だから妻が事前にチェックしていた赤穂で人気のピザ屋「さくら組」に入ったときにはその店がピザを石窯で焼いているだけに店内が非常に暖かく、もうずっとそこに居たいと思ってしまったくらいである。とはいえ、人気店なだけに外で待ってる客も居るので長居をするわけにもいかず、ピザ一枚を二人で分けて食べ終えたら早々に店を出るしかなかった。ちなみにこのピザ屋で食べた100%水牛のモッツァレラの入ったマルゲリータ インテグラーレはこれまで食べてたピザって何?って思いたくなるくらいに超激ウマ♪ 値段は2300円とそれなりだけど、それも充分許せる味。たぶんこの100%水牛ってところがミソなんだと思う。これから100%水牛にはこだわってしまいそうだ。
続いて行った日生は妻の実家に18きっぷで帰省する際、播州赤穂線に乗ると途中で停車する駅(赤穂と岡山の間にある)で、日生(ひなせ)という読み方がまずは気になり、あとは駅のホームからでもそこがひなびた港町であることが伺え、以前から一度下車してみたいと思っていたところなのである。
ここも事前に妻がこの町は牡蠣のお好み焼き「カキオコ」が有名ということをチェックしていて、夕飯を食べる場所探しの延長で町中散策をしていたのだが、想像通りのひなびたぶりで、大いに私の撮影欲を掻き立ててくれた。まあ、夕方暗くなりかけていたのが一つ残念なところではあったが。。
ところで「虫の詩人の館*ファーブル昆虫館」のエントリーで私は「現代建築にはほとんど興味がない」と施主ブログにはあるまじき言明をしていたが、この赤穂と日生の旅を通して少しその言い方を改めなければならないと思ったのだった。それは次のような形で書き表すことができるだろう。
私は「現代建築にはほとんど興味がない」
↓
私は「新しく建てられたばかりの建物の外観にはほとんど興味がない」
私が「新しく建てられたばかりの建物で興味があるのは主に内装である」
現代建築の多くは「まだ新しく建てられたばかりの建物である」
現代建築でも「築後30年経ったものであれば、興味の湧く建物になる可能性は高い」
私が「古い建物に興味を持つのはそこに人が残した染みや垢が積もっているからだ」
以上、言語ゲームめいた記述になってしまったが、こうした言辞を大いに実感させられたのがまず赤穂の城下町として再整備された目抜き通りを見てであった。それは去年の夏に彦根に行ったときにも同じ印象を持たされたのだが、この二つの町が観光PRを意識して都市計画の基準においたのが「城下町」としての都市再生ということであろう。
ところが私はそれによって再創造された「古さ」を新しく装った町並みにまるでカメラのレンズを向ける気になれないのである(実は冒頭の写真はブログ用にと渋々撮っておいたものである)。このことは都市部で新しく建てられた現代建築に対してもほぼ同様なのであるが、いずれにせよ、そこで私が写真を撮るか撮らないか、つまりは興味や愛情を持って接することができるかどうかは、建築物のタイプや性質といったものよりも建物の年季によって決まってくるということがはっきりとわかった。
それをさらに実証してくれたのが、ひなびた港町・日生である。先述したようにこちらに到着したときはすでに夕方で徐々に暗くなり始めていた頃だったのだが、海岸通りを歩くと斜面には無理無理増改築を繰り返しながら現存している野蛮な住居群が見えて来たり、路地を歩けばそこに住む人々の生活上の知恵や工夫から汲み取られていったであろう意匠や小細工を至るところで見掛けることができる。それに対してはもうたとえ暗くてぶれてしまってもカメラを向けずにはいられなかった。
もちろんここで「写真を撮る」という行為が建築論(またはまちづくり)とどう関わるかという問題は別にあるということは承知しておいた上で、私は私自身の問題として断言しておきたい。私は新しく建てられた建物の外観上の良し悪しを言うためには少なくともその建物が建ってから2、30年は経ってくれないと何にも言えない。それは現代建築だろうが「古さ」を装った建物でも同様で、とにかく30年経って勝負に来い!と言いたいし、谷中M類栖も30年経ってからが勝負だと思っている。
ただ、どうも最近の住宅というのは耐久年数30年を目安として建てられているようで、それじゃ〜一体いつ勝負すりゃエエねん!とツッコみたくなってしまうのであるが。
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