2009年06月30日 (火)
通常ランク外の「川端」「針江」「滋賀」「琵琶湖」というキーワードがドドッと入り込んできた。これは琵琶湖北西部の高島市新旭町針江地区の川端 (かばた)のことがテレビ朝日系列の「素敵な宇宙船 地球号」という番組で<「日本こころの百景」〜其の三 琵琶湖水物語〜 >で6月7日に放送されたからだろう。
最初にこの地を取り上げた NHK の番組に較べると軽い作りではあったが、それでもこの素晴らしい集落の持つ力というべきか、懐かしい気持ちで番組を見ることができた。良いのか悪いのかわからないけれども、この集落の水や生き物や人や風景がどれも強烈なキャラクターを持っていて、2ch の実況を追っていると、お!あの川端の鯉!あそこの水車!三五郎さん!といった具合にパーツパーツで盛り上がれてしまう。三五郎さんのことを指してパーツと書くのは失礼かと思いつつも、しかし彼は確実にあの集落の一風景として存在している。まずご健在であるところが見られたのが嬉しかった。
軍艦アパート 5.7% 川端 4.4% 針江 3.4% 上棟式 3.2% グヤーシュ 2.1% 滋賀 1.7% 谷中 1.5% 琵琶湖 1.3% 高過庵 1.1% 臭突 1.0%
先月(2009年5月)の解析結果はこちら から。
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2008年08月27日 (水)
2008年8月17日 9:53, 広島県庄原市総領町/田総川, SANYO Xacti J4
家づくり、行ったり来たり「雨を下から眺める 」にて、garaikaさんはご自宅のガラス屋根に落ちる雨粒がおりなす波紋を眺めながら、「池の中の魚はこのような風景を見ているのだろうかなどと想像」され、雨の週末を楽しむ方向に持って行かれている。何という大人の優雅さだろう(それが「貧乏性」と結びつけられるところがまた面白い)。
それに引き換え、お盆に妻の実家で自分のしてきたことと言えば、何とも子供じみたというか、Google Map のストビュー じみた露見趣味である。川の中で魚が見ているだろう風景を、とあるオモチャを使って撮ってきてしまったのだ。
そのオモチャとは DiCAPac なるコンデジを透明のビニールケースに入れて水中撮影が出来るというもので、価格は4000円弱。うちでは妻が使っている SANYO Xacti J4 がムービーも割とキレイに撮れるので、対応表 に掲載されていないにもかかわらず、WP711 というレンズ用突出部分のないケースを購入。カメラをケースの上側にぴっちり詰めるようにすれば、何とか使えた。しかし、ちょっとでもズレるとレンズ部分にレンズ用窓枠がかぶってしまう。あの窓枠、もっと大きく設計できないもんなんだろうか?
2008年8月17日 9:53, 広島県庄原市総領町/田総川, SANYO Xacti J4
それと J4 はモニタが小さい上に、DiCAPac のビニールケースが水中では角度によってテカってしまって非常に見づらい。てなわけで事実上ほとんどノールックの目測撮影をするしかなかった。そうなると捉えきれる魚は群れなして泳いでいる稚魚か、川底を這っているヨシノボリ に限られる。ダボハゼとも言われるヨシノボリは、三鷹での少年時分、井の頭公園で赤虫かベニサシを餌に一番小さな釣り針を使ってよく釣っていた。彼らの愛嬌ある顔と動きは大人になってから懐かしく見飽きることがない。
2008年8月17日 9:51, 広島県庄原市総領町/田総川, SANYO Xacti J4
他方で群れなす稚魚は割と水面すれすれのところを泳いでいる。そこでこちらは完全にノールックでカメラを上に向けて撮影すると、稚魚以外にも冒頭の写真のような思わぬ光景が撮れるということに気づいた。要するに水中からの空と川の縁の写真である。もちろん川泳ぎをしているときにも目にしているはずの光景ではあるのだが、水の屈折によってか魚眼レンズを覗いているような写真が撮れる。そして、ここで Wikipedia で「魚眼 」を調べてしまうと、ストビュー以外にも地味に Google Map に搭載されていた「その他」機能とほとんど変わらないことを演じていることになるのである。
ちなみにムービーで撮るとこんな感じ。
Tabusa River from m-louis on Vimeo .
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2008年06月30日 (月)
2006年11月11日 13:25, 滋賀県高島市新旭町, Minolta DiMARGE G400
一宮市博物館で開催された特別展「いまあざやかに 丸井金猊展 」も6月1日を以て無事終了。と終わってみたら、あっという間に「丸井金猊」キーワードは圏外14位に転落。
先月 の予感的中で、やはりまだまだ企画あってのものなんだな〜と実感。
その一方で「針江」「川端」と出てきたのは、6月6日に NHK のアンコール放送「ふるさとをもう一度愛せますか〜琵琶湖畔・水を守る農家の6か月〜 」があったからだろう。また行きたいな〜。新旭町 。
軍艦アパート 6.5% 田植え 4.0% 谷中 1.6% 上棟式 1.4% 臭突 1.3% グヤーシュ 1.2% 無印の家 1.1% 針江 1.1% 山門不幸 1.0% 川端 0.9%
先月(2008年5月)の解析結果はこちら から。
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2008年01月31日 (木)
2005.10.24 16:14, 徳島県徳島市(徳島港), MINOLTA DiMAGE G400
「無印の家 」がランクイン。それにしても最近は近所の100円ショップがどこも充実してしまっているので、無印良品行く機会ってまるでない。まあ、谷中から東京港→徳島→和歌山とフェリーで経由し、和歌山からは漕いで帰った無印の電動アシスト自転車 のお世話には日々なっているのであるが‥‥。
軍艦アパート 9.2% 上棟式 2.2% 遊郭 1.7% グヤーシュ 1.5% 谷中 1.4% 無印の家 1.3% 写真 1.2% 臭突 1.1% 山門不幸 0.9% 板塀 0.8%
先月(2007年12月)の解析結果はこちら から。
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2007年02月15日 (木)
仕事の取材だったものの、淡路島に初めて行くことになり、同行取材者にお願いして、ほんのわずかな時間ながら丹下健三が1966年に設計した「戦没学徒記念 若人の広場」を見てくることができた。「若人の広場」は一昨年の3月22日、丹下氏の訃報に接し、「丹下健三氏、没 」という追悼エントリーを書いたとき、akanemさんが撮られた写真を借りて感想メールと共に紹介した場所である。あれからもう2年が経つんだなぁ。
取材前日、日の暮れかかった頃 に宿泊先の休暇村南淡路 に到着し、その晩はまさかそのホテルから見えるとは思っていなかったのだが、翌朝、日の出 前に部屋の窓から外を見やると、福良港を挟んだ向かいの大見山に▲のシルエットがぽっかりと浮かび、こりゃ尚更行かずんばなるまいという気にさせてくれたのだった(偶然にもホテルから近いところにあったおかげで行かせてもらえたとも言える)。それにしても早朝の福良港で漁船が先を争うように出航していく様子 は、眺めていてなかなか楽しいものがあった。
しかし、肝心の若人の広場に関しては、本当に短い時間に早足で一通り見て回るだけで終わってしまったので、あまり感想らしい感想を書く気にはなれない。というか、2年前に akanemさんから借りた感想メール以上の言葉を自分では見つけられないというのが正直なところ。私が見せられるものといえば、これも早足のため雑にしか撮れてはいないのだが、2月始めの朝の若人の広場の空気を伝える写真くらいだろうか。
ただ、幾つかのブログで丹下さんがこの記念館のことを公表しなかったという情報に触れ、それがなぜかということを知りたくなったので、「丹下健三氏、没 」のエントリーでも余談で紹介した¥28,500- の大著: 丹下健三・藤森照信著『丹下健三 』を閲覧しに天六の住まいのミュージアム・情報プラザ まで行ってきた(やはり買えん>汗)。
すると、当時の設計担当だった神谷宏治氏と藤森氏が1998年に行った談話が掲載されていて、それによってなぜ丹下氏が公表を拒んだのかの理由を伺い知ることができた。その談話部分のみ抜粋することにしよう。
神谷:あの施設の主体は動員学徒援護会という文部省傘下の財団法人で、戦没学徒を記念し慰霊するというわけだから、丹下さんは意気込んで設計したわけです。いよいよ完成して引き渡し、そのオープンの記念式典の案内状が届いた。主催者として記されていた名前は、岸信介、奥野誠亮など、いずれもいわゆる右翼と呼ばれるような戦中に指導的な地位にあった政治家です。当日、岬の下を自衛艦が航行し、観閲式もある、と書いてある。全く予想もしてなかった内容だけに、丹下さんは“私は行かない”といって、オープンの式典に欠席です。だから、発表もされずじまいでしたね。
なるほど政治的背景によるものだったのかという感じで、しかし、それによって公表の機会まで自ら取り消すというのは、当時の思想的な時代情況もあったのかもしれないけど、やはり「学徒として戦争に‘生き残った’丹下」氏の直接的な個人体験がよほどの怒りへと繋がっていったのだろう。
ただ、「家づくり」という経験を通して、建築家の意志(魂)よりも、その建物がその建物として姿形を変えながらも逞しく生きていくその住/築歴(霊)を重んじるようになってしまった私としては、仮に岸信介の孫の安倍晋三が主導することになろうとも、この広場の復興(そして学徒のともしびが消えないこと)を願うばかりである。
【参考リンク】
・動員学徒記念 若人の広場復興委員会
・神戸観光壁紙写真集:戦没学徒記念 若人の広場 壁紙写真
・JANJAN:廃墟になった「戦没学徒記念若人の広場」 (2005.06.21)
・ポリタン・コスモ:戦没学徒記念館_by_丹下健三 (2005.01.08)
・あさみ新聞:戦没学徒記念 若人の広場 (2005.04.30)
・ALL-A:戦没学徒記念館 若人の広場01 (2006.2.14), 02 (2.15), 03 (2.17)
・東海秘密倶楽部: 未だ消えず、阪神淡路大震災の傷跡 〜戦没学徒記念 若○の広場〜 前編 /後編
・おとなしやにっき。: 戦没学徒記念 若人の広場 (2007.05.02)
【写真】2007.02.05 09:00前, 兵庫県南あわじ市・戦没学徒記念 若人の広場にて
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2007年01月14日 (日)
総領の義父は数年前から畑の焚き火場脇に種から育てたミカンとポンカンを植え、ワシが生きとる間に育つかの〜と言いながら、その発育具合を楽しんでいる。ただ、義父が言うには冬の寒さの厳しい総領では実を実らすのが難しいばかりか(実際、冬場は防寒用に上の写真のような袋を被せている)、仮に実がなったとしても、甘ない(あもーない)ミカンにしかならんだろうという。
その理由は潮風にあるのだそうだ。ミカンは不思議と潮風を受けることによって甘みが増すものらしい。思えば名産地とされる、愛媛、和歌山、静岡と皆、潮風をたっぷり受けることが出来そうな立地ばかり。総領町の属する広島県にも「大長みかん」というブランド商品があるにはあるが、それらはいずれも瀬戸内海に浮かぶ群島で生産されている。総領のような中国山地の山奥とは縁遠い世界である。
ところでミカンと潮風の関係を調べようと「みかん 潮風」でググっていたら、山口の「周防大島ドットコム 大島みかん白書 」というページが出てきて、そこで紹介されてる絵には大いに笑わさせてもらった。そういえば父の第二故郷となる山口の萩でも土塀に囲われたミカンの木を見た記憶が残っている。そこは日本海の潮風ということか。。
【写真上】2006.01.05 14:20, 広島県庄原市総領町・妻の実家の畑にて
【写真下】2001.12.06 12:05, 山口県萩市にて
【追記】ミカン話でもう一つ思い出したので追記。実家にいた頃って冬になるといつもミカンの入った箱があって、とにかく無造作にというか、ワケもなく無闇にミカンを貪り食っていて、それでも箱の底の方にあったミカンは腐っちゃうという感じだった。それは妻も同じだったと言う。しかし現在、我が家にミカンがあったとしてもそれは他の菓子類同様に貴重品で、常に個数平等、同じ時に食べる代物という風になってしまっている。ミカンが不自由なく食べられるくらいの生活力を持ちたいものだが。。
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2007年01月05日 (金)
総領に初霜が降りたから「初霜総領」というタイトルにしたわけではない。
毎年元旦明けて2日に帰省する総領で、初めて雪の降らない正月を過ごし、その代わりに初めて霜の降りた田畑を目にする機会を得たので、そういうタイトルになった。
それにしても大阪のアスファルトジャングルに住んでると、霜自体見る機会がまるでなくなってしまった。三鷹に住んでた頃は霜をザクザク踏み潰すのが好きだったのだが、ひょっとして温暖化により、都心部で土のあるところでも霜はもう降りてなかったり?
2006年10月24日 (火)
ふだんは所在地・時刻情報等をなるべく正確に記すよう心掛けている谷中M類栖であるが、このエントリーでは写真だけでノーコメントってことで(^^;)
【追記】2007年1月12日に再び撮影した写真に興味深いモノが写っていたので追加。
棟上げ前後と覚しき2棟の建物は果たしてどのようになっていくのか?
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10月22日の「雨音と共に終了す 」のエントリーでも書いたように、芸工展自体の最終日は終日雨が降り続いていた。ただ、谷中M類栖/1f はその日を片付け日に当てていたので、雨のおかげでどこも出掛ける気にもならず片付け作業に集中できたとも言える。雨が降っていなければ、おそらくは近場で行き損ねていた時夢草庵 と午後からしかやっていなかった谷中ホテルを見に行ってしまって、片付け作業も一日で済ませて24日の昼過ぎに帰阪の途に付くこともできなかっただろう。
そんな秋雨を降らす原因となっていたのが、関東南岸を通過していた低気圧である。帰りの新幹線ではこの低気圧の影響で低い雲が物凄い勢いで動いていて、窓の外を見ていて全然飽きなかった。車両の左右でも全然雲行きは違うし、トンネル一つ抜けると空の様子が一変したりする。8月8日エントリーの「cloud 88 」では台風の影響で東京でも大阪でもブログ騒然の空となっていたことは触れたが、この日の空の面白さはその形よりも変容ぶりの方にあったので、ブログでそれを言及するとしたらおそらくは日中に新幹線に乗っていた者だけに限られるだろう。
冒頭の写真と以下の写真は小田原より少し前あたりを走っていたときに撮影したものでその時間差はたったの1分しかない。共に太平洋側の車窓を撮ったものだが、空の様子はたったの1分でこれほど違ったのである。雲の低さも伺えるはず。
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2006年07月29日 (土)
LBGO「近江八幡日帰りの旅・その3 」で京街道商店街の丁稚羊羹で有名な紙平老舗のことが書かれているのを読んでいて、お店のご主人から教わった話を一つ思い出した。
それはその商店街のある京街道が近江八幡〜彦根あたりまでにかけて朝鮮人街道とも呼ばれているということについてである。ちょうど市立資料館を出て、商店街へと向かう途中に「朝鮮人街道 」と書かれた石碑があり、その脇には近江八幡観光物産協会による以下のような説明書きがなされている。
朝鮮人街道(京街道) 近江八幡観光物産協会 江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やした と言われています。
行程は、ソウルから江戸までの約2,000キロにもなりますが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれています。
本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行われました。
江戸幕府が鎖国中にオランダを始めとする数カ国との国交を維持し続けていたのは知っていたが、まさか朝鮮からの使者をこれほど盛大に迎えていたとは知らなかった(国交といってももっと細々としたものと思っていたのだ)。その「多い時には500人規模で組織され」たという「朝鮮通信使」については、はちまんガイド「やさしい朝鮮通信使の話 」や「Wikipedia (幕府と李王朝の仲介役となった対馬藩の話が面白い)」を参照されるとよいだろう。
関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が中山道の脇街道だったこの京街道を凱旋したことから、京街道は吉例の道とされ、大名行列の往来などが禁じられる。そんな中で朝鮮通信使は特別扱いの厚遇を受けて、その吉道の行列通行を唯一認可されたのである(そこには幕府の内政威圧意図もあったようだが)。おそらくはそのことから近江庶民の間で京街道を「朝鮮人街道」と呼ぶ習わしができたのだろう。
紙平老舗のご主人によれば、何年か前(おそらく2002年10月19日・20日)に当時の朝鮮通信使の行列通行を再現する行事が行われ(おそらく「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流大会 」)、ふだん見慣れぬ衣装を着た人たちの行列が店の前を通ってとても面白かったと言われていた。最近『宮廷女官 チャングムの誓い』にハマッているので、その様子は何となく想像ができ、もしまたの機会があれば是非とも行ってみたいものだ。
ところで朝鮮人街道と呼ばれる区域ではないものの、京街道といえば、今年の3月に行った橋本遊郭 も京街道沿いの宿場町の一つなのであった。また、その終着点というか出発点は豊臣時代に京橋から高麗橋に移されたというが、高麗橋といえば如何にも朝鮮的な名前であり、実際「Wikipedia 」にも朝鮮半島との関係が複数の説において語られている。で、その高麗橋は家からチャリで10分程度のところなので、改めて確認に行ってみると何度か通ったことのある阪神高速下の橋で、橋の脇にあった石碑の文章をこれまた引用しておこう。何となく欄干の擬宝珠のデザイン を見て韓国風に感じたのだけれど、そのことについては特に触れられていなかった。
高麗橋 (こうらいばし) 昭和51年春 大阪市東横堀川は大坂城築城のとき外堀として改修されたといわれる。高麗橋はそのころにかけられたらしく現在大坂城天守閣に保存されている慶長九年(1604)の銘のある鉄製擬宝珠(ぎぼし)はこの橋のものと伝えられている。
江戸時代の高麗橋は幕府管理の十二公儀橋の中でも格式高く、西詰に幕府の御触書を掲示する制札場があったほか諸方への距離をはかる起点にもなっていた。
明治三年(1870)九月大阪最初の鉄橋にかけかえられ、さらに昭和四年(1929)六月に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかわった。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷(やぐらやしき)を模した柱は昔の面影をしのぶよすがとなっている。
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2006年05月22日 (月)
ドイツ・ワールドカップモードで、このブログでもタイトルドイツ語仕様にしたというわけじゃーありまへん。というか、私はドイツ語にはまるで疎くて、見る人が見れば、すぐにそれがちゃんとしたドイツ語になってないことはバレバレでしょう。
では、何のためのエントリーかというと、冒頭の写真の落書きとタイトルの綴りを較べてみてください。一見落書きを模したかのようですが、部分的に正しくないというか、そこに別の単語(このブログでは馴染みの)が紛れ込んでいることに気づくはず。
そう、このエントリーは一時トラックバックの機能を停止されてられた、masaさんの Kai-Wai 散策 に「祝TB復活!」とお試しTB送信しようと思ってたエントリーなのです。ところが結局またスパムの襲来にあったのか、閉鎖してしまったようで(泪)
というわけで、このエントリー自体、アップする意味が薄れてはしまったのですが、とりあえずこの写真でなぜにTBかは Kai-Wai 散策「『もんしぇん』応援団 」のエントリーをご覧になれば一発でわかるはず。たまたまこの日、仕事が早く終わって、次の用までの空き時間に渋谷をふらふらしてたら見つけた空き地の落書き。
それを masaさんのブログで数日後に見ることになるとは思いもしませんでした。
尚、下の写真はその落書きの全文。
DAS VERIRRTE KIND UND DER LEUCHT K'A'FR ES WEINT UND LACHT
AMIKAI の独→英ウェブ翻訳から想像する範囲だと
迷える子供とその光、それが涙と笑いを運ぶ──今以てその意味わからずです(涙笑)
【写真上下共】2006.05.22 17:15 東京都渋谷区プライム前の空き地にて
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2006年04月24日 (月)
総領町帰省中に田んぼのあぜ道で撮った土筆(つくし)の写真を flickr にアップ。
ツクシを「土筆」と書くことを今回文字変換して初めて知った。岩波国語辞典によれば「土手などに筆の形をして生える」と書いてあって、まあ、そのまんまの当て字だ。
長らく土筆を食べた記憶がない。と妻に写真を見せながら話すと土筆のあるところにはおしっこが掛かってることが多いから気をつけた方がよいとのこと。てか、おしっこが掛かると土筆はより一層育ちやすいんだとか?(汗)
flickr の写真は黄砂の吹いた夕まずめに撮ったのだが、なぜだか妙に赤っぽいサイケデリックカラーの写真に仕上がってしまった。土筆の回り一面に姫踊子草が咲いていて、その薄紫色が反射してこうなってしまったのか? 結局土筆はまだ食べていない。
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2006年04月20日 (木)
このエントリーでは当初、前エントリー の終わりの方で予告していた「より実践的なレベルで免震建築の話をどう耐震強度偽装問題に切り込ませたらよいかについて」書くつもりでいた。しかし、理屈っぽい話ばかりずっと続くと疲れるので、このエントリーはちょっと軽い話題(事例を中心に紹介して)をして閑話休題ということにしたい。
まずこれまで解決案として打ち出してきた免震建築であるが、実際にそれが取り入れられている有名建築を3つほど挙げてみることにする。ちなみにこの3つの建築が免震建築であることを知ったのは、丸激のトークでと多田英之氏の著作によってである。
その一つ目はライブドア事件のせいで最近めっきり評判の悪くなった六本木ヒルズ。噂によると Yahoo! も「ヒルズ族 」というマイナスイメージを嫌ってテナントから離れるとかいう話を聞いたこともある。個人的には差したる興味もないので、あそこが廃墟になろうとどうなろうと知ったこっちゃないのだが(ってか、森ビルというくらいだから、この際、各階の窓を取っ払って床には土を盛って植樹して高層の森にしちゃってはどうだろうか?)、それはともかくあのビルは免震建築で出来ているらしい。六本木ヒルズのサイトに〈「六本木ヒルズ震災訓練」と「防災ボランティアフェア」 〉というプレスリリースページがあって「ハード面の対策として、建物には最新の制振・免震構造を取り入れているため、大型の地震でも構造部材への損傷がほとんどなく建物機能、都市機能を維持します」と書かれているので、より厳密にいうと制震・免震の混構造ということになるようだが。。
続いて紹介するのはあまり建物としてのイメージ自体が流通しているものではないが、誰でもその存在があることだけは知っている首相官邸。それも2002年に竣工した新官邸ばかりか、その完成と共に曳家(ひきや)工事を始めた旧官邸もまた免震化 されたのである。こうした古い建物を免震化することを「免震レトロフィット」というらしいのだが、それについてはもう一つ紹介予定の免震建築で触れるつもりである。
それとどうもこの首相官邸は多田氏が免震の研究を積んで来られた福岡大学が関係しているようなので、定年退職されたとはいえ、多田氏も一枚噛んでいるに違いない。
しかし、小泉首相に限って言えば、彼は他人と同等に自分の命もそんなに惜しんでない人に見えるので(そこが並の政治家とはちょっと違う)、地震で自分だけ救われたいなんて決して思ってなさそうにも見えるのだが(汗)
そして「免震レトロフィット 」として3つ目に紹介するのが、「中之島公会堂 」の名で知られる大阪市中央公会堂である。この建物の建て替え計画は安藤忠雄氏が内部空間に卵型のホールを挿入するというぶっ飛んだ案を出して注目され、当時は東京で学生だった私はワケもわからずスゲーとか思ってその建物の存在だけは知っていた。しかし、それがその後どうなったか知らぬまま、私自身が大阪に住み始め、気づけば日常の中で中之島公会堂をふつうに公会堂として利用するようになっていた。それが実は多田氏の尽力により免震化という形で建て替えられたことを、恥ずかしくも彼の著作によって知ったのである。それは少しばかり大人になった今の私からすれば最適解だったのではないか?と思う。そして若気の至りで卵に魅了された時期を経ていただけに、余計にこの話は興味深く読むことができたようにも思う。そして、さらなる因縁話を打ち明けるならば、この中之島公会堂の免震レトロフィット設計を担当したのは日建設計 (後日、TKYMさんのコメントにより日建設計の設計ではなく、坂倉、平田、青山などの設計共同企業体による設計であることが判明)であり、多田氏は日建設計の出身なのである。日建設計と言ったらば、そう、旧阪急梅田駅コンコース の建て替え工事で設計を担当するのが日建設計なのだ。まあ、このあたりの話はまた改めて機会を作って、今回の耐震強度偽装問題としてではなく、阪急コンコースの話として取り上げられればと思っている。
以上、3つの免震建築の建物を紹介したが、要はここで伝えておきたかったのは、上層社会においては地震対策には免震化というのが完全に主流の手法になって来ているということだ。それも免震が魅力的なのは「免震レトロフィット」で示し得ているように既存の耐震建築(それも近代建築まで)を免震化することが可能だということだ。
そしてこの「耐震強度偽装問題への提言 」シリーズのエントリーで目的としているのが現在の上層社会・上層階級にしか存在してないかのように見える免震建築を中産階級ないし一般市民にまで引きづり下ろせ!ということなのだ。それは多田氏の著作を読む限り、ある部分の堰を崩してしまえば簡単に実現できるように思える話なのに、それが一部の既得権益層によって知られないように囲い込まれている。あるいは「免震建築は高くつく」という幻想によって端からの常識として諦めさせられてしまっている。
しかし、今も何とかマスコミの注目を寄せ続けている耐震強度偽装事件がそれを切り崩す恰好の手段となるように私には思えてならない。そのために必要な条件を次か次の次のエントリーで考えていきたいと思う。「次の次の」としたのは、この閑話でもう一つ書き残しているところがあるからである。
【写真上】
2004.03.07 15:05 上棟式の翌日、妻&ウスケスケと東京観光での六本木ヒルズ。
建物自体に魅力を感じてないので、1枚も建物単体の写真を撮ってない(`Θ´)
クリックすると建物内部の写真(2004.03.07 17:30)。
【写真下】
2005.08.26 14:26 中之島公会堂の南側面天井部。
クリックすると北東側からの中之島公会堂夜景(2005.12.16 20:13)
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2006年04月08日 (土)
「灰塚ダム試験湛水 」「雪の灰塚ダム 」と定点観測化し出した灰塚ダム。
今回は「黄砂の苗代 」でも予告したように、ある意味貴重な黄砂の日の定点写真ということになった。この冒頭の写真はまだそれでも視界が開けている方だが、flickr にアップした写真の中には遠方がほとんど見えない写真もある。また広島第6区の民主党議員佐藤こうじ氏の「再起 」ポスターだけが近景でくっきり見えてる写真などをご覧いただけば砂塵が如何に舞っていたかが見て取れるはずだ。
それと黄砂ではないが、PHスタジオというアートチームが灰塚アースワークプロジェクトの一プランとして取り組まれていた「船をつくる話 」がいよいよ完結(?)したようで、別の船に引かれて展示場所 (?)に移動 し、お披露目イベント のようなことも行われたようだが、これについてはノータッチだったので、興味のある方はこれまでのリンク先を辿っていただければと思う。
ところで今回のダム見学ではひょっとするとダム堤体も見られるか?と思っていたのだが、工事の再開によりその区域は通行止めとなってしまっていた。去年の夏から行われてきた試験湛水は3月7日に最高水位であるサーチャージ水位に到達し、3月13日より常時満水位までの水位降下を開始。つまり一旦満タンになるまで溜めた水を堤体のゲートから放水し始めたわけだが、その様子は3月中一般公開されていたらしく、妻の幼馴染みの友人が携帯で撮った写真を送ってくれたので、それを以下に掲載しておく。
そういえば前回の帰省時、義父が「鴇がおる」などと惚けたことを言うので困っていたのだが、実はそれが鴇ではなくてコウノトリを差していたことが今回わかった。ダムのビューポイントには「コウノトリを観察する際の注意事項 」なる張り紙があって、自治体の公式サイトには「コウノトリ情報 」なるページも用意されていた。残念ながら今回コウノトリにはお目に掛かれなかったが、義父は本当かどうかはわからんけど何度か見たらしい(笑) 実際、我々以外にもコウノトリを見に来ているらしきダム見学客には何度かすれ違った。
ところで後日の夕方ニュースでたまたま見たのだが、兵庫県豊岡市には兵庫県立コウノトリの郷公園 なるところがあって、そこでは野生のコウノトリと共に繁殖飼育させたコウノトリの放鳥・野生復帰を試みているらしい。しかし、これは灰塚でも同じ事だが、やはりある種の観光目的と化している部分があって、住民にもコウノトリにも「自然保護」の名の下に何某かの押し付けが発生しているように見えなくもなかった。
山本アナ がこの問題は難しいとしきりに言われていたが、「景観 」問題と同質のところで手放しには歓迎できない話である。
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2006年03月11日 (土)
最近にわかに温泉&城めぐり趣味を持った妻に付き合って青春18きっぷで赤穂 と日生 に日帰りで行った。赤穂は言うまでもなく赤穂浪士と塩田の有名な城下町で、赤穂城跡と赤穂温泉の宿「潮彩きらら 祥吉 」を中心にレンタルサイクル (1日200円)で回った。
個人的に赤穂浪士や忠臣蔵に特に思い入れがないので、感慨を持っての観光は難しい。加えてこの日、天気予報では日中20度近くまで気温が上がるということだったのに、実際は物凄い濃霧で気温がまるで上がらず、春の装いで寒空のもとをチャリで風を切って走らなければならないという、非常に苛酷な一日となってしまった。
だから妻が事前にチェックしていた赤穂で人気のピザ屋「さくら組 」に入ったときにはその店がピザを石窯で焼いているだけに店内が非常に暖かく、もうずっとそこに居たいと思ってしまったくらいである。とはいえ、人気店なだけに外で待ってる客も居るので長居をするわけにもいかず、ピザ一枚を二人で分けて食べ終えたら早々に店を出るしかなかった。ちなみにこのピザ屋で食べた100%水牛のモッツァレラの入ったマルゲリータ インテグラーレはこれまで食べてたピザって何?って思いたくなるくらいに超激ウマ♪ 値段は2300円とそれなりだけど、それも充分許せる味。たぶんこの100%水牛ってところがミソなんだと思う。これから100%水牛にはこだわってしまいそうだ。
続いて行った日生は妻の実家に18きっぷで帰省する際、播州赤穂線に乗ると途中で停車する駅(赤穂と岡山の間にある)で、日生(ひなせ)という読み方がまずは気になり、あとは駅のホームからでもそこがひなびた港町であることが伺え、以前から一度下車してみたいと思っていたところなのである。
ここも事前に妻がこの町は牡蠣のお好み焼き「カキオコ」が有名ということをチェックしていて、夕飯を食べる場所探しの延長で町中散策をしていたのだが、想像通りのひなびたぶりで、大いに私の撮影欲を掻き立ててくれた。まあ、夕方暗くなりかけていたのが一つ残念なところではあったが。。
ところで「虫の詩人の館*ファーブル昆虫館 」のエントリーで私は「現代建築にはほとんど興味がない」と施主ブログにはあるまじき言明をしていたが、この赤穂と日生の旅を通して少しその言い方を改めなければならないと思ったのだった。それは次のような形で書き表すことができるだろう。
私は「現代建築にはほとんど興味がない」
↓
私は「新しく建てられたばかりの建物の外観にはほとんど興味がない」
私が「新しく建てられたばかりの建物で興味があるのは主に内装である」
現代建築の多くは「まだ新しく建てられたばかりの建物である」
現代建築でも「築後30年経ったものであれば、興味の湧く建物になる可能性は高い」
私が「古い建物に興味を持つのはそこに人が残した染みや垢が積もっているからだ」
以上、言語ゲームめいた記述になってしまったが、こうした言辞を大いに実感させられたのがまず赤穂の城下町として再整備された目抜き通りを見てであった。それは去年の夏に彦根に行ったときにも同じ印象を持たされたのだが、この二つの町が観光PRを意識して都市計画の基準においたのが「城下町」としての都市再生ということであろう。
ところが私はそれによって再創造された「古さ」を新しく装った町並みにまるでカメラのレンズを向ける気になれないのである(実は冒頭の写真はブログ用にと渋々撮っておいたものである)。このことは都市部で新しく建てられた現代建築に対してもほぼ同様なのであるが、いずれにせよ、そこで私が写真を撮るか撮らないか、つまりは興味や愛情を持って接することができるかどうかは、建築物のタイプや性質といったものよりも建物の年季によって決まってくるということがはっきりとわかった。
それをさらに実証してくれたのが、ひなびた港町・日生である。先述したようにこちらに到着したときはすでに夕方で徐々に暗くなり始めていた頃だったのだが、海岸通りを歩くと斜面には無理無理増改築を繰り返しながら現存している野蛮な住居群が見えて来たり、路地を歩けばそこに住む人々の生活上の知恵や工夫から汲み取られていったであろう意匠や小細工を至るところで見掛けることができる。それに対してはもうたとえ暗くてぶれてしまってもカメラを向けずにはいられなかった。
もちろんここで「写真を撮る」という行為が建築論(またはまちづくり)とどう関わるかという問題は別にあるということは承知しておいた上で、私は私自身の問題として断言しておきたい。私は新しく建てられた建物の外観上の良し悪しを言うためには少なくともその建物が建ってから2、30年は経ってくれないと何にも言えない。それは現代建築だろうが「古さ」を装った建物でも同様で、とにかく30年経って勝負に来い!と言いたいし、谷中M類栖も30年経ってからが勝負だと思っている。
ただ、どうも最近の住宅というのは耐久年数30年を目安として建てられているようで、それじゃ〜一体いつ勝負すりゃエエねん!とツッコみたくなってしまうのであるが。
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2006年03月06日 (月)
「岡土建と無印良品の家 」「「家」の選択肢 」などでも取り上げてきた岡啓輔氏の自邸セルフビルド「蟻鱒鳶ル」の現場をようやく見に行った。ミクシィ非公開コミュニティ「蟻鱒鳶ル現場報告 」でおおよその近況はわかっていたが、やはり土が見えているうちに一度は敷地を確認しておきたいと思い、岡さんとの面識もある野次馬CT氏を誘って
三田まで出掛けたのである。場所は普連土学園という女子校の真ん前。この情報だけあれば、誰でも場所の見当は付けられるだろう(※1) 。
ついでに書いておくと丹下健三氏が建てた在日クウェート大使館 もそのすぐ先にある。岡さん曰く、彼の作品集にはクウェート大使館 のことがあまり出てないというが、本人的にあまり満足の行く建物ではなかったのだろうか? ちなみに通りからは見えないが、普連土学園も奥の校舎 は大江宏氏設計とのことで、この通りはちょっとした巨匠建築家通りと言えるのかもしれない。蟻鱒鳶ルもその一つになってほしいものだ。
工事は根切り工事 というか、地下を堀る工事の途中だった。一度重機が入った後だったので手前側の土はだいぶ掘り出され、四方2、3mくらいに人の背丈ほどの穴が出来ていた。掘り出された土は土嚢 に入れて、高く積み上げられていたが、もう何袋になると言っていたか、、ちょっと忘れてしまったけど(袋自体はホームセンターで500袋買ったと言っていた)、とにかく敷地の1/3を埋め尽くす勢いで山積みされていた。当然セルフビルドなので、この掘り出した土も自分たちで運び出す手配をしなければならないし(※2) 、先の重機だってまず借りられるところまで持ってくるのに相当な関門をくぐり抜けて来ているのである。
この辺で地方でセルフビルドやることと都心の真ん中でやることでは全く苦労の質が違うことがわかるだろう。地方であれば一声掛ければ動いてくれそうな話も、都心では業者絡みでないとまず動いてくれない。とにかく何度もお願いに通ったり、知り合いの知り合いの伝手を探ったりと地道な交渉を繰り返すことによって、ギリギリ道が開けて来ているのだ。おそらくはこの交渉作業の方が実際の工事に掛かってる時間よりも遙かに長いんじゃないかと思う。そして、その度に岡さんは建築業界の仕来り等から生まれる膿や黴、闇のようなものと向き合うことになるのである。
残念ながらこの日の我々はそのまま作業服になれるような恰好をしてなかったので、土掘りの手伝いは遠慮されてしまったが(手伝ってるように見せかけたヤラセ写真 は撮ったけど)、それでも身長分掘られた穴の中には降りさせてもらえた。
世の中そうそう道路の際の下から道行く人を見上げるなんてこと滅多にあるもんじゃないので何とも新鮮な光景だった。通り掛かる人も皆、びっくりしたように下を見下ろしていたが(特にその日は岡さんの友人が他にも2人来ていて、計5人の男がその中で立ち話をしている状態だった)、そこを通り慣れている人のうちの何人かは「ごくろうさん」と声を掛けて行ったりもする。
岡さんの話では子供連れの父子がよく見に来るのだそうな。作業中じゃなくても5分くらいは見ているし、作業が盛んなときには相当長時間見守っていて、しかもそのお父さんは子供が帰ろうと言い出すまで自分からその場を離れようとすることは決してないんだとか、、何とも見上げたお父さんである。手伝いをお願いしたら二つ返事で協力してくれるんじゃないだろうか。CT 氏が「本当は岡さん、これから先、仮設工事で敷地を覆うシートが必要になっても、そのシートは白ではなく透明の方がいいんじゃないか?」と言っていたが、まさにその通り、岡さんの蟻鱒鳶ルは工事過程そのものまでがオープンハウスと言いたくなるものなのであった。
次回はちゃんと作業服で行かなならん。
□◇
※1)誰でも場所の見当は付けられる
どこでもそうだが、敷地の前には建築基準法による確認済のプレート が立っていて、さらにその上には岡さんからのメッセージまでが書き記してある。以下にそのメッセージを転載しておくがこういう施主のメッセージが工事中の段階から出てるのってちょっといいなと思った。まあ、書体に味がないと格好悪いかもしれんけど。。
ここに小さな住宅を作ります。妻と私が住むモノで、設計、現場管理・施工を、私・岡啓輔が責任をもって行います。工事中は何かとご迷惑をおかけする事と思いますが、何卒よろしくお願いいたします。
2005年12月16日 一級建築士・岡啓輔
それと一つ前のリンク先写真を見て気づいた人もいるかもしれないけど、確認済証交付者が実は少し前に世間を湧かせたイーホームズの藤田東吾氏だったりする(^^;)
このイーホームズってネット情報に関しては結構敏感なところ持ってるみたいで、あの「きっこのブログ 」で取り上げられたことも「今回の事件に係り、弊社でも関知し得ない情報提供を行う「きっこの日記」、「きっこのブログ」というネット情報サイトがあります。このサイトには、時に弊社に対しても辛辣な表現がありますし、この事件と関係のない内容も記載されていますが、フランクな文言も御座いますが、しかし、この事件の真実を語る上で重要な情報が存在すると判断できます。」なんて書きながらトピックスに情報提示 しているところがちょっと可笑しい。最近では「家作り日記」の活用を勧めるオンラインサービス も開始したようだ。
※2)掘り出した土も自分たちで運び出す手配
根切り等で掘り出した土に関しては、うちでもリサイクルできないかと頭の中では思っていたのだが、結局は処分という形で話は進んでしまった。そして当然処分には処分料が取られる。おそらく業者に頼めばほぼ99%そういう処分という扱いにさせられていると思うのだが、裏の話を聞けば、実は「処分」という形を取りながらもしっかりリサイクルしているのが建築業界の慣例なのだそうだ。環境問題としてのみ考えるならそれはそれで悪いことではないが、現状として施主がその分の工費を多く見積もらされているという事実があることは疑いない。蟻鱒鳶ルを見守ることで今後もこの業界の拝金搾取体質を嫌と言うほど垣間見せられることになるのであろう。
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2006年03月05日 (日)
横浜への出張で新幹線のぞみに乗車。久々に晴れ間の富士山を見た。
家づくりを終えて東京方面へ行く機会がめっきり減ったせいもあるが、しかし、東海道を通って富士山の姿にお目に掛かれる確率って30%くらいしかない気がする。まあ、私の移動している時間帯が暗いときが多いせいもあるのだろうが。。
ところでこの日の富士山は「はなれ笠 」と呼ばれる雲が頂上の上にぽっかり浮かんでいた。この「はなれ笠」って言葉を私は最初から知っていたワケではないが、富士山の上にできる雲の形状によって天候等が予測できるという話は何となく知っていて、それで「富士山 雲」でググってみたら、一発でそれが「はなれ笠」というのだとわかった。ちなみに「離れ笠は晴天の前兆… 」と言われているそうだが、確かに週間天気予報で雨と言われていた 3/6(月) は春一番が吹いて雨は降らず、2つの外出用を予定していた身としては大いに助かったのである。ただ、富士市の「富士山の雲と天気 」というページによれば、はなれ笠は「晴れた風の強い日に現れ、冷え込みが厳しくなり、快晴が続きます」と説明があり、春一番で風は強かったが、気温は妙に生暖かい感じで厳しい冷え込みとは合致しなかった。
【写真】2006.03.05 10:29 富士川 を渡る新幹線車窓から
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2006年02月12日 (日)
あさみ新聞でシリーズ化している「悪い景観100景を考え直す 」のエントリー。
実は先日からこのブログでも何か書こうと思ってアレコレ書き留めてはいるのだが、どうもエントリーするまでには至れない。すでに検索すれば「悪い景観100景 」を公表した「美しい景観を創る会 」に対する批判的エントリーは山ほど出てくるし、今更その組織とテーマに対する批判をこのブログでやってても生産的ではない気がする。
ところでヤフーで「悪い景観100景」を検索すると、その4ページ目に「景観100景 」というブログがヒットする(2006年2月12日現在)。このブログ、どうやら「悪い景観100景」で取り上げられた情報をまるごとコピーして、コメント+トラックバック歓迎の体制を取って行こうとしているもののようである(作者不明)。
実は最近、ブログの可能性というのは情報発信のそれと同時に情報の受け皿としての機能も重視すべきと考えているのであるが(っていうか、実は一つお仕事でもうそういうことしてるし、阪急コンコースのブログ だってある種その路線だし)、このブログも云わばその延長線上のブログと言える。
で、現実を見れば「美しい景観を創る会」も最初からこの仕組みを作ってしまっていれば、そんなに全体枠としての批判を受けることもなかったろうし、純粋に一個一個の個別事例に対して、賛否両論をデータベース化して行けたのだ。その意味で考えるならばこの「景観100景 」というブログは「美しい景観を創る会」に対する嫌がらせとして存在しているのではなく、むしろ真性のフォロー部隊と言ってもよいのではないか?
てなわけで、谷中M類栖でも今後は取り上げられた「悪い景観100景」に類する主旨のエントリーをするときには「景観100景 」ブログに賛否問わず積極的にトラックバックして行きたいと思っている。おそらくはそうした個別事例に対して複数からなる個別視線を集積していくことこそが唯一このテーマの生産的有り様であろう。
ちなみにこのエントリーのタイトルは当初書いていた非生産的主旨、即ち「景観とはなんぞと心得とるのじゃ!」を書いてしまいそうになってたときに付けようとしていたタイトルである。そこではヒューザーの小嶋社長やら伊藤公介元国土庁長官の名前と「美しい景観を創る会」を並べて語ろうとしてしまっていたのであるが、まあ、その辺のところは「きっこのブログ 」にでも任せて、このエントリーのタイトルにその名残だけを残しておこうと思う今日この頃なのである。
■「悪い景観100景」関連リンク ←随時追加予定
・あさみ新聞: 悪い景観100景を考え直す
・あさみ新聞: 悪い景観100景 (2006.01.07)
・あさみ新聞: 悪い景観100景を考え直す(1) (2006.01.24)
・あさみ新聞: 100景を考え直す(2) (2006.01.26)
・あさみ新聞: 美しい景観 神戸シンポジウム (2006.02.03)
・あさみ新聞: 美しい景観 神戸シンポジウム(その2) (2006.02.11)
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2006年01月12日 (木)
この写真は中欧旅行の行きの飛行機、成田を飛び立ち北上して程なく眼下に見えてくる光景である。場所は鹿島港の入口 で鹿島発電所、鹿島石油、住友金属工業鹿島製鉄所等がある。最初にそれが目に入ってきたとき、その色彩に目を奪われた。
地面が焦げている。
私は自分でさほど「廃墟フェチ」の嗜好性が強い方ではないと思っているが、それでもこうした凄惨な場所に好奇の目が向くことを隠すことはできない。というか、この場所は決して凄惨な場所ではなく、人が働いている工業地帯なのだ。
Google サテライトの画像 では細密表示可能な地区となっていないため、私が撮った写真の方がこの場所に関しての情報量は多い。だが、情報量の少ない(つまり焦点距離の遠い)サテライト画像でも充分焦げていることはわかる。「焦土」というふだんあまり使い慣れていない言葉が自然と頭に浮かぶ。
戦時中「焦土作戦 」なる戦術があったらしい。ロシアがそれを得意としたというが、このあと、飛行機はエトロフ上空 あたりまで北上し、シベリア大陸 を横断する。
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2006年01月03日 (火)
毎年正月は元旦を大阪で過ごして2日から何日間か妻の実家・総領町に帰省する。
例年であれば、そこで義父と初釣りとなるのだが、去年8月に「灰塚ダム試験湛水 」で紹介した灰塚ダムがいよいよ完成間近となり、釣りポイントも激減してしまったため、今年は釣りはやらずにダム見学となったのである。というわけで「灰塚ダム試験湛水 」でアップしたのと同じハイヅカ湖畔の森のコテージから雪景色の灰塚ダムを撮影。
今後も定点観測はしていくことになりそうである。
2005年12月09日 (金)
旧阪急梅田駅コンコース の話題がさらに続きます。
「大阪日日新聞にて 」のエントリーでは触れませんでしたが、新聞取材に同行してもらった活動有志メンバーの一人であるのりみさん が NHK総合 で12/9(金) 19:30から放映される『大阪のこれから──皆で話そや "街づくり" 』という生放送番組に参加されることになりました。
その詳細・経緯はこちら 。
のりみさんについては今回の大阪日日新聞の記事後半部で「手塚治虫ゆかりの地 」としてコンコースとの関係が語られ、また4月に同新聞の「街を奏でる人 」で取り上げられた記事の方には詳しいプロフィールが出ています。
まあ、何はともあれ、とにかく「超」の付く手塚治虫マニアの方です(笑)
あと、右上のような日本画を描かれる方でもあります。何とも不思議な繋がり。
* * *
のりみさんは手塚氏のデビュー以前の生い立ちを探って『虫マップ 』という研究誌を発行(2005年3月からは手塚治虫ファンクラブ会誌「手塚ファンマガジン」でも連載)。その活動を通じて手塚氏の実弟にあたる手塚浩さんと出会われ『新・虫マップ2003 』では浩氏からの手紙を中心にそれまで「記録」としてしか垣間見えなかった手塚兄弟の話が浩氏の「記憶」を元に繙かれています(「虫マップ」の経緯 参照)。
そして、その中に建築好き人間であればヨダレものの逸品が・・。
手塚浩氏が作画された旧手塚邸平面図 が掲載されているのです。超必見!!!
植栽に至るまでこれほど詳細に渡る図面を、今の私は三鷹金猊居 において書き切る自信がありません(汗)←早いところ、模型を作っておかねば。。
* * *
のりみさんの番組参加(+新聞掲載)に際しては、コンコースブログを通じて出来た仲間達が各々のブログで後方支援してくれています。以下にそれら URL をリンク!
・あさみ新聞:旧阪急梅田駅コンコースを残したい活動のその後
・ゴリモンな日々:新聞。雑誌。そして今度はテレビかも?
・cinemazoo:梅田遺産のその後
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2005年08月15日 (月)
この画像 は見る人が見るとそれなりにショックの大きな画像のはずだ。
広島県北の山間部で進行する洪水調整用のダム建設計画に伴い、<ダム周辺環境整備にかかわる広大なエリアを、自然と文化の調和した永続的な魅力を持った「環境美術圏」にさせていく試みとして> 1994年から2002年まで灰塚アースワークプロジェクト なるアートプロジェクトが行われていた。1995年に初めてそのプロジェクトに参加した私は1998年からは Web構築係として関わっていた(実はコンテンツのベースとなる部分が1998年当時作ったもののまんまなんで、URL 晒すのはかなり恥ずかしいんですが...モニタサイズ 800×600 照準で作られちゃってるし)。
プロジェクト参加当時はここにダムなんてホンマに出来るんかい?という暢気なものだったが行政のハード事業というのはよほどの反対でもない限り、スケジュール通り着々と進んでいくもので、当初から予定された2006年には灰塚一帯は完全にダムの底に沈むことになりそうだ。というよりも、写真で見てわかるように2005年夏の段階で試験湛水も行われ、ダム機能は貯水を待つばかりの状況なのだ。
ちなみにアースワークプロジェクトの方はダムのまたがる三良坂町・吉舎町・総領町の3つの町が全国規模で広がる市への合併の波に呑み込まれ、それぞれ管轄が自立できなくなってしまったため、2002年を以て一旦休止状態になってしまった。その後、NPO 化の話なども出ているのだが、今のところはっきりとした動きは見えない(ただ、事務局が Web を残しておく意志だけは持っているので、今後何かしらの展開が期待できないこともないだろう)。
ところでこの3町のうちの総領町というのが、私の妻の生まれ故郷であり、つまり私はこのプロジェクトにたまたまバイトで駆り出されていた妻とこの地で出会ったという訳だ。ちなみに田植え で帰省した折、妻の実家でこのダム建設計画の直接の原因となった1972年の大洪水の話になり(それは当時7歳だった妻にとってはハッキリ記憶に残っている人生最初の大災害だったようだが)、考えてみればその洪水がなければダム建設計画もなかったかもしれず、ということは灰塚アースワークプロジェクトも当然なくて私と妻が出会うこともなかった。そして、そんなことを話しているその瞬間その空間もそこにはなく、妻と不思議な気分に陥っていたものだ。
9.11(なんちゅー日を選んでるんだよ!)の衆議院総選挙では、この袂を分けた3町を含む広島6区がホリエモンvs亀井静香の対決によって全国でもっとも注目を集める選挙区となることだろう。だが、そんなことはお構いなしに灰塚ダム 建設工事は静かに完成の日を迎えることになりそうだ。
ちなみに冒頭の写真はハイヅカ湖畔の森のコテージから撮影している。
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2005年07月02日 (土)
まず「高過庵 」へこれから行ってみたいと思っている人たちのために書いておく。
高過庵に行くには「神長官守矢史料館 」を目指せばよい。茅野駅から「宮川高部の〜」とでも言い添えてタクシー運転手に話せば、大抵のタクシーは連れて行ってくれるはずだ。ただ、宮川高部で帰りのタクシーを拾うのは難しいかもしれないので、待機してもらうか事前にタクシー会社の電話番号を控えておいた方がよいだろう。
そして高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えないが(※1) 、史料館右手30m先くらいのところにある舗装された道に出れば、山の方にぽつんと浮かび上がってるのが確認できるはずだ。または史料館で場所を聞けば、説明好きな館長さんがいつでも気さくに教えてくれることだろう。私たちに対してもそうだったが、ネット上でも館長さんの親切な人柄については多くのサイトで触れられている。
ちなみに母と私は史料館に来るのは2回目。
ところが諏訪在住の善n叔父さんはこうした施設があることすらご存知なく(後でお会いした奥様は学校の先生をされてるだけに知っていたが、地元ではあまり知られていないのだろうか?)、それで高過庵に向かう前にまずは史料館に入館した。そこで館長さんから高過庵の場所を聞いて、上記のように舗装道路に出て行くか(車でも行ける)、あるいは畑の中を強引に直進するかの方法を教わった訳だが、ここは年配者二人に合わせて舗装道路迂回順路で行くことになった。
ところで「そんないざ行かん!」とする直前に私は史料館の中で高過庵の姿を見つけてしまったのである。
何と!高過庵は史料館のトイレから窓越し に見えるのだ♪
人見知りがちで、高過庵の場所を誰にも聞く勇気が持てない人(世話好きの館長さんと話さないということの方が難しそうだが)とか、窓越しの写真を撮るのが好きな方は、用がなくともまずは史料館でトイレに入ることをオススメしておく。
さて、その高過庵は史料館から歩いて2,3分程度のところにある。
NHK-ETV特集「スロー建築のススメ 〜藤森照信流 家の作り方〜 」のビデオで予習した通り、のどかな田園風景を横目に赤瀬川原平氏と南伸坊氏がスローブ状のゆったり上がる坂道を藤森照信氏に案内されながら上っていく光景そのままだった。
で、いよいよ高過庵を目の前にしたとき、最初の印象が「アレ?思ったほど高過ぎないぞ!」だったのにはちょっと拍子抜けした(笑)
遠くから見ていたときは手前の草で足下が隠れて高さが掴めないままだったのが、遮るものもなくなりスーッと目の前に立ち現れた瞬間、あまり高さを感じなかったのは箱部分のボリュームが思ってた以上に大きかったせいかもしれない。
よく頭でっかちだとチビに見えるというではないか!?
この日の天気はうっすら青空が見える程度で、写真日和とは言えなかった。それでもなるべく色んな角度からデジカメで撮っておきたいと撮影始めて間もなく、善n叔父さんと母はもう来た道をスタスタと帰路につき始めているのである(汗)
そんな訳で私は思うままに撮影することも叶わず、あとを追ったのであったが、その追い掛け始めて高過庵の方に目をやった瞬間、最初は頭でっかちだという風に見てしまっていた高過庵が、とある男の顔とダブって見えてしまったのである。
それはあまりに如何にもなイメージなのだが、タイトルでも既に書いたようにムーミンに出てくるスナフキン。帽子の色は違うけど、こうして見較べてみると目(窓)の感じなんてそっくりじゃないだろうか? 藤森さんの作品って兎角ジブリ作品と並べて語られがちのようだけど、実はムーミン谷の世界観の方が近いんじゃないか?と一つ発見したつもりになって、帰阪してから「藤森照信 ムーミン」で検索してみると、それなりに出て来てしまってちょっとがっくり(泪)
まあ、「高過庵 スナフキン」では何も出て来なかったので、ひょっとしたらそれは第一発見者かもしれないが(笑)
ETV特集では赤瀬川さんが「ゴンドラのように揺れるね」と言われていたが、下から見ている限りではそんなに揺れてる感じはなかった。
それにしても番組内で赤瀬川さんはやたらと寝転びながら擬音語にしづらい呻き声を出してたけど、あれはやっぱり老人力ならぬ老人声ってヤツなんだろうか?(汗)
このエントリーを書いている最中、藤森さんが高過庵の次に同じ敷地内に「低過庵」を計画していることを知り、そのプランが紹介されてる「GA HOUSE No.86 」をチェックしてきたが、そこで彼が書いていることって、私が「諏訪の宅地 」で妄想していることに若干似ていて、結構「げげげ」なのであった(汗)
GA HOUSE No.86 (P.149)
「高過庵」では、神さまのように天空からではなく、人間のように地上からでもなく、地上から少し上がった高さにある極小空間にこもって、窓の高さから地上を眺める視線の新鮮さ楽しさを知ったが、今度の作では、地中、といっても地中に完全にもぐるんじゃなくて、地中に建物一つぶんだけ沈み、上がオープンな空間がどんなものかを試してみたい。
「高過庵」は、ふつう言われるツリー・ハウスとはちがい、正確には高床式住宅の極端な例だが、今度のは、さしづめ竪穴式住宅の極端例ということになるだろう。日本の原始時代の住宅には、高床式と竪穴式の二つのタイプがあったことは、よく知られている。
中に入り、座り、炉の火に照らされた薄明かりのなかでお茶を喫み、しばし後、スライド式の屋根を開けると‥‥。はたしてどんな空間体験が待ちかまえているか。楽しみである。
□◇
※1)高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えない
私が見たときには高過庵の手前の緑が生い茂りすぎていたせいか確認できなかったが、Ranch Girl in the kitchen 「2005年5月4日の日記 」によると、館長さんが場所を直接示してくれたらしいので、見えているのかもしれない。
※)その他の関連記事
・X-Knowledge HOME 特別編集 No.7『ザ・藤森照信 』: 設計作品の撮り下ろし
・藤森研究室「高過庵 」: 外内観写真+図面+コメント+建築情報
・新建築2004年9月号「高過庵 」: 写真+建築情報
・JA56号「高過庵 」: 写真+建築情報
・石山修武 世田谷村日記「2004年十一月二十八日 日曜日 」: 藤森さんに呼ばれてレポ
・風に吹かれて「高過庵 2 」: 藤森さんと一緒の訪問レポート+青空写真
・aki's STOCKTAKING「F教授の......... 」: 秋山さんの見学所感
・見もの・読みもの日記「おじさん少年・藤森照信と仲間たち 」: ETV特集見ての所感
・Nakatani's Blography「高過庵 建築見ずに ただ遊ぶ 」: 中谷礼仁氏の見学レポ
・Nakatani seminar「『高過庵』訪問記 大公開 」: 中谷ゼミ生訪問記+スケッチ
・omolo.com「news: 2005/07/12 (Tue) 」: 高過庵に糸電話(?)
・ゴリモンな日々「木の上に住んでみたい♪ 」: 2006年お盆の高過庵
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2005年06月30日 (木)
さて今回、墓参りと土地処遇問題で諏訪までやって来たわけだが、「諏訪」といえばやっぱり御柱祭 であり藤森照信 である。
下諏訪出身の伊東豊雄 氏もいるが、「ザ・スワ」の建築家と言ったら藤森照信氏以外思い当たらない。
そこで今回の訪問でもし時間の都合が付くならば、以前に「藤森照信: スロー建築のススメ 」のエントリーで番組宣伝だけしてそのままになってた「高過庵 」を見に行ってみたいと思っていたのである。そして幸運にも善n叔父さんが車を回してくれることになり、泰n叔父さんを一旦自宅まで送ってから3人で探しに行くことになった。「探す」というのは住所レベルの個人情報まではネット上に出ていないので、あさみ編集長から教わった「神長官守矢史料館のそば 」という情報を頼りに自分たちで探すしかなかったのである。
尚、本エントリー、焦らすつもりはないのだが、先にその藤森照信氏の処女作「神長官守矢史料館 」について触れておきたい。といっても史料館の概要・解説はすでにネット上に幾らでも転がってるので(※1) 、ここではあくまで個人的な雑感のみ。
まず私がここに来たのは2度目である。2000年にも妻・母・妹と墓参りついでで来ていて、ところがそのとき私はデジカメを持っていなかった。だから当時、母がコンパクトカメラで撮ったスナップ写真と今回自分で撮ったデジカメ画像を見較べているのだが、外壁に張られたサワラの割板の色にそう変化は感じられない。ところが『藤森照信野蛮ギャルド建築 』(TOTO出版・¥1,800-)に掲載された1991年竣工時の写真と見較べると劇的に違う。経年変化がいつ頃はっきり現れるのかが気になるところだ(というのも、うちもいずれは軒下の杉板甲板が黒くなるって豊田さんに言われている)。
また、私は大阪から諏訪へはいつも高速バスを利用するのだが(往復1万円で列車利用と大した時間差はない)、今回車中では藤森照信著『タンポポの綿毛 』(朝日新聞社 2000年4月発行 ¥1,680-)という本を読んできた。彼の「テルボ」と呼ばれていた子供時代の話がエッセイ風にまとめられた単行本である。
この本にはテルボが子供時代に遊んでいた集落の地図(藤森氏本人の手書きによる)が収録されていて「高過庵」の場所を探すのにも何か手掛かりになるのでは?と思っていたのである。しかし、諏訪に向かう車中でこの本を読んでいるとやはり読む現実感もまた一塩違ってくるものだ。場所の持つ磁力ってヤツだろうか。何度も爆笑を堪えながら読んでいたのだが、中でもとりわけバカ受けした「トンボ捕り」の話を一部引用しよう。
藤森照信著『タンポポの綿毛 』 ──「トンボ捕り(P.98)」 以上のトンボ捕りは秋津洲大和国の各地の少年少女が体験していると思うが、最後に、信州のいたずら小僧の得意技を紹介しておこう。これはゲーム性とヒミツ性をかねそなえたすばらしい捕り方なのだが、だれにでもできるものではないので、読者各位におかれては御自分の立場や歳をよく考えてから実行に移していただきたい。
ふつうのときにはやらない。水遊びのときにやる。
学校にまだプールがないから、川に行って水泳をしていた。子ども用の水泳パンツもなく、黒い三角形の小さな布きれにタテ一筋、ヨコ一本の黒いヒモをとりつけただけの、いまにして思うとなかなか先鋭的形態の "水泳フンドシ" なるものを着け、イヌカキをしながら水に浮いて流れ下るのを楽しみ、疲れると河原に上がり、砂と石の混じる上でコウラを干す。そのとき、だれかがトンボの捕りっこをしようといって、ゲームははじまる。
もともと小学生にはなんのために着けているのかわからないし、中身のこぼれ気味の三角の布きれをはずしてスッポンポンになり、上向きに寝転がる。ここまで書くとあとのやり方はわかると思うが、御賢察のとおり、各人エイイドリョクしてカラダの中心の棒をできるだけ高く立てる のである。
トンボは高いところから先にとまる習性をもつ。羽を下ろしたのを見はからい、腰の脇からそっと手を動かして‥‥ 。
トンボから見ると、棒の先だけでなく地面まで急に人体に変わったわけで納得できないかもしれないが、人のチエだからしかたない。
私はこの笑い話に藤森建築の主題の一つが隠されてるような気がしてならなかった。
いや、隠されてるなんてもんじゃなく、内容同様モロ出しされてるといった方がよいだろう。それはユリイカ2004年11月号で特集された『藤森照信──建築快楽主義 』(青土社 ¥1,300-)で、赤瀬川原平氏が「てっぺん性」という言葉で表現してたり、また特集にあたって藤森氏ご本人が対談相手にリクエストされてたんじゃないかと思われる宗教人類学者の中沢新一氏に「天に発射するスタンディング・ストーンとリンガの問題」を問い掛けている。即ちそれらは河原に横たわった身体から上へ向かって立ち上がる(場合によっては発射される)勃起力そのものの話であるのは言わずもがなだろう。
だが、もう一つ忘れてならないのが「トンボ」である。といってもワケわからないだろうから少し説明すると、処女作「神長官守矢史料館」から始まる藤森氏の一連の建築物でてっぺんに向かってオッ起てられた柱や棒ってどれも「どうだ!オレのを見ろ!」っていうほどは堂々としてなくて、どっちかというと華奢で慎ましく立ってる感じはしないだろうか? で、たぶんコレを品位とかそういうレベルで捉えてちゃ駄目で、私にはどうしてもそれがトンボを捕まえたいからああいう木を選ばれてるような気がしてならないのである。堂々とし過ぎた木に決してトンボは止まりはしない。
もちろんここでの「トンボ」が昆虫のトンボだけを指してる訳ではないことは言うまでもなく、おそらく氏はどんなものが近づいて来ても「腰の脇からそっと手を動かして」「‥‥」しようとしてるに違いない。そんな藤森氏に私はピカソが1966年に残したエッチング・アクアチントを勝手に捧ぐ。
Pablo Picasso, Untitled, 15 November 1966 VI.
□◇
・藤森研究室「神長官守矢史料館 」: 外内観写真+図面+コメント+建築情報
・茅野市ホームページ「神長官守矢史料館 」: 公共施設案内(休館日情報)
・建築リフル「001 神長官守矢史料館 」: 写真集(藤塚光政/隈研吾 著)
・建築マップ「神長官守矢史料館 」: 訪問レポート+詳細情報
・美的建築ワールド「茅野市神長官守矢史料館 」: レポート+建築情報
・月間進路指導「あの人に聞きたい私の選んだ道 , 2P , 3P 」: 藤森照信に聞く
・Sputnik「yield 」: 藤森照信へのインタビュー
・asahi.com - 信州館めぐり「名建築の中に諏訪大社の歴史 」: 新聞掲載記事
・SEEDS ON WHITESNOW「ETV特集「スロー建築のススメ」 -守矢の里の不思議な建物たち- 」: 地元出身者の番組レビュー(ブログ)
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2005年06月27日 (月)
ポリタン・コスモ でも紹介されてる Google Maps BETA 版 。
その Satelliete って機能が何とも不気味なのだが、ついグルグル色々見てしまう。
まだ衛星画像の詳細度に地域格差があって、私の住んでる大阪 なんかだと自分の家までははっきり確認できないが、谷中の敷地 はほぼどこだか特定できた。
ただ、そこが空き地のように見えるということは実は何年か前の画像なんだろうか?
でも、富士山 なんかは如何にも今の季節って感じの色合いなんだよな〜。
2005年06月17日 (金)
6/17(金)、18(土) と長野の諏訪に行ってきた。
主な目的は母方祖父母&大叔父の墓参りと私名義の土地の処遇について。土地の件は宅地 と山林 が少し離れたところにあるので、それぞれ別個にエントリーしていきたい。
このエントリーでは到着当日の旅の余話を二つばかり。翌日にももう一つ余話 はあるんだけど、そっちは建築絡みのとっておき の話なんで土地関連話のあとに単独エントリーさせるつもり(あさみ編集長 さんはたぶんその内容が想像できるはず)。
で、一つ目の余話は諏訪と云えばの温泉&旅館談義。
これまで法事絡みで諏訪に行くときの宿泊地はたいてい親任せか妹任せでホテルに泊まることが多かったのだが、今回は私と母の二人だけなので私がネットで探すことになった。それで選んでみたのが諏訪では老舗の油屋旅館 。
各種料理の付いたコースプランで申し込むとそれなりのお値段になってしまうのだが、素泊まりだと4200円〜。2名一室利用の場合で一人4725円。これだとその辺のビジネスホテルよりも安い。その上、展望露天風呂「天空の湯 」までが付いてくる。
そんなわけで迷わず利用してみたのだが、これが想像してた以上によかった。
部屋はトイレ・バス付きの十畳和室だった。老舗だけに古いといえば古いが、ロビーで休憩してれば茶菓子が出てくるし、中庭は綺麗に手入れされてるし、何と言っても従業員の持てなしの気持ちがこちらに伝わってくる。それで5000円以下というのはかなりのお買い得だろう。そして「天空の湯」。午後5時と朝7時の明るいときにしか入らなかったので夜景は見られなかったが、諏訪湖と北アルプスが一望できて非常に気持ちよかった。縁の部分に落下防止用のアクリル板が入っているのだが、それがなければもう一つ気持ちよかったろう。自己責任ってワケにはいかないものか?(^^;)
夜はこの時期限定のオプションツアーとなっている「数千匹のゲンジ蛍が乱舞!辰野の蛍鑑賞プラン 」に行ってみた。サイトのプラン案内に寄れば
数千匹のゲンジ蛍が乱舞!辰野の蛍鑑賞プラン◇昔心閣 油屋旅館より車30分。辰野町松尾峡では、6月中下旬、ゲンジボタルの幻想的な光を楽しむことができます。この期間に、数万匹発生するという名所なので、気候条件が合えば、夜8時頃から数千匹の蛍が乱舞する光景も見られます。特に6月11日〜20日の間は、蛍の数が多く、「松尾峡・辰野ほたる童謡公園(6月10〜19日は入場有料)」への入園券+往復のバスがセットになった期間限定オプションツアーはお勧めです。
とのことで、この日は湿度も高く、数千匹の蛍乱舞への期待が高まったが、まだ少し日にちが早かったようで、そこそこ飛び回ってはいたが、数千匹が乱舞というほどの光景には出会えなかった。っていうか、蛍よりも人出の方が多い感じだった(汗)
なお、上記写真は左側2枚が私が三脚も持ってないのにデジカメの夜景モードで無理矢理露出時間を長くして撮影したもの。右側の1枚は油屋旅館のプラン紹介に出ていた写真をコピらせてもらったものである。それらを見較べれば乱舞との差は一目瞭然だろうが、この右側の画像が冗談や合成ではないだろうことを私はここに記しておきたい。というのも、かつて私がインドを放浪 していたとき、この右端写真に匹敵するくらいの蛍の群れを実際にこの目で見ているのである。
以上、余話を掛け合わせて「天空の湯」から蛍鑑賞が出来たらほとんど極楽浄土の心境だろうが、それをローコストで実現している「山小屋 」もあったりするのである。
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2005年06月14日 (火)
実家から送られてきた荷物に「お隣の一乗寺 さんからいただいた品」と開封済みの包みに添え書きされた「追分羊かん 」なるものが入っていた。どこかで名前を聞いたことのあるようなないような、包みの裏を見ると今年の4月から静岡市に吸収合併された清水(現在は静岡市清水区)の銘菓とある。
ということは『ちびまる子ちゃん』で知ってるのか?と思い、「追分羊かん ちびまる子ちゃん」で検索すると、作者のさくらももこが大好物であり、また映画原作特別描き下ろし『ちびまる子ちゃん──大野君と杉山君 』の表紙に「追分羊かん」のお店の絵が描かれていることが判明。
『ちびまる子ちゃん 』全巻揃えてるだけに、それで朧気に覚えてたというわけか。
ちなみに味の方は羊羹の説明書きで「竹の皮包みの素朴な野趣と竹の皮の香の深く沁み込んだ言うに言えない静かな風味」と書かれているように、本当に言うに言えないどっしりした味わいがあり、取っつきやすい味ではないのだが、妻としみじみこれは美味いよ!と本当にしみじみしながら食べていた。最近は京菓子の洗練された味よりもこういうどっしり味の方が楽しめる舌になってきている。
なお、残念ながらというべきか幸いにというべきか店の公式サイトがないようなので、包みの裏面に記載された「追分羊羹の由来」を以下に引用しておく。
「追分羊羹の由来」 (詩人 長田恒雄・清水市)江戸三代将軍家光のころ府川のあるじ箱根の山中に
旅に病める明の僧と出合いこころあたたかく介抱
やがて病癒えたかの僧は感謝の涙とともに
小豆のあつものづくりの秘法をねんごろに伝授して去った。
それがそもそもこの追分羊羹のことの発り
ひたすらな善意と素朴な感謝がいみじくも交流したところから
この羮の風味は生れ出で、爾来三百年ひとの口に
ひとのこころにしみじみとしみわたってきている。
つつましくほのぼのと いまも
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2005年06月13日 (月)
豊田さんの誘いで、坪庭開拓団主催の奥多摩山歩きに参加した。
案内役はランドスケープアーキテクトの河合さん。他、河合さん繋がりの学生さん数名に今回初めてお会いした初音すまい研究所の手嶋さんの奥さん、そして毎度の私の旧友CT氏と総勢13名で奥多摩駅9時過ぎ集合。山歩きは実質10時のスタートとなった。
登山道入口の階段 には「倉沢のヒノキ」と書かれていて、30分も歩かないうちにちょっと独特な積み方をされた石垣 の上に聳え立つヒノキの木 が現れる。幹周6.3m、樹高約33m、推定樹齢600年(伝承1000年)。東京都指定天然記念物に指定されている御神木である。こういうものを見るとついエロい想像力 しか働かない私なのであるが、行く行くこの木が私たち一行の守り神となるのである。その話はまた後ほど。
そこから10分と歩かぬうちに人の住んでるらしき家が1軒谷側に見えてくるが、その先には全壊した木造住宅がすでに自然に呑み込まれつつある。そして山側に目を向けるとそこには倉沢集落 と言われる数十棟の廃屋が階段状にポツポツと立っていた。
倉沢集落については検索でいろいろ見つかるので手短なものを一つ引用しておく。
アルプス登山の玄関口 笠井家「奥多摩・倉沢集落 」 古来、炭焼きを生業とした山村集落。昭和30年代、石灰鉱山の社宅が造成され、最盛期は数十の家庭が暮らしていた。
その後、鉱山の衰退に伴い住民は離散。現在は、95歳のお爺さんが一人だけ暮らしている。つまり、たたずまいは廃村であるものの、れっきとした住宅街である。
建築系の学生が多いので、しばらく見学&撮影タイム。廃墟フェチの人には溜まらない場所であろう。学生時分に廃墟ブームなるものがあり、一通りその手の特集記事は目を通していた私だが、昔のように廃墟をスタイリッシュに捉えようとする視点はいつの間にか自分の中から抜け落ちていた。台所 がどこにあり、水汲み場や公衆浴場 がどのような位置にあるのか生活動線を気にしながら、そこで人々が生活していたときの暮らしを意識する。この思考は遺跡においても同様で、家づくりをしたからそういう見方になったのか、それとも歳を取ったからなのは自分でもよくわからない。ただ、いずれにしても廃墟や廃屋 を「廃墟」とカッコに括って見るような見方をしなくなってしまった。むしろそれは「家」であり「建物」のままなのだ。
集落で1時間くらい過ごしてから、いよいよ山登り。
坪庭開拓団の山歩きだけあって、要所要所で足を止め、河合さんの動植物に関するミニレクチャーがある。沢ではヤゴを捕まえられて皆に見せてくれたが、本人としては山椒魚を捕まえたかったらしい。私はてっきり沢ガニを探しているのかと思った。
ただ、その沢から先は河合さんも未踏の地ということで地図で確認しながらひとまず数百mはあると思われる段々畑状のワサビ田の脇を抜ける。ところがワサビ田を抜けてしばらくすると段々あるべきはずの道が見えなくなってしまう。
やむなく河合さんの判断で強引に山の道なき道を駆け上がり、次の尾根を捜そうということになった。山道よりも道になってないところを歩く方が、地面が柔らかくて足に負担が掛からないので私にとっては好都合だったが、踵の浅いスニーカーを履いてきてしまったので、一歩ごとに踵が抜けそうになるのに不便した。
総領ならば、こうした山に入るときにはいつも地下足袋を履くのだが、そのことを河合さんに言うと奥多摩では地下足袋よりも登山靴の方が向いているらしい。倉沢集落の説明文でも引用しているようにこの辺一帯は石灰が多く、草や土の上だけを歩くわけではないので、地下足袋だと足を怪我する可能性が高いそうなのだ。
しかし、河合さんの読みに反して上に登れど登れど一向に山の尾根は見えてこない。そのあたりから河合さんも半分冗談で万一帰れなくても1日分の食料は持ってるからなんてことを言われ出したり(^^;) 結局14時過ぎにようやく尾根っぽいところが見つかり、そこで腰を下ろして弁当タイムとなった。学生さんたちは皆おにぎり等を食べてるようだったが、豊田さんからお湯沸かせるのでカップラーメンの類を持って行くと身体暖まりますよと言われていた私は、コンロでお湯を沸かした河合さんからお湯をいただき、カレーヌードルを啜る。それにしても湯を沸かす河合さん の手捌きは見事だった。
ただ、さきほども「尾根っぽいところ」と書いたように、その尾根は筋を見せたり隠れたり非常に曖昧で、食後は尾根づたいに下山という予定だったが、かなり山中を彷徨い歩くこととなった。っていうか、斜面もどんどん急になってくるは、雨は降り出すは、暗くなってくるは、落石 はあるは、河合さんは途中で一度斜面を滑り落ち掛けるは(河合さんによるとそれは想定内とのこと)と、半ば半遭難状態(^^;) 実は豊田さんからは最初に母も誘われていたのだが、とりあえずここに母が来なかったのは正解だったといえよう。というか、母が居たらこのコースは選ばれなかったかもしれない。
しかし、ここがさすがはランドスケープアーキテクトで植物に詳しい河合さんなのである。あたりも暗くなってきた中で一瞬山間を見渡せる場所に出たとき、目敏くも冒頭で触れた御神木「倉沢のヒノキ 」を斜め下方数百mのところに見つけられたのである。それによってどうにか下山ポイントの目星が付けられ、17時半過ぎに無事下山 。
河合さんによれば一番心配だったのが、トンネルの上を歩いて道路を通り越してしまうことだったという。そう、これが総領の山だったら、とにかく迷ったらひたすら下に降りていけばいつかは道路に辿り着けるが、奥多摩では道路が中腹にあり、そこから下が谷底となっているので、一歩踏み誤れば谷底へと歩いて行ってしまう可能性があったのである。とはいえ、どうにか無事帰れたことだし、東京では滅多に体験できないスリリングな山歩きだったとたぶん参加メンバー皆結構楽しく思っていたはずである。
ちなみに私は中1のときにも友人と奥多摩湖に釣りに来て、愚かにも帰りの最終バスを逃し、トンネルの多い車しか通らないような湖沿いの蛇行する道をトボトボ歩いて駅まで向かわねばならなくなったことがある。幸運にとでも言うべきか、そのときは駅まで車で乗っけて行ってあげるよという親切なオッチャンが現れ、無事その日のうちに帰宅できたのだが(といってもそのオッチャンのことは誘拐か?と疑ってて、友人と共に後部座席でタックルボックスの中からいつでもナイフを取り出せるようにしていた)、何だかそのときと云い、今回と云い、どうも奥多摩という場所はスレスレセーフのスリルを味わさせてくれるところのような気がしてならない。
当時は駅に立ち食い蕎麦屋があって、そこで食べた蕎麦が滅茶苦茶うまかったという記憶があるのだが、現在、駅構内に立ち食い蕎麦屋はなくなってしまっていた。
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2005年05月21日 (土)
朝妻さんがプロデュースする「橡の家−特別見学会 」に行ってきた。
場所は東京世田谷の梅丘。学生時代の友人Nノ が住んでることや、「新釈肖像写真 」で写真撮影に来られた清真美 さんが2003年にグループ展をやっていたので多少は知っている街である。ただ、それらは共に北口にあり、梅丘の南口側を歩いたのは初めてであった。
もちろんどこを通るかでも街並みは全然異なるのだろうが、とりあえず案内に出ていた地図で「橡の家」までを最短距離で歩いてみると、何とも驚くべきことにそこに辿り着くまでの通りは「建築家住宅(by 大島健二 )」が雨後の筍状態で軒並み林立している地帯であった。所謂「郊外」というほど都心から離れてもいない梅丘は新興住宅地にはなり得ない。むしろ古くから住んでいた住人が代替わりして、予算もそこそこある若いオーナーが家を建て替えるなら建築家と!という傾向になってるのだろう。
約束の時間に遅れ気味だったので、そんなにじっくりとは見てはいないのだが、ただ、これ以上「建築家住宅」が増えるとそれは壮観というよりはややもすれば食傷気味とでも言いたくなるような街並みに堕するのではないか?という懸念も感じられた。本来、周辺環境に馴染ませるなり溶け込ませるなり取り込むなりというのは多くの建築家の得意とするところだろうが(それどころかそれは家づくりの前提条件と言えよう)、周囲が「建築家住宅」だらけになってしまったらどうなるのか?──今の建築家ブームが今後も続くのであれば、そんな悩みの生まれる日もそう遠くはないのかもしれない。
「橡の家」のお施主さん夫婦は、奥さんの「幼少の思い出の地」ということで梅丘を選ばれたらしい。敷地自体もその「建築家住宅」通りからは一歩奥まったところにあり、周辺に新しい家もあるものの、所謂「建築家住宅」があるわけではないので、狭小変形敷地の立地位置を存分に生かした周辺のちょっとしたポイントとなるような外観に仕上がっていた。私は建物の東側の道から来てしまったのだが、北側の少し坂になった方からやってきたなら(上の写真が北側から来た場合)初めて来た人はすぐ「お!アレだアレだ!」って思うはずだろうし、住人および付近住民はそれが見えてくることによって「ほっ!帰ってきた!」とどこか安心させられるような存在感をこれから持って行きそうである。私は直接見てないので何とも言えないが、夜にはガラス張りの西側一面がほんのり優しい光を壁面全体に灯すようだから、そうした心の安らぎに加えて周辺一帯のセキュリティ面での安全性も高めてくれるかもしれない。
ちなみにこの日は施主&建築ブログ仲間の garaika さん、bside さんとも現地で落ち合う約束になっていて、早く来られた garaikaさんはすでにご覧になられていたようだが、待ち合わせ時刻に遅れた私を待っていただき内部見学の時間を共有した。そのとき、他にも数組お客さんは見えていたので、朝妻さんは私たちも含めたいろんな方々に挨拶&説明されて、それなりに忙しそうなご様子だった。建築プロデューサーも大変だ。
室内についてはすでに朝妻さんが「感じ方ー人それぞれ 」で賛否両面それぞれの見方を自分で書かれてしまっているのでツッコミようがないのだが、『ガラス張りの家って熱くないの?』の疑問は、garaikaさんも書かれているように「光の透過性のある断熱材をうまく使って、採光しつつ、断熱」することで、5月なのに夏並みに日射しの強かった午後においても無事クリアされていた。ただ、朝妻さんだけが一人、扇子片手に室内外問わず、暑い暑いと汗を拭ってられたのが笑っちゃうところではありましたが(笑)
□◇
関連エントリー
家づくり、行ったり来たり「見学会にて 」
Off Space「オープンハウスでオフ 」
一酔千日戯言覚書2「二瓶渉さん設計・朝妻義征さんプロデュースの小住宅 」
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2005年03月22日 (火)
一酔千日戯言覚書2「丹下健三さんが亡くなりました 」にて日本建築界の重鎮・丹下健三 氏の訃報に接する。それを読んだ時点でまだニュースサイトにその情報は出回ってなかったが、それからしばらくして「建築界リード 丹下健三氏死去 」という見出しでヤフーのトップニュース扱いとなっていた。91歳だったという。
丹下氏の存在は私にとっては必ずしもその輝かしい功績と符合するものではない。80年代末、東京都新都庁舎 計画で当時一番背高ノッポのツインビルプランでコンペを勝ち取った丹下氏の存在は学生だった私の目には政治家の腹黒いドン(金丸信にもちょっと似てたし)のように映っていた。むしろ当時の私は周囲の副都心高層ビル群よりも低い庁舎計画案を出した磯崎新氏のプランの方に惹かれていたものだ。
だが、学生時代の青臭さが抜け、ポストモダン建築よりも近代建築に魅了されるようになってからは、少なくとも公共建築に関してはやっぱり丹下の方が磯崎より全然すげーやと思うようになっていたのである。それには時代背景による素材=経済感覚の違いもあるのでやむを得ないところもあるのだが。。
当時、東京にいた私は一度ライブで代々木・国立屋内総合競技場 に行ったことがあるのだが、そこがオリンピックプール として使われていたのかと思っただけで背筋がゾクッとしたものである。建築で武者震いする経験って他に国内で思い出せるのは白井晟一の作品群くらいのものである。
ところで私は大阪に住むようになってまだ淡路島には行ったことがないのだが、先月たまたま友人の akanem 氏から淡路島南端の「若人の丘」に建つ丹下作の戦没学徒記念館 に行ってきたというメールをもらった。上記掲載写真は彼女が撮ってきた記念館の写真。私も花粉が飛ばなくなった頃にでも行ってみたいものだ。以下に彼女からのメールにあった訪問時の感想を一部転載しておく。
On 2005/02/27, at 21:46, akanem wrote:
今日は、前から行ってみたい、と思っていた丹下健三の幻の作品といわれる、
戦没学徒記念館に行ってきました。
ご存知ですか?(淡路島南端の「若人の丘」に建ってます)
震災後、閉館されたままで、いまや廃墟と化してますが、
最近の建物ではあまり感じたことのない、崇高さというか緊張感を感じました。
すでに崩れかけている石積みの美しさというか、なんというか。。。
建物自体にも力がある、ということを改めて感じさせられました。
中の展示物の一部は残されたまま埃をかぶっていて、
(それも、戦時中の写真や日章旗など)
周りの風景の美しさ、静けさ、建物の美しさとは対照的に、
何ともいえない雰囲気をかもし出していました。
機会があれば、ぜひ。というくらいオススメの場所です。
普通に景色が気持ちいいです。
□◇
※余談1)
丹下健三といえば、建築史家の藤森照信氏がまとめた限定2500部の 丹下健三・藤森照信 著『丹下健三 』があるんだけど、¥28,500- に未だ手が出ません。
※余談2)
丹下健三の公式サイト「KENZO TANGE OFFICIAL SITE 」ってどこが作ったか知らないけど、Flash のバカ使いの典型でアクセシビリティ最悪。特に「作品 」のコンテンツはメニューの「作品」クリックするよりも「プロフィール >代表作品 」で見た方がわかりやすいです。
※余談3)
戦没学徒記念館レポートのあるブログです。
・ポリタン・コスモ「戦没学徒記念館_by_丹下健三 」
・あさみ新聞「戦没学徒記念 若人の広場 」
※余談4)
読売新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。
読売新聞「丹下健三さんが死去…世界の建築界をリード 」 日本の建築界をリードし、「世界の丹下」と評価された文化勲章受章者の建築家、丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが、22日午前2時8分、心不全のため東京都港区内の自宅で亡くなった。91歳だった。
告別式は25日正午、文京区関口3の16の15東京カテドラル聖マリア大聖堂。喪主は妻、孝子さん。
1913年、大阪府生まれ。中学まで愛媛県今治市で過ごし、38年に東大工学部建築科を卒業。前川国男建築事務所に勤めた後、東大に戻り、助教授を経て64年に教授となった。
都市計画を専門とし、機能性と美の融合を図る近代建築を推進。広島市の平和記念公園(49年)のコンペで1等に選ばれて注目され、東京都庁第1庁舎(57年)や東京オリンピックの代々木・国立屋内総合競技場(64年)などの設計で世界的な評価を得た。
大阪万博の会場構成(70年)のほか、海外での仕事も多く、ユーゴスラビア、イタリア、中東などの都市計画、復興計画を手がけた。日本建築学会賞(54、55、58年)や英王室建築家協会のロイヤル金賞(65年)など内外の賞を多数受賞。74年に東大を退官して名誉教授になり、79年に文化功労者、80年に文化勲章を受章した。
以後は東京都の新庁舎(91年)、フジサンケイグループ本社ビル(97年)、東京ドームホテル(2000年)などの仕事がある。著書に「東京計画1960」「建築と都市」「一本の鉛筆から」など。
毎日新聞の訃報記事を記録保存のため転載しておきます。
毎日新聞「訃報:丹下健三さん91歳=建築家 」 東京オリンピックの舞台となった国立代々木競技場や東京都新庁舎など、戦後の代表的建築多数の設計を手がけ、日本建築史に巨大な足跡を残した建築家で文化勲章受章者の丹下健三(たんげ・けんぞう)さんが22日午前2時8分、心不全のため東京都港区の自宅で死去した。91歳だった。葬儀は25日正午、文京区関口3の16の15の東京カテドラル聖マリア大聖堂。自宅住所の詳細は公表しない。連絡先は新宿区大京町24の丹下都市建築設計(03・3357・1888)。喪主は妻孝子(たかこ)さん。
大阪府出身。高校時代、ル・コルビュジェに傾倒し建築家を志した。1942年の大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選するなど、早くから頭角を現した。東大建築学科助教授を経て、64〜74年、都市工学科教授を務める一方、61年、丹下健三都市建築設計研究所を開設した。
この間、49年の広島市平和記念公園及び記念館の設計競技で1等入選。また、丸の内の旧東京都庁舎や愛媛県民館、香川県庁舎など公共建築を次々と手がけ、建築界に大きな地歩を築いた。
その存在を一躍国内外に知らせたのは、ユニークな曲線の屋根で、東京オリンピックのシンボルともなった64年の国立代々木競技場。つり構造が生み出した巨大な内部空間は、開かれた都市像の象徴とも評された。
以後、国家的プロジェクトの中心的担い手となり、70年の大阪万博では基幹施設プロデューサーとして、お祭り広場を設計。海外の都市再開発にかかわる一方、東京都の新都庁舎の指名競技設計にも1等入選。91年にオープンした同庁舎はスケールの大きさと壮麗なデザインで話題を集め、新宿新都心でも際立った建築となった。
79年、文化功労者。80年、文化勲章を受章。東大時代は丹下研究室から磯崎新、黒川紀章、槙文彦ら世界的な建築家を輩出するなど、後進の育成にも大きく寄与した。3冊の作品集や自伝「一本の鉛筆から」の他、「日本建築の原形」「人間と建築」など著書多数。
◇建築や都市設計が社会発展とともにあった時代の最後の巨匠
日本のモダニズム建築をリードした丹下健三さんが22日、亡くなった。広島平和記念公園、東京オリンピックの記念碑的建造物・国立代々木競技場、東京都庁舎。戦後日本の各時代を象徴し、人々の記憶に残る名建築を手がけてきた人だけに、その死はまさに巨星落つの感を与えずにはいない。
戦時下の東大大学院時代、日本の大きな設計競技で3年連続1等を獲得。建築界の鬼才として、すでにその名は広く知れ渡っていた。
戦後の都市復興計画に際し、広島担当を強く望んだのは、自分が高校時代を過ごすとともに、そこが両親の最後の地でもあったからだろう。
広島市の仕事が戦後復興のシンボルとすれば、60年代の高度成長期の記念碑は、オリンピック功績賞を受けた国立代々木競技場にほかならない。丹下さんは従来の柱りょう構造をやめ、「大工さんがヒモをつるして屋根のこう配を決める」ように、スチールの張力によるつり屋根構造を採用。多数の観客が柱に邪魔されず、流れるように移動できる豊かな空間を生み出すのに成功したのである。
丹下さんはその後も、世界建築界の巨匠として名声を博していくが、社会的な話題性という点で他を圧するのは、91年に完工した新宿の東京都庁舎だろう。総工費が1500億円以上にふくれ上がり、デザインの豪華さが際立つ外観も手伝って、当時は「バブルの塔」などの批判にさらされもした。
しかし、丹下さんは新都庁舎を「自治のシンボル」と言い切り、「批判するのは建築の贅(ぜい)を知らない人」と、最後まで動じなかった。その意味で丹下さんは、建築や都市の設計が社会の発展とともにあった時代を代表する、最後の巨匠だったのかもしれない。もしも丹下さんがなお健在であったなら、あらゆる発展神話が崩壊した現代の建築や都市のありようについて、どんなビジョンを差し出してくれただろうか。【三田晴夫】
■建築家、磯崎新さんの話──日本代表する仕事
日本で初めて近代建築を体現した建築家といえる。丹下さんの出現は20世紀後半の日本の建築を方向づけた。戦後、70年代前半までの時期に最も活躍し、広島平和記念公園や代々木体育館、大阪万博など、国家的なプロジェクトで中心的役割を果たした。戦後日本の成長とともに歩み、かつ日本を代表する仕事をした。巡り合わせもあるが、まれに見る建築家であり、それに値する実力を持っていた。
70年代以降、日本で国家的スケールのイベントが姿を消すに従い世界に場所を移し、そこでも中東諸国の国家的な建築物を手掛けた。突然の知らせを受け、時代の一つの大きな区切りを感じた。
■藤森照信・東大教授(建築史)の話──戦後史そのもの
日本人が思っている以上に世界的な建築家で、戦後日本が誇る造船や橋りょうの技術を使った代々木の競技場は世界に広く知られている。先端技術を駆使しながら日本の伝統的な美意識を取り入れた点でも高度な建築物だ。日本で一般大衆に名前を知られた最初の建築家だろう。広島の平和記念公園、東京五輪、大阪万博など、その足跡は日本の戦後史そのものといえる。
■建築家、東大名誉教授、安藤忠雄さんの話──大きな刺激受けた
世界中の建築家が、とりわけ広島の平和記念公園、香川県庁舎、代々木体育館に大きな刺激を受けたと思う。私たち後に続く建築家の心の中に、永遠に先生は生き続ける。
■建築史家、東大教授、鈴木博之さんの話──日本のモダニズム建築の父
日本の近代建築を真の意味で国際的にした巨人だ。先生に続く建築家が国際的に活躍する、まさにその下地を作った。その意味で、日本のモダニズム建築の父と言っていい。
◆主な作品・業績一覧◆
広島平和記念公園(広島市)1950年
香川県庁舎(高松市)58年
国立代々木競技場<代々木体育館>(東京都渋谷区)64年
日本万国博覧会マスタープラン(大阪府)70年
草月会館(東京都港区)77年
サウジアラビア国家宮殿(サウジアラビア・ジッダ)82年
赤坂プリンスホテル(東京都千代田区)82年
アラビアンガルフ大学(バーレーン・マナマ)88年
パリ・イタリア広場<グラン・テクラン>(フランス・パリ)91年東京都新都庁舎(新宿区)91年
フジテレビ本社ビル(東京都港区)96年
※余談5)
大阪万博での丹下氏は岡本太郎に引け劣らぬ原動力となった立役者のうちの一人だった。おそらく愛知万博直前の死にそうした因縁を持ち出す記事が多発されるだろうが、それはちょっと丹下氏には失礼では?と思ってしまうのは愛知万博をよく知らないから言えることなのか? どーなんでしょ?
愛・地球博 (^^;)
※余談6)
BLOG×PROCESS5「世界旅行 Vol.11 丹下 健三 」に Google Satellite による代々木国立屋内総合競技場の映像が掲載されてます。一般に建築家は模型でモノを考えてるだろうからこうした俯瞰イメージは思いっきり想定内なんだろうけど、ビジターとしてこういう視点に立つとなかなか刺激的なものです。
そして最後にはなりましたが、丹下氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。拝
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2005年03月12日 (土)
昨秋、庭づくりで組むための石が足りなくなり「石 求ム! 」という冗談のようなエントリーをしたことがあった。野次馬後見人のCT氏からもそんな募集告知に応じる奇特な人間いるのか?とからかわれていたのだが、それにコメント付けて来られたのが当ブログでは初コメントとなった「家づくり、行ったり来たり 」の garaika さん。
尤も「石アリます」のコメントではなく「拾ってくるというのはダメですか?」というアドバイスではあったのだが、石ってもんはやはり投げてみるものである。コメントを受けた直後に私はCT氏に「garaika 氏、どういう人かはよーわからんが、ブログ結構おもろい」というメールを送信している。実を言うとそれまでの私は自分で施主ブログをやっていながら、rattlehead 氏を唯一の例外として(今でもその存在自体例外的ですが)、あまり余所の施主系ブログを「はてなアンテナ 」に登録してまで購読するような施主ではなかったのである。
さて、あまり前置きをだらだら続けると garaika 邸オープンハウス のレポートを待ち望む garaika ファンの施主ブロガーの皆様をヤキモキさせるだけでしょうから、今回のエントリーは「紀行編」として訪問時の事象に限定し、次回を「心象編」として冒頭の話とも結びつけながら、訪問して以降に頭の中をぐるぐる回り続けている由無し言へと論を展開させて行きたい。尤も叙事と叙情を分離記述させる技量が私にあるかという点で甚だ疑問な船出ではあるが、、それは臆せずということで、いざ、進水!
JR東海道本線からローカル線に乗り換え、garaika 邸最寄り駅に到着したのが13:50。garaika さんから送られてきたオープンハウスの案内状(設計事務所作成)と念のためにとマピオンでプリントした周辺地図を取り出し、おおよその場所を見当に入れてからそれらをコートのポケットに仕舞う。地図を片手に garaika 邸へ直行しなかったのは家の近くに川があるから仮に迷ってもそれが目印になると思ったのと、あとは周辺の様子を少しでも多く見ておきたかったので、むしろ積極的に自分を迷わせようとしたのである。ちなみに案内状には最寄り駅から徒歩約20分と書かれていた。
で、結果から言うと最短距離からは多少迂回した程度で20分弱で garaika 邸前には到着してしまった。しかし、行きと帰りの町並みはそれなりに異なるものだったので、やっぱりそうしておいて良かったと思う。往路で見た光景にはとにかく壁面がトタンの家というのが多かった。後で garaika さんに聞けばこのあたり一帯は空襲で焼けたのだという。だから戦後の物資が不足する中、急拵えで建てられた家がそのまま残ったという風に考えられるのではないかと思うのだが、帰りに通った最短距離の道沿いではそういうトタン家の件数が減っていた。川の右岸左岸、また garaika 邸前を通る一本だけ変則的に斜めにカーブした道を挟んで、戦火の状況などが違っていたのかもしれない。ただ、私自身の性向として錆の付いたトタンの持つ質感って何とも溜まらなく心をそそるものがあるもんで、デジカメを向けていたのは専らそういう家ばかりだった(上の写真をクリックして4枚続く)。
それと今回、ここに来る前に福島の方にも行って来たので、余計にそれを感じさせられたのだが、屋根の形状、角度って地域毎に本当に異なるものだということを改めて実感。福島では積雪に備えてだろうけど、家の左右のみならず前後においてもとにかく軒が深い。それに比して温暖な気候のこの地帯はトタン屋に限らず概ね緩やかな角度の切妻屋根の家が多く(ちびまる子ちゃんの家を思い浮かべるとイメージしやすいだろう)、軒も短め、それから破風板の下のところに構造材である梁が意匠的なアクセントとして突き出ているケースが多い。これを見て garaika 邸の「渡り顎 」のことを思い出してしまったのだが、ひょっとして建築家は自身の得意とする意匠としてよりは、周囲を歩き回って見た結果として「渡り顎」の突き出しを選んでいたのではないか?という風にも思えてしまった。
とはいえ、まち並みに溶け込むという意味では、それはどの新築の家でも最初は必ずそうであるように、やっぱりまだ浮いた建物として garaika 邸は見えてきた。その証拠に garaika 邸の前の通りに路地側から不意に出たとき、もうすぐに「アレだ!」とわかってしまったワケで、、まあ、ブログで断片的に外観像を見ているせいもあるんだろうけど、しかし、garaika 邸は経年変化してそれなりに周囲と馴染むようになっても、やっぱりそれなりに目立つ、云わばその辺一帯の目印的役割を果たす家になるのではないか?と思う。garaika さんは「外とのつながり──外観についての一つの要望 」のエントリーで「外界を拒絶するような閉鎖的なイメージの外観にはしてほしくない」と建築家に要望されたそうだが、garaika 邸の町とのつながりは単に周囲に溶け込んで背景化するというよりは、付近の住人たちが garaika 邸の存在感によって安心を得られるようなところ(お城にはそういう要素が強くありますが)──それは garaika さんのお祖父様が丹精込めて構えられた古屋のときから引き継がれてきたものではないだろうか。
さて、ようやくお宅拝見。時計は14:15。
最初に車庫スペースに備えられた受付で署名。設計事務所の作成した印刷物と工務店のチラシを渡される。その際、受付のお姉さんが荷物を預かってくれたのは大助かりだった(それなりに小旅行だったし、PowerBook も持ち歩いていたので)。ただ、受付のところが混み合っていたので半ば押し出されるように中庭に面する外縁側の方にいきなり出てしまい、縁側越しにしばし古屋に目が釘付けとなる。やばい。 気を取り直して軽く車庫スペースを見回してから玄関ポーチをくぐる。そして後に裁縫室とわかる部屋を何のスペースだろう?と思いながら靴を脱ぐと、居間・食堂、廊下を通してその一番奥に忽然と輝いていたのが、施主ブロガーたちの間で一時話題騒然となった男性用小便器 なのであった。玄関の框あがって一番最初にはっとさせられたオブジェが男性用小便器なのである。それも遠近法の消失点的な位置に後光でも差し込むような感じで設置され、まさに garaika さんこだわりのというか、何とも神々しい存在感で自ずと足が真っ直ぐそちらに引き寄せられて行ってしまった。平常は引き戸閉めててそういう見え方ではないのかもしれないけど。。
男性用小便器を拝んだあとは、何だかもう欲望の赴くままにといった具合に受付直後に見た古屋の方に足が向かってしまう。丸太梁を見て、三鷹金猊居のことを思い出したり、欄間部分の作りの違いを比較してみたり、庭に目を見やったり、そして内縁側から庭越しに車庫スペースや外からは窺い切れない中庭に面する新築外観を眺めたり。
ようやくそのあたりで落ち着いてきたというか、garaika 邸の空気感といったものに馴れて、ある程度は冷静にまわりが見渡せるようになっていた。フローリングはうちと同じナラ無垢だなとか、キッチン がどこのメーカーのが入ってるとか、これが施主支給のごっついガスコンロ か〜とか、、なんか微妙にブログで書かれてたことの確認作業に入っている(笑)
そして2階へ。ここでも同じように完全にブログ確認作業。おぉ、子供のお気に入りの手摺りの穴 だ!とか、ここが越屋根 と地窓によって空気の流れが出来るところか〜とか、1Fと2Fの上下の関係性を見つめてみたり、さらにこの辺に来るとだいぶ余裕も出て来て、特にブログでは触れられてなかったような(少なくとも私の記憶の内では)細かい気の利いた演出(特に採光と空間を広く見せようとする)にも目が向くようになり、くぅ〜、ニクいね〜と心の中で呟きまくっていたのである。そんな頃だろうか、見学客を連れて案内してる人に対してお客さんが「今日は奥様は見えてないの?」と言われ、それで garaika さんがどの人か目星がついたのである。が、そのときは案内の真っ最中だったのでちょっと声も掛けにくく、私は一人でルーフデッキの方に出てみた。
ちなみにこの日、garaika さんのブログでは「晴れ」だとは書かれているが、風が強く吹き荒れ、3月にしてはかなり寒い日だった。今回、私は先にも触れたように福島にも行っていたのでダウンコート持参で出向いたのだが、その福島にいた3/10(木) は一度もコートを羽織ることのないくらい暖かく、2日後、温暖なはずのこちらではコートは手荷物にしかならないだろうと思っていたのが一転、肩をすくめて歩きたくなるほどに寒かったのである。いや〜、受付で荷物預かって貰ったときにコート脱がなくて良かったです。ルーフデッキ に出ても楽しめる要素はいろいろある(ルーフデッキに設えられた私の妻が憧れの螺旋階段をのぼって涼み台 にあがると越屋根がどんな風かもはっきりわかるし、そして眺望が素晴らしい)ので、でも、コート着てなかったらきっとすぐに床暖の効いた適度に暖かい室内に戻りたくなってしまっただろうから。実際涼み台にいたとき、ルーフデッキを出てちょっと覗くだけで部屋に戻ってしまった勿体ない見学客もいたのである。
概ね一通り見回したところで、受付で garaika さんを呼び出してもらうのが筋だろうと1Fに降りようとしたところでちょうど garaika さんが階段を上がって来られて、そこでようやくご挨拶。デジカメに記録された時刻で確認する限り、それがおおよそ14:35。つまり私は訪問後約20分、おくゆかしくしていたのである(笑)
ともあれ、ここ数年ひきこもり度が増して俗に言う「ニート」と化しつつある私は半分対人恐怖症の気もあって、garaika さんとのご対面にあっても妙に昂揚してしまって、実はそのとき何を話したかをあまり覚えていない。それにそもそも記憶力に自信のない私にとってはデジカメ画像に記録された時間だけが記憶を呼び戻す手掛かりとなるものであるのに、garaika さんと話し始めてからは写真もそれほど撮ってないので想起する術が失われてしまっているのだ(ま、単に脳が半分壊れてるだけなんですが)。
ただ、いずれにしてもそれからの時間は garaika さんに案内してもらう形で2F、ルーフデッキ、1Fという順で見て回った。数少ない想起可能なことを書き出すとすれば、まず2Fのワークショップ。私はブログで読んでいたときに今イチ理解できてなかったんだけど、garaika さんの言われてた「ワークショップ 」というのは部屋(廊下でもある)の名前のことだったのである。ここには「ワークショップ 2 」のエントリーでも書かれているように4m超の作業机が一番明るい光のもと、デデーンと存在感を示している。そして机の下には同エントリーでも書かれているように大判用紙が収納できるスペースが用意されていたりと趣味・用途に合わせた大胆且つ繊細な造作が施されている。何だかこれを見てると子供はもう学校の工作室なんかじゃやってらんねーや!ってそのうち言い出すようになってしまうんじゃないかとさえ思えてしまう。まさにワークショップな場であったわけだ。
作業机越しには真下に中庭、右手に古屋の屋根瓦、左手にルーフデッキと車庫背面のスノコ状ルーバー、そして視線を前方に送るとお隣さんの工場と煙突が見えてくる。私は昭和の名残のある町工場の雰囲気というのが嫌いではないので(それこそ錆付トタン好きと繋がる)さほど気にはなるものでもないが、garaika さんはその利点としてその工場のこちらに面する側に開口部が一つもないということを挙げられていた。確かに隣地から覗かれる心配が全くない(その逆もまた然り)からこそ中庭に向けてこれだけ開放的な明るいスペースが1、2Fで保てるわけだ。あ、それと古屋の屋根瓦が真新しく張り替えてあった。確かに三鷹金猊居でも一番ガタが来てたのが屋根なのである。
続いて再びルーフデッキに出て涼み台 にあがる。そこですっかり忘れていたプレゼントの存在を教えられる。富士山である。東海道を通るときには必ず見えるかどうか確認するし、実際今回も三分の一雲に掛かった富士山 の姿を拝んできたのだが、ここに来てすっかりその存在は忘れてしまっていた。ブログで富士山が涼み台から見える と書かれていたことも。だから先ほど涼み台に出たときには中庭側の方ばかり見てたのだが、確かに garaika さんの指さす方に富士山は見えていた。そしてブログにもあるようにどう頑張って写真を撮ろうにも電信柱 が被ってしまう。garaika 一家にとっては何とも口惜しい話だろうが、「家づくり、行ったり来たり」一読者としてはそうしたオチが現実に確認できるのもまたちょっと楽しかったりする(笑)
こうして書き出すと不思議と色々記憶が蘇ってくるが、そういえばルーフデッキの床面を道路側一間分 garaika さんご自身の提案でデッキを敷かずに透明の波板ポリカーボネートに変更されたらしい。確かにここが全部デッキなのと一部光が落ちるようになっているのとでは1Fの車庫の明るさは内部的にもまた外から見てもだいぶ違うものとなっただろう。ただ、ひょっとすると奥の中庭まで見通すという意味では車庫内が暗い方が光が干渉し合わず、より効果的か?とこれを書きながら思ったが、そこのところは住み手の判断というものだ。何にせよ garaika 邸は本当にどこの部屋に居ても光が満ち溢れているな〜という印象が強いのだ。
2Fでもそうだったが、1Fでも収納に対するちょっとしたところでの気の利いた工夫について説明を受け(garaika さんはそういう話を本当に楽しそうに話してくれる)、正直この家を見てから自分の家を建てたかったな〜と思わずにはいられなくなってしまった。その辺については改めて反省モードのエントリーで触れたい。1Fで他に感心したのはキッチンカウンター上部に設えられた鏡。これが明るくゆとりある居間・食堂空間をさらに拡げる役目を果たしている。garaika 邸は視線の一つ上と腰を屈めて見えてくるところで心憎い演出が随所になされているのだ。
その後、修復工事が間に合わなかったということで障子を閉めたままにしてあった古屋の離れ数寄も見せていただき、ここで garaika 夫婦が結婚式をされたという話も伺った。「古屋の良さ──超低低の実力 」のエントリーでも書かれているように「正月は長火鉢を囲んで家族でお屠蘇を飲む」、そんな具合にここが今後より一層「晴れ」の場として活用されていくのだろう。「晴れ」の場を古屋に与え「褻」の場を新築スペースが担う──今後、古屋とのハイブリッド増築を考える施主にとっては見落とせない模範解答がここにある。そうそう、同エントリーに書かれている床下忍者話、私はそのエントリーで書かれてたことをすっかり忘れていて、同じことを garaika さんに向かって話してしまいました(恥)
それから内縁側のサッシとして昔のまま入ってる手延べガラスのことも「ほら、わずかに波打ってるでしょう」とブログで書かれてるのと同じように自慢されましたよ(笑)
三鷹金猊居ではさすがに冬の寒さに耐えかねてだろうが、私が物心着く頃には現代のサッシに変わってしまっていたが、こうして「晴れ」の場としての機能をより優先的に求められるようになった以上、この古屋空間は生活の利便性を更新する必要はそれほどない。徹底して「骨董」を温存できる場所として成立するのである。
それから一旦外に出て、自転車置き場 となっているゆとりたっぷりの(garaika さんにとってはそうでもないらしいが)土間スペースを裏に回って見せてもらったり、車庫のすのこ状ルーバーを閉じたときの様子を見せてもらったり、そして最後にもう一度居間・食堂スペースにあがって建築家さんとも挨拶して、お茶をいただきながら図面や工事過程の写真、それからお父様が棟梁となって家族総出でセルフビルドされたログハウス の写真などを拝見した。おそらくこのログハウスも行ったら呻らされまくることになるに違いない。いつの日か、施主ブロガーで集結して遊びに行ったら楽しそうだ。
ちなみにこの日の私は東京から大阪まで全行程を青春18きっぷ を利用した鈍行列車移動としていたため、最後にもう一度一人でぐるっと1、2Fを回っておさらいしたいところだったが、汽車の時間も気になり、そろそろ帰りますと garaika さんや建築家さんに別れの挨拶をした。garaika 邸を出たのがちょうど16:00。
最遠方見学者だったこともあってだろうが、garaika さんには1時間半近くお付き添いいただくことになってしまった。感覚的にはあっと言う間だったのだが、半日しかないオープンハウスでそれだけ私のために時間を割かれることになってしまったのはちょっと申し訳なかったように思う。なかなか一緒にまわっているときって露骨に腕時計も見にくいもんで、、そういえばまだ引越前だし、家には時計が設置されてなかったが、ひょっとすると1、2Fの同じ位置、つまりコの字型建物のちょうど中心となる場所に掛けられるのだろうか?──そんなことを想像してみるのもこれまた楽しい。
そして帰りの汽車の中では言うまでもなく長旅用に持参した本の活字はまるで頭に入らず、ただただ車窓風景をぼんやり眺めながら頭の中でぐるぐると色んなことが駆け巡っている状態を持て余していた。それらについては当初の予定通り、次回の「心象編」へと繋げて行きたい。
また、本エントリーにあたって、この記事内容に相応するカテゴリーがないということに気づいたので新規に「町・街・建物探訪 」というカテゴリーを作成することにした。一応は家づくりが終わってしまった現在、今後もこのブログを続けて行くためにもそういうカテゴリーはあった方が何かと良さそうである。特に今私の住んでいる大阪で見つけた面白い家やスポットなどを紹介していくのにも便利そうだ。尚、このカテゴリーのヘッダ画像にはこのカテゴリーが生まれる発端となった「石 求ム! 」のエントリーと掛けて garaika 邸古屋の内縁側から降りたところにある沓脱石の写真を使わせていただくことにした。下駄はこれから踏み出すというイメージである。
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