2009年06月30日 (火)

アクセス検索ワード2009.06

針江

通常ランク外の「川端」「針江」「滋賀」「琵琶湖」というキーワードがドドッと入り込んできた。これは琵琶湖北西部の高島市新旭町針江地区の川端(かばた)のことがテレビ朝日系列の「素敵な宇宙船 地球号」という番組で<「日本こころの百景」〜其の三 琵琶湖水物語〜>で6月7日に放送されたからだろう。

最初にこの地を取り上げた NHK の番組に較べると軽い作りではあったが、それでもこの素晴らしい集落の持つ力というべきか、懐かしい気持ちで番組を見ることができた。良いのか悪いのかわからないけれども、この集落の水や生き物や人や風景がどれも強烈なキャラクターを持っていて、2ch の実況を追っていると、お!あの川端の鯉!あそこの水車!三五郎さん!といった具合にパーツパーツで盛り上がれてしまう。三五郎さんのことを指してパーツと書くのは失礼かと思いつつも、しかし彼は確実にあの集落の一風景として存在している。まずご健在であるところが見られたのが嬉しかった。

2008年08月27日 (水)

空を川中から眺める

田総川
2008年8月17日 9:53, 広島県庄原市総領町/田総川, SANYO Xacti J4

家づくり、行ったり来たり「雨を下から眺める」にて、garaikaさんはご自宅のガラス屋根に落ちる雨粒がおりなす波紋を眺めながら、「池の中の魚はこのような風景を見ているのだろうかなどと想像」され、雨の週末を楽しむ方向に持って行かれている。何という大人の優雅さだろう(それが「貧乏性」と結びつけられるところがまた面白い)。

それに引き換え、お盆に妻の実家で自分のしてきたことと言えば、何とも子供じみたというか、Google Map のストビューじみた露見趣味である。川の中で魚が見ているだろう風景を、とあるオモチャを使って撮ってきてしまったのだ。

2008年06月30日 (月)

アクセス検索ワード2008.06

harie*F
2006年11月11日 13:25, 滋賀県高島市新旭町, Minolta DiMARGE G400

一宮市博物館で開催された特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」も6月1日を以て無事終了。と終わってみたら、あっという間に「丸井金猊」キーワードは圏外14位に転落。
先月の予感的中で、やはりまだまだ企画あってのものなんだな〜と実感。

その一方で「針江」「川端」と出てきたのは、6月6日に NHK のアンコール放送「ふるさとをもう一度愛せますか〜琵琶湖畔・水を守る農家の6か月〜」があったからだろう。また行きたいな〜。新旭町

2008年01月31日 (木)

アクセス検索ワード2008.01

TM2BH: bicycle waiting
2005.10.24 16:14, 徳島県徳島市(徳島港), MINOLTA DiMAGE G400

無印の家」がランクイン。それにしても最近は近所の100円ショップがどこも充実してしまっているので、無印良品行く機会ってまるでない。まあ、谷中から東京港→徳島→和歌山とフェリーで経由し、和歌山からは漕いで帰った無印の電動アシスト自転車のお世話には日々なっているのであるが‥‥。

2007年02月15日 (木)

戦没学徒記念 若人の広場

Wakodonohiroba, Awaji

仕事の取材だったものの、淡路島に初めて行くことになり、同行取材者にお願いして、ほんのわずかな時間ながら丹下健三が1966年に設計した「戦没学徒記念 若人の広場」を見てくることができた。「若人の広場」は一昨年の3月22日、丹下氏の訃報に接し、「丹下健三氏、没」という追悼エントリーを書いたとき、akanemさんが撮られた写真を借りて感想メールと共に紹介した場所である。あれからもう2年が経つんだなぁ。

by m-louis : 09:00 | comments (7) | trackbacks (0)

2007年01月14日 (日)

ミカンと潮風

総領の義父は数年前から畑の焚き火場脇に種から育てたミカンとポンカンを植え、ワシが生きとる間に育つかの〜と言いながら、その発育具合を楽しんでいる。ただ、義父が言うには冬の寒さの厳しい総領では実を実らすのが難しいばかりか(実際、冬場は防寒用に上の写真のような袋を被せている)、仮に実がなったとしても、甘ない(あもーない)ミカンにしかならんだろうという。

by m-louis : 14:20 | comments (0) | trackbacks (0)

2007年01月05日 (金)

初霜総領

Soryo, Hiroshima

総領に初霜が降りたから「初霜総領」というタイトルにしたわけではない。
毎年元旦明けて2日に帰省する総領で、初めて雪の降らない正月を過ごし、その代わりに初めて霜の降りた田畑を目にする機会を得たので、そういうタイトルになった。

それにしても大阪のアスファルトジャングルに住んでると、霜自体見る機会がまるでなくなってしまった。三鷹に住んでた頃は霜をザクザク踏み潰すのが好きだったのだが、ひょっとして温暖化により、都心部で土のあるところでも霜はもう降りてなかったり?

by m-louis : 09:30 | comments (2) | trackbacks (0)

2006年10月24日 (火)

△▲△▲△△▲▲

Oct 24, 2006 at 15:35 JST

ふだんは所在地・時刻情報等をなるべく正確に記すよう心掛けている谷中M類栖であるが、このエントリーでは写真だけでノーコメントってことで(^^;)

by m-louis : 15:35 | comments (5) | trackbacks (0)

新幹線から低気圧を

10月22日の「雨音と共に終了す」のエントリーでも書いたように、芸工展自体の最終日は終日雨が降り続いていた。ただ、谷中M類栖/1f はその日を片付け日に当てていたので、雨のおかげでどこも出掛ける気にもならず片付け作業に集中できたとも言える。雨が降っていなければ、おそらくは近場で行き損ねていた時夢草庵と午後からしかやっていなかった谷中ホテルを見に行ってしまって、片付け作業も一日で済ませて24日の昼過ぎに帰阪の途に付くこともできなかっただろう。

by m-louis : 15:33 | comments (2) | trackbacks (0)

2006年07月29日 (土)

朝鮮人街道、高麗橋まで

LBGO「近江八幡日帰りの旅・その3」で京街道商店街の丁稚羊羹で有名な紙平老舗のことが書かれているのを読んでいて、お店のご主人から教わった話を一つ思い出した。
それはその商店街のある京街道が近江八幡〜彦根あたりまでにかけて朝鮮人街道とも呼ばれているということについてである。ちょうど市立資料館を出て、商店街へと向かう途中に「朝鮮人街道」と書かれた石碑があり、その脇には近江八幡観光物産協会による以下のような説明書きがなされている。

朝鮮人街道(京街道) 近江八幡観光物産協会江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたと言われています。
行程は、ソウルから江戸までの約2,000キロにもなりますが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれています。
本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行われました。

by m-louis : 17:31 | comments (6) | trackbacks (0)

2006年05月22日 (月)

...RRTE KAIWAIND UND DER TB?

...RRTE KIND UND DER LE...

ドイツ・ワールドカップモードで、このブログでもタイトルドイツ語仕様にしたというわけじゃーありまへん。というか、私はドイツ語にはまるで疎くて、見る人が見れば、すぐにそれがちゃんとしたドイツ語になってないことはバレバレでしょう。

では、何のためのエントリーかというと、冒頭の写真の落書きとタイトルの綴りを較べてみてください。一見落書きを模したかのようですが、部分的に正しくないというか、そこに別の単語(このブログでは馴染みの)が紛れ込んでいることに気づくはず。
そう、このエントリーは一時トラックバックの機能を停止されてられた、masaさんの Kai-Wai 散策に「祝TB復活!」とお試しTB送信しようと思ってたエントリーなのです。ところが結局またスパムの襲来にあったのか、閉鎖してしまったようで(泪)

by m-louis : 17:15 | comments (4) | trackbacks (0)

2006年04月24日 (月)

黄砂の土筆と姫踊子草

Equisetum arvense

総領町帰省中に田んぼのあぜ道で撮った土筆(つくし)の写真を flickr にアップ。
ツクシを「土筆」と書くことを今回文字変換して初めて知った。岩波国語辞典によれば「土手などに筆の形をして生える」と書いてあって、まあ、そのまんまの当て字だ。

長らく土筆を食べた記憶がない。と妻に写真を見せながら話すと土筆のあるところにはおしっこが掛かってることが多いから気をつけた方がよいとのこと。てか、おしっこが掛かると土筆はより一層育ちやすいんだとか?(汗)

by m-louis : 23:52 | comments (2) | trackbacks (0)

2006年04月20日 (木)

耐震強度偽装問題への提言3

このエントリーでは当初、前エントリーの終わりの方で予告していた「より実践的なレベルで免震建築の話をどう耐震強度偽装問題に切り込ませたらよいかについて」書くつもりでいた。しかし、理屈っぽい話ばかりずっと続くと疲れるので、このエントリーはちょっと軽い話題(事例を中心に紹介して)をして閑話休題ということにしたい。

まずこれまで解決案として打ち出してきた免震建築であるが、実際にそれが取り入れられている有名建築を3つほど挙げてみることにする。ちなみにこの3つの建築が免震建築であることを知ったのは、丸激のトークでと多田英之氏の著作によってである。

by m-louis : 23:50 | comments (2) | trackbacks (1)

2006年04月08日 (土)

黄砂の灰塚ダムとコウノトリ

HAIZUKA DAM*yellow dust

灰塚ダム試験湛水」「雪の灰塚ダム」と定点観測化し出した灰塚ダム。
今回は「黄砂の苗代」でも予告したように、ある意味貴重な黄砂の日の定点写真ということになった。この冒頭の写真はまだそれでも視界が開けている方だが、flickr にアップした写真の中には遠方がほとんど見えない写真もある。また広島第6区の民主党議員佐藤こうじ氏の「再起」ポスターだけが近景でくっきり見えてる写真などをご覧いただけば砂塵が如何に舞っていたかが見て取れるはずだ。

それと黄砂ではないが、PHスタジオというアートチームが灰塚アースワークプロジェクトの一プランとして取り組まれていた「船をつくる話」がいよいよ完結(?)したようで、別の船に引かれて展示場所(?)に移動し、お披露目イベントのようなことも行われたようだが、これについてはノータッチだったので、興味のある方はこれまでのリンク先を辿っていただければと思う。

by m-louis : 15:51 | comments (2) | trackbacks (0)

2006年03月11日 (土)

赤穂と日生〜古さ考

最近にわかに温泉&城めぐり趣味を持った妻に付き合って青春18きっぷで赤穂日生に日帰りで行った。赤穂は言うまでもなく赤穂浪士と塩田の有名な城下町で、赤穂城跡と赤穂温泉の宿「潮彩きらら 祥吉」を中心にレンタルサイクル(1日200円)で回った。
個人的に赤穂浪士や忠臣蔵に特に思い入れがないので、感慨を持っての観光は難しい。加えてこの日、天気予報では日中20度近くまで気温が上がるということだったのに、実際は物凄い濃霧で気温がまるで上がらず、春の装いで寒空のもとをチャリで風を切って走らなければならないという、非常に苛酷な一日となってしまった。

by m-louis : 10:00 | comments (7) | trackbacks (1)

2006年03月06日 (月)

蟻鱒鳶ル初見学

Arimaston Building

岡土建と無印良品の家」「「家」の選択肢」などでも取り上げてきた岡啓輔氏の自邸セルフビルド「蟻鱒鳶ル」の現場をようやく見に行った。ミクシィ非公開コミュニティ「蟻鱒鳶ル現場報告」でおおよその近況はわかっていたが、やはり土が見えているうちに一度は敷地を確認しておきたいと思い、岡さんとの面識もある野次馬CT氏を誘って
三田まで出掛けたのである。場所は普連土学園という女子校の真ん前。この情報だけあれば、誰でも場所の見当は付けられるだろう(※1)

by m-louis : 16:00 | comments (5) | trackbacks (2)

2006年03月05日 (日)

久々富士山

Mt.Fuji

横浜への出張で新幹線のぞみに乗車。久々に晴れ間の富士山を見た。
家づくりを終えて東京方面へ行く機会がめっきり減ったせいもあるが、しかし、東海道を通って富士山の姿にお目に掛かれる確率って30%くらいしかない気がする。まあ、私の移動している時間帯が暗いときが多いせいもあるのだろうが。。

by m-louis : 10:29 | comments (5) | trackbacks (1)

2006年02月12日 (日)

景観喚問

あさみ新聞でシリーズ化している「悪い景観100景を考え直す」のエントリー。
実は先日からこのブログでも何か書こうと思ってアレコレ書き留めてはいるのだが、どうもエントリーするまでには至れない。すでに検索すれば「悪い景観100景」を公表した「美しい景観を創る会」に対する批判的エントリーは山ほど出てくるし、今更その組織とテーマに対する批判をこのブログでやってても生産的ではない気がする。

ところでヤフーで「悪い景観100景」を検索すると、その4ページ目に「景観100景」というブログがヒットする(2006年2月12日現在)。このブログ、どうやら「悪い景観100景」で取り上げられた情報をまるごとコピーして、コメント+トラックバック歓迎の体制を取って行こうとしているもののようである(作者不明)。
実は最近、ブログの可能性というのは情報発信のそれと同時に情報の受け皿としての機能も重視すべきと考えているのであるが(っていうか、実は一つお仕事でもうそういうことしてるし、阪急コンコースのブログだってある種その路線だし)、このブログも云わばその延長線上のブログと言える。

で、現実を見れば「美しい景観を創る会」も最初からこの仕組みを作ってしまっていれば、そんなに全体枠としての批判を受けることもなかったろうし、純粋に一個一個の個別事例に対して、賛否両論をデータベース化して行けたのだ。その意味で考えるならばこの「景観100景」というブログは「美しい景観を創る会」に対する嫌がらせとして存在しているのではなく、むしろ真性のフォロー部隊と言ってもよいのではないか?

by m-louis : 23:55 | comments (0) | trackbacks (0)

2006年01月12日 (木)

鹿島焦土

KASHIMA STEELWORKS

この写真は中欧旅行の行きの飛行機、成田を飛び立ち北上して程なく眼下に見えてくる光景である。場所は鹿島港の入口で鹿島発電所、鹿島石油、住友金属工業鹿島製鉄所等がある。最初にそれが目に入ってきたとき、その色彩に目を奪われた。

地面が焦げている。

私は自分でさほど「廃墟フェチ」の嗜好性が強い方ではないと思っているが、それでもこうした凄惨な場所に好奇の目が向くことを隠すことはできない。というか、この場所は決して凄惨な場所ではなく、人が働いている工業地帯なのだ。

by m-louis : 02:37 | comments (2) | trackbacks (0)

2006年01月03日 (火)

雪の灰塚ダム

HAIZUKA DAM*snowing

毎年正月は元旦を大阪で過ごして2日から何日間か妻の実家・総領町に帰省する。
例年であれば、そこで義父と初釣りとなるのだが、去年8月に「灰塚ダム試験湛水」で紹介した灰塚ダムがいよいよ完成間近となり、釣りポイントも激減してしまったため、今年は釣りはやらずにダム見学となったのである。というわけで「灰塚ダム試験湛水」でアップしたのと同じハイヅカ湖畔の森のコテージから雪景色の灰塚ダムを撮影。
今後も定点観測はしていくことになりそうである。

by m-louis : 14:36 | comments (0) | trackbacks (0)

2005年12月09日 (金)

NHK『大阪のこれから』にて

051209_kirameki.jpg旧阪急梅田駅コンコースの話題がさらに続きます。
大阪日日新聞にて」のエントリーでは触れませんでしたが、新聞取材に同行してもらった活動有志メンバーの一人であるのりみさんが NHK総合 で12/9(金) 19:30から放映される『大阪のこれから──皆で話そや "街づくり"』という生放送番組に参加されることになりました。
その詳細・経緯はこちら

のりみさんについては今回の大阪日日新聞の記事後半部で「手塚治虫ゆかりの地」としてコンコースとの関係が語られ、また4月に同新聞の「街を奏でる人」で取り上げられた記事の方には詳しいプロフィールが出ています。
まあ、何はともあれ、とにかく「超」の付く手塚治虫マニアの方です(笑)
あと、右上のような日本画を描かれる方でもあります。何とも不思議な繋がり。

by m-louis : 19:30 | comments (0) | trackbacks (1)

2005年08月15日 (月)

灰塚ダム試験湛水

HAIZUKA DAM TESTING

この画像は見る人が見るとそれなりにショックの大きな画像のはずだ。
広島県北の山間部で進行する洪水調整用のダム建設計画に伴い、<ダム周辺環境整備にかかわる広大なエリアを、自然と文化の調和した永続的な魅力を持った「環境美術圏」にさせていく試みとして>1994年から2002年まで灰塚アースワークプロジェクトなるアートプロジェクトが行われていた。1995年に初めてそのプロジェクトに参加した私は1998年からは Web構築係として関わっていた(実はコンテンツのベースとなる部分が1998年当時作ったもののまんまなんで、URL 晒すのはかなり恥ずかしいんですが...モニタサイズ 800×600 照準で作られちゃってるし)。

プロジェクト参加当時はここにダムなんてホンマに出来るんかい?という暢気なものだったが行政のハード事業というのはよほどの反対でもない限り、スケジュール通り着々と進んでいくもので、当初から予定された2006年には灰塚一帯は完全にダムの底に沈むことになりそうだ。というよりも、写真で見てわかるように2005年夏の段階で試験湛水も行われ、ダム機能は貯水を待つばかりの状況なのだ。

ちなみにアースワークプロジェクトの方はダムのまたがる三良坂町・吉舎町・総領町の3つの町が全国規模で広がる市への合併の波に呑み込まれ、それぞれ管轄が自立できなくなってしまったため、2002年を以て一旦休止状態になってしまった。その後、NPO 化の話なども出ているのだが、今のところはっきりとした動きは見えない(ただ、事務局が Web を残しておく意志だけは持っているので、今後何かしらの展開が期待できないこともないだろう)。

by m-louis : 15:39 | comments (2) | trackbacks (0)

2005年07月02日 (土)

高過庵とスナフキン

TAKASUGI-ANまず「高過庵」へこれから行ってみたいと思っている人たちのために書いておく。
高過庵に行くには「神長官守矢史料館」を目指せばよい。茅野駅から「宮川高部の〜」とでも言い添えてタクシー運転手に話せば、大抵のタクシーは連れて行ってくれるはずだ。ただ、宮川高部で帰りのタクシーを拾うのは難しいかもしれないので、待機してもらうか事前にタクシー会社の電話番号を控えておいた方がよいだろう。

そして高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えないが(※1)、史料館右手30m先くらいのところにある舗装された道に出れば、山の方にぽつんと浮かび上がってるのが確認できるはずだ。または史料館で場所を聞けば、説明好きな館長さんがいつでも気さくに教えてくれることだろう。私たちに対してもそうだったが、ネット上でも館長さんの親切な人柄については多くのサイトで触れられている。

JINCHOKAN MORIYA HISTORICAL MUSEUMちなみに母と私は史料館に来るのは2回目。
ところが諏訪在住の善n叔父さんはこうした施設があることすらご存知なく(後でお会いした奥様は学校の先生をされてるだけに知っていたが、地元ではあまり知られていないのだろうか?)、それで高過庵に向かう前にまずは史料館に入館した。そこで館長さんから高過庵の場所を聞いて、上記のように舗装道路に出て行くか(車でも行ける)、あるいは畑の中を強引に直進するかの方法を教わった訳だが、ここは年配者二人に合わせて舗装道路迂回順路で行くことになった。

ところで「そんないざ行かん!」とする直前に私は史料館の中で高過庵の姿を見つけてしまったのである。
何と!高過庵は史料館のトイレから窓越しに見えるのだ♪
人見知りがちで、高過庵の場所を誰にも聞く勇気が持てない人(世話好きの館長さんと話さないということの方が難しそうだが)とか、窓越しの写真を撮るのが好きな方は、用がなくともまずは史料館でトイレに入ることをオススメしておく。

2005年06月30日 (木)

神長官守矢史料館とトンボ

JINCHOKAN MORIYA HISTORICAL MUSEUMさて今回、墓参りと土地処遇問題で諏訪までやって来たわけだが、「諏訪」といえばやっぱり御柱祭であり藤森照信である。
下諏訪出身の伊東豊雄氏もいるが、「ザ・スワ」の建築家と言ったら藤森照信氏以外思い当たらない。
そこで今回の訪問でもし時間の都合が付くならば、以前に「藤森照信: スロー建築のススメ」のエントリーで番組宣伝だけしてそのままになってた「高過庵」を見に行ってみたいと思っていたのである。そして幸運にも善n叔父さんが車を回してくれることになり、泰n叔父さんを一旦自宅まで送ってから3人で探しに行くことになった。「探す」というのは住所レベルの個人情報まではネット上に出ていないので、あさみ編集長から教わった「神長官守矢史料館のそば」という情報を頼りに自分たちで探すしかなかったのである。

尚、本エントリー、焦らすつもりはないのだが、先にその藤森照信氏の処女作「神長官守矢史料館」について触れておきたい。といっても史料館の概要・解説はすでにネット上に幾らでも転がってるので(※1)、ここではあくまで個人的な雑感のみ。

050618_moriya.jpg

まず私がここに来たのは2度目である。2000年にも妻・母・妹と墓参りついでで来ていて、ところがそのとき私はデジカメを持っていなかった。だから当時、母がコンパクトカメラで撮ったスナップ写真と今回自分で撮ったデジカメ画像を見較べているのだが、外壁に張られたサワラの割板の色にそう変化は感じられない。ところが『藤森照信野蛮ギャルド建築』(TOTO出版・¥1,800-)に掲載された1991年竣工時の写真と見較べると劇的に違う。経年変化がいつ頃はっきり現れるのかが気になるところだ(というのも、うちもいずれは軒下の杉板甲板が黒くなるって豊田さんに言われている)。

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2005年06月27日 (月)

Google Satellite

050628_yanakamap.jpg

ポリタン・コスモでも紹介されてる Google Maps BETA 版
その Satelliete って機能が何とも不気味なのだが、ついグルグル色々見てしまう。
まだ衛星画像の詳細度に地域格差があって、私の住んでる大阪なんかだと自分の家までははっきり確認できないが、谷中の敷地はほぼどこだか特定できた。
ただ、そこが空き地のように見えるということは実は何年か前の画像なんだろうか?
でも、富士山なんかは如何にも今の季節って感じの色合いなんだよな〜。

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2005年06月17日 (金)

諏訪の油屋旅館と辰野の蛍

6/17(金)、18(土) と長野の諏訪に行ってきた。
主な目的は母方祖父母&大叔父の墓参りと私名義の土地の処遇について。土地の件は宅地山林が少し離れたところにあるので、それぞれ別個にエントリーしていきたい。
このエントリーでは到着当日の旅の余話を二つばかり。翌日にももう一つ余話はあるんだけど、そっちは建築絡みのとっておきの話なんで土地関連話のあとに単独エントリーさせるつもり(あさみ編集長さんはたぶんその内容が想像できるはず)。

050617_1403_aburaya.jpg

で、一つ目の余話は諏訪と云えばの温泉&旅館談義。
これまで法事絡みで諏訪に行くときの宿泊地はたいてい親任せか妹任せでホテルに泊まることが多かったのだが、今回は私と母の二人だけなので私がネットで探すことになった。それで選んでみたのが諏訪では老舗の油屋旅館
各種料理の付いたコースプランで申し込むとそれなりのお値段になってしまうのだが、素泊まりだと4200円〜。2名一室利用の場合で一人4725円。これだとその辺のビジネスホテルよりも安い。その上、展望露天風呂「天空の湯」までが付いてくる。

そんなわけで迷わず利用してみたのだが、これが想像してた以上によかった。
部屋はトイレ・バス付きの十畳和室だった。老舗だけに古いといえば古いが、ロビーで休憩してれば茶菓子が出てくるし、中庭は綺麗に手入れされてるし、何と言っても従業員の持てなしの気持ちがこちらに伝わってくる。それで5000円以下というのはかなりのお買い得だろう。そして「天空の湯」。午後5時と朝7時の明るいときにしか入らなかったので夜景は見られなかったが、諏訪湖と北アルプスが一望できて非常に気持ちよかった。縁の部分に落下防止用のアクリル板が入っているのだが、それがなければもう一つ気持ちよかったろう。自己責任ってワケにはいかないものか?(^^;)

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2005年06月14日 (火)

清水の追分羊かん

050614_oiwake.jpg

実家から送られてきた荷物に「お隣の一乗寺さんからいただいた品」と開封済みの包みに添え書きされた「追分羊かん」なるものが入っていた。どこかで名前を聞いたことのあるようなないような、包みの裏を見ると今年の4月から静岡市に吸収合併された清水(現在は静岡市清水区)の銘菓とある。
ということは『ちびまる子ちゃん』で知ってるのか?と思い、「追分羊かん ちびまる子ちゃん」で検索すると、作者のさくらももこが大好物であり、また映画原作特別描き下ろし『ちびまる子ちゃん──大野君と杉山君』の表紙に「追分羊かん」のお店の絵が描かれていることが判明。
ちびまる子ちゃん』全巻揃えてるだけに、それで朧気に覚えてたというわけか。

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2005年06月13日 (月)

倉沢集落@奥多摩スリル

050524_okutama.jpg

豊田さんの誘いで、坪庭開拓団主催の奥多摩山歩きに参加した。
案内役はランドスケープアーキテクトの河合さん。他、河合さん繋がりの学生さん数名に今回初めてお会いした初音すまい研究所の手嶋さんの奥さん、そして毎度の私の旧友CT氏と総勢13名で奥多摩駅9時過ぎ集合。山歩きは実質10時のスタートとなった。

登山道入口の階段には「倉沢のヒノキ」と書かれていて、30分も歩かないうちにちょっと独特な積み方をされた石垣の上に聳え立つヒノキの木が現れる。幹周6.3m、樹高約33m、推定樹齢600年(伝承1000年)。東京都指定天然記念物に指定されている御神木である。こういうものを見るとついエロい想像力しか働かない私なのであるが、行く行くこの木が私たち一行の守り神となるのである。その話はまた後ほど。

そこから10分と歩かぬうちに人の住んでるらしき家が1軒谷側に見えてくるが、その先には全壊した木造住宅がすでに自然に呑み込まれつつある。そして山側に目を向けるとそこには倉沢集落と言われる数十棟の廃屋が階段状にポツポツと立っていた。
倉沢集落については検索でいろいろ見つかるので手短なものを一つ引用しておく。

アルプス登山の玄関口 笠井家「奥多摩・倉沢集落 古来、炭焼きを生業とした山村集落。昭和30年代、石灰鉱山の社宅が造成され、最盛期は数十の家庭が暮らしていた。  その後、鉱山の衰退に伴い住民は離散。現在は、95歳のお爺さんが一人だけ暮らしている。つまり、たたずまいは廃村であるものの、れっきとした住宅街である。

050524_kurasawa.jpg建築系の学生が多いので、しばらく見学&撮影タイム。廃墟フェチの人には溜まらない場所であろう。学生時分に廃墟ブームなるものがあり、一通りその手の特集記事は目を通していた私だが、昔のように廃墟をスタイリッシュに捉えようとする視点はいつの間にか自分の中から抜け落ちていた。台所がどこにあり、水汲み場や公衆浴場がどのような位置にあるのか生活動線を気にしながら、そこで人々が生活していたときの暮らしを意識する。この思考は遺跡においても同様で、家づくりをしたからそういう見方になったのか、それとも歳を取ったからなのは自分でもよくわからない。ただ、いずれにしても廃墟や廃屋を「廃墟」とカッコに括って見るような見方をしなくなってしまった。むしろそれは「家」であり「建物」のままなのだ。

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2005年05月21日 (土)

橡の家−特別見学会

朝妻さんがプロデュースする「橡の家−特別見学会」に行ってきた。
場所は東京世田谷の梅丘。学生時代の友人Nノが住んでることや、「新釈肖像写真」で写真撮影に来られた清真美さんが2003年にグループ展をやっていたので多少は知っている街である。ただ、それらは共に北口にあり、梅丘の南口側を歩いたのは初めてであった。

もちろんどこを通るかでも街並みは全然異なるのだろうが、とりあえず案内に出ていた地図で「橡の家」までを最短距離で歩いてみると、何とも驚くべきことにそこに辿り着くまでの通りは「建築家住宅(by 大島健二)」が雨後の筍状態で軒並み林立している地帯であった。所謂「郊外」というほど都心から離れてもいない梅丘は新興住宅地にはなり得ない。むしろ古くから住んでいた住人が代替わりして、予算もそこそこある若いオーナーが家を建て替えるなら建築家と!という傾向になってるのだろう。

約束の時間に遅れ気味だったので、そんなにじっくりとは見てはいないのだが、ただ、これ以上「建築家住宅」が増えるとそれは壮観というよりはややもすれば食傷気味とでも言いたくなるような街並みに堕するのではないか?という懸念も感じられた。本来、周辺環境に馴染ませるなり溶け込ませるなり取り込むなりというのは多くの建築家の得意とするところだろうが(それどころかそれは家づくりの前提条件と言えよう)、周囲が「建築家住宅」だらけになってしまったらどうなるのか?──今の建築家ブームが今後も続くのであれば、そんな悩みの生まれる日もそう遠くはないのかもしれない。

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2005年03月22日 (火)

丹下健三氏、没

一酔千日戯言覚書2「丹下健三さんが亡くなりました」にて日本建築界の重鎮・丹下健三氏の訃報に接する。それを読んだ時点でまだニュースサイトにその情報は出回ってなかったが、それからしばらくして「建築界リード 丹下健三氏死去」という見出しでヤフーのトップニュース扱いとなっていた。91歳だったという。

丹下氏の存在は私にとっては必ずしもその輝かしい功績と符合するものではない。80年代末、東京都新都庁舎計画で当時一番背高ノッポのツインビルプランでコンペを勝ち取った丹下氏の存在は学生だった私の目には政治家の腹黒いドン(金丸信にもちょっと似てたし)のように映っていた。むしろ当時の私は周囲の副都心高層ビル群よりも低い庁舎計画案を出した磯崎新氏のプランの方に惹かれていたものだ。

だが、学生時代の青臭さが抜け、ポストモダン建築よりも近代建築に魅了されるようになってからは、少なくとも公共建築に関してはやっぱり丹下の方が磯崎より全然すげーやと思うようになっていたのである。それには時代背景による素材=経済感覚の違いもあるのでやむを得ないところもあるのだが。。
当時、東京にいた私は一度ライブで代々木・国立屋内総合競技場に行ったことがあるのだが、そこがオリンピックプールとして使われていたのかと思っただけで背筋がゾクッとしたものである。建築で武者震いする経験って他に国内で思い出せるのは白井晟一の作品群くらいのものである。

ところで私は大阪に住むようになってまだ淡路島には行ったことがないのだが、先月たまたま友人の akanem 氏から淡路島南端の「若人の丘」に建つ丹下作の戦没学徒記念館に行ってきたというメールをもらった。上記掲載写真は彼女が撮ってきた記念館の写真。私も花粉が飛ばなくなった頃にでも行ってみたいものだ。以下に彼女からのメールにあった訪問時の感想を一部転載しておく。

by m-louis : 17:40 | comments (5) | trackbacks (4)

2005年03月12日 (土)

garaika 邸探訪: 紀行編

昨秋、庭づくりで組むための石が足りなくなり「石 求ム!」という冗談のようなエントリーをしたことがあった。野次馬後見人のCT氏からもそんな募集告知に応じる奇特な人間いるのか?とからかわれていたのだが、それにコメント付けて来られたのが当ブログでは初コメントとなった「家づくり、行ったり来たり」の garaika さん。
尤も「石アリます」のコメントではなく「拾ってくるというのはダメですか?」というアドバイスではあったのだが、石ってもんはやはり投げてみるものである。コメントを受けた直後に私はCT氏に「garaika 氏、どういう人かはよーわからんが、ブログ結構おもろい」というメールを送信している。実を言うとそれまでの私は自分で施主ブログをやっていながら、rattlehead 氏を唯一の例外として(今でもその存在自体例外的ですが)、あまり余所の施主系ブログを「はてなアンテナ」に登録してまで購読するような施主ではなかったのである。

さて、あまり前置きをだらだら続けると garaika 邸オープンハウスのレポートを待ち望む garaika ファンの施主ブロガーの皆様をヤキモキさせるだけでしょうから、今回のエントリーは「紀行編」として訪問時の事象に限定し、次回を「心象編」として冒頭の話とも結びつけながら、訪問して以降に頭の中をぐるぐる回り続けている由無し言へと論を展開させて行きたい。尤も叙事と叙情を分離記述させる技量が私にあるかという点で甚だ疑問な船出ではあるが、、それは臆せずということで、いざ、進水!

by m-louis : 14:10 | comments (4) | trackbacks (1)
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