それにしても「らしさ」という言葉は厄介なものである。いや、厄介だからこそ便利に使えると言うべきか? garaikaさんは〈「らしさ」とはあいまいな言葉だ。〉と書かれているが、実際のところ、人から何某かの評価を求められたとき、「〜さんらしい」と答えてしまうのが最も無難な回答となり得るのは言わずと知れた話である。なぜならその言葉は仮に答えた側にとってマイナス評価のものであったとしてもその含意は伝わらず、尚かつ言ってることにウソはない。もちろんプラス評価の場合も然りである。
期せずして garaikaさんもノアノアさんブログで春先に起こった「熱い日々〜化合論」 (勝手に命名)のことを取り上げておられるが、私も前エントリーを書いている時点でそのことがずっと頭にあったことをここに告白しておきたい。当時、建築家派vsHM派(ヘビーメタルではなくハウスメーカー)という、ありがちといえばありがちなのかもしれないが、ネット上バトルにしては珍しく最低限のマナーは守られた中での激論がブログのコメントスペースにて繰り広げられていた。そこで途中参戦した私はしろさん というHM派の中でもとりわけポジショニングの堅い方に向けて、かなり一方的にコメントし続けてしまったのだが、彼女のガードは堅く(それは彼女の自己認識力が非常に高いゆえのものだった)、むしろ私の方が感服する結果となったことを思い出す。
簡単にいえば彼女は幼い頃からの憧れだった赤毛のアンの「グリーンゲーブルズの家」のような家をHMで建てているのである。であれば、しろさんを知る親しい友人がしろさんの家を見て「しろさんらしい」と口を揃えて言うことは間違いない。
そして前エントリーから私が問うていた「らしさ」とはおおよそこの論点のうちにある。ただ、そういうと恰もしろさんをダシに使ったように思われてしまうかもしれないが、彼女に関してはコメント時のやりとりにおいて、この人は筋金入りのグリーンゲーブリアン(そんな言葉ないけど)だと認識させられており、上記の懐疑は適合しない。
彼女はおそらく生涯にわたって自分の家を愛し続けていける人だろう(※1)。
ともあれ、私が警句を発したかったのはしろさんほどに筋の入っていない「自分らしさ」を安直に追ってしまって、それを自分の家の表現として落とし込んで行ってしまうことに対してのものだった。特に家族の中でも特定の個人のテイストが強く現れた家を作ってしまった直後にその個人が故人となってしまった場合、遺族たちはその家にその故人の「らしさ」を見、それを愛し続けていくことができるだろうか? そればかりではない。個人のテイストというのは思いの外、流されやすいものである。特に時流から見出されたテイストは飽きてしまったとき、恥ずかしいばかりか憎々しくすらあるものとなってしまうこともある。家は服のように簡単に脱ぎ捨てられるものではない。
garaikaさんはなぜか m-louis らしいとして引き合いに出した「光庭」のリンク先を私の昔の三鷹の家の庭の写真が掲載されたページの方に飛ばされている。それが狙ってのことなのかはわからないが、おそらく「自分らしさ」を穿り出して行く際に必要とされる手段の一つとして有効なのはこうした自分の子供の頃から慣れ親しんだ環境、暮らしを一つの歴史として繙いて行くことなのではないだろうか? もちろんそれが直接に表現と結びついて行くという訳ではない。だが、この作業を所々で設計者と共有しながら進めていくことは双方にとって関わり方の深度を深めることに他ならない。
尚、前エントリー最後で私は建築家の「作風」に対しては手緩い記述に留めていたが、ホンネを言うならば上記の議論はそっくりそのまま建築家にも返してしまいたいのである。素材一つ取り上げて自分の「作風」にされたら、施主はたまらんてな!(※2)
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※1)「熱い日々」当時、私はしろさんに対して建築家との化合について蕩々と説いてしまったが、改めて考えるに彼女がHMを選択したという判断は間違っていなかったと思う。ノアノアさんは「まとめてレス」にて〈しろさんが思い描く「グリーンゲーブルズ」が100%完全なイメージがある!というなら建築家はその通りにつくってくれると思います、多分。でも、100%じゃなくって、90%だったりしたら、残りの10%が建築家によって色々に変化すると思うんです。それが受け入れられるか、受け入れられないか、それはやってみないと分からないんでしょうね。〉と書かれているが、おそらく彼女には100%のイメージが最初からあって、それを忠実に実現してくれる存在こそが重要だったのであろう。その意味においては明らかにHMの方が自分の作風にこだわらざるを得ない建築家よりも理に適っていたはずだ。
ただ、それでも尚かつ建築家と取り組むメリットを見出すとするなら、それは筋金入りのグリーンゲーブリアン建築家と組むことだ。それであれば、その家作りは100%を超えて120%、150%のものが仕上がるに違いない。ただ、残念ながら現在のところ、そうした建築家を探すことは容易ではないと思われてしまっている。でも、私はブログ、ネット、そして建築プロデューサーという存在の登場によって、そうしたグリーンゲーブリアン同士の出会いを可能とする土壌はすでに備わっていると考える。
あとはそうしたネットワークを如何に構築するかというだけの話である。
※2)最後の段落の建築家ってのは先の石川さん、豊田さん、前任建築家等、特定の個人を指すモノでないことは一筆入れておきたい。強いて言えば、大島本のゲージツ家に属する建築家たちに対して物申してるところはあるかもしれないが(笑)
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