2005年12月07日 (水)
「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」のブログとその活動が12/7(水) 付の大阪日日新聞 で紹介されました。
これまで新聞取材ってあんまり良い印象なくて、正直大した期待もしてなかったんですが、これが箱を開けてみて吃驚。約1時間半の取材で喋りまくったことをほとんど余すことなく、また下手な誇張もなく、しっかり取り上げてもらえました。
まずは取材された記者の浜さんに感謝!
そしてこの話を繋いでくださった maybe5さん、
大森さん にも謝意を表します。
あと、名前も何もわからないのですが、この記事のレイアウトを組まれたデザイナーさんにも声を大にしてありがとうと言いたい。
なぜならこの記事唯一の縦組明朝見出しで
「阪急の心変わり」期待
の一行が掲載されたからです。
この文言は私がこの活動を反対運動とは考えてないことを表明する核となるものです。それには当然「生ぬるい」という指摘もあるだろうけど、私の中ではあくまでクライアントのポジティヴな主体的判断により計画の変更は行われて欲しいという願望がありました。だから例えばマスコミや社会に訴えて、阪急を悪者扱いすることによって計画変更が余儀なくされるなんてのは以ての外の話。それと設計会社を日建設計 と決めた以上はこれも外部からの重圧によって変更なんてことは絶対あっちゃいけないと思ってました(もちろん阪急の主体的判断により、解約するというのなら構いませんが)。
こうした思考の背景には当然自分がクライアントとして取り組んだ家づくり経験と、平常のクリエイターとしての仕事観みたいなものが両翼から反映しています。それについてはタイトルを変えてまた改めてエントリーしましょう。
なぜか記事には小林一三に東宝劇場の壁画制作を委嘱された祖父 ばかりか、阪急ブレーブスの浜崎真二投手兼監督との縁故から父 の名前までが出てきますが、その辺はまあ、写真同様にご愛敬ってことで(汗)
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2005年12月05日 (月)
関西圏でしか発売してないかもしれないけど、『大阪人 』という雑誌の最新2006年1月号(vol.60)「発掘 the OSAKA」のコラムにて「阪急百貨店大阪うめだ本店」が取り上げられている。もちろんメインテーマはコンコースで、伊東忠太の四神モザイク壁画 の制作のエピソードについても触れられている。「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」の歴史解説コラムで日間仁氏の書かれた力作「阪急ビルディングの建築に就いて 」では、伊東忠太の言葉を引用しながらより詳しく書かれているが、玄武・朱雀・鳳凰・白虎の四神を発想のもとに描かれたはずの壁画が龍・翼馬・獅子・鳳の四動物となってしまった経緯など、その説明は非常にわかりやすい。
コンコースこそを阪急ビルの「内なるファサード」と表現する執筆者の酒井一光氏(大阪歴史博物館学芸員)は、そのテクスト冒頭からこの場所に対する愛情溢れる記述を続けられるが、その文末で「建物が変わってしまうのは寂しいことだが、新しい時代の建物に期待したい」と結ばれている。それだけは本心だろうか?と勘ぐりながら読んでしまった。
「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」では有志メンバー:のりみ さんの書かれた同誌に対するコメント を掲載しています。
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2005年10月08日 (土)
「小林一三とのコラボ 」でまずは母方の祖父がらみで阪急創設者の小林一三氏との縁について取り上げたが、今度は父がらみの関係で阪急との縁を見ていきたい。
前回「父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二 氏と知り合い」と書いたが、もう少し正確に書こう。父は満州は大連で暮らした中学時代、浜崎真二氏の息子さんと同級生で、その縁で浜崎真二氏にもかわいがってもらっていたのだ。
ネットで検索すると、1901年に広島で生まれた浜崎氏は慶応大学を卒業後、大連に渡り、大連満州倶楽部という社会人野球チームで活躍していたことがわかる。実際、父が言うには当時、満州では野球が大いに盛り上がっていて、相当に迫力ある試合が見られたという話だ。父が生まれる前の話だが、都市対抗野球の歴代優勝チームの記録 を見ると第1回から3回まで3年連続で満州倶楽部が優勝しているのだから、その実力のほどは確かである。
終戦後、日本に引き揚げた浜崎氏は当時まだ「ブレーブス」という愛称の付いていない時代の阪急軍の監督に就任し、兼任で投手としても投げている。彼の48歳での登板記録というのは今もまだ破られていない。それともう一つ特筆すべきなのがその身長。150センチだったというのだ。「小さな大投手」と呼ばれた選手はこれまでにもいたが、ここまでミニマムで大投手と呼び得た選手もおそらくは彼しかいないだろう。
引き揚げ後、いったんは郷里である山口(萩)に初めて帰った父であるが(三男坊の父だけは大連で生まれた子なのである)、まもなく同志社大学に入学し、関西に寄る辺のない父はそこで再び浜崎氏の世話を受けることになる。どうも最初のうちは当時、西宮球場にあった阪急選手たちの寮に寝泊まりさせてもらっていたらしいのだ。また、浜崎氏の息子さんと遊ぶのに、宝塚にあったという浜崎監督邸にも遊びに行っていたらしい。そして、その縁で父の阪急ブレーブス・ファンの歴史は始まり、それが東京で生まれ育った、そう簡単には阪急との縁を持ちにくい私にも伝染したというわけだ。もちろん私が物心付いた頃の阪急ブレーブスは山田・福本・加藤の同級生トリオが円熟期を迎え、物凄く強かったことも子供ながらに魅せられる要因ではあったろう。中学・高校時代の親と話したくなくなる年頃にあっても、どうにか父と子の対話は首の皮一つ阪急で繋がれていたように記憶する。まあ、それしか会話がなかった気もするが(笑)
と以上、これまで「父と満州 」「祖父は満鉄社員だった 」と二度にわたって取り上げてきた「満州」の話をこうして「阪急」がらみですることになろうとは私自身、予測もつかなかったことである。しかし、考えてみれば私の父方祖父は満州鉄道の社員であり、阪急もそのベースとしてあるのは阪急電鉄という鉄道会社なのだ。
近代社会においては鉄道会社こそがまさしく「線路」という線を土地に引くことによって、その周辺のまちづくり、そして人々の生活のイメージを築き上げてきた。今回、冒頭に取り上げた絵葉書は大連・連鎖街という云わば百貨店の建ち並ぶ大連市内の様子を描いたものである。もはや言うまでもないだろう。それが1929年創業の阪急百貨店うめだ本店のファサードに似通ってるということなど。
大連・連鎖街 CHAIN-STORE STREET, DAIREN 二百有余の各種専門商店が一つの統一ある体制の下に整然たる商店街を造るのが連鎖商店街である。言はゞ百貨店の街であり、街そのものが百貨店である。而も其処には映画殿堂や児童遊園、大浴場、支那料理店等があり、大連の新名所として又大連のプロムネイドとして見るべきものが多い。
最後にはなるが、父を阪急に引き合わせてくれた浜崎氏の息子さんである父の友人が去年の12月に亡くなり、父は葬儀にも参列したらしい。おそらくその父の友人の存在なしにはこのエントリーもなければ、あの「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」のブログもなかったことだろう。ここに浜崎親子のご冥福を謹んでお祈りいたします。
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2005年09月28日 (水)
父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二 氏と知り合い。
祖父はその履歴に「1937年(昭和12年)、株式会社東宝劇場(社長小林一三氏)の委嘱に依り同劇場階段ホール壁画製作」とあり、「薫風(騎馬婦人群像図) 」というタイトルの竪十尺(約3m)、幅十八尺(約4.8m)の壁画を制作している。残念ながらその壁画は1958年(昭和33年)東宝劇場の火災 により焼失したが、我が家にはその下絵と葉書サイズのモノクロ写真、B5サイズのセピアカラー写真が残されている。
そんな二つの縁故が東京で生まれ育った私にも「阪急」をずっと身近なものにさせてくれたのかもしれない。京都に引越して初めて阪急電車に乗ったときも「おぉ〜、これが阪急電車か〜」と鉄道マニアでもないのに一際大きな感慨に浸ったものである。まあ、そうでなくともあの臙脂色の阪急電車 ほどにカッチョええ電車を私は知らんが。。
ともあれ、東京に居ながらすでに「阪急」が特別なものだった私にとって、旧阪急梅田駅コンコースの印象はまさしく「ザ・阪急」とも呼ぶべき「阪急」イメージをMAXまで引き揚げてくれる象徴空間だった。あの金色のゴシック様式高天井にステンドグラスの取り付けられた薄暗い空間から一転、宝塚的な明るいヨーロピアン空間を抜け、地下鉄口へと降りていく。こんな場所、絶対東京にはないぞ!すげぇ関西!すげぇ大阪!と思って一年後に私はあっさり京都を捨てて大阪に移り住んでいたのである。
ただ、そのときの私にとってあのコンコースが「伊東忠太 の・・」ということはどうでも良かった。むしろクライアントである「小林一三 の・・」ということの方が俄然大きかったように思う。そんな個人的所感もまた gairaikaさんの「建てたのは誰か 」の一例として通底してこよう。ついでに言うとかつて建築「家(か) 」論で盛り上がったが、そもそも「Architect」の訳語を「建築家」としたのは伊東忠太であった。
ところで話は冒頭に戻るが、私にとっては実物を目にすることは永遠にあり得ない祖父が描いた東宝劇場の壁画だが、あの作品は私の中では他の祖父の作品とはどこか異質な印象が強い。もちろん祖父のいつも描いている線、よく取り上げるモチーフが描かれてはいるのだが、全体としての印象の中にそれこそ小林一三の色が入り込んで来てるように思えてならないのだ。小林一三本人に委嘱された祖父がどこまでのやりとりを氏と重ねてあの作品を描いたのかはわからないが、氏とのセッションなしにあの絵が生まれ得なかったことだけは確かだろう。そしてもちろんその壁画を見た多くの観客はそれを私の祖父の、としてではなく、やはり小林一三の、として見ていたはずである。
なお、せっかくの機会だから一つ便乗してしまうと、かつて有楽町の東宝劇場階段ホールにあった「薫風(騎馬婦人群像図) 」というタイトルの壁画に見覚えのある方、またはそれに関する何らかの資料等をお持ちの方、コメントでもいただけたら幸いです。
父繋がりの阪急ブレーブス関連の話はまた後日。
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2005年09月19日 (月)
緊急告知!
阪急梅田コンコースを残したい・・
その一心から「阪急梅田コンコースを・・ 」という建造物の保存を切望する専用のブログを立ち上げることにした。
ここでやっててもよいのだが、色々混乱する要素も出てくるだろうし、それに「このブログについて 」という最初のエントリーでも書いたように「中継ぎ〜セットアッパー的役目を果たせれば」というブログなだけに途中で管理者交替ということも考えられる。そうするとこことは一線を画しておいた方がいいだろう。
ちなみにライブドアのサービスを使うことにしたのは、阪急の買収球団であるオリックスが合併した近鉄を救おうとしてたのが他ならぬライブドアだったからである。それ以上の意味はないが、案外この問題は今度のことともまったく絡んでないとは言えないようにも思っている。
阪急については今後、新ブログを中心に展開していくが、必要に応じてこちらで告知的重複エントリーをすることもあるかもしれない。いずれにしても関西在住者、および建築関係者の方は新ブログも覗いていただけると助かります。
□◇
※)バナーは「Kai-Wai 散策 」の masaさんを通じて「藍blog 」の aiさんが作ってくれた。こういう状況下でのこうした協力は本当に嬉しい。そしてブログならではこそだな〜とつくづく思う。「ブログの力 」か?
またこのブログを通して、「阪急梅田コンコースを・・ 」を告知してくださってる皆さん、本当に恩に着ます。
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2005年09月13日 (火)
今さっき、夕方のニュース見てたら、開いた口がふさがらなくなってしまった。
阪急梅田駅のコンコースがビルの建て替え工事 に伴い、解体されるのだという。
壁画は残すというが、そういうもんじゃないだろう?!!!!!!(超激怒)
たまたま先月、Flickr! に阪急コンコースの写真をアップしたら、昔関西に住んでた人たちから「こんなステキなところだったんだ」的なコメントが寄せられた。確かに案外通勤通学路となっている場所って周りを見ていないものである。何せ遅刻したらあかんだけに、、が、20代の後半に1年間京都で一人暮らしをして、その後、所帯を得て現在の大阪に移り住んだ私にとって、このコンコースは関西に「してやられた」気分にさせられた一番のものだったかもしれない。これに対抗できる東京の駅と言ったら東京駅くらいか?、、いや、しかしその艶というか豊饒さで言えば、明らかに阪急の方が優っている。そういう意味ではヨソ者をたじろかす存在感を持った数少ない場所だったのだ。
本当に解体してしまっていいんだろうか?
まあ、三鷹金猊居の解体を選択した私が言えた立場ではないが、壁画を残したとしてもあの空間の艶まで伝えられるとは到底考えられない。今更遅いのかもしれないが、あのコンコース部分をまるごとそっくりくるむような設計プランでも新たに出て来ないものだろうか? 関西で自慢できるトップクラスのものが消えていく。
以下 Flickr! 写真と共に、関連記事を見つけ次第、ここに追加していきたいと思う。
それとコンコースの設計者である伊東忠太および阪急創設者の小林一三については相応の思い入れがあるので、また別の機会を設けてエントリーしたいと思う。
■関連ニュース
・建通新聞:梅田阪急ビル建て替え 月内に施工者を
・asahi.com:旧阪急梅田駅コンコース解体へ 壁画は残します (2005.08.10)
・産経新聞 ENAK:阪急百貨店「貝の化石」取り壊しへ (2005.08.25)
・YOMIURI ONLINE:“昭和モダン”の阪急コンコース、解体へ (2005.09.09)
・Sankei Web:消える阪急百貨店のコンコース 名残を惜しむ市民の声も (2005.09.12)
・gooニュース:姿消す阪急梅田のコンコース (2005.09.13)
■関連サイト・ブログ
・極私的建物探訪:阪急電鉄梅田駅 壁画
・LA CHAMRE DE COMTE:大阪健脚ツアー篇・其の一
・鉄道で行く旅/Kimura's Internet Home Page:阪急百貨店梅田本店
・ぽむ吉さんの近代建築と書評中心のblog:阪急梅田 いままでとこれからと (2005.06.18)
・TRA−VEL−BLOG:さよなら阪急梅田
・淡海の国から on blog:【大阪】旧阪急梅田駅コンコース解体 (2005.08.10)
・阪急にタイガースに高橋愛を語る江戸人:阪急梅田駅旧ホームコンコース解体 (2005.08.11)
・ひろの東本西走!?:阪急百貨店建て替え計画 (2005.08.24)
・.3:さようなら
・Dramatic☆Interior:梅田阪急の建てかえ (2005.09.14)
・あさみ新聞:ちょっと待って「阪急百貨店」 (2005.09.14)
・新「とっつあん通信」:またひとつ「大阪らしさ」が消えてゆく (2005.09.14)
・LBGO:。。。
・シティサイエンス:阪急梅田コンコース解体 (2005.09.14)
・シティサイエンス:阪急梅田コンコース解体 その2 (2005.09.15)
・安心立命:阪急 梅田 コンコース解体へ・・・ (2005.09.15)
・安心立命:ステンドグラスから動く歩道までの回廊はすでに・・ (2005.09.16)
・すずめの実験室:消える阪急百貨店のコンコース 〜その1〜 (2005.09.18)
・すずめの実験室:消える阪急百貨店のコンコース 〜その2〜 (2005.09.18)
・MADのキッチン:梅田阪急百貨店... (2005.09.13)
・楽しむYahoo!ブログの作り方♪:阪急百貨店建て替え計画(´・ω・`) ショボーン (2005.09.23)
・毎日がブエノス・ディアス!:うそ?!阪急梅田コンコース解体?! (2005.09.23)
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2005年05月07日 (土)
春には桜の通り抜けで賑わう大阪造幣局 すぐ脇の大川に架かる桜宮橋の並びにもう一本、新桜宮橋の建設工事が始まっている。どうせなら桜のシーズンが終わってから工事始めりゃいいのに(三脚立てて一生懸命桜撮ってるカメラオジサンたちをがっかりさせないためにも)とも思ったが、まあ、世の中そんな風流には付き合ってくれないものである(工事は2005年1月25日から着手)。
で、つい先日その新設工事の行われている隣の元からある桜宮橋(通称:銀橋)をいつものように自転車で通ったら、新桜宮橋のアーチ部分がまるで観覧車のゴンドラのようになっていて、そのただならぬ様子に思わず私もカメラオジサンになってしまった。いや、まあ、三脚までは立ててませんが(笑)
もちろんベニア材で囲われた仮設部分はいずれ取り払われてしまうのだろうが、ちょっとそこに何が出来るのかは興味深い。
と思ってネット検索してみると「銀橋ホームページ 」というサイトが国交省の管轄で出来ていて「デザインは市民の皆さんからいただいた意見を参考にして、有識者からなる新桜宮橋デザイン検討委員会によって決めました。この委員会メンバーには、建築家の安藤忠雄先生にも務めていただきました。市民の皆様の意見では、約4分の3の方が、今の銀橋と同じ型がいいと答えていることを踏まえ、アーチ橋にすることになりました。」(ラジオ大阪「大阪のみち なにわのみち 」より)とのこと。
とりあえずその仮設ゴンドラが取れるとどんなアーチになるのかは乞うご期待といったところだが、ふだん最寄りのJR環状線桜ノ宮駅へ行くのに桜宮橋の一つ上手にある源八橋を渡る私の身勝手を言えば、源八橋から大阪城を望むのに視覚上邪魔になるようなものになって欲しくないというのが第一。あとはダブルアーチで道路拡張することによって国道1号線を挟んで造幣局の向かいにある泉布観 (1871年トーマス・J・ウォートルス設計)の敷地が狭まらないことを祈るばかりである。泉布観は建物もいいが、それ以上に裏寂れた敷地に木々が鬱そうと生い茂るあの日陰感が心地よいのである。
ところで大島健二著『建てずに死ねるか!建築家住宅 』の目次前のページに辞書を模した建築用語集が出ているのだが、その「建築」という用語の意味に「家・橋などをたてること」と出ている。それを読んで建築対象として「橋」って意外に大きな存在なんだなと思ったのだが、そういえばレオス・カラックス監督『ポンヌフの恋人 』のポンヌフ橋は確かセットじゃなかったか? とすると大道具と建築の違いとは?とも思うが、藤森照信+大嶋信道設計「一夜亭 」も俳優座の大道具が作ってたんだよな(汗)
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