諏訪の油屋旅館と辰野の蛍

6/17(金)、18(土) と長野の諏訪に行ってきた。
主な目的は母方祖父母&大叔父の墓参りと私名義の土地の処遇について。土地の件は宅地山林が少し離れたところにあるので、それぞれ別個にエントリーしていきたい。
このエントリーでは到着当日の旅の余話を二つばかり。翌日にももう一つ余話はあるんだけど、そっちは建築絡みのとっておきの話なんで土地関連話のあとに単独エントリーさせるつもり(あさみ編集長さんはたぶんその内容が想像できるはず)。

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で、一つ目の余話は諏訪と云えばの温泉&旅館談義。
これまで法事絡みで諏訪に行くときの宿泊地はたいてい親任せか妹任せでホテルに泊まることが多かったのだが、今回は私と母の二人だけなので私がネットで探すことになった。それで選んでみたのが諏訪では老舗の油屋旅館
各種料理の付いたコースプランで申し込むとそれなりのお値段になってしまうのだが、素泊まりだと4200円〜。2名一室利用の場合で一人4725円。これだとその辺のビジネスホテルよりも安い。その上、展望露天風呂「天空の湯」までが付いてくる。

そんなわけで迷わず利用してみたのだが、これが想像してた以上によかった。
部屋はトイレ・バス付きの十畳和室だった。老舗だけに古いといえば古いが、ロビーで休憩してれば茶菓子が出てくるし、中庭は綺麗に手入れされてるし、何と言っても従業員の持てなしの気持ちがこちらに伝わってくる。それで5000円以下というのはかなりのお買い得だろう。そして「天空の湯」。午後5時と朝7時の明るいときにしか入らなかったので夜景は見られなかったが、諏訪湖と北アルプスが一望できて非常に気持ちよかった。縁の部分に落下防止用のアクリル板が入っているのだが、それがなければもう一つ気持ちよかったろう。自己責任ってワケにはいかないものか?(^^;)

by m-louis : 14:03 | comments (2) | trackbacks (0)

2005年06月14日 (火)

清水の追分羊かん

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実家から送られてきた荷物に「お隣の一乗寺さんからいただいた品」と開封済みの包みに添え書きされた「追分羊かん」なるものが入っていた。どこかで名前を聞いたことのあるようなないような、包みの裏を見ると今年の4月から静岡市に吸収合併された清水(現在は静岡市清水区)の銘菓とある。
ということは『ちびまる子ちゃん』で知ってるのか?と思い、「追分羊かん ちびまる子ちゃん」で検索すると、作者のさくらももこが大好物であり、また映画原作特別描き下ろし『ちびまる子ちゃん──大野君と杉山君』の表紙に「追分羊かん」のお店の絵が描かれていることが判明。
ちびまる子ちゃん』全巻揃えてるだけに、それで朧気に覚えてたというわけか。

by m-louis : 15:57 | comments (2) | trackbacks (1)

棉の芽

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5/22(日) に「ブログ仲間の訪問」で来訪された mitsubako さんから「」との交換でいただいた「和棉」の種が芽を出した。本当に棉帽を被ったまま発芽するんだな〜。
うちは「」の方が肥料の与え過ぎと私の上京中に妻が枯らしてしまったことにより今イチ芳しくないので、緑色の棉の芽が妙に生き生きして見える。

by m-louis : 15:14 | comments (2) | trackbacks (0)

2005年06月13日 (月)

倉沢集落@奥多摩スリル

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豊田さんの誘いで、坪庭開拓団主催の奥多摩山歩きに参加した。
案内役はランドスケープアーキテクトの河合さん。他、河合さん繋がりの学生さん数名に今回初めてお会いした初音すまい研究所の手嶋さんの奥さん、そして毎度の私の旧友CT氏と総勢13名で奥多摩駅9時過ぎ集合。山歩きは実質10時のスタートとなった。

登山道入口の階段には「倉沢のヒノキ」と書かれていて、30分も歩かないうちにちょっと独特な積み方をされた石垣の上に聳え立つヒノキの木が現れる。幹周6.3m、樹高約33m、推定樹齢600年(伝承1000年)。東京都指定天然記念物に指定されている御神木である。こういうものを見るとついエロい想像力しか働かない私なのであるが、行く行くこの木が私たち一行の守り神となるのである。その話はまた後ほど。

そこから10分と歩かぬうちに人の住んでるらしき家が1軒谷側に見えてくるが、その先には全壊した木造住宅がすでに自然に呑み込まれつつある。そして山側に目を向けるとそこには倉沢集落と言われる数十棟の廃屋が階段状にポツポツと立っていた。
倉沢集落については検索でいろいろ見つかるので手短なものを一つ引用しておく。

アルプス登山の玄関口 笠井家「奥多摩・倉沢集落 古来、炭焼きを生業とした山村集落。昭和30年代、石灰鉱山の社宅が造成され、最盛期は数十の家庭が暮らしていた。  その後、鉱山の衰退に伴い住民は離散。現在は、95歳のお爺さんが一人だけ暮らしている。つまり、たたずまいは廃村であるものの、れっきとした住宅街である。

050524_kurasawa.jpg建築系の学生が多いので、しばらく見学&撮影タイム。廃墟フェチの人には溜まらない場所であろう。学生時分に廃墟ブームなるものがあり、一通りその手の特集記事は目を通していた私だが、昔のように廃墟をスタイリッシュに捉えようとする視点はいつの間にか自分の中から抜け落ちていた。台所がどこにあり、水汲み場や公衆浴場がどのような位置にあるのか生活動線を気にしながら、そこで人々が生活していたときの暮らしを意識する。この思考は遺跡においても同様で、家づくりをしたからそういう見方になったのか、それとも歳を取ったからなのは自分でもよくわからない。ただ、いずれにしても廃墟や廃屋を「廃墟」とカッコに括って見るような見方をしなくなってしまった。むしろそれは「家」であり「建物」のままなのだ。

by m-louis : 00:06 | comments (7) | trackbacks (1)

2005年06月09日 (木)

祖父は満鉄社員だった

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先月の上京中にから満州の話、そして父の父、つまり私の祖父の話を聞いた。
前回の「父と満州」のエントリーでは、小宮清著『満州メモリー・マップ』(筑摩書房・999円)を読んだのをきっかけに父が満州出身であることを私の視点で書いただけだったが、今回は0歳から14歳まで満州の大連で過ごした父の視点を借りて、私のほとんど知らない父方の先祖を繙きながら「満州」にも一歩近づいてみたい。

まず私の父方祖先である父の祖父、つまり私の曾爺さんに当たる人物は日露戦争に従軍し、戦後、満州に残って土建・不動産の仕事を始め、それでボロ儲けしたのだという。
満州から北東に100km程のところにある貔子窩(ひしか:現在の皮口)という街で一番大きなホテルを建設・保有し、とにかく孫の代まで寝て暮らせるくらいの大金持ちだったんだとか‥‥。その証拠に父の父、つまり私の祖父は本当は内地に帰って大学で勉強したかったらしいのだが、身内から「片手内輪で暮らせるのにわざわざ大学など行く必要ない」と猛反対され、結局高校までしか出ていないのである。まあ、その後、満州鉄道に就職してるので、片手内輪の生活はしてなかったようなのだが。。

by m-louis : 03:52 | comments (6) | trackbacks (1)
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