仕事の取材だったものの、淡路島に初めて行くことになり、同行取材者にお願いして、ほんのわずかな時間ながら丹下健三が1966年に設計した「戦没学徒記念 若人の広場」を見てくることができた。「若人の広場」は一昨年の3月22日、丹下氏の訃報に接し、「丹下健三氏、没」という追悼エントリーを書いたとき、akanemさんが撮られた写真を借りて感想メールと共に紹介した場所である。あれからもう2年が経つんだなぁ。
取材前日、日の暮れかかった頃に宿泊先の休暇村南淡路に到着し、その晩はまさかそのホテルから見えるとは思っていなかったのだが、翌朝、日の出前に部屋の窓から外を見やると、福良港を挟んだ向かいの大見山に▲のシルエットがぽっかりと浮かび、こりゃ尚更行かずんばなるまいという気にさせてくれたのだった(偶然にもホテルから近いところにあったおかげで行かせてもらえたとも言える)。それにしても早朝の福良港で漁船が先を争うように出航していく様子は、眺めていてなかなか楽しいものがあった。
しかし、肝心の若人の広場に関しては、本当に短い時間に早足で一通り見て回るだけで終わってしまったので、あまり感想らしい感想を書く気にはなれない。というか、2年前に akanemさんから借りた感想メール以上の言葉を自分では見つけられないというのが正直なところ。私が見せられるものといえば、これも早足のため雑にしか撮れてはいないのだが、2月始めの朝の若人の広場の空気を伝える写真くらいだろうか。
ただ、幾つかのブログで丹下さんがこの記念館のことを公表しなかったという情報に触れ、それがなぜかということを知りたくなったので、「丹下健三氏、没」のエントリーでも余談で紹介した¥28,500- の大著: 丹下健三・藤森照信著『丹下健三』を閲覧しに天六の住まいのミュージアム・情報プラザまで行ってきた(やはり買えん>汗)。
すると、当時の設計担当だった神谷宏治氏と藤森氏が1998年に行った談話が掲載されていて、それによってなぜ丹下氏が公表を拒んだのかの理由を伺い知ることができた。その談話部分のみ抜粋することにしよう。
神谷:あの施設の主体は動員学徒援護会という文部省傘下の財団法人で、戦没学徒を記念し慰霊するというわけだから、丹下さんは意気込んで設計したわけです。いよいよ完成して引き渡し、そのオープンの記念式典の案内状が届いた。主催者として記されていた名前は、岸信介、奥野誠亮など、いずれもいわゆる右翼と呼ばれるような戦中に指導的な地位にあった政治家です。当日、岬の下を自衛艦が航行し、観閲式もある、と書いてある。全く予想もしてなかった内容だけに、丹下さんは“私は行かない”といって、オープンの式典に欠席です。だから、発表もされずじまいでしたね。
なるほど政治的背景によるものだったのかという感じで、しかし、それによって公表の機会まで自ら取り消すというのは、当時の思想的な時代情況もあったのかもしれないけど、やはり「学徒として戦争に‘生き残った’丹下」氏の直接的な個人体験がよほどの怒りへと繋がっていったのだろう。
ただ、「家づくり」という経験を通して、建築家の意志(魂)よりも、その建物がその建物として姿形を変えながらも逞しく生きていくその住/築歴(霊)を重んじるようになってしまった私としては、仮に岸信介の孫の安倍晋三が主導することになろうとも、この広場の復興(そして学徒のともしびが消えないこと)を願うばかりである。
【参考リンク】
・動員学徒記念 若人の広場復興委員会
・神戸観光壁紙写真集:戦没学徒記念 若人の広場 壁紙写真
・JANJAN:廃墟になった「戦没学徒記念若人の広場」(2005.06.21)
・ポリタン・コスモ:戦没学徒記念館_by_丹下健三(2005.01.08)
・あさみ新聞:戦没学徒記念 若人の広場(2005.04.30)
・ALL-A:戦没学徒記念館 若人の広場01(2006.2.14), 02(2.15), 03(2.17)
・東海秘密倶楽部: 未だ消えず、阪神淡路大震災の傷跡 〜戦没学徒記念 若○の広場〜 前編/後編
・おとなしやにっき。: 戦没学徒記念 若人の広場(2007.05.02)
【写真】2007.02.05 09:00前, 兵庫県南あわじ市・戦没学徒記念 若人の広場にて
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