2005年06月18日 (土)
6/18(土) は朝6時半に起床。
油屋旅館の天空風呂を運良く貸切状態で満喫して、9時半前に泰大叔父邸(現在は長男の泰n叔父さん御夫婦が住まわれている)に向かう。
そこで次男の善n叔父さんとも落ち合い、善n叔父さんの運転する車で、まずは祖父母の眠る墓地へ行った。というのも、墓地の場所が所有する山林への山道入口脇にあるのである。そこから車で無理矢理山に分け入ること約10分。徒歩だと30分くらい掛かるということらしい(私は本当は歩きたかったが)。
母も私もこの山に入ったのは初めてのことであった。母によれば、持ち主だった祖母でさえ、実際に見ているかは疑問とのこと。ただ、この山林の木が切り落とされ、三鷹金猊居の丸太梁や床柱等の主要木材として利用されたことは確かである。つまり祖父は間違いなくこの地に足を踏み込み、どの木を使うか考えていたはず。
現場に到着して、まずは地図を片手に泰&善n叔父さんたちにおおよその境界を示してもらうことになった。近年、義父とM茸狩りをするようになって山に入る機会が増えているのだが、そこが自分の持ち物だという視点で山を見たことはなかったから、何とも不思議な感覚である。
ただ、うちの所有する区画というのは特にこれといった目印が付けられているわけではないものの、かなり容易に判別できるところだった。
というのも、うちのまわりの山林は皆、杉なら杉、桧なら桧という具合に均質に植林されているのに対し、うちだけ好き放題いろんな樹木が生えているのである(笑)
広葉樹が多いせいか、下草も青々と茂り、ところどころには蛇苺やグミのような赤い実なども見つけることができる。
まあ、これは私が山の素人だから思うだけの話かもしれないが、私はそういう色とりどりの野蛮な山の方が好きだし、そういうところもそれはそれで残ってないと!と安易に思ってしまうのだが、エコロジカルな観点からどちらが望ましいことなのかはよくわからない。もちろん将来的にこの山の木を何本か切り出して何かするということも考えないわけではないが、何はともあれこの山林を手放したくないという気持ちだけはより一層強いものとなった。
泰&善n叔父さんにこの山林が二束三文(1869m2=565坪:約7万円)でしか売れないとして、では逆に買おうとしたら同じように二束三文で買えてしまうものなのか?と質問してみた。すると答えは無理というか、まずそれ以前に売ってないだろう(売ってくれるところを探すだけで一苦労だろう)という返事。
ただ、この質問を投げ掛けたことによって、私がこの山林を手放したくないと思っていることは朧気に伝わったように思う。帰りの車では二人とも持っててどこに迷惑が掛かっているというわけでもないので、わざわざ手放す必要もないか〜というような口調に落ち着いていた。母も同様の判断であったようである。
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2005年06月17日 (金)
「諏訪の油屋旅館と辰野の蛍」のエントリーで私名義の宅地と山林について個別にエントリーすると予告したが、どうやらその前に私の母方祖母の系譜を少しばかり繙いておいた方が先の話を展開しやすくなりそうである。そんなわけでこのエントリーでは祖父があのラブレターを送ったその伴侶たる祖母の出生にスポットを当てることとする。
これまで祖母が諏訪の出身であることは「第25回打合せ: 丸太再検証」「祖父から祖母への手紙」のエントリーなどで触れてきた。祖母は諏訪の隣町の「茅野」という地名と同じ茅野家の第一子として1908(明治41)年に産声をあげる。だが、祖母の誕生を前に父親(私の曾祖父)が戦病死してしまうのである。よって祖母は実母が間もなく再婚した相手(実父の親友だったらしい)の家の長女(4人兄弟の)として育てられることになった。というか、生まれたときから実父はいなかったのだから、実際、養父と家族同然で暮らしてきたのである。
その祖母がそうした事実をいつ知ったのかとか、それに纏わる葛藤があったかといった情緒的な話はさておき、祖母が晩年においても茅野家のことをたいへん気に掛けていて、私をM類家の養子にしたあとに、あわよくば妹まで茅野家の世継ぎにと考えていたらしいことは小耳に挟んでいる。しかし、我々身内間でもさすがに茅野家の面倒までは見切れないだろうというのが大方の心情というものだった。ただ、幸いにも祖父母の墓は分骨されて諏訪の茅野家の墓の横にもあるので、墓参りをする人がいなくなってしまうということは少なくとも私の代まではない。
私名義の土地というのは、その祖母が茅野家唯一の相続人として受け継いできた茅野家の土地である。祖母が亡くなり、養子ながら唯一の嫡子として土地だけ一切合切を相続することになった私が祖母名義の宅地と山林も引き継いだのだ。
ただ、その土地はすでに祖母が東京に出て来た頃より、祖母の養父、そして諏訪に住む弟(長男)が実質的な面倒(隣家に畑として貸していたので、その交渉など)を見ており、祖母にとってはせいぜい何かが起きたときに遠くから判断を下す程度のものになっていたし、母や私にとっても墓参りのついでに宅地の方は寄りはすれど、山林は一回も足を運んだことのない場所だったのである。
そうした土地の処遇問題がなぜ浮上したかといえば、それは去年の春に祖母の弟である 泰大叔父が亡くなったことに拠る。その後、泰大叔父の息子さん兄弟が財産整理をするにあたって、その土地をどうするかの問い合わせがあったというワケだ。
彼らの共通した見解としては、自分たちの目が黒いうちはまだいいが、今後、代が変わっていくとその土地を近場で面倒見てくれる人がいなくなってしまうので、もし何だったらこれを機会に処分してしまってはどうか? まあ、二束三文にもならない土地ではあるけれど、、というようなもので、ただ、処分するしないに関わらず、今一度見て貰ってから判断した方がいいだろうということで、それで私と母が諏訪を訪れることになったのである。
そんな訳でここから先の話は山林と宅地に分けて見ていこうと思うが、ちなみに二束三文というのが具体的にどのくらいかというと、122m2(37坪)の宅地評価額が約160万円、1869m2(565坪)の山林が約7万円と計170万円前後で私にとっちゃ二束三文では決してないが、しかし東京の地価から考えたら、狭小住宅も真っ青なお値段なのである。「広大住宅」って本はできないのかしら?(笑)
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6/17(金)、18(土) と長野の諏訪に行ってきた。
主な目的は母方祖父母&大叔父の墓参りと私名義の土地の処遇について。土地の件は宅地と山林が少し離れたところにあるので、それぞれ別個にエントリーしていきたい。
このエントリーでは到着当日の旅の余話を二つばかり。翌日にももう一つ余話はあるんだけど、そっちは建築絡みのとっておきの話なんで土地関連話のあとに単独エントリーさせるつもり(あさみ編集長さんはたぶんその内容が想像できるはず)。
で、一つ目の余話は諏訪と云えばの温泉&旅館談義。
これまで法事絡みで諏訪に行くときの宿泊地はたいてい親任せか妹任せでホテルに泊まることが多かったのだが、今回は私と母の二人だけなので私がネットで探すことになった。それで選んでみたのが諏訪では老舗の油屋旅館。
各種料理の付いたコースプランで申し込むとそれなりのお値段になってしまうのだが、素泊まりだと4200円〜。2名一室利用の場合で一人4725円。これだとその辺のビジネスホテルよりも安い。その上、展望露天風呂「天空の湯」までが付いてくる。
そんなわけで迷わず利用してみたのだが、これが想像してた以上によかった。
部屋はトイレ・バス付きの十畳和室だった。老舗だけに古いといえば古いが、ロビーで休憩してれば茶菓子が出てくるし、中庭は綺麗に手入れされてるし、何と言っても従業員の持てなしの気持ちがこちらに伝わってくる。それで5000円以下というのはかなりのお買い得だろう。そして「天空の湯」。午後5時と朝7時の明るいときにしか入らなかったので夜景は見られなかったが、諏訪湖と北アルプスが一望できて非常に気持ちよかった。縁の部分に落下防止用のアクリル板が入っているのだが、それがなければもう一つ気持ちよかったろう。自己責任ってワケにはいかないものか?(^^;)
夜はこの時期限定のオプションツアーとなっている「数千匹のゲンジ蛍が乱舞!辰野の蛍鑑賞プラン」に行ってみた。サイトのプラン案内に寄れば
とのことで、この日は湿度も高く、数千匹の蛍乱舞への期待が高まったが、まだ少し日にちが早かったようで、そこそこ飛び回ってはいたが、数千匹が乱舞というほどの光景には出会えなかった。っていうか、蛍よりも人出の方が多い感じだった(汗)
なお、上記写真は左側2枚が私が三脚も持ってないのにデジカメの夜景モードで無理矢理露出時間を長くして撮影したもの。右側の1枚は油屋旅館のプラン紹介に出ていた写真をコピらせてもらったものである。それらを見較べれば乱舞との差は一目瞭然だろうが、この右側の画像が冗談や合成ではないだろうことを私はここに記しておきたい。というのも、かつて私がインドを放浪していたとき、この右端写真に匹敵するくらいの蛍の群れを実際にこの目で見ているのである。
以上、余話を掛け合わせて「天空の湯」から蛍鑑賞が出来たらほとんど極楽浄土の心境だろうが、それをローコストで実現している「山小屋」もあったりするのである。
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2005年06月14日 (火)
実家から送られてきた荷物に「お隣の一乗寺さんからいただいた品」と開封済みの包みに添え書きされた「追分羊かん」なるものが入っていた。どこかで名前を聞いたことのあるようなないような、包みの裏を見ると今年の4月から静岡市に吸収合併された清水(現在は静岡市清水区)の銘菓とある。
ということは『ちびまる子ちゃん』で知ってるのか?と思い、「追分羊かん ちびまる子ちゃん」で検索すると、作者のさくらももこが大好物であり、また映画原作特別描き下ろし『ちびまる子ちゃん──大野君と杉山君』の表紙に「追分羊かん」のお店の絵が描かれていることが判明。
『ちびまる子ちゃん』全巻揃えてるだけに、それで朧気に覚えてたというわけか。
ちなみに味の方は羊羹の説明書きで「竹の皮包みの素朴な野趣と竹の皮の香の深く沁み込んだ言うに言えない静かな風味」と書かれているように、本当に言うに言えないどっしりした味わいがあり、取っつきやすい味ではないのだが、妻としみじみこれは美味いよ!と本当にしみじみしながら食べていた。最近は京菓子の洗練された味よりもこういうどっしり味の方が楽しめる舌になってきている。
なお、残念ながらというべきか幸いにというべきか店の公式サイトがないようなので、包みの裏面に記載された「追分羊羹の由来」を以下に引用しておく。
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2005年06月09日 (木)
先月の上京中に父から満州の話、そして父の父、つまり私の祖父の話を聞いた。
前回の「父と満州」のエントリーでは、小宮清著『満州メモリー・マップ』(筑摩書房・999円)を読んだのをきっかけに父が満州出身であることを私の視点で書いただけだったが、今回は0歳から14歳まで満州の大連で過ごした父の視点を借りて、私のほとんど知らない父方の先祖を繙きながら「満州」にも一歩近づいてみたい。
まず私の父方祖先である父の祖父、つまり私の曾爺さんに当たる人物は日露戦争に従軍し、戦後、満州に残って土建・不動産の仕事を始め、それでボロ儲けしたのだという。
満州から北東に100km程のところにある貔子窩(ひしか:現在の皮口)という街で一番大きなホテルを建設・保有し、とにかく孫の代まで寝て暮らせるくらいの大金持ちだったんだとか‥‥。その証拠に父の父、つまり私の祖父は本当は内地に帰って大学で勉強したかったらしいのだが、身内から「片手内輪で暮らせるのにわざわざ大学など行く必要ない」と猛反対され、結局高校までしか出ていないのである。まあ、その後、満州鉄道に就職してるので、片手内輪の生活はしてなかったようなのだが。。
その祖父が満鉄社員として北京(一時はハルピン)で働くことになり、結婚しても家族は大連に残して単身赴任生活をしていたので、父にはほとんど「父親」という存在の記憶がない。以前伯母から聞いた話によれば祖父がたまに満州の家に帰ってくると父は「どこそこのおじちゃんが来たよ」と無邪気に喜んでいたのだそうな。そして祖父は父が中学に入る前に病死してしまう。よって私にとっても父方祖父は最初から存在しないものであったが、父にとっても非常に希薄で、取り様によってはこれまで私が父方祖父の話をほとんど何も知らなかったというのも満更不思議な話でもないのである。
ちなみに当時において内地の一般サラリーマンの給料が60円だったのに対し、満鉄社員の給料は100円だったそうで、曾爺さんから祖父の代になっても単身赴任とはいえ、暮らし振りに不自由はまるでなかったようだ。父に『満州メモリー・マップ』の本の話をして、その舞台となっている奉天(現在の審陽)や新京(現在の長春)のさらに果てのチチハルという地名や開拓団のことを話すと、それは同じ満州とは言っても全然違う世界・生活だったはずだと言っていた。ただ、大連で優雅に暮らしていた人たちからすると開拓団の人たちは一部が破落戸(ヤクザ)化していたそうで、その苛酷で貧しい暮らしぶりを知っていてもそれを決して可哀想だとは思えなかったのだと言う。特に父の場合は中学に入ったくらいの頃に一度、開拓団の連中にオーバーコートを強奪されたことがあったらしく、余計にそのイメージを悪くしてしまっている。
大連在中、父は母兄姉と共に北京に2回、ハルピンに2回、半分は観光旅行のような気分で単身赴任した父親のもとを訪ねている。そのときには必ず奉天の親戚の家(現在四国在住)にも寄って行ったらしい。父によれば、奉天は商人の街、新京は官僚街、ハルピンは帝政ロシアの色の混じった異国情緒漂う街といった印象だったようだ。まあ、何はともあれ父にとっての開拓地は観光の対象以上ではなかったわけだ。
しかし、第二次世界大戦での日本の敗戦により、そこからは『満州メモリー・マップ』の作者と同様に引き揚げ船に押し込められ、財産すべてを取り上げられた状態で帰国することになる。そういえば同書では「引き揚げ船に乗せられた乗船者たちは各々の湾に到着すると上陸前に錨を下ろされ、約1週間そのまま海上で停泊させられ、夏の太陽に焼かれて船内がオーブンのようになり、オーブンの中で伝染病の保菌者が発病するのを待って、もし感染者が現れた場合、その船まるごと上陸を許されず放置された(引用者再構成)」という怖ろしい描写があったが、父が帰港した佐世保ではそのようなことはなかったらしい。ただ、DDT(殺虫剤)を服の中にまで突っ込んで吹き付けられて真っ白にさせられる経験は何度もあったとか。
そしてこれも似た話が書かれているが、引き揚げ者収容所で20歳以上は1000円、以下は500円が手渡され、祖母、伯母、父の3人は合計2500円を手渡され、もともと生家のあった山口の萩に帰ってゼロ(ではなく2500円)からの再出発を切る。このとき父は「もし大金持ち曾爺さんに先見の明があって、満州だけでなく、内地にも土地を持ってればお前だって片手内輪とまでは行かないまでも小金持ちくらいの気分は味わえたのかもしれないけどな!」と笑いながら話してくれた。
そんなところで今回は満鉄社員だった祖父にあやかり、絵葉書は満州鉄道の描かれたものをアップする。また、途中に出てくる写真の方は左から伯母、祖母、父、祖父の順で撮影場所は不明である。しかし、こうして書いていて最後の最後まで父方祖父を「祖父」と書くことの違和感が私には拭えなかった。
なお、このエントリーは当初は帰阪直後の記憶の薄れぬうちにさっさと書き出しておきたかったのだが、毎度おなじみ帰阪後の仕事蓄積地獄でそんな暇は一向に作れず。
で、書くタイミングを逃しかけてたところで、ちょうど Abejas e Colmenas のみつばこさんが「満州 記憶の断片から 1片」「満州 記憶の断片から 2片」と立て続けに満州絡みのエントリーをされてたので、それに便乗した勢いだけで書けました。謝謝!
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2005年05月22日 (日)
5/21(土) と 5/22(日) の2日にわたってブログ仲間の訪問を受けた。
5/21(土) はまったく想定外だったのだが、梅丘の「橡の家−特別見学会」で施主仲間と集まったとき、ふと garaikaさんは遠路はるばる出て来られてる訳だし(行ったり来たりの毎日には慣れられているとはいえ)せっかくの機会だから片付けも何もしてないけどお招きしてしまおうと思い当たったのである。ちょうどこの日は母も妹も出掛けているということだったので、そのことが招く側招かれる側どちらにとっても余計な気遣いがなくて済むなという判断も働いていた。
加えて梅丘から最寄り駅の千代田線根津駅はうまく乗れば一本で行けるってのも何となく自分から誘いやすい恰好の理由付けになってくれた。まあ、何はともあれ、ふだんほとんど人と会うことのない私は、人と話すのも誘うのも、まずは自分を納得させられるだけの動機を見つけられないとなかなか行動にまでは出られないのである(汗)
「橡の家」で朝妻さんとおさらばして garaikaさん、bsideさんと谷中へ。bsideさんは「ささやかなお披露目」のとき以来、二度目の訪問である。1Fから屋上まで手短に案内(というよりは誘導)して、その後、谷中ボッサへ行った。ここがフツウの施主と私の大いに異なるところだろうが、要は私はこの家に住んでないのでこの家がまったく使い切れていないのである。珈琲一杯入れようにもどこに何があるのかさっぱりわからない。どこに座ってもらったらいいかもパッとは思い付かないくらいなのだ。
そういう意味で、私は家が完成したときまでは施主だったかもしれないが、今はただの客とそんなに替わらない立場にいるようなものである。だから、事実これは一人のときでもそうなのだが、友人を招いても一番落ち着ける場所が家族がほとんど利用してない屋上ってことになってしまうのである。ただ眺めが良いとか風が気持ち良いという以外にも屋上が居心地良い理由が悲しくもあるのである。
5/22(日) の訪問は「田植え」コメントを見ればわかるように mitsubakoさんに苗を渡す目的で最初から想定されたものだった。mitsubakoさんは古くからの友人。ブログのおかげで互いの近況が見えやすくなり、前から谷中界隈の仲間を集めてオフ会やりましょうという話が持ち上がっていた。そんなことから「田植え」コメントでも書いてたようにうちの建築家の豊田さん、それから mitsubakoさんと親しい私も古くからの友人である池之端在住の Pruscillaさん、そしてお二人の友人で谷中在住の ayaさんと、ayaさんの言葉を借りるなら「合コンみたい♪」な夕食会になったのである。
豊田さんには事前に谷中界隈の友人紹介しますとは言ってたものの、性別までは伝えてなかったので、女性ばかりがお店で待ち構えていてちょっと驚いていたようだ。しかし食事の席では当然、私の知らないご近所ネタ噴出。あとはちょうど Pruscillaさんがヨーロッパ旅行に行かれたばかりだったこともあって海外の話が多かっただろうか?
+微妙に幽霊話にも話は及んで、そうすると当然また谷中とも繋がってくるわけだ。
食後は最初に Pruscillaさん宅を訪問。スコーンなどをいただいて一服してから、みんなで我が家へ。この日は母に友人が数名立ち寄るのでお茶だけ出してもらえるとありがたいと伝えておいたら、案の定、何やら色々茶菓子の類が出て来やした(笑)
もうこういう人を招いたときの母というのは得意満面の独壇場になってしまうのである。そんなわけでこの日は夜空の屋上に皆を案内したものの、屋上よりも2Fダイニングテーブル滞在時間が一番長いという結果になった。無論そこには母個人の接待趣味に因るところも大きいのではあるが、やはり友人を家に招き入れたとき、そこにその家の住人がいるのといないのとでは何かが大きく違うような気がしてしまった。
母は私の友人というやや遠い関係でありながら、それでも短い時間の中で家のことをあれやこれや楽しげに話していたのである。その話し口調は実は私が garaika邸オープンハウスを訪問したときの garaikaさんのそれを思わせるものがあり、ところが今回の私はそんな案内の言葉を訪問してくれた友人たちに対してまるで発することが出来なかったのである。それはちょっと寂しくもあるが、しかし悲観に暮れる話ではない。むしろこの家の建築計画に私は建築当初から住まないにもかかわらず首を突っ込みすぎてしまったことで、最初に住むはずの住人たちがこの完成した家を自分たちのものとして愛着抱きづらくなるのでは?と不安視していたのだが、その心配が無用だったことをこの日の母が証明してくれたのである。
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2005年05月21日 (土)
父と二人で不忍通り沿いの「小松」という焼鳥屋に行った。
この店は夜しかやってないので父もまだ行ったことがなかったのだが、父の仕事先の仲間がわざわざここの焼鳥を食べに根津まで来るという話を聞いていたので、前から唾は付けていたらしい。割と最近改装されたと思しきやや敷居の高そうな門構えから多少の出費は覚悟していたが、140円からタン・はつ・はらみ・なんこつ・シロ・レバーなどあって、思ったほどの出血にはならなかった。それに何と言っても焼鳥が美味い!
これまで焼鳥屋といえば父も私も吉祥寺の激安店「伊勢屋」ぐらいしか思い浮かばないので、単に美味い焼鳥知らずなだけなんだろうが、こんなに焼鳥が美味いんならもっといろんな焼鳥屋に通ってみるべきだよ!と誠にアホらしい父子談議を繰り広げていた。
そんな最中である。父が母と私の妻に大顰蹙を買いそうな話をし出したのは!
父は6月中、行けるものなら一人クルマで東北旅行をしたいと計画しているのだが、それについては母はおろか私も歳が歳だし(74歳)あまり賛成できないと思っているということをこの場でも伝えた。そんなときである。父が「東欧に行きたい。でも、一人で行くと無駄に金が掛かってバカバカしいし、誰か一緒に行く人間は居ないもんか?」と言って、こちらにチラリと目配せしたのは!
そのときの答えを私はここに書くことは出来ない(笑)
とはいえ、このときの話の成り行きは概ね妻には話し、予想通り、怒り半分呆れ半分でその後その話が再び取り上げられてはいない。そしておそらく父は母には話していないだろう。というのも、我が家にとって東欧(特にハンガリー)は結構格別の地なのである。まず我が家で東欧に行ったことがあるのは母だけである。1969年に世界青少年交流協会ハンガリー班音楽係・記録係として派遣という形で、母の初めての海外旅行として東欧に行ったことについては彼女のプロフィールでも触れられている。
そんな音楽派遣された母にとっても、またオーディオマニアの父にとっても、また標本フェチの私にとっても、20世紀のハンガリーを代表する作曲家のベラ・バルトーク(1881〜1945)の存在は非常に特別なものなのである。つい先日の清真美さんの『新釈肖像写真』でもバルトークのアルバムがしっかりモチーフとして加えられていた。そのバルトークが生まれ、音の採集を行った地として、父がまだ足を踏み入れていない東欧に行きたいと思うのは至って自然な流れだ。父の中ではそれが最後の海外旅行になるんじゃないか?という気持ちもあるようだし。。
ただ、そこで父が一人で行く分には誰も文句がないのだが、その同行者に私が一人選ばれるというところに問題があるのである。実際、私もそれを面白く思えないどころか下手すりゃ憎々しくすら感じかねない我が家の女性陣の気持ちも私にはわからないではない。だが、これは後日豊田さんとも話して同感を得られたのだが、私個人としては行ってやりたい気がするし、行ってみたい気もしている。というか、何よりも行っておかないと非常に大きな後悔をすることになりそうな気がするというのが正直なところだ。
男のワガママと言ってしまえばそれまでだが、70歳過ぎた父親と二人で海外(それも憧れの東欧)を旅するというのは不思議とワイルドなイメージが抱けてしまう(笑)
少なくとも1年前にそんなことを思い描くことはありもしなかった。
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2005年05月20日 (金)
三鷹金猊居時代、私の母はピアノ教室を自宅で開いていた。
一応、谷中の家でもいつそうした教室をやってもいいようにということで、1Fはギャラリーとしての機能と同時に防音にも気を遣った設計にしてはあるのだが、まあ、現在の生活状況を見ている限りではそんな日はやって来ないかもしれないな〜という予想の方が強く働いてしまう(汗)
と、それはともかく今回、フォトグラファーの清真美さんが「新釈肖像写真」で母のグランドピアノを背景に写真を撮ることになったおかげで、私も滅多に見たことのなかったピアノのフタを開けた状態を目にする機会を得ることができた。どうもカバーの掛けられたものってなかなかその真の姿をお目に掛かれないもののような気がしてしまうのは、おそらく私の実家の何でもカバーしておきたがる体質に負うところが大きいように思う。その反動か私自身は本でも何でも自分の範疇にあるものは剥き出しで使いたがる傾向が強いのだ。何だかもうカバーが掛かってるだけで、それは使っちゃいけないもののような強迫観念を植え付けられているのである。だからちゃんとモノを使うためにもカバーはなるべく掛けないようにしている。
なお、写真をご覧になられれば一目瞭然なように母のグランドピアノはワインレッドなのである。これまたカバーが掛かるとふだんは黒ということになってしまうのでもあるが、何はともあれハッとさせられる色であることには違いない。母は学生時代にアルバイトでお金を貯めて買ったと言っていたが、親の資金援助があったかどうかまではわからない(たぶんその真実は話してくれないだろう)。ただ、このワインレッドのヤマハ製ピアノが期間限定商品だったということだけは確かなようである。
といっても購入してすでに40年近い月日が経ってしまっているため、音が古いのかレッスンでは専らもう一台の凡庸な黒のアップライトピアノが使われていた。とまあ、結局のところ、このカバーの掛かったワインレッドのグランドピアノも値打ちモノの茶器同様、写真モデルとしてしか出番のない骨董と化しているのである。
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去年、建築写真を撮ってもらったフォトグラファーの清真美さんが、今回は彼女自身の作品制作プロジェクト『新釈肖像写真』として我が家を訪問。まあ、半分は私が頼んだものなのであるが、モデルは私の両親である。
彼女の制作スタンスとしてはモデル希望者の自宅に出向いて、その生活環境の中で絵作りをしてポートレート撮影をするというもの。基本的にその絵作りは彼女自身がここで撮らせてくださいと押しつけるものではなく、あくまでモデルとの対話の中でどこで撮るべきか、どんな家具を配置するか、どんな衣装を着るべきかなどが決められていく。即ちどことなくモデルとフォトグラファーの関係が施主と建築家の関係に近い。
1週間前にすでに両親と彼女の3人でロケハン&打ち合わせは行われていて、両親を結ぶ一番大きな要素は「音楽」だから1Fのグランドピアノの前で撮ろうという話でまとまっていた。それ以外にもふだん使われることのない骨董モノの古茶碗などが並べられ、こんな機会でもないと値打ちモノは陽の目を浴びないのだな〜と改めて実感。
結局、器の類ってがさつに扱って割れても気にならない安物の方が使い勝手も良くなってしまった時代なのである。
ちなみに私は撮影前後の準備と後片付けだけ手伝い、本番の撮影時間は2Fに退散。それは清さんから事前に撮影時はモデルと自分だけにさせてほしいと言われていたことでもあり、また私もそのつもりでいたことである。その感覚というのは、おそらく「家作りブログ三角形」のエントリーでも触れた「人と人との間でモノを作るということがそう簡単なものではない」といったことと関係するように思う。
とはいえ、2F書斎の階段から一番遠い部屋に居たにも関わらず、ときおり3人が爆笑してる声が聞こえてきた。両親共にああいう形でモデルになるのは初めてのことだったに違いないが、清さんと清さんのカメラがそこに持ち込まれたことで濃密な楽しい時間を過ごしていたようだ。撮影終了間際に1Fに呼ばれ、なぜか私も加わった写真を撮られたり、あと私が清さんを撮ったりとしばし記念撮影タイム。ひとまず見せられたポラでも、我が両親がモデルながらかなりいい写真が出来そうだという予感たっぷり。現像後のレタッチで何ヶ月か掛かるとのことだが、仕上がりが非常に楽しみだ。
家が完成した施主の皆さん、または何らかの理由で家の解体を余儀なくされた方など、是非是非、清さんの『新釈肖像写真』モデルとなってみませんか? そこに住人がモデルとなって入ることでその空間がまたひと味違ったものとして(プロジェクトの性質上、ある種、濃縮還元されたような形で)切り取られ、そして後世まで残せるものとなることでしょう。サイトの Contact のページにもありますように、現時点では撮影協力のお礼ということでA3サイズ程度の完成写真ももらえるのだそうです。遠方の方は交通費などが応相談になるかもしれませんが、本人はどこでも行くよ!と言ってましたので。。
ちなみに冒頭の写真は撮影場所を反対側から撮った撮影準備中の様子です。
あと、清さんのモデル募集の件は私が仲介役になっても構いません。もしいきなりメールするのに抵抗ありましたら、ひとまず私の方にコメントください。
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2005年05月11日 (水)
これまでこのブログでは登場機会の少なかった父であるが、その理由はうちがある種、サザエさん的家庭だということにある。即ちこれまで何度か登場した祖父母とはまさしくサザエさんにとっての波平とフネであり、私はといえばフグ田タラオだったのが、祖父の死を機に知らぬ前に磯野カツオにすり替えられていた(つまり知らぬ間に養子になってた)のである。だから当然マスオさんである父の存在感は家づくりにおいても薄く、ブログでもそれほどスポットを当てられることがないまま来てしまった。
そんな父が生を受けたのは1931年(昭和6年)、かつて日本の植民地だった満州の大連である。父は自分が士族の出であることを何かと強調するのだが、父の祖父にあたる人は非常に商才に長けた人だったらしく、父はちょっとした金持ちの家のお坊っちゃまとして育っているらしい(右の写真の中央が父)。言うまでもなく第二次世界大戦の敗戦で父の家族もまた身ぐるみ剥がされほとんど無一文状態で引き揚げることになるのだが、私はそのあたりの経緯をそんなに詳しく知らない(というか、父に聞いてない)。
それは一つには私が知らぬ間とはいえ、母方の家の養子となり、なんだかんだフグ田家ではなく磯野家の嫡子としての自覚を植え付けられていただろうことが考えられるが、それとは別に子供の頃に友達同士の間で「残留孤児」と卑下された記憶がどこかで自分に影を落としてるような気がしなくもない。なぜに父が満州の生まれだったことが友達に知られたのかは今以て謎だが、私が小六〜中一前後だった1982年2月、厚生省による第二回中国残留孤児の「親探しの旅」で60人の孤児のことが何かとマスメディアを賑わせていた。そうした報道に子供特有の差別意識が働き、私へと向けられたのだろう。父は「引き揚げ者」であり、決して「残留孤児」ではないにもかかわらず、私は「残留孤児」のレッテルを貼られ、そうしたイジメから逃れるためにとかく私は父が満州生まれだったという事実を隠そうとしていた。
と書いたところで唐突な話にはなるが、
先月、aki's STOCKTAKING「父の遺言書 /1943」のエントリーにて少しそのことをコメントしていて、その後、同ブログの「満州走馬燈 / 満州メモリー・マップ」のエントリーで紹介された小宮清著『満州メモリー・マップ』(筑摩書房・999円)を購入して、つい先日ようやく読み終えたところなのである。
今に始まったことではないのかもしれないが、日中間がギクシャクしている現在、満州という存在がそのギクシャクの要因としてどのくらいのところを占めているのか私には今もよくわからない。ただ、この本はそうした日本の侵略の歴史を、いや、もう少し厳密にいえば侵略した土地を開拓する日本人の生活を、私の父よりもさらに5歳若い著者の子供時代の視点において描いている。そこには昨今の行きすぎた報道にありがちな誇張もなければ諧謔もない。ただ、訥々と絵日記のように綴られた記述に当時の大人たちにも見えてなかった歴史的な視線がオーバーラップされているのである。
冒頭でアップした画像は伯母の家にあった大連大広場の絵葉書をデジカメで複写したものである。葉書はまだあと3枚あるので、今度はこの本の気になった箇所など引用しながら、それを元手に父や伯母に満州の話をもう少し詳しく聞いて、それらのレポートと共にここで紹介していきたい。
□◇
Abejas e Colmenas のみつばこさんも aki's STOCKTAKING の同エントリーで紹介されていた『満州走馬燈 きよしのメモリーマップ』の方を読まれていて「オンドルの見える風景」「泣きそうになった箇所」というエントリーをされてます。
その後に MyPlace の玉井一匡さんも「満州走馬燈」で同タイトル著作を再読してのエントリーをされてます。またTB受けた「真綿のお供え餅と大連」のエントリーも要チェック!
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