2005年06月30日 (木)

神長官守矢史料館とトンボ

JINCHOKAN MORIYA HISTORICAL MUSEUMさて今回、墓参りと土地処遇問題で諏訪までやって来たわけだが、「諏訪」といえばやっぱり御柱祭であり藤森照信である。
下諏訪出身の伊東豊雄氏もいるが、「ザ・スワ」の建築家と言ったら藤森照信氏以外思い当たらない。
そこで今回の訪問でもし時間の都合が付くならば、以前に「藤森照信: スロー建築のススメ」のエントリーで番組宣伝だけしてそのままになってた「高過庵」を見に行ってみたいと思っていたのである。そして幸運にも善n叔父さんが車を回してくれることになり、泰n叔父さんを一旦自宅まで送ってから3人で探しに行くことになった。「探す」というのは住所レベルの個人情報まではネット上に出ていないので、あさみ編集長から教わった「神長官守矢史料館のそば」という情報を頼りに自分たちで探すしかなかったのである。

尚、本エントリー、焦らすつもりはないのだが、先にその藤森照信氏の処女作「神長官守矢史料館」について触れておきたい。といっても史料館の概要・解説はすでにネット上に幾らでも転がってるので(※1)、ここではあくまで個人的な雑感のみ。

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まず私がここに来たのは2度目である。2000年にも妻・母・妹と墓参りついでで来ていて、ところがそのとき私はデジカメを持っていなかった。だから当時、母がコンパクトカメラで撮ったスナップ写真と今回自分で撮ったデジカメ画像を見較べているのだが、外壁に張られたサワラの割板の色にそう変化は感じられない。ところが『藤森照信野蛮ギャルド建築』(TOTO出版・¥1,800-)に掲載された1991年竣工時の写真と見較べると劇的に違う。経年変化がいつ頃はっきり現れるのかが気になるところだ(というのも、うちもいずれは軒下の杉板甲板が黒くなるって豊田さんに言われている)。

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2005年06月28日 (火)

諏訪の宅地

山林では小一時間ほど過ごし、それから宅地に向かった。宅地は山林の麓の墓地から降りて行けば目と鼻の先にあるのだが、公道を通って行こうとすると結構迂回しなければならない。まあ、今回は車だったのであっと言う間だったが。。
ちなみにこちらの宅地は山林と違って一応は母も私も勝手知ったる場所で、墓参りの度に何をするでもなく立ち寄ってボケーッと見るだけ見て帰る。お隣さんにとして貸しているので、畑に踏み込むことは憚られたが、やはり自分たちの所有地だと思うと何となく確認だけはしておきたくなる、これまでの我々にとってはそんな場所だった。

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ただ、この土地は上記区画図を見てもわかるように、宅地として考えたときの土地形状は頗る悪い。とにかく道路に面する間口が狭すぎるのだ。祖母の話を伝え聞く母の話によれば昔はそれでも軽トラックが通るくらいの幅はあったということなのだが、持ち主の不在を良いことに隣地との境界線がどんどん浸食されていったらしい。
現在は計ってみたら実測約1.6mで、さらには入口すぐのところに石碑と灯籠が立っているので、その分を差し引くと1mもない間口ということになってしまう。つまりは何をするにも搬出入に苦心しなければならない立地というわけだ。

そんなことから泰n叔父さんの口からは「ここは処分した方がいいな」という声が早々にあがっていた。とりあえずその場で私は沈黙するしかなかったが、その言い分は充分理解できるものである。何しろ私たちがここに来るのは年に多くても2回。どう考えてもこの土地にこれから先「住む」ということは考えられないし、また決して地の利のよい場所でもないので、そこにアパートのようなものを建てて家賃収入を期待するのも難しい。というか、それより何より先ほども書いたように、まず土地形状が宅地として考えると悪すぎるのである。

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2005年06月27日 (月)

Google Satellite

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ポリタン・コスモでも紹介されてる Google Maps BETA 版
その Satelliete って機能が何とも不気味なのだが、ついグルグル色々見てしまう。
まだ衛星画像の詳細度に地域格差があって、私の住んでる大阪なんかだと自分の家までははっきり確認できないが、谷中の敷地はほぼどこだか特定できた。
ただ、そこが空き地のように見えるということは実は何年か前の画像なんだろうか?
でも、富士山なんかは如何にも今の季節って感じの色合いなんだよな〜。

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2005年06月18日 (土)

諏訪の山林

OUR MOUNTAIN6/18(土) は朝6時半に起床。
油屋旅館天空風呂を運良く貸切状態で満喫して、9時半前に泰大叔父邸(現在は長男の泰n叔父さん御夫婦が住まわれている)に向かう。
そこで次男の善n叔父さんとも落ち合い、善n叔父さんの運転する車で、まずは祖父母の眠る墓地へ行った。というのも、墓地の場所が所有する山林への山道入口脇にあるのである。そこから車で無理矢理山に分け入ること約10分。徒歩だと30分くらい掛かるということらしい(私は本当は歩きたかったが)。

母も私もこの山に入ったのは初めてのことであった。母によれば、持ち主だった祖母でさえ、実際に見ているかは疑問とのこと。ただ、この山林の木が切り落とされ、三鷹金猊居の丸太梁や床柱等の主要木材として利用されたことは確かである。つまり祖父は間違いなくこの地に足を踏み込み、どの木を使うか考えていたはず。

by m-louis : 10:48 | comments (4) | trackbacks (0)

2005年06月17日 (金)

母方祖母の系譜

諏訪の油屋旅館と辰野の蛍」のエントリーで私名義の宅地山林について個別にエントリーすると予告したが、どうやらその前に私の母方祖母の系譜を少しばかり繙いておいた方が先の話を展開しやすくなりそうである。そんなわけでこのエントリーでは祖父があのラブレターを送ったその伴侶たる祖母の出生にスポットを当てることとする。

GREAT-GRAND FAMILYこれまで祖母が諏訪の出身であることは「第25回打合せ: 丸太再検証」「祖父から祖母への手紙」のエントリーなどで触れてきた。祖母は諏訪の隣町の「茅野」という地名と同じ茅野家の第一子として1908(明治41)年に産声をあげる。だが、祖母の誕生を前に父親(私の曾祖父)が戦病死してしまうのである。よって祖母は実母が間もなく再婚した相手(実父の親友だったらしい)の家の長女(4人兄弟の)として育てられることになった。というか、生まれたときから実父はいなかったのだから、実際、養父と家族同然で暮らしてきたのである。

その祖母がそうした事実をいつ知ったのかとか、それに纏わる葛藤があったかといった情緒的な話はさておき、祖母が晩年においても茅野家のことをたいへん気に掛けていて、私をM類家の養子にしたあとに、あわよくば妹まで茅野家の世継ぎにと考えていたらしいことは小耳に挟んでいる。しかし、我々身内間でもさすがに茅野家の面倒までは見切れないだろうというのが大方の心情というものだった。ただ、幸いにも祖父母の墓は分骨されて諏訪の茅野家の墓の横にもあるので、墓参りをする人がいなくなってしまうということは少なくとも私の代まではない。

by m-louis : 15:24 | comments (0) | trackbacks (0)

諏訪の油屋旅館と辰野の蛍

6/17(金)、18(土) と長野の諏訪に行ってきた。
主な目的は母方祖父母&大叔父の墓参りと私名義の土地の処遇について。土地の件は宅地山林が少し離れたところにあるので、それぞれ別個にエントリーしていきたい。
このエントリーでは到着当日の旅の余話を二つばかり。翌日にももう一つ余話はあるんだけど、そっちは建築絡みのとっておきの話なんで土地関連話のあとに単独エントリーさせるつもり(あさみ編集長さんはたぶんその内容が想像できるはず)。

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で、一つ目の余話は諏訪と云えばの温泉&旅館談義。
これまで法事絡みで諏訪に行くときの宿泊地はたいてい親任せか妹任せでホテルに泊まることが多かったのだが、今回は私と母の二人だけなので私がネットで探すことになった。それで選んでみたのが諏訪では老舗の油屋旅館
各種料理の付いたコースプランで申し込むとそれなりのお値段になってしまうのだが、素泊まりだと4200円〜。2名一室利用の場合で一人4725円。これだとその辺のビジネスホテルよりも安い。その上、展望露天風呂「天空の湯」までが付いてくる。

そんなわけで迷わず利用してみたのだが、これが想像してた以上によかった。
部屋はトイレ・バス付きの十畳和室だった。老舗だけに古いといえば古いが、ロビーで休憩してれば茶菓子が出てくるし、中庭は綺麗に手入れされてるし、何と言っても従業員の持てなしの気持ちがこちらに伝わってくる。それで5000円以下というのはかなりのお買い得だろう。そして「天空の湯」。午後5時と朝7時の明るいときにしか入らなかったので夜景は見られなかったが、諏訪湖と北アルプスが一望できて非常に気持ちよかった。縁の部分に落下防止用のアクリル板が入っているのだが、それがなければもう一つ気持ちよかったろう。自己責任ってワケにはいかないものか?(^^;)

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2005年06月14日 (火)

清水の追分羊かん

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実家から送られてきた荷物に「お隣の一乗寺さんからいただいた品」と開封済みの包みに添え書きされた「追分羊かん」なるものが入っていた。どこかで名前を聞いたことのあるようなないような、包みの裏を見ると今年の4月から静岡市に吸収合併された清水(現在は静岡市清水区)の銘菓とある。
ということは『ちびまる子ちゃん』で知ってるのか?と思い、「追分羊かん ちびまる子ちゃん」で検索すると、作者のさくらももこが大好物であり、また映画原作特別描き下ろし『ちびまる子ちゃん──大野君と杉山君』の表紙に「追分羊かん」のお店の絵が描かれていることが判明。
ちびまる子ちゃん』全巻揃えてるだけに、それで朧気に覚えてたというわけか。

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棉の芽

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5/22(日) に「ブログ仲間の訪問」で来訪された mitsubako さんから「」との交換でいただいた「和棉」の種が芽を出した。本当に棉帽を被ったまま発芽するんだな〜。
うちは「」の方が肥料の与え過ぎと私の上京中に妻が枯らしてしまったことにより今イチ芳しくないので、緑色の棉の芽が妙に生き生きして見える。

by m-louis : 15:14 | comments (2) | trackbacks (0)

2005年06月13日 (月)

倉沢集落@奥多摩スリル

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豊田さんの誘いで、坪庭開拓団主催の奥多摩山歩きに参加した。
案内役はランドスケープアーキテクトの河合さん。他、河合さん繋がりの学生さん数名に今回初めてお会いした初音すまい研究所の手嶋さんの奥さん、そして毎度の私の旧友CT氏と総勢13名で奥多摩駅9時過ぎ集合。山歩きは実質10時のスタートとなった。

登山道入口の階段には「倉沢のヒノキ」と書かれていて、30分も歩かないうちにちょっと独特な積み方をされた石垣の上に聳え立つヒノキの木が現れる。幹周6.3m、樹高約33m、推定樹齢600年(伝承1000年)。東京都指定天然記念物に指定されている御神木である。こういうものを見るとついエロい想像力しか働かない私なのであるが、行く行くこの木が私たち一行の守り神となるのである。その話はまた後ほど。

そこから10分と歩かぬうちに人の住んでるらしき家が1軒谷側に見えてくるが、その先には全壊した木造住宅がすでに自然に呑み込まれつつある。そして山側に目を向けるとそこには倉沢集落と言われる数十棟の廃屋が階段状にポツポツと立っていた。
倉沢集落については検索でいろいろ見つかるので手短なものを一つ引用しておく。

アルプス登山の玄関口 笠井家「奥多摩・倉沢集落 古来、炭焼きを生業とした山村集落。昭和30年代、石灰鉱山の社宅が造成され、最盛期は数十の家庭が暮らしていた。  その後、鉱山の衰退に伴い住民は離散。現在は、95歳のお爺さんが一人だけ暮らしている。つまり、たたずまいは廃村であるものの、れっきとした住宅街である。

050524_kurasawa.jpg建築系の学生が多いので、しばらく見学&撮影タイム。廃墟フェチの人には溜まらない場所であろう。学生時分に廃墟ブームなるものがあり、一通りその手の特集記事は目を通していた私だが、昔のように廃墟をスタイリッシュに捉えようとする視点はいつの間にか自分の中から抜け落ちていた。台所がどこにあり、水汲み場や公衆浴場がどのような位置にあるのか生活動線を気にしながら、そこで人々が生活していたときの暮らしを意識する。この思考は遺跡においても同様で、家づくりをしたからそういう見方になったのか、それとも歳を取ったからなのは自分でもよくわからない。ただ、いずれにしても廃墟や廃屋を「廃墟」とカッコに括って見るような見方をしなくなってしまった。むしろそれは「家」であり「建物」のままなのだ。

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2005年06月09日 (木)

祖父は満鉄社員だった

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先月の上京中にから満州の話、そして父の父、つまり私の祖父の話を聞いた。
前回の「父と満州」のエントリーでは、小宮清著『満州メモリー・マップ』(筑摩書房・999円)を読んだのをきっかけに父が満州出身であることを私の視点で書いただけだったが、今回は0歳から14歳まで満州の大連で過ごした父の視点を借りて、私のほとんど知らない父方の先祖を繙きながら「満州」にも一歩近づいてみたい。

まず私の父方祖先である父の祖父、つまり私の曾爺さんに当たる人物は日露戦争に従軍し、戦後、満州に残って土建・不動産の仕事を始め、それでボロ儲けしたのだという。
満州から北東に100km程のところにある貔子窩(ひしか:現在の皮口)という街で一番大きなホテルを建設・保有し、とにかく孫の代まで寝て暮らせるくらいの大金持ちだったんだとか‥‥。その証拠に父の父、つまり私の祖父は本当は内地に帰って大学で勉強したかったらしいのだが、身内から「片手内輪で暮らせるのにわざわざ大学など行く必要ない」と猛反対され、結局高校までしか出ていないのである。まあ、その後、満州鉄道に就職してるので、片手内輪の生活はしてなかったようなのだが。。

by m-louis : 03:52 | comments (6) | trackbacks (1)
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