2005年12月09日 (金)

NHK『大阪のこれから』にて

051209_kirameki.jpg旧阪急梅田駅コンコースの話題がさらに続きます。
大阪日日新聞にて」のエントリーでは触れませんでしたが、新聞取材に同行してもらった活動有志メンバーの一人であるのりみさんが NHK総合 で12/9(金) 19:30から放映される『大阪のこれから──皆で話そや "街づくり"』という生放送番組に参加されることになりました。
その詳細・経緯はこちら

のりみさんについては今回の大阪日日新聞の記事後半部で「手塚治虫ゆかりの地」としてコンコースとの関係が語られ、また4月に同新聞の「街を奏でる人」で取り上げられた記事の方には詳しいプロフィールが出ています。
まあ、何はともあれ、とにかく「超」の付く手塚治虫マニアの方です(笑)
あと、右上のような日本画を描かれる方でもあります。何とも不思議な繋がり。

by m-louis : 19:30 | comments (0) | trackbacks (1)

2005年08月15日 (月)

灰塚ダム試験湛水

HAIZUKA DAM TESTING

この画像は見る人が見るとそれなりにショックの大きな画像のはずだ。
広島県北の山間部で進行する洪水調整用のダム建設計画に伴い、<ダム周辺環境整備にかかわる広大なエリアを、自然と文化の調和した永続的な魅力を持った「環境美術圏」にさせていく試みとして>1994年から2002年まで灰塚アースワークプロジェクトなるアートプロジェクトが行われていた。1995年に初めてそのプロジェクトに参加した私は1998年からは Web構築係として関わっていた(実はコンテンツのベースとなる部分が1998年当時作ったもののまんまなんで、URL 晒すのはかなり恥ずかしいんですが...モニタサイズ 800×600 照準で作られちゃってるし)。

プロジェクト参加当時はここにダムなんてホンマに出来るんかい?という暢気なものだったが行政のハード事業というのはよほどの反対でもない限り、スケジュール通り着々と進んでいくもので、当初から予定された2006年には灰塚一帯は完全にダムの底に沈むことになりそうだ。というよりも、写真で見てわかるように2005年夏の段階で試験湛水も行われ、ダム機能は貯水を待つばかりの状況なのだ。

ちなみにアースワークプロジェクトの方はダムのまたがる三良坂町・吉舎町・総領町の3つの町が全国規模で広がる市への合併の波に呑み込まれ、それぞれ管轄が自立できなくなってしまったため、2002年を以て一旦休止状態になってしまった。その後、NPO 化の話なども出ているのだが、今のところはっきりとした動きは見えない(ただ、事務局が Web を残しておく意志だけは持っているので、今後何かしらの展開が期待できないこともないだろう)。

by m-louis : 15:39 | comments (2) | trackbacks (0)

2005年07月02日 (土)

高過庵とスナフキン

TAKASUGI-ANまず「高過庵」へこれから行ってみたいと思っている人たちのために書いておく。
高過庵に行くには「神長官守矢史料館」を目指せばよい。茅野駅から「宮川高部の〜」とでも言い添えてタクシー運転手に話せば、大抵のタクシーは連れて行ってくれるはずだ。ただ、宮川高部で帰りのタクシーを拾うのは難しいかもしれないので、待機してもらうか事前にタクシー会社の電話番号を控えておいた方がよいだろう。

そして高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えないが(※1)、史料館右手30m先くらいのところにある舗装された道に出れば、山の方にぽつんと浮かび上がってるのが確認できるはずだ。または史料館で場所を聞けば、説明好きな館長さんがいつでも気さくに教えてくれることだろう。私たちに対してもそうだったが、ネット上でも館長さんの親切な人柄については多くのサイトで触れられている。

JINCHOKAN MORIYA HISTORICAL MUSEUMちなみに母と私は史料館に来るのは2回目。
ところが諏訪在住の善n叔父さんはこうした施設があることすらご存知なく(後でお会いした奥様は学校の先生をされてるだけに知っていたが、地元ではあまり知られていないのだろうか?)、それで高過庵に向かう前にまずは史料館に入館した。そこで館長さんから高過庵の場所を聞いて、上記のように舗装道路に出て行くか(車でも行ける)、あるいは畑の中を強引に直進するかの方法を教わった訳だが、ここは年配者二人に合わせて舗装道路迂回順路で行くことになった。

ところで「そんないざ行かん!」とする直前に私は史料館の中で高過庵の姿を見つけてしまったのである。
何と!高過庵は史料館のトイレから窓越しに見えるのだ♪
人見知りがちで、高過庵の場所を誰にも聞く勇気が持てない人(世話好きの館長さんと話さないということの方が難しそうだが)とか、窓越しの写真を撮るのが好きな方は、用がなくともまずは史料館でトイレに入ることをオススメしておく。

2005年06月30日 (木)

神長官守矢史料館とトンボ

JINCHOKAN MORIYA HISTORICAL MUSEUMさて今回、墓参りと土地処遇問題で諏訪までやって来たわけだが、「諏訪」といえばやっぱり御柱祭であり藤森照信である。
下諏訪出身の伊東豊雄氏もいるが、「ザ・スワ」の建築家と言ったら藤森照信氏以外思い当たらない。
そこで今回の訪問でもし時間の都合が付くならば、以前に「藤森照信: スロー建築のススメ」のエントリーで番組宣伝だけしてそのままになってた「高過庵」を見に行ってみたいと思っていたのである。そして幸運にも善n叔父さんが車を回してくれることになり、泰n叔父さんを一旦自宅まで送ってから3人で探しに行くことになった。「探す」というのは住所レベルの個人情報まではネット上に出ていないので、あさみ編集長から教わった「神長官守矢史料館のそば」という情報を頼りに自分たちで探すしかなかったのである。

尚、本エントリー、焦らすつもりはないのだが、先にその藤森照信氏の処女作「神長官守矢史料館」について触れておきたい。といっても史料館の概要・解説はすでにネット上に幾らでも転がってるので(※1)、ここではあくまで個人的な雑感のみ。

050618_moriya.jpg

まず私がここに来たのは2度目である。2000年にも妻・母・妹と墓参りついでで来ていて、ところがそのとき私はデジカメを持っていなかった。だから当時、母がコンパクトカメラで撮ったスナップ写真と今回自分で撮ったデジカメ画像を見較べているのだが、外壁に張られたサワラの割板の色にそう変化は感じられない。ところが『藤森照信野蛮ギャルド建築』(TOTO出版・¥1,800-)に掲載された1991年竣工時の写真と見較べると劇的に違う。経年変化がいつ頃はっきり現れるのかが気になるところだ(というのも、うちもいずれは軒下の杉板甲板が黒くなるって豊田さんに言われている)。

by m-louis : 13:00 | comments (0) | trackbacks (0)

2005年06月27日 (月)

Google Satellite

050628_yanakamap.jpg

ポリタン・コスモでも紹介されてる Google Maps BETA 版
その Satelliete って機能が何とも不気味なのだが、ついグルグル色々見てしまう。
まだ衛星画像の詳細度に地域格差があって、私の住んでる大阪なんかだと自分の家までははっきり確認できないが、谷中の敷地はほぼどこだか特定できた。
ただ、そこが空き地のように見えるということは実は何年か前の画像なんだろうか?
でも、富士山なんかは如何にも今の季節って感じの色合いなんだよな〜。

by m-louis : 16:16 | comments (4) | trackbacks (0)

2005年06月17日 (金)

諏訪の油屋旅館と辰野の蛍

6/17(金)、18(土) と長野の諏訪に行ってきた。
主な目的は母方祖父母&大叔父の墓参りと私名義の土地の処遇について。土地の件は宅地山林が少し離れたところにあるので、それぞれ別個にエントリーしていきたい。
このエントリーでは到着当日の旅の余話を二つばかり。翌日にももう一つ余話はあるんだけど、そっちは建築絡みのとっておきの話なんで土地関連話のあとに単独エントリーさせるつもり(あさみ編集長さんはたぶんその内容が想像できるはず)。

050617_1403_aburaya.jpg

で、一つ目の余話は諏訪と云えばの温泉&旅館談義。
これまで法事絡みで諏訪に行くときの宿泊地はたいてい親任せか妹任せでホテルに泊まることが多かったのだが、今回は私と母の二人だけなので私がネットで探すことになった。それで選んでみたのが諏訪では老舗の油屋旅館
各種料理の付いたコースプランで申し込むとそれなりのお値段になってしまうのだが、素泊まりだと4200円〜。2名一室利用の場合で一人4725円。これだとその辺のビジネスホテルよりも安い。その上、展望露天風呂「天空の湯」までが付いてくる。

そんなわけで迷わず利用してみたのだが、これが想像してた以上によかった。
部屋はトイレ・バス付きの十畳和室だった。老舗だけに古いといえば古いが、ロビーで休憩してれば茶菓子が出てくるし、中庭は綺麗に手入れされてるし、何と言っても従業員の持てなしの気持ちがこちらに伝わってくる。それで5000円以下というのはかなりのお買い得だろう。そして「天空の湯」。午後5時と朝7時の明るいときにしか入らなかったので夜景は見られなかったが、諏訪湖と北アルプスが一望できて非常に気持ちよかった。縁の部分に落下防止用のアクリル板が入っているのだが、それがなければもう一つ気持ちよかったろう。自己責任ってワケにはいかないものか?(^^;)

by m-louis : 14:03 | comments (2) | trackbacks (0)

2005年06月14日 (火)

清水の追分羊かん

050614_oiwake.jpg

実家から送られてきた荷物に「お隣の一乗寺さんからいただいた品」と開封済みの包みに添え書きされた「追分羊かん」なるものが入っていた。どこかで名前を聞いたことのあるようなないような、包みの裏を見ると今年の4月から静岡市に吸収合併された清水(現在は静岡市清水区)の銘菓とある。
ということは『ちびまる子ちゃん』で知ってるのか?と思い、「追分羊かん ちびまる子ちゃん」で検索すると、作者のさくらももこが大好物であり、また映画原作特別描き下ろし『ちびまる子ちゃん──大野君と杉山君』の表紙に「追分羊かん」のお店の絵が描かれていることが判明。
ちびまる子ちゃん』全巻揃えてるだけに、それで朧気に覚えてたというわけか。

by m-louis : 15:57 | comments (2) | trackbacks (1)

2005年06月13日 (月)

倉沢集落@奥多摩スリル

050524_okutama.jpg

豊田さんの誘いで、坪庭開拓団主催の奥多摩山歩きに参加した。
案内役はランドスケープアーキテクトの河合さん。他、河合さん繋がりの学生さん数名に今回初めてお会いした初音すまい研究所の手嶋さんの奥さん、そして毎度の私の旧友CT氏と総勢13名で奥多摩駅9時過ぎ集合。山歩きは実質10時のスタートとなった。

登山道入口の階段には「倉沢のヒノキ」と書かれていて、30分も歩かないうちにちょっと独特な積み方をされた石垣の上に聳え立つヒノキの木が現れる。幹周6.3m、樹高約33m、推定樹齢600年(伝承1000年)。東京都指定天然記念物に指定されている御神木である。こういうものを見るとついエロい想像力しか働かない私なのであるが、行く行くこの木が私たち一行の守り神となるのである。その話はまた後ほど。

そこから10分と歩かぬうちに人の住んでるらしき家が1軒谷側に見えてくるが、その先には全壊した木造住宅がすでに自然に呑み込まれつつある。そして山側に目を向けるとそこには倉沢集落と言われる数十棟の廃屋が階段状にポツポツと立っていた。
倉沢集落については検索でいろいろ見つかるので手短なものを一つ引用しておく。

アルプス登山の玄関口 笠井家「奥多摩・倉沢集落 古来、炭焼きを生業とした山村集落。昭和30年代、石灰鉱山の社宅が造成され、最盛期は数十の家庭が暮らしていた。  その後、鉱山の衰退に伴い住民は離散。現在は、95歳のお爺さんが一人だけ暮らしている。つまり、たたずまいは廃村であるものの、れっきとした住宅街である。

050524_kurasawa.jpg建築系の学生が多いので、しばらく見学&撮影タイム。廃墟フェチの人には溜まらない場所であろう。学生時分に廃墟ブームなるものがあり、一通りその手の特集記事は目を通していた私だが、昔のように廃墟をスタイリッシュに捉えようとする視点はいつの間にか自分の中から抜け落ちていた。台所がどこにあり、水汲み場や公衆浴場がどのような位置にあるのか生活動線を気にしながら、そこで人々が生活していたときの暮らしを意識する。この思考は遺跡においても同様で、家づくりをしたからそういう見方になったのか、それとも歳を取ったからなのは自分でもよくわからない。ただ、いずれにしても廃墟や廃屋を「廃墟」とカッコに括って見るような見方をしなくなってしまった。むしろそれは「家」であり「建物」のままなのだ。

by m-louis : 00:06 | comments (7) | trackbacks (1)

2005年05月21日 (土)

橡の家−特別見学会

朝妻さんがプロデュースする「橡の家−特別見学会」に行ってきた。
場所は東京世田谷の梅丘。学生時代の友人Nノが住んでることや、「新釈肖像写真」で写真撮影に来られた清真美さんが2003年にグループ展をやっていたので多少は知っている街である。ただ、それらは共に北口にあり、梅丘の南口側を歩いたのは初めてであった。

もちろんどこを通るかでも街並みは全然異なるのだろうが、とりあえず案内に出ていた地図で「橡の家」までを最短距離で歩いてみると、何とも驚くべきことにそこに辿り着くまでの通りは「建築家住宅(by 大島健二)」が雨後の筍状態で軒並み林立している地帯であった。所謂「郊外」というほど都心から離れてもいない梅丘は新興住宅地にはなり得ない。むしろ古くから住んでいた住人が代替わりして、予算もそこそこある若いオーナーが家を建て替えるなら建築家と!という傾向になってるのだろう。

約束の時間に遅れ気味だったので、そんなにじっくりとは見てはいないのだが、ただ、これ以上「建築家住宅」が増えるとそれは壮観というよりはややもすれば食傷気味とでも言いたくなるような街並みに堕するのではないか?という懸念も感じられた。本来、周辺環境に馴染ませるなり溶け込ませるなり取り込むなりというのは多くの建築家の得意とするところだろうが(それどころかそれは家づくりの前提条件と言えよう)、周囲が「建築家住宅」だらけになってしまったらどうなるのか?──今の建築家ブームが今後も続くのであれば、そんな悩みの生まれる日もそう遠くはないのかもしれない。

by m-louis : 15:15 | comments (3) | trackbacks (0)

2005年03月22日 (火)

丹下健三氏、没

一酔千日戯言覚書2「丹下健三さんが亡くなりました」にて日本建築界の重鎮・丹下健三氏の訃報に接する。それを読んだ時点でまだニュースサイトにその情報は出回ってなかったが、それからしばらくして「建築界リード 丹下健三氏死去」という見出しでヤフーのトップニュース扱いとなっていた。91歳だったという。

丹下氏の存在は私にとっては必ずしもその輝かしい功績と符合するものではない。80年代末、東京都新都庁舎計画で当時一番背高ノッポのツインビルプランでコンペを勝ち取った丹下氏の存在は学生だった私の目には政治家の腹黒いドン(金丸信にもちょっと似てたし)のように映っていた。むしろ当時の私は周囲の副都心高層ビル群よりも低い庁舎計画案を出した磯崎新氏のプランの方に惹かれていたものだ。

だが、学生時代の青臭さが抜け、ポストモダン建築よりも近代建築に魅了されるようになってからは、少なくとも公共建築に関してはやっぱり丹下の方が磯崎より全然すげーやと思うようになっていたのである。それには時代背景による素材=経済感覚の違いもあるのでやむを得ないところもあるのだが。。
当時、東京にいた私は一度ライブで代々木・国立屋内総合競技場に行ったことがあるのだが、そこがオリンピックプールとして使われていたのかと思っただけで背筋がゾクッとしたものである。建築で武者震いする経験って他に国内で思い出せるのは白井晟一の作品群くらいのものである。

ところで私は大阪に住むようになってまだ淡路島には行ったことがないのだが、先月たまたま友人の akanem 氏から淡路島南端の「若人の丘」に建つ丹下作の戦没学徒記念館に行ってきたというメールをもらった。上記掲載写真は彼女が撮ってきた記念館の写真。私も花粉が飛ばなくなった頃にでも行ってみたいものだ。以下に彼女からのメールにあった訪問時の感想を一部転載しておく。

by m-louis : 17:40 | comments (5) | trackbacks (4)
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