2005年12月09日 (金)
旧阪急梅田駅コンコース の話題がさらに続きます。
「大阪日日新聞にて 」のエントリーでは触れませんでしたが、新聞取材に同行してもらった活動有志メンバーの一人であるのりみさん が NHK総合 で12/9(金) 19:30から放映される『大阪のこれから──皆で話そや "街づくり" 』という生放送番組に参加されることになりました。
その詳細・経緯はこちら 。
のりみさんについては今回の大阪日日新聞の記事後半部で「手塚治虫ゆかりの地 」としてコンコースとの関係が語られ、また4月に同新聞の「街を奏でる人 」で取り上げられた記事の方には詳しいプロフィールが出ています。
まあ、何はともあれ、とにかく「超」の付く手塚治虫マニアの方です(笑)
あと、右上のような日本画を描かれる方でもあります。何とも不思議な繋がり。
* * *
のりみさんは手塚氏のデビュー以前の生い立ちを探って『虫マップ 』という研究誌を発行(2005年3月からは手塚治虫ファンクラブ会誌「手塚ファンマガジン」でも連載)。その活動を通じて手塚氏の実弟にあたる手塚浩さんと出会われ『新・虫マップ2003 』では浩氏からの手紙を中心にそれまで「記録」としてしか垣間見えなかった手塚兄弟の話が浩氏の「記憶」を元に繙かれています(「虫マップ」の経緯 参照)。
そして、その中に建築好き人間であればヨダレものの逸品が・・。
手塚浩氏が作画された旧手塚邸平面図 が掲載されているのです。超必見!!!
植栽に至るまでこれほど詳細に渡る図面を、今の私は三鷹金猊居 において書き切る自信がありません(汗)←早いところ、模型を作っておかねば。。
* * *
のりみさんの番組参加(+新聞掲載)に際しては、コンコースブログを通じて出来た仲間達が各々のブログで後方支援してくれています。以下にそれら URL をリンク!
・あさみ新聞:旧阪急梅田駅コンコースを残したい活動のその後
・ゴリモンな日々:新聞。雑誌。そして今度はテレビかも?
・cinemazoo:梅田遺産のその後
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2005年08月15日 (月)
この画像 は見る人が見るとそれなりにショックの大きな画像のはずだ。
広島県北の山間部で進行する洪水調整用のダム建設計画に伴い、<ダム周辺環境整備にかかわる広大なエリアを、自然と文化の調和した永続的な魅力を持った「環境美術圏」にさせていく試みとして> 1994年から2002年まで灰塚アースワークプロジェクト なるアートプロジェクトが行われていた。1995年に初めてそのプロジェクトに参加した私は1998年からは Web構築係として関わっていた(実はコンテンツのベースとなる部分が1998年当時作ったもののまんまなんで、URL 晒すのはかなり恥ずかしいんですが...モニタサイズ 800×600 照準で作られちゃってるし)。
プロジェクト参加当時はここにダムなんてホンマに出来るんかい?という暢気なものだったが行政のハード事業というのはよほどの反対でもない限り、スケジュール通り着々と進んでいくもので、当初から予定された2006年には灰塚一帯は完全にダムの底に沈むことになりそうだ。というよりも、写真で見てわかるように2005年夏の段階で試験湛水も行われ、ダム機能は貯水を待つばかりの状況なのだ。
ちなみにアースワークプロジェクトの方はダムのまたがる三良坂町・吉舎町・総領町の3つの町が全国規模で広がる市への合併の波に呑み込まれ、それぞれ管轄が自立できなくなってしまったため、2002年を以て一旦休止状態になってしまった。その後、NPO 化の話なども出ているのだが、今のところはっきりとした動きは見えない(ただ、事務局が Web を残しておく意志だけは持っているので、今後何かしらの展開が期待できないこともないだろう)。
ところでこの3町のうちの総領町というのが、私の妻の生まれ故郷であり、つまり私はこのプロジェクトにたまたまバイトで駆り出されていた妻とこの地で出会ったという訳だ。ちなみに田植え で帰省した折、妻の実家でこのダム建設計画の直接の原因となった1972年の大洪水の話になり(それは当時7歳だった妻にとってはハッキリ記憶に残っている人生最初の大災害だったようだが)、考えてみればその洪水がなければダム建設計画もなかったかもしれず、ということは灰塚アースワークプロジェクトも当然なくて私と妻が出会うこともなかった。そして、そんなことを話しているその瞬間その空間もそこにはなく、妻と不思議な気分に陥っていたものだ。
9.11(なんちゅー日を選んでるんだよ!)の衆議院総選挙では、この袂を分けた3町を含む広島6区がホリエモンvs亀井静香の対決によって全国でもっとも注目を集める選挙区となることだろう。だが、そんなことはお構いなしに灰塚ダム 建設工事は静かに完成の日を迎えることになりそうだ。
ちなみに冒頭の写真はハイヅカ湖畔の森のコテージから撮影している。
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2005年07月02日 (土)
まず「高過庵 」へこれから行ってみたいと思っている人たちのために書いておく。
高過庵に行くには「神長官守矢史料館 」を目指せばよい。茅野駅から「宮川高部の〜」とでも言い添えてタクシー運転手に話せば、大抵のタクシーは連れて行ってくれるはずだ。ただ、宮川高部で帰りのタクシーを拾うのは難しいかもしれないので、待機してもらうか事前にタクシー会社の電話番号を控えておいた方がよいだろう。
そして高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えないが(※1) 、史料館右手30m先くらいのところにある舗装された道に出れば、山の方にぽつんと浮かび上がってるのが確認できるはずだ。または史料館で場所を聞けば、説明好きな館長さんがいつでも気さくに教えてくれることだろう。私たちに対してもそうだったが、ネット上でも館長さんの親切な人柄については多くのサイトで触れられている。
ちなみに母と私は史料館に来るのは2回目。
ところが諏訪在住の善n叔父さんはこうした施設があることすらご存知なく(後でお会いした奥様は学校の先生をされてるだけに知っていたが、地元ではあまり知られていないのだろうか?)、それで高過庵に向かう前にまずは史料館に入館した。そこで館長さんから高過庵の場所を聞いて、上記のように舗装道路に出て行くか(車でも行ける)、あるいは畑の中を強引に直進するかの方法を教わった訳だが、ここは年配者二人に合わせて舗装道路迂回順路で行くことになった。
ところで「そんないざ行かん!」とする直前に私は史料館の中で高過庵の姿を見つけてしまったのである。
何と!高過庵は史料館のトイレから窓越し に見えるのだ♪
人見知りがちで、高過庵の場所を誰にも聞く勇気が持てない人(世話好きの館長さんと話さないということの方が難しそうだが)とか、窓越しの写真を撮るのが好きな方は、用がなくともまずは史料館でトイレに入ることをオススメしておく。
さて、その高過庵は史料館から歩いて2,3分程度のところにある。
NHK-ETV特集「スロー建築のススメ 〜藤森照信流 家の作り方〜 」のビデオで予習した通り、のどかな田園風景を横目に赤瀬川原平氏と南伸坊氏がスローブ状のゆったり上がる坂道を藤森照信氏に案内されながら上っていく光景そのままだった。
で、いよいよ高過庵を目の前にしたとき、最初の印象が「アレ?思ったほど高過ぎないぞ!」だったのにはちょっと拍子抜けした(笑)
遠くから見ていたときは手前の草で足下が隠れて高さが掴めないままだったのが、遮るものもなくなりスーッと目の前に立ち現れた瞬間、あまり高さを感じなかったのは箱部分のボリュームが思ってた以上に大きかったせいかもしれない。
よく頭でっかちだとチビに見えるというではないか!?
この日の天気はうっすら青空が見える程度で、写真日和とは言えなかった。それでもなるべく色んな角度からデジカメで撮っておきたいと撮影始めて間もなく、善n叔父さんと母はもう来た道をスタスタと帰路につき始めているのである(汗)
そんな訳で私は思うままに撮影することも叶わず、あとを追ったのであったが、その追い掛け始めて高過庵の方に目をやった瞬間、最初は頭でっかちだという風に見てしまっていた高過庵が、とある男の顔とダブって見えてしまったのである。
それはあまりに如何にもなイメージなのだが、タイトルでも既に書いたようにムーミンに出てくるスナフキン。帽子の色は違うけど、こうして見較べてみると目(窓)の感じなんてそっくりじゃないだろうか? 藤森さんの作品って兎角ジブリ作品と並べて語られがちのようだけど、実はムーミン谷の世界観の方が近いんじゃないか?と一つ発見したつもりになって、帰阪してから「藤森照信 ムーミン」で検索してみると、それなりに出て来てしまってちょっとがっくり(泪)
まあ、「高過庵 スナフキン」では何も出て来なかったので、ひょっとしたらそれは第一発見者かもしれないが(笑)
ETV特集では赤瀬川さんが「ゴンドラのように揺れるね」と言われていたが、下から見ている限りではそんなに揺れてる感じはなかった。
それにしても番組内で赤瀬川さんはやたらと寝転びながら擬音語にしづらい呻き声を出してたけど、あれはやっぱり老人力ならぬ老人声ってヤツなんだろうか?(汗)
このエントリーを書いている最中、藤森さんが高過庵の次に同じ敷地内に「低過庵」を計画していることを知り、そのプランが紹介されてる「GA HOUSE No.86 」をチェックしてきたが、そこで彼が書いていることって、私が「諏訪の宅地 」で妄想していることに若干似ていて、結構「げげげ」なのであった(汗)
GA HOUSE No.86 (P.149)
「高過庵」では、神さまのように天空からではなく、人間のように地上からでもなく、地上から少し上がった高さにある極小空間にこもって、窓の高さから地上を眺める視線の新鮮さ楽しさを知ったが、今度の作では、地中、といっても地中に完全にもぐるんじゃなくて、地中に建物一つぶんだけ沈み、上がオープンな空間がどんなものかを試してみたい。
「高過庵」は、ふつう言われるツリー・ハウスとはちがい、正確には高床式住宅の極端な例だが、今度のは、さしづめ竪穴式住宅の極端例ということになるだろう。日本の原始時代の住宅には、高床式と竪穴式の二つのタイプがあったことは、よく知られている。
中に入り、座り、炉の火に照らされた薄明かりのなかでお茶を喫み、しばし後、スライド式の屋根を開けると‥‥。はたしてどんな空間体験が待ちかまえているか。楽しみである。
□◇
※1)高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えない
私が見たときには高過庵の手前の緑が生い茂りすぎていたせいか確認できなかったが、Ranch Girl in the kitchen 「2005年5月4日の日記 」によると、館長さんが場所を直接示してくれたらしいので、見えているのかもしれない。
※)その他の関連記事
・X-Knowledge HOME 特別編集 No.7『ザ・藤森照信 』: 設計作品の撮り下ろし
・藤森研究室「高過庵 」: 外内観写真+図面+コメント+建築情報
・新建築2004年9月号「高過庵 」: 写真+建築情報
・JA56号「高過庵 」: 写真+建築情報
・石山修武 世田谷村日記「2004年十一月二十八日 日曜日 」: 藤森さんに呼ばれてレポ
・風に吹かれて「高過庵 2 」: 藤森さんと一緒の訪問レポート+青空写真
・aki's STOCKTAKING「F教授の......... 」: 秋山さんの見学所感
・見もの・読みもの日記「おじさん少年・藤森照信と仲間たち 」: ETV特集見ての所感
・Nakatani's Blography「高過庵 建築見ずに ただ遊ぶ 」: 中谷礼仁氏の見学レポ
・Nakatani seminar「『高過庵』訪問記 大公開 」: 中谷ゼミ生訪問記+スケッチ
・omolo.com「news: 2005/07/12 (Tue) 」: 高過庵に糸電話(?)
・ゴリモンな日々「木の上に住んでみたい♪ 」: 2006年お盆の高過庵
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2005年06月30日 (木)
さて今回、墓参りと土地処遇問題で諏訪までやって来たわけだが、「諏訪」といえばやっぱり御柱祭 であり藤森照信 である。
下諏訪出身の伊東豊雄 氏もいるが、「ザ・スワ」の建築家と言ったら藤森照信氏以外思い当たらない。
そこで今回の訪問でもし時間の都合が付くならば、以前に「藤森照信: スロー建築のススメ 」のエントリーで番組宣伝だけしてそのままになってた「高過庵 」を見に行ってみたいと思っていたのである。そして幸運にも善n叔父さんが車を回してくれることになり、泰n叔父さんを一旦自宅まで送ってから3人で探しに行くことになった。「探す」というのは住所レベルの個人情報まではネット上に出ていないので、あさみ編集長から教わった「神長官守矢史料館のそば 」という情報を頼りに自分たちで探すしかなかったのである。
尚、本エントリー、焦らすつもりはないのだが、先にその藤森照信氏の処女作「神長官守矢史料館 」について触れておきたい。といっても史料館の概要・解説はすでにネット上に幾らでも転がってるので(※1) 、ここではあくまで個人的な雑感のみ。
まず私がここに来たのは2度目である。2000年にも妻・母・妹と墓参りついでで来ていて、ところがそのとき私はデジカメを持っていなかった。だから当時、母がコンパクトカメラで撮ったスナップ写真と今回自分で撮ったデジカメ画像を見較べているのだが、外壁に張られたサワラの割板の色にそう変化は感じられない。ところが『藤森照信野蛮ギャルド建築 』(TOTO出版・¥1,800-)に掲載された1991年竣工時の写真と見較べると劇的に違う。経年変化がいつ頃はっきり現れるのかが気になるところだ(というのも、うちもいずれは軒下の杉板甲板が黒くなるって豊田さんに言われている)。
また、私は大阪から諏訪へはいつも高速バスを利用するのだが(往復1万円で列車利用と大した時間差はない)、今回車中では藤森照信著『タンポポの綿毛 』(朝日新聞社 2000年4月発行 ¥1,680-)という本を読んできた。彼の「テルボ」と呼ばれていた子供時代の話がエッセイ風にまとめられた単行本である。
この本にはテルボが子供時代に遊んでいた集落の地図(藤森氏本人の手書きによる)が収録されていて「高過庵」の場所を探すのにも何か手掛かりになるのでは?と思っていたのである。しかし、諏訪に向かう車中でこの本を読んでいるとやはり読む現実感もまた一塩違ってくるものだ。場所の持つ磁力ってヤツだろうか。何度も爆笑を堪えながら読んでいたのだが、中でもとりわけバカ受けした「トンボ捕り」の話を一部引用しよう。
藤森照信著『タンポポの綿毛 』 ──「トンボ捕り(P.98)」 以上のトンボ捕りは秋津洲大和国の各地の少年少女が体験していると思うが、最後に、信州のいたずら小僧の得意技を紹介しておこう。これはゲーム性とヒミツ性をかねそなえたすばらしい捕り方なのだが、だれにでもできるものではないので、読者各位におかれては御自分の立場や歳をよく考えてから実行に移していただきたい。
ふつうのときにはやらない。水遊びのときにやる。
学校にまだプールがないから、川に行って水泳をしていた。子ども用の水泳パンツもなく、黒い三角形の小さな布きれにタテ一筋、ヨコ一本の黒いヒモをとりつけただけの、いまにして思うとなかなか先鋭的形態の "水泳フンドシ" なるものを着け、イヌカキをしながら水に浮いて流れ下るのを楽しみ、疲れると河原に上がり、砂と石の混じる上でコウラを干す。そのとき、だれかがトンボの捕りっこをしようといって、ゲームははじまる。
もともと小学生にはなんのために着けているのかわからないし、中身のこぼれ気味の三角の布きれをはずしてスッポンポンになり、上向きに寝転がる。ここまで書くとあとのやり方はわかると思うが、御賢察のとおり、各人エイイドリョクしてカラダの中心の棒をできるだけ高く立てる のである。
トンボは高いところから先にとまる習性をもつ。羽を下ろしたのを見はからい、腰の脇からそっと手を動かして‥‥ 。
トンボから見ると、棒の先だけでなく地面まで急に人体に変わったわけで納得できないかもしれないが、人のチエだからしかたない。
私はこの笑い話に藤森建築の主題の一つが隠されてるような気がしてならなかった。
いや、隠されてるなんてもんじゃなく、内容同様モロ出しされてるといった方がよいだろう。それはユリイカ2004年11月号で特集された『藤森照信──建築快楽主義 』(青土社 ¥1,300-)で、赤瀬川原平氏が「てっぺん性」という言葉で表現してたり、また特集にあたって藤森氏ご本人が対談相手にリクエストされてたんじゃないかと思われる宗教人類学者の中沢新一氏に「天に発射するスタンディング・ストーンとリンガの問題」を問い掛けている。即ちそれらは河原に横たわった身体から上へ向かって立ち上がる(場合によっては発射される)勃起力そのものの話であるのは言わずもがなだろう。
だが、もう一つ忘れてならないのが「トンボ」である。といってもワケわからないだろうから少し説明すると、処女作「神長官守矢史料館」から始まる藤森氏の一連の建築物でてっぺんに向かってオッ起てられた柱や棒ってどれも「どうだ!オレのを見ろ!」っていうほどは堂々としてなくて、どっちかというと華奢で慎ましく立ってる感じはしないだろうか? で、たぶんコレを品位とかそういうレベルで捉えてちゃ駄目で、私にはどうしてもそれがトンボを捕まえたいからああいう木を選ばれてるような気がしてならないのである。堂々とし過ぎた木に決してトンボは止まりはしない。
もちろんここでの「トンボ」が昆虫のトンボだけを指してる訳ではないことは言うまでもなく、おそらく氏はどんなものが近づいて来ても「腰の脇からそっと手を動かして」「‥‥」しようとしてるに違いない。そんな藤森氏に私はピカソが1966年に残したエッチング・アクアチントを勝手に捧ぐ。
Pablo Picasso, Untitled, 15 November 1966 VI.
□◇
・藤森研究室「神長官守矢史料館 」: 外内観写真+図面+コメント+建築情報
・茅野市ホームページ「神長官守矢史料館 」: 公共施設案内(休館日情報)
・建築リフル「001 神長官守矢史料館 」: 写真集(藤塚光政/隈研吾 著)
・建築マップ「神長官守矢史料館 」: 訪問レポート+詳細情報
・美的建築ワールド「茅野市神長官守矢史料館 」: レポート+建築情報
・月間進路指導「あの人に聞きたい私の選んだ道 , 2P , 3P 」: 藤森照信に聞く
・Sputnik「yield 」: 藤森照信へのインタビュー
・asahi.com - 信州館めぐり「名建築の中に諏訪大社の歴史 」: 新聞掲載記事
・SEEDS ON WHITESNOW「ETV特集「スロー建築のススメ」 -守矢の里の不思議な建物たち- 」: 地元出身者の番組レビュー(ブログ)
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2005年06月27日 (月)
ポリタン・コスモ でも紹介されてる Google Maps BETA 版 。
その Satelliete って機能が何とも不気味なのだが、ついグルグル色々見てしまう。
まだ衛星画像の詳細度に地域格差があって、私の住んでる大阪 なんかだと自分の家までははっきり確認できないが、谷中の敷地 はほぼどこだか特定できた。
ただ、そこが空き地のように見えるということは実は何年か前の画像なんだろうか?
でも、富士山 なんかは如何にも今の季節って感じの色合いなんだよな〜。
2005年06月17日 (金)
6/17(金)、18(土) と長野の諏訪に行ってきた。
主な目的は母方祖父母&大叔父の墓参りと私名義の土地の処遇について。土地の件は宅地 と山林 が少し離れたところにあるので、それぞれ別個にエントリーしていきたい。
このエントリーでは到着当日の旅の余話を二つばかり。翌日にももう一つ余話 はあるんだけど、そっちは建築絡みのとっておき の話なんで土地関連話のあとに単独エントリーさせるつもり(あさみ編集長 さんはたぶんその内容が想像できるはず)。
で、一つ目の余話は諏訪と云えばの温泉&旅館談義。
これまで法事絡みで諏訪に行くときの宿泊地はたいてい親任せか妹任せでホテルに泊まることが多かったのだが、今回は私と母の二人だけなので私がネットで探すことになった。それで選んでみたのが諏訪では老舗の油屋旅館 。
各種料理の付いたコースプランで申し込むとそれなりのお値段になってしまうのだが、素泊まりだと4200円〜。2名一室利用の場合で一人4725円。これだとその辺のビジネスホテルよりも安い。その上、展望露天風呂「天空の湯 」までが付いてくる。
そんなわけで迷わず利用してみたのだが、これが想像してた以上によかった。
部屋はトイレ・バス付きの十畳和室だった。老舗だけに古いといえば古いが、ロビーで休憩してれば茶菓子が出てくるし、中庭は綺麗に手入れされてるし、何と言っても従業員の持てなしの気持ちがこちらに伝わってくる。それで5000円以下というのはかなりのお買い得だろう。そして「天空の湯」。午後5時と朝7時の明るいときにしか入らなかったので夜景は見られなかったが、諏訪湖と北アルプスが一望できて非常に気持ちよかった。縁の部分に落下防止用のアクリル板が入っているのだが、それがなければもう一つ気持ちよかったろう。自己責任ってワケにはいかないものか?(^^;)
夜はこの時期限定のオプションツアーとなっている「数千匹のゲンジ蛍が乱舞!辰野の蛍鑑賞プラン 」に行ってみた。サイトのプラン案内に寄れば
数千匹のゲンジ蛍が乱舞!辰野の蛍鑑賞プラン◇昔心閣 油屋旅館より車30分。辰野町松尾峡では、6月中下旬、ゲンジボタルの幻想的な光を楽しむことができます。この期間に、数万匹発生するという名所なので、気候条件が合えば、夜8時頃から数千匹の蛍が乱舞する光景も見られます。特に6月11日〜20日の間は、蛍の数が多く、「松尾峡・辰野ほたる童謡公園(6月10〜19日は入場有料)」への入園券+往復のバスがセットになった期間限定オプションツアーはお勧めです。
とのことで、この日は湿度も高く、数千匹の蛍乱舞への期待が高まったが、まだ少し日にちが早かったようで、そこそこ飛び回ってはいたが、数千匹が乱舞というほどの光景には出会えなかった。っていうか、蛍よりも人出の方が多い感じだった(汗)
なお、上記写真は左側2枚が私が三脚も持ってないのにデジカメの夜景モードで無理矢理露出時間を長くして撮影したもの。右側の1枚は油屋旅館のプラン紹介に出ていた写真をコピらせてもらったものである。それらを見較べれば乱舞との差は一目瞭然だろうが、この右側の画像が冗談や合成ではないだろうことを私はここに記しておきたい。というのも、かつて私がインドを放浪 していたとき、この右端写真に匹敵するくらいの蛍の群れを実際にこの目で見ているのである。
以上、余話を掛け合わせて「天空の湯」から蛍鑑賞が出来たらほとんど極楽浄土の心境だろうが、それをローコストで実現している「山小屋 」もあったりするのである。
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2005年06月14日 (火)
実家から送られてきた荷物に「お隣の一乗寺 さんからいただいた品」と開封済みの包みに添え書きされた「追分羊かん 」なるものが入っていた。どこかで名前を聞いたことのあるようなないような、包みの裏を見ると今年の4月から静岡市に吸収合併された清水(現在は静岡市清水区)の銘菓とある。
ということは『ちびまる子ちゃん』で知ってるのか?と思い、「追分羊かん ちびまる子ちゃん」で検索すると、作者のさくらももこが大好物であり、また映画原作特別描き下ろし『ちびまる子ちゃん──大野君と杉山君 』の表紙に「追分羊かん」のお店の絵が描かれていることが判明。
『ちびまる子ちゃん 』全巻揃えてるだけに、それで朧気に覚えてたというわけか。
ちなみに味の方は羊羹の説明書きで「竹の皮包みの素朴な野趣と竹の皮の香の深く沁み込んだ言うに言えない静かな風味」と書かれているように、本当に言うに言えないどっしりした味わいがあり、取っつきやすい味ではないのだが、妻としみじみこれは美味いよ!と本当にしみじみしながら食べていた。最近は京菓子の洗練された味よりもこういうどっしり味の方が楽しめる舌になってきている。
なお、残念ながらというべきか幸いにというべきか店の公式サイトがないようなので、包みの裏面に記載された「追分羊羹の由来」を以下に引用しておく。
「追分羊羹の由来」 (詩人 長田恒雄・清水市)江戸三代将軍家光のころ府川のあるじ箱根の山中に
旅に病める明の僧と出合いこころあたたかく介抱
やがて病癒えたかの僧は感謝の涙とともに
小豆のあつものづくりの秘法をねんごろに伝授して去った。
それがそもそもこの追分羊羹のことの発り
ひたすらな善意と素朴な感謝がいみじくも交流したところから
この羮の風味は生れ出で、爾来三百年ひとの口に
ひとのこころにしみじみとしみわたってきている。
つつましくほのぼのと いまも
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2005年06月13日 (月)
豊田さんの誘いで、坪庭開拓団主催の奥多摩山歩きに参加した。
案内役はランドスケープアーキテクトの河合さん。他、河合さん繋がりの学生さん数名に今回初めてお会いした初音すまい研究所の手嶋さんの奥さん、そして毎度の私の旧友CT氏と総勢13名で奥多摩駅9時過ぎ集合。山歩きは実質10時のスタートとなった。
登山道入口の階段 には「倉沢のヒノキ」と書かれていて、30分も歩かないうちにちょっと独特な積み方をされた石垣 の上に聳え立つヒノキの木 が現れる。幹周6.3m、樹高約33m、推定樹齢600年(伝承1000年)。東京都指定天然記念物に指定されている御神木である。こういうものを見るとついエロい想像力 しか働かない私なのであるが、行く行くこの木が私たち一行の守り神となるのである。その話はまた後ほど。
そこから10分と歩かぬうちに人の住んでるらしき家が1軒谷側に見えてくるが、その先には全壊した木造住宅がすでに自然に呑み込まれつつある。そして山側に目を向けるとそこには倉沢集落 と言われる数十棟の廃屋が階段状にポツポツと立っていた。
倉沢集落については検索でいろいろ見つかるので手短なものを一つ引用しておく。
アルプス登山の玄関口 笠井家「奥多摩・倉沢集落 」 古来、炭焼きを生業とした山村集落。昭和30年代、石灰鉱山の社宅が造成され、最盛期は数十の家庭が暮らしていた。
その後、鉱山の衰退に伴い住民は離散。現在は、95歳のお爺さんが一人だけ暮らしている。つまり、たたずまいは廃村であるものの、れっきとした住宅街である。
建築系の学生が多いので、しばらく見学&撮影タイム。廃墟フェチの人には溜まらない場所であろう。学生時分に廃墟ブームなるものがあり、一通りその手の特集記事は目を通していた私だが、昔のように廃墟をスタイリッシュに捉えようとする視点はいつの間にか自分の中から抜け落ちていた。台所 がどこにあり、水汲み場や公衆浴場 がどのような位置にあるのか生活動線を気にしながら、そこで人々が生活していたときの暮らしを意識する。この思考は遺跡においても同様で、家づくりをしたからそういう見方になったのか、それとも歳を取ったからなのは自分でもよくわからない。ただ、いずれにしても廃墟や廃屋 を「廃墟」とカッコに括って見るような見方をしなくなってしまった。むしろそれは「家」であり「建物」のままなのだ。
集落で1時間くらい過ごしてから、いよいよ山登り。
坪庭開拓団の山歩きだけあって、要所要所で足を止め、河合さんの動植物に関するミニレクチャーがある。沢ではヤゴを捕まえられて皆に見せてくれたが、本人としては山椒魚を捕まえたかったらしい。私はてっきり沢ガニを探しているのかと思った。
ただ、その沢から先は河合さんも未踏の地ということで地図で確認しながらひとまず数百mはあると思われる段々畑状のワサビ田の脇を抜ける。ところがワサビ田を抜けてしばらくすると段々あるべきはずの道が見えなくなってしまう。
やむなく河合さんの判断で強引に山の道なき道を駆け上がり、次の尾根を捜そうということになった。山道よりも道になってないところを歩く方が、地面が柔らかくて足に負担が掛からないので私にとっては好都合だったが、踵の浅いスニーカーを履いてきてしまったので、一歩ごとに踵が抜けそうになるのに不便した。
総領ならば、こうした山に入るときにはいつも地下足袋を履くのだが、そのことを河合さんに言うと奥多摩では地下足袋よりも登山靴の方が向いているらしい。倉沢集落の説明文でも引用しているようにこの辺一帯は石灰が多く、草や土の上だけを歩くわけではないので、地下足袋だと足を怪我する可能性が高いそうなのだ。
しかし、河合さんの読みに反して上に登れど登れど一向に山の尾根は見えてこない。そのあたりから河合さんも半分冗談で万一帰れなくても1日分の食料は持ってるからなんてことを言われ出したり(^^;) 結局14時過ぎにようやく尾根っぽいところが見つかり、そこで腰を下ろして弁当タイムとなった。学生さんたちは皆おにぎり等を食べてるようだったが、豊田さんからお湯沸かせるのでカップラーメンの類を持って行くと身体暖まりますよと言われていた私は、コンロでお湯を沸かした河合さんからお湯をいただき、カレーヌードルを啜る。それにしても湯を沸かす河合さん の手捌きは見事だった。
ただ、さきほども「尾根っぽいところ」と書いたように、その尾根は筋を見せたり隠れたり非常に曖昧で、食後は尾根づたいに下山という予定だったが、かなり山中を彷徨い歩くこととなった。っていうか、斜面もどんどん急になってくるは、雨は降り出すは、暗くなってくるは、落石 はあるは、河合さんは途中で一度斜面を滑り落ち掛けるは(河合さんによるとそれは想定内とのこと)と、半ば半遭難状態(^^;) 実は豊田さんからは最初に母も誘われていたのだが、とりあえずここに母が来なかったのは正解だったといえよう。というか、母が居たらこのコースは選ばれなかったかもしれない。
しかし、ここがさすがはランドスケープアーキテクトで植物に詳しい河合さんなのである。あたりも暗くなってきた中で一瞬山間を見渡せる場所に出たとき、目敏くも冒頭で触れた御神木「倉沢のヒノキ 」を斜め下方数百mのところに見つけられたのである。それによってどうにか下山ポイントの目星が付けられ、17時半過ぎに無事下山 。
河合さんによれば一番心配だったのが、トンネルの上を歩いて道路を通り越してしまうことだったという。そう、これが総領の山だったら、とにかく迷ったらひたすら下に降りていけばいつかは道路に辿り着けるが、奥多摩では道路が中腹にあり、そこから下が谷底となっているので、一歩踏み誤れば谷底へと歩いて行ってしまう可能性があったのである。とはいえ、どうにか無事帰れたことだし、東京では滅多に体験できないスリリングな山歩きだったとたぶん参加メンバー皆結構楽しく思っていたはずである。
ちなみに私は中1のときにも友人と奥多摩湖に釣りに来て、愚かにも帰りの最終バスを逃し、トンネルの多い車しか通らないような湖沿いの蛇行する道をトボトボ歩いて駅まで向かわねばならなくなったことがある。幸運にとでも言うべきか、そのときは駅まで車で乗っけて行ってあげるよという親切なオッチャンが現れ、無事その日のうちに帰宅できたのだが(といってもそのオッチャンのことは誘拐か?と疑ってて、友人と共に後部座席でタックルボックスの中からいつでもナイフを取り出せるようにしていた)、何だかそのときと云い、今回と云い、どうも奥多摩という場所はスレスレセーフのスリルを味わさせてくれるところのような気がしてならない。
当時は駅に立ち食い蕎麦屋があって、そこで食べた蕎麦が滅茶苦茶うまかったという記憶があるのだが、現在、駅構内に立ち食い蕎麦屋はなくなってしまっていた。
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2005年05月21日 (土)
朝妻さんがプロデュースする「橡の家−特別見学会 」に行ってきた。
場所は東京世田谷の梅丘。学生時代の友人Nノ が住んでることや、「新釈肖像写真 」で写真撮影に来られた清真美 さんが2003年にグループ展をやっていたので多少は知っている街である。ただ、それらは共に北口にあり、梅丘の南口側を歩いたのは初めてであった。
もちろんどこを通るかでも街並みは全然異なるのだろうが、とりあえず案内に出ていた地図で「橡の家」までを最短距離で歩いてみると、何とも驚くべきことにそこに辿り着くまでの通りは「建築家住宅(by 大島健二 )」が雨後の筍状態で軒並み林立している地帯であった。所謂「郊外」というほど都心から離れてもいない梅丘は新興住宅地にはなり得ない。むしろ古くから住んでいた住人が代替わりして、予算もそこそこある若いオーナーが家を建て替えるなら建築家と!という傾向になってるのだろう。
約束の時間に遅れ気味だったので、そんなにじっくりとは見てはいないのだが、ただ、これ以上「建築家住宅」が増えるとそれは壮観というよりはややもすれば食傷気味とでも言いたくなるような街並みに堕するのではないか?という懸念も感じられた。本来、周辺環境に馴染ませるなり溶け込ませるなり取り込むなりというのは多くの建築家の得意とするところだろうが(それどころかそれは家づくりの前提条件と言えよう)、周囲が「建築家住宅」だらけになってしまったらどうなるのか?──今の建築家ブームが今後も続くのであれば、そんな悩みの生まれる日もそう遠くはないのかもしれない。
「橡の家」のお施主さん夫婦は、奥さんの「幼少の思い出の地」ということで梅丘を選ばれたらしい。敷地自体もその「建築家住宅」通りからは一歩奥まったところにあり、周辺に新しい家もあるものの、所謂「建築家住宅」があるわけではないので、狭小変形敷地の立地位置を存分に生かした周辺のちょっとしたポイントとなるような外観に仕上がっていた。私は建物の東側の道から来てしまったのだが、北側の少し坂になった方からやってきたなら(上の写真が北側から来た場合)初めて来た人はすぐ「お!アレだアレだ!」って思うはずだろうし、住人および付近住民はそれが見えてくることによって「ほっ!帰ってきた!」とどこか安心させられるような存在感をこれから持って行きそうである。私は直接見てないので何とも言えないが、夜にはガラス張りの西側一面がほんのり優しい光を壁面全体に灯すようだから、そうした心の安らぎに加えて周辺一帯のセキュリティ面での安全性も高めてくれるかもしれない。
ちなみにこの日は施主&建築ブログ仲間の garaika さん、bside さんとも現地で落ち合う約束になっていて、早く来られた garaikaさんはすでにご覧になられていたようだが、待ち合わせ時刻に遅れた私を待っていただき内部見学の時間を共有した。そのとき、他にも数組お客さんは見えていたので、朝妻さんは私たちも含めたいろんな方々に挨拶&説明されて、それなりに忙しそうなご様子だった。建築プロデューサーも大変だ。
室内についてはすでに朝妻さんが「感じ方ー人それぞれ 」で賛否両面それぞれの見方を自分で書かれてしまっているのでツッコミようがないのだが、『ガラス張りの家って熱くないの?』の疑問は、garaikaさんも書かれているように「光の透過性のある断熱材をうまく使って、採光しつつ、断熱」することで、5月なのに夏並みに日射しの強かった午後においても無事クリアされていた。ただ、朝妻さんだけが一人、扇子片手に室内外問わず、暑い暑いと汗を拭ってられたのが笑っちゃうところではありましたが(笑)
□◇
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2005年03月22日 (火)
一酔千日戯言覚書2「丹下健三さんが亡くなりました 」にて日本建築界の重鎮・丹下健三 氏の訃報に接する。それを読んだ時点でまだニュースサイトにその情報は出回ってなかったが、それからしばらくして「建築界リード 丹下健三氏死去 」という見出しでヤフーのトップニュース扱いとなっていた。91歳だったという。
丹下氏の存在は私にとっては必ずしもその輝かしい功績と符合するものではない。80年代末、東京都新都庁舎 計画で当時一番背高ノッポのツインビルプランでコンペを勝ち取った丹下氏の存在は学生だった私の目には政治家の腹黒いドン(金丸信にもちょっと似てたし)のように映っていた。むしろ当時の私は周囲の副都心高層ビル群よりも低い庁舎計画案を出した磯崎新氏のプランの方に惹かれていたものだ。
だが、学生時代の青臭さが抜け、ポストモダン建築よりも近代建築に魅了されるようになってからは、少なくとも公共建築に関してはやっぱり丹下の方が磯崎より全然すげーやと思うようになっていたのである。それには時代背景による素材=経済感覚の違いもあるのでやむを得ないところもあるのだが。。
当時、東京にいた私は一度ライブで代々木・国立屋内総合競技場 に行ったことがあるのだが、そこがオリンピックプール として使われていたのかと思っただけで背筋がゾクッとしたものである。建築で武者震いする経験って他に国内で思い出せるのは白井晟一の作品群くらいのものである。
ところで私は大阪に住むようになってまだ淡路島には行ったことがないのだが、先月たまたま友人の akanem 氏から淡路島南端の「若人の丘」に建つ丹下作の戦没学徒記念館 に行ってきたというメールをもらった。上記掲載写真は彼女が撮ってきた記念館の写真。私も花粉が飛ばなくなった頃にでも行ってみたいものだ。以下に彼女からのメールにあった訪問時の感想を一部転載しておく。
On 2005/02/27, at 21:46, akanem wrote:
今日は、前から行ってみたい、と思っていた丹下健三の幻の作品といわれる、
戦没学徒記念館に行ってきました。
ご存知ですか?(淡路島南端の「若人の丘」に建ってます)
震災後、閉館されたままで、いまや廃墟と化してますが、
最近の建物ではあまり感じたことのない、崇高さというか緊張感を感じました。
すでに崩れかけている石積みの美しさというか、なんというか。。。
建物自体にも力がある、ということを改めて感じさせられました。
中の展示物の一部は残されたまま埃をかぶっていて、
(それも、戦時中の写真や日章旗など)
周りの風景の美しさ、静けさ、建物の美しさとは対照的に、
何ともいえない雰囲気をかもし出していました。
機会があれば、ぜひ。というくらいオススメの場所です。
普通に景色が気持ちいいです。
□◇
※余談1)
丹下健三といえば、建築史家の藤森照信氏がまとめた限定2500部の 丹下健三・藤森照信 著『丹下健三 』があるんだけど、¥28,500- に未だ手が出ません。
※余談2)
丹下健三の公式サイト「KENZO TANGE OFFICIAL SITE 」ってどこが作ったか知らないけど、Flash のバカ使いの典型でアクセシビリティ最悪。特に「作品 」のコンテンツはメニューの「作品」クリックするよりも「プロフィール >代表作品 」で見た方がわかりやすいです。
※余談3)
戦没学徒記念館レポートのあるブログです。
・ポリタン・コスモ「戦没学徒記念館_by_丹下健三 」
・あさみ新聞「戦没学徒記念 若人の広場 」
※余談4)
読売新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。
読売新聞「丹下健三さんが死去…世界の建築界をリード 」 日本の建築界をリードし、「世界の丹下」と評価された文化勲章受章者の建築家、丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが、22日午前2時8分、心不全のため東京都港区内の自宅で亡くなった。91歳だった。
告別式は25日正午、文京区関口3の16の15東京カテドラル聖マリア大聖堂。喪主は妻、孝子さん。
1913年、大阪府生まれ。中学まで愛媛県今治市で過ごし、38年に東大工学部建築科を卒業。前川国男建築事務所に勤めた後、東大に戻り、助教授を経て64年に教授となった。
都市計画を専門とし、機能性と美の融合を図る近代建築を推進。広島市の平和記念公園(49年)のコンペで1等に選ばれて注目され、東京都庁第1庁舎(57年)や東京オリンピックの代々木・国立屋内総合競技場(64年)などの設計で世界的な評価を得た。
大阪万博の会場構成(70年)のほか、海外での仕事も多く、ユーゴスラビア、イタリア、中東などの都市計画、復興計画を手がけた。日本建築学会賞(54、55、58年)や英王室建築家協会のロイヤル金賞(65年)など内外の賞を多数受賞。74年に東大を退官して名誉教授になり、79年に文化功労者、80年に文化勲章を受章した。
以後は東京都の新庁舎(91年)、フジサンケイグループ本社ビル(97年)、東京ドームホテル(2000年)などの仕事がある。著書に「東京計画1960」「建築と都市」「一本の鉛筆から」など。
毎日新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。
毎日新聞「訃報:丹下健三さん91歳=建築家 」 東京オリンピックの舞台となった国立代々木競技場や東京都新庁舎など、戦後の代表的建築多数の設計を手がけ、日本建築史に巨大な足跡を残した建築家で文化勲章受章者の丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが22日午前2時8分、心不全のため東京都港区の自宅で死去した。91歳だった。葬儀は25日正午、文京区関口3の16の15の東京カテドラル聖マリア大聖堂。自宅住所の詳細は公表しない。連絡先は新宿区大京町24の丹下都市建築設計(03・3357・1888)。喪主は妻孝子(たかこ)さん。
大阪府出身。高校時代、ル・コルビュジェに傾倒し建築家を志した。1942年の大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選するなど、早くから頭角を現した。東大建築学科助教授を経て、64〜74年、都市工学科教授を務める一方、61年、丹下健三都市建築設計研究所を開設した。
この間、49年の広島市平和記念公園及び記念館の設計競技で1等入選。また、丸の内の旧東京都庁舎や愛媛県民館、香川県庁舎など公共建築を次々と手がけ、建築界に大きな地歩を築いた。
その存在を一躍国内外に知らせたのは、ユニークな曲線の屋根で、東京オリンピックのシンボルともなった64年の国立代々木競技場。つり構造が生み出した巨大な内部空間は、開かれた都市像の象徴とも評された。
以後、国家的プロジェクトの中心的担い手となり、70年の大阪万博では基幹施設プロデューサーとして、お祭り広場を設計。海外の都市再開発にかかわる一方、東京都の新都庁舎の指名競技設計にも1等入選。91年にオープンした同庁舎はスケールの大きさと壮麗なデザインで話題を集め、新宿新都心でも際立った建築となった。
79年、文化功労者。80年、文化勲章を受章。東大時代は丹下研究室から磯崎新、黒川紀章、槙文彦ら世界的な建築家を輩出するなど、後進の育成にも大きく寄与した。3冊の作品集や自伝「一本の鉛筆から」の他、「日本建築の原形」「人間と建築」など著書多数。
◇建築や都市設計が社会発展とともにあった時代の最後の巨匠
日本のモダニズム建築をリードした丹下健三さんが22日、亡くなった。広島平和記念公園、東京オリンピックの記念碑的建造物・国立代々木競技場、東京都庁舎。戦後日本の各時代を象徴し、人々の記憶に残る名建築を手がけてきた人だけに、その死はまさに巨星落つの感を与えずにはいない。
戦時下の東大大学院時代、日本の大きな設計競技で3年連続1等を獲得。建築界の鬼才として、すでにその名は広く知れ渡っていた。
戦後の都市復興計画に際し、広島担当を強く望んだのは、自分が高校時代を過ごすとともに、そこが両親の最後の地でもあったからだろう。
広島市の仕事が戦後復興のシンボルとすれば、60年代の高度成長期の記念碑は、オリンピック功績賞を受けた国立代々木競技場にほかならない。丹下さんは従来の柱りょう構造をやめ、「大工さんがヒモをつるして屋根のこう配を決める」ように、スチールの張力によるつり屋根構造を採用。多数の観客が柱に邪魔されず、流れるように移動できる豊かな空間を生み出すのに成功したのである。
丹下さんはその後も、世界建築界の巨匠として名声を博していくが、社会的な話題性という点で他を圧するのは、91年に完工した新宿の東京都庁舎だろう。総工費が1500億円以上にふくれ上がり、デザインの豪華さが際立つ外観も手伝って、当時は「バブルの塔」などの批判にさらされもした。
しかし、丹下さんは新都庁舎を「自治のシンボル」と言い切り、「批判するのは建築の贅(ぜい)を知らない人」と、最後まで動じなかった。その意味で丹下さんは、建築や都市の設計が社会の発展とともにあった時代を代表する、最後の巨匠だったのかもしれない。もしも丹下さんがなお健在であったなら、あらゆる発展神話が崩壊した現代の建築や都市のありようについて、どんなビジョンを差し出してくれただろうか。【三田晴夫】
■建築家、磯崎新さんの話──日本代表する仕事
日本で初めて近代建築を体現した建築家といえる。丹下さんの出現は20世紀後半の日本の建築を方向づけた。戦後、70年代前半までの時期に最も活躍し、広島平和記念公園や代々木体育館、大阪万博など、国家的なプロジェクトで中心的役割を果たした。戦後日本の成長とともに歩み、かつ日本を代表する仕事をした。巡り合わせもあるが、まれに見る建築家であり、それに値する実力を持っていた。
70年代以降、日本で国家的スケールのイベントが姿を消すに従い世界に場所を移し、そこでも中東諸国の国家的な建築物を手掛けた。突然の知らせを受け、時代の一つの大きな区切りを感じた。
■藤森照信・東大教授(建築史)の話──戦後史そのもの
日本人が思っている以上に世界的な建築家で、戦後日本が誇る造船や橋りょうの技術を使った代々木の競技場は世界に広く知られている。先端技術を駆使しながら日本の伝統的な美意識を取り入れた点でも高度な建築物だ。日本で一般大衆に名前を知られた最初の建築家だろう。広島の平和記念公園、東京五輪、大阪万博など、その足跡は日本の戦後史そのものといえる。
■建築家、東大名誉教授、安藤忠雄さんの話──大きな刺激受けた
世界中の建築家が、とりわけ広島の平和記念公園、香川県庁舎、代々木体育館に大きな刺激を受けたと思う。私たち後に続く建築家の心の中に、永遠に先生は生き続ける。
■建築史家、東大教授、鈴木博之さんの話──日本のモダニズム建築の父
日本の近代建築を真の意味で国際的にした巨人だ。先生に続く建築家が国際的に活躍する、まさにその下地を作った。その意味で、日本のモダニズム建築の父と言っていい。
◆主な作品・業績一覧◆
広島平和記念公園(広島市)1950年
香川県庁舎(高松市)58年
国立代々木競技場<代々木体育館>(東京都渋谷区)64年
日本万国博覧会マスタープラン(大阪府)70年
草月会館(東京都港区)77年
サウジアラビア国家宮殿(サウジアラビア・ジッダ)82年
赤坂プリンスホテル(東京都千代田区)82年
アラビアンガルフ大学(バーレーン・マナマ)88年
パリ・イタリア広場<グラン・テクラン>(フランス・パリ)91年東京都新都庁舎(新宿区)91年
フジテレビ本社ビル(東京都港区)96年
※余談5)
大阪万博での丹下氏は岡本太郎に引け劣らぬ原動力となった立役者のうちの一人だった。おそらく愛知万博直前の死にそうした因縁を持ち出す記事が多発されるだろうが、それはちょっと丹下氏には失礼では?と思ってしまうのは愛知万博をよく知らないから言えることなのか? どーなんでしょ?
愛・地球博 (^^;)
※余談6)
BLOG×PROCESS5「世界旅行 Vol.11 丹下 健三 」に Google Satellite による代々木国立屋内総合競技場の映像が掲載されてます。一般に建築家は模型でモノを考えてるだろうからこうした俯瞰イメージは思いっきり想定内なんだろうけど、ビジターとしてこういう視点に立つとなかなか刺激的なものです。
そして最後にはなりましたが、丹下氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。拝
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