2010年08月17日 (火)
毎年桜の季節とそれ以外でも気まぐれに大川沿いを散策するときには定点観測してきた大川端・桜ノ宮駅下の「SACRA THE BUS HOUSE 」が撤去されてしまった。天神祭の前に確認したときには鬱蒼と生い茂った木々の緑の間からうっすらバスの面影はまだ見え隠れしていた。それが盆の帰省でいつものように環状線に乗って電車の中から撮影しようとしたら、バスやその後ろの長屋のあったスペースが完全に更地 と化してしまっていたのだ。帰阪後すぐいつもの定点観測ポジション に赴いたのは言うまでもない。
川っぺりも川っぺりで開発の求められているスペースとは思えないので(おそらく景観重視での撤去ではないかと思われる←実際は不法占拠による撤去)、今後そこがどうなるのかはわからないのだが、「ここもまた・・ 」という場所がまた一つ増えてしまったことは残念でならない。
谷中M類栖での紹介記事:
・SACRA THE BUSHOUSE (2009.04.10・定点観測記事)
・アクセスキーワード2007.04 (2007.04.30・環状線からの俯瞰画像)
・・と、この記事は撤去確認からほぼ半年後 に書いていて、実はその間にわきたさんのBlog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発 」コメント欄でこの場所に関する今まで全く知らずにいた事実を ryotaさんという方から聞き知ることになった。
それはこの場所が朝鮮の済州島出身者たちによって「クッ」と言われる巫祭の行われる「龍王宮」という場所だったのだ。私はこれまでその場所を対岸から観察するばかりでなぜか踏み込んでみようとしたことがなかった。錆びたバスと古びた長屋が見えていて陋巷錆び好きとしては恰好の撮影ポイントではあったはずなのだが、なぜか私はそこが文字通り「彼岸」のように思えてしまって、近所にもかかわらず今ひとつ踏み込もうという気持ちにはなれなかったのだ(ちなみに私は済州島に行ったことはないが、済州島のトルハルバン の石造にはなぜか無性に惹かれるところがあり、韓国土産では必ずオレンジ味のトルハルバンチョコレートを買って帰る)。
2011年1月29日にこりあんコミュニティ研究会 +コリアン・マイノリティ研究会 主催で『龍王宮の記憶(仮)』(監督・撮影:金稔万 、2011年)が上映されたようで、その情報には上映後に気づいたので観られなかったのが残念でならないが、また上映機会の情報を見つけたときにはこのブログでも案内したい(1月29日の報告 )。
龍王宮については検索すると色々出てくるが、「龍王宮とは?」というこりあんコミュニティ研究会+コリアン・マイノリティ研究会が作成したと思われるテクストが各所で転載されているので、ここでも出典明示でリンクの上、転載させていただくこととする(問題ありましたらコメントにてご一報ください)。
こりあんコミュニティ研究会「最後の龍王宮祝祭 」より 【龍王宮とは?】
©高 仁鳳 氏撮影(1963年) JR環状線「桜ノ宮駅」西側の鉄橋の下、大川(旧淀川)の河川敷に戦前(解放前)から続く、済州島(チェヂュド)出身の在日1世の女たちの祈り「クッ」の場「龍王宮」があります。河川敷を管理する大阪府からは「不法占拠」であるとして、これまで再三立ち退きを言われてきました。しかし、そこは大阪を下から支えてきた在日朝鮮人のコミュニティが息づく場であり、龍王宮の水辺がふるさとの済州島につながっていると考えられています。済州島出身の女たちは、ここで祈り、泣き、笑い、そして癒されてきました。多文化都市としての大阪の底辺を支えてきたもう一つの無形文化財・文化資源とも言えるでしょう。私たちは昨年3月以来、「龍王宮の記憶を残すためのプロジェクト」をたちあげ、関係者へのインタビューや建物の実測や「クッ」の記録などを行ってきました。昨年8月22日には、「龍王宮祝祭—もうひとつの水都大阪2009—」を開催し、100名以上の参加を得て、その存在を広く伝えました。
この1年間、国内外から数多くの人々が龍王宮を見学しました。また、先月、こりあんコミュニティ研究会は『コリアンコミュニティ研究』創刊号(800円+送料)を発刊し、特集「マイノリティ空間の記憶をどう伝えるか」で龍王宮を扱いました。先日のフィールドワークでは、近くに暮らす住民の証言から、龍王宮のプレハブの建物は国鉄時代の飯場(工事労働者の仮宿泊施設)を建設業者から払い下げられたものであることが新たにわかりました。これを龍王宮が祈りの場に転用していたわけです。しかし、龍王宮は「韓国併合」100年の今年、残念ながらその歴史に終止符を打ち、近々立ち退くことになりました。今回、龍王宮を管理してきた高田商店の協力のもと、緊急に「最後の龍王宮祝祭—もうひとつの水都大阪2010—」を企画しました。充分な準備はできないものの、「龍王宮」に来たことのある人もない人も、形があるうちにぜひお越しください。当日は天神祭の奉納花火の日に当たります。龍王宮からの眺めは最高です。
また、私たちは今後も引きづづき、龍王宮での祈り「クッ」にかかわった神房(シンバン)・菩薩(ポサル)・僧任(スニム)・利用者・関係者への聞き取りや資料収集、龍王宮の記憶を残していくための調査研究活動をしていく予定です。
尚、この情報はコネクタテレビ という映像番組のサイトで私が関わった「張智恵が舞う韓国伝統舞踊 」というインタビュー映像をわきたさんにご紹介いただき、そのおかげで「SACRA THE BUS HOUSE」が「龍王宮」へと導かれたと言える。同インタビューのことも改めてこのブログで触れる機会を作りたいと考えている。
参考サイト:
・MINDAN:退去迫られる在日祈りの場「桜ノ宮龍王宮」 (龍王宮内の写真あり)
・ソウル・ヨガ:桜ノ宮「龍王宮」にいってきた (撤去直前の画像数点)
・仏教と仏教美術の日々:桜ノ宮・龍王宮が存続の危機に陥ってるらしい (鋭い考察)
・日々。生きる現代文学:龍王宮 (闘う詩人、上田假奈代さんのブログ)
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2009年04月10日 (金)
2009年4月6日 16:01, 大阪市/桜ノ宮, Nikon D300/120mm
今年も恒例の‥‥と思ったら去年は金猊展 に向けての準備で手一杯で見に行ってすらなかったようだ。というか、谷中M類栖ではアクセス解析に託けての季節ネタエントリーしかしてなかった大川端の桜バスハウスこと「SACRA THE BUSHOUSE 」。
勝手に命名してるだけなのだが、谷中の住まいの近所にも風呂屋をリノベーションして出来た「SCAI THE BUTHHOUSE 」というギャラリーがあるもんで、つい大阪自宅近くの、バスをラスタベーションして出来た桜の木の下の小屋も愛着を込めてそんな風に呼んでみたくなってしまう。去年は見損ねてしまったが、一昨年一昨昨年と定点観測しているので較べてみると、仮設トイレが新たに設置されたことがわかる。
2007年4月6日 14:52, 大阪市/桜ノ宮, Nikon D50/78mm
2006年4月7日 12:24, 大阪市/桜ノ宮, Nikon D50/135mm
Google Map の航空写真でもバスの屋根は辛うじて確認できる。しかし、それを見て驚いたのが、バスの横に並ぶトタンで出来た建物群。そこには「高田商店」というれっきとした商店名が書かれていたのだ。とすると、バスハウスは店の広告塔とでも呼ぶべき、看板的存在なのか?
大きな地図で見る
このあたりは昔は東南アジアの水上マーケットのようだったと以前この界隈に住むホームレスに聞いた。そうあってこその水都「大阪」ではないだろうか。
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2009年01月31日 (土)
2006年3月4日 14:04, 大阪市天王寺区下寺町, Nikon D50/31mm
家づくりブログとしては不本意ながら(?)ずっとトップを快走する軍艦アパートのパーセンテージがいつも以上に高いのは、おそらくビジュアルアーツギャラリー東京で、山下豊写真展「軍艦アパート」 が開催中だからだろう。リンク先の説明にもあるように氏は1989年頃から軍艦アパートを撮り続けて来られた方で、私のように解体間際にちょろっとのぞき見した程度の野次馬とは比較するのもおこがましい。Google も彼を紹介するようなサイトがトップ表示されるよう最適化を心掛けるべきである。
軍艦アパート 11.2% グヤーシュ 3.0% 上棟式 2.0% 谷中 1.5% 臭突 1.4% 高過庵 1.3% 橋本遊郭 1.1% 山門不幸 1.1% 庇 0.9% 地鎮祭 0.8%
先月(2008年12月)の解析結果はこちら から。
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2009年01月01日 (木)
2009年1月1日 15:12, 大阪市北区天満, Nikon D300/20mm
大阪環状線、天満駅を降りて、徒歩1分といったところだろうか。
申し訳程度にスナックやパブの入った雑居ビルがあり、その脇の細い路地を入っていくと津田式ポンプ製作所 が作った井戸が出てくる(そういえば中崎町の井戸はもうなくなってしまったようだ)。
その井戸の存在は何年か前から知っていたが、一昨年の大晦日 にたまたまその前を通ったら、井戸の上に鏡餅 が載せられているのに遭遇。小粋なことをする人もいるものだと感心して今年も見に行ったら、今年も同じようにしてパックの鏡餅が載せてあった。
ただ、一昨年と大きく違っていたのは、井戸のまわりにペットボトルが立ち並んでいたこと。猫対策ということなんだろうが、ペットボトルに囲まれた井戸の上の鏡餅 とは、ロートレアモンの「解剖台の上のミシンとコウモリ傘」に「水」繋がりさえなければちょっと肉薄していたのに‥‥。
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2008年08月03日 (日)
2008年7月19日 15:02, 奈良市/三条通, Nikon D300/50mm
先月、奈良に用があって、奈良の三条通りを歩いていたら見つけたのがこのポスター。
あさみ新聞「まんとくん 」のエントリーで、せんとくんとまんとくん、対立してるよりお笑いユニットでも組んだら?という提案というか進言があったが、一応、三条通りのショッピングモールにおいては仲良くしてる模様であることを報告しておこう。
ところで、この写真を flickr にアップしたら「鹿坊」を見てから「せんとくん」見るとかわいくて仕方ないというコメントがあり、「鹿坊」とはなんぞや?と思って確認するとこれがまたすごいヴィジュアル(汗)
時遊zine「せんとくんの兄、鹿坊 不気味に登場 」のエントリーから画像拝借させてもらったが、そのタイトル通り、鹿坊はせんとくんの兄ということらしく、ここまで来るとさすがに作者の存在が気になり、藪内佐斗司美術館 なるサイトを発見。そこに掲載されてる作品を見ていくと、まず「鹿坊」誕生は非常に納得の行くものがあり、と同時に彼が著した NHK「知るを楽しむ」シリーズの「ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心 」の表紙に用いられている阿修羅像からの影響も大であることが察せられる。
ただ、そのブロンズ「鹿坊」が逆に平面イラスト「せんとくん」におりてくると、そのソースというのはなかなか読めず、それが多くの人々の違和感にも繋がっていたのかもしれない。
他方で「まんとくん」のルーツはやっぱりおじゃる丸の「電ボ 」っぴか?(`Θ´)
2008年7月19日 17:11, 奈良市/奈良公園, Nikon D300/52mm
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2008年07月31日 (木)
2008年7月25日 20:42, 大阪/自宅, Nikon D300/35mm
間違いなく今月だけ浮上するキーワード「花火 」に「天神祭 」。例年は友人が集まって広島/大阪風のお好み食べながらという感じになるのだが、今年は忙しさも手伝って、身内だけで静かに眺める花火だった(といっても下は人だかりで超うるさいが)。
ついでに先月のアクセス解析 も今頃更新。
軍艦アパート 8.7% 花火 3.2% 天神祭 3.1% 上棟式 1.5% 谷中 1.4% 高過庵 1.3% 川端 1.2% 地鎮祭 1.1% グヤーシュ 1.0% 臭突 1.0%
2008年7月25日 21:11, 大阪/自宅, Nikon D300/105mm
先月(2008年6月)の解析結果はこちら から。
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2007年12月31日 (月)
2007.12.19 15:30, 大阪市北区天満(桜ノ宮橋), Nikon D50/38mm
「軍艦アパート 」の8.5%はこれまでの最高数値ではないだろうか。エントリー増がないため、いよいよ検索結果が純化されて来ているということか。「結婚できない男 」のひさびさランクインは阿部ちゃんへのご祝儀検索ということかもしれない(笑)
検索ランキングとは関係ないが、以前にエントリーした新桜ノ宮橋が開通し、その横に並ぶ元桜ノ宮橋(愛称・銀橋)が解体または修復工事中で、橋のど真ん中を歩けるようになっている。年の瀬。ゆく鳶くる年。2007年末はちょい運が悪かった。
軍艦アパート 8.5% 上棟式 3.5% 谷中 1.6% グヤーシュ 1.5% 遊郭 1.3% 写真 1.1% 高過庵 1.0% 臭突 0.9% 結婚できない男 0.9% 板塀 0.8%
先月(2007年11月)の解析結果はこちら から。
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2007年03月31日 (土)
おそらく今頃更地と化したであろう軍艦アパート が先月に続き、高いアクセス数を堅持しているので、今月も軍艦アパートからの写真をピックアップしておこう。他、川端で知られる滋賀県は新旭町の針江区 と千駄木のファーブル昆虫館 がどちらもエントリーからはだいぶ経つのにランクインしてきた。
軍艦アパート 3.1% 谷中 2.3% 遊郭 1.8% グヤーシュ 1.5% 高過庵 1.4% 針江 1.3% 臭突 1.2% フッコー 1.1% ファーブル昆虫館 1.0% 上棟式 0.9%
2007年2月の解析結果はこちら から。
【写真左】2006.02.27 16:02, 大阪市浪速区下寺町・軍艦アパート北棟東側にて
【写真右】2006.02.27 16:31, 大阪市浪速区下寺町・軍艦アパート北棟西側にて
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2007年02月28日 (水)
臭突がじわじわと勢力を伸ばし始め、何だかブログ界でもすっかり市民権を得た感じがする。軍艦アパート はその最後の最後を見に行けなかったが、完全になくなって しまったようだ。曙ハウスは13位と惜しくもトップ10圏外。それと先月、突如逆転現象を起こしたヤフー vs グーグルは今月は52%:42%と再びヤフーが盛り返していた。
グヤーシュ 2.6% 遊郭 2.5% 上棟式 2.4% 軍艦アパート 2.3% 谷中 1.7% 臭突 1.5% 高過庵 1.4% 丹下健三 1.2% 桃林堂 1.0% 板塀 0.9%
2007年1月の解析結果はこちら から。
※先月から月末のアクセス解析エントリーにも写真を掲載!
【写真】2006.11.14 16:55, 大阪市浪速区下寺町・解体を前にした軍艦アパート
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2007年02月22日 (木)
「戦没学徒記念 若人の広場 」で記したように、仕事で初上陸した淡路島。残念ながら車窓風景以外にプライベートで撮れた写真は少なかったが、仕事が終わって車に乗り込む直前に唯一撮れた淡路島の家の写真がこれである。場所は洲本市由良の由良大橋の袂。もちろん淡路島の家はみんなこんな感じというわけでは決してない。ただ、さすがにこのタイル&臭突は、、撮らずんば男が廃るという気がして撮ってきた(汗)
洲本市 由良は、向かいに成ヶ島 という淡路橋立とも称される細長い砂州に覆われた形の漁港で、今もハマチの養殖などで知られている。おそらくこの全面タイル張りは漁から帰ってきた漁師達が長靴などを水場で流しやすいようにと設えられたのではないかと思うが、どうだろう。ただ、こんだけカラフルなのはここでしか見なかったので、ひょっとすると別の用途で建てられた家屋という可能性もある。背後との繋がりまで見てくる余裕もなかったが、何とも不思議なハイブリッド建築だった。
また、タイルハウスの右手奥に見える屋根瓦は、本葺き瓦 (丸瓦と平瓦を組み合わせた瓦)というのだが、この界隈の古い家屋の屋根には本葺き瓦が乗っているところが多くて、なかなか重厚壮観なものがあった。と思ってちょっとググってみると、淡路島って「淡路瓦 」で知られる瓦を伝統工芸的地場産業にしてるところだったのだ。次行くときはもう少し瓦を意識して見てまわると面白いかもしれない(というか、町並み視線って事実上屋根で構成されてるので、意識しなくても実は皆それで峻別してるのだが)。
【写真】2007.02.05 16:24, 兵庫県洲本市由良(淡路島)・由良大橋袂にて
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2007年02月06日 (火)
2月5日、大阪・長居公園のテント村が市の行政代執行によって強制撤去されている。
当日は各種報道番組などでも盛んに取り上げられていたらしいのだが、生憎その日、私は大阪に居なかったもので、その撤去中の映像情報に生で接することはできなかった。
(といっても、YouTube で「長居公園 」検索すれば幾つか出てくるので確認は可能)
ただ、その翌日、「ホームレス文化 」の小川てつオ氏が「去りがたい夜」と題して、撤去の約2週間ほど前からテント村で描いた絵を展示するということで、それを見に行ってきた。とはいっても私、これまで長居公園という場所に行ったことがなく、加えて前日の撤去の映像もまるで見てないので、かなりピンボケ状態での訪問だったと言っていい。それでも公園内に入ると、昨日の出来事を話題にしていると思われる人たちの姿がそこかしこで見られ、まだ何となく前日の気配は残っているようにも感じられた。
テント村のあった場所はフェンスで囲われ、そこに「安全第一」と書かれた白い工事用シートが張られ、中が見えにくいようになっていた。てつオ氏はそのフェンスの手前に絵をビニール紐で括り付けて展示していた。聞けば警備の人に注意はされたらしいのだが、ねばり強く交渉したら諦めて立ち去っていってしまったらしい。私が到着したときにはちょうどギャラリーがたくさん居て、てつオ氏は質問を受けていたので、しばらく遠巻きにボーッと様子を眺めていた。するとまあ、人のよく通ること。夕方4時くらいの時間帯。もちろん通勤通学や散歩でここを通る人もいるのだが、ウォーキングというものがこれほど流行ってるとは知らなかった(ただし、ウォーキングの人たちは絵の前を通ってもほとんど立ち止まって見ようとはしない)。
その後、写真を撮らせてもらいながら話の輪に加わると、支援者の方が来られたり、昨日までそこでテント生活をされてた方も来られたり。その方が昨日と今日の各紙新聞を持ってられたので、それを見せてもらってようやく撤去時の状況を知る。といっても、そこでてつオ氏含む皆の話に耳を傾けていると、どうやら新聞に掲載された情報にはそれぞれ不満があるらしい。もちろん各新聞社によってそのスタンスは異なるわけだが、どの記事も撤去時の最も過激な側面ばかりを取り上げて、決まり切った騒動の枠組みに話を落とし込もうとしているということのようだった。
とりわけ舞台上では必ずしも抗議行動一辺倒ではない、「争いではなく、話し合いの場を」求めたユーモア溢れる表現活動が繰り広げられていたようなのだが、そうした側面に注目する記事は少なく、専ら抗争をベースにその是非を問う定型文ばかり(読売新聞では「同じことの繰り返し 」という見出しが躍るが、そもそもその書き方において「同じことの繰り返し」をしているのが新聞メディアである)。結局、それが大手メディアの構造的限界を指し示してしまっているのかもしれないが、だとすれば、ブログなどの個人発信メディアの果たせる役割の一つは自明だと言ってもいいだろう。
ところで、てつオ氏の絵を見ていたら、彼が1998年に妻の実家のある総領町でやっていた「こんにちわテント 」のことが思い出され、何だかとても懐かしい気分になってしまった。あの頃、居候ライフをしていた彼はその後いつしか代々木でテント生活を始め、その話を聞いたときには「アレ? ある意味、定住者になってしまったのか?」とどこか納得のいかない気分にもなったのだが、彼は別に定住/移住ということをテーマにしていたわけではなく、おそらくは誰もが単純に思うように、豊かな暮らしを求めてホームレスになったのだろうと最近は思うようになった。
それは「こんにちわテント」で、「コウホ地」と言って「テントを張りたい場所を探」し、その「利点・欠点」を考察していたのと基本的には変わらないことだったのかもしれない。というか、テント村に定住する(長期的時間軸を得る)ことによって、より社会化したというべきだろうか?
彼が2005年に始めたブログの最初のエントリー「ホームレスということ 」からは、すでにそうした方向性が酌み取れると同時に、なぜそのブログのタイトルが「ホームレス文化」というのかも理解できるものとなっている。また、彼はできることならば、また大阪に来たときや来年の2月5日に同様の展示を長居公園でやりたいと話していた。
【参考】「長居公園テント村強制撤去問題 」に関連リンク含む詳細情報
【写真】2007.02.06 16:00前後, 長居公園テント村跡地前にて
【追記】下から二番目の写真の、人物が並んで描かれている絵は、てつオ氏と共に応援に来られていたいちむらみさこさん の描かれた絵です。彼女のブログや、てつオ氏のお兄さんが運営されてるキョートット出版 でも長居公園のことが取り上げられてるので、是非ご覧ください。
ブルーテント村とチョコレート:長居公園テント村「劇団パニック」と、 (2007.2.8)
キョートット出版:長居公園の芝居のこと (2007.02.18)
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2006年12月26日 (火)
先月末、韓国旅行に行ったのだが(それについては妻が LBGO「久々の韓国・一日目 」「久々の韓国・二日目(その1) 」で連載エントリー中)、関空へ向かう南海空港線の電車の中、おそらくは貝塚駅を過ぎたあたりで見えてきたのが上の写真の光景だった。
カット&パーマ「シェルター大阪舘」というネーミングもすごいが、その建物全体が醸し出す雰囲気はアジアの辺境に住み着いた日本人が現地で経営するゲストハウスのようである(ふとインドはバラナシの久美子ハウス のことが頭に思い浮かんだので、当時の旅行記を振り返るとちょっと雰囲気は違っていた。でも、こんなんはよく見掛ける)。
貝塚に行く機会って限りなく低い気はするけど、もし行くようなことがあれば駅から近いはずだし、是非とも反対側からも見てみたいもんである。
【写真】2006.11.22, 14:17, 大阪府貝塚市・南海空港線より
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2006年11月11日 (土)
琵琶湖北西部に位置する高島市新旭町に、生水(しょうず)=湧き水を今も生活用水にしている針江という集落がある。川端(かばた)と呼ばれる水場が家の内外に作られ、そこには鯉や鱒が放たれ、自然と人が共存する「美しい日本」がここには確かにあるとさえ思いたくなるが、現首相が言ってるそれと通ずるものがあるのかは彼の著作を読んだことがないのでわからない。
小雨の降る一日だったが、その川端を見に妻と針江生水の郷委員会主催のエコツアーに参加してきた。ツアーを利用しないと人家の中に川端はあるだけに見ることができないのである。また、この地域では、こうした地域の特性を守るため、敢えてエコツアーを敢行して、外来種ともいうべき観光客の行動を限定している。このあたりの詳細は京都新聞で針江生水の郷委員会のことを紹介した「エコな挑戦 」を参照のこと。
川端については「琵琶湖のカイツブリと共に 」のエントリーでも紹介したわきた・けんいちさんにいただいた今森光彦著『藍い宇宙 琵琶湖水系をめぐる 』に出てくるので、それと合わせて詳しく追っていきたいところなのだが、現在あまりブログに時間を割ける状態にないので、とりあえずは妻の LBGO「滋賀/川端ツアー 」にリンクすることでこの日の備忘録としておきたい。いずれ機会を改め川端については書くつもりである。
【写真】2006.11.11 13:59, 滋賀県高島市新旭町針江区にて
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2006年11月05日 (日)
7月末に「朝鮮人街道、高麗橋まで 」というエントリーで近江八幡に行った際に「朝鮮人街道」という石碑を見つけ、そこから「朝鮮通信使」の存在を知るに至る経緯を書いた。そのコメントでわきた・けんいち さんから推薦を受けた『「朝鮮人街道」をゆく 』(サンライズ出版・¥1,020)という彦根東高校新聞部の調査結果を下敷きにして書かれた本を読み、朝鮮通信使について僅かながらもミニ知識を身につけてしまったもんだから、11月5日に難波宮で本祭の行われた古代アジアの国際交流を雅やかに再現するという「四天王寺ワッソ 」では、妙なところで一人興奮せずにはいられなかった。
その最たるものが、雨森芳洲の登場である。
雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)について詳しくは Wikipedia を参照されるとよいだろう。その冒頭文のみ引用すれば「中国語、朝鮮語に通じ、江戸時代中期の日本を代表する儒者」であり、「対馬藩に仕え、李氏朝鮮との通好実務にも携わった」鎖国時代に近江から出てきた国際人である。恥ずかしながら私は朝鮮通信使を通じて初めてその名を知ったくらいなのだが、先の著書では「雨森芳洲と高月町雨森」として1章のうちの四分の一が雨森について割かれていて、そこで取り上げられたエピソードなどを読んでいると、もう雨森シンパにならずにはいられない(笑) どうやら彼は徹底的なまでに真実を生きようとするリアリストだったようで、同時にそのことが幾つもの危うい論争を招く結果ともなっていたようである。
例えば1711年の通信使来日にあたり、新井白石が対面にこだわってか、これまで国書に「日本国大君」と記されていたのを「日本国大王」と改めさせた。この王号問題に反論し、深刻な論争に持ち込んだのが雨森なのだが、当時の雨森は白石の引き立てで幕府への仕官を望んでいる状態だったという。今の政治家や学者で自分の立場を顧みず、こうした論争を挑んでいける人物はどれくらいいるのだろうか?(しかし、新井白石ってのは歴史音痴の私でも名前知ってたくらいだけど、この「日本」という国に対する不理解ぶりを聞くと結構アホアホな人だったのでは?と思いたくなってしまう>汗)
また、こうした事例を知ると雨森が『交隣提醒』という著書で朝鮮との交わりについて記した「真実を持っての交わりを誠信というのであって、朝鮮人は日本人を欺かない、日本人も朝鮮人を欺かない、そして互いに真実を持って交わることが、誠信の交わりである」の「誠信」の意味がより明白になってくることだろう。
これは『「朝鮮人街道」をゆく 』に記されていたのだが、「通信」の意味とは語源を辿るならば「信」を「通ずる」という意であって、このネット時代にあって我々はとかく単なる情報伝達や報告手段としての「通信」を軽く受け留めがちだが、その本義は「誠信」を通ずるという至って重いものだったのである。
ところで先の「四天王寺ワッソ」では雨森芳洲に扮した一行は正直かなり地味で、私一人しか拍手してる人がいないのでは?って感じだったけど(冒頭の写真を見ても向い側の客が誰も見てないことが伺える)、私個人にとっては世宗大王や旅芸人一座、アクロバティックな JUMP よりも興奮の度合いは遙かに高かったのである。もちろん浜村淳演ずる聖徳太子よりも(^^;)
雨森の生まれた高月町では彼の業績を顕影し、アジアとの国際交流を目指すユニークなまちづくりが取り組まれているのだという。彼の生家も「東アジア交流ハウス 」として活用されているらしいので、また暖かくなってきた頃にでも尋ねてみたいものだ。
最後に一つ余談。ATOK で「あめのもりほうしゅう」を変換すると「雨の漏り報酬」とビミョーに住宅建築寄りの文字変換される(^^;)
【写真上】2006.11.05 14:47, 大阪・難波宮「四天王寺ワッソ 」にて
【写真中】高月町立観音の里歴史民俗資料館 サイトの「雨森芳洲について 」から「雨森芳洲肖像画(63KB) 」を転載。同サイトは「雨森芳洲と朝鮮通信使 」をはじめ、雨森芳洲に関する興味深いテクストが多数掲載されている。
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2006年09月28日 (木)
開館以来、久々に安藤忠雄氏が設計した兵庫県立美術館に行った。
と建築系ブログのような書き出しだけど、見に行ったのは建物ではなくて、10月1日迄開催中の『アルベルト・ジャコメッティ展──矢内原伊作とともに 』である。神奈川県立近代美術館での開催中 に行けなかったので、兵庫県美でやることを知ったときには小躍りしたくなったものだが、そんな小躍りを遙かに上回る満足の得られた展示だった。
「谷中M類栖/1f という名前 」のエントリーで私は「告知も半径3kmくらいまでにしておこうか」とコメントしているが、ジャコメッティ展ならば半径120km(新快速からの乗り継ぎで来られる米原を想定)くらいまで告知したい気分である。
というわけで、会期もあとわずかなので取り急ぎの告知エントリーなのだが、今回面白かったのはジャコメッティといえばの印象が強い細長彫刻もさることながら、雑誌の表紙や紙ナプキンに描かれた落書き資料と共に多数展示されていた絵画作品だった。
館内では「アルベルト・ジャコメッティ展 かわら版」なるQ&A式の解説が裏表に書かれた一枚の用紙が配布され、その中でも絵画が沢山展示されていることに触れ、「人物を描いた絵画では、顔にタッチが集中して、まるで彫刻のような立体感が感じられるでしょう」とまとめられている。で、確かにタッチが集中していて、立体を見ているような感覚は得られるのだが(館内ではしきりにジャコメッティの有名な言葉「見えるものを見えるとおりに表わす」が掲示されている)、果たしてその立体感というのは、文字通りの3D的意味での立体感か?という点では少々疑問を感じないでもなかった。
むしろ私にはそのタッチの描き込みが一コマに無理矢理落とし込まれた高速アニメのように見えてしまって、基本的には静止しているはずのモデルのわずかな動きが時間軸をもって捉えられ、その動きによって立体的に見える、そんな印象だった。そして、それに慣れた目で再び彫刻を見るとこれがまた面白い。最初のうちは彫刻は絵画のように、絵画は彫刻のように見えるものだと思いながら見ていたが、彫刻には面ごとに高速アニメの上積み分がさらに載っているのである。ロダンも好きな彫刻家の一人だけど、彼の作品はどこかマッスの単位で見てしまうところがあって、それゆえにカラクリを見出すとついその先を見てないことがあるのだが、その点でジャコメッティはキューブの作品であってもずっと見続けてなければならない感覚に襲われる。そんなの私だけ?(汗)
かわら版では「枠」の話についても触れられているが、このブログは作品分析を目的にするものではないので、参考文献として、宮川淳 著『鏡・空間・イマージュ 』(白馬書房・¥2.625-)を、また、今回展示数が多かったわけではないけど、それでも数点見ることのできたキューブの作品については、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン 著『ジャコメッティ──キューブと顔 』PARCO出版・¥3,600-)を挙げておく。
後者の本は絶版になってしまったのか、ユーズド価格¥8,500- ですと?!
なお、兵庫県立美術館が会期終了した後は、千葉の川村記念美術館 に巡回するようだ。
主催・東京新聞の紹介サイトはこちら 。
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2006年09月18日 (月)
Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」の「50,000 のキリ番・企画 」。
私が見たときにはもう 50,005で、一応その旨コメントしておいたら、キリ番ゲットのラッキー人物が現れなかったため、前後賞ならぬ五後賞にまで記念品が出るとの話。
「琵琶湖畔発にふさわしいもの」として今森光彦著『藍い宇宙 琵琶湖水系をめぐる 』が本日届いたのである。これは7月に近江八幡の水郷巡り をしてきたばかりの我々夫婦には非常にタイムリーな嬉しいプレゼントだった。わきたさん、多謝!
内表紙を捲ると琵琶湖水流図と琵琶湖面の写真。さらにもう1ページ捲ると近江八幡の
水郷地帯に残るヨシの集積場の写真が出てくる。朝靄の中といったところだろうか──その薄暗い集積場に葦の束ねられた写真に私は早速ノックダウンを喰らってしまった。
177ページには水郷巡りのときにその名を知ったカイツブリもしっかり載っていた。冒頭の写真は今森氏の写真には遠く及ばないが、水郷巡りの船から撮影したカイツブリである。「ヨシ原の際に巣をつくるカイツブリは、天真爛漫のように見えるが、わずかな風のそよぎにも敏感に反応して首をキョロキョロさせている。絶えず周りに聞き耳を立て、一瞬たりとも警戒を緩めない」とあるように、船からある一定の距離離れたところで潜っては浮き、潜っては浮きして、餌を探し求めていた。
その点、カモは人懐っこかった。
右上写真の一輪のカモはしばらく船の前を航路を案内するかのようにぷかぷか泳いでいたし、左の写真のカモたちは船がすぐ真横を通過しても飛んでるんだか跳ねてるんだかという感じでギャーギャーと井戸端会議でもしてるような雰囲気だった。
81ページには琵琶湖西岸にある針江大川河口の船着き場に集まる鳥たちが皆人懐っこいと書かれている。琵琶湖東で人懐っこいのはカモだけだったが、西の船着き場ではカモ以外の鳥たちも人懐っこい表情を見せるらしい。まだ琵琶湖の西側はあまり攻めてないので、この本を便りに琵琶湖西岸域の旅程も組んで行きたいものである。
ところでこの本の著者であり写真家でもある今森光彦氏のことを、私は氏が『昆虫記 』という大型本を上梓されたときから知っていた。アマゾンで発売年をチェックすると1988年。私が高校生のときだったわけだが、当時、昆虫図鑑といえば写真ではなく絵で描かれたものが主流だったので、その生写真版が出たということでちょっとした話題となり、私も吉祥寺のロンロンの本屋で何度も立ち読みしたことを覚えている。
ただ、買うことはなかった。まず高校生だった私にとって3000円の書籍というのはちょっと手を出すには高値過ぎたというのが第一。また、その頃あたりから私の興味・関心は美術や建築といった文化的なものにシフトチェンジし始め、昆虫への思い入れが薄らぎ始めていた頃でもあった。そしてもう一つ買わなかった理由はおそらくその昆虫生写真が当時の私には少々リアル過ぎたのである。
人の顔同様、昆虫だって左右の形状が100%対称形である虫なんてどこにもいない。ところが従来型の昆虫図版に馴れてしまっていた私の目にはそれらの非対称が何ともグロテスクに映っていたのだろう。今の私であれば、むしろそうしたリアリティの方こそを求めるか、あるいは絵なら絵でとことんデフォルメされるかティピカルなものを喜びそうだが、当時の私はその辺でまだまだ初心な純情少年だったのである。
ただ、『今森光彦・昆虫記』を買わなかったことが心の奥底でずーっと引っ掛かっていたのも事実である。そうでなければ今回わきたさんからいただいたプレゼントに「今森光彦 」という名前を見つけて、すぐにハッとすることもなかっただろう。17年前の躊躇が琵琶湖のカイツブリと共に浮いて来ようとしているようだ。
50,001をゲットされた AKiさんも aki's STOCKTAKING「藍い宇宙 / 琵琶湖水系をめぐる 」で本が届いたことを報告されている。
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2006年09月13日 (水)
ここ数日ずいぶん涼しくなってきたが(今日は半袖では寒かった)、この写真はもっとお寒く今年の2月に近所で撮影したものである。場所は都島橋西詰の樋之口町 。うちから大川を上流に歩いて徒歩10分、800mくらいのところなので充分散歩コースの圏内。しかし、私がこの場所を歩いたのはこの日が初めてだった。
この近くには宮脇書店と100円ショップのダイソーがあるので、それなりに足を向ける場所ではあるものの、ふだんはチャリで行ってしまっているので、大通りからなかなか一歩踏み込む機会を持てずにいた。私道なのか公道なのか見分けづらいくらいに細くて狭い路地なので、住民でもないのにチャリで入るのは気が引けるというのもあった。
この日の私はたまたま大川べりを散歩していて、都島橋下の行き止まりで都島通に出る最短距離を取らず、一つ手前の路地から大通りに出てみよう、そう思って踏み込んでみたら、それが樋之口町内をジグザグに抜ける陋巷だったのである。「陋巷」とは neonさんのブログ「N的画譚 」のタイトル下説明文で初めて知った言葉だったのだが、この場所はまさに「陋巷」だと思える場所だった。その意味は敢えて記す気はないので、ご存知ない方は辞書などで調べられるとよいだろう。
ちなみに冒頭のタイルの剥げ落ちたブロック塀を写した写真は必ずしもこの場所を表象するものではない。多彩な表情を持つ陋巷の一場面を写したに過ぎないが、ただ、私がこの塀の前を通ったときに感じたのは9年前にインドを一人旅 したときにトランジットで寄ったソウルの安宿街の路地の記憶だった。タイル張りという共通点は持たないが、路地を撮った写真も残していたので、参考までに一枚スキャンしてアップしておく。
【写真上】2006.02.10 15:41 大阪市北区樋之口町の路地にて
【写真下】1997.12.16 韓国ソウル市鍾路(チョンノ)北側の路地にて
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2006年08月26日 (土)
幼馴染みの moopee 氏来阪ということで1日大阪観光を付き合った。
で、まあ、定番の新世界・通天閣にも寄ったところ、これが何と「ネオン広告意匠製作中」というシートが被せられ、ナマ通天閣を見ることができなかったのである。まあ、通天閣が珍しくも何ともない大阪居住者にとってはかえって珍しい光景だったもので、喜んで撮影していたのだが、moopee氏にとっては残念というか、話を聞くとどうも彼は塔運が悪いらしく、以前パリに行ったときもエッフェル塔が工事中で60%減の状態でしか見られなかったということらしい。南無〜(汗)
ちなみに「ネオン広告意匠製作中」以外の面は右の2枚の写真からもわかるように「HITACHI」と「10月28日 通天閣開業50周年」という垂れ幕的シートが被され、もう一面は見てくるのを忘れた。そういえば、今まで1回も真下から東面は見たことないな。市立美術館くらいのところからは見たことあるんやけど。。
通天閣のオフィシャルサイト によれば「10月28日 通天閣開業50周年」の垂れ幕通り、それを記念してネオンの全面リニューアルを計画。本年7月1日から工事は始まり、10月27日に新たなネオンが点灯するということが「通天閣ネオンの全面的なリニューアル工事に着工 」という同サイト内ニュースに書いてあった。
とまあ、ここまではタイトルの話。
ここから先はちょっとだけ冒頭にアップした写真=昔の通天閣のことを書いてみることにする。現在、通天閣のちょい南東にあるジャンジャン横丁 もこれまた通りの北東部一面が開発工事中で、工事塀には通天閣の歴史を写真で見せるパネルが展示されている。あのジャンジャン横丁は正直あまり開発されて欲しくないが、ただ、その通天閣歴史パネル自体はかなり面白い。そんなパネル写真の中の一枚が冒頭の写真なのだが、見ての通り、現在の通天閣とは姿・形共にだいぶ違う。っていうか、どっちかというと、先程 moopee氏の塔運のことで引き合いに出したエッフェル塔の方がよっぽど近い。
で、それが実は「それもそのはず」なのである。まずこの通天閣写真は1956年に完成した現在の二代目通天閣ではなく、1912年、ルナパークと共に建設された64mというその当時東洋一の高さを誇っていた初代通天閣であり、そのデザインはパリのエッフェル塔と凱旋門を模したものとされているのである(この2つを組み合わせるという発想が何とも笑える)。ちなみに初代通天閣のことは通天閣オフィシャルサイトを見るよりも、Wikipedia「通天閣 」の方が少しは詳しいだろう。
それにしてもエッフェル塔と凱旋門のドッキングもさることながら、ルナパークと通天閣がロープウェーで結ばれている(それも明治時代に)というのは凄いの一言に尽きる。これならばここが「新世界」と呼ばれても誰も違和感は持たないに違いない。
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2006年08月23日 (水)
去年来のサテライト写真ブームのおかげで、最近は専ら地図検索には Google Map や Yahoo! 地図情報 しか地図検索に使わなくなってしまっていたのだが、久々にマピオン にアクセスしたら「キョリ測β 」なる新機能を発見! コレ、以前からPC上で地図を見るときに欲しいと思っていた機能なのである。例えば大阪自宅から桜宮橋東詰のドンキホーテまで行くのに、源八橋を通るのと桜宮橋(銀橋) を通るのとどっちが近いか?とか、谷中実家のJR最寄り駅は上野・鶯谷・日暮里でどれが近いのか?とか、駅を拒んだ町・妻の実家総領町の最寄り駅は上下で正しいのか?とか。。
これまではそれをモニタに定規を当てて計測してたのだが、この「キョリ測β」のおかげでこれからはそんなことをする必要もない。正確な距離はもちろんのこと、徒歩、自転車、自動車での所要時間も出してくれるし、さらには性別・体重・年齢を入力して消費カロリー計算までしてくれる。まあ、所要時間計算の方は徒歩(3.2km/h)というのは少し遅すぎるし、自動車(40km/h)は標準速度なのかもしれんが、信号などが想定されてないようなので、ちょっとアテにならない。谷中実家から上野駅まで2分で付くとは到底考えられないからだ。
とはいえ、この機能はこれからも私にマピオンのアクセス機会を増やさせてくれそうである。ただ、Google Map や Yahoo! 地図情報等にその機能をパクられたら、またそっちに行ってしまいそうではあるが(汗)←サテライト付ければいいのに>マピオン!
ちなみにさきほど例示した3件についての結果はこうであった。
大阪自宅→桜宮橋東詰のドンキホーテ
・源八橋経由:約1.1km(1085m) 自転車6分 消費カロリー約29kcal 1356歩
・桜宮橋経由:約1.2km(1182m) 自転車6分 消費カロリー約29kcal 1477歩
谷中実家→最寄り駅
・上 野:約1.2km(1153m) 徒歩22分 消費カロリー約65kcal 1441歩
・鶯 谷:約1.3km(1344m) 徒歩25分 消費カロリー約74kcal 1680歩
・日暮里:約1.0km( 991m) 徒歩19分 消費カロリー約56kcal 1239歩
総領実家→最寄り駅
・上 下:約13.7km(13736m) 自動車21分 自転車75分 徒歩258分 17170歩
・甲 奴:約16.2km(16199m) 自動車24分 自転車88分 徒歩304分 20249歩
・備後安田:約11.9km(11947m) 自動車18分 自転車65分 徒歩224分 14934歩
・備後庄原:約13.0km(13017m) 自動車20分 自転車71分 徒歩244分 16271歩
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2006年08月08日 (火)
8月8日、東京発のブログではサンセットブームなるものが起こっていたらしい。敢えてそのブログタイトル名等は記さず、その地名から以下に幾つかリンクしておく。
下北沢 、高井戸 、井の頭通り 、京島 、根津 、清瀬 、三鷹 、浦安 、、
どうやらそれらのエントリー内容から察するに台風接近の影響で、夕焼け空への雲のレイヤーの掛かり方が尋常ならざるものとなっていたらしい。ところでその日、大阪は?というと、同じく台風は接近していたものの、結局、雨すら降らず。
そして夕焼け時間には夕食の準備などをしていて、ベランダに出ることすらしなかったのだけど、それより少し前の17時過ぎ、大阪の雲も東京とはちょっと違う感じで面白いことになっていたので、マンションの最上階の非常階段から撮影。何だかマグリットが冗談めかして描いた空のようだった。
ちなみに関西でも夕焼けを撮ってた(または語る?)ブログ等はあって、それらの地名リンクも幾つか追加しておこう。
伊吹 、吹田 、、と、オイ!尻取りか?(^^;)
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2006年07月29日 (土)
LBGO「近江八幡日帰りの旅・その3 」で京街道商店街の丁稚羊羹で有名な紙平老舗のことが書かれているのを読んでいて、お店のご主人から教わった話を一つ思い出した。
それはその商店街のある京街道が近江八幡〜彦根あたりまでにかけて朝鮮人街道とも呼ばれているということについてである。ちょうど市立資料館を出て、商店街へと向かう途中に「朝鮮人街道 」と書かれた石碑があり、その脇には近江八幡観光物産協会による以下のような説明書きがなされている。
朝鮮人街道(京街道) 近江八幡観光物産協会 江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やした と言われています。
行程は、ソウルから江戸までの約2,000キロにもなりますが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれています。
本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行われました。
江戸幕府が鎖国中にオランダを始めとする数カ国との国交を維持し続けていたのは知っていたが、まさか朝鮮からの使者をこれほど盛大に迎えていたとは知らなかった(国交といってももっと細々としたものと思っていたのだ)。その「多い時には500人規模で組織され」たという「朝鮮通信使」については、はちまんガイド「やさしい朝鮮通信使の話 」や「Wikipedia (幕府と李王朝の仲介役となった対馬藩の話が面白い)」を参照されるとよいだろう。
関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が中山道の脇街道だったこの京街道を凱旋したことから、京街道は吉例の道とされ、大名行列の往来などが禁じられる。そんな中で朝鮮通信使は特別扱いの厚遇を受けて、その吉道の行列通行を唯一認可されたのである(そこには幕府の内政威圧意図もあったようだが)。おそらくはそのことから近江庶民の間で京街道を「朝鮮人街道」と呼ぶ習わしができたのだろう。
紙平老舗のご主人によれば、何年か前(おそらく2002年10月19日・20日)に当時の朝鮮通信使の行列通行を再現する行事が行われ(おそらく「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流大会 」)、ふだん見慣れぬ衣装を着た人たちの行列が店の前を通ってとても面白かったと言われていた。最近『宮廷女官 チャングムの誓い』にハマッているので、その様子は何となく想像ができ、もしまたの機会があれば是非とも行ってみたいものだ。
ところで朝鮮人街道と呼ばれる区域ではないものの、京街道といえば、今年の3月に行った橋本遊郭 も京街道沿いの宿場町の一つなのであった。また、その終着点というか出発点は豊臣時代に京橋から高麗橋に移されたというが、高麗橋といえば如何にも朝鮮的な名前であり、実際「Wikipedia 」にも朝鮮半島との関係が複数の説において語られている。で、その高麗橋は家からチャリで10分程度のところなので、改めて確認に行ってみると何度か通ったことのある阪神高速下の橋で、橋の脇にあった石碑の文章をこれまた引用しておこう。何となく欄干の擬宝珠のデザイン を見て韓国風に感じたのだけれど、そのことについては特に触れられていなかった。
高麗橋 (こうらいばし) 昭和51年春 大阪市東横堀川は大坂城築城のとき外堀として改修されたといわれる。高麗橋はそのころにかけられたらしく現在大坂城天守閣に保存されている慶長九年(1604)の銘のある鉄製擬宝珠(ぎぼし)はこの橋のものと伝えられている。
江戸時代の高麗橋は幕府管理の十二公儀橋の中でも格式高く、西詰に幕府の御触書を掲示する制札場があったほか諸方への距離をはかる起点にもなっていた。
明治三年(1870)九月大阪最初の鉄橋にかけかえられ、さらに昭和四年(1929)六月に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかわった。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷(やぐらやしき)を模した柱は昔の面影をしのぶよすがとなっている。
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2006年07月22日 (土)
わきた・けんいちさんの Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」で「トヨクニハウス 」という戦前のRC造集合住宅を知って以降、都島方面に用がある度に何度か見に行っているのだが、なかなかそれについてエントリーする機会を持てずにいた。この日もコーナン都島店にフライパンを買いに行く必要があったため、前を通りはしたものの、今は大相撲名古屋場所期間中なもので、夕方の外出でそう悠長に寄り道してもいられない。というわけで、自転車に乗ったまま撮影したトヨクニハウスのロゴのみ今回は紹介することにしよう。厳密にはロゴそのものよりも、「トヨクニハウス・A」のロゴが夕陽を浴びて出来た影の方を撮りたかったのであるが。。
この愛らしい鉄の文字にはドロップシャドーが付くとまた何とも言えない味わいが出てくるのである。そして、改めて写真でその影を見ていると、ふと、ある4文字が頭の中で錯覚を起こして浮上してくる。私の世代にとっては懐かしのロールプレイングゲーム「ドラクエ」である。
おそらく「ドラクエ」がこのような書体を使ってたことはなかったと思うが、しかし、トヨクニハウスの持っている雰囲気はどこかドラクエに出てきてもよさそうな趣がある。そんなトヨクニハウスに関しては自分の中の「団地」という問題意識と重ねて機会を改めて触れる予定にしている。
【写真】2006.07.22 16:02, 大阪市都島区高倉町1(地図 )
【関連エントリー】
・ALL-A: トヨクニハウス01 (2005.11.13)
・ALL-A: トヨクニハウス02 (2005.11.16)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: トヨクニハウス (2006.05.04)
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2006年07月21日 (金)
妻の LBGO「近江八幡日帰りの旅・その1 」では近江八幡の葦が天神祭で大阪天満宮 に奉納されるということについて触れられている。近江八幡への日帰り旅行で水郷めぐりをしたとき、船頭さんからその話題が出て、天神祭ご当地に住む我々としてはさすがにその話に食いつかない訳にはいかなかった。はるばる近江八幡まで来て、自分たちの住む街とリンクする話題が出るというのはそれだけでも嬉しくなるものだ。
その話の経緯は妻のブログに譲るとして、こちらではその葦と大阪天満宮との繋がりについて少しググってみることにした。すると思いのほか、その歴史は浅い。天神橋筋商店連合会会長の土居年樹氏の紹介ページ や伴ピーアール株式会社の環境事業部のサイト などによると、その試みが始まったのは1997年。水上祭として水環境への問題意識を高めると共に観光資源のPRとして、天神祭の行われる大川の源である琵琶湖の葦をという話になったらしい。「琵琶湖を流れでた水は大川の天神橋まで約23時間、大阪湾までは約24時間で流れ着きます」という話で、どうせならば丸一日掛けて葦を船に載せて流しても面白いように思うが、ちょうど水郷めぐりの船を降りて我々が目にしたものとは「天神祭御用 茅輪御用材 奉納 龍神のよし」と書かれ、葦を荷台に載せた軽トラックだった(汗)
まあ、とはいえ、この我々が乗った「元祖近江八幡水郷めぐり 」の船を出している近江八幡和船観光協同組合の協力により、そうした事業展開、町のつながりができているというのは嬉しい話である。妻もベタ褒めしている我々の船を漕いでくれた72歳の船頭さんも毎年天神祭には招待されているらしい。
ちなみにその船頭さん、『御宿かわせみ 』というドラマで主演の高島礼子を船に乗せる船頭役としてドラマにも出演しているのである。本当に職人気質というタイプの船頭さんだったけど、高島礼子さんのことを話すときだけは妙にデレデレだった(^^;)
ところでいよいよその天神祭も間近ということで、人で混み合う前に大阪天満宮の大門に近江八幡の葦で作った茅の輪を確認に行ってみた。なるほど今まで気にして見たことなかったけど、天満宮に訪れる人は皆、この琵琶湖の葦で出来た茅の輪をくぐることになる。しかし、この葦の茅の輪、どこかで見覚えがあるな〜と思っていたら、同じ大阪天満宮で行われる「星愛七夕祭 」のときにも利用されていたのだ。このときは茅の輪をくぐる道が作られるので、むしろそのときの方がインパクトは強いと言えるかもしれない。
尚、先に紹介した伴ピーアール株式会社では琵琶湖の葦を使って「レイク パピルス 」という紙を作っているらしい。その用紙で出来た封筒・葉書 や名刺 があるみたいだけど、もし真っ当な名刺を作ろうと思ったときにはここのを使っても良い気分。また同じくその「レイク パピルス」で作ったという絵本『ヨシものがたり 〜水と共に生きる暮らしの中で〜 』というのもかなり気になるところだ。
※写真はクリックするとどれも微妙に違う拡大写真が出ます。
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2006年07月17日 (月)
ドリアン 求めて野田のジャスコに行くときは、いつも最短距離の国道2号線をチャリで突っ走るのだが、この日は何となくJR東西線福島駅のあたりから路地に入って寄り道気分。すると間もなく出てきたのが、この淀川マシン産業株式会社の建物だった。
写真を見てもわかるようにかなりアヴァンギャルド(無茶)な形状をしている。
特に正面2階の斜めに反り立った部分は床面の骨組みが半分露出していて、ブルーシートが被さられているだけなのだ。会社名でググると一応電話帳登録ページなども出てくるが、現在も健在なのかはよくわからなかった。
2006年06月18日 (日)
妻と大阪歴史博物館 に初めて行ってみた(詳細は LBGO「大阪歴史博物館 」へ)。
本当はチャングムグッズを求めて NHK大阪放送局に行くのが目的だったのだが、グッズコーナーにはチャングムの携帯ストラップしか置いておらず、5分と時間を必要としなかったので、隣接する大阪歴史博物館に入館したのである。ところがここが思いのほか面白く、閉館1時間前に入館したのは失敗だったと思ってしまったくらいだった。
とりわけ興味深かったのが難波宮に関する資料である。恥ずかしながら私は今年になるまで難波宮の存在すら知らなかったのだが、4月に玉造神社への行き掛けに遺跡を思わせる広場に出くわし、その存在が気になり出したのである。大阪市都市協會 が歴史散策 というページでも紹介しているが、ここでは Wikipedia 冒頭の文章を引用しておく。
ちなみに現在では宮殿のあった場所は若者のダンス練習台と化していた(^^;)
Wikipedia「難波宮 」 難波宮(なにわのみや)は、現在の大阪市中央区にあった飛鳥時代・奈良時代の宮殿。それまで史書には載っていたが、所在地は不明なままであった。1961年(昭和36)、山根徳太郎らの発掘により、聖武天皇時代の(後期)難波宮・大極殿跡が発見されその存在が確認された。さらにこれより古い飛鳥時代の宮殿址も見つかっており、これは前期・難波宮と言われる。
山根は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり」という発言を残した。
ところで大阪歴史博物館の7階・近代現代フロアは当時の代表的な住まいや暮らしを再現したセット空間だった。こういう大正・昭和レトロ再現空間って最近流行ってるらしいけど、私個人は古いものが好きな割にそれほど心動かされることがない。むしろ私が興味を抱くのは当時の書籍とか新聞、紙幣、または映像といった情報資料である。これをちゃんと見ていくと、この博物館は丸1日掛けても足りないくらいに充実している。7階の近代現代フロアもセットだけだったら素通りだったろうが、当時の映像が映し出されるモニタが数カ所置かれていたので、閉館時間が迫ってるのが惜しくてならなかった。そんな近代現代フロアは一部吹き抜けになっていて、8階からも見下ろすことができる。その8階を先に歩いてたときに妻に指さされたのが冒頭の写真だった。
つまり、既に在りし日のうめだ阪急百貨店が組み込まれたコラージュ写真である。
もうその阪急も今では解体工事のパネルで外観も完全に覆われ、伊東忠太の壁画も取り払われ、ゴリモンな日々「梅田の街は“白い壁”でいっぱい 」によれば 7月11日からはいよいよコンコース自体が通行止めになるのだそうである。
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2006年05月09日 (火)
またまた展示のお知らせ。ここのところ、このブログのアクセス検索ワード1位が続く軍艦アパート ですが、それをテーマとした「ぐんかんびより 」という企画展示が大阪の南船場にあるギャラリー・アビィ で開催されます。flickr contacts の sympathy さんも出展されるとのこと(sympathy 〜共感〜「ぐんかんびより 」より)。
軍艦アパート追悼企画「ぐんかんびより」
2006年5月9日(火)〜5月14日(日) 12:00〜18:30
ギャラリー・アビィ 入場無料
〒542-0081 大阪市中央区南船場2-2-28-212(地図 ) Phone: 06-6261-7383
出展作家:朝田秀司 イクラジュンヤ Suna tearoom 俵 里美 福永貴之
吹雪大樹 松原正武 ミズグチミホコ MISTY YUKI
・・と出展作家名書いて sympathyさんが誰だかわからないことに気づいた(^^;)
【写真】2006.03.04 13:54 大阪市浪速区下寺町・軍艦アパート東棟にて
【関連リンク】
・mixi*軍艦アパート: 「軍艦アパート」イベント (2006.05.01・コミュニティトピ)
・アビィ日誌: ぐんかんびより (2006.05.09: ギャラリー・アビィ日誌の展示風景)
・sympathy 〜共感〜: 軍艦アパート展 (2006.05.02: 出展作家ブログ)
・sympathy 〜共感〜: ぐんかんびより (2006.05.07: 出展作家ブログ)
・Blog-tea: 企画展「ぐんかんびより」出展のお知らせ (2006.05.06: 出展作家ブログ)
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2006年04月20日 (木)
このエントリーでは当初、前エントリー の終わりの方で予告していた「より実践的なレベルで免震建築の話をどう耐震強度偽装問題に切り込ませたらよいかについて」書くつもりでいた。しかし、理屈っぽい話ばかりずっと続くと疲れるので、このエントリーはちょっと軽い話題(事例を中心に紹介して)をして閑話休題ということにしたい。
まずこれまで解決案として打ち出してきた免震建築であるが、実際にそれが取り入れられている有名建築を3つほど挙げてみることにする。ちなみにこの3つの建築が免震建築であることを知ったのは、丸激のトークでと多田英之氏の著作によってである。
その一つ目はライブドア事件のせいで最近めっきり評判の悪くなった六本木ヒルズ。噂によると Yahoo! も「ヒルズ族 」というマイナスイメージを嫌ってテナントから離れるとかいう話を聞いたこともある。個人的には差したる興味もないので、あそこが廃墟になろうとどうなろうと知ったこっちゃないのだが(ってか、森ビルというくらいだから、この際、各階の窓を取っ払って床には土を盛って植樹して高層の森にしちゃってはどうだろうか?)、それはともかくあのビルは免震建築で出来ているらしい。六本木ヒルズのサイトに〈「六本木ヒルズ震災訓練」と「防災ボランティアフェア」 〉というプレスリリースページがあって「ハード面の対策として、建物には最新の制振・免震構造を取り入れているため、大型の地震でも構造部材への損傷がほとんどなく建物機能、都市機能を維持します」と書かれているので、より厳密にいうと制震・免震の混構造ということになるようだが。。
続いて紹介するのはあまり建物としてのイメージ自体が流通しているものではないが、誰でもその存在があることだけは知っている首相官邸。それも2002年に竣工した新官邸ばかりか、その完成と共に曳家(ひきや)工事を始めた旧官邸もまた免震化 されたのである。こうした古い建物を免震化することを「免震レトロフィット」というらしいのだが、それについてはもう一つ紹介予定の免震建築で触れるつもりである。
それとどうもこの首相官邸は多田氏が免震の研究を積んで来られた福岡大学が関係しているようなので、定年退職されたとはいえ、多田氏も一枚噛んでいるに違いない。
しかし、小泉首相に限って言えば、彼は他人と同等に自分の命もそんなに惜しんでない人に見えるので(そこが並の政治家とはちょっと違う)、地震で自分だけ救われたいなんて決して思ってなさそうにも見えるのだが(汗)
そして「免震レトロフィット 」として3つ目に紹介するのが、「中之島公会堂 」の名で知られる大阪市中央公会堂である。この建物の建て替え計画は安藤忠雄氏が内部空間に卵型のホールを挿入するというぶっ飛んだ案を出して注目され、当時は東京で学生だった私はワケもわからずスゲーとか思ってその建物の存在だけは知っていた。しかし、それがその後どうなったか知らぬまま、私自身が大阪に住み始め、気づけば日常の中で中之島公会堂をふつうに公会堂として利用するようになっていた。それが実は多田氏の尽力により免震化という形で建て替えられたことを、恥ずかしくも彼の著作によって知ったのである。それは少しばかり大人になった今の私からすれば最適解だったのではないか?と思う。そして若気の至りで卵に魅了された時期を経ていただけに、余計にこの話は興味深く読むことができたようにも思う。そして、さらなる因縁話を打ち明けるならば、この中之島公会堂の免震レトロフィット設計を担当したのは日建設計 (後日、TKYMさんのコメントにより日建設計の設計ではなく、坂倉、平田、青山などの設計共同企業体による設計であることが判明)であり、多田氏は日建設計の出身なのである。日建設計と言ったらば、そう、旧阪急梅田駅コンコース の建て替え工事で設計を担当するのが日建設計なのだ。まあ、このあたりの話はまた改めて機会を作って、今回の耐震強度偽装問題としてではなく、阪急コンコースの話として取り上げられればと思っている。
以上、3つの免震建築の建物を紹介したが、要はここで伝えておきたかったのは、上層社会においては地震対策には免震化というのが完全に主流の手法になって来ているということだ。それも免震が魅力的なのは「免震レトロフィット」で示し得ているように既存の耐震建築(それも近代建築まで)を免震化することが可能だということだ。
そしてこの「耐震強度偽装問題への提言 」シリーズのエントリーで目的としているのが現在の上層社会・上層階級にしか存在してないかのように見える免震建築を中産階級ないし一般市民にまで引きづり下ろせ!ということなのだ。それは多田氏の著作を読む限り、ある部分の堰を崩してしまえば簡単に実現できるように思える話なのに、それが一部の既得権益層によって知られないように囲い込まれている。あるいは「免震建築は高くつく」という幻想によって端からの常識として諦めさせられてしまっている。
しかし、今も何とかマスコミの注目を寄せ続けている耐震強度偽装事件がそれを切り崩す恰好の手段となるように私には思えてならない。そのために必要な条件を次か次の次のエントリーで考えていきたいと思う。「次の次の」としたのは、この閑話でもう一つ書き残しているところがあるからである。
【写真上】
2004.03.07 15:05 上棟式の翌日、妻&ウスケスケと東京観光での六本木ヒルズ。
建物自体に魅力を感じてないので、1枚も建物単体の写真を撮ってない(`Θ´)
クリックすると建物内部の写真(2004.03.07 17:30)。
【写真下】
2005.08.26 14:26 中之島公会堂の南側面天井部。
クリックすると北東側からの中之島公会堂夜景(2005.12.16 20:13)
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2006年03月27日 (月)
N的画譚 の neonさん、ちはろぐ のちはるさんと京阪沿線・京都のはずれは八幡市にある橋本 を散策した。橋本は元々は遊郭として栄えた小さな宿場町で、私はその所在はおろか地名すらも知らなかったのだが、20年前に橋本を訪れたことが今の作品スタイルの確立へと繋がったという neonさんとの交流をきっかけに知る機会を得たのである。
「京都断章*1 」「京都断章*2 」「京都断章*3 」と neonさんが橋本との接点について断続的に書かれているので、まずはそちらを参照されたい。特に「京都断章*2 」で紹介される作品は、そのエントリーでもコメントさせていただいたようにそのモチーフである「建物の中に neonさんの絵がある」と感じさせられた必見の大作である。
(橋本から帰られた neonさんは「橋本幻景 」というエントリーを新たにされている)
ただ、残念ながらというべきか、そのモチーフとなった建物は6年前に neonさんが橋本を再訪された時点ですでになく、neonさんの言葉を借りれば「保存とか修復とかいう言葉は、この町には無縁のもののよう」に郊外型の戸建分譲住宅が遊郭だったスペースを何もなかったかの如く覆いつつある状況だった。
ところでふと考えてみると私はこれまで「遊郭 」と呼ばれる地をまともに歩いたことがなかったかもしれない。京都に住んでいたときには上七軒 など近所にあったが、あれは芸事を中心に据えた「花街 」であって、肉体を目的とした遊郭とは趣を異にしている。
だから橋本を歩いていて、異国とまでは言わないものの、どことなくこれまで歩いたことのないような場所を歩いている感を強くした。たとえそこが旧遊郭跡地であって半滅状態にあろうとも、遊郭だったという歴史が持つ特異な空気感はそう簡単に消えるものではないのかもしれない(中沢新一著『アースダイバー 』だったら「そこに流れた精子の霊が・・」みたいな書き方になりそうではあるが>笑)。
さて、ふつうに歩けば10分掛からず回れるだろう区画を我々は1時間半掛けて回ったところで、駅を降りてすぐのところにある「やをりき」という洋食屋に入った。入り口のところに階段があることからそこも遊郭の一つだったのでは?と neonさんは思われていたが、お店のおばちゃんに話を聞くとそうではないことが判明。
1924(大正14)年、そのおばちゃんの生まれた年に建てられたその建物は1Fが食堂で2Fはカフエーとして営業していたのだという。当時は入り口が今とは違う階段正面の位置にあってそこに美しい図柄のタイルが張られていた(何の図柄だったか忘れた)という。そして、それに続く階段、2Fのカフエーまでもタイルで敷き詰めていたそうだが、2Fを住居として使うようになってタイルは1Fの現スペースのみとなってしまったらしい。外装も手を加えられていて、かつての佇まいを残すのは1Fの食堂スペースのみとなっていた。
あいにく階段部分の写真を撮ってくるのを忘れてしまったが、店内の様子は左右の写真から幾分かは伺えるであろう。
そういえばその写真を見て思い出したが、当時はこの界隈で大型冷蔵庫を持っているのはうちだけだったと自慢されてたことも付け加えておこう。失われ行く記憶を手繰ろうとするとき、人々の中に宿る「自慢の心」というのはそれを強烈に記憶の縁へと呼び戻す可能性を持つものであり、何とも重要なのである。
ちなみに昼食を済ませて来ていた3人は表が暑かったこともあってサイダーのみ注文。
neonさんは橋本の昔の様子を収めた写真を持参されていて、おばちゃんやもう一人いたおばちゃんと同年代くらいのお客さんにも見てもらっていた。その様子を見ているとおばちゃんたちの受け答えが面白い。面白いというか、厳密に言ってしまうと記憶がいい加減なのだ。だから本気で彼の地を調査しようとしている者にとっては困った話かもしれないが、私はおばちゃんたちと neonさんのやりとりを微笑ましく見守っていた。
町の記憶とはおそらくはそんなものなのだ。「景観喚問 」のエントリー以降、このブログでも「景観 」についての問い掛けは何度かし始めているが、住民ほどに自分の町を記号化して見てしまっている(=見ないでしまっている)ということは往々にしてあり得る話なのではないだろうか。だから彼女たちは見ているはずの昔の建物の写真を見ても「こんなのあった?」と言うこともあれば、軒より下の方に視線を集中してもらうことでようやく思い出してもらえるなんてこともある。それは彼女たちが建物を建物全体として見る必要がなかったのだから当然の話である。
他方で「やをりき」を出て、neonさん&ちはるさんと別れ、私がもう一度一人で橋本をぐるっと回っていたときに話し掛けてきたおばちゃんは「ここも京都市内の町家のように、古い建物を活かすような改装をして、カフェやショップなどのような形で人を呼べればいいのに」と言われていた。それは私がカメラを持って如何にも物好きしか撮らないようなものを撮っていたからそんな発言になってたのかもしれないが、しかし、そのおばちゃんの発言からある種の景観意識のようなものを読み取ることはそう困難なことではない。ただ、私はその発想が「正」なのか?と問われたら、何も答えられないのが現状である。つまり、私はそれを「悪」だとも言い難いし、また「やをりき」のおばちゃんたちのようにかつての橋本の情景を懐かしみつつも、景観に対して無意識であることによって、時の流れとともに自然に自分たちの記憶を押し流してしまってることも「悪」だとは言えないと思うのだ。
橋本遊郭の建物そのものや町並みの話からは逸れてしまったが、それらについては冒頭でリンク張った neonさんのエントリーおよび作品に触れていただくのが一番だろう。
あとは flickr の方の「橋本遊郭 」タグで20〜30枚程度、今回撮った写真をちびりちびりアップしてくつもりなので、たまに覗いてもらえたら幸いである。というか、それに乗じて個別の建物についてのエントリーの可能性も大かもしれない。
□◇
もう少し期日が迫ったら改めてエントリーする予定ですが、neonさんが5月に根津の cafe NOMAD で作品展示をされます。ご興味ある方はまずはこちら まで。
Exhibition
ピアニシモな建築たち 〜小さく音楽がきこえてくる
2006.05.11(木)〜05.30(火)(但し、5/16、17、24は休業)
cafe NOMAD(〒113-0031 東京都文京区根津2-19-5 tel. 03-3822-2341)
open*14:00-24:00(カフェですので、1オーダーよろしくお願いします)
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2006年03月04日 (土)
flickr で sympathy さんのアップされた「大阪 軍艦アパート 」の写真でミナミの下寺町(日本橋の東側)に軍艦アパートなる物凄い雰囲気のアパートがあることを知った。
聞くところによれば昭和の初め(昭和6年)に建てられた現存する日本最古の鉄筋公営住宅なのだそうな。ところがそのアパートがこれまた今年度中に取り壊されるという、何だか最近そんな話ばかりで気持ちも凹むが、住民たちは2月末までで退去し、3月から解体工事が始まるまでの間、アパート内に立ち入ることも可能という情報を耳にしたので、私も2/27(月)、3/4(土) と2回に渡ってカメラを持って出掛けてきた。
実際、現地に着くと何人ものカメラマン(年齢層は20〜30代と60〜70代が多かった)が至るところで撮影しているので、何の気兼ねもなくアパート内に入って行くことができた。そして確かにそこはディテールの宝庫だった。いや、ディテールと言ってしまうと語弊があるのだが、全体像を掴もうとしても取り上げるべき要素が多過ぎて、どうにもディテールにおいてしかその空間の質を追うことができない、そんな過剰な場所だった(それは写真を撮ろうとすると余計に自覚させられることでもあった)。
そんなわけでこのエントリーでは asahi.com で紹介された記事 の転載をするに留めて(転載理由はこの記事自体がいずれ削除される可能性があるためで、情報の盗用を目的としたものではなく、むしろ記事への敬意を表してのものであることを明記しておく)今後はディテール写真を随時ピックアップしながら、細かく何らかのコメントを残していこうと考えている。なお、冒頭の写真は flickr のコメント でもニセモノと疑われているように、どこか現実離れした感のある写真に仕上がっているように見えるが、必ずしもそれは D50 の威力にもたれ掛かったものというわけでもなく、現にこのような空と雲の下、不思議な高揚に包まれながら撮影していたのである。
【写真】2006.02.27 18:27 大阪市浪速区下寺町 ・軍艦アパート南東棟にて
■軍艦アパート関連リンク ←随時追加していく予定
・flickr: Gunkan.
・ギャラリー・アビィ: グループ展「ぐんかんびより」 (2006.05.09-14・出展者募集中)
・mixi コミュニティ: 軍艦アパート
・sympathy.blog.ocn.ne.jp: 軍艦アパート ギャラリー
・団地百景: 市営下寺住宅 (2001.09.23)
・ナニワの帝王: 軍艦アパート2001 (2001.11.07)
・関西今昔建築散歩: 軍艦アパート (2004.12.27)
・研究会OJMM: 軍艦アパートのアイシカタ。 (2005)
・ALL-A: 市営 下寺住宅 (2005.05.29)
・ALL-A: 市営 下寺住宅02 (2005.10.30)
・スミゴルフのつぶやき: 観光アテンド (2006.01.16)
・sympathy: 軍艦アパート(大阪市営下寺町アパート) (2006.01.18)
・sympathy: 軍艦アパート&九龍城の・・・俯瞰 (2006.01.19)
・関西今昔建築散歩: 軍艦アパート配置図 (2006.02.02)
・関西今昔建築散歩: 軍艦アパートに住む猫 (2006.02.10)
・関西今昔建築散歩: 中華飯店太平での食事 (2006.02.20)
・sympathy: 大阪軍艦アパート (2006.02.21)
・sympathy: 軍艦アパート 写真一部UP (2006.02.23)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 軍艦アパート (2006.02.25)
・読売テレビ*ニューススクランブル: 軍艦アパートの勇姿を (2006.03.02・Windows Media Player)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 軍艦アパート(その2) (2006.03.08)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 軍艦アパート(その3) (2006.03.10)
・環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発: 軍艦アパート(その4)お知らせ (2006.03.13)
・のりみ通信: 軍艦アパートの桜 (2006.03.22)
・moopee: 帰郷〜1日目
asahi.com「さらば軍艦アパート 築75年の鉄筋公営住宅、取り壊しへ 」 築75年、独特の外観から「軍艦アパート」の異名で知られる大阪市営の「下寺住宅」(大阪市浪速区)が、06年度中に取り壊されることになった。2月末までに住民全員が引っ越す。大阪市によると、現存する最古の鉄筋公営住宅。建設当時、最先端を誇ったが、老朽化には勝てず、ナニワの人情を育んだ「昭和の面影」がまたひとつ姿を消す。
下寺住宅は1931(昭和6)年、満州事変が起きた年に完成した。大阪市が30年代に、浪速区内につくった三つの近代的アパート群のひとつで、屋上に並んだかまど用の煙突から煙が立ち上る姿から、いずれも「軍艦アパート」と呼ばれた。下寺以外の、南日東、北日東住宅は01、02年に相次いで壊され、最後に残ったのが下寺住宅だった。
下寺住宅は約7100平方メートルの敷地に鉄筋3階建ての8棟が立つ。水洗トイレや上層階からごみを捨てるダストシュートが完備され、建設当時の大阪朝日新聞は「堂々たるモダニズム」と報じた。
間取りは4.5畳と3畳の居間に台所、トイレを加えた「2K」タイプ(約30平方メートル)が多く、風呂はない。現在の家賃は1カ月200〜300円台。木材やトタンを使い、ベランダに1、2畳の部屋を増築している世帯が多い。「出家(でや)」と呼ばれ、子どもが増えて手狭になった家庭の工夫だ。
45年の大阪大空襲でも焼失を免れたが、老朽化には勝てなかった。屋上の塗装ははげ、雨漏りがひどい。さびた給水管から水が漏れ、台所の壁の一部がはがれ落ちている部屋もある。
下寺住宅に住む約190世帯(昨年12月末現在)は、区内の新築の14階建て市営住宅に移り住む。跡地の利用方法はまだ決まっていない。
1月末、住み慣れた我が家を離れた本田美代子さん(73)が産声を上げたのも、ここ軍艦アパートだった。アパートの1階で駄菓子屋を営んでいた実家は、近所の子どもたちでいつもにぎやかだった。37歳で近所の幼なじみだった末治さん(74)と結婚し、別棟に移った。
「ご近所とは困ったことがあったら助け合える心やすさと人情があった」と美代子さん。「古くなった壁にも生活のにおいや温かさが染み込んでいる。寂しいですわ」
下寺住宅自治会長の佐々木利秋さん(73)もここで生まれ育った。8人きょうだいの次男。「戦前や戦争直後はたくさんの子どもが住んでいた。路地を走り回ったり笑い声が聞こえたり、それは活気があった」と、当時を懐かしむ。
大阪市は取り壊し前に学術調査に入り、棟の配置や部屋の間取りなどを図面や写真で記録保存することにしている。
戦前からの鉄筋の集合住宅としては東京・表参道の顔として親しまれてきた同潤会青山アパートが有名。下寺住宅より4年早い27年に完成したが、03年8月に取り壊され、今月、「表参道ヒルズ」に生まれ変わった。海底炭坑の廃虚が残る長崎市沖の端島(通称・軍艦島)の高層集合住宅(16年完成)は、閉山した無人島に今も残る。地元では世界遺産登録を目指す動きもある。
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2006年02月23日 (木)
「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」の有志・協力メンバーたちと初のオフ会をしてきました。まあ、オフ会というより、伊東忠太の壁画 も撤去作業に入ってしまった現在となっては残念会という方が相応しいものでしたが、こうした出来事を通して新たな人と人の繋がりが生まれ、また新たな活動の萌芽となりそうな予感もあって、全くの付け焼き刃な突貫起動ではあったけど、やってよかったとつくづく思ってます。
もちろん保存の訴え第一ではあったけど、活動を通してブログの展開法を模索する機会にもなったし、自分の仕事にフィードバックさせて考えても経験として非常に価値の高いものでした。あと、こうした活動を立ち上げたときにブロガー仲間たちが一斉に協力体制を作ってくれたのが本当に嬉しかった。これはここ数年で一番嬉しかった出来事と言ってもいいかもしれません。本当に皆さんには感謝しています。
しかし、オフ会に関しては私が発起人ということで幹事をやったんですが、携帯持ってない人間が幹事やるという点ですでに人選ミス的なところもあり、ネットで店予約する際に緊急連絡先と書かれた欄があったもんだから、メンバーの一人の携帯番号を書いておいたらそのことを本人に伝えるより先にそっちの方に確認の連絡が行ってしまったりして大いにヘマをやらかしてしまいました。改めてごめんなさい。
それからオフ会の席でも、まず自分が先頭切って自己紹介したら、その自己紹介がこのブログ同様長文化してしまって(阪急に対する想いとか話してしまったので)、私以降もその流れのまま、ほとんど自己紹介だけで3時間半過ぎてしまうという、それはそれで面白かったんだけど、端から見たら相当段取りの悪い会となってしまいました(汗)
まあ、集まったメンバーが個性派揃いで、私のダメ幹事ぶりも救われたと言いますか、梅田ウォッチングのスペシャリスト がいたり、景観プレイに走る性別不明編集長 がいたり、阪神間の近代建築にモッサ詳しい人物 がいたり、嘗てひたすら字限図とにらめっこしてた特派員がいたり、手塚治虫マニアック奥様 がいたりと、こう書き出しただけでも自己紹介だけで充分楽しめそうなことは伝わると思いますが、どうやらこの一見バラバラなメンバーで今後も集まれる一つのテーマは会の終盤でしっかり見出されました。
関西まち歩き・・そう、まさに私がこれからこのブログでやって行こうかと思っていたことが、そのまま実現することになり、これは充分関東のアースダイビング大会 にも対抗できそうです(って、何を勝手に対抗意識燃やしてるんだ?って話ですが>笑)。
おそらく第一回は手塚治虫記念館 を中心とした宝塚市ということになりそうで、ただ、アースダイビングのように最初からテーマを絞るのではなく、阪急コンコースブログ同様突貫的に何らかのテーマを複数見出せていければ楽しいんじゃないかと思っています(って、やっぱり謎の対抗意識を燃やしてるね>汗)。
近々専用カテゴリーも作成する予定。
【写真】2006.02.23 22:58 オフ会終了後に解体作業中のコンコースで記念撮影
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2005年12月07日 (水)
「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」のブログとその活動が12/7(水) 付の大阪日日新聞 で紹介されました。
これまで新聞取材ってあんまり良い印象なくて、正直大した期待もしてなかったんですが、これが箱を開けてみて吃驚。約1時間半の取材で喋りまくったことをほとんど余すことなく、また下手な誇張もなく、しっかり取り上げてもらえました。
まずは取材された記者の浜さんに感謝!
そしてこの話を繋いでくださった maybe5さん、
大森さん にも謝意を表します。
あと、名前も何もわからないのですが、この記事のレイアウトを組まれたデザイナーさんにも声を大にしてありがとうと言いたい。
なぜならこの記事唯一の縦組明朝見出しで
「阪急の心変わり」期待
の一行が掲載されたからです。
この文言は私がこの活動を反対運動とは考えてないことを表明する核となるものです。それには当然「生ぬるい」という指摘もあるだろうけど、私の中ではあくまでクライアントのポジティヴな主体的判断により計画の変更は行われて欲しいという願望がありました。だから例えばマスコミや社会に訴えて、阪急を悪者扱いすることによって計画変更が余儀なくされるなんてのは以ての外の話。それと設計会社を日建設計 と決めた以上はこれも外部からの重圧によって変更なんてことは絶対あっちゃいけないと思ってました(もちろん阪急の主体的判断により、解約するというのなら構いませんが)。
こうした思考の背景には当然自分がクライアントとして取り組んだ家づくり経験と、平常のクリエイターとしての仕事観みたいなものが両翼から反映しています。それについてはタイトルを変えてまた改めてエントリーしましょう。
なぜか記事には小林一三に東宝劇場の壁画制作を委嘱された祖父 ばかりか、阪急ブレーブスの浜崎真二投手兼監督との縁故から父 の名前までが出てきますが、その辺はまあ、写真同様にご愛敬ってことで(汗)
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2005年12月05日 (月)
関西圏でしか発売してないかもしれないけど、『大阪人 』という雑誌の最新2006年1月号(vol.60)「発掘 the OSAKA」のコラムにて「阪急百貨店大阪うめだ本店」が取り上げられている。もちろんメインテーマはコンコースで、伊東忠太の四神モザイク壁画 の制作のエピソードについても触れられている。「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」の歴史解説コラムで日間仁氏の書かれた力作「阪急ビルディングの建築に就いて 」では、伊東忠太の言葉を引用しながらより詳しく書かれているが、玄武・朱雀・鳳凰・白虎の四神を発想のもとに描かれたはずの壁画が龍・翼馬・獅子・鳳の四動物となってしまった経緯など、その説明は非常にわかりやすい。
コンコースこそを阪急ビルの「内なるファサード」と表現する執筆者の酒井一光氏(大阪歴史博物館学芸員)は、そのテクスト冒頭からこの場所に対する愛情溢れる記述を続けられるが、その文末で「建物が変わってしまうのは寂しいことだが、新しい時代の建物に期待したい」と結ばれている。それだけは本心だろうか?と勘ぐりながら読んでしまった。
「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」では有志メンバー:のりみ さんの書かれた同誌に対するコメント を掲載しています。
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2005年10月08日 (土)
「小林一三とのコラボ 」でまずは母方の祖父がらみで阪急創設者の小林一三氏との縁について取り上げたが、今度は父がらみの関係で阪急との縁を見ていきたい。
前回「父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二 氏と知り合い」と書いたが、もう少し正確に書こう。父は満州は大連で暮らした中学時代、浜崎真二氏の息子さんと同級生で、その縁で浜崎真二氏にもかわいがってもらっていたのだ。
ネットで検索すると、1901年に広島で生まれた浜崎氏は慶応大学を卒業後、大連に渡り、大連満州倶楽部という社会人野球チームで活躍していたことがわかる。実際、父が言うには当時、満州では野球が大いに盛り上がっていて、相当に迫力ある試合が見られたという話だ。父が生まれる前の話だが、都市対抗野球の歴代優勝チームの記録 を見ると第1回から3回まで3年連続で満州倶楽部が優勝しているのだから、その実力のほどは確かである。
終戦後、日本に引き揚げた浜崎氏は当時まだ「ブレーブス」という愛称の付いていない時代の阪急軍の監督に就任し、兼任で投手としても投げている。彼の48歳での登板記録というのは今もまだ破られていない。それともう一つ特筆すべきなのがその身長。150センチだったというのだ。「小さな大投手」と呼ばれた選手はこれまでにもいたが、ここまでミニマムで大投手と呼び得た選手もおそらくは彼しかいないだろう。
引き揚げ後、いったんは郷里である山口(萩)に初めて帰った父であるが(三男坊の父だけは大連で生まれた子なのである)、まもなく同志社大学に入学し、関西に寄る辺のない父はそこで再び浜崎氏の世話を受けることになる。どうも最初のうちは当時、西宮球場にあった阪急選手たちの寮に寝泊まりさせてもらっていたらしいのだ。また、浜崎氏の息子さんと遊ぶのに、宝塚にあったという浜崎監督邸にも遊びに行っていたらしい。そして、その縁で父の阪急ブレーブス・ファンの歴史は始まり、それが東京で生まれ育った、そう簡単には阪急との縁を持ちにくい私にも伝染したというわけだ。もちろん私が物心付いた頃の阪急ブレーブスは山田・福本・加藤の同級生トリオが円熟期を迎え、物凄く強かったことも子供ながらに魅せられる要因ではあったろう。中学・高校時代の親と話したくなくなる年頃にあっても、どうにか父と子の対話は首の皮一つ阪急で繋がれていたように記憶する。まあ、それしか会話がなかった気もするが(笑)
と以上、これまで「父と満州 」「祖父は満鉄社員だった 」と二度にわたって取り上げてきた「満州」の話をこうして「阪急」がらみですることになろうとは私自身、予測もつかなかったことである。しかし、考えてみれば私の父方祖父は満州鉄道の社員であり、阪急もそのベースとしてあるのは阪急電鉄という鉄道会社なのだ。
近代社会においては鉄道会社こそがまさしく「線路」という線を土地に引くことによって、その周辺のまちづくり、そして人々の生活のイメージを築き上げてきた。今回、冒頭に取り上げた絵葉書は大連・連鎖街という云わば百貨店の建ち並ぶ大連市内の様子を描いたものである。もはや言うまでもないだろう。それが1929年創業の阪急百貨店うめだ本店のファサードに似通ってるということなど。
大連・連鎖街 CHAIN-STORE STREET, DAIREN 二百有余の各種専門商店が一つの統一ある体制の下に整然たる商店街を造るのが連鎖商店街である。言はゞ百貨店の街であり、街そのものが百貨店である。而も其処には映画殿堂や児童遊園、大浴場、支那料理店等があり、大連の新名所として又大連のプロムネイドとして見るべきものが多い。
最後にはなるが、父を阪急に引き合わせてくれた浜崎氏の息子さんである父の友人が去年の12月に亡くなり、父は葬儀にも参列したらしい。おそらくその父の友人の存在なしにはこのエントリーもなければ、あの「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・ 」のブログもなかったことだろう。ここに浜崎親子のご冥福を謹んでお祈りいたします。
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2005年09月28日 (水)
父は阪急ブレーブスの元投手〜投手兼監督だった浜崎真二 氏と知り合い。
祖父はその履歴に「1937年(昭和12年)、株式会社東宝劇場(社長小林一三氏)の委嘱に依り同劇場階段ホール壁画製作」とあり、「薫風(騎馬婦人群像図) 」というタイトルの竪十尺(約3m)、幅十八尺(約4.8m)の壁画を制作している。残念ながらその壁画は1958年(昭和33年)東宝劇場の火災 により焼失したが、我が家にはその下絵と葉書サイズのモノクロ写真、B5サイズのセピアカラー写真が残されている。
そんな二つの縁故が東京で生まれ育った私にも「阪急」をずっと身近なものにさせてくれたのかもしれない。京都に引越して初めて阪急電車に乗ったときも「おぉ〜、これが阪急電車か〜」と鉄道マニアでもないのに一際大きな感慨に浸ったものである。まあ、そうでなくともあの臙脂色の阪急電車 ほどにカッチョええ電車を私は知らんが。。
ともあれ、東京に居ながらすでに「阪急」が特別なものだった私にとって、旧阪急梅田駅コンコースの印象はまさしく「ザ・阪急」とも呼ぶべき「阪急」イメージをMAXまで引き揚げてくれる象徴空間だった。あの金色のゴシック様式高天井にステンドグラスの取り付けられた薄暗い空間から一転、宝塚的な明るいヨーロピアン空間を抜け、地下鉄口へと降りていく。こんな場所、絶対東京にはないぞ!すげぇ関西!すげぇ大阪!と思って一年後に私はあっさり京都を捨てて大阪に移り住んでいたのである。
ただ、そのときの私にとってあのコンコースが「伊東忠太 の・・」ということはどうでも良かった。むしろクライアントである「小林一三 の・・」ということの方が俄然大きかったように思う。そんな個人的所感もまた gairaikaさんの「建てたのは誰か 」の一例として通底してこよう。ついでに言うとかつて建築「家(か) 」論で盛り上がったが、そもそも「Architect」の訳語を「建築家」としたのは伊東忠太であった。
ところで話は冒頭に戻るが、私にとっては実物を目にすることは永遠にあり得ない祖父が描いた東宝劇場の壁画だが、あの作品は私の中では他の祖父の作品とはどこか異質な印象が強い。もちろん祖父のいつも描いている線、よく取り上げるモチーフが描かれてはいるのだが、全体としての印象の中にそれこそ小林一三の色が入り込んで来てるように思えてならないのだ。小林一三本人に委嘱された祖父がどこまでのやりとりを氏と重ねてあの作品を描いたのかはわからないが、氏とのセッションなしにあの絵が生まれ得なかったことだけは確かだろう。そしてもちろんその壁画を見た多くの観客はそれを私の祖父の、としてではなく、やはり小林一三の、として見ていたはずである。
なお、せっかくの機会だから一つ便乗してしまうと、かつて有楽町の東宝劇場階段ホールにあった「薫風(騎馬婦人群像図) 」というタイトルの壁画に見覚えのある方、またはそれに関する何らかの資料等をお持ちの方、コメントでもいただけたら幸いです。
父繋がりの阪急ブレーブス関連の話はまた後日。
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2005年09月19日 (月)
緊急告知!
阪急梅田コンコースを残したい・・
その一心から「阪急梅田コンコースを・・ 」という建造物の保存を切望する専用のブログを立ち上げることにした。
ここでやっててもよいのだが、色々混乱する要素も出てくるだろうし、それに「このブログについて 」という最初のエントリーでも書いたように「中継ぎ〜セットアッパー的役目を果たせれば」というブログなだけに途中で管理者交替ということも考えられる。そうするとこことは一線を画しておいた方がいいだろう。
ちなみにライブドアのサービスを使うことにしたのは、阪急の買収球団であるオリックスが合併した近鉄を救おうとしてたのが他ならぬライブドアだったからである。それ以上の意味はないが、案外この問題は今度のことともまったく絡んでないとは言えないようにも思っている。
阪急については今後、新ブログを中心に展開していくが、必要に応じてこちらで告知的重複エントリーをすることもあるかもしれない。いずれにしても関西在住者、および建築関係者の方は新ブログも覗いていただけると助かります。
□◇
※)バナーは「Kai-Wai 散策 」の masaさんを通じて「藍blog 」の aiさんが作ってくれた。こういう状況下でのこうした協力は本当に嬉しい。そしてブログならではこそだな〜とつくづく思う。「ブログの力 」か?
またこのブログを通して、「阪急梅田コンコースを・・ 」を告知してくださってる皆さん、本当に恩に着ます。
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2005年09月13日 (火)
今さっき、夕方のニュース見てたら、開いた口がふさがらなくなってしまった。
阪急梅田駅のコンコースがビルの建て替え工事 に伴い、解体されるのだという。
壁画は残すというが、そういうもんじゃないだろう?!!!!!!(超激怒)
たまたま先月、Flickr! に阪急コンコースの写真をアップしたら、昔関西に住んでた人たちから「こんなステキなところだったんだ」的なコメントが寄せられた。確かに案外通勤通学路となっている場所って周りを見ていないものである。何せ遅刻したらあかんだけに、、が、20代の後半に1年間京都で一人暮らしをして、その後、所帯を得て現在の大阪に移り住んだ私にとって、このコンコースは関西に「してやられた」気分にさせられた一番のものだったかもしれない。これに対抗できる東京の駅と言ったら東京駅くらいか?、、いや、しかしその艶というか豊饒さで言えば、明らかに阪急の方が優っている。そういう意味ではヨソ者をたじろかす存在感を持った数少ない場所だったのだ。
本当に解体してしまっていいんだろうか?
まあ、三鷹金猊居の解体を選択した私が言えた立場ではないが、壁画を残したとしてもあの空間の艶まで伝えられるとは到底考えられない。今更遅いのかもしれないが、あのコンコース部分をまるごとそっくりくるむような設計プランでも新たに出て来ないものだろうか? 関西で自慢できるトップクラスのものが消えていく。
以下 Flickr! 写真と共に、関連記事を見つけ次第、ここに追加していきたいと思う。
それとコンコースの設計者である伊東忠太および阪急創設者の小林一三については相応の思い入れがあるので、また別の機会を設けてエントリーしたいと思う。
■関連ニュース
・建通新聞:梅田阪急ビル建て替え 月内に施工者を
・asahi.com:旧阪急梅田駅コンコース解体へ 壁画は残します (2005.08.10)
・産経新聞 ENAK:阪急百貨店「貝の化石」取り壊しへ (2005.08.25)
・YOMIURI ONLINE:“昭和モダン”の阪急コンコース、解体へ (2005.09.09)
・Sankei Web:消える阪急百貨店のコンコース 名残を惜しむ市民の声も (2005.09.12)
・gooニュース:姿消す阪急梅田のコンコース (2005.09.13)
■関連サイト・ブログ
・極私的建物探訪:阪急電鉄梅田駅 壁画
・LA CHAMRE DE COMTE:大阪健脚ツアー篇・其の一
・鉄道で行く旅/Kimura's Internet Home Page:阪急百貨店梅田本店
・ぽむ吉さんの近代建築と書評中心のblog:阪急梅田 いままでとこれからと (2005.06.18)
・TRA−VEL−BLOG:さよなら阪急梅田
・淡海の国から on blog:【大阪】旧阪急梅田駅コンコース解体 (2005.08.10)
・阪急にタイガースに高橋愛を語る江戸人:阪急梅田駅旧ホームコンコース解体 (2005.08.11)
・ひろの東本西走!?:阪急百貨店建て替え計画 (2005.08.24)
・.3:さようなら
・Dramatic☆Interior:梅田阪急の建てかえ (2005.09.14)
・あさみ新聞:ちょっと待って「阪急百貨店」 (2005.09.14)
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2005年05月07日 (土)
春には桜の通り抜けで賑わう大阪造幣局 すぐ脇の大川に架かる桜宮橋の並びにもう一本、新桜宮橋の建設工事が始まっている。どうせなら桜のシーズンが終わってから工事始めりゃいいのに(三脚立てて一生懸命桜撮ってるカメラオジサンたちをがっかりさせないためにも)とも思ったが、まあ、世の中そんな風流には付き合ってくれないものである(工事は2005年1月25日から着手)。
で、つい先日その新設工事の行われている隣の元からある桜宮橋(通称:銀橋)をいつものように自転車で通ったら、新桜宮橋のアーチ部分がまるで観覧車のゴンドラのようになっていて、そのただならぬ様子に思わず私もカメラオジサンになってしまった。いや、まあ、三脚までは立ててませんが(笑)
もちろんベニア材で囲われた仮設部分はいずれ取り払われてしまうのだろうが、ちょっとそこに何が出来るのかは興味深い。
と思ってネット検索してみると「銀橋ホームページ 」というサイトが国交省の管轄で出来ていて「デザインは市民の皆さんからいただいた意見を参考にして、有識者からなる新桜宮橋デザイン検討委員会によって決めました。この委員会メンバーには、建築家の安藤忠雄先生にも務めていただきました。市民の皆様の意見では、約4分の3の方が、今の銀橋と同じ型がいいと答えていることを踏まえ、アーチ橋にすることになりました。」(ラジオ大阪「大阪のみち なにわのみち 」より)とのこと。
とりあえずその仮設ゴンドラが取れるとどんなアーチになるのかは乞うご期待といったところだが、ふだん最寄りのJR環状線桜ノ宮駅へ行くのに桜宮橋の一つ上手にある源八橋を渡る私の身勝手を言えば、源八橋から大阪城を望むのに視覚上邪魔になるようなものになって欲しくないというのが第一。あとはダブルアーチで道路拡張することによって国道1号線を挟んで造幣局の向かいにある泉布観 (1871年トーマス・J・ウォートルス設計)の敷地が狭まらないことを祈るばかりである。泉布観は建物もいいが、それ以上に裏寂れた敷地に木々が鬱そうと生い茂るあの日陰感が心地よいのである。
ところで大島健二著『建てずに死ねるか!建築家住宅 』の目次前のページに辞書を模した建築用語集が出ているのだが、その「建築」という用語の意味に「家・橋などをたてること」と出ている。それを読んで建築対象として「橋」って意外に大きな存在なんだなと思ったのだが、そういえばレオス・カラックス監督『ポンヌフの恋人 』のポンヌフ橋は確かセットじゃなかったか? とすると大道具と建築の違いとは?とも思うが、藤森照信+大嶋信道設計「一夜亭 」も俳優座の大道具が作ってたんだよな(汗)
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