2005年08月21日 (日)

ハウスとホームとルーム

NHK新日曜美術館のアートシーンにて「建築家 清家清 展 ──《私の家》から50年
(松下電工汐留ミュージアム)が紹介されていた。この展覧会、清家清自邸の原寸大模型が体感できるらしく、「移動畳」も含めて大変興味深いのだが 9/25(土) までに東京に行く用が出てくるかはかなり微妙で観られない可能性の方が高い(泪)

ところで番組では清家氏生前の肉声が流されていた。

ハウスっていうのはハードウェアですよ。そいでホームっていうのはソフトウェアだと思っていただいていいと思う。ハウスは火事で焼けることもあるし、地震で壊れることもあるし、戦争で壊れることもあるけどね。ホームが壊れなかったら、まず一番救われるんじゃないかしら、人は‥‥。

とそれを聞いて、妻とつい「そうだよ、そうだよ」とほだされてしまっていたのだが、ホリエモン流に乱暴に見るならば、これら両面共「金」との結びつき抜きには維持できないのが現代なのかもしれない。貧しさ(ここでは金持ちが急に陥る下落的絶望も含む)が「狂気」を呼ぶということが残念ながら確率論的に見て高い時代だからである。

by m-louis : 23:08 | comments (2) | trackbacks (0)

2005年08月08日 (月)

すまいにおける Flickr!、Fotologue におけるすまい

Nakatani's Blography にて「すまいにおける写真、写真におけるすまい」というミニシンポジウムが10/14(金)に開催されることが予告されている。パネリストに植田実氏(住宅建築評論家)、高梨豊氏(写真家)を迎え、司会が中谷礼仁氏(建築史家?)とたいへん興味深い催しである。が、生憎その翌週なら東京ではなく横浜に仕事で行く用もあるのだが、その一週前とはちょっとタイミングが悪かった(泪)

シンポジウムのテーマである「住宅写真」といえば、一応、我が家でも建築写真専門ではないものの、友人のフォトグラファーにお願いして新築時に撮影してもらっている。また自分でもデジカメで数え切れないくらいの量を撮り、友人に撮ってもらった写真と合わせて Fotologue.jp という写真ギャラリースペースに公開している。
Yanaka*M3cフォトログ1F編」「同2F編」「同3F編」「同屋上編

2005年07月19日 (火)

建築シックバブル

Yahoo! のトップページで「シックハウス 北京でも波紋」というトピックスを見掛けたのでクリックすると案の定と言うべきか「北京市の子供部屋のうち7割以上がシックハウス」という衝撃的な調査結果を報告する記事だった。

中国建築バブルが伝えられて久しいが、ときおり建築雑誌などで様子を掻い摘んでいるだけでも、中国は日本の建築バブルの惨状を反面教師とするどころか、むしろ倍加する勢いで新しい家やらビルやら公共建築やらを建てまくっているように見受けられる。

だからこのような調査結果は衝撃でも何でもなく、単に日本の数年前が十倍増化してやってきたというだけのようにも思えるのだが、ただ、最近は日本の著名な建築家の多くが中国に渡って様々な活動を繰り広げている現状を見ると、なぜにバブルの反省を中国で「建築教育」という形でもっと積極的に伝えていくことができなかったのか?ということは考えてしまう。

国際協力って資金援助とか事業開発協力以上に「失敗の経験」を如何に前もって事が起きてしまう前に情報伝達できるかというところにあると思うのだが。。

by m-louis : 23:55 | comments (0) | trackbacks (0)

2005年07月07日 (木)

ガルバリガルバニ、トタン

TUTANAGA SHED先月あたりからすっかりハマッてしまった Photo Sharing Service の Flickr!(サーバ容量気にされてる方にも使えると思う)。
写真共有のネットワークなだけに国内に留まらず世界とアクセスしてた方が圧倒的に面白いので、なるべく頑張って英語でタイトル表記してるのだが、そこで結構困りものになってるのが建築用語君たちである。

例えば「トタン」。
一部の好事家の間でこよなく愛されるこの建材を和英辞書で引いてみると「galvanized iron」なんて出てくるのだが、これじゃー若手建築家などが好んで使いたがる「ガルバリウム」と同列になってしまい、味も素っ気もあったもんじゃない。まあ、ガルバ派の人たちからしたら、錆付きやすい亜鉛合金めっきだけのトタンとそれに長期耐久性を兼ね備えたアルミニウムを混入させたガルバを一緒にすんなよ!とむしろ反論喰らいそうでもあるが、いずれにせよ、一緒くたにされては困る用語たちなのである。

by m-louis : 05:36 | comments (7) | trackbacks (1)

2005年07月02日 (土)

高過庵とスナフキン

TAKASUGI-ANまず「高過庵」へこれから行ってみたいと思っている人たちのために書いておく。
高過庵に行くには「神長官守矢史料館」を目指せばよい。茅野駅から「宮川高部の〜」とでも言い添えてタクシー運転手に話せば、大抵のタクシーは連れて行ってくれるはずだ。ただ、宮川高部で帰りのタクシーを拾うのは難しいかもしれないので、待機してもらうか事前にタクシー会社の電話番号を控えておいた方がよいだろう。

そして高過庵は神長官守矢史料館入口付近からは見えないが(※1)、史料館右手30m先くらいのところにある舗装された道に出れば、山の方にぽつんと浮かび上がってるのが確認できるはずだ。または史料館で場所を聞けば、説明好きな館長さんがいつでも気さくに教えてくれることだろう。私たちに対してもそうだったが、ネット上でも館長さんの親切な人柄については多くのサイトで触れられている。

JINCHOKAN MORIYA HISTORICAL MUSEUMちなみに母と私は史料館に来るのは2回目。
ところが諏訪在住の善n叔父さんはこうした施設があることすらご存知なく(後でお会いした奥様は学校の先生をされてるだけに知っていたが、地元ではあまり知られていないのだろうか?)、それで高過庵に向かう前にまずは史料館に入館した。そこで館長さんから高過庵の場所を聞いて、上記のように舗装道路に出て行くか(車でも行ける)、あるいは畑の中を強引に直進するかの方法を教わった訳だが、ここは年配者二人に合わせて舗装道路迂回順路で行くことになった。

ところで「そんないざ行かん!」とする直前に私は史料館の中で高過庵の姿を見つけてしまったのである。
何と!高過庵は史料館のトイレから窓越しに見えるのだ♪
人見知りがちで、高過庵の場所を誰にも聞く勇気が持てない人(世話好きの館長さんと話さないということの方が難しそうだが)とか、窓越しの写真を撮るのが好きな方は、用がなくともまずは史料館でトイレに入ることをオススメしておく。

2005年06月30日 (木)

神長官守矢史料館とトンボ

JINCHOKAN MORIYA HISTORICAL MUSEUMさて今回、墓参りと土地処遇問題で諏訪までやって来たわけだが、「諏訪」といえばやっぱり御柱祭であり藤森照信である。
下諏訪出身の伊東豊雄氏もいるが、「ザ・スワ」の建築家と言ったら藤森照信氏以外思い当たらない。
そこで今回の訪問でもし時間の都合が付くならば、以前に「藤森照信: スロー建築のススメ」のエントリーで番組宣伝だけしてそのままになってた「高過庵」を見に行ってみたいと思っていたのである。そして幸運にも善n叔父さんが車を回してくれることになり、泰n叔父さんを一旦自宅まで送ってから3人で探しに行くことになった。「探す」というのは住所レベルの個人情報まではネット上に出ていないので、あさみ編集長から教わった「神長官守矢史料館のそば」という情報を頼りに自分たちで探すしかなかったのである。

尚、本エントリー、焦らすつもりはないのだが、先にその藤森照信氏の処女作「神長官守矢史料館」について触れておきたい。といっても史料館の概要・解説はすでにネット上に幾らでも転がってるので(※1)、ここではあくまで個人的な雑感のみ。

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まず私がここに来たのは2度目である。2000年にも妻・母・妹と墓参りついでで来ていて、ところがそのとき私はデジカメを持っていなかった。だから当時、母がコンパクトカメラで撮ったスナップ写真と今回自分で撮ったデジカメ画像を見較べているのだが、外壁に張られたサワラの割板の色にそう変化は感じられない。ところが『藤森照信野蛮ギャルド建築』(TOTO出版・¥1,800-)に掲載された1991年竣工時の写真と見較べると劇的に違う。経年変化がいつ頃はっきり現れるのかが気になるところだ(というのも、うちもいずれは軒下の杉板甲板が黒くなるって豊田さんに言われている)。

by m-louis : 13:00 | comments (0) | trackbacks (0)

2005年05月16日 (月)

家作りブログ三角形

Off Space: bside さんから、うちの施工をお願いしていた阿部建築の若頭=山本さんがブログ「谷中の住人」やってますと教えられ、正直ここ最近では一番の吃驚でした。
早速挨拶のコメントをすると、何でも「仕事関係の方から進められて勢いで始めてみました」とのこと。確かに始められたのは今年の3月からで、今のところ日常的な話題と建築絡みの話がメインのブログのようです(施工風景の写真なども載ってます)。

いや〜、こんなことなら私がもっと前に薦めておけば、ご近所の satohshinya さんからブログを通じて工事の進捗状況を教わるなんていう面白すぎるハプニングも起きず、みっちりその工程をリアルタイムでチェック出来ていたのかもしれません。それと山本さんのブログを現在のお施主さんが見られてるのかはわかりませんが、施工者側がクライアントに対してではない形で、対外的に自分の家について語っているところを見られるというのもこれまた非常に興味深いものがあります。

by m-louis : 18:54 | comments (2) | trackbacks (3)

2005年05月11日 (水)

父と満州

040204_1047_tairen.jpg

これまでこのブログでは登場機会の少なかったであるが、その理由はうちがある種、サザエさん的家庭だということにある。即ちこれまで何度か登場した祖父母とはまさしくサザエさんにとっての波平とフネであり、私はといえばフグ田タラオだったのが、祖父の死を機に知らぬ前に磯野カツオにすり替えられていた(つまり知らぬ間に養子になってた)のである。だから当然マスオさんである父の存在感は家づくりにおいても薄く、ブログでもそれほどスポットを当てられることがないまま来てしまった。

そんな父が生を受けたのは1931年(昭和6年)、かつて日本の植民地だった満州の大連である。父は自分が士族の出であることを何かと強調するのだが、父の祖父にあたる人は非常に商才に長けた人だったらしく、父はちょっとした金持ちの家のお坊っちゃまとして育っているらしい(右の写真の中央が父)。言うまでもなく第二次世界大戦の敗戦で父の家族もまた身ぐるみ剥がされほとんど無一文状態で引き揚げることになるのだが、私はそのあたりの経緯をそんなに詳しく知らない(というか、父に聞いてない)。

それは一つには私が知らぬ間とはいえ、母方の家の養子となり、なんだかんだフグ田家ではなく磯野家の嫡子としての自覚を植え付けられていただろうことが考えられるが、それとは別に子供の頃に友達同士の間で「残留孤児」と卑下された記憶がどこかで自分に影を落としてるような気がしなくもない。なぜに父が満州の生まれだったことが友達に知られたのかは今以て謎だが、私が小六〜中一前後だった1982年2月、厚生省による第二回中国残留孤児の「親探しの旅」で60人の孤児のことが何かとマスメディアを賑わせていた。そうした報道に子供特有の差別意識が働き、私へと向けられたのだろう。父は「引き揚げ者」であり、決して「残留孤児」ではないにもかかわらず、私は「残留孤児」のレッテルを貼られ、そうしたイジメから逃れるためにとかく私は父が満州生まれだったという事実を隠そうとしていた。

by m-louis : 16:17 | comments (4) | trackbacks (1)

2005年04月15日 (金)

casa=女性名詞

我が家では語学オタクの妻に合わせて大抵一つ二つNHKの語学講座が毎年見られている。で、今クールといえば一番の注目は妻も LBGO で書いてるように笑い飯の出ているスペイン語会話。先週の初回分を見逃してしまったもんで、今日はTVに「笑い飯」という紙を貼り付けて忘れないように見た。

スペイン語には男性名詞と女性名詞があって、概ね男性名詞は語尾の母音に「o」が付き、女性名詞は「a」が付くという。その例として「libro(本)」と「casa(家)」が挙げられていた。どっちも日本で固有名詞的に扱われているのでスペイン語を勉強してなくても知ってる単語だけど、「casa」はやっぱり女性名詞なんだな〜。

それを聞いて作家の島田雅彦氏と建築家の隈研吾氏の対談で隈氏が次のようにぼやいてたのを思い出した。

島田雅彦著『衣食足りて、住にかまける(P.27)隈:建築家の仕事のほとんどは女性相手で、女性が持っている、空間に対するはてしない欲望みたいなものに常に晒されてほとんど辟易しているわけです。その解毒作用として建築家にはホモが多いという説もあって、実際アメリカの建築家はヘテロよりホモの方が多いかもしれない。僕もあんまり女の顔は見たくないから、事務所のスタッフは美青年ばかりですね(笑)。
by m-louis : 00:33 | comments (4) | trackbacks (0)

2005年04月14日 (木)

喪失感の所在

祖父から祖母への手紙」コメント欄の下の方をご覧になればわかると思うが、昨夜、私は一人であくせくしまくっていた。そこでも書いているように同エントリーの本文の文章がコメント欄に自分でコメントした文章にすり替わってしまっているのを見つけたのである。最初は表示上のバグかと思っていたのだが、編集画面のフォーム内を見てもそこにもコメントの文章が来てしまっていて、もはやどうにもならなさそうな状況が見えてきていた。

私はふだんエントリーするのもコメントするのも一旦別のエディタ上で書いたモノをコピー&ペーストする形で投稿しているので、原文が残っているといえば残っているのだが、しかしペーストして公開したあとにもう一度ブラウザ上でエントリーを読み直し、校正をかける。もちろんブラウザやプラットホームの環境差があるのは承知の上で、それでも私は Mac/Safari でもっとも読みよいように微妙に改行部分などの調整を掛けたりしている。
そんな中でも「祖父から祖母への手紙」は公開後に文章そのものも相当に変更修正を加えたエントリーだった。だから、そのデータが消えたということを認めずには居られなくなったときの喪失感は非常に大きなものだった。エディタ上で下書きしたものを再アップはできるが、それは校正後の文章ではないのである。

もちろんこうした喪失体験はこれまでにも幾度も体験している。一番単純な例としては保存し忘れとか、誤ってデータ削除してしまったとか、、で、そうしたときもしばらくは茫然とするしかないのだが、しかしそれらのケースでは不思議と取り返し可能な力が自分の中に残っていた。もちろん文章をまるごとそっくり再現できるという訳ではない。だが、実際のところ、もう一度書き直したとき、喪失前に書いたものよりもグレードアップした文章に仕上がるのがそうした場合の常である。確かにデータとしては消えてしまったかもしれないが、自分の中で元の文章を書き上げたときの経験が上積み要素となってより優れた文章を書かせてくれるのである。

ところが今回の喪失においてはそうした期待がまるで持てなかった。まず第一にもう一度書き直すなんて気力はまったく持てないし、仮に書いたとしても相当端折ったものになったであろう。で、実際書く気力のない私はとりあえず下書きの文章をそのままペーストして写真についてはソースを自ら書き込んでどうにか体裁だけは復活させる形を取ってみた。だが、何ともやるせない気分になるのである。この際エントリーごと削除してしまおうかとも思ったのだが、すでにたくさんのコメントももらっているので、さすがにそれもしのびなく、如何ともし難い状態。

そこで考え始めていたのが、ネット上のどこかに何らかの形で旧データがまるごと残ってたりしないか?ということだったのである。で、いろいろ考えてふと思い当たったのが Google のキャッシュ。ここには Google の検索ロボットが巡回時に読み取った情報(つまり何日か前のサイトの状態)が保存されている。だからもしや?と思ったら、案の定4/9(土) 時点のものが出て来てくれたのである。いや〜、このときの安堵感と言ったらそりゃなかったッス!

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