」と書いたが、もう少し正確に書こう。父は満州は大連で暮らした中学時代、浜崎真二氏の息子さんと同級生で、その縁で浜崎真二氏にもかわいがってもらっていたのだ。

by m-louis : 06:42 | comments (0) | trackbacks (1)

2005年09月28日 (水)

小林一三とのコラボ

BALMY BREEZE

父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二氏と知り合い。
祖父はその履歴に「1937年(昭和12年)、株式会社東宝劇場(社長小林一三氏)の委嘱に依り同劇場階段ホール壁画製作」とあり、「薫風(騎馬婦人群像図)」というタイトルの竪十尺(約3m)、幅十八尺(約4.8m)の壁画を制作している。残念ながらその壁画は1958年(昭和33年)東宝劇場の火災により焼失したが、我が家にはその下絵と葉書サイズのモノクロ写真、B5サイズのセピアカラー写真が残されている。

そんな二つの縁故が東京で生まれ育った私にも「阪急」をずっと身近なものにさせてくれたのかもしれない。京都に引越して初めて阪急電車に乗ったときも「おぉ〜、これが阪急電車か〜」と鉄道マニアでもないのに一際大きな感慨に浸ったものである。まあ、そうでなくともあの臙脂色の阪急電車ほどにカッチョええ電車を私は知らんが。。

by m-louis : 03:25 | comments (1) | trackbacks (1)

2005年09月23日 (金)

阪急梅田: 伊東忠太の壁画

HANKYU UMEDA CONCOURSE HANKYU UMEDA CONCOURSE
龍(東側・左) 有翼の馬(東側・右)

阪急梅田コンコースを残したい・・旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」(微妙にタイトルが変わってってます)で手一杯の状況が続いてたけど、ぼちぼちこちらでも Flickr! にアップした写真等を掲載していく予定。

まずは解体を免れた設計者の伊東忠太によるモザイク壁画。
この壁画の保存が可能になったことで、建築業界の人たちは「御の字」ってことにしてしまったのかな〜って気がする。

by m-louis : 02:58 | comments (3) | trackbacks (1)

2005年09月19日 (月)

阪急梅田コンコースを残したい・・

阪急梅田コンコースを残したい・・緊急告知!
阪急梅田コンコースを残したい・・
その一心から「阪急梅田コンコースを・・」という建造物の保存を切望する専用のブログを立ち上げることにした。
ここでやっててもよいのだが、色々混乱する要素も出てくるだろうし、それに「このブログについて」という最初のエントリーでも書いたように「中継ぎ〜セットアッパー的役目を果たせれば」というブログなだけに途中で管理者交替ということも考えられる。そうするとこことは一線を画しておいた方がいいだろう。

by m-louis : 06:03 | comments (0) | trackbacks (1)

2005年09月13日 (火)

阪急梅田駅コンコース解体?

HAN9 DOME

今さっき、夕方のニュース見てたら、開いた口がふさがらなくなってしまった。
阪急梅田駅のコンコースがビルの建て替え工事に伴い、解体されるのだという。
壁画は残すというが、そういうもんじゃないだろう?!!!!!!(超激怒)

たまたま先月、Flickr! に阪急コンコースの写真をアップしたら、昔関西に住んでた人たちから「こんなステキなところだったんだ」的なコメントが寄せられた。確かに案外通勤通学路となっている場所って周りを見ていないものである。何せ遅刻したらあかんだけに、、が、20代の後半に1年間京都で一人暮らしをして、その後、所帯を得て現在の大阪に移り住んだ私にとって、このコンコースは関西に「してやられた」気分にさせられた一番のものだったかもしれない。これに対抗できる東京の駅と言ったら東京駅くらいか?、、いや、しかしその艶というか豊饒さで言えば、明らかに阪急の方が優っている。そういう意味ではヨソ者をたじろかす存在感を持った数少ない場所だったのだ。

本当に解体してしまっていいんだろうか?
まあ、三鷹金猊居の解体を選択した私が言えた立場ではないが、壁画を残したとしてもあの空間の艶まで伝えられるとは到底考えられない。今更遅いのかもしれないが、あのコンコース部分をまるごとそっくりくるむような設計プランでも新たに出て来ないものだろうか? 関西で自慢できるトップクラスのものが消えていく。

2005年05月07日 (土)

新桜宮橋のゴンドラ

050507_sakuramiya.jpg

春には桜の通り抜けで賑わう大阪造幣局すぐ脇の大川に架かる桜宮橋の並びにもう一本、新桜宮橋の建設工事が始まっている。どうせなら桜のシーズンが終わってから工事始めりゃいいのに(三脚立てて一生懸命桜撮ってるカメラオジサンたちをがっかりさせないためにも)とも思ったが、まあ、世の中そんな風流には付き合ってくれないものである(工事は2005年1月25日から着手)。

050507_gondola.jpgで、つい先日その新設工事の行われている隣の元からある桜宮橋(通称:銀橋)をいつものように自転車で通ったら、新桜宮橋のアーチ部分がまるで観覧車のゴンドラのようになっていて、そのただならぬ様子に思わず私もカメラオジサンになってしまった。いや、まあ、三脚までは立ててませんが(笑)
もちろんベニア材で囲われた仮設部分はいずれ取り払われてしまうのだろうが、ちょっとそこに何が出来るのかは興味深い。

と思ってネット検索してみると「銀橋ホームページ」というサイトが国交省の管轄で出来ていて「デザインは市民の皆さんからいただいた意見を参考にして、有識者からなる新桜宮橋デザイン検討委員会によって決めました。この委員会メンバーには、建築家の安藤忠雄先生にも務めていただきました。市民の皆様の意見では、約4分の3の方が、今の銀橋と同じ型がいいと答えていることを踏まえ、アーチ橋にすることになりました。」(ラジオ大阪「大阪のみち なにわのみち」より)とのこと。

050509_osakajo.jpgとりあえずその仮設ゴンドラが取れるとどんなアーチになるのかは乞うご期待といったところだが、ふだん最寄りのJR環状線桜ノ宮駅へ行くのに桜宮橋の一つ上手にある源八橋を渡る私の身勝手を言えば、源八橋から大阪城を望むのに視覚上邪魔になるようなものになって欲しくないというのが第一。あとはダブルアーチで道路拡張することによって国道1号線を挟んで造幣局の向かいにある泉布観(1871年トーマス・J・ウォートルス設計)の敷地が狭まらないことを祈るばかりである。泉布観は建物もいいが、それ以上に裏寂れた敷地に木々が鬱そうと生い茂るあの日陰感が心地よいのである。

 1 |  2 |  3 |  4 | ALL
HOME
▲PAGETOP