April 14, 2005

喪失感の所在

祖父から祖母への手紙」コメント欄の下の方をご覧になればわかると思うが、昨夜、私は一人であくせくしまくっていた。そこでも書いているように同エントリーの本文の文章がコメント欄に自分でコメントした文章にすり替わってしまっているのを見つけたのである。最初は表示上のバグかと思っていたのだが、編集画面のフォーム内を見てもそこにもコメントの文章が来てしまっていて、もはやどうにもならなさそうな状況が見えてきていた。

私はふだんエントリーするのもコメントするのも一旦別のエディタ上で書いたモノをコピー&ペーストする形で投稿しているので、原文が残っているといえば残っているのだが、しかしペーストして公開したあとにもう一度ブラウザ上でエントリーを読み直し、校正をかける。もちろんブラウザやプラットホームの環境差があるのは承知の上で、それでも私は Mac/Safari でもっとも読みよいように微妙に改行部分などの調整を掛けたりしている。
そんな中でも「祖父から祖母への手紙」は公開後に文章そのものも相当に変更修正を加えたエントリーだった。だから、そのデータが消えたということを認めずには居られなくなったときの喪失感は非常に大きなものだった。エディタ上で下書きしたものを再アップはできるが、それは校正後の文章ではないのである。

もちろんこうした喪失体験はこれまでにも幾度も体験している。一番単純な例としては保存し忘れとか、誤ってデータ削除してしまったとか、、で、そうしたときもしばらくは茫然とするしかないのだが、しかしそれらのケースでは不思議と取り返し可能な力が自分の中に残っていた。もちろん文章をまるごとそっくり再現できるという訳ではない。だが、実際のところ、もう一度書き直したとき、喪失前に書いたものよりもグレードアップした文章に仕上がるのがそうした場合の常である。確かにデータとしては消えてしまったかもしれないが、自分の中で元の文章を書き上げたときの経験が上積み要素となってより優れた文章を書かせてくれるのである。

ところが今回の喪失においてはそうした期待がまるで持てなかった。まず第一にもう一度書き直すなんて気力はまったく持てないし、仮に書いたとしても相当端折ったものになったであろう。で、実際書く気力のない私はとりあえず下書きの文章をそのままペーストして写真についてはソースを自ら書き込んでどうにか体裁だけは復活させる形を取ってみた。だが、何ともやるせない気分になるのである。この際エントリーごと削除してしまおうかとも思ったのだが、すでにたくさんのコメントももらっているので、さすがにそれもしのびなく、如何ともし難い状態。

そこで考え始めていたのが、ネット上のどこかに何らかの形で旧データがまるごと残ってたりしないか?ということだったのである。で、いろいろ考えてふと思い当たったのが Google のキャッシュ。ここには Google の検索ロボットが巡回時に読み取った情報(つまり何日か前のサイトの状態)が保存されている。だからもしや?と思ったら、案の定4/9(土) 時点のものが出て来てくれたのである。いや〜、このときの安堵感と言ったらそりゃなかったッス!

しかし、今回の経験をきっかけに考えたのが、今回私がデータ上の復活は考えても、頭の中からの書き直しを一切考えようとしなかったのはそれがブログ上の文章だったからではないか?ということである。他の方がどうかはわからないが、少なくとも私はブログの記事をもう一度書き直すというモチベーションをそう簡単には持てそうにない。

[R]Richistyles!「ブログと思考の濃度ブログをはじめてから半年以上がたった。これだけ長い間、安定してものを書いていったのは生まれて初めて。

ニュース、ネタ、雑感、議論といろいろ書いていったが、感想としては特にそれで利口になったとは感じない。ただ、文章を書く作業は早くなったし、文章力はだいぶ伸びた。しかし、これは文章としての中身が良くなったというより、莫大な情報を処理して、それを簡単にまとめたり、適当な意見を書き上げたりする作業効率が上がっただけに過ぎない。


ここに書かれているブログ実感と似たような感覚を私も持つのであるが、どうもブログで書くという行為はこれまで文章を書いていたときのそれとはどこか感覚的に違う。まず、何よりも常に同じフォーマットに従ってエントリーしていくという一連の動作から駆り立てられるもの、richstyles 氏の言葉を借りるなら「処理」という感覚が強くあるのである。それが私にデータ上の復活は考えさせても、内面上の復活にまでは至らせなかった理由ではないだろうか?

実をいうとこの問題を私は最近 garaikaさんが書かれた「オーダーメイド」とレディメイドとの関係、あるいはアナログとデジタルとの関係において平行させて考えたいと思っているのだが、どうもまだうまく纏められきれず(処理しきれず)にいる。


by m-louis : April 14, 2005 12:53 PM
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April 14, 2005 04:59 PM
ブログと思考の濃度
excerpt: ブログをはじめてから半年以上がたった。これだけ長い間、安定してものを書いていったのは生まれて初めて。 ニュース、ネタ、雑感、議論といろいろ書いていったが、感想としては特にそれで利口になったとは感じない。ただ、文章を書く作業は早くなったし、文章力はだいぶ...
weblog: [R]Richstyles!
comments

Googleキャッシュとは考えましたね。ラッキーだったとはいえ、上手に復元できてよかったですね。

ところで、思考の濃度の話題には、私、正直かなり打撃を受けました。私もブログをほぼ日刊化して約半年。濃淡・出来不出来こそあれ、こんなに駄文を書き続けたのは初めてで、まあ、なんか「やればできるもんだ感」たっぷり。

しかし、普段これだけ読ませてくれるm-louisさんですら「文章書きというよりも処理」などとおっしゃる。その意識の差にうちひしがれてます。当方、駄文とはいえ、それなりのものを残してきたんじゃないかと思っていましたが、振り返ってみれば、やっぱり私のとこのも「処理」の出力でしかないような気がする、などと落胆と反省コミでウチヒシガレているのです。

確かに利口にはなってないとも思うし、文章を書く作業も書けば書くほど遅くなっているような気もするし。ちょっと、ほぼ日刊のスタイルを反省しようかななどと、自省モードに突入しております。

by: あさみ編集長 : April 14, 2005 07:38 PM

タイムリーにも、私の尊敬する内田先生が、本日のエントリーで、すごいこと書いています。かっこいい。ここまでストイックにはなれないけれど、見習いたいなどと思う編集長なのでした。
http://blog.tatsuru.com/

by: あさみ編集長 : April 14, 2005 11:38 PM

>あさみ編集長さん
あさみさんからは事前に「うちひしがれ」予告を受けていたのですが(笑)、そういう意味だったんですね。う〜む、でも、反省モードになられる必要はないのでは?と。。

実は私は「処理」という言葉にさほど悪いイメージを持っていません。データ処理という言葉がフツウに使われているように、もはや「処理」技術自体があらゆる日常に組み込まれています。そして、それはブログというデータベース志向のツールそれ自体が「処理」の賜物みたいな形で登場しています。その辺のところはこれから先、家づくりとも絡めて書いていきたいと思っているのですが、我々にはそれを否定していくことは最早出来ないのではないかと思っています。

ただ、もちろん「抵抗」することは可能です。と言ってもすでにそれは内部抵抗みたいなものなので、如何にそれを吸収しつつもズラしていくか?とか、しばらくの間はその辺に面白さみたいなものが現れてくるんじゃないでしょうか。

それともう一つ、実は「処理」化された文章の方が個人の無意識が表面化しやすいのではないか?とも思っています。その意味で「日刊」というある種の強迫観念みたいなスタイルは尚更それを実現してくれると思うんですが、この辺についても改めて書きたいと思って、ここ数日試行錯誤してるんですが、どうもうまく纏められないんですよね。

なんか色んな要素があまりに反転し合うもんで。。

PS.
なぜか数時間前にコメントしたはずのものがまたしても消えていたようです。
今回は本文とすり替わってはいないようだけど、やっぱこのブログ、なんかおかしくなってるようです(汗)

by: m-louis : April 15, 2005 12:10 AM

>あさみ編集長さん
リンク張られた記事、拝読しました。
「ユリイカ」は私も書店で50秒くらい立ち読みしました。
たぶん内田氏が取り上げられてた対談も軽く目を通してたと思います。
ただ、目次含む漠然とした印象としてブログの状況論が書かれてるっぽいな、んじゃ、おもろーなさそ!と他の雑誌の立ち読みにさっさと移って行ってしまったのです。

ところで内田氏のブログスタンスってストイックでしょうか?
ま、ストイックの意味をどう捉えるかでも見方は変わりますし、それに私は教えていただいたエントリーしか読んでないので、それだけで断言するのも危険ではありますが、しかし私はそのエントリーで書かれているご本人のブログに対するスタンスまで含め非常にウェルメイドなものとして読めました。というか、まさしく本となるべく書かれているのでしょう。「本」というのはなかなかストイックなだけでは成立しないものだと思います。

ただ、そこで氏の言われている 「もったいないよ」はある特定の人たち(例えば学者)を指しての話に限定されるような気もしています。もちろん私もエントリーする前に検索掛けまくりの状態になりますが(中には告知TB狙いで検索してる人もいることでしょうけど)、私がそれをやっているのは「ひそかな愉悦」というよりは、自分の文章もまた検索対象の一つに加わってしまうという意識が働くからです。それはありがちな言葉で表現するなら「データベース意識」という言葉に言い換えられそうですが、どうもそれって学者の「ひそかな愉悦」とは本源的に異なるもののような気がするのです。まず第一に全然「ひそか」じゃない(笑) そしてやっぱり「処理」的である、、等々。

この辺についても、何とか「これからの家づくり」ということと絡めて書いていけないかと思っています。乞うご期待というほどのもんにはならないと思いますが、しかし、私もこの谷中のブログで一体何をやろうとしてるんだろうな〜という感じですね(汗)

by: m-louis : April 15, 2005 02:46 AM

ふーむ。面白いです。「処理」の語義みたいな話はさておき、ブログの形式そのものが、既に「ネットは私の外部脳」みたいな状態を作り出しているのかもしれないな、、なんてことを考えました。

何が面白いかはそれぞれなんだろうけど、私が私の面白いと思ったことを発信する。そして、うまくいけば、何かとつながって、つながることが新しいなにかを生み出す。いや、そこまでいけば、大成功なんですけどね。
ネットワークの端っこにつながっている私たち一人一人が脳内の神経細胞だとしたら、ネットワークそのものは巨大な脳だったりするのか?、、そこまで考えるとさすがにちょっと気持ち悪いかも知れませんね。

そういう意味で(どんな意味だ)、先に紹介した内田先生なんかは「別にネットでつながらなくてもいいんじゃないか」と思っているという不思議に孤高の人であると感じ、私にはそこのところはマネできないなと思いました。

m-louisさんのエントリーと、コメントから、そんなことを考えてみました。

by: あさみ編集長 : April 15, 2005 02:51 AM

コメントがかぶりました。m-louisさんの2つめのコメントを読まずにアップしております。ちょっと値引き(なんだそれ)して読んで下さい。

by: あさみ : April 15, 2005 02:53 AM

たびたびすみません。

「データベース意識」に膝を打ちました。かなり近いです。私の場合「密かな愉悦」もないことはないのですが、どちらかといえばその「データベース意識」が近いと思います。それをあさみ的に極端化すると「私のブログも誰かの外部脳の一部になる」感じです。

ユリイカは読んでません(笑。ミーツ(内田連載がある)はいきつけの店で読みますけど(笑。ストイックと感じたのは「つながらなくていい」という意識のことだと改めて自覚しました。

つながりたいです。(←なんかアヤシイ感じ?)

by: あさみ編集長 : April 15, 2005 04:48 AM

「密かな愉悦」ってのは昔は学者の専売特許みたいなものだったように思えます。
例えば今のようにアマゾンで簡単に洋書が入手できない時代、海の向こうの最先端ネタを一人の学者が独占するようなこともあったことでしょう。それを書いていると藤枝晃雄という現代美術系の批評家の顔が頭に浮かぶ(汗)
その名残は実際のところ、あさみさんよりもちょこっと若い私の世代でもまだちょっとは存在してるような気がします。でも、私の後続世代となるともうどうなるんやろ?って感じです。それこそ「つながりたい」が最優先されていくのかもしれませんね(笑)

by: m-louis : April 15, 2005 12:28 PM

「なぬっ」えm-louisさんて私よりも歳が下なんですか?
2つか3つ年上じゃないかと勝手に思ってました。
と思って某ソーシャルコミュニティサイトを見たら、たったの2つ違いじゃないですか。そんなものは世代差になんかなりませんっ(笑。大場久美子のコメットさんだって知ってるでしょうに(笑

というわけで
m-louisさん、私の中では5つ若返りました(爆

そだ、あさみ新聞への投書ありがとうございました。こちらでの議論の「つながりたい」が、なんとなくここ2、3日のキーワードになっています。

by: あさみ編集長 : April 16, 2005 03:10 PM

大場久美子のコメットさん、知、知らないッス(汗)
ま、私の家が割と厳しい家だったもので、TVとか選ばれてしまったという理由もあるんですが、、
ただ、結構1965〜75年前後までの世代って結構2年違いくらいでも時代享受の仕方でかなりの差があるような気がします。まずバブルを体感的に知ってるか否かとか、、
アイドルも聖子ちゃん世代かおニャン子世代かで随分違いますよね。
とはいえ、この約10年スパンの世代はその両方を何となく知ってるという意味では共通点も多いのかもしれません。

あさみさんの「つながりたい」がどう CAD につながっていくのか、楽しみにしてます。

by: m-louis : April 16, 2005 06:20 PM

>>あさみさんの「つながりたい」がどう CAD につながっていくのか、楽しみにしてます。

って、そんなんつながらないよ〜(笑
そんなつもりじゃなかったもん(涙

by: あさみ編集長 : April 16, 2005 08:13 PM
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