2006年10月26日 (木)
1932(昭和7)年に描かれた『南天絵圖』は、サイズ W725×H1,200mmで、絹本に着彩・軸の仕様。保存状態は前回紹介した『鷺圖 (仮)』よりはマシな環境といえるだろうか? 一応は桐の絵具箪笥の下段抽斗の中に絹本を丸めた状態にして包装紙で包んで収められていた。タイトル・年数情報はその包装紙に祖父がペン字で書き記していたものによる。表装は昔から何かとお世話になっている三鷹の飛高堂にお願いした。
1932年というと祖父が東京美術学校の日本画科を卒業する前年にあたり、学内の課題として描いていた可能性も高い。そう思って同期の花である杉山寧氏のアーカイヴを調べてみたところ、『南天図』という作品を1929(昭和4)年に描かれていることがわかった(鎌倉大谷記念美術館蔵)。しかし、3年早く描かれている上に葉の色付き方もまるで違う。学内の課題で描いたと早急に結論づけるのはちょっと難しそうだ。
右の画像が『南天絵圖』の表具を除いた全体像を複写したもので、丸井金猊リソースの中でもとりわけ描写の細密度が高いものであることは画像をクリックしてこちらにアクセスすれば、実物をご覧になられたことのない方でもある程度は理解できるはずだ。実際、この時期の動植物を中心とした静物画を、コンセプチュアルな画題を求めた活動期後半(といっても20代後半だけど)の大作よりも好まれる方は意外と多い。それは画のリアリティをどこに求めるかによっても違ってくるのだろう。
私個人が興味深く見ているのは、冒頭で掲載した南天が実を付けた部分のディテールである。これもほとんど実物大となる Largeサイズ にして見てもらうとより一層わかりやすいだろうが、実の幾つかの塗料が剥離し、下塗りした明るい朱色が浮き出ててるように見える部分があることにお気づきいただけるだろうか? 私にはその塗料の剥離した調子がより一層南天の実をリアルに見せることに貢献しているように感じられるのだ。それは祖父が最初から剥離を想定して描いていたのか、それとも剥離したように敢えて見せかけて描いたのか(つまり剥離していないということになる)、そこのところはよくわからない。ただ、どうも out of control のボーダーラインをさまよう事象に心吸い寄せられがちになってしまうのは私の体質とでも言うしかない(汗)
ところで今回の展示では大作屏風『壁畫に集ふ』に、新しく出てきた『霜晨』『芥子花圖(仮)』、あとは常設状態になってる『鷺圖(仮)』を出すということが決まっていた以外は現場判断で展示物を決めようということになっていた。それで芸工展の行われている秋だからということで、季節に合わせて南天、百合、椎茸、西洋芙蓉といったモチーフの画が選ばれることになった。まあ、芸工展の行われる季節は毎年秋なので、毎回秋モノを選んでいたらすぐネタ切れになってしまうとも言えるのだが。。
ともあれ実家には三鷹金猊居から持ってきた南天の鉢が、2Fのバルコニーに置いてあり、展示期間中、まだ『南天絵圖』のような実までは付けなかったが、徐々に葉を色づかせ始めていた。いよいよ秋も本格的に深まっていきそうな気配だ。
【写真】2006.10.22 10:21, 谷中M類栖/2f バルコニーにて
【補遺】展示終了後に、祖父が遺した下絵を再確認していたら、この『南天絵圖』の下絵も出てきたのだが、驚いたことに上記の軸装した『南天絵圖』はその下絵の左半分で、実は鳥の描かれた右側半分があったことが判明したのだ(下絵画像参照)。以前に下絵もすべてチェックしたつもりでいたのに、すっかりその事実を忘れていた。こういうものはしっかり情報整理して書き残しておかないといけない。
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2006年08月29日 (火)
上の画像は長らく私が PowerBook のデスクトップ用壁紙にしているものである。
「CWVF≒臭突」のエントリーで、ちはるさんから「子供の頃はココからサンタさんが入ってくるのだと信じたものです」というコメントを受け、思い出したのが私も子供の頃、つまり三鷹金猊居在住時代に風呂場の煙突を見上げながら、首を傾けつつもそれでもサンタクロースを信じようとしていたことである。
三鷹金猊居は敷地内に風呂場が独立して存在する、それだけ聞くとかなり贅沢な家だった。しかし、田舎育ちの妻でさえ驚いたように、その独立風呂小屋ともいえる風呂場はなかなか年季が入っていて、戸・窓はガタガタのスカスカ、ある意味、覗きもし放題。冬場は冷たい風がピューピュー吹き込んでくるような、裸になったら即風呂に飛び込まないとやってられん!くらいのオンボロ風呂だったのである。
風呂は木桶でガスで沸かし、そのガスの換気口ということだったのだろうか? 煙突が付いていた。しかし、風呂を沸かしても煙が出たわけではないので、むしろ臭突に近いものだったと言えるのかもしれない。
小学校高学年になるくらいまで純粋培養の超無邪気少年だった私はサンタクロースの話も何の疑いもなく信じてしまうようなアホな子供だった。ただ、そんなサンタを信じつつもちょっとだけおかしいなとは思ってもいたのである。それはまず第一に煙突の穴が通気用の細い穴しかなくて、とても人が入れるような大きさではなかったこと。もう一つは風呂場が独立しているので、どうやって私の寝ていた母屋まで入ってきたのか?ということ。そういうプラグマティックな面だけは空想世界に対する無思考ぶりに対し、多少は冷静に考えようという側面を子供ながらに兼ね備えていたようである。
デスクトップの壁紙に冒頭の画像を選んだ理由は色相のバラツキが少なく、彩度抑えめで背景として目に鬱陶しくないというのが第一ではあったが、どこかこの煙突には何とも言い難い懐かしさのようなものがあり、それを無意識裡に選び、長く使い続けている理由にも繋がっているのだろう。そしてまたそれを無意識裡に日々見続けていることが私の必要以上の「CWVF≒臭突」への興味・関心にも繋がっているのかもしれない。
臭突を通れぬサンタの最大のプレゼントは「臭突」そのものだったのである。
【写真上】2002.10.07 09:33 三鷹金猊居・風呂場の煙突・モデル:ウスケ
【写真中】2002.10.03 10:53 三鷹金猊居・風呂場の浴室・モデル:ウスケ
【写真下】2002.10.14 05:36 三鷹金猊居解体日の早朝・風呂場の正面写真
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2006年07月15日 (土)
3連休の初日、旅欲求不満気味の妻と近江八幡に日帰りで行ってきたのだが(詳しくはLBGO「近江八幡日帰りの旅・その1」参照)、そこで思わぬものと巡り会った。
古くから三鷹の実家にあったもので、谷中にも持ち込みはしたものの、1階で行き場もなく水屋箪笥の上に置かれた「行器(ホカイ)」である。それとほぼそっくりなものが2器、近江八幡の歴史民俗博物館に展示されていたのだ。
この行器、実はこれまでどういう漢字なのかを知らなかった。基本設計期間中に「家具・建具・古材 再利用リスト」を用意したときにもそこではどういう漢字なのかわからず「ほかい」と平仮名で書いてしまっている。「ほかい」という呼称を教えてくれた母も漢字まではわからず、前任建築家たちとの間でも、豊田さんとの間でも「ほかい」と平仮名のまま、図面上に記入され続けてきたのである。今にして思えばググれよ!と言いたくなるところだが、当時もググってはいたものの出て来なかったのか、その辺のところは忘れてしまった。
近江八幡の歴史民俗博物館ではその行器に「行器(食器を運ぶのに用いる容器)」というキャプションが付いていて、もちろんふりがなも振ってあった。
ちなみに私は漢字や読み方は知らなかったものの、用途については子供の頃から知っていて(実際うちの行器にも器が入っていた)、それをなぜ知っていたかをこれから書くこととしよう。
小学校の何年生の頃だったか忘れたが、「附子(ブス)」という狂言を学校で観に行ったことがあった。太郎冠者と次郎冠者という二人の召使いが出てきて、主人が留守にする間、ある容器(附子)の蓋を開けるなと命じられる。その附子の中には本当は砂糖が入っていて、それを主人は留守中、誰にも食べられたくなかったので「附子を開けると中の毒で死ぬぞ!」とまで脅して出掛けるのだが、太郎冠者と次郎冠者は興味に駆られて附子を開けてしまい、さらには中味を全部食べてしまうという話である。
・・と思っていたら、実際のところはちょっと違った。
狂言 「附子」というページなどによると、まず「附子」というのは容器ではなくて、植物から作る毒(何と!トリカブトらしい)のことで、主人はその容器には本当は砂糖が入っているのに「附子(毒)が入っているから、その風に当たってもいけない」と二人を脅して出掛けたのだそうな。当時から国語に関しては至って低脳だった私が如何にも犯しそうな勘違いではあるが、国語嫌いの私でもこの話は妙にインパクトが強かった。なぜって「ブス」だからである(笑)
そしてこの学校で観に行った狂言では「附子」を入れた容器に件の「行器」が使われていたのである(ちなみにその容器は壺だったり、桶だったりと多説あるようだ)。なので、当時の私は「うちにはブスがある」としきりに自慢していた記憶が残っている。
ここで悪戯好きの少年であれば、当然さらなる好奇心に駆られることだろう。すなわち「うちのブスは大丈夫だろうか?」と。そして私も親や祖父母には内緒でこっそりブスの蓋を開けてみたのである。すると何と言うことはない、そこに入っていたものとはまさしく行器の用途そのままに漆塗りの器(茶碗)だった。あのときのがっかり気分(+ひそかな安堵感)と言ったらなかった。そういう体験は得てして後々まで残るものだ。
基本設計で三鷹金猊居から谷中へ持って行く家具類をリストアップしていたとき、私は言うまでもなく当初「ホカイ」を「ブス」と呼んで話していた。当然、ほどなく母からのツッコミを受けることになるわけだが、それでもその漢字は知らぬまま数年、それが今回の近江八幡の旅で「行器」という漢字に辿り着き、何となく私は少しだけ自分が大人になったような気分がしたのである。
【写真上】2002.10.04 01:36, 三鷹金猊居 畫室 床の間にて
【写真中】2005.05.25 09:38, 谷中M類栖1階 展示スペース(ちなみに行器の手前の趣味の悪いカバーは、当時、実家では無用でしかなかった電動アシスト自転車に被せられていたものである。現在その自転車は私が大阪まで乗り帰ったため、ない)
【写真下】2006.07.15 16:40, 近江八幡 歴史民俗博物館にて
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2005年06月18日 (土)
6/18(土) は朝6時半に起床。
油屋旅館の天空風呂を運良く貸切状態で満喫して、9時半前に泰大叔父邸(現在は長男の泰n叔父さん御夫婦が住まわれている)に向かう。
そこで次男の善n叔父さんとも落ち合い、善n叔父さんの運転する車で、まずは祖父母の眠る墓地へ行った。というのも、墓地の場所が所有する山林への山道入口脇にあるのである。そこから車で無理矢理山に分け入ること約10分。徒歩だと30分くらい掛かるということらしい(私は本当は歩きたかったが)。
母も私もこの山に入ったのは初めてのことであった。母によれば、持ち主だった祖母でさえ、実際に見ているかは疑問とのこと。ただ、この山林の木が切り落とされ、三鷹金猊居の丸太梁や床柱等の主要木材として利用されたことは確かである。つまり祖父は間違いなくこの地に足を踏み込み、どの木を使うか考えていたはず。
現場に到着して、まずは地図を片手に泰&善n叔父さんたちにおおよその境界を示してもらうことになった。近年、義父とM茸狩りをするようになって山に入る機会が増えているのだが、そこが自分の持ち物だという視点で山を見たことはなかったから、何とも不思議な感覚である。
ただ、うちの所有する区画というのは特にこれといった目印が付けられているわけではないものの、かなり容易に判別できるところだった。
というのも、うちのまわりの山林は皆、杉なら杉、桧なら桧という具合に均質に植林されているのに対し、うちだけ好き放題いろんな樹木が生えているのである(笑)
広葉樹が多いせいか、下草も青々と茂り、ところどころには蛇苺やグミのような赤い実なども見つけることができる。
まあ、これは私が山の素人だから思うだけの話かもしれないが、私はそういう色とりどりの野蛮な山の方が好きだし、そういうところもそれはそれで残ってないと!と安易に思ってしまうのだが、エコロジカルな観点からどちらが望ましいことなのかはよくわからない。もちろん将来的にこの山の木を何本か切り出して何かするということも考えないわけではないが、何はともあれこの山林を手放したくないという気持ちだけはより一層強いものとなった。
泰&善n叔父さんにこの山林が二束三文(1869m2=565坪:約7万円)でしか売れないとして、では逆に買おうとしたら同じように二束三文で買えてしまうものなのか?と質問してみた。すると答えは無理というか、まずそれ以前に売ってないだろう(売ってくれるところを探すだけで一苦労だろう)という返事。
ただ、この質問を投げ掛けたことによって、私がこの山林を手放したくないと思っていることは朧気に伝わったように思う。帰りの車では二人とも持っててどこに迷惑が掛かっているというわけでもないので、わざわざ手放す必要もないか〜というような口調に落ち着いていた。母も同様の判断であったようである。
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2005年01月20日 (木)
Yanaka*M3c ── フォトログ1F編をアップ。
ギャラリー兼ピアノ室メインの1Fはほぼ一室空間なため、仕切ることによって生まれる見せ場は少ないが、空間全体の雰囲気や華燈窓・丸太列柱といった三鷹金猊居からの再利用古材を懐かしんでもらえたら幸いである。
届いたばかりの光庭完成写真も追加。これで残すは外観のみ。
2005年01月12日 (水)
前回の3F編から随分日が空いたが、Yanaka*M3c のフォトログ2F編をアップ。
三角形バルコニーに始まり、三鷹金猊居からの古材を再利用したダイニング〜居間、それから階段脇本棚、書斎にキッチン、洗面所と3Fに較べて見所は多い。
2004年11月17日 (水)
石 求ム!(※) でコメントされた garaikaさんのブログ「家づくり、行ったり来たり」が面白い!
11/16(火) エントリーの「欄間を見直す──光、風、温度の共有」では当初想定外だった欄間が建築家からの提言(提図と言うべきか?)により再考され、そこから「プロの設計技術を感じる」瞬間が描かれるに至る。いや〜、この「プロの設計技術を感じる」瞬間というのが施主にとっては極上の愉悦とでもいうべきときである。
思えばうちでも欄間を介して建築家の「プロの設計技術を感じる」瞬間は訪れた。だが、それにはちょっとした紆余曲折も伴っている。実は現時点でこのブログは2004年6月のエントリーがごっそり抜け落ちているのだが、その理由は7/1(木) の「1Fタイル工事開始(※)」で書いていたこと以外にもあったのだ。
この6月は我が家の施工上、最後の追い込みで各種職人さんたちが入れ替わり立ち替わる最も忙しい時を迎えていた。私は私で月末に仕事の〆切を抱え、ブログも家のことも本腰入れられぬ状態にあったのだが、そんな中、週1、2回くらいのペースで工事見学に行っていた母からダイニングの天井に考えもしなかった板材(板目の杉縁甲板)が張られているという連絡が入る。それは図面通りの仕様なのだが、実はダイニングの天井板については同一製品のサンプル材を取り寄せての説明といったことがなく(初音すまい研究所のテーブルが杉板だったので、それを見てこんな感じという説明は受けていた)、あまり深く議論されてなかったということはある。しかし、母の驚愕(幻滅方向の)ぶりは相当なもので、まずはデジカメで撮ったという画像を送ってもらった。で、それを見ると私自身も確かに好ましい感じがあまりしない。母はそもそも節目のある材そのものを好まないところがあるが、私は別に節に対する拒否反応はない。いや、むしろ好意的といってもいいくらいである。にもかかわらず、私にとってその画像を見た印象があまりよくなかったのは材の色味それ自体とそのばらつき加減に帰するところが多かったように思う。
いずれにしてもこの時点で私はデジカメ画像しか見ていない状態だったが、父や妹も「このあとにまだ何かするんでしょ?」と言ってしまうような次第だったので、私の方から豊田さんにどうにかならないものか相談することになった。ところがそうした我々の心象を率直に伝えると豊田さんの方がえらくショックを受けられてしまって(豊田さんにとってその材は想定内のものとして現場確認済みだったこともあり)、その後、母と現場打合せの場など持ってもらったのだが、非常に厳しい顔をしてられたという。そのあたりの経緯はまた別エントリーに譲りたいと思うが、いずれにせよ、このとき我々はそれまでずーっと相性よく通してきた豊田さんと初めて意向の違いにぶつかってしまったのだ。それは私がこのブログでニューエントリーできない遠因ともなっていた。
ちなみにこの問題は、ひとまず現状のままとして我々が生活していく上でどうしても気になるというのであれば材を変えるなりクロスを張るなりということを考えましょうということで落ち着いたのだが、その後の工事で三鷹金猊居から持ち込まれた欄間がダイニング〜和室間に収まったことで我々の心象は一変するのである。
三鷹金猊居の欄間は縦桟が細かくあしらわれた繊細な意匠のものだが、60年以上の時を経ており、如何せん古い。その古さが新しいものと同居したとき、この場合にあっては意匠上の特質(繊細さ)は表には現れず、むしろ古さ=濃さ(経年変化による材質の色変化)ばかりが粗々しく目立つ形になってしまった。ところがその我々にとって予期しなかった粗さがもう一つの粗さの雄=縁側に用いられた丸太梁(こちらは粗さが想定されてる)と共に先のダイニング天井杉縁甲板と絶妙のトライアングルを形作ってしまうのである。
それを現場で見たとき、私は思わず「やられた」と感じずにはいられなかった。それこそがまさしく建築家の「プロの設計技術を感じる」瞬間にほかならない。何と言うでもなく、ニヤッとなってしまうのである。ここに辿りつくまで随分遠回りしたが。。
このエントリーは「欄間」自体を問う話ではないが、「欄間」を介して得られた一つの事例として、まさしく欄間を介するように「欄間を見直す──光、風、温度の共有」にトラックバックしておきたい。
ちなみに三鷹金猊居の欄間の濃さは当然ホコリの堆積分も加味されてます(笑)
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2004年10月25日 (月)
丸太柱下にも染み?(※) で書いていた母の見つけた染みの問題だが、どうやら矢原さんが山本さんから聞いたところによると、材そのものから染み出たアクではないか?とのこと。タイル下のコンクリートから染みていたらまずいがアクならやむを得ない。気になるのであれば応接室室内杉縁甲板塗り残しの処理をするときに一緒にやりますが、、ということだったが、私はこのままで良い気がする。
それから丸太だけでなく、エントランス部アプローチ壁全面に張った杉板甲板からも同様にアクが出ていて、それは板自体ではなく、板の下の土台のコンクリートに板からアクが流れ出した感じになってしまっている。が、これに関しても特に材を傷めることにはならないので心配はいらないそうだ。要は見た目の問題。気にしていつも洗うのか、それとも放っておくのか。ま、玄関ドアが泥の跳ねで汚れ、さらには埃まみれになっていても差して気にせぬ実家のことだから、放っておかれることになるのだろう。大部分が車で隠れてしまうのもまたそれを助長している。
2004年10月16日 (土)
鉄道の日記念西日本一日乗り放題きっぷを使うと片道3000円で西日本ならどこでも行けるということで、急遽、妻の実家の総領町に帰省。といってもまあ、実は去年も高速バス使って同じ目的でこの時期帰省してたのだ、、と云うその目的は松茸狩りだったりする。ま、その話題は別のブログでするとして、こちらでは松茸とは別にもう一つ、今回、建築的趣旨の帰省目的もちゃんとあったので、それを紹介したい。
それは夏の帰省時に話は遡る。義父に清氏撮影建築写真(※) や私の撮影したデジカメ写真等を見せていたら、2F和室で再利用された三鷹金猊居書院など見てるうちに「ワシも若けー頃はこのくらいの仕事してたけー」とムラムラと大工魂というか職人魂に火が点いてしまったのである。で、総領自宅の書院はまだ「甘めーんじゃが、下領家の稲迫さんちでやったのはワシも苦労したけー」ということで、今回その書院を見に稲迫さんちにお邪魔することになったのである。手土産には庄原のジョイフルで買った巨峰となぜか500円分の造花(義母が自分が好きじゃけーということで)を持って(^^;)
で、その稲迫さんちは築70年でそれ自体も大変素晴らしいのだが、義父がやった書院も確かに自分で自慢するだけのことはある超絶職人仕事であった。これに関してはアレコレ言うより、現物の写真を見てもらった方が早いだろう(左のGIFアニメをクリック!)。
とりわけ面白いのが書院欄間で、この手裏剣状に組まれた細かい紋様は見る角度によってまったく異なる表情を見せる。首を左右に動かして見るとそれがよくわかる。これだけの仕事は10年修行したくらいじゃできんのじゃと義父は自慢げに話していた。
ところで稲迫さんは気を利かせてわざと席を外し、我らだけで落ち着いて見学できる時間を作ってくれたのだが、義父母共に「早う、帰るけー」とちょこっと見るなり早々に「さ、帰ろ帰ろ」モードで、実はもう少し腰でも落としてその空間を愉しみたかったのだが、そういうことはまったくできなかった。まあ、何だかんだと庭先で義母と稲迫さんの話が長くなり、その時間も書院を見てたかったな〜と後から思ったりもした。
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2004年10月11日 (月)
母からの電話で一乗寺側階段だけでなく、丸太列柱底部にもこれまでなかったはずの染みが発生していることを聞く。それについても阿部建築&初音すまい研究所に連絡するよう伝え、山本さん、矢原さんに見てもらったらしいのだが、どうやらこの染みは雨漏りに拠るものではなく、コンクリートの水分を丸太が吸い取ったものじゃないか?とのこと。安藤忠雄設計「司馬遼太郎記念館」の坂本龍馬の亡霊染み(※) は関西ではちょっと有名な噂話だが、いずれにしてもコンクリートは建てて1年くらい水が出るのは防ぎようがない。そういう意味では丸太の下に銅板のようなものを敷いておいた方がよかったとも言えるのだが、構造柱になってるわけではないので気にするほどのことでもないでしょうとのこと。どうしても気になるのなら、杉縁甲板塗り残し部分にオスモカラーを塗る際に一緒に塗装しましょうか?と矢原さんが言われていたらしい。ま、正直なとこ、こればかりは見てみないと何とも言えないんだが。。
2004年10月04日 (月)
母のメモより
天気:雨
朝、山本氏より Tel アリ。外構工事中止。10/5(火) に。
10:00〜11:00 家屋調査(税務署)。見積書を丹念に調べ終えて3、2、1Fをざっと見る
夕、矢原氏来宅。丸太の染み見るが多分コンクリ(下部からの)からの水分吸収ではないかと。
2004年09月22日 (水)
光庭考: アートネイチャー(※) のエントリー時に「小林古径」で検索かけたら小林古径邸の情報が出て来たので、重ねてエントリーしておきたい。
小林古径邸は「建築家・吉田五十八が設計し、棟梁・岡村仁三が施工した木造二階建・数寄屋造りの住宅」。1993年までは東京都大田区馬込にあったらしいのだが、築後約60年で惜しまれつつ解体。その解体部材を上越市が買い取り、 新潟県上越市本城町の高田公園内で復原工事に着手し、2001年春に完成したとのこと。
詳しくは上越市サイト内の小林古径邸のページに任せるが、どうやら移築後は入館ばかりかアトリエ利用までが可能となっているようだ。素晴らしい!
復原事業のあゆみなどを見ていると羨ましくなってしまう。
ちなみに祖父・金猊の古径から受けた影響は非常に大きい。
2004年05月12日 (水)
第25回打合せ(※) の2段落目以降から話は続く。
で、日暮里で下車して、ひとまず初音すまい研究所へ。前夜の電話で豊田さんが不在の場合は矢原さんと現場へという話だったので、その通り、矢原さんと現場へ向かうことになった。
現場に到着したのは15:30。現場には1Fに3人、2〜3Fにも5、6人は職人さんが入っていて、忙しなく仕事に打ち込まれていた。そんな中で丸太を立てて検証するというのはちょっとお邪魔感もあり、ひとまず工事現場初訪問(工事前の空き地状態のときには一度来ているが)の wtct 氏を屋上まで各階案内。母の到着を待って丸太の検証に入った。
ところが、3本寄せて設置しようとすると天井配管が邪魔になって、どうしても3本目が望むべき位置にそれを配することができない。というわけで、写真のように大変中途半端な設置状態での列柱確認となってしまったわけだが、とりあえずその状態で見る限りは重々しすぎる印象も窮屈な印象も受けないんだよね。ただ、3本目の丸太が一番太いので、この2本の詰まった感じと同じように3本目を見られないような気もする。微妙に難しいところだ。
矢原さんに意見を求めると、少しギャラリーに様々な要素が多すぎることから2本くらいに抑えておいた方がいいのでは?とのこと。ピアノがなければ3本を前間隔で置いてもいいかもしれないがと言われていた。
検証後、再び初音すまい研究所に戻ると豊田さんも戻って来られていて、wtct 氏も交えて急遽ミニ打合せが行われることになった。何だかんだ丸太以外にも話は及んだので、詳しくは第25回打合せ: 追記(※) の工事監理打合せ記録にて。
丸太を詰めることに関しては、豊田さんは模型上でしか見ておられないのだが、割とこれなら条件満たした上で空間も維持できるのではないか?と乗り気な感じ。ところが私は模型で見ると模型の丸太が若干膨張した感じに見えてしまうせいもあるのだが、急に3本手狭に並んだ様が窮屈な感じに見えてしまい、再び迷妄の闇へと落ちて行ってしまった。
打合せ後、母・wtct・私で日暮里のダージリンで菠薐草カレーを食べながら、丸太について話す。その話し合いについては追記にて。
wtct 氏は手前に来るピアノの存在をかなり強く意識しつつ、3本で良いのでは?という意見。ピアノの後ろに3本丸太が延びてる感じが面白いとか言ってたっけかな? それと打合せ中、あくまで野次とした上で、3本を線上に並べず囲むようにしたら子供は喜ぶんじゃない?と言って実際に模型で試してみると不思議とそこが林のような雰囲気になった。
母は昨夜、妹が2本だと橋みたいになると言ったことが引っ掛かりだし、ピアノ後ろの往来がしづらくなることを踏まえると2本でもいいのかもしれないという風に思い始めたようだ(ただし、母はこういうときに自分の意見という形でそういうことは決して言わない)。
私は3本を詰める案に異論はないが、その詰め方次第だなと考え始めていた。ただ、あの模型での窮屈な感じが3本にこだわる自分を問い詰める。なぜ私は3本にこだわるのか? 前夜の電話で豊田さんにも今日の矢原さんと同じように華燈窓、書院、丸太といった持ち込み組の訴える要素が強すぎないか?と言われたとき、作品や華燈窓は金猊爺さんのインテリ魂が詰まったものだが、丸太はさだゑ婆さんの故郷(諏訪)の山から切り出してきたものであり、見ての通り、野性的で祖父の知性的なものとはまたちょっと別の次元の象徴なのだと話した。それを詭弁として話したつもりは毛頭ないが、もしかすると自分の深層にそうした丸太を使い残してしまってはしのびない(勿体ない)といったケチ根性が宿っていたりするのかもしれないな?と、ふと、思ってみたりもする。
それと現場で丸太を立ち上げるときに実は右手の親指に棘が刺さってしまったのだが、それが祖父の2本にしとけ!という忠告なのではないか?と弱気な勘ぐりが始まったりもしている。
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2004年05月11日 (火)
取り急ぎこの写真の丸太の列柱に関して、2本と3本どっちがいいと思うかのご意見募集します。2、3日のうちにどちらかの本数に決定しなければなりません。細かい諸条件に関してはコメントレスや追記などで追々書き足して行きますが、とりあえずはパッと見どう感じるかっていう至って直感的な一行メントで構いませんので、聞かせていただけると助かります。
また、こうした列柱をイメージするにあたって参照項となるような建築物をご存知でしたら、それもお知らせいただけると大変助かります。
関連エントリー:
・古材搬出
・第23回打合せ: 丸太列柱
・第25回打合せ: 丸太再検証
□◇
条件(1)
丸太の後ろの壁の色味がまだ確定していません(材質は杉板甲板を張ることで確定)。
一応、2案出ていて模型のように木に墨のようなものを塗って黒っぽくするか、あるいは木地をそのまま見せて経年変化で茶色掛かって行くのを待つか。
また、前者で行く場合には写真右手の華燈窓を設置する壁や階段床材を同一色にしない(重たくなるため)という考え方も出ています。
条件(2)
丸太の手前にはワインレッド色のグランドピアノが置かれ、華燈窓設置壁側にはアップライトのピアノが置かれます。そのため、実質的には小階段の側面はほとんど見えません。
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2004年04月27日 (火)
1Fに設置する三鷹金猊居の古材・丸太を使った列柱の扱い方に関しては、これまでは3本立てるということで想定されてきていたが、先日の見学時に私が何の気なしに3本あると重たいかも?と零したことから、豊田さんも2本という方向で検討され始め、この日にはむしろ2本の方が列柱まわり一帯の空間が広がるから望ましいのでは?という判断になられていた。
さて、この丸太の本数、果たしてどうなることやら?
詳しくは追記にて。
□◇
豊田さんの考え方では3本並ぶ列柱の真ん中を抜くのではなく、一番光庭側に近い階段上がって曲がるところに位置する丸太を抜く。なぜその一本かというと光庭側に面するサッシ(黒色)が4枚合わせの引き戸式でそのサッシの縦の線があまり広くない間隔でしつこく続くので、そこに丸太の黒っぽい線までが加わってしまうとさらにうるさく重苦しいものになってしまう。また展示空間側からそちらの方向を見たときにも部屋の隅の部分が丸太と被ってしまって奥行きの深さが感じられなくなってしまうというものであった。
ただ、母というか、高齢者にとっては手摺のない1F階段および舞台廊下の角に丸太が一本立っていてくれるというのは精神的にそこから落ちないという安心感を与えてくれるようで、そういう意味では角部分の丸太に意味がないわけではまったくない。
また、私も3本は重いと言っておきながら、実際2本になった模型や現場で2本3本立ってる様子を想像すると、2本にしてしまうと確かに軽くはなるのだが、丸太の強烈な印象が一気にスッこけてしまうような気もしてしまうのである。というのも、まだ1F西側に丸太があるのであれば天井高も3.5mはあるので居丈高に天井に向かって屹立しているようでよいのだが、3mしかない東側だとどうも貧弱な感じになってしまいそうな気がしてならないのだ。祖母の生家の山から切り落としてきた、言ってしまえば御柱のような(実際、祖母の出身は上諏訪であるが)梁柱に我々が求めた象徴性が空間的調性を求めて数を少なくすると失われていきやしないか?というのが私の一番の心配である。
というわけで、この件に関しては慎重を期す必要もあり、丸太を搬入する5/10(月) の週に私も再上京して現場で実際に丸太を立てながらどっちにするのか決めるということになった。
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