年配の友人からのメールに「お施餓鬼」という言葉が使われていて、恥ずかしながら私はその言葉にそこで初めて接したのだった。そのメールには親切にその意味も添えられていたが、当然初めての言葉に接したときには Google である(笑)
ここでは葬儀・葬祭会社の文章を引用する。本来、読点の入りそうな場所が全角スペースになっていてちょっと読みづらいので、その部分はこちらで適宜修正を施した。また赤字・緑字は本文とは別のところで使っている。
これを読んでいて一つピンと来たことがあった。
「施餓鬼」という文字に含まれる「施」という言葉についてである。それは言うまでもなく「施主」の「施」とも一致し、「施す」という意味において、その語義の方向性的にも共通するものだろう。しかし、私は「住宅建築と施主」というブログを立ち上げ、実際「施主」という立場で家づくりに関わってきたにもかかわらず、どうもその言葉に馴染めずにいたのである。
それはその「施す」という言葉のイメージが妙に横柄に感じられ、如何にも身分不相応のことをしているように思えていたからというのがまずは大きい。特にうちの場合、三鷹の土地を手放して得たお金で建てた家なので、誰にも自分の身銭を切るという感覚がなく、余計に「施す」という意識が遠くなってしまっていたのかもしれない。
しかし、上記引用した「施餓鬼」の意味を読んでいて、「施す」にはもう少し深い意味が込められているように感じたのである。それはその言葉の前提に「回る」という観念が組み込まれてはいないだろうか?ということだ。要するに餓鬼道に落ちた亡者に我々が食べ物を施すのは、現世の我々もまたいつの日か餓鬼道に落ちてしまうかもしれないという輪廻の循環を前提としてのものである。としたとき、「施主」という立場もそうした循環=リサイクルシステムの中において、回り回って施し施されしているのではないか?ということである。少なくともそれは昔の村社会での家づくりであれば、建て主が「お施主さん」と言われるのは非常に頷けるものがあった。家を建てるということ自体が村の祝い=お祭りのようなものであり、その家が建てばそのお施主さんは今度は別のお施主さんに協力したり何だりと、その立場自体が循環していくる。その点で上棟式の餅投げの図はそれを象徴する振る舞いとして非常に納得できるものがある。
ところが都市生活において、そうした風習は一部の儀式のみが形骸化して残りはしたものの、その意味自体はほとんど失われたものとなってしまっている。だから、そんな都市空間での家づくりで「お施主さん」と言われても、それは営業トークの「社長」とか「先生」って言葉と同程度のものにしか聞こえない。
また都市生活者の施主はそういう人との繋がり以外においても、建築過程全体の循環=リサイクルからも切断されてしまってるように思えてならない。その一例として友人のセルフビルダー:岡啓輔氏(彼の家づくり記録は現在、ほぼ日刊イトイ新聞「ひとりでビルを建てる男」で掲載されてます!)から聞いた話を最後に紹介しておく。
基礎工事で掘られて余った土って、その処分料を施主は支払い、あとで再び土が必要となったときにはまた別途、新たな土を購入しなければならない。もちろん一度処分した土の保管は経費が嵩むから、掘った土をそのまま使い回せとは言うわけではない。しかし、他でも土を必要としている施主はいるだろうだから処分せずにリサイクルシステムをしっかり構築すればいいのにと思っていた。そしたら、どこもとは言わないが、結構それらの土は処分されずにリサイクルされてるのだという。それを聞いたとき、損をするのは施主だけど、まあ、リサイクルされてるのなら少しはマシか?と思っていたのだけど、やはりそういうシステムがあることを施主に直接的に感じさせないというところが、施主を「施主」の語義ならざるものにしてるな〜とも感じずにはいられなかった。
結局、現世界の家づくり環境で自分を「施主」と思い込むのは難しい。
【追記1】
garaikaさんが「「解体」の違和感」というエントリーで「現代の「カイタイ」は「解体」ではなく「壊体」ではないのだろうか」と書かれていたが、この「壊体」工事も施主から「施主」感覚を奪う一つの例と言えるだろう。
【追記2】
「施餓鬼」という言葉を知って程なく、総領の義母から「今年のお盆は施餓鬼に行きんさい」という電話。物凄いタイミングにびっくり。まあ、そういうタイミングの季節でもあるのだが、、何はともあれ、暑中お見舞い申し上げます。
≪ 閉じる