ノアノアさんの場合、私のように端から建築家じゃないと〜というのではなく、順繰りにすべてを体験された上で(契約したハウスメーカーを解約もされているらしい)、ハウスメーカー、建築家、工務店それぞれの立場に立たれて見られていて興味深い。特に建築家を「擁護すべき立場なのでは」という視点に立たれたのは、やはりまず何よりも家づくりが「成功(朝妻さんが使う言葉の意味において)」だったことを示しているように思う。それと同時にそうした視点に立たれたからこそ、家づくりが終わったあともこうしてブログで意欲的に「家」のことについて、それも「自分の家」自慢を超越したところで書き続けられているのではないだろうか。
よってこの件に関するリアルな観点からの議論はノアノアさんにこのままお任せしてしまおうと思うが(コメント欄のバトルも決して掲示板等にありがちな貧しいバトルに終わってないのでお見逃しなく)、私の方ではある種冗談レベルに話を落として、もう少し遠く離れたところからこの問題について考えてみたい。コメント欄ではノアノアさんでさえ「現実離れした理想論」と言われてしまっているが、私の方はもう最初から積極的に現実離れしたところに話に持って行くつもりである。
まず、ノアノアさんがどこと建てるかで出されていた選択肢が「ハウスメーカー」か「建築家」かなのであるが、私はこれに以下の選択肢を付け加えることにする。
・ハウスメーカー
・建築家
・工務店企画
・施主企画工務店持込
・建築プロデューサー
・セルフビルド
・中古物件リノベーション
・マンション
・賃貸
・家なし
他にも考えればいろいろ出てくるだろうが、あまり書きすぎてもわかりづらくなるだろうからこの辺で止めておく。で、これらを横の軸としたとき、そこに縦の軸として家族内の関係力学という視点を紛れ込ますとこれらの選択肢がどのように瓦解していくか?──それが本エントリーのテーマである。
ここで少し具体的な話に戻すと私の家でも実際計画を進めている最中、あるいは終えてしばらく経った現在にあっても、家族各人でどの選択肢が向いていたかはまるで異なるように思えるものだった。それが一つの選択肢に絞れてしまえたのは、当然家族内の力関係があるからに他ならない(我が家では名義上の筆頭施主である私と実質上の仕切人である母による判断がその主を占めた)。
もちろん世の中には家族皆が大枠のレベルで同じ方向を向いた幸せな家も存在するのだろうが、現実的には様々な現代病が「事件」として浮上するこの時代、そうした幸せな形自体が稀少価値となっている気がするというのは強ち穿った見方とも言えないだろう。乱暴に言ってしまえば、家づくりという現場はすでにそれをやるかやらぬかの時点からして家族内での「お仕着せ」というものが始まっているのだ。
ただ、私はそのことを必ずしも悪いことだとは思っていない。多かれ少なかれ何らかのプロジェクトを始める際にはそうした上下関係は発生するし、また上下関係があった方が事の進行をスムーズにさせることの方が多いからだ(そこをスローでやれたらそれはそれで素晴らしい話なんだろうけど)。ただ、ここで私が言っておきたいのは、仕切る立場に立った者は常に仕切られてる側の立場を振り返って計画を進めるべきではないか?ということだ。もちろん自分の趣味で飾られた家をとことん追求したい気持ちもわかるが、世の中、大概に置いて「他人の趣味」というのはウザイものだったりするのである。たまたまさきほど rattlehead さんの「今日のかまける 」にコメントしたばかりだが、作家の島田雅彦氏が自邸公開住宅論『衣食足りて、住にかまける 』において
客人には緊張感を楽しんでもらう(P.50) 他人の家に招かれた時の居心地の悪さは何に由来するか? その家が家主の趣味で調度や置物などが統一されていると、何か気詰まりに感じることがある。住人にとっては自分の趣味で統一した部屋の居心地は最高だろうが、客の方はこの趣味を押しつけられるわけで、居心地がいいとはとても思えない。
案外、殺風景な家の方こそ居心地がいいものである。
と書かれているのと話はリンクする。同じ家族であってもそれは個人の集合体であるのだから、本質的にはこの問題が残っていることを忘れてはならない。
が、ここで一見反動的なようだが、個人の欲望を最大限追求するのに最適な方法として「家なし」を挙げたい。ホームレスというと悪い印象を抱くかもしれないが、私は現実的に現時代にあっては豊かな「家なし」生活を送ることは可能と見ている。
これは先日上京したとき、建築家の豊田さんとも話したことなのだが、無線 LAN が駅や大手ビル、またファミレスなどで導入されるようになってきた現在、ノートPC一つを洒落たリュックか何かに入れて、プジョーあたりの高級折りたたみ自転車を乗り回し、企業では有能プログラマーとして重宝される「家なし」族が現れても一向におかしくない時代が来ていると思う。彼らの寝場所はもちろんホテルであってもいいし、会社、友人宅、カラオケルーム、マンガ喫茶、サウナ等々、探せば幾らでもあるので、その日の気分次第で寝泊まりするところを選べるのだ。調子が悪ければ病院で寝るってことだってできるだろう。そして趣味の世界はどこかに簡易スペースを借りてそこを趣味のものだけで満たすってこともできるだろうが、それ以前に現在はノートPC一つあればかなりの趣味領域をその液晶モニタの中だけで満喫できる。この話は一見極端なようだが、私はこうした輩がこの先溢れ出てくるのがもう目と鼻の先のように思えてならない。
なお、今、私は敢えてファッショナブルに優雅な「家なし」ライフの側面を取り上げたが、実は私の友人に「居候ライフ 」というプロジェクトを立てて、もう10年近くずーっと他人の家を渡り歩く居候生活を続けている小川てつオという存在がいる。彼の生き方は上記のファッショナブルライフとは程遠いが、おそらく彼の毎日はそうしたレベルとも比較にならないくらい色んなレベルにおいて豊かなもののはずである(その豊かさにはもちろん負の経験も含まれている)。一度は哲学的に考えてみるべき事例として紹介しておきたい。あるいは彼を居候させてやってください♪
さて、すでに話がだいぶ長くなってしまったので、ここではもう一つの選択肢のみを取り上げて終わりにしてしまうことにする(他のものはすでに各所で語られているので、私が取り上げるまでもないでしょう)。それは以前に「岡土建と無印良品の家 」のエントリーでも紹介した、岡啓輔氏が自邸で取り組んでいるセルフビルドである。実は同エントリー内でも触れた岡氏が藤森照信特別賞を受賞した「SDレビュー2003 」では岡氏以外のノミネート作品においてもセルフビルドの傾向は強くあったのである。
セルフビルドといえば、garaika さんのお父様が建てられたログハウス も同様にセルフビルドによる代物だが、この家が家族総出で作られたとされているように、セルフビルドで臨む場合、これはもう「家族」という範疇に留まらず親戚から友人、ご近所さんまで、それこそまわりの仲間たちと家族的な関係を結んで、目的達成へと向かって行かねばならないのは自明のことだろう。セルフビルドとはその名称に反して、一見個的でありながら、実は最も公的な取り組みとならざるを得ないものなのだ。まあ、昔の家づくりというものが本来はそういうもんだったと思うのだが。。
以上、こうしてここでは2つの極端な事例を取り上げてみたわけだが、もちろん私を含む多くの一般人はその間でどういう選択肢が自分たちに向いているのかを考えて行くこととなる。だが、必ず訪れる行き詰まりのときにこうした極端な視点に今一度立ち返ってみると案外それまで考えもしなかった見え方が出てくるかもしれないということは頭の片隅に入れておいてもよいのではないだろうか。机上の空論は全く役に立たないものではないはずである。というか、これまでも匂わせてきたように、机上の空論の方が現実に肉薄しつつある畏るべき現在なのだ。
ちなみにこれら極論のみならず、すべての方向性の間に立ってくれそうな存在として「建築プロデューサー」なる新職種が生まれ始めている。どうにも立ち行かなくなっているのであれば、一度相談してみるというのも手かもしれない。おそらく精神分析医のようにこんがらがってるところを一つ一つ繙いて行ってくれることだろう。メンタルヘルスを恥じらうような時代でもないわけだし、、と最後に微妙に営業モード(笑)
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