2005年03月31日 (木)
「施主適齢期」のエントリー最後のところで予告した晩年の祖父が祖母に宛てて書いた手紙をここに掲載する。祖父は1979年に69歳で死んだ。はじめに晩年と書いたが、この手紙が書かれたのは1972年3月31日(金) で祖父はこのとき62歳。その後7年間は低空飛行ながらもそれなりに元気に自宅で暮らしている。手紙の受取人である祖母は祖父より1歳年上の姉さん女房で、祖父が亡くなってから16年間、つまり1995年89歳で永眠するまで生きた。ただ、生きたとはいってもその最晩年は脳梗塞で倒れ、数年間ほとんど植物人間に近い状態で家に帰ることも出来ず病院で亡くなってしまった。
そういえば今月10日に福島に行った際には、祖母の種違いの弟である茂雄大叔父とも会ってきた。もはや三鷹金猊居の昔を知る最後の人と言ってもいいかもしれない。今回は別のことを目的として出向いていたため、こちらの準備不足で一歩踏み込んだところまで話を聞くことはできなかったが、茂大叔父まわりの家系図のコピーを貰ってきたので、今後これをきちんと纏めてもう一度話を聞きに行きたいと思っている。
ところでそんな福島談義を土産話に谷中の実家に戻って母と話していたら、二人とも半分忘れかけていた事実を思い出した。いや、これが母にとってもかなりショックな話なのだが、なぜだか母も私もその話を忘れがちなようなので(あまりにショックだったからだろうか)、ただの身辺話にはなるが記憶保存も兼ねてここに記しておきたい。
祖母は祖父との結婚が2度目の結婚だったのである。
一度目の結婚は地元の茅野だか諏訪の人が相手で新婚生活は半年程度で途切れてしまったらしい。ただ、その途切れ方が時代を感じさせる。
その相手の男性というのがコミュニストだったのだ。教育県として今も知的イメージの強い長野には当時から田舎でありながらもコミュニズムの思想の広まりやすい土壌があったようだ。祖母の初婚の相手はその地域一帯のリーダー格ともいえる存在で、あるとき突然連行されて帰って来なくなってしまった(所謂特高によるアカ狩りというやつだろう)。そのとき祖母は幸いにしてというべきか、入籍届けは出していなかったので、身内のすすめでその結婚はなかったことにさせられたらしい。だから私の母がその事実を知ったのも祖母が亡くなって間もなく親戚の口から不意にその話が漏れたときのことであって、それは衝撃の事実だったわけだが、なぜだか母も私もその話を忘却の彼方に追いやろうとするきらいがあるようだ。
おそらくこのあとに掲載する手紙の差出人である祖父はこの事実を知っていたはずである。その後、そのコミュニストは出所してそれなりに有名な存在になったというから、祖父にとっては死せる亡霊とはまた違ったレベルで気が気ではなかったことだろう。今の時代なら妻の元カレを気にするナイーブな夫と言って片付けられそうだが、ここに時代差的感覚が生じるのかは断定できない。しかし、私も「一歩間違えれば」と仮定するほどのところでもないが、微妙にコミュニストが遠くないところにいたというわけだ。敢えて三歩間違えるなら「種違いのコミュニストの孫」だったわけである(笑)
□◇
「母さん」よ、本当はボクにとっては妻なのだけれど、何故か、「おい」とも「お前」とも呼びづらいし、呼びづらい名前なので困ってしまう。だから、そして今では最もよびいい呼称で「母さん」── にする。こんどボクがこちらに入院してからいろいろと心配させてしまった。もちろん普段から亭主関白で何から何まで世話をかけ心配させ、厄介になり、困らせたりへこませたり、泣かせたりしぱなしで心から済まなく思っているのだけれど、今度のことは全く思い設けぬ突発事態で、何とも手の施し様がなかった。暗黙のうちに、退職後はお互いにもう少し落付いて家事にあたり、余裕をもつようにしてたまには二人で仲よく近くへ出かけたり、旅行や保養も実行に移したいと思っていた矢先だったのに、あっと云う間もなく即日入院、爾来一夜として抱き合って愛し合ったり寝たりしたこともない。すでに一ヶ月以上過ぎ去った。我々にとって一日は愚か、一時間、一分、一秒と雖も生きている間の貴重な時なのに。別居を余儀なくされた。
時々、病院へ見舞いに来て呉れても、いつもゆっくり手をとり合うことも、ましてや接吻一つ、抱擁一つ心に任せ、心ゆくまで味わい楽しむことができなかった。来て呉れるのが嬉しければ嬉しいだけ帰ってしまうのが悲しい。情けない話だけれどボクは昔からこの点、まことにロマンチックだけどセンチメンタルに過ぎ、こんなときは必ずホームシックにかかるのだった。綿々と女々しくクドクドと未練がましくて、自らはづかしいけれど、それは本当の心持なのだから遣切れぬ。ボクより孤独になれ、独居を心細からずにボクより気丈な母さんだね。ボクにはそれがよくわかる。そしてそれはボクにとって有難い場合も、安心に思う場合もあるけれど、かえってボクの気持に不安をもたせることもあり、淋しく感ずることもあった。物語や小説にもかかれることだけれど、女というものは、男がどんなに信じていても、女がどんなに貞節淑徳が固くても、男が暫しでも手をゆるめたり、放したり、隙を与えるとアッと言う間もなく他の者の手に落ち、抱かれ、容易に楽々と犯されてしまう。それは女が、意志が弱く体力が弱く容易に男の暴力や権力に負けたり忍従したりするのでもあるが、もともと女という魔性はそういうものであるらしい。そして生理的にも女は一夜に異なった男性と何人でも何回でも性交が可能だという肉体構造と精神構造によって形成されているからだ。そう思い定めるのに男は相当の諦念が必要だし、しかも、それがそのまま男の心性を苦しめる。女というものは、男がシッカリと所有している間だけ、女の美しさも愛情も貞節も誠実も自分の物でありえるし、女は、男が女を寝台の上で抱きとり、女の性欲を自分一人で充たしてやっている間だけ、彼女を自分のものとして独専することができる。「男は女を一刻たりとも手離してはならない。女が永久に美しく貞節であることができるように。」‥‥というのが真理なのだ。
この便箋はこれでおしまい。ボクはいま自分の妻を離れたところに置いている。たとえ妻にゼッタイの信頼をもつにせよ‥‥だ。そしてそれは逃れ得ぬ宿命だからといってガマン出来ることか。
こんな事を執拗に書きつらねるのは、女々しく浅墓で、嫉妬ぶかく無気力な男の愚痴に過ぎないと笑われるだろう。しかし、前にも云ったようにボクは、残念ながら小心で生まじめすぎる性質だし、人間として、教育家として、芸術家としての本来の魂がいつまでもボクにボクの責任を追窮するのだ。
世の中の生存競争の勝利者でないボクは、それだからこそ尚更に一生の半身たる妻の全身全霊をシッカリこの手でつかんで居たいと思う。その意味で、ボクはキミとの性行為中、正にボクの男根がキミの膣内に在って快感の血脈が共鳴しているときだけが生き甲斐を感ずる。本当は行為が一旦終わって快感が遠ざかり、お互いに性器を離すと、とたんにボクは哀れに心細く孤独になってしまう。傍に寝ているキミがずっと遠く隔たり去ってしまうのではないかとさえ感ずる。ましてやこのごろのように離れて暮らすと、如何にもキミが外國異郷に居る者のごとく、幽明境を別にした如く、もうすでに半ばキミが赤の他人の仲間入りしてしまったような疎遠さを感じる。近所に住んでいても○○さんの奥さんに手が出せないように、どんな素敵な婦人でも電車の向かい側に坐っている人のように、自分にとって無縁の女性になり行くのではないかと侘しく寂しくなってしまうのだ。平清盛のような英雄豪傑ですら病重体になってからは阿弥陀如来の絵像の手から糸綱を吾が手に連絡して「引接」を待ったという。溺れる者、藁をも掴むとか、一筋の藁か糸か絆か、ボクはそも何でキミの生身をつなぎとめていたらよいだろう。鬼もすれば去って行ってしまう、離れて行ってしまう。再びボクの方を顧みもせず、今にもはや夢にも思い出さなくなるだろう。夫婦の死の別離以前にこうして事実上の別離が死別同然の結果をもたらすのではないだろうか。そんなことボクはいやだ。我慢できない。死ぬ苦しみだ。何ともボク達だけの心情ではないかも知れないが、最愛の妻か子を亡くしたり、不運にもこれを無理無体に奪取奪略された人の痛憤はどんなであろう。想像するだに吾が胸しめつけらるるいきを呑む苦悩であるものを。
ああ、ボクの一陽は今も次の瞬間も、いつも、いつまでもキミの花の門にあこがれ恋い慕い、埋没したい、溺れたい、花の奥の蜜を吸いたい。突入してあばれ、火のような白濁の精液を噴出し最後の一滴までもキミの胎内へ送り込みたいと、せがみあせり、もどかしさで辛抱できずにじれている。
母さんよ、キミの奥宮はどんな様子かね。誰一人参拝人もないさびれた社殿のように、周囲の境内も荒れはて、吹くは木枯らし、小鳥のさえずり、粟鼠のかそけきささやきも聞こえず、古びた〆縄が千切れ千切れにひらめいているのだろうか。それとも早春に魁けて奥殿に陽炎い紫に紅に、艶やかになまめかしく、綻ぶ花瓣の重なり、扉を押し開けばさらに匂い立つ花蕋と蕊、そしてその真底の子房をめぐり甘露蜂蜜よりうまい淫液香水。四周を包む肉壁、肉の衾(ふすま)、肉の帳(とばり)は、天鵞絨(ビロード)よりも光沢ゆたかに仔鹿の鞣革よりもしなやかで、きつからずゆるからず引き緊り、脈動しやまず、しかも、血より温く、乳液よりも滋味のある粘汁は絶えず堂内をうるおし、潤滑油となって一陽来るときに具えての膣内ムード照明万全の用意ありや無しや。先ずは先ず、平素は平素、閑雅にも閑静にも「常寂光」の隠り堂なれば、いざ本番の祭典を楽しみに乾望、起請をかけ、深く幽玄にかたく閉鎖し、いついかなる悪鬼といえ、暴漢といえ、将又、仮面の紳士、美青年の侵犯、来訪、慰問にも耳をかさず、言を拒み、開扉開張の魔手を排除し、「剛鑰」をシカと胸臆に蔵しつづけ、守護し通して貰いたい。事し無くば今日も今宵も入浴潔斎、清浄無垢に保養し、たとえ最愛の一陽君の来訪なき折も怠りなく薄化粧を施し、入念な手入れとマッサージを欠かす事なかれ。時に独り寝の寂しさ堪え難くば、静かに安らかに我とわが手指もて、さも一陽君の習性を想起しつつ、己が奥所押しひらきクリトリス探し求めてこれをいたわり撫でつつ、やがて快気催すにつれてジワジワと大小陰唇の谷間にすべりこませ、洞窟に忍び入らせ給えかし。南無大慈大悲の観世音菩薩、忝けなや歓喜光如来、白狐大明神、さてもおん身独りにして大抱擁、大喜悦、夢中迅速の大昇天、失神せんもはかり難し。危い哉、気絶哉。それはいや、いや、困ります。
万が一、いや大きな可能性もて、そのまま眠りのなかに一陽との本富を夢みることもあらんかし。さればうれしやボクもきけば安心。わが一陽を褒めてやります。さあ、いつまでもこうしたことを書続けても行きつまる。要は現実生活を如何にするかだ。色々考えてみる。まわりの実情をみる、院長、婦長、看護婦、知りあった患者たちにきいた事などを総合してみる。まだハッキリした予測はゆるされぬが、このまま逆転せねば四月初旬に外出外泊ができそうだ。それまで辛抱はせずばなるまいと思う。そして第一回の外出外泊の結果故障がなく、起因してまた経過を見る。その間にレントゲン検査、菌検出などの精密検診の結果をみるという順序をふむことになるだろう。極めて順調に行っても最小限入院以来満二ヶ月以上三ヶ月以上、まず半年は退院できまい。
順次そうした状況をみつつ対策方針を樹てねばならないだろう。とに角、結核保菌者として退院を急ぎ家庭療養するとは一面、T(=私)に感染する危険を省察せねばならないので、それについても予め対策を研究する必要がある。おセンチなことをもう少し書いてペンを止めるつもり。
部屋の白壁に白い割烹衣がかかっている。向い側の壁には私の丹前(キミが縫った)がかかっている。昨日入浴(第二回目)のあとで新調のゆかたに着更えた。卓の上には奥富婦人が呉れた春の花が薫る。置戸棚の中にはキミが運んで来た食品や缶詰があり、誰彼から頂いた果物もある。人の世の頼み難いのも真実ながらまた善意あふれる友情に温められるところもあるのだ。大いに感謝して、十分自戒自重して静養につとめる心掛を誓う。「母さん」や、キミの真情を信じている。甘えてもいる。虫のいいボクをゆるして親切に世話をして下さい頼みます。
貞子どの 三月三十一日
夫より
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