2005年05月25日 (水)
今回はちょこっと穴場のレストランを御紹介。
私はこれまで国立西洋美術館 には絵以外に目的などなかったが(まあ、書籍コーナーも結構使えるけど)、さすがに谷中に住んでもうじき1年となる両親はいろいろ美味い店を探りまくっているようで、西洋美術館のカフェ「すいれん 」にも舌をのばし、そこのステーキランチ(1570円)がオススメだと言っている。
で、帰阪する日に母と二人で「すいれん」行ってきました。
言われるままにステーキランチを注文するとこれがボリュームも結構あって肉も柔らか、充分満足できる味。ちょっとした店探すよりもここの方が美味いかもしれない。ただ、知ってる人は知ってるらしく、それなりに行列も出来てるので、行くなら本当は11時半くらいまでに朝食べずに行くのがちょうどいいと母は得意げに話していた。
あと、中庭に面するカフェからは前川圀男氏が1979年に増築した新館側が見えるのだが、何かとル・コルビュジエの設計部分 ばかりが注目されがちな西洋美術館 ではあるものの、ご飯食べながらガラス越しに眺めてる分には非常に心地よい光景になってたと思う。ふだんも入れるようになってりゃいいのにな〜(って入れるのか?)。
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去年(2004年)夏場に「建築探検−ぐるぐるめぐるル・コルビュジエの美術館 って企画を西洋美術館がやってたのは知ってたけど、さすがにあんとき美術館に行ってる余裕はまるでありませんでした。三太・ケンチク・日記 「ぐるぐるめぐるル・コルビュジェの美術館 」で細かくその模様がレポートされてます。
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2005年05月22日 (日)
5/21(土) と 5/22(日) の2日にわたってブログ仲間の訪問を受けた。
5/21(土) はまったく想定外だったのだが、梅丘の「橡の家−特別見学会 」で施主仲間と集まったとき、ふと garaikaさんは遠路はるばる出て来られてる訳だし(行ったり来たりの毎日には慣れられているとはいえ)せっかくの機会だから片付けも何もしてないけどお招きしてしまおうと思い当たったのである。ちょうどこの日は母も妹も出掛けているということだったので、そのことが招く側招かれる側どちらにとっても余計な気遣いがなくて済むなという判断も働いていた。
加えて梅丘から最寄り駅の千代田線根津駅はうまく乗れば一本で行けるってのも何となく自分から誘いやすい恰好の理由付けになってくれた。まあ、何はともあれ、ふだんほとんど人と会うことのない私は、人と話すのも誘うのも、まずは自分を納得させられるだけの動機を見つけられないとなかなか行動にまでは出られないのである(汗)
「橡の家」で朝妻 さんとおさらばして garaika さん、bside さんと谷中へ。bsideさんは「ささやかなお披露目 」のとき以来、二度目の訪問である。1Fから屋上まで手短に案内(というよりは誘導)して、その後、谷中ボッサ へ行った。ここがフツウの施主と私の大いに異なるところだろうが、要は私はこの家に住んでないのでこの家がまったく使い切れていないのである。珈琲一杯入れようにもどこに何があるのかさっぱりわからない。どこに座ってもらったらいいかもパッとは思い付かないくらいなのだ。
そういう意味で、私は家が完成したときまでは施主だったかもしれないが、今はただの客とそんなに替わらない立場にいるようなものである。だから、事実これは一人のときでもそうなのだが、友人を招いても一番落ち着ける場所が家族がほとんど利用してない屋上ってことになってしまうのである。ただ眺めが良いとか風が気持ち良いという以外にも屋上が居心地良い理由が悲しくもあるのである。
5/22(日) の訪問は「田植え 」コメントを見ればわかるように mitsubako さんに苗を渡す目的で最初から想定されたものだった。mitsubakoさんは古くからの友人。ブログのおかげで互いの近況が見えやすくなり、前から谷中界隈の仲間を集めてオフ会やりましょうという話が持ち上がっていた。そんなことから「田植え」コメントでも書いてたようにうちの建築家の豊田さん、それから mitsubakoさんと親しい私も古くからの友人である池之端在住の Pruscilla さん、そしてお二人の友人で谷中在住の aya さんと、ayaさんの言葉を借りるなら「合コンみたい♪」な夕食会になったのである。
豊田さんには事前に谷中界隈の友人紹介しますとは言ってたものの、性別までは伝えてなかったので、女性ばかりがお店で待ち構えていてちょっと驚いていたようだ。しかし食事の席では当然、私の知らないご近所ネタ噴出。あとはちょうど Pruscillaさんがヨーロッパ旅行に行かれたばかりだったこともあって海外の話が多かっただろうか?
+微妙に幽霊話にも話は及んで、そうすると当然また谷中とも繋がってくるわけだ。
食後は最初に Pruscillaさん宅を訪問。スコーンなどをいただいて一服してから、みんなで我が家へ。この日は母に友人が数名立ち寄るのでお茶だけ出してもらえるとありがたいと伝えておいたら、案の定、何やら色々茶菓子の類が出て来やした(笑)
もうこういう人を招いたときの母というのは得意満面の独壇場になってしまうのである。そんなわけでこの日は夜空の屋上に皆を案内したものの、屋上よりも2Fダイニングテーブル滞在時間が一番長いという結果になった。無論そこには母個人の接待趣味に因るところも大きいのではあるが、やはり友人を家に招き入れたとき、そこにその家の住人がいるのといないのとでは何かが大きく違うような気がしてしまった。
母は私の友人というやや遠い関係でありながら、それでも短い時間の中で家のことをあれやこれや楽しげに話していたのである。その話し口調は実は私が garaika邸オープンハウスを訪問したときの garaikaさんのそれを思わせるものがあり、ところが今回の私はそんな案内の言葉を訪問してくれた友人たちに対してまるで発することが出来なかったのである。それはちょっと寂しくもあるが、しかし悲観に暮れる話ではない。むしろこの家の建築計画に私は建築当初から住まないにもかかわらず首を突っ込みすぎてしまったことで、最初に住むはずの住人たちがこの完成した家を自分たちのものとして愛着抱きづらくなるのでは?と不安視していたのだが、その心配が無用だったことをこの日の母が証明してくれたのである。
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2005年05月21日 (土)
父と二人で不忍通り沿いの「小松 」という焼鳥屋に行った。
この店は夜しかやってないので父もまだ行ったことがなかったのだが、父の仕事先の仲間がわざわざここの焼鳥を食べに根津まで来るという話を聞いていたので、前から唾は付けていたらしい。割と最近改装されたと思しきやや敷居の高そうな門構えから多少の出費は覚悟していたが、140円からタン・はつ・はらみ・なんこつ・シロ・レバーなどあって、思ったほどの出血にはならなかった。それに何と言っても焼鳥が美味い!
これまで焼鳥屋といえば父も私も吉祥寺の激安店「伊勢屋 」ぐらいしか思い浮かばないので、単に美味い焼鳥知らずなだけなんだろうが、こんなに焼鳥が美味いんならもっといろんな焼鳥屋に通ってみるべきだよ!と誠にアホらしい父子談議を繰り広げていた。
そんな最中である。父が母と私の妻に大顰蹙を買いそうな話をし出したのは!
父は6月中、行けるものなら一人クルマで東北旅行をしたいと計画しているのだが、それについては母はおろか私も歳が歳だし(74歳)あまり賛成できないと思っているということをこの場でも伝えた。そんなときである。父が「東欧に行きたい。でも、一人で行くと無駄に金が掛かってバカバカしいし、誰か一緒に行く人間は居ないもんか?」と言って、こちらにチラリと目配せしたのは!
そのときの答えを私はここに書くことは出来ない(笑)
とはいえ、このときの話の成り行きは概ね妻には話し、予想通り、怒り半分呆れ半分でその後その話が再び取り上げられてはいない。そしておそらく父は母には話していないだろう。というのも、我が家にとって東欧(特にハンガリー)は結構格別の地なのである。まず我が家で東欧に行ったことがあるのは母だけである。1969年に世界青少年交流協会ハンガリー班音楽係・記録係として派遣という形で、母の初めての海外旅行として東欧に行ったことについては彼女のプロフィール でも触れられている。
そんな音楽派遣された母にとっても、またオーディオマニア の父にとっても、また標本フェチ の私にとっても、20世紀のハンガリーを代表する作曲家のベラ・バルトーク (1881〜1945)の存在は非常に特別なものなのである。つい先日の清真美さんの『新釈肖像写真 』でもバルトークのアルバムがしっかりモチーフとして加えられていた。そのバルトークが生まれ、音の採集を行った地として、父がまだ足を踏み入れていない東欧に行きたいと思うのは至って自然な流れだ。父の中ではそれが最後の海外旅行になるんじゃないか?という気持ちもあるようだし。。
ただ、そこで父が一人で行く分には誰も文句がないのだが、その同行者に私が一人選ばれるというところに問題があるのである。実際、私もそれを面白く思えないどころか下手すりゃ憎々しくすら感じかねない我が家の女性陣の気持ちも私にはわからないではない。だが、これは後日豊田さんとも話して同感を得られたのだが、私個人としては行ってやりたい気がするし、行ってみたい気もしている。というか、何よりも行っておかないと非常に大きな後悔をすることになりそうな気がするというのが正直なところだ。
男のワガママと言ってしまえばそれまでだが、70歳過ぎた父親と二人で海外(それも憧れの東欧)を旅するというのは不思議とワイルドなイメージが抱けてしまう(笑)
少なくとも1年前にそんなことを思い描くことはありもしなかった。
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朝妻さんがプロデュースする「橡の家−特別見学会 」に行ってきた。
場所は東京世田谷の梅丘。学生時代の友人Nノ が住んでることや、「新釈肖像写真 」で写真撮影に来られた清真美 さんが2003年にグループ展をやっていたので多少は知っている街である。ただ、それらは共に北口にあり、梅丘の南口側を歩いたのは初めてであった。
もちろんどこを通るかでも街並みは全然異なるのだろうが、とりあえず案内に出ていた地図で「橡の家」までを最短距離で歩いてみると、何とも驚くべきことにそこに辿り着くまでの通りは「建築家住宅(by 大島健二 )」が雨後の筍状態で軒並み林立している地帯であった。所謂「郊外」というほど都心から離れてもいない梅丘は新興住宅地にはなり得ない。むしろ古くから住んでいた住人が代替わりして、予算もそこそこある若いオーナーが家を建て替えるなら建築家と!という傾向になってるのだろう。
約束の時間に遅れ気味だったので、そんなにじっくりとは見てはいないのだが、ただ、これ以上「建築家住宅」が増えるとそれは壮観というよりはややもすれば食傷気味とでも言いたくなるような街並みに堕するのではないか?という懸念も感じられた。本来、周辺環境に馴染ませるなり溶け込ませるなり取り込むなりというのは多くの建築家の得意とするところだろうが(それどころかそれは家づくりの前提条件と言えよう)、周囲が「建築家住宅」だらけになってしまったらどうなるのか?──今の建築家ブームが今後も続くのであれば、そんな悩みの生まれる日もそう遠くはないのかもしれない。
「橡の家」のお施主さん夫婦は、奥さんの「幼少の思い出の地」ということで梅丘を選ばれたらしい。敷地自体もその「建築家住宅」通りからは一歩奥まったところにあり、周辺に新しい家もあるものの、所謂「建築家住宅」があるわけではないので、狭小変形敷地の立地位置を存分に生かした周辺のちょっとしたポイントとなるような外観に仕上がっていた。私は建物の東側の道から来てしまったのだが、北側の少し坂になった方からやってきたなら(上の写真が北側から来た場合)初めて来た人はすぐ「お!アレだアレだ!」って思うはずだろうし、住人および付近住民はそれが見えてくることによって「ほっ!帰ってきた!」とどこか安心させられるような存在感をこれから持って行きそうである。私は直接見てないので何とも言えないが、夜にはガラス張りの西側一面がほんのり優しい光を壁面全体に灯すようだから、そうした心の安らぎに加えて周辺一帯のセキュリティ面での安全性も高めてくれるかもしれない。
ちなみにこの日は施主&建築ブログ仲間の garaika さん、bside さんとも現地で落ち合う約束になっていて、早く来られた garaikaさんはすでにご覧になられていたようだが、待ち合わせ時刻に遅れた私を待っていただき内部見学の時間を共有した。そのとき、他にも数組お客さんは見えていたので、朝妻さんは私たちも含めたいろんな方々に挨拶&説明されて、それなりに忙しそうなご様子だった。建築プロデューサーも大変だ。
室内についてはすでに朝妻さんが「感じ方ー人それぞれ 」で賛否両面それぞれの見方を自分で書かれてしまっているのでツッコミようがないのだが、『ガラス張りの家って熱くないの?』の疑問は、garaikaさんも書かれているように「光の透過性のある断熱材をうまく使って、採光しつつ、断熱」することで、5月なのに夏並みに日射しの強かった午後においても無事クリアされていた。ただ、朝妻さんだけが一人、扇子片手に室内外問わず、暑い暑いと汗を拭ってられたのが笑っちゃうところではありましたが(笑)
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関連エントリー
家づくり、行ったり来たり「見学会にて 」
Off Space「オープンハウスでオフ 」
一酔千日戯言覚書2「二瓶渉さん設計・朝妻義征さんプロデュースの小住宅 」
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以前から懸案事項であった1F光庭前の舞台式階段通路サッシにサンゲツ のカーテン(Aria)が取り付けられました。実はこれまで前からあった丈足らずのブルーのカーテンが取り付けられていたのですが、さすがにここばかりはギャラリーの一面としても目に入ってくる場所なので、色のこともしっかり考え、生地の質も高い物に奮発してしまいました。しかし、ブラインドに関してはまずはカーテンを付けてみてそれから考えましょうという話になってたのに既に付いてる(汗)
母の話では工事の人が勝手に付けちゃったという話なんですが、まあ、その辺は話半分にしか受け止めてません。昔のピアノ室などもすべての窓にブラインドが取り付けられていたし、増築した部屋もブラインドだった。つまり、好きなんだろうな〜と。。
実際、実家家族が住み始めてしばらくは言いたいこともたくさんありましたけど、ある時期からもう言うのを辞めました。結局住んでない人間が何言っても始まらないし、好きなようにしてくれ!ともう諦めてます。心配なのは現在の乱費状態を続けてちゃんと老後のことまで考えてるのか?ってところでしょうか。
ま、救いなのは今回の箇所以外のカーテンはすべて昔の家で使ってたのの使い回しで、丈が合わないのは折り目を解いて延ばして使ってるってことかな〜(笑)
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2005年05月20日 (金)
三鷹金猊居時代、私の母はピアノ教室を自宅で開いていた。
一応、谷中の家でもいつそうした教室をやってもいいようにということで、1Fはギャラリーとしての機能と同時に防音にも気を遣った設計にしてはあるのだが、まあ、現在の生活状況を見ている限りではそんな日はやって来ないかもしれないな〜という予想の方が強く働いてしまう(汗)
と、それはともかく今回、フォトグラファーの清真美さん が「新釈肖像写真 」で母のグランドピアノを背景に写真を撮ることになったおかげで、私も滅多に見たことのなかったピアノのフタを開けた状態 を目にする機会を得ることができた。どうもカバーの掛けられたものってなかなかその真の姿をお目に掛かれないもののような気がしてしまうのは、おそらく私の実家の何でもカバーしておきたがる体質に負うところが大きいように思う。その反動か私自身は本でも何でも自分の範疇にあるものは剥き出しで使いたがる傾向が強いのだ。何だかもうカバーが掛かってるだけで、それは使っちゃいけないもののような強迫観念を植え付けられているのである。だからちゃんとモノを使うためにもカバーはなるべく掛けないようにしている。
なお、写真 をご覧になられれば一目瞭然なように母のグランドピアノはワインレッドなのである。これまたカバーが掛かるとふだんは黒ということになってしまうのでもあるが、何はともあれハッとさせられる色であることには違いない。母は学生時代にアルバイトでお金を貯めて買ったと言っていたが、親の資金援助があったかどうかまではわからない(たぶんその真実は話してくれないだろう)。ただ、このワインレッドのヤマハ製ピアノが期間限定商品だったということだけは確かなようである。
といっても購入してすでに40年近い月日が経ってしまっているため、音が古いのかレッスンでは専らもう一台の凡庸な黒のアップライトピアノが使われていた。とまあ、結局のところ、このカバーの掛かったワインレッドのグランドピアノも値打ちモノの茶器同様、写真モデルとしてしか出番のない骨董と化しているのである。
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去年、建築写真 を撮ってもらったフォトグラファーの清真美 さんが、今回は彼女自身の作品制作プロジェクト『新釈肖像写真』として我が家を訪問。まあ、半分は私が頼んだものなのであるが、モデルは私の両親である。
彼女の制作スタンスとしてはモデル希望者の自宅に出向いて、その生活環境の中で絵作りをしてポートレート撮影をするというもの。基本的にその絵作りは彼女自身がここで撮らせてくださいと押しつけるものではなく、あくまでモデルとの対話の中でどこで撮るべきか、どんな家具を配置するか、どんな衣装を着るべきかなどが決められていく。即ちどことなくモデルとフォトグラファーの関係が施主と建築家の関係に近い。
1週間前にすでに両親と彼女の3人でロケハン&打ち合わせは行われていて、両親を結ぶ一番大きな要素は「音楽」だから1Fのグランドピアノの前で撮ろうという話でまとまっていた。それ以外にもふだん使われることのない骨董モノの古茶碗などが並べられ、こんな機会でもないと値打ちモノは陽の目を浴びないのだな〜と改めて実感。
結局、器の類ってがさつに扱って割れても気にならない安物の方が使い勝手も良くなってしまった時代なのである。
ちなみに私は撮影前後の準備と後片付けだけ手伝い、本番の撮影時間は2Fに退散。それは清さんから事前に撮影時はモデルと自分だけにさせてほしいと言われていたことでもあり、また私もそのつもりでいたことである。その感覚というのは、おそらく「家作りブログ三角形 」のエントリーでも触れた「人と人との間でモノを作るということがそう簡単なものではない」といったことと関係するように思う。
とはいえ、2F書斎の階段から一番遠い部屋に居たにも関わらず、ときおり3人が爆笑してる声が聞こえてきた。両親共にああいう形でモデルになるのは初めてのことだったに違いないが、清さんと清さんのカメラがそこに持ち込まれたことで濃密な楽しい時間を過ごしていたようだ。撮影終了間際に1Fに呼ばれ、なぜか私も加わった写真を撮られたり、あと私が清さんを撮ったりとしばし記念撮影タイム。ひとまず見せられたポラでも、我が両親がモデルながらかなりいい写真が出来そうだという予感たっぷり。現像後のレタッチで何ヶ月か掛かるとのことだが、仕上がりが非常に楽しみだ。
家が完成した施主の皆さん、または何らかの理由で家の解体を余儀なくされた方など、是非是非、清さんの『新釈肖像写真』モデルとなってみませんか? そこに住人がモデルとなって入ることでその空間がまたひと味違ったものとして(プロジェクトの性質上、ある種、濃縮還元されたような形で)切り取られ、そして後世まで残せるものとなることでしょう。サイトの Contact のページにもありますように、現時点では撮影協力のお礼ということでA3サイズ程度の完成写真ももらえるのだそうです。遠方の方は交通費などが応相談になるかもしれませんが、本人はどこでも行くよ!と言ってましたので。。
ちなみに冒頭の写真は撮影場所を反対側から撮った撮影準備中の様子です。
あと、清さんのモデル募集の件は私が仲介役になっても構いません。もしいきなりメールするのに抵抗ありましたら、ひとまず私の方にコメントください。
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2005年05月16日 (月)
Off Space : bside さんから、うちの施工をお願いしていた阿部建築 の若頭=山本さんがブログ「谷中の住人 」やってますと教えられ、正直ここ最近では一番の吃驚でした。
早速挨拶のコメントをすると、何でも「仕事関係の方から進められて勢いで始めてみました」とのこと。確かに始められたのは今年の3月からで、今のところ日常的な話題と建築絡みの話がメインのブログのようです(施工風景の写真なども載ってます)。
いや〜、こんなことなら私がもっと前に薦めておけば、ご近所の satohshinya さんからブログを通じて工事の進捗状況を教わるなんていう面白すぎるハプニングも起きず、みっちりその工程をリアルタイムでチェック出来ていたのかもしれません。それと山本さんのブログを現在のお施主さんが見られてるのかはわかりませんが、施工者側がクライアントに対してではない形で、対外的に自分の家について語っているところを見られるというのもこれまた非常に興味深いものがあります。
と、こうしたことを書いていると当然そこに設計者も加わって、一つの家づくりに三者三様の視点でブログ記事が書かれるという状況を思い浮かべない訳でもないのですが、私個人としてはそれはそんなに簡単には行かない夢物語みたいな話だろうと思ってました。それはクリエイティヴな仕事に従事されたことのある方であれば、おそらくは警戒を強めるように、人と人との間でモノを作るということがそう簡単なものではないからです(これについてはまた改めて掘り下げて書く予定)。
ところがこの世の常と言いますか、ネット世界の原則とでも言うか、そうしたものって既に存在してるんですね。まあ、私が今回知ったのは施主・施工者・設計者の三角形ではなく、施主と設計者の相互ブログというヤツですが、たまたま「新桜宮橋のゴンドラ 」というエントリーにコメントされたはりこさんというお施主さんの「『華門楽家』建築奮闘記録 」とtsutsui_1972さんという建築家の「KIHAKU's blog 」が双方向発信ブログという形態が取られているのです(もちろん相互に無関係な話もエントリーされてますが)。
とりあえずまだ両ブログ知ったばかりなのでその内容を問うつもりはありませんが、正直私は勇気ある試みだな〜と思いました。特に設計者。でも、この双方向発信ブログを見ているとこのまま工事に入っても悠然と施工者まで含めた三方向ブログをやってのけそうな雰囲気を感じてしまいます。まあ、それは単純に施主と設計者の間でしっかり信頼関係が築けているように見えるからこそそう思えるのですが、当然これから先、このように幸せな形になってない三角形ブログなんてのも出て来ちゃうと思うんですよね。
そこにはやはり情報開示と信用の間の時差・認識差といった問題が大きく浮上します。
そういえば宇多田ヒカルがマイクロソフト社の「Xbox360」というゲーム機名称を発表前に Web日記 で流出してしまったというけど、これがトラブルなく不問にされたのはひとえに宇多田さんの信用(作家性=権威)のおかげっていうもんでしょう。
でも、こうした事例は極めて特例だと思ってないとフツウの施主はヤバいです。
あと、どうでもいい話ですが、任天堂DSのCM での宇多田さんのデブっぷりって、あれはご本人も映像開示承諾してたんでしょうか?(^^;)
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2005年05月11日 (水)
これまでこのブログでは登場機会の少なかった父 であるが、その理由はうちがある種、サザエさん的家庭だということにある。即ちこれまで何度か登場した祖父母とはまさしくサザエさんにとっての波平とフネであり、私はといえばフグ田タラオだったのが、祖父の死を機に知らぬ前に磯野カツオにすり替えられていた(つまり知らぬ間に養子になってた)のである。だから当然マスオさんである父の存在感は家づくりにおいても薄く、ブログでもそれほどスポットを当てられることがないまま来てしまった。
そんな父が生を受けたのは1931年(昭和6年)、かつて日本の植民地だった満州の大連である。父は自分が士族の出であることを何かと強調するのだが、父の祖父にあたる人は非常に商才に長けた人だったらしく、父はちょっとした金持ちの家のお坊っちゃまとして育っているらしい(右の写真の中央が父)。言うまでもなく第二次世界大戦の敗戦で父の家族もまた身ぐるみ剥がされほとんど無一文状態で引き揚げることになるのだが、私はそのあたりの経緯をそんなに詳しく知らない(というか、父に聞いてない)。
それは一つには私が知らぬ間とはいえ、母方の家の養子となり、なんだかんだフグ田家ではなく磯野家の嫡子としての自覚を植え付けられていただろうことが考えられるが、それとは別に子供の頃に友達同士の間で「残留孤児」と卑下された記憶がどこかで自分に影を落としてるような気がしなくもない。なぜに父が満州の生まれだったことが友達に知られたのかは今以て謎だが、私が小六〜中一前後だった1982年2月、厚生省による第二回中国残留孤児の「親探しの旅」で60人の孤児のことが何かとマスメディアを賑わせていた。そうした報道に子供特有の差別意識が働き、私へと向けられたのだろう。父は「引き揚げ者」であり、決して「残留孤児」ではないにもかかわらず、私は「残留孤児」のレッテルを貼られ、そうしたイジメから逃れるためにとかく私は父が満州生まれだったという事実を隠そうとしていた。
と書いたところで唐突な話にはなるが、
先月、aki's STOCKTAKING 「父の遺言書 /1943 」のエントリーにて少しそのことをコメントしていて、その後、同ブログの「満州走馬燈 / 満州メモリー・マップ 」のエントリーで紹介された小宮清 著『満州メモリー・マップ 』(筑摩書房・999円)を購入して、つい先日ようやく読み終えたところなのである。
今に始まったことではないのかもしれないが、日中間がギクシャクしている現在、満州という存在がそのギクシャクの要因としてどのくらいのところを占めているのか私には今もよくわからない。ただ、この本はそうした日本の侵略の歴史を、いや、もう少し厳密にいえば侵略した土地を開拓する日本人の生活を、私の父よりもさらに5歳若い著者の子供時代の視点において描いている。そこには昨今の行きすぎた報道にありがちな誇張もなければ諧謔もない。ただ、訥々と絵日記のように綴られた記述に当時の大人たちにも見えてなかった歴史的な視線がオーバーラップされているのである。
冒頭でアップした画像は伯母の家にあった大連大広場の絵葉書をデジカメで複写したものである。葉書はまだあと3枚あるので、今度はこの本の気になった箇所など引用しながら、それを元手に父や伯母に満州の話をもう少し詳しく聞いて、それらのレポートと共にここで紹介していきたい。
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Abejas e Colmenas のみつばこさんも aki's STOCKTAKING の同エントリーで紹介されていた『満州走馬燈 きよしのメモリーマップ』の方を読まれていて「オンドルの見える風景 」「泣きそうになった箇所 」というエントリーをされてます。
その後に MyPlace の玉井一匡さんも「満州走馬燈 」で同タイトル著作を再読してのエントリーをされてます。またTB受けた「真綿のお供え餅と大連 」のエントリーも要チェック!
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2005年05月08日 (日)
「田植え 」のエントリーで予告していたベランダでの稲作。
とりあえずプランターに新しい土を盛って植えてみました。肥料も少々。
検索するとゴマンと出てくるんで、困ったときにみりゃいいやとそんなにしっかり見てないんだけど、とりあえず「ベランダで育てる稲 」「バケツ稲の観察日記 」「バケツ稲づくりネットワーク 」「プランタン農業へのチャレンジ 」のようなイメージで育っていくのかな?と。。
ただ、義父が稲の長さだけ根は伸びるけぇ〜と言ってたので、もっとそこの深い所謂バケツをプランターにした方がよかったかもしれない。
尚、苗を少し多く持って来すぎたので、大阪天満もしくは私が上京時(5月中に1回予定)の谷中宅まで取りに来てくれる方、苗、お裾分けします。ま、どちらにせよ、ご近所さんでないと交通費の方が植木屋で買う苗代より高く付きそうですが。。
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2005年05月07日 (土)
春には桜の通り抜けで賑わう大阪造幣局 すぐ脇の大川に架かる桜宮橋の並びにもう一本、新桜宮橋の建設工事が始まっている。どうせなら桜のシーズンが終わってから工事始めりゃいいのに(三脚立てて一生懸命桜撮ってるカメラオジサンたちをがっかりさせないためにも)とも思ったが、まあ、世の中そんな風流には付き合ってくれないものである(工事は2005年1月25日から着手)。
で、つい先日その新設工事の行われている隣の元からある桜宮橋(通称:銀橋)をいつものように自転車で通ったら、新桜宮橋のアーチ部分がまるで観覧車のゴンドラのようになっていて、そのただならぬ様子に思わず私もカメラオジサンになってしまった。いや、まあ、三脚までは立ててませんが(笑)
もちろんベニア材で囲われた仮設部分はいずれ取り払われてしまうのだろうが、ちょっとそこに何が出来るのかは興味深い。
と思ってネット検索してみると「銀橋ホームページ 」というサイトが国交省の管轄で出来ていて「デザインは市民の皆さんからいただいた意見を参考にして、有識者からなる新桜宮橋デザイン検討委員会によって決めました。この委員会メンバーには、建築家の安藤忠雄先生にも務めていただきました。市民の皆様の意見では、約4分の3の方が、今の銀橋と同じ型がいいと答えていることを踏まえ、アーチ橋にすることになりました。」(ラジオ大阪「大阪のみち なにわのみち 」より)とのこと。
とりあえずその仮設ゴンドラが取れるとどんなアーチになるのかは乞うご期待といったところだが、ふだん最寄りのJR環状線桜ノ宮駅へ行くのに桜宮橋の一つ上手にある源八橋を渡る私の身勝手を言えば、源八橋から大阪城を望むのに視覚上邪魔になるようなものになって欲しくないというのが第一。あとはダブルアーチで道路拡張することによって国道1号線を挟んで造幣局の向かいにある泉布観 (1871年トーマス・J・ウォートルス設計)の敷地が狭まらないことを祈るばかりである。泉布観は建物もいいが、それ以上に裏寂れた敷地に木々が鬱そうと生い茂るあの日陰感が心地よいのである。
ところで大島健二著『建てずに死ねるか!建築家住宅 』の目次前のページに辞書を模した建築用語集が出ているのだが、その「建築」という用語の意味に「家・橋などをたてること」と出ている。それを読んで建築対象として「橋」って意外に大きな存在なんだなと思ったのだが、そういえばレオス・カラックス監督『ポンヌフの恋人 』のポンヌフ橋は確かセットじゃなかったか? とすると大道具と建築の違いとは?とも思うが、藤森照信+大嶋信道設計「一夜亭 」も俳優座の大道具が作ってたんだよな(汗)
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2005年05月06日 (金)
「田植え 」のエントリーコメントでカエルの騒音話になったついでに、実家の交通騒音に対するその後の話をレポートしておこう。
家の前の言問通りがあの界隈で東西に抜ける唯一の抜け道となっているため交通量が多く、騒音が激しいことは上棟前の「現地ノイズ調査 」のエントリーで取り上げた。
また引き渡し後の「一週間住んでみて 」というエントリーでも実家家族全員が車の騒音に悩まされているということについても触れた。
が、今ではもうほとんど騒音が気にならないものになってしまったらしい(汗)
まあ、私から見れば以前の線路から100mと離れていない仮住居での電車騒音をモノともしてなかっただけに、谷中の騒音の方がよほど軽いと思っていたのだが、結局のところは慣れの問題というしかないのだろう。私も妻の実家で初めて寝泊まりした頃はカエルの鳴き声(昼版.wav[65KB] /夜版.wav[245KB] )があまりにうるさくてなかなか寝付けなかったし、それから大阪に越してきたばかりの頃は朝っぱらから始まるクマゼミの鳴き声に毎朝吃驚させられていたものだ(関東はアブラゼミやミンミンゼミが主流でクマゼミはほとんどいないのである)。
それとこれはあまり冗談にはならない話だが、一月ほど前にワイドショーを賑わせてた奈良の24時間騒音迷惑オバサン。彼女が逮捕されたあと、インタビュー受けた周辺住人が静かになったのはいいけど、逆に静かすぎて耳鳴りがして眠れないんですよと言っていた。これは重症だとも思ったが、あんな物凄い騒音にまで人は慣れるのかと逆に感心してしまった。ちなみにその騒音オバサン映像は僧兵魂「キチガイババア ラップを歌う 」というエントリーで見られます。いや〜、迷惑な話なんだけど、エントリーされたタイトルにもあるようにそのオバサンの騒音ラップセンスだけはそんじょそこらの J-Rap の遙かに上を行ってる気がします。
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2005年05月04日 (水)
前回の「苗代 」エントリーに続き、GWを利用して田植えの手伝いに行ってきました。
田植えは苗代と違って誰でも知ってそうな言葉ですが、試しにヤフー辞書検索すると
田植え (たうえ/たうゑ) 苗代で育てた稲の苗を水田に移し植えること。[季]初夏。
と出て来ます。が、これだけでは物足りないので知恵蔵からも引用してみました。
田植え (文化-日本食文化考・米) 昭和40年代に田植え機が普及してから、家族・親戚総動員しての田植えという風景は見られなくなった。そして、田植えの後、酒を酌み交わし、労働をねぎらう「さなぶり」も姿を消した。種籾を直接水田にまけば、「苗代」での苗作りや田植えという煩雑な作業は不要であるにも関わらず、田植えがおこなわれてきたのは、雑草対策である。「代掻(しろか)き」をして田んぼを平らにすると同時に、芽吹いた雑草を土の中にすきこんで殺す。雑草が一時的になくなった水田に苗代で育てた稲の苗を植えることで、初期の成長を容易にする。しかし、水田といえども、雑草の成長は早く、田植え後の「一番草」「二番草」「三番草」と呼ばれた手取り除草は農家にとって辛い作業だったが、除草剤の登場とともに、田んぼで「中耕除草機」を押す農民の姿は見えなくなった。
どことなくその変遷が村人総出で手伝いに来た時代の家づくりを連想させます。「さなぶり」は云わば「棟上げ」にあたる行事だったのでしょう。しかし、近代化の波は過疎村の隅まで行き届き、我が実家の田植えもその例に漏れず、ほとんどの部分は田植機がやってしまい、手伝いといえば田植機に苗を移すとか運ぶとかその程度のものでした。
冒頭の画像は「苗代」のエントリー最初に見せた2002年時の画像とほぼ同じ田植え前日のまだビニールハウスが取り払われていない時点での苗の様子です。
こちらは田植え前日の水田の様子。お隣りの水田はもう田植えが終わっていました。
前日夕方、ハウスを片付け、苗へ最後の水撒きです。相変わらず義父の専売特許。
そして当日、私たち夫婦が起きる前(朝7時前)にはすでに農薬が撒かれ(写真右の白い粒状のものが農薬)、準備万端の状態になっていました。
8時過ぎ、田植機が到着。義従兄弟のR三君が今年新しく買った田植機でやってくれることになっています。まずはトラックの荷台から田植機を降ろしました。
義父は苗のケースごとに底面に付いた土を払ってから田植機に載せていきます。
これが苗を田植機に載せた状態。背中の苗が少なくなったら手前の苗を補充します。
乗り切らない分は運搬車に乗せて田の畔に移動。義父はR三君に田植え位置を指示しなければならないので、ケースの土を払って運ぶ作業は途中から私が請け負いました。
田植えは水田の中程がやや深くなっているため、一部植え付けがちゃんとできずに同じところをやり直さなければならないこともありましたが、概ね順調のようです。
一往復すると補充分含めて田植機上の苗が切れる少し前の状態になるので、そこで新しい苗を畔から受け取って補充します。
田植機にセッティングされて不要になった苗用ケースを洗って乾かす作業は主に義母と妻がやってました。畔の横に水が流れているので楽チンです。
しかし、それらの作業が終わってしまうとあとはR三君の田植えの様子を見守るばかりで何もやることがありゃーせん状態です。昔は家族総出だったのに、田植機恐るべし。
二往復したところで10時のおやつ。とその前に私も田植機に乗せてもらってヤラセ写真を撮らせてもらいました。苗の受け渡し作業だけは本当にやってましたが。。
休憩後、再びR三君が残る列を順調に往復。完全カメラ目線で余裕のポーズ。
最後の列を終えてから手前と奥の隅を横列で往復させて田植機は11時でお役ご免。
帰り際にR三君と義父が「これで一段落付いたけぇ〜、あとは稲刈りまで一安心じゃ」と言ってたのが妙に印象に残りました。稲作って思ってたよりお気楽なんだろか?
残る作業は我ら家族で田植機が植えきれなかったところなどを手作業で埋め合わせ。
昔はこれをすべてやってたのかと思うと、そりゃ昔の老人は腰が曲がるのも頷けます。
作業は簡単な片づけを残して12時半で終わりました。
夕方、田んぼに出てみるとさすがにまだ田植機で掻き乱された水は濁っています。
が、翌帰阪前には濁りも落ち着き、透き通った瑞々しい水田となってました。
しかし、レポート途中でも書いたように、どうやらこの田植えが終わると本当に一段落付いてしまって秋の収穫までに一、二度、農薬を撒く程度の仕事しかないようです。その農薬も何やらボール状のダンゴ を2、3個投げ込んでおけばそれで済むらしく、ましてや去年から水田まわりに猪等が入ってこないようにと部落ぐるみで感電性の電気柵まで設けているので、ホントに手が掛かりません。
こうした手間の掛からぬ状況を可能としたのがそれこそ知恵蔵からの引用で説明されている「水田」というシステムの威力なのだと思います。ある意味、建築基準法改正で条件付けられた24時間換気システムと似てるっちゃー似てるような、、水田ははるかに前から24時間換水システムを備えていたというわけですね(笑)
尚、余った稲を少しばかり持ち帰ったので、みつばこさんの「種子の時間 」に倣って今度はベランダ田植えに挑戦してみるつもりです。それといつか田植機を自分で操作してみたい!!
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2005年05月02日 (月)
2002年10月の三鷹金猊居解体後、なぎ倒された家の破片も片付けられ、地均しされた土地を見に行ったとき、そこで木屑の混ざった土の表面に豆粒大の膠色の球根のようなものがめり込んでいるのを見つけ、そっとポケットに忍ばせて大阪に持ち帰りました。そのときは何の球根だろう?と妻と首を傾げていたのですが、妻が植木鉢に植えておいたら翌年の春には青い芽を出して、ちょうど今頃、見事な紫色の花 を咲かせてくれました。もちろん三鷹の庭に生えていた見覚えのある花です。
そして去年もちゃんと咲いたのですが、去年の今頃ちょうど私は実家の工事で慌ただしく上京を繰り返していたので花の咲くところを見ることができず。ただ、去年その花が枯れてから妻がちゃんと手入れをしておいてくれたおかげで、球根の数は結構な数になってました。
で、今年も先月初め頃から元気に新芽 を見せてくれていたのですが、どうも一つの植木鉢にとっては飽和状態になってしまっていたようで、茎の伸び具合が悪く、花も例年よりも寂しい感じ にスケールダウンしてしまいました。花びらの反っくり返り加減が心許ない感じ です。というわけで、今年の秋口には谷中の家に株分けしようと考えています。
元々、母はこの花がお気に入りの一つだったようなのですが、家の解体が10月でその頃は球根が土中に埋もれてしまい、すっかり掘り出しておくのを忘れていたそうです。そんな三鷹の庭に埋もれていた一株が偶然命救われ大阪に運ばれ、大阪で命を吹き返し、再び三鷹の庭で一緒に咲いていた他の草花たちのいる谷中の庭に帰還する。なんだか不思議な嬉しい気持ちになるものです。草花たちにとっては「お前、どこ行ってたんだよ?」って感じでしょうか(笑)
ちなみにその花の名前はイングリッシュブルーベル 。ユリ科ツルボ属の多年草で、学名は Scilla non-scripta 。あとで母から聞いたところによると、今年育ち具合が今イチだったのは土に肥料分が足りてないのでは?というアドバイスがありました。確かにその辺も考えておいた方がよさそうです。
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2005年05月01日 (日)
忍者ツールズ のアクセス解析が無料利用だと4ヶ月分しか保存できないので、ここでまた「検索ワード」の解析結果をまとめてみた。
前回まとめたのが2004年9月17日〜12月31日 分の解析結果。今後も年3回4ヶ月置きに前・中・後期という形でまとめてみようかと考えている。
上棟式 4.9% ← 上棟式 4.9% DIY 4.3% ← 藤森照信 2.5% 上棟式挨拶 3.4% ← 無印良品 2.4% 丹下健三 1.9% ← DIY 1.8% 無印良品 1.8% ← 挨拶 1.7% 谷中 1.3% ← サーモフロア 1.6% ファサード 1% ← 谷中 1.5% 電動自転車 1% ← 上棟式挨拶 1.2% 止水板 0.9% ← 不忍池 1.1% 家具 0.8% ← 取っ手 1%
以上の推移を見ると前回2位だった「藤森照信」が25位までランクダウンして「丹下健三」が4位にランクインしているのが何とも興味深い。丹下氏の場合、訃報ニュース のエントリーで言わずもがな(それも短期間のうちで)だが、同エントリーにも名前を出してた藤森氏のランクダウンは前回が「スロー建築のススメ 」というTV番組告知でエントリーしてただけに、如何にTVの影響力が未だ根強いものかということを如実に示している。ついでに如何に飽きっぽいかということも(汗)
しかし、前回に続いて「上棟式」「上棟式挨拶」が依然として高順位に来てるってのはやっぱり施主はまず挨拶言葉で悩むんですな。しかし、私の挨拶はものの見事な失敗事例なんで、訪問者は来なきゃよかったと後悔するか、あるいは長いのはやめとこうと再確認していくか、ひとまず後者が教訓になっていけば私の失敗も無駄ではなかったということになりそうです(笑)
ところで先月くらいから MT の調子が今イチおかしくてちょいとへこんでます。バージョンアップさせるべきなのかもしれないんですが、ファイル名とか変わるとリンク修正とか面倒くさいし、特にカテゴリーの調子が悪くて再構築時のエラーがひどいので応急処置として、カテゴリーページをタイトルリスト表示に変更してみました。
まあ、それでも完璧に修復してくれてるわけではないんですが(幾つかカテゴリーリストが表示されてないページもある)。
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