2004年01月31日 (土)

blog 開始

当初、自分には絶対向かないと思っていたのだが、なんとなく公開式の日記サイトみたいなものを作りたいと妻が言うので BLOG ≠ LBGO [Leaf Boat Gathers Ode] を準備してあげたら、作ってるうちにこれは谷中家作りの記録に最適のシステムだと思うに至り、勢い半分立ち上げてみました。

まあ、blog をどのように使おうと自由だと思うが、ここではエントリーの時間設定を実際にそのエントリー内容が起きていた時刻に変更してアップしていこうと考えている。
よって、これまでのメモ帳やメール等を見て、過去の経緯も徐々に書き加えていくつもりである。
それがアーカイブとなって、なおかつ、カテゴリー化できるという機能を買って、blog を始めたようなものである。おそらくこれが現在形の日誌意識で時制に気分的に追い込まれていくものだとしたら、私の性格からして3日も持つまい。

コメント欄には家作り経験者でも未経験者でも、プロフェッショナルでもセルフビルダーでも、ご批判、ご意見、野次、アドバイス何でも歓迎である。ただ、私のことを知ってる人というか、お友達の場合はできればそれとわかるようなネーミングにしてもらえるとありがたい。もちろん本名じゃなくてOKね♪

今回、この blog を開始するにあたっては、肩肘張らずというよりは、むしろ少し気張るくらいのつもりで始めようと思っている。自分にとってこんな意気込みが生まれるのは珍しいことだが、家作りってものがそのくらい面白いもんだからやむを得ないのである。もっと早くに blog の効用に気づいておくべきだったな。

2004年01月29日 (木)

配筋検査

040129_inspect.jpg初音すまい研究所@監理報告より(一部編集了)

午後から構造事務所の西村氏立ち会いの下、台東区役所の配筋検査を受けました。
コンクリートのかぶり量(※1)について指摘がありました。
要調整のこと。

あと、後日の打合せで知らされたことだが、西村氏からは西境界線側の配筋に一部ゆがみがあることを指摘され、その調整工事のため配筋工事の完了は約一週延びることとなった。
西境界線側配筋の問題箇所の写真は追記欄で掲載。

基礎配筋

040129_check.jpg初音すまい研究所@監理報告より(一部編集了)

26日(月)から始まった配筋工事が本日午前で一旦終了。
この日の午後から配筋検査が行われました。

配筋工事の過程を納めた写真がなかったのがちょっと残念。ま、工事中、幌をかけちゃってるだろうから撮るのが難しいだろうけど。。

基礎配筋の基礎ってことに関してはまた別稿にて。

2004年01月25日 (日)

ベースパック

040125_1441_basepack.jpg040125_1442_basepack.jpg

初音すまい研究所@監理報告より(一部編集了)

ベースパックがセットされ始めました。
右側の写真がベースパック近景です。

2004年01月23日 (金)

土間コン

040123_1657_doma.jpg初音すまい研究所@監理報告より(一部編集了)

根切りが終わりました。
根切り底に土間コンが打ち込まれました。

2004年01月20日 (火)

ステコン打設

040120_sutecon.jpg現場を見に行った母がコンクリートを流す前から流し込み終わるまでをしっかり捉えてきてくれた。デジカメに記録された時刻を見る限りでは14:30〜16:30くらいまでこのコンクリートの流して均す作業は行われていたことになる。

ここで流し込んでいるコンクリートは建物の構造上の強度とは直接には関係しないもので、粒子が粗く、大体5cm程度の厚みのところで地均しされる。捨てコンクリート(略してステコン)と呼ばれるのだそうだが、それがそのまま「ステコン打設」といった具合に土木の業界用語となっているようだ。
ただし、捨て打ちとはいっても、やはりなるべくならば水平にきっちりコンクリートを仕上げておいた方が後々の配筋工事等が楽になってくるものらしい。

2004年01月19日 (月)

砕石・転圧

040120_saiseki.jpg右の写真は砕石敷・転圧工事の翌日に母が撮影したステコン打設工事が始まる前の様子。

砕石(さいせき)とは、岩石などをクラッシャで、破砕して骨材(※1)として使えるようにしたもの。それを根切り後の整地した地面に敷いていく。

転圧(てんあつ)はその砕石をランマーやローラなどを使って硬く固めること。うちの場合、どっちを使ったんだろうか? そのときの現場の様子は誰も押さえてないので、今度聞いてみないと。

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2004年01月17日 (土)

根切り工事

040117_1654_negiri.jpg040117_1657_negiri.jpg

初音すまい研究所@監理報告より

根切り(※1)がはじまりました。
ローム層を確認しました。
地盤調査通り水は出ませんでした。

新・金猊作品(稲沢・森邸)

2日ほど前に稲沢の森家(※1)の奥さんから、我々が見たことない金猊作品を一宮の今枝家(※2)から譲り受けたという驚きの連絡を受け、急遽、母と訪名する。

去年、八恵さん(※3)の四十九日の法要のときに今枝さんと森さんの間で金猊の話題が出て、金猊作品を数点持っているという今枝さんの話を聞いた森さんが今枝さんに譲ってほしいとお願いし、快諾されたらしい。我々は今枝さんのことは金猊の姉が今枝のところに嫁いでいるということを知っている程度で、その末裔のことまではまったく把握していなかった。だから、まさか今枝家に5点もの金猊作品が眠っていようとは考えもしなかったのである。

一方、森家とは2001年3月に亡くなられた哲夫さんと面識があったことから、母が年始の挨拶などで付き合いを続けていたし、私共夫婦も哲夫さんの葬儀には出席している。今回、母に連絡をくれたのは哲夫さんの奥様の洋子さんで、彼女からの連絡主旨は今枝のところから金猊作品を譲ってもらったことの報告と、一点、かなり傷んだ作品があるがそれをどうすべきかの相談であった。その傷んだ作品に関しては後述する。

洋子さんとしては丸井一族の大体の家が皆何某か金猊作品を所持しているのに、森家にだけそれがないということが幾ばくかの疑問として残っていて、それがそんな大袈裟に言うほどのものでもないけどちょっとした嫉妬(不満)みたいなものに結びついていたらしい。とりあえずそれに関しては我々にも当時のことがわからないので何とも返答のしようがなかったが、おそらく金猊が一族に作品を渡していたのは恣意的なものというよりは、単にそのとき世話になったとかそういった偶発的なものだったのでは?と推察できる。それがたまたま森家のところには渡す機会がなかったというだけの話だ。反対に今枝のところにたくさん残っていたのは、当時今枝家が一宮といえば有名な毛織物工場で一財産築いており、おそらく何某かの支援を金猊が仰いでいたことも想像に難くない。
ただ、森さんの中ではなぜうちだけ?という家同士の体面上のところで作品所有の所在が求められており、それが今回今枝さんに作品譲渡を申し込まれた直接動機となったという推測はあながち外れたものでもあるまい。しかし、そもそも今回の話は森さんが我々にこうした連絡を取ってくれなければそれら作品群が残っていたことすらわかり得なかったのだから、まずは何よりも森さんに大感謝である。

さて、東京から来る母とは稲沢の駅で朝9時半に待ち合わせ、駅まで迎えに来てくれた洋子さんの車で小雪の降る中、森家へと向かった。
挨拶もそこそこ絵の検分に入ったのだが、ここでは作品を見た順とは逆の順番で作品について触れることにする。

霜晨(そうしん)
この作品のタイトルがすぐにわかったのは、祖父の遺品に自作を単色刷のポストカードにしたものが幾つか残っていて、そのポストカード(右の画像左側)にしっかり作品タイトルまでが記されていたからである。しかし、見てすぐわかりはしたものの、その色づかいというか配色はおよそポストカードからは想像できないものであった。いや、鶏頭の花(※4)だとわかっていたのだからおおよその配色は想定できててもよかったはずなのだが、金猊作品でこれだけグレーを大胆に取り入れた作品というのは他になく、初見して度肝を抜かれてしまったのである。
洋子さんは今枝家から金猊作品を譲り受けるにあたって、さすがに譲ってもらう遠慮心から一番地味な作品を選びましたと言われていたが、それは見た目の色合いの話であって、今回出て来た作品の中ではこの作品が図抜けて研究価値の高いものであったことは間違いない。なお、冬枯れした鶏頭で季節的にもちょうどよくお正月には床の間に飾っていたらしい。一宮の由緒ある表具屋でかなりお金を掛けて軸装されたらしく、保管の面では問題なさそうだ。ただ、もう少しゆっくり時間を掛けて、できれば一人で作品と向かい合いたかったというのが正直なところである。

芥子花圖(仮題)
この作品が問題の傷みがかなり出てしまった作品。右の画像をクリック拡大して見てもらうとわかりやすいかと思うが、画面向かって右上の方に完全に染みが浮き出てしまっており、また、画面右半分は花びら部分の絵の具が赤も白も共にほとんど落ちてしまっている。他に気になるのはX地で絹本に刻まれた網目模様といったところか。それは画面中央下側あたりがもっとも目立った状態で浮き上がっている。
なお、この作品のタイトルを『芥子花圖』としたのは、これとたいへんよく似た作品(というより画面中央の部分のみ描いたと言いたくなるような)が一点我が家に所蔵されており(※5)、そのタイトルが『芥子花圖』だということはわかっていたので、それと同じ題で仮表記することとした。
この作品は今回見つかった作品のうちでもとりわけ描写力の確かさ(特に線の強さ)を確認すさせられる作品である。それは花の色が落ちてしまったことで尚更わかりやすく露見してしまった。洋子さんはこの作品を右半分切って左半分を軸装してはどうかと考えていたらしいが、それにはストップを掛け、こちらでも表具屋と相談させてほしいと願い出させてもらった。こうした場合、絵に求めているものがまるで異なるのだから、なかなか難しいところである。ただ、正直この作品は未表装の状態なので(つまり何らかのお金を掛けてしまった後ではない)、願わくばこちらで引き取ることはできないか?と折を見て相談してみるつもりである。
それにしてもこの作品である種決め手となっているのは、まさしく花を支える役割を果たしているグリッド状の竹の支柱ではないか? それが花だけでなく、余白を含めた画面全体を引き締めている。「井」の字の囲まれた中には何も描き込まれていない。

2004年01月16日 (金)

西澤文隆の仕事

梅田ジュンク堂で故・西澤文隆氏(※1)の全集『西澤文隆の仕事──1. 透ける・2. すまう』を買った。本当は全3巻で、『3. つくる』もあるのだけど、1冊がどれも高いので、ひとまずそれはお預け。

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by m-louis : 16:02 | comments (0) | trackbacks (0)

2004年01月10日 (土)

本格工事開始

040110_negiri.jpg年明け1/10(土)から本格的な工事は始まった。
土木系の職人仕事はやっぱりお正月をしっかり取るものらしく、また敷地前の道路事情(※1)から大型車の搬出入を伴う工事が土日でしかできないことも、10日始まりとなった要因である。

さて本格工事の第一弾は根切り工事(※2)
朝8時から工事は始まるので、私と母が到着した10時過ぎにはすでに一乗寺側南手が2mくらいの深さまで堀削られていた。
ショベルカー1台。シャベルを使って手作業で細部を削る職人さんが2人。4tトラックで掘った土を搬出する人夫さんがドライバー合わせて2人。その他、ガードマン4人に阿部建築の若い職人さんが一人、現場を見まもっていた。

040110_1021_negiri.jpg見学中に豊田さんが来訪。我々は工事見学後に初音すまい研究所に顔を出す予定にしていたが、豊田さんもまだ我々が現場にいるのでは?と思って、先にこちらに寄られたらしい。母と工事の様子を見ながら談笑されている間に、私はデジカメで静止画+動画を撮りまくる。去年暮れにコニカミノルタの DiMARGE G400 というデジカメを購入したのだが、やはりサンヨーの後継機種(Xacti DSC-J2)にしておけばよかったとちょっと後悔(※3)。結局ムービー撮るために前機種(SANYO DSC SX-560)とデジカメ2機持参です(泪)

ところで豊田さんの話によると、谷中ではこの根切り工事の際によく人骨が出て来て工事が留まるケースが多いらしいです。

2004年01月09日 (金)

臨時会談: 黄色い家

地鎮祭から一月以上空いてることと、前回打合せに私が出席できなかったことから、本格工事がスタートする前日、豊田さんと個人的にお話しする機会を持たせてもらった。
しかし、臨時会談とはいえ、内容的にはかなり濃いものだったといえるかもしれない。まあ、二人が私の家族の存在に気を取られず建築のことをあれこれ話せたせいもあったが、この席で初めて建物の色調が提示されたことが何よりも大きいだろう。

040109_yellow.jpg豊田さんとしては生き抜き半分、色鉛筆を使ってお絵描きしてみました〜というような言い方をされていたが、ズバリ黄色で来た!というのは意外であると同時に、豊田さんならばあり得ない話でもないなという感じではあった。黄色い家という考え方は家作りが始まって、まだ豊田さんと出会う以前に計画されていた貫通案(※1)というプランのときに私と妻の間だけでイメージされていたことである。我々夫婦は殊の外、黄色という色に執着が強い(※2)のだが、だからと言って即座に好みの色を外観色に使いたいと言い出すほど建築をナメてはいない(笑) しかし、その貫通案においてはそのプランのヴィジョンと結びつく要素が黄色にあった。それは至って個人的動機によるものだが、私が初めて公に出した作品(※3)が全面黄色で覆われた箱型の作品で、箱の中央には思いっきり貫通孔が空いていたのである。だからそのプランを見るまで黄色い家ということは考えもしなかったが、ふと自分の作品との呼応ぶりから黄色い家も悪くないと思うようになり、そのことを妻に告げると、当時谷中の家作りに私が関わること自体がストレスとなっていた妻にも急に明るい兆しのようなものが見え始めてきて、それはそれで希望を与えてくれる色となっていたのである。もっともその色のことは当時の建築家たちに伝える前にそのプラン自体が頓挫してしまったが。。

その後、黄色い家のことはプランが変わって全く考えなくなっていたが、ここに来ての復活には何とも不思議な因縁みたいなものを感じさせられた。それと豊田さんならばあり得ない話でもないと感じたのは、あの立地条件に加え、何となく和風仕立てになってきているファサードにあって、黄色を使うというのは相当な挑戦心がないとできないことだと思ったからである。それは、これまでの取り組みの最中に幾度か豊田さんのその風貌からはちょっと想像できないようなマッチョ的(=良い意味で地中海のヒト的)とでも言うべき大胆なデザイン手腕を見せられてきているので、こうした挑戦も納得というか、任せてみたい気分になったのである。もちろん両親にでもわかりやすい説明をしてくれることや事業に対する誠実な対応にも信頼を置いているが、私が豊田さんという建築家と接して一番魅力を感じているのはこのパッと見の穏やかさに隠れた豪傑なところなのかもしれない。そういえば、ジュゼッペ・テラーニ(※4)が好きだって言ってたもんな(笑)

この日、豊田さんとは少しこれまでの経緯を振り返りながら互いの労をねぎらった。この計画の最大のミソは諸々要素を思い切り切り捨てたことによって出て来た2階のバルコニースペースにある。バルコニーに出て一乗寺やA見邸の緑を背に感じながら自分の家を見上げるとタラップの先には大きな空が広がっている。その空はこの上なく贅沢な我が家の一部として感じられるにちがいない。そんな話をしていたら、思わず涙腺が弛みそうになってしまったが、豊田さんも心なしか涙目になってたのは気のせいか?

−初音すまい研究所
−15:00〜18:30
−豊田さん、矢原さん、私
−ファサードのイメージ図、工事工程計画表、打合せ記録

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