雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)について詳しくは Wikipedia を参照されるとよいだろう。その冒頭文のみ引用すれば「中国語、朝鮮語に通じ、江戸時代中期の日本を代表する儒者」であり、「対馬藩に仕え、李氏朝鮮との通好実務にも携わった」鎖国時代に近江から出てきた国際人である。恥ずかしながら私は朝鮮通信使を通じて初めてその名を知ったくらいなのだが、先の著書では「雨森芳洲と高月町雨森」として1章のうちの四分の一が雨森について割かれていて、そこで取り上げられたエピソードなどを読んでいると、もう雨森シンパにならずにはいられない(笑) どうやら彼は徹底的なまでに真実を生きようとするリアリストだったようで、同時にそのことが幾つもの危うい論争を招く結果ともなっていたようである。
例えば1711年の通信使来日にあたり、新井白石が対面にこだわってか、これまで国書に「日本国大君」と記されていたのを「日本国大王」と改めさせた。この王号問題に反論し、深刻な論争に持ち込んだのが雨森なのだが、当時の雨森は白石の引き立てで幕府への仕官を望んでいる状態だったという。今の政治家や学者で自分の立場を顧みず、こうした論争を挑んでいける人物はどれくらいいるのだろうか?(しかし、新井白石ってのは歴史音痴の私でも名前知ってたくらいだけど、この「日本」という国に対する不理解ぶりを聞くと結構アホアホな人だったのでは?と思いたくなってしまう>汗)
また、こうした事例を知ると雨森が『交隣提醒』という著書で朝鮮との交わりについて記した「真実を持っての交わりを誠信というのであって、朝鮮人は日本人を欺かない、日本人も朝鮮人を欺かない、そして互いに真実を持って交わることが、誠信の交わりである」の「誠信」の意味がより明白になってくることだろう。
これは『「朝鮮人街道」をゆく』に記されていたのだが、「通信」の意味とは語源を辿るならば「信」を「通ずる」という意であって、このネット時代にあって我々はとかく単なる情報伝達や報告手段としての「通信」を軽く受け留めがちだが、その本義は「誠信」を通ずるという至って重いものだったのである。
ところで先の「四天王寺ワッソ」では雨森芳洲に扮した一行は正直かなり地味で、私一人しか拍手してる人がいないのでは?って感じだったけど(冒頭の写真を見ても向い側の客が誰も見てないことが伺える)、私個人にとっては世宗大王や旅芸人一座、アクロバティックな JUMP よりも興奮の度合いは遙かに高かったのである。もちろん浜村淳演ずる聖徳太子よりも(^^;)
雨森の生まれた高月町では彼の業績を顕影し、アジアとの国際交流を目指すユニークなまちづくりが取り組まれているのだという。彼の生家も「東アジア交流ハウス」として活用されているらしいので、また暖かくなってきた頃にでも尋ねてみたいものだ。
最後に一つ余談。ATOK で「あめのもりほうしゅう」を変換すると「雨の漏り報酬」とビミョーに住宅建築寄りの文字変換される(^^;)
【写真上】2006.11.05 14:47, 大阪・難波宮「四天王寺ワッソ」にて
【写真中】高月町立観音の里歴史民俗資料館サイトの「雨森芳洲について」から「雨森芳洲肖像画(63KB)」を転載。同サイトは「雨森芳洲と朝鮮通信使」をはじめ、雨森芳洲に関する興味深いテクストが多数掲載されている。
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