2005年05月06日 (金)
「田植え 」のエントリーコメントでカエルの騒音話になったついでに、実家の交通騒音に対するその後の話をレポートしておこう。
家の前の言問通りがあの界隈で東西に抜ける唯一の抜け道となっているため交通量が多く、騒音が激しいことは上棟前の「現地ノイズ調査 」のエントリーで取り上げた。
また引き渡し後の「一週間住んでみて 」というエントリーでも実家家族全員が車の騒音に悩まされているということについても触れた。
が、今ではもうほとんど騒音が気にならないものになってしまったらしい(汗)
まあ、私から見れば以前の線路から100mと離れていない仮住居での電車騒音をモノともしてなかっただけに、谷中の騒音の方がよほど軽いと思っていたのだが、結局のところは慣れの問題というしかないのだろう。私も妻の実家で初めて寝泊まりした頃はカエルの鳴き声(昼版.wav[65KB] /夜版.wav[245KB] )があまりにうるさくてなかなか寝付けなかったし、それから大阪に越してきたばかりの頃は朝っぱらから始まるクマゼミの鳴き声に毎朝吃驚させられていたものだ(関東はアブラゼミやミンミンゼミが主流でクマゼミはほとんどいないのである)。
それとこれはあまり冗談にはならない話だが、一月ほど前にワイドショーを賑わせてた奈良の24時間騒音迷惑オバサン。彼女が逮捕されたあと、インタビュー受けた周辺住人が静かになったのはいいけど、逆に静かすぎて耳鳴りがして眠れないんですよと言っていた。これは重症だとも思ったが、あんな物凄い騒音にまで人は慣れるのかと逆に感心してしまった。ちなみにその騒音オバサン映像は僧兵魂「キチガイババア ラップを歌う 」というエントリーで見られます。いや〜、迷惑な話なんだけど、エントリーされたタイトルにもあるようにそのオバサンの騒音ラップセンスだけはそんじょそこらの J-Rap の遙かに上を行ってる気がします。
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2005年05月04日 (水)
前回の「苗代 」エントリーに続き、GWを利用して田植えの手伝いに行ってきました。
田植えは苗代と違って誰でも知ってそうな言葉ですが、試しにヤフー辞書検索すると
田植え (たうえ/たうゑ) 苗代で育てた稲の苗を水田に移し植えること。[季]初夏。
と出て来ます。が、これだけでは物足りないので知恵蔵からも引用してみました。
田植え (文化-日本食文化考・米) 昭和40年代に田植え機が普及してから、家族・親戚総動員しての田植えという風景は見られなくなった。そして、田植えの後、酒を酌み交わし、労働をねぎらう「さなぶり」も姿を消した。種籾を直接水田にまけば、「苗代」での苗作りや田植えという煩雑な作業は不要であるにも関わらず、田植えがおこなわれてきたのは、雑草対策である。「代掻(しろか)き」をして田んぼを平らにすると同時に、芽吹いた雑草を土の中にすきこんで殺す。雑草が一時的になくなった水田に苗代で育てた稲の苗を植えることで、初期の成長を容易にする。しかし、水田といえども、雑草の成長は早く、田植え後の「一番草」「二番草」「三番草」と呼ばれた手取り除草は農家にとって辛い作業だったが、除草剤の登場とともに、田んぼで「中耕除草機」を押す農民の姿は見えなくなった。
どことなくその変遷が村人総出で手伝いに来た時代の家づくりを連想させます。「さなぶり」は云わば「棟上げ」にあたる行事だったのでしょう。しかし、近代化の波は過疎村の隅まで行き届き、我が実家の田植えもその例に漏れず、ほとんどの部分は田植機がやってしまい、手伝いといえば田植機に苗を移すとか運ぶとかその程度のものでした。
冒頭の画像は「苗代」のエントリー最初に見せた2002年時の画像とほぼ同じ田植え前日のまだビニールハウスが取り払われていない時点での苗の様子です。
こちらは田植え前日の水田の様子。お隣りの水田はもう田植えが終わっていました。
前日夕方、ハウスを片付け、苗へ最後の水撒きです。相変わらず義父の専売特許。
そして当日、私たち夫婦が起きる前(朝7時前)にはすでに農薬が撒かれ(写真右の白い粒状のものが農薬)、準備万端の状態になっていました。
8時過ぎ、田植機が到着。義従兄弟のR三君が今年新しく買った田植機でやってくれることになっています。まずはトラックの荷台から田植機を降ろしました。
義父は苗のケースごとに底面に付いた土を払ってから田植機に載せていきます。
これが苗を田植機に載せた状態。背中の苗が少なくなったら手前の苗を補充します。
乗り切らない分は運搬車に乗せて田の畔に移動。義父はR三君に田植え位置を指示しなければならないので、ケースの土を払って運ぶ作業は途中から私が請け負いました。
田植えは水田の中程がやや深くなっているため、一部植え付けがちゃんとできずに同じところをやり直さなければならないこともありましたが、概ね順調のようです。
一往復すると補充分含めて田植機上の苗が切れる少し前の状態になるので、そこで新しい苗を畔から受け取って補充します。
田植機にセッティングされて不要になった苗用ケースを洗って乾かす作業は主に義母と妻がやってました。畔の横に水が流れているので楽チンです。
しかし、それらの作業が終わってしまうとあとはR三君の田植えの様子を見守るばかりで何もやることがありゃーせん状態です。昔は家族総出だったのに、田植機恐るべし。
二往復したところで10時のおやつ。とその前に私も田植機に乗せてもらってヤラセ写真を撮らせてもらいました。苗の受け渡し作業だけは本当にやってましたが。。
休憩後、再びR三君が残る列を順調に往復。完全カメラ目線で余裕のポーズ。
最後の列を終えてから手前と奥の隅を横列で往復させて田植機は11時でお役ご免。
帰り際にR三君と義父が「これで一段落付いたけぇ〜、あとは稲刈りまで一安心じゃ」と言ってたのが妙に印象に残りました。稲作って思ってたよりお気楽なんだろか?
残る作業は我ら家族で田植機が植えきれなかったところなどを手作業で埋め合わせ。
昔はこれをすべてやってたのかと思うと、そりゃ昔の老人は腰が曲がるのも頷けます。
作業は簡単な片づけを残して12時半で終わりました。
夕方、田んぼに出てみるとさすがにまだ田植機で掻き乱された水は濁っています。
が、翌帰阪前には濁りも落ち着き、透き通った瑞々しい水田となってました。
しかし、レポート途中でも書いたように、どうやらこの田植えが終わると本当に一段落付いてしまって秋の収穫までに一、二度、農薬を撒く程度の仕事しかないようです。その農薬も何やらボール状のダンゴ を2、3個投げ込んでおけばそれで済むらしく、ましてや去年から水田まわりに猪等が入ってこないようにと部落ぐるみで感電性の電気柵まで設けているので、ホントに手が掛かりません。
こうした手間の掛からぬ状況を可能としたのがそれこそ知恵蔵からの引用で説明されている「水田」というシステムの威力なのだと思います。ある意味、建築基準法改正で条件付けられた24時間換気システムと似てるっちゃー似てるような、、水田ははるかに前から24時間換水システムを備えていたというわけですね(笑)
尚、余った稲を少しばかり持ち帰ったので、みつばこさんの「種子の時間 」に倣って今度はベランダ田植えに挑戦してみるつもりです。それといつか田植機を自分で操作してみたい!!
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2005年04月15日 (金)
我が家では語学オタクの妻に合わせて大抵一つ二つNHKの語学講座が毎年見られている。で、今クールといえば一番の注目は妻も LBGO で書いてるように笑い飯 の出ているスペイン語会話 。先週の初回分を見逃してしまったもんで、今日はTVに「笑い飯」という紙を貼り付けて忘れないように見た。
スペイン語には男性名詞と女性名詞があって、概ね男性名詞は語尾の母音に「o」が付き、女性名詞は「a」が付くという。その例として「libro(本)」と「casa(家)」が挙げられていた。どっちも日本で固有名詞的に扱われているのでスペイン語を勉強してなくても知ってる単語だけど、「casa」はやっぱり女性名詞なんだな〜。
それを聞いて作家の島田雅彦氏と建築家の隈研吾氏の対談で隈氏が次のようにぼやいてたのを思い出した。
島田雅彦著『衣食足りて、住にかまける 』 (P.27) 隈:建築家の仕事のほとんどは女性相手で、女性が持っている、空間に対するはてしない欲望みたいなものに常に晒されてほとんど辟易しているわけです。その解毒作用として建築家にはホモが多いという説もあって、実際アメリカの建築家はヘテロよりホモの方が多いかもしれない。僕もあんまり女の顔は見たくないから、事務所のスタッフは美青年ばかりですね(笑)。
2005年04月10日 (日)
週末、妻の実家(広島の庄原市にこの春吸収合併された総領町)にて苗代の手伝いをしてきました。苗代というのは検索サイトの辞書検索結果によれば
苗代 (なわしろ/なえしろ) 稲の種をまいて苗を育てる所。苗代田。田植えが機械化された現在は育苗箱が多く用いられる。[季]春。
といったところで、我々はその苗代となるビニールハウスを押っ立て、育苗箱に籾米を無肥土でサンドし、ビニールハウス内に積み重ねるところまで手伝ってきました。このあと田植えまでの約25日間、積み重ねた育苗箱の順番を幾度か反転させて蒸れ具合を均等にし、発芽した頃から一段ずつハウス全体に並べて行くのだそうです。
上の写真は2002年のGWに田植えの手伝いに行ったときに撮った田植え直前の育苗箱の並べられた様子です。すでにハウスは取り払われ、青々と背を伸ばした苗が田植えの瞬間を待ち構えていました。このあとの追記欄では今回手伝いをした苗代作りの経緯を写真と共に紹介します。
まず最初にビニールハウスの骨組みである竹を差し込むための4cm四方、深さ20cmくらいの穴を掘ります。一応、毎年同じ位置に穴をあけているので、冬の間もパイプを差し込んで目印代わりにしてはいるのですが、それでも細くて深い穴を掘るのって意外と大変。苗代づくりではこの作業が一番重労働なんじゃないかな? 穴は2箇所ずつ掘ったらすぐに竹が弧を描くように両端に差し込みます(穴に小石が落ちるとまずいので)。この作業は最初のうちは義父がやって、途中からは私が担当しました。
またハウス作りと同時進行で女性陣は育苗箱に無肥土を敷き、その上に籾米 を均等に蒔いてからジョーロでたっぷり水をかけてやり、水が落ちたところで再び無肥土を被せるサンドイッチ作業をひたすら続けます。
ハウスの骨組みが完成しました。ハウスの中央部ではすでに籾米を無肥土でサンドした育苗箱が積み重ねられて行ってます。
育苗箱は7枚ずつ間に角材を挟んで重ねるので、わずかな狂いも致命傷になりかねません。しかし、この作業も途中から私に任せてもらえました。
その間、義父は籾米に水を撒いていました。本当にたっぷりたっぷり育苗箱に水を撒くのですが、この水撒きが案外難しいらしく、私はやらせてもらえませんでした。
育苗箱のセッティングがすべて終わってから、ハウスの骨組みをより強固にする作業です。道路側には水平垂直軸にも竹をまわし、全ての交差箇所を紐で縛ります。
竹の骨組がしっかりしたらビニールシートを被せ、ひとまず石で固定したあと、ビニールの左右両端を少しばかり土に埋めます。
そして最後にビニールの上から弾力性のある紐をまわして杭で留め、入り口側にも石を置いて完成。完成後ほんの数分経っただけで、もうハウス内はめっちゃ暑いです。義父曰く、この中に人を閉じこめたら1時間もしないうちに死ぬはずじゃと言ってました。
しかし、籾米はこんな蒸し暑い環境に置いてやらないと簡単には発芽しないようで、、そりゃ考えてみたら、お米が米櫃の中で発芽したりしたら困るもんね。
GW中にまた総領町に行くこと出来たら、今度は田植えの手順をレポートします。
□◇
家のベランダでも稲作は可能です。
Abejas e Colmenas のみつばこさんがブログ始められる前に発芽から稲穂が垂れるまでの経過をまとめられた「種子の時間 」をご参照ください。そして収穫の少し前にブログを始められたようで「収穫 」だけはブログ内でエントリーされてました。
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2005年04月05日 (火)
もう数週間くらい前になるだろうか。母から1F縁台通路下の収納に入れておいたヴァイオリンケースに厚さ数ミリの黴が生えていたという電話があった。私はその状況を見てないので何とも言い難いところだが、黴を見つけた母はやや一大事といった口ぶりで、ただ、すぐに工務店や設計事務所に苦情連絡するようなことはしてなかったので、ひとまずほっとした。
この問題、一概に設計・施工側に責任を求めるのは誤りである。というより、その責任の比重はどちらかといえば施主の方にあり、より厳密に見るならば諸々関係性の間において生じてしまったと見るのが正しいところだろう。
我が家の1Fが空調面において他の居住スペースとは異なるハイテク装置(エアカルテット)を導入していることについては去年7月の「設備点検&指導 」のエントリーで書いた。この選択は祖父の日本画作品保存を第一に考えてのもので、室内はほぼ一定の湿度を維持し、常に浄化された空気が循環するシステムが採用されている。ただ、その仕組みは作品収蔵庫にまでは適用させていたが、さすがに縁台通路下の小収納までは非対応だったのである。
つまり1Fは空調万全だから心配無用という油断がつい我々の間で働いてしまったというわけだが、こうした問題は住人がふだんの生活でもう少し家の隅々まで気配せする習慣を身に付けていれば未然に防げたろうにとも思えてしまう(特にまだ住み始めて間もないわけだから)。だが、この件は毎度の家族への愚痴に繋がるのでこれ以上書くのはやめておく。それよりももう一点、こうした問題を誘発した遠因として考えられるところについてここでは触れておきたい。
引越作業時にヴァイオリンをその小収納にしまったのは他ならぬこの私なのである。結果的に仮住居から新居への引越では計3回も(※) 引越業者に来てもらうことになってしまったのだが、実家家族が仮住居の荷詰め作業で手一杯なため、私は主に谷中新居側の到着済み荷物の整備に当たることになった。整理でなく整備と書くのは、私が自分や祖父関係以外の荷物まで開封して整理収納してしまうと後々余計な混乱を招き兼ねないので、とにかく次の引越屋が新たな荷物を持ってきても邪魔とならないスペースを作りつつ、段ボール箱をワレモノや軽いモノ、日常すぐ使いそうなモノが上に積まれるよう、すなわち整備してたというわけである。
そんな中でヴァイオリンは当初から収納場所が決まっていたので、特に疑うこともなく想定された収納位置に放り込んでいた。ただ、当時の私は在京に期限がある以上(それでも1週間くらい延長したのだが)、自分や祖父関連のモノを整理するだけでもギリギリ一杯で、とてもじゃないがそれ以外のモノの状態にまで気を配っている余裕はなかった。だから言い訳するわけではないが、ヴァイオリンを収納する場所の除湿にまでは頭が回らなかったのである。しかし、もしここで母が最初からそれを自分で片付けていたなら、その時点で除湿のことをすぐに考えていたかもしれないとも思うのである。だが、母は母で当時はキッチン回りなどの整理でそれどころではなかっただろうし、とにかくそうしたドタバタの中でヴァイオリンの存在は1Fだけは大丈夫という油断とも相俟って置き忘れられたような状態になってしまったのである。
幸い、黴が生えたのはヴァイオリンケースだけで、中のヴァイオリン本体は無事だったというから安堵はしているが、ヴァイオリンケースが皮で出来ていることを考えれば、早めに除湿対策を取っておくべきだったことは言うまでもない。ただ、それに気づくべき立場が1Fだけは万全!という油断と、引越時のドタバタによって宙に浮き、曖昧なまま日が過ぎてしまったのである。
こうした問題の責任を問うのはなかなか難しい。というか、こういう事態に遭遇したとき、自らを顧みず何でもかんでもシックハウス呼ばわりで業者に責任を押しつけるのは大きな誤りだ。また反対に何でもかんでも責任を自ら背負い込んでそれで一件落着にしてしまう態度もそれはそれでどうかと思う。肝要なのは、そうしたトラブルがどういう経緯でどのような関係の中で生じたかを冷静に分析して把握することである(大方のトラブルは関係性の間=伝言ゲームの最中において起こりやすいものなのだから)。そういう意味で私はNHKの海老沢会長が全容解明してから辞任すると言っていたその姿勢に対してだけはある一定の評価を与えたい(もちろん腹のうちでは視聴者を誤魔化すためだけの延命策だったのかもしれないが、それはさておくとして)。
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2005年03月31日 (木)
「施主適齢期 」のエントリー最後のところで予告した晩年の祖父が祖母に宛てて書いた手紙をここに掲載する。祖父は1979年に69歳で死んだ。はじめに晩年と書いたが、この手紙が書かれたのは1972年3月31日(金) で祖父はこのとき62歳。その後7年間は低空飛行ながらもそれなりに元気に自宅で暮らしている。手紙の受取人である祖母は祖父より1歳年上の姉さん女房で、祖父が亡くなってから16年間、つまり1995年89歳で永眠するまで生きた。ただ、生きたとはいってもその最晩年は脳梗塞で倒れ、数年間ほとんど植物人間に近い状態で家に帰ることも出来ず病院で亡くなってしまった。
そういえば今月10日に福島に行った際には、祖母の種違いの弟である茂雄大叔父とも会ってきた。もはや三鷹金猊居の昔を知る最後の人と言ってもいいかもしれない。今回は別のことを目的として出向いていたため、こちらの準備不足で一歩踏み込んだところまで話を聞くことはできなかったが、茂大叔父まわりの家系図のコピーを貰ってきたので、今後これをきちんと纏めてもう一度話を聞きに行きたいと思っている。
ところでそんな福島談義を土産話に谷中の実家に戻って母と話していたら、二人とも半分忘れかけていた事実を思い出した。いや、これが母にとってもかなりショックな話なのだが、なぜだか母も私もその話を忘れがちなようなので(あまりにショックだったからだろうか)、ただの身辺話にはなるが記憶保存も兼ねてここに記しておきたい。
祖母は祖父との結婚が2度目の結婚だったのである。
一度目の結婚は地元の茅野だか諏訪の人が相手で新婚生活は半年程度で途切れてしまったらしい。ただ、その途切れ方が時代を感じさせる。
その相手の男性というのがコミュニストだったのだ。教育県として今も知的イメージの強い長野には当時から田舎でありながらもコミュニズムの思想の広まりやすい土壌があったようだ。祖母の初婚の相手はその地域一帯のリーダー格ともいえる存在で、あるとき突然連行されて帰って来なくなってしまった(所謂特高によるアカ狩りというやつだろう)。そのとき祖母は幸いにしてというべきか、入籍届けは出していなかったので、身内のすすめでその結婚はなかったことにさせられたらしい。だから私の母がその事実を知ったのも祖母が亡くなって間もなく親戚の口から不意にその話が漏れたときのことであって、それは衝撃の事実だったわけだが、なぜだか母も私もその話を忘却の彼方に追いやろうとするきらいがあるようだ。
おそらくこのあとに掲載する手紙の差出人である祖父はこの事実を知っていたはずである。その後、そのコミュニストは出所してそれなりに有名な存在になったというから、祖父にとっては死せる亡霊とはまた違ったレベルで気が気ではなかったことだろう。今の時代なら妻の元カレを気にするナイーブな夫と言って片付けられそうだが、ここに時代差的感覚が生じるのかは断定できない。しかし、私も「一歩間違えれば」と仮定するほどのところでもないが、微妙にコミュニストが遠くないところにいたというわけだ。敢えて三歩間違えるなら「種違いのコミュニストの孫」だったわけである(笑)
□◇
「母さん」よ、本当はボクにとっては妻なのだけれど、何故か、「おい」とも「お前」とも呼びづらいし、呼びづらい名前なので困ってしまう。だから、そして今では最もよびいい呼称で「母さん」── にする。こんどボクがこちらに入院してからいろいろと心配させてしまった。もちろん普段から亭主関白で何から何まで世話をかけ心配させ、厄介になり、困らせたりへこませたり、泣かせたりしぱなしで心から済まなく思っているのだけれど、今度のことは全く思い設けぬ突発事態で、何とも手の施し様がなかった。暗黙のうちに、退職後はお互いにもう少し落付いて家事にあたり、余裕をもつようにしてたまには二人で仲よく近くへ出かけたり、旅行や保養も実行に移したいと思っていた矢先だったのに、あっと云う間もなく即日入院、爾来一夜として抱き合って愛し合ったり寝たりしたこともない。すでに一ヶ月以上過ぎ去った。我々にとって一日は愚か、一時間、一分、一秒と雖も生きている間の貴重な時なのに。別居を余儀なくされた。
時々、病院へ見舞いに来て呉れても、いつもゆっくり手をとり合うことも、ましてや接吻一つ、抱擁一つ心に任せ、心ゆくまで味わい楽しむことができなかった。来て呉れるのが嬉しければ嬉しいだけ帰ってしまうのが悲しい。情けない話だけれどボクは昔からこの点、まことにロマンチックだけどセンチメンタルに過ぎ、こんなときは必ずホームシックにかかるのだった。綿々と女々しくクドクドと未練がましくて、自らはづかしいけれど、それは本当の心持なのだから遣切れぬ。ボクより孤独になれ、独居を心細からずにボクより気丈な母さんだね。ボクにはそれがよくわかる。そしてそれはボクにとって有難い場合も、安心に思う場合もあるけれど、かえってボクの気持に不安をもたせることもあり、淋しく感ずることもあった。物語や小説にもかかれることだけれど、女というものは、男がどんなに信じていても、女がどんなに貞節淑徳が固くても、男が暫しでも手をゆるめたり、放したり、隙を与えるとアッと言う間もなく他の者の手に落ち、抱かれ、容易に楽々と犯されてしまう。それは女が、意志が弱く体力が弱く容易に男の暴力や権力に負けたり忍従したりするのでもあるが、もともと女という魔性はそういうものであるらしい。そして生理的にも女は一夜に異なった男性と何人でも何回でも性交が可能だという肉体構造と精神構造によって形成されているからだ。そう思い定めるのに男は相当の諦念が必要だし、しかも、それがそのまま男の心性を苦しめる。女というものは、男がシッカリと所有している間だけ、女の美しさも愛情も貞節も誠実も自分の物でありえるし、女は、男が女を寝台の上で抱きとり、女の性欲を自分一人で充たしてやっている間だけ、彼女を自分のものとして独専することができる。「男は女を一刻たりとも手離してはならない。女が永久に美しく貞節であることができるように。」‥‥というのが真理なのだ。
この便箋はこれでおしまい。ボクはいま自分の妻を離れたところに置いている。たとえ妻にゼッタイの信頼をもつにせよ‥‥だ。そしてそれは逃れ得ぬ宿命だからといってガマン出来ることか。
こんな事を執拗に書きつらねるのは、女々しく浅墓で、嫉妬ぶかく無気力な男の愚痴に過ぎないと笑われるだろう。しかし、前にも云ったようにボクは、残念ながら小心で生まじめすぎる性質だし、人間として、教育家として、芸術家としての本来の魂がいつまでもボクにボクの責任を追窮するのだ。
世の中の生存競争の勝利者でないボクは、それだからこそ尚更に一生の半身たる妻の全身全霊をシッカリこの手でつかんで居たいと思う。その意味で、ボクはキミとの性行為中、正にボクの男根がキミの膣内に在って快感の血脈が共鳴しているときだけが生き甲斐を感ずる。本当は行為が一旦終わって快感が遠ざかり、お互いに性器を離すと、とたんにボクは哀れに心細く孤独になってしまう。傍に寝ているキミがずっと遠く隔たり去ってしまうのではないかとさえ感ずる。ましてやこのごろのように離れて暮らすと、如何にもキミが外國異郷に居る者のごとく、幽明境を別にした如く、もうすでに半ばキミが赤の他人の仲間入りしてしまったような疎遠さを感じる。近所に住んでいても○○さんの奥さんに手が出せないように、どんな素敵な婦人でも電車の向かい側に坐っている人のように、自分にとって無縁の女性になり行くのではないかと侘しく寂しくなってしまうのだ。平清盛のような英雄豪傑ですら病重体になってからは阿弥陀如来の絵像の手から糸綱を吾が手に連絡して「引接」を待ったという。溺れる者、藁をも掴むとか、一筋の藁か糸か絆か、ボクはそも何でキミの生身をつなぎとめていたらよいだろう。鬼もすれば去って行ってしまう、離れて行ってしまう。再びボクの方を顧みもせず、今にもはや夢にも思い出さなくなるだろう。夫婦の死の別離以前にこうして事実上の別離が死別同然の結果をもたらすのではないだろうか。そんなことボクはいやだ。我慢できない。死ぬ苦しみだ。何ともボク達だけの心情ではないかも知れないが、最愛の妻か子を亡くしたり、不運にもこれを無理無体に奪取奪略された人の痛憤はどんなであろう。想像するだに吾が胸しめつけらるるいきを呑む苦悩であるものを。
ああ、ボクの一陽は今も次の瞬間も、いつも、いつまでもキミの花の門にあこがれ恋い慕い、埋没したい、溺れたい、花の奥の蜜を吸いたい。突入してあばれ、火のような白濁の精液を噴出し最後の一滴までもキミの胎内へ送り込みたいと、せがみあせり、もどかしさで辛抱できずにじれている。
母さんよ、キミの奥宮はどんな様子かね。誰一人参拝人もないさびれた社殿のように、周囲の境内も荒れはて、吹くは木枯らし、小鳥のさえずり、粟鼠のかそけきささやきも聞こえず、古びた〆縄が千切れ千切れにひらめいているのだろうか。それとも早春に魁けて奥殿に陽炎い紫に紅に、艶やかになまめかしく、綻ぶ花瓣の重なり、扉を押し開けばさらに匂い立つ花蕋と蕊、そしてその真底の子房をめぐり甘露蜂蜜よりうまい淫液香水。四周を包む肉壁、肉の衾(ふすま) 、肉の帳(とばり) は、天鵞絨(ビロード) よりも光沢ゆたかに仔鹿の鞣革よりもしなやかで、きつからずゆるからず引き緊り、脈動しやまず、しかも、血より温く、乳液よりも滋味のある粘汁は絶えず堂内をうるおし、潤滑油となって一陽来るときに具えての膣内ムード照明万全の用意ありや無しや。先ずは先ず、平素は平素、閑雅にも閑静にも「常寂光」の隠り堂なれば、いざ本番の祭典を楽しみに乾望、起請をかけ、深く幽玄にかたく閉鎖し、いついかなる悪鬼といえ、暴漢といえ、将又、仮面の紳士、美青年の侵犯、来訪、慰問にも耳をかさず、言を拒み、開扉開張の魔手を排除し、「剛鑰」をシカと胸臆に蔵しつづけ、守護し通して貰いたい。事し無くば今日も今宵も入浴潔斎、清浄無垢に保養し、たとえ最愛の一陽君の来訪なき折も怠りなく薄化粧を施し、入念な手入れとマッサージを欠かす事なかれ。時に独り寝の寂しさ堪え難くば、静かに安らかに我とわが手指もて、さも一陽君の習性を想起しつつ、己が奥所押しひらきクリトリス探し求めてこれをいたわり撫でつつ、やがて快気催すにつれてジワジワと大小陰唇の谷間にすべりこませ、洞窟に忍び入らせ給えかし。南無大慈大悲の観世音菩薩、忝けなや歓喜光如来、白狐大明神、さてもおん身独りにして大抱擁、大喜悦、夢中迅速の大昇天、失神せんもはかり難し。危い哉、気絶哉。それはいや、いや、困ります。
万が一、いや大きな可能性もて、そのまま眠りのなかに一陽との本富を夢みることもあらんかし。さればうれしやボクもきけば安心。わが一陽を褒めてやります。さあ、いつまでもこうしたことを書続けても行きつまる。要は現実生活を如何にするかだ。色々考えてみる。まわりの実情をみる、院長、婦長、看護婦、知りあった患者たちにきいた事などを総合してみる。まだハッキリした予測はゆるされぬが、このまま逆転せねば四月初旬に外出外泊ができそうだ。それまで辛抱はせずばなるまいと思う。そして第一回の外出外泊の結果故障がなく、起因してまた経過を見る。その間にレントゲン検査、菌検出などの精密検診の結果をみるという順序をふむことになるだろう。極めて順調に行っても最小限入院以来満二ヶ月以上三ヶ月以上、まず半年は退院できまい。
順次そうした状況をみつつ対策方針を樹てねばならないだろう。とに角、結核保菌者として退院を急ぎ家庭療養するとは一面、T(=私) に感染する危険を省察せねばならないので、それについても予め対策を研究する必要がある。おセンチなことをもう少し書いてペンを止めるつもり。
部屋の白壁に白い割烹衣がかかっている。向い側の壁には私の丹前(キミが縫った)がかかっている。昨日入浴(第二回目)のあとで新調のゆかたに着更えた。卓の上には奥富婦人が呉れた春の花が薫る。置戸棚の中にはキミが運んで来た食品や缶詰があり、誰彼から頂いた果物もある。人の世の頼み難いのも真実ながらまた善意あふれる友情に温められるところもあるのだ。大いに感謝して、十分自戒自重して静養につとめる心掛を誓う。「母さん」や、キミの真情を信じている。甘えてもいる。虫のいいボクをゆるして親切に世話をして下さい頼みます。
貞子どの 三月三十一日
夫より
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2005年03月20日 (日)
ノアノアさんが奮闘続けてられる「どこと建てるべきかシリーズ (いや、これが朝妻さんも旋毛曲げちゃうくらいに《つづく》続きなんですが、teacup のブログって本文スペースの横幅狭いもんで、その方が見せ方としてはビジターに優しい気もします。ただ、トラックバックしようとするとどれ選ぶかで迷いますが)」のエントリー。
ノアノアさんの場合、私のように端から建築家じゃないと〜というのではなく、順繰りにすべてを体験された上で(契約したハウスメーカーを解約もされているらしい)、ハウスメーカー、建築家、工務店それぞれの立場に立たれて見られていて興味深い。特に建築家を「擁護すべき立場なのでは」という視点に立たれたのは、やはりまず何よりも家づくりが「成功(朝妻さんが使う言葉の意味において)」だったことを示しているように思う。それと同時にそうした視点に立たれたからこそ、家づくりが終わったあともこうしてブログで意欲的に「家」のことについて、それも「自分の家」自慢を超越したところで書き続けられているのではないだろうか。
よってこの件に関するリアルな観点からの議論はノアノアさんにこのままお任せしてしまおうと思うが(コメント欄のバトルも決して掲示板等にありがちな貧しいバトルに終わってないのでお見逃しなく)、私の方ではある種冗談レベルに話を落として、もう少し遠く離れたところからこの問題について考えてみたい。コメント欄ではノアノアさんでさえ「現実離れした理想論」と言われてしまっているが、私の方はもう最初から積極的に現実離れしたところに話に持って行くつもりである。
まず、ノアノアさんがどこと建てるかで出されていた選択肢が「ハウスメーカー」か「建築家」かなのであるが、私はこれに以下の選択肢を付け加えることにする。
・ハウスメーカー
・建築家
・工務店企画
・施主企画工務店持込
・建築プロデューサー
・セルフビルド
・中古物件リノベーション
・マンション
・賃貸
・家なし
他にも考えればいろいろ出てくるだろうが、あまり書きすぎてもわかりづらくなるだろうからこの辺で止めておく。で、これらを横の軸としたとき、そこに縦の軸として家族内の関係力学という視点を紛れ込ますとこれらの選択肢がどのように瓦解していくか?──それが本エントリーのテーマである。
ここで少し具体的な話に戻すと私の家でも実際計画を進めている最中、あるいは終えてしばらく経った現在にあっても、家族各人でどの選択肢が向いていたかはまるで異なるように思えるものだった。それが一つの選択肢に絞れてしまえたのは、当然家族内の力関係があるからに他ならない(我が家では名義上の筆頭施主である私と実質上の仕切人である母による判断がその主を占めた)。
もちろん世の中には家族皆が大枠のレベルで同じ方向を向いた幸せな家も存在するのだろうが、現実的には様々な現代病が「事件」として浮上するこの時代、そうした幸せな形自体が稀少価値となっている気がするというのは強ち穿った見方とも言えないだろう。乱暴に言ってしまえば、家づくりという現場はすでにそれをやるかやらぬかの時点からして家族内での「お仕着せ」というものが始まっているのだ。
ただ、私はそのことを必ずしも悪いことだとは思っていない。多かれ少なかれ何らかのプロジェクトを始める際にはそうした上下関係は発生するし、また上下関係があった方が事の進行をスムーズにさせることの方が多いからだ(そこをスローでやれたらそれはそれで素晴らしい話なんだろうけど)。ただ、ここで私が言っておきたいのは、仕切る立場に立った者は常に仕切られてる側の立場を振り返って計画を進めるべきではないか?ということだ。もちろん自分の趣味で飾られた家をとことん追求したい気持ちもわかるが、世の中、大概に置いて「他人の趣味」というのはウザイものだったりするのである。たまたまさきほど rattlehead さんの「今日のかまける 」にコメントしたばかりだが、作家の島田雅彦氏が自邸公開住宅論『衣食足りて、住にかまける 』において
客人には緊張感を楽しんでもらう(P.50) 他人の家に招かれた時の居心地の悪さは何に由来するか? その家が家主の趣味で調度や置物などが統一されていると、何か気詰まりに感じることがある。住人にとっては自分の趣味で統一した部屋の居心地は最高だろうが、客の方はこの趣味を押しつけられるわけで、居心地がいいとはとても思えない。
案外、殺風景な家の方こそ居心地がいいものである。
と書かれているのと話はリンクする。同じ家族であってもそれは個人の集合体であるのだから、本質的にはこの問題が残っていることを忘れてはならない。
が、ここで一見反動的なようだが、個人の欲望を最大限追求するのに最適な方法として「家なし」を挙げたい。ホームレスというと悪い印象を抱くかもしれないが、私は現実的に現時代にあっては豊かな「家なし」生活を送ることは可能と見ている。
これは先日上京したとき、建築家の豊田さんとも話したことなのだが、無線 LAN が駅や大手ビル、またファミレスなどで導入されるようになってきた現在、ノートPC一つを洒落たリュックか何かに入れて、プジョーあたりの高級折りたたみ自転車を乗り回し、企業では有能プログラマーとして重宝される「家なし」族が現れても一向におかしくない時代が来ていると思う。彼らの寝場所はもちろんホテルであってもいいし、会社、友人宅、カラオケルーム、マンガ喫茶、サウナ等々、探せば幾らでもあるので、その日の気分次第で寝泊まりするところを選べるのだ。調子が悪ければ病院で寝るってことだってできるだろう。そして趣味の世界はどこかに簡易スペースを借りてそこを趣味のものだけで満たすってこともできるだろうが、それ以前に現在はノートPC一つあればかなりの趣味領域をその液晶モニタの中だけで満喫できる。この話は一見極端なようだが、私はこうした輩がこの先溢れ出てくるのがもう目と鼻の先のように思えてならない。
なお、今、私は敢えてファッショナブルに優雅な「家なし」ライフの側面を取り上げたが、実は私の友人に「居候ライフ 」というプロジェクトを立てて、もう10年近くずーっと他人の家を渡り歩く居候生活を続けている小川てつオという存在がいる。彼の生き方は上記のファッショナブルライフとは程遠いが、おそらく彼の毎日はそうしたレベルとも比較にならないくらい色んなレベルにおいて豊かなもののはずである(その豊かさにはもちろん負の経験も含まれている)。一度は哲学的に考えてみるべき事例として紹介しておきたい。あるいは彼を居候させてやってください♪
さて、すでに話がだいぶ長くなってしまったので、ここではもう一つの選択肢のみを取り上げて終わりにしてしまうことにする(他のものはすでに各所で語られているので、私が取り上げるまでもないでしょう)。それは以前に「岡土建と無印良品の家 」のエントリーでも紹介した、岡啓輔氏が自邸で取り組んでいるセルフビルドである。実は同エントリー内でも触れた岡氏が藤森照信特別賞を受賞した「SDレビュー2003 」では岡氏以外のノミネート作品においてもセルフビルドの傾向は強くあったのである。
セルフビルドといえば、garaika さんのお父様が建てられたログハウス も同様にセルフビルドによる代物だが、この家が家族総出で作られたとされているように、セルフビルドで臨む場合、これはもう「家族」という範疇に留まらず親戚から友人、ご近所さんまで、それこそまわりの仲間たちと家族的な関係を結んで、目的達成へと向かって行かねばならないのは自明のことだろう。セルフビルドとはその名称に反して、一見個的でありながら、実は最も公的な取り組みとならざるを得ないものなのだ。まあ、昔の家づくりというものが本来はそういうもんだったと思うのだが。。
以上、こうしてここでは2つの極端な事例を取り上げてみたわけだが、もちろん私を含む多くの一般人はその間でどういう選択肢が自分たちに向いているのかを考えて行くこととなる。だが、必ず訪れる行き詰まりのときにこうした極端な視点に今一度立ち返ってみると案外それまで考えもしなかった見え方が出てくるかもしれないということは頭の片隅に入れておいてもよいのではないだろうか。机上の空論は全く役に立たないものではないはずである。というか、これまでも匂わせてきたように、机上の空論の方が現実に肉薄しつつある畏るべき現在なのだ。
ちなみにこれら極論のみならず、すべての方向性の間に立ってくれそうな存在として「建築プロデューサー」なる新職種が生まれ始めている。どうにも立ち行かなくなっているのであれば、一度相談してみるというのも手かもしれない。おそらく精神分析医のようにこんがらがってるところを一つ一つ繙いて行ってくれることだろう。メンタルヘルスを恥じらうような時代でもないわけだし、、と最後に微妙に営業モード(笑)
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2005年03月09日 (水)
去年の11月以来のひさびさ上京。
で、4ヶ月ぶりに我が家を外から見た最初の印象は「ずいぶん茶ばんだな〜」だった。壁を吹付塗装にしてるので、細かな粉塵が付着しやすいというのもあるのだろうが、やはり言問通りの交通量が尋常でないことを物語っているような気がする。壁面のみならず、駐車している車や自転車、さらには玄関ドアの把手上っ面まで見てすぐわかるくらい埃を被って黒ずんでいた。というか、何でこの家の住人はそれらを拭き取らずに平気なのだろうか?という寂しい疑問もあるのだが、さすがに壁面の茶ばみばかりはどうしようもない。むしろ薄汚れたことで壁の色として落ち着いたというくらいに見てしかるべきだろう。
しかし、繰り返しにはなるが、義父が作ってくれた把手くらいは自分たちだけでなく、お客さんも手で触れるところなのだから、もう少しキレイにしててもらいたいよな〜と思ってしまう。とまあ、それはおそらくこの後に愚痴エントリーとなるであろう室内にあっても同様というか、それ以上にひどい(というより物凄い)話は出て来てしまうのであるが。。
それと余談ではあるが、自転車が1台増えていた。それについてもたっぷり愚痴は零せるがもうそこまでの話はこのブログではしたくない。ただ一つ、半ば呆れ半ば感心した笑い話として、その1台増えたという自転車は決して新しく買ったものではない。武蔵野市の伯母の家に預けてあったものを現在74歳になる父が3時間掛けて一人で谷中まで漕いで来たそうなのである。
2005年02月22日 (火)
「住宅建築ネットワーク 」のコメントスペースでは施主と設計者の「恋愛結婚」という言葉が出て来たが、結婚適齢期という言葉があるように施主が家を建てる適齢期というものはあるのだろうか。今回は祖父のケースを引き合いに出して考えてみたい。
私の祖父は自邸=三鷹金猊居を29歳で建てている。
身内贔屓であることを承知で言うならば、あらゆる意味において早熟だった私の祖父は自分の家を建てるということにあっても、自ら実施図面 まで引いて大工を指示する辣腕振りを発揮していた。当時祖父の本職は日本画家だったが、工芸や建築への造詣も深く、日本画での繊細な描写 を得意とする祖父にとっては建築図面を精緻に描くことはお茶の子さいさいだったにちがいない。何せ残された図面のコピーを見た私の知り合いの建築史家もぶったまげてたくらいだから。
しかし、そんな早熟多才な祖父が私の目から見て決して満足な一生を送れなかったように思える理由の一つにこの三鷹金猊居の存在があるような気がしてならない。1997年10月に祖父の遺作展(※1) を企画した私はその挨拶文で「不遇」という言葉を使ったが、今回の家作りという経験はその言葉の採用に些かの疑問を抱くものとなった。私は9歳のときに祖父を亡くして以降、母方の身内からは事あるごとに祖父は無念を残したまま死んでしまった、時代が悪かったという話を聞かされてきたが、果たしてその話を鵜呑みにしていて良いのだろうかと思い始めたのである。
「不遇」という言葉には運や巡り合わせといった自力ではどうにもならない不可抗力が働いてしまったからこそ陥ってしまった不幸な境遇といったニュアンスがある。確かに祖父の場合は「時代が悪かった」という言葉が示す通り、人生これからというときに太平洋戦争を迎え、また両親に弟の戦死と相次ぐ身内の不幸にも翻弄された──そんな話を聞かされれば迷うことなく「不遇」という言葉をあてがいたくなってしまうものだが、どうだろう? もし祖父がそうした人生の分岐点ともいうべき時期に自身の家を構えていなかったとしたら? 家作りという大事業に身を投じることなく画業に専念していたとしたら?──もちろんこの疑問に答えを出すことはできない。だが、祖父の履歴書は自邸の完成以前以後であまりにも歴然とその明暗が分かれているのである。即ちそれは祖父が人生の岐路において致命的な選択ミスをしていたのではないか?(つまりおしなべて「不遇」とは言い切れないのではないか?)ということだ。
ここで結論を出す前に祖父が家を建てた時期のことを再検証しておきたい。
三鷹金猊居は資料に拠れば1939(昭和14)年、即ち日独伊三国同盟が成立する前年、第二次世界大戦が勃発せんというときに建てられている。その2年前の27歳で祖父は結婚しているので、年齢的には早いような気もするが、結婚を機に一家の主として居を構えたくなったというのは当時においても自然な流れと言えるだろう。
だが、ここで当時の時代背景の方に目を傾けると、何て不安定な時期にそれも東京の三鷹という充分戦火の及びそうな地域に家を建ててしまったのか?という声が聞こえてきそうである。だが、それは歴史を後から見た者の視点であり、実は北朝鮮のテポドンがいつ飛んで来るか知れぬのにそのことにさほどリアリティを持てずにいる現在の我々と似たような状況なのかもしれない。つまり築造当時、東京が戦場になることなど多くの国民は考えもしなかったのではないか。とすれば、その時代性において祖父が家を建てる時期を見誤ったとは一概には言いづらくなってくる。
むしろ私が疑いを掛けたいのは当時の祖父の内面の方にある。さきほど私は結婚→新築を自然な流れとしたが、それはあくまで当時にあって完全に自立した一般成人のことを差しているのであって、祖父にもそれが該当するとは実は考えていない。家作りの経緯については長女である母でさえ家が完成して5年後に生まれているので、例えばどのような資金繰りが行われたのかとかいう実情を子供心に見ることもできなければ、ちゃんとした話としても聞かされてもいない。だから想像でしかモノが言えないのだが、少なくとも私の目から見て、日本画家だった祖父が自力で家を建てたとは到底思えないのである。ましてや東京という土地でありながら広大な敷地に精巧極まる建具意匠と、とても標準的な家のスケールでは収まり切らぬ、言ってしまえば屋敷に近い家を建ててしまうことが出来たのには、祖父母両実家およびその周辺親族の財力(援助)あっての話と思わざるを得ない。
これも推測に過ぎないのだが、おそらく祖父は祖母と結婚したことで、その虚栄心から三鷹金猊居をあのような若さで建ててしまったのではないか?──それが私が今回の家作りを通して辿り着いた祖父の「不遇」という境遇に対する新たな見方であった。即ち祖父は不遇な境遇から自分の人生を貧しくしたのではなく、自らの虚栄心によって人生のバッドカードを引いてしまったのではないか?ということだ。それは何だかんだ言いつつ30代前半で自分がすぐに住むという訳ではないものの、施主責任者として2年掛かりで家作りに没頭していた私自身にも微妙に重なっている。
少なくとも祖父は自分がアーティストだという自覚で生きていこうとする限り、そんな歳で家を持つ必要などまったくなかったはずだ。大作を描くためのアトリエが欲しかったということもあるのかもしれないが、まともなアトリエを持たずに大成した画家など幾らでもいる。むしろ画家と貧乏はいつの時代も背中合わせのものであり、アトリエ持つのも家を構えるのも、それらは本人の納得行く成果が得られてからでも遅くはなかったのではないだろうか。良くも悪くも家を建てるということはその人間の自由を束縛するものなのだから。
*
以上、これはほんの一握りしかいないアーティストという職種の特殊事例とも言えるが、自分の家を建てる時期というものが人生に及ぼす影響という意味では、どんな職種の人間にとってもそのタイミング(適齢期)の重要性は変わらないだろう。
住宅ローンの金利が変わるとか、住宅減税、消費税といった類の利率が変わるといったことから住宅購入を急かせようとする業者はたくさんおり、漠然と家を建てたいと思っている者にとっては仮に1%でも額が額だけについ心を揺さぶられがちになるのはやむを得ない心情だろう(言うまでもなく営業担当者はそこを突いてくる)。実際、我が家でも税金控除を目当てに最初の建築家に設計期間の短縮を迫ったことはあった(まあ、最初がのろのろしすぎてたとも言えるのだけど)。だが、そうした焦りから来る切迫は失敗に結びつきやすいものであり、事実それによる失敗を経験した現在、まあ、自分自身が今後自分のために家を建てるということは全く考えられないけど、もしそれがあるとするならば、それは自分を含めた家族が家を持つということに当たって完全に機が熟したと感じられるようになってからで充分なような気はしている。タイミングを誤った人生はなかなか取り返しが利かないが、利息分のお金というものは節約しながら働けば何とかなるものである。住環境を半ばゼロから再整備するに等しい家作りは、社会における自身の力量がおおよそ見え始めるだろう(それは自ずと自身の晩年が朧気ながら見渡せるようになるときであろう)人生の折り返し地点あたりがその適齢期ではないか?というのが私の現時点での持論である。
*
最後にもう一度祖父の話に戻るが、私の中では今回こうした結論を出しておきながら、他方で祖父は画業で満足な結果が残せなくても、実は愛する妻との暮らしを心ゆくまで楽しんでおり、まわりが言うほどには不幸な人生でもなかったのではないか?とも考えていることを追記しておきたい。まあ、それを言ってしまうとここまで書いてきた話がすべて身も蓋もなくなってしまうのだが、ある種の諦めの境地の上に成立する(余生?)しかしながら幸せな生活ってどうなんだろう?ってことを34歳の人間が言うべきじゃないんだろうけど、私もまたすでに家を建ててしまってるだけに自らに引き寄せて考えたくなったりもするのだ(汗)
祖父の遺作展で作成したリーフレットには、晩年の祖父が祖母に宛てて書いた手紙が掲載されている。もちろん祖父の許可なんてものはある訳なく、というよりもその過激な内容のため、身内の検閲(顰蹙)を半ば無視する形で私が強引に載せてしまったのだが、その手紙を読んでいると人生の敗北を語りながらもどう見ても不幸というよりは幸福にしか見えない夫婦像が浮かび上がってくるのである。
どこかにテキストデータは残ってるはずなので、見つけたらここでもアップしちゃおっかな〜と(笑)
□◇
※1)「丸井金猊とその周辺の人たち」展 ── ごあいさつ 昭和初期の社会的混乱期に日本画家としてスタートを切った不遇の芸術家、丸井金猊。この展覧会は、没後20年になろうとする金猊のほとんど知られることのなかった作品を、初めて公に公開しようとする金猊の初個展であり、と同時に遺作展です。
活動期から60年以上の年月が経ち、あらゆる情報が風化/混濁化しているため、大作屏風2点を含む軸・額・オブジェ・習作など60点あまりの残された作品(と思われるもの)は、ある程度の時代区分を設けるだけで、こちらの趣意による特別な選定をできる限り避けて展示することにしました。
他方、薄れゆく金猊の情報を現時点で少しでも確保しておくために、金猊とゆかりのある作家、あるいは友人、教え子、親族らに本展に寄せて出品、もしくはメッセージをお願いし、金猊の情報に少しでも多く触れられるよう工夫をしてみました。作品という饒舌/寡黙な物質とはまた別の側面で、作家の肖像に親しんでいただけたらと思っております。
最後になりましたが、この展覧会実現のため貴重な作品の貸出しをご承諾下さいました所蔵家の皆様、ならびに関係各位に深い感謝の念を表します。また本展の軸・屏風のほとんどの表装を手掛けて下さいました牛田商事【飛高堂】様には、搬出入から企画の相談まで格別のご協力を賜り、心から御礼申し上げます。
1997年10月 主催者
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2005年02月20日 (日)
直接家作りとは関係ない話だが、友人のブログ・コメントスペースで友人の誕生日に祝いの言葉を贈っていたとき、その友人が面白いことを書いてコメントレスしてくれた。
ひめごと 「波乱万丈な日々報告 」より 考えてみると、誕生日というのは、お母さんが大変な思いをして生んでくれた日なわけで。今日は休暇をとって一日フラフラ出歩く予定ですが、帰ったらちゃんと長崎の母に電話してご機嫌をうかがいたいなと思います。
正直、この話は目から鱗というか、言い得て妙の話である。うちの母は趣味がプレゼントといっても良いような人なもんで、つい反動的になってしまって、何やかんやと理由をつけて貰うことを拒絶する態度を示して来ていたのだが、こういう逆転の発想があったとは! というか、これだったらば何の抵抗感もなく親に対して素直に感謝の気持ちが現わせられるような気がする(玉川上水で入水心中したなよっちい文豪は違うかも知れないが)。というわけで、母の誕生日はもうすぐだが、それは妻に任せるとして、自分の誕生日には両親に対して何か考えてみたい。というか、まだだいぶ先なんだけど、なんだかそれはちょっと楽しみになってきた。
それからこれはバカバカしいといえばバカバカしい話なんだけど、今、「ズバリ言うわよ!」で何かと茶の間を騒がせてる占星術師(?)の細木数子女史。別に彼女の占いを信じる信じないはどうでもいい話なんだけど、たまたま夕食時にTVのチャンネルをいろいろ回していたら、いつものように何かの相談を受けてる彼女が出て来た。途中からしか聞いてないので、事の子細は掴めないが、相談者は家の新築後に何かと悪いことが起きているらしく、それでどうしたら良いかと細木に相談している。すると彼女はこんなようなことを言った。
あなたたちは自分の家を新しくするにあたって、先祖の墓も新しくしたのか?と。それに対し、質問者が特にそうしたことはしていないと言うと彼女は例のセリフに続けて、3年以内にあなたたち家族のうちの誰かが死ぬわよ!と捲し立てた。
コレ、今回の家作りに当たって私が一番心配してることなのである。よく新築・増築などするとその家の誰かが死ぬという話は耳にすることが多い。実際、私の祖母が脳梗塞で倒れたのも増築直後であったし、またこのブログでも一度書いてる親戚筋のうちの一人も4年ほど前に大きな屋敷を構えた直後に呆気なく亡くなってしまった。
私自身は迷信は何もかも信ずるという質ではないが、しかし、多くの迷信には科学的根拠に照らして説明可能な物も多く存在するという風には思っている。この話も同様で、まず何よりもその大きな理由は環境の変化であり、次いで一仕事(それもとても大きな)終えたという安堵感から来る気の抜けという理由などが挙げられるだろう。それに加えて、うちの場合、父は高齢であり、母はただでさえ心臓が弱い上にわざと自分の身を苛酷な状態に置いて何かを訴えようとする自虐的なところがあり、それによりますます自分の衰弱化を進めている。そんなもんだから、私はこの家を建てるという話が出たときからそのことが一番の心配で、何か起きたときのことは常に頭の片隅というよりは中心部にどーんと座ってる感じだったのだ。そして、そのことは今もまったく変わらない。だから、今回の細木の予言には彼女がどうのという問題以前に過敏に反応してしまうのである。
この件に関して彼女の考え方は至って明快で、即ち先祖から引き継いだ遺産で新しい家を建てた場合、それは先祖の恩恵で建てられているものなのであり、そのことに気を掛けずに地鎮祭なり上棟式なりをやったところでそれは単に自分たちのためだけの儀式であって、先祖に対しての感謝を示したことには全くならない。それを怠ればそれだけの罰が下るというわけである。
まあ、ここで先祖の霊魂を信じるか信じないかの問題は置いておくとして、家作りという重たい事業を成し遂げた後、一応、開眼供養 はやっているが、それはあくまでお坊さんにいらしていただいての、ある種、日常のなかで行われた儀式のようなところがある。正直、細木数子の言葉を受けてってことにはなってしまうが、今にして思うに家作りという先祖の存在があったなればこその事業の後で、そうした受け身の儀式だけでは足りてない気がしてきてしまった。やはり自らの手足、頭を動かして能動的に何かをせねば! その内容は個々人によるのだろうが。。
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