March 22, 2005

丹下健三氏、没

一酔千日戯言覚書2「丹下健三さんが亡くなりました」にて日本建築界の重鎮・丹下健三氏の訃報に接する。それを読んだ時点でまだニュースサイトにその情報は出回ってなかったが、それからしばらくして「建築界リード 丹下健三氏死去」という見出しでヤフーのトップニュース扱いとなっていた。91歳だったという。

丹下氏の存在は私にとっては必ずしもその輝かしい功績と符合するものではない。80年代末、東京都新都庁舎計画で当時一番背高ノッポのツインビルプランでコンペを勝ち取った丹下氏の存在は学生だった私の目には政治家の腹黒いドン(金丸信にもちょっと似てたし)のように映っていた。むしろ当時の私は周囲の副都心高層ビル群よりも低い庁舎計画案を出した磯崎新氏のプランの方に惹かれていたものだ。

だが、学生時代の青臭さが抜け、ポストモダン建築よりも近代建築に魅了されるようになってからは、少なくとも公共建築に関してはやっぱり丹下の方が磯崎より全然すげーやと思うようになっていたのである。それには時代背景による素材=経済感覚の違いもあるのでやむを得ないところもあるのだが。。
当時、東京にいた私は一度ライブで代々木・国立屋内総合競技場に行ったことがあるのだが、そこがオリンピックプールとして使われていたのかと思っただけで背筋がゾクッとしたものである。建築で武者震いする経験って他に国内で思い出せるのは白井晟一の作品群くらいのものである。

ところで私は大阪に住むようになってまだ淡路島には行ったことがないのだが、先月たまたま友人の akanem 氏から淡路島南端の「若人の丘」に建つ丹下作の戦没学徒記念館に行ってきたというメールをもらった。上記掲載写真は彼女が撮ってきた記念館の写真。私も花粉が飛ばなくなった頃にでも行ってみたいものだ。以下に彼女からのメールにあった訪問時の感想を一部転載しておく。

On 2005/02/27, at 21:46, akanem wrote:

今日は、前から行ってみたい、と思っていた丹下健三の幻の作品といわれる、
戦没学徒記念館に行ってきました。
ご存知ですか?(淡路島南端の「若人の丘」に建ってます)

震災後、閉館されたままで、いまや廃墟と化してますが、
最近の建物ではあまり感じたことのない、崇高さというか緊張感を感じました。
すでに崩れかけている石積みの美しさというか、なんというか。。。
建物自体にも力がある、ということを改めて感じさせられました。

中の展示物の一部は残されたまま埃をかぶっていて、
(それも、戦時中の写真や日章旗など)
周りの風景の美しさ、静けさ、建物の美しさとは対照的に、
何ともいえない雰囲気をかもし出していました。

機会があれば、ぜひ。というくらいオススメの場所です。
普通に景色が気持ちいいです。


□◇
050322_tangefujimori.jpg※余談1)
丹下健三といえば、建築史家の藤森照信氏がまとめた限定2500部の 丹下健三・藤森照信 著『丹下健三』があるんだけど、¥28,500- に未だ手が出ません。

※余談2)
丹下健三の公式サイト「KENZO TANGE OFFICIAL SITE」ってどこが作ったか知らないけど、Flash のバカ使いの典型でアクセシビリティ最悪。特に「作品」のコンテンツはメニューの「作品」クリックするよりも「プロフィール代表作品」で見た方がわかりやすいです。

※余談3)
戦没学徒記念館レポートのあるブログです。
・ポリタン・コスモ「戦没学徒記念館_by_丹下健三
・あさみ新聞「戦没学徒記念 若人の広場

※余談4)
読売新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。

読売新聞「丹下健三さんが死去…世界の建築界をリード 日本の建築界をリードし、「世界の丹下」と評価された文化勲章受章者の建築家、丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが、22日午前2時8分、心不全のため東京都港区内の自宅で亡くなった。91歳だった。

 告別式は25日正午、文京区関口3の16の15東京カテドラル聖マリア大聖堂。喪主は妻、孝子さん。

 1913年、大阪府生まれ。中学まで愛媛県今治市で過ごし、38年に東大工学部建築科を卒業。前川国男建築事務所に勤めた後、東大に戻り、助教授を経て64年に教授となった。

 都市計画を専門とし、機能性と美の融合を図る近代建築を推進。広島市の平和記念公園(49年)のコンペで1等に選ばれて注目され、東京都庁第1庁舎(57年)や東京オリンピックの代々木・国立屋内総合競技場(64年)などの設計で世界的な評価を得た。

 大阪万博の会場構成(70年)のほか、海外での仕事も多く、ユーゴスラビア、イタリア、中東などの都市計画、復興計画を手がけた。日本建築学会賞(54、55、58年)や英王室建築家協会のロイヤル金賞(65年)など内外の賞を多数受賞。74年に東大を退官して名誉教授になり、79年に文化功労者、80年に文化勲章を受章した。

 以後は東京都の新庁舎(91年)、フジサンケイグループ本社ビル(97年)、東京ドームホテル(2000年)などの仕事がある。著書に「東京計画1960」「建築と都市」「一本の鉛筆から」など。


毎日新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。
毎日新聞「訃報:丹下健三さん91歳=建築家 東京オリンピックの舞台となった国立代々木競技場や東京都新庁舎など、戦後の代表的建築多数の設計を手がけ、日本建築史に巨大な足跡を残した建築家で文化勲章受章者の丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが22日午前2時8分、心不全のため東京都港区の自宅で死去した。91歳だった。葬儀は25日正午、文京区関口3の16の15の東京カテドラル聖マリア大聖堂。自宅住所の詳細は公表しない。連絡先は新宿区大京町24の丹下都市建築設計(03・3357・1888)。喪主は妻孝子(たかこ)さん。

 大阪府出身。高校時代、ル・コルビュジェに傾倒し建築家を志した。1942年の大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選するなど、早くから頭角を現した。東大建築学科助教授を経て、64〜74年、都市工学科教授を務める一方、61年、丹下健三都市建築設計研究所を開設した。
 この間、49年の広島市平和記念公園及び記念館の設計競技で1等入選。また、丸の内の旧東京都庁舎や愛媛県民館、香川県庁舎など公共建築を次々と手がけ、建築界に大きな地歩を築いた。
 その存在を一躍国内外に知らせたのは、ユニークな曲線の屋根で、東京オリンピックのシンボルともなった64年の国立代々木競技場。つり構造が生み出した巨大な内部空間は、開かれた都市像の象徴とも評された。
 以後、国家的プロジェクトの中心的担い手となり、70年の大阪万博では基幹施設プロデューサーとして、お祭り広場を設計。海外の都市再開発にかかわる一方、東京都の新都庁舎の指名競技設計にも1等入選。91年にオープンした同庁舎はスケールの大きさと壮麗なデザインで話題を集め、新宿新都心でも際立った建築となった。
 79年、文化功労者。80年、文化勲章を受章。東大時代は丹下研究室から磯崎新、黒川紀章、槙文彦ら世界的な建築家を輩出するなど、後進の育成にも大きく寄与した。3冊の作品集や自伝「一本の鉛筆から」の他、「日本建築の原形」「人間と建築」など著書多数。

◇建築や都市設計が社会発展とともにあった時代の最後の巨匠
 日本のモダニズム建築をリードした丹下健三さんが22日、亡くなった。広島平和記念公園、東京オリンピックの記念碑的建造物・国立代々木競技場、東京都庁舎。戦後日本の各時代を象徴し、人々の記憶に残る名建築を手がけてきた人だけに、その死はまさに巨星落つの感を与えずにはいない。
 戦時下の東大大学院時代、日本の大きな設計競技で3年連続1等を獲得。建築界の鬼才として、すでにその名は広く知れ渡っていた。
 戦後の都市復興計画に際し、広島担当を強く望んだのは、自分が高校時代を過ごすとともに、そこが両親の最後の地でもあったからだろう。
 広島市の仕事が戦後復興のシンボルとすれば、60年代の高度成長期の記念碑は、オリンピック功績賞を受けた国立代々木競技場にほかならない。丹下さんは従来の柱りょう構造をやめ、「大工さんがヒモをつるして屋根のこう配を決める」ように、スチールの張力によるつり屋根構造を採用。多数の観客が柱に邪魔されず、流れるように移動できる豊かな空間を生み出すのに成功したのである。
 丹下さんはその後も、世界建築界の巨匠として名声を博していくが、社会的な話題性という点で他を圧するのは、91年に完工した新宿の東京都庁舎だろう。総工費が1500億円以上にふくれ上がり、デザインの豪華さが際立つ外観も手伝って、当時は「バブルの塔」などの批判にさらされもした。
 しかし、丹下さんは新都庁舎を「自治のシンボル」と言い切り、「批判するのは建築の贅(ぜい)を知らない人」と、最後まで動じなかった。その意味で丹下さんは、建築や都市の設計が社会の発展とともにあった時代を代表する、最後の巨匠だったのかもしれない。もしも丹下さんがなお健在であったなら、あらゆる発展神話が崩壊した現代の建築や都市のありようについて、どんなビジョンを差し出してくれただろうか。【三田晴夫】

 ■建築家、磯崎新さんの話──日本代表する仕事
 日本で初めて近代建築を体現した建築家といえる。丹下さんの出現は20世紀後半の日本の建築を方向づけた。戦後、70年代前半までの時期に最も活躍し、広島平和記念公園や代々木体育館、大阪万博など、国家的なプロジェクトで中心的役割を果たした。戦後日本の成長とともに歩み、かつ日本を代表する仕事をした。巡り合わせもあるが、まれに見る建築家であり、それに値する実力を持っていた。
 70年代以降、日本で国家的スケールのイベントが姿を消すに従い世界に場所を移し、そこでも中東諸国の国家的な建築物を手掛けた。突然の知らせを受け、時代の一つの大きな区切りを感じた。

 ■藤森照信・東大教授(建築史)の話──戦後史そのもの
 日本人が思っている以上に世界的な建築家で、戦後日本が誇る造船や橋りょうの技術を使った代々木の競技場は世界に広く知られている。先端技術を駆使しながら日本の伝統的な美意識を取り入れた点でも高度な建築物だ。日本で一般大衆に名前を知られた最初の建築家だろう。広島の平和記念公園、東京五輪、大阪万博など、その足跡は日本の戦後史そのものといえる。

 ■建築家、東大名誉教授、安藤忠雄さんの話──大きな刺激受けた
 世界中の建築家が、とりわけ広島の平和記念公園、香川県庁舎、代々木体育館に大きな刺激を受けたと思う。私たち後に続く建築家の心の中に、永遠に先生は生き続ける。

 ■建築史家、東大教授、鈴木博之さんの話──日本のモダニズム建築の父
 日本の近代建築を真の意味で国際的にした巨人だ。先生に続く建築家が国際的に活躍する、まさにその下地を作った。その意味で、日本のモダニズム建築の父と言っていい。

◆主な作品・業績一覧◆
広島平和記念公園(広島市)1950年
香川県庁舎(高松市)58年
国立代々木競技場<代々木体育館>(東京都渋谷区)64年
日本万国博覧会マスタープラン(大阪府)70年
草月会館(東京都港区)77年
サウジアラビア国家宮殿(サウジアラビア・ジッダ)82年
赤坂プリンスホテル(東京都千代田区)82年
アラビアンガルフ大学(バーレーン・マナマ)88年
パリ・イタリア広場<グラン・テクラン>(フランス・パリ)91年東京都新都庁舎(新宿区)91年
フジテレビ本社ビル(東京都港区)96年


※余談5)
大阪万博での丹下氏は岡本太郎に引け劣らぬ原動力となった立役者のうちの一人だった。おそらく愛知万博直前の死にそうした因縁を持ち出す記事が多発されるだろうが、それはちょっと丹下氏には失礼では?と思ってしまうのは愛知万博をよく知らないから言えることなのか? どーなんでしょ? 愛・地球博(^^;)

※余談6)
BLOG×PROCESS5「世界旅行 Vol.11 丹下 健三」に Google Satellite による代々木国立屋内総合競技場の映像が掲載されてます。一般に建築家は模型でモノを考えてるだろうからこうした俯瞰イメージは思いっきり想定内なんだろうけど、ビジターとしてこういう視点に立つとなかなか刺激的なものです。

そして最後にはなりましたが、丹下氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。拝


by m-louis : March 22, 2005 05:40 PM
trackbacks
March 24, 2005 07:18 AM
余生
excerpt: 丹下健三氏の教え子であった磯崎新氏が,「朝日新聞」3月23日の夕刊に見事な追悼文...
weblog: satohshinya
April 12, 2005 03:33 PM
違いのわかる「建築家」
excerpt: 先週、また巨匠が亡くなられた。  建築家 「清家 清」 この方ほど日本の住宅に影
weblog: ★けんちく家のホンネ。
April 30, 2005 06:42 PM
戦没学徒記念 若人の広場
excerpt: 丹下健三氏設計の「戦没学徒記念 若人の広場」を見に行って来ました。
weblog: あさみ新聞
August 23, 2005 09:59 PM
世界旅行 Vol.11 丹下 健三 
excerpt: 世界旅行 第11弾!! 11回目にして、初の日本の建築です。 前回の記事に予告しましたが今回は、 先日亡くなられた丹下健三設計の 代々木国立屋内総合競技場 です。 グーグルアースでは、こんな感じです。
weblog: BLOG×PROCESS5
comments

TBありがとうございました。
「戦没学徒記念館」とはシブい線をついてきますね。
これは思いつきませんでした。
丹下さんのモニュメンタルなデザインを昇華させていくと、こういうものに行き着くのかもしれません。

丹下健三・藤森照信共著の『丹下健三』はたしかに安い価格ではありませんが、貴重な資料が満載です。
まずは図書館でご覧になって、その価値を判断されるのがよいのではないでしょうか。

by: oyabin304 : March 23, 2005 04:19 PM

書籍「丹下健三」高いっ...
ワタシもとりあえず図書館でとも思ったのですが
もう予約がバッチリ埋まっていました...
没後に騒ぎ始めた一人なんで人のことは言えませんが
生きてるうちに読みたかったです...

by: rattlehead : March 23, 2005 06:00 PM

>oyabin304 さん
「戦没学徒記念館」は本文でも書いてるようにたまたまちょっと前に友人が写真を送ってくれたもので掲載しました。oyabin304 さんが書かれてる「広島ピースセンターの第一期や香川県庁舎のように、鉄筋コンクリートでどこまで細さや軽やかさを出せるかという、ぎりぎりにそぎ落とした表現」といったものの印象が私にはまだ薄いので、これを機に再度見直してみようと思います。というか、いろいろ追悼企画出そうですよね。
本、考えてみると私はこれまで買った本の最高額が『白井芸術の全貌を捉えた 白井晟一 建築とその世界』(世界文化社・¥22,000-)で、ましてや買ったのは古本屋で¥12,000- くらいでした(汗)

>rattleheadさん
図書館、予約埋まってましたか、、人の死って何かときっかけにされますよね。
というか、私はそれを悪いこととは思いませんが、確実に商売道具になってます。

by: m-louis : March 24, 2005 01:00 PM

m-louis 様
こんにちは!初めまして。金平糖と申します。garaikaさんとノアノアさんのblogでお見かけしましてやって参りました。
丹下さん亡くなっちゃいましたね・・調度私も東京都新都庁舎のコンペの頃学生でして、コンペ会場まで足を運んだ記憶があります。

私自身も丹下さんへの印象に「政治家のよう」というものがありました(^_^;)
「丹下健三」を認知した時期には既にビッグな存在でしたのでそのように感じたのかもしれません。やはり新庁舎コンペでは磯崎新氏の方が断然好きでしたね・・
今でも当時特集された「新建築」を保管してあります(笑)
ちょっと自分のブログでもコメントみようかな・・

それにしても撮られた写真が綺麗ですね!
今後も更新楽しみにしております!

by: 金平糖 : March 24, 2005 03:24 PM

m-louisさん、エントリとは全く関係のない件で申し訳ないのですが、どこに書いたらいいのかわからなかったので、ここに書かせてください。

しかももうご存知だったら重ね重ねもうしわけありません。

クロワッサン特別編集版 生活雑貨の本
http://croissant.magazine.co.jp/mook/zakka2005/index.jsp
に「職人の町 谷中界隈」と題して特集がありました。

書店で見つけてこれはm-louisさんにご報告しなきゃ!と急いで帰ってきたのですが、もうご覧になりました?

by: ゆかり : March 26, 2005 01:25 PM
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