さて、ここでは説明を簡素化するため、冒頭で引用した問題は「耐震既得権益問題」と名付けることとする。それでこの耐震既得権益問題で最初に検証としようと考えているのが一番意外に思われるかもしれない「学」の領域と耐震建築の関係についてである。
「学」の領域には研究者・開発者と並んで、建築家という若干特殊な職種も加えていいかもしれない。そんな彼らが耐震建築のどんな既得権益に固執するかというと、まず一つは彼らの惰性的習慣である。端的にいえば彼らは耐震建築で計画することに馴れ過ぎてしまってわざわざ新しいことに取り掛かる手間を嫌う。その手間は技術的な問題のみならず、法的な問題でより一層求められるから余計に鬱陶しく感じられるはずだ。
そして手間が掛かるということは、当然それはそのままコストに跳ね返ってくる。
それが「免震建築は高くつく」という業界の常識に繋がるわけだ。
他方で、今の話とはある意味では対照的なようにも見える話がもう一つある。
免震建築は「提言2」でも触れたように耐震建築に遅れを取ったものの、多田英之氏の著書の帯で免震建築においてはその〈能力を遺憾なく発揮するシステムが既に完成し、すべてのデータが公表されている〉とされるものにまでなっている。その技術的根拠については氏の著書等を手にしてほしいが、それに対して耐震建築は地震と構造物の関係を「みなし」としてしか計れず、依然として理論的な体系化ができていない。
このことによって何が生ずるかというと、耐震建築の方が永遠にその強度を高めるための細部の研究・開発が可能になるのである。そこにはもちろん研究者たちの研究心をくすぐる良い意味での開発意欲ももたらされるのであろうが、根源的なところではその研究や開発は対症療法・各論に過ぎない。多田氏の言葉を借りれば〈研究者が論文を書きやすい、ということのために「部分的」なものがずっとはびこってきた〉という事実は知っておかなければならない。無論これも研究費というコストと繋がる話である。
以上、一番意外な「学」の耐震既得権益問題を説明することで、残る「産官」の説明はさほどいらなくなっただろう。言うまでもなく、それらも手間の問題から免震を避けるか、コスト増という選択肢のみが「民」には与えられ、また耐震建築の非完結性を「不安」という煽りに置き換えて、安心のための強度=コストアップが図られていく。
つまり耐震建築というのは「産官学」どの領域にとっても非常に都合の良いアプリケーションなのだ。というか、逆にいえば既に体系として完成している免震建築が一般に流通し、生産ラインに乗るような事態となってしまったら、彼らは大きな金の儲け口(既得権益)を失ってしまうことになるのだ。そうならないためにも彼らにとっては「免震建築は高くつく」という幻想が一般市民に染み込んでいないとならない。
そうした「産官学」が既得権益にぶらさがって「民」を一向に顧みない状況を瓦解させるのに、今回の耐震強度偽装事件は多くのきっかけを与えてくれると思うのだ。
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