2005年06月30日 (木)
さて今回、墓参りと土地処遇問題で諏訪までやって来たわけだが、「諏訪」といえばやっぱり御柱祭であり藤森照信である。
下諏訪出身の伊東豊雄氏もいるが、「ザ・スワ」の建築家と言ったら藤森照信氏以外思い当たらない。
そこで今回の訪問でもし時間の都合が付くならば、以前に「藤森照信: スロー建築のススメ」のエントリーで番組宣伝だけしてそのままになってた「高過庵」を見に行ってみたいと思っていたのである。そして幸運にも善n叔父さんが車を回してくれることになり、泰n叔父さんを一旦自宅まで送ってから3人で探しに行くことになった。「探す」というのは住所レベルの個人情報まではネット上に出ていないので、あさみ編集長から教わった「神長官守矢史料館のそば」という情報を頼りに自分たちで探すしかなかったのである。
尚、本エントリー、焦らすつもりはないのだが、先にその藤森照信氏の処女作「神長官守矢史料館」について触れておきたい。といっても史料館の概要・解説はすでにネット上に幾らでも転がってるので(※1)、ここではあくまで個人的な雑感のみ。

まず私がここに来たのは2度目である。2000年にも妻・母・妹と墓参りついでで来ていて、ところがそのとき私はデジカメを持っていなかった。だから当時、母がコンパクトカメラで撮ったスナップ写真と今回自分で撮ったデジカメ画像を見較べているのだが、外壁に張られたサワラの割板の色にそう変化は感じられない。ところが『藤森照信野蛮ギャルド建築』(TOTO出版・¥1,800-)に掲載された1991年竣工時の写真と見較べると劇的に違う。経年変化がいつ頃はっきり現れるのかが気になるところだ(というのも、うちもいずれは軒下の杉板甲板が黒くなるって豊田さんに言われている)。
また、私は大阪から諏訪へはいつも高速バスを利用するのだが(往復1万円で列車利用と大した時間差はない)、今回車中では藤森照信著『タンポポの綿毛』(朝日新聞社 2000年4月発行 ¥1,680-)という本を読んできた。彼の「テルボ」と呼ばれていた子供時代の話がエッセイ風にまとめられた単行本である。
この本にはテルボが子供時代に遊んでいた集落の地図(藤森氏本人の手書きによる)が収録されていて「高過庵」の場所を探すのにも何か手掛かりになるのでは?と思っていたのである。しかし、諏訪に向かう車中でこの本を読んでいるとやはり読む現実感もまた一塩違ってくるものだ。場所の持つ磁力ってヤツだろうか。何度も爆笑を堪えながら読んでいたのだが、中でもとりわけバカ受けした「トンボ捕り」の話を一部引用しよう。
私はこの笑い話に藤森建築の主題の一つが隠されてるような気がしてならなかった。
いや、隠されてるなんてもんじゃなく、内容同様モロ出しされてるといった方がよいだろう。それはユリイカ2004年11月号で特集された『藤森照信──建築快楽主義』(青土社 ¥1,300-)で、赤瀬川原平氏が「てっぺん性」という言葉で表現してたり、また特集にあたって藤森氏ご本人が対談相手にリクエストされてたんじゃないかと思われる宗教人類学者の中沢新一氏に「天に発射するスタンディング・ストーンとリンガの問題」を問い掛けている。即ちそれらは河原に横たわった身体から上へ向かって立ち上がる(場合によっては発射される)勃起力そのものの話であるのは言わずもがなだろう。
だが、もう一つ忘れてならないのが「トンボ」である。といってもワケわからないだろうから少し説明すると、処女作「神長官守矢史料館」から始まる藤森氏の一連の建築物でてっぺんに向かってオッ起てられた柱や棒ってどれも「どうだ!オレのを見ろ!」っていうほどは堂々としてなくて、どっちかというと華奢で慎ましく立ってる感じはしないだろうか? で、たぶんコレを品位とかそういうレベルで捉えてちゃ駄目で、私にはどうしてもそれがトンボを捕まえたいからああいう木を選ばれてるような気がしてならないのである。堂々とし過ぎた木に決してトンボは止まりはしない。
もちろんここでの「トンボ」が昆虫のトンボだけを指してる訳ではないことは言うまでもなく、おそらく氏はどんなものが近づいて来ても「腰の脇からそっと手を動かして」「‥‥」しようとしてるに違いない。そんな藤森氏に私はピカソが1966年に残したエッチング・アクアチントを勝手に捧ぐ。

Pablo Picasso, Untitled, 15 November 1966 VI.
□◇
・藤森研究室「神長官守矢史料館」: 外内観写真+図面+コメント+建築情報
・茅野市ホームページ「神長官守矢史料館」: 公共施設案内(休館日情報)
・建築リフル「001 神長官守矢史料館」: 写真集(藤塚光政/隈研吾 著)
・建築マップ「神長官守矢史料館」: 訪問レポート+詳細情報
・美的建築ワールド「茅野市神長官守矢史料館」: レポート+建築情報
・月間進路指導「あの人に聞きたい私の選んだ道, 2P, 3P」: 藤森照信に聞く
・Sputnik「yield」: 藤森照信へのインタビュー
・asahi.com - 信州館めぐり「名建築の中に諏訪大社の歴史」: 新聞掲載記事
・SEEDS ON WHITESNOW「ETV特集「スロー建築のススメ」 -守矢の里の不思議な建物たち-」: 地元出身者の番組レビュー(ブログ)
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2005年06月28日 (火)
山林では小一時間ほど過ごし、それから宅地に向かった。宅地は山林の麓の墓地から降りて行けば目と鼻の先にあるのだが、公道を通って行こうとすると結構迂回しなければならない。まあ、今回は車だったのであっと言う間だったが。。
ちなみにこちらの宅地は山林と違って一応は母も私も勝手知ったる場所で、墓参りの度に何をするでもなく立ち寄ってボケーッと見るだけ見て帰る。お隣さんに畑として貸しているので、畑に踏み込むことは憚られたが、やはり自分たちの所有地だと思うと何となく確認だけはしておきたくなる、これまでの我々にとってはそんな場所だった。

ただ、この土地は上記区画図を見てもわかるように、宅地として考えたときの土地形状は頗る悪い。とにかく道路に面する間口が狭すぎるのだ。祖母の話を伝え聞く母の話によれば昔はそれでも軽トラックが通るくらいの幅はあったということなのだが、持ち主の不在を良いことに隣地との境界線がどんどん浸食されていったらしい。
現在は計ってみたら実測約1.6mで、さらには入口すぐのところに石碑と灯籠が立っているので、その分を差し引くと1mもない間口ということになってしまう。つまりは何をするにも搬出入に苦心しなければならない立地というわけだ。
そんなことから泰n叔父さんの口からは「ここは処分した方がいいな」という声が早々にあがっていた。とりあえずその場で私は沈黙するしかなかったが、その言い分は充分理解できるものである。何しろ私たちがここに来るのは年に多くても2回。どう考えてもこの土地にこれから先「住む」ということは考えられないし、また決して地の利のよい場所でもないので、そこにアパートのようなものを建てて家賃収入を期待するのも難しい。というか、それより何より先ほども書いたように、まず土地形状が宅地として考えると悪すぎるのである。
しかし、私はここも山林同様、処分したくないと考えていた。
その考えは今回の諏訪訪問以前から既に胸の内にあったものたが、実際に再確認して尚更その意思は強まったと言えよう。それは一つには祖母がこだわった茅野家唯一の証しともいえる土地を継承すべしという意識が多少なりとも自分の中に働いているというのもあるのかもしれない。だが、それ以上に私が手放したくないと思った理由は、その宅地としては悪すぎると言われる土地形状にこそ魅惑を感じてしまったからだ。
確かに搬出入では不便するだろうけど、幾つかの既成概念を取っ払ってその土地を見直してみれば、魅力的なアイデアは幾らでも沸き上がってくる。というか土地を見ながら色々イメージが湧いてしまってしょうがなかったのである(やっぱり建築ってのは「土地」=「条件」あってのものだね、今更ながら)。
現場の確認をしていると、敷地を畑として貸しているお隣さんがちょうど出て来て挨拶旁々お茶に招かれた。母以外の3人は実質、初対面である。その席でこれまでの土地貸借の経緯について聞くことになった。
もともとこの辺一帯は茅野家の土地で、母曰くお隣さんは小作人だったという話なのだが、1947年GHQ指導による農地改革でその関係が一変したのだろう。その頃祖母は東京で私の母を産み、子育てに忙しかったはずだから、茅野家の土地のことは養父や弟の泰大叔父に任せっきりになっていたにちがいない。とすればその改革による土地の割り振りで思うような結果が残せなかったのもやむを得ない話だ。
お隣さんによれば土地を借りることになった当初、貸借に関する直接的な交渉は祖母の養父が行っていたらしい。それが泰大叔父に引き継がれ、結局祖母は1995年に亡くなるまで自分の土地は諏訪の親族に任せっきりにしてしまった。そして祖母の死後、私が名義上の所有者になっても変わらず泰大叔父が面倒を見てくれていたので、私も私でお隣さんはおろか泰大叔父との交渉も母に任せっきりにしていたのである。ところが泰大叔父が去年の春に亡くなり、土地の処遇問題が不意に浮上するのだが、それについては「母方祖母の系譜」のエントリーで説明済みとなっている。
尚、お隣さんとしては処分するならするで仕方ない話だし(場合によってはお隣さんが買い取るということも考えられる)、処分せず当面何もする気がないのであればこれまで通り、畑として貸してほしいということだった。その場で即答はしなかったが、当面の間は私もそれで良いと思う。それとさきほど土地の形状について記したときには触れなかったが、この土地にはもう一つ問題があって、上記区画図からもわかるように土地が急斜面で二分されているのだ。そしてお隣さんに畑として貸しているのは右側の広い部分で左側の狭い区画は所謂空き地状態になってしまっている。何で全てを貸さなかったのかは聞いてないのだが、土地を見る限りその斜面がかなり急で日常的に気軽に上り下り出来るような場所ではないのである。ましてや西側面には手前の家の柵があるので云わば八方塞がりの状態。さすがに畑として使う気にもなれないだろう。
そして空き地ということは当然放っておけば雑草が生い茂ってくる。そこで泰大叔父がそこの手入れを年五千円でお隣さんに依頼し、年に一二度草むしりをしてくれていたらしい。しかし、その泰大叔父が亡くなったことによって支払いがなくなり、それからは目立つ草を刈るくらいでそんなにちゃんとは手を加えていないのだという。
ところが、これについてもここの近所に住む善n叔父さんがしばらくその場所を貸してほしいと申し出てくれて、当面の間は雑草の心配はしなくて済みそうである。
といったところで今回のエントリーは状況報告で留めておくが、すでに私の中で膨らみ始めている妄想の幾つかを披瀝するなら、そこには「小屋」「防空壕」「上から入る家」といったキーワードが浮上してくる。そしてその最初のターゲットとなるのは、出入り口のない八方塞がりになっている狭い方の土地だ。
これは私も rattlehead さんの「家の妄想の記録」に倣って「小屋の妄想の記録」なるブログでももう一つ作った方がいいのかもしれない。
いや、まあ、カテゴリ追加するくらいでいいか?(笑)
今後の参考書籍として『小屋の力』(ワールドムック社・¥3,800-)を挙げておく。
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2005年06月27日 (月)

ポリタン・コスモでも紹介されてる Google Maps BETA 版。
その Satelliete って機能が何とも不気味なのだが、ついグルグル色々見てしまう。
まだ衛星画像の詳細度に地域格差があって、私の住んでる大阪なんかだと自分の家までははっきり確認できないが、谷中の敷地はほぼどこだか特定できた。
ただ、そこが空き地のように見えるということは実は何年か前の画像なんだろうか?
でも、富士山なんかは如何にも今の季節って感じの色合いなんだよな〜。
2005年06月18日 (土)
6/18(土) は朝6時半に起床。
油屋旅館の天空風呂を運良く貸切状態で満喫して、9時半前に泰大叔父邸(現在は長男の泰n叔父さん御夫婦が住まわれている)に向かう。
そこで次男の善n叔父さんとも落ち合い、善n叔父さんの運転する車で、まずは祖父母の眠る墓地へ行った。というのも、墓地の場所が所有する山林への山道入口脇にあるのである。そこから車で無理矢理山に分け入ること約10分。徒歩だと30分くらい掛かるということらしい(私は本当は歩きたかったが)。
母も私もこの山に入ったのは初めてのことであった。母によれば、持ち主だった祖母でさえ、実際に見ているかは疑問とのこと。ただ、この山林の木が切り落とされ、三鷹金猊居の丸太梁や床柱等の主要木材として利用されたことは確かである。つまり祖父は間違いなくこの地に足を踏み込み、どの木を使うか考えていたはず。
現場に到着して、まずは地図を片手に泰&善n叔父さんたちにおおよその境界を示してもらうことになった。近年、義父とM茸狩りをするようになって山に入る機会が増えているのだが、そこが自分の持ち物だという視点で山を見たことはなかったから、何とも不思議な感覚である。
ただ、うちの所有する区画というのは特にこれといった目印が付けられているわけではないものの、かなり容易に判別できるところだった。
というのも、うちのまわりの山林は皆、杉なら杉、桧なら桧という具合に均質に植林されているのに対し、うちだけ好き放題いろんな樹木が生えているのである(笑)
広葉樹が多いせいか、下草も青々と茂り、ところどころには蛇苺やグミのような赤い実なども見つけることができる。
まあ、これは私が山の素人だから思うだけの話かもしれないが、私はそういう色とりどりの野蛮な山の方が好きだし、そういうところもそれはそれで残ってないと!と安易に思ってしまうのだが、エコロジカルな観点からどちらが望ましいことなのかはよくわからない。もちろん将来的にこの山の木を何本か切り出して何かするということも考えないわけではないが、何はともあれこの山林を手放したくないという気持ちだけはより一層強いものとなった。
泰&善n叔父さんにこの山林が二束三文(1869m2=565坪:約7万円)でしか売れないとして、では逆に買おうとしたら同じように二束三文で買えてしまうものなのか?と質問してみた。すると答えは無理というか、まずそれ以前に売ってないだろう(売ってくれるところを探すだけで一苦労だろう)という返事。
ただ、この質問を投げ掛けたことによって、私がこの山林を手放したくないと思っていることは朧気に伝わったように思う。帰りの車では二人とも持っててどこに迷惑が掛かっているというわけでもないので、わざわざ手放す必要もないか〜というような口調に落ち着いていた。母も同様の判断であったようである。
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2005年06月17日 (金)
「諏訪の油屋旅館と辰野の蛍」のエントリーで私名義の宅地と山林について個別にエントリーすると予告したが、どうやらその前に私の母方祖母の系譜を少しばかり繙いておいた方が先の話を展開しやすくなりそうである。そんなわけでこのエントリーでは祖父があのラブレターを送ったその伴侶たる祖母の出生にスポットを当てることとする。
これまで祖母が諏訪の出身であることは「第25回打合せ: 丸太再検証」「祖父から祖母への手紙」のエントリーなどで触れてきた。祖母は諏訪の隣町の「茅野」という地名と同じ茅野家の第一子として1908(明治41)年に産声をあげる。だが、祖母の誕生を前に父親(私の曾祖父)が戦病死してしまうのである。よって祖母は実母が間もなく再婚した相手(実父の親友だったらしい)の家の長女(4人兄弟の)として育てられることになった。というか、生まれたときから実父はいなかったのだから、実際、養父と家族同然で暮らしてきたのである。
その祖母がそうした事実をいつ知ったのかとか、それに纏わる葛藤があったかといった情緒的な話はさておき、祖母が晩年においても茅野家のことをたいへん気に掛けていて、私をM類家の養子にしたあとに、あわよくば妹まで茅野家の世継ぎにと考えていたらしいことは小耳に挟んでいる。しかし、我々身内間でもさすがに茅野家の面倒までは見切れないだろうというのが大方の心情というものだった。ただ、幸いにも祖父母の墓は分骨されて諏訪の茅野家の墓の横にもあるので、墓参りをする人がいなくなってしまうということは少なくとも私の代まではない。
私名義の土地というのは、その祖母が茅野家唯一の相続人として受け継いできた茅野家の土地である。祖母が亡くなり、養子ながら唯一の嫡子として土地だけ一切合切を相続することになった私が祖母名義の宅地と山林も引き継いだのだ。
ただ、その土地はすでに祖母が東京に出て来た頃より、祖母の養父、そして諏訪に住む弟(長男)が実質的な面倒(隣家に畑として貸していたので、その交渉など)を見ており、祖母にとってはせいぜい何かが起きたときに遠くから判断を下す程度のものになっていたし、母や私にとっても墓参りのついでに宅地の方は寄りはすれど、山林は一回も足を運んだことのない場所だったのである。
そうした土地の処遇問題がなぜ浮上したかといえば、それは去年の春に祖母の弟である 泰大叔父が亡くなったことに拠る。その後、泰大叔父の息子さん兄弟が財産整理をするにあたって、その土地をどうするかの問い合わせがあったというワケだ。
彼らの共通した見解としては、自分たちの目が黒いうちはまだいいが、今後、代が変わっていくとその土地を近場で面倒見てくれる人がいなくなってしまうので、もし何だったらこれを機会に処分してしまってはどうか? まあ、二束三文にもならない土地ではあるけれど、、というようなもので、ただ、処分するしないに関わらず、今一度見て貰ってから判断した方がいいだろうということで、それで私と母が諏訪を訪れることになったのである。
そんな訳でここから先の話は山林と宅地に分けて見ていこうと思うが、ちなみに二束三文というのが具体的にどのくらいかというと、122m2(37坪)の宅地評価額が約160万円、1869m2(565坪)の山林が約7万円と計170万円前後で私にとっちゃ二束三文では決してないが、しかし東京の地価から考えたら、狭小住宅も真っ青なお値段なのである。「広大住宅」って本はできないのかしら?(笑)
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6/17(金)、18(土) と長野の諏訪に行ってきた。
主な目的は母方祖父母&大叔父の墓参りと私名義の土地の処遇について。土地の件は宅地と山林が少し離れたところにあるので、それぞれ別個にエントリーしていきたい。
このエントリーでは到着当日の旅の余話を二つばかり。翌日にももう一つ余話はあるんだけど、そっちは建築絡みのとっておきの話なんで土地関連話のあとに単独エントリーさせるつもり(あさみ編集長さんはたぶんその内容が想像できるはず)。

で、一つ目の余話は諏訪と云えばの温泉&旅館談義。
これまで法事絡みで諏訪に行くときの宿泊地はたいてい親任せか妹任せでホテルに泊まることが多かったのだが、今回は私と母の二人だけなので私がネットで探すことになった。それで選んでみたのが諏訪では老舗の油屋旅館。
各種料理の付いたコースプランで申し込むとそれなりのお値段になってしまうのだが、素泊まりだと4200円〜。2名一室利用の場合で一人4725円。これだとその辺のビジネスホテルよりも安い。その上、展望露天風呂「天空の湯」までが付いてくる。
そんなわけで迷わず利用してみたのだが、これが想像してた以上によかった。
部屋はトイレ・バス付きの十畳和室だった。老舗だけに古いといえば古いが、ロビーで休憩してれば茶菓子が出てくるし、中庭は綺麗に手入れされてるし、何と言っても従業員の持てなしの気持ちがこちらに伝わってくる。それで5000円以下というのはかなりのお買い得だろう。そして「天空の湯」。午後5時と朝7時の明るいときにしか入らなかったので夜景は見られなかったが、諏訪湖と北アルプスが一望できて非常に気持ちよかった。縁の部分に落下防止用のアクリル板が入っているのだが、それがなければもう一つ気持ちよかったろう。自己責任ってワケにはいかないものか?(^^;)
夜はこの時期限定のオプションツアーとなっている「数千匹のゲンジ蛍が乱舞!辰野の蛍鑑賞プラン」に行ってみた。サイトのプラン案内に寄れば
とのことで、この日は湿度も高く、数千匹の蛍乱舞への期待が高まったが、まだ少し日にちが早かったようで、そこそこ飛び回ってはいたが、数千匹が乱舞というほどの光景には出会えなかった。っていうか、蛍よりも人出の方が多い感じだった(汗)

なお、上記写真は左側2枚が私が三脚も持ってないのにデジカメの夜景モードで無理矢理露出時間を長くして撮影したもの。右側の1枚は油屋旅館のプラン紹介に出ていた写真をコピらせてもらったものである。それらを見較べれば乱舞との差は一目瞭然だろうが、この右側の画像が冗談や合成ではないだろうことを私はここに記しておきたい。というのも、かつて私がインドを放浪していたとき、この右端写真に匹敵するくらいの蛍の群れを実際にこの目で見ているのである。
以上、余話を掛け合わせて「天空の湯」から蛍鑑賞が出来たらほとんど極楽浄土の心境だろうが、それをローコストで実現している「山小屋」もあったりするのである。
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2005年06月14日 (火)

実家から送られてきた荷物に「お隣の一乗寺さんからいただいた品」と開封済みの包みに添え書きされた「追分羊かん」なるものが入っていた。どこかで名前を聞いたことのあるようなないような、包みの裏を見ると今年の4月から静岡市に吸収合併された清水(現在は静岡市清水区)の銘菓とある。
ということは『ちびまる子ちゃん』で知ってるのか?と思い、「追分羊かん ちびまる子ちゃん」で検索すると、作者のさくらももこが大好物であり、また映画原作特別描き下ろし『ちびまる子ちゃん──大野君と杉山君』の表紙に「追分羊かん」のお店の絵が描かれていることが判明。
『ちびまる子ちゃん』全巻揃えてるだけに、それで朧気に覚えてたというわけか。
ちなみに味の方は羊羹の説明書きで「竹の皮包みの素朴な野趣と竹の皮の香の深く沁み込んだ言うに言えない静かな風味」と書かれているように、本当に言うに言えないどっしりした味わいがあり、取っつきやすい味ではないのだが、妻としみじみこれは美味いよ!と本当にしみじみしながら食べていた。最近は京菓子の洗練された味よりもこういうどっしり味の方が楽しめる舌になってきている。
なお、残念ながらというべきか幸いにというべきか店の公式サイトがないようなので、包みの裏面に記載された「追分羊羹の由来」を以下に引用しておく。
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5/22(日) に「ブログ仲間の訪問」で来訪された mitsubako さんから「苗」との交換でいただいた「和棉」の種が芽を出した。本当に棉帽を被ったまま発芽するんだな〜。
うちは「苗」の方が肥料の与え過ぎと私の上京中に妻が枯らしてしまったことにより今イチ芳しくないので、緑色の棉の芽が妙に生き生きして見える。
ところで mitsubako さんから棉の話が出て来たとき、「わた」って「綿」って書くんじゃなかったっけ?と思ったんだけど、その「綿」は精製された「わた」のことで、繭から製したもの、木や草から製したものといろいろあって、その木の「わた」である、あおい科のわたの木のことを「棉」と書くんですな。だから「木棉綿(もめんわた)」という読み方もあるらしい。原産はインド・エジプト。
ちなみに mitsubako さんによれば、その棉送りの発信源は「鴨川和棉農園」です。
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2005年06月13日 (月)

豊田さんの誘いで、坪庭開拓団主催の奥多摩山歩きに参加した。
案内役はランドスケープアーキテクトの河合さん。他、河合さん繋がりの学生さん数名に今回初めてお会いした初音すまい研究所の手嶋さんの奥さん、そして毎度の私の旧友CT氏と総勢13名で奥多摩駅9時過ぎ集合。山歩きは実質10時のスタートとなった。
登山道入口の階段には「倉沢のヒノキ」と書かれていて、30分も歩かないうちにちょっと独特な積み方をされた石垣の上に聳え立つヒノキの木が現れる。幹周6.3m、樹高約33m、推定樹齢600年(伝承1000年)。東京都指定天然記念物に指定されている御神木である。こういうものを見るとついエロい想像力しか働かない私なのであるが、行く行くこの木が私たち一行の守り神となるのである。その話はまた後ほど。
そこから10分と歩かぬうちに人の住んでるらしき家が1軒谷側に見えてくるが、その先には全壊した木造住宅がすでに自然に呑み込まれつつある。そして山側に目を向けるとそこには倉沢集落と言われる数十棟の廃屋が階段状にポツポツと立っていた。
倉沢集落については検索でいろいろ見つかるので手短なものを一つ引用しておく。
建築系の学生が多いので、しばらく見学&撮影タイム。廃墟フェチの人には溜まらない場所であろう。学生時分に廃墟ブームなるものがあり、一通りその手の特集記事は目を通していた私だが、昔のように廃墟をスタイリッシュに捉えようとする視点はいつの間にか自分の中から抜け落ちていた。台所がどこにあり、水汲み場や公衆浴場がどのような位置にあるのか生活動線を気にしながら、そこで人々が生活していたときの暮らしを意識する。この思考は遺跡においても同様で、家づくりをしたからそういう見方になったのか、それとも歳を取ったからなのは自分でもよくわからない。ただ、いずれにしても廃墟や廃屋を「廃墟」とカッコに括って見るような見方をしなくなってしまった。むしろそれは「家」であり「建物」のままなのだ。
集落で1時間くらい過ごしてから、いよいよ山登り。
坪庭開拓団の山歩きだけあって、要所要所で足を止め、河合さんの動植物に関するミニレクチャーがある。沢ではヤゴを捕まえられて皆に見せてくれたが、本人としては山椒魚を捕まえたかったらしい。私はてっきり沢ガニを探しているのかと思った。
ただ、その沢から先は河合さんも未踏の地ということで地図で確認しながらひとまず数百mはあると思われる段々畑状のワサビ田の脇を抜ける。ところがワサビ田を抜けてしばらくすると段々あるべきはずの道が見えなくなってしまう。
やむなく河合さんの判断で強引に山の道なき道を駆け上がり、次の尾根を捜そうということになった。山道よりも道になってないところを歩く方が、地面が柔らかくて足に負担が掛からないので私にとっては好都合だったが、踵の浅いスニーカーを履いてきてしまったので、一歩ごとに踵が抜けそうになるのに不便した。
総領ならば、こうした山に入るときにはいつも地下足袋を履くのだが、そのことを河合さんに言うと奥多摩では地下足袋よりも登山靴の方が向いているらしい。倉沢集落の説明文でも引用しているようにこの辺一帯は石灰が多く、草や土の上だけを歩くわけではないので、地下足袋だと足を怪我する可能性が高いそうなのだ。
しかし、河合さんの読みに反して上に登れど登れど一向に山の尾根は見えてこない。そのあたりから河合さんも半分冗談で万一帰れなくても1日分の食料は持ってるからなんてことを言われ出したり(^^;) 結局14時過ぎにようやく尾根っぽいところが見つかり、そこで腰を下ろして弁当タイムとなった。学生さんたちは皆おにぎり等を食べてるようだったが、豊田さんからお湯沸かせるのでカップラーメンの類を持って行くと身体暖まりますよと言われていた私は、コンロでお湯を沸かした河合さんからお湯をいただき、カレーヌードルを啜る。それにしても湯を沸かす河合さんの手捌きは見事だった。
ただ、さきほども「尾根っぽいところ」と書いたように、その尾根は筋を見せたり隠れたり非常に曖昧で、食後は尾根づたいに下山という予定だったが、かなり山中を彷徨い歩くこととなった。っていうか、斜面もどんどん急になってくるは、雨は降り出すは、暗くなってくるは、落石はあるは、河合さんは途中で一度斜面を滑り落ち掛けるは(河合さんによるとそれは想定内とのこと)と、半ば半遭難状態(^^;) 実は豊田さんからは最初に母も誘われていたのだが、とりあえずここに母が来なかったのは正解だったといえよう。というか、母が居たらこのコースは選ばれなかったかもしれない。
しかし、ここがさすがはランドスケープアーキテクトで植物に詳しい河合さんなのである。あたりも暗くなってきた中で一瞬山間を見渡せる場所に出たとき、目敏くも冒頭で触れた御神木「倉沢のヒノキ」を斜め下方数百mのところに見つけられたのである。それによってどうにか下山ポイントの目星が付けられ、17時半過ぎに無事下山。
河合さんによれば一番心配だったのが、トンネルの上を歩いて道路を通り越してしまうことだったという。そう、これが総領の山だったら、とにかく迷ったらひたすら下に降りていけばいつかは道路に辿り着けるが、奥多摩では道路が中腹にあり、そこから下が谷底となっているので、一歩踏み誤れば谷底へと歩いて行ってしまう可能性があったのである。とはいえ、どうにか無事帰れたことだし、東京では滅多に体験できないスリリングな山歩きだったとたぶん参加メンバー皆結構楽しく思っていたはずである。
ちなみに私は中1のときにも友人と奥多摩湖に釣りに来て、愚かにも帰りの最終バスを逃し、トンネルの多い車しか通らないような湖沿いの蛇行する道をトボトボ歩いて駅まで向かわねばならなくなったことがある。幸運にとでも言うべきか、そのときは駅まで車で乗っけて行ってあげるよという親切なオッチャンが現れ、無事その日のうちに帰宅できたのだが(といってもそのオッチャンのことは誘拐か?と疑ってて、友人と共に後部座席でタックルボックスの中からいつでもナイフを取り出せるようにしていた)、何だかそのときと云い、今回と云い、どうも奥多摩という場所はスレスレセーフのスリルを味わさせてくれるところのような気がしてならない。
当時は駅に立ち食い蕎麦屋があって、そこで食べた蕎麦が滅茶苦茶うまかったという記憶があるのだが、現在、駅構内に立ち食い蕎麦屋はなくなってしまっていた。
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2005年06月09日 (木)

先月の上京中に父から満州の話、そして父の父、つまり私の祖父の話を聞いた。
前回の「父と満州」のエントリーでは、小宮清著『満州メモリー・マップ』(筑摩書房・999円)を読んだのをきっかけに父が満州出身であることを私の視点で書いただけだったが、今回は0歳から14歳まで満州の大連で過ごした父の視点を借りて、私のほとんど知らない父方の先祖を繙きながら「満州」にも一歩近づいてみたい。
まず私の父方祖先である父の祖父、つまり私の曾爺さんに当たる人物は日露戦争に従軍し、戦後、満州に残って土建・不動産の仕事を始め、それでボロ儲けしたのだという。
満州から北東に100km程のところにある貔子窩(ひしか:現在の皮口)という街で一番大きなホテルを建設・保有し、とにかく孫の代まで寝て暮らせるくらいの大金持ちだったんだとか‥‥。その証拠に父の父、つまり私の祖父は本当は内地に帰って大学で勉強したかったらしいのだが、身内から「片手内輪で暮らせるのにわざわざ大学など行く必要ない」と猛反対され、結局高校までしか出ていないのである。まあ、その後、満州鉄道に就職してるので、片手内輪の生活はしてなかったようなのだが。。
その祖父が満鉄社員として北京(一時はハルピン)で働くことになり、結婚しても家族は大連に残して単身赴任生活をしていたので、父にはほとんど「父親」という存在の記憶がない。以前伯母から聞いた話によれば祖父がたまに満州の家に帰ってくると父は「どこそこのおじちゃんが来たよ」と無邪気に喜んでいたのだそうな。そして祖父は父が中学に入る前に病死してしまう。よって私にとっても父方祖父は最初から存在しないものであったが、父にとっても非常に希薄で、取り様によってはこれまで私が父方祖父の話をほとんど何も知らなかったというのも満更不思議な話でもないのである。
ちなみに当時において内地の一般サラリーマンの給料が60円だったのに対し、満鉄社員の給料は100円だったそうで、曾爺さんから祖父の代になっても単身赴任とはいえ、暮らし振りに不自由はまるでなかったようだ。父に『満州メモリー・マップ』の本の話をして、その舞台となっている奉天(現在の審陽)や新京(現在の長春)のさらに果てのチチハルという地名や開拓団のことを話すと、それは同じ満州とは言っても全然違う世界・生活だったはずだと言っていた。ただ、大連で優雅に暮らしていた人たちからすると開拓団の人たちは一部が破落戸(ヤクザ)化していたそうで、その苛酷で貧しい暮らしぶりを知っていてもそれを決して可哀想だとは思えなかったのだと言う。特に父の場合は中学に入ったくらいの頃に一度、開拓団の連中にオーバーコートを強奪されたことがあったらしく、余計にそのイメージを悪くしてしまっている。
大連在中、父は母兄姉と共に北京に2回、ハルピンに2回、半分は観光旅行のような気分で単身赴任した父親のもとを訪ねている。そのときには必ず奉天の親戚の家(現在四国在住)にも寄って行ったらしい。父によれば、奉天は商人の街、新京は官僚街、ハルピンは帝政ロシアの色の混じった異国情緒漂う街といった印象だったようだ。まあ、何はともあれ父にとっての開拓地は観光の対象以上ではなかったわけだ。
しかし、第二次世界大戦での日本の敗戦により、そこからは『満州メモリー・マップ』の作者と同様に引き揚げ船に押し込められ、財産すべてを取り上げられた状態で帰国することになる。そういえば同書では「引き揚げ船に乗せられた乗船者たちは各々の湾に到着すると上陸前に錨を下ろされ、約1週間そのまま海上で停泊させられ、夏の太陽に焼かれて船内がオーブンのようになり、オーブンの中で伝染病の保菌者が発病するのを待って、もし感染者が現れた場合、その船まるごと上陸を許されず放置された(引用者再構成)」という怖ろしい描写があったが、父が帰港した佐世保ではそのようなことはなかったらしい。ただ、DDT(殺虫剤)を服の中にまで突っ込んで吹き付けられて真っ白にさせられる経験は何度もあったとか。
そしてこれも似た話が書かれているが、引き揚げ者収容所で20歳以上は1000円、以下は500円が手渡され、祖母、伯母、父の3人は合計2500円を手渡され、もともと生家のあった山口の萩に帰ってゼロ(ではなく2500円)からの再出発を切る。このとき父は「もし大金持ち曾爺さんに先見の明があって、満州だけでなく、内地にも土地を持ってればお前だって片手内輪とまでは行かないまでも小金持ちくらいの気分は味わえたのかもしれないけどな!」と笑いながら話してくれた。
そんなところで今回は満鉄社員だった祖父にあやかり、絵葉書は満州鉄道の描かれたものをアップする。また、途中に出てくる写真の方は左から伯母、祖母、父、祖父の順で撮影場所は不明である。しかし、こうして書いていて最後の最後まで父方祖父を「祖父」と書くことの違和感が私には拭えなかった。
なお、このエントリーは当初は帰阪直後の記憶の薄れぬうちにさっさと書き出しておきたかったのだが、毎度おなじみ帰阪後の仕事蓄積地獄でそんな暇は一向に作れず。
で、書くタイミングを逃しかけてたところで、ちょうど Abejas e Colmenas のみつばこさんが「満州 記憶の断片から 1片」「満州 記憶の断片から 2片」と立て続けに満州絡みのエントリーをされてたので、それに便乗した勢いだけで書けました。謝謝!
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