2006年10月04日 (水)

丸井金猊プロフィール

portlait of my grandfather1909年愛知県に生まれる。本名 丸井金蔵。1933年東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科卒業。'35年同校研究科終了。市立川村女学院美術科、埼玉県立浦和第一高等女学校教諭を経て、'47年東京美術学校工藝科講師。'48年より以後20年以上に渡って神奈川県立工業高校工芸図案科(のち産業デザイン科)教諭を務める。

和洋エジプト入り乱れた独特の画風で、学生時代より旺盛な創作活動を見せるが、30歳に差し掛かる頃、時代は戦争へと暗転。以後ほとんど自作品の創作に向かうことなく、晩年を迎える。神奈川工業高校退職後、「死ぬ前に一度個展を」と再び絵筆を握り始めるが、1979年心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて急逝(享年69歳)。

1930年国際美術協会主催第一回美術展覧会入賞主席。主な仕事として'35年愛国生命保険(のち日本生命保険)壁画製作、'37年には阪急電鉄の創業者である小林一三氏の委嘱により東宝劇場階段ホール壁画製作(火災により焼失)などを行っている。

honeymoon '江の島'以上は、1997年10月に三鷹市美術ギャラリーで開催した「丸井金猊とその周辺の人たち展」のチラシで掲載した祖父のプロフィールに一部加筆したものである(チラシをお持ちの方はどこを変更したか較べられると面白いかもしれない)。

この文章を書くにあたっては以下に転載する祖父本人が書き記した履歴書の他に、メモ帳や祖父のところに届いた手紙、また祖父の実娘である母や親戚の話などを参照した。

本来であれば、約40年に渡って連れ添った祖母に話を聞くのが一番なのであるが、事実上、祖父の遺作展を企図したのが脳梗塞で約3年間寝たきりを続けた(ほぼ喋ることもできなかった)祖母が亡くなってからだったので、どうにもならなかったのである。端から見れば何でもっと早くにと思われるだろうが、そもそも私が超無気力高校時代などを送ってしまって、祖父の早熟ぶりとは対照的にあらゆることに目覚めるのが遅かったのだからやむを得まい。だからといって、あの無駄に過ごした高校時代をやり直したいとも特には思わないのだが(無駄で馬鹿なりのよさがあったし)、やはり一つ惜しむべきは祖母からの情報収集がまるでできなかった点だろう。

和洋エジプト入り乱れた独特の画風」なんてのも今からするとかなり恥ずかしい表現だけど、まあ、事実でもあるので、そこはそのまま掲載した。でも、「入り乱れた」というよりは「異物をうまいこと構成した」と言った方が適当かもしれない(笑)

以下、転載する履歴書は基本的に祖父の記述をベースに西暦と年齢を添えただけのものであるが、最後の個人略歴と遺作展歴は私の方で新たに追加している。

□◇

丸井 金猊 履歴書

雅号 丸井金猊(キンゲイ) または 金臣(キンシン ※最初期)
本名 丸井金蔵 1909.10.19(明治42年10月19日)生

■学歴

1928.03(昭和 3年)  愛知県立工業学校図案科卒業
1928.04(昭和 3年)  東京美術学校日本画科入学
1933.03(昭和 8年)  東京美術学校日本画科卒業(修業年限5ヶ年)
1935.03(昭和10年) 東京美術学校研究科卒業(修業年限2ヶ年)

■画歴並びに業務略歴

1930.06 国際美術協会主催第一回美術展覧会に出品、入賞首席
昭和 5年・20歳(画題「菊」二曲屏風半双、東京平尾賛平氏買上)

1931.06 国際美術協会主催第二回美術展覧会に出品(無鑑査)
昭和 6年・21歳(画題「閑庭」二曲屏風壱双、公爵近衛文麿氏買上)

1933.03 東京美術学校卒業成績作品
昭和 8年・23歳(画題「菊花讃頌」二曲屏風二双連作、外務省政務次官瀧正雄氏買上)

1934.10 愛知社主催東都在住作家日本画展覧会出品
昭和 9年・24歳(画題「麗人散策」衝立、公爵近衛文麿氏買上)

1935.04 東京、私立川村女学院美術科講師並びに常任幹事職員
昭和10年・25歳(1941/昭和16年6月退職)

1935.11 愛国生命保険株式会社(社長原邦造氏)の委嘱に依り壁画製作
昭和10年・26歳(画題「奏楽」竪、幅共ニ十尺)

1937.05 (株) 東宝劇場(社長小林一三氏)の委嘱に依り同劇場階段ホール壁画製作
昭和12年・27歳(画題「薫風」=騎馬婦人群像図、竪十尺、幅十八尺)

1942.01 東京、私立帝都学園高等女学校講師
昭和17年・32歳(同年3月退職)

1942.04 埼玉県立浦和第一高等女学校教諭
昭和17年・32歳

1945.12 埼玉県立浦和第一高等女学校勤務、高等官待遇(内閣)、地方教官二級
昭和20年・36歳

1946.10 浦和日本画家協会幹事並びに浦和市文化連盟会員
昭和21年・36歳

1947.04 東京美術学校講師を嘱託 工藝科勤務
昭和22年・37歳

1948.04 神奈川県立神奈川工業高校教諭 工芸図案科勤務
昭和23年・38歳(1971/昭和46年3月退職・61歳)

■個人略歴

1909.10.19 愛知県葉栗郡北方村大字中島で丸井貝二・みわの三男として生れる
明治42年・0歳(現・愛知県一宮市北方町中島/兄弟は9人兄弟姉妹)

1928.04〜? 東京美術学校日本画科入学後、暫く谷中清水町に下宿
昭和 3年・18歳

1930.01.05 長兄・久右エ門、病没(享年28歳)
昭和 5年・20歳

1935〜 東京美術学校日本画科卒業、この頃、親友・宮内秀雄氏と知り合う
昭和10年・25歳(宮内氏はコンサイス英和辞典の編者で知られる英文学者)

1937.03.02 茅野さだゑと結婚
昭和12年・27歳(戸塚から下落合に転居)

1938.10.23 父・貝二、死去(享年70歳)
昭和13年・29歳

1939.03.23 弟・末太郎、戦病死(享年24歳)
昭和14年・29歳

1939.11.03 三鷹金猊居、上棟
昭和14年・30歳(下落合から三鷹に転居/三鷹金猊居は金猊本人の設計)

1941.04.09 母・みわ、死去(享年63歳)
昭和16年・31歳

1942.04 戦争のため、一時的に三鷹金猊居を空けて浦和に疎開
昭和17年・32歳

1944.02 長女・美鷹、誕生
昭和19年・34歳(妻さだゑの実家上諏訪にて)

1944.11.17 弟・了二、戦没(享年26歳)
昭和19年・35歳

1946.11 次女・鏡子、誕生
昭和21年・37歳

1970.11.24 初孫・隆人、誕生
昭和45年・61歳(三鷹市村越産婦人科にて)

1972.03〜06 東村山市緑風荘に入院療養
昭和47年・62歳(病院からの手紙

1979.07.12 心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて死去(享年69歳)
昭和54年・69歳

1995.11.12 妻・さだゑ、三鷹市篠原病院にて死去(享年87歳)
平成 7年(脳梗塞から肺炎等を併発)

2003.08.05 妹・八恵、愛知県江南市の病院にて死去(享年91歳)
平成15年(金猊最後の兄弟姉妹)

■遺作展歴

1997.06.18〜06.22 「≪所有≫の所在」展(三鷹市美術ギャラリー)
平成 9年(屏風「壁畫に集ふ」の完成作とその下絵を並置)

1997.10.22〜10.26 丸井金猊とその周辺の人たち展(三鷹市美術ギャラリー)
平成 9年(当時発見済みの全リソース約60点をゆかりの人々の作品と共に公開)

1999.01.08〜01.17 飛高堂表装 丸井金猊 展(ぎゃれりぁ飛高堂)
平成11年(三鷹の飛高堂で表装した作品を展示)

1999.03.15〜03.19 丸井金猊展(東京丸の内・東京マリンギャラリー)
平成11年(副題:「閉ざされた成熟」のなかで/約50点展示)

2000.11.09〜11.13 浦和第一女子高等学校創立百周年記念美術・書道展
平成12年(伊勢丹浦和店7階アートホール/「白鷺圖」を出品)

2002.10.04〜10.13 家の中の金猊(三鷹金猊居)
平成14年(三鷹金猊居解体前の家そのものを展示空間とした展示)

by m-louis : 2006.10.04 06:34
comment

ここ数日のエントリーで何度もお邪魔して勉強させてもらってます。
お爺様の事もそうなんですがm-louisさんの文章、小説みたいだ〜と思いながら読ませていただきましたw  
和洋エジプト入り乱れた・・・については中華丼がいつも話しているような事と少しばかり関係しているような部分もありますので 面白い表現だと思いました。
楽しみにしています!!

by シンパ : 2006.10.06 12:24

>シンパさん
実は身内のことをつらつらとブログに書き続けて誰が読んで楽しいんだろう?と思わないでもなかったので、シンパさんのコメントは勇気づけられます。
ただ、小説意識はまったくないですね〜(汗)
どっちかというと、個人の話までも一つの事例として辞書にでも落とし込むような感じで書きたいという想いが強くあります。
和洋エジプトについての中華丼さんのお話は是非伺いたいところ。またお会いできるのを楽しみにしてます。

by m-louis : 2006.10.07 04:15

1960年代校半に神奈川工デザイン科で丸井先生に薫陶を受けた劣等生の一人です。
タイポグラフィーの基本をいやというほど叩き込まれました。
テーラードのしゃれたジャケット、蝶ネクタイを結びとてもダンディな先生で、(誤解を恐れず申し上げますと)教員というより、鉈(剛胆)と剃刀(繊細)の両刀を縦横無尽に駆使するデザインの魔術師という印象です。
クラスは男女半々で筆と紙しかもったことのない軟派な科でしたが、体育祭で多科を圧倒し総合優勝したとき、役員テント脇で目頭をおさえてらした姿が忘れられません。
その日から、なんとなく優しくなられたような気もするんですが・・

by よもうにみちける : 2008.02.20 12:22

>よもうにみちけるさん
コメントありがとうございます。丸井金蔵の孫の m-louis と申します。
祖父は私が9歳のときに亡くなっているもので、私個人にとってはどこまでも寛容な爺ちゃんというイメージしかないのですが、教師時代はかなり厳格で通したと話を聞いております。ですので、「鉈(剛胆)と剃刀(繊細)の両刀を縦横無尽に」というお話は大変興味深く読ませていただきました。

ところで祖父に関して、現時点で表に出せない企画が水面下で動いてまして、ご迷惑でなければ直接メールでご案内させていただければと思っているのですが、メールアドレスを教えていただいてよろしいでしょうか?
以下、お問い合わせフォームをご利用いただければ、アドレスは表には出ず、私個人が直接その内容を受信するのみですので、情報漏洩の心配はありません。
http://yanaka.m-louis.org/contact/

何卒よろしくお願い申し上げます。

by m-louis : 2008.02.20 12:52









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